富士と植物と ~函南町・富士山

梅雨が明けたと思ったら、いきなり30度越えの日が続き、うんざりしかけていたところ、思いがけず昨日は最高気温20度の快適な一日になりました。陽射しはなく、一日中雨ではあったものの、やはり気温は低いほうが楽。一日中寝ていようかとも思いましたが、タエさんから買い物のリクエストがあったので、しぶしぶ山を下りました。

ただ単に買い物をして帰ってくるだけでは、ガソリンがもったいないので、すぐ麓にあるカインズホームで、庭木を見てくることに。ようやく庭に木が植えられるようになったのがうれしくて、最近はホームセンターに行くと必ずといっていいほど、園芸コーナーを探索して帰ってきます。

この日もそんなつもりはなかったのですが、気が付くと5~6鉢もコニファー類を買ってしまい、しかもそれで火がつき、別のホームセンターにも行って、結局、10鉢以上の庭木を買ってしまいました。あーあ、また植えるのが大変だー。

ところで、前から思っていたのですが、ここ伊豆の植生って、よそと違うんだろうか、昔、富士山が噴火したときの火山灰って降っているんかしら、という素朴な疑問。

そこで、いろいろ調べてみました。まず、過去に富士山が噴火したときの火山灰の件。富士山の噴火と言えば、およそ300年前の1707年の12月に起きた宝永噴火が有名ですが、この噴火は、富士山の噴火史上でもトップクラスの大規模かつ激しい噴火だったようです。

南東斜面に開いた3つの火口から、マグマ量に換算して7億トンもの火山灰が成層圏まで噴き上がったそうで、この噴煙は、冬のジェット気流に乗って東に流れ、その風下にあたる静岡県東部・神奈川県・東京都・千葉県などでは火山灰が山のように降りつもったらしい。

その厚さは、小山町の須走付近で2メートル超、小田原で10~20センチメートル、当時の江戸でも2~3センチメートルあったということです。この降灰によって、農地や農作物が全滅しただけでなく、山林が荒れたために土石流や洪水が頻発したため、静岡県の東部や神奈川県の西部の人たちは、その後数十年もの長いあいだ降り積もった火山灰と格闘することになったそうです。

しかし、ここ、伊豆地方はというと、ほとんど被害を与えなかったらしい。火口から立ち上る噴煙や火柱は、三島や沼津など東海道沿線の宿場町からも目撃されたという記録が残っていますが、火山灰は噴火開始の翌朝未明に沼津などにわずかに降った程度だったそうです。風向きが安定する時期であったことや、噴火した期間も16日間という短かかったことが幸いしたようです。

伊豆方面に降った火山灰はほんの少しであったため、その現物を見つけることすら困難なのだそうで、これでウチの庭の土も東京のように黒くない理由がわかりました。

しかしながら、さらに過去にさかのぼると、約4万年前に富士山噴火したときの火山灰層が函南町内で見つかっているそうで、また、富士山から流れ出た溶岩流や土石流の中には三島付近に達したものもあるとのことで、もし、再度富士山が噴火した場合には、火口の位置や噴火規模によっては、同様のことが起きる可能性はあるそうです。

しかしどうやら、ここ修善寺あたりまでは溶岩流は来ることはないだろう、と安心していたら、別の記事がみつかりました。それによると、伊豆には、富士山からだけでなく、その東にある箱根山から噴出した軽石や火山灰が、伊豆にも降りつもった過去があるそうなのです。

富士山はおよそ10万年前に噴火を始め、その活動期間のすべてが伊豆東部火山群の活動期間(約15万年前~現在)と重なっているんだそうで、もし富士山が噴火したら、箱根山も噴火する可能性があるということ。富士山よりも、箱根山により近い伊豆のこと。それが噴火したときは、全く影響はないというわけにはいかないのかもしれません。

そして次の疑問。伊豆の植物相は?です。正解は、やはり「本州島」とは違って、南方系なんだそうです。このブログで前にも書きましたが、伊豆半島は、伊豆諸島の島々と同様に、元はフィリピン海プレート上の南方で生まれ、それがどんぶらこ~どんぶらこ~と本州に近付いてきてぶつかってできた場所であり、このため、植物相は本州島とは異なる南方系を形成しているのだとか。

そういわれてみれば、半島内のあちこちで、ヤシの木やらソテツが立派に育っているのをみますが、そういうことなのか~と納得。雪もあまりふらないので、植物も越冬しやすい場所だろうし、冬には枯れてしまうような一年草も翌年まで枯れないで越年するなんてことも多いのかもしれません。

それに関連する記事がないかな~とネットサーフィンしていたところ、面白い記事を発見しました。なんでも、その昔、明治期から昭和中期にかけての伊豆では、その植生景観は、
「非常にスカスカした、高木が少なくやぶ、あるいは草原的なもの」だったそうです。

どちらかの国立大学で植物を研究されている方のブログのようですが、それによると、伊豆半島の潜在植生、つまり自然にまかせた場合に成立する植生は、照葉樹林(常緑広葉樹林)であると推定されているのだとか。にもかかわらず伊豆半島の多くの地域が低植生となっている理由としては、過去の住民による激しい資源利用がだとこの方はおっしゃいます。

資源として山林が利用されていた時代に、植生が現在よりも低かったという例は各地でみられるのだそうですが、伊豆半島の古い写真などもみると、他の地域と比較してもとくに樹木が少ないのだそうで、どちらかといえば草原的な植生が多くみられるのだそうです。

その理由について、この方は伊豆半島で野焼きが頻繁におこなわれていたことと関係があるのだとおっしゃいます。伊豆は「半島」であるために、海がすぐに迫っていて、高い山といえば天城山系しかなかったとう理由もあり、少ない山林を効率よく使うために、昔から焼畑が頻繁におこなわれていたのだそうで、野焼きは戦後すぐくらいまで続いていたそうです。

春先には湘南から、伊豆の野焼きのけむりがのぞめたというくらいですから、あちこちで焼畑農家があったのでしょう。

この話を読んで、ふと思い出したのが、先日書いた、軽野船の話。詳しくは、「軽野船」の項をご覧になるとわかると思いますが、その昔、日本書記が書かれる前の西暦2~300年ころから伊豆は造船がさかんな土地で、造船をするための木材を大量に消費した、という歴史があるようなのです。

おそらくは近代、焼畑農業がさかんになる以前のずっと昔から、伊豆では材木を切り、それを加工する産業が発達していたのではないか、そしてそのために伊豆では高木が少ないのではないか、というふうに思うのです。

無論、私の推測にすぎませんが、そうした事実があったとしてもおかしくないのではないでしょうか。

しかし、明治、大正、昭和と続いた、燃料革命や肥料革命といった経済構造の大変革をへたあと、伊豆半島も他の地域同様に草原地帯から、森林地帯へとまた戻りつつあるのだそうです。「まもりたい静岡県の野生生物 植物編」という本では、アズマギクやキキョウといった陽地性の植物が軒並み減少あるいは行方不明となっているのだそうで、草山や疎林がなくなり、今の伊豆では、森林が増えてきているのだとか。

森林が増えると良いことなのか、と思いきや、その昔の伊豆は、森林は貧弱だけれども、草山や疎林があちこちにある環境というのは、生物が生息するためには良い環境なのだそうで、いわゆる生物多様性が昔のほうが高かったといいます。

確かに森林ばかり増えている伊豆では、最近、鹿や猿による農作物の被害が甚大だといいます。豊かな自然を取り戻すためには、昔のような草原地帯が増えるほうが、伊豆らしいということなのでしょう。

伊豆全体の植生と我が家の庭とは、にわかにリンクはしないでしょうが、ウチの庭もいろんな生物の憩いの場所になるようなものにしたいもの。そのためには何をすれば良いのかまた勉強です。

そうそう、庭に鳥たちが頻繁にやってくるように、エサ台を作ろうと思っていました。今日はそのエサ台の材料を買いに行くことにしましょう。

メンタリズム?

昨日、夕食時にテレビを見ていたら、「メンタリズム」なるパフォーマンスをやっている番組がありました。出演者の一人、Daigoさんによると、メンタリズムとは、科学や心理学などを駆使し、人が「あり得ない」と思っている現象を現実に作りだすことだといいます。

マジックとは何が違うのかというと、人間の錯覚などを利用して意識を操ることで、マジックのようなパフォーマンスを行うのがメンタリズムなのだとか。人の深層心理を読み取ってコントロールしているために、あり得ないと思っていることが目の前で起こすことができるのだということでしたが、では、超能力なのかそうでないのか、というところについては、はっきりしたことはおっしゃいませんでした。

これに対して、一緒に番組を見ていたタエさんは、いや、あれは超能力だ、超能力を持っているけれども、それを隠して、マジックのようなショー仕立てにしているけれども、本当はすごい力を隠し持っている人たちなのだ、といいます。

たしかに、わざとマジックや心理学の応用技術のように「見せかけ」ているようにもみえ、本当は超能力を持っているのだが、わざと、それを人にわからないようにしている、というふうにも思えるのですが、じゃあいったい何のため?

ひところはユリゲラーさんなどが、スプーン曲げなどを披露したことで、「超能力」が流行りことばにもなり、「オカルトブーム」ともいわれましたが、そういうブームも去り、いまや普通に「超能力」といっても誰も驚かなくなっているから? というふうに考えれば、視聴率をとるためのパフォーマンスと受け取れなくもない。

それにしても、すごい能力を持っている人たちが、それだけでは食っていけなくなるような世の中なのかな~ と思うと、ちょっと寂しい気持ちもしますが、みなさんはどうお思いでしょうか。

私が思うに、超能力的な能力は多少の違いはあるとしても、誰もが持っているものであり、メンタリズムを主張する人たちはおそらく、普通の人たちよりもその能力がかなり高いのだろう、と解釈しています。

先日読み終えた、「魂の真実」の著者、木村忠孝さんは、目の真裏の左右大脳半球の正中線上にある、松かさ状の内分泌器官である「松果体」についてふれていて、この器官の持つ光受容蛋白質(光に感応して、視覚に関するエネルギーを発生させるタンパク質)が目の網膜の光受容蛋白質に似ていることをとりあげ、「本来は感受性が強く、光によって作用し、発生学的にも目と類似点があるが故に、第三の目とも呼ばれています。」と書かれています。

ほとんどの哺乳類では、単なる内分泌器官となっていて、光受容機能は失われているそうですが、古代人はこれに「覚醒」という意味の「エピフィンス」という名前をつけ、インドのヨガではアージュナー・チャクラ、すなわち「第三の目」と呼び、霊的なものを探求したレネ・デカルトは、松果体のことを「魂の玉座」と位置付けていたそうです。

そういえば、昔手塚治さんの漫画で、「三つ目がとおる」というのがありましたが、この主人公はおでこに三番目の目があり、普段はばんそうこうがそこに貼ってあって普通の少年ですが、いざというときにばんそうこうをはがすと、超能力を発揮する、というものでした。手塚さんもお医者さんでしたから、松果体のことをよく知っていて、それを題材にしてこの漫画を描いたのだろうと思います。

特定の刺激を松果体や間脳に与え続けると、より多くの波長の電磁波と同調できるようになり、通常眼に見えないものが見えるようになるといわれているのだそうです。修善寺で温泉をみつけた弘法大師、空海は、その昔室戸岬で、普賢菩薩求聞持法という修業をしたそうで、これは、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもの。

これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるのだそうですが、この修業を終えた空海はその後、数多くの奇蹟を残しています。この修業、松果体や間脳に刺激を与え続けるのと同じ効果があったと木村先生も書かれていますが、と、いうことは、「メンタリズム」などの超能力的なパフォーマンスを持った人たちは、そういう修業をしてその能力を身につけたかのかもしれません。

あるいは、先天的に普通の人とは違った松果体を持って生まれ、「三つ目がとおる」の主人公のような超能力をもとから持っている人がこの世にいても、おかしくないようにも思えます。

「魂の真実」における木村先生の主張のひとつは、我々の肉体などのように目に見える物資は、粗い振動数の低い波動帯でできている世界にあるのだそうで、素粒子のように目に見えないものは、よりきめの細かい振動数を持ちより高い波動帯の世界にあるのだということ。当然のことながら、粗い波動帯に住む我々には、振動数の高い波動帯の世界は目に見えません。そして、その振動数の高い波動帯でできている世界の中に、霊の世界もある、といいます。

無論、波動帯はひとつではなく、波動の違う波動帯がたくさんあるわけですが、その一つ一つに一個の天地、世界があると木村先生はおっしゃいます。

たとえば、あるひとつの高い振動数を持つ、波動帯でできた世界があるとします。元の世界に残る者からは、その世界を見ることはできませんが、その世界に住み、同じ振動数でできた体を持った人にとっては、我々の世界で我々の世界の物質をみるのと同じように、その世界の物質(我々にはみえない)を普通にみることができ、触ることもでき、普通の生活ができるといいます。

この世界の住人は、振動数を自由に変更することができ、そのことによりその世界からより高い波動帯の世界へ行くことによって、突然消えたり、現れたりすることもできます。
つまり、我々がいうところの、幽霊さんは、それができる世界の人ということになります。

振動数の変化は、時空の変化にもなります。つまり、私たちが現れたり、触れたりできるこの世界以外に、数多くの世界がその世界と重なり、また隣り合わせして存在しているというのです。

さらに、振動数の高い世界においては、精神活動を作動させる波動帯と、周囲の環境を形作る波動帯がより近似しているので、意識や思考することによって、それによって発生するエネルギーによって、周囲の環境や世界を作ることが可能になるといいます。つまりは、これが霊界であり、波動帯の違う霊界が数多くあり、それらの世界が重なりあい、また同時に私たちの世界ともつながっているというわけです。

現世における私たちの体は一定の周波数を持っていますが、それは細胞自体が周波数を持っており、その集合体として肉体が存在するためです。木村先生によると、肉体だけでなく、この世にあって、我々が見ることができる物質は、すべて波動がいろいろな形に姿を変えたものにすぎないのだそうです。ある波動とある波動が干渉、交叉し、いろいろな形や色となって現れる。色は波動の内容や働きを知らせる表現方法なのだそうで、色の種類や統合、区分、変化の仕方によって、一見してその働き、機能を知ることができるのだとか。

肉体の場合、細胞エネルギーは光となって体外に放射されており、これをバイオフォトン、バイオプラズマと呼ぶそうで、一般的には、「オーラ」として知られています。この我々が放射しているオーラは、考えや気分、感情によってその振動数波長が変わるため、当然色も変わります。つまり、オーラの色をみることによって、その人の今の状態がわかるといいます。

昨夜テレビに登場した「メンタリスト」さんたちは、もしかしたら、一見して他人のオーラなどが見える人たちなのかもしれません。あるいは第三の目の機能がすごく発達していて、相手に触るだけで、その相手が思っていることが瞬時にわかったり、目隠ししていても相手の持っている物質が放つ振動数波長でそれが何であるか当てたりすることができるのかもしれません。

そういう能力が自分にもあることを信じたいものです。もし本当にあるのならば、訓練をしてみたいかも。ただそれによって、これまで見えなかった世界が突然見えるようになったとしたら、それはそれでちょっと、怖いものはあります。

興味は尽きませんが、この話題については今日は、これくらいにしておきましょう。

北条家ことはじめ ~旧長岡町(伊豆の国市)

 願成就院裏山の守山に残る石垣

今日は、昨日に引き続き、北条氏について書いていこうと思います。

史料として残っている北条家の家系図では、その始祖は、平直方(たいらのなおかた)と呼ばれる武家貴族になっています(969年~1053年)。平安時代中期に活躍した人で、本拠は鎌倉を本拠とする坂東平氏です。同じ坂東武士である、平忠常が東国で乱を起こしたとき(平忠常の乱、1028年)朝廷から、追討使を命じられるほどの剛の者であったとされます。

平直方の子孫のひとりである、時方が朝廷から伊豆介を拝命し、伊豆国北条郷(現静岡県伊豆の国市)に在庁官人として赴任。その後ここに土着し、北条氏を名乗り始めたといいます。

この北条郷というのは、現在北条館の跡が残っている韮山にある守山という丘の近くだと思われますが、全く同じ場所なのか、別のところかどうかはよくわかっていないようです。

北条の「条」とは、郡・郷よりさらに小さい規模の領域を示す単位であり、東国の有力武士集団で「郡」以上の規模を持った土俗集団の名前として残っているのは、三浦、千葉、小山、秩父などがあり、どれも同じ名前を関東各地に残しているところをみると、積極的に領土拡大を図っていたと考えられます。しかし、北条という名前はこの伊豆以外にはみられないことから、領土を拡大できるような余裕のある強大な武士集団だったとは考えにくそうです。

このころに、伊豆の東側で勢力を誇っていた伊東氏は、頼朝が挙兵したときに、北条氏の十倍以上の兵力を持っていたといいますから、伊豆におけるその他の武士集団と比べても北条氏のその規模は中級クラスであったのでしょう。

とはいえ、代々、都で一定の官位を有していて、伊豆国の在庁官人に任ぜられ、「伊豆介」を務めており、通称では「北条介」と呼ばれていたようです。他の介級の家柄と並んで関東の八介ともいわれたといいますから、武力はないものの、それなりの権威は持っていたと考えてよさそうです。ちなみに、介は、国の行政官として中央から任じられた国司(こくし、くにのつかさ)であり、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等のうちのひとつです。

「守」は、通常皇族クラスの家人が任じられ、中央政府で力を持っている親王がなりますが、この当時、都は源氏や平氏などの武士が勢力を伸ばしており、平清盛の例にもみられるように、かなり高い官位を得るようになっています。しかし、北条のような地方武士でしかも中規模の武士集団が、「介」より上の官位が得られるほど、武士はまだ台頭していない時代です。

北条時政が歴史に登場してくるのは、源頼朝が蛭ヶ小島に配流されたころからですが、このころの、国司、伊豆守は、「源仲綱」という人物で、そのお父さんは、源頼政。頼政は、平家と源氏の内紛ともいわれる、保元の乱、平治の乱では、勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まりました。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇ったといいますから、その子の仲綱も平家を助けた源氏、ということで伊豆守を賜ったのでしょう。

平治の乱の後に、乱の首謀者、源義朝の三男であった源頼朝は、伊豆の国、蛭ヶ小島へ配流となりましたが、この時期に同じ源氏の仲綱が伊豆守になったというのは、何等かの政治的配慮だったのかもしれません。

伊豆という国が成立したのは、律令法によって駿河・伊豆・遠江の三国が成立した701年からのこと。その国を治める国司は、国衙(こくが・国司が地方政治を遂行する政務機関の役所群の総称。このうち、国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)という)において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持っていました。伊豆の国の国衙は、今の三島大社の近くにあったのではないか、という説が強いようですが、はっきりそれとわかる遺跡はまだみつかっていないようです。

国司の任期は当初は6年(のちに4年)だったそうで、この当時の伊豆は、罪人が送られる遠流の対象地でした。伊豆国には、伊豆諸島が含まれており、隠岐・佐渡と並んでこの当時辺境の島国であると考えられていました。伊豆半島はその入り口とされ、罪人が逃げ出さないように監視するための重要な場所です。

そんな場所に、その当時もっとも問題視されていた源氏の政治犯(頼朝のこと)が流され、その国司に同じ源氏の一族を登用したというのはどういう意味を持つのでしょうか。おそらく、平家および中央政府は、そのころ平治の乱に敗れて旗色の悪かった源氏に対し、自らの一族を監視させ、もし裏切ったなら、源氏全体に責任を負わせるぞ、というけん制の意味合いを込めたのではないか、と推察します。

閑話休題です。どうも、すぐに脇に流れてしまう傾向があります。

ともかく、時政時代にもうすでに官位を貰っていた北条家は、武力は小さかったものの、都との強いつながりを持っていた豪族であったに違いありません。時政以前の系譜は謎に包まれているようですが、その後、頼朝との結びつきにより鎌倉幕府の中枢に座ったのちには、朝廷と頼朝を結びつける重要な役割をしていることなども考えると、時政以前の世代から朝廷の中に誰か有力なつてを持っていたのかもしれません。歴史家の中にも、幕府内での世渡りの良さに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にあったのではないかと考える人も多いようです。

歴史書には、時政のお父さんである、時方が朝廷から初めて伊豆介を拝命したという記述がみられるようですので、この時方が、朝廷の中に有力なつてを持っていたと考えられるのですが、残念ながら、それが誰なのかを示す資料は何も残っていないようです。

その子、北条時政ですら、歴史に登場するのは40歳を越えてからのこと。そのときはまだ「時政」とは自称しておらず、ただ「北条四郎」と名乗っていたそうです。介はもとより、何の官位も持っていなかったらしいことから、北条家の中でもあまり認められた存在ではなかったのかもしれません。

その実際のところはどうなのか、続きはまた明日以降にしたいと思います

健さんと北条氏 ~旧長岡町(伊豆の国市)

 願成就院裏山の守山砦に向かう小道

俳優として名高い、健さんこと、高倉健さんを知らない日本人はおそらくいないでしょう。戦後を代表する映画スターで、代表作の「網走番外地」シリーズをはじめ、「幸福の黄色いハンカチ」、「八甲田山」、「南極物語」、「鉄道員(ぽっぽや)」と、邦画史に残る大ヒット作ばかりに出演している健さんですが、いずれの映画もその渋い演技力で、ファンを魅了してきました。

1931年生まれといいますから、もう80才を越えていらっしゃるわけで、さすがに最近はお目にかかれなくなっており、どうしていらっしゃるのかな~と思っていましたが、最近撮影された、「あなたへ」という映画にご出演されたという話を聞きました。あいかわらずのご健在ぶりのようです。

この映画、夫婦愛を描いたものだそうで、「亡き妻が残した絵手紙とともに、彼女の故郷を目指して旅立った刑務所指導技官。旅情あふれる風光明媚な地で出会うさまざまな人々と、その人生を描く物語」だとか。この夏8月25日に公開されるといいますからもうすぐです。見に行ってみようかしら。

実は、この健さん、鎌倉時代の執権北条一族の子孫だということをご存知でしょうか。高倉健さんの本名は、小田剛一さんで、福岡県出身。その祖先は、北条家の一門である名越氏の一族の「北条篤時(あつとき)」という人だということで、京都にいた篤時の子孫が西国に移り、山口の大内氏に仕えた後に北九州へ移り住んだということ。その子孫が健さんということのようです。

この事実、実はご本人はかなり晩年になるまでご存知なかったようですが、ひょんなことから自分の祖先が北条氏一門だと知ることになります。高倉健さんのエッセイ集「あなたに誉められたくて」によると、健さんは自分の先祖が北条氏一門であることを、福岡在住の大学の先生からのお便りで知ったのだとか。

その手紙には、健さんのご先祖に小田宅子(おだいえこ)という人がおり、150年ほど前、「東路日記」という紀行文を残されているという内容で、そのことをご存じでしょうか、と書かれていたそうです。筑前国の商家「小松屋」のおかみ、小田宅子は親しい歌仲間と東国への旅に出て、奈良や伊勢神宮を回り、名古屋、木曽路と通って善光寺へ寄ったあと、江戸を経て故郷に戻るという大旅行をし、そのあと、その旅行のことを旅日記としてまとめていたというのです。

高倉健さんの本名は小田であり、小田宅子は父方の何代か前のおばあさんにあたるということでした。そうした事実を知り、さっそく福岡に戻り、本家の「小松屋」に立ち寄り、残っていた家系図を見せてもらいます。そして、その一番上にあった名前が、「苅田式部大夫篤時(北条篤時)」だったというのです。ご自分が北条氏の末裔だと知った瞬間です。

この話にはさらに後日談があります。健さんは、その後、友人の萬屋錦之助さんに奨められ、鎌倉のある霊園墓地を購入したのだそうですが、その帰りに何気なく、同じ鎌倉にある「宝戒寺」というお寺にお参りをし、ご住職とお話したのだそうです。

そして、自分が北条氏の子孫であることを知ったいきさつを話し、その名前が北条篤時であることを告げると、そのご住職が、あっ、という顔をされ奥のほうへ引っ込まれたのだそうです。そして持ち出してきたのが、お寺の過去帳。そして、ご住職はそこに書かれてあった篤時の名前をだまって指さしたそうです。

このとき、健さんは驚かれたと思います。自分が北条氏の末裔だと知ったあと、何気なく寄ったお寺が先祖の菩提寺だったとは…… きっと篤時さんの霊が、ここに私は眠っているよ、と囁いたに違いありません。あるいは、死してのち、浮かばれなかった北条一族の霊の一人が、健さんにその供養を頼みたかったのかも。健さんもこれに答えて、きっとその後もご先祖の供養のためにこのお寺への参拝を欠かしていないに違いありません。



この篤時さんのことですが、鎌倉幕府最後の執権・北条高時は、1333年5月、新田義貞の軍に追い詰められて、この宝戒寺の裏山にあった東勝寺で自害しています。このとき、一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡しましたが、高時とともに自害して果てた北条氏の一族の中に、北条篤時がいたのです。

この宝戒寺は、北条高時の慰霊のために、後醍醐天皇が建立したとも、足利尊氏らによって建てられたとも言われていますが、過去帳にその名が記されているということは、高時だけでなく、その時亡くなった一族も一緒にこのお寺に葬られたと考えられます。

しかし、篤時の息子はなんとか岡山へ脱出。その後山口の大内氏を頼って家臣となりますが、やがて大内家を辞し、北九州へ下ります。そしてその子孫が両替商である小松屋を営んで成功。前述の小田宅子さんや高倉健さんに繋がっていったのです。

それにしても健さんのこのお顔は、武士を想像させるような渋味のあるもの。かつての鎌倉武士もかくあったかと考えると、その実像は、健さんのように、実直で一途、そしてふてぶてしさや、たくましさを感じさせるものだったのかもしれません。

今日からは、その北条一族の、伊豆や鎌倉における繁栄から、新田義貞の鎌倉攻めによって滅びるまでの盛衰について、少し探訪していきたいと思います。

歴史に残っている北条氏の足跡をたどっていくと、一番古いものは、北条政子の父、北条時政と、その父、時方になるようです。しかし、時政のほうは生年が、1138年とはっきりしているのに対し、時方のほうは、生年も没年も不明で、どんな人物だったのかもはっきりわかっていません。

この北条氏、もともとは桓武平氏の末裔の「坂東平氏」の流れをくむといいます。桓武平氏とは、桓武天皇(在737~806)の子孫から出た平氏のことで、桓武天皇の4人の息子である、葛原親王、万多親王、仲野親王、賀陽親王ごとに、4つの流派があります。

そして、さらに、このうちの、葛原親王の息子の「高望王」の流れを受け継いだ高望流という流派の平氏の中に、武士として東国で力をつけてきた流派があり、これが「坂東平氏」です。史上、最初に現れた武士集団のひとつであり、その後の武家社会の大元を形づくっていく「元祖武士」です。

坂東平氏は、最初、東国を基盤としていましたが、その後その勢力を中央(朝廷)に伸ばすようになります。これが「伊勢平氏」です。今、大河ドラマで話題になっている平清盛は、この伊勢平氏の流れをくんだ武将で、その後大きな権力を手にするようになったことから、その一族は「平氏」ではなく、「平家」と呼ばれるようになりました。

さて、伊豆土着の北条氏の先祖は、坂東で勢力をつけた平氏がここへ流れてきたもので、坂東平氏になります。関東土着の武家平氏には、北条氏以外にも「坂東八平氏」と呼ばれ、同じ高望流の流れをくむ8つの武家集団がありました。しかし、北条氏やこれらの東国の武家平氏は当初は力が弱く、源氏一門や藤原氏一門に恭順して家臣となるか、あるいは抵抗して追討されるなどして、なかなか勢力を伸ばすことができませんでした。

その平氏の北条氏が、その後、源氏の嫡男、源頼朝にくみして源氏政権の成立に力を貸すようになるというのは、皮肉な結果です。ただ、北条家は鎌倉幕府が成立後、頼朝が死ぬとその子らを次々と葬り、自らは執権となって君臨していますから、鎌倉幕府はいわば平氏によって乗っ取られたわけです。

ところが、その平氏に牛耳られた政権を奪還したのは、新田義貞や足利尊氏などの源氏であり、さらにその後の江戸幕府を開いたのも自らを源氏と称する徳川家です。このことから、東国は代々源氏が治めてきたという印象が強く、平家が勢力を伸ばした関西と比較して、平氏の関西、源氏の関東、とはよくいわれることです。

さて、北条氏が、桓武平氏・平貞盛の流れを汲む坂東平氏の流れをくむ武士団であったということまではわかりました。

しかし、時政の父、時方がどんな人物であったかは、あまりよくわかっておらず、北条氏の歴史については、時政を始祖として始めるしかないようです。

どんな人物だったのか。それについては、明日以降、詳しくみていこうと思います。

茶々丸 2 ~旧長岡町(伊豆の国市)

昨日は暑かったですね。山の上の我が家ですら、日中の最高気温は30度を超えました。さすがに山を下ってどこかへ行く気にもなれず、日がな先日行った韮山の歴史探訪の写真などを整理していました。

それにしてもこの上天気。九州地方では大雨が降っているというのに何なのでしょう。夕方までには空の雲がすっかり取り払われ、富士山の上には笠雲がかかっています。夜空を見上げると、澄み切った空気の中、満天の星も見えました。

気象庁の発表はまだないようですが、おそらく…… 梅雨は明けたのでしょう。

さて、昨日の続きです。
昨日は、足利政知が、鎌倉公方になるべく、京都から鎌倉に向かう途中、伊豆に足止めを食ったところまでを書きました。鎌倉府で争っていた公方の足利成氏と管領の上杉方が和睦してしまったため、新公方として、鎌倉に入ることもできず、結局、そのまま伊豆にとどまることになったのです。

政知は、結局は伊豆一国のみを支配する代官としてその一生を終えることになるのですが、側室との間に茶々丸という一子を設けます。そして、正室として円の満院という人を妻にし、潤童子(じゅんどうじ)と清晃という二人の子をもうけます。

政知は、当初、茶々丸を嫡男にしようとしていました。ところが、足利家の執事の上杉政憲という人は、政知を諌め、茶々丸の廃嫡をするよう強く求めましたが聞き入れられず、自害させられたといいます。当主から嫡男にすると指定されていたのにもかかわらず、その一家の執事からも愛想をつかされたわけです。このことからも、茶々丸という人がどんな性格だったのかわかるような気がします。

この茶々丸、大きくなるにつれて、粗暴な行為が目につくようになったといいます。どの程度の悪童だったのかは、よくわかりませんが、あまりにも素行不良、ということで政知の命により土牢に軟禁されています。自分の子を牢に入れるほどですから、もしかしたら家来の誰かをあやめたり、けがをさせたりするような、とんでもないことをやったに違いありません。

長じてからもどんどん粗暴になっていく茶々丸をみて、ついに政知は、茶々丸に跡を継がすのをあきらめ、異母弟の、潤童子を跡継ぎにしようとします。一説には、潤童子のお母さんの円満院が政知に讒言したためであるともいいますが、円満院にすれば、継子よりも実子のほうがかわいかったのでしょう。いずれにせよ、お父さんにもお母さんにも嫌われてしまった茶々丸。どのくらい閉じ込められていたのか記録には残っていないようですが、その後も悶々と牢屋の中でその青春期を過ごします。

ところが、政知はその後継者をはっきりと指名しないまま、1491年に病を得て、死んでしまいます。足利家という名門に生まれ、公方にしてやると幕府から言われて鎌倉まで来たものの、とうとう鎌倉に入ることもできず、その昔は流罪地であった伊豆という辺境地で死に瀕したとき、どんな思いだったでしょうか。

政知が死んだあと、継母の円満院は、より一層茶々丸を虐待したといいます。粗暴な性格だったからということで、しょうがないといえば、しょうがないのですが、どんなひどいいじめをしていたものやら。おそらく食事や衣服も満足に与えず、たまに牢の外に出してやるといったこともせず、といった具合だったのでしょう。ついに、茶々丸はそのいじめに耐えかね、ある夜、牢番を殺して脱獄します。

そして、その足で、その頃、堀越公方に就任することに決まっていた弟の、潤童子と円満院が住む館へ行き、二人を惨殺するという暴挙に出るのです。

ここのところ、すごいと思うのは、牢番に続いて継母とはいえ、お母さんと血のつながった弟を殺している点です。どんな殺害のしかたをしたのかわかりませんが、血なまぐさい殺人鬼の臭いがします。

とはいえ、茶々丸の側からみれば、自分を牢屋に入れて苦しめた父が死に、ようやくチャンスが巡ってきたと思ったところへ、今度は継母から虐待され、一生を牢屋で過ごすのかと、絶望的な気持ちになっていたことでしょう。いじめられた仕返しができるだけでなく、うまくいけば公方になることができる。そのためには、たとえ血がつながっているとはいえ、弟でさえその憎き母親と一緒に殺してしまえばいい、そう思ったに違いありません。

こうして、茶々丸は思い通りに事を運び、周囲も名門足利家の血をひく茶々丸を冠に頂くことをあえて拒まなかったためか、すんなりと堀越公方に就任します。それまでの人生をリセットし、伊豆の主としての新しい人生をスタートさせたのです。ところが、こういう悪いヤツには、結局は悪い運しかめぐってこないもの。因果応報というヤツです。

そのころ、新興勢力である茶々丸をリーダーとしてその下に付いた部下たちの中には、茶々丸を祭り上げ、古い勢力である代々の家老や重臣を追い落とすことで、御所内の主導権を握ろうとする勢力がありました。そして茶々丸の耳に、彼らの悪口をあることないこと入れ始めるのです。

これを信じた茶々丸。若くして公方になったのですから、もともと判断能力はなく、周囲の大人たちの讒言を聞いてもそれが真実でないと看破できなかったのでしょう。その提案をすんなりと受け入れ、さっそく筆頭家老で韮山城主だった、秋山新蔵人などの重臣を次々と誅するなど、古い勢力の粛清をはじめます。

本人はこれで伊豆は自分のものになる、と思ったでしょうが、やはりこういう悪政は続かないもの。それまで家を盛り立てていた忠臣をことごとく殺してしまった結果、堀越御所の運営はすぐに立ち行かなくなります。そして旧臣たちの支持を失い、茶々丸の配下の新興勢力との間で争いが起き、伊豆国内はあちこちで内紛がおこるようになります。

ちょうどそのころのこと。時の関東管領で、事実上の最高実力者、「細川政元」が突然、10代将軍義材(後に義稙)を追放してしまいます。世にいう、明応の政変です(1493年)。

関東管領として、こうした伊豆の情勢を把握していた細川政元は、政知のもうひとりの息子、そう、あの茶々丸に殺された潤童子の下の弟、清晃を室町将軍に擁立しようと画策します。清晃は、「せいこう」と読むのでしょうか、その昔政知が、茶々丸を嫡男として指名したときに出家して、京都の天龍寺香厳院というお寺を継いでいました。

茶々丸により母と兄が惨殺されたのを聞いて、苦々しく思っていた清晃ですから、時の実力者、細川政元の提案を喜んで受け入れ、還俗して将軍の座に就き、足利義遐(よしとお)を名乗る(後に義澄・よしずみ)ようになります。こうして、権力の座についた、義遐に母と兄を殺した茶々丸を討つチャンスが巡ってくるのです。

そして、その敵討ちを、そのころ、今川家の有力武将になっていた、北条早雲へ命じる、という形をとります。伊豆の国への進出を狙っていた早雲にとっては、願ってもないチャンス。公に伊豆へ侵攻するとための、大義名分を得たわけで、早速この命を受けます。このころ、北条早雲は駿府の今川氏の配下にある有能な武将であり、今川家の内紛を自ら治めて興国寺城主(現沼津市)となっていました。

そして、伊豆韮山の堀越御所の主である、茶々丸への攻撃を開始します。1493年の秋、興国寺城を拠点として北条早雲が、伊豆に攻め入ると、伊豆各地の武士たちはむしろこれを歓迎します。そのころはもう伊豆の国の諸将は、茶々丸のことを、新将軍・義澄の母(円満院)を殺した反逆者であると見なしており、茶々丸に組みするよりも新将軍方に付いたほうが得、と思ったのでしょう。茶々丸の配下の中でも、歴代の忠臣を殺してきた茶々丸に人望はなく、そうした配下を引き連れて臨んだ北条早雲との戦いでは、敗戦に次ぎ敗戦を重ねます。

そして、韮山の守山に築いてあった城に籠城するものの、北条勢に攻めたてられ、城はあえなく陥落。その炎の仲、とうとう自刃して果てた、と言われています。前述したとおり、実際に、願成就院のお堂の背後に茶々丸の墓とされる石塔があるので、本当にここで落命した、というのが長い間の通説でした。

しかし、実際には、守山で死んだとされる1493年(1491年という説もある)よりもあとの、1495年に北条早雲によって伊豆国から追放され、鎌倉の上杉氏や甲斐の武田氏を頼って伊豆奪回を狙っていたらしい、ということが近年の研究で明らかとなりつつあるのだそうです。

結局のところ、それから5年もあとの、1498年に、北条早雲の追っ手につかまり、自害した、という説が最近発掘された新資料によって有力だと考えられているようで、その場所は甲斐国だったとも、伊豆の下田にあった深根城とも言われています。

さらに、「妙法寺記」という古文書では、堀越御所が陥落したという1493年から2年後の1495年に茶々丸が「島」へ落ち延び、やがて武蔵国に姿を見せ、さらに1496年には富士山へ参拝のため登山したと書いてあるとか。

「島」は伊豆大島なのか、また富士山に参拝したというのですが、それほど自由の身だったのかよくわかりません。それにしても、各地にこうした伝承を残していることから、守山での攻防戦ではからくも生き延び、他国で虎視眈々と挽回を狙っていた、というのはほんとうのような気がします。

死んだと思っていたのが実は生きながらえて別の国で死んだ、という話は、頼朝に攻め滅ぼされて死んだ源義経が実は大陸に渡って生き続けていた、という伝説をほうふつさせます。しかし、茶々丸の場合、生きていたこと自体が喜ばしいというかんじではなく、なにやらゾンビが復活した、というようなどうしても悪いイメージがわいてきてしまいます。

いずれにせよ、1498年までには茶々丸は亡くなっているようです。しかし、他国で死んだかもしれない茶々丸の墓が、なぜ伊豆にあるのか、しかも北条氏の氏寺の願成就院にあるのかはなぞです。

その墓のある願成就院は、北条早雲が伊豆へ乱入してきたときに全焼しているということです。しかし、本堂などは焼け落ちてしまったものの、墓所などは残っていたと考えられことから、かつて堀越御所で茶々丸に仕えた部下の誰かが、他国で死んだ茶々丸のお骨だけ持って帰り、それを御所近くのこのお寺の隅にひっそりと埋葬したのかもしれません。

戦乱の世が生んだ夜叉のような人物でしたが、彼がいたからこそ北条早雲によって関東統一がなされたのであり、北条早雲がいなければ関東はその後も長い間騒乱の渦に巻き込まれ続けていただろうことを思うと、けっしてその生が無駄だったとばかりもいえません。

いつの世のどんな人にも意味のない人生はない。今日も改めてそう思ってしまいました。