西郷どんはボーイズラバー?

今年は維新からちょうど150周年ということで、NHKでは、西郷隆盛を題材にした「西郷どん!」が放映されています。

一昨年の2016年9月8日に制作発表が行われ、林真理子の小説を原作に、脚本を連続テレビ小説「花子とアン」などを手がけた中園ミホが担当することが発表されました。

「大河ドラマ」は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズです。

第一作とされている「花の生涯」放送開始時には、「大型時代劇」という名称で呼ばれていましたが、年を重ねるごとに歴史ドラマとして注目されるようになると「大型歴史ドラマ」の名称が用いられるようになりました。

あるとき、読売新聞が「大河小説」になぞらえて「大河ドラマ」と表現したところ受けがよく、その後一般的にも「大河ドラマ」の名前で親しまれるようになりました。NHKは「大型歴史ドラマ」にこだわっていたようですが、1977年(昭和52年)の「花神」からは、公式に「大河ドラマ」の名称を用いるようになります。

以後、「大河」の名で定着し、毎年嗜好を変えて制作が続けられていますが、今年の「西郷どん!」はその57作目になります。

大河ドラマは、NHKとしても看板番組であるため、年明けの放送開始から1年間は、関連する番組を随所で放送します。とくに、「その時歴史が動いた」、「歴史秘話ヒストリア」といった、歴史教養番組、娯楽番組で取り上げられ、その年の大河ドラマの主人公にまつわる話が紹介されます。

また、NHKでは近年、「大河ドラマ館」なるものを提供するようになりました。自治体や地元経済団体等の協力で作られる展示施設で、ドラマで使用された衣装や小道具や出演者・ストーリー・歴史背景などを紹介するパネルの展示や番組出演者を招いたイベントなどが実施されます。

大河ドラマの舞台となる地域における観光に寄与するだけでなく、ここでの集客力はドラマ本体の評価に左右される面もあり、NHKとしても最大限にこの「大河ドラマ館」のPRに力を注いでいます。

今年の「西郷どん!」でも、西郷隆盛の出身地である鹿児島市内の加治屋町の旧鹿児島市立病院跡地において約1年間、「大河ドラマ館」が開館されるそうです。

このように天下の国営放送が力を注いでいるだけに、世間の注目度も高く、毎年のように、今年の大河ドラマの視聴率はどのくらいだった?といった報道が流れます。

筆者が調べたところ、過去における視聴率のベスト5は、次の通りです。

1位 39.7% 独眼竜政宗  主演:渡辺謙 題材:伊達政宗 1987年
2位 39.2% 武田信玄 主演:中井貴一 題材:武田信玄 1988年
3位 32.4% 春日局 主演:大原麗子 題材:春日局 1989年
4位 31.9% 赤穂浪士 主演:長谷川一夫 題材:大石内蔵助 1964年
5位 31.8% おんな太閤記 主演:佐久間良子 題材:ねね 1981年

一方、ワースト5はというと、

1位 14.5% 竜馬がゆく 主演:北大路欣也 題材:坂本龍馬 1968年
2位 14.1% 花の乱 主演:三田佳子 題材:日野富子 1994年
3位 12.77% おんな城主 直虎 主演:柴咲コウ 題材:井伊直虎 2017年
4位 12.0% 花燃ゆ 主演:井上真央 題材:杉文 2015年
5位 12.0% 平清盛 主演:松山ケンイチ 題材:平清盛 2012年

となっており、ワースト5のうち、2本がここ5年以内に放映された中に入っている点が気になるところです。ただ、視聴率30%越えというのは、現在ほどインターネットの普及やレンタルビデオなどによるメディア供給が進んでいいない昔の話であって、最近のドラマだと、10~15%というのも普通です。

16~20%だとまぁまぁ、20%を越えるとヒットといわれますから、これまでのところ、15~16%で推移しているといわれる「西郷どん」は、そこそこ健闘しているといえるでしょう。

ボーイズラブ?

「西郷どん!」の放送が決まったころのNHKの発表によれば、この物語では、明治維新の立役者・西郷隆盛を勇気と実行力で時代を切り開いた「愛に溢れたリーダー」として描く、とされました。

ところが、この「愛」というのがかなり話題となりました。というのも、制作発表の会見の中で、脚本を担当する中園さんが、「原作には師弟愛や家族愛、男女の愛、BL(ボーイズラブ)までの色々な愛がある」と述べたためです。

ボーイズラブとは、日本における男性(主として少年)同士の同性愛を題材とした小説や漫画などのジャンルのことです。英語にはそうした言葉はなく、和製英語です。1990年代中盤~後半に使われるようになったもので、中園さんがこれを要素として加えると明言したことが波紋を呼びました。

BLは元々、女性向けの男性同性愛をテーマとした漫画小説混合雑誌「JUNE」の言い換え語だったようです。

この雑誌「JUNE」は、「耽美(たんび)」と呼ばれるような男性同性愛を主題にしており、その後雑誌名である「JUNE」そのものが男性同性愛を示すようになっていきましたが、これをきっかけに同様の題材の作品を掲載する雑誌も増えました。

しかし一方では、「JUNE」という言葉がわかりにくい、といった風潮も出てきたため、やがて、「ボーイズラブ」と呼ばれるようになり、のちにBL(ビーエル)と略されるようになり、現在に至るまでにはこちらで定着するようになりました。

現在、BL作家、編集者のほとんどは女性、また読者の大多数も女性といわれます。ゲイの男性向けの作品とは一線を画しており、独自の世界を築いているといえますが、一方ではそれほど確固とした概念ではなく、ボーイズラブとそれ以外のジャンルを明確に分けることはむずかしいとよく言われます。

たとえば「やおい」といわれる別のジャンルがあり、こちらと混同されることも多いようです。

「やおい」ってなんだ?どうもこの手の話題にはついていけない、という方も多いと思いますが、こちらも、男性同性愛を題材にした女性向けの漫画や小説などの俗称です。ただ、ボーイズラブの作品に正統派?が多いのに対し、こちらは、こうした主流派作品をパロディ化したものが多いようです。

漫画家を目指す「卵」の作品が多く、漫画を雑誌の専門家からは「ヤマがない」「オチがない」などと批評されています。「ヤマもオチも意味もない」を略して「ヤオイ」、または、ひらがなにして「やおい」という呼称で広まりました。ストーリー構成に必要な「ヤマ(山、山場)無し」「オチ(落ち)無し」「イミ(意味)無し」の3つが無いという意味です。

ようするに中身のない、ペラペラな内容の同性愛ストーリーということであり、このため、BLは基本的に商業的に正当な出版筋を通して世に出るのに対し、「やおい」の場合は、二次創作の多い同人誌やウェブ上の作品で発表されることが多いようです。

とはいえ、BLとは同じテイストの作品群であることは間違いなく、現在では、このヤオイを含めて、BLというジャンルが成立しつつあります。漫画、小説、ドラマCD、アニメ、ゲームといった異なるメディアで広く浸透しつつあります。

なんでこんなもんが流行るんかな~と、世のオジサンたちには少々理解しがたいと思うのですが、かくある私もその一人です。しかし、一方では、男役も女役もすべて女性が演じる「宝塚歌劇団」があれほど熱狂的に受け入れられているのをみると、男性愛に特化したジャンルもまた、ありなのかな、と思ったりもします。

インターネットを通じた新しいメディア分野は次々と登場してはその拡散が加速しており、娯楽もまた多様化している、と考えれば不思議なことではありません。




BLの広がりと反発

それにしてもなぜそれほどの広がりを見せているか、ですが、BLの場合、男女の組み合わせでは表現できなかったり、受け入れられにくい、また男同士でしか表現できない関係性を描くことができ、その点が魅力であるといわれているようです。

少々エッチな表現を含む作品も多くあり、そのあたりの「きわどい」駆け引きが魅力、という支持者が多いといいます。その一方で、単なる仲のいい男同士で性的な要素はない作品が好きだという人もおり、「二人がエロい関係にならない状態で想い合ってる程度のほうが萌える」という人も多いようです。

2000年代には、こうしたBL作品が電子書籍で出版されるようになり、携帯電話で読めるようになりました。このため、店頭で購入するのが恥ずかしい、といった人も気軽に買えるようになり、どこでも読めるようになったこともブームの背景にあるようです。

さらに、スマホや携帯電話の進化に伴い、BLゲームのアプリも作られるようになったことで間口が広がったことなども関係しているようです。

ブームに伴い「BL」の意味もさらに拡散し、現在では、上述の「やおい」も含めて、男性同性愛作品は、広く浸透するようになりましたが、やはり「同性愛作品」という色眼鏡で見る人も多く、軋轢も生まれました。

2008年には、大阪府の堺では、ボーイズラブ小説が収蔵・貸出されていることを非難する「市民の声」が高まり、これによって、同市の市立図書館に所蔵されていたBL作品の廃棄が要求される、といった「事件」も起きました。

結果として、ボーイズラブとされた5500冊の本が開架から除去されましたが、この事件以前に福井市立図書館でも、「ジェンダー図書」が、「市民の声」によって図書館から排除される、といった事件も起きています。

福井市のケースでは、逆にこうし排除に対して、「表現の自由」の侵害だ、とする声が高まり、一部市民によって住民監査請求が出され、その結果、図書は間もなく戻されました。

こうした堺市や福井市における特定図書の排斥をきっかけに、その後報道やネットで賛成反対様々な意見があがるようになります。BLが図書館にあることへの批判や、BL読者を嫌悪するような意見もあった一方で、「図書館の自由」や「表現の自由」を守りたい、として多数の市民団体や市民が反対の声をあげるようになりました。

反対派の主な意見としては、図書館員が共有する基準を持たず各々の判断で選んだかのように一貫性がない、といったもので、暗黙の差別があらわになる除去リストによって、排除行われた点が問題である、と主張しました。

実際、堺市の例では、市が示した排除理由が「過激な性描写」でしたが、性描写のない本、ほとんどない本も含まれていました。また、「挿絵」も理由として挙げられましたが、挿絵に裸や性表現のない本や、そもそも挿絵のない本も含まれていたといいます。

その結果、堺市立図書館は「青少年への提供は行なわない」と発表。方針を撤回し、請求があれば18歳未満にも貸し出す方針を決め、発表当日から提供を再開しました。この発表で市側はまた、「拙速で、判断を誤った」と開陳しましたが、その後も「BL図書は収集・保存しない」という措置は継続されているようです。

「西郷どん!」の制作発表においても、こうした事件が過去にあったにもかかわらず、脚本家さんがBL要素を加えると明言したことで、物議を醸したわけですが、民放ならまだしも、国営放送で放映される番組、しかも看板番組ではちょっとまずいよな、と私なども思うわけです。

ただ、NHKにおける性表現というのは、一昔前に比べると格段に変化しており、ちょっと前だと、キスシーンなどというものはまったく考えられないものでしたが、最近では、朝ドラでも普通にそうしたシーンがあります。性表現だけでなく、暴力シーンなどについても、「憲法で保障された表現の自由」の範囲内として許容する傾向は強まっているようです。

BLと暴力を一緒くたに論じるのは、これまた乱暴ですが、特定秘密保護法などによって、国民の表現の自由が束縛される傾向が強まっている現代だからこそ、逆にそうしたまだ「手がつけらていない」ジャンルにおける自由を守ろうとする動きも強くなるのでしょう。NHK内部においてもそう考える人が多いに違いありません。

2014年の「美術手帖」の特集では、こう述べられています。

「BLのどこに魅力を感じるかは十人十色だが、 特筆すべきは”関係性”の表現にあると言えるだろう。」「描き手/読み手の心を時に癒し、時に興奮させ、 ジェンダーやセクシュアリティーに対する固定概念を揺さぶり、 愛することや欲望の発露について思考をめぐらせるきっかけとなる。」

エッチでふしだら、いやらしい、というふうにストレートに反応するのではなく、「人間愛」という観点からみてどうなのか、について思考をめぐらすことのほうが重要だ、というわけです。人間は他の動物のように本能に反応するだけの動物ではありません。そうした行為の意味を、人だけが持つ特性、「考える」ことで読み解くことが大事だと思います。




日本独特の「衆道」

ところで、BLと同じ、とひとくくりにすると、なお叱られそうですが、「ゲイ(gay)」と呼ばれる概念についても、何かと物議を醸しだすことが多いようです。男性の同性愛者一般をさす用語ですが、その原義は「お気楽」「しあわせ」「明るく楽しく」「いい気分」「目立ちたい」といった感情を表すものだといい、そもそもは人間愛から出てきたものです。

「不品行」「不道徳」といった含意を担わされていた時代もありましたが、現代では、主にホモセクシュアリティーに関わる人や行動、或いは文化を表現するためのものとされるのが一般的です。

この「ゲイ」について論じ始めるとまたまた長くなるのでやめますが、もともとは欧米から入ってきた概念であり、日本に根付くようになったのは、ごくごく最近のことです。

一方、日本では、もとから、「衆道」と呼ばれる文化がありました。いわゆる「男色」ですが、庶民一般を対象にしたものではなく、武士同士のものをルーツとしており、欧米の「ゲイ」とは明らかに異なる風習といえます。「衆道」とは、「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、別名に「若道(じゃくどう/にゃくどう)」、「若色(じゃくしょく)」ともいいます。

そもそもは、平安時代に女人禁制の場にいることの多い僧侶や公家の間で発生した習慣です。この時代、「主従関係」だけでなく、「売買関係」としても性欲処理目的の男色が行われるようになり、その後、中世室町時代以降の戦乱の世では、戦地に赴き、「男環境」になることの多い武士の間で広まりました。

「衆道」の原義は、そもそも部下・小姓などが、主君に忠義を果たして命を捧げて死ぬことというものでしたが、時代が進むにつれ、男色を好む上司・主君への「出世の手段」にも利用されるようになっていきました。

にもかかわらず公の場でもはばかれるようなものではなく、江戸幕府の公式令條にも「衆道」の呼称が使われており、幕府も公認の行為として認められていました。

江戸時代中期(1716年ごろ)に、「武士の心得」として書かれ、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」で有名な「葉隠」にも記述があり、兄分である「念者」と弟分の「若衆」という義兄弟的男色の心得が説かれています。

「互いに想う相手は一生にただひとりだけ」「相手を何度も取り替えるなどは言語道断」「そのためには5年は付き合ってみて、よく相手の人間性を見極めるべき」としており、まるで結婚相談所のアドバイスのようです。ただし、この当時、弟分は誰でもいい、というわけではなく、若衆の多くは美貌を持つ少年でなければならなかったようです。

このほか、相手が人間として信用できないような浮気者だったら、付き合う価値がないので断固として別れるべき、といった記述もありますが、一方では「怒鳴りつけてもまとわりついてくるようであれば、切り捨つべし」といった武士らしい「命懸けの恋」についての心掛けも書かれています。

江戸の時代の武家社会においては、それまでの「主従関係」に加え、こうした「同輩関係」の男色も見られるようになったのが特徴であり、元々は武士の世界だけでのものでしたが、やがては、庶民の間にも広がりを見せるようになりました

江戸の町は女性よりも男性が多く、男余りだったことで知られています。江戸末期の統計では、1721年(享保6年)の江戸の武家を除いた町人人口は約50万人で男性32万人に対して、女性18万人と2倍近く圧倒的に男性人口が多かったそうです。

これは、地方から出稼ぎに来る男性が多く、その一方で江戸入りを許される女性は少なく、これは「入り鉄砲に出女」の縛りもあったためでしょう。街中で女性をみかけることは稀でした。結婚しようにも相手がいなかったため、独身男性で溢れていたといい、時代劇では巷に女性がわんさかいたようによく描かれますが、それほどには女性はいませんでした。

江戸の天下太平が進んだことで、武士を筆頭に人々が戦場に出ることはほとんどなくなり、戦地で小姓を相手に性欲処理する、といったケースも激減したことから、衆道は江戸で普及しました。そして、元々江戸でだけでの風習だったものが、やがては「江戸の流行」として地方にも伝わるようになっていきます。

これに対して、諸藩においては衆道を厳しく取り締まる動きも現れるようになり、江戸初期には既に各藩で衆道を制限するようになりました。特に姫路藩主の池田光政は家中での衆道を厳しく禁じ、違反した家臣を追放に処しています。

さらに、江戸時代中頃になると、君主への忠誠よりも男色相手との関係を大切にしたり、美少年をめぐる刃傷事件などの諍いが発生するようになります。次第に江戸だけでなく、全国的な問題にまで発展するようになっていったため、江戸時代後半になると幕府も規制に乗り出し、各藩もこれに同調したため、衆道は余り目立たなくなりました。

加えて、江戸や地方の大都市の悩みであった「女性不足」は、娼婦の売春によって賄われるようになりました。こうした、いわゆる「妓楼」が普及したため、地方の主要都市では女性人口自体が増加し、男性が男色をする必要がなくなると衆道は急激に衰退していきました。

さらに、維新が成立し、明治の時代になって、これにとどめを刺したのが、明治5年(1872年)に発令された「鶏姦条例」です。

「鶏姦」とは、アナルセックスのことであり、この時代は?男性同士の性交渉を意味しましたが、法を破って、男性同士の行為に及んだ者は「鶏姦罪」に問われ、平民が鶏姦を犯した場合は懲役90日が課されるようになりました。

ただ、華族または士族が鶏姦を犯した場合は本人の名誉の問題も絡んでくることから、懲役期間の縮小が考慮され、また、鶏姦「された」側にある者が15歳以下であった場合は処罰の対象にはなりませんでした。

とはいえ、「加害者」となる成人男子が男色をすることが著しく制限されるようになったことは間違いなく、これによって、以後、昭和・大正の時代を経て、現在に至るまで、男性同士の性愛はタブーとなり、地下深くに潜伏する行為となりました。

ただ、鶏姦罪の規定は、明治15年(1882年)1月1日をもって消滅しています。従って、明治5年以後の9年間は日本で唯一、男色行為が刑事罰の対象とされた時期となっています。

ちなみに、鶏姦罪が廃止されたのは、旧刑法草案に関わった、お雇い外国人で、フランス法学者のボアソナードが「ナポレオン法典」に男性間の姦淫の規定がない、と主張したことや、合意に基づくものは違法ではない、といったことを助言したことが背景にあり、司法省もこれに同意したためでした。

薩摩における衆道

ところで、この鶏姦条例ができたきっかけは、明治5年白川県(現熊本県)より司法省に「県内の学生が男色をするが勉学の妨げなどになり、どのように処罰すればよいか」との問い合わせがあったことだったといわれ、南九州で盛んに行われていた学生間の男色行為を抑えるためでした。

法律では規制されていましたが、薩摩藩など南九州では男色は引き続き行われており、事実上はザル法化していたといいます。

しかも、これらの地方では、法に定められたのとは異なり、万一発覚した場合でも、鶏姦された側、即ち「女」として男根を受け入れた側が罰せられることが多く、姦通する側はほとんどとがめられることはなく、社会的にも許容されていたといいます。

こうした悪しき風習がはびこっていた理由として、とくに薩摩においては、「郷中(ごじゅう)」というものがあり、ここが男色文化の温床となっていたという指摘があります。

郷中教育は、薩摩における独特の青少年の教育制度であり、薩摩では、領内を100以上の「外城」に分けて、屯田制度をとっていました。この「外城」は一般に「郷」といわれ、各郷ごとに「郷中」という青少年団体が構成され、年齢に応じて、大きく「稚児(ちご)」、「二才(にせ)」に分けられました。

さらに「稚児」は、6~7歳から14~15歳までの元服前の少年で、10歳までを「小稚児」、それ以上を「長稚児」といいました。「二才」は、元服してから妻帯するまでの青年たちで、年齢的には、14歳くらいから25歳くらいまでの青年になります。

二才は、稚児に剣術を教えたり、薩摩武士としての人間形成を担いましたが、マンツーマンの指導を重視したため、両者は当然、親密な関係になります。稚児が他郷の二才と交際することは禁じられていたといい、こうしたことから、男色の風習が深まっていったと考えられます。

中には、美しい稚児を「さま付け」で呼ぶこともあったといい、他の郷の二才たちに奪われないように寝ずの番をつける二才がいた、といった話も残っています。

ここで衆道を経験した青年たちが、地方における社会進出を果たし、ひいては中央進出していった結果、江戸で男色が流行した、とする説すらあるようです。

薩摩などの九州南部の旧藩の青年が、江戸に出稼ぎなどで出たことが、そもそも江戸時代の衆道の普及の発端だ、とする説であり、鹿児島出身の方は、えーっと思われるかもしれませんが、薩摩において、男色が普通に行われていたことをうかがわせる記録も残っています。

そのひとつが、明治 5 年(1872)に出された新聞であり、「鹿児島県の男色衰ふ」というタイトルのこの記事には、「もともと鹿児島では男色の悪弊があったけれども、最近はだいぶ衰えてきており、その代りに妓楼(遊郭)を設けようと考える輩が増えてきた」といったことが書かれていました。これ以前から男色の習慣があったことをうかがわせます。

「西郷どん!」においてもそうした郷中における、西郷とその兄弟、郷中仲間たちとの生活が描かれていますが、西郷隆盛や大久保利通といった幕末維新の偉人たちもまた、そうした風習の残る中で成長したことは間違いありません。

だからといって、「西郷どん」に男色の趣味があったかといえば、そういう史実はないようで、大久保についてもまたしかりです。また、郷中制度そのものも「同胞愛」を育むために根付いた風習であり、必ずしも性的な行為を誰しもがしていたというわけではないわけであり、そこのところは、「忖度」して考えるべきでしょう。

現在放映されているドラマのほうでも、筆者がこれまで見てきたところでは、当初心配?されたような、描写はないようです。

もとより、そんなものを期待しているわけでもありませんが、ときに濃厚に描かれる男同士の泥臭い関係についても、それを匂わせるようなところはありません。

むしろ北川景子さん演じる篤姫や松坂慶子さん演じる幾島と西郷どんとのやりとりなど、男女関係の描き方が巧妙で、かつ西郷隆盛役の鈴木亮平と島津斉彬役の渡辺謙さんとの関係も面白く、毎回目が離せません。

「ヤマ無し」「オチ無し」「イミ無し」とはほど遠い出来であると思うのですが、このあとさらに激動の幕末になっていく中、どのようなストーリー展開が期待できるのでしょうか。

「愛に溢れたリーダー」がどういうふうに描かれていくのか、着目したいと思います。




バイキンマンは悪役?

神戸で、子供たちに人気のアニメキャラクター、バイキンマンにまつわる新しい体験型施設ができたそうです。

中央区の神戸ハーバーランドにあるテーマパーク「神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール」の別館としてオープンした「バイキンひみつ基地」で、同様のミュージアムは全国に5カ所ありますが、バイキンマンが“主役”の施設は仙台市に続き2館目なのだとか。

施設は広さが約245平方メートルといいますから、15m四方ほど。決して大きくはありませんが、子どもたちが体を動かしたり、遊具に入って写真撮影したりできることを重視した設計になっていて、目玉は高さ約3.4メートルある、バイキンマンが作った巨大メカ「だだんだん」だそうです。

このほか、乗り物の「バイキンUFO」や「ドキンUFO」も再現して設置されているとかで、関西のアンパンマンファンにはたまらない施設でしょう。

営業時間は午前10時~午後6時。入館料はミュージアムとの共通チケットで、1歳以上は年齢に関係なく1人1800円。高くないか?とも思うのですが、本館の方も楽しめることと、小学生以下は夏ごろまで、バイキンマンに関連した入館記念品がもらえるとのことで、それならいいか、という人も多いでしょう。

バイキンマンの登場

このバイキンマンの姿形を、何らかの機会に見たことがある人も多いでしょう。アンパンマンの宿命のライバルであり、アンパンマンを倒して世界を“バイキン“で征服するために、バイキン星“からやってきた”バイキン“です。

赤ちゃんの時に卵の状態でやってきたこのバイキンマン。バイキン城を根城とし、当初は一人暮らしでしたが、現在はドキンちゃんや、カビルンルンなどの手下と生活しているそうで、名前とは裏腹にかなり裕福な生活をしていそうです。

バイキンマンが登場することになったのは、作者の「やなせたかし」さんが「アンパンマンに「何かが足りない」と思い悩んでいた頃、彼の友人、いずみたくが演出したミュージカルを見たことだそうです。

「怪傑アンパンマン」というこのミュージカルの上演時に、その観客の様子を観察していたやなせさんが「悪役が必要だ」と思い至ったことが、この新キャラクターを登場させるきっかけになったのだとか。

自身の顔を分け与えるという、「自己犠牲」の象徴であるアンパンマンに対して、バイキンマンは自己の欲求を満たそうとする「自己満足」の化身です。人間にも良い心と悪い心の両方がバランスを保って存在しているように、両者は「光と影」「プラスとマイナス」のような関係であって、片方だけでは存在できない、というわけです。

そのやなせさんも、5年前の2013年10月に亡くなりました。94歳という大往生でしたが、翌2014年2月6日、生きていれば95歳となる誕生日に東京都新宿区で「ありがとう!やなせたかし先生 95歳おめでとう!」というタイトルで開催された告別式には、ちばてつやを始めとする日本漫画家協会所属の漫画家60人が参列したといいます。

二次大戦では、下士官として、中国戦線に出征。部隊では主に暗号の作成・解読を担当するとともに、宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたこともあったといいます。

従軍中は戦闘のない地域に居り、職種も戦闘を担当するものではなかったため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったといいますが、この戦争では弟さんが戦死しています。

戦後、絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者、舞台美術家、演出家、司会者、コピーライター、作詞家、シナリオライターなど様々な活動を行っていたそうです。

1969年発表したアンパンマンは長らくヒットしませんでしたが、1988年(昭和63年)に、テレビアニメ「それいけ!アンパンマン」として日本テレビで放映されてから大ブレークしました。

バイキンマンというキャラクターについては、「怠けたい、いたずらをしたい等という人間の欲求不満を表現している」「バイキンマンは時にはいいこともする。悪に徹しきれないところがある」などと語っていました。

また、「決してバイキンマンは死ぬことはない」「人間が風邪を一度ひいて、またかかるように、やられても平気な顔をして次に出てこられる」とも語り、まさに「バイキン」のような不死身の体を持ったところが大きな特徴だとしていました。



なぜバイキンマン?

それにしても、なぜ、いま、バイキンマンなのでしょうか?アンパンマンの主役は無論、アンパンマンであり、ほかにも人気のキャラクターがいそうなものなのに、なぜ脇役のバイキンマンをテーマにしたミュージアムが成立するのか。そもそも儲かるのでしょうか?

いろいろ調べてみたところ、意外にも「アンパンマンよりバイキンマンの方が好き」という人が多いことがわかりました。

マンガやアニメに登場する悪役キャラの中には、「敵だけど憎めない」キャラクターも多いようですが、その中でも断トツ人気なのが、バイキンマンのようです。

その賛辞の声を集めてみました。

・絶対に根はいい奴。アニメを見ているとけっこう酷い悪さをするなぁと思うけれど、ちゃんと最後はアンパンマンにやられてしまうところがいい。
・ドキンちゃんに振り回されているところがかわいい。
・本当はやさしいやつだと思う。ストーリーによっては、バイキンマンが誰かを助けたりしているときもある。
・言動がかわいい。「ハ~ヒフ~ヘホ~」というわけのわからないセリフが大好き。

とくに女性を中心に人気が高いようで、いつもアンパンマンにやられてしまうバイキンマンは、ドキンちゃんのために尽くすなど、紳士な一面もあり、「憎めない」、「かわいい」、「健気」といったところが、女心をくすぐるのでしょう。

他のアニメの中にも似たようなキャラクターがたくさんいます。例えば、ドラえもんに出てくる「ジャイアン」。いつもはのび太にいじわるばかりするけれど、ときに情味あふれる、頼れるキャラクターに変わるところが、ファンの心を惹きつけるようです。

ほかにも「ドラゴンボール」の敵キャラクターである、「ベジータ」や「ピッコロ」がいます。時にやさしい一面を見せるこのキャラクターを「嫌いになれない」という人も多く、主人公・孫悟空をしのぐほどの人気を獲得しています。

ポケモンに登場する「ロケット団」もそうで、“悪の組織”なはずなのに、コミカルな面があるのが憎めないところ。ロケット団が登場するのを毎回楽しみにしている人も多いのではないでしょうか。

このように、悪役キャラは、悪い面しかないというわけではありません。「その気持ち、わかる!」と共感できる部分や、ときには味方となってストーリーを盛り上げてくれることもあり、アニメ作品にとっては重要な存在です。

アニメだけではありません。悪役は、その他の映画・テレビドラマ・舞台演劇・小説などでは欠かせないキャラであり、「憎まれ役」なくしてストーリーは成立しません。

マスメディアにバッシングされている人物、組織内で人に憎まれている人物ではありますが、「敵に回る」、「敵に徹する」という言葉があるとおり、彼らがその役を演じてくれているからこそ、物語は面白いわけです。

悪役は、いわゆる「勧善懲悪」の要素を含む物語では必要不可欠の要素です。悪役がふてぶてしく立ち回ることにより主人公の存在感をより鮮明にし、また主人公やその仲間に倒されることで視聴者(読者)にカタルシス(浄化作用)を与えます。

脇役でありながら、基本的には物語の根底を彩り、主役を引き立たせるという重要な役割を担っています。地味ではあるものの重要な存在であり、したがって、悪役が魅力的であればあるほど物語の完成度は高くなるという不思議な存在です。




プロレスにおける悪役

プロレスにおいても「ヒール(heel)」は欠かせません。ヒールとは、プロレス興行において、悪役として振舞うプロレスラーのことであり、悪役、悪玉、悪党派などとも呼ばれます。「善玉」を相手に反則を多用したラフファイトを展開しますが、最後にはやっつけられることで、観客は溜飲を下ろします。

“heel”とは、英語におけるスラングで、もともとは、「卑怯な奴」という意味合いを持ち、それがプロレスに転用されたようです。その由来は聖書にあり、聖書に出てくる一番最初の話、「アダムとイブの物語」の中では、蛇に唆されてイブが、続いてアダムもが「知恵の実」を食べてしまいます。

これを見た神は怒り、蛇と人間に対して「以後は、人間は蛇の頭を砕き、蛇は人間の踵(ヒール)を砕くようになるだろう」と宣言しました。ここから、「踵に食らいつく蛇」=「狡猾なもの」というイメージが生まれましたが、この言葉に使われていた「ヒール(踵)」そのものを悪の象徴とみなすようになったようです。

日本ではプロレスが流行るようになった初期のころは「悪玉」、「善玉」という、それまでよく使われていた日本独特の表現が用いられていましたが、欧米のプロレスラーが来日して多数活躍するようになって以後は、あちらの用語が日本語でも定着しました。

以後、プロレス業界において「ヒール」といえば、悪役を示すようになりましたが、これが転じて、現在では、プロレス以外のスポーツや一般社会や創作物の中でも、敵役的なイメージの人物をヒールと呼ぶことも多くなってきました。

このヒール、「金的」への攻撃、凶器の使用といった反則はもちろん、レフェリーへの暴行、挑発行為、観客席での場外乱闘、果ては他者の試合への乱入などなど、なんでもやります。何を行うかは選手それぞれ、独自の「ネタ」を持っており、時にヒールなのか、善玉なのかがわからなくなるようなキャラすらも登場したりもします。

この「善玉」のことを英語では、ベビーフェイス、あるいは略して「フェイス」といったりしますが、これは「正統派」を意味します。語源は「悪いことをすることを知らない甘ちゃん」といったほどの意味ですが、ヒールと違って日本ではあまり定着しませんでした。

プロレスにおいて、こうしたヒールが生まれたのは1920年代のアメリカといわれています。都市部で隆盛したレスリング・ショーにおいて「正義」対「悪」という、勧善懲悪的アングルが興行を盛り上げる上で必要と考えられ、導入されたという記録があります。

以後、プロレスの興業といえば、「ベビーフェイス」と「ヒール」の戦いというパターンが定着しますが、その後プロレスが国際化して、アメリカ以外の国でも行われるようになってからは、基本的にはどこの国でも自国のレスラーがベビーフェイス、外国人レスラーがヒールというふうになりました。

そのほうが、試合を盛り上げやすかったわけであり、興行収入も伸びました。アメリカでは人種に基づく差別や偏見によってこのヒールを決めました。従って、あちらでは黒人がヒールになることが多く、また戦後のアメリカでは、二次大戦で敵国人だった日本人やドイツ人がヒールになりました。

グレート東郷、ハロルド坂田といった、日系アメリカ人プロレスラーの名前を憶えている方はかなり年配といっていいでしょう。

オレゴン出身のグレート東郷のリングコスチュームは股引スタイルで、窮地に陥ったときには決まって卑屈な懇願をし、その後突然豹変して「股間への蹴り」や塩による「目潰し攻撃」といった反則技で相手を窮地に貶めることを売り物にしました。

卑屈にも許しを乞うた後のいきなりの反則、というのがお決まりのパターンで、これは観客に「日本軍のだまし討ち」とされていた真珠湾攻撃を連想させました。無論、その後は大反撃に遭い、負けを喫しますが、観客にとってすれば、卑怯な日本人を見事成敗できた、ということで心晴れ晴れ帰宅できるわけです。

一方のハロルド坂田のほうも同様なキャラでしたが、彼の場合は、1964年の映画「007 ゴールドフィンガー」にも出演。悪役ゴールドフィンガーの部下で、ツバに刃物を仕込んだ山高帽を投擲する用心棒を演じました。同作品の世界的なヒットにより坂田は一躍有名な存在となり、以降20年にわたり俳優として映画やテレビに出演しました。

このほか、日本でも活躍したことのあるドイツ人のハンス・シュミット、スラブ系のイワン・コロフ、アラブ系のザ・シークなどをご記憶の方も多いと思いますが、なんといっても日本で有名なのは、正体不明の覆面レスラー、ザ・デストロイヤーでしょう。

ニューヨーク州バッファロー出身のドイツ系アメリカ人で、本名はリチャード・ジョン・ベイヤー。現在なんと88歳です。デストロイヤーは、昨年、日米両国の友好親善及び青少年交流に貢献してきた実績が評価され、秋の叙勲で、外国人叙勲者としては初めての旭日双光章を受章しました。

このほか、ジャイアント馬場もアメリカ修行時代にはヒールとして活動しており、日本でも力道山が活躍した時代には、外国人=ヒールという図式のもと、アメリカ人の悪役を力道山ほかの日本人レスラーが倒す、というのが定番の流れでした。

とくに、戦勝国であるアメリカの大柄なレスラーを、敗戦で意気消沈した日本の小柄な力道山が倒すという展開に当時の日本のファンは熱狂したものです。

ヒールの終焉と新時代

しかし、1980年代以降、次第にヒールは姿を消していきました。とくに1983年にロード・ウォリアーズがNWA世界タッグチーム王座を獲得した以降、単純な勧善懲悪の時代も終わり、1990年代にはストーン・コールド・スティーブ・オースチンやジ・アンダーテイカー、に代表されるような、「かっこいいヒール」が人気を博すようになりました。

ヒール=アンチヒーロー、という不思議な現象が起き、日本では蝶野正洋、鈴木みのる、藤田和之、またノーフィアーやラス・カチョーラス・オリエンタレスといった、悪役っぽいんだけどなぜか「カッコいい」というキャラが受けるようになりました。

こうした「風」を受け、かつてベビーフェイスだったレスラーが、ヒールに転向する、といった逆転現象も起きるようになります。これを「ヒールターン」と呼びます。

興行自体がマンネリ化するのを避けるためであったり、レスラー自身のベビーフェイスでの人気が今一つであったり、陰りが見えてきた場合や、若手レスラーのキャラクター作りのために行われるものです。従来は単純に善との戦いというパターンであったのに対し、悪役の幅をより広げることで、プロレスの復権を図るねらいがありました。

現在では、レスラーが新人・若手・中堅を経てトップレスラーへと上り詰めてゆく過程において、こうしたヒールターンがよく行われます。リング上のパフォーマンスで観客の心理をコントロールするスキルと演技力を身につけるためには有効と言われ、その実践訓練としてヒール修行は必須ともいわれるようになりました。

いわばトップレスラーを目指すにあたって超えるべき関門の1つともいえ、実際、ヒールレスラーのパフォーマンスに憧れてプロレス入りした者も珍しくはなく、自ら志願してヒールターンする、あるいは最初からヒールとしてデビューするケースもあります。

ヒールにターンする場合、観客が理解しやすい様に、他のベビーフェイスレスラーを襲撃する、リング上で仲間割れを起こす、コスチュームや髪型を変えるなどの派手なパフォーマンスを行うのが普通で、この豹変ぶりをみて、観客が驚き、次には熱狂する、というパターンがほとんどです。

エース候補と注目を浴びている若手選手が、ある日突然ヒールターンして狂人やエゴイストの様な振る舞いをする、という筋書きが組まれる場合もあります。

長期的なキャラクターイメージや販売戦略を考えた場合にはマイナスとなりかねなませんが、「若さゆえにフロントに反逆し、世代闘争を掲げて現エースという大きな壁に歯向かう」といった筋書きは、意外性を持って観客にアピールしたりもします。

キャラクターの立ち位置はヒールでありつつも、リング上での成長物語的な要素も絡めて単純な悪役像に落とし込まない様にうまくストーリー立てているわけであり、ここまでくるとプロレスというよりも何か演劇を見ているような気分になります。

実際、演出もいろいろ工夫されていて、ヒールターンを選手が自ら行動を起こす、といったケースだけでなく、ヒール軍団による勧誘される、といったパターンがありますが、無論、これは選手が所属する団体経営陣やプロモーターの判断によって決められ、了承されている演出であるわけです。

このため、選手によっては不本意ながらヒールに転向しているケースやもあります。この場合、それまでベビーフェースもしくはスター選手であった選手が1年以上長期欠場し、後遺症に悩まされ以前のファイトが出来なくなる、といった悪影響も時にはあるようです。

ヒールキャラクターには不向きな性格の者がヒールを演じているケースも少なくないようで、偽りのプロフィールに嫌気がさしたり、基本的な試合運びができないといった事態により、試合中に負傷してしまい、短期間で引退を余儀なくされてしまった選手もいるといいます。

希にデビュー前の新人をヒールとして売り出すために架空のプロフィール、たとえば元不良や暴走族出身といった出自をぶち上げ、デビュー戦でラフファイトの試合を行わせていたこともあったといい、ここまでくると明らかにやりすぎです。

プロレスにしても、それ以外のスポーツや一般社会においても、敵役的なヒールは「必要悪」であることは間違いありませんが、元々は悪ではない人間を悪役に仕立てる弊害というものはいつかどこかで出てくるものであり、本人の人格を尊重するうえにおいても、行き過ぎは戒めなければならないことです。

現在大きな話題になっている、森友学園問題における国会答弁を見ていると、なにやらこうしたプロレスのラフファイトと似ているようにも思えてしかたがないのは、私だけでしょうか。

誰がヒールなのか、あるいはベビーフェイスなのか、日に日にわからなくなってくる様相ですが、「観客」としての我々国民にとってわかりやすい構図としては、さしずめヒールは政府与党、ベビーフェイスは野党ということになるのでしょう。

が、はたしてこのヒールはもともと善玉だったのかどうか。実はもとからヒールではなかったのか、あるいはベビーフェイスも実はヒールなのではないか、とも思ったりもするわけですが、さてさて、みなさんはいかがでしょう。




おもちゃの未来

アメリカのトイザラスが、国内全店舗を閉鎖、というニュースが飛び込んできました。

債務総額は、昨年4月末時点で52億ドル(約5800億円)にも達していたといい、その背景には、Amazon.comをはじめとするインターネット通販の台頭や、ウォルマート・ストアーズなど、大型量販店の安値攻勢があるようです。

業績不振を受け、既に昨年の9月、連邦倒産法の申請を出していたとのことで、これは日本の民事再生法に相当します。以後、店舗およびネットを通じての営業は続けていましたが、ここへ来てどうやら持ちこたえられなくなったようです。

アメリカでのネーミング、「TOYSЯUS」または、「TOYS“Я”US」であり、ほかのお店とはちょっと違うのよ、といったアピールが受けたようです。日本法人のトイザラスの商標も「トイザらス」と一文字だけをひらがなにする、といったさりげない?アピールがあり、初めて見たときには、なかなかうまい商標だな、と思ったものです。

1948年、アメリカ・ワシントンで子供家具・洋品店「Children’s Bargain Town」を創業した、チャールズ・ラザラスという人が、玩具専門コーナーを設けたことに始まります。トイザラスの“ザラス”は、無論この人の本名から採ったものでしょう。

その後世界各地に店舗を誘致するようになり、イメージキャラクターとして採用した「ジェフリー」というキリンも世界中で人気者になりました。

2005年、米投資会社コールスバーグ・クラビス・ロバーツに買収されましたが、どうやらこのころからおかしくなっていたようです。2012年には、全米で子供向けタブレットの「タビオ」を発売しましたが、発売前、開発に関わった関連会社から企業秘密を盗んだとして訴えられるなど最初からつまづき、その後も販売は伸びていません。

日本トイザらスは?

日本への進出は、1991年のことであり、同年12月20日に茨城県稲敷郡阿見町に1号店となる荒川沖店が開設されました。牛久大仏のある牛久の近くにある街で、なんでこんなところに、と思うのですが、近くには柏市や成田市、つくば市といった大都市もあり、とくに、関東東部、北部の住民の潜在需要がある、と考えたのでしょう。

折りしも当時は日米貿易摩擦の最中でもあり、大きな話題となりました。2号店である奈良県橿原市の橿原店の1992年1月のオープンに際しては、当時のアメリカ合衆国大統領、ジョージ・H・W・ブッシュまでもが視察に訪れました。

この当時、アメリカからみれば、トイザらスは日本が課している高い関税の障壁打破の目玉的存在とみなされていたわけです。

以来、日本各地に、独立店舗だけでなく、スーパー・百貨店・ショッピングセンターのテナント、といった形で次々と出店し、2000年11月には100店舗目(としまえん店)が開店。現時点(2018年3月時点)では、姉妹店であるベビーザらスを加えると162店舗を展開しています。

その出店傾向をみると、とくに関東や関西などの人口集中地域では、郊外や再開発地域に出店し、店舗面積を確保しているのが特徴で、ここ伊豆においても、トイザらス・ベビーザらス 長泉店(駿東郡長泉町)があって、ここは近年都心からの移住者が増えている土地柄です。

しかし、日本トイザらスのほうの業績も思わしくないようで、2010年には、納入業者への不当な値引きや返品の強要による独占禁止法違反の疑いで、本社や物流センターなど数か所で公正取引委員会の立ち入り検査を受けています。日本での創業以後、閉店した店舗も多く、筆者のカウントした限りでは33店舗にのぼります(移転を含む)。

アメリカ本社の営業悪化の影響も受けたのか、昨年7月には上場廃止しており、このとき米トイザラスが日本トイザらスの株を買い付けて完全子会社化した、という経緯もあり、米本社の倒産を受け、今後ともまったく影響がない、というわけにはいかないでしょう。

経済の専門家ではないので、あまりエラそうなことは書けませんが、いずれはどこかの大手の企業に吸収合併、といったことになるのではないでしょうか。日本トイザらスは、1994年より写真館チェーンのスタジオアリスと提携しており、多くの店舗でスタジオアリス店と店舗面積を同居していますから、可能性はあるかもしれません。

このほか、玩具メーカーのタカラトミーとは、「リカちゃん人形」を通じて提携、任天堂も、日本トイザらス限定のゲームボーイカラーなどをリリースしていることから、こうした会社の傘下に入ることもあるのかもしれません。また、デンマークの玩具メーカー、「レゴ」も 多数の限定発売商品をリリースしており、こちらの可能性もあるのでしょう。

一時期は、「おもちゃ業界の黒船」と騒がれ、一世を風靡した感のある会社ですが、今後の去就が注目されるところです。


玩具店よ、どこへ行く

それにしても、日本のおもちゃ屋の数がここのところ激減しています。無論、このトイザらスの日本進出の影響が大きいわけですが、それだけでなく、トイザらスが1991年 に日本一号店を出店して以後は、他社の店も含め 90 年代以降大型店が急速に増加し、これらの大規模店舗に玩具売り場が併設されたのが原因と考えられます。

「玩具・娯楽用品小売業」の商店数は70年代まではうなぎのぼりで、 1979 年には 17,812 店と過去最多を誇っていましたが、90 年代半ば以降になり、一転してその数を急減させています。

無論、トイザらスをはじめとする大型店が増えたことが原因です。1985 年には、日本国内において、売場面積 1,000 ㎡以上の大型店はわずか11 店しかなかったものが、97 年になると 103 店(85 年比 92 店増)に増加し、なかでも売場面積が 3,000 ㎡を超える大型店が 85 年の 0 店から一気に 41 店に増加しました

2000 年以降も大型店の増加は続き、とくに2000 年には、大型店の出店を規制していた大店法が大店立地法に代わりました。これにより、 1,000 ㎡未満の店が規制対象から外れたこともあって、1997~2002 年の間には特に 500~1000 ㎡未満クラスの商店数が大幅に増加。2000年代後半以後も 3,000㎡以上の店を中心に大型店はさらに増加しています。

こうした大型店の増加は多くの中小小売店の減少をもたらすことになり、ピーク時には約 1万5千店あった中小小売店は次々と廃業し、2007 年には 1 万店を割りました。

かつて「おもちゃのハローマック」というお店が日本中にあったのをご記憶かと思います。城をイメージし、ピンクのラインが入った白い外壁にギザギザがある建物をあちこちでよく見かけたと思いますが、2008年に撤退しており、同系列の会社が運営して現在も残っているものは、だいたいが靴屋になっています。

以後も玩具店の減少は続き、2014年の経済産業省のデータによれば、中小玩具店の数は6364軒となっており、2007年のレベルをさらに割り込んでいます。

同じ統計によれば、人口10万人あたりの店舗数は、和歌山県が最も多くて6.69軒ですが、県内にあるおもちゃ屋さんの数はわずか65軒しかなく、最も多い東京都の798軒の1割以下です(東京は10万人あたり5.96軒で9位)。また、最下位の宮崎県にいたっては、30軒しかなく、10万人あたり2.69軒という寂しさです。

2位以下は愛媛県、岡山県、栃木県、鳥取県と続いており、傾向としては、関東から中国・四国地方にかけておもちゃ屋が多いようです。全国平均では人口10万人あたり5.01軒となっており、関東でいえば伊勢原市、関西でいえば池田市あたりが人口ほぼ10万人ですから、これだけの規模のある町に5軒ほどしかおもちゃ屋がないことになります。

ちなみに、同じく減少傾向にある書店は人口10万人あたり全国平均が7.03店、スポーツ用品店が11.07店、文房具店が6.07店ですから、おもちゃ屋の数がいかに少ないかがこれらとの比較でもわかります(私の好物、ラーメン店は全国平均で25.17軒です(^_^;))。





大人のおもちゃ

こうした中小規模の玩具店が激減したそもそもの原因が、トイザらスの日本進出だったとしたなら、それが仮に今後消えてしまうとして、その更なる復活はあるのでしょうか?

少子化が進む中、なかなか難しいと思うわけですが、しかし、おもちゃを使うのは子供とは限りません。最近は「大人のおもちゃ」というのもかなり増えてきており、おもちゃ業界の復権にあたっては、大人も遊べるおもちゃの新たなる開発というところが鍵になると考えられます。

近年は、子供向けだけでなく、大人向けの玩具がずいぶん増えてきており、あるいはその走りは、ジグソーパズルやルービックキューブだったかもしれません。他のパズルやゲーム類でも大人が楽しく遊べるものが増えており、近年ではハイテク化が進み、癒しを与えるロボットなども玩具の一種として重宝される時代になってきました。

ソニーの犬型ロボットAIBOが12年ぶりに復活した、というニュースを見た方も多いでしょう。また、かつてタカラトミーから発売されて好評を博したバウリンガルなどは、いまやiphone用があるそうで、ワンちゃんがあなたの気持ちを代わりにツイッターでつぶやいてくれる、といった機能まであるとか。

かつて、我々50代や60代の憧れの的だったラジコン飛行機は、いまはドローンというハイテクおもちゃに姿を変え、より安価に楽しめるものになっており、かつて「テレビゲーム」と呼ばれたコンピュータゲームは、高年齢層までも取り込んだ幅広い支持層を獲得しつつあります。

さらにはVRという略称で広まりつつあるバーチャルリアリティに至っては、人工知能を駆使して仮想空間を生み出す「近未来型玩具」であり、単なる玩具としてだけではなく、セキュリティ、訓練、医療、芸術など生活に密着した領域における補助用具として、その機能は加速しつつあります。

一方では、昔ながらの蒐集(しゅうしゅう)の対象として、「おもちゃ集め」を楽しむ向きも増えてきています。「なんでも鑑定団」のようなテレビ番組を見て集めはじめた人も多く、中には転売目的で集める人もいるようですが、昔からある骨董集めの延長線上で玩具集めを楽しむ人も増えてきているようです。

「おもちゃの文化史」などの著作があり、アメリカ映画「マリー・アントワネット(2006年公開)」の原作者としても知られるイギリスの小説家、アントニア・フレイザー女史は、玩具を「成長後も子供時代を懐かしく思うもの」と述べ、大人でも楽しめるものであるし、また、集めることができるのは大人の特権だ、といった意味のことを書いています。

近年、女性向きには、16世紀に始まったと言われるドールハウス、フランス人形といった分野に愛好家が多いようですが、男性ではレトロなおもちゃ、ソフビ人形、超合金、カードといったものが人気を集めています。

無論、古いものばかりではなく、新しく出たおもちゃを収集して楽しむ、といった向きもあるようで、各種フィギアなどがその代表例であって、こうしたものを展示販売する「ホビーショップ」も増えており、年期の入った「オタク」さんたちも増えてきました。

こうした蒐集目的の玩具集めは、明治時代からあり、「おもちゃ番付」といったものが作られたりもしていたそうです。また、人形蒐集家の集まりが「大供会」を結成して機関紙の発行なども行っていたといい、この「大供」とは「子供」と対を成す造語です。

こうした活動の現代版ともいえるものが「おもちゃショー」といった玩具メーカーのイベントでしょうか。毎年東京のビッグサイトで行われる催しに参加するのは子供よりもむしろ大人の方が多いようです。

未来のおもちゃ

このように、最近おもちゃは大人向けに拡散する傾向が強いようですが、一方では、少子化が進んでいるとはいえ、「ハイテク玩具」として子供向けにリリースされるものも増えています。

とくに、メディアミックスを用いて漫画やアニメーション、インターネットなどと関連させ市場への訴求力を高めた玩具が販売されおり、従来型の「手で持って遊ぶ」タイプの玩具を製造販売する企業の市場を脅かしています。

こうしたハイテクおもちゃに長年の市場を奪われていることに対抗し、昔からの玩具をテレビゲーム化してインターネットで対戦できるような分野に進出してその販売力を高めている企業もあります。さらには、日本国内がダメなら海外進出もある、ということで積極的に世界進出している玩具メーカーも増えています。

世界の玩具市場は、現在のところ推計で年700億ドル以上とされており、これは日本円では8兆円規模の市場になります。

世界的な人口増加に比例して、毎年5~6%の伸びがあるといい、日本を除くアジアやアフリカ、ラテンアメリカそしてロシアでは今後も伸びが期待されているようです。こうした市場を前に、玩具を大量生産で提供する多くの企業が、コスト削減のために低賃金の地区に工場を構えており、たとえばアメリカで流通する玩具の75%が中国製です。

さらに、世界をリードする最先端技術がこうした次世代の玩具とコラボする時代もそこまで来ているようです。

マテル社と並んでアメリカを代表する世界規模の玩具メーカーで、ロードアイランド州ポータケットに本拠を置く玩具メーカー、ハスブロ社は、先日、3Dプリントメーカーとタイアップしておもちゃを販売することを発表し、おもちゃ用の3Dスキャンの特許を取得した、と発表しました。

スマホをセットしてハンドルを回すとおもちゃの3Dデータが作れる、といったシステムらしく、「簡易3Dスキャン」のようなもののようです。取得した3Dデータはアバター(自分の分身となるキャラクターのこと)やゲームの素材として使用したりすることは無論、将来的には3Dプリンターでコピーし、現物で使えるようになるかもしれません。

遅かれ早かれスマホに3Dスキャンの機能が搭載される時代が来るのは目に見えており、そうした時代が来れば、仮想現実だけで終わるわけはなく、現物を3Dコピー機で手に入れたい、とする向きも増えるでしょう。

誰でも簡単手軽に物をデータにしてネットで配布したり、改変できるようになってしまう時代がくるかもしれず、そうした未来の子供は、自分のおもちゃすらも3Dプリンターで作り、新たなおもちゃを創りだすようになっているのかもしれません。

あなたの息子さんや娘さんに投資し、今からベンチャー事業を立ち上げる準備をはじめてはいかがでしょうか。




ホーキング博士の遺品

ホーキング博士が亡くなりました。

スティーヴン・ウィリアム・ホーキングは、1942年1月8日、イギリス生まれの理論物理学者であり、一般相対性理論と関わる分野で理論的研究を前進させ、1963年にブラックホールの特異点定理を発表して世界的に有名になりました。

1970年代には、宇宙創成直後に小さなブラックホールが多数発生した、とする説や、ブラックホールは素粒子を放出することによってその勢力を弱め、やがて爆発により消滅する、とする理論(ホーキング放射)を発表し、これがその後「量子宇宙論」という分野を形作るところとなり、現代宇宙論に多大な影響を与えた人物です。

20歳前、学生のころに筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、余命5年程度と宣告されました。しかし、途中で進行が急に弱まり、発症から50年以上にわたり研究活動を続けました。晩年は意思伝達のために重度障害者用意思伝達装置を使い、コンピュータプログラムによる合成音声でスピーチや会話を行っていました。

その生涯

父親はオックスフォード大学で医学を学び、母親も同大学でPPE(哲学・政治・経済の学際領域)を学んだ才媛です。第二次世界大戦中、両親が暮らしていたロンドンは爆撃を受けており、母が疎開していたオックスフォードで彼が誕生しました。ほかにフィリッパ、メアリーという二人の妹と、エドワードという、養子縁組による兄弟がいます。

両親は子供たちの教育に力を入れており、とくに父のフランクはスティーヴンを評価の高いWestminster Schoolに入れたがっていました。しかし、家計の状況は苦しく、奨学金無しで通わすのは困難であったため、地元の標準的な学校に通うところとなりました。

しかし、このことが彼にとってはよかったようです。幼少期はむしろのびのびとした教育環境で過ごすことができ、仲の良い友人たちとボードゲームをしたり、花火を作ったり、模型飛行機やボートで遊ぶ、といったことなどが情操面ではプラスに働き、その後の優れた人格の形成に寄与したと考えられます。

宗教的な色合いの強い学校でもなかったことから、キリスト教など特定の宗教に偏った考え方を持つこともなく、また、友達とはオカルト的なことも平気で話し合うことができました。超常現象についても興味があったといい、こうした方面から次第に科学に興味が向いていったようです。

16歳のころには、学校の数学教師の助けも借りつつ、親しい仲間たちと、時計部品、電話交換機、中古部品などを使って計算機を作りあげたといい、こうしたことから、学校では「アインシュタイン」というあだ名で呼ばれていたそうです。

しかし、成績はそれほどでもなかったようで、ただ、理数系の分野では優れており、恩師に勧められて大学で数学を学ぼうと決意しました。とはいえ、自らも医者だった父は、数学専攻で卒業した人には職が少ない、という理由から、彼に医学を学ぶことを勧めました。

父のフランクはまた、自分の出身校であるオックスフォード大学で息子が学ぶことを望んでいました。結局、医学部には入りませんでしたが、1959年10月に17歳で、オックスフォード大に奨学生として入学。当時同校には希望していた数学科がなかったため、ここで物理と化学を学ぶことになりました。

幼少のころの学力はそれほど秀でたものではなかったものの、彼の学才はこのころから飛躍的に伸び始めます。入学したのちに学んだ物理化学の領域は、彼にとって退屈なほど簡単だったようで、彼に言わせれば、「ばからしいほど簡単」でした。

その一方で、第二学年、第三学年と学年が進むにつれ、学生生活も謳歌するようになります。クラシック音楽を通じて多くの友人を得るとともに、サイエンス・フィクションに興味を抱いている者たちのグループとも交流するようになりました。

さらにスポーツでもボート部に参加するようになり、ボート部では、コックス(舵手)役を務めていたといいます。

こうした学業だけでなく、いわば「遊び」の部分にも慣れ親しんだところが、子供のころから英才教育によって育てられた温室育ちの秀才とは異なるところです。幼少期にごく普通の学校でのびのびと過ごし、充実した大学生活も満喫できた、といったことは、その後、世界的に知られるようになる天才の人格形成に大いに役立ったと考えられます。




この学生時代、彼はまた数々の恋愛経験をしたようです。なかでも同じ大学で文学を学んでいたジェーン・ワイルドと懇意になり、その後二人は結婚することとなります。

オックスフォード卒業後は、21歳でケンブリッジ大学大学院、応用数学・理論物理学科に入学。ところが、このころ、 検査で「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」と診断されます。しかし、恋人だったジェーンの献身的な助けもあり、なんとかこの困難な時期を乗り切りました。

体が次第に自由に動かなくなり、医者からは余命わずかとされますが、親の反対を押し切り、二人は結婚します。やがて男児が生まれ、ブラックホールに関する博士論文を教授たちから絶賛されるに至ります。

このあたりのことは、2014年にイギリスで製作された伝記映画、「博士と彼女のセオリー」の中にも詳しく描かれているので、ご興味のある方はビデオレンタル店で借りて鑑賞してみてください。

その後、24歳でケンブリッジ大学トリニティー校で博士号を取得。「特異点定理」「ブラックホールの蒸発理論」などの発表などで高い評価を得て、ロンドン王立協会フェローに選出されたほか、1975年には、業績を讃えられ、ローマ教皇庁から「ピウス11世メダル」を授与されるなどの栄誉を得ています。

1977年、35歳のときにケンブリッジ大学の教授職を得て以降は、一般人向けに現代の理論的宇宙論を平易に解説する「サイエンス・ライター」としての才能も開花しました。その著作群は日本をはじめ、各国で翻訳され、「ホーキング、宇宙を語る : ビッグバンからブラックホール」は、世界的なベストセラーにもなりました。

しかし、そんなさなか、公演の最中に倒れ、死か気管切開かと医者に迫られ、声が出なくなる後者を選択。以後、「スペリングボード」を使う生活を強いられるようになりますが、有能な看護師を雇い、他者とコミュニケーションがとれるようになるまで回復しました。

その後、埋め込みの音声合成器を使いながら自ら音声を発することができるようになりますが、それまでの声が出ない生活において彼を支えたこの看護師こそ、その後彼の二番目の妻となった、エレイン・マンソンでした。

以後、昨日の逝去まで、難病を抱えている人物とは思えないほどの活動的な日々を送っています。2001年には来日し、東京大学安田講堂にて一般講演を行っているほか、2007年には、アメリカでゼロ・グラビティー社の専用機「G-フォースワン」に搭乗。車いすから離れた無重力体験まで経験しています。

2009年、ケンブリッジ大学の教員退職規定により9月の学年末に大学を退任しますが、その後も同大学に留まり、応用数学と理論物理学部の研究責任者を務め、研究活動を続けていましたが、昨日、ついに76歳で亡くなりました。20過ぎのころに、医者からは余命5年と言われたのに関わらず、その後50年以上を生きたことになります。


名言の数々

ホーキング博士は、その生前、数々の名言を残したことでも知られ、多くの人を勇気づけました。

人生訓も多く、例えば、次のようなものがあります。

・人生は、できることに集中することであり、できないことを悔やむことではない。
・自らの行動の価値を最大化するため努力すべきである。
・期待値が「ゼロ」まで下がれば、自分に今あるものすべてに間違いなく感謝の念が湧くはずだ。
・人は、人生が公平ではないことを悟れるくらいに成長しなくてはならない。そしてただ、自分の置かれた状況のなかで、最善をつくすべきである。

ネットを探ればそれこそ山ほど博士の「名言集」が出てくると思いますが、そうした中で、私がとくにいいな、と思うのは次の一節です。

一つ目は、足元を見るのではなく星を見上げること。
二つ目は、絶対に仕事をあきらめないこと。仕事は目的と意義を与えてくれる。それが無くなると人生は空っぽだ。
三つ目は、もし幸運にも愛を見つけることができたら、それはまれなことであることを忘れず、捨ててはいけない。

父親としてどんなアドバイスを子どもたちに伝えていますか?という質問に対して答えたものだそうですが、どうでしょう。厳しい人生を歩む上で、一般の人々にも響く言葉だと思いませんか?


私生活

ホーキング博士は、私生活では、前妻のジェーン・ワイルドとの間に、3人の娘・息子を授かっています。が、26年間連れ添った後、1991年に離婚。上述のとおり、その4年後の1995年に看護師のエレイン・メイソンと再婚したものの、2011年に再び離婚しています。

最初の妻との離婚のころから有名になり出したようですが、地位、名声、富などを一気に手に入れたことで生活が変わってしまったことが離婚に至った大きな理由とも言われているようです。

再婚相手であるエレイン・メイソンさんは、博士のために特注のパソコンを作ってくれた人の元妻だったといい、おそらくはその試用の際の立会などで知り合い、そのまま看護して雇い入れたあと、恋愛関係に発展したのでしょう。

ただ、博士の別の元看護師によると、メイソンは 「支配的で計算高く横暴」 な性格だったといい、あるときから、周囲の人間が博士の体に説明のつかない痣や傷があるのに気づくようになったといいます。

何が起こっているのかを博士に問いただしますが、博士もメイソンも虐待を一切否定。警察にも届けたものの、博士が断固として協力を拒んだため捜査もできなかったといい、そのまま2007年に離婚。

そんな彼があるとき、インタビューで、「1日のうちで最も多く考えていることは何ですか?」と、聞かれたそうです。おそらくインタビューワーは、何か難しい話を期待していたのでしょうが、返ってきた答えはというと、「女性のことだ。彼女というのは、実にナゾに満ちてる存在なんだ」というものだったそうです。

世界的に高名な科学者、天才と言われた人でありながら、私生活、とくに女性面ではいろいろ悩み多き人であったようです。




スピリチュアルに対する見解

一方、この世界的な科学者が神や宗教、あるいは、スピリチュアル的なことに関して、どう考えていたか、についても興味があるところです。このうち神については、若い頃には次のように発言していました。

・宇宙がどうして存在するのか知りたい、なぜ無より偉大なものがあるのかが知りたい。
・宇宙に始まりがある限り、宇宙には創造主がいると想定することができる。
・神の概念に触れずに宇宙のはじまりを論ずるのは難しい。
・神は存在するかもしれない。とはいえ、創造主ぬきでも、科学で宇宙を説明することができる。

世界的ベストセラーとなった「ホーキング、宇宙を語る(1988)」においても、「神というアイデアは、宇宙に対する科学理解と必ずしも相いれないものではない」と記しており、彼の中では神そのものを否定する気持ちはなかったようです。しかし、その四半世紀後、彼の神に対する態度は著しく厳しいものになりました。

2010年の「ホーキング、宇宙と人間を語る」では、「宇宙の創造に神の力は必要ない。宇宙創造の理論において、もはや神の居場所はない。」と述べており、「物理学における一連の進展により、そう確信するに至った」、とも語っています。

その晩年、こうも語りました。

「わたしはこの49年間、死と隣り合わせに生きてきた。死を恐れてはいないが、死に急いでもいない。やりたいことがまだたくさんあるからね」
「死は脳というコンピュータが機能を停止したに過ぎない。天国も死後の世界もない。それは闇を恐れる人のおとぎ話だ」

こうした発言から、晩年の彼は死後の世界を信じておらず、おそらくは、スピリチュアル、といったことに対しても、否定的だったと推測されます。

一方では、人間そのものも「不完全なもの」という考えがあったようで、「不完全さがなければ、あなたも私も存在しないだろう」という、意味深な言葉を残しています。不完全だからこそ、この世に生まれてきて、それを是正することこそが人生だ、と言いたかったのでしょうか。だとすれば、なにかしらスピリチュアル的な発言ではあります。

さらに、「人工知能」については、昨今将来人間の脅威になるとして、次のような言葉を残しています。

「すでにわれわれが手にしている初期形態の人工知能は、非常に有用であることが分かっている。しかし、私の考えでは、完全な人工知能が開発されれば、人類は終焉を迎える可能性がある(2014年、英BBC放送とのインタビューから)。」

いずれ、人工知能によって人類が脅かされる時代が来ることを示唆するものであり、この発言は、人工知能の開発による危機の訪れを世界に警鐘するもの、として一時期大きな話題になったことは記憶に新しいところです。

そんなホーキング博士もついに亡くなってしまいました。

彼が否定するあの世において、眼下の我々を眺めながら、生前の自分のこうした発言をどう考えているでしょう。あるいは、これはあの世ではない、おまえたちの想像の中にあるお伽噺だ、と未だに考えているのでしょうか。


後を継ぐ者

ところで、そのホーキング博士が生前、その能力を高く評価した、新進気鋭の理論物理学者がいました。

リサ・ランドール(Lisa Randall、1962年6月18日 )さんといい、アメリカ合衆国の理論物理学者で、専門は、素粒子物理学、宇宙論です。2001年、ハーバード大学から終身在職権を与えられ、現在もハーバード大学物理学教授であり、プリンストン大学物理学部で終身在職権(tenure)をもつ最初の女性教授となりました。

また、マサチューセッツ工科大学およびハーバード大学においても理論物理学者として終身在職権をもつ初の女性教授であり、1999年、ラマン・サンドラム博士とともに発表した「warped extra dimensions(ワープした余剰次元)」により、物理学会で一躍注目を集めるようになりました。

2002年 – 欧州原子核研究機構(略称:CERN)で行われた、CERN理論物理学研究会では、生前のスティーブン・ホーキング博士から隣の席を薦められており、こうしたことから、博士も彼女の業績を高く評価していたことがわかります。

2007年には、米「タイム誌」により、「世界で最も影響力のある100人」の一人に選出されており、同年には日本も訪れています。このときは、脳科学者・茂木健一郎さんとも対談しており、この対談を兼ねて、東京大学・小柴ホールで来日記念講演を行いました。

このリサ・ランドールが着目されているのは、高次元世界(5次元、6次元など)の存在を理論的に提唱し、物理学の世界に革新をもたらしたとされる点です。タイムスリップの話でよく出てくる4次元空間を超えてそのさらに上の次元があるとしたものであり、これはいわゆる「あの世」と直結するものではないか、とする議論が沸き起こっています。

恐竜の絶滅に関して、「ダークマター」の力が関与していたのではないか、とする説も展開しており、その可能性について論じる新著「ダークマターと恐竜絶滅(NHK出版)」なども話題となっています。、ホーキング博士以外では、昨今、大きく着目されている人物であり、今後ともにその言動に目が離せない人物となっていくでしょう、

2016年の7月に、超常現象などのニュースを配信するネットサイト、「トカナ(運営会社は出版社のサイゾー)」が、来日中のランドール博士への独占インタビューを敢行しています。

このインタビューでは、ダークマターをはじめとする最新の研究成果からAIなどの近未来技術などのインタビューのほか、幽霊や超能力といった超常現象、果ては人間の愛と心、そして博士の私生活のことなどが語られたようですが、ネットではその一部が公開されているようです。

この中で、記者の「意識や愛の感覚といった事象は、時空を超えて伝わるものでしょうか?」という質問に対して、ランドール博士は、

「例えば音楽について考えたとき、音が科学的にどのように伝わるのか、そのとき脳がどのように反応するかは科学的に解明されている。しかし、それは音楽そのものを理解するということではなく、音楽の本質はそれ以上のものである。抽象的な物事というのは、より高い階層に存在しているのでは。」

「(中略)高い階層にある抽象的な事象が時空を超えて伝わるか、といった物事の仕組みを解釈するには、さまざまな観点があるとしか言えない。」

と答えています。「時空を超えるものであるかどうか?」という問いに対して、それを否定こそはしていませんが、明確な回答もなく、さまざまな観点がある、としています。ただ、「高い階層」というのは、あるいはあの世の存在を意味する発言かもしれません。

さらに、「幽霊や超能力といったものは科学的に分析可能なのでしょうか?」という質問に対しては、

「それは現実を超越したものであり、今の我々の科学では検証しようがない。しかしそれを言い換えれば、今後の進展によっては検証可能な余地が残されていると考えられるのかもしれない。」

以上のように、さまざま観点がある、検証可能な余地が残されている、といった回答は、将来的に解明される可能性もある、という可能性を示したものでもあり、彼女自身がその残りの人生で明らかにしていきたい、という意欲を示したものでもあります。

さらに、今後、そうした未知の世界を解き明かす可能性があるとされる「ダークマター」については、

「ダークマターの研究は、少しずつ進んできてはきているものの、まだその特質さえよくわかっていない。未だに網羅しきれていない可能性もあり、これまでまとめてきた結果や現存するデータをどのように解釈するかという点を突き詰めていきたい。」

といったふうに応えています。

ダークマターこそ、今後、スピリチュアルの不思議を解き明かす鍵になっていくようです。21世紀最高の頭脳を持つと言われたホーキング博士亡きあと、彼をしのぐ理論を打ち立て、ぜひとも「あの世」の原理を見極めていただきたいものです。




カーリングの科学

冬季オリンピックが終わって、ひと段落しました。まだ、パラリンピックが開催されている最中ですが、それも今週末で終わってしまうようで、さみしい限りです。

それにしても、銅メダルを獲得したカーリング女子の活躍には日本中が沸きましたね。北海道、常呂町の「LS北見」の美人カーラーたちの、最後まであきらめない精神にはおおいに学ぶべきところがありました。

この常呂町がどこだったかな、と改めて地図をみたところ、道東第二の町、網走のやや北西部になります。

その昔、仕事で何度か網走には行ったことがあるものの、日帰りも多く、この町まで足を延ばすことはありませんでした。もっとも、プライベートでは、すぐ近くにある能取湖やサロマ湖に出かけたころもあり、亡き家内とも旅行したことのある場所でもあったことなどを、今思い出しました。

LS北見のLSは、「ロコ・ソラーレ」だそうで、何の意味かなと思あったら、これは常呂町の「常呂」から来ており、常呂の町に育った「常呂っ子」と、「ローカル」から「ロコ」 、そして、 イタリア語で太陽を意味する「ソラーレ」を組み合わせたそうです。

地元常呂から太陽のように輝きを持ったチームになるよう、「太陽の常呂っ子」という意味を込めて名付けた、とチームのオフィシャルサイトにも書いてありました。

ただ、日本カーリング選手権大会など日本カーリング協会(JCA)主管の国内試合では、LS北見として登録されていて、「ロコ・ソラーレ」をチーム名として使用できないのだとか。これは、JCA競技者ユニフォームの規定によるものなのだそうです。

今回のメダル獲得でLS北見の名が世界中の轟いたかと思いますが、その名前の由来も覚えておいてあげてください。

ところで、現在行われているパラリンピックでは、カーリングはないのかな、と調べてみたところ、残念ながら、パラリンピックの正式種目、「車いすカーリング」に関しては、チームJAPANは予選で敗退したため、選手団を送り出すことができなかったようです。

2016年11月4日〜11月10日に行われた、世界車いすBカーリング大会 2016(フィンランド)で、グループリーグ4位、16チーム中全体第8位となった時点で、平昌パラ出場の夢は断たれてしまいました。

この車いすカーリング、ルールは健常者大会とだいたい同じですが、1試合8エンド制であるという点が違います。このほか、1チーム4人で戦うところは同じですが、チームは男女混合で編成されなければならないそうです。

また、ストーンを投げる際、低い姿勢でも投げやすいようにデリバリースティックを用いるのが特徴です。これは杖のようなもので、利き手でもって車イスに座ったまま、杖の先にあるストーンを押し出すようにして使います。

この車いすカーリングと同様に、男女混合で行われるのが、平昌オリンピックから正式種目となったミックスダブルスです。残念ながら、今大会では日本はエントリーがありませんでしたが、アメリカやロシア、カナダ、ノルウェー、韓国 フィンランド、中国、スイスが出場し、決勝戦では、カナダが10-3でスイスを破って金メダルを取りました。

日本の男女混合チームの活躍を見ることができなかったのは残念なのですが、昨夜のニュースでは、平昌五輪で銅メダルを獲得したLS北見と男子のSC軽井沢クラブの選手が、チーム再結成をするそうで、この先開催される大会を前に記者会見の様子を報道していました。

ついこのあいだまでオリンピックで活躍していた美女美男の組み合わせであり、これをテレビで見ながら、タエさんと、まるで結婚発表の記者会見みたいだね、と話していました。それぞれ近いお年頃のようなので、もしかしたらもしかするかも、とミーハーに期待したりもしています。

このミックスダブルスですが、2人のプレーヤー(男性1人と女性1人)から構成されるという点が、通常のプレーと異なりますが、得点方法は、通常のカーリングと同じです。

ただ、ゲームは8エンドから成る、といったところが異なり、これは上の車いすカーリングと同じです。このほかの違いは、各チームの持ち時間は8エンドゲームをプレーするのに48分と短く、各チームは1エンドにつき5個のストーンをデリバリーする、といったところも違います。通常のプレーは、8個でしたよね。

このほか、チームの最初のストーンを投げるプレーヤーは、そのエンドの最後のストーンを投げなければならず、もう一人のチームメンバーは、そのエンドチームの2個目、3個目、4個目のストーンをデリバリーする、と言ったところも違います。ただ、最初のストーンを投げるプレーヤーは、エンドを終了すれば交代しても構わないそうです。

今日から始まるという、第11回全農ミックス日本ミックスダブルスカーリング選手権大会は、18日まで、青森市の「みちぎんドリームスタジアム」で開催されるようです。LS北見とSC軽井沢クラブの男女混合チームがどんな活躍をするのか、目が離せません。試合の放送がある地域ではぜひ鑑賞してみてください。

”カーリング” の物理学的性質

ところで、冬になるとにわかに注目を集めるこのカーリングですが、文字通り、観客の数や熱気が気温を高めて氷の状態を変化させます。会場によっては暖かい会場もあり、エアコンの状態なども異なるほか、アイスの状況も微妙に異なるようです。

従って、いかに氷の状態を読んで精確なショットを放てるかが勝負の分かれ道になりますが、一方では、放たれたストーンの行方を修正する“スウィープ“が重要になります。

このカーリングのストーンが氷上を滑る性質については、運動量保存など力学に基づくことは明らかです。ただ、回転によって曲がる(カールする)性質や、さらに氷との摩擦も大きなファクターであり、それらが組み合わさった結果として、いったいどういう現象が起こっているのか、については、実はまだ実際にはよくわかっていないのだそうです。

より詳しくストーンの動きを考察することは、氷上の摩擦に関する研究途上の科学でもあるといい、とくにストーンのカールと摩擦との関係は一般的な理論化ができない複雑な現象であり、まだ解明されていない部分があるといいます。

さらにはこれに加わるスウィーピングの効果など、実際のストーンの動きは実験と理論の両面から分析されなければならない課題であり、「カーリング」の語源ともなっているストーンの「カール」はそれ自体が、多くの物理学者に対して興味深い問いを投げかけています。

実際、カーリングの物理の実践的な分析も科学者を交えながら行われており、日本カーリング協会でも「研究を通じて選手の独創性や先見性を育て、新たな戦略に結びつけたい」として、2008年より氷やストーンの特性とストーンの動きとの研究を行っているといいます。

カーリングの強国、カナダでは2010年のバンクーバーオリンピックに向けてデリバリーのフォームやスウィーピングの科学的研究を極秘裏に行った結果、現在のように世界ランキング1位の座を獲得できました。今後日本チームがカーリングで強くなっていく上でもこうした科学的分析は欠かせないと考えられます。



ストーンの軌道が大きく曲がる(カールする)という性質は、カーリングのゲームを面白くさせている大きな要素でもあります。衝突の動きが初等的な力学で比較的よく記述されるのに対して、カールの物理的メカニズムは、氷の状態によって大きく変化します。

通常、こうした曲がりの大きさは、仮にスウィープをしない場合においても、元の軌道と比べてストーンの停止までに1メートル前後にも達することがあるそうです。

カーリングの競技場は、標準で長さ約44.5〜45.7メートル、幅約4.4〜5.0メートルのカーリング・シート(アイス・シートとも)と呼ばれる細長い長方形のリンクで行われますが、このシートは薄く氷が張られます。

できるだけ平坦に保つため、アイス・メーカーにより表面にペブル(pebble) と呼ばれる数ミリメートル程度の氷の突起が多数作られ、融けないように氷温は摂氏−5度程度に維持されます。

意外ですが、このぺブルがまったくないアイスの方が曲がりが大きいのだとか。摩擦も大きくなり遠くまで飛ばなくなるといい、ペブルを設けることの意味は、ストーンを滑りやすくするためのものではなく、逆に摩擦の低減に寄与していることがわかります。

また、これも意外なのですが、カーラーがストーンを投げるとき、軽く回転させて投げますが、この回転の速さ(物理学的には角速度という)はカールの効果に大きな影響は与えないのだそうで、その回転は曲がる方向を決めているにすぎないのだといいます。

さらに、早すぎる回転を与えると、ストーンはむしろ余りカールしなくなるのだといい、このため、通常、カーラーたちがストーンを投げる際、その回転の速さが、通常ハウスまで2~3回転程度となるよう、小さく保つようにするのだそうです。

このほか、カールの効果もハウスに近づきストーンの直進速度が小さくなってから顕著になることが知られており、試合を見ていると、最初はあまりまがっていなかったのに、ストーン同士のぶつかり合いになる直前になって急激にその進行方向が変化したりします。

このほか、通常の氷以外の盤面上でリング状の物体を回転させながら滑らせるとき、反時計回りで右に曲がるのに対し、氷上のカーリング・ストーンは逆に曲がることが知られています。例えば左回りの回転を与えながら投げると、氷以外の盤面、たとえば平なコンクリートの上では右に曲がりますが、氷上ではそのまま左に曲がります。

ご自宅の机の上などで、実験してみてもらうとわかるのですが、たとえば反対向きに伏せたグラスなどを同じように左回りに回転させながら滑らせてみると、グラスはカーリングのストーンとは逆向き、すなわちカールの方向は反時計回りで右となります。

これについては物理学的説明がついており、こうした場合の曲がりは、接触面の摩擦力が原因です。グラスの接触面前部における方が後部よりも押さえつける力が大きく、これに回転が加わるとき、接触面前部においては、進行方向右向きの摩擦力の方が後部の左向きの摩擦力より大きくなり、進行方向に向かって右向きの力が生まれるのです。

ところが、カーリング・ストーンの場合はこれとは逆になるため、いったい何故だ??ということが昔から議論になっており、その謎を説明するために1920年代ごろから、いろんな説が現れてきました。

そうした中で、もっともらしい説が出てきたのは、1980年代になってからのことであり、1981年に、カナダの学者で、ジョンストン (G.W. Johnston)という人が、ストーンが曲がる理由は、ストーンの前部で大きくなる摩擦熱によって氷が融け、摩擦係数が低くなるためではないか、としました。

同様に、カナダの物理学者で自身もカーラーでもあるマーク・シェゲルスキー (Mark R.A. Shegelski))という人も、この考え方を支持し、1996年、溶けた水の非常に薄い膜がストーンの接触面に形成されるのだと主張しました。

彼は、圧力の強い前面ではこの膜が厚くなるために、摩擦力を後部より小さくしているとするとし、またストーンが水の膜を引きずりやすい性質をもつ花崗岩で作られていることと関係があると考えました。

摩擦の方向は氷面に相対的な速度の方向ではなく、この引きずられた水の膜に相対的になっているとし、さらにストーンの停止間際では引きずられた膜が一周して前面がさらに厚くなり、一層曲がりやすくなると説明し、こうしたことから予測される性質の一部を実験でも証明しました。

一方では、摩擦によってできる氷の膜が影響しているのではない、という説もあります。ストーンの底面と摩耗によって氷が瞬間的に蒸発して気化熱を奪い、ストーン後部ではむしろ温度が低下して摩擦係数が大きくなるのだといいます。

摩擦による氷の溶融によって曲がり方が左右されるという点は大多数の学者の意見が同じであるものの、その原理についてはまだまだ論争があるわけです。

ごく最近の2012年のスウェーデンのニーベリ (Harald Nyberg) は、ストーンの接触点であるペブル上につけられた高さ0.01ミリメートルに満たない程度の多数のひっかき傷がストーンの軌道を変えているのだとしました。

この説では、進行しつつ回転するストーンは軌道に対して数度程度斜めになった微小な傷をペブルの先端に作ることが原因としています。ニーベリらはこうした傷を顕微鏡写真で調べるとともに、底を磨いて凹凸を少なくしたストーンではカールの効果が現れないことを実験的に示しています。

いずれにしても、ストーンがカールする量は、氷面のペブルの状態やコースの使用状況、氷面の温度、ストーンの速度などに応じて、ストーンとの間で、なにか敏感な変化を起こすために左右される、ということはだんだんと明らかになってきています。

これらがストーンの動きの状況に応じた鋭敏な変化をもたらしていることは確かですがそれをどう予測するかについては、競技者であるカーラーの氷の読みに対する経験とそれにもとづく判断がこの競技において最も重要な要素のひとつとなっていることは間違いありません。

また、これらのことから、投げた石は必ずといってもいいほど曲がる、ということは明らかであり、そのためにその軌道を修正するための「スウィーピング」が欠かせない、というのもこの競技を面白くしている要因です。

スウィーピングの意味

スウィーピングは、方向を微調整するだけでなく、自分のチームのストーンの距離を伸ばしたりするために、ストーンの進行方向の氷をブラシで掃く行為ですが、相手チームのストーンをスウィーピングですることもでき、その結果は、勝敗を左右することが多々あります。

ストーン前面の氷をこすることで、ストーンの摩擦を減少させ速度を保つことができるため、結果的に速度を保ったストーンは、大きくカールし出す地点も遅くなり、またハウス内では曲がったコースのままより先へと進めることができます。

こちらの原理のほうはある程度わかっていて、一般にこの摩擦の減少は、ブラシとペブルとの間の摩擦熱によってペブルの表面をわずかに溶かし、水の膜を形成しているためだと説明されます。

とはいえ、カナダのウェスタン・オンタリオ大学の研究者は、計測の結果温度上昇はわずかなものであり、実際には氷を溶かすのではなく、スウィーピングによって氷の微粒子が形成されてそれが潤滑剤として働いているのだとしています。

またスウィーピングには、ブラシをストーンの進路に対して斜めに置くとする昔ながらのやり方と、直角に置くとする最近のやり方があるそうです。が、前者が均一に氷を暖めるのに対し、後者はムラができ効率がよくないという説もあるようで、これについても競技者によって流儀が違うようです。

このほか、スウィーピングにおいて、遅くても力をかける方がよいか、力が弱くなっても素早くスウィープする方がよいかという2つの選択肢があります。これについては、ブラシの位置だけを考えた場合にはかける力を大きくする方がはるかに効率的です。

しかし、同じ氷を複数回ブラシがこするほうがさらに熱が発生するため、全体としてはハウスの近くでは素早くスウィープする方が効率的なのだそうです。ただしストーンが素早く動いている間は同じ場所をスウィープできないため、力をかけたスウィーピングの方が効率的であるといいます。

スウィープひとつをとってもかなり細かい技術が要るようですが、このスウィープについては、ストーンを投げる側とスウィープをする側の阿吽の呼吸もまた勝敗を左右するため、「掛け声」というのも非常に重要です。

カーリングの試合を見ていると聞きなれない掛け声が飛び交っていますね。掛け声にはそれぞれ意味があり、イエス 、ヤー、イェップは、スウィーピングをしてという指示。ウォー、ノー、オフ、アップ、はスウィーピングをやめてという指示だそうです。

このほか、「ハード」は、もっと強く掃いてという指示。「ハリー」はもっと速く掃いてという指示。「クリーン」はストーンの前のゴミを取り除く意味で軽く掃いてという指示です。

これだけを覚えているだけでも、今後カーリングを見ていて楽しくなるかもしれません。
今日、ここで書いたことも、少し皆さんのテレビ鑑賞の際のお役に立てたなら、幸いです。

さて、3月も半ばに入ってきました。暖かい伊豆では、もうどこにも氷のかけらはなさそうですが、かくある私もテレビでカーリングの試合をみつけて、冬の名残を楽しむこととしましょう。