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日と月

今週5月15日は、タエさんのお母さんのご命日でした。私にとっては、義母にあたるわけですが、残念ながら二人の結婚前に亡くなっており、写真でしかお顔を拝見したことがありません。ただ、大学時代に一度、タエさん宅にヤボ用があって電話をした際、彼女は不在でお母さんが出られました。その時の短い会話がお母さんと交わした最初で最後のものですが、タエさんの不在を教えていただいたあと、最後に、「また電話してやってねー」と優しくおっしゃっていただきました。そんな短いエピソードですが、30年ほども前のことだけに、覚えていること自体奇跡です。

15日の朝、前日からお泊りになっていたSさんご夫婦が広島へ向かって立たれましたが、その前にちょうどその日がご母堂の7年目のご命日だから、ということで、「七年祭」という神事をやってくださいました。タエさんによれば、神道では仏教と違い、6年目で7回忌の仏事をやるのではなく、まるまる7年で神事をやるのだとか。

神棚の前で、ご夫婦が用意してくださった、「み祭り」の言葉が書いてある紙をみながら、Sさんに従いながら4人でお祈りをとなえます。神道だけに昔ながらの古い日本語なのですが、素人にもわかりやすいようにひらがなにしてあったり、ふりがなが加えてあります。それでもすべての意味がわかるわけではありませんが、いろいろなお浄めの祈りや、さまざまな神様に対してのお礼と祈りを順番に述べていくのです。

お祈りは神棚の前にSさんがお座りになり、「神官」として、祭りをつかさどられますが、途中、祝主であるタエさんと家主である私も、それぞれ一度づつ神前に座ってみ祭りのことばをささげます。祈りの数は結構多く、全部でA4用紙3枚ほどもあります。今回のような七年忌のお祈りや、先祖を祭る祖霊祭、家を建てたときの上棟祭など、それぞれのお祭りごとにいろいろなものがあるようです。

30分ほどもかかったでしょうか、タエさんのお母様にささげる「七年祭」の神事が無事終わったあと、雑談になりましたが、その中で、み祭りをささげた神様のお話になり、その中で、とくにタエさんが祈りをささげた「月の神」の話になりました。

一人でみ祭りをとなえる際、タエさんには「月の神」様へのみ祭りのことばをささげるように指示されたのですが、なぜ月の神だったのか、とタエさんがお聞きしたところ、Sさんのお答は、とくに月の神様へのお祈りをとくに大切にしているから、というものでした。

日本の神様は天照大神(アマテラスオオミカミ)をはじめとして、太陽にまつわる神様がほとんどで、月の神様は少ないのだとか。だから全体のバランスをとる上でも、月の神様をより崇めたほうが良いと考えていらっしゃるとのことで、今日のような七年祭などではとくに月神様への祈りを優先するということのようでした。

ちなみに、今月21日に金冠日食があるので、その神道的な意味合いを私が尋ねると、太陽と月がちょうど重なることで、世の中の運気?が中和されるという意味のことをおっしゃいました。そういえば、昔、日食が起こったあとには、天変地異やら事変やらが必ずといってもいいほど起こっていたということを、テレビの何かのバラエティー番組で紹介していました。300年くらい前の日食後では、日食の5日後に天皇が崩御されたとか。また別の日食のときには、直前に大地震があったそうです。一時的に宇宙のエネルギーのバランスが中和することで、その直後に人も地球もバランスを崩してしまい、天変地異を起こしたり、人の心を壊してしまうのかもしれません。

今回の日食も同じと考えると、日食が終わり、その直後に中和のバランスが崩れることで、何か天変地異でもあるんでしょうか? とSさんにお尋ねしましたが、とくに否定はされませんでした。と、いうことは ・・・!?

そしてこんなエピソードも話してくださいました。お二人が以前、愛知万博に行ったときのこと。三菱か東芝かはっきり覚えていないとのことでしたが、ある企業パビリオンで、天文に関するシミュレーション映像を流していたとのこと。お二人がちょうど見たのは、もしも、地球を周回する月がなかったら、という内容のものだったそうです。もし月がなかったら、地球はどうなるか? なんと、地球は8時間の周期で太陽の周り回ることになるそうで、そのため、地球上にはものすごい風が吹き荒れている環境になり、生物はまったく棲めないだろう、というのです。

それくらい、月は地球にとって必要なものなんですよ、とSさん。日と月を合わせて「明」という字ができますよね。太陽と月が一体だからこの世は明るいんです・・・・なるほどわかりやすいたとえです。ふだん何気なく中空にかかっている月を眺めている私たちですが、そこにそれがあることをありがたいと思って暮らすことこそが、月の神への祈りにつながるのかもしれません。

ところで、私がひとりでみ祭りのことばをささげる段では、そのお相手は四十八柱龍神(よとやはしらりゅうじん)様でした。Sさんにその理由を尋ねると、龍神は仕事の神様だからとのこと。以前私から、これから商売を本格化するつもりだというのを聞いていたので、私の段では龍神様にお祈りをささげるのが良いだろうと考えたとのことでした。

なぜ四十八なのか、と重ねてお聞きしたところ、そもそも、日本には48の言語があり、それぞれの言葉につき、一体の龍神様がいるとのことでした。すなわち、いろはにほへと・・・の48文字それぞれに対応する言語があり、それぞれのことばを龍神様が守っているんですよ、とおっしゃいます。そういえば、「いろは歌」という48文字の歌がありますが、あれもこれと何か関係あるのかな ? だから四十八龍神なんだー、と妙に納得。いずれにせよ、仕事をやっていくうえでは文字はどうしても必要なもの。そのことばを守っているそれぞれの龍神様への祈りをもって感謝をささげ、隆盛を願う気持ちを大切に保て、ということ・・・なのでしょう。

それにしても、タエさんのお母さんの7回忌にまるで合わせるようなSさんご夫婦の来訪。きっと、お母さんがそのようにしむけたんですよ~、とSさんの奥様がおっしゃいます。4人でそうだそうだ、と言い合ったそのとき。神棚の奥のほうで、「パキッ」というラップ音が。ラップ音がするのは、亡くなった方のたましいがやってきているとき、というのは定説です。あーやっぱり、お母さんがいらっしゃっていたんだー、と皆でうなずきあい、笑いあったのでした。

その笑いに答えるラップ音はさすがにもうしませんでしたが、お母さんのほうも、神棚の上のほうから我々を眺めて、笑っていらっしゃったに違いありません。

 南伊豆、爪木崎の水仙群落 お母さんが好きな花のひとつだったそうです

Sさんご夫婦がお帰りになるこの日は、あいにく大雨でしたが、このあと、9月に行う神事に適した場所を探したい、とのことで、伊豆の西海岸を何ヶ所か視察したあと、帰広する、とおっしゃり、お二人は去っていかれました。遠いところから来ていただいた上、いろいろなためになるお話をしていだだき、七年祭までしていただいて、感謝感謝です。

リビングの窓をみると、朝からそこにへばりついている一匹の蛾がまだそこにいます。タエさんによると、蝶々や蛾はお母さんのシンボルなんだとか。ここにいるよ、とメッセンジャーを寄こし、ご自分も我々と一緒に七年祭を楽しまれたに違いありません。

Sさんが去られたあとの我が家は二人とネコ一匹。テンちゃんには騒々しい一日だったに違いありませんが、我々二人は充実した一日を過ごして、すっきりした気持ち。外の庭をたたく雨の音が家の中に響き渡る中、二人はその一両日のことをそれぞれの思いでふりかえつつ、横でテンちゃんが丸くなって眠りにつくのを尻目に、残るその日を静かに過ごしたのでした。

今年はアセンションの年だそうです

来週月曜日には、天気が良ければここ伊豆でも金冠日食が見れるそうです。気の早いタエさんは、早速専用メガネを買い込んでいましたが、果たして見れるでしょうか。

ところで、前回のブログで書いた広島在住のSさんが、一昨日、奥様とご一緒に我が家に泊まりに来てくださいました。Sさんは、精神世界の研究では知る人ぞ知る有識者で、全国的にたくさんのフォロワーがいらっしゃり、「ユダヤ人大富豪の教え」の著者の本田健さんなどともご親交があります。

「精神世界」にもいろいろありますが、我が国古来の神事にもお詳しく、というよりも乞われれば先祖の霊を供養する祖霊祭(それいさい)などを行う神官もおやりになっていて、我が家も数年前にご先祖様の供養のお祭事をやっていただいたほか、伊豆の我が家の厄除けなどについてもご指導いだだきました。また、タエさん自身が島根の柿本人麻呂神社の代々の神職の家系ということもあり、我が家の神事では、何かにつけ、Sさんのお教えを受けることにしています。

今回のご訪問は、今取り組んでいらっしゃる全国的な「地震鎮め」のお祈りの場所をさがしていらっしゃっていて、その候補のひとつとして伊豆を選ばれたとのこと。先週までに大阪の淀川で地震鎮めの神事をされており、このあと愛媛の石鎚山とこの伊豆でも神事を行われる予定です。

東名の集中工事のおかげで、ご到着が4時間以上遅れたSさんご夫婦。夜8時ころにいらっしゃいましたが、少々お疲れのご様子も見えたので、少し雑談をさせたいただいたあとに、早速我が家自慢の温泉に入っていただきました。食事はすでにおすみになっていたようなので、入浴後も甘いものなどをつなみながら、4人でお話をさせていただきましたが、さすがにいろいろな活動をされている方だけに、面白いといってはなんですが、大変興味深いお話も聞かせていただきました。

そのひとつがやはり今取り組まれているという地震鎮めのお話。昨年は東日本大震災によって東北地方は大きなダメージがありましたが、今年2012年もまだまだ大きな地震や災害が起こる予兆があるとのことなのです。確かに今年は、年明け早々から寒波がひどく、3月に起こった新潟の大規模地滑りや先月の爆弾低気圧の通過、先週の竜巻など、小さくてもぶきみな災害が次々起こっています。新潟の地滑りは集落のあった場所の広範囲の表層が凍って、その下の解けだした水の上を滑り落ちるという、これまで考えられなかったような規模のもので、爆弾低気圧もこの季節としての発生は何かヘン。竜巻もしかり・・・最近取りざたされている富士山直下の断層亀裂による山体崩壊の報道も不気味です。

Sさんによれば、今年はいわゆる「アセンション」の年と重なっていることもあり、ことさらに今年後半に起こるかもしれない災害が気がかりということです。アセンションというのは、私もよく知らない単語だったので、ネットで調べてみると、上昇、即位、昇天を意味する英単語でascensionと書くようです。

太陽系はプレアデス星団の一番明るい星アルシオーネとかいう星を中心に銀河を回っているんだそうで、天文学的な裏付けはないようですが、約26,000年周期で銀河を回り、その際11,000年毎にフォトンベルトを通過するんだそうです。

フォトンベルト?とまた、わけのわからん用語が出てきたのでさらに調べてみると、これは、銀河系にあると言われている「高エネルギーフォトン」のドーナッツ状の帯???とかで、地球が次に完全突入するといわれる今年(2012年)の12月には、強力なフォトン(光子)によって、人類の遺伝子構造が変化し進化を引き起こす? のだとか ???

アセンションもフォトンベルトも科学的な根拠はないようで、ウィキペディアでも「誰が?」とか「誰によって?」とか結構つっこみが入っていました。

とかいっても、スピリチュアルな世界もそもそも科学的な根拠があるわけではなく、私としては、ふーんそうなんだーと、わりとすんなり、そういうこともあるのかもなーと思う次第。

それはともかく、こういうアセンションなどがある年などを境に「時代」は常に何等かの変化がおこしてきているんですよ、とSさん。何か別のアセンションがあったのかどうかはお聞きするのを忘れましたが、前回の大きな変化は、240年前の産業革命のあった年だとか。これまた、ネットで調べた受け売りによると、ある理論では、生き物が発生してからたどった進化の道のりのスピードは、螺旋(らせん)のパターンに従っているそうです。それは、我々の地球の46億年の歴史が、単純な生命体から多細胞生物へ変化したのをはじめに、→脊椎動物の発生→哺乳類の発生→人類の発生→ホモ・サピエンスの出現→農業革命に至ったホモ・サピエンスへの移行→産業革命→・・・と変化してきており、今年2012年は、その次の変化が起こる年で、その変化とは、「情報革命」だそうです。

そういえば、今年あたりを境に情報技術に大きな革新が起こる可能性がある、というのもどこかで読んだように思います。

アセンションの説明でかなり脱線してしまいましたが、ともかく、今年は大きな変化のある年、ということはいろいろな人が言っているようで、そうした年には大きな災害も起こりうるのかもしれません。

さらに、昨年の地震は、今年起こるかもしれない大きな災害の前兆ともとれる、とも。Sさんは、昨年の東日本大震災は起こる前からその発生をある程度予見されていたそうで、今年もかなり大きな災害が起こる可能性が高い、とは前回広島のご自宅にお伺いしたときもおっしゃっていました。

しかし、すべてが「悪いこと」ととらえるのではなく、災害が起こること自体は、大きな変化があったことだと考えるべきだともおっしゃいます。昨年の津波災害では、確かに大きな被害がでたものの、そもそも福島あたりを中心に東北ではかなり悪い「気」があり、地震と津波が起こることによってこの悪い「もの」が払しょくされたとみることができるそうです。

被災地の東北に何度も足を運ばれているSさん。別の地震や火災の現場にも何度も訪れているそうですが、この地では、そうした場所にありがちなネガティブな気を不思議と感じないそうです。逆にこの震災が起こったことによって、今後は東北は生まれ変わっていくと考えている、とSさん。悪いことを額面通り受け取るのではなく、明るいほうの面についてもよく考えてみよう、ということのようです。

今回の震災では、7割以上の人が高齢者だったそうですが、亡くなった方にはお気の毒なのですが、そうしたお年寄りが亡くなって犠牲になってくださったことで、古い形?何かが取り去られ、新しいものが生まれやすくなった、ともおっしゃいます。必ずしも古いもの=悪いもの、というわけではないでしょうが、、古かったり悪くなっている気を正し、新しいものを生み出すために災害が起きているという見方はちょっと新鮮でした。

阪神淡路大震災でも、彼の地にあったかなり悪い気がすべて取り去られ、現在の神戸は新しいエネルギーで満ちているそうです。Sさんは神戸生まれ。その方が「気の変化」を感じるとおっしゃるのですから、妙に説得力があります。

しかし、アセンションの年でもある今年、まだまだ災害は起こる可能性がある、ということ。Sさんは今年に入ってからもお弟子さんというか、有志の方々とご一緒に全国を回って地震を鎮めるための神事を行われているのです。

今年9月に伊豆で行われるというその神事にはぜひ参加したいと思いますが、それまでに大きな災害が起こらないことを祈りたいものです。

 戸田峠からみる駿河湾 今年は大きな地震がおこりませんように

伊豆は宗教のメッカ!?


5月も半ばになりますが、結構涼しい日が続きます。引っ越して最初の初夏を迎えるので、こんなものなのかな~と思っていたのですが、お隣の奥様によると、やはり今年は例年に比べていつまでも涼しいとのこと。昨日のサンデーモーニングの司会者、関口宏さんも同じようなことを言っていました。いったんしまいこんだ毛布を再び取り出して、使っているとのこと。

暑いのが嫌いな我々にとっては、涼しいのは大歓迎なのですが、問題はいつまでこの涼しさが続いてくれるのか・・・できればひと夏中涼しければと思うのですが、そういうわけにもいかんのでしょうねえ。

とはいえ、外の涼しさとはうらはらに、外の新緑はどんどん濃くなっていく一方です。窓からみえる富士山の雪もだいぶ解けてきています。伊豆へ来て、気が付いたことがあります。こちらから見える富士山は、南側の富士山。一方、ついこないだまで見えていた多摩地方の富士山は東側の富士山です。

あたりまえのことですが、南側は東側よりも日照時間が多いはずです。このため、富士山の雪の量は南側のほうがより少ない、と思います。なので、今伊豆から見えている富士山は地肌がかなり露出してきていますが、東京からの富士山はまだまだ雪の面積が多いのでは・・・ 以前、引っ越す前に、荷物の搬入のため、多摩地方と伊豆を何回も往復していましたが、その時は確かに南から見える富士のほうが、雪が少ないように思いました。インターネットで山中湖から見た富士山のライブ映像を確認してみましたが、確かに雪はこちらから見るより多いように思います。うーん、引っ越してきたことの実感・・・・・

ほかにも伊豆へ来た実感を感じさせるものがあります。それは、ツバメが多いこと。最近のニュースでは、最近全国的にツバメが減少しているとのことでしたが、それはカラスなどの外敵が増えているのが大きな理由のようです。確かに、この周辺にはカラスは少ないようで、あちこちの家の軒先にツバメが巣を作っているのが目立ちます。繁殖の季節だからというせいもあるかと思いますが、今、こうしてブログを更新している間にもツバメが何羽も飛び回り、チュチュチュチュという独特の声を町中に響かせにぎやかです。

伊豆は、東京や神奈川よりも、より南にあるため、というのも関係があるかもしれません。鳥の専門家ではないのではっきりしたことはわかりませんが、一年中通して温暖ということは、鳥だけでなくほかの動物にとっても過ごしやすい環境なのかもしれません。

伊豆半島の地質的な成り立ちも少し変わっているようです。その昔、南方から大陸地盤のかけらがやってきたが、沈み込めずに日本に衝突して伊豆半島になったと言われているとのこと。以前から、家内の祭事神事でいろいろお世話になっている、広島在住のSさん宅に以前お伺いしたときに、その成り立ちは、インドと同じだとおっしゃっていました。インドも同じく南側からユーラシア大陸にぶつかってできた地形だとのこと。だから・・・とSさん曰く、伊豆は全国の中で一番宗教法人の本部の数が多いんです・・・??? Sさんのご説明を解釈したところ、大陸に島がぶつかってできたような地形では、いろんなエネルギーが蓄積されやすく、スピリチュアル的にも非常に「気」が良い場所なのだとか。インドが仏教の発祥の地でもあるように、伊豆もいろんな宗教団体のメッカなのだそうです。

えー、そうなんだー、と目からウロコ。そういう目でこれまで見てこなかったけれども、そういわれてみれば、何かとお寺やら宗教法人の建物が多いような気もします・・・気のせいのような気もしますが・・・

達磨山高原から見る駿河湾越しの沼津  伊豆「島」が衝突したところ!?

それはともかく、そういう気の良いところに住んでいると言われるのは、「気分」もよいものです。温泉が出るところには、パワースポットが多いということもどこかで聞いたような気がします。そういえば、この家のリフォームをしてくださった大工さんも、ここへ住むようになってみちがえるように元気になったと言ってました。

まだ引っ越してきて2か月しかたっていないので、自分たちがどの程度元気になったのかは、はっきりよくわかりませんが、日ましに家の中外が片付くにつれ、生活実感がわくと同時に、土地の気が少しづつ体の中にみなぎってくるような今日この頃です。

前世はスパイ?

 伊豆西海岸・恋人岬からの眺め ちょっとハワイに似ています・・・

これから、毎日ブログを更新しようと思います。

・・・ウソです。でも、伊豆へ引っ越してきて、家のなかの片づけも進み、最近ようやく落ち着いて、何かいろいろやってみようという気分になってきています。ただ、毎日続けようとすると、長文はちょっと辛い・・・かな。なので、できるだけ、昔の出来事で思い出したことや、日常のことなどでも、ちょっと気になったこと、興味があることなどを、自分の負担にならない程度に気分次第で書いていこうかと思います。

さて、そのむかし、私はハワイにいたことがあります。ハワイ大学の学生としてホノルルに3年ちょっと滞在していました。なので、学校が休みの日には、50ccのバイクを飛ばしてはホノルルの町中だけでなく、オアフ島のあちこちを散策して回ったものです。なので、普通の観光客が行かないような名所もたくさん知っています。

それはさておき、その当時のわたしの一番のお気に入りの場所は、「パンチボール」と呼ばれる山の上。昔小さな火山だったそうで、頂上に近い一帯は第二次世界大戦で軍役で亡くなった方の墓地になっています。墓地の間の小道を抜けると小高い場所に展望台があり、そこからは太平洋はもちろん、ワイキキビーチやホノルルの町全体が見渡せます。その向こう、ホノルルの東の端にはダイヤモンドヘッドがそびえていて、そこからの眺めをさらに引き立てていますが、このダイヤモンドヘッドの頂上へ上る遊歩道も整備されています。

一般観光客が立ち入れますが、実はダイヤモンドヘッドは今もアメリカ軍の要衝地で麓には軍の施設があります。この施設を横目にみながら、汗をかいて頂上まで登ると、パンチボールの頂上からの眺めに勝るとも劣らない景色が広がります。その当時は、どちらの場所も、忙しい勉強の中で気持ちを安らげてくれる一番のお気に入りの場所でした。

考えてみれば、昔から高いところへ上るのが好きで、子供のころから、家の周囲に見える高い山や丘の頂はたいがい制覇していました。中学校に入るころからは、自転車を飛ばして自分が住む町以外の町にある山にまで登るようになり、頂上などの眺めの良いところに着いたら、そこから見える町や海をあきもせず1時間でも眺めているような少年でした。

高いところへ上るのだけでなく、街中を歩いたり、自転車に乗りまわすのも大好きで、小学校では2km離れた学校まで一人で歩いて通っていましたし、中学校も3kmほど離れた学校へ歩いて行っていました。自転車に乗っては、ひとりで、10キロも20キロも離れた海まで行き、夕日が沈むまでよく海を眺めていました。

高校になると、学校はさらに遠くなり、4km離れた公立高校に通うようになりました。さすがに両親もバスの通学定期を買ってくれましたが、人ごみの中が苦手な性分なので、込み入ったバスの中がいやになり、半年もたたないうちに、歩いて通うようになりました。自転車通学も認められていたはずですが、わざわざ歩いて通うようになったのには理由があります。

その当時の私がよく読んでいたのは、司馬遼太郎さんの小説と新田次郎さんの小説で、この当時本屋に出ていた二人の小説はほぼ全部読破していたかと思います。このうち、新田次郎さんの小説には山岳小説が多く、そのうちの一冊で「孤高の人」というのがあります。伝説的な登山家として知られる「加藤文太郎」という人を題材にしたもので、戦後すぐの復興期に天才的なクライマーとして世に出、人々に認められるようになっていくまでの生涯がつづられています。この本が気に入り、おそらくは5~6回は読み返したかと思います。

何がそんなに気に入ったかといわれると、ちょっと説明に困りますが、その生き方をかっこいい!と感じたからでしょう。どこがかっこいいか、といわれるとこれまた説明に窮しますが、その超人的なところをヒーローのように思っていたのだと思います。この加藤文太郎という人が天才といわれたのは、人が一日かかるような工程の山登りを半日でこなしてしまうほど足が速かったためで、かなり若いころから関西の登山界で着目を浴びたようです。山に登るのに登山靴ではなく、いつも地下足袋でのぼっていたので、「地下足袋の文太郎」と呼ばれていました。

好んで地下足袋を履いていたのではなく、貧乏で登山靴を買うお金がなかったからと言われていますが、そんな貧乏な境遇にもかかわらず、地道な努力をして上司に認められ、一流の技師に成長していきます。造船技師だったそうですが、わたしとしては、高校時代のこのころすでに、将来は何か海に関係する仕事をしたいと考えており、その自分の未来像に加藤文太郎を重ねていたような気がします。

周囲と歩調を合わせるのが苦手で、人嫌いと言われてもおかしくないような性格だったようで、登山でも誰かと一緒に登るのではなく、3000m級の山でもすべて「単独行」で登っています。本のタイトルが、「孤高の人」になっているのはそのためです。最後は単独行であるがゆえに、遭難して亡くなってしまうのですが、最後まで「ひとり」を貫いたその姿勢を「かっこえー」と思ったものです。

学校まで遠距離をもくもくと歩くようになったのはその頃で、加藤文太郎と自分を重ね合わせ、よーし、おれの人生も単独行でいくぞーと、いきがりっていました。寒い日も暑い日もせっせせっせとよくまあ歩いたものですが、おかげで人一倍足は丈夫になりました。その後、ホノルル時代にはフルマラソンにまで出場しましたが、このころの足の鍛錬のたまものだったかもしれません。

さて、このように、考えてみれば、その頃から歩くのは好きでした。この癖?は長じてからも治らず、ともかくどこか新しい土地に行くと、必ず自分の足でその土地のあちこちを歩き回ります。ただ単に歩くだけでなく、歩きながら、どこにどんなところがあるのかを見て歩き、とりわけ眺めのよい場所が好きでした。考えてみれば、高い山の上はもっとも眺めの良い場所に違いなく、山に上りたがるのも、できるだけ広範囲を見渡したかったのかもしれません。

と、いろいろ考えていたところ、以前このブログでも紹介した、広島在住の霊能者Sさんに前世のリーディングをしてもらったときのことを思い出しました。

Sさんによると、私の前世のひとつは、遠―い昔のアラビアンナイトの時代の行商人だったそうです。異国の町を旅してものを売り買いし、そのついでにその町々の情報を自国へ持ち帰って報告する仕事をしていたそうです。現代風にいえば、いわゆる「スパイ」ということのようで、そういわれてみるといろいろ思い当たる節があります。

たとえば、普通の人は、たいてい手帳やらメモ帳やらを持ち歩いて、スケジュールなどを忘れないように書き込むということをやるようですが、私はこれが大嫌いで、たいていのスケジュールは頭にしまいこみ、メモはとらないようにしています。このことをSさんに言うと、スパイは万一捕まった時にメモを持っていると正体がバレてしまいますからねー。なるべくメモはとらず、すべてを記憶することにしていたんでしょう。とのことでした。

自分の足であちこちを歩き回りたがることや、高い山の上に上りたがるのも、昔スパイだったときの名残・・・と考えると、なるほどうなずけたりします。うーん。ふ・し・ぎ・・・

Sさんによれば、私の前世はほかにもあって、大きな船で物品を動かす海の行商人だった前世もあるとか。その昔海に関係する仕事を選んだのも、ハワイに行くことになったのもそのためか・・・考えてみると、子供のころから、船に乗るのも大好きで、昔から船に乗るとワクワクどきどきしたものです。

・・・ハワイの話をもっと書こうかと思っていたら前世の話になってしまいました。が、まあこれはこれでよいか。私の前世の話はまだまだほかにも余談があるのですが、それはまた今度にしましょう。

それはともかく、このように、自分の好みや性癖はすべて前世からの名残と考えると、なかなか面白いものです。Sさんによる前世リーディングをみなさんが信じるかどうかは別として(わたしは無論、信じていますが)、半分夢物語としても、自分の性格から前世を想像してみるのもなかなか楽しいのでは。知り合いに霊能者がいなくても、すこしのあいだ、そういう想像にひたってみて、自分だけのタイムトラベルをしてみるのも面白いのではないでしょうか。

メッセージ

柿田川湧水にて

今年の初め、修善寺へ引っ越す前の話ですから、もうかれこれ三か月以上前のことになります。引っ越し前の荷物の山に囲まれて、夕方このブログを書いていたときのこと、突然電話が鳴りました。見知らぬ番号の主だったので、少し出るのを躊躇しましたが、引越しの手続き関連の電話かもしれないと思い出てみると、それは我々と同じくらい?の年配らしい女性の方でした。

申し訳なさそうに、ご用件を切り出されたその方のお名前はMさん。めずらしいお名前なので、よくお聞きする、どうやら昔務めていたPインターナショナル社の先輩社員の奥様のようです。P社は私が大学を卒業して最初に努めた会社で、通算8年ほど勤めて退社しました。円満退社でしたので、その後も元同僚や先輩方とは折につけお会いする機会も多かったのですが、Mさんはその後海外出張が多かったため、なかなかお会いできずにいました。所属部署も違ったため、それほど多くの仕事をご一緒しませんでしたが、妙にウマが合い、その当時はプライベートではお酒などもよく飲みに行ったものでした。が、ここしばらくは、年賀状だけでのおつきあいになっており、ときおりお顔を思い出す程度になっていました。

いまごろ何のご用件だろうと思いお伺いすると、ご主人あてに今年の正月に私から年賀状が届いたのだが、そのお返事ができずに申し訳なかったとのこと。ご本人からの電話ならともかく、奥様が電話とはもしや・・・と思い、さらにお聞きすると、不安は的中でした。Mさんは昨年の9月末に癌で亡くなったそうで、どうやらその当時の所属部署が違っていたので、会社関係者へのご葬儀の連絡も、私には来なかったようなのです。また、奥様が出された年末の喪中ハガキの宛先名簿の中からも私の名前が漏れていたため、その日になってようやくMさんの死を知ることになったのです。

奥様は喪中ハガキが届かなかったことへのお詫びを口にされましたが、逆に私のほうこそ、疎遠になっており、亡くなられたことも知らずに逆に恐縮している旨を伝えました。さらに亡くなられて日もまだ浅く、ご心中まだ穏やかでないだろうとも思い、日々まだまだおつらいだろうと思いますが・・・と慰めのことばもさしあげました。

奥様は、私とMさんとの関係もはっきりご存知なかったようで、その昔はMさんと一緒に仕事もし、大変お世話になったことなども伝えると、ああ、そうでしたか、同じインターナショナルにお勤めでしたか・・・とすこし打ち解けたご様子。

Mさんとはその昔、私がまだ入社浅かったころ、山形沖の離島で、とある調査に一緒に携わり、二週間ほど、同じ宿に缶詰になったことがあります。調査は船を出して行う海洋調査だったため、海がシケると船が出せず、何日も宿で待機。その間、することもなく、夜は自然と酒盛りになり、Mさんともずいぶん打ち解けて、いろいろな話をしました。それがきっかけになり、所属していた部署は違うものの、その後は仕事だけでなくプライベートでも仲良くさせていただき、会社があった渋谷ではほかの友人たちともつるんで、よく一緒に飲みにいったものです。出身は福島で、少しなまりのあるその口調で私をからかうのですが、酔いが進むとさっぱり何を言っているのかよくわからなくなり、まるでお経でも聞いているようでしたが、本人は上機嫌、私もとても楽しい酒だったことを覚えています。真面目な性格でしたが冗談好きで人懐っこく、およそ高飛車なところがないので、だれからも愛された人でしたが、私自身も、ともかくよくかわいがってくれた先輩社員の一人でした。

P社退社後は、私自身も海外留学をし、お互い別々の国にいることも多く、すれ違う一方でしたが、その後、私が帰国して、努めていた別の会社の仕事で半蔵門のあたりを歩いていたときのことです。通りの向こうから、あの人懐っこい顔をくしゃくしゃにして、Mさんが現れました。なんでもすぐ近くにある財団に用事があって来たとのことでしたが、それにしても広いこの東京の中で偶然出会うなんて、奇遇だねーとか言いながらも二人で再会を喜んだものです。そのときはお互い時間もなく、ゆっくり話もできませんでしたが、考えてみればそれがMさんにお会いして話をした最後だったかもしれません。

奥様にもそうしたお話を少ししたかと思います。電話をいただいた側なので長話も失礼かと思ったのですが、私自身、8年前に家内を亡くし、その当時はとても辛かったけれども、その後なんとか気持ちも立て直していったこと、そして再婚をしてもうすぐ静岡へ移住することまでも、お時間を借りて、ついついお話ししてしまいました。

すると、先方もかなり打ち解けられたご様子で、旦那様が亡くなられた近況をとつとつとお話になりはじめ、実は・・・と涙声になりながら、ご主人が亡くなってからかなり気落ちをされていること、東京を引き払ってご実家のある九州へ一人で帰ろうかと思っていることなどを打ち明けてくださいました。私も先妻を亡くして息子と二人になったときは、東京を離れ、実家の山口に帰ろうかと思っていた時期もあります。そうした辛い時期を経験したものの、今ようやく落ち着いた日々が来ていることなどもお伝えしたところ、少し落ち着かれたようでした。

そのときは、引越し間際でいろいろ忙しかったこともあり、最後にまたいずれお線香でもあげさせて頂きにまいります、と社交辞令的なご挨拶を申し上げて電話を切らせていただきました。電話を切ったあと、しばらくMさんのことなど思い出していましたが、それとは別に、電話をくださった奥様にもっと何か言ってさしあげられなかったかな、と少し後悔めいた思いがこみ上げてきました。実はその時の電話で、多少スピリチュアル的なことも申し上げようかとも思ったのですが、初めてお電話をいただいた方にそうしたお話をするのも気が引けましたし、そういう世界に理解を示さない方も多いことから、そのときは思いとどまりました。が、電話を切ったあとにどうしてもそのことが引っかかるのです。

そのあともどうしても気になり、一時間ほど経ってから、とうとう思い切って電話履歴先にお電話を差し上げることにしました。少しとまどったご様子で奥様が出られ、どういうふうに切り出そうかなと思いましたが、実は私が先妻を亡くしたときに、ある方から紹介していただいた本があるので、もしよろしければ読んでみてはいかがでしょうか、と申し上げました。奥様は少しびっくりされたようでしたが、実は、今私はこれからどうしようかと思い悩んでいたところなので、そういう良い本があるのならば、ぜひ読んでみたいとおっしゃってくださいました。

その本とは、飯田史彦さんの「生きがいの創造」という本です。以前このブログでも書きましたが、飯田さんがまだ福島大学の教授の頃に書かれた本で、まだスピリチュアルということばが世にあまり浸透していない時代でしたが、これまで累計で60万部のベストセラーになっています。

本の中身については、以前も紹介しましたのでここで再度詳しくは述べませんが、あの世に行った人たちも自分たちも肉体を介さない限りは同じ世界に生きていて、かつその関係ははるか昔の前世からのものであることも多いことなどを実例をあげながら、説明されています。愛する人に旅立たれた人や人生に思い悩んでいる人たちのために、その苦悩がどういう意味を持っているのか、そしてこれからどう生きていくかをいろんな角度から説かれており、「生きがいの創造」というタイトルもそうしたスピリチュアルな観点から人生を見つめなおしてもらいたい、という著者の希望からつけられました。

私自身、この本のおかげで妻の死から立ち直れたといっても過言ではなく、その後、すっかり飯田さんのシンパになってしまい、それ以外にもスピリチュアルなことについて触れた本を探して読んだり、関連するサイトにも数多く目を通すようになりました。

しかし、Mさんに電話を差し上げたのは、Mさんも私と同じようになってほしい、というよりも、私自身、苦しいことが多かった時代に、そういう考え方(あちらの世界と前世)もある、ということを少し考えてみるだけで、落ち込んだ気持ちがかなり楽になった経験からです。飯田さんも書かれていたと思いますが、そういう世界があるかないかを信じる信じないは別として、今自分が生きている意味や愛する人と別れることになった意味を、こうした本を通じて深く考えてみることで、気持ちがずっと楽になる。電話ではお話しませんでしたが、こういう経験をMさんにもしていただきたかったのです。

幸い、Mさんは私の紹介を快く受け入れてくださり、早速本屋に行ってみます・・・とおっしゃってくださいました。その結果がどうなるかはわかりませんでしたが、ともかく、何やら義務を果たしたような気になり、その日ようやく私自身も気持ちが楽になりました。

・・・その後、一か月近く経った夕方。引っ越す直前だったと思いますが、再びMさんからお電話が入りました。お電話の内容は、本を読んで大変気持ちが楽になったこと、私が再度電話を差し上げたことに対してのお礼などなどでしたが、驚いたのは、実は奥様はその本を、以前読んだことがあったらしく、私に勧められるまでそのことをすっかり忘れていたということでした。

なんでも亡くなったMさん自身が、こんな本があるよ、と生前奥様に薦めていたらしく、その当時は薦められるままに読んだものの、得心はいかなかったとのこと。しかし、今回改めて同じ本を読んでみてその内容を思い出し、その当時は納得がいかなかったことが、今はすっかり理解でき、そのおかげで気持ちが至極楽になった、ということでした。

これはきっと、亡き夫のことを嘆き悲しまれる奥様を見て、Mさん自身があの世で私のことを思い出し、奥様の気持ちを和らげるために私に電話をさせるようにしむけたに違いない、ある意味では、Mさんからのメッセージだったのかもしれませんよ、という意味のことを奥様に申し上げたところ、奥様はうれしそうに、そうそう、私もそう考えていたところです、とおっしゃってくださいました―――

・・・これは、たまたまなのか、偶然なのか、はたまた必然なのか・・・については、いろいろな考え方もあろうかと思います。が、死後の世界が我々の生きている世界とつながっていて、亡くなった方は現生に残された方のことを忘れないで見守っていてくれている、と考えることができれば、それは本当に心強いことです。そんなことはない、そんな非科学的なことは信じない、と我を張っている人に比べれば、素直に信じて、自分もそういう世界の一部だと考えることができれば、人生はもっと楽になる・・・ これは、飯田さんも同じ意味のことを「生きがいの創造」の中で書かれていたと思います。

今日はそうした世界のことを、私の生活の一エピソードから少し垣間見てみましたが、いかがだったでしょうか。ここ数年、私自身が50歳を越したこともあり、比較的歳の近い友人や知人の訃報がときどき届くようになりました。最近は、そのたびにその死が周囲の人や私自身に対してどういう意味を持つのか、を考える癖がついてしまいました。が、それは悪いことではなく、自分の人生を考える意味でも大切なことだと思っています。人の死に際してだけでなく、日常起こるいろいろなトラブルや逆に良いことも、何かきっと意味のあるメッセージと考える・・・そうすればもう少し人生が楽しくなるのではないでしょうか。