庭風水ことはじめ

先日の日曜日は、この別荘地の一年に一回の大掃除デーでした。この別荘地で「自治会」に加入している住民一同が広場に集合し、自治会長の朝礼のあと、それぞれの持ち場に散って、清掃を始めるのです。当別荘地には、「管理組合」と「自治会」の二つがあり、管理組合は温泉施設の管理や別荘地内の清掃なども行います。

お金を払ってやってもらっているので、本来、住民は清掃作業などする必要はないのですが、管理組合でできない部分もあるので、そこは住民がやろうということのようです。そのほか、住民同士のふれあいの場も必要だろうということで組織されたのがこの自治会。言ってみれば町内会のようなもの。管理組合が主だったところの清掃や伐採をやり、個人宅から出た伐採木や草は自治体の住民が共同で集めて、管理組合に渡す、というのがこの日の清掃作業。

我が家もふたりして、朝早くから起き、朝8時には別荘中央の広場に集合しました。ここで自治会長さんからの「訓令」を受けたあと、自分の地区の清掃作業に突入。といっても、普段から管理組合さんが結構きれいにしてくれているので、それほど地区内で大がかりの清掃をするところはなし。自宅のすぐ下を通っている側溝の掃除をしたら、公共の作業はもう終わりです。共同の仕事が終わったら、自宅から出た伐採ゴミも出してよい、ということでしたので、先日までに庭から出た大量の草木を表の道路まで出すことにしました。

先だってもブログに書いたように、我が家の庭はその昔、うっそうと木の生い茂る「森」状態だったらしく、そこに生えていた木の切り株があちこちにありました。リフォームをしてくださった大工のTさんの助けで大部分を捨てたのですが、その後も切り株除去の作業を続けたところ、両手で抱えても持ち上げられないような切り株が二つ。その切り株やほかの切り株を抜根するときに地中から掘り起こした根っこや、草刈りによって出た大量の草ゴミなどもあり、これらを庭から下の道路にまでおろすだけで小一時間かかったでしょうか。

そのおかげもあって、ようやく庭をゴミひとつ落ちていない状況にすることに成功。これでようやく庭木が植えられるような状態になりました。

あらためてきれいになった庭を眺めながら、ここへ来たときはもっとすごかったよなーと思い出していましたが、そうだ、昔の写真と比べてみよう、と早速現状の写真をとり、パソコンに残っていた、ここに初めて来た当時の写真を比べてみました。

すると・・・ すっ、すごい。なんだこの変化は。と自分でも思うほどの変わりよう。草がぼうぼうで生い茂り、小山状態だった庭が今や平地になり、すっかりさっぱり。よくここまで頑張ったなーと、自画自賛。これでようやく自分の庭になった、といい気分です。


ここに初めて来たころの庭 草ぼうぼうで小灌木だらけ


最近の庭 草も切り株も撤去して、さっぱりきれい

しかし喜んでばかりはいられません。せっかくきれいにしたのですから、新しい庭木を入れてさらにきれいにしたいところ。ということで、昨日、近くにあるホームセンターのいくつかで、我が家の庭に適した植木をさがしてくることにしました。

私にとって、庭づくりはこれが初めてではありません。ここへ来るまえの東京で持っていた戸建住宅にも広い庭があり、ここを開墾して庭造りにはげんだ経験があります。しかし、初めての庭づくりだったので、あの木も欲しい、この草も植えたい、で脈略なくいろいろな草木を植えた結果、和風なのか洋風なのか、はたまた畑なのか果樹園なのかわからないような庭になってしまいました。

あげくの果ては、手入れが面倒くさくなり、長い間放置状態。当然、木々は伸び放題になり、ジャングルのような状態となり、この家を売るときにはその伐採だけで大変な思いをしました。

なので、今度の庭では同じ轍をふまないように、と、できるだけ計画的にやろうと思っています。これまでの経験からいうと、おそらく庭造りで一番大事なのは、樹間と配置。樹木というものは、小さくても数年ですぐに大きくなるものなので、はじめは木と木の間が狭いと思っていても、あっというまに枝が伸びてその空間が狭まってしまいます。木々の性質を見極め、どの程度の大きさになるのかを考えつつ、大きいものは背後に、小さいものは前に植えていく、というのがセオリー。かつ、植える草木の季節変化による移ろいを考えつつ配置を決めていく・・・というのですが、わかっていてもこれがなかなか難しい。

十数年前に建設コンサルタントをしていた当時、あちこちの公園計画に携わったことがあるのですが、その当時にお付き合いのあった造園技師さんが、花を一年中、つぎから次へと咲かせていくのは、本当に難しい、とおっしゃっていました。プロですらそうなのですから、素人の我々にとってもやさしいわけはない技術です。

ところで、庭造りといえば、最近は「風水」の考え方を取り入れる人も多いと聞きます。私自身はまったくといっていいほど風水には興味はなかったのですが、東京で仕事が行き詰ったのも庭造りに失敗したからではないか、などと考えると今度の庭造りでも少しは考えておいたおいたほうがよいのかも、という気になってきました。

そこで、我が家の「なっちゃん文庫」で早速、風水関係の本を探してみることに。なっちゃん文庫というのは、タエさんのお母さんの名前、「夏代」さんにちなんでつけた名前。以前、このブログでも書いたかもしれませんが、タエさんのお母さんはスピリチュアルなことに大変興味を持っていた方で・・・というか「スピリチュアル学」という学問があったとしたら間違いなくその学問の先生がつとまるほど、スピリチュアルに造詣が深い人でした。

その夏代さんが残したスピリチュアル関係の書物が、我が家のリビングの壁一面を覆っているのですが、その数およそ1500冊。そういうものへのお金には糸目をつけない人だったので、かなりの高級本や希少本もあり、今これだけのものをそろえようとすると、総額はかなりのものになると思われます。 その内容はというと、霊的なことを扱ったものをはじめとして、占い、ヨガ、宗教、未確認飛行物体(UFO)、はたまた心霊医学に関するものまであり、スピリチュアルに関してはないものはない、といったところ。

その中からガーデニングの風水の本を探したところ、ありました、ありました。「Dr.コパの風水・開運ガーデニング」というのが。Dr.コパさんって、聞いたことがあるなーと思って著者略歴をみると、やはりテレビやラジオなどのマスコミで活躍中の風水専門家。一級建築士で工学博士でもある人だけに、かなり期待できそうです。

と、いってもここでその内容をすべて披露することはできないので、その中ですぐに役立ちそうなものだけを少しご紹介してみましょう。

まず、「八方位別ラッキー庭木」というもの。方位別に植えるとラッキーが訪れる、というもののようですが、それによると・・・

北: 庭の力を無駄にしないために、なるべく下のほうに生えている灌木(低木)がよい。もしくは、下草、色は白、ピンク、オレンジ、赤
西: 金運。お金は黄色を表すので、タチバナや夏みかん。なるべく背が高いほうがよいので、ヤマブキもOK。ピンクの桃も人間関係をアップするのでよい。
東: 東に赤い実があると、仕事運や事業運が上昇する。姫リンゴや柿など。花木ならば赤やブルーが咲くもの。
南: 才能アップの方角。一対の木を植えるとよい。紅白の梅とか、植木鉢でも花壇でも一対のもの。ただし、赤赤などの同じ色どうしは避ける。才能の月と言われる6月に実をつけるものが良い。グミやサクランボなどもよい。

・・・だそうです。このほか、「目的別開運ガーデニング術」というのもありました。

健康運: 1、5、9月に咲く花がよい。色は赤を中心に白、黄色。場所は東側の庭か、庭の中心から東側。
金運&不動産運: 2、6、8、11月に咲く花。お金と言えば黄色。白やブルーもよいが、より黄色い花が多いほうが良い。西側の庭。
恋愛運: 3、4、5、8、9月及び12月末に咲く花。ピンク、白、赤、黄色、ブルーの4~5色に咲く花。たとえばデージーやパンジー、クロッカス、スイートピー、ポピーとか。これらが東~東南~南側に咲き乱れれば恋愛運アップ。
仕事運: 3、7、10、11月に咲く花。赤とブルーの花が東の庭に咲くということなし。仕事で疲れ気味ならば、東北の鬼門の方向に白い花や赤い花や実をつけるものを植えるとよい。

このほか、この本をちらみして、なるほどな、と思うカ所がいくつかありました。たとえば「木は自分がはえたいところにはえている」というもの。

庭木は移してきているものがほとんどであるけれども、もしかしたらその木は自分の意に添わない場所に植えられていると感じているかもしれない、というのです。たとえば、北側に茂って風よけになるつもりで成長してきている木を移植して、南側に植え、必要もない日陰をつくるとか。西に植えることでツキを呼ぶ黄色い花を北側に植えるとか。花や木のパワーを生かすには、それにふさわしい場所選びが大切だとコパさんはいいます。

また、5000円で買ってきた1mほどの苗木が、2mになったとすると、その木の価値はもうその時点で2万円くらいになっているはず。庭造りは財産づくりのようなもの。時間と気を遣い、愛情をかけて育てれば自分の財産が増えることになる、とか。なるほど、なるほどです。

風水については、勉強を始めたばかりですが、なかなか面白いものではある。ちょうど庭造りを始めたばかりでもありますし、これを機会に金運も仕事運も健康運もアップさせたいところです。

恋愛運は? うーん。これはアップさせるといろいろ問題もあるかも。なので、そこそこにしておきましょう。でも「そこそこ」ってどのくらい?

蓮の杖 ~下田市

先日、下田にある下田公園へあじさい見物に出かけた際、公園内に「下岡蓮杖(しもおかれんじょう)」さんの銅像があるのをみつけました。日本人として一番最初に写真館を開いた人で、同じく幕末から明治にかけて活躍した写真家の上野彦馬とともに、日本における写真術の草分けといえる人物として有名です。

下田が生んだ偉人、ということで公園内に建てられたのでしょうが、この銅像、左手に四角いカメラを持って、誇らしげに下田の町の空を見上げている、というもの。そのお顔はというと、ちょっとうさんくさそう。右手には大きな杖を持っていますが、これは蓮の木?で作られたものだそうで、この愛用の蓮の杖をもとに、蓮杖という名前を号にしたとか。

写真をこよなく愛する私としては、我が国における近代写真術の開祖ともいえるこの人の名前を昔からよく聞いてはいました。しかしよくよく考えてみると、蓮杖さんの写真は見たことはあるけれども、実際にはどういう人だったのかよく知りませんでした。銅像のお顔をみると、何やら一癖も二癖もありそうな感じもあるので、もしかしたら面白いストーリーでもあるかもしれないと思い、自宅に帰ってからちょっと調べてみることにしました。

この蓮杖さん、幼名は桜田久野助といい、1823年(文政6年)に、下田の下級武士の家に生まれました。最初は画家を志して江戸に出て、幕府の御用絵師だった狩野派の狩野董川さんという人のところで修業。その後狩野菫園、菫古という名前で画壇デビューしているところをみると、一応、狩野派の絵師として認められるまで腕を上げたのだと思われます。

ところが、ある日、オランダ船のもたらした銀板写真を見て驚嘆し、以来、写真術を学ぼうと決心した・・・とネットで調べると、どこのサイトでもそう書いてある。どのくらいびっくりしたのやら。まあ確かに、江戸時代の人が、目の前にいる人や風景が寸分たがわず紙?の上に模写されたものを見たら、そりゃーびっくりするかも。

「写真を学ぼうと決心した」、というのですから、かなり固い決意だったらしいのですが、その後の彼の行動をみると、そのチャレンジ精神たるやなかなかすごいものがあります。写真を学ぶためには、そりゃーまず、外国人に近づくことだろうということで、その頃、数回にわたって横須賀の浦賀沖などの近海に来るようになっていたアメリカやロシアの船舶の外国人に接触を試みます。が、その当時は一庶民が外国人と接触するなんて実現できるわけもなく、なかなか目的を達することができません。

なんとか、外国人に接触しようとして思いついたのは、浦賀奉行所の雇われの砲台足軽になること。砲台の見張り番といったところでしょうか。役人ならば外国人に会うチャンスがあるだろうと思ったのでしょう。しかし、せっかく足軽にまでなったのに、その機会は得られないまま、むなしく時が過ぎていきます。ところが、ある日、故郷の静岡・下田のほうが、浦賀よりも先に開港された事を知ることになります。写真術を学びたいがために、横須賀にまで出たのに、逆に郷里の下田へ帰ったほうがより早く外国人と接触できるかもしれない、と思った蓮杖さん。すぐさま、下田に帰ります。

そして、どういうつてを頼ったのかわかりませんが、その当時、下田開港と同時に玉泉寺というお寺に設けられたアメリカ領事館に出入りする下っ端役人になることに成功。このことが、効を奏します。ちょうどそのころ、下田に次ぐ開港地として、横浜港の開港の談判のために来日した初代駐日領事のタウンゼント・ハリスの通訳、ヘンリー・ヒュースケンとの接触に成功するのです。

このハリスさん。1804年生まれということなので、下田が開港されたときには52歳。もともと学校の先生をしていたらしいのですが、それを辞めて貿易業をやるようになり、世界各国を渡り歩くようになります。東洋に興味を持ったのはそのころみたい。それまでの日本に来るまでの彼の半生も、なかなか波乱万丈の人生だったようで、それだけでも一ストーリー書けそうですが、今日はやめておきましょう。

さて、アメリカの圧力に屈して下田を開港した幕府ですが、もうこれ以上の開港はできれば避けたかったのでしょう。ハリスさんが江戸へ出府して、横浜などの開港を迫ろうとしているのを知り、これを阻止するため、なんとかハリスを篭絡しようとします。そこで、抜擢されたのが、下田の下町芸者のお吉という名の女性。いわゆる「唐人お吉」です。

「唐人お吉」というのは、昭和になってから作られた小説で、もともと恋人がいた芸者お吉が、いやいやながらハリスの元へ送られ・・・という悲恋もので、その後戯曲や映画にもなり、大ヒットしたのですが、実はこのお話は全くのでたらめ。でも実在の人物はいたらしく、本名は「斎藤きち」という人のようです。

幕府としては、このお吉を「侍女」としてハリスの元へ送り、色仕掛けでハリスをメロメロにしよう、という魂胆だったらしいのですが、ところがちょっと読みが甘かったみたい。幕府の意図を見抜いたハリスはかんかんになって怒り、お吉をすぐに解雇したそうです。ハリスさんは生涯独身だったそうで、結構生真面目な性格だったのでしょう。そこらへんが読めなかった幕府の役人もアホですが、まあ、考えてみれば国難に面しているときに、その程度のことしか思い浮かばなかった幕府がその後滅亡したのもあたりまえっちゃあ、あたりまえです。

さて、この斎藤きちさん。実は、下岡蓮杖さんとは幼なじみだったというのが、運命の面白いところ。きちさんが、ハリスさんのところにいたのはたぶんかなり短い時間だったと思われますが、アメリカ領事館に出入りするようになっていた蓮杖さんは、このきちさんの手助けもあって、ハリスの書記官兼通訳のヒュースケンと接触することに成功するのです。

ハリスが下田のアメリカ総領事になった1858年には、蓮杖さんはもう35歳。現在でもそうでしょうが、外国から来た新しい技術を学ぶにしては、その当時としてもかなりのオヤジだったはず。にもかかわらず、領事館にまでもぐりこみ、写真を学ぼうとしたその執念にはいやはや脱帽です。

それはともかく、ヒュースケンから、写真撮影の基礎を学び始めた蓮杖さんですが、しかし、このヒュー助さん。もとはといえば、オランダ語に通じているということだけでアメリカ政府に雇われた人だったため、実際のところ、写真に関してはズブのどしろうと。

せっかく写真術を学ぶ相手を見つけたと思った蓮杖さんですが、結局写真撮影に必要な薬品の種類や作り方などの詳しいことを知ることができず、せっかく見つけたと思った写真家への道は一時閉ざされてしまいます。

しかしそれでもあきらめきれなかったのでしょう。その後、つてを求めて今度は横浜へ出ます。下田が開港されてから2年後、横浜開港から1年たったころだと思われます。ちょうどそのころ、横浜には、アメリカのアマチュア写真家でジョン・ウィルソンという人がきていました。このウィルソンさん、1816年生まれといいますから、蓮杖さんよりも7つ年上。このころプロイセンという国から来ていた使節団の専用写真家として採用されて日本にきたみたい(プロイセンは、今のドイツの東側にあった国。現在はポーランドとロシアに併合されていて消滅)。

アマチュアではあるけれども、写真術も教えていたらしく、それなりの技術は持っていたと思われます。それが、どういうきっかけで蓮杖さんと知り合うことになったのか、よくわかりませんが、ウィルソンさんは、来日後に横浜にスタジオを設けていたらしい。なので、あれほど写真を学びたがっていた蓮杖さんのこと、そういう人が日本で写真館を開いたと聞いてすぐに、そこへ駆けつけたに違いありません。

そのウィルソンさんから、蓮杖さんが実際に写真術を教えてもらったのかどうかについても、何も史料が残っていないのでわかりませんが、このウィルソンさんが日本を離れるときに、彼が持っていたスタジオと写真機材の一式を蓮杖さんが譲ってもらっていたということがわかっています。なので、おそらくは機材を受け継ぐ前に、写真術についてもある程度は教えてもらったに違いありません。

こうして、ようやく写真という「道具」をに入れた蓮杖さん。以後、全財産を傾けて写真術習得との研究に没頭するようになります。それにしても、ウィルソンさんがよく高価なスタジオや写真機を蓮杖さんに譲ったなあと思うのですが、蓮杖さんが自分で描いた日本画をウィルソンさんに贈ったのと引き換えにもらったという話も残っています。日本画家として昔とった杵柄がおもいもしないところで役に立ったというわけ。何はともあれ、写真機材をようやく手に入れた蓮杖さん、さあやるぞ!と意気揚々だったに違いありません。

ところが、写真機とスタジオを手に入れることができたのは良かったものの、実際の撮影を続けていくためには、薬品が必要になります。ウィルソンさんから譲り受けた薬品は一定の分量しかなく、切らしてしまえば撮影そのものが出来なくなるわけです。元々絵師だった蓮杖さんに化学に関する知識などあるわけもなく、このため、写真家として独立するまでの間の薬品を独学で調合する必要に迫られます。

日々、あーでもないこーでもないと試行錯誤を繰り返し、時には有害な薬品のせいで体を壊したり、薬品調合に必要なものを購入するための借金が膨らんで夜逃げ寸前まで追い込まれたといいます。が、必死の努力がみのり、ついに薬品の調合に成功します。

そして、やがて明治維新に至る6年前の1862年(文久二年)か、その一つ前の年の1861年(文久元年)に今の横浜市中区野毛町というところで写真館を開業します。ここのところは、非常に微妙らしく、1861年末だったという説もあれば、1862年初頭からだという説もあるみたい。しかし、同じく日本発の写真家といわれる長崎の上野彦馬の写真館の開設は、1862年末といわれることから、日本発の「写真家」はどちらかはわかりませんが、日本発の「写真スタジオ」を開設したのは下岡蓮杖さんだったという説が有力視されているようです。

この写真館は、おそらくはこれを譲ってくれたウィルソンさんのスタジオだったと思われるのですが、それについてもまだ詳しい資料はみつかっていないみたい。

それにしても、この年、蓮杖さんは、38歳か39歳。当時の日本人の平均寿命は50歳程度だったといいますから、その年齢になっての開業は、周りからは、かなりの遅咲きの花と思われたことでしょう。明治維新のときには、蓮杖さんは45歳ですから、その当時の感覚としては、もう隠居をしてもよい年齢。その歳になって、オープンしたそのスタジオ、しかしその後、大繁盛するようになります。

この写真館を蓮杖さんは、「全楽堂」と名付けています。どういうつもりでつけたのかわかりませんが、「全て楽しい」というのは、その頃の蓮杖さんの気分を表しているようです。ようやく念願の写真術を会得し、自分の店を開けたのですから、きっとルンルン気分だったのでしょう。

とはいえ、この全楽堂、最初はまったく客足がなかったといいます。というのも、日本人にはもともと、人形などに魂が宿るとか、人に似せて作ったものには魂が入りやすいという考えがあります。写真というものが初めて世に出たとき、あまりにも実物とそっくりに映るので、きっと魂が抜かれているに違いない、という噂が広まったのです。現在では考えられないような迷信が信じられていたわけですが、この噂のせいもあって、自分から写真をとろうという人はほぼ皆無といった状況だったらしい。

しかし、アイデアマンだった蓮杖さん。こうした臆病な日本人を相手にするのではなく、
外国人のお客さんをターゲットにする作戦に打ってでます。おそらくはこの当時、外国人が経営する写真館もできていたと思われますが、それに対抗して、外国人に着物を着せたり、かつて絵師だった腕を生かして日本の景勝地の背景画を書いたり、外国人が好きな和服姿の日本女性の写真などを売り出すようになります。日本初のプロマイドです。これが当たって、やがてお店は大繁盛。そして開業から1年後には、横浜でも一番の繁華街である弁天通りに店を移転させるまでになります。

当初は日本人に恐れられていた写真ですが、幕府や各藩の高官や幕末の志士たちといった「有名人」の中に浸透していくにつれ、次第に庶民にも浸透していくようになります。

やがて明治維新になり、多くの日本人が普通に記念写真を撮るようになってから、全楽堂はさらに繁盛。蓮杖さんもようやく成功者の一人として数えられるようになります。

大金持ちになった蓮杖さん、明治2年(1869年)には土佐藩の高級役人、後藤象二郎に取り入り、土佐藩と共同出資で、東京横浜間を走る乗合馬車の会社「成駒屋」を始めます。この会社、開業当初は文明開化の産物として、とてもはやりますが、その後明治5年(1873年)に鉄道が開通したため、急速に業績を落とします。

同じく明治5年ごろ、今度は、外国人を相手に牛乳を販売しようと牛乳屋さんを始めますが、外国人にも日本人にも流行った写真と違って、日本人には生臭いと敬遠され、需要が伸びず廃業。この他にも石版印刷、コーヒー店、ビリヤード店など次々と新事業に手を出すがどれも営業不振に陥り、やがて写真屋として蓄えた莫大な財を失っていきます。

そして、明治9年(1876年)、蓮杖さん53歳のとき。写真においても新興の写真家や技術の発展について行けなくなったためか、ついに写真館も閉鎖。写真屋さんを廃業してしまいます。

そして、16年間も住んだ横浜をあとにして、東京・浅草に移り住みます。

浅草に引っ越した蓮杖さん。それでもまだまだ新しいことにチャレンジしたかったのか、「油絵茶屋」なるものを開きます。この油絵茶屋、ようするに油絵を見世物として展示するいわゆる美術館のようなもの。今でこそ展覧会の場と言えば博物館なり美術館がたくさんありますが、当時はまだそうした施設もありません。ようするに小屋です。小さな茶屋をつくり、その中で油絵を並べて見せ、お客からお金をいただくというしくみ。

油絵制作はおろか、まだ「美術」という言葉も珍しかった時代にこんなものをオープンさせるところは、さすがの新し物好きです。とはいえ、蓮杖さんが始祖というわけではなく、「西洋画工」を名乗る画家の五姓田芳柳・義松さんという親子が、浅草ではじめたものを、もともと絵師だった蓮杖さんがみて、こりゃあいい、ということで始めたようです。

このとき蓮杖さんはもう50歳なかばを超えていたはず。すごいバイタリティーです。このほかにも、電車や蒸気機関車の模型を作ったり、アドバルーンをあげたりして常に時代の最先端を走り続受けようとした蓮杖さんですが、その後、また再び写真術のほうに専念するようになり、晩年には、写真館の背景画を専門に書くなどしていたそうです。

晩年の蓮杖さんのことはあまり資料に残っていないようですが、かつての栄光が嘘のような零落した生活をしていたようだという話も残っているようです。

そして、大正3年に92歳で他界。波乱万丈の生涯に終止符を打ちました。いやはや、これだけいろんなことをやって死んでいったのですから、その生涯に悔いはなかったでしょう。

しかし、この蓮杖さん、死ぬまで独身だったのかしら?といろいろ調べてみたのですが、私が調べた限りでは結婚していたというふうはなさそうです。一生涯であれだけいろんなことに手を出した人ですから、お嫁さんがいたとしたら、そりゃあその気苦労は大変だったでしょう。自分がやりたいことだけをやる、というエゴイストと一緒になろうという奇特な女性はいなかったと推定。

なーんてことを書いて実際にはお嫁さんがいらっしゃったとすると大変失礼なことです。蓮杖さんゴメンなさい。しかし、それにしてもこれだけの変人ですから、もしお嫁さんがいたとしたら、そのお嫁さんもかなりの変人だったかも。ウチと同じ???

それにしてもよかった、私もいろいろやりたいタイプですが、こんなところへ来てくれる嫁がいて。・・・と一応のフォローをしつつ、今日の項はこれまで。

今日はこれから梅雨の晴れ間になるようです。お出かけしようかな。

伊那と伊豆

沖縄の梅雨がそろそろ明けそうとのことです。今年もまた、日本列島の南から暑い夏が北上してくるのでしょう。

去年の今頃は何をしていたかな、と自分で書いたブログを見返してみると、このころは、長野の伊那の物件をほぼ決めかけていた時期のようです。その後、霊能者のSさんのアドバイスもあって、物件探しを東京から南西方向に転向。静岡方面を探し始めたのが去年の今ごろだったかと思います。

あれから、一年・・・ 早いものです。あの伊那の家にもし住んでいたらどうなっていたかしら・・・と考えてみるのですが、どうもイメージがよく沸きません。が、こことの違いはなんだろう、と考えてみました。すると、いろいろありそうです。

まず立地。東京からの距離を考えると、クルマを使ったとして、ここは東京まで2時間半ほど。横浜までなら2時間で行けます。三島までなら30分で行け、そこからなら、新幹線が使えます。一方、伊那の場合、中央高速を使ったとしても4時間はかかる。ただし、名古屋や豊橋のほうが近いので、そちらへ出るなら伊豆から東京へ出るのと同じ程度。しかし、新幹線を使おうと思うと、2時間かけて名古屋へ出る必要がある。ただし、在来線はかなり本数が少なく、三島からならかなり本数の多い東海道線が使える伊豆のほうが便利です。

トータルでみると、クルマでの移動と鉄道の利用に関しては、伊豆のほうがかなり有利なようです。伊那は、将来的にはリニア新幹線が通る可能性もありますが、我々が生きているうちに実現するかどうか。伊豆の場合、最近できた第二東名も使えるようになったことも、大きなアドバンテージです。

空港は伊豆の場合、羽田空港までやはい2時間半程度。静岡空港なら2時間で行けます。伊那の場合、中部空港まで2時間半程度。松本空港まで1時間というところでしょうか。これに関してはどっこいどっこいかな。

次いで、利便性。ここ修善寺の隣には大仁という比較的大きな町があり、たいがいのものは手に入ります。30分ほどで沼津、三島へ行くことができ、小さいながらも沼津にはデパートが、三島にはかなり大きなショッピングセンターがある。伊那の場合、飯田まで30分。諏訪まで1時間。両方ともそこそこの町ですし、日常必要なもので手にはいらないものはたぶんないでしょう。が、デパートはなかったかな。

総合的にみると、伊豆も伊那も、利便性ということに関しては、それほど大きな違いはないと思います。強いていえば好みと、選択肢の多さかな。30分から1時間ほどで行ける町のなかでは、沼津の商店街は古くて陰気なかんじがするのであまり好きではありませんが、三島や伊東は古い町ではあるが、風情があります。もう少し足を延ばせば清水や静岡市内へも行けます。

一方の伊那。諏訪は買い物に出かけるには、いつ訪れてもきれいで気持ちのいい町ですが、飯田の町はなんだか古めかしくて暗いかんじがします。新しいお店もたくさんあるようでしたが、古さと新しさのバランスがとれていないかんじ。この二都市以外にはあまり大きな町がなく、お買いものに関してはバリエーションが少ないというのは、マイナス点です。

気候や自然。これはまだ、伊豆に住み始めて数か月で論じるべきではないかもしれませんが、我々が気にしていた涼しさという点では、伊那のほうに軍配が上がるのでしょう。が、逆に冬の厳しさは想像にかたくない。光熱費もかさみそうです。自然の豊かさについては、どちらもそりゃあいいに決まっています。伊豆には富士、伊那にはアルプスがある。

が、海が近い、という点では伊豆は最高です。いつでも好きなときに行ける。伊那の場合、海というと、どこになるのでしょう。知多半島でしょうか、それとも浜松になるのでしょうか。いずれにせよ、海までは遠い道のりになります。

防災上の観点。これは伊豆の負けでしょうか。地震は多そうですし、富士山の噴火の可能性がないわけではない。台風の通り道になることも多いようです。伊那はどうでしょう。地震がまったくないというわけではないようですが、少ないようですね。台風だってめったにこないらしい。

人。これはよくわかりません。が、昔沼津に住んでいた経験からすると、静岡の人はあまりよそ者に対しての偏見がありません。誰とでも分け隔てなく接することができる県民性という気がします。方や長野県民は、多少排他的なところがある、と聞いたことがあります。実際に住んだことがあるわけではないので確かめようがありませんが。

食べ物。これもどっちがどっちとは言えません。長野には長野のおいしいものがあるでしょう。が、長野と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、くだものとそばかな~。酒もおいしそうです。伊豆もそばがおいしいところですが、酒は寒いところのほうがおいしいものができる、と聞いたことがあるので、おそらくは長野のほうに軍配があがるのでしょう。伊豆はみかんなどの柑橘系は強いですね。あちこちでかなり安く、しかも一年中手に入ります。

伊豆にあって長野にないものといえば、やはり魚でしょう。海がある県とない県では、その差は歴然。しかし、わざわざ自分で釣りに行くのでなければ、長野だって名古屋方面からの魚の入荷はあるでしょう。伊那でためしに入ったみたスーパーでも豊富な魚介類がありました。

結論です。やはりどっちがいいとか悪いとかは決められません。交通の便や利便性の面では多少なりとも東京や横浜に近い伊豆のほうに軍配があがると思いますが、震災の心配があることは否めません。気候に関しても、住めば都、といったふうで、住んでいるうちに慣れてくるもの。厳しい寒さも、長年慣れ親しめば、好きになっていくのかもしれません。

人もその地方それぞれの気質の違いというものがあるかもしれませんが、やはり住んでみたところの隣近所の人間関係で決まってくるもの。一概に違いは論じられないと思います。食べ物に関しても同じ。その場所に住めば、その風土にあったものを口にするようになるし、それが長年にわたれば、きらいなものも好きに転じていくものなのでしょう。

伊那と伊豆。今にして思えば、上の一文字が同じというのも、何かのご縁だったのかも。今回はたまたま伊豆になりましたが、遠い将来、もしかしたらまた伊那にもご縁ができるのかもしれません。今日たまたま伊那のことを思い出したのもそのご縁からかも。考えてみると、良いところでした。山がきれいだし、水も豊か。食べ物も私好みのものがありそうでした。いずれまたチャンスがあれば、あそこにもう一軒別荘があってもいいかな・・・

が、まだまだそれまでには時間がかかりそうです。伊豆の暮らしでさえ、まだまだ始まったばかりなのですから。

マンダラ

台風4号の通過でほっとしていたら、今度は台風5号くずれの低気圧が通過していき、伊豆では、昨日の夜から今朝がたまで、強い雨と風に見舞われていました。今、ようやく雨がやみ、少し日が射してきているところをみると、午後からは少しは外出できるような天気になるのでしょう。

先日、なにげなくテレビをみていたら、「南方曼荼羅」なるものが紹介されていました。和歌山県が生んだ大博物学者の南方熊楠が知人への書簡の中で描いたものだそうで、なんでもその当時、熊楠は科学と仏教を融合させる方法を研究していたとのこと。「我が国特有の天然風景は、我が国の曼荼羅ならん」という言葉も残していて、この曼荼羅は、それを現したものだそうです。

このマンダラについては、いろいろな解釈があるようですが、その私が見ていたテレビでは、生物のゲノム研究などの大家で、「生命誌」なる言葉を生み出した、JTの生命誌研究館館長の中村桂子さんがインタビューに応じ、このマンダラを次のように解釈している旨、説明されていました。

「自然は時間とのつながりでできている。宇宙も人間も時間が生み出したものであって、つながりのないものはない。このマンダラは、この世界と時間とのつながりを表現しているものである。」

この世にあるものは、すべて時間の経過とのつながりでできている、ということのようで、うーむ、なかなか奥が深いわい。と、その時は思ったものの、わかったようなわからんような説明なので、この中村さんってどんな研究をされているのかを少し調べてみました。

すると、中村さんたちがやっている研究は、大きく分けて二つあって、一つは、生物や植物のゲノムを解読し、進化の跡を追うことだそうです。例えれば動植物の体に関する大百科事典を編纂していくようなもの。もう一つは、このゲノムを基に、生き物の発生や再生などの過程を観察すること。たとえば、たった一つの細胞である受精卵からチョウができ上がっていく過程や、でき上がったチョウが舞うメカニズムを研究することがそれにあたるようです。

こうした研究をしていくと、生物のゲノムに閉じこめられた「時間」、すなわちその進化の過程が解きほぐされてくるそうで、それをもとにひとつの生物の「系統図」を描くことができる。そして、この世に生きている生命の中に流れた時間と、あらゆる生き物の関係を調べ、その結果を織り込んでいけば、それは、ひとつの曼荼羅になるはずである・・・

ようするに、生命の中に流れた時間とあらゆる生き物の関係を織り込んだ、生き物の曼荼羅が南方曼荼羅そのものだ、という解釈のようです。

なるほど、曼荼羅というと、単にお釈迦様が真ん中にいて、その弟子たちがその周りを囲んでいるごちゃごちゃした絵だ、というふうに思っていましたが、それを自然界の法則に置き換え、時間との関係で論じる・・・この世に存在するものはすべてつながっていて、それが存在するためには時間という要素が欠かせないんだーと理解すると、なるほどそういう考え方も面白い。

でも、それって、ようするにいわゆる四次元空間の話だよなー、と考えていると、なんだか頭がこんがらがってきそうなので、この話はとりあえずやめにします。

ところで、この熊楠先生は、実は大変霊感のある人だったらしく、生前、幽体離脱を経験したり、何度も幽霊をみたりしたことがあるそうです。研究のために那智の山に入ったときに何度も幽霊を見るようになったそうですが、普通の人なら怖がって山を降りるところ、彼は幽霊を観察し、研究・分類するということをやったらしい。本物の幽霊と幻覚の違いの研究までしたそうですが、しまいには、幻覚なのか本当のものなのかがわからなったらしく、死の直前、自分の正気を疑い、「死んだら、脳を調べてほしい」と遺言して亡くなったとのこと。

その死の直前にも、天井に紫色の花がたくさん咲いているのが見えたそうで、そのことを熊楠さんの娘さんが手記で書き残しています。

「こうして目を閉じていると、天井一面に綺麗な紫の花が咲いていて、からだも軽くなり、実にいい気持ちなのに、医師が来て腕がチクリとすると、忽ち折角咲いた花がみんな消え失せてしまう。どうか天井の花を、いつまでも消さないように、医師を呼ばないでおくれ。」(南方熊楠記念館HPブログより抜粋)

と、これを読む限りでは、亡くなる前の幻覚のようにも思えますが、もしかしたら、死後の世界での花畑が天井に見えていたのかもしれません。

熊楠さんは、紫色の花が好きだったそうで、庭の草花も紫色が多かったとのこと。私も実は紫色の花が好きで、あじさいは無論のこと、今度新しくつくる庭には、紫色のバラや桔梗をたくさん植えようと思っています。そういえば、先だって訪れた下田のペリーロード奥にある了仙寺には、紫色のアメリカジャスミンが咲いていましたっけ。

こうした紫の花ばかりを集め、四季折々に紫の花の咲く庭園、というのも面白いかも。そこに集まってくる虫たちや鳥たちを撮影できるのも楽しみです。そこは、きっと我が家の小さな曼荼羅になるはず。しかも紫いろの。

もうじき夏。紫色は涼しげで暑さを忘れさせてくれそうです。あっそうそう、紫色の朝顔も植えなくては。

伊豆へ来てから、空を見上げる機会が増えました。この場所が高台だということもありますが、窓を開けると晴れていても、曇っていてもどこまでも高い空を見ることができます。ときおり、夜になって外に出ると、そこには満天の星が広がり、その空が更に高いことを知ることができます。。

「智恵子は東京に空がないといふ、ほんとの空がみたいといふ。」
これは、彫刻家、高村光太郎の有名な詩集、「智恵子抄」の一節です。現在の福島県の二本松市に生まれ育った智恵子さんは、画家を志ざし東京に出ますが、光太郎さんと結婚したのをきっかけに画家の道に進むのをあきらめます。やがて40代後半から精神をやみ、やがて精神分裂症と診断されて入院。その後8年ほど経った昭和13年に52歳で亡くなっています。

精神病を発する前からの智恵子さんとの生活から始まり、発病、死に至るまでの出来事を哀切にうたったこの詩集にはなぜか惹かれるものがあり、高校時代に文庫版を手に入れてからは、ときおり取り出しては眺める、お気に入りの詩集のひとつでもありました。

大学を出て、就職のため、東京へ初めて出たときに、この「東京に空がないといふ」というフレーズを思い出し、なるほど、確かに東京には空が少ない・・・と思ったものです。私が東京へ出たのは昭和56年のことで、このころはまだ新宿副都心の高層ビル群などもなく、東京の空も今に比べるともう少し広かったのではないかと思います。今は、新宿だけでなく、東京都内のどこへ行っても高層ビルが立ち並び、さらに一層、京の空がせばまったかんじがします。

高層ビルなどほとんどない昭和の初めですら、「空がない」と思ったぐらいですから、智恵子さんが生きていて今の東京の空をみたら、どう思うでしょうか。

しかし、東京もビルの下を歩いていては空は見えませんが、ひとたび高いビルの上に上がると、そこには高く広がる空を見ることができます。最近できたスカイツリーには、予約がいっぱいだし、入場料も高くて、当分上がれそうもありませんが、東京都庁や、新宿の高層ビル群のどれかに登れば、タダでいつも高い空を見ることができる。

いや、高い空だけでなく、ずーっとはるか向こうの富士山や、丹沢と奥多摩、秩父の山々が見える。ときには海を見越して、横浜のランドマークタワーだってみることができるのです。こんなパノラマワールドをほんのちょっとの移動で見ることができる東京の人は幸せだと思います。

とはいえ、高所恐怖症の私は、足がすくんでしまうので、高いビルの上で窓の近くに寄るのが苦手です。どちらかといえばあまり、近づきたいとは思わない場所。それに、地震が来ると、そういう場所は大きく揺れることもあり、それが嫌いで、高所といえば、せいぜい5階くらいが限度。

結局のところ、東京に住んでいたころは、高い空をみたければ行けるところはあるのに、そうした場所へ頻繁に行くことはなく、地面を這う虫のごとく、平地を平地を、ということでひたすら地面に近いところを移動するのでした。

とはいいながら、東京では移動するためには電車に乗らなくてはいけません。ところが、東京で平面移動するためには、たいがい地下鉄に乗らなくてはならず、高台に登るどころか、逆に地下深くにもぐらなければなりません。昔できた銀座線や日比谷線なら、地下1~2階程度地下にもぐればいいのですが、最近できたばかりの南北線などは、あれは、いったいどのくらい深いところを走っているものなのでしょうか。エスカレーターで下っても下ってもホームに着かない。しまいには、もしかしたら入口を間違えたのかもしれない、と思うこともあるくらいです。

地下鉄のホームに着いたら着いたで新たな試練が待ち受けています。私は、高所恐怖症だけではなく、閉所恐怖症でもあるからです。低い天井に囲まれ、電車の進行方向と来た方向にしか視界がきかない地下鉄の狭いホームにいると、いつもなにか閉じ込められているような気がしたものです。もし、今地震なんかきたらどうなるんだろう、などと思うと、心拍数が一気に上がるような気さえします。銀座線のホームって、なんであんなに天井が低いの?

もっとも、東京では地震が来たときには、地上よりも地下鉄のホームなどのほうがより安全なのだそうです。最近は、耐震補強も進んでいるので地下のホームが崩れ落ちるというような心配はほとんどなく、がっしりした壁構造がその中にいる人たちを安全に守ってくれるとか。むしろ地上のほうが、ビルや器物の倒壊、ガラスの散乱などによって危険きわまりない場所になる可能性が高いのだそうです。

しかし、火事になって、地下に煙が充満したらどうなるんかなー。ネズミと一緒に燻製にになるんかしら・・・

・・・と、どんどん話が発散していくのを止めることもできず、今日の話の落としどころはいったいなんだろうと、考えておりました。どうしましょう。ようするに、伊豆の空は東京の空よりも高い、というあたりまえのことなのですが、その空の高さをふつうにありがたい、と思っていてはいかん、ということなのでしょうか。

いえいえ、伊豆には伊豆の空の良さがあり、東京の空には東京の良さがある。それを比較する必要はない、ということなのでしょう。東京の空は確かに狭いけれども、仕事の合間に見える空、地下鉄のホームから地上に上がって見上げたときに見える空、それはそれで都会の中でホッとできる大事な空間。その大事な空間をもっと拡大したい人は、高層ビルやスカイツリーに登ってもっと大きな空を満喫すればいい。私のように高所恐怖症でなければですが・・・

そして、東京を離れ、伊豆へ来る機会があれば、ぜひその高さの違いを見比べてみてください。伊豆の空が東京の空よりも高いのはあたりまえ。そしてそれでいいんです。なぜなら、その空は東京の人がもっとホッとしてもらうために、大事に大事にとってある空なのですから。