初夢を見ましたか?

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年が明けました。2016年です。

あけましておめでとうございます。

今年も頑張って、できるだけこのブログを続けていきたいと思います。変わらぬご愛顧をお願いいたします。

さて、みなさんはもう初夢をご覧になったでしょうか。

私はふだんあまり夢をみないほうなのですが、なぜかほぼ毎年、正月1日から2日にかけての明け方に夢を見ます。

今年もまた妙な夢を見ました。グループであるコンペに参加している夢なのですが、最終的に選ばれた私のグループの案が評議委員全員に否決されてしまいます。

しかし諦めきれない私はその案の良さを説明しようとするのですが、なぜか言葉が出ず、グループ長のある女性が私に代わってそれを説明する……というなにやら非常にもどかしい夢でした。

その女性が誰なのか、なんのコンペなのかもよくわかりません。わけのわからない夢を見るというのはよくあることではあるのですが、それにしてもどういう意味があるんだろうな~と考え込んでしまいました。

自分の作品を否定されるというのはあまりいい夢ではないのは確かです。ただ、夢の解釈というのはその内容というよりも、そのときの自分の気持ちに本当の意味があるのだといいます。

なぜか言葉が出ない、というのは本当はこうしたいのだけれどもできない、うまくいかない、といった感情を表しているのかもしれず、なかなか業績の上がらない昨今の自分を表しているのかも、と考えたりもしています。

フロイトによれば夢の素材は記憶から引き出されているといいます。どの記憶が選ばれるかといえば、その選択方法は意識的なものではなく、無意識的なものだそうです。しかし、無意識とはいえ、ある統合性に基づいて引き出されるといい、一見すると乱雑でとりちらかってみえるような夢の内容においても何か統一された意味があるようです。

結果として、夢を見ている本人は夢の中で起こったさまざまな出来事を一つの物語として連結させようと常に努力するそうで、それによって何等かの目的を達するのだといいます。そうすることにはさまざまな狙いがあるようですが、一般的にはそうした夢を見ることは潜在的な願望を充足させるものだといいます。

つまり夢を見る、ということは無意識による自己表現であると考えることができるようで、私が見た夢も、日ごろからああしたい、こうしたい、と思っていながらも、潜在意識の中に隠れ、表に出てこなかったものを夢に見たのかもしれません。

毎年のように見るこの初夢が、この説のように日ごろ意識の中に埋もれているものが現れてきただけのものなのか、あるいは何やらその一年を占うような予兆的な意味を持っているのか、については、年によっても違うような気がします。なので、今年も一年を通してこの夢の持つ意味を検証していきたいと思います。

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ところで、初夢というのは、私のように2日の明け方にみるものを指すのでしょうか。あるいは大晦日から元旦にかけてみる夢が初夢なのでは、と少々疑問に思ったりもします。同様の疑問を持つ方も多いことでしょう。

いつ見る夢のことを初夢というのか、については昔の人も同じ疑問を持っていたようで、はたして江戸時代にも「大晦日から元日」「元日から2日」「2日から3日」と、主に3つの議論があったようです。

しかし、「大晦日から元日」にかけては夜は眠らず騒ぎとおす、というのは今も昔同じです。このため、「元日から2日」のほうが現実的だ、という意見が多かったようです。また、この時代には正月2日目に書初めや初商いなどの新年の行事が行われることが多く、このため江戸時代後期までには「2日から3日」に見る夢が初夢、という説が強くなりました。

とくに、「商業の町」でもあった大阪や江戸では、「2日から3日」が主流となり、この日に見る初夢が「正夢」として全国的に広まりました。しかし、明治の改暦後は、2日に初商いをする習慣が薄れていきました。

日本の官公庁や多くの企業では、いわゆる「三が日」を正月休みとして祝日扱いするようになったためであり、1月4日から平日となり、初商いはこの日にすることが多くなったためです。このため、初夢を見る日も、「元日から2日」に戻り、現在でも、2日の明け方に見る夢とすることが多くなっているようです。

ただ、初夢の起源をみると、そもそも初夢とは節分と立春にあたる2月3日から4日ごろに見る夢ということになるようです。鎌倉時代には、暦上の新年とは無関係に節分から立春の夜に見る夢を初夢としていたそうで、この時代は、立春を新年の始まりと考えていました。

したがって、今年の正月に初夢を見損なった、という人は、来月の節分まで待って、リベンジを果たせばよいのではないかと思います。

「一富士二鷹三茄子」の初夢は良い夢だといいます。江戸時代初期にはすでに言われていたことで、その起源にはいろいろありますが、徳川家縁の地である駿河国での高いものの順という説が有力です。すなわち、富士山、愛鷹山、初物のナスの値段です。

また、富士山、鷹狩り、初物のナスを徳川家康が好んだことにちなむ、という説もあり、いずれにせよ、この故事は、現在の静岡県に由来する、ということになります。

ほかにも、富士は日本一の山、鷹は賢くて強い鳥、なすは事を「成す」、あるいは富士は「無事」、鷹は「高い」、なすは事を「成す」という掛け言葉から来ているという説もあるようです。

実は4番目以降もあり、これは例えば四扇、五煙草、六座頭(しおうぎ、ごたばこ、ろくざとう)といったものです。一富士二鷹三茄子と四扇五煙草六座頭はそれぞれ対応しており、富士と扇は末広がりで子孫や商売などの繁栄を、鷹と煙草の煙は上昇するので運気上昇を、茄子と座頭は毛がないので「怪我ない」であり、家内安全を願うものです。

7番目はないのかな、と思ったらさすがにこちらはないようです。いずれにせよ、今年私が見た初夢の内容はこの1番から6番の中に含まれておらず、残念ながら縁起のいい夢ではなかったと判断されます。

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このように自分が見た夢の吉凶を占うことを夢占い、あるいは夢判断とよく言います。この場合の夢は見た者の将来に対する希望・願望を指すか、これから起き得る危機を知らせる信号といわれます。

バビロニアにおいては夢の解釈技法が発達し、夢解釈のテキストまで作られていたそうで、
古代の北欧でもやはり人々は夢解釈に習熟しており、ある種の夢に関しては、その解釈について一般的な意見が一致していたといいます。たとえば、白熊の夢は東方から嵐がやってくる予告だ、といった共通の認識がありました。

ユダヤ法典には、エルサレムに12人の職業的夢解釈家がいたことが書かれているそうで、このほか、ネイティブアメリカンの部族の中には、夢を霊的なお告げと捉え、朝起きると家族で見た夢の解釈をし合うという習慣があるといいます。

ところが、古代ギリシャにおいて夢は神託であり、夢の意味するものを解釈しようとしてはいけない、「解釈を必要としない」ものだとされていたそうです。夢の送り手はゼウスだとかアポロだと考えられていたといい、従って恐ろしい夢をみればそのまま恐ろしいことが起こり、楽しい夢をみれば、楽しいことが起こる、と解釈されていたようです。

このように、夢は神や悪魔といった超自然的存在からのお告げである、という考え方は世界中に見られます。「旧約聖書」でも、神のお告げとしての夢は豊富に登場します。

一方、夢は睡眠中に肉体から抜け出した魂が実際に経験したことがらが夢としてあらわれるのだ、という人もいます。

肉体から抜け出した魂が感じる感覚が、最高潮に達して無我夢中の状態になることをエクスタシーといいます。

恍惚、忘我ともいい、快感が最高潮に達して無我夢中の状態になることをさします。エクスタシーは、さまざまな歴史的経緯を経て、現代では世俗的な意味でも、宗教的意味でも、あるいは哲学的・芸術的な意味でも用いられています。

最近では性的な意味で扱われることも多く、「オーガズム」を謳った性感マッサージのような少々いかがわしい世俗的なサービスの世界でも「エクスタシー」という言葉は使われます。

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しかし、エクスタシーの本来の語源は、ギリシア語のekstasis、エクスタシスであり、その意味は「外に立つこと」であって、つまり、魂がみずからの肉体の外に出て宙をさまよう、といった意味が込められています。

プラトンは「何かを純粋に見ようとするなら、肉体から離れて、魂そのものによって、ものそのものを見なければならない」と言っており、各種の宗教はこうした考え方を拡大解し、後世では宗教的体験における神秘的な心境をさすようになりました。

またさらに時代が下ると、幽体離脱後に感じるエクスタシーには、予言、幻想、などをともなうことも多いとされるようになりました。魂が肉体から離れたこうしたエクスタシー状態において、神仏などの霊的存在と直接接触したり交流する、とされている例は世界各地に見られます。

肉体から離れた霊魂を脱魂とか遊離魂などと呼ぶことは行われており、すなわち、夢というのは、「睡眠中に霊魂が身体を離脱して経験したことがらだ」とする解釈があります。また「病気や身体衰弱というのは霊魂の離脱が原因だ」とする解釈もあるようです。

古代の日本では、魂は体から簡単に離れてしまうことがあると考えられていました。古代の鎮魂祭についての注釈書には、鎮魂とは浮遊した霊を身体の中府に収めて鎮めることだ、という記述があるそうで、日本の宮廷儀礼ではこうした「鎮魂祭」が重視されていたそうです。

また病から死への移行という側面に関しては、日本の古代から中世にかけては、天皇の病気は空中に浮遊する邪霊や怨霊が天皇の体内に侵入した結果生ずると考えられていました。

こうした邪霊や怨霊を巧みに取り除くことができれば天皇は死をまぬがれ、再び生の世界、つまりこの世へ復帰できますが、除去に失敗すると、天皇の肉体は亡骸(むくろ)になってしまう、と考えられていました。

そうした邪霊や怨霊がやがて変性したものが「物の怪(もののけ)」です。人間に憑いて苦しめたり、病気にさせたり、死に至らせたりするといわれる怨霊、死霊、生霊など霊のことで、妖怪、変化(へんげ)などを指すこともあります。

平安時代の貴族たちが栄華を誇った反面、繊細な性格を持ち合わせていたため、時代の敗者たちの怨みや復讐に対する恐れ、将来への危惧などから、この物の怪に一層の恐れを抱くようになりました。

閉鎖的な宮廷社会を送っていた当時の貴族たちの精神も、物の怪への恐れを助長することとなりました。こうしたことで物の怪自体が怨霊と考えられ、やがて疫病に加えて個人の死、病気、苦痛などのすべてが物の怪によるものと見なされ、その病気自体も物の怪と呼ばれるようになりました。

さらにその後、「もの」に対する恐怖の観念によって、病原体ともいえる生霊や死霊自体が「物の怪」と呼ばれるに至ります。物の怪に取りつかれることは死を意味しますから、人々は、これをできるだけ排除しようとしました。

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たとえば「源氏物語」に御修法(みしほ)の場面というのがあります。六条御息所と葵上は光源氏の愛を奪い合いますが、結局葵上が正妻になります。やがて六条御息所は亡くなりますが、死んだ後もその執念の思いが物の怪となって紫上に祟ります。

それが原因になって紫上もやがてこの世を去るわけですが、物語が進行するにつれ、光源氏の他の愛人との愛憎も加わって、こうした三角関係がトグロを巻くように渦巻き状をなしていきます。

こうしたドロドロした人間関係が源氏物語全編の主要なテーマであるわけですが、この御修法の場面というのは、その愛憎劇の中でついに物の怪になってしまった六条御息所を祈祷によって治めようとする場面です。

その加持祈祷においてはまず、不動明王を中心とする五大明王の像、もしくは、絵像を並べ、護摩を焚き、そして陀羅尼(仏教において用いられる呪文の一種)を唱えます。これを「五壇の御修法」といいます。

病気になったり、死病に取り憑かれたり、 あるいは流行病が発生したり、この地上に異常な事件が起こったりするような時、この時代にはその原因は誰かの物の怪である、 という病理診断が下され、こうした祈祷が行われるわけです。

こうした祈祷では、護摩を焚く際に、芥子(けし)の実をくべて匂いを立てます。芥子にはもののけ祓いの特効薬としての効果があるとされており、当時からもののけを排除するために頻繁に使われていました。現在でも麻薬に分類されているとおりです。

古代から行われていた鎮魂祭の手法は、この時代にはもう物の怪には効果がないと考えられるようになっており、それに代わって密教による悪霊祓いの手法が登場し、こうした護摩焚きをする御修法が流行するようになっていたわけです。

しかし、このように悪魔祓いまでするのは、何か非常に重い病気の場合などであり、体を離れて浮遊した、とされる魂がもののけに化け、人に災いを与えるときだけです。

このほか、魂が人の体を離れる場合というのは、体外離脱が起こった場合があります。体外離脱が起こるのは、主に、何かしら危険に遭遇した時、臨死体験をしている最中だといわれ、一説によれば臨死体験中に体外離脱も体験する確率は約40%もあるといいます。

また、向精神性の薬物を使っている時にも体外離脱が起こるといわれ、人によっては、いわゆる「金縛り」が起きている時に経験することもあるといいます。

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しかし、平常時、ごく普通の睡眠中や明晰夢の最中、自らの意思で体外離脱体験をコントロールできる人もおり、ヨーガの行者などは修行中に体外離脱を起こすことができます。

この体外離脱という体験は「夢」や明晰夢をみるときの感覚と似ているそうで、体外離脱後には通常の夢とは比較にならないほど強いリアリティーを伴う世界が現れると報告する人も多いようです。

しかし、そうした臨死体験をした人や修行を積んだ人でなくても、我々は通常の生活でも単に眠りについたあと、その魂は体を離れることもあるそうです。肉体を離れた魂は、あの世でいろいろな体験して元の体に帰ります。そして、その体験の記憶が夢として残る、といわれています。

「オーラの泉」で一躍有名になった江原啓之さんは、夢は、主に「肉の夢」「魂の夢」「霊の夢」の3つに分けられると言っています。

「肉の夢」は「睡眠中に肉体に何らかの刺激を受けているときに見る夢」のことを指し、例えば暑苦しさ、騒音、ふとんの重みなどによって睡眠中でも「肉体の意識」の比率がどうしても高くなり、肉体が感じている不快さをそのまま反映する夢です。

また、「魂の夢」は「自分自身の心にあるストレスや思いぐせによって見る夢」であり、日々の現実の中で悩みや恐れ、気にかかることがあると、睡眠中も意識がそちらに向き、心の状態を如実に表す夢です。

江原さんは「肉体はしっかり休めていても、魂に静寂がないと、たましいはのびのびと里帰りできず、自分の心をのぞき見るような魂の夢を見るのだ」といいます。現実に追われる現代人が見ている夢には、そういう魂の夢が多いそうです。

そして、最後の「霊の夢」こそが、霊体があの世に里帰りをしている間に見る夢です。睡眠中に私たちは肉体をこの世に残し、幽体と霊体はスピリチュアルワールドの中の幽界へ里帰りします。そして、この夢を見るときというのは、あちらの世界で守護霊やその他のいろいろな霊と接触し、この世に必要な教えを受けて戻ってくるといいます。

こうした霊の夢をみるときには、「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い、この体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈な夢となることもある、といいます。白黒ではなく、カラフルな夢の場合はこの霊の夢であることが多いそうで、非常に極彩色なリアルな夢を見た、と思ったらこの霊の夢、と考えていいでしょう。

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医学的にも「変性意識状態」というのがあるといわれており、これも「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い、時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われています。

精神や肉体が極限まで追い込まれた状態になったとき、こうした状態に置かれるといい、上の「霊の夢」と似ています。瞑想によっても得られ、また催眠等による、非常にリラックスした状態でもこうした体験をできるようです。また、いわゆる「ヤク」をやる人もこの状態に置かれることがあるとされます。

医学的には、「日常的な意識状態以外の意識状態」のことを指し、通常の覚醒時のベータ波意識とは異なる、一時的な意識状態が確認できるということで、近年、社会学分野におけるひとつの研究対象として真面目に研究されているようです。

さらにこの変性意識状態のひとつに、「トランス状態」というのがあります。その状態にもよりますが、「入神状態」と呼ばれるものであり、一般的には、脱魂状態、もしくは恍惚状態とも呼ばれているものです。

1960年代に「トランスパーソナル心理学」という学問分野が心理学の新しい潮流として研究されはじめました。これは、人間がこの世に存在する究極的な目的とは、自己を越えた何ものかに統合されることに違いなく、その方法を追及する、といった哲学的な内容です。行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く第四の心理学といわれます。

心理学における「自己超越」の概念をさらに発展させたとされています。人間には、生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、尊敬・評価の欲求、自己実現の欲求の5つの欲求があるとされますが、自己超越とはこれを超えるものです。

この説を唱えたA.H.マズローという心理学者によれば、「真、善、美の融合、他人への献身、叡智、正直、自然、利己的個人的動機の超克、“高次”の願望のため、“低次”の願望を断念する、増大する友情と親切、目標(安静、静謐、平和)と手段(金銭、権力、地位)とのやすやすたる区別、敵意、残忍、破壊性の減少」、などがその状態です。

つまりは、自己超越を自覚するためには、敵意や憎悪を捨て、利己的に金銭や地位を追い求めることをせず、他者への献身や平和などに尽力できるほどの高い意識を持つことでそれが達成できる、ということでしょう。

トランスパーソナル心理学では、そのためのさまざまな精神統合の手法が開発されました。そして、その中でも自己超越をもたらす上でかなり有効である、とされる手法のひとつがトランス状態です。人間を自己超越に導くうえで最も肯定的な効果をもたらす、として長年研究されてきました。

医学的にもその効果が徐々に認められつつあり、とくに精神疾患に対する有効な療法としても有効とされており、一時的にトランス状態を患者に与える方法を活用する医療関係者が増えているそうです。

で、どういった状態なのよ、ということなのですが、トランス状態の見かけの程度というのは、全身の痙攣を伴う激烈なものから、あくびを繰り返すだけの軽度のものもあり、さらには他者からの観察では通常の状態と全く変わらないものまで、さまざまなヴァリエーションがあるそうです。

一方、内面的には、催眠によって表層的意識が消失し、心の内部の自律的な思考や感情が現れる状態だそうです。何か非常に嬉しいことがあったとき、恍惚状態になる、とよくいいますが、そういう感覚なのかもしれません。こうした嬉しい状態を意図的に創りだし、心を癒そうとするのがトランス状態だ、と聞かされれば、なるほど神経にはよさそうです。

ただ、これに似た状態には、ヒステリーやカタレプシーにより意識を喪失した場合などもあります。カタレプシーというのは、受動的にとらされた姿勢を保ち続け、自分の意思で変えようとしない状態であり、緊張病症候群と呼ばれ、ヒステリーと同様に一種の病気です。

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このほか、宗教的修行によって、外界との接触を絶ち、法悦状態になったものなどもトランス状態ということもあるそうで、こうした状態というのは特殊な宗教活動によって得られる場合も多いようです。

たとえば東北地方のイタコ、ゴミソ、カミサン、オナカマ,ワカと呼ばれる呪術者や,各地の行者、祈禱師、卜師などがそれで、彼らは数珠を持って呪文などを唱えたり、ある種の楽器を使って徐々にトランス状態に入っていきます。

また、沖縄(琉球)におけるユタ、台湾・中国南部・東南アジア・インドを中心とした南方文化圏における「シャーマン」のように特殊なものを火に注いでその煙を吸う例もあるようです。文化人類学などによる宗教研究ではしばしばこの“シャーマン”という言葉・概念によって、こうしたトランス状態に入る呪術者を分類・説明しています。

こうしたシャーマンのトランスには、霊魂が身体から離れて異界に移動し神や霊と接触する上述のエクスタシー(ecstasy、脱魂)型と、反対に神や霊などの超自然的存在がシャーマンを訪れる possession(ポゼッション、憑依)型の2種類があると言われています。本論からすれば、いうまでもなく前者が「夢の伝道者」ということになります。

ただ、こうした宗教家はふだんから人目を忍んで生きているようなので一般的な人が接触する、というのはなかなか難しいでしょう。しかし、彼らのお世話にならなくても通常の催眠でこうしたトランス状態を体験できます。ただし、その道の専門家の門をたたき、正しい治療を受けなくてはなりません。

「催眠療法」と呼ばれているもので、これは催眠を用いた一種の心理療法ですが、一連の暗示操作によって覚醒レベルを下げて被暗示性を高めた状態、すなわち、トランス状態に導き治療を行うものです。

きちんとした治療家によってもたらされた「正しいトランス状態」においては、通常の感覚は失われ、例えば目の前でストロボを発光させても反応しなくなるといいます。からだの一部に針を刺してもそれを感じないそうで、また脳ではアルファ波が優勢になることが知られています。

トランス状態のもたらすこのような緊張緩和効果は、精神的に不安定な人の治療に役立つばかりでなく、健常者においても向上心の芽生えや、生きる活力を与えるほどの力があるといいます。また、怪我をした人のリハビリテーションにおけるメンタル面での効果もあるといい、このほか教育、スポーツなどの幅広い領域への応用が期待されているようです。

欧米では、「催眠療法家」という人々がいるそうで、彼らは協会を結成し、「催眠療法士」を認定する仕組みが一般的になっているそうです。日本でも、大分大学内教育福祉科学部内にある、日本催眠医学心理学会認定の「催眠技能士」等があります。

そのほか、「ヒプノセラピスト」として資格認定を行う民間機関がいくつかあるといい、こうした催眠療法家にお願いするのも一つの手です。

さらに、こうした医療関係者の手を借りずに、座禅などによる瞑想法によって深い瞑想状態を作り出すことができれば、同じようなトランス状態を醸し出すことが可能だともいいます。これならお金もかからず、誰にも迷惑かけることはありません。ただ、座禅によりトランス状態に達するためには、かなりの年月の修行が必要だといいます……

ま、方法はいろいろあるにせよ、今年の年頭に初夢を見るのを失敗した、という人は、ここはひとつ、自分でこのトランス状態を作り出すことによって初夢を見てはいかがでしょうか。

今年はこうした体験も含め、良い夢をたくさんみましょう。そして、あちらの世界とこちらを頻繁に行き来して、さらに高い極みにある自分を探し出す、あるいは自分を取り戻してみる、というのを目標にしてはいかがでしょうか。

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コタツから来年へ

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今年も残るはあと2日。

12月に入ってから天候不順が続いていましたが、ここへきてようやく大気が安定してきたらしく、ここ伊豆も4~5日前から好天が続きます。

そんな中、冬の陽を浴びながらぼんやりとコタツになど入っていると、なにやら幸せな気分になってきます。が、まだ大掃除で残っている部分があり、本当にぼーっとできるのはこのブログを仕上げた午後になりそうです。

それにつけてもこのコタツというのは便利なものです。部屋全体が温まっていなくても、火を入れれば瞬間的にそこだけが温かくなるので、寒い出先などから帰ってきてすぐに温まりたいときとか、ちょっとした昼寝をしようとうするときなどには、とりわけ重宝に感じます。

家族団らんで囲むコタツも楽しく、子供のころは姉や従兄弟たちと座卓を囲んでトランプ遊びによく興じたものです。木枯らしにコタツ、そしてミカンといえば冬の定番の風物詩であり、いかにも日本的なもののひとつといえるでしょう。

漢字では「炬燵」と書きますが、「火燵」とも書くようです。こちらのほうが古い表記でだいたい室町時代に使われていた漢字のようです。ただ、それ以前にはさらに難しい「火闥」があったようで、これは中国から輸入したての頃に使っていた漢字のようです。

江戸時代までにはこの漢字を含めて多くの漢字が「国字」、すなわち日本独自にアレンジされるようになり、「火燵」になりました。さらに江戸時代までには篝火を意味する「炬」と組み合わせて「炬燵」となっていったようです。が、具体的にいつごろからこの文字を充てるようになったのかはよくわかっていないようです。

その昔は、「内弁慶」という言葉と同様に、外では意気地がないくせに、家庭中では威張り散らす人を「炬燵弁慶」と言いました。こうしたところは、コタツにばかりもぐりこんでいて外にでようとしない、現代人にも通じることころがあります。

コタツと一体化して生活する連中のことを「かたつむり」をもじって俗に「こたつむり」と呼ぶそうで、他に、コタツにすっぽりと殆ど頭だけ出して潜り込んでしまった状態はまるで亀のようなので、こうしたコタツ族を「カメ」とも呼ぶようです。

経済的な暖房器具であることから、独身貴族にはこうしたコタツムリやカメ野郎が多いようです。かくして私も独身時代の冬にはコタツが欠かせませんでした。最近では一人用のミニコタツなどがあり、コタツは一家にひとつではなく、パソコンのように一人一台というご家庭もあるようです。

しかしその昔は、寺院や武家で「火鉢」が使われ、こちらが一人に一つでした。火鉢は客向けにも使われ、各家に多数ありましたが、コタツはやはり一家に一台であり、家庭用でした。

室町時代からすでに「火闥」の文字があったように、その発祥もどうやらこの時代のようです。最初のコタツは、囲炉裏(いろり)の上に櫓(やぐら)を組み、蒲団をかけただけの簡単なものでした。

やがて、囲炉裏を床より下げ、床と同じ高さに櫓を組んでそのうえに蒲団を置く、現代の掘り炬燵に似たものが登場しましたが、これでは足を入れた時に火傷をしてしまいます。そこで、さらに床下に下げた囲炉裏の周囲に足置きのスペースを置いて囲炉裏の周りに座れるようにする形式の「腰掛け炬燵」ができました。

江戸時代までにはこの形式が主流になり、「大炬燵」と呼ばれるような大勢が腰かけて入るコタツもあったようです。火鉢とともに冬には欠かせない暖房器具として発達していきましたが、当初は、熱源として主に木炭を使っていました。

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しかし江戸中期以降になると、コタツに使用される固形燃料として炭団(たどん)が登場します。作り方としては、炭の粉にこの時代でも手に入りやすい海藻、ジャガイモなどから取り出したデンプンなどを加えて丸めて固め、乾燥させて出来上がりです。長時間じっくり燃えるよう、場合によっては土なども混ぜることもありました。

江戸中期の商人で、塩原太助という人がおり、裸一貫から身を起こし、この木炭の粉に海藻を混ぜ固めたタドンを発明し、商業的に大成功しました。このころ、木炭を運搬する際に使用する炭俵や炭袋には、底の方に炭の粉や欠片が大量に溜まり、また、木炭製造時にも、商品の規格外の細かな欠片が大量発生していました。

一般家庭では、こうした余った炭の粉を集めて自家製の炭団を造っていたようですが、品質が一定せず、また火がつきにくく火力も弱くなりがちでした。太助はこうした余った炭の粉に目をつけ、これを手で丸めてかためて再利用できないかと思考錯誤の末生み出したのがタドンです。

火力も従来のお手製のものに比べてそれほど強いというわけではありませんでしたが、太助が作ったタドンは種火の状態で1日中でも燃焼し続けるため、火鉢や煮物調理に向いていました。また一方では、江戸期に広く普及しはじめたコタツにもまた最適な燃料となりました。

このタドンの販売によって大成功をおさめて大富豪になった太助ですが、その後も謙虚な気持ちで清潔な生活を送り、私財を投じて道路改修や治水事業などを行ったそうです。このことから、後世には戯曲や歌舞伎などでも扱われ、その功績がうたわれるようになりました。

幕末には太助をモデルにした「塩原多助一代記」という人情噺本が出版され、これは12万部という驚異的なベストセラーになっています。

その後、明治になり、1909年(明治42年)東京・上野にイギリス人の陶芸家で、バーナード・リーチという人が、正座が苦手なために自宅に掘り炬燵を作りました。小さな掘り炬燵でしたが、足を下ろす穴よりも囲炉裏になる穴がさらに深く掘られ、これにより従来のものよりもより耐火性能を確保していました。

ただ、炭を床面よりもかなり深くに置く事になり、補充・灰掃除が大変なのと一酸化炭素中毒を起こしやすいのが欠点でした。しかし、まだまだ火事の多かった時代であり、その耐火性などを志賀直哉、里見弴(とん。菊池寛賞、読売文学賞などを受賞)が随筆で誉めたことが宣伝となり、昭和初期に日本全国へと普及しました。

これにより、それまでは腰かけ炬燵と呼んでいたものが、「掘り炬燵」と呼ばれるようになり、この名前も全国的に広まり、現在に至った、というわけです。

この深い囲炉裏である掘り炬燵での炭の使用の不便を避けるために、使われるようになったのが、「練炭」です。練炭は欧米で「ブリケット(Briquette)という泥炭を固めたものが使われていたものを改良したものです。

現在では、十数種類の石炭を混ぜ合わせて練炭用に調合された粉炭を消石灰やピッチ、ベントナイトといったつなぎを加えて成型して作られます。

明治元年に長崎に入ってきていたブリケットを見て、東京のある蒸気船問屋がこれを改良しようと思い立ちます。そして1876年(明治9年)ごろから「角型塊炭」という名称で主に家庭での煮炊きや風呂炊き用に売るようになりました。

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一方、当時の軍艦で使われる石炭からは、黒煙が盛んに出る割に火力が弱く、艦船用の燃料としては最適とはいえませんでした。そこで、1894年(明治27年)に海軍省の竹田少佐という人物が、軍艦からでる黒煙対策にとこの角型塊炭に目をつけました。

そして、山口県の大峯炭山(宇部炭鉱)でとれる無煙炭を粉末にし、これで練炭を作って軍艦に使用したところ好成績を残しました。これは“海軍の角炭”と呼ばれて重宝され、日露戦争を期に、山本権兵衛海軍大臣が高品質の角炭を需給できるよう、同じ山口県の徳山に練炭製造所を開設を命じ、ここで量産されるようになりました。

この角炭は当初、膠(ニカワ)で固められていましたが、のちに台湾産の廃糖蜜で固めるほうがより長持ちすることなどがわかり、その後もさらに改良が加えられました。

しかし、この練炭は当初主に軍用であったため、明治末までは一般で使われることは少なかったようです。その後、艦船用から業務用へとその使用先が拡大していき、明治末期までには上の角型塊炭と同じように家庭で使われるようになり、その後煙の出にくい燃料として掘コタツにも広く使われるようになりました。

このころから、さらにコタツ用に改良も進み、触媒を上に乗せ一酸化炭素や臭いを削減した掘りごたつ専用練炭コンロも作られるようになりました。また、各種石炭に消臭材などを加えて燃焼時の臭いを抑え、扱い易い「豆」状に成形した、いわゆる「豆炭」も作られるようになりました。

こうした「豆炭炬燵」は戦後、急速に普及し、1960年代にはどこの家庭でもこの形式のコタツがみられるようになりました。それまでは、熱源部分に豆炭を入れ、囲炉裏や火鉢で炭を燃やした際に出る灰をその上に乗せ、その厚さによって温度調整をしていましたが、この豆炭炬燵の普及により、ダンパーで通気量調整ができるものも登場しました。

ダンパーとは、風量を調節するための装置です。掘り炬燵で足を置く部分や豆炭を燃やす部分などの横壁に縦格子状の通風窓を設け、シャッターを開け閉めすることで可燃部分に入る風量を調整します。これにより不完全燃焼を防ぎ、一酸化炭素中毒になることを防止できるようになりました。

しかし、このころから日本家屋は建築技術が進み、さらに気密性が高くなってきました。このためさらに屋内にこもりやすい一酸化炭素を減らすために、このダンパーに触媒を付けるようなものもあらわれました。しかし、触媒部分は消耗品で、中毒死や火災を避けるため毎年の交換が必要でした。

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このように、1960年代ころまでには、タドン団や練炭、豆炭など、炭をベースにした燃料が広く使われていました。これらの燃料はその後、高度成長期に石油ストーブやプロパンガスが普及する前まで、一般家庭でのコタツなどの暖房用や調理加熱用、として広く使われ、日常的に利用されていたわけです。

とくにタドンについては、豆炭や練炭が広く使われるようになってからもその生産が衰えませんでした。山林地域の産業として重要な役割を担っていたためであり、昭和30年代頃までは全国に炭団製造工場がありました。

買値も練炭よりもかなり安く、どこの家庭にもありました。寒冷地で日常よく使うものであったことから、その昔の雪だるまといえば、目には炭団、眉毛や口は木炭というのが定番でした。

一方、現在主流となっている電気炬燵は大正後期には既に発明され、一般向けにも発売されていました。しかし、電気がまだまだ高い時代であり、家庭にはなかなか普及しませんでした。

ところが、1950年代からは日本は目ざましい経済成長を遂げるようになり、家庭には次々と電化製品が普及。高まる電力需要に応えて大規模な電源開発が始まり、このために電気は急速に安くなっていきました。

電気を熱源とした電気ゴタツを実用化商品として売り出した嚆矢は、当時北陸電力社員、のちに北日本放送社長となる、横山良一氏といわれています。1956年に発明したとされ、これによって電気ゴタツの開発が進みました。

しかし、この横山が開発した電気ゴタツは熱源がまだ床置き式でした。そこで、このニクロム線熱源を机の裏面相当の場所に設置して足を伸ばせるようにした「電気やぐらこたつ」を東芝が1957年に発売、以後この形が爆発的な人気を得るようになります。

このニクロム線式ゴタツの開発にはかなりの苦労があったようです。それは、空気は温まると上に上ってゆくため、上部にヒーターを取り付けただけでは、熱が天板のほうへ逃げていってしまうことでした。このため、試行錯誤の末、東芝の技術者たちは天板の裏に反射板を取り付けました。これはヒーター部分の奥にはりつけられたアルミ製の板です。

ニクロム線が加熱されて発生する熱は、これによって反射され、下向きに空気を暖める仕組みでした。しかし、ニクロム線を使った熱源というのは、いわば電気コンロと同じであり、一つ間違えば火事にもなりかねません。

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大きな事故はなかったようですが、メーカー側もこのことは認識しており、その後、このニクロム線式に代わって、赤外線ランプというものが開発されました。これは、赤外線の放射の割合を多くした電球で、一般の白熱電球よりもフィラメントの温度をやや低くしてあります。

普通,反射型電球と類似の構造にしてあり、下向きにのみ熱が伝わります。赤外線には熱作用があるので,塗料の焼付け乾燥,食品の加熱などに当初使われていましたが、発熱温度の調整もしやすく、すぐに主流になりました。

ただ、当初発売されていた電気炬燵は熱源部分が白いものであり、当時の多くの人が「これで本当に温まるのか?」と疑問視してなかなか購入しようとはせず、売り上げが伸びなかったそうです。

そこで東芝ほかの企業が熱源部分を赤くして温かさがきちんと伝わる様に見せたものを1960年頃に発売したところ売り上げが急速に伸びました。その後長きにわたってこの赤外線ランプ式のコタツは普及し、1980年代までにはどこの家庭でもこの形式のコタツがみられるようになりました。

今も懐かしいレモン型のこうした赤外線ランプを使った電気ゴタツをお使いの家庭もまだまだたくさんあることでしょう。

ただ、最近ではこうした赤外線ランプのコタツはほとんど見られなくなっています。その理由は「ランプ」であるだけに、直接触ることによる火傷を防ぐためのガードカバーなどを取り付ける必要があり、その分、コタツ内での嵩が増すためです。コタツの中に首まですっぽり入る人も多く、その際にはこのヒーター部分はとりわけ邪魔です。

そこで最近では、発熱体は鉄クロムまたはニクロム線などの昔ながらの素材ではあるものの、シンプルな構造で低コストの「石英管ヒーター」や、発熱体はタングステン線を花巻状にした「ハロゲンヒーター」などが主流になりました。

とくにハロゲンヒーターは、加熱温度も高く、速熱速暖性に優れており、電源を入れてから2秒ぐらいで立ち上がるのが特徴です。

最新式のものには、「コルチェヒーター」といったものもあり、これはタングステンフィラメントを不活性ガスとともに石英管に封入したヒーターです。これまでのヒータに比べて最も応答性に優れ、電源を入れてからの立ち上がりは超早く、0.1秒くらいだそうです。

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こうしたヒーターを用いた熱源装置は従来の赤外線ランプに比べてかなり薄型になりました。その昔は、冬場が終わると赤外線ランプの部分だけ外して「卓袱台(ちゃぶだい)」として使う家庭も多かったようですが、薄型になったことから最近は年から年中、この発熱体をつけっぱなしにする家庭が増えました。

このため、現在のコタツは、冬場の暖房器具としてだけではなく、それ以外の季節では蒲団をはずしてちゃぶ台、ないしは座卓代わりとして通年利用されることが多くなっています。

ちなみに、この「ちゃぶ台」という言葉については、語源がはっきりわかっていないそうです。有力なものとしては中国語でテーブル掛けを意味する卓袱(南中国音ではチャフ)から来たとするもの、同じくご飯を食べることを意味する吃飯(チャフン、ジャブン)から来たとするものなどがあるようです。

このようにコタツ蒲団をはずした場合座卓に見えるコタツを電化製品業界では「家具調炬燵」といい、家具業界では「暖卓」と呼んでいます。

一方、現在では、さまざまな安価な熱源が生産されるようになったことから、大手メーカーは電気ゴタツを生産していません。

コタツを作っているのは、中小のメーカーであり、これらのメーカーには中小の木工会社も多いようです。こうしたメーカーではコタツのやぐらは自前で作り、熱源は別のところから仕入れ、自前で作ったコタツと合わせて売ります。

かなりおしゃれなものも増え、その昔はコタツといえば畳の上に置くもの、と決まっていましたが、最近ではフローリングの上に置く、背の高いダイニングテーブル式のコタツまで広く普及するようになりました。

その昔は、こたつ蒲団の上に四角い天板の裏がラシャ張りになっており、麻雀卓として利用されたりしていましたが、最近は麻雀人口の減少と正方形のコタツの減少とともに稀になりました。家具調炬燵(暖卓)の普及により、現在のコタツの形状の主流は正方形から長方形になりつつあるようです。

このようにコタツはすっかり通年家具として定着しつつあるわけですが、その昔は当然ながら冬だけのものでした。武家では「亥の月亥の日」に炬燵や火鉢などの暖房具を出したといい、この日は「亥の子(いのこ)の日」と呼ばれていました。

旧暦10月(亥の月)の上旬の最初の亥の日のことで、太陽暦では11月半ばから後半です。また、町家では暖房器具を出すのは、第二の亥の日であり、つまり亥の子の日から12日後、11月下旬から12月初めごろから火鉢や炬燵などを使いはじめました。

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なぜ亥の子の日かといえば、亥(猪)は、摩利支天の神使であるためです。摩利支天は炎の神であり、防火の神でもあります。また亥は陰陽五行説で火を制する水にあたるため、武家は亥の月亥の日に火道具を使い始め、家の防火を祈ったわけです。町民の使い始めが遅いのは、武士より身分が低いため、彼らに憚って使用開始時を遅らせたのでしょう。

こうした風習は今でも西日本で残っており、京都の茶家などでは、今でも11月に入ると亥の子に炉開きの行事をするところが多いそうです。

この摩利支天の原語のMarīcīは、太陽や月の光線を意味し、摩利支天はまた陽炎(かげろう)を神格化したものです。陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付きません。このため護身、蓄財などの神として、日本で中世以降信仰を集めました。

また、これらの特性から、摩利支天を信仰する武人は昔から多く、楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を収めていたといいます。毛利元就は「摩利支天の旗」も旗印として用いていたほか、山本勘助や前田利家といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられています。禅宗や日蓮宗でも護法善神として重視されています。

さて、来年の干支はこうした摩利支天ゆかりの亥ではなく、申(猿)です。日本では古来サルは日枝神社(比叡山)の使い番とされています。

また、この日枝神社にちなんで、江戸南の伝馬町(現京橋1〜3丁目)で毎年催される山王祭・神田祭といった祭りでは、烏帽子狩衣姿で御幣を持つ猿の人形を飾った「幣猿(へいざる)の吹貫(ふきぬき)の山車」が祭礼に出されます。

吹貫というのは吹き流しのことで、要は幟(のぼり)で飾られた山車です。また、「幣猿」の「幣」は日枝神社には、戦前まで比叡の宮という別社があり、これは「幣の宮」と呼ばれていたことに由来します。氏子は年末にここの入り口で最後のお祓いを受け、午後7時ころに五十張の堤燈の灯を燈し、夜道を守護しながら神社に「おさまった」といいます。

「参拝する」という意味だと思いますが、氏子用の特別用語でしょう。このとき幣の宮からおさまるまでの眺めは素晴しく美しく、氏子たちの心に一生焼きつく程の光景であったそうで、このことから幣の宮へ渡る氏子の人々は「日枝の祭りは屁(へ)で終わった」と面白おかしく、「幣」を「屁」にもじって言い伝えました。

また、これは祭礼が二日間であっけなく終わることから「プッ」と終わるという意味もあったようです。

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一方、「幣猿」の「猿」のほうは、日枝神社が948年に日吉大社(京都比叡山の総鎮守・地主神)より分霊を移して創建された際、この日吉大社、通称「山王様」が「さる」を使者としていたことに由来します。

古来「さる」は 山の神・地主神又は神の使者として信じられていました。このため日枝神社も「さる」と深いつながりを持ち、「さる」を祀り、妊娠・安産・子育ての願いを叶えられるものとして、特に女性に縁深い神様とされているそうです。なので、来年ご出産の方はぜひ来年の初詣出には日枝神社に行ってみてください。

一方、サルはウマを守るともいわれ、厩(うまや)の守護神として古来から敬われているそうです。中国では伝承として古くから広範囲に見られ、例えば孫悟空が天界に召されたとき、最初任ぜられた天馬の厩の担当官である弼馬温(ひつぱおん)という名前はサルはウマを守るとされる伝承がインドから中国に伝来したことによるといいます。

北インド地方の古いことわざにも「ウマの病気がサルの頭上に集まる」というものがあるそうで、同様の伝承は日本に伝わり、中世の武家屋敷の馬小屋ではサルが飼育される風習があったそうです。ただ、本物のサルではなく、サルの頭蓋骨や木造をお守りに飾る例もあったようです。

こうした故事にちなんで作られた熟語の「意馬心猿(いばしんえん)」とは、人間の煩悩を猿と馬に喩えた仏語であり、「人の欲求は疾駆する馬のように止めがたく、意識は猿のようにそわそわ騒ぎ立てる」、という意味だとか。

心の中の猿と馬を制御することが大事、というふうに使う言葉だそうで、明治の有名日本画家、橋本関雪は、繋がれた馬と猿を題材にこうした教訓を示す仏画を残しているそうです。

また、仏教の戒律書「摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)」には、「猿猴捉月」という寓話が書かれています。これは、井戸の底に映った月を見たサルのボスが「月を救い出して世に光を取り戻してやろう」とする、という話です。

このサルのボスは手下に呼びかけ、樹の枝から数珠つなぎに下に降りていきましたが、手に届く寸前で枝が折れて全員井戸に落ちたといい、この話も月を捉えようとするサルとして禅画や水墨画の画題となっています。こちらは身の程知らずな望みを持つことで失敗することの例え話であり、「意馬心猿」と同じく、はやる自分を戒める教訓話といえます。

サルに関するほかのことわざにもあまりいい意味のものはなく、「猿の尻笑い」といえば、
自分の欠点には気づかずに、他人の欠点をあざ笑うことのたとえです。ほかにも「猿に烏帽子」とは、似つかわしくないことをするたとえで、外見だけを取り繕って、中身が伴わないことのたとえです

さて、来年の私やみなさんの一年はどんな一年になるでしょうか。「猿も木から落ちる」にならないよう、お互い、緊張感のある一年にしたいものです。

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因果、輪廻、バタフライ…

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クリスマスが終わり、今年も残るところあと5日ほどになりました。

懸念のひとつだった年賀状の作成も終わり、あとは大掃除が残っているだけです。

が、普段からわりとこまめに掃除はしているつもりなので、それも1日で終わりそうです。

その掃除も終えて、もう少し落ち着いたところで、今年一年を振り返ろうかな、と思っていますが、私的には、今年は例年ほど思い起こすほどの大きな事件やイベントもなく、落ち着いていた、といえる年だったでしょうか。

しかし、あとになってよくよく考えてみれば、あのことは実は大切な出来事だったな、と思えるようなことはままあるもので、とくに重要だとは思わなかった些細なことが、あとになってみれば大事件の発端になっていた、なんてことはよくあります。

バタフライ・エフェクト(butterfly effect)というのがあるのをご存知だと思います。これは、力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまう、とされる現象のことです。

アメリカの気象学者のエドワード・ローレンツが1972年に科学振興協会で行った講演のタイトル「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」に由来します。

この発表に遡ること10年少しほど前にローレンツが計算機上で数値予報プログラムを実行していた時のこと、最初彼はある入力値を「0.506127」とした上で天気予測プログラムを実行し、予想される天気のパターンを得ました。

このときのコンピュータのアウトプットは、データスペースの節約から、入力値が四捨五入された「0.506」までしか打ち出されないものでしたが、彼は、もう一度同じ計算をさせるため、特に気に留めずに、打ち出された方の値「0.506」を入力して計算を開始させました。

計算が終えるまでコーヒーを飲みに行き、しばらく後に戻って2度目の計算結果を見てみると、予測される天気のパターンは一回目の計算とまったく異なったものになっていました。ローレンツは最初、コンピュータが壊れたと考えましたが、データを詳しく調べていくうちにに入力値のわずかな差によるものだと気づきました。

この結果から、もし本物の大気もこの計算モデルのような振る舞いを起こすものならば、大気の状態値の観測誤差などが存在する限り気象の長期予想は不可能になるのではないかと気づき、バタフライ・エフェクトの理論を打ち出すに至ります。

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しかし、バタフライ効果の語源となったとされるこの講演でローレンツは、「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」という現象が本当に起こるかどうかについての直接の答えは示しませんでした。

講演の最後に「大気の不安定性について我々は確信を深めつつあるが、この問い掛けには、あともう数年は答えないままにしておくしかないだろう」とだけ述べ、その上で、バタフライ効果の有る無しの結論以前に、今後は計算機の性能など、予報精度向上のためにすべき点に触れただけで講演を締めくくっています。

その後このバタフライ・エフェクトの真偽については多く学者が賛否両論を唱えてきました。このうち、反対の意見を持つ学者は、蝶のはばたきの影響は小さ過ぎて実際のところ減衰してしまうだろうと考えられる点や、竜巻は局所的な気象配置が支配的である点などを根拠にして、効果のほどは懐疑的であるとしました。

ローレンツ自身も否定的な見解も持っていて、そのひとつの材料として、ブラジルとテキサスでは地球の半球位置が違うため大気の性質が相当異なっているので影響は赤道を越えられない可能性や、乱流状態の大気中では影響は広がるが穏やかな大気中では影響は広がらない可能性などを挙げています。

しかし、近年コンピュータの性能はすこぶる高くなりつつあり、「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」かどうかの正否は別にして、バタフライ効果が原因となり長期予測の精度が低下することは、現代の気象予報上の実際の問題点として認識されるようになってきています。

バタフライ効果による長期予測精度の低下のため、詳細な予報を行える期間は2週間程度が限界といったこともわかってきています。この点を少しでも克服するため、初期値を意図的にわずかに変えた計算を複数行い、それらの計算結果の平均を採用することで精度を高める「アンサンブル予報」という手法も開発されました。

日本の気象庁では、2015年現在、5日先までの台風予報、1週間先までの天気予報、それより長期の天候予測でこのアンサンブル予報を採用しています。

このように蝶の微細な羽ばたきが気象に影響を与えるというのならば、我々が日常でするくしゃみや咳だけでもその後の天候に影響を与えているかもしれません。なので、日常我々自身が引き起こしていること、また周囲で起こっているすべてのことに意味がある、と考えて生きていくのが正しいことに違いありません。

今年起こった出来事で重要だとは思わなかった些細なことは、今現在進行形で何か別の大きな出来事に形を変えつつあるかもしれません。それがあなたにとって良いことなのか悪いことなのかもまた今すぐには決められません。悪しき出来事も振り返ればその後のあなたの成長の糧になるための試練だったということもありうるわけです。

そう考えればバタフライ・エフェクトは何も気象の問題だけで起こるのではなく、「人象」も含めてすべてのことで起こりうる現象なのかもしれません。すべてのことはつながっている、と考えれば、何も無駄な行為というものはありません。一瞬一瞬を生きるということは実に大切なことである、と思えてきます。

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ところで、こうした「一切」が、自らの原因によって生じた結果や報いであるとする考え方を、「因果応報」と呼びます。仏教用語であり、これは一切の存在は本来は善悪無記であると捉え、業に基づく輪廻の世界では、「一切」は、直接的要因(因)と間接的要因(縁)により生じるとされ、苦楽が応報すると説かれたことに由来します。

また、「縁起」という言葉がありますが、これは「原因に縁って結果が起きる」というこの因果応報の法則から来ています。原因があって生まれるこうした因果は、仏教において次のように4つあるとされます。

善因善果(ぜんいんぜんか)…善が善をうむ
悪因悪果(あくいんあっか)…悪が悪をうむ
善因楽果(ぜんいんらっか)…善が楽をうむ
悪因苦果(あくいんくか)…悪が苦をうむ

「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす」といった考え方自体は、仏教に限ったものではなく、世界に広く見られるものです。ただし、仏教では、過去生や来世(未来生)で起きたこと、起きることも視野に入れつつこのような表現を用いているところに特徴があります。

善悪の結果は、その人の人生一回きりにおいて誕生帰結が決まるのではなく、過去において悪い行いをした人は、次に生まれ変わってもその報いとして悪に染まり再び苦しみます。また、逆に善を実践した人生は繰り返し、再び善を生んでいきます。

もともとインドにおいては、バラモン教などさまざまな考え方において広く、「業」と「輪廻」をセットであると考えていました。つまり、過去生での行為によって現世の境遇が決まると同時に、現世での行為によっても来世の境遇が決まり、それが永遠に繰り返されている、という世界観、生命観です。

バラモン教をベースにして釈迦が編み出した仏教においても、この「業と輪廻」という考え方は継承されており、業によって衆生は、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」の「六道」、あるいはそこから修羅を除いた「五道」をぐるぐると輪廻している、とするようになりました。

仏教が目指す仏の境地、悟りの世界というのは、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところに開かれるものだと考えられています。

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しかし、修行を積んだ高僧ならともかく、我々のような俗世間にまみれた人間は、なかなか修行によって悟ることなどできはしません。このため、仏教においては、こうした人の場合は、次に仏界に行けないにしても、善行を積むことで次には六道の最高階層である、天界に生まれる(=生天)ことができるとされました。

修行を積んで仏になれなくても、天国には行ける、とする考え方であり、教えを信じさえすればすべての人が救われる、ということでこの考え方はインドでは広く浸透しました。しかも、インドではもともと業と輪廻の思想が広くゆきわたっていたので、仏教の因果応報の考え方は最初から何ら違和感なく受容されていきました。

しかし、それが他の地域においてもすんなりと受容されたかと言うと、必ずしもそうではありません。仏教が伝わった中国ではもともと「易経」などで、家単位で、良い行いが家族に返ってくる、といった思想がありました。これは、古代中国の細い竹を使用する占いの方法を示した書物で、この占いは「占筮(せんぜい)」ともいいます。

いわゆる筮竹(ぜいちく)という50本の「竹ひご」のようなものを使って、占う人の状態の変遷、森羅万象の変化の予測を行うもので、易径の易は、いわゆる易占いの易であり、現在の易占いはこの易径をもとにしています。

しかし、この易占いは自分自身と家族・親族の相互の間でどのような影響を与え合うか、ということが基本となっており、また現世の状態を占うだけです。輪廻を巡っての前世や後世を占うものではなく、個人の善悪が現世を超えて来世にも影響するという考え方はしません。

このため、中国では天竺(インド)から入ってきた仏教における、この輪廻転生という考え方には違和感を覚える人たちが多数いました。結果として中国の伝統的な思想である儒教(朱子学)と、こうした新思想である仏教思想との間でせめぎあいが生じ、六朝期には仏教の因果応報説と輪廻をめぐる論争が起きたといいます。

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六朝期とは、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の時代であり、呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代をいいます。論争は神滅・不滅論争にまで発展し、このため当初仏教は、外来の宗教として受容され、なかなか浸透しませんでした。しかし、六朝代後期になると老荘思想が盛行するようになりました。

老荘思想とは、「道家」の大家である老子と荘子を合わせてこう呼ぶもので、老荘思想が最上の物とするのは「道」です。「道」は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もあります。「道」は、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉です。

天地一切を包含する宇宙自然、万物の終始に関わる道を「天道」といい、人間世界に関わる道を「人道」といいます。この老荘思想をまとめた中国の古典、「菜根譚(さいこんたん)」では、この「道」を守って生きれば、現世の栄達に迷わされることなく生きることができる、と書いています。

また、権力にへつらえば居心地はいいかもしれないけれども、そののちに来るのは「永遠の孤独」であるとも説いています。道を守るのは孤独な行為ではあるけれども、道にめざめた人は、現世での利益に迷わされず、はるかな理想に生きることができる、としているわけです。

六朝時代のうち、特に魏晋南北朝時代と呼ばれる時代においては政争が激しくなり、高級官僚が身を保つのは非常に困難でした。このため、積極的に政治に関わることを基本とする儒教よりも、こうした世俗から身を引くことで保身を図ることができる、とする老荘思想が広く高級官僚(貴族)層にも受け入れられようになりました。

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そこへ入ってきた仏教の影響もあり、老荘思想に基づいて哲学的問答を交わす、いわゆる「清談」という議論方式が南朝の貴族の間で流行しました。そしてこの清談が仏教教理をも取り込む形で受け入れられたことから、深く漢民族の間にも受容されるに至りました。

やがて老荘思想は仏教とくに禅宗に接近し、またや儒教にも影響を与えるようになりました。そして、中国に浸透していった仏教の根本思想ともいえる因果応報説はその後、六朝の時代や唐代に小説のテーマとして扱われるようになり、さらには中国の土着の宗教の道教の中にもその考え方が導入されるようになり、人々に広まっていきました。

そして、日本に仏教が入ってきたときにはこの思想はわりとすんなりと受けいれられました。このころの日本には土着の宗教というものはほとんどなく、中国で起こったような論争もないままに広まりました。

平安時代の説話集「日本霊異記」にも因果応報の考え方が表現されるなどし、この中では、善悪は必ず報いをもたらし、その報いは現世のうちに来ることもあれば、来世で被ることも、地獄で受けることもある、と説かれました。

また、仏像と僧は尊いものであり、善行としては、施し(ほどこし)、捕獲した魚や鳥獣を野に放し殺生を戒める放生(ほうじょう)といったものに加え、写経や信心一般がそれとされました。一方、悪事には、殺人や盗みなどの他、動物に対する殺生も含まれる狩りや漁を生業にするのはよくない、といったことが書かれました。

とりわけ悪いこととされるのが、僧に対する危害や侮辱である、とされ、これにより仏教を説く僧侶が尊ばれるようになるとともに、仏教とその根本にある因果応報という考え方は強く結びついたかたちで民衆に広がっていきました。

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統計的にみて約8500万人が仏教徒である、とされる現在の日本ではこの考え方は普遍的なものとして広まっています。何か悪いことをすれば悪いことにつながる、良い行いをすれば良い出来事が起きる、といった考え方は日本人ならばごく自然にもっている価値観でしょう。

これは世界一犯罪が少ないとされる国を作り、世界一優しいとされる国民性を育ててきたという面では評価されると思追います。しかし、現在における日本人は誰しもがすべてのものは善と悪に大別できる、と思っているかのようにみえます。

とかく現在の日本においては、日常的なことわざとしての「因果応報」は、後半が強調される傾向が強く、「悪行は必ず裁かれる」という意味で使われることが多いようです。悪いヤツは徹底的にこらしめるべきだ、とする向きが強く、目には目をとばかりに、罪を犯した人間には厳しい懲罰を与え、村八分にする、ということも多いように思います。

昨今大きな社会問題になっている「いじめ」や「パワハラ」などの背景にももしかしたらこの因果応報があるのかもしれません。

しかし、因果応報を根本に据える仏教においては、本来はその行いこそ来世にもつながる行いとしているわけであり、罰した者もまたそれ相応の報いを受けるべきだ、という思想であるわけです。

すべてのことは今生も含めて過去から未来へ向けて時系列で繋がっている、と考えるのであれば、そうした善悪の見極めもまた、因果とその後を見据えた上でなされるべきであり、ジャッジの行使もまたそうした熟考の上での行為であるべきでしょう。

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また、現在においては、因果応報という考え自体も輪廻との関わりというよりも、現生における利益を強調することばに特化している傾向にあります。結果を伴わない行為は無駄である。何もしないでいるよりはやったほうがいい、しかしどうせやるなら結果が出ることだけをやろう、という風潮が強いように思います。

たとえどんなに意味がないと思うことでも、結果が出ないと思うことでも、本来の「因果応報」の考え方に従えば、何等かの結果が出るはずです。たとえ小さな結果であったとしても、人為においてもバタフライ効果があるなら、それはいずれは大きな結果につながっていく可能性があるわけです。

今年いいことがたくさんあった人は、その出来事が起こるまでの積み重ねについて考えてみるともに、その延長上にあることを考えてみましょう。その先には更なる飛躍へのヒントがあるかもしれませんが、あるいはちょっとしたつまづきの兆候が隠れているかもしれません。

一方、今年何もいいことがなかったという人は、悲観的に考えるよりも前に、なぜ今年は何もいいことが起こらなかったのか、もしかしたら何もない、ということがむしろ幸いだったのかもしれない、といったことも考えてみましょう。

また、今目の前で起きている小さな出来事が、来年以降、どんな連鎖によってどんな花を咲かせていくことになるかを想像することは人生の楽しみでもあります。

年の押し迫った中で、今年一年を振り返るとき、みなさんも、因果応報、輪廻転生、バタフライ・エフェクト、こうしたことを少し考える時間をとってはいかがでしょうか。

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加速する時間

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年も押し迫ってきました。

今日は天皇誕生日ということで、この休日をクリスマスの飾りつけやら、年末年始の準備に有効に使おうという方も多いと思います。そんなせわしない年末に休日を与えてくださった天皇陛下の、なにやら徳を感じるような気さえします。

とはいえ、私はといえば、まだ年賀状の作成も終わっておらず、こんなブログを書いているくらいですから、大掃除やら年末年始の準備もままならず、少しでも行動力を伴った活動をしようかといった類の機運のかけらもありません。

そこへきて、先日の日曜日から月曜日にかけてこの別荘地内の草刈りに駆り出され、終日生い茂った樹木の伐採に奮闘してしまいました。おかげで筋肉痛になり、今ではかなり回復したものの、まだあちこち痛みにみまわれている、といった状態…

昨日の段階でもかなりあちこちの筋肉が痛かったのですが、しばらくできていなかった買い物にも出かけねば…ということもあり、タエさんと二人、山を下りてあちこちのスーパーに行ってきました。

すると……師走ということで、どこもかしこも年末年始用の食品やら大掃除の道具、飾りつけなどで店頭が埋め尽くされていて、あぁやっぱり今年も終わるんだな、と改めてしみじみと思った次第。そんな中、帰りのクルマの中で、助手席にいたタエさんがポソリ、といった言葉が妙に印象的でした。

曰く、「今年はいつの年にも増して、時間が過ぎるのが早かったような気がする……」

なるほど私も同じように感じていたことなのですが、同い年夫婦の二人はやはり同じくらいに年月が過ぎるのを早く感じとるようになっているのか、とこちらも改めてそう思ったわけです。

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そこで、少し調べてみたのですが、「ジャネーの法則」というのがあるそうで、これは主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるというものです。

19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネという人が発案したものだといいますが、古今東西、昔から人は歳をとると時間の短さを感じ取るようになる、という感覚を誰しもが持っていたようです。

より物理的に言えば、これは生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する、つまり時間の経過の感じ方は年齢に反比例する、という理論のようです。ジャネーの説明によれば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるのに対して、5歳の人間にとっては5分の1に相当するそうです。

よって、例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほど、つまり1/50×365=7.3日なのに対し、5歳の人間にとっては5分の1。つまり1/50×365=73日となるわけで、この理論が正しければなるほど歳をとればとるほど、時間は短くなるわけです。

だとすると、80歳の人にとっての一年はわずか4.6日に過ぎないことになりますが、これからさらに年齢をとるにつけ、さらに時間の経過が短くなっていくことになるわけで唖然としてしまいます。

はたしてこれを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかですが、感覚的に人生で残っている時間が加速度的に減っていく、というのはやはり悲しい感じがします。

ただ、当然個人差はあるでしょう。「ゾウの時間、ネズミの時間」というのがあって、これは動物生理学を専門とする生物学者、本川達雄さんが唱えた説で、1992年に中公新書から同名の本が発行されています。

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人間を含めて、世の中にはいろんな大きさの生物がいますが、その大きさによって時間の経過も違うという説です。その理由として本川さんは、それぞれの生物によって心臓が1回打つのにかかる時間、呼吸するのにかかる時間、物を食べてからそれらが排泄されるまでにかかる時間、それから寿命にしても、動物によって異なることをあげています。

例えば、心臓が1回ドキンと打つ時間は、ヒトの場合はおよそ1秒ですが、ハツカネズミなどは、ものすごく速くて1分間に600回から700回であり、1回のドキンに0.1秒しかかかりません。ちなみに普通のネズミは0.2秒、ネコで0.3秒、ウマで2秒、そしてゾウだと3秒かかるそうです。

つまり、大きな動物ほど周期が長く、ゆったりしていることになり、これを体重との関係から考えてみると、体重が重くなるにつれ、だいたいその4分の1(0.25)乗に比例して時間が長くなるということが分かっているそうです。4分の1乗というのは分かりにくい数字かもしれませんが、関数電卓でルートを2回押せば答えが出ます。

大ざっぱに言えば、動物の時間は体長に比例すると考えてもいい、ということにもなるようで、いずれにせよ、体のサイズの大きい動物ほど、心周期も呼吸も筋肉の動きなどもゆっくりになっていきます。

われわれからみるとネズミはチョロチョロ、ゾウはのっしのっし、という動きになるわけであり、つまり、彼らにとっては、私たちが考えている「時間」の感覚は彼らとっての同じ「時間」ではない……

時間が体重の4分の1乗に比例するということは、体重が2倍になると時間が1.2倍長くゆっくりになる関係であり、体重が10倍になると時間は1.8倍になります。例えば、30gのハツカネズミと3tのゾウでは体重が10万倍違いますから、時間は18倍違い、ゾウはネズミに比べ時間が18倍ゆっくりだということになります。

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ビデオなどの映像を18倍ゆっくりスローモーションで再生すると、画像はほとんど動かないと言っていいくらいであり、逆に18倍の速度で早送りしますと、目にも止まらない動きです。したがって、ネズミからゾウを見たら、ただ突っ立っているだけで動かない、これは果して生き物だろうか、という風に見えているかもしれません。

逆にゾウからネズミを見たら、風のようにピューンといなくなってしまうように見えるのかもしれず、もしかしたら、ゾウなどはネズミなんて果してこの世にいるのか、気にもしていないのかもしれません。

現代のわれわれ人間社会では、時間というものを1秒とか1分、1時間、1日、1週間、1か月、1年・・・といったように、物理的、絶対的な単位を基準に考えますが、このように、自然界における時間、生物学的に見る時間は、別な概念で存在するということになります。

我々人間にもデブやらノッポ、小さい人大きい人がいるわけであり、人それぞれにも時間の経過の違いがあるのかもしれません。上の理論が正しければ、体が大きくて心臓がでかい人は時間の経過が短く感じることになります。だとすれば、歳をとってだんだんと短くなる時間は、デブになりさえすれば補正できるということなのでしょうか。

ところが、人の心拍数は、年齢が高くなるほど下がる傾向があるそうで、10代の男女の心拍数がだいたい70ぐらいなのに対し、80代の男性の心拍数は平均で61、女性は65にまで下がるそうです。

女性より男性のほうが加齢に伴う心拍数の低下が大きいようで、これからすると人は年齢を重ねるほど時間の経過を長く感じる、ということになります。しかも男性のほうが心拍数が少なく、その分より時間の流れをゆったり感じる、ということにもなるのかもしれません。

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こうなるとジャネーの法則正しいのか、ゾウの時間・ネズミの時間が正しいのか、よくわからなくなってきますが、あるいは加齢による心拍数の低下で長く感じるようになる年齢ではそれも感じることができないほど脳味噌はすでに老化しているので、相殺されてしまうのかもしれません。

しかし、歳を経た男性のほうがより時間を長く感じる、というのが本当ならば、あるいはデブになって心臓を大きくすることが時間を止めるのに有効ならば、デブで大柄の男性は普通の人に比べてより人生を有効に使えるかもしれません。年寄りを拝命するような高齢のお相撲さんなどは、さしずめその代表ということになります。うらやましい限りです。

ところで、今日のこの話を書いていて思い出したのですが、その昔、20代のころに読んだ小説に「リプレイ」というのがありました。アメリカ合衆国のSF作家、ファンタジー作家のケン・グリムウッドにより1987年にアメリカで出版されたSF小説で、記憶を持ったまま人生をやり直す男の話です。

そのストーリーはこうです。

経済的に成功していないラジオ局ディレクターで、43歳のジェフ・ウィンストンは、ある日、突然に心臓発作によって死を迎えます。しかし、次に目を覚ますと18歳の時点に遡っており、新しく人生をやり直すことになります。

彼は死ぬ前に見知っていた「未来の記憶」を存分に利用し、このやり直しの人生ではさまざまな成功を収めてその新たな人生を謳歌しますが、結局は同じ歳の同じ時刻に死を迎え、人生のやり直しを強制再開させられます。

小説では9回以上もこの「リプレイ」を繰り返しますが、その中で多くを学びつつも、やがては再び死んでいくことになる自分の人生に対して、自暴自棄と諦観に囚われます。しかし、その再生のある人生の中で同じく「リプレイ」を繰り返している女性を偶然みつけ、彼女との関わりの中で、改めて次の人生に向かい合うようになります。

しかし、最初は18歳に戻っていたものが、だんだんとリプレイを繰り返すたびにその生まれ変わり時の年齢が上がってきます。つまり、リプレイ期間が次第に短くなっていく、というわけで、最後に死ぬ年齢は43歳と決まっているわけですから、だんだんとその人生は短くなっていきます。

リプレイを繰り返していくたびに少なくなっていく残りの人生の中で、ついに彼は、究極の絶対死、つまり「リプレイの終了」がやがて訪れることを知ります。果てしない人生を持ちながらも、やがては絶対死を迎えることを知った彼は、最後にある行動をとりますが、それは…

という話なのですが、このクライマックスはまだ読んだことがない人のためにとっておくとして、この話は実に寓意に富んでいて面白い話です。

多くの人がこの話を読んで自分の人生に重ねて考え込んでしまうのではないでしょうか。もしある年齢で死ぬとして、それまでに何ができるか、あるいは同じ人生を繰り返すとすれば何をするか、は誰しもが考えることですが、このSF小説も読んだあなたもそうした志向を持つことでしょう。

2015-62681988年度の世界幻想文学大賞を受賞したほどの名作で、その後、いわゆる「ループもの」と呼ばれる主としてSF小説でポピュラーになった分野の先駆けともなりました。この本は日本でもベストセラーになり、また海外では数々の映画やドラマの原作にもなりました。

残念ながら原作をそのまま忠実に扱った映画は作成されていませんが、「ゴーストバスターズ」シリーズの脚本家として知られるハロルド・ライミスが、メガホンをとって製作してヒットしたコメディ映画「恋はデジャ・ブ(1993年)」の原題はこの作品ではないか、といわれているようです。

作者のグリムウッドは、ハーバード大学出のインテリで、大学では心理学を学び、リプレイの主人公と同じように、ロサンゼルスのラジオ局で編集者として勤務する傍ら小説を執筆していました。

「リプレイ」で成功を収めてからは専業作家になりましたが、本作の発表から16年後の2003年、わずか58歳で心臓発作により亡くなっています。死の直前まで「リプレイの続編に取り組んでいたそうですが、残念ながら我々はそれを二度と読むことはできません。

晩年、「ディープ・ブルー(1995年)」というイルカの物語を出版しています。イルカの知性への愛着、イルカとの出会い、イルカ同士のコミュニケーションについての研究などから生まれた作品で、イルカの知能を解明しようと奮闘する海洋生物学者を描いたものでした。

グリムウッドはマグロ漁の実態を取材するため、サンタバーバラのマグロ漁船に正体を隠して船員として乗り組んでいたそうです。それほどの熱の入れようでこの作品に取り組んでいたわけですが、残念ながらこの意欲作が遺作となりました。

が、「リプレイ」はいまだに版を重ねているようです。新潮文庫でも版を重ねているのではないでしょうか。2005年には「本の雑誌が選ぶ30年間のベスト30」第5位にも入っています。中古本もたくさん出回っているようなので、このブログを見て面白そうだ、と思った方はぜひブックオフで探してみてください。

私と同じように、まだ年賀状を書いていない人、忘年会やら大掃除で忙しい人も、正月になって一息つくころに読んでみるといいでしょう。年のはじめにこれからの人生を考えるうえでもよい刺激になるかもしれません。

このようなループものの文学作品では、たびたびループが一巡することで物語冒頭の場面の意味が大きく変わったり、ねじれた因果関係が明らかになったりします。また、劇中劇と本編の内容が入れ替わるような入れ子構造が描かれたりする、あるいは循環や繰り返しが扱われたりすることから、よく「メビウスの輪」にもたとえられます。

帯状の長方形の片方の端を180°ひねり、他方の端に貼り合わせた形状の図形ですが、ご存じの方も多いでしょう。

人生の時間もこのメビウスの輪と同じように、だんだんと短くなっていきつつも、最後にはどこかでまた反転し、また元に戻って新たな人生を始めるようになっているのかもしれません。

輪廻転生というものはあるいはそういうものなのかな……などと考え始めたりしているところですが、先日来の疲れもあって、考えがまとまらないので、これについてはまた別の機会に書いてみたいと思います。

そうこうしているうちに、どんどんと時間が過ぎていき、その分持ち時間がまた減っていっているようです。年末までにあとどのくらい時間の短縮は加速しているでしょうか。また人生の反転までの時間はあとどのくらいあるのでしょうか。

いっそのこと、若いみなさんの時間を少し、分けていただけないでしょうか。

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煤払いの季節に

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今年もあと2週間を切りました。

体感的にはまだまだ残りがあるだろう、とつい思ってしまうのですが、カレンダーをみれば今年残されている日数がわずかであることは一目瞭然……

アレアレまだあれもやっていないし、これもやっていない、できていないこともたくさんあるのに… もう終わりなの? というかんじなのですが、ここまで押し迫ってくると、いっそのこと、もういいや来年やれば… と諦める気持ちもわいてきます。

なんでもかんでも無理して今年中にやってしまおうとするから悪いんだ、と言い聞かせたりもしてみるのですが、やはり大掃除と年賀状作成くらいはやっておかねば、と長年染みついてきた習慣にはやはり勝てません。

しかし、別に大掃除を早めにやる必要はなく、一般には、これは年末にやるものとされています。ただ、さすがに大晦日にやるのはせわしないので、たいていは御用納めのころに合わせて12月28日頃にやることが多いようです。

一年分の汚れを除去し、新たな年に「歳神」を迎える準備をし、新年を新たな心持ちで始められるようにする意味があり、その昔は煤払い(すすはらい)と呼んでいました。そもそもは神社仏閣において、仏像や祭神についていた煤を払うことが歳末の恒例行事となっていたものが、民間に下って行ったものです。

歳神というのは、毎年正月に各家に来てくれる神さまです。来訪してくれるから来方神ともいいます。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿、トシドン、年爺さん、若年さんなどといろいろな呼び方があるようです。

現在でも残る正月の飾り物は、もともとこの歳神さまを迎えるためのものです。門松は年神が来訪するための依代(よりしろ、神さまが居ついてくれる)であり、鏡餅は年神への供え物でした。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えていた名残です。

そのお正月を気持ちよく迎えるための年末の煤払いは、旧暦では本来は12月13日に行われていたそうです。これは徒弟奉公などの人々が新年に間に合うよう里帰りの旅路の時間を考慮して行われていたからです。

江戸時代にはこの煤払いの作業後は、冬の時節の体をいとうためと彼らの重労働をねぎらうために滋養強壮と長寿を願って「鯨汁(クジラ汁)」が日本各地で食されたといいます。

江戸時代の人々はあまり肉食はしなかったといわれていますが、クジラは別だったようです。組織的な捕鯨が行われており、今でも捕鯨がさかんな和歌山や静岡といった地域周辺の漁村では、鯨肉は常食とされていました。

現在でも、大坂など近傍経済圏にもこの頃に生まれた伝統的な鯨肉料理が存在し、京都でも「鯨の吸い物」を提供するところがあるようです。高知県では土佐藩の高知城下を中心に数々の鯨料理が伝承されており、特に「はりはり鍋」は現在でも高知の代表的な物の一つです。

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江戸城下では、みそ汁や澄まし汁にクジラ肉が加えられて食されていたようで、これらがクジラ汁のことです。また、鯨肉を素材に調理した「鯨鍋」というものがあったようですが、これは家庭だけでなく、料理屋で出されることも多かったようです。

東京都内にこうした江戸時代から続くあるドジョウ鍋料理店では、160年間以上にわたり「鯨汁」を提供し続けているといいます。江戸時代の江戸城下では、ドジョウ鍋屋(柳川鍋屋ともいう)で鯨汁が出されるのが一般的だったそうですが、なぜドジョウ鍋屋だったのでしょうか。

一説では一番小さな魚を使った料理であるドジョウ鍋に対しての洒落から一番大きな魚の鯨汁を提供したといわれています。だいたいどの店でもドジョウ汁と鯨汁は同じ値段で十六文で売られていたそうで、明治末期にはドジョウ汁が一銭五厘、鯨汁は二銭五厘でした。これは現在の価値に換算すると200~300円のようで、庶民にも手の届きやすい値段です。

煤払いが終われば、この鯨汁を家庭や料理屋で食べ、商家では奉公人規制して、残るは主人一家だけになります。しかしその前に、煤払いが終わると誰彼構わず胴上げを行うのが慣わしとなっていたともいいます。これは江戸だけでなく畿内も含め全国的に行われていた風習です。

胴上げの発祥は長野市の善光寺との説があります。善光寺では、現在でも12月の2度目の申(さる)の日に、寺を支える浄土宗14寺の住職が五穀豊穣、天下太平を夜を徹して祈る年越し行事「堂童子(どうどうじ)」というのがあります。

胴上げをするのはこの行事のときで、このときこの行事を仕切るリーダーを胴上げをするそうです。江戸時代初期から行われていたそうで、「牛にひかれて善光寺」と呼ばれるほど観光地として人気のあったこの寺から全国にこの風習が広まっていったのでしょう。

江戸時代の記録では、「ワイショ、ワイショの掛声のもと、三度三尺以上祝う人を空中に投げ上げる」とあります。

無論、現代では年末に胴上げなどをやる風習はなく、胴上げといえば、大学に合格したときや結婚などの人生の節目、スポーツでの勝利の場面、選挙で当選した候補者を胴上げするときくらいのものです。

こうした風習が消え去っただけでなく、現在では大掃除の形態も変わってきています。昨今は掃除用具の多岐や高機能化により、日頃から多くの場所を掃除できるようになったため、室内で箒やはたきを使って掃除をする家庭というのはほとんど見られません。

家族総出の大掃除をしない家庭も増えてきているようで、日ごろから掃除し、綺麗にしておけば大晦日前に慌てて掃除をする必要はないという考え方のほうが浸透しているようです。

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が、小中高などの学校では、終業式前に大掃除を生徒の手でやらせるところも多く、学校教育の一環として行われる大掃除も多いようです。とくにトイレなどの水回りなどのように雑菌が繁殖しやすい場所などでも生徒自らに掃除させる学校も多く、これらを適切に管理することは社会的協調性を獲得する手段として重要な教育目標とされます。

日本では、公共教育の一環として清掃活動は重要視されます。「触れたくないもの」「忌避すべきもの」を適正に処置できる技術を学ぶこと、あるいはその体験を積み重ねることで、自主自律のための自信の獲得に寄与することが期待されており、これは諸外国にはあまりみられない風潮です。

多くの外国では、学校の掃除は、業者に委託したほうが正確かつ丁寧であるとして外部業者の手により掃除が行われることが多いようです。しかし、最近、サッカーの国際試合などで日本人サポーターが自分たちの観客席の掃除をして帰ったことなどが世界的に「美徳」として喧伝され、高い評価を受けています。

このため、日本の学校の掃除の様子なども諸外国に伝えられることも多くなり、アラビア諸国などでも教育の一環として一部で行われるようになってきているといいます。

海外に進出した日本企業においても、こうした掃除方法は従業員教育の一環として行われることがあり、こちらも着目されています。生産ラインや工具の分解清掃は、製造工程の品質維持を目的とするほか、ラインや工具の耐久性向上、食品ラインなどにおける異物混入事故の予防や発見など通常業務における効果が期待できます。

また、未熟練作業者が品質に対する理解を深め、あるいはラインや製造工具、作業内容に対する知識を高めるための研修効果が期待されます。こうした日本的な掃除手法が日本の高い生産技術を支えている、という評価が世界的にも年々高まってきているようです。

ところで、こうした日本人の「きれい好き」はどこからきているのでしょうか。

いろいろ調べてみたのですが、まず挙げられるのは、日本には水が豊富にあるということです。年間を通じて降雨量が多く、かつ山が中央にあるため、ここに降った雨は常に麓に流れ、その生活環境に潤いを与えます。日本の川は、急峻な山岳から一気に海へ流れるので、流れが早く、淀むことがなく、汚れは消え去りそのため清流になります。

この清流のあることが日本人の綺麗好きと関係がある、とはなんとなく想像はできそうです。ただ、平安や鎌倉・室町などのかなり昔に遡ると、このころの日本もまだそれほど綺麗ではなかったようです。

12世紀後半の作とされる「餓鬼草紙」には、平安京の住民が男女・年齢の区別なく道端で排便・排尿しているところが描かれているそうで、ウンチを拭いた捨木(くそべら)がそこいら中に散らばっていたことなども書かれています。

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この時代はまだ日本各地で戦乱があり、人々の心の中には豊富な水を使って自らの周囲をきれいにしよう、というような心のゆとりはなかったためと考えられます。ところがその後戦国時代を経て江戸時代になると、平和が社会を豊かにし、民衆の生活も安定するようになり、人々の心にも余裕がでてきました。

日本中の都市の整備も進み、京、江戸、大坂はもとより、地方の城下町や田舎にも水路が引かれるようになり、豊富な水を使って野菜を洗ったり、洗濯できるようになりました。

また、水と燃料となる木が入手しやすいことから、江戸時代、庶民の社交場として銭湯がたくさんできました。これにより、多く日本人は自らの体の汚れにも気を配るようになり、また食についても清潔なものを口にするという習慣が定着したと考えられます。

このほか、こうした「綺麗を保つ」という風習が定着した背景には、日本人には古くから仏教や神道に基づいての価値観があったこともあると考えられます。

日本の神道はそもそも自然の中に八百万の神を見いだす多神教であり、自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされました。従って、自分たちの生活環境はさておき、そうした聖域の清潔さは常に保たれるべき、と考えるようになりました。

一方では、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方、いわゆるアニミズム(animism)的な考え方もまた、古代日本人の思考の根底にありました。

いわゆる「付喪神(つくもがみ)」というものを信じる風習であり、これは「九十九神」とも書きます。長い年月を経た道具などに神や精霊(霊魂)などが宿るとされたもので、当初は日常生活で使う道具が中心でしたが、そのうち、「あらゆるものに神が宿る」といった風に変わっていきました。

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つまり、自分たちの周囲の自然の中に神さまがたくさんいるし、自分たちの生活の中にも神が宿る、と考えるようになったというわけで、要は日本人の回りには神さまだらけ、ということになっていきました。

この付喪神が存在するという考え方は室町時代には既に定着していたようですが、このころからさらに大陸から入ってきた仏教の考え方も浸透し始め、両者の融合が始まりました。

いわゆる神仏混淆(こんこう)であり、神仏習合ともいいます。日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆して一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象です。

一方、それまでの日本の神道は定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的でした。そうしたところへ、誰でも信じれば救われるとする普遍宗教である仏教が伝来し、こうした日本的な神の観念に大きな影響を与えました。

仏教が伝来した奈良時代後期または平安時代だと言われています。この仏教には、死・疫病・月経などによって生じる「穢れ(けがれ)」という観念がありました。仏教の発祥の地、インドのヒンドゥー教では穢れは共同体に異常をもたらすと信じられ避けられており、仏教の伝来ともにこうした考え方も日本に流入しました。

やがて死、出産、血液などが穢れているとするこの穢れ観念は、平安仏教の成立とともに京都を中心に日本全国へと広がっていきました。

そしてさらに時代が進み、神仏習合がさらに進むようになると、従来それほど顕著でなかった、浄とケガレの二極が強調されるようになっていきました。そもそも神道では浄を重んじますが、一方の仏教ではケガレを忌嫌います。その両者が融合するなかで、この二つは二極対立の様相を呈すようになっていきます。

仏教が伝来してきた当初から、日本にもケガレという観念が根付きましたが、当初神道では、このケガレはお祓いで消え去る程度の扱いでした。ところが、9紀から10世紀ころになると、陰陽道の影響もありこのケガレはかなり重いものになっていき、「物忌み」という言葉や習慣も生まれてきました。

物忌み(ものいみ)とは、ある期間中、ある種の日常的な行為をひかえ穢れを避けることであり、具体的には祭りの関係者は祭りの前一定期間は歌を歌わない、肉食をしない、下肥を扱わない、などといったものです。

要は神聖な儀式を行うにあっては、汚れたもの穢れたものに触ってはいけない、持ち込んではいけない、といった考え方であり、こうした風習の定着により、日本人の潔癖性はより加速するようになりました。

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江戸時代以前の争いが長く続いた時代にはさらに神仏混淆はかなり進み、こうした穢れと浄化の両者が屹然とこの世に存在するようになりました。それ以前の戦乱の続く中で人々の生活は安定せず、自分の周囲の穢れを排除するという心の余裕はありませんでした。

しかし、江戸期に入り生活が安定してくると、上述のとおり自分の体や周囲のものを綺麗にしようという機運が高まり、と同時に古くから人々の心の中にあったもともとの森羅万象すべてに神が宿る、また、自分たちの周りにもたくさんの神がおり、これらを大切にしようという考え方が復活し始めました。

これに加えて仏教によってもたらされたケガレを排除する、という精神が融合し、より一層「きれい好き」の精神が発達しました。つまり、現在の日本人のきれい好きはもともとあったわけですが、神仏習合によって、汚れ・ケガレの排除が加わり、さらに綺麗好きが加速したといえるわけです。

さらにあえていえば、仏教の伝来がなく、日本古来の神道だけではもたらされなかった、ということになります。世界に名だたる清潔好みの国民性が育まれる過程においては、仏教という外来宗教のスパイスが極めて重要な役割を担ってきた、というわけです。

この日本に伝来するまえの仏教とは、いうまでもなく、お釈迦様が発案した宗教です。そのお釈迦さまの弟子のひとりに、周利槃特(チューダ・パンタカ、しゅり・はんどく)という人がいました。

呼び方は伝わった経典によって異なり「周利槃陀伽」、「周利槃陀迦」とも、あるいは修利、周陀、周梨、注茶、半託迦などさまざまですが、小道路、路辺生など「路」で表現されることも多い人物です。

利槃特は釈迦の弟子中、もっとも愚かで頭の悪い人だったと伝えられており、そのため、「愚路」とも呼ばれることもありました。

この名前を漢訳したときに「路」の字がつくのは、彼の母親のエピソードによります。彼の母親は王舎城(ラージャガハ)の大富豪の娘でした。王舎城は、古代インドのマガダ国の首都です。ガンジス川中流域に位置し、釈迦が説法した地の一つとされます。

釈迦の在世当時は、マガダ国最大の都として栄えており、釈迦が最も長く滞在した地で知られています。

この国の富豪の娘だった母親は、あるとき下男と通じてしまい、このため父親の怒りを買い、他国へ逃れることを余儀なくされます。ところが、その逃亡途中に身ごもっていることがわかり、かつての下男であった夫に実家に戻って産みたいと頼みました。

夫は一度は同意したものの、娘と駆け落ちしたことを罪に問われることを恐れたため、妻とともになかなか王舎城に戻ろうとはしません。そうこうしているうちに臨月が近づいてしまい、彼女は仕方なく一人で実家へ戻ろうとしましたが、途中で産気づき、そこで一子を産み落としました。

実家へ帰る途中で産んだので、その男子には槃特(パンタカ、路辺生)と命名しました。こうして期せずして夫の元に我が子とともに帰ることになった彼女でしたが、その後ふたたび妊娠してしまいます。このときもまた、最初の子を手を引いて実家へ戻ろうとしますが、このたびもまたその途中で子供を産むことになります。

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第二子も男の子であっため、この次男には周利槃特(チューラ・パンタカ、小路)と名付け、先に生まれた兄には摩訶槃特(マハー・パンタカ、大路)と改めて命名しました。

この兄弟の兄・摩訶槃特は、成長するにつけ、資質聡明な男児となりました。しかし、一方の弟、周利槃特は兄とは比べることもできないほど愚かでした。その理由はこの弟の過去世にありました。

その前世において彼は賢明な僧でした。しかし、迦葉仏(かしょうぶつ)という如来が出世された時、この迦葉仏の説法を暗誦できなかった別の兄弟弟子を嘲笑しました。その業報により、釈迦如来の出世された自分の生まれ変わった世では、愚鈍に生れついたのでした。

その後、兄・摩訶槃特は、釈迦の弟子になりました。この聡明な兄は並み居る弟子たちの中でも特に秀でており、日に日にその名は高まっていきましたが、ある日のこと、弟の愚鈍ももしかしたら釈迦の説法によって治るかもしれないと考え、弟にも弟子になるように勧めてみました。

弟は判断する能力もないほど愚鈍であっため、二つ返事でこれを了承し、師匠の下で修業を始めました。しかし、四ヶ月を経ても一偈をも記憶できず、兄もそれを見かねて精舎(出家修行者が住する寺院・僧院のこと)から追い出し還俗せしめようとします。

ところが、これを知った釈迦仏、彼に一本の箒を与え、東方に向かって、「塵や垢を除け」と唱えさせ、精舎を払浄するように命じました。

愚鈍だった彼はやがてこの修行によって次第に心身を揃えることができるようになり、と同時に聡明だった前世の自分を思い出します。そしてついには汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟るに至ります。

こうして仏の教えを理解した彼は、その後も修行を励み、阿羅漢果といわれる仏教の教えのいては最高位に近い階位を得るに至ります。そして晩年までには神通力を得て形体を化かすなど種々示現できるようになったと伝えられています。

さて、私と同様、年末までの大掃除に嫌気がさしている皆さん。

皆さんも周利槃特のように年末までは、せっせせっせとみなさんの精舎をきれいにしようではありませんか。そしてその暁には来年こそは、なんでもかなえられる神通力を手に入れておられるに違いありません。

きっとこれから大掃除に参戦する私の神通力を上回っているかもしれませんが、年が明けたらその神通力どうしで勝負をしましょう。

そして、それまで風邪などひかれませんように。

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