ゲージ戦争

伊豆はここ一週間ほど、ほとんど陽射しがなく、毎日雨か曇天です。

気温のほうも上がったり下がったりで、まさに三寒四温。この季節特有の気象状況が続いています。

そんな中、伊豆中の道路の多くが花街道になりつつあり、ピンクと白に彩られています。

白梅に紅梅、そしてピンクの河津桜という花々に囲まれて迎えるえー春というのは格別なものがあり、なかなか他の地方では味わえない風情でしょう。

つくづくこの地へ越してきてよかったなぁと思える時期ですが、花はこれだけでは終わらず、これからはさらにソメイヨシノにシャクナゲ、サツキツツジへと続いていきます。

わが家がある別荘地の隣にある「修善寺虹の郷」は、そうした伊豆の花の各季節ごとの移ろいをほぼすべて味わえる公園であり、ここへ来た時から、まるで裏庭のように使ってきました。

これといって大きな特徴のある公園ではないのですが、広々とした敷地内は、カナダ村、イギリス村、日本庭園、伊豆の村、といった趣向を凝らしたイベントのある各ゾーンに分かれており、それぞれの表情で季節を味あわせてくれます。

これらの間をつなぐのが、レトロを模したバスと、ミニチュア鉄道であり、広い園内を歩いて見学するのはちょっと辛い、というお年寄りや、子供たちに大人気です。

ミニチュアとはいえ、「ロムニー鉄道」という実際にイギリスを走っていたものを移入したもので、人が乗れます。ただ、レール幅が、たった381 mmしかなく、鉄道というよりはトロッコに乗っているかんじ。381mmは、ちょうど“15インチ“であることから、「15インチゲージ鉄道」と呼ばれます。

ゲージ(gage)とは、これすなわち鉄道の軌間(レール幅)のことであり、元は各種メーターや計量器、燃料などの残量を示していたものですが、鉄道でも列車の規模を示す表示として使われるようになり、定着しました。

たかが40cmに満たないレール幅であっても、鉄道というものは、その延線距離が延びれば伸びるほど大量の鉄材が必要になってくるもの。と同時に、その上を走る車両もこれに比例して数多く作らなければなりません。このため、これをどの程度の幅にするか、ということに関して、昔から激しい論争があり、企業間の争いなども生じました。

鉄道の発祥の地、イギリスでは、その昔、異なる軌間の鉄道の間で、列車をどうやって通すか、という問題が浮上し、軌間が異なると直通運転ができないという弊害が初めて顕在化しました。

1844年のことであり、イギリス南部のグロスターにおいて4フィート8.5インチ(1,372 mm)軌間と、7フィート4分の1インチ(2,140 mm)のそれぞれを走っていた車両をどう通すかで議論が発生しました。

この軌間をどちらに統一すべきか、という問題は、その後「ゲージ戦争(Battle of the gauges)」と呼ばれるまで激しい論争にまで発展することになりますが、翌年の1845年に決着を見ます。

英・王立委員会は広軌の7フィート4分の1インチ軌間の技術的な優位を認めつつも、それまでの敷設の歴史がやや長く、路線長の長い4フィート8.5インチ軌間に統一するのが好ましいと勧告しました。

こうして、翌1846年に制定された軌間法では、グレートブリテン島、すなわちイギリス全土において、今後新しく敷設される新規路線は、原則として4フィート8.5インチの軌間で建設されることになり、以後、これが「標準軌」としてイギリスのみならず、世界のスタンダードになりました。

それにしても、なぜ、4フィート8.5インチといった中途半端なサイズが導入されたかですが、その起源は、イングランド北東部の「キリングワース」という炭鉱で用いられていた馬車鉄道です。




1814年、ジョージ・スティーヴンソンがこの炭鉱鉄道のために、蒸気機関車を製造しましたが、以後、その他の炭鉱向けにも同様の機関車を製造するようになり、1823年にはロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーを設立し、次々と同じ軌間で走る蒸気機関車を設計するようになりました。

スティーブンソンは、各地の鉄道で同じ軌間を使ったほうが機関車や諸設備の量産に都合がよく、また将来これらの鉄道が相互に接続された時にも便利であると考えており、その考えは理にかなっていました。

政府としてもこの考えを受け入れ、1825年に公共用の鉄道としては初めて、イギリスの北東部に建設されストックトン・アンド・ダーリントン鉄道という路線でスティーヴンソンの蒸気機関車が使われました。

そして、さらにその5年後の1830年に、世界初の蒸気機関車による旅客用鉄道といわれある、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業したときも、スティーブンソンが提唱する軌間を持つ機関車が用いられました。

ところが、よくよく考えてみると、軌道が大きければより大きな列車が走らせることができるわけで、同じ時間で輸送できる人や物資は軌間が大きい方が多くなります。スティーヴンソンが採用した馬車由来の軌間を用いる必然性はなく、より広い軌間のほうがよいと考える技術者も当然多く、イザムバード・キングダム・ブルネルもその一人でした。

イザムバード・ブルネルは、世界初の河川の下を通るトンネルであるテムズトンネルの建設で有名になった技術者マーク・イザムバード・ブルネルの息子です。マーク・ブルネルはこれより前、世界初の地下鉄開発にも関わっていました。

その息子のイザムバードは、イギリスのポーツマスに生まれ。フランスで教育を受け、20歳で父親のテムズ川のトンネル工事に技師として加わりましたが、2年後出水事故で負傷したためその仕事から離れます。

27歳のとき、ロンドンとブリストルを繋ぐグレート・ウェスタン鉄道の技師となり、以後、橋梁、トンネル、駅舎などを設計し、施工を監督するようになり、次第に父以上の名声を博していきます。

彼は、自分が手掛けたこのグレート・ウェスタン鉄道における安定性と乗客の乗り心地の改善のためには、より広軌のほうが良い考え、7フィート4分の1インチを採用し、以後これは「ブルネル軌間」と呼ばれるようになりました。

今日、優秀なデザインの鉄道車両や鉄道施設などに贈呈される「ブルネル賞」は彼に由来します。ブルネルはまた、2002年、BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第2位となっており、現在では鉄道を発明したとされるスティーヴンソンと同様に、イギリスを代表する技術者と目されています。

ブルネルは当初、自分が手掛けたグレート・ウェスタン鉄道が、スティーヴンソンの4フィート8.5インチ軌間の鉄道と接続する必要はないとして、異なる軌間でも特に問題はないと考えていたようです。しかし、鉄道の普及は彼が考えていた以上に著しく、結果、上のような「ゲージ戦争」が勃発しますが、王立委員会の裁定により、スティーヴンソンとの争いには敗れてしまいました。



ところが、鉄道の普及は、孤島であるイギリスだけでなく、大陸ヨーロッパでも加速しました。ヨーロッパ各国では、イギリスと比べ鉄道の建設や運営に政府の関与が強く、軌間の選択に関しても最初に政府が決定することが普通でした。

当然、輸送量の面で有利と考えられたブルネルの広軌を採用する国も多く、オランダ、バーデン大公国、ロシア帝国、スペイン、ポルトガルの各国ではそれぞれ広軌が採用されました。

広軌鉄道はまた、安定性や技術的には優れているという見解を持つ国も多く、オランダとバーデンでは後に周辺国に合わせて標準軌に改軌ましたが、ロシアとイベリア半島の軌間はそのまま現代に至っています。

ヨーロッパよりもはるかに国土の大きいアメリカ合衆国においても、これは同じでした。1830年代から40年代にかけて、民間の鉄道会社により多くの鉄道が開業しましたが、これらの鉄道は、港と内陸を結ぶことが主目的で相互の接続が軽視されたこともあり、ブルネイの広軌の他にも様々な広軌幅が採用されました。

例えば、1860年代頃までには、北東部では4フィート8.5インチの標準軌が多かったものの、南部では5フィート、ニュージャージー州とオハイオ州では4フィート10インチのように広軌が数多く導入されました。

しかしのちの1863年に、「大陸横断鉄道」が敷設されたときの軌間が、標準軌とされたことがきっかけとなり、以後、アメリカでも全国的に4フィート8.5インチに統一されるようになっていきました。

同じ北米大陸にあるカナダでも、当初の1851年には5フィート6インチの広軌を標準とする法律が制定されましたが、アメリカ合衆国との直通の必要から1870年に廃止され、4フィート8.5インチに改軌されました。このように、ヨーロッパやアメリカでの「標準軌道」は、時代の変遷とともに4フィート8.5インチということで、ほぼ定着するようになりした。

ところが、1872年に開業した日本の鉄道が採用したのは、3フィート6インチ(1,067 mm)という、いわゆる「狭軌」軌道でした。

冒頭でも述べたとおり、鉄道というものは、延長距離が延びれば伸びるほどコストがかかります。鉄製のレールだけでなく、枕木・砂利などの道床にかかるコストも最低限軌間分の幅は必要です。標準軌なら大量の鉄材と枕木が必要でも、狭軌ならそのコストを抑えることができます。

明治維新によって次々とヨーロッパの技術を導入し続けていたこのころの日本には経済的な余裕がなく、政府は、より低規格・低コストの路線を作ることを可能ならしめるためには、狭軌鉄道の方が都合がよいと考えました。

こうした事情は日本だけでなく、その他のアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの鉄道未開業地域においては同じであり、1860年代後半から1880年代にかけては、日本だけでなく、世界中で狭軌軌道の導入が相次ぎ、イギリス人を中心とする技術者の指導により、1067mmや1000mm、914mmなどの狭軌鉄道の建設が次々と行われました。




馬車由来の軌間より意図的に狭い軌間を使った初期の例としては、1836年開業のウェールズのフェステニオグ鉄道の1フィート11.5インチ(597mm)があります。

ただし当時はこうした狭軌鉄道では、小型の蒸気機関車を作るのは難しいという技術的な問題もあり、蒸気機関車を用いることはできませんでした。しかし、1860年ごろからは、狭軌でも実用的な蒸気機関車が製造可能になりました。

冒頭で紹介した、虹の郷のロムニー鉄道こと、ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道もそのひとつであり、1920年代に建設され、1927年7月16日に開業しました。全長23kmの路線にすぎませんが、15インチ鉄道の中では英国において最長の路線です。

「本格的な公共輸送を行う、正式営業の実用鉄道」としては、事実上世界で最も狭い軌間を使用するものであり、現在でも運行されています。観光鉄道としての色合いが強い路線ですが、観光客だけではなく、子供達の通学にも利用されています。

以上のように、ヨーロッパ諸国や北米では、標準軌が主流となりましたが、その中でもイギリスのように狭軌を残した国もあり、また日本やその他の国では狭軌のまま定着しました。その後20世紀を迎えるころまでには、新たに鉄道の軌間を選択する機会そのものが稀になったこともあり、やがてこうした軌間の優劣に関する議論は低調になりました。

しかし、20世紀初めごろになってから、南アフリカ、オーストラリア、アメリカ合衆国などで、狭軌鉄道を標準軌に、あるいは標準軌を広軌に改軌すべきであるという議論が起こり、日本においても「改軌論争」が起こりました。

日本で狭軌が採用された理由としては、上述のように経済性によるものでしたが、ほかにも「イギリスから植民地扱い」され、このころ彼の国の植民地で導入がさかんになった狭軌鉄道を押し付けられた、という説があります。大隈重信は、日本の鉄道の発祥時に、半ば適当に外国人の意見に押される形で軌間を1067mmと決定してしまったと述べています。

そのイギリスでは、本国においても、1860年代後半から1870年代初頭までは「新規路線に限らず既存路線も狭軌化した方が経済的、という意見が強くなり、既存の客車や貨車は大きすぎ重量過多なので、小型化した方がよいという意見が出始めていたといいます。

また、日本のように狭くて急峻な地形を持つところでは急曲線になることも多く、この場合「狭軌のほうが有利」とする意見がありました。

ところが、実際に敷設された日本の路線は急曲線どころかむしろ緩やかで、幹線鉄道である「甲線」の最小曲線半径は300m、より低規格の「乙・丙線」ですら250m・200mであり、同じ狭軌のノルウェーと南アフリカの最小半径が150mと100mなのに比べれば、かなり緩い曲線で線路が引かれました。

実際には標準軌に近い最小曲線で線路が引かれていたわけであり、それなら最初から狭軌にこだわる必要はなく、広軌(標準軌)にすればよかったじゃないか、という意見が出てきました。これも必然でしょう。

また、日露戦争後、日本は朝鮮を領土に含め(韓国併合)、満州に南満州鉄道の権益を有するようになりましたが、それまで朝鮮の主たる鉄道路線は標準軌であり、満州の鉄道は元々ロシア帝国が敷設した1524mmの広軌でした。

広大な中国大陸における軍事輸送のためには、広軌のほうが都合がよいとい意見も出始め、実際、満鉄(満州鉄道)の成立後、朝鮮・中国との一体輸送を行う必要から(大連~長春)は標準軌に改軌して旅客輸送が行われるようになりました。

1906年に成立した南満州鉄道の初代総裁には後藤新平が就任しましたが、後藤は、満州同様に日本本土の鉄道も標準軌に改軌する提案を打ち出し、1910年の鉄道会議で東海道本線・山陽本線などの主要14路線を1911年度からの13ヵ年で標準軌(当時はこれを「広軌」と呼んだ)に改築する案が可決されました。

これにより、東京の市街線や東海道・山陽本線で新たに建造される建造物は、標準軌規格で設計する通達が出されるに至ります。

ところが、これに対し、原敬率いる立憲政友会が横槍を入れました。政友会の基本方針は、低規格でもいいから全国に路線を張り巡らせようとする「建主改従」となっており、後藤の提案した「改主建従」と真っ向から対立していたわけですが、帝国議会で両者がぶつかり合った結果、改軌に対する予算は出さないことになってしまいました。

一方、後藤らの後押しによって、1911年4月にはより低予算での改軌と、改軌線区の拡大を目指すため「広軌鉄道改築準備委員会」が政府内に発足し、審議が行われ始めました。しかし同年8月、原敬が内閣鉄道院総裁(内務大臣兼務)に就任したため、広軌計画は中止になりました。

しかしさらに、大隈の後を次いで内閣を発足させた寺内正毅内閣の下で、後藤新平は、内務大臣となります。この内務大臣就任は、内閣鉄道院の総裁との兼任という形になったため、後藤はここぞ絶好の広軌化の機会と考えました。

このころ、内閣鉄道院の工作局長を務めていた島安次郎は、こうした政策論争とは無関係に、独自に改軌計画を練っていました。

島は、東京帝国大学機械工学科(現:東京大学工学部)を卒業後、関西鉄道に入社。高性能機関車「早風」を投入しスピードアップに成功すると共に、客車への等級別色帯の導入や夜間車内照明の導入などの旅客サービスの改善を進め、汽車課長にまで出世しており、広軌化こそがより利用者のサービスアップにつながると考えていました。

そして、この島こそが、のちに「新幹線の父」として、我が国初の標準軌の導入に成功する島秀雄の父です。

これを知った後藤はこの島に命じ、その改軌計画を具体的に策定させました。が、この計画は後援者をあまり得ることができず、大蔵大臣の原はおろか、首相・蔵相や軍部さえ賛成に回らず、計画は早々に頓挫しました。

さらに、1918年に起こった米騒動で寺内内閣が崩壊し、政友会の原敬が首相になると、鉄道大臣には腹心の床次竹二郎を就任させました。床次は早速広軌化計画を弾圧することにし、広軌論者で「改主建従」を標榜する者の多くを左遷しました。

1919年2月24日の貴族院特別委員会において、床次は広軌不要の答弁を下し、ここに日本国鉄の標準軌化計画は終焉を迎えました。日本電気鉄道のように、民間で独自に標準軌鉄道を敷設する動きもありましたが、実現したのは都市周辺の地方鉄道(新京阪鉄道、参宮急行電鉄、湘南電気鉄道など)だけであり、全国的な展開には至りませんでした。

以後、今日に至るまで、日本の鉄道は世界的にも珍しい「狭軌」が標準仕様となっています。

もっとも、狭軌仕様が広軌仕様よりも劣っている、という論理は今日では必ずしも正しいとはいえません。一般に、軌間が広いほど輸送力や最高速度など鉄道の能力は高まり、逆に狭いほど建設費は安くなるとされます。しかし、これらには様々な要因があり、単純に軌間のみで決まるわけではありません。

標準軌間と狭軌の間の差の約30cmを補う技術力は日本は持ち合わせており、現在ではその輸送力にはほとんど差はないといわれています。



また、蒸気機関車の用いられていた時代には、軌間の広いほうが機関車の性能が高いとされていましたが、動力が電力に変わった現代では、標準軌仕様の機関車と狭軌仕様の動力差は著しくないと考えられており、むしろパワーは上回っています。

原敬の主導によって標準軌構想は葬られ、狭軌がスタンダードになってしまった日本ですが、しかしその後、日本国有鉄道内部で、再び標準軌による路線を新設しようという動きが出てきました。それは、「改軌論争」といわれる、上の後藤と原の争いが起こったのち、日中戦争の始まった1938年のことです。

当時、戦争の影響で中国方面への輸送量が旅客・貨物ともに急増しており、特に東海道本線と山陽本線は国鉄全輸送の3割を占めるほどであったため、近いうちに対応ができなくなると予測されました。このため、両本線に並行して新しい幹線を敷いたらどうかという提案が出たのです。

これには軍部も積極的に賛成したため、計画が推し進められ、1939年に「鉄道幹線調査会」が発足し、ここの調査により標準軌ないしは狭軌により別線を東京~下関間に敷設することが決定しました。

これについては、従来路線(在来線)からの直通や部分使用が可能な利点を取り上げ、狭軌新線を敷く案も多勢でしたが、特別委員長に、前述した広軌論者の島安次郎が就任し、島が朝鮮や満州の標準軌路線と鉄道連絡船 (関釜連絡船)を挟んで車両航送ができることを理由に広軌化を推進したため、標準軌での敷設が決定しました。

この新線計画は内部においては「広軌幹線」や「新幹線」と呼ばれ、世間では新聞社が「弾丸のように速い」と報じたことから「弾丸列車」と言われるようになりました。1940年より建設に移され、日本坂トンネルや新丹那トンネルの工事が進められ、ここでの軌道は広軌となりました。

しかし戦況の悪化で、その推進は1943年に中断。さらに、文字通りの「牽引車」であった島が終戦直後の1946年に亡くなり、またしても日本での標準軌導入は頓挫します。

ところが戦後、日本各地で復興が進むにつれ、東海道本線の輸送力不足はいよいよ表面化し、弾丸列車計画のときと同様に、新線敷設の必要性を求める声が高くなってきました。

当初「東海道新線」と呼ばれたこの計画についても、単純に東海道本線を複々線化すればよいとか、狭軌新線にすべきだという案が出ていましたが、戦前に広軌化計画に携わった官僚の「十河信二」国鉄総裁に就任します。

この十河総裁の指導のもと、研究を進めた鉄道技術研究所のメンバーは、標準軌新線ならば東京~大阪間の3時間運転が可能と提言。1957年5月25日の山葉ホールにおける講演で発表されたこの研究結果は大きな反響を呼びました。

このとき、国鉄技術長に就任したのが、島安次郎の息子の島秀雄です。島は、戦前の1937年(昭和12年)、長期海外視察を行い、世界各国の鉄道事情を研究した結果、父も関わっていた「弾丸列車計画(新規広軌幹線敷設計画)」でも、電気動力を本命として計画を立案していました。

戦後ようやく父の悲願を達成する契機に恵まれた彼は、国鉄の優秀な技術者を集めてデータを作成し、これを十河に提出。この十河と島の二人三脚によって、ついに日本で初めて標準軌高規格新線での敷設が決定します。

この計画による「東海道新線」は、戦前の計画の遺構を活用して建設することになり、1964年に「東海道新幹線」として結実し、ようやく、日本において国鉄初となる標準軌路線が実現することになりました。

その後、山陽新幹線・東北新幹線・上越新幹線と、順次新幹線の延伸が進みましたが、これは、従来の狭軌鉄道とは別に、標準軌鉄道の敷設を優先する「改主建従」といえるものでもありました。

その後、この標準軌の新幹線路線と、従来の狭軌路線の相互に乗り入れる、「ミニ新幹線」も導入されるようになりました。新幹線の建設は莫大な費用を要することから、費用を抑制する方法として考え出されたものです。

ただ、これは、在来線を単に新幹線と同じ標準軌へ改軌し、車両も在来線規格、複電圧対応として、新幹線と標準軌に改軌した在来線の間で直通運転(新在直通という)を行うものでした。

しかしこの方法の導入によって直通運転が可能となったために、双方からの乗換えが解消され、所要時間も従来の軌道を使用していたのに比べればある程度短縮されるようになりました。

とはいえ、新幹線が走らない区間との分断が新たに生じ、速度も新幹線ほど早くない(現状では在来線区間は130km/h)ということもあり、全国的な普及には至っていません。いまのところ、1992年に開業した山形新幹線(東北新幹線と奥羽本線)と、1997年に秋田新幹線(東北新幹線と田沢湖線、奥羽本線)だけが実現しています。

1998年、運輸省~国土交通省の施策により、新幹線と在来線との間で改軌を要さずに直通運転ができる軌間可変電車(フリーゲージトレイン、ゲージチェンジトレイン)の開発が開始されており、これによってミニ新幹線が抱えているような改軌に関する諸問題の解決が図られることが期待されています。

いずれ、リニア新幹線の開通に加えて、こうした新しい世代の鉄道が開通する時代がくるに違いありません。その新しい鉄道は、従来の「ゲージ論争」を超えたものになるはずであり、やがては世界に名だたる国産技術になっていくことでしょう。

ただ、伊豆・修善寺虹の郷のロムニー鉄道はそんな中でも、今後とも狭軌鉄道のまま、もくもくと煙を出しながら運行されていくことでしょう。

三寒四温の中、春がもうすぐやってきそうです。ぜひ、このレトロなロムニーに乗るために伊豆までお越しください。

修善寺と芥川

修善寺梅林の梅が見ごろです。

毎年、地元の観光協会が「梅まつり」と称するイベントを開催するのですが、それが昨日の日曜日まででした。

本来は、梅が満開になるこれからの開催、としたかったのでしょうが、今年の寒さで開花が大幅に遅れた結果、祭りと花の見ごろが合わない、という結果になったようです。

まつりは終わったとはいえ、まだまだ梅の開花そのものは続くでしょうし、おそらくは今週末くらいまでは楽しめるのではないでしょうか。

伊豆市観光協会のHPを確認したところ、このように現在もまだ見頃が続いているため 飲食店組合組合の露店3軒ほどが、3月11日(日)まで営業予定だそうです。これから伊豆方面へ出かけられる方は、ぜひお立ち寄りください。

この修善寺梅林ですが、麓の温泉街から車で5分ほどの山の上にあります。樹齢100年を越える古木や樹齢30年程度の若木を合わせて、20種、約1000本の紅白梅が植えられています。山腹にあることから、富士山も望むことができ、伊豆にあってはめずらしく富士と梅の両方が鑑賞できるスポットになります。

樹齢100年以上の古木がある、ということは、おそらく明治の終わりか、大正の初めごろに開園したのではないでしょうか。1924年(大正13年)には、伊豆箱根鉄道駿豆線が、大仁駅から修善寺駅までの延伸が完了しており、おそらくはこれに合わせ、より観光客を増やすために梅林などを整備したのではないかと、推測します。

この翌年の大正14年には、芥川龍之介が修善寺温泉を訪れ、長期滞在しています。おそらくこのとき、梅林もできていたのではないかと思われますが、ただ、残念ながら、見ごろが終わった4月に入ってからの来訪でした。



4月10日から約1カ月、今も温泉街に君臨する老舗旅館、「新井旅館」に滞在した芥川龍之介は、絵入りの手紙を奥さんと伯母宛てに送っており、そこにはこう書かれていたそうです。

「…をばさん、おばあさん、ちょいと二、三日お出でなさい。ここのお湯は(手描きのスケッチが入る)言う風になっていて水族館みたいだ。これだけでも一見の価値あり。(大正14年4月29日付)」

芥川が「水族館みたい」と例えた風呂は、この新井旅館の名物風呂で、風呂場の下方の窓越しに池の中が覗ける造りになっており、人の気配を感じると鯉が窓辺まで寄ってくるしかけで、珍しモノ好きだった彼はこれに興奮したようです。

ところが、実は芥川は、大の風呂嫌いだったそうです。作家の中野重治が、彼の死後に追悼文を書いており、そこには「この人は湯になどはいらぬのか、じつにきたない手をしていた。顔なども洗わなかったのかもしれない」とあります。

その風呂嫌いな彼が人に勧めるほど、彼はこの「水族館風呂」に惹かれたのでしょう。毎日のように入っていたようです。多忙のため体調不良に悩みながらも、こうして入浴も楽しみながら、滞在中に短編「温泉だより」「新曲修善寺」などを書き上げています。風呂は昭和9年に改築されましたが、同じ景色が今もこの旅館では体験できるとか。

芥川は、短編小説を書き、数多くの傑作を残しました。しかし、その一方で長編を「物にすることはできなかった」という評価があるようで、そういわれてみれば、彼の小説で長いものを読んだ記憶がありません。

生活と芸術は相反するものだと考え、生活と芸術を切り離すという理想のもとに作品を執筆したともいわれています。修善寺を訪れたのも、田端にあった自宅での生活から仕事を切り離したかったからかもしれません。

芥川は1927年(昭和2年)に35歳で亡くなっており、この修善寺訪問はそのわずか2年前のことでした。

死の前年の1926年(大正15年)ころから、胃潰瘍・神経衰弱・不眠症が高じ再び湯河原で療養。さらには鵠沼(神奈川県藤沢市)に移動して、ここの旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せるなど、各地を転々としています。

このころからもう既に自殺を考えていたのか、自分のこれまでの人生を見直したり、生死に関する作品が多く見られるようになりました。彼の初期のころの作品より、こうした晩年のものの方を高く評価する見解もあるようです。

1927年(昭和2年)1月、義兄の西川豊(次姉の夫)が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺するという事件がありました。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかったといい、このころから心労が重なっていったようです。

さらには、この年の4月上旬、芥川の秘書を勤めていた女性(平松麻素子)と帝国ホテルで心中未遂事件を起こした、という話もあるようです。が、後年、松本清張は、事実はこれとは異なり、女は芥川と帝国ホテルで心中する約束をしたものの、直前になって約束を破ったため心中には至らなかった、としています。

いずれにせよ、このころ既に尋常な心境ではなかったのでしょう。7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺しました。ただ、服用した薬には異説があり、青酸カリによる服毒自殺ではなかったか、とする説もあるようです。

亡くなった日の朝、文夫人は「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという話もあるようで、奥さんは彼の苦しみを知っていたのでしょう。

遺書として、妻・文に宛てた手紙や親しかった菊池寛などに宛てた手紙があります。その中で自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉は、今日一般的にも有名です。

伊豆において彼が残した痕跡というものは特にないようです。新井旅館では、「月の棟」という、現在登録有形文化財にもなっている、棟の一室に籠もり執筆に明け暮れたといいます。

お泊りの際は拝観を申し出てはいかがでしょう。結構高級旅館ですが…

白瀬

テレビにくぎ付けの半月ほどが過ぎました。ここへきてようやく一段落した感があります。

がしかし、オリンピック・ロスに見舞われている人も多いのではないでしょうか。

メダル13個獲得という日本人選手たちの大活躍は歴史に残るものであり、全期間を通じてこれほど盛り上がった冬季オリンピックはないわけですが、それだけに、終わったあとの脱力感は否めません。

それはそれとして、私的には、今回のオリンピックの日本でのNHKをはじめとする各テレビ局の放映に関しては、少々食い足りない感じが残っています。

というのは、私がかつてやっていた射撃にまつわる、バイアスロンに関する放映がまったくといっていいほどなかったこと。また、ボブスレーやリュージュ、スケルトンといった、橇(そり)競技に関しても、こちらもほとんど放映されませんでした。

日本人の参加選手が少なかったということもあるのでしょうが、こうした近代競技もまた、冬のオリンピックの花であり、もう少し放送枠を持って欲しかったな、と思ったりするわけです。

そこで、今日はソリにまつわる話を少し書いて行こうかな、と思います。

もともとソリとは、雪上の「運搬具」でした。雪上の運搬具・交通機械として、雪上で荷重を広い面積に分散させて沈下を防ぎ、けん引力と運動速度が得られるような構造である必要があります。そこから数多くの種類のソリが発明されましたが、オリンピック競技に使われるソリも無論、その延長上にあります。

ただし、ソリは自力では動くことや方向を転換することができません。動かすためには動力が必要であり、その牽引者ごとに、人引そり、イヌぞり、馬そりなど各種の形態があります。

このうち、イヌぞりに関しては、19世紀から20世紀の初頭にかけて、主にイギリスの探検隊により、極地方の探索に用いられることでその実力が認められるようになりました。アムンセンの他、多くの探検隊が使い、スノーモービルに取って代わられるまで、極地方の主要な交通手段でもありました。

アムンゼンのことを知っている人は多いでしょう。ロアール・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen)はノルウェー人。1872年7月16日に生まれ、1928年に56歳でなくなりました。日本では「ロアルト・アムンセン」、「ロアルド・アムンゼン」などとも表記されます。

極地に挑んだ探検家として知られるこの人物は、イギリス海軍大佐のロバート・スコットと人類初の南極点到達を競い、1911年12月14日には人類史上初めて南極点への到達に成功しました。また、1926年には飛行船で北極点へ到達し、同行者のオスカー・ウィスチングと共に人類史上初めて両極点への到達を果たした人物となりました

スコットのほうもまた、南極探検家としても知られ、1912年に南極点到達を果たしましたが、帰途遭難し、死亡しました。しかし、アムンゼンに遅れること1ヶ月後に南極点に到達し、英国国旗を立てることができました。

映画などでは劇的効果を高めるため、南極点到達直前に、スコット隊がアムンセン隊に先を越されたように描写されることが多いようです。しかし、スコットたちはそれよりかなり前にアムンセン隊のそりの滑走痕を視認しており、遅くともアムンセンの南極点到着よりおよそ一か月前の1月16日には彼らに先を越されたことを認識していました。

失望に覆われたパーティーは、それでも南極を目指し、二番手とはいえ、見事悲願を達成したわけですが、その背景には、大英帝国という国家を背負っていた、という事情がありました。祖国の栄光を世界に知らしめるという重い責任を感じて頑張ったにもかかわらず、彼らはその帰途全員が死亡しました。




スコット隊がロアール・アムンセン隊に敗れ、遭難死した理由については、その当時から数多くの人が分析を行っており、以下のような分析結果が残っています。

・アムンセン隊は犬ぞりとスキーによる移動で極点に到達したが、スコット隊は主力として馬を用い、これによる曳行がことごとく失敗した。寒冷な気候に強い品種の馬を用意していたものの、体重が重いため雪に足をとられたり、クレバスに転落した馬も多く、また生存できる耐寒温度を遥かに下回っており、馬は体力の低下とともに次々に死んでいった。

・アムンセン隊では現地に棲息する海獣を狩るなどして携行食糧を少なめに抑えたが、スコット隊は全ての食料を持ち運んだ。特に馬のための干草類は現地では全く入手できるものではない上、馬の体力消耗で思いのほか早く尽きてしまった。

・アムンセン隊が南極点到達を最優先していたのに対し、スコットは地質調査などの学術調査も重視しており、戦力を分散させる結果となった。アムンセン隊は南極点への最短距離にあたるクジラ湾より出発したが、スコット隊は学術的調査の継続のため、より遠いマクマード湾より出発せざるを得なかった。

・スコット隊の最終メンバーは、43歳のスコットを筆頭として30代が中心であり、30歳未満の若い隊員はバウアーズ1人だけであった。

スコット隊が南極に着いたとき、彼らはアムンセン隊が残した手紙を発見しています。アムンセン隊もまた、無事に帰還できるかどうかの自身がなく、自分たちも全員遭難死した場合に備え、自分たち以外の到達者に初到達証明書を持ち帰ってもらうため、手紙を残していたのでした。

しかし、手紙を持ち帰ろうとしたスコット隊は、その後悪天候のせいもあって全滅しました。ただ、のちに彼らの遺体が発見されたときにこの手紙も発見され、アムンセン隊の南極点先達が証明されました。またこの時発見された手紙は大事に梱包されており、これは、「自らの敗北証明を持ち帰ろうとした行為」としてスコット隊の名声を高めました。

この手紙とともに、スコット本人の遺書も発見されました。スコットの遺族・隊員の遺族ら計12通にしたためられた手紙には、隊員の働きを称える文章がつづられており、遺族への保護を訴えるとともに、キャサリン夫人に対しては、相応しい男性と出会えば再婚を勧めるという、涙を誘う内容が書かれていたそうです。

その後、無事に帰還するとともに、人類初の南極点を果たしたアムンセンは、独立間もないノルウェーにおいては、国民のナショナリズムを喚起し、国民的英雄となりました。

多くの講演活動をこなし、探検旅行の費用の負債を返済するとともに、アメリカにおいても英雄としてたたえられ、自国よりも多くの時間をアメリカで過ごしました。しかし、自国の悲劇の英雄、スコットをひいきにするイギリスでは冷たく扱われたといいます。

アムンセンは南極からの帰還後も、ドルニエ・ワール飛行艇や飛行船ノルゲ号によって北極点通過を行い、人類初の両極点到達を果たすなど、精力的に活動しました。1927年には報知新聞の招待で日本にも来ています。

しかし晩年は必ずしも恵まれた人生とはいえませんでした。その理由は、新発明である飛行機や飛行艇を探検に使うことに熱心であっため、その購入や探検費用に莫大な金を費やしたからです。講演収入を使い果たし、ついには破産の憂き目にもあいました。

1928年、北極を飛行機で探検中に偶然、近くで同じく北極を探検していたイタリア探検隊の遭難の報がもたらされました。隊長は、イタリア王国の探検家ウンベルト・ノビレで、ファシスト政権からの国家援助によって新たな飛行船を設計、完成した飛行船イタリア号で二度目の北極探検を実行中でした。

ところが、極点到達後の5月25日、飛行船は極氷の中に墜落して、ゴンドラ部分と気嚢部分が分離してしまった。ノビレら生存者は脱落したゴンドラ部分にいましたが、気嚢部分に残っていた隊員達は行方不明になりました。生存者たちは飛行船の無線機でSOSを発信、さらにテントを赤く染めて目印とし、救助を待ちました。

これに対して、アムンセンは、ノビレ隊の捜索に「ラタム 47」という飛行艇で救出に向かいましたが、その途中、ノルウェー沖で消息を絶ちました。その後、ノルウェー北部トロムスの海岸線付近で、ラタム 47のフロートとガソリンタンクのみが発見されましたが、結局本人の遺体は確認されませんでした。行方不明になったとき、56歳でした。

その後、70年以上の時を経て、2004年と2009年にノルウェー海軍が自律型無人潜水機で再度捜索を行いましたが、現在まで機体および遺体の発見には至っていません。ちなみに、ノビレは、ノルウェー空軍のテストパイロット、エイナー・ルンドボルイによってその後無事に救出されています。

アムンセンは、南極点到達以外にも、北西航路横断の成功や磁北極地域の探険などの数々の業績を残しており、今もノルウェー国民に語り継がれる英雄です。



実は、このアムンセンとスコットとほぼ同時に南極に挑んでいた日本人がいました。南極観測船「白瀬」で知られる、白瀬 矗(しらせ のぶ)です。

アムンセンの南極到達に先立つ1日前の明治45年(1912年)1月16日に、開南丸で南極大陸に達しましたが、さらにその翌日にスコットが南極点に到達しており、結局、二人とは違って、南極点に到達するという偉業は成し遂げることができませんでした。

白瀬隊が接岸した湾を彼らは、「開南湾」と命名しましたが、上陸して探検を開始するには不向きであったため、再び開南丸で移動、すぐ近くのクジラ湾に向かい、ここから再上陸し、1月20日に極地に向け出発しました。しかし、このときにはもう既に南極点到達を断念しており、探検の目的を南極の学術調査とともに領土を確保することに変更しています。

なお、白瀬隊は、南極点初到達から帰還するロアール・アムンセンの探検隊を収容するために来航していたフラム号とクジラ湾で遭遇しており、限られた形ながらスウェーデン隊と接触しています。

ちなみに、このクジラ湾というのは、南極大陸の一番下(南極なので「南部」とは書けない)に大きく口を広げた「ロス海」にあり、湾の名称はイギリスの探検家、アーネスト・シャクルトンが1908年にニムロッド号でここを探検し、多数のクジラを観察したことにちなみます。また、白瀬矗も海面を埋め尽くすシロナガスクジラの様子を記録しています。

クジラ湾から南極点を目指した白瀬ら27人の隊員の簡素な装備は、イギリス隊やノルウェー隊に比べるとはるかに貧相なものだったといわれています。このため、前進は困難を極め、28日には既に帰路の食料もままならないほど消耗してしまっており、南緯80度5分・西経165度37分の地点に到着したところで、それ以上の前進を断念しました。

彼等はこの場所一帯を「大和雪原」と命名し、隊員全員で万歳三唱。同地には「南極探検同情者芳名簿」を埋めました。さらに、日章旗を掲げ、「日本の領土として占領する」として、先占による領有を宣言しました。

その後、昭和に至るまでこの地は日本の領土とされてきましたが、第二次世界大戦の敗戦時に、日本はこの領有主張を放棄。しかし、この地点は棚氷(たなごおり)であり、陸上から連結して洋上にあるだけの氷の地であって、領有可能な陸地ではないことが後に判明しています。

この白瀬矗という人物ですが、この時代の世界各国の探検家の多くが軍人であったように、彼もまた大日本帝国陸軍の元軍人でした。

文久元年6月13日(1861年7月20日)、出羽国由利郡金浦村(現在の秋田県にかほ市)に長男として生まれました。父・知道は、浄蓮寺という寺の住職でした。

南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代の彼はかなりのわんぱくだったようで、自らも、「狐の尻尾を折る」「狼退治」「千石船を素潜りで潜ろうとして死にかける」「150人と血闘」などと書いており、子供のころから冒険好きだったようです。

8歳の頃に、平田篤胤の高弟ともいわれる医師で蘭学者の「佐々木節斎」という人物の寺子屋に入り、ここで佐々木から読み書きソロバンや四書五経を習います。佐々木は、このころ白瀬に、コロンブスやマゼランの地理探検、そしてジョン・フランクリン隊の遭難(フランクリン遠征)などの話を聞かせたといいます。




11歳になったころ、同じ佐々木より北極の話を聞いた白瀬は、このときから探検家を志すようになります。これに対して佐々木は、どうしても探検家になりたいなら、と前置きして、次の5つの戒めを教えました。それは…

酒を飲まない
煙草を吸わない
茶を飲まない
湯を飲まない
寒中でも火にあたらない

というものでした。実際、白瀬はこの戒めを18歳頃から守るようになり、生涯この戒めを守り続けたとされます。

20歳になった彼は、陸軍に入隊し、のち陸軍輜重兵伍長として仙台に赴任します。翌年、宇都宮で行われた大演習に騎兵として参加し、のちの陸軍大将、児玉源太郎と知り合っています。 明治20年(1887年)には仙台市二日町の海産問屋の娘、やすと結婚。 陸軍輜重兵曹長、下副官と昇進し明治26年(1893年)、32歳で予備役となりました。

予備役となる二年前、29歳になったとき、仙台で児玉源太郎に面会を申し入れており、このときはじめて、北極探検の思いを児玉に伝えました。児玉は「書生論的空理空論だ」と突き放しましたが、そう断じた上でなお、「北極探検を志すなら、まず樺太や千島の探検をするように」と薦めました。

この児玉の助言に従い、白瀬は千島探検を志すようになります。明治26年(1893年)、幸田露伴の兄である「郡司成忠」大尉が率いる千島探検隊(千島報效義会)に加わり、初めて本格的な探検を経験します。

探検隊は悪戦苦闘の末、千島に到着しましたが、その前の暴風雨で19名もの死者を出しており、列島に到着したときは20人弱になっていました。このうちの9名を捨子古丹島(しゃすこたんとう)に、幌筵島(ぱらむしるとう)に1名の隊員を越冬隊として残し、白瀬・郡司ら7名は同年8月31日に最終目的地である占守島(しゅむしゅとう)に到着しました。

この探検隊の目的の一つは、探検だけでなく、冬季に以下に長期間こうした極寒の地で滞在できるか、であり、このころ北方からの脅威になりつつあったロシアへの備えの意味も含めた実験的な遠征でした。このため、彼らはそのまま同島で、2年にわたって過ごし、2度の越冬を経験しました。

しかし、その2年目の越冬は過酷なものとなり、白瀬を含む4人が壊血病に罹り、最終的には白瀬以外の3人が死亡しました。壊血病に罹らなかった2人のうち1人もノイローゼとなり、白瀬も病気による体力の低下から食料の調達が不可能となり、やむなく愛犬を射殺してその肉を食べることで飢えを凌いだほどでした。

白瀬らは明治28年(1895年)8月になって救助されますが、これほどひどい目にあっても極地探検を夢見ており、自分が初めての北極点到達者になると周囲に宣言していたといいます。しかし、明治42年(1909年)、アメリカの探検家・ロバート・ピアリーの北極点踏破のニュースを聞いたときには、傍目で見ていても痛ましいほど失望・落胆したといます。

そこで気持ちを切り替えた白瀬は、北極探検を断念し、その目標を南極点へと変更することにします。ところがその後、イギリスの探検家、アーネスト・シャクルトンが南緯88度23分に到達したことを知ると、白瀬はさらに意気消沈しました。

しかし、まだ極点が極められたわけではなく、さらにその後、同じイギリスのロバート・スコットが南極探検に挑むことが知らされると白瀬は発奮し、即座に競争を決意します。

スコットの遠征にあたっては、イギリスの王立地理学会がその支援をすることが決まっていました。科学調査とともに南極点到達を目標にしており、白瀬が得た情報では、ほかには南極点を目指す探検隊はいないと思われました。

実際にはこのとき、アムンセンが南極遠征の計画を練っていたわけですが、そうした情報はまだ入っておらず、このため、白瀬は自分のライバルはスコットだけ、と思い込んでいました。ライバルが一組だけなら、勝算がある、と考えたのでしょう。

明治43年(1910年)、白瀬は南極探検の費用補助を帝国議会に建議(「南極探検ニ要スル経費下付請願」)します。その結果、この建議は、衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶんでいました。結局、3万円の援助を決定したものも、それ以上の補助金は出さない、ということに決まりました。

この南極遠征にあたっては、少なくとも渡航費用14万円がかかると予想されており、これは現在の金額に換算すると5億円以上にもなります。

その足りない分は国民の義援金に依るところとなりましたが、到底十分な資金を得ることができず、このため、積載量が僅かに204トンという、中古の木造帆漁船を買い取り、これを母船として遠征に乗り出すしかありませんでした。

装備に金もかけられないため、中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施しましたが、エンジン出力はわずか 18馬力で、これはだいたい現在の125ccのスクーターバイクに相当し、出入港の補助にしか使えないものでした。現在の同じ大きさの船は200~2,000馬力くらいのエンジンを装備しており、これで南極探検に臨むのは無謀ともいえるほどでした。

名前だけは東郷平八郎によって「開南丸」と命名されるなど、一応の体裁を整えましたが、船以外の装備も惨憺たるもので、極地での輸送力として用意できたのは29頭の犬だけでした。同じく南極を目指していたスコットが、モーター雪上車 3台に加え、馬(ポニー) 19頭、犬 33頭を用意して南極に臨んだのに比べるとその貧相さがわかります。



明治43年(1910年)11月29日、開南丸は芝浦埠頭を出港しますが、まるで彼らの先行きを暗示するかのように、この航海中に殆どの犬が原因不明の死を遂げました。

のちにこれは、寄生虫症と判明しますが、南極探検に欠かせない犬を失った彼らは、それを補充するため、行先を南極からニュージーランドへ変更することを余儀なくされます。結局、補充の犬の補てんには数ヶ月がかかり、年明けて、翌明治44年(1911年)2月11日に、ようやくウェリントン港から南極に向けて出港しました。

しかし、すでに南極では夏が終わろうとしており、氷に阻まれて船が立往生する危険が増したため、再度Uターンして、5月1日にシドニーへ入港。度重なる遠征の延期によって資金繰りに困った彼らは、シドニー在住の日系人などから新たに募金を募りました。

その結果集まった資金は十分とはいえるものではありませんでしたが、最低限の物資だけは整え、再度南極へ挑戦します。しかし、その出発はさらに遅れ、結局、南極に到着したのは、年が明けて明治45年(1912年)1月16日のことでした。

このとき、時すでに遅しで、上述のとおり、アムンセンに続いてスコットらが南極点到達を果たしていました。しかし、もしその前年に南極への上陸を果たしていたら、彼らに先んじて南極点にかなり近づくことはできていたかもしれません。

しかし、彼らの装備の貧弱さを思えば、仮に南極点へ向かうことができたとしても、途中で遭難したであろうことは容易に予想され、実際に白瀬らがクジラ湾から上陸したあと、進むことができたのは大和雪原までで、その先の遠征は断念せざるを得ませんでした。

実は、白瀬隊においては装備の不備以外にも、白瀬と他のメンバーとの間で著しい不和があり、とくに書記長の多田恵一、船長の野村直吉などの間でたびたび諍いがあったことが伝えられています。シドニーで滞在していたときには、隊員による白瀬の毒殺未遂事件が起きたとさえ言われており、おそらくは十分でない資金が原因だったのでしょう。

こうして、白瀬らは、2月4日に南極を離れるところとなり、ウェリントン経由で日本に戻ることを決めましたが、いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなりました。

このことは、のちに波紋を呼びます。参加していた樺太出身のアイヌの隊員2名(山辺安之助と花守信吉)は犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして、帰郷後に民族裁判にかけられて有罪を宣告されています。ただ、南極に残された樺太犬のうち、6頭はその後、スコットの捜索に訪れたイギリス隊によって保護され、生還することができました。

こうして、南極点を制覇できなかった白瀬でしたが、この南極遠征は、多くの日本人に感銘を与えました。

南極へ出発する当初、日本国中で「小さな漁船で南極へ向かうのは無謀」などと散々な罵声や嘲笑があったものの、白瀬ら全員が帰国した際は日本中が歓喜に沸きました。約5万人の市民が開南丸の帰還を歓迎し、夜には早大生を中核とした学生約5,000人が提灯行列を行ったといわれます。

皇太子との謁見や各地での歓迎式典が開かれたほか、学術的資料としても、彼らが持ち帰った南極の気象や動植物の記録は重宝がられました。また、ペンギンの胃から出てきた140個あまりの石もまたその後詳しい分析が行われ、貴重なものであることが証明されました。

しかし、帰国後、白瀬本人には、さらに過酷な運命が待っていました。後援会が資金を遊興飲食費に当てていたことがわかり、4万円(現在の1億5千万円)の借金を背負ったのです。隊員の給料すら支払えなかった彼は、自宅、家財道具、軍服と軍刀を売却して、その後、転居につぐ転居を重ねる人生を送ることになります。

このとき白瀬50歳。莫大な借金を返済するために選んだ道は、南極探検の講演を行い、聴衆から講演料を得て、借金の返済にあてることでした。幸い、彼らの南極遠征は写真と動画によって記録されており、白瀬はそうした実写フィルムを抱え、娘と共に日本はもちろん台湾、満州、朝鮮半島を講演して回り、渡航の借金の弁済に努めました。

その後20年余りがすぎました。昭和11年(1936年)、白瀬が75歳のとき、東京科学博物館(現・国立科学博物館)で「南極の科学」展が開かれることになりました。このときも白瀬にもお声がかかり、その講演で出席したほか、同12年(1938年)には国から「大隈湾」「開南湾」命名による感謝状が手渡されました。

おそらく彼が、公の前に出たのはこれが最後だったでしょう。それから10年後の昭和21年(1946年)9月4日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)で白瀬は亡くなりました。

享年85の生涯を全うした時、彼が住んでいたのは、次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室だったといい、死因は腸閉塞でした。

その葬儀にあたっては、その部屋の床の間にみかん箱が置かれて祭壇とし、上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられただけだったといいます。弔問するものも少なかったといいます。それもそのはず、近隣住民のほとんどが、ここに住んでいたのが、あの南極探検をやった白瀬矗だということを知らなかったためです。

白瀬の死後も彼の遺骸を引き取る遺族はなかったといいます。おそらくは部屋を貸していた次女もまた、その日の暮らしを案じるような有様だったのでしょう。結局、その窮状を見かねた近くの寺の住職が引き取り、弔ったと伝えられています。

この寺は、名古屋市中川区吉良町にある、浄覚寺という寺で、白瀬の墓もここにあります。墓には「大和雪原開拓者之墓」の墓碑が彫られ、またその前面には南極大陸の地図が彫られているそうです。

名古屋で葬られた白瀬はおそらく、生地である秋田に帰りたかったでしょうが、その彼の故郷の秋田県“にかほ市”にはその後、「白瀬南極探検隊記念館」が建てられました。また、「秋田ふるさと村」(横手市)のマスコットキャラクターである、秋田犬の「ノブ君」の名前は白瀬に由来します。

さらに、彼の死後、ロス棚氷の東岸は、昭和36年(1961年)にニュージーランドの南極地名委員会によって「白瀬海岸」と命名されました。また、南極観測船「しらせ」の艦名は彼にちなんでいます。

昭和45年(1970年)に日本女性として初の小型ヨットによる世界一周を果たした白瀬京子は、白瀬の弟の孫にあたります。「白瀬南極探検隊記念館」の初代館長に就任しましたが、1990年の開館直前に死去。54歳でした。彼女の遺作には、「雪原へゆく 私の白瀬矗(秋田書房、1986)」があります。




詐欺師考

日々、繰り広げられる冬スポーツの激動に目を奪われ、ここのところ、ブログを書く手が止まっています。

それにしても、2月も下旬。今年も既に2ヶ月近くが過ぎていることに唖然としていますが、改めて時の速さを思います。

年齢とともに時間の流れが速くなるということは、よく言われることです。

ジャネーの法則というのがあるそうで、これは、記憶される年月の長さは、年少者にはより長く、年長者はより短くなるという現象を心理学的に説明したものなのだとか。

生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例するといい、この法則に従えば、たとえば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ですが、5歳の人間にとっては5分の1になります。

これを言い換えると、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たるということになり、さらに5歳の子の1日は50歳の大人の10日に当たることになります。

なにやら騙されたような気分になるこの計算ですが、そういわれると、単純にこの齢になると時間が早くなるのはそのためか~ と納得してしまうから不思議です。

もっともそんなわけはなく、50歳の人間も5歳の人間も過ごしている時間は同じなわけですが、こうした説明をされるとそう思ってしまうところが「心理学的」なわけで、こういう論理に騙される人間というのはいかにも単純な生き物だな、つくづく思います。




そう考えてくると、詐欺師というのも、そういう人間の心理学的な盲点をついて、人を騙す輩であり、人間の単純さを逆手にとった職業です。

詐欺とは、人をあざむき、だまして錯誤に陥れることです。その専門家たる詐欺師とは、詐欺を巧みに行う者のことをいい、ある役割を演じて他人にその人格、職業を信じ込ませ、心理的な駆け引きにより金品を騙し取ります。

ときに信頼関係や信仰心を操り、恐怖心を与え、権威をひけらかせて被害者を精神的にがんじがらめにします。相手を洗脳することによって疑う余地を与えないため、被害者によっては詐欺にあったのも知らず、被害にあったことすら認識出来ない場合さえあります。

この詐欺師と似たものに、ペテン師というのもあります。こちらは口先やもっともらしい理屈を使い、損得の価値観を操って被害者に利益があるように錯誤させ、金品を騙し取る者です。また、いかさま師というのもあり、こちらは仕掛けやカラクリのある道具を使う詐欺師を指しますが、詐欺師やペテン師と違い道具や技術で金品を騙し取るのが特徴です。

とはいえ、言葉は違えどもペテン師もいかさま師も詐欺師には違いなく、信頼関係など心理的な刷り込みを行うことで人を騙す職業であり、その大目的は人様の金品を奪う泥棒です。

騙される側にすれば、あの人が絶対そんなことをするわけはない、と信じたいという気持ちが強いため、なかなか表ざたにはならなかったりします。人によっては財産を盗まれてもまだ、詐欺師を信じていたりします。また、信仰心や恋愛感情から洗脳された場合、被害者に深い心の傷を残すという二次的被害を与える場合もあり、実にたちの悪い犯罪です。

ひとくちに詐欺といってもいろいろなパターンのものがあります。警察関係の隠語では、結婚詐欺のことを赤詐欺といい、融資詐欺、小切手詐欺、保険金詐欺、取り込み詐欺等主に会社をカモとする詐欺のことを青詐欺といいます。

また、他の詐欺師をカモとする詐欺師もいて、これは黒詐欺といい、さらに振り込め詐欺、チケット詐欺、オークション詐欺等主に個人をカモとする詐欺のことを白鷺というそうです。

これを役者が演じるドラマになぞらえると、さしずめ、赤詐欺がメロドラマで、青詐欺は法廷モノ、白詐欺は刑事もの、といったところでしょうか。詐欺師が詐欺師を騙すという究極の詐欺師、黒詐欺は、おそらく超常現象もの・怪奇現象ものということになるのかもしれません。

考えてみれば、詐欺師と役者というのは同じ資質を持っているのかもしれません。役者=俳優の定義を調べてみると、「ある人物に扮して、台詞・身振り・表情などでその人物を演じる人」とあり、なるほど詐欺師もその通りです。

ただ、役者は、物語や人物などを形象化し、演じて見せるだけであり、演劇は「芸術」です。詐欺師のように、人から金品をだまし取る、といった卑しい行為でないことは明らかなのですが、俳優の「優」には「芝居を職業とする人」という意味があるといい、この定義はそのまま詐欺師にも適用できます。

また、役者さんのなかには、いわゆる「悪役」というのもあって、こうした人たちが演じる詐欺師は、まるで本物に見えたりもします。

もっともこの世にゴマンといる役者さんや俳優さんの名誉のために書いておくと、その職業目的はあくまで人を騙すことではなく、人を楽しませることにほかなりません。あくまで善を前提とした職業であり、詐欺師のような悪ではないわけです。

この詐欺師という職業のルーツを探っていくと、その原点は旧約聖書の「創世記」に書かれている、アダムとイヴの物語の中にあるようです。

神様が男(アダム)を創造したとき、エデンの園の外には野の木も草も生えていませんでした。このため、次に創造したのはアダムの体の一部を使って作った植物でした。やがてエデンの園にはあらゆる種類の木が育つようになりますが、それらの木は全て食用に適した実をならせました。

エデンの園の中央には、やはり実のなる命の木と善悪の知識の木と呼ばれる2本の木がありましたが、神様はエデンの園に生る全ての樹の実は食べても良いが、この知識の樹の実だけは、食べてはいけないと禁じていました。その後、女(エバ)が創造されますが、神様はエバにも同じく、知識の実ははこの時は食べてはいけないとは命令します。

これがいわゆる「禁断の果実」です。転じて、後世では、それを手にすることができないこと、手にすべきではないこと、あるいは欲しいと思っても手にすることは禁じられていることなどを指すようになりました。これを知ることにより、かえって魅力が増し、欲望の対象になるわけで、人間の欲深さの深いことをあらわしたものです。

そこに人間を神に背かせようとする蛇が現れます。蛇はエバに近付き、言葉巧みに善悪の知識の木の実を食べるよう唆した結果、エバはついにその実を食べてしまいます。しかもそのあと、アダムにもそれを勧めました。

こうして、実を食べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆うようになりました。

一方、神様に気付かれないよう、匍匐(ほふく)前進でエバに近づいた蛇は、このとき神の呪いを受け、以後、腹這いの生物となります。また、禁断の実を食べたエバ=女性は、このあと、妊娠と出産の苦痛が増すようになりました。

また、同じく禁断の実を食べたアダムも神様の罰を受けることとなり、額に汗して働かなければ食料を手に出来なくなりました。神様はさらに彼らが命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放します。

こうして、以後彼らの子孫である人間たちは、死すべき定めを負って、生きるには厳しすぎる環境の中で苦役をしなければならなくなったわけです。

このエバを騙した蛇こそが、人類史上初めての詐欺師、というわけなのですが、実はこの蛇とは、サタンの化身であったとされます。

悪魔の化身あるいは悪魔そのものとされてきたこの蛇は、長い間餌を食べなくても生きている生命力、脱皮をすること、四肢のない体型と頭部の形状が陰茎を連想させることなどにより、古くから「生と死の象徴」とされてきました。

ニョロニョロと動いたりトグロを巻いている様子が「気持ち悪い」という印象を与えやすく、嫌悪の対象になることが多いこの蛇は、どういうふうにエバを騙したのでしょう。

そこまでは、旧約聖書に書かれていないようですが、「おうおうねーちゃん、これ食ったら美人になるで~」とかなんとか、うまいことを言ったに違いありません。

人類をはじめて騙した詐欺師は、蛇だったのです。



だからというわけではないでしょうが、蛇が嫌いな人というのは実に多いものです。1960年代に5歳から12歳の子どもを対象として行われた「怖いと思うもの」を尋ねる調査では、467人のうち約50パーセントの子どもが動物を上げ、その中で最も多かった回答はヘビ類だったそうです。

また、霊長類全般にヘビへの忌避行動が見られるといい、サルも蛇をいやがるといいます。人間も、2歳くらいまでは大蛇も恐れませんが、3歳くらいから警戒を見せるようになり、4歳児以上になると恐怖を示すようになるそうです。ヒトの蛇嫌いというのは、まさに本能であり、その原点は、太古の時代に蛇の詐欺に遭ったからに相違ありません。

この蛇、蛇の生殺し、蛇足、といったふうに、ことわざや慣用句でもあまり良い表現で使われることもありません。苦手(ニガテ)というのも実は蛇から来ているそうで、これは、手を出すだけでマムシを硬直させ、素手で容易に捕まえる稀な才能を持つ手を「ニガテ」と呼んでいたことからきています。

蛇ににらまれた蛙、というふうのもあって、人を恫喝して黙らせる、騙すといった演技も詐欺師が良く使う手であり、冷静に状況を判断して密かに近づき、確実に目的を達する、といった詐欺師の手口は、まさに蛇の行動そのものです。




詐欺師であった蛇は、エバを騙し、アダムを陥れましたが、その本質はサタンであり、悪の起源に基づきます。これに対して、役者は、人類が本能的に持っている模倣への興味、すなわち単純に人や事象を上手に真似たい、という欲求に基づいて成立した職業です。

いわゆる「演劇」の正確な起源は分かっていないようですが、古代の宗教的祭祀が発展したものではないかと考えられているようです。古代ギリシアにおいて行われていた「悲劇」は、神を称える祭儀としての側面を持っていたといいます。

また呪術や宗教的儀式には、人の行為の再現や、自然現象の模倣といったものが重要な要素として含まれていることも多く、ようするに何かを「真似たい」とする人の心理から発生したものにほかなりません。

この演劇というものは、舞台や撮影といった装置が必要なだけに、きわめて多人数の人々が携わることによって成立しています。ところが、俳優ひとりが欠ける、つまり「穴をあける」だけでも舞台や撮影が成立しなくなってしまいます。このため、俳優という仕事は、病気や個人的な都合で安易に休むことができません。

とくに舞台は、観客と生身の俳優が一緒にいる「場」があってはじめて成立するものであり、観客は、例えば早くからチケットを購入し、楽しみに思いつつ、さまざまな困難がある生活の中でスケジュールを調整した上で劇場に足を運びます。役者はそれを裏切るわけにはいきません。

また休演などという事態を引き起こすと、他の俳優にも迷惑をかけ、また観客にチケット代の払い戻しをしなければならなくなり、興行主が莫大な損失を被ることになります。従って、一般に俳優は、風邪などでよほどの高熱が出ても、あるいは少々の骨折などしても出演しなければなりません。

こうした緊張感を持って舞台に立つ、という面は詐欺師も同じかもしれません。もし失敗すれば警察につかまるし、騙す相手が裏世界の人間であれば、場合によっては命を失うこともありうるわけです。

これは想像ですが、おそらく一流の役者さん、一流の詐欺師というものは、それなりの緊張感を持ち、命懸けでそれをやっているに違いなく、それであるからこそ本物のように思わせることができるのでしょう。そう考えると、やはり詐欺師と役者は同じ土台に立っているとしか思えません。

そうした一流の演技者のひとり、大杉漣さんが亡くなりました。詐欺師のみならず、様々な役柄を演じ、「300の顔を持つ男」「カメレオン」などの異名を得たこの名優の死因は、急性心不全だったとか。

66歳という若さだったようですが、ご冥福をお祈りしたいと思います。



十年目

気がつけば2月も中旬になり、バレンタインデーはもうすぐそこです。

実はこの日、我々夫婦の入籍記念日でもあります。しかも今年は記念すべき10周年ということで、長い結婚生活のひとつの節目でもあるわけです。

とはいえ、このあと続く25周年目の銀婚式までには程遠く、50年目の金婚式はまだ40年も先であり、はたしてその時二人はこの世にいるのでしょうか。

この結婚記念日の起源は、神聖ローマ帝国時代に遡るそうで、結婚25周年を祝い、皇帝が妻に銀でできた冠を贈り、50周年では金冠を贈ったことにちなみます。

その後、発展した商業主義によりほかの記念日の品も追加されるようになり、最初のうちは廉価で柔らかく日常的な物から始まり、徐々に高価で硬い貴重品へと変わる、というシステムは20世紀になって確立されたようです。

ところが、元々、「夫婦」としての絆より「家」の絆を重視した日本では、結婚記念日を祝うという習慣はありませんでした。

江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にし、1898年(明治31年)には民法により「家制度」制定されました。しかし、1947年(昭和22年)にはこの民法が大規模に改正され、親族・相続の定義が根本的に変更されたのに伴い、廃止されています。

以後、西洋化が加速し、家同士の結婚という縛りがさらに薄れてきた現代では、西洋並みに夫婦としての絆が重視されるようになりました。結婚記念日に何かを贈り合うという家庭も増えてきたようで、かくいうわが家でも最初は何かをお互いにあげていましたが、最近は記念日にちなんだ品を夫婦で買いに行く、といった形におちついています。

で、今度の結婚記念日としては何かな、とあらためて調べてみたところ、アルミ婚式、もしくは錫婚式だそうで、やはり昨年の陶器婚式よりは少し高級になったな、といったかんじ。

さらに、アルミ婚式、錫婚式の意味を調べてみると、「美しさと柔らかさを兼ね備えて」ということのようで、別に錫やアルミそのものに限定する必要もないようです。ヤカンや寸胴(ずんどう)などの食器のほか、錫・アルミ製のアクセサリーなどもありとのことで、このほかアルミを使用した日用品は数多く、非常に生活に身近な金属です。

金属の中では軽量であるために利用しやすく、また、軟らかくて展性も高いなど加工しやすい性質を持っています。さらに表面にできる酸化皮膜のためにイオン化傾向が大きい割には耐食性もあることから、一円硬貨やアルミ箔、缶(アルミ缶)、鍋、に用いられます。

工業用製品としても、外構/エクステリア、建築物の外壁、道路標識、ガソリンエンジンのシリンダーブロック、自転車のフレームやリム、パソコンや家電製品の筐体など、様々な用途に使用されています。




ただし大抵はアルミニウム合金としての利用であり、1円硬貨のようなアルミニウム100%のものはむしろ稀な存在です。アルミ系合金の筆頭としてはジュラルミンが挙げられます。アルミニウムと銅、マグネシウムなどによる合金になります。

1903年にドイツで確立された合金手法です。このころ薬莢の材料として従来は銅と亜鉛の合金の黄銅を用いていましたが、「もっと軽いアルミニウムを銅と混ぜたらよいのではないか」という発想から、4%の銅を混ぜたアルミニウム合金を作ったところ、軽量でありながら破断に強い合金が得られました。

ジュラルミンとはこれが開発された地名のデュレンとアルミニウムの合成語です。第一次世界大戦の前夜というタイミングでもあり、この頃始まったモノコック成形に最適で、高い耐破断性を持ち、超軽量であることから、航空機材料などに用いられました。

1910年代、ツェッペリン飛行船やユンカースの輸送機への導入を機に、現在に至るまで航空機用資材として広く用いられるようになりましたが、金属疲労に弱く、腐食もしやすいという欠点を持つため、航空機などでは十分な点検体制を取ることが求められています。

今日、このアルミニウムとジュラルミンは世界の工業を支える最も重要な資材として定着しています。

ジュラルミンを含み、現在、日本のアルミニウム用途で最も大きい用途は輸送用機械の製造だそうです。2014年のデータでは、なんと40.1%を占めます。次いでアルミサッシなどの建築用途が12.9%、アルミ缶やアルミ箔などの容器包装用途が10.6%を占め、この3分野が主なアルミニウムの用途であるといえます。

鉄道車両としては、新幹線電車をはじめとして特急型電車や通勤型電車などでアルミ車体の採用例が多いようです。押し出し材を使って長大な部材を一体成型し、さらに連続溶接組立する低コスト化量産法が確立され、同一断面を保った16~25mに及ぶ車体を持つ鉄道車両では生産性の面でメリットが大きいためです。

新幹線では、1982年(昭和57年)に開業した東北新幹線・上越新幹線の初代営業用車両からアルミが用いられました。耐雪装備による重量増加を抑えるためアルミニウムが用いられて軽量化が図られたのがきっかけです。



国鉄民営化後に開発された新幹線車両は、その後アルミニウム車体が一般化、さらにアルミ材の加工手法の発達により、製作費のコストダウンとさらなる軽量化の両立が図られました。この結果、国鉄時代に開発された初期新幹線車両より著しく軽量化されるに至ります。

世界初の210 km/h運転を達成したこの新幹線の成功はまた、欧米各国にも影響を及ぼしました。鉄道先進国を自負していたフランスは、1967年5月28日よりパリ – トゥールーズ間の列車「ル・キャピトール」を欧州において初めて一部区間で200 km/hで運転し、その後も複数の列車を200 km/hで運行するようになります。

その後も1981年に本格的な超高速列車TGVを開発し、営業最高速度260 km/hというスピード世界一を達成し、新幹線の記録を凌駕しました。

さらにドイツも高速列車の開発に参入し、2003年に開業した中国・上海浦東国際空港へのアクセス用に建設された上海トランスラピッドの最高速度は430 km/hに達しました。ただし、現時点では、浮上式鉄道を除くとフランスTGVの高速試験車V150編成が記録した574.8 km/hが最高速度です。

これに対して、日本の非浮上式鉄道の最高記録はJR東海の300Xによって達成された443 km/hで世界第3位であり、さらに高速な車体の開発も模索されています。

一方では、こうした非浮上式の鉄道である新幹線がこれ以上のスピードで営業運転を行うのは無理と考えられています。とくに東海道新幹線は建設時期が古く、カーブなどの線路状況が200 km/h台の設計になっています。

より新しい山陽新幹線・東北新幹線などもフランスやドイツなどと比較すると山岳区間が多く、路線の起伏やカーブの設計などにおいて高速化を妨げる点が多いようです。特に東北市感染は上越新幹線共々寒冷地の耐寒・耐雪装備が不可欠であり、重量的に不利といわれます。

また沿線に住宅地が多いため、騒音への対策も必要となるなど、300 km/h以上の運転には解決すべき課題が多いようです。

JR東日本は2004年から360 km/h走行を前提とした試験車両を開発し、さらに2009年からはこれをベースとして320 km/hでの走行を前提にした車両を製造しました。そして、新青森延伸後の2011年3月5日に300 km/hで営業を開始し、2013年3月16日より320 km/hでの営業運転を開始しています。

さらにJR東海は東海道新幹線の一部区間で、営業時の最高速度を270 km/hから330 km/hに引き上げることを検討しています。330 km/h走行は京都 – 米原間の直線が長い一部区間を対象に「のぞみ」の始発や終発に限った運行を想定。最先端の車両であるN700系を使い、前方に待機列車がなく、性能を存分に発揮できる時間帯に導入されます。

しかし、どうあがいても非浮上式では400 km/h以上の地上走行は無理と考えられており、将来的にはやはりリニア新幹線に期待がかかっています。

現在、2027年に予定している中央新幹線(品川駅 – 名古屋駅)開業の際の営業用仕様としては、L0系が開発されています。L0系(エルゼロけい)の「L」はLinear(リニア)を、「0」は0系新幹線のような第1世代の車両を意味します。

最近のニュースで、大手ゼネコンによる談合が問題になっている通り、既にこの車両を走らせる路線も建設中であり、既に2013年(平成25年)8月29日に、山梨リニア実験線の全区間42.8kmが完成しています。

2015年4月14日には、この路線を使って試験走行を行い、2003年に記録した2876kmの24時間走行記録を更新したのに続き、4月21日には世界最高速度603 km/hを達成しました。



この記録を達成した実験線は、2020年東京オリンピック開催前に、山梨県駅まで延伸した上で、起点の実験センター ~ 山梨県駅間で乗降できるようにする検討がされているといいます。

現在、冬季オリンピックが開催されていますが、その2020年までもうあと2年と迫ってきました。そしそのさらに7年後にはリニア新幹線が開通するというのは、何か夢のようでもあります。

実はこの2027年には、あの「あべのハルカス」を90メートルも超える、高さ日本一を更新するビルが東京駅前に完成予定だといいます。三菱地所は2015年に、「朝日生命大手町ビル」を含む東京駅日本橋口前の常盤橋地区を再開発し、この高層ビルなど計4棟のビルを建設すると発表しています。

計画によると、事務所、店舗、駐車場を含む複合ビルのB棟は、地上61階・地下5階、高さ約390メートル、延べ床面積が約49万平方メートルと大規模になるといいます。同ビルの建設は、2023年から開始する予定だそうです。

リニア新幹線が完成し、この日本一のビルが出来上がる2027年まであとわずか9年。我々の結婚記念日はそのとき19年目を迎えますが、その翌年にはさらに記念すべき20周年を迎えます。

改めて結婚記念日を調べてみると、磁器婚式、陶器婚式だとか。その心は、「年代と共に値打ちが増す磁器のような夫婦」だそうです。

はたしてその通り値打ちが上がるかどうかは、これからの心がけしだい。仮に値打ちがあがらないにせよ、せめて価値が下がらないよう、頑張りたいものです。

そのためには、さらにお互い、自己啓発・自己開発もかかせないでしょう。20年目の陶器婚式を目指して、今から陶芸家を目指すのもいいかもしれません。