桜咲く季節に……

2016-0608久々の書き込みです。

長らくブログをお休みしていますが、別に病気になった、とかいうわけではありません。

それなら何ナノよ、とおっしゃるでしょうし、いぶかる方も多いでしょう。が、あまり気にしないでください。

大きな環境変化があり、それに対してどう対処していくか、をお悩み中、とだけ書いておきましょう。

…… 3月も半ばを過ぎました。

旧暦3月を弥生(やよい)と呼びます。その由来は、「草木がいよいよ生い茂る月」だそうで、この「いよいよ生い茂る」というのを古語では、「弥や生ひ茂る」というそうです。なので、「木草弥や生ひ茂る月」→「木草弥や生ひ月」となり、さらにつづまって「弥や生ひ(いやおひ)」→「弥生(やおひ=やよひ=やよい」となったというわけです。

日本ではこの月を境に年度が替ります。会社ではいわゆる「人事異動」があり、会社・官公庁だけでなく学校でも引越しや移行作業、新生活の始まりなどで忙しくなります。

4月から始まる新しい会計年度を前に、金銭だけでなく人があわただしく動く時期であり、学校でも学年が変わるなど大きな変化があります。ある組織を「卒業」し、別の組織への移動が集中するのもこの時期であって、月を通して卒業式や送別会が行われます。

数多くの出会いと別れもあるわけですが、そんな中、桜が満開になり、やがて4月になると散っていきます。桜は、多くの人にとって「人生の転機」を思わせる花でしょう。

散りゆく前に行うのが「花見」であり、3月は、この弥生という呼称以外にも、他に、「花月」、「花見月」という呼び方もあります。この「花」とはいうまでもなく桜のことです。このため、「桜月」と呼ぶこともあるようですが、まさに日本人にとっては「花の中の花」でもあります。

いったいいつ頃から日本人はこんなにも桜が好きになったのだろう、ということなのですが、これは平安時代あたりがはじまりのようです。この時代、「国風文化」というものが勃興し、以後、桜は花の代名詞のようになり、春の花の中でも特別な位置を占めるようになりました。

それより以前の中国の影響が強かった奈良時代の文化は、「唐風」といいました。これに対して、純和風、倭風の文化を「国風」と呼び、現在まで続く日本の文化の基礎となりました。

時間軸としては、だいたい11世紀ころに確立された文化です。その「日本的な美」の特徴は、美しい色彩とやわらかく穏やかな造形の組み合わせによる調和のとれた優美さにある、といわれます。そしてこの「調和美」とは極めて女性的な感覚です。

平安時代は日本史上最も女性の感性が大切された時代であり、王朝文化が醸成していく過程では、女性たちの趣味や嗜好が色濃く反映されました。とどのつまりは、日本の文化は女性が形成した文化と言っても過言ではないでしょう。

この国風文化の普及した平安時代には、内裏では調度を整えるにあたり、公式な場や「ハレ」の場では漢詩や唐絵の掛軸などで唐風にしつらえました。が、一方では私的な場、「ケ」の場では和風にあつらえるという使い分けをしました。表では男性が活躍し、裏で女性が支える、というのとどこか似ています。

この「ハレとケ」とは、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつです。ハレ(晴れ、霽れ)とは儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表しています。

このうち、もともとハレとは、折り目・節目を指す概念です。つまり、桜が咲き、散るという節目の季節にもぴったりの概念でもあります。語源は言うまでもなく、晴天を表す「晴れ」であり、晴れ渡った空のように慶事があったときに使われるようになったものです。

「晴れの舞台」「晴れ着」といった風に使われます。晴れの舞台とは、生涯に一度あるかないかの大事な場面であり、晴れ着は、結婚式や祝い事などの折り目・節目のめでたい儀礼で着用する衣服のことであるわけです。

しかし、ハレの日が一年中続くわけはなく、曇りや雨の日、嵐の日も当然あるわけであり、そうした日もあるからこそ、ハレの日がめでたく感じられるわけです。このため、国風文化においても、このハレの対局にあるものとして、「ケ」が形成されました。

現在では、晴れ着に対するものを「普段着」といいますが、平安の世ではこれを「ケ着」と言いました。ただ、現在では、「ケ」はほとんど使われなくなっています。明治時代あたりから言葉としてあまり使われなくなり、ほぼ死語になってしまいました。現在でもよく使われるハレとは対照的です。

使われなくなった理由はよくわかりませんが、やはり誰しもがマイナスな要素を含む言葉を口にしたくはない、と思ったからでしょう。「ケ」とは穢れ(けがれ)のケでもあるからです。

なお、現代では単に天気が良いことを「晴れ」といいますが、江戸時代まで遡ると、長雨が続いた後に天気が回復し、一瞬晴れ間がさしたように当たる日についてのみ「晴れ」とする、と定義した記録があるそうです。このことからもわかるように、ハレということばの裏には、とかく「節目」という概念が見え隠れします。

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こうした節目節目を大事にする文化、言い換えれば、ことあるごとに行事を行い、儀式を重んじる、といった文化は、11世紀までに確立した「摂関政治」に影響を与えました。

というか、摂関政治がこの国風文化を育みました。摂関政治とは、平安時代に藤原氏の一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態です。つまりは政略結婚の典型といえます。

摂関政治が台頭した結果、天皇が不在のままでも政務が遂行されることが多くなり、天皇が直接関与しない朝廷運営の成立につながりました。すなわち、国政の安定に伴い政治運営がルーティーン化していき、天皇の大権を臣下へ委譲することが可能となりました。これすなわち、現在に至るまで続く天皇制の基礎になっているわけです。

この摂関政治が確立し始めた9世紀後期から10世紀初頭にかけてという時期は、唐が衰えた時代です。混乱する大陸に対しては従来の渡海制を維持するだけで混乱の波及を抑制することができ、奥羽でも蝦夷征討がほぼ完了するなど、国防・外交の懸案がなくなり、国政も安定期に入っていました。

そのため、積極的な政策展開よりも行事や儀式の先例通りの遂行や人事決定が政治の中で大きなウェイトを占めることとなりました。その結果として、節目を尊重する国風文化が花開いたわけであり、この文化は、その後、12世紀の院政期に至るまでの文化にも広く影響を与えました。これが「院政期文化」です。

院政期文化は、平安末期文化ともいい、平安時代末葉の11世紀後半から鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての日本の文化です。この院政期は、日本社会史上、貴族勢力の衰退と武士勢力の伸長という過渡期に位置しており、文化の面でもこのような時代の気風を反映した新しい動きが多くみられました。

ただ、国政文化の延長上にあった文化です。なので、場合によっては、国風文化とこの院政期文化を合わせて国風文化と呼ぶこともあるようで、こうした摂関政治や院政といった政治風土を背景に日本独自の文化が確立されました。

平安のはじめにそれが創造された時期から院政期文化に移行する間までの期間に現在の日本を代表するような文化が熟成されていった、というわけであり、冒頭で述べたようにこの時代に日本文化の基礎が形づくられた、といっても過言ではないでしょう。

例えば、衣類については、いわゆる「着物」というものを生み出しました。それまでの和服は、男女ともに上下2部式であり、男性は上衣とゆったりしたズボン状の袴で、ひざ下をひもで結んだもの、女性は上衣と裾の長いロングスカート様の姿がふつうでした。

これが、国風文化が形成される間に、日本の湿度の高い気候に適応するため、袖口が広くなるなど風通しの良い、ゆったりとしたシルエットになり、現在の着物の基礎ができました。また、男性用の装具として、衣冠、束帯、直衣、狩衣といったものも生まれました。聖徳太子が着ているあの衣装です。

また、女性用としては、十二単が流行り、また、細長(ほそなが)と呼ばれる産着のような服を一般人は着るようになりました。これは狩衣に形状が似ており、安倍晴明が着ているような薄い着物です。

このほか、宗教では「御霊信仰」が確立されました。人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖します。また、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする信仰のことですが、これが現在まで続く「神道」のルーツです。

建築物としては、平等院鳳凰堂をはじめとし、醍醐寺五重塔ほか、現在でも日本を代表する建築物が数多く建造され、これらがすべてその後の日本の建築様式の基礎になりました。と同時にこれらの建築物に収められた彫刻や絵画の技法もその後の日本の文化の形成におおいに影響を与えました。

とくに、大和絵と呼ばれる日本的な絵画が発達し、仏教絵画、月次絵や四季絵と呼ばれた景物を描いた山水屏風などが確立したのもこの時代です。また、多くの物語絵(冊子または絵巻物)が制作されました。

源氏物語絵巻や、信貴山縁起(院政期)、鳥獣人物戯画(院政期)といった、教科書に出てくるような、日本の象徴にもよくたとえられるようなものが描かれたのもこの時代です。

また、いわゆる「日本刀」と呼ばれる刀剣を鋳造する技術が確立したのもこの時代です。古来から武器としての役割と共に、美しい姿が象徴的な意味を持っており、美術品としても評価の高い物が多いのが特徴であり、古くから続く血統では権威の証として尊ばれました。

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そして、こうして花開いた国風文化の中心にあったのは、やはり「桜」です。

春の象徴、花の代名詞として扱われるこの花は、多くの衣装や装飾物にあしらわれるとともに、建築物においてもこの花が咲く季節を想定してその様相が決められることが多かった、とする説まであるそうです。

桜の散る季節にこの木の下で、日本刀でもって介錯を受ける、というのは武士の憧れの死に方でもありました。

国風文化時代に創造されたそのほかの美術作品にも数多く使われるとともに、和歌、俳句をはじめ、文学全般において非常に良く使われました。

音楽においても、この時代に形成された楽器としては、「琴」がありますが、桜は箏曲(そうきょく:琴の曲)としても取り上げられました。日本古謡とされる「さくらさくら」は、実は幕末頃に箏の手ほどきとして作られたものです(さくら さくら やよいの空は 見わたす限り ~という例のヤツ)。

また、後年、江戸時代に発明された三味線音楽においても「地歌」として数多く取り上げられています。

明治時代に滝廉太郎が作曲した歌「花」に唄われているのも桜です。こちらは、「春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が~」というヤツです。高齢の方には、桜の曲と聞いて思い浮かべるのはこの歌という人も多いでしょう。

このように、平安時代に確立した国風文化の中で、節目の花として貴重のものとして扱われはじめて以来、それほど日本においてはサクラは関心の対象として特別な地位を占める花となっていきました。

桜には穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔から非常に大切なものでもありました。また、桜の開花は、他の自然現象と並び、農業開始の指標とされた場合もあり、各地に「田植え桜」や「種まき桜」とよばれる木がありました。

中国文化の影響が強かった奈良時代は和歌などで単に「花」といえば梅をさしていましたが、その後平安時代に国風文化が育つにつれて徐々に桜の人気が高まり、「花」とは桜を指すようになっていきました。

漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる嵯峨天皇(786~842年)は桜を愛し、花見を開いたとされています。また、現在の京都御所にも古式に則って植えられている有名な桜、「左近の桜」は、元は梅であったとされます。これも桜が好きであった仁明天皇(850~833年)が在位期間中に梅が枯れた後に桜に植え替えたのが起源とされています。

平安末期の歌人、西行法師も、「花」すなわち桜を愛したことは有名であり、特に「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌は有名です。西行はこの歌に詠んだ通り、桜の咲く季節に入寂したとされます。

豊臣秀吉もまた桜大好き人間であり、醍醐寺に700本の桜を植えさせ、慶長3年(1598年)に近親の者や諸大名を従えて盛大な花見を催したとされ、これは「醍醐の花見」として後世に伝えられるほどのものでした。

江戸時代には河川の整備に伴って、護岸と美観の維持のために柳や桜が植えられました。また園芸品種の開発も大いに進み、さまざまな種類の花を見ることが出来るようになり、江戸末期までには300を超える品種が存在するようになりました。

江戸末期に出現したソメイヨシノを始め、明治以降には加速度的に多くの場所に桜が植えられていきました。

ただ、明治維新後にはこの桜の文化にも危機が訪れました。大名屋敷の荒廃や文明開化・西洋化の名の下に多くの庭園が取り潰されると同時に、底に植えられていた数多くの品種の桜が切り倒され燃やされたためです。

これを憂いた駒込の植木・庭園職人の高木孫右衛門は多くの園芸品種の枝を採取し自宅の庭で育てました。そして、これに目を付けた江北地区の戸長の清水謙吾という男が村おこしとして荒川堤に多くの品種による桜並木を作りました。江北は現在の足立区にあった地名です。

これを嚆矢として多くの桜の園芸品種が小石川植物園などに保存される事になり、その命脈を保つことができました。現在日本中に咲いている桜のほとんどは、この植物園から品種移転されたものです。

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桜はまた、咲いているときよりも散りゆく姿のほうが美しいともよく言われます。

もとより桜は、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象でした。江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜が「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神具体的な例えとみなしました。

諸行無常といった感覚にたとえられており、明治以降ではとくに、花のように散る人などのたとえにされてきました。ただし、江戸時代はそのようにすぐに花が散ってしまう様は、家が長続きしないという想像を抱かせたため、桜を家紋とした武家は少なくなっています。

この散りゆく桜が、現在のように日本精神の象徴のようなものとして使われるようになったのは、明治時代以上に日本の軍国化が進んだ大正後期からです。「帝国」と呼ばれたこの当時の日本では、多くの人が戦争で死んでいきましたが、それを桜に例えるようになったからです。

兵器の名称にもよく使われ、第二次大戦末期に作られた特攻機には「桜花」の名が与えられました。また、「同期の桜」などといった、歌も作曲され、戦中によく歌われました。

以後、潔く散るという意味の代名詞として使われるようになり、もともと日本精神に根ざしていた桜は、戦乱を通じてさらに人々の心に強い印象を与える影響力を持つようになっていきます。

旧帝国海軍はこの桜を徽章によく使いましたが、現在でも警察官の徽章はこの桜です。菊だと思っている人が多いようですが、これは「旭日章」といい、桜をあしらったものです。警視庁は、皇居の桜田門前にありますが、このため警察のことを桜田門と呼ぶこともあり、そこから由来して警察のことを「桜の代紋」と呼ぶ場合もあります。

いまではほとんど使いませんが、その昔、刑事もの・警察ものの映画などでは「桜の代紋」といえば警察の呼称でした。

このほか、自衛隊においても、陸海空を問わず、階級章や旗で桜の花を使用しています。とくに階級章では、あしらってある桜の数が増えるほど階級があがります。幕僚長などの陸将・海将クラスでは四つの桜が付いた徽章をつけることになっており、逆に最下位クラスの尉官ではひとつです。

身近なところでは、1967年(昭和42年)以降、百円硬貨の表は桜のデザインです。1964年には東京オリンピックが開催された際、それに合わせて100円銀貨のデザインを一部変更した記念貨幣が発行されました。

表面は鳳凰でしたが、裏面中央には桜があしらわれており、オリンピックが閉会したあとに発行された新百円硬貨の裏側にも採用されるところとなりました。

現在では、桜といえば日本、日本といえば桜、という印象は世界中に広まっています。無論、日本人にとっては依然、「心の花」です。

各種調査によれば、日本人の大多数の人たちが桜を好んでいるとされます。春を象徴する花として日本人にはなじみが深いものであり、春本番を告げるとともに、「節目」を感じさせる役割を果たしています。それだけに、毎年この時期になると桜の開花予報、開花速報はメディアを賑わし、話題・関心の対象としては他の植物を圧倒します。

ところが、これほど人気があるのに、桜はなぜか「国花」ではありません。では別のものがあるのかといえばそれもなく、日本には国花は存在しません。アメリカの国花は薔薇、お隣の韓国の国花はムクゲ、中国は牡丹ですが、日本には法定の国花はありません。

ただ、成文法に基づき国花を指定制定する例はむしろ少数派だそうで、そういう意味では日本だけが特別というわけでもないようです。とはいえ、国花の代表例として使われることは多く、最近では東京オリンピックの誘致の際に作られたシンボルマークは桜をあしらったものでした。

もっとも、桜とともに国花としてよく扱われものには菊もあります。ただ、こちらは皇室の象徴であり、戦前には軍のイメージシンボルでもありました。このため、現在では菊の花を、国を代表する花とすることに多くの人は良い感情を持っていないでしょう。

サクラを意味する漢字「櫻」は、元は中国語で、ユスラウメを意味する言葉だったといいます。ユスラウメの実が実っている様子を指した漢字だそうですが、ただし、日本にユスラウメが入ってきたのは江戸時代後期のことです。このため、それまではそうとは知らず、桜のことを「櫻」と書いていたわけです。

現在では常用漢字として「桜」のほうが定着していますが、この昔ながらの櫻の字が好きな人も多いことでしょう。もともとは「首飾りをつけた女性、もしくは首飾りそのもの」を意味する「嬰」に木偏を付けたものだともいいます。

平安の時代に日本の文化を形作ったのが女性であるならば、その女性を表す文字としてもぴったりといえます。

今年の春に生まれる子供が、女の子であるとわかっているご家庭では、この櫻の文字を中に加えてあげる、というのもいいのではないでしょうか。

この国の桜の文化を作った女性たちが、この春もまたいちだんと美しく輝きますように。

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思い通りにならないときは……

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ひょんなことから、かなり昔に書いたブログの下書きが出てきました。

このブログを始めた5年前に書いたもので、「人生を変える波動の法則」(PHP出版)をベースにしたものです。著者は、世界的なスピリチュアル・カウンセラーと言われる、ペニー・ピアース(Penny Peirce)さん。本文からの引用、およびそれを整理した内容でした。

改めて読み返してみると、ハッと驚くようなことがいろいろ書いてありました。今の気分に妙にフィットするので、再アップしてみましょう。

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◎問題の見方を変える(氏の著書からの抜粋)

運命とは、日々の問題を一つずつ悩みからチャンスと導きへと変えることによって、少しずつ歩んでゆくものです。一つひとつの問題と向き合うとき、魂が何を意図としているかを探しましょう。魂はあなたが体験から学ぶために、様々な状況を作り出します。

問題に気づいたときに、自分の内側を見ると、自分がエネルギーの流れを止めていることに気づくでしょう。あなたがまだ十分に体験していないことや、人生について誤った認識を持っているとことを、魂が教えているのです。

問題とは、必要なことにあなたの注意を向けさせるものです。問題のある状況を変えようとして戦略や行動を探すかわりに、その状況をじっくり味わって、魂は自分に何を気づかせようとしているのか見て下さい。

たとえば、上司に昇進と給料の値上げを要求するとき、ほんとの気持ちは会社を辞めて独立したいのかもしれません。アパートの隣人のたばこの煙が寝室に入ってきてイライラしているのは、自分の家を持ってもいいのだと気づくためかもしれません。

問題を新たな気づきへのきっかけとすることによって、魂の表現と運命を邪魔していたものを除去できるのです。

(中略)

「直観の時代」には、最善の答えは魂が焦点を当てたテーマに即して浮かび上がってきます。しかもびっくりするほどすてきな答えなのです。「問題」は単にあなたの魂からくる導きであり、方向を変える必要があるということを示すものなのです。

解決はあなたの個性の驚くべき部分や様々な変数の思いがけない組み合わせを使って、最も期待していないときに奇蹟的に現れ、いくつもの問題を同時に解決します。

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自分に生じた様々な問題は、自分自身の魂が、その問題の勃発と同時にその解決策を教えてくれようとしている時だということを指し示している、ということのようです。

何か難しい問題に直面したとき、人は悩んだり落ち込んだりするものですが、最初にそれを「問題」だと気付いた自分自身の中の場所へ意識を向けると、それに対する答えがおのずから浮かんでくる、ということでもあります。

つまり、問題と答えは一緒に存在している……ということです。

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◎「望んでいることが起こらないときは・・・」(筆者改訳)

何かを望み、ボジティブな気持ちでそのことをしばらく思っていても、それを手にいれられるとは限りません。それは、自自分自身の波動に問題があるからか、あるいは、自分自身で現実化を邪魔している場合、また、自分の魂の計画では、それが必要のないことであるからなどなど、いろんな理由があるからなのです。

それではまず、「自分自身の波動に問題がある」、とはどういうことなのでしょうか。

例えば、こんな例があります。ある会社に有能な社員がいて、その会社の大改革のプランを高い情熱を持って作成し、経営陣につきつけました。しかし、会社の経営陣はそれを拒否し、そのプランは実行されなかったのです。

なぜ実現しなかったのか。それは彼のプランにおいて、その会社の古い経営スタイルや保守的な経営陣のことが考慮されていなかったためだったからです。会社の波動は彼の波動よりも遅かったので、経営陣は、短期的にたくさんのことをしなければならない、という彼のプランを実行することが怖くなったのかもしれません。

また、何かを実現させようとするために、あまりにも自分自身の意思の力を使いすぎたのかもしれません。自分の力を現実化のプロセスに注ぎ込み、プロセスを支配しようとしすぎたのかもしれません。無理に実現させようとするのは、流れと調和せず、重要な情報を見失っているしるしであることが多いのです。

何かが実現しないとき、なぜ実現しないのかには、また別の理由がある場合があります。それは、「自分自身で、現実化を邪魔している場合」であり、その望みが怖れや欲などのネガティブな感情から発している場合です。

「家を失わないためにお客をもっと増やさなければならない」「一人きりにならないために、恋人が欲しい」などが良い例です。

こういう場合は、実は「欲しいもの」に着目しているのではなく、自分の「怖れ」に最も注目を注いでいるので、そのために怖れそのものが現実になってしまうのです。一時的には頑張って、お客や恋人をみつけられるかもしれませんが、自分自身が怖れている現実は潜在的に残っており、いずれ表面化します。

怖れを避けるため、現実を避けるか、欲しいものを無理やり手に入れるかによって、自分のエゴにしがみついている状態なのです。

こうした状態のとき、人の心の中には心配や疑いが心の中にうずまいているはずです。「そのうちお客が減っていって、本当に家を失わないだろうか」「今の恋人が去って、また一人になるのではないだろうか」というような心境です。

このような状態は現実化への流れを狂わせ、結果が生じるのを邪魔してしまうことになります。すなわち、家を失うことになり、恋人もみつからないのです。

また、現実化を自分で邪魔しているというときには、体がそれを現実だと感じられなかったり、結果が自分自身に深いやすらぎをもたらさないために、望んでいる事柄が実現しない、という場合もあります。

例をあげましょう。自分の家の庭をみたある高名な庭師が、世界で一番きれいな洋風の庭にしてあげよう、と言ったとしましょう。しかし、自分自身は純和風の庭が好きなので、洋風の庭・・・と言われても理解できないし、ピンとこない。

けれど、せっかく有名な庭師がそう言ってくれるのだし、あまりにも熱心なので、庭師の言葉に従って、洋風の庭を作ってもらうことにしました。その結果・・・毎日、朝起きてその庭に出て、本当は自分があまり好きでもない庭を見て後悔の気持ちでいっぱいになる・・・

乗り気ではない体が結果が出るのを邪魔した良い例です。

お金儲けにもそうである場合があります。本来、お金は紙切れであって、人間の体にとっては特に、愉快でも刺激的でもない抽象的な存在にすぎません。体がその紙切れを集めることを現実的だと感じない場合、その紙切れ集め、すなわちお金儲けはうまくいきません。

身近な人を亡くして失意のどん底にある時に、お金儲けが楽しい、と思う人はあまりいないのではないでしょうか。

望んでいることが実現しない場合、自分にはそれを得る資格がない、と思っている場合もあります。または、それがもたらす変化を本当は望んでいないときにも現実化はおこりません。

例えば、幼いころの感情的な心の傷を負っていたり、ひどい貧乏を長い間味わった時などに望んでいることが起こらないことがあります。人を愛したいのに、自分が傷つくことを恐れて愛せない。お金が欲しいけれど、どうせ自分は貧乏からは抜け出せないさ、という考えです。

自分を十分に認めていないときにも、現実化がおこらないことがあります。自分には能力がない、と思っている人にはその人の持っている能力以上の仕事はこないものです。

人は、今の収入や生活レベルに満足しているときには、より多くを望みません。より多くを手に入れると人生が面倒になると思うからです。

齢をとって想像力がなくなったり、想像力を使わずにすごしたりすると、大きな夢を持てなくなる場合もあります。夢を大きくふくらませるためには、より大きなエネルギーや高い活動レベルが必要です。

また、豊かな知識と夢をふくらませることのできる物理的な空間が必要であり、さらには夢を持つことができるようにするために必要な「新しい自己意識」を得るためには、何らかの「改革手段」を思いつくことが必要となります。

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抜粋・改訳は以上です。

改訳のはじめのほうにあった、「何かを実現させようとするために、あまりにも自分自身の意思の力を使いすぎる」という状況は誰にでもあることのように思います。人任せにする、というのは少し違うように思いますが、その時の「流れ」に乗って、実現を待つ、という態度のほうが良いということなのでしょう。

また、「自分の力を現実化のプロセスに注ぎ込み、プロセスを支配しようとしすぎ、無理に実現させようとしたため、流れと調和せず、重要な情報を見失った」ということもありがちです。一生懸命になりすぎると、大事なことを見過ごすよ、と言っているわけです。

さらに現実化のプロセスを速めるもの、遅らせるもの、として、ピアースさんは以下のような整理をしています。

●現実化のプロセスを速めるもの、遅らせるもの

○速めるもの
・アイデアに気づき、注意を向けること。
・ただし、体が、そのアイデアを現実的でごく当たり前のこととして体験できること。
・魂の波動を周囲から全体へと放射すること。
・自分と共に創造のプロセスを行う全ての存在・宇宙的な粒子があるということを尊重すること。
・自分の波動が、もの、人、状況、場所、求めている体験に一致していること。
・結果が完全であると信頼していること。

×遅らせるもの
・望んでいるものは遠くにあると思っているとき。
・怖れから望んでいるとき。心配し疑っているとき。
・結果を無理にでも引き出そうとするとき。それを実現するために自分のエネルギーを使いすぎるとき。
・望んでいるものが自分の魂の目的ではないとき、
・自らの魂は、その結果が自分とって害があることを知っているとき。
・頭が必要以上のことをやろうと必死になっているとき。

以上から、改めて総括してみると「願い」というものは、怖れや欲などのネガティブな感情から発したものではないことが大切であるようです。

また、その願いがかなえようとする過程において、事象や目の前に現れる人々をすべて尊重しながら、自分達の波動が、求めているもの、人、場所や状況に一致しているかどうかを常に確認しながら事を進めるのが良いようです。

さらに、時には自分達の波動と合わず、願いを断念することもあるかもしれませんが、場所を変え、自分達の波動と合うものを探し続けていけば必ず良い結果が出る、と信じることが大事です。自分を信じながら新たなチャレンジをしていくべきなのでしょう。

どうでしょうか。5年前に書いたものとは思えないほど新鮮です。

これでみなさんも結果が出せるようになるのではないでしょうか。

投げたらあかん

2016-0031北朝鮮がついに弾道ミサイルと目されるものを打ち上げました。

彼の国は「これは弾道ミサイルではなく宇宙ロケットだから問題ない」と言っているようですが、その行為は世界中から非難されています。

なぜかといえば、国連安全保障理事会はこれまでに何度も北朝鮮に「弾道ミサイル計画に関連するすべての活動の停止」を求めてきたためです。北朝鮮が核実験などで周辺地域の平和を脅かしていることを国際社会は非難しており、ましてや他国を直接的に攻撃できる弾道ミサイルを打ち上げるのはとんでもないことだというわけです。

この弾道ミサイルを北朝鮮は衛星の打ち上げのためだと言っているようですが、たとえ衛星の打ち上げであっても弾道ミサイルに関連する活動であることは明らかです。国際社会から実験はダメだよと言われているものは、弾道ミサイルでも宇宙ロケットでもダメなわけで、その行為自体が避難されているのです。

それにしても、弾道ミサイルとロケットは何が違うのでしょうか。

よく言われるのはミサイルは先端に爆弾が搭載されているけれども、ロケットはそうではなく人工衛星などが搭載されている、ということです。

これは間違いではありません。が、そもそもロケットというのは、重量物を大気圏外に打ち上げる技術のことであり、弾道ミサイルもまたロケットという推進装置を用いているので、ロケットの一種に違いはありません。

ただ、その利用が平和目的ではないため、普通のロケットとは区別してミサイル、と言っているわけです。従って、世界的な通念としては武器であり、宇宙の平和利用のためのロケットとは別物と考えられています。

また、弾道ミサイルとロケットにはそれを飛ばす飛行ルートにも違いがあります。弾道ミサイルは、爆弾を「ボールを投げるように敵地へ落とす」ものですが、宇宙ロケットは人工衛星を「ボールを投げるように、地球の丸みに沿った軌道へ落とす」ものです。やっていることはほとんど同じですが、目標とするところが違うわけです。

ほかにも違いがあり、ひとつは、飛ばし方です。ボールを投げるとき、遠くへ投げるには高く山なりに投げますが、速く投げるには低くまっすぐに投げます。同様に、長距離の弾道ミサイルも遠くへ飛ばすために高度数千kmもの高さまで打ち上げます。これに対して、宇宙ロケットは遠くへ飛ばす必要がないため、できるだけ素早く大気圏外へ打ち上げます。

宇宙ロケットは、このあと高度数百kmで水平に加速することになりますが、弾道ミサイルはさらに高高度まで達したあと、ようやく落下を始めて遠くの目標物に達します。つまり、意外なことに、宇宙まで達したあとは宇宙ロケットより弾道ミサイルの方がより高く飛ぶということになります。

このように宇宙ロケットと弾道ミサイルはどこへ飛ばすか、またその目的により飛ばし方も違うということになりますが、基本的な原理は燃料に火をつけて推進力を得るということであり、構造的にはほとんど同じです。実際に、初期の宇宙ロケットは弾道ミサイルと同じものが使われていました。

ただ、弾道ミサイルの場合、高高度まで打ち上げるためには、初速が足りないので、通常の宇宙ロケットの上にさらに上段ロケットを追加して加速します。この段数が多いというのも弾道ミサイルと宇宙ロケットの違いになります。ただ、下段は全く同じものでも構わないわけであり、弾道ミサイルを宇宙ロケットとして使うことはよくあることです。

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従って北朝鮮の弾道ミサイルを宇宙ロケットと呼ぶことは、宇宙開発の常識から言えば少しもおかしくないことであるわけです。しかしだからといって、日本人宇宙飛行士も利用しているソユーズ宇宙船を、あれは事実上弾道ミサイルだ、などと言ったりはしません。

それでも、北朝鮮の打ち上げたものはロケットではなく弾道ミサイルだと非難されているのは、国連安保理違反であるためです。現時点では、昨日打ち上げられて宇宙に達したものが本当に人工衛星だったか確認されていないようですが、たとえそうであっても国際的には「弾道ミサイル関連活動」であるわけです。

それでは、日本の宇宙ロケッも弾道ミサイルとして使えるのではないか、というとこれは可能です。日本の宇宙ロケット技術で弾道ミサイルを作ることは難しくはありません。液体水素を使う日本のHⅡロケットは兵器として使いにくいもののようですが、固体燃料ロケットの技術も日本にはあります。

弾道ミサイル固有の技術は開発しなければなりませんが、弾道ミサイル自体は半世紀も前から作られているわけで、日本の技術力をもってすればその開発は難しくないでしょう。そうした意味においては、日本の宇宙ロケット技術も弾道ミサイル技術と言えなくはないわけであり、このため情報が流出しないよう細心の注意が払われています。

日本が宇宙ロケットを打ち上げても弾道ミサイルを打ち上げたと非難されないのは、そうした秘密漏洩の対策がしっかりしていることが国際的によく知られているとともに、北朝鮮と違って日本には核兵器を保有する意図がなく、宇宙ロケットの技術で弾道ミサイルを開発するつもりがないと、国際社会から信頼を得ているためです。

ところで、この「ミサイル」の原義は何か名と調べてみたところ、これはラテン語の動詞 mittere(投げる)から派生したもののようです。その名詞形は missileであり、これは「投げられるもの」ということになり、ローマ時代では“ミッシレ”と呼ばれていたようです。

正式な軍事用語として「ミサイル」という用語が登場するのは、1947年にアメリカ空軍が発足した際に航空兵器全般の正式な命名規則を制定し、それまでは定まった名称がなかった誘導ロケット系や飛行爆弾系の兵器をあらたな定義である「ミサイル」に一括分類したときです。

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一方、ロケットの語源は、1379年にイタリアの芸術家兼技術者であるムラトーリ(Muratori)が西欧で初めて火薬推進式のロケットを作り、それを形状にちなんで「ロッケッタ(Rocchetta:小さな糸巻棒)」と名づけたことによります。

1792年にはインドにあったマイソール王国の支配者スルタンによって対英国、東インド会社との戦い、マイソール戦争で初めて鉄製のロケットが使用されました。戦争終結後、このロケットに興味を持った英国は改良を加え、19世紀初頭までにウィリアム・コングリーヴという人が中心となり、コングリーヴ・ロケットを開発しました。

この兵器は現在のロケットとは外見や制御の仕組みがかなり異なり、巨大なロケット花火のようなものであったようです。弾頭は黒色火薬が1kgから10kg用いられており、言ってみれば火矢のようなものです。初期には事故が多発していたようですが、それでも3kmという当時としては長大な射程を持ちました。

イギリス軍はナポレオン戦争や米英戦争でこれを用いており、1814年のボルティモアの戦いでは英国艦エレバスから、陸のフォートマクヘンリーにむけてロケットが発射されました。これを観戦していた弁護士フランシス・スコット・キーが作曲したのがのちのアメリカ国家であり、この歌の歌詞には「rocket」の語が登場します。

ミサイルにせよロケットにせよ、こうした「飛び道具」は人類が太古から利用してきました。手持ちの道具の先端部が届く限られた範囲にしか届かないのに対し、一部ないしその全体が飛翔し標的に衝突することで何等かの作用を生じさせることができる、ということは画期的なことです。

とくにその対象物が敵ならばその効果は絶大です。なぜなら指一本自分の体に触れさせないで敵を駆逐できるからであり、太古の昔からヒトは最も敵に向かって上手に物を投げられる動物でした。原人から新人にいたるまで、投石はもっとも基本的な狩猟/攻撃方法であり、これは動物を倒すには遠距離から一方的に攻撃するほうが安全だったからです。

石を投げることを投擲(とうてき)ともいいます。ヒトは他の生物より際立って投擲が上手であり、有史以前から投擲によって狩猟や戦闘を行なっていました。現代人以外の絶滅人類も投擲を行なっていたと考えられており、道具の高度化と平行して、ヒトが狩猟・自衛能力を獲得するうえで重要な要素であったと考えられています。

また、人間対人間の闘いでも、投擲は重要かつ効果的な戦術でした。弓矢を発明するまで、ヒト科はもっぱら投擲によって戦っていたと考えられています。現代のように舗装されていない土地が多く、武器となる石を見つけるのは容易であり、その後発明された弓矢に比べて風の影響を受けにくく、鎧ごしに打撃を与えやすいという特徴もあります。

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有史以後も、投擲は主要な戦闘技術で在り続けましたが、現代でも兵士は手榴弾などを投擲しますし、また、砲丸投げやハンマー投げのように投擲の能力を競う投擲競技が陸上競技に含まれています。

しかし、ただ単に手で投げるだけでなく、その投げ方について人類はいろいろな装置を考えるようになりました。

発射した側から飛び出した瞬間から、その石は空気抵抗などにより運動エネルギーを奪われ減速するほか、重力など他の力が働く場では弾道を描くため、距離が離れるほど命中させることは難しくなります。このため、命中させるには「どのように飛んでいって当たるか」を予測し、加減する必要があります。

単なる石を投げる場合でも、それをうまく扱うためには特別の練習を必要とする必要がありますが、その後人類はそれをどういう角度で、どういう初速で投げれば遠くへ届くかということの研究を重ね、より遠くへ飛ばす道具を工夫するようなっていきました。

その一つが投石器です。片手で握れる程度の石を遠くへ投げるための紐状の道具であり、安価に作れて弓矢と同等以上の射程と十分な威力を持ちます。スリング、投石具、投石紐とも呼ばれます。紐の一方の端は投げる時に手から離れないようループになっているか、手に巻き付けられる様にやや長くなっています。

材料は羊毛や麻の繊維を編んだものや皮革や布でできたものなどがあり、長さは二つ折りの状態で0.5mから1.5m程度です。

全体を二つ折りにして一端をループを手首に通すか手に巻き付けるなどして手に固定して他端とともに握り、広い部分に石をくるんで頭上で振り回すか(オーバースロー)、体側面で振り回す(アンダースロー)かして、適当な位置で握った手を緩めるとひもの片方が手から抜けて石が飛びます。

ひもの一方を放すタイミングが方向や射程に大きく影響するので、飛び道具の中で最も修得が困難であるといわれます。オーバースロー、アンダースローともそれぞれ長短あり、使い分けを要します。またそれぞれの射程に適した投石紐の長さがあり、標的までの距離に応じて選択する能力も要求されました。

一般的に近距離の標的に当てる時は短い紐の物を使い石も比較的大きく重い石を使用し、逆に遠距離の場合は長い紐の物で小さく軽い石を用いました。弾としては川原などで選んだ玉石のほか、軍用には陶製・鉄・青銅・鉛製の弾も使われました。

古代ギリシアで使われた鉛弾は、ラグビーのボールをやや長くしたような形で、「服従せよ」など往々敵に対する短い言葉が鋳込んであったといいます。また羊飼が使う弾にも同様の形に作って焼いた土製のものがあり、こちらは、飛ばした時に大きな音が出るように作られていたそうです。

古くから羊飼が羊の群を誘導したり害獣を追い払ったりするのに使い、鳥など小型の動物を対象とする猟にも使われました。古代のシュメール人やアッシリア人が投石器を使っていたことは当時の浮彫などにより知られており、投石器による石弾の射程は当時の弓による矢の射程より長かったと推測されています。

その後さらに時代が進むとカタパルトと呼ばれる投擲装置も考案されるようになりました。木材や獣毛や腱・植物製の綱などの弾力と、テコの原理を利用して石などを飛ばすもので、中には大きな弓を取り付けて威力をあげる改良をほどこした物や金属製のばね式の物もありました。

それまでの人力による投擲よりも格段に威力が強いため、城などの建築物を標的とし射出攻撃する攻城兵器としても使われ、古代中国では遅くとも紀元前5世紀初頭には使われはじめていました。紀元4世紀頃の古代ギリシャでもアレクサンドロス大王の東征において使用されています。

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中世には中央アジアや西アジアに流入し、改良が加えられ、「トレバシェット」という大型の投石器も発明されました。これは「平衡錘投石機」とも訳されるもので、巨大なおもりの位置エネルギーを利用して石を投げます。宮崎駿さんのアニメなどでもよく登場します。大型で威力と安全性に信頼の置ける火砲が出現するまで利用されました。

西洋では、これを用いて主に城攻めをしたと考えられていますが、重量のある石を飛ばす場合、城壁の上部を目指して飛ばし、城壁の端から崩していく方法がとられました。

このほか、石や砂利の詰まった袋を飛ばして城門などを攻撃するほか、火のついた藁や火薬を飛ばして城内に火災を起こさせたり、汚物や死骸を投擲して敵の士気を下げたり、疫病を流行させたりするなどの使われ方をすることもあったようです。平時においてはその投射の力量をひけらかすために花を投射する事もあったといいます。

また、守城側の攻撃を防ぐために装置に装甲を着けたり、攻城塔の上に設置することも多かったようです。野戦において敵の密集隊形を撃ち崩すために使われることもあり、投射に使用する石は着弾後も跳弾してより多くの範囲に被害を与えられるように球状に加工されていました。

このほか、西洋では「バリスタ」と呼ばれる投石機も発明されました。テコを用いて弦を引き絞り、石や金属の弾、極太の矢(あるいは矢羽のついた槍)、複数の小型の矢、火炎瓶などを打ち出すものです。矢弾を弾き出す動力は弓が主でしたが、複数の弓を並べたり、捻った動物性繊維の太縄や金属製のばねを用いるなどの改良を加えられた物もありました。

白兵戦の支援、攻城戦における攻城兵器、それらからの防衛に使われ、軍船に搭載することもありました。その後火薬が発明され、鉄砲が発明されるとこうした投石器は徐々に姿を消していきましたが、先込め銃の時代にはその信頼性が低かったことから他の投げ武器と併用して用いられていました。

さらに時代が進み火砲の改良が進められるにつれ、さすがに主流の兵器ではなくなりましたが、第一次世界大戦の塹壕戦では、手榴弾の投擲のためにカタパルトが使われたという記録が残っています

また、第二次大戦末期の日本では、対戦車戦用として爆薬を投射するために室蘭でカタパルトが制作された、という記録があります。実戦では使われなかったようですが。

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その日本においても、15世紀後半の応仁の乱の際に「発石木」「飛砲」という投石機が使用されていたという記録があります。しかし、日本は山がちで、雨が多いためにすぐ地面がぬかるみます。このためこうした大型の投石機は運べないという事情がありました。

また、山城などの天然の要塞が多く、平地の石壁を崩すことに特化したトレバシェットやバリスタではあまり意味がありません。また、もしこれらがあったとしても日本の石垣は地震も想定して作られるので、西洋のこうした攻城兵器でもびくともしなかったでしょう。大砲でもその衝撃を吸収してしまうほど優秀な城が多かったようです。

しかし、単に石を投げる投擲は有効な戦術のひとつだったようで、日本ではこれは「印地(いんじ)」と呼ばれました。手で投げることをはじめとして、上述のスリングのような投石器を使用するものもありました。

が、モノのない時代であったため、そこは日本風の手ぬぐいを使うことも多く、縄、竹、蔓(つる)などを網状に編んだ畚(もっこ)をもってそれに代用していました。このほか、女性が両肩に掛けて左右へ垂らした長い帯状の布、領巾(ひれ)を使用するもの、砲丸投げのように重量のある物を投げつけるもの、など様々な形態がありました。

投石技術でこの技術に熟達した者を、印地打ち(印地撃ち)、印地使い(印地遣い)とも呼び、一種の職業軍人でもありました。印地の使い手そのものを印地と呼ぶこともあり、技術や行為を印地打ちと呼ぶこともありました。軍用に加工した飛礫種は、約3寸(約9cm)の平たい丸石で、縁を欠いてあったといい、これは当たるとかなり痛そうです。

このほかにも石を紐で縛ったものを大量に用意しておくことで次々に投げつける方法、ハンマー投げの玉ようなものを投げつける方法などもありました。近距離では分銅鎖という投擲具もありました。一本の鎖の両端に錘をつけたもので、敵に投げつけて刀をからめ捕り落としたり、足めがけて分銅を投げつけ相手がひるんだ隙に逃げ出します。

捕り物としても使用され、搦めて捕縛する目的で女性の領巾と小豆が入った小袋の錘がセットされている分銅もあり、護身用としても使われたようです。西洋にも似たようなものにボーラ(Bola)があり、これは、複数のロープの先端に球状のおもりを取り付けた投擲武器です。動物を捕まえる狩猟目的でも使用されていました。

戦国時代には、元亀3年(1573年)の甲斐武田氏の西上作戦に伴う三河徳川氏との三方ヶ原の戦いにおいて、武田方の武将小山田信茂が「投石隊」を率いたとする逸話があります。また、武田氏は「水役之者」と呼ばれる投石隊を率いていており、三方ヶ原の戦いでは徳川軍を挑発して誘い出すなど、実戦で活躍したと伝わっています。

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投石器自体は単純な構造であり、手首に縛り付けてあるので手元に残り、新たな石を挟むことで、即座に次の石を投擲出来るため機動力にも優れます。手ぬぐいが一本あればそれがそのまま武器になるわけで、戦場以外でも喧嘩や抗争に多用された記録が残っています。

石は河原にいけば簡単に確保できるため、合戦においては、そのローコストさで非常に使いやすかったらしく多用されました。熟達した兵士が使用した場合は弓よりも飛距離があった上、甲冑の上からでも衝撃が伝わるなど、武器としての威力もありました。戦場では、弓矢、鉄砲に次ぐ兵器として、盛んに使われたとされています。

戦国時代には石の代わりに火薬や油壺を投げたりもしたらしく、これは近年過激派が火炎瓶を投げるのとも似ています。煙玉を投げて、敵をかく乱する、といったこともあったようです。

この印字は、その後、行事としても定着するようになりました。印地、印地打ち、印地合戦、石うち、石合戦、向かいつぶて、向かいつぶて合戦などと呼ばれ、少し前まではや5月5日に印地を行う地域があったそうです。合戦をまねて二手に分かれて石を投げ合うこの行事は子供のものでしたが、大人たち参加することがありました。

大人達が行うものは、「向かい飛礫(つぶて)」と呼ばれました。頑丈な石を投げ合うため死亡者・負傷者が出る事も少なくなく、大規模な喧嘩に発展することも多かったようです。水の権利・土地争いなどを解決する手段として石合戦が採用されるケースもあり、このため、鎌倉幕府3代執権北条泰時などは、向い飛礫を禁止する条例を発布しています。

一説に依れば、織田信長も、幼少時代にこの石合戦を好み、近隣の子供らを集めて良く行ったといい、信長はこれを模擬実戦として最適と考えていたといわれます。また、徳川家康は少年たちによる石合戦を見に行き、少人数の側が勝つと言い当てたそうです。これは少人数ゆえに仲間が協力し合っている点を瞬時に見抜いたからだと言われています。

この向かい飛礫が行事化した印地は、江戸時代までにはまだやっている地域があったようですが、負傷や死亡も相次いだため、大人は参加しなくなり、明治までには完全に子供の遊びとなりました。しかし昭和に入るとなりを潜め、現在においては無論、そんな遊びが許されるわけはありません。

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ただ、石ならぬ雪であれば怪我の心配もない、ということで、最近「雪合戦」はスポーツとしても認知され、各地で大会も開かれるほどの盛況だといいます。「日本雪合戦連盟」という長野市に本部を置く社団法人まであり、いまや全国14もの県に連盟支部があります。

世界各国への普及を目指しているそうで、オリンピックでの正式競技種目に採用されることを視野に普及活動を行っているとのことで、毎年全国大会も開かれています。認知度が高まるにつれ、年々外国人の参加も増えているといいます。

正式ルールがあり、チーム対抗で行なわれるものは「Yukigassen」の名で海外でも広まっているそうです。1987年にチーム対抗のニュースポーツとしてアレンジされ、1988年に公式ルールが国際ルールとして制定されました。

このルールを設定したのは北海道の壮瞥町(そうべつちょう)なのだそうです。が、なぜか日本雪合戦連盟には加入しておらず、北海道は北海道で「北海道雪合戦連盟」というのがあるようです。組織が分かれている理由はよくわかりませんが、道人には雪合戦の発祥の地は北海道である、という誇りがあるからなのかもしれません。

そのとおり、スポーツとしての雪合戦は、壮瞥町で生まれたとされており、1988年に正式な国際ルールが策定された翌1989年に初めての本格的な大会「昭和新山国際雪合戦大会」がスタートしています。現在、この壮瞥町の国際雪合戦は、北海道遺産の一つに選定されています。

その後、このスポーツ雪合戦は急速に全国へ広がり、他の大会でもこの壮瞥町の国際大会のルールで試合が行われることが多いようです。多くの地方連盟・団体が設立され、このシーズン、全国各で雪合戦が繰り広げられています。

ただ、新潟県魚沼市(旧小出町)の小出国際雪合戦のように独自ルールを採用している大会もあるようです。魚沼市には、「雪合戦発祥の地」の石碑が建てられているといい、新潟は新潟で自分のところが雪合戦の発祥の地だと考えているようです。

これは、越後守護の一族上条定憲と越後守護代長尾為景が争った際に、刀折れ矢も尽きてもなお、両者は戦いをやめず、雪を固めて投げ合ったことが由来とされており、雪合戦としては自分たちのもののほうが老舗さというわけです。

それにしても、長野や北海道といい、この新潟といい、独自にそれぞれ大会を催さずに、みんな統一してJリーグやプロ野球のように共通した大会にすればもっと盛り上がるのに、と思うわけですが、それはそれ、それぞれの土地での思惑やプライドがあるのでしょう。

ちなみに、この魚沼の小出国際雪合戦は、昨日おとといの2月6~7日に開催され、成功裏に終了したようです。北海道で行われる、第28回昭和新山国際雪合戦は、今月の20~21日開催だそうで、また日本雪合戦連盟による第3回雪合戦選手権大会は、3月5~6日に長野で行われるそうなので、ご興味のある方は観戦に行ってはどうでしょうか。

第28回昭和新山国際雪合戦

第3回雪合戦選手権大会

ここ、伊豆ではさすがに雪合戦は望めそうもありません。が、来る27~28日には伊東温泉で「第4回日本まくら投げ大会in伊東温泉」が催されるそうです。こちらも競技化を目指した5対5のドッヂボール形式で行われるそうですが、浴衣またはパジャマを着用し布団を楯にするなど、かなりおちゃらけた大会のようです。

伊東市民体育センターで行われるそうです。そろそろ梅が咲く季節になってきましたが、温かい伊豆に来られることがあったら、ぜひのぞいてみてあげてください。

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ヤクは厄

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先日来、大物元プロ野球選手の覚醒剤使用による逮捕がニュースを賑わせています。

プロ野球界においては、昨年も賭博の問題が浮上しましたし、今回のこの事件もあり、いったい何をやっているのか、とファンとしては歯がゆい思いがします。ほとんどの選手が一生懸命やっている中でのこうした一部の輩の不正行為は、球界全体の印象を悪くしてしまっており、至極残念です。

ところで、この覚醒剤と麻薬って、いったい何が違うんだろう、とふと疑問に思ったので調べてみました。

すると、まずわかったのは、その違法な取扱いを罰する法律が違うということ。覚醒剤についてはその取締りは「覚醒剤取締法」という法律に基づいており、一方の麻薬のほうは「麻薬取締法」に基づいているようです。

というのも、そもそも麻薬というのは「薬」としても扱えるものであるのに対し、覚醒剤のほうは、いわゆる薬としての利用はされない刺激物、ということになるためのようです。

ドーパミンという言葉を聞いたことがあると思います。これは簡単に言えば、人に幸福感とか快感を与える物質ですが、脳内でこのドーパミンが増えると人は幸福感や快感を感じます。

覚醒剤と麻薬も作用としてはドーパミンを増やして幸福感や快感を感じさせるものですが覚醒剤はこのドーパミンをどんどん出すように仕向ける働きをします。つまりその使用によって問答無用に人を著しく興奮させる方に働く薬です。

一方で麻薬のほうは、本来は逆に人の神経を「鎮静させる」薬です。ドーパミンはGABA(ギャバ)と呼ばれるは主に脳や脊髄の神経系に流れている「抑制性の神経伝達物質」として使われており、通常の状態では興奮を鎮めたり、リラックスをもたらしたりする役割を果たしています。

つまり、普段はこのギャバ神経系によってドーパミンは出すぎるのを止められているわけですが、麻薬を服用するとその成分はこのギャバ神経を「抑制する」ことになります。このため、結果としてドーパミンがじゃんじゃん出るようになる、というわけです。

結果として覚せい剤も麻薬もドーパミンを増やして快感を得るわけですが、その作用の仕方が全く違います。

問答無用に直接ドーパミンを出させる覚醒剤は扱いが危なく、医療用としては使いにくいものです。一般には、ドーパミンの量が著しく減ることで起きるパーキンソン病の治療ぐらいにしか使われません。扱いによっては暴走しやすいために、同じ薬物であっても、高度に危険視されるのはこのためです。

一方で麻薬は医療用医薬品として使われます。もちろん、厳重に管理されて使われているわけですが、一番良く使われるのはガンの痛み止めです。いわゆる「モルヒネ」などがそれで、こうした麻薬は他の痛み止めと違い、痛みの伝わる神経経路に直接作用します。また、ガンが進んでくると他の痛み止めは効かなくなりますが麻薬は効果が持続します。

このように作用が全く違うのが、これを取り締まる法律も違う理由です。その化学的な成分についても大まかな分類では、前者が植物由来のものが多いのに対し、後者は鉱物由来のものが多い、という違いがあるようです。無論、かなり大雑把な分類なので、厳密に化学成分を分析すると必ずしもそうとは言えないものもあるようですが。

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このほか、植物由来といえば、同じ麻薬の中でも、大麻というのがあります。いわゆる植物の麻を原料にしてできる薬であり、マリファナとも呼ばれます。実はこちらも麻薬取締法や覚醒剤取締法とは別に、「大麻法」という独立した法律で規制されています。

この大麻にも麻酔性があり、戦前には鎮静薬及び催眠薬、喘息への熏煙剤としての使用のほかに嗜好用途として、紙巻煙草として使われることもあったようです。死亡例もほとんどないらしく、麻薬の中でも比較的マイルド、とされるもので、日本以外の国では医療用として使う国もあります。

アメリカの23州、カナダ、イスラエル、ベルギー、オーストリア、オランダ、イギリス、スペイン、フィンランドなどで医療大麻として実際に使われています。しかし、大抵の場合、大麻の使用には処方箋が必要になります。ただ、アメリカなどでは医薬調合品としての利用が可能になってから悪用する輩が増え、大きな社会問題になっています。

このため、日本政府としてはアメリカみたいにならないように、ということで上述の大麻法が定められ、たとえ医療目的であっても使用、輸入ならびに所持は厳格に禁止されています。

ただ、 2013年ごろから日本で規制されていない、茎や樹脂からとれたCBDと呼ばれるオイルがアメリカから輸入されるようになっています。CBDオイルは、いわゆるハイになる物質を一切含んでおらず合法的に輸入代行業者から購入できるためです。抗癌性があるといわれ、こうした病に苦しむ人には期待されているようです。

植物性の麻薬にはこのほか、「アヘン」があり、これはこれでまた麻薬取締法、大麻法とは別に「あへん法」という法律によって規制されています。紀元前から鎮痛作用などが知られ用いられており、後にアヘン戦争を引き起こすなど重大な害悪を引き起こしてきました。

ご存知のとおり、ケシの実から作られますが、精製の必要がなく割と簡単に作れてしまうようです。顕著な薬効があるために、極めて古くから使われてきました。他の麻薬に比べ麻薬性は相対的には少ないとされますが、過度の服用は幻覚症状などを引き起こし、中毒に到ります。

しかし、約10%ほどの豊富なモルヒネを含み、その鎮痛作用などの効果から日本以外では製薬原料として広く利用されています。なお、アヘンは精製によってさらにその化合物であるヘロインの原料となりますが、このヘロインは強い「魔薬性」に偏った成分を持つため、アヘン以上に危険な麻薬として厳しく取り締まられています。

無論、日本でも、あへん法によって厳しく取り締まられるともに、麻薬取締法によっても使用、所持等が禁止されています。またあへん法では、原料となるケシの栽培自体も禁止されています。

以上、日本には、麻薬取締法(正確には「麻薬及び向精神薬取締法」、)覚せい剤取締法、大麻取締法、あへん法の4つの薬物取締法があることがお分かりだと思いますが、これら四つの法律は、合わせて「薬物四法」と呼ばれています。

こうした四重もの規制を敷くのは世界的にみてもかなり厳しい状況のようであり、警察庁のほか、厚生労働省には「麻薬取締部」があり、薬物の利用を厳しく監視しています。この下で働くのがいわゆる「麻薬Gメン」、マトリと呼ばれる麻薬取締官です。先日のK元選手の逮捕に大きく寄与したのもこの麻薬Gメンだったようです。

警察とは違う組織ですが、似たような権限が与えられていることから、国会などで警察機構へ統合すべきでは、との意見が出たことがあるようです。

警察庁にも薬物銃器対策課が存在することから、予算や効率化の観点から今も統合論が根強いようです。実際の業務においても、ほとんどの薬物密売に暴力団が関与しているため、暴力団の情報をほぼ独占的に有する警察との情報交換が常に必要となっています。

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このように、日本では薬物使用に関しては極めて厳しい規制が敷かれているわけであり、そうした厳重な監視の目の中をくぐってまで薬物を手に入れる、ということに対してはそれなりに世間からの厳しい目が向けられるわけです。

犯罪には、殺人や傷害、脅迫や窃盗といった「個人的法益に対する罪」と、放火や騒乱、通貨偽造や公然わいせつ、といった行為により著しく社会への影響を与える「社会的法益に対する罪」の大きく分けて二つがあります(このほかにも公務執行妨害や内乱を犯すといった、国家的法益に対する罪」というかなり特殊なものもありますが)。

この社会的法益に対する罪の中においても、薬物使用の罪はかなり上位の悪質な罪とみなされることが多いようです。というのも、放火やわいせつ行為といった罪は、その被害は一部地域もしくは一部の人々に対する限定的な影響しか与えないことが多いのに対し、薬物の蔓延は多くの国民の脅威となりうる可能性を秘めているからにほかなりません。

もしかしたら騒乱罪よりも罪は重いかもしれず、麻薬取締官や警察官がそれだけ躍起になってホシを挙げようと頑張るのはそのためであり、また世間一般から着目され、メディアにも取り上げられやすいのはこのためです。

こうした薬物被害の中でもとくに覚醒剤によるものは、とくに著しいといいます。上でも述べたとおり、なにしろ「薬物」といいながら、科学者がコントロールできないほど過激な代物であるわけであり、薬としての使用も不可能であるとされるような物質です。

日本では、「シャブ」、「スピード」、という隠語で呼ばれているようですが、「シャブ」の由来は、「骨までシャブる」を由来とする説があるようで、このほか「人生をしゃぶられてしまうからである」という人もいるようです。スピードのほうは、それだけ効き目が顕著で早く利くためでしょう。

乱用者は「シャブ中」などと呼ばれますが、ヒロポン中毒を意味する「ポン中」と呼ばれることもあります。

このヒロポンについては、戦前の日本では、合法的に販売されていました。1941年(昭和16年)、大日本製薬(現在の大日本住友製薬)がメタンフェタミン製剤ヒロポン、武田薬品工業がアンフェタミン製剤ゼドリンとして市販したものが普及したものです。

のちにヒロポンの効果や売上げはゼドリンよりも大きかったことから、ヒロポンのほうが固有名詞として定着しました。ヒロポンの名は、「疲労をポンと取る」にも掛けていますが、ギリシア語のピロポノス(労働を愛する)を由来としています。

覚醒剤として使われ始めたのは、アメリカの薬理学者でゴードン・アレスという人が、1933年、アンフェタミンから吸入式喘息薬を開発して、ベンゼドリンとして市販されたことがきっかけです。

が、咳止めとしてよりも、疲労回復のために長距離トラック運転手がよく使うようになりました。また、スーパーマンになれる薬として学生の間で乱用され、また食欲減退効果があることから、ダイエット薬として販売する業者も現れました。これに目を付けた上の日本の製薬会社がこれを輸入販売するようになったものですが、のちには国産化されました。

ヒロポンの効果については、研究者によって当初、疲労を防ぎ、睡魔を抑える興奮剤としての効果があるといわれ、常習性はないとされていました。不眠、食思不振、頭痛、焦燥感などの副作用も臨床実験で報告されていましたが、効果・副作用を分ける基準が、主として被験者の主観的によるものが大きいとして特に問題にされていませんでした。

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その後日本が太平洋戦争に突入し、戦闘が激化すると、当時の軍部は生産性を上げるべく、軍需工場の作業員に錠剤を配布して10時間以上の労働を強制したり、夜間の監視任務を負った戦闘員や戦闘機のパイロットに視力向上用にと配布しました。

「吶喊(とっかん)錠」・「突撃錠」・「猫目錠」という名前で配られていたそうで、パイロットに対して重点的に支給され、とくに夜間戦闘機のパイロットには効果があるとされました。

夜間戦闘機というのは、視界の悪い夜間に活動するための専用の装備・能力を持った戦闘機のことで、特徴としては、乗員が複数名で黒・グレー・濃緑など、暗めの色で機体が塗装されたものです。このころはまだ珍しいレーダーを搭載しているものもありました。

また、通常機体後上方に向けた防御武装が強力である爆撃機を打ち落とすために、機銃を多くは斜め上方にも向けて装備し、併行して飛行しながら防御の薄い敵爆撃機の下側から連射を浴びせることができました。これを斜銃といいます。

一般的に、夜間戦闘機は昼間戦闘には用いられません。その理由は複座で運用され、かつ重い機銃を複数装備するためであり、このために双発とすることが多く、昼間戦闘機よりも鈍重になったためです。それゆえ発祥となった双発複座戦闘機は、夜間戦闘機に用いられる以前より、偵察や爆撃任務に活用されていました。

日本では月光、銀河、極光、電光、彗星といった夜間戦闘機が製造・運営されましたが、中でも、昭和17年(1942年)から「二式陸上偵察機」として使用され始め、翌年から夜間戦闘機にこれを転用した「月光」は名機といわれました。

月光の初期型に上向きと下向きの斜銃が2挺ずつ装備されており、その重装備により、戦争開始当初はB-17やB-24などの敵米爆撃機を次々と撃ち落しました。その後の本土防空戦においても、夜間のみならず昼間もB-29迎撃に出撃し、それなりの成果をあげました。

しかし、終戦近くになると、速度や高々度性能の不足、また飛来するB-29に比して迎撃機数が少ないこともあって、十分な戦果を挙げることはできませんでした。かなりの数の月光に対航空機用レーダーが装備されていましたが、搭乗員や整備員がレーダーの取り扱いに不慣れであったことや、レーダー自体の信頼性も低く、戦果があがりませんでした。

とはいえ、月光の生産機数は二式陸上偵察機も含めて477機にものぼり、この内40機が終戦時に残存していました。現在、戦後アメリカ軍に接収された横須賀航空隊のヨ-102号機が修理・復元された上でスミソニアン航空宇宙博物館に展示・保存されています。

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この月光の夜間戦闘機月光搭乗員として活躍した旧帝国海軍のエースに「黒鳥四朗」という少尉がいます。飛行兵曹長・倉本十三とのペアにより、6機ものB-29を撃墜したとされますが、この二人もまた、夜間視力が向上するとの事で、ナチス・ドイツより輸入されたヒロポンを使っていました。

ナチス・ドイツでは、その後「ヒロポン入りチョコレート」といったものが配られるようになったといいますが、日本ではまだそのころそこまで技術が進んでおらず、夜間戦闘機搭乗員は、ヒロポンの主成分であるメタンフェタミンを直接注射で投与されていました。

これを注射することによって夜間視力がよくなるとされたことから、「暗視ホルモン」という名前で呼ばれていました。黒鳥少尉以外にも、「大空のサムライ」として有名なエースパイロット、坂井三郎中尉もラバウルで連日激しい空中戦を戦った際に、疲労回復のブドウ糖と一緒にヒロポンを注射していたそうです。

こうした日本軍による覚せい剤の使用状況については公的資料がほとんど残っていませんが、その効果として「疲労回復」や「眠気解消」や「士気向上」が期待されていたものと思われます。夜間戦闘機の搭乗員以外にも、主に眠気解消剤として夜間作業に関わる兵士用に応用されていたといわれています。

「暗視ホルモン」を投与された黒鳥・倉本ペアは、その後目覚ましい成果をあげましたが、その投与に際しては、技量と戦果を考慮し、まだ実績の少なかったこのペアが選ばれたと推測されています。つまり、軍部としては彼らを実験材料にした、ということになります、

その後の目覚ましい活躍によって、はたしてその効果を証明した、ということになるわけですが、その実際の効果について、当の黒鳥少尉は戦後、眠気がなくなり、冷静な判断力とひらめきを得たこと、恐怖心の抑制力があったこと、などをあげています。

ただ、夜間の視認性は向上せず、全体的にさほど影響はなかったとも述べており、実際には「暗視ホルモン」と言われるほどの視力への効果はあまりなかったようです。とはいえ、戦闘能力を高めるうえでは有効だったと考えられるわけです。

しかし、こうした覚醒剤投与の影響は、戦後すぐに異常感覚の発現という形で現れました。黒島少尉に関しては戦後すぐの1946年(昭和21年)初夏から始まり、異常感覚がほぼ消失するには昭和60年ごろまで非常な長期間を要したといいます。具体的には尖ったものや手や鼻が自分の目に飛びこむ感覚、微熱と目眩、食欲の減退などが起こったといいます。

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太平洋戦争敗戦後は、GHQからの指示で厚生省が軍部が貯蔵していた大量の医薬品が医療機関や一般国民に大量放出され、この際にこうしたヒロポンも同時に放出され、大量に巷に流通しました。

戦後間もない闇市ではカストリ焼酎一杯より安い値段で1回分のアンプルが入手できたといい、このため、芸人や作家やバンドマンといった寸暇を惜しんで働く者たちから、興味半分で始めた若者まで瞬く間に広がり、乱用者が増加していきました。

またヒロポンは、薬局においてアンプルや錠剤の形で販売されるようになり、1943年から1950年までは、印鑑さえ持っていけば誰でも購入できました。このため、タクシーの運転手や夜間勤務の工場作業員など、長時間労働が要求される職種の人々に好んで利用され、その疲労回復力から大いに重宝されました。

この結果、日本では大量に社会に蔓延し、多数の依存症患者を生み出す事となります。ヒロポンを販売していた大日本製薬会社は、戦後の国会で戦時中にはその毒性を認識していなかったと前置きの証言をしたうえで、国による早急な対策を訴えたといいます。

しかし、対策が後手に回ったこともあって、やがて蔓延が社会問題化することとなり、ようやく様々な措置が取られることとなりました。こうして、1948年7月には薬事法における劇薬の指定がなされました。また翌年には、厚生省から各都道府県知事に、製造自粛などを通達し、1950年には医師の指示が必要な処方せん薬となりました。

その後、このヒロポンの蔓延がきっかけとなり、遂に1951年に覚せい剤取締法が制定され、施行されるに至ります。しかし、その後も密造の覚醒剤が流通したため、1954年(昭和29年)には、覚せい剤取締法の罰則が、懲役3年以下から5年以下へと強化されました。

同年にはまだ5万6千人近くの検挙者が出ていましたが、軍部からの流通から生じたヒロポンの蔓延による「第一次覚醒剤乱用期」はようやく終息を迎えるところとなりました。しかし、取引は地下に潜って暴力団などの主要な資金源となっていきました。

覚醒剤自体は非常に安価に製造できますが、取引が非合法化されているため闇ルートでの流通となります。このため、闇資金を必要とする暴力団関係者などの悪の組織ではその価格を嵩増しし、末端価格では数百倍にも跳ね上がることも普通です。

イイ金になるからと、密輸や密売があとを絶たないのはこのためであり、韓国ルートのものが増えた1970年(昭和45年)には再び検挙数が1000人を超えました。1973年には罰則がさらに懲役10年以下に強化されるに至り、ここに至って「第二次覚醒剤乱用期」に入ったといわれました。

以後、水商売回りに乱用が流行するようになりましたが、近年では、北朝鮮・台湾・トルコなど大陸からの密輸も相当量あるといわれ、特に北朝鮮のそれは同国の主要な外貨獲得手段となっていると指摘されています。

中学生・高校生が栄養剤感覚や痩せ薬感覚で手を出したり、主婦がセックスドラッグと騙されて服用するケースも増加し、薬物汚染として社会問題になっています。1980年代後半以降は芸能人・ミュージシャンなどの知名度や影響力の高い人物が覚醒剤使用で検挙されるケースも後を絶たず、繰り返しセンセーショナルな社会的話題となっています。

2005年、覚醒剤所持で逮捕された衆議院議員・小林憲司(当時民主党)が、衆議院議員在職中にも覚醒剤を使用していたことが判明し、国民に大きな衝撃を与えました。

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とはいえ、覚醒剤使用者の検挙率は、1998年の22000人超から毎年減ってきており、現在では15000~16000人くらいの水準になってきているといいます。しかし、ここへきて先日の元大物プロ野球選手の逮捕劇があり、その状況に冷や水を浴びせた格好です。列島を大きく揺れ動かす事件となり、今後もしばらくは尾をひくでしょう。

こうした覚醒剤の使用に関しては日本以外の多くの国でも厳しく規制されており、ヨーロッパ諸国ではそれほど厳しくないものの、イギリス、フランスが最高で無期懲役、アメリカ合衆国でも州毎に違い、最高で終身刑となる州もあります。

一方、アジア諸国はかなり厳しく、中には最高刑を死刑と定める国もあります。例えばシンガポールでの不法製造は死刑の対象であり、またマレーシアでも50グラム以上の覚醒剤所持・密輸入では、有罪の法定刑は死刑のみとなっています。

さらにタイ王国においても、譲渡目的での製造・密輸は死刑となり、譲渡・所持でも死刑または無期刑となります。お隣の中国でも50グラム以上の所持で死刑、大韓民国では営利目的のケースでは最高刑が死刑です。1972年(昭和47年)の日中国交正常化後、中国において死刑を執行された日本人は、全員が覚醒剤犯だそうです。

いっそのこと、日本で覚醒剤を使用した輩は中国や韓国へ島流しにする、といった法律でも作ってはどうかと思うのですが、自国の恥を他国へ輸出することはやはりやめたほうがいいのでしょう。

さすがに最高刑を死刑にするというのは日本ではまだ難しいのでしょうが、場合によってはそれもありだよ、とウソでもいいから彼らに伝えれば抑止力になるのかも。

とまれ、薬物使用のない、平和な国により近づけるためには、現状では警察および麻薬Gメンさんたちに頑張ってもらうしかないようです。特に麻薬Gメンさんたちは、警察官と同じ立場でバッタバッタと悪を検挙してくれる頼もしい味方です。

麻薬Gメンには、国家公務員Ⅱ種採用試験の合格者からの採用と、薬剤師資格の有資格者採用があるそうです。国Ⅱからの採用の場合、麻薬取締官の任用資格の関係から、法学部卒者が優先されるそうです。法学部以外の場合、実務経験2年以上が必要なので、麻薬取締官に任用されるまでに時間がかかるといいます。

現在法学部に所属している俊英なあなた、あるいはこれから薬剤師を目指す優秀なあなたも、これからの日本を守る正義の味方、麻薬Gメンを目指してみてはいかがでしょうか。

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沈黙の商い

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節分です。

季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらいが宮中行事として執り行われたことに由来します。

その日付けは、今日2月3日ですが、いずれは違う日になるようで、2024年からは2月2日になるといいます。

なぜかといえば、節分は立春の前日と定められているからです。立春は太陽黄経が315度となる日であり、天体の運行に基づいているので年によって異なり、これに伴って節分の日も変わるというわけです。忘れている人も多いでしょうが、節分が現在のように2月3日になる前の1984年までは2月4日がこの日でした。

このように思い込みというのはいろいろあるもので、こうだと深く信じていたことが、時々裏切られる、というのはよくあることです。昨日も西武などに所蔵して活躍した某元有名野球選手が、覚醒剤保持で逮捕されたばかりです。えっ、あの人が、と信じていただけにびっくりした人も多いでしょう。

節分の掛け声も、通常は「鬼は外、福は内」ですが、必ずしもそうでないこともあります。地域や神社によってバリエーションがあり、鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「鬼も内」としています。

家庭内での豆まきに於いても、「鬼」の付く姓、たとえば「鬼塚」、「鬼頭」といった姓を持つご家庭や、鬼が付く地名を持つ地域では「鬼は内」とする家が多いようです。かつて江戸時代には大名九鬼家の領地でも、藩主に敬意を表して「鬼は内」としていました。

九鬼家は紀伊、志摩が根拠地だったので、これは現在では和歌山県にあたります。今年サミットが開かれる予定の志摩地方のご家庭の多くも、今日は「オニは~ウチ」とやるのではないでしょうか。

さらには、節分に撒くのは豆でなくてはならない、というわけでもないようです。そもそも豆を投げるようになったのは、宇多天皇の時代に、鞍馬山の鬼が出て来て都を荒らしたことがきっかけです。祈祷をして鬼の穴を封じ、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたという故事伝説が始まりと言われています。

豆撒きとなったのは、五穀の中でも収穫量も多く、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒の大きさが適当だったからのようです。また炒り豆を使うのは、撒いた豆から芽が出ては不都合であったためといいます。

節分の行事はそもそも旧年の厄災を豆に背負わせて払い捨てるためのものであり、そのために撒いた豆から「厄の芽」がそこら中に出ては困る、というわけです。

このため、芽が出てしまう大豆の代わりに別のものを投げよう、とした地方があります。北海道・東北・北陸・南九州などの一部地域がそれであり、こうした地方の家庭では大豆でもなくてもいい、というわけで代わりにピーナッツ(落花生)を撒くそうです。

このほかの寺社や地域でも、餅や菓子、みかん等を投げる場合もあるといい、これはさらに、豆撒きのあと、拾い易くて地面に落ちても汚れないという合理性からきているようです。かつては、豆のほかに、米、麦、かちぐり、炭なども使用された地方もあったといいます。

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節分に食べると縁起が良いとされる恵方巻も、大阪を中心に行われていた風習が広まったものであり、全国的なものではありません。

そもそも「恵方巻」という名称はも、1998年(平成10年)にセブン-イレブンが全国発売にあたり、商品名に「丸かぶり寿司 恵方巻」と採用したことにより広まったそうです。

かつて、大阪ではこれを「丸かぶり寿司」と呼んでいました。それをまるごと一本無言で食べるイベントが行われる場合があり、それが昭和初期に「幸運巻寿司」と称して豪華な太巻きを丸かじりするように変わりました。

戦後に一旦廃れましたが、土用の丑の日に鰻を食べる習慣にあやかって、1949年(昭和24年)に大阪のすし商組合が、この戦前に行われていたこの風習を復活させようと画策しました。

が、うまくいかず、1955年(昭和30年)になって、業務用海苔を販売していた「元祖たこ昌」の社長さんが自社で製造していた海苔販売の促進活動の一環として、再び恵方巻を流行らせようと考えました。

このときの名前が「丸かぶり寿司」です。「かぶる」を辞書で引くと「気触る」「被る」のほかに、「齧る」というのがあるようで、標準語では「かじる」と変わっていますが、大阪など畿内では古いこの呼び方が残っていたのでしょう。しかしこのときも大ヒットとまではいかず、そこそこ売れたという程度だったようです。

その後昭和40年代前半にも、この「たこ昌」をはじめとする海苔問屋の協同組合と大阪のすし組合とが連携し、この「丸かぶり寿司」を食べるという行事を大々的に普及させようとしました。このときは、飛行機をチャーターしてビラを撒くなど大々的に宣伝し、これが受けたため、1970年(昭和45年)頃からメディアに取り上げられるようになりました。

4年後の1974年(昭和49年)にはさらにこの大阪海苔店経営者らがオイルショック後の海苔の需要拡大を狙いとして節分のイベントで「巻き寿司早食い競争」を始めました。これもまたマスコミが取り上げられ、これに触発された関西厚焼工業組合も同時期頃に宣伝活動を開始したことなどが契機となり、徐々に知名度が上がっていきました。

さらにこの節分のある2月というのは、正月も終わって一段落した時期なので、商業的に売り上げの落ちる時期なのだそうです。このため、長い不況によって売り上げが落ちていたコンビニエンスストアを中心とし、これにスーパーマーケットなども加わって、この丸かじり寿司を売り出すようになりました。

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「恵方巻」の名を冠したのはセブンイレブンですが、丸かじり寿司そのものの販売はファミリーマートのほうが先だったといいます。1983年(昭和58年)に大阪府と兵庫県のファミマで販売されたものが、コンビニ店としては初めてのものでした。

その後、バレンタインデー・ホワイトデー・オレンジデーの菓子などの贈答と同じく、節分に関連する商業的イベントとして、主に関西の海苔業界やコンビニ業界など関係業界の主導のもと、恵方巻を巧みに利用して販売促進が進められていきました。

節分に関係の深い食材である豆やイワシに比べ、恵方巻は様々なアレンジが可能です。このことから新たな商品開発が行われ、2000年代以降には本来の太巻きだけではなく「海鮮巻き」「ハーフサイズ」など食材・大きさの多種類化が進みました。

発祥の地、大阪では「阪神タイガースバージョン 虎十巻」のような公認グッズまで出現し、また、東武百貨店などの百貨店でも中華・洋風といった複数種類の恵方巻を用意するようになりました。東武では2013年には金箔を圧着させた焼海苔を使った恵方巻が数量限定で発売されましたが、あっという間に売れたそうです。

また、現在では本来の太巻きとは全く関係が無い食べ物にも恵方巻を模した商品が各種展開されており、「丸かぶりロールケーキ」「恵方巻きロール」などの洋菓子が売り出されたほか、江崎グリコは「節分かぶりつきシリーズ」として、鬼の金棒をモチーフにした「ポッキー」を発売しています。

このほか、トルティーヤ、ロールサンド、オムライス、包餅などいろいろな料理にも恵方巻きバージョンがあるといい、今晩はそうしたメニューを自前で作る、というご家庭も多いのではないでしょうか。

さらには一部のコンビニでは、節分が2月だけではなく年に4回あることに着目した別の展開を図ろうとしています。節分というのは、各季節の始まりの日の前日のことであり、立春のほかにも立夏、立秋、立冬があります。このため、「秋の恵方巻」を11月に販売しているコンビニチェーンもあるそうで、このほか8月の「夏の恵方巻」もあります。

しかし、11月の節分は本来「立冬」であり、これを「秋の」とするのはそもそもナンセンスです。同様に8月の節分は「立秋」であり、これを「夏の恵方巻」と呼ぶのは少々苦しいのではないかと、突っ込みたくなります。

これほどまでに商魂たくましいのをみると、なにやら同情までしたくなってしまうほどですが、そこまでやらないと不況が続く現在では商売は立ち行かないのでしょう。先日日銀によりマイナス金利が発表されたばかりですが、一日も早く、景気が回復してほしいものです。

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ところで、この商売の「商」、「あきない」という字にはどういう語源があるのか、と調べてみたところ、これは中国からの輸入用語のようです。

紀元前1600年ごろ中国に栄えた殷王朝は、自らは商王朝と称し、最後の首都が殷であったことから殷王朝とも呼ばれていたそうです。この商王朝が崩壊して、亡国の民が行き場を求めて各地で貿易・流通業に手を染め、糧を得たことから、その仕事を「商」と呼ぶようになったといいます。

その中国で大規模な商業が営まれるようになったのは、唐王朝後期のことであり、中国人は、9世紀初めには茶や絹の遠隔地交易を簡便にする手段としての「飛銭」という送金手形を使い始めました。そしてこの飛銭が更なる商業の発展を促進するとともに後には紙幣へと発展したと言われています。

それに伴って牙行(がこう)と呼ばれる仲介業者による一種のギルドが発達して、中国国内の遠隔地交易に関与するようになっていきました。明の頃にはこの牙行は大規模な施設を構え、倉庫業務・宿泊業務・輸送業務・銀行業務なども手がけるようになります。

こうした業務拡大は牙行本来の仲買業務と深く密接しており、商品を生産地から消費地に運ぶなどの地域間交易に従事する「客商」や、消費地などに店舗を構えて卸売業や小売業に従事する「坐賈(ざこ)」などは、この牙行に商談の世話をして貰っていました。

また、客商や坐賈は、必要があれば実費で長期間宿泊・滞在することができ、牙行に商品を保管して貰うこともできました。牙行もまた有利と見れば自らが彼らから商品を買い付けて卸売としての役目を果たすこともありました。

決済は牙行が出す手形で行われ、送金も為替で処理されるのが普通でした。牙行を開くためには政府が出した「牙帖(がちょう)」と呼ばれる営業許可証を必要としていましたが、実際には無許可の私牙行も少なくはなかったようです。

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時代が下るにつれて穀物、茶、絹、木材、家畜などの商品によって専業化していき、社会的分業をとげていきました。牙行でもっとも有力な存在であったのは、農村から穀物を買い上げるとともに農村で必要とされる都市の手工業製品を販売する「糧貨店」でしたが、これも後には糧店と貨店に分化されるようになります。

糧は、食糧・食物のことですが、古くの読みは「かりて」であり、貨は言うまでもなく、金です。金の借り手と貸し手に分かれていったというわけで、現在の銀行と借り手である商売人の関係、ということになります。

こうして急速に勢力を伸ばすとともに組織化された牙行は、やがて中国国内のみならず対外貿易にも手を出していくようになります。そして日本との交易の合間においてそのシステムはそのまま日本にも伝わり、現代日本の「商売」のルーツとなっていった、というわけです。

この商売というものは、商品と仕入先と販売先のふたつが存在しないと当然成り立ちません。単純そうに見えますが、社会の変化に対応しなければならないものであり、さらに同じ地域もしくは経済圏・文化圏の内部で行われる商売と、異なる地域の間で行われる商売があります。いわゆる貿易といわれるものはその後者になります。

同じ地域内、すなわち日本なら日本国内で行われる取引の場合、相互に使われる言語や貨幣などの交換手段が一致するため問題は少なくなりますが、外国との交易においては互いの言語・交換手段の違う相手間ではコミュニケーションを取ることがしばしば困難です。

現在ではグローバルな標準語として英語があるため商売が円滑に行われることが多いわけですが、その昔は言語にスタンダードはなく、たとえばスペイン語圏で頻度の高い商売が行われるのに対し、一歩その外へ出ると、とたんに商売がしにくくなる、ということが頻繁にありました。

それでも「言語」いうものがあれば、ひとつの国の言葉を別の国のものに翻訳して意志を伝える、ということができます。しかしさらに古い時代になると言語を持たない民族も多く、この場合の商売のための意思疎通はジェスチャーぐらいしかなくなります。

このため、最も古い形式では「沈黙交易」と呼ばれる手段が取られていたと考えられています。一般的には、交易をする双方が接触をせずに交互に品物を置き、双方ともに相手の品物に満足したときに取引が成立した、と考えられています。

交易の行なわれる場は中立地点であるか、中立性を保持するために神聖な場所が選ばれたといい、そうした時代にはまだ通貨といったものも当然ありません。こうした場所に身なりや風習も違う複数の民族が集まり、無言で黙々と物々交換が行われたのでしょう。

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このように、「沈黙交易」というものは言語が異なるもの同士の交易という解釈をされがちですが、現在「ハワイ」と呼ばれているかつての「サンドイッチ諸島」では言葉が通じるにもかかわらず沈黙交易がおこなわれていたといいます。

従って無言で交易をするそもそもの理由は、「沈黙」が目的ではなく、言葉を交わすことによる「接近の忌避」とする解釈もあるようです。つまり、あの部族と取引をしたいが、しゃべり方が卑しく思える、あるいは言葉を交わすことによって、自分たちの神聖なる言葉が汚される、といったこともあったのかもしれません。

日本では古い時代には、「言霊(ことだま)」という概念がありました。これは声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられていたためです。良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされました。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意されたといいます。

これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものです。漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられており、例えば「事代主神(ことしろぬし)」が「古事記」では「言代主神」と書かれている箇所があるそうです。

従って、ハワイなどにおいても、交易においてそうした大事な言霊をむやみやたらに使わない、あるいは魂を相手に盗まれる、といったふうに考える部族がいたと考えても不思議ではありません。

一方、日本での沈黙交易の最古の記録は、「日本書紀」にみられるそうです。飛鳥時代の将軍、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が。斉明天皇6年(660年)に中国満州の部族、粛慎(しゅくしん)と戦う前に、彼らとこの沈黙交易を行った、と書かれているといいます。

また、明治初期の民族学者、鳥居龍蔵は、かつて北東アジア全般に沈黙交易が存在したと論じており、とくにアイヌ民族は中国との交易において無言交易を行っていたとされます。

新井白石が「蝦夷志」に記録しているアイヌ同士の交易も沈黙交易とされ、道東アイヌは米、塩、酒、綿布など、千島アイヌはラッコの皮などをこの沈黙交易における交換に用いました。アイヌによる沈黙交易は、この他にサハリンアイヌとツングース系民族、アイヌとオホーツク人などとの間にも行われていたらしいことを示す記録もあるようです。

それにしても同じアイヌ同士であって、ある程度はお互いの言葉を理解していたであろうに、なぜ沈黙交易が行われていたのでしょうか。やはり相手と言霊を交わすことを嫌がる「接近の忌避」でしょうか。

実はこれは疱瘡をはじめとする疫病を防ぐために行われていたのではないか、ということが言われているようです。この時代のアイヌ人は、言葉を交わせばこうした病気が移ると思っていたのでしょう。現在でも口で「エンガチョ」と囃したてる子供の遊びがありますが、これは指先や身体で防御の印を結ぶことで不浄なものの感染を防ぐ風習の名残です。

なお、アイヌ伝説に登場する小人・コロポックルの起源もまたこれら千島アイヌと道東アイヌの沈黙交易にあると考えられるそうです。

コロポックルとは、アイヌ語で、「蕗の葉の下の人」という意味の小人ですが、その特徴としては、アイヌ人との物々交換の際、相手との接触を避ける、という風習があるとされ、これが「沈黙交易」から来ているのだといいます。

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一方、高名な民俗学者、柳田國男によれば、こうした沈黙交易はその後も頻繁に日本国内各地で行われていた、としています。大菩薩峠や六十里越などがそうした交易の場所であり、大菩薩峠は甲州山梨にあってこの当時の武蔵国と甲斐国を分ける峰であり、また六十里越は、出羽国の内陸部と庄内の境にある峠です。

おそらくは両者の間の言語には隔たりがあり、互いの言語が通じにくかったのでしょう。無言で取引が行われたと考えても不思議ではありません。最初は相手のしゃべることが意味不明でも話ながら取引をしていたものの、そのうち面倒なのでやめてしまったのかもしれません。

このように古くはよく行われていた沈黙交易も、やがては同じ地域間での取引量が増えると消えていきました。大量の商品をやりとりするのには、やはり言葉を交わす対面交易のほうが便利に決まっています。

さらには、両者間を仲介するための仲買業者や問屋、異なる体系の貨幣を交換(両替)する両替商などが登場するようになり、現在のように日本中だけでなく、世界中でも活発に言葉を交わしながらの商売が行われるようになっているわけです。

それにしても、今日では家から一歩外へ出ると、すべての人が商売人ではないか、と思えるようなときがあります。

今日の節分の日などのようにスーパーに行くと、声高にやれ恵方巻きだの、節分豆だのを買え買えという商売人たちの呼びかけが声高に聞こえてきて少々うんざりします。いっそのこと昔に戻って、商売をするにあたっては沈黙交易しか許さない、といった法律でもできないかな、と夢想したりもします。

モノを買うとき、一言もしゃべってはならないという決まりができた、と想像すると楽しくなります。コンビニで、スーパーで、駅の売店で、みんな黙々とジェスチャーで買い物をする……いかにも静かな国になるに違いありません。

そうすれば、休みになるとうるさく回ってくる廃品回収車の声も聞こえなくなるわけであり、歌舞伎町を歩いていて不用意にポン引きにひっかかることもなくなるに違いありません。オレオレ詐欺も同様であり、「・・・詐欺」では成り立たないので、この規制によって消滅するに違いありません。

モノを買うときも、一言もしゃべらなくなる習慣も身つき、じっくりと、商品の良しあしを見極めることもできるようになるやもしれず、ひいては良品だけがこの世に出回るようになって景気も上向くのかも。

マイナス金利やTPPだけでなく、ときにそうした大胆な景気対策をとるのもいいのかも。阿部さん率いる自民党さん、この夏の選挙の公約に「沈黙の商い」を掲げてみてはどうでしょう。

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