サマータイム

暑い日が続きます。昨日は所要があって三島まで行きましたが、車載の温度計が示す外気温は夕方近くまで35度から下がらないまま。大仁へ帰ってきてからも同じ温度でしたが、我が家のある山の上まで帰ってくると、30度になっていました。5度も下がったのには少々びっくり。山の上、おそるべし、というかんじ。

夜半になると、26度くらいまでさらに温度は下がり、おかげでこの日もクーラーなしで過ごせました。が、逆に夜が過ごしやすいということは、夜更かしの原因にもなりがち。タエさんは、サッカーのスペイン戦に夢中になり、寝たのは4時すぎ。真夏の夜更かしは体調不良のもと。みなさんも気をつけましょう。

イギリスとの時差

それにしても、オリンピックがもうすぐ始まるし、このあとしばらくは、寝不足は必至ですね。イギリスとは、時差が-8時間だそうで、ということは、あちらで夕方から始まる競技が日本では真夜中すぎということに。さきの北京オリンピックでは時差がほとんどなく、寝不足になったような記憶がありませんが、今度ばかりは避けて通れないイバラの道?になりそうです。

ところで、手元の世界時計をみると、イギリスとの時差は、マイナス9時間になっています。なんで、8時間なのかな~と考えたところ、あっそうか、サマータイムか、と気が付きました。夏の間だけ、時間を進めて、早起きを促す、という例のあれです。

日本でも全国的に導入するかどうかが議論されているようですが、福島原発の事故の影響もあり、電力不足を補うために、独自に導入を決めた市町村や企業もあると聞きます。私自身も、アメリカに住んでいたことがあるので、サマータイムを経験したことがあり、その適用の季節になると、腕時計の針を一時間進めたのを覚えています。

その効果は?

早起きの私としては、私のペースに合わせてくれているような制度なので大歓迎で、この季節になると、ずいぶん一日を有効に使えたような気持ちになったものです。が、逆にサマータイムが終わると、時間を元に戻すので、何やら損をしたような気持ちにも。ま、それはともかく、サマータイムってなかなか良い制度だと思うのに、なんで、日本では導入しないのかな~と常々思っていました。

ウィキペディアによると、導入による効果としては、

・明るい時間を有効に使えるので照明の節約になる。
・交通事故や犯罪発生率の低下。
・活動時間が増えることによる経済の活性化。
・午後の日照時間が増えることによる余暇の充実。

などがあるようですが、個人的には、この最後の、日照時間が増えることによる効果が一番だと思います。余暇に使うかどうかは別として、その日の持ち時間が増えるというのは、いろいろな面でお得だと思います。

私の場合、アメリカにいた時分は学生だったので、その分、余計に勉強しなければならない、という場合もありましたが、普通に勉強したあとでも、ビーチへ行ったり、ジョギングをしたりしてもまだ夕食までに余裕がある、ということで、なかなか良い制度だと思っていましたし、実際に時間を有効利用でき、大変重宝しました。

こんなにいい制度なのになんで反対するのかな~と思うのですが、反対意見としては、

・明るいうちに帰宅すると、暑い時間を家で過ごす時間が長くなるので、冷房による電気の使用量が増える。
・コンピュータを利用する際のOSやソフトウェアの更新のための移行コストがかかる。
・時刻切り替え時に一時的に交通事故が増加する。
・日本の場合、サービス残業の温床になりかねないという指摘もある。

などなどです。なんか、もっともらしい理由ですが、難癖つけてるよなーという気がしないでもない。冷房なんて、つけなければいいじゃん。サービス残業? 会社が儲かるから景気がよくなるのでは、と勝手なことを思ったりする。OSなんて、企業努力でなんとでもなるんじゃないでしょうか。2000年問題だって、それほど深刻な問題は発生しなかったような記憶があります。

が、交通事故が増える、というのなんでしょう。よくわかりませんが、通勤時間帯が変わるので、時間が変わったことに気が付かないで、あわてる人が増え、交通が混乱する、ということなのでしょうか。本当だとしたら、対策は必要ですね。サマータイムを導入したら死亡事故が増えた、とかいうのは困ります。

導入国

現在、サマータイムを実施しているのは、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、ヨーロッパ各国、オーストラリア、ニュージーランド、ブラジルなどですが、国土の広い国も多いので、地域の事情に応じて実施しないところもあるようです。

それにしても英語圏が多いのは、なぜなのでしょうか。よく欧米諸国、といいますが、経済圏が一緒だから、という感覚なのかも。

逆に、実施していないのは、これ以外の国、ということになるのですが、かつて実施していたのに、やめてしまった国としては、ロシア(1917年-2011年)、日本(1948年-1951年)、香港(1941年-1979年)、韓国(1987年-1988年)、中国(1986年-1992年)、台湾(1945年-1979年)など、アジアの諸国が多いようです。

日本では、太平洋戦争に負け、連合軍により占領統治された時期のうちの4シーズンだけ、サマータイムが実施されました。1951年に占領を終了させるための講和条約が締結され、その翌年には日本政府による統治が復活したため、夏時刻法は廃止されましたが、以後、日本では法律に基づく全国一斉の本格的なサマータイムは実施されていません。

しかし、わたしのようなサマータイム賛成派も多いようで、1995年頃からは省エネなどを名目としたサマータイムの再導入が一部の国会議員を中心に検討され始めています。

日本経団連も、2007年にが自由民主党に対して夏時間の導入を提案しており、経団連はこの年の8月の1か月間、日本経団連は経団連会館内で、サマータイム勤務を実施しています。

自民党の福田元総理理や麻生元総理、そして民主党の鳩山元総理も、サマータイム賛成派で、サマータイムを導入すれば経済効果が高いと認識を示していたようで、日韓同時に導入したらどうかというような検討もしていたようです。が、その後の政変やら消費税問題やらでその議論もどこかへ行ってしまい、今はサマータイムのサの字も国会答弁で出てきやしません。

導入に向けて

経済評論家で、経営コンサルタントの大前研一さんは、かつての連合軍統治時代のサマータイムがなぜ廃止になったのかについての理由を「貧しかったから」だと指摘しています。サマータイムが導入されてい時期は、戦後すぐの混乱期であり、国民の栄養状態をどう改善するか、欠食児童をどうするかといったことがまだ真剣に議論されていた時代です。そんな時代にあって、「ゆとりを持って時間を過ごそう」という趣旨のサマータイムが合うはずがなかったからだというのです。

そして、「食べものに困らない現在であれば、ビジネスパーソンも「日が高いなら、もう少し余計に遊ぼうか」ともなるだろうし、それは景気の活性化にも寄与しよう。」とおっしゃっています。同感。

そして、大前さんは、サマータイムの導入によって、日本の生活サイクルを一度変えてみたらよい、ともおっしゃいます。道州制の導入も含め、今の日本には大きな変化をもたらすきっかけが必要で、日本人はそういう大きな変化を経験したほうがよいといいうのです。大切なのは、まずやってみること。そして駄目なところがあれば直していけばいいのであって、一度導入した上でサマータイムの効果測定をやり、どのよううな効果があったのか検証すべきだともおっしゃいます。これまたしたり、です。

そして、一番説得力があると思ったのは、「夏になると4時から太陽が昇っているのにあなたは6時に起きていますね。陽が昇ってから2時間も寝ているのはもったいない。むしろ陽が昇ってから1時間で起きるというのはどうですか?」という理屈です。これなら、反対派も納得するのではないでしょうか。

サマータイムに反対している人の多くは、サマータイムの導入が年間を通じてだと勘違いしている人も多いと聞きます。サマータイムが夏の間だけの事だけなんですよ、と理解した上で、大前さんのおっしゃるように、ともかく、まずやってみる、というのが私も良いと思うのですが、みなさんはどうお思いでしょうか。

カモ・鴨 旧大仁町(伊豆市)

先日、愛車を点検に出すため、ディーラーのお店のある大仁駅近くまで行きました。点検には2時間ほどかかるそうなので、駅周辺をぶらぶらと散策することにしましたが、その途中、道路のすぐ脇をふと見たところ、何やらうじゃうじゃいる!何かなと思ってよくみると、かわいらしい小ガモ達が寄り添うようにして、水を張った田んぼの中を泳いでいるではありませんか。

噂には聞いていましたが、どうやら「アイガモ農法」というヤツらしい。広い田んぼの雑草取りや害虫駆除を人手だけで行うと相当大変なので、それをカモさんたちにやってもらおうということのようです。草取りや害虫退治だけでなく、カモの排せつ物が養分となったり、泳ぐことで土がかくはんされ稲の生育が良くなるなど、メリットがたくさんあるそうです。

除草剤や農薬の散布による稲作栽培は、省力化にはなるけれども、安全面で考えるとグレーなところも多いということから、1990年代ごろから、合鴨を水田に離して雑草を食べさせ除草剤の使用を減らすことがはじめられたとか。

アイガモ(合鴨)は、野生のマガモとそれを家禽化したアヒルとの交雑交配種のことですが、カルガモとアヒルとの交配種も使われることがあるとか。日本では1990年代ごろから、除草剤の使用を減らすことを目的としてはじめられた農法だそうです。

人間によって作られ、野生に存在しない雑種のために、法律で野に放すことは固く禁じられているそうで、なんと、合鴨農法のシーズン終了後は食用になっちゃうんだとか。働くだけ働かせてあとは食べるなんて、なんてかわいそう。

牛や豚だって、人間さまのお役に立って食用になっているのだから、仕方のないこと、という気もしますが、ほかに良い方法はないんでしょうか。そういえば、最近アメリカのカリフォルニア州で、カモを太らせて肝臓を肥大させ、摘出する「フォアグラ」づくりが禁止されましたね。人間の勝手で動物を利用するのは許せない、ということで動物愛護団体から猛反発を受け州政府がついに禁止命令を出したとか。

牛豚、鶏は普通に食っておいて、フォアグラだけはダメなんておかしい、と賛否両論のようですが、まあ、無理やりカモに大量のエサを与えてとおいて、殺すというのはあんまり良い気分のものではないですね。

それで思い出しましたが、ここ静岡では、イルカを食べる風習があります。スーパーなどでは、「イルカ」と書いてある肉が普通に売られていて、よそから来た人がこれを見ると非常に驚きを感じるようです。

ただ、静岡だけかというとそうではなく、大昔は、伊豆だけでなく、全国的にイルカが食べられていたようで、縄文時代の貝塚などからよく、イルカの骨がみつかるそうです。現在でも和歌山県、静岡県、東北地方でイルカ漁を行い、食用としているようで、静岡では、沼津や伊豆などの東部でよく食べられていますが、大井川以西の静岡県では食べないみたい。

実は私も、学生のころ、清水市内にある旅館でアルバイトをしていたとき、旅館のまかない料理のひとつにイルカが出たので、食べたことがあります。正直おっかなびっくりだったのですが、意外にこれが美味。クジラの肉のような臭みもなく、豚や牛のような硬さもない、トロッした食感で、なんだこれ!ウマッ!と思ったのを覚えています。

イルカの調理方法としては、味噌煮が多いのだそうで、イルカの肉を炒めたものに、ゴボウなどの野菜を加え、酒、しょう油、砂糖、味噌で味付けます。ニンジンやコンニャクなどを入れる家庭もあるそうで、イルカといえば、冬が旬なのだとか。身体をあたためる冬の一品として、静岡東部では昔ながらの郷土料理のようです。

しかし、愛くるしいこの動物を食べる、というのは動物愛護家の多い欧米では、やはり反発が多く、おととし、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞をとった、「ザ・コーヴ」という映画は、和歌山県太地町でのイルカ漁を隠し撮りし、これを批判したものでした。見た人の多くは「イルカを殺す場面の残忍さに衝撃を受けた」との反応を見せたといいますが、まあ、そういう映画の撮り方をしていれば、見る側もそう受け取るわな。

私自身、アイガモやフォアグラ、イルカを食べるということ自体、良心の呵責がないかといえば、ないわけではありませんが、牛や豚、鶏を毎日のように食っていることに後ろめたさがあるか、と問われれば、とくに悪いことをしているとは思えません。

ようは、行き過ぎた食文化がタブーなのであって、人間が生きていく上に必要なもの以外はある程度遠慮し、自然界の調和を考えて謙虚に、というところが落としどころなのかなと考えています。

あと、やはり生き物を殺して食べているのだから、死んだ生き物に対してはやはり供養の気持ちがあってしかるべきかな……と。和歌山のイルカ漁の行われていた地区では、イルカ供養碑が建てられているそうで、殺生の中にも感謝をすることが、私たちの食生活を支えることにつながるのだと、考えたいところです。

さて、カモの件でしたね。カモの中のカモ、といわれるのは、「マガモ」と呼ばれる種類だというのですが、じゃあ、アヒルはカモなの?と調べてみたところ、アヒルはマガモから人為的に作られた家畜なのだとか。

鳥なので、正確には「家畜」ではなく、「家禽」なのだそうですが、マガモを飼いならして家禽化する際、体が大きく重くなってしまい、多くの品種は、翼は小さくなって数メートルほどしか飛ぶことが出来ないそうです。アヒルは年間で150~200個の卵を産むので、その卵をとるためだけに飼われることもあるようですが、北京ダックに代表されるように洋を問わず世界中でおいしく食べられています。

欧米では頻繁に狩猟用のおとりに用いられ、使い捨てにする、という文化もあり、これこそ、和歌山の人たちから、動物虐待!と批判されそうです。が、片や、愛玩鳥として飼養する場合もあるようで、これは、英語で「な(鳴)きアヒル」、(すなわち、Decoy(デコイ)というそうです。木彫に彩色をした鳥の装飾品もデコイといいますが、この木彫りも最初は狩猟用のおとりに使われたのだそうで、両方とも語源は同じく狩猟用だったのですね。

それにしても、アヒル料理というのはよく聞くけれど、アイガモって本当に食べるの?と疑問に思ったので、再度調べてみると、本来、アイガモは交雑種であるため、家禽であるアヒルに比較すると体が小さく、肉量が少ないのだとか。かつ、繁殖力が劣っており、成長にも時間がかかるといった欠点もあるため、実際に食肉用を目的として飼養されるケースはほとんどないそうです。

と、いうことは、大仁駅でみかけたアイガモの子供たちも食されることなく、一生を過ごせるのか、と少し安心。

ところで、アイガモはマガモとアヒルの交配種だそうですが、このマガモ、冬になると、越冬のために日本より北の国から渡ってくる、いわゆる冬鳥なのだそうです。マガモ以外にも、コガモ、オナガガモ、スズガモなども日本より北の国から飛来する鳥で日本原産ではないとのこと。日本特有な種は、主にカルガモ、オシドリだそうで、これらは通年生息し、日本全国の河川や湖などで見られます。マガモは外国の鳥で、カルガモは日本の鳥だなんて知りませんでした。

マガモなどの冬鳥は中国や朝鮮、ロシアなどから飛来してくるそうなので、あちらで流行したウィルス性の病原体なども運んでくることがあるみたい。いろどりのきれいな鳥ですが、これからはちょっと見方が変わってくるカモ。

さて、ここまでカモ・かも書いてきたら、なんだかムショウに鴨南蛮が食べたくなりました。今は夏の暑い盛りなのであまり食指は動きませんが、冬に食べるカモ鍋もおいしいですよね。海外でも牛、豚、鶏、羊と並びよく食べられ、美味なために市場では高値で取引されるそうです。

日本では、明治維新前の江戸時代までは、肉食文化が一般的でなかったため、カモは食用とされた数少ない鳥獣類だったそうです。鍋やすき焼きなどが代表的な料理だったようですが、もともと臭みがある食材なので、鴨鍋ではネギと一緒に煮るようになったのだとか。江戸時代にはセリと煮て臭みをとっていたそうですが、どんな味がするんでしょうか。

今日、国内で鴨肉の名称で流通しているものの多くはアヒルの肉なのだそうで、アイガモや野生のマガモなども時には出回ることもあるようですが、やはりあまり一般的ではないようです。

野生のカモは、生息数や生息地が激減しているようで、ワシントン条約や日露渡り鳥保護条約、日中渡り鳥保護協定、日米渡り鳥保護条約、ボン条約 (日本は未加盟)などいろんな取り決めで保護されている種も多く、生息地がラムサール条約に登録されている場所もあるのだとか。

日本でも鳥獣保護法で狩猟してよい種と時期、地域、猟具など規制しているそうなので、アヒルのようにあまり流通していないのはそのためのようです。

ここ、伊豆では鹿やイノシシが激増していて、逆にこれを捕獲するために苦労していると聞きました。農作物や山の木々の皮を食べたりするので、大きな被害が出ているのだとか。それを駆除するためのハンターさんも数に限りがあるので、将来的にはもっと大きな問題になっていくのかもしれません。

減る一方の動物がいれば、逆に増え続ける動物もいて、地球温暖化が進む中、いったいこの国はどうなってしまうんだろうと、不安になります。が、我々ができることは、欲にまかせて、自然界に不要不急な人為を及ぼさないこと。あの愛くるしいアイガモちゃんたちも、せっかく田んぼの草や虫を取ってくれたのですから、大切な生として、その一生を送らせてあげたいものです。

とはいいながら、昨日も我が家の庭のバラについた無数のダニを殺虫処分してしまった私……。なかなか、お釈迦さまのように悟りを開いて煩悩を捨て去る、というふうにはいかないようです。

バラ・薔薇

我が家の庭に植えたバラのうち、「イブ・ピアッチェ」という品種が、一輪の花を咲かせました。香りの強い品種だそうで、1mほど離れていても良い香りが漂ってきます。1982年の「バガテル国際コンクール」で、芳香カップ受賞したとかで、このほか、1982年にもジュネーブ国際コンクール金賞及び芳香賞受賞しているらしい、「名花」です。

フリルの入った弁が、ぎっしりと詰まった姿はシャクヤクを思わせます。時期により12センチもの大きさの花を咲かせることもあるらしく、これからが楽しみです。

この「薔薇」ですが、人類の歴史に登場するのは古代バビロニアの「ギルガメシュ叙事詩」なのだそうで、この詩の中には、バラの棘について触れた箇所があるのだとか。バビロニアといえば、現在のイラクの南部。結構暑い場所ですが、古代もそうだったのでしょうか。だとすると、原種は砂漠地帯に生えているような植物だったのかもしれません。

古代ギリシアのローマでは、バラは愛の女神アフロディテやヴィーナスと関係づけられ、その香りが愛好され、香油も作られたそうです。そういえばエジプトの女王クレオパトラが、バラの花や香油を愛用していたと聞いたことがあります。

暴君として知られるローマ皇帝、ネロもバラが大好きだったそうで、お気に入りの貴族たちを招いて開いた宴会では、庭園の池にバラが浮かべられ、バラ水まで噴き出す噴水があったとか。皇帝が合図をすると天井からバラが降り注ぎ、料理にもバラの花が使われていたといいますから、そのお気に入りぶりが目に浮かぶようです。私的には、バラの花が入った甘ったるい匂いのする料理なんて食べたいとも思いませんが……。

誰にでも愛されるかのように見えるバラですが、中世ヨーロッパでは、バラの美しさや芳香が「人々を惑わすもの」として教会によってタブーとされ、修道院などで薬草として栽培されるにとどまりました。

しかし、イスラム世界では、白バラはムハンマドを表し、赤バラは、唯一神アッラーを表すとされ、崇められた花だったようで、香油なども生産され愛好されました。このためか、十字軍以降、中近東のバラが逆にヨーロッパに紹介されるようになり、ルネサンスのころには再びヨーロッパで流行するようになります。

かつてはバラを禁じた教会でも、カトリック教会が聖母マリアのことを「奇しきばらの花」と呼ぶようになり、庶民の間でバラは高貴な人を表す代名詞のようになっていきます。

貴族の中でもバラは大人気で、ナポレオン・ボナパルトのお妃のジョゼフィーヌもバラを愛好し、夫が戦争をしている間も、戦争をしている相手国からバラの原種の情報を集めていたとか。それだけでなく、日本や中国など、世界中からバラを取り寄せて居城に植栽させる一方、「バラ図譜」まで作っています。

このころから、人為交配(人工授粉)による育種の技術が確立されるようになり、ジョゼフィーヌが亡くなったあとも、彼女の造営したバラ園で原種の蒐集、品種改良が行われ、19世紀半ばにはバラの品種数は3,000を超えました。そして、これが観賞植物としての現在のバラの基礎となったということです。

ジョセフィーヌが日本から取り寄せたバラのうち、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナスなどは日本原産のものです。日本はバラの自生地として世界的に知られていたそうで、古くからバラは「うまら」「うばら」と呼ばれ、「万葉集」にもバラの花を恋人に例えた歌があるそうです。

茨(イバラ)は、戦争のときに敵を近づけないようにするために植栽されることも多く、常陸国(現茨城県)では、イバラを穴に仕掛け、土俗をこの穴に追い込んで退治したという話も残っており、この故事にちなむ茨城(うばらき)という地名も残っているとか。そして、これが茨城県の県名の由来にもなったという説もあります。

江戸時代初期の慶長年間には、ヨーロッパに遣欧使節が送られましたが、その副使だった仙台藩の支倉常長(はせくらつねなが)がその帰途、バラを持ち帰りました。そのバラは、伊達藩主、伊達光宗の菩提寺の円通院にある霊廟の厨子にも描かれたそうで、このため、その後円通院は「薔薇寺」の通称で呼ばれるようになったといいます。

江戸時代には、江戸を中心として、身分を問わず園芸が流行ったそうですがが、バラも例外ではなく、「コウシンバラ」「モッコウバラ」などが栽培されました。ノイバラの果実は、利尿作用があるとして薬用のために栽培されたそうで、園芸品種とともにバラは庶民の間に浸透していきました。

その後、明治になると、明治政府が「ラ・フランス」という品種を農業試験用の植物としてヨーロッパから取り寄せ、青山官制農園(いまの東京大学農学部)で栽培させます。このころは、まだ西洋のバラは庶民にとっては高嶺の花だったようで、その花をひと目見て、香りを嗅ごうと見物客が押し寄せたので、ラ・フランスの株には金網の柵までかけられたそうです。

その後、バラが接ぎ木で増やせるということがわかり、専門の接ぎ木職人なども現れるようになります。東京近郊では、川口市(埼玉県)や大阪では、宝塚市などで栽培が行われるようになり、皇族や華族、高級官僚の中にも愛好家が増えたことから、庶民の間でも人気が高まり、生産量も急増します。

大正から昭和のころには広く一般家庭にも普及し、戦後の高度成長期にはバラは高級な嗜好品としてもてはやされるようになり、そして更なる珍しい品種を求めて品種改良がさかんに行われるようになっていきます。

品種改良を行った花のできばえを競うコンテストが全国で盛んに行われるようになり、大いに栽培技術の向上につながった反面、「喧嘩花」と呼ばれるほど熾烈な競争が今もあるそうで、栽培家の間で喧嘩が絶えないとかいう話を聞くと、たかが花のために……と思ってしまうのは私だけでしょうか。

バラの品種改良は、「青いバラ」を生み出すまでになっています。昔ながらのオールド・ローズの中には、青っぽいものもあるようですが、純粋な青さを湛えたバラを作り出すことは、青いチューリップと同様にかなりの困難だったようで、世界中の育種家の夢でもありました。1957年にアメリカで「スターリング・シルバー」という品種の開発に成功した育種家がおり、その当時、これが、「青バラ」の決定版といわれましたが、その後もアメリカや、フランスでより一層青いバラが開発されていきます。

日本でも青いバラに対する挑戦は盛んで、今日までに数多くの品種が生み出されていて、世界でも注目を浴びているのだとか。現在、一般的な交配による品種改良で最も青に近いとされる品種は、岐阜県の河本バラ園が2002年に発表した「ブルーヘブン」だそうで、このほかにもアマチュア育成家が1992年に発表した「青龍」や2006年に発表した「ターンブルー」という品種などがあるそうです。

実際に見ていないのでどの程度青いのかわかりませんが、確かに青いバラというのは魅力的です。青や紫といった色の花が好きな私としても興味のあるところ。素人でも購入できるほどの値段なのかどうかわかりませんが。

新しいバラを開発すると、人の名前をつける風習がバラの育種家の間では、昔からあるようです。バラの品種名になった人名で有名なところでは、エイブラハム・リンカーン(品種名は「ミスター・リンカーン」)、ジョン・F・ケネディ、ロナルド・レーガンなどの大統領の名前のほか、オペラ歌手のマリア・カラスやバーブラ・ストライサンド、俳優では、ケーリー・グラント、クリス・エバート、ヘンリー・フォンダ、マリリン・モンローなどなど。

皇室関係では、ヴィクトリア女王やエリザベス2世、チャールズ皇太子などがありますが、亡くなったその奥様、ダイアナ元皇太子妃のバラの名前としては、生前命名された「プリンセス・オブ・ウェールズ」と、死後命名された「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」の2品種があるそうです。

バラの品種改良がさかんだったフランス関係では、ジャンヌ・ダルクや、ルイ14世、マリー・アントワネット、ナポレオン・ボナパルトなどの「定番」のほか、シャルル・ド・ゴール、カトリーヌ・ドヌーヴ、クリスチャン・ディオールなんてのもあるそうです。

日本では、美智子皇后が皇太子妃時代につけられた「プリンセス・ミチコ」が有名で、皇后になった後に名づけられた「エンプレスミチコ」というのもあるのだとか。このほか、皇太子妃の雅子さまや、愛子さまなどの皇族方の名前も多いそうです。

総理経験者関係では、吉田茂の娘で、麻生和子さん。麻生太郎のお母さんですが、「デイム和子」というのがあるそうで、このほか、鳩山一郎の奥さん薫さんの名前をとって「薫夫人」というのがあります。いい香りがするんでしょうか。

鳩山由紀夫元首相の奥さん、幸さんのもあって、これは「マダムミユキ」。鈴木善幸の奥さんもサチさんですが、これは「マダムサチ」だそうです。

芸能人では、大地真央のほか、黒柳徹子さんのものがあって、これは「トットちゃん」。まんまじゃないか、と笑ってしまいますが、このほか、渡辺美里さんのが、「シャンテロゼミサト」だとか。エレガントです。

人名以外では、「アロマテラピー」「つくばエクスプレス」「ティファニー」「ステンレス・スティール」なんてのもあるそうで、ここまでくると、バラなのかなんだかわからなくなりますね。

宇宙飛行士の向井千秋さんが1998年にスペースシャトル、ディスカバリーの中で開花させて地球に持ち帰ったバラは、その枝から挿木により育てられたものが、埼玉県川口市内のバラ園で育てられたそうで、「宇宙バラ」というのだとか。ここまでくると、もう地球のもなのかさえ分からなくなってしまいそうです。

ちなみに、わが静岡県では、静岡市清水区(旧清水市)が、日本一のバラの生産量を誇るのだそうで、このほか、富士市や島田市がバラを町の花に指定しています。島田市には、ばらの丘公園というのがあるそうで、360種8700株もあるとか。先日訪れた河津のバガデル公園の6000株をしのぐ数です。見応えがありそうなので、今度行ってみたいと思います。

夏本番になり、バラをはじめとする庭木にとってはつらい時期。厳しい日差しの中で枯らせないように、メンテナンスに気を付けていきたいと思います。さて、次に我が家で咲くバラの花はどんな色でしょうか。

守山 ~旧長岡町(伊豆の国市)

守山より田方平野を望む 画面奥が沼津

昨日、韮山へ行く用事があったので、願成就院すぐ裏手にある守山「(もりやま)」に登ってきました。昨日の小室山に続く、プチ登山シリーズです。このお山、茶々丸のお父さん、足利政知が築いた砦の跡ともいわれ、狩野川のすぐそばに整備された公園から山頂までよく整備された登山道があります。お昼を食べたのが、すぐ近くの韮山にあるラーメン屋だったので、腹ごなしに登ってみることに。汗をかきながら旧な階段の続く登山道を上ることおよそ15分。山頂には、屋根付きの立派な展望台がありました。

ここから見える田方平野は絶景でした。今日は富士山は見えませんでしたが、眼科には、北へ流れる狩野川がみえ、その手前には先日行った堀越御所の跡地も見えます。東に目を向けると4両編成で走る駿豆線も見ることができ、青々とした田んぼの間を縫って三島へ行く電車の姿はのどかそのもの。あー来てよかった、と思いました。

この田方平野ですが、今から約6000年前の縄文時代には、気候最温暖期によって海面が現在より数メートル高くなり、沼津市から、伊豆の国市の長岡付近までが入江だったころの名残だそうです。その後、海面が低下し、狩野川とその支流が運ぶ土砂が堆積し現在の姿となりましたが、低地だけに、古くから狩野川の氾濫によって何度も浸水し、昭和33年の狩野川台風では、死者・行方不明者1269人という大きな被害が出ました。

また、これは私も知らなかったのですが、昭和5年(1930年)に、函南町付近を中心とする「北伊豆地震」というのがあったのだそうで、この地震でも多くの死者が出ました。

この地震、昭和5年の11月26日早朝に発生した、直下型の地震で、地元では「伊豆大震災」とも呼ばれて伝承されているのだとか。

震源地は東海道線の丹那トンネル付近で、ここにある丹那断層という断層がずれて地震がおこりました。マグニチュード7.3といいますから、新潟の中越地震(M6.8)規模の地震になります。震源に近い静岡県三島市で震度6の烈震を観測したほか、北は福島・新潟、西は大分まで揺れを感じたそうで、死者・行方不明者が272名も出るなど、大きな被害が出ました。

この死者の中には、この当時日本第二位の長さといわれた丹那トンネルでの工事関係者3人も含まれています。この丹那トンネル、この当時の技術で掘り進めるには、かなりの難工事だったそうで、これ以外にも数多くの殉職者を出し、完成までに36人もの方が亡くなっています。難工事だった原因は、トンネルを計画する段階で、設計者がこれを横断していた丹那断層を考慮に入れていなかったためで、このため、トンネル掘削が、断層付近に到達したところで、大量の出水が出ました。

北伊豆地震のとき、この大量の出水に対処するため、本坑とは別に排水用の坑道が掘られていましたが、これが、地震の際に丹那断層がずれることによって切断され、西側から掘られた坑道の先端部が北へ2.7mも移動したのです。これによって、坑道の崩壊事故が発生し、工事関係者3名が死亡しました。トンネルは当初直線で設計されていたそうですが、この地殻変動で直線で掘り進めることができなくなり、その後、トンネルの中央部でS字にカーブするように設計し直されたそうです。

丹那トンネルの難工事は、地質が分かっていない場所へ、遮二無二トンネルを掘ろうとした結果でした。これを教訓として、その後のトンネル工事は事前にできるだけの調査を実施し、難工事が予想される箇所を避け、地質に合った掘削方法を準備するようになったそうで、その次に彫られた長大トンネルの関門トンネル工事では、事前調査の結果、地盤の軟弱な九州側の主要工法としてシールド工法が採用され、工事が円滑に行われたそうです。

北伊豆地震は突然起こったのではなく、前触れの前震が何度もあったのだそうです。大きな地震がおこる11月にさきがけ、「伊東群発地震」とよばれる地震が、2月から4月にかけて何度もおき、一時的に沈静化したものの、5月からも再び活発化し、伊東を中心とした地域で8月までに1368回もの有感地震が起きたそうです。

そして、11月の初旬からふたたび新たな群発地震が、今度は伊豆半島の西側(網代の西方10km付近)で発生するようになり、11月の26日の本震の前日、25日までに、なんと2200回を超える地震が記録されました。さらに、25日午後4時5分にM5.1(最大震度4)の前震があったといいますから、被害に遭われた人たちもそれなりの心の準備はできていたはずです。

それにもかかわらず、大きな人的被害を出した原因は、地震が早朝におこり、人々が眠っていたということも大きいようですが、地震が起こった伊豆半島北部の山間部では、山崩れや崖崩れが多発し、とくに天城湯ヶ島(現伊豆市)では大規模な山津波が起きるなど、地震による土砂災害によって亡くなった人が多かったためです。

湯ヶ島では、農家3戸が埋没して、15名亡くなったほか、中伊豆(伊豆市の南)では山の上にあった畑が1haほどが陥没したそうです。被害から見ると、断層帯(後記述)に沿った地域(函南町~伊豆市にかけて)では、震度7の激震に値する揺れであったと思われ、この激しい揺れによって地盤が揺さぶられ、土砂崩れやがけ崩れ、地盤の沈下が起こったのです。

このほか、狩野川に沿った地域では家屋の倒壊が多く、韮山では家屋の全壊率がなんと40%に達しました。韮山町だけで、全壊した家屋は463戸、半壊420戸、死者76名、負傷者152名だそうで、その当時の世帯数は1276、人口7400人だったそうですから、7割の世帯が何等かの被害を受け、住民のおよそ1パーセントが亡くなったわけで、かなりの大打撃だったことがわかります。

北伊豆地震全体での総被害としては、死者・行方不明者272名、負傷者572名、全壊2165戸、半壊5516戸、焼失75戸だそうです。無論、昨年おきた東北の大震災や阪神淡路大震災に比べるべくもないですが、災害の悲惨さは失われた方々の命の数だけでは計れないもの。ここ、伊豆でもこうした大地震が起こりうるということを知り、改めて教訓として肝に銘じ、地震に対する備えを怠りなくしていきたいものです。

ところで、この北伊豆地震、前触れの前震が多かったためでもありますが、前兆は地震におる揺れだけではなく、各地で発光現象や地鳴りといった「宏観異常現象(こうかんいじょうげんしょう)」が数多く記録されたのだそうです。

本震前日の25日の夕方5時ごろから本震発生後の26日午前5時頃までのほぼ半日にかけて、静岡県南部を中心に発光現象がみられたそうで、その当時の記録によると、光の形はオーロラ状で色は青とが多かったといいます。また遠く離れた北関東や近畿地方では、地鳴りのような音が聞こえたという証言もあったのだとか。

宏観異常現象とは、地鳴り、地下水、温泉、海水の水位変動、水質の変化、動物の異常行動、天体や気象現象の異常、通信機器、電磁波の異常など、大規模な有感地震の前兆現象として知らされる現象の総称です。有感地震の因果関係は、多くの科学者がその説明を試みていますが、これが、定説といえるほどの科学的な根拠や統計的なデータは得られていないようです。

ただ、昨年の東北関東大震災では、東北の上空で異常な電磁波の発生が観測されており、これと地震との因果関係がいまさかんに研究者によって調べられているようです。うまくいけば、電磁波の異常を検知することで、地震が来ることを予知できるわけですから、良い成果が出てくることを祈りたいものです。

ちなみに、昨年の地震のとき、ウチのテンちゃんは、まったくといっていいほど、宏観異常現象を見せてくれませんでした。地震の発生とともに、どこかへ隠れてしまい、地震がおさまったころに、すりすりと足元に寄ってきて、不安そうな顔をしていただけ。あらためて、ネコは役にたたん、と思った次第。

地震が起こる前の動物の異常行動として、ナマズが騒ぐというのはよく言われますが、このほかとしては、鶏が夜中に突然騒ぎ始めるとき、日中カラスの大群が移動するとき、日中カラスの大群が異常な鳴き声で騒ぐとき、などがあるそうです。が、ネコが騒ぐというのは、あまり聞いたことがない。ネコの場合、ひげで気温や湿度がわかるそうで、ネコが手で顔を洗いはじめると天気が悪くなりそうだということで、天気予報には使えそうですが、地震予報には使えそうもありません。

宏観異常現象として、よく言われるのは、地震雲や地下水の異常などですが、前述の北伊豆地震でのオーロラのようなものや海面が光るなどの発光現象もよく報告されています。夜空が異常に明るい、とか、光の柱のようなものが見えた、太陽や月に傘のようなものがかかった、月が赤い色をしていた、などなど、枚挙のいとまがありませんが、これらと地震との実際の因果関係を証明した人はまだ誰もいません。

もしかしたら超能力がある人は、地震の予知もできるのかもしれませんが、残念ながら私にはその能力はなさそうです。が、素粒子が目に見えるものとして発見されるような世のなかですから、もしかしたら地震の予知も画期的な発見によって達成できるようになるのかもしれません。

でも、それが実現するとしたら、東京や大阪などの人口密集地帯ではとんでもない人口移動が起こるかもしれませんね。東京の人たちがみんな、伊豆へ引っ越してくるようになったりして。でもその前に地震によって伊豆半島が本州から切り離されないよう、祈ることにしましょう。

小室山 ~伊東市

 画面中央に見えるのが手石岩

ここ二~三日は陽射しにこそ恵まれませんでしたが、気温は低く、比較的快適に過ごせました。九州ではまだ大雨が続いているようですが、今年の梅雨の雨の量は西高東低だったようですね。豪雨で被害に遭われた方に、お見舞いを申し上げたいと思います。

今日は一転して上天気になり、窓からは富士山もよく見えます。より一層雪が少なくなったようですが、富士山の頂上の気温ってどのくらいなのでしょうか。気象庁のデータをみてみると、昨日の最高気温が8.1度。最低気温が2.3度だそうで、やはり涼しい、というより寒いくらいですね。

いつか、その頂上を極めたいと思うのですが、なかなか踏ん切りがつかず、延ばし延ばしになっています。人ごみがきらいなので、上での宿泊はなんとか避けたいと思っていますが、富士山から見るご来光も見てみたいもの。そのうち何かきっかけがあれば、山小屋利用で登山してみようかな。いつになるかわかりませんが。

登山といえば、昨日、プチ登山をしてきました。伊東に用事ができたので、そのついでに、小室山という「火山」に上ってきたのです。標高300mちょっとの小高い山で、その南側にある500m超の火山、大室山と合わせ、「伊豆東部火山群」という火山グループの一員です。山の中腹まではクルマで行くことができ、比較的大きな駐車場があります。ここからは、遊歩道を通って徒歩で頂上まで行きますが、観光リフトもあって、お年寄りでも上ることができます。

観光リフトも少し興味はあったのですが、高所恐怖症の私としては、あえて危ない橋を渡ることはせず、ここは地道に歩いて上ることに。小室山は円錐状のきれいな山で、それを時計まわりと反時計回りに巻くように遊歩道が整備されていて、サンダルでも登れそうなほど楽ちんです。時計まわりで登ることに決め、歩きはじめましたが、少しずつ高度を上げていくにつれ、左手に青い海原が見えてきて、気持ちのよいこと。

この日は雨こそは降っていませんでしたが、曇天で見通しはあまりききません。晴れていれば遠くに伊豆諸島や湘南海岸なども見えるのでしょうが、遊歩道の木立の合間から見えるのは、少し波立った海ばかりと、二から三隻の船のみ。

20分ほどで頂上につきましたが、やはりここからの景色も遠くは見えません。すぐ近くにあるはずの大室山も雲に隠れているらしく、確認できませんでした。山の東側のすぐ真下には、ゴルフ場がふたつと、その先には青い海原が広がっています。南側に目を向けると、緑色の海岸線が見えますが、こちらの眺めはいまひとつ。が、晴れた日にはきっと伊豆高原方面の景色が広がるのでしょう。

西側から西北には富士山が見えたはずなのですが、これも雲の中。唯一、良い眺めだと思えたのが、伊東港とその北側に連なる海岸線。その沖合に、小さな島のようなものがあるのが、「手石岩」との説明が看板にありました。よくみると、島の周りに波があたって白いしぶきがあがっているのも見えます。今度、近くへ行ってじっくり観察してみようかと思います。

この岩、うちに帰ってから調べると、なんと、1989年に海底火山の噴火でできた海底火山のすぐ近くにある島のようです。1989年6月に、伊東市沖では頻繁に地震が起こりました。7月9日にはM5.5の比較的大きな地震が観測され、この頃には、伊東市周辺の井戸の水位や温泉の湧出量、地表面の変位が観測されるようになります。

やがて7月13日18時33分に海底噴火が噴火。そしてこの噴火、翌8月の末まで活発な活動を続けます。その結果、水面下81mの海底で火口の直径200mの火山が形成されていることが確認されました。近くにある手石岩にちなんでか、「手石海丘」とその後名づけられましたが、今はその活動は休止しているようです。

この噴火、伊豆半島においては、約二千七百年ぶりだったそうで、火山学的には大事件だったそうです。幸いなことに、火山噴火による被害はとくになく、噴火の前の7月9日に発生した地震で、伊東市の宇佐美地区を中心に、家具の下敷きなどで21人が軽傷を負っただけですみました。しかし、家屋の損壊や屋根瓦の落下、がけ崩れや道路の損壊などの災害も見られたそうです。

歴史に残る噴火記録や地質学的に調査された噴火史から判断すると、この手石海丘も大室山・小室山と同じく、「伊豆東部火山群」に属するのだとか。

この、伊豆東部火山群に属する火山は、そのほとんどが単成(たんせい)火山という種類の火山なのだそうで、単成火山は、いったん噴火して小型の火口ができたあと、二度と同じところからは噴火しない性質をもつのだとか。これに対し、同じ火口から何度も噴火を繰りかえして、その火口の周りに溶岩や火山灰を積もらせ、さらに大きな火山体を成長させる火山を、複成(ふくせい)火山と呼ぶそうです。

その代表選手が富士山や、箱根山、伊豆大島だということですが、なるほど大きな山ばかりです。単成火山は、伊豆東部火山群でみられるように、ある地域に群れをなして存在することが多いということで、こうした単成火山の群れの中にある、ひとつひとつの火山は、一度噴火した後に死んでしまいます。しかし、単成火山群全体として見た場合には、次々と別の場所で噴火を起こし、新しい単成火山をつくることを繰りかえすのだとか。

ということは、手石海丘と同じく、また別のところでこれからも小さな火山が噴火する可能性があるということ。なかなか油断がなりません。

日本にある火山のほとんどは複成火山なのだそうで、単成火山群があるのは、伊豆半島と中国・近畿地方の日本海側と男鹿半島ぐらいだそうで、全国的にみても珍しんだそうです。このうちの、伊豆は、そのむかし、13も複成火山があり、それが今の半島の骨格を作っています。そして複成火山お活動が終わり、今のように単成火山ばかりが起こるようになったのが、15万年前のこと。アフリカでホモ・サピエンスが誕生したころに相当しますから、我々にとっては途方もない昔のことです。

このように、同じ地域に多数の複成火山ができ、そのあとに単成火山群ができて両方が共存している例は、とくにまれなのだそうで、伊豆は、大きな学術的価値のあるものを持っているのだとか。以前にも書きましたが、伊豆ジオパーク構想などのお話が持ち上がっているのもわかるような気がします。

昨日は、小室山しか登れませんでしたが、今度は大室山やその他の単成火山にも登ってみたいもの。全部で15かそれくらいあるようです。そうした山に登りつつ、太古の伊豆を想像してみるのも面白いかも。山の頂からあちこちに噴煙が上がる伊豆半島の様子はさぞかし壮大でしょう。

そしてそのうち富士山にも。今年の夏実現できるかどかはわかりませんが。