ケツバン

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1997年の今日、12月16日にテレビ東京および系列局で放送されたテレビアニメ「ポケットモンスター」こと、ポケモンを見ていた視聴者の子供たちが、眼に異常を覚え、不快な気分や頭痛や吐き気といった症状などをうったえる、という事件がありました。

あれから、18年… このころ5歳だった我が子は幸いこの番組を見てはいませんでしたが、症状を発した子供を持っていた親御さんたちは、なぜこんなことが起こったのかと、唖然としたことでしょう。

その息子君も今年は大学4年。あとは卒業を待つばかりですが、さすがに最近はポケモンだの、妖怪ウォッチなどには興味などはなく、目下の関心は、幸いにもすでに決まっている就職先での来春からの新生活にあるようです。

それはさておき、この事件は「ポケモンショック」と呼ばれています。原因は、この番組における激しい光の点滅を断続的に見たことにより、「光過敏性発作」が引き起こされたためとされ、事件の余波を受けてこの番組の放送はその後4カ月の間休止されました。

当日放映されていたのは、ポケットモンスター第38話「電脳戦士ポリゴン」であり、問題となったのは、その後半あたりの映像です。このときの視聴率は、関東地区で16.5%、関西地区で10.4%であり、少なからぬ子供たちがこの人気番組をみていました。4~12歳のおよそ345万人の視聴者がいたと推定されています。

この回は、主人公・サトシたちがコンピュータ内で起きている事件を解決するためにコンピュータ内部に入り込むという内容であり、コンピュータの世界を表現するため、ワクチンソフトによる攻撃シーン、破損したデータを修復したシーンにパカパカを始めとするストロボやフラッシングなどの激しい点滅が多用されました。

後にテレビ東京が配布した報告書によれば、25箇所にわたって1秒間以上連続してこうした点滅が使用されていたといい、特に番組後半はとくにこれらが重点的に使用されていたそうです。特に顕著だったのが、ピカチュウの技「10万ボルト」がワクチンソフトのミサイルに当たった場面でした。

「アニメ・ポケットモンスター問題に関する記録」という記録文書があり、このなかでは、この回の放送直後、放送を見ていた視聴者の一部が体調不良を訴え、病院に搬送されたとされます。病院に搬送された患者の多くは児童であり、テレビ東京が最終的に把握した患者は約750人になり、そのうち135人が入院しました。

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患者の症状は主に発作様症状、眼・視覚系症状、不定愁訴、不快気分、頭痛や吐き気などでしたが、原因は上記のとおり、激しい光の点滅を断続的に見たことにより、光過敏性発作が引き起こされたためとされます。

光過敏性発作を誘引する原因には光による刺激のために、一種の癲癇(てんかん)が引き起こされるためと考えられているようですが、それ以外の複数の要素が関わっている可能性が指摘されています。このため、「てんかんの一種」と言い切るにも語弊があるようで、医療関係者たちの間ではいまだ研究途中のテーマのようです。

事件翌日の1997年12月17日には、同じテレ東の番組、「少女革命ウテナ」最終回において、お詫びテロップが流されましたが、その内容は、「昨日の放送分の「ポケットモンスターをご覧になると目眩がしたり、具合が悪くなったりする可能性があります。きのう放送分の「ポケットモンスター」をビデオでご覧にならないようにお願いします」でした。

事件後、テレビ東京は原因が究明されて再発防止策がとられるまで、特番を含めた「ポケットモンスター」関連の放送を全て休止すること、および関連情報を調査の結果が分かるまで扱わないことを発表しました。

この他にもテレビ東京ではポケモン関連番組・コーナーの放送自粛、レンタルビデオ店にアニメのレンタル自粛の要請、テレビ東京の系列外のローカル局に対しても当該放送分以外の回も含め放送自粛の要請を行いました。

この事件を受け、こうした画像問題に関しては研究機関を持つNHKが、再発防止対策として「アニメーション問題等検討プロジェクト」を立ち上げました。その際に、NHKも自ら放映したことのある「YAT安心!宇宙旅行」という番組において、放送後に同様の原因で4人の児童が体調不良を訴えていた事例があったことを明らかにしました。

そして、「そのとき原因究明をしていれば、今回の事件は起こらなかったかも知れない」としてNHKもまた陳謝しました。

当時の厚生省も「光感受性発作に関する臨床研究班」を発足させたほか、郵政省(これも当時)も「放送と視聴覚機能に関する検討会」を設置、NHKと日本民間放送連盟(民放連)とともにタッグを組んで、共同ガイドラインを策定することで合意しました。

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テレビ東京はこの他に、日本国外のテレビ局において罰則も規定されているガイドラインを持つイギリスに着目し、同国の独立テレビジョン協会に年明け早々に調査団を派遣したほか、アメリカにも同様の調査団を派遣しました。

イギリスにおいては、1993年にカップラーメンのテレビコマーシャルを見た3名がこの種の痙攣発作を起こして病院へ運ばれており、これを受けて、独立テレビジョン委員会およびBBCが防止のためのガイドラインを策定していました。

テレ東はさらに局内調査はもちろん、外部調査チームの受け入れを行い、こうした諸外国の事例をもとに「アニメチェッカー」と呼ばれる機構の開発と導入を行うなど、事件の当事者として最大限の再発防止策をとりました。

ポケットモンスターは今でもそうですが、この当時も相当な人気のあるアニメでした。事件後も放送再開を希望する声は多く、テレ東は、翌年の3月末にはNHKと民放連のガイドラインが発表される見込みが出てきたとして、早ければ4月中旬に再開できるとし、放送再開を前に事件の検証番組を放送することを発表しました。

4月8日、NHKと民放連は光の点滅などを規定したガイドラインを発表。また4月11日午後1~2時に「アニメポケットモンスター問題検証報告」がテレビ東京系6局で放送されましたが、その後ポケモンは放送枠を以前の火曜日から木曜日のゴールデンタイムに移動し、4月16日に放送が再開されました。

再開時の視聴率は16.2%だったといい、相変わらずの人気ぶりでした。放送再開後のアニメではオープニングの一部や、ピカチュウの10万ボルトの表現が変更されるなど、光の強いシーンは光量が抑えられるなどの修正がなされていました。

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また、事件前に放送されていた回も、後日販売されたビデオ・DVD版、再放送、アメリカでの放送の際に、点滅箇所の修正がなされました。しかし、第38話に限っては修正不能と判断され、ビデオ・DVD・再放送枠および国内外のすべての放送リストからカットされ、「欠番」扱いとなりました。

また、問題となった第38話で登場したくだんの「ポリゴン」というキャラクターは、その進化形であるポリゴン2とポリゴンZも含め、テレビシリーズ本編ではその後一切登場しなくなりました。

このように、現役で放映されているもの、あるいはすでに放映済みのものも含めて、製作あるいは公開された後、「特別な支障」が生じたため公開・流通がなされなくなった作品が出ることがままあり、これらは、「封印作品」と呼ばれます。

テレビ番組だけでなく、文学作品、漫画、映画、歌謡曲その他の作品の中にもありますが、テレビで放映されたものとしては、このポケモン以外にも例えば、ウルトラセブン 第12話「遊星より愛をこめて」ブラック・ジャック 第41話「植物人間」、第58話「快楽の座」などがあります。

これがなぜ封印作品になったかといえば、ウルトラセブンでは、この回においてケロイドを彷彿させる黒い大きなしみのようなものがある宇宙人が登場し、主人公のモロボシ・ダンがこれをみて、「原爆病によく似た症状じゃないですか」としゃべるセリフがあったためです。また、ブラック・ジャックのほうも「植物人間」という言葉が問題になりました。

このように、言論・表現の自由が認められている日本のような国においても、しばしば放送禁止の対象となる用語があり、そうしたものはおおむね、「公序良俗」に反するものです。日本では、「電波法」という法律があり、この中に、以下のようなものの放送が禁止されています。

・政府を暴力で破壊することを主張する通信を発することの禁止
・わいせつな通信を行うことの禁止
・差別を助長する恐れのある言葉や表現
・暴力や犯罪を肯定的に扱う言葉や表現

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また近年、個人情報保護法が制定、施行されたことにより、これに抵触する、あるいはその恐れのあるものについて、新たに規制の対象となっており、放送内容上、必要のない個人情報を含む映像、コメントなどについてなど細かく対象となる事物が決まっています。

しかし、こうした規制の方向に危惧をいだくテレビマンやジャーナリストも多いようです。放送はジャーナリズム機能を持ったマスメディアであり、ニュースやドキュメンタリーに限らず他の番組についても程度の差こそあれ、ジャーナリズム性を帯びているといえます。

また、放送、特にテレビ放送は聴覚性、視覚性、同時性、臨場性があり、活字メディアなどに比べ受け手に与えるインパクトがはるかに強く、社会的影響力が大きいものです。公共財産である電波を利用することから「公共性」が極めて高いというという論理となり、放送にはいわゆる「中立性」が求められるべきだ、というのが彼らの意見です。

思想・思考、言論、表現の自由は広く保障されなければならない、というわけですがしかし、表現の自由は絶対的で無制限なものではなく、特に大衆を対象とする放送で、安易に全てをありのまま自由に表現することが常に正当化されるわけではありません。表現の自由が保障されている場合、容易に当事者間、第三者間での利害関係を生みやすくなります。

従って、なんでもかんでも放送していいというわけにもいかない、というのが日本を含めた国際的にほぼ共通した認識です。イスラム国や北朝鮮のような、ならずもの国家はともかく、多くの国ではこのルールを守り、「放送の責任」としての表現の規制が行われています。

ただ、日本と欧米を中心とした諸外国では、表現の自由に係る根本的な考え方に大きな違いがある、といわれます。すなわち報道内容に係る責任の帰属が、欧米を中心とした諸外国では「表現者」ですが、日本では「マスコミ」である、という違いです。

どういうことかというと、諸外国では、報道内容は「多様であるべきである」、とされるのが普通で、被取材者の表現を肯定あるいは否定する上においては、マスコミ自身の表現だけでなく、取材を行った記者なども加わり、日本では偏向報道として問題となるような内容のものも、彼らの責任で自由に報道される風潮があります。

これは、表現の責任の所在は原則、個人とされており、タブーは表現者個人、つまり被取材者のみならず、各マスコミや個別案件ごとの担当者の中にそれぞれある、とされているということです。

このため、一見、タブーは存在しないようにさえみえ、また、他社が報道しないことを報じていることを売り物にするマスコミも多数あります。いちいち「規制する」という概念そのものがないことも多く、わりとあっぴろげにタブーが報道されたりします。

ところが、日本では報道した内容の責任はすべてこれを司るマスコミに押し付けられます。個人意見でもなんでもかんでも、ともかくそれを取り上げて放送したマスコミの責任、というふうになっています。このため、訴訟を起こされたり、物理的ないし経済的な損失を被る危険がある話題について、大多数のマスコミは触れたがりません。

いざ訴訟となると、マスコミ側にまず勝ち目はなく、従って日本では読者や視聴者、官庁、企業や団体、他国から抗議・圧力を受けたりすると、すぐにその放送をやめてしまいます。すなわち、タブーの本質が個人にある諸外国に対して、日本においてはマスコミという組織の中にある、ということになります。

ときには、欧米と同じように他社が報道しないことを報じていることを売り物にするマスコミもあるにはありますが、欧米を中心とした諸外国ほど多くはないのが現状です。

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従って、我々が今現在、普通に見ている番組も、その放送後に、ちょっとした社会問題に発展しそうになると、マスコミはこれを嫌がり、すぐに欠番にしたがります。

かつて、オバケのQ太郎という人気テレビアニメがありました。これはこの中で、黒い格好をしたオバケが登場し、これが黒人蔑視になる、といって放送局側が封印作品にしたものです。この当時テレビだけでなく、漫画のほうの出版もとりやめになりました。

我々の世代はよく知る名作ですが、さすがにこれについては逆に取りやめたことに対する批判が相次ぎ、テレビ放送こそは復活していませんが、漫画のほうは、2009年に「藤子・F・不二雄大全集」の形で復刻され、復権を見ています。

芸術性の高いもの、クオリティの高いもので封印作品となっているものはほかにもたくさんあると思われ、日本は開かれた国だとよく言われるのに、なんだかな~というかんじです。

同様のことは、ニュース報道などにもいえ、何か批判があると報道を自粛してしまう今の日本、および日本人は、ことテレビ報道ということに関してはかなり委縮している感が否めません。昨今のように秘密保持報なる悪法がまかり通る時代には、さらにマスコミによる報道の在り方が問われています。

マスコミ自身もすべての責任をしょい込まず、欧米のようにその責任をある程度一般に開放することで、逆に自由になる、といった風潮が出てきてもらいたいものです。

ところで、こうした封印作品に代表される「欠番」とされるものは、何もテレビ番組だけでなく、ほかにもたくさんあります。

そもそも欠番とは、一般的には一連の事物に識別番号が付されている場合に、例外的に未使用となっている番号ですが、その番号が付されているものが非公開等されているために、一見未使用に見える場合なども含みます。また、背番号の永久欠番のように名目上、欠番になっているものもあります。

一番なじみが深いのが、「忌み数」というヤツです。国際的に 13 を忌む国が多く、欠番とされます。日本では、4、9、42、49が欠番となることが多く、言わずと知れたことですが、4 は死を、9 は苦を連想させるためです。特にホテルや旅館、病院、共同住宅において、4号室や9号室を避け、欠番とすることが多いものです。

また、欠番には当初から存在しないのに欠番といわれているものもあります。例えば、東京の地下鉄には、都営地下鉄が運営する路線と、東京メトロが運営する路線にそれぞれ欠番があります。

これは、両者が発足する前は、東京の地下鉄は両社共通の番号が付けられていたためであり、その後両社が分裂したため、都営とメトロではそれぞれ欠番ができる、ということになったためです。

例えば、浅草線は1号線、三田線は6号線」、当初計画中だった新宿線・大江戸線がそれぞれ10号線、12号線ですが、その後都営線がこれらの路線を保有したので、メトロではこれらの路線が欠番になっています。またその逆でメトロにあって、都営線で欠番になっているものがあります。

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鉄道ではこのほかこうした欠番が新幹線にもあります。1994~2012年に運用されていたE1系は当初600系となるはずでしたが、JR東日本がその後形式付番方式を変更したことにより、600系は欠番となりました。

鉄道においてはさらに、線路としては存在するものの、ホームがなく、線路の番号に合わせるために欠番とする場合もあります。たとえばJR東日本大宮駅の5・10番線は欠番、同我孫子駅の3番線、JR東海名古屋駅の9番線、JR西日本京都駅の1番のりば、東急東横線元住吉駅の1・6番線、名鉄堀田駅の2・3番線(通過線)は欠番といった具合です。

鉄道も含めた交通施設、乗り物では、過去に大事故を起こした便名や列車番号を避けるために欠番とすることもあります。福知山線脱線事故を起こしたJR西日本の福知山線では、同事故のときに冠していた「5418M」という車両番号を欠番として使わないようにしているそうです。

空の世界でも同じであり、たとえば日本航空は、1982年2月9日に発生し、24名の死者を出した350便墜落事故を受け、350便は欠番になっています。また、1985年(昭和60年)8月12日に起こった日本航空123便墜落事故により、123便も欠番になっています。

と同時に122便も欠番になっています。これは、このときの運航が、羽田空港~伊丹空港線1往復分、ワンセットとされ、122便は123便の対となる便の番号とされていたためです。

このほか、当該番号を予備として開けておくために、当初から欠番が予定されているものもあります。例えば日本銀行券では紙幣番号が900000に達すると000001に戻り、それ以後の番号は付されません。これは900001以降は不測の事態に備えて空けてあるためだそうです。

さらに日本銀行券には、記番号(いわゆる通し番号)がアルファベットとアラビア数字の組み合わせで記されていますが、アルファベットの「I」と「O」が欠番となっています。理由は「0」や「1」との混同を避けるためです。

一方では、過去に使われていた番号の対象が、消滅・廃止・統合・番号変更などによりなくなった場合、欠番となるものも多くあります。お気付きかもしれませんが、今あなたがこのブログを見ているそのパソコンwindowsパソコンなら、そのハードディスクのドライブ番号には、AとBはないはずです。

これは、windowsがMS-DOSと呼ばれていた時代に、ドライブレターのAとBはフロッピーディスク用に確保されていたためで、実際には今時フロッピーディスクを使う人などはいないため、事実上欠番となっています。

ただ、コントロールパネルの「ディスクの管理」画面からAやBに変更することも可能です。しかし、一般に、欠番となった番号を再利用することは好ましくないとされているようです。

理由は単純です。他のコンピュータとネットワークを通じて交信などをする場合などに、混乱するためです。自分のコンピュータだけドライブを変えれば、他人も混乱しますし、自分自身もわけがわからなくなります。

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このほか、日本の一般国道にも数多くの欠番があることをご存知でしょうか。現在、日本の国道は1号から507号までありますが、そのうち59号〜100号・109号〜111号・214号〜216号の48路線が欠番であり、実在するのは459路線にすぎません。

2桁の後半が欠番なのは、かつて一級国道に1桁・2桁を、二級国道に3桁を割り当てていたためです。一級国道は58番まで作ったものの、それ以上一級国道を作る場所がなくなり、これ以後は欠番になりました。

また、109号は108号に統合、110号は48号に変更、214号〜216号は統合して57号に変更されたため、欠番となっています。

都道府県道にも欠番が見られるケースがあり、例えば東京都道1号・神奈川県道1号は、国道1号との混同を避けるため欠番となっています。

スポーツにおいても、多大な功績を残した、もしくは多大な功績が期待されながら若くして逝去した人物・選手を称える意味で、その人物・選手がつけていた背番号を永久的に欠番とすることがあります。

私は広島東洋カープのファンですが、このチームでは、3番は衣笠祥雄(三塁手)として欠番、また8番は、山本浩二(外野手) のものとして欠番になっています。このほか、1番も前田智徳(外野手)となっており、引退を機に欠番となりました。が、次の着用者を選定する時は前田に決定権があるそうなので、復権はありそうです。

このほか、黒田博樹投手の15番も、MLBへ移籍した黒田が帰って来る時に備えて欠番となっていましたが、今年の日本プロ野球への復帰により再び着用することになりました。

そして広島の18番といえば、前田健太。その彼もまた黒田と同じくアメリカへ渡ってのプレーが決まっています。18番が欠番となるかどうかはまだ決まっていないようですが、黒田と同じ扱いになるのではないでしょうか。

それにしても、黒田は引退せず、来年もプレーをすることが決まったそうですが、マエケンのいないカープはやはり寂しい限りです。打線の今一つピリッとしない現状もさることながら、マエケンを欠くことによって投手力に陰りが予想される来年はどうなることでしょうか。

さて、来年のことを言うと鬼が笑うという季節になってきました。

私はまだ年賀状を書いていません。調べてみたところ、この年賀状の郵便番号にも多数の欠番があるとのことです。みなさんもくれぐれも使われていない番号を使わないよう、お気を付けください。

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で、まぁ

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今日は、赤穂浪士の討ち入りの日です。

この事件は「忠臣蔵」として歌舞伎や浄瑠璃など様々な形で演劇化され、現代においてもテレビや映画で繰り返し、同じ話が繰り返されてきました。

旧暦のことなので、現在なら1月30日ということになります。一年でも最も寒い時期であり、こうして語り継がれてきた話の多くは、雪が降りしきる中を四十七士が討ち入りに行く、と設定されているものが多いようです。

が、史実では数日前に降った雪が積もっていたものの、討ち入り当日は晴れていたといいます。また、空には月が輝いていたといい、月明かりを頼りに浪士たちが進んでいった、とされているものなどもありますが、実際にも月は満月に近いものだったようです。

しかし、討ち入りの時刻には月はかなり西の空の低い場所にあったといい、このため、討ち入り時にはさほど明るくはなかったと考えられ、かなりの真っ暗がりを提灯などで手元足元を照らしながら進んでいった、と考えるほうが正しいようです。

それにしても事件が起きたのは、元禄時代、1703年ですから、いまから300年ほども昔のことです。大きな事件だけにその当時の記録がかなり残っているとはいえ、こうした気象状況のように、後年になってかなり脚色されたものも多いと考えられます。

天候のほかにも、討ち入りの際、大石内蔵助が「陣太鼓を打ち鳴らす」、という話があるようですが、実勢に残されている資料には、笛や鉦を持参した話は載っているものの、太鼓を用意したとは書かれていないそうです。

現実問題として、太鼓を叩いてしまっては奇襲が意味をなさなくなってしまうので、浪士たちは太鼓を叩いていなかったであろうと考えるのが自然です。

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また、討ち入りの際の四十七士の服装も、全員が服装を黒地に白の山形模様のついた火事場装束のような羽織に統一した、という話があります。ここのところも微妙に違うようで、史実では事前の打ち合わせで、「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」と決まっていただけだそうです。

あとは思い思いの服装でよかったらしく、全員が一様であったのは定紋つきの黒小袖と両袖をおおった2枚重ねの白い晒(さらし)布くらいだったとされています。ただ、全体として火消装束に近いスタイルに見えたのは間違いないようで、とはいえ、人生最期の晴れ舞台であったこともあり、火事装束よりはさらに派手だったともいわれています。

このように長い時間を経て時代が移ろえば、その当時のことを忠実に再現するのは難しく、いわんや300年前の話の再現を、残されている記録文書だけで行うのはやはり無理があります。

歌舞伎や人形浄瑠璃といった演芸活動に取り込まれて脚色がなされた、ということもありますが、一方では口伝えに伝わったことがそのまま史実として定着し、その後の人々の頭の中に勝手にイメージ化されていったということもあるでしょう。人伝えに聞いた、という話ほどあてにならないものはありません。

その昔、「伝言ゲーム」というものがテレビや巷でも流行ったこともあります。あるグループが一列になり、列の先頭の人に、元となる一定の言葉やメッセージを伝え、伝えられた人はその言葉を次の人の耳うちし、それを最後の人に伝えるまで繰り返す、というものです。

最後の人は自分が聞かせてもらったと思う言葉を発表し、元の言葉と発表された言葉が一致するかどうか、またどの程度違っているかを楽しむ遊びですが、間に入る人数が多くなればなるほど、伝言の内容は変わっていき、場合によっては、最初の伝言とは正反対のものになっていた、といったことさえもあります。

しかし、ゲームで済むならまだしも、これが「社会的な伝言ゲーム」となった場合には、がぜん事件性を帯びることになります。

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その昔、豊川信用金庫事件というのがありました。1973年12月、愛知県の宝飯郡小坂井町、これは現在豊川市になっていますが、この町を中心に「豊川信用金庫が倒産する」というデマから取り付け騒ぎが発生しました。短期間に約20億円もの預貯金が引き出され、最後には日本銀行が事態の収拾にあたらざるを得なくなるまでの大事になりました。

話の発端は、ある女子高生たちの雑談がきっかけでした。1973年12月8日の土曜日、彼女たちが登校途中の飯田線車内で、豊川信用金庫に就職が決まっていた一人の女子高校生を、友人のふたりの高校生が「信用金庫は危ないよ」とからかいました。

この発言は同信金の経営状態を指したものではなく、「信用金庫は強盗が入ることもあるので危険」という意味で発せられたもので、女子高生ふたりが既に就職が決まったもうひとりをうらやみ、揶揄したにすぎない、ごくごくたわいない冗談のはずでした。

ところが、二人の友達から「危ないよ」といわれたこの女子高生は、話を真に受けてしまいます。そして、その夜、この女子から「信用金庫は危ないの?」と尋ねられたひとりの親戚Aが、信豊川信金の近くに住む別の親戚Bに「本当に豊川信金は危ないのか?」と電話で問い合わせたといいます。

そのとき、親戚AとBの間でやはり豊川信金は危ない、という結論に至ったかどうかはわかりませんが、さらにこの翌日の日曜日、この親戚のどちらかが、親しくしていた美容院経営者に対し、「豊川信金は危ないらしい」と印象付けてしまう話ぶりでこの話に尾ひれをつけました。

そしてさらにその翌日の月曜日、この美容室経営者は、ちょうどそこに来ていたこれまた親戚にこの話をします。ところが、そこにたまたま居合わせたクリーニング業者の耳にもこの話が入り、この話はさらに彼の妻に伝わりました。この妻はおしゃべりだったらしく、話はその翌日の火曜日には、小坂井町中の主婦らの間でもちきりとなっていました。

おばさんたちが、町の辻々で豊川信金の噂をするものですから、当然、通りがかりの住民の耳にも入ります。これを聞いてまたまた別の住民にこの話が伝わる頃にはもうこの話は冗談では済まなくなっており、「豊川信金は危ない」と断定調になっていました。さらに翌日の水曜日になるころにはもう、街の至るところで豊川信金閉鎖の噂が飛び交うようになりました。

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そうしたところ、翌日の木曜日に、ある小売店の主が、関係取引先に「豊川信金から120万円おろせ」と指示しました。この主は、豊川信金の噂を全く知らず、ただ仕事の支払いのために金を下ろす指示をしただけでしたが、これを聞いた相手の取引先の担当者は、噂を耳にしていました。

このため、小売店の主は、同信金が倒産するので預金をおろそうとしていると勘違いし、慌てて指示された金額以上の180万円をおろしてしまいます。その後、さらにこの話をこの担当者は知り合いたちに喧伝、その一人であるあるアマチュア無線愛好家が、無線を用いてこの噂をさらに広範囲に広めてしまいます。

これによって、普段は人の出入りも閑散としていた哀れ豊川信金は一躍大パニックの舞台となります。同信金小坂井支店の窓口には預金者59人が殺到する結果となり、これにより当日だけで約5000万円が引き出されていきました。

このとき豊川信金には慌ててタクシーを拾って駆け付けた客も大勢いました。そしてそうした客を運んだタクシー運転手の一人の証言によれば、昼頃に乗せた客は「同信金が危ないらしい」といっていたものが、14:30の客は「危ない」に変わり、16:30頃の客にはこれが「潰れる」になっていました。

銀行業務が終わっても裏口から行員に入れろ、と交渉する客も出る始末であり、こうした夜の客はこのタクシー運転手に、「明日はもうあそこのシャッターは上がるまい」と語ったといい、こうして時間が経つにつれて噂はさらにどんどんと誇張されていきました。

14日金曜日、事態を重く見た同信金がついに動き出します。我々の銀行は安全です、と声明を出しましたが、いや、あれは詭弁だ、いよいよ本当に危ないから出した声明だと曲解されてしまい、逆にパニックに拍車が掛かる始末。

さらにはその後、「職員の使い込みが原因」、「理事長が自殺」という二次デマまで発生し、事態はさらに深刻化していきます。信金側も黙って看過しているわけにもいかず、それならマスコミに報道してもらうしか仕方がないと、マスコミに正しい状況を報道してくれ、と依頼します。

依頼を受けたマスコミ各社は、14日の夕方から15日朝にかけて、デマであることを報道し騒動の沈静化を図ろうとします。こうした新聞社のひとつ、朝日新聞の見出しは「5000人、デマに踊る」であり、読売新聞は、「デマに踊らされ信金、取り付け騒ぎ」、毎日新聞「デマにつられて走る」、などなどでした。

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一方、この事件を聞きつけた親方日の丸の番頭、日本銀行も事態の収拾に動き出します。同銀行の考査局長が記者会見を行い、同信用金庫の経営について「問題ない」と発言するとともに、混乱を避けるため日銀名古屋支店を通じて現金手当てを行ったことを明らかにしました。

このとき、豊川信金側では、預金者へのアピールとして、本店の大金庫前に日銀から受けとった現金を「展示」する、といったことまでやりました。輸送されてきた現金は、窓口からも見えるように高さ1m、幅5mに渡って山積みされたといいます。

事件の発生から、1週間たった15日の土曜日には、噂では自殺した、とされる同信金の理事長自らが窓口対応に立ちました。こうしたことも奏功し、ようやく事態は沈静化に向かいはじめました。

これまで書いてきたようなデマの伝播ルートは、その翌週になって警察が調査した結果解明され、発表されたものです。分析の結果、警察は、伝言ゲーム式にデマが形成され、事態がパニックに発展したと分析しました。そして事件が発生した背景には、事件が発生した1973年当時、10月にはトイレットペーパー騒動が発生するなどの騒動があったこともあげました。

オイルショックによる不景気という社会不安が存在し、デマが流れやすい下地があり、このため、口コミで情報が伝わるうちに、情報が変容したと考えられます。また、事件の7年前の1966年、小坂井町の隣の豊橋市の金融機関が倒産するという事件があり、出資者の手元に出資金がほとんど戻ってこないという大きな被害を与えていました。

デマの伝播に一役買った、クリーニング業者もこの7年前の倒産被害者であったため、善意で周囲の人間にデマを広めてしまったこともわかりました。この業者は、過去の経験から、このときも大金をおろすよう妻に指示しており、このため、デマがさらにリアリティを獲得し、パニックの引き金となっていったようです。

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このように、狭い地域社会の中でデマが次第にエスカレートしていくことを、「交差ネットワークによる二度聞き効果」といい、これは別々の人から同じ情報を聞くことで、それに信憑性があるものと思い込んでしまうという社会現象です。

日本では、この事件より前の1971年に成立した預金保険法で、預金保険機構の裏付けのもと、ペイオフ(預金保護)制度が既に施行されていました。これは金融機関が破綻した場合、預金保険機構が預金保険金の給付として預金者に直接支払いを行うという決め事で、この当時は100万円までのペイオフが設定されていました。

しかし、このころはまだこうした法令の一般への認知度が十分ではありませんでした。この事件においては、こうした預金保護制度を知っていて、渦中において預金をしに来る、という冷静な人さえいたようですが、大方の預金者は貯金どころではなくパニックに流されてしまう結果となりました。

こうした、デマが事件に発展するということは、この事件以前にも数多くあり、1923年の関東大震災においても、朝鮮人が井戸に毒を入れた、放火・暴動を起こしている、クーデターを起こすため海軍東京無線電信所を襲おうとしている、というデマが飛び交った結果、無関係の朝鮮人だけでなく、日本人、中国人も含む多数が殺害されました。

また、2011年の東日本大震災でも多くの流言が発生しており、震災発生後1か月で80個ものデマが広がりました。大別して11種類にも分けられるといい、その内訳は「情報の混乱によるデマ」「科学的・医学的知識の欠如によるデマ」「偏向報道によるデマ」「政治家を貶めるデマ」「外国の支援を政府が妨げているとするデマ」などでした。

特に、この地震のデマはツイッター上で流れた不正確な情報を大量にツイートする人がいたことから広まるケースが多かったようで、さらに国内マスコミに不信感を持つ人々が海外メディアの誤報をインターネットに転載したため、デマに拍車がかかりました。

こうした外国メディア報道とされたものの中には「福島第一原発では核兵器開発が行われていた」「東日本は今後300年、焦土と化す」など、といったひどいものもありました。

最近では、昨年2014年8月に広島市を襲った集中豪雨による土砂災害被災地において、韓国人窃盗団による空き巣犯罪が広がっているという噂がネット上で流布され、広島県警がこれを否定するコメントを出す、といった事態に発展しました。また、マスメディア関係者による食料買い占めのデマも広まったといいます。

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このように、デマが発生するか否かは、「情報の重要さ」と「情報の不確かさ」で決まってきます。どうでもいいこと、つまり重要性が低くて、しかも嘘に決まっていることが確実である、つまり「不確かさが極小」なら、流言は発生しません。

また、大切なこと(重要性が高い)ではあるものの、やはり嘘に決まっている、あるいはウソであることがほぼ確実であるなど不確かさが極小なら、こちらも流言発生は噂話や伝言にとどまります。

ところが、人々が重要性が高い大切なことと考える事象であり、しかも嘘か本当か分からない、すなわち「不確かさが極めて大きい」ときには、流言が発生しやすくなります。

重要性が高いこと、というのは命の問題が最たるものですが、多くの人にとっては、それに次ぐものは金銭の問題であり、情報の出どころがあいまいだったこの信金事件ではその二つがドンピシャと当てはまる結果となりました。

さらに、流言が発生するにはある条件を満たしているとより広がりやすくなる傾向があるとされます。その要因のひとつが、“話をしたがる人”であり、その人に信用がある、または情報をよく知っているなどの条件が重なれば、聞き手はそれが本当であると信じてしまう傾向にあります。

信用がある、というのは有識者や学識経験者だけとは限らず、長年同じ商売をしている人、長い付き合いがある人などがそれです。また、情報を良く知っている人、というのも、ときには町内にごくありふれたおばさんであったりもするわけです。

こうした人の話は検証せずに鵜呑みにしてしまうことも多く、次々と伝播していきます。さらに、「これはためになる」と思い込むことから、良かれと思い、つまり善意で自分の周囲の人や知人に広く伝播させてしまう傾向が強いといいます。

こちらは、近年ではチェーンメールが発達していることから、こうしたメディアで広まってしまうことも多いようです。

例えば、メールで「圧縮ソフトを使うとウイルスにかかってしまうらいしい」、とか」「輸血で必要なためB型Rhマイナスの人を探しています」などといった書き込みがあった場合、多くの人は相手のことを思いやる気持ちから、あえてその情報を流してしまいがちです。

こうした情報は、一見、善意の情報のように見え、何の害もないようにみえますが、実は何者かが流した偽の情報であったり、情報の内容によっては、上述の信金事件のように社会的重要問題に発展してしまう場合もあります。

また、受け手側の心理的な要因として、予測不能な事態に陥ったときの「不安」というものがあります。

一般に、災害発生直後などでは、人々の不安は高い状態になりやすく、こうした状況下では流言に対する被暗示性が高くなり、不安が強い人ほど流言を信じやすくなるという傾向がみられます。いわゆる疑心暗鬼の状態であるため、不安によって正しい判断ができないわけです。

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さらに、何等かの対策を講じるにも知識がない、判断能力がない、といったこともデマを信じてしまう要因になります。

流言を受け取っても、批判能力の高い人の場合には、他の情報源にあたってチェックするなどの情報確認行動をとることにより、真偽を見分け、流言の伝播を食い止めることができます。ところが、普段から自律的に行動せず、他人の行動ばかりみて自分の行動をどうするかを決めている、つまり、流されて生きている人はこうはいきません。

1938年10月にアメリカでSF「宇宙戦争」のラジオドラマ放送をきっかけとして起こった騒動では、番組で連呼された「火星人襲来!」を事実と勘違いして多くの人がパニックに陥りましたが、その後の調査では、こうしたパニックに陥った人の多くが、「批判能力」の低い人であった、という調査結果が得られたといいます。

実は聴いている放送を他局に変えればそのような事実はないことがすぐに確認できたわけですが、それすらをしなかった、できなかったというのは判断能力がない、とみなされても仕方がないわけであり、判断能力がない人というのは、すなわち批判能力も劣っていることが多い、というわけです。

社会的情勢が不安定である時代には、噂が広がりやすいとされます。例えば、石油ショック・不況といった何らかの社会情勢の不安定化、大地震などといった天変地異、伝染病の流行などがその契機になると見られており、人間の、危機や不安に対する自己防衛本能、最悪の場合を想定してそれに備えようとする本性との関連が指摘されています。

今年一年を振り返るに、今年だけでなく、ここ最近の日本はやはり社会情勢が不安定という感が否めません。そこへ加えて中東のIS問題やフランスのテロ事件などの諸外国の問題が日本にも影を落としつつあり、さらに日本ブームによって入国する外国人も増え、一層その不安定さの行方を不透明にしています。

幸い、今年は国内においては大多数の人がパニックになるような大きな事故、事件はありませんでしたが、来年また東北大震災のような災害が起こらないとも限りません。事件事故がおこったときに常に冷静である、ということは誰にでもできることではありませんが、せめて、判断能力、批判能力だけは常日頃から持つように心がけたいところです。

さて、今年も残り少なくなりました。年賀状も書いてない、大掃除もしていない私としては、こんなブログを書いてばかりいては立ち行きません。

なので、今年はもうあまりブログをアップしないかもしれませんが、書き込みがなくなったとしても、ついにクタばった、といった類のデマは飛ばさないよう、お願いいたします。

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祝!オリンピック競技伊豆開催!

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2020年に行われる東京オリンピックの競技のうち、自転車競技の一部が伊豆で開催されることが正式決定になりました。

行われるのはトラック競技と、マウンテンバイク(MTB)競技であり、開催されるのは、伊豆市の「山奥」にある、日本サイクルスポーツセンターです。

トラック種目は、既存の屋内自転車競技場「伊豆ベロドローム」の一部を改修し、MTBは敷地内に五輪用のコースを新たに整備して開催する予定だということで、 待望の会場決定に、地元は大喜びのようです。

現職伊豆市長の、菊地豊さんも手放しの喜びようで、「選手が安全で最高のパフォーマンスを発揮できる競技運営の成功に向け、最大限の努力で臨みたい」と意気込みを表明しています。

今後は、東京五輪自転車競技の受け入れにあたり、会場の改修・整備をはじめ、選手の宿泊場所の確保や輸送、アクセス道路整、備外国語の案内サインの充実、などの課題は山積ですが、もともと温泉が出る町であることから旅館やホテルは数多くあり、また、観光案内のための仕組みも出来上がっていることから、心配はないでしょう。

トラック競技が行われる予定の伊豆ベロドロームについては、このブログでも過去に書いたことがありますが、 国内唯一の1周250メートルの木製走路を備える本格的なものであり、これまでも何度か国際大会がここで開かれています。来年1月26~30日にはアジア選手権トラック種目も開催される予定です。

私自身、5年後のオリンピックでは、この地元伊豆で競技観戦している自分の姿を想像したりして今からワクワクしていますが、それまでには少しさびれかけているサイクルスポーツセンターの施設をもう少し刷新してほしいもの。

4年前に完成したばかりのベロドロームはともかく、施設全体はオープンしてから今年でちょうど半世紀が経っており、かなりボロボロになっています。諸外国から大勢の人が来る晴れの舞台になるだけに、政府からの援助なども期待しての改修が期待されます。

サイクルスポーツセンターが今以上に賑わうようになれば、伊豆市の観光収入も増えるはずなので、伊豆市としても今回のチャンスは、ぜひ無駄にしないよう、有効にかつようしていただきたい、と切に思います。

ところで、この自転車というヤツですが、一番最初の自転車は、1817年にドイツのカール・フォン・ドライスによって発明された木製の乗り物、ドライジーネ (Draisine) だとされているようです。

これは、前輪の向きを変えることができるハンドルと、前後同じ直径の二つの車輪を備えただけの簡単のもので、クランクやペダル、チェーンといった駆動装置はなく、動力も足で直接地面を蹴って走るものでした。

その後、40年あまりはほとんど改良がありませんでしたが、1861年にフランスで初めて工業製品として量産されるようになりました。これは「ミショー型」とよばれるもので、こちらは現在の子供用の三輪車と同じようにペダルを前輪に直接取り付けたものでした。

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さらに1870年頃、英国のジェームズ・スターレーが、スピードを追求するために前輪を巨大化させた「ペニー・ファージング型」と呼ばれる自転車を発売し好評を博したため、多くのメーカーが追随するようになります。これに伴い改良も進ますが、この間、前輪の大きさはどんどん大きくなり、直径が1.5メートルを超えるものも出現しました。

これはレースなどスポーツ用に使うためであり、前輪が大きければそれだけスピードが出たためです。こうして、このころから、自転車競技は盛んに行われるようになり、長距離のクロスカントリー用の自転車までこのころすでにありました。

しかし極端に重心位置が高いため安定性が悪く、乗車中は乗員の足がまったく地面に届かないことなどにより日常用としては運用が困難でした。また、転倒すれば高所より頭から落ちるような危険な乗り物でもありました。このころ日本でもこのタイプの自転車が輸入されており、そのいびつな形状から「だるま車」などと呼ばれていました。

1879年に英国人ヘンリー・ジョン・ローソンにより後輪をチェーンで駆動し、座席(サドル)の高さが低いため重心が低く、乗員の足が容易に地面に届く物が製作され、ビシクレット(Bicyclette)と名付けられました。「二つの小輪」の意味であり、これがその後、英語における Bicycle の元となりました。

以後、自転車の性能や安全性は飛躍的に向上していき、1885年に、英国自動車ブランド「ローバー」の始祖、ジョン・ケンプ・スターレーが「ローバー安全型自転車 (Rover Safety Bicycle)」の販売を開始します。

これは、側面から見て菱形のシルエットを持つダイヤモンド型のフレームを持ち、ほぼ現在の自転車に近い姿をしています。前輪が後ろに傾斜したフロントフォークではさみこまれ、その先端がハンドルを介して乗り手の手前にあります。後輪はチェーン駆動を介して乗り手の真下にあるクランクとつながっており低重心でかつ操作性に優れていました。

これにより従来のペニー・ファージング型自転車が持つ欠点、高重心による不安定性が解消され、さらにハンドルとペダルが人間の身体に自然な位置にとりつけられた事により操作性が向上し容易かつ安全に自転車を乗る事ができるようになりました。

この安全型自転車の登場により、それまでのスピードは出るものの、危険なペニー・ファージング自転車は徐々に衰退していき、またそれまでスポーツ用が主な用途だった自転車は日常の手軽な交通手段としての側面を強くしていきました。

しかし、この時までの自転車は車輪が木製か空気なしのゴム製であり、乗り心地は非常に悪く「ボーン・シェーカー(背骨ゆすり)」とも呼ばれるようなものでした。

これが大幅に改善されるのは、1888年にジョン・ボイド・ダンロップが空気入りタイヤを実用化してからのことであり、この発明はすぐに自転車に使用され、乗り心地と速度の大幅な向上をもたらしました。その後フリーホイール機構が普及し、自転車の基本がほぼ完成されました。

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日本に西洋式自転車が初めて持ち込まれたのは幕末の慶応年間と思われ、これはフランスで初めて工業化されたミショー型であったと推定されています。しかし、ほとんど記録がなく、実際にどこの誰が保有していたのかも不明です。

ただし、これ以前にも彦根藩士の平石久平次時光という人物が「新製陸舟車」という三輪の乗り物を製作して走らせていたという記録があります。

1732年(享保17年)のこととされ、これはちょうど江戸中期のことです。ヨーロッパにおける、1817年のドライジーネペダル式自転車にさかのぼること85年も前のことであり、これが本当なら、自転車に相当する乗り物としては世界初のものといえます。

ただ、文書記録として残っているだけで現物はなく、またこの「新製陸舟車」なるものは個人的な趣味で作られただけで、実用化もなされていなかったようです。

その後、明治に入り、「からくり儀右衛門」の異名をもつ田中久重が、1868年(明治元年)頃、自転車を製造したとの記録が残っています。ただ、こちらも現物は確認されておらず、本人自身による記録も残されていなため、製造の真偽は定かではありません。

この田中久重という人は、江戸時代後期から明治にかけての発明家として知られ、近年になって「東洋のエジソン」とか、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになった人物です。テレビドラマや小説などでも頻繁に出てくる人で、なかなかユニークな人だったようです。

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武士ではなく、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として、ほぼ幕末とえいえる1799年(寛政11年)に生まれました。幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となりました。

20代に入ると九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、その成功により日本中にその名を知られるようになります。特に有名なのが1820年代に製作した「弓曳き童子」と「文字書き人形」で、これらは、からくり人形の最高傑作といわれています。

35才で上方へ上り、大坂船場の伏見町(大阪市中央区伏見町)に居を構えると、次々と発明を繰り出します。折りたたみ式の「懐中燭台」に始まり、圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案し、このころから「からくり儀右衛門」と呼ばれ人気を博すようになりました。

その後京都へ移り、天文学を学ぶために土御門家に入門し、天文学の学識も習得した田中は、嘉永3年(1850年)に革新的和時計の須弥山儀(しゅみせんぎ)を製作します。この頃に蘭学も学ぶようになり、様々な西洋の技術を学んだことで、さらにその発明技術は向上していきます。

嘉永4年(1851年)には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う日本の不定時法に対応して、季節により文字盤の間隔が全自動で動くなどの世界初となる様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させました。

極め付けは、その後、再び西下して佐賀に移住したころに行った偉業で、これはなんと国産では日本初となる蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造した、というものです。佐賀に下ったのは、蘭学狂いといわれた肥前藩主、鍋島直正の来国要請に基づいたもので、田中はここで軍事面でも活躍し、反射炉の設計や大砲製造にも大きく貢献しました。

元治元年(1864年)には佐賀から久留米に帰り、久留米藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、同藩の殖産興業等にも貢献しました。自転車を製造したとされるのはこのころのことと考えられ、この幻の日本初の自転車製造には、久留米の車大工や鉄砲鍛冶の技術が活かされたと考えられています。

田中はその後、明治6年(1873年)に、新政府の首都となった東京に移り、75歳となった明治8年(1875年)に東京・京橋区南金六町に電信機関係の製作所・田中製造所を設立。これが、現在の「東芝」の基礎となりました。明治14年(1881年)、82歳で死去。

高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との言葉を残しています。

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その後の自転車ですが、1870年(明治3年)、東京・南八丁堀の竹内寅次郎という彫刻職男が自ら発明した三輪の車について、東京府に製造・販売の許可を求める願書を提出しました。この願書に記載されていたこの乗り物には「自転車」という言葉が記されており、これがこの言葉の日本での初めての使用例、とされています。

この「自転車」は、東京府の担当官による実地運転を経て、正式に許可が下りましたが、これを受けて、同年7月には日本初の「自転車取締規則」が制定されています。これはつまり、現在の道路交通法のはしりともいえるものです。従って、この1870年という年は、名実ともに「日本の自転車」の原点ともいえる年ということになります。

一方、1872年(明治5年)、横浜・元町でボーンシェーカー型自転車を真似て国産自転車を作った者がおり、名前ははっきりしませんが、この人物は自ら東京〜横浜間を6時間で走ったとの記録があります。この自転車はその後「貸自転車」として貸し出されるようになっており、こちらは「貸自転車」における最も古い記録、ということになります。

その後、1876年(明治9年)、福島県伊達郡谷地村(現桑折町)の初代鈴木三元が「三元車」という前二輪の三輪自転車を開発しましたが、その後も改良を重ね、一応の完成を見ました。そしてこの自転車は1881年(明治14年)、第2回内国勧業博覧会にも出品されました。

この三元車は現存する最古の量産型国産自転車であるとされており、1879年にイギリスで発明されたビシクレットによく似た機構を有しています。名古屋市西区にあるトヨタグループが運営する企業博物館、トヨタテクノミュージアム産業技術記念館に収蔵されており、2009年に初めて一般公開されています。

イギリス人、ジョン・ケンプ・スターレーが発明したローバー型安全型自転車は、これが発売された1885年(明治18年)に早くも日本へ輸入されています。これを真似た国産化も早く進み、これを初めて製造したのは、宮田製銃所というライフル銃を製作していた会社でした。

この日本初の安全自転車の製造は1890年(明治23年)のことですが、この宮田製銃所を創設したのは、宮田栄助(1840~1900)という農家の出の男でした。農民の身分でしたが、親類筋にあたる水戸藩の鉄砲指南役をつとめる国友信之門という人物に師事して製銃技術を身につけ、常陸国笠間藩のお抱えとして苗字帯刀を得ました。

「鉄砲師」として同藩で立身しましたが、明治維新の廃藩置県(明治4年)により雇用を解かれ、その後 人力車などを作っていました。この人力車は1台18円だったそうで、これは現在の価値では、50万円以上になります。

かなりの高級車であり、その販売で財を得るようになった栄助ですが、幕末に培った鉄砲士としての技術をさらに発展させるため、次男の宮田政治郎を、明治9年から5年間、自分の師匠でもある国友信之門下へ入門させました。この国友家はその後、徳川家のお抱えなるなど、こちらも有名な鉄砲師として成功しています。

その国友家の銃製造所は銀座にあったようですが、その一方で宮田栄助自身は、は東京小石川にあった 陸軍砲兵工廠に勤務するようになり、日給1円の高給取りとなりました。こちらは月給にすると90万円ほどにもなります。

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こうして、人力車の販売や軍での勤務で得た豊富な資金をもとに、1881年(明治14年)、東京京橋区木挽町(現在の銀座)に宮田製銃所を創設。その後、国友家で鉄砲士としての経験を積んだ息子の政治郎は、1887年 (明治20年)、さらにその技術を鍛えるべく、大阪砲兵工廠へ入廠します。

ここでは、軍用の潜水ポンプから羅針盤までの製作を経験し、それらの技術を取得後、自分の代わりに、兄、宮田菊太郎をも入廠させ、自身は田中製造所に入所しました。上述の田中久重が設立した工場であり、ここで宮田親子と田中久重の接点が初めてできました。

ここで政治郎は田中の厳しい指導のもと、政治郎は「小タガネの名人」と称されるようになりましたたが、おそらくは各種の高い工業技術を持っていた田中が、そうした技術とともに、自転車の製造技術も政治郎に伝えたのでしょう。

後年、東芝となるこの製造所には、ほかにも田中門下生がおり、これらの中には後の沖電気創業者である、沖牙太郎やかつてディーゼルエンジンの販売を行う機械メーカーとして名を馳せた「池貝(いけがい)」の創業者・池貝庄太郎もいました(その後倒産し、民事再生手続が終結後、中国上海のメーカーの傘下となっている)。

そして、このころ政治郎は、田中の指導も受けながら、十二番宮田銃という猟銃を開発し、専売特許権を獲得します。そして父の宮田製銃所で製作・販売するようになりました。その2年後の1889年(明治22年)、 東京築地鉄砲洲(現在の明石町)にあった宮田製銃所を外国人居留地に住む一人の外国人が訪れました。

この鉄砲洲という場所は、1869年(明治2年)には築地居留地が設けられ、文明開化の中心地となった場所です。当地には運上所(その後の東京税関)に設けられ、ここにあった電信機役所から横浜裁判所(現・横浜地方裁判所)へ日本初の公共電信が敷かれたことから、電信創業の地とされています。

また、イギリスの宣教師ヘンリー・フォールズは居留地に滞在中、日本の拇印の習慣に着目して指紋の研究を行ったことから、指紋研究発祥の地とされ、このほか慶應義塾や立教大学、明治学院など数多くの大学の発祥地でもあります。

当然多くの外国人も出入り、あるいは居住していましたが、その一人がどういう人物だったかはよくわかっていません。ただ、この男は銀座にあった宮田製銃所に当時最新型であった、安全型自転車を一台持参し修理を依頼しました。

これを見た、宮田親子は仰天します。その安全性に驚いた二人は、そのコピーを製作し、販売すれば必ず成功するだろうと、確信しました。その後、明治政府の富国強兵、殖産興業政策を受け、本業である製銃業も順調に推移していきます。

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1890年(明治23年)には、業務拡大のため、東京本所区菊川町(現在の菊川3丁目 出羽松山藩下屋敷跡地)に工場を新築し移転。ここに最新の輸入工作機械を購入、約月産500挺の銃の量産を始めました。

この頃の本所界隈には、本所小泉町に石鹸やマッチの取次店である小林富次郎商店が開業しており、これは現在の「ライオン」になります。また、この3年後には服部金太郎が時計製造の会社を設立しており、こちらはのちの精工舎、現在のセイコーになります。

このように本所というのは、今でこそ下町の風情を残した静かな町になっていますが、この当時は、その後日本を代表するメーカーが数多く集まっていた土地柄でした。

ここで製銃業を営み、業績を伸ばした宮田親子は、その豊富な資金をもって国産の安全型自転車の開発に取り組み、1893年(明治26年)、ついにその試作車を完成。 その後国産第一号となる安全自転車としての販売を開始しました。

その後、本業の製銃業は、日清・日露戦争の勃発などで大儲けし、さらにうるおいましたが、宮田清次郎は、銃後の景気の下落を予想していました。同時に自転車の将来性に着目し、父から受け継いできた従来の製銃業を廃し商号を宮田製作所と改称、自転車の製造に専念するようになります。

1992年(明治35年)のことであり、父栄助はこの2年前に60歳でこの世を去っていました。

その後宮田製作所は、オートバイの製造や四輪自動車の製造まで手掛ける大企業に発展し、
第二次大戦州は、軍需指定工場を受け零式艦上戦闘機(ゼロ戦)等の脚等の車輪部分を生産していました。が、戦後はオートバイ販売と自転車製造に業務を縮小し、その後オートバイ製造からは撤退し、自転車製造を専業とするようになり、現在に至っています。

この宮田親子が明治末期に発売した自転車は、その安全性から飛ぶように売れました。しかし、初期の自転車は高価な遊び道具であり、庶民の間では貸自転車を利用することが流行し、度々危険な運転が批判されました。

所有できるのは長らく富裕層に限られました。1898年(明治31年)11月、東京・上野不忍池のほとりで開かれた「内外連合自転車競走運動会」を皮切りとして自転車競技大会も開かれ、大変な人気を集めたといいます。

当時一般的であったダイヤモンドフレームの自転車はスカートなどで乗るのに適さなかったため、自転車は男性の乗り物とされていました。しかし大正期からは富裕層の婦人による自転車倶楽部も結成されるなどし、女性の社会進出の象徴ともなりました。

初め日本の自転車市場はアメリカからの輸入車が大部分を占めていましたが、明治末期になるとイギリス車が急増しました。この後第一次世界大戦により輸入が途絶えたことをきっかけに、宮田らによる国産化が急激に進みました。

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宮田製作所では、このとき規格や形式の大部分ではイギリスのロードスターを基に自転車を製造しましたが、米1俵(60キログラム)程度の小形荷物の運搬用途や日本人の体格を考慮したことで、日本人向けの一つの様式が確立し、日本独特の実用車が完成されました。

この頃の日本の道路は自動車の走行に適してはいないため、運搬に自転車が使われ、自転車で運べない大きな荷物は荷車(特に馬力によるもの)で運ばれることが多かったようです。とくに物資の少ない戦前戦後は、自動車やオートバイに代わり、自転車が国民車であり続けました。

戦後すぐには、まだ自転車の価格が大学初任給を上回り、家財・耐久消費財といった位置でしたが、次第にコストパフォーマンスに優れたものも出回るようになり、庶民の手にも入るようになりました。そして高度成長期前の1960年代半ば頃まで、実用車は日本の自転車の主流であり続けました。

しかし、その後高度成長期になっても自転車は広く普及していましたが、国民の多くが豊になっていくと、その代わりにステータスシンボルとしての地位を自動車に移っていくようになりました。その後、高度成長期には日本の自転車輸出量は世界一となり、世界中で日本製の自転車が乗られるようになりましたが、逆に国内での利用は減ってきました。

現在では円が強くなったことで自転車の輸出は激減し、今日では中華人民共和国製を主とした外国製自転車が日本の市場に多数出回るようになっています。日本サイクリング協会によれば、日本全国の自転車の保有台数は7千万~8千万台で、うち約3千万台が日常的に利用されていると推定されています。

通勤・通学に利用されるほか、日常の買い物などに多くの人が自転車を利用しています。このほか、地域によっては、新聞配達、郵便配達、自転車便、卸売市場関係者、商店、警察官などで職業上の利用もあり、近年スポーツとしての利用も増えているといいます。

伊豆市としては、来たる2020年までには、その自転車のメッカとしてサイクルスポーツセンターを刷新し、晴れ舞台に備えていただきたいもの。

それにつけても、このオリンピック開催年までに、私の年齢もどうやら大台を超えていくことになりそうです。

私も軽量なサイクリング車を一台保有しており、ときおり伊豆の山野を駆け回っています。オリンピックイヤーのころまで元気でいられるよう、私もまたこの自転車のスポーツ利用を続けていきたいと思います。みなさんもいかがでしょうか。

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あかつきの空に

2015-4131先日、惑星探査機の「あかつき」が金星周回軌道の再投入に成功した、というニュースが入ってきました。

5年前の2010年12月、約50日で金星を周回する超長楕円軌道に入る予定でしたが、メインエンジントラブルにより周回軌道への投入に失敗し、その後宇宙の藻屑になるかもしれない可能性もありましたが、JAXAスタッフの必死の努力により、壊れたメインエンジンに代わって姿勢制御用エンジンを噴射することで、悲願を達成しました。

この成功にあたっては、若手の女性研究者が数万回におよぶ軌道計算を繰り返し、その中で唯一無二のものをなんとか探しあてることができたそうです。この女性研究者がいなかったら、今回の成功はなかったかも、とNHKの特集番組で報じていました。

それにしても、ちょっと前の「はやぶさ」のトラブルの時もそうでしたが、JAXAの技術者の根性というか、執念のようなものを感じます。

しかし、毎回毎回、こうしたヒヤヒヤもののミッションばかりで、日本の宇宙開発は本当に大丈夫なんかい、と思ってしまいます。ただ、考えてみれば「はやぶさ」にせよ、今回の「あかつき」にせよ、これまで人類が試みたこともないようなことに挑戦しているわけであって、いつ何時、予想もつかないようなトラブルに巻き込まれることはありがちです。

日本だけでなく多くの先進国が宇宙開発を行っていますが、日本以上に失敗を重ねている国は多数あり、その中でも健闘しているほうだ、と考えるべきなのでしょう。それにしても新世界の開拓はいやはや人類にとっての試練だなと、いまさらのように感じている次第です。

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ところで、この金星という星ですが、改めてどういう星なのか、と調べてみたところ、地球に一番近い内惑星であるにもかかわらず、意外にもあまり何もわかっていない、ということがわかりました。

内惑星とは、太陽系の惑星のうち、地球よりも太陽に近い軌道をめぐる惑星のことであり、これは金星のほか、水星しかありません。内惑星の対義語は外惑星であり、これは火星、木星、土星ほかの惑星になります。

これらたくさんの惑星の中でも、金星は太陽系内で大きさと平均密度が最も地球に似た惑星であるため「地球型惑星」と呼ばれ、太陽系では水星・金星・地球・火星の4惑星がこれにあたります。

このうち、水星は重力が小さいため、長く大気を留めておくことが、難しいようです。しかし逆にこのため地表面が観測しやすく、精細な写真が撮影されています。その地表は月の地表と似ており、数十億年単位時間を経て形成される月の海のような平滑面や、全球を覆うさまざまな大きさのクレーターが数多く存在していることがわかっています。

また、火星も大気は希薄で、地表での大気圧は約750Paと地球での平均値の約0.75%に過ぎないため、探査機を飛ばして、その地形を観測する試みは水星以上に数多く行われており、精密な地図が作成できるほど、地表の状況が把握されています。

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ところが、金星はというと、二酸化炭素を主成分とした窒素を含む分厚い大気が存在し、その大気圧は非常に高く地表で約90気圧もあります。これは地球の海での水深900mに相当し、金星の地表温度は上限では 500℃にも達します。

これほど温度が高いのは、温室効果のためであり、金星の地表は太陽により近い水星の表面温度、平均169℃よりも高くなっています。金星は水星と比べ太陽からの距離が倍にもかかわらずです。

熱による対流と大気の慣性運動のため、昼でも夜でも地表の温度にそれほどの差はなく、また大気の上層部の風が4日で金星を一周していることが、金星全体へ熱を分散するのをさらに助けています。

雲の最上部では時速350kmもの速度で風が吹いていますが、地表では時速数kmの風が吹く程度であることがわかっています。しかし金星は大気圧が非常に高いため、少しの風であっても地表の構造物に対して強力に風化作用が働きます。

さらに二酸化硫黄の雲から降る硫酸の雨が金星全体を覆っています。この雨が地表に届くことはありませんが、その雲の頂上部分の温度は−45℃であるのに対し、地表の平均温度は464℃であり、わかっている限りでは地表温度が400℃を下回っていることはありません。

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厚い雲に覆われている上に、地表の気象は極めて過酷、というわけであり、これがこれまで数多くの探査機を各国が飛ばしているにもかかわらず、その地表の状況がよくわかっていない理由です。遠くから撮影された金星は厚い雲に覆われて靄がかかったようにしかみえず、また高温高圧の地表の撮影に成功した探査機は多くありません。

1975年6月に打ち上げられ、金星に軟着陸したベネラ9号と10号ははじめて金星の表面の写真をほんの数枚地球に送り届けました。それによると、大きな岩ばかりの表面は、地獄のような高温・高圧の世界とはいえ、意外と明るい世界でした。

1978年は、アメリカが2機の「パイオニア・ビーナス」を打ち上げました。この2機ののうち2号は、金星到達の3週間前に突入探査機を投下し、金星に1万m以上の山や巨大な谷があることも明らかにしました。また、1号は金星を周回する軌道に入り、レーダーによる金星表面の地図を作成に成功しています。

このレーダーというのは、電波を対象物に向けて発射し、その反射波を測定することにより、対象物までの距離や方向を測る装置です。従って、金星が厚い雲に覆われていても、その雲海の下にある地形の高低差などは、これにより測定できます。

その後1989年5月、スペースシャトルから打ち上げられたアメリカの探査機「マゼラン」は、「合成開口レーダー」という新しい技術を駆使して、金星表面の地図を高い分解能で作成しました。現在のところ、探査機「マゼラン」が明らかにした金星表面の様子が最も詳細な金星像、とされているようです。

しかしこの画像は、レーダーによって観測された地形データに着色し起伏を10倍に強調したコンピューター画像で、実際の金星の地表の様子からかけ離れたものである可能性があるそうです。

とはいえ、かなりの地形の状況がこの結果から明らかになりました。それによれば、実際の金星の表面は地球や火星と比較するとむしろ起伏に乏しいとされ、金星表面には地球にある大陸に似て大きな平野を持つ高地が3つ存在するそうです。

そのひとつ、イシュタル大陸はオーストラリア大陸ほどの大きさで北側に位置し、この大陸には金星最高峰であり高さ11kmのマクスウェル山を含むラクシュミ高原などがあります。また南側の大陸はアフロディーテ大陸と呼ばれ、南アメリカ大陸ほどの大きさだそうです。

11kmといえばすごい高さのようですが、金星には海がないため、これは驚くほどの高さではありません。アラスカにあるマッキンリーは6km超の高さですが、アラスカ沿岸の海底からの高さはこれ同等となります。

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さらに南の南極地域にはラーダ大陸があり、高地の面積は金星表面の13%を占めますが、このほかに金星表面は中程度の高度を持つ平原は金星表面の60%を占めます。最も低い低地は、金星表面の27%を占め、金星の地形は大きくわけてこの3つの区分に分類されるようです。

金星にはこうした大地形のほかに、コロナと呼ばれる円形に盛り上がった地域や、中心から放射状に盛り上がりを見せるノバ、パンケーキ状に丸くひろがった台地や、断層や褶曲が入り組むテセラなどの特徴的な小地形が数多く存在するといいます。

このうちコロナやノバ、パンケーキ状の地形は火山活動によって形成されたと考えられています。金星が出来たのは約46億年前とされており、地球は誕生した時期とほぼ同じ時期にできたようです。

しかし、表面の大半は数億年前に形成されたと見られており、過去に活発な火山活動があったことを示す地形が多く存在します。ヨーロッパ宇宙機関 (ESA) の金星探査機ビーナス・エクスプレスの観測により、比較的最近の数百年から250万年前にも火山活動が起きていたことを示す証拠が得られたといいます。

今回日本が軌道投入に成功したあかつきには、こうした地形を観測するレーダーは搭載されていません。

しかしそのかわりに、地表面からの赤外線放射や雲による太陽散乱光を捉えるカメラ や、雲の下の大気からの赤外線放射を捉えて低高度の雲や微量ガスの分布を探るカメラ 、雲からの赤外線放射を捉えてその構造を探る中間赤外カメラなどが搭載されています。

従って、今回のあかつきの主要ミッションというのは、地上の様子を探ることではなく、金星の大気の状況を詳しく調べることにあります。金星大気の上層部には時速350km以上の猛烈な風が吹いていますが、この風は4日で金星を一周するほど強いもので、この風は自転速度を超えて吹きます。

時速350kmというのは、秒速に換算すると100mにも達します。このためこの風は、「スーパーローテーション(大気超回転)」と呼ばれており、金星の自転の実に40倍の速さを持っていることになります。こうした風がどうして起こるのか未だに解明には至っておらず、金星最大の謎の1つとされています。

これまでは、昼の面で暖められた大気が上昇して夜の面に向かい、そこで冷却して下降するという単純な循環の様式が予想されてきましたが、多くの探査機による観測の結果、どうやらそうではないことがわかってきており、今回のあかつきの探査により、その謎が解けるかもしれない、というわけです。

それにしても、あかつきはこれまで5年以上も太陽光にさらされてきており、こうした観測機器が果たして正常に動くかどうか、という危惧が持たれています。ただ、先日の報道では責任者の方による、「意外に頑丈」といった発言も出ており、これは今後の観測における自信とも受け取れます。

あかつきの開発費と打ち上げ費用は合計250億円にも達するそうで、さらに今後の観測のための人件費や運用費を加えると膨大な金額になります。国民の血税をつぎ込んだビックプロジェクトといえ、是が非でも成功させていただきたいものです。

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ところで、公転軌道が地球より内側にあるこの金星は、天球上では太陽の近くに位置することが多く、日中は太陽の強い光に紛れて肉眼で確認することは極めて困難です。しかし、年間、約9ヶ月半ほどは日の出より早く東の空に昇るため「明けの明星」となります。

明けの明星の見かけ上の明るさが最も明るくなるときの明るさはなんとマイナス4.87等であり、これは1等星の約170倍の明るさです。金星が最も明るく輝く時期には、金星の光による影ができることがあるそうで、オーストラリアの砂漠では地面に映る自分の影が見えるといいます。また、日本でも白い紙の上に手をかざすと影ができるほどです。

明るくなりかけた空にあってもひときわ明るく輝いて見えます。ただ、日没より遅く金星が西の空に沈む時期もあり、この時期は「宵の明星」となります。国によっては古くから、明けの明星と宵の明星が、同じ金星であるということは認識されていたようです。

いずれにせよ、その神秘的な明るい輝きは、古代より人々の心に強い印象を残していたようで、それぞれの民族における神話の中で象徴的な存在の名が与えられています。

ローマ神話では、ウェヌスと呼ばれており、これは英語では「ヴィーナス」と発音されます。ギリシャではアフロディーテと呼ばれました。また、メソポタミア文明では、その美しさ故に美の女神「イシュタル」の名で呼ばれていました。このように世界各国で金星の名前には女性名が当てられていることが多いようです。

が、アステカ神話では、ケツァルコアトルという風の神が悪魔であるテスカトリポカに敗れ、金星に姿を変えたとされており、これは男性神のようです。

日本でも古くから知られており、日本書紀に出てくる天津甕星(あまつみかぼし)、別名香香背男(かがせお)と言う星神は、金星を神格化した神とされています。そしてこの日本の星神さまも男性のようです。

日本神話にも頻繁に登場する星の神です。天津神たちが地上の神である国津神を服従させて日本という国を統一する、葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)においても、この天津甕星だけは服従しなかったといい、すなわち「まつろわぬ神」として描かれています。

これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説もあるようです。

時代が下って、平安時代ころには宵の明星は、「夕星(ゆうづつ、ゆうつづ)」と呼ばれるようになりました。清少納言の随筆「枕草子」にも「すこしをかし」とつづられており、夜を彩る美しい星の1つとしてゆふづつをあげています。このゆふづつが男性神か女性神かはよくわかりませんが、音の響きからは女性のような感じがします。

このように金星といえば神さまの星、というのが古今東西の常識です。ところが、キリスト教においては、「光をもたらす者」ひいては明けの明星(金星)を意味する者は、「ルシフェル(Lucifer)」と呼ばれ、これは他を圧倒する光と気高さから、唯一神に仕える最も高位の天使として扱われました。

神さまではなく、その僕である天使の座に据えられたわけですが、しかもこのルシフェルはその後、地獄の闇に堕とされた、いわゆる「堕天使」となり、こうした堕天使の総帥となりました。

キリスト教の伝承によれば、ルシファーは元々全天使の長でしたが、神と対立し、天を追放されて神の敵対者となったとされます。天使たちの中で最も美しい大天使でしたが、創造主である神に対して謀反を起こし、自ら堕天使となったと言われています。

神と対立した理由については諸説があるようですが、神が最初の人間として創造したアダムとの関係で語られることが多いようです。神さまは数多くの生物を創造した最後に自分達の姿に似せて地面の土(アダマ)を使ってアダムを創りだしましたが、ルシファーに対しても神の似姿として作られたアダムを拝礼せよ、と命じました。

しかし、ルシファーは自分のほうがアダムより偉い、と思っていたのか、この命令を拒み、そのために神の怒りを買って天から追放された、というのがこの説です。

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以来、キリスト教では神の教えに背くという罪を犯したものは、堕落した天使であるとされ、ここから「悪魔」の概念が生まれました。その後も多くの神学者が罪を犯して堕落する前のサタンはすべての天使の長であったルシファーと考えるようになりました。

この天使たちは肉体を持つのか、それとも完全に霊的なものなのかについては、教父たちの間でも意見が分かれていますが、日本正教会は、天使は物質的な世界ではなく霊的な世界に属するものの、「しばしば人間の目に見える形で現われたり」するとしています。

今日の絵画では天使に翼が描かれることが多いようですが、聖書には天使の翼に関する記述はなく、初期の絵画では天使に翼は描かれておらず、天使に翼が描かれている中で知られているうちで最古のものは、紀元379~395年に古代ローマ帝国の皇帝だったテオドシウス1世の治世時に作られた「君主の石棺」だそうです。

ま、羽があるかどうかは問題ではありません。万物は神によって造られたものなので、天使もまた神の被造物であると考えられ、カトリック教会では公会議でそのように規定されるようになりました。日本正教会も、天使の属する霊的な世界は我々の物質的な世界に先立って創造されたものであり、よって特に天使は人間よりも前に創造されたとしています。

その人間を崇拝しろ、といわれたルシファーにすれば、俺のほうが先輩なのに、後輩を敬えといわれるのは心外だったのでしょう。堕天使ないし悪魔とされたこの「輝く者」を象徴する星は、以後「明けの明星」と目されるようになりました。

しかし、ルシファーは、単に悪魔として扱われるだけでなく、中世以来、神秘劇や文学作品の登場人物としてたびたびあらわれ、ルシファーをめぐる一連のエピソードがさまざまに変奏されて物語られました。

西欧文学において、ルシファーが登場する名高い文学作品としては、ダンテの「神曲」とジョン・ミルトンの「失楽園」が挙げられます。特に後者は、神に叛逆するサタン(=ルシファー)を中心に据えて英雄的に歌い上げたため、その後のルシファーにまつわる逸話に多く寄与することになりました。

また、近代的なスピリチュアル学といわれる、「人智学」を提唱したルシファーはルドルフ・シュタイナーは、ルシファーは、人間の進化に大きな影響を与えたとしています。神に背いたルシファーの影響によって人間は「能動性と自由意志」を獲得したと語っており、しかし、同時にそれは悪の始まる契機となった、と論じています。

悪ではあるが、それがなければ人間の進歩はなかった、とうわけであり、金星の別名である、明けの明星と宵の明星は、こうしうた二面性を表しているのかもしれません。

マヤ文明の創世期の神話では、金星は太陽と双子の英雄であるとされ、金星を「戦争の守護星」と位置付けていたそうです。特定位置に達した時に戦を仕掛けると勝てると考えられており、彼らの間では金星の動きと戦争が繋がっていると考え、戦争の勝ち負けを金星占い、ともいうべき占星術で占っていたそうで、「戦争の星」でもあるわけです。

我々が常々「美の象徴」として扱ってきた金星には、こうした二面性がある、というのが今日のお話しの結論?でしょうか。すべての事象に通じる真実なのかもしれません。

12月8日の現在、明け方東の空で、金星が明るく見えています。この明るい金星に、細い月が並んで、たいへん美しい眺めになります。

明け方5時ころ、まだ朝焼けが始まっていませんが、その後しだいに朝焼けが始まるころ、午前6時すぎまで、その美しいコラボレーションを楽しむことができるようです。

寒い時期ですがぜひ早起きをしてご覧ください。そして、その周りには日本の誇る観測衛星「あかつき」が回っているはずです。目視することは不可能ですが、今後もその活躍を祈りましょう。

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ユダヤの国から

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しばらくの御無沙汰でした。

更新がないので、さては拾ったバナナでも喰って、ついにクタばったか、とお喜びの向きも多いかと思いますが、残念ながら健在です……

秋も深まる中、ひさびさに旅に出ておりました。

そのことはまたいずれ書くとして、とりあえずこのサイトを毎度のように見ていただいている方々には、お詫び申し上げます。が、ひさびさにブログを書く、という重圧?から解放されて良い気分になれました。

その旅の際中に、12月を迎えました。

師走と言います。師は坊主のことで、お経を上げるために、西へ東へ馳せる月なので「しはせ」と言ったのに由来するとされます。慌わただしい年末の雰囲気をよく表現できていて、誰が考えたかしらないが、なかなかうまい表現だな、と多くの人が思うでしょう。

ところが、実はこの由来には根拠がないといいます。師走というのは当て字であり、もともとシワス(シハス)という言葉を説明するために、後から作られた説らしいのです。

誰しもが何やら古文書のようなものがあり、そこにそうした由来が書いてあったと思っていると思いますが、実はそうしたモノは何もなく、音の連想からこじつけられた、という説が有力です。

ネコやズボンも同じです。よく寝ねるからネコ、足をずぼっと入れるからズボンと付けられたとされますが、こちらも語源としてははっきりしたものがわからないのだといいます。

平安時代にはすでに、「しはす」の語源は分からなくなっていたといい、このように言葉の起こりがわからないもの、言語学的な根拠がない、あてずっぽうの語源を付け加えることを、「語源俗解」といい、「民間語源」あるいは「通俗語源」ともいうようです。

そもそも語源については分からないものも多く、なかなか納得のいく証拠にはたどりつけないことも多いものです。しかし、それでも日頃使っている言葉が、なぜ生まれたのか知りたいという人々の思いは、さまざまな説を生み出してきました。

月の名前でも、ほかに1月は睦月(むつき)といいますが、これも正月はみんなで睦むつまじくするから、こう呼ばれるようになったとする説がありますが、これも語源俗解です。

「師走」の語源が、僧侶がお経をあげるため「馳せる」と解釈し、その年にした悪い行いを悔い改めるという仏教的な行事は、平安時代に成立したようです。かつて旧暦12月には、いろいろな仏の名前を呼ぶ、「仏名会(ぶつみょうえ)」という行事がありました。

清涼殿(京都御所)や諸国の寺院で行われた行事で、これは「仏名経」という1万 1093の仏陀、菩薩の名前が列挙されている12巻からなる経典を読誦するという法会であり、旧暦の12月 19日から3日間行われました。これは新暦では1月の中旬になるようです。

この法会は今はほとんど行われていませんが、このころは盛況だったようで、このころから、年末になると僧侶が忙しいので師走と呼ぶ、というへ理屈が付くようになったようです。

「師走」の語源としては、ほかにも「歳極(年果つ、トシハツ)」「爲果ツ(為果つ、シハツ」などが語源とする説もあります。「為果つ」のほうは、「万事為果つ」、というふうに使い、すべてのことが終わる時、という意味になります。

しかし、こちらも、確かな証拠があるわけではなく、主に音の連想からこじつけられた解釈のようです。

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このような語源俗解は探せばいくらでもあり、この季節に欠かせない食べ物、鍋物などで使うポン酢は、もともとオランダ語のpons(ポンス=ダイダイなどかんきつ類の搾り汁)がなまったものです。

もともとは果汁であるわけですが、酸っぱいから酢だ、というわけで無理やり「ポン“酢”」、と書かれるようになったというわけで、こちらも語源俗解です。

さらに、「くだらない」は「くだりもの」から来たという説がありますが、これは地方へ流通していく京都・上方の物産、特に灘の酒などが地方産より上質とされた、とすることに由来するという説があります。しかし、こちらも根拠はあいまいです。

ほかに、狛犬のコマは「拒魔」で魔除けの犬だという説、蠍(さそり)は「刺す蟻」という説、羊は「日辻」からきたという説などがありますが、いずれも語源俗解です。

さらに多くの人が、神無月は八百万の神が出雲の大国主命のもとに参集するので、神がいなくなる月であるという説を信じていますが、これは中世以降の後付けで、出雲大社の御師(社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者)が、自分の神社に人を集めたいがために全国に広めた創作話から来ています。

もともとは単に、「かみな月」と呼んでいたようですが、だんだんとその意味がわからなくなり、神さまがいない、という意味だろう、とあてずっぽでこんな字をあてるようになっていたのを出雲の御師たちが利用したものです。ほかに醸成月(かみなしづき)、つまり新酒をつくる月の意だろうという説もあるようですが、これも憶測にすぎません。

似たような語源俗階は外国語にも当然あり、英語では、アスパラガス (Asparagus) がスパローグラス(Sparrow-grass)に由来するという俗説があります。Sparrowというのはスズメのことであり、これは「雀が食べる草」という意味になります。が、スズメは固い皮を持つアスパラガスを食べたりはしません。

このほか、History(歴史)もHis story(彼の物語) に由来するという根強い俗説がありますが、こちらも語源としての根拠はあいまいです。こうした民間語源が単語や綴りを変えてしまった例もあり、島を意味するislandは、古英語ではsがなく、「iland」と綴っていました。

もともとは「水」を意味するゲルマン語由来の īeg または īg に、「土地」を意味する land が合わさったものでしたが、ラテン語で島を意味するinsula(インシュラ)が語源であるとする俗説が広がった結果、発音には不要な s の字が island の中に入ってしまいました。

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こうした地理に関する語源俗解は日本にもあり、その昔、現在の五島列島のことを「知訶島」、「値嘉島」と呼んでいましたが、この語源は九州本土から「近いから」という説です。

ほかにも「隠岐(オキ)」こと隠岐島は、「沖の島」であるところから名づけられたという説、大和(ヤマト)は「山門」または「山跡」の意とする説などがありますが、これも根拠なしです。

上述のポンズのように、外国語と日本語の折衷によって生まれた、とされる通俗語源も多く、肥筑方言のひとつである「ばってん」は、英語の”but and”、または”but then”によるとする説があるほか、「ぐっすり」の語源は英語の”good sleep”であるという説、阿呆(アホ)の語源は英語の”ass hole”であるという説などがそれです。

ちなみに、アホと同義語の馬鹿も、語源俗解です。中国の歴史書、史記の「指鹿為馬(しかをさしてうまとなす)」の故事を語源とする説が最も普及している説ですが、これは秦の2代皇帝・胡亥の時代、権力をふるった宦官の「趙高」が謀反を企み、廷臣のうち自分の味方と敵を判別するため一策を案じたことに由来する、という説です。

彼は宮中に鹿を曳いてこさせ「珍しい馬が手に入りました」と皇帝に献じましたが、皇帝は「これは鹿ではないのか」と尋ねました。しかし趙高が左右の廷臣に「これは馬に相違あるまい?」と聞くと、彼を恐れる者は馬と言い、彼を恐れぬ気骨のある者は鹿と答えたといい、趙高は後で、鹿と答えた者をすべて殺したといわれます。

このほか、日本語とヘブライ語の融合とされるのが、「ジャンケンポン」です。ヘブライ語「ツバン・クェン・ボー(隠す・準備せよ・来い)」であり、これはもともとは「ユダヤ教の一切を語る秘儀」とされていました。

「威張る」もヘブライ語の「バール(主人)」からきたという説があり、「晴れる」は「ハレルヤ(栄光あれ)」、ありがとうは「ALI・GD」であり、これは「私にとって幸運です」だそうです。

さらに、京都の「祇園」は「シオン」であるとか、「イザナギ・イザナミ」は「イザヤ」であるなど、ヘブライ語に似たような日本語は多数あるようです。

このように、日本語にはヘブライ語が多数入り込んでいるため、ヘブライ語を話すユダヤ人と日本人は共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説があり、これを「日ユ同祖論(どうそろん)」といいます。

ユダヤ人の先祖は、古代イスラエル人です。このうちの「失われた10支族」が、日本に来たという説であり、古代日本人は、ユダヤ人の先祖と同一であるという説です。

旧約聖書には、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信じる民たちの始祖として、アブラハムという人物が出てきます。紀元前17世紀のころの人物とされ、このアブラハムの孫はヤコブであり、ヤコブの別名こそが「イスラエル」です。

さらにこのヤコブの12人の息子を祖先とするのが、イスラエル12支族であり、12支族はヤコブの時代にエジプトに移住した後に、子孫はやがてエジプト人の奴隷となりました。そして400年程続いたこの奴隷時代の後に紀元前13世紀に表れた救世主こそが「モーセ」です。

モーセは民族をエジプトから連れ出し、イスラエル12支族はシナイ半島を40年間放浪したのち定住を始め、200年程かけて一帯を征服していきます。

そして地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯カナンの地に住み、その後のダビデ王(BC1004~965年)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされました。そしてこのカナンこそが、現在パレスチナ問題などが起こっているイスラエル一帯ということになります。

その後この地を支配するようになったソロモン王(BC965~930年)の死後、カナンの地は南北に分裂して、サマリヤを首都に10部族による北王国イスラエルと、エルサレムを首都にする2部族による南王国ユダに分かれました。このうち北王国は紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされ、10支族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行されました。

この10支族の行方ははっきりとはわかっておらず、文書にも残されていません。アッシリアに征服された後、信仰を深めるため、信仰を邪魔されない場所に移ったとされますが、どこに移ったかまでは伝わっておらず、消息不明になったとされています。そして、エルサレムに住まう2部族によって「失われた10支族」と呼ばれるようになりました。

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一方、ユダ族などの残り2支族は、エルサレムを都として南ユダ王国を建国した後、紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされました。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となりましたが、宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになります。

そして、神殿宗教であるだけではなく律法を重んじる宗教として確立したのが、「ユダヤ教」ということになります。その後ユダ族の民たちは離散して世界中に散らばりましたが、その後裔が、現在我々が「ユダヤ人」と呼んでいる人々です。現在では、旧約聖書のみを信じ、新約聖書を信じないユダヤ教を信仰する者たち、と目されています。

それでは、一方の「失われた10支族」はどこへ行ったか。これについては諸説ありますが、一部はアフガニスタンに、一部はエチオピアに、あるいはイエメンを経由してアフリカに入ったという説。また、一部はイギリスに、あるいは新大陸(アメリカ)に移ったという説もあります。

南米のミシシッピ文化を作った民族にマウンドビルダーというのがいますが、これはアメリカ先住民の祖先であることが明らかになっています。しかしこのマウンドビルダーの正体は謎であり、アメリカに渡った10支族がこれらの遺跡を築いたマウンドビルダーなのではないかとする説もあるようです。

さらに10支族の一部はインドのカシミール地方やインド東部、さらにミャンマーに渡り、そして朝鮮や中国などのアジア諸国にまで至ったとされます。中国では960~1279年の宋代までにはユダヤ人の街が存在したとされ、また中国の「回族」と呼ばれる部族のうち、かなりの部分が古代ユダヤ人の末裔が改宗したものではないかという説もあります。

そして、同時期に10氏族の一部は日本にもやってきたとされ、大陸からの帰化氏族である秦氏(はたうじ)がユダヤ人ではないかという説があり、これがいわゆる「日ユ同祖論」と呼ばれている説です。

また、北海道の先住民族アイヌ人は、周囲の諸民族とは異なるヨーロッパ人的な風貌のために、古代イスラエル人の末裔ではないかとする説もあるようです。

明治期に貿易商として来日したスコットランド人のニコラス・マクラウドは、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初にこの日ユ同祖論を提唱、体系化しました。

彼の主張は、人類学上のDNA類似性などの科学的な面では非常に薄弱な理論といわれるものの、10支族の内の主要な部族は、青森戸来村、沖縄奄美、朝鮮半島らを経由して日本へ渡ったとする点や、一部の支族はそのまま朝鮮半島に留まったとする点などは、諸説と論理上の整合性は取れているそうです。

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そして秦氏こそがこの10支族の一部ではないかとされます。第15代応神天皇のときに、大陸から渡来して、この時10万とも19万ともいわれる人々が日本に帰化したと伝えられています。その一部は大和の葛城に、多くは山城に住みましたが、5世紀半ばの雄略天皇の時に、京都の太秦(ウズマサ)の地に定住するようになったといいます。

秦氏は非常に有力な一族で、794年の平安京は秦氏の力によって事実上作られ、仁徳天皇陵のような超巨大古墳建築にも秦氏の力があったとされます。ちなみに、羽田孜元首相は秦氏の遠い親戚に当たるといい、羽田の苗字は「秦」からきているというのがその根拠のようです。

こうして日本文化にしっかりと根を生やしたユダヤ人たちが信仰していた古代ユダヤ教は、その後日本の宗教と同化したため、日本の皇室神道と驚くほど類似点があるといいます。

例えば、大化の改新は、モーセのトーラーと類似点があります。トーラーとは、旧約聖書で定められた最初の5つの書であり、モーセの五書、モーセの律法とも呼ばれる法典です。

神道の祭司一族であった中臣氏が主導して、専横する仏教派の蘇我氏を滅ぼし、このとき蘇我氏の放火によって全朝廷図書が焼失しつつも、神道を一時的に復興させたのが大化の改新(645年)です。

大化の改新の内容は、当時における神道の重要事項が中心であったと推測されていますが、その内容は旧約聖書と類似しているといわれ、日本で元号として初めて定められた大化という言葉そのものが、ヘブライ語の「希望」と似ているといいます。

また、大化の改新の後、神道の皇室儀式の制度化は進められ、いくつかの定めのうち部分的に現在に伝えられているのが大宝律令(701年)の「神祇令」と呼ばれる法律です。神祇令においては、大嘗祭(だいじょうさい)・新嘗祭(にいなめさい)の他、大祓(おおはらい)の儀等が定められていました。

天岩屋戸からアマテラスが出てきたときに祭司がスサノオの罪を清めるために唱えたといわれる大祓の儀は6月30日と12月31日とされており、ユダヤ教の区切りと一致しています。

また、大祓の祝詞では、天つ罪と国つ罪に分けていくつかの禁止事項が列挙されていますが、これらは近親相姦や人体を傷つける罪、呪術など旧約聖書にある禁止事項と一致しています。

さらに、新嘗祭や大嘗祭は収穫を捧げる儀式であり、特に大嘗祭では仮庵(仮設の家屋)を建てます。ユダヤ教で収穫を捧げて祝う祭りは「仮庵の祭」、あるいは「過越祭(ペサハ)」といわれ、エジプトを出て仮庵に住んだ苦しみを代々伝えるため、仮庵を建てて行わなければならないとされています。

加えて、皇室の三種の神器のひとつであり、宮中に古くから神体とされる八咫鏡(やたのかがみ)の裏の模様の一部には、ヘブライ語が書かれているらしいことがわかっており、これを解読すると旧約聖書の「出エジプト記」3章14節にある、「我は有て在(あ)る者なり」と読み取れるそうです。

このほかにも、天皇家や神道において獅子と一角獣は重要な意味を持ちますが、獅子はユダ族の紋章であり、一角獣は北イスラエル王国の王族であるヨセフ族の紋章です。京都御所(清涼殿)には天皇家の紋章として、獅子(ライオン)と一角獣(ユニコーン)の紋章があったとされており、天皇の王冠にも一角獣が描かれているとされています。

現在でも京都御所にある御帳台(天皇の椅子)の前左右には、頭頂に長い一角を持つ狛犬と角のないものが置かれているそうです。

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なお、ユダヤ系大財閥であるロスチャイルド家も同様のライオンとユニコーンの紋章を持ち、このほかにも建物の入り口などに二匹の獅子が置かれる例は世界各地にあります。これは古代イスラエル神殿(ソロモン神殿)の王座の横の二匹の獅子に由来するといわれているようです。

さらに仁徳天皇陵は、前方部が台形、後部は円形の鍵穴のように見えますが、向きを変えて見ると壷のような形にも見えます。そしてこれはユダヤ三種の神器の一つであるマナの壷(jar of manna)を形取ったものではないかとも言われており、その論拠の一つとしては、天皇陵のくびれの部分には、壷の取っ手とおぼしき膨らみが認められるといいます。

このほか皇室を中心に発展した日本各地の神社神道にもユダヤ教との類似点がみられるといい、そのひとつに、日本もユダヤも、水や塩で身を清める禊の習慣があることがあげられます。また、ユダヤ教では祭司はヒソップという植物や初穂の束を揺り動かしますが、日本の神社の神官も同様に榊の枝でお祓いします。

さらに、イスラエル民族がエジプトを出て放浪していたころの移動式神殿である「幕屋」や古代ヘブライ神殿と日本の神社の構造は似ているといわれます。幕屋はその名の通り、周囲を幕や板で囲んだ移動式神殿で、中で神に捧げる祭睚(さいがい)を行ないました。

これは通常の神社で行う祝詞よりも重厚なもので、日本の皇室でも行われますが、その内容は極秘のようです。この幕屋でご神体を囲むという概念は日本の神社でも見られ、多くの神社はその周囲を石塀で囲まれているのはご存知のとおりです。

古代エルサレムの幕屋神殿でも、その周囲を囲み、入口から、洗盤(水洗場)、至聖所、聖所と並んでいたといい、入口から手水舎、拝殿、本殿と並ぶ日本の神社と似ています。

さらに神殿の前には、お耄銭(賽銭)を入れる箱も置かれていたといいます。また、幕屋の神殿の内部は赤色だったとされており、日本の神社にも赤色のものがあり、鳥居にも赤いものが多いようです。実はヘブライ語で「トリイ」は「門」という意味であり、日本の神社のトリイは過越の前にヒソップで羊の血を塗った門の名残だと主張する学者もいます。

この門を赤く血塗るという習慣は、過越祭(ペサハ)にルーツを持っており、12支族がモーセに導かれてエジプトを脱出したという、上で述べた“エジプト脱出事件”にちなんでいます。現在ではだいたい紀元前1290年ころの出来事ではなかったかといわれているようです。

モーセは、かたくなな心を持つエプト国王ラムセス2世に、ヘブライ奴隷集団の脱出を認めさせるため、王と一種の“魔術競争”をした結果、勝利を得ますが、エジプト脱出前日に“殺戮の天使”がエジプト全土に襲いかかって来ました。これは王の追っ手のことでしょう。

その時、モーセは、ヘブライ人たちに神の災いに合わないように、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせ、災いが静かに通り過ぎるまで家の中で待つように指示したといい、これこそが朱塗りのトリイのルーツです。そして、日本の年越しや鳥居も、この大事件にルーツを持っていると考えられるそうです。

また、現在、伊勢神宮は、日本人の総氏神とされていますが、この伊勢神宮は実はもともとこの地にはなく、それ以前の遷座伝承地、これを「元伊勢」といいます。その1つが、京都府宮津市にある籠(この)神社です。この籠神社の宮司を代々務めてきたのは「海部一族」とよばれる一族であり、海部俊樹元首相の遠い親戚にあたります。

現在82代目宮司を務める海部光彦氏は、最近になって、それまで極秘であった“裏家紋”を公開しましたが、籠神社の奥の院である「真名井神社」の石碑に刻み込まれた、その裏家紋こそが、ユダヤ人たちがユダヤ教徒である証として今も使う、「ダビデ王の紋章」、すなわち「六芒星」です。

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さらに、こちらも日本の神社の代表格である、長野の諏訪大社では、かつて「御頭祭(おんとうさい)」という、ユダヤ教徒の伝承に似た祭りが行われていました。

旧約聖書には、アブラハムはモリヤの地(現在のエルサレム)の山、「モリヤ山」で神から息子イサクを生贄として捧げるよう要求される、という話があります。このとき、アブラハムは神への忠誠心から、イサクをナイフで殺そうとしますが、その信仰が明らかになったために、息子の殺害を天使から止められるという結末になっています。

そして、諏訪大社のご神体は守屋山であり、これは「モリヤ山」からきているといわれます。少年を柱に結び付けて神官が小刀で切りつけようとすると使者が現れてこれを止めるという「御頭祭」という祭が明治初めまで行われていそうですが、このことはアブラハムが息子を殺そうとしたという話と酷似しています。

このほか、ユダヤと日本との類似点としては、生後30日目に赤ちゃんを神社に初詣でさせる習慣は、日本とユダヤにしか見られないものだといい、また、ユダヤ人の典型的な宗教的行事である過越祭(ペサハ)は、日本の正月とかなり似ている、という指摘があります。

ユダヤ教でも新年の祭りであり、ユダヤの祭日のうちで、最古かつ最大のものであり、上述のとおりエジプト脱出を祝うものです。

その日は日本の年越しと同じように、家族で寝ないで夜を明かします。更に、過越祭の日だけは普段と食べるものが違っていて、普段はふっくらとしたパンを食べますが、この日に限って、「種なしのパン(マッツォ)」を食べます。

種なしパンの意味は、酵母で発酵させない、という意味ですが、ユダヤ人は丸く平べったいこのパンを祭壇の両脇に重ねて供えるといい、これは日本の「鏡餅」に類似しています。過越祭は全部で7日間と規定されており、これも日本の正月の期間と同じです。

過越の祭では、家の中から酵母がなくなるよう直前に掃除を行い、正月の14日の夕方から7日間にわたって種(酵母)のないパンを苦菜(クサイ)を添えて食べなければならないとされています。苦菜とはヨモギの一種のようですが、エジプトで奴隷の境遇に落ちたユダヤ人が流した涙を表すものだそうです。

日本でも年末に大掃除を行い、発酵させないパンであるモチを食べ、その後、正月の7日に七草粥を食べますが、この七草粥に入れる草こそがこの苦菜であるとする説もあります。

そして、日本人は年越しのあと、鳥居をくぐって神社に参拝します。ユダヤ人たちにとっては一大事件であったエジプト脱出にルーツを持っているこのトリイ(鳥居)は、この過越祭りの前の大晦日にヒソップで羊の血を塗った門である、というわけです。

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このように、日本の神道とユダヤ教には多数の共通点があるわけですが、冒頭でも述べたように、たとえ語源俗解といわれようとも、ヘブライ語と日本語にも多数の共通点がみられます。

イスラエルのユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーグは、1984年(昭和59年)に「大和民族はユダヤ人だった」という本を出版しており、その中で、ひらがな・カタカナとヘブライ文字の類似を示すとともに、日本語の中に多数のヘブライ語に類似した単語が混在していることも指摘しています。

世界には中南米のマヤ人をはじめ、いくつも“失われたイスラエル10支族”の候補となる民族がいるにもかかわらず、日本語のようにヘブライ語起源の言葉を多数持つところはなかったとも書いており、ヘブライ語と類似した単語がゆうに3000語を超えて存在している、としました。

さらに、天皇の公式名である「スメラ・ミコト」は古代ヘブライ語アラム方言で「サマリアの大王」を意味し、初代神武天皇の和風諡号である「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味になっていると書いています。

このほか、大正から昭和のはじめに活躍したとされる、岩手県一戸町出身の神学博士・川守田英二もヘブライ語との類似点を指摘しており、ヘブライ語の中に日本の音と意味がそっくりなものの例をあげています。

たとえば、ヘブライ語の「アッパレ」は、「栄誉を誇る」であり、「アナタ」は「貴方」、アノー=私に応答させてください、オイ=泣く、オニ=私を苦しめるもの、オハリ=終端、コラ=自制せよ、ダマレ=沈黙を守れ、ハッケ・ヨイ=投げうて、ワル=凶悪な者、といった具合です。

このほか、アラ・マー=どうした・何?、スケベー=肉欲的に寝る、ドシン=肥満、ヨイショ=助ける、といったものもあります。

サラバ(シャロマー)は、「平安あれ」であり、ヘブライ語のシャロームとは「平安」の意です。従って日本のその昔の首都、平安京は、ヘブライ語でエル・シャローム(平安の都)となり、平安京と同じく古代イスラエルの首都であるエルサレムは、その昔こう呼ばれていました。

「東方の日出づる国」は古代より、ヘブライの民にとって、「天国」を意味しているそうで、彼らがエジプトを脱出したのち得た約束の大地カナンは、ヘブライ語では「カヌ・ナー」と発音し、これは「葦の原」を意味します。

日本の古名は「豊葦原(トヨアシハラ)」であり、「東方の日出づる国」は、ヘブライ語で「ミズホラ」と呼ぶので、日本の別名である「ミズホの国」と一致します。また、大和朝廷の「ヤマト」は、ヘブライ語では「神の民」という意味になるといいます。

はるかな昔、自由の国を求めてシルクロードを歩き続け、ついには極東の「日出づる国」にやってきたユダヤ人たちこそが我々の先祖だと考えると、何やら遠いイスラエルの地やユダヤ人たちが身近に感じてくるから不思議です。

さて、今日は久々に長文のブログを書いてきたので疲れたので、そろそろ「サーイル・ニアラー」したいと思います。ヘブライ語ですが、日本語のサヨウナラと音が似ています。

その意味は、悪魔は追い払われた、です。みなさんの週末も悪魔のいない天使たちに囲まれた幸せなものでありますように。

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