タンカーのはなし

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今日は、ノーベル賞制定記念日です。

1895年11月27日にスウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルが、自分がダイナマイトで得た財産を「人類の平和に寄付する」という遺言状を書いたことに由来しています。

ノーベルは350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名です。その開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれました。スウェーデンのカールスコーガに設立されていた鉄工所の経営者となったノーベルは、このダイナマイトの発明によってその小さな工場を巨大な兵器メーカーへと発展させました。

ただ、ノーベルは、実質2年あまりしかこの会社の経営に携わっていません。しかし彼は資金力で経営を立て直したにとどまらず、会社を研究開発を重視する方針に転換させ、この方策はその後の発展に大きな役割を果たしました。

その研究開発に基づいて社業を伸ばしたこの会社、ボフォース社は現在でも世界的に有名な大砲・化学工業メーカーとして知られています。

ノーベルは、スウェーデンのストックホルムで、建築家で発明家の父のもとに4男として生まれました。両親はノーベルも含めて8人の子をもうけましたが、一家は貧しく、8人の子のうち成人したのはアルフレッドを含む4人の男子だけでした。

ダイナマイトの発明により功を治めたのちの晩年、55歳のとき、この兄弟のうちの兄リュドビックが死去しましたが、この時、ノーベルと取り違えて死亡記事を載せた新聞があり、見出しには「死の商人、死す」とありました。

さらに本文には「アルフレッド・ノーベル博士:可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」と書かれており、このことからノーベルは死後の評価を気にするようになったといいます。

死の商人、という評価は、その後彼が発明したこのダイナマイトによって多くの産業が発達したことから、その呼称はそぐわない、という人もいます。しかし、現在世界各地で勃発している戦争でもこのダイナマイトを元にした爆薬が多数使われており、そう呼ばれても仕方がない面も確かにあるでしょう。

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ただ、そうして儲けた金の大部分をあてて国籍の差別なく毎年授与するノーベル賞を創設するとしたことはやはり、偉人として評されるだけのことはあります。彼が残した財産は税と個人への遺産分を除いた全財産の94%に登り、その額は3122万5千スウェーデン・クローナに及んだそうです。

1スウェーデン・クローナは現在日本円で15円ほど。ノーベル賞創設は1895年で、いまから120年前ですから、日本では明治28年です。日本の換算値をそのままスウェーデンに適用するのは無理がありますが、仮に明治後期の1円を現在の1万円ほどだとすると、3122万×15×1万円で、計算が間違っていなければ4683兆円ということになります。

ま、おそらくはスウェーデンのほうが日本よりもその後の物価上昇額が少なかったと考えられるのでこの計算も少々無理がありますが、それにしても天文学的にスゴイ金額であろうことは間違いありません。現在に至るまでも、毎年のように多額の賞金をノーベル賞受賞者に与えられるわけではあります。

なるほど武器や兵器を商売にするというのは儲かるものなのだな、と改めて思うわけですが、日本でも幕末に兵器商人として暗躍したトーマス・グラバーが財をなしていますし、幕末の実業家の大倉喜八郎なども武器商売で儲けた金で大倉財閥を創立し、一代を築きました。

現在ではあまり知られていない人ですが、明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した日本の実業家で、渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立したほか、東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもあります。

新潟の貧しい農家の生まれでしたが、幕末に江戸に出て鰹節店で丁稚見習いとして奉公したあと、奉公中に貯めた金を元手に独立し、乾物店大倉屋を開業。しかし横浜で黒船を見たことを契機にこの乾物店を廃業し、小泉屋鉄砲店というこのころまだ珍しい兵器商に見習いに入りました。

約4ヶ月間、小泉屋のもとで鉄砲商いを見習いをしたあと独立し、神田和泉橋通りに鉄砲店大倉屋を開業。しかし、店頭には現物を置く資金がなかったため、注文を受けては横浜居留地に出向き百数十度に渡り外商から鉄砲などを購入していました。

この当時は不良銃を高値で売りつける鉄砲商が多かったため、良品を得意先へ早いかつ安い納品を心がけていた大倉屋は厚い信用を博しました。そののち官軍御用達となり、明治元年(1868年)には新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるまでになりました。

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その後も鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受けるなどの恩恵を受け、明治7年(1874年)の台湾出兵の陸軍御用達、明治10年(1877年)の西南戦争でも征討軍御用達、さらに日清戦争、日露戦争でも軍の御用達となるなど、急速に財をなしました。

こうした経歴や、軍閥の形成に力を注いだ大久保利通や井上馨らとの親交もあったことから「政商」、「死の商人」と揶揄される一方で、その後は武器商売をやめて多くの産業に寄与したことから、「世にもまれな商傑」「日本の近世における大偉人」などと呼ばれるなど評価は驚くほどに別れます。

ノーベル自身も生前は死の商人と呼ばれましたが、死の直前、私財をなげうってノーベル賞を創設したことから偉人として現在まで敬われています。上述のとおり、兄弟がほかに3人いましたが、弟のエミール・ノーベルはダイナマイトの発明がなされる前の実験中に爆発事故で亡くなっています。わずか21歳でした。

このほか、ノーベルには、ルードヴィヒとロベルトという二人の兄がいましたが、実はこの二人は、石油タンカーの産みの親として知られています。1876年に現在のアゼルバイジャンのバクーでノーベル兄弟石油会社を設立しましたが、19世紀末期、この会社は世界最大級の石油会社でした。

1876年といえば、珪藻土を活用しより安全となった爆薬をノーベルがダイナイナマイトと名づけ生産を開始してから5年後のことです。ノーベルが50カ国以上で特許を得て100近い工場を持ち、世界中で採掘や土木工事に使われるようになったころであり、一躍世界の富豪の仲間入りを果たしていました。

当然、この兄たちの石油会社の設立にもその資金が投入されたのでしょうが、武器商売で成功した金で現在の文明に恩恵をもたらしたとされる石油を運搬するタンカーが開発されたというのもまた何やら胡散臭いかんじがしないでもありません。

このノーベルの二人の兄のうち、この石油タンカー開発の主な責務を担っていたのは長兄のルードヴィヒのほうであったようで、現在では初期のタンカー開発のパイオニアと目されています。彼はまず、石油缶をバラ積にした一重船殻の艀(はしけ)を船舶で牽引して運搬することを試みましたが、すぐにあきらめ、自航式のタンカーへ関心を移しました。

しかし、これには多くの問題点があり、最初の問題点は、火災を避けるために積み荷とそこから出るガスを機関室から隔離することでした。このほかにも火災予防のために、温度変化に応じて積み荷が膨張・収縮できるようにしたり、タンクに換気の方法を備えたりといったことが必要になりました。

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こうして数々の問題点をクリアーして完成した世界初の石油タンカーは、「ゾロアスター」(Zoroaster)」と名付けられました。

古代ペルシア起源とする秘教の名ですが、なんでそんなヘンな名前をつけたかといえば、おそらくはこの宗教が主に中東などで崇拝されていること、またこの宗教にちなむ聖地では「聖なる火」の祭壇の遺跡が多数存在することなどからだったでしょう。

この世界で初めての石油タンカーは、開発されたその年のうちにアゼルバイジャン共和国の首都バクーからロシア南部のアストラハンまでの最初の航海を成功裏に終わらせました。しかし、ノーベル兄弟は、タンカーの設計のどの部分も特許を取得しなかったので、その後このゾロアスターの設計は広く研究されコピーされました。

ゾロアスターは、242 ロングトンの灯油をパイプで連結された2つの鉄製タンクに入れて輸送しました。船の中央に機関室が置かれ、1つのタンクがその前方に、もう1つが後方に置かれましたが、この船は、予備浮力のために21の垂直防水区画を備えていたことがもう1つの特徴でした。

しかし、この世界初のタンカーの全長は184 フィート(56 m)、全幅は27 フィート(8.2 m)、喫水は9 フィート(2.7 m)にすぎず、現在のタンカーに比べればその大きさには雲泥の差があります。

ただ、性能や安定性、そして安全性は高く、スウェーデンからカスピ海まで、バルト海、ラドガ湖、オネガ湖、ルイビンスク、ヴォルガ・バルト水路、ヴォルガ川を経由して航海できるなど広く運用されました。

ところが、1881年にこのゾロアスターの姉妹船、ノルデンフェールドはバクーで灯油を搭載している最中に爆発しており、これは史上初のタンカー事故として記録されることになりました。船が突風に煽られて、灯油を流し込んでいたパイプが船倉から引き離されてしまい、この際漏れ出した灯油は甲板に流れこみました。

さらには機械工が灯油ランプの明かりで作業をしていた機関室に灯油が流れ込み、これにより船は爆発し、乗員の半数が死亡しました。ノーベル兄弟はこの事故後、漏れがより起こりにくい柔軟な積み込みパイプを作ることで対策をするようになりました。

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また、こうした教訓も踏まえ、その後ノーベル兄弟は、単一船殻で設計したタンカーを開発しました。これは船体がタンクの構造の一部をなすものであり、より多くの石油を積み込むことができるようになるとともに安定性が増しました。

1880年にこの最初の単一船殻タンカーである「モーゼ(Moses)」が完成し、これを含めて17隻もの同型船が建造されました。

さらに1883年に石油タンカーの設計は大きく進歩しました。ノーベルの会社で働いていたヘンリー・F・スワン (Henry F. Swan) が、設計した船は1つか2つの大きな船倉を備える代わりに、横方向の間仕切りでいくつかに分割した船倉を用いていました。これらの船倉はさらに縦方向の間仕切りで右舷側と左舷側に分割されていました。

ノーベル兄弟が採用していたそれまでの単一船殻のタンカーはかなり安定度は増していましたが、まだ自由表面効果 (free surface effect) による安定性問題を抱えていました。これは石油がタンク内で跳ね回ってしまう、という現象で、この効果によって荒れた海では船を転覆させてしまう恐れもありました。

ところがスワンが開発したこの新しい方法は、船の貯蔵スペースを小さなタンクに分割してしまうというものであり、この自由表面効果をほとんどなくすことができました。こうしてその後すべてのタンカーはこの方法で建造されるようになり、現在に至ってもタンカーのスタンダードとされる工法になりました。

その後もノーベル兄弟は、1903年にもそれまでの蒸気機関を脱し、内燃機関で航行する石油タンカーを建造するなど、タンカーの改良に励みました。この当時までには4,600 トンで1,200馬力のエンジンを備えた灯油用タンカーなども建造されるようになりました。

その後、ロシアや中東などとアジア諸国の間でタンカーが行き来するようになると、さらにタンカーの需要は増しましたが、以後のタンカーの構造はほとんど変わっていません。しかし年を追うごとに巨大化し、特にアメリカで開発されたT2 タンカーは、第二次世界大戦において重要な役割を果たしました。

載貨重量トン 16,500 トンもの容積を持つこの船は大戦中に500隻近く建造され、大戦後もこうしたタンカーは数十年にわたり商業目的で使用され、多くは国際市場で売却されました。

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第二次世界大戦後は、さらにこの巨大化は加速します。上述の第二次世界大戦期の典型的なT2型タンカーは全長532 フィート(162 m)載貨重量トン16,500 トンの容量でしたが、現代の超大型原油タンカーは、全長1,300 フィート(400 m)、載貨重量トン500,000 トンにもおよびます。

この巨大化にあたっては、中東における戦闘がスエズ運河の通航を中断させたことが大きな要素となりました。スエズ運河を通過できないため、外洋を回るようになり、燃費もかかることからできるだけ一度に大量の石油を運ぶタンカーが求められるようになったためです。

大量に売ればそれだけ儲かるわけであり、船主間の猛烈な競争もまた原因となりました。単純な経済的原則であり、石油タンカーが大きいほどより安く原油を輸送でき、伸び続ける石油需要に応えることができた、というわけです。

これまで建造された世界最大のスーパータンカーは、1979年に住友重機械工業追浜造船所で建造された「シーワイズ・ジャイアント」です。この船は載貨重量トン564,763 トンの容量があり、全長は458.45 m、喫水は24.611 mもあります。46のタンクを備え、31,541 平方メートルの甲板があり、大きすぎてイギリス海峡を通航することができませんでした。

2004年まで運用されましたが、その後老朽化のために運行早め、現在では永久繋留されて石油貯蔵用のタンカーとなっています。現在において、世界最大の稼動中のスーパータンカーはTIクラススーパータンカーと呼ばれるもので、4隻をギリシャのヘレスポント汽船会社が保有しています。

これら4隻の姉妹船はそれぞれ載貨重量トンにして441,500 トン以上の容量を持ち、全長は380.0 m、積み荷の搭載能力は3,166,353 バレル(503,409,900 リットル)に達します。

ちなみに、過去に日本で運用された石油タンカーで最大のものは、1975年に就航し、2003年に退役した日精丸で、これは全長378.85 m、船幅62.0 m吃水は28もありました。TIクラスと引けを取らない大きさですが、最近は日本も石油備蓄が進み、また不況のせいもあって、その後これほど大きなものは建造されていません。

パイプラインを除けば、今日、タンカーはもっとも安く石油を輸送する手段であり、世界中で、タンカーは年間約20億バレル(3.2×1011 リットル)を輸送し、タンカーによる輸送費用は1 ガロンあたりわずか2 セントほどだといいます。

石油産業は現在の世界の産業界を支える基幹産業でもあり、それを安価に運搬できるタンカーは先進国といわれる国ではほとんどが保有しています。現時点で、1万載貨重量トンを超える石油タンカーは世界に4,000隻以上もあるそうで、日本でも海岸沿いに行けばこうしたタンカーが見えない日はありません。

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ノーベル兄弟が開発した当時に比べれば格段に安全性が高くなったための普及でもあります。しかし、とはいえこれだけの船が航行すればそれだけに事故も多くなります。いったん事故がおきれば、積載している石油の量は膨大なものであるため、海洋汚染など、深刻な環境破壊をもたらします。

過去最悪といわれる石油タンカーによる流出事故は、1989年3月に起きたエクソン・ヴァルディーズ号原油流出事故で、アラスカ沖の暗礁に乗り上げて座礁したこのタンカーは、1080万ガロン(41,000 立方メートル)の石油を海に流出させました。

科学者や管理者、ボランティアの努力にもかかわらず、40万羽以上の海鳥と約1,000匹のラッコ、膨大な数の魚が死にました。事故現場から近いプリンス・ウィリアム湾には原油が溜まりましたが、岩の多い入り江のため、原油で汚れた岩を高圧の熱水で洗浄することに決まりました。

しかし岩に生息する微生物も吹き飛ばしてしまい生物の食物連鎖の一部が断たれたためこの一帯は不毛の地と化しました。事故から26年を経た現在でも汚染除去作業は続いており、汚染の影響から回復するためにはあと30年以上を要するかもしれない、という学者もいます。

ちなみに、事故を起こしたエクソン・ヴァルディーズは曳航されて1989年にサンディエゴに到着して船体修理が始まり、約1600tの鋼材が交換されました。そして、翌年には「シー・リバー・メディテリニアン」と改名され、修理に要した3000万ドルの請求書を残して出航しました。

この修理費を補填するため映画ウォーターワールド(1995年公開)の撮影セットとして貸し出される、ということもあったようです。

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エクソン・ヴァルディーズ号の流出事故の後、アメリカ合衆国では領海内に進入する全てのタンカーに対して2015年までに二重船殻にすることを義務付ける連邦油濁法 (Oil Pollution Act of 1990) を制定しました。欧州連合も全てのタンカーに二重船殻にすることを要求する独自の厳しい汚染対策を既に制定しています。

日本でも過去に何度か石油流出事故が起こっており、欧米諸国と同様に厳しい基準を新造船に適用しています。しかし過去に生じた事故で最大のものは、1997年(平成9年)1月2日未明、島根県隠岐島沖の日本海で発生した、ナホトカ号重油流出事故であり、これは日本国籍の船ではありませんでした。

ロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」(13,157総トン)は1970年にポーランドのグダニスクで建造され、寒冷地の航海に耐えられるように、氷海仕様となっていました。が、折しも西風20メートル、波高4.5メートルの大しけのなか、機関出力が低下、操船に困難を生じ、大音響とともに船体に亀裂が入り、2番タンク付近で船体が分断しました。

同時機関室に浸水が発生し、メル・ニコブ・バレリー船長は午前3時40分に退船を決意し、31名の乗組員は荒れる日本海を数隻の筏と救命ボートに分乗して脱出しました。しかしバレリー船長は自らの意思で救助を拒み、後日、福井県内で遺体で発見されました。

当時日本海側では年末寒波が襲来し、台風並みの強風が連吹しており、このため、釜山沖でもタイ船籍の貨物船が座礁し、乗組員29名の内5名が死亡しています。

ナホトカは暖房用のC重油を約19,000キロリットル積み、12月29日上海を出港、ペトロパブロフスクへ航行中でした。その後船体は島根県近海で浸水により沈没し、分離した船首部分は漂流を始めました。

流出したのは積載されていた重油の一部、約6,240キロリットルでしたが、福井県の越前加賀海岸国定公園内の海岸に漂着したのち、続いて島根県から石川県にかけての広い範囲にも重油が漂着しました。

油が漂着した場所の多くは岩場であり、機械力を用いた回収作業が困難な箇所でした。波が荒いため、当時国で保有していた油回収船も使用不可能な状態となり、こうして、油回収に唯一有効な手段は、人力によって柄杓を用いて集める方法だけとなりました。

地元住民に加え、全国各地からの個人・企業・各種団体によるボランティアが参加して、のべ30万人近くといわれる民間有志による重油の回収作業が行われました。厳冬期の1月に事故が起こったことで、海からの冷たい風が吹き荒れる海岸での回収作業は過酷を極め、回収作業に当たっていた地元住民やボランティアのうち5名が過労などで亡くなりました。

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こうした二次被害が発生したことから、この件を契機に「ボランティア活動には危険もつきまとうこともある」という事実が世間に知られるようになり、ボランティア活動を行う者に対して「ボランティア活動保険」への加入を勧める活動が積極的に行われるようになりました。

重油の流出範囲が当時の事前予想より広範囲に及んだことや、油まみれで柄杓を使って回収に当たる、自衛隊、海上保安庁、自治体職員、ボランティアなどの姿が報道で繰り返し報じられました。このため、日本海産の海産物に対する風評被害が懸念され、行政ならびに漁業関係者側としてはその対応にも追われました。

また、この事故の際当時の自民党幹事長、森喜朗氏が「重油は山口の方に流れていけばいい」と発言したとの噂が流れました。森さんはそのうっかり発言から今でもいろいろ言われることが多い人ですが、この噂はデマだったでしょう。

が、後年、森氏が首相に就任した際、この発言を事実と思った人が、沖縄タイムスの読者投稿欄において森氏を揶揄するコメントを投稿し、これを見た多くの人が誤解した、ということもあったようです。

アメリカ海軍の原子力潜水艦と衝突して沈没、日本人9名が死亡するという「えひめ丸事故」をめぐる失言騒動の余波を喰らって失職しましたが、首相退任後も若いころの売春疑惑報道が持ちあがったり、引退後に就任した東京オリンピック組織委員会会長の職においても評判はかんばしくありません。

この事故に関し、日本政府は、重油の防除に伴い生じた損害賠償などの支払いを、ナホトカ号の船主などに対して東京地方裁判所へ提起しました。クレーム総額は358億円に及びましたが、その後、2002年(平成14年)に和解が成立し、船主から賠償金110億円、また、基金として151億円が支払われました。

ナホトカ号は船齢25年を超える老朽船であり、船体構造を二重化したいわゆる「ダブルハル構造」になっていませんでした。このため、その後国際海事機関(IMO)は新たに建造する積載量5000トン以上のタンカーや現存タンカーの内積載量3万トンを越えるものについてはダブルハルとするように義務付けました。

また、こうした対策をとっていないタンカーは25年で廃船とするように義務付けされよう条約が改正されました。と同時に条約改正に伴い日本国も国内法の海洋汚染防止法が改正され、寄航国による監督を強化するよう勧告するよう改められました。

ナホトカ号からの重油抜き取りは一応完了していますが、水深約2,500mの海底に沈んだ船体からは、その後も重油の流出が続いており、現在も小規模な流出があるそうです。が、自然分解可能な程度です。ただし、重油の回収および流出防止措置は深海のため不可能であり、将来に渡って船体老朽化による破損・流出が憂慮されています。

さて、数日続いた悪天候も終わり、今日は快晴、スカッ晴れで、真っ白い富士山が眼前に見えていました。明日もお天気のようです。ひさびさの好天の中、紅葉狩りに出かけることとしましょう。

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三島発フランス経由ポンコツ

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今日は、三島由紀夫の命日だそうです。

戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家でした。が、晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。

1970年(昭和45年)の11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)でクーデターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げました。一件は世間に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を及ぼした……とまあ、多くの人が知っている事実ではあります。

が、三島の命日と同じ日に、彼とも交友があった元西武セゾングループの代表、堤清二氏が亡くなっていた、ということを知っている人は少ないでしょう。

弟は元西武鉄道会長として有名な堤義明氏です。西武流通グループ代表、セゾングループ代表などを歴任しました。しかし、事業の急拡大を進めるため、金融機関からの多額の借り入れに依存していたセゾングループは、バブル崩壊により経営の破綻を迎え、グループを率いていた堤氏自身も1991年に同グループ代表を辞任しました。

2000年には不動産デベロッパーとして急速に事業を拡大していた西洋環境開発を含む同グループの清算のため、保有株の処分益等100億円を自らが出捐し、セゾングループは解体されました。

もともと、実業家としての仕事とは別に、プライベートでは小説も書いており、作家としても実力のある文化人でもありました。辻井喬(たかし)のペンネームで作家活動もしており、34歳のときには、詩集「異邦人」で室生犀星詩人賞を受賞しています。

バブルが崩壊し、実業界を事実上引退したのちは、ほぼ作家業に専念するようになり、73歳にして小説「風の生涯」で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、また同年詩の業績で藤村記念歴程賞も受賞しています。その後も数々の文学賞を受賞しており、2007年、80歳のときには、詩集「鷲がいて」で読売文学賞詩歌俳句賞も受賞しています。

同年、日本芸術院会員となりました。85歳で文化功労者を受賞しましたが、2013年11月25日、肝不全のため東京都内の病院で死去。86歳没。最晩年にはペンネームの辻井喬の名義で、「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」の呼びかけ人を務めていました。

九条の会とは、日本が戦争を永久に放棄し戦力を保持しないと定めた第9条を含む日本国憲法の改訂を阻止するために、大江健三郎や井上ひさしなどの有名作家を含む日本の護憲派の作家ら9人で結成された会です。

一方、同じ日に亡くなった三島由紀夫は改憲派でした。日本国憲法第9条を、「非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の基盤をなした」として唾棄し、この条文が「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であり、「国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くもの」であると断じています。

このように政治思想が全く異なる二人がどうしてウマがあったのか不思議ですが、そこはやはり同じ作家仲間だということもあったのでしょう。三島が自身の組織した「楯の会」の制服を制作するにあたっては、フランスのド・ゴール大統領の軍用の制服をデザインした「五十嵐九十九」というデザイナーを手配するなどの便宜をはかりました。

三島が割腹自決をした三島事件直後に開かれた三島の追悼会には、ポケットマネーから資金を提供したほか、その後も三島映画上映企画などでも会場を提供するなど、三島の死後も貢献し続けたといいます。そんな堤氏が事件から43年後の三島の命日に死ぬとは彼自身も想像していなかったでしょう。巡りあわせとは面白いものです。

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この五十嵐九十九(つくも)さんというのは、調べてみると1933年東京都生まれで、現在おそらく83歳になられるようですが、いまだ元気でご健在のようです。戦後の混乱期、職を求めて東京のテーラー店に弟子入りし、21歳で独立しました。

東京・田端に「マロニエ洋装店」をオープン。28歳でフランスに渡り、ピエール・カルダンのもとで修業をし、帰国後、自らのブランドを立ち上げ西武百貨店にオーダーサロンを構え、定年まで勤め上げました。

三島由紀夫は、ド・ゴールの制服を気に入っていたといいます。独特のデザインであり、往年のド・ゴールはよくこの制服姿で、写真に納まっています。堤清二と三島は仲が良かったため、堤が経営していた西武百貨店の専属デザイナー、五十嵐さんに「彼のために作ってやってくれ」ということになったようです。

この制服というのは、当時の金で30万くらいかかったようですが、それを楯の会の全員に配ったといいます。100着以上だったと思われ、1970年代の制服といえば3千円も出せばそれなりにいいものができたはずですから今ならば相当な額になるでしょう。

その五十嵐さんがデザインした制服の上着のボタンを外した三島は、1970年の今日、赤絨毯の上で上半身裸になり、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹しました。小腸が50センチほど外に出るほどの堂々とした切腹だったといいます。

介錯人で、三島よりも20歳年下の楯の会のメンバー森田必勝(25歳)は、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に三太刀を振り降ろしましたが、切断が半ばまでとなりました。これに代わって2歳年下のメンバー古賀浩靖(23歳)が刀を取り、一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断しました。

続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯しました。その後、古賀を含めたメンバー3人は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた、と伝えられています。

介錯に使われた日本刀・関孫六は、警察の検分によると、介錯の衝撃で真中より先がS字型に曲がっていたといい、また、刀身が抜けないように目釘の両端を潰してあったそうです。しかし、三島と森田が来ていたくだんの制服がどうなったのかは、調べてみましたがよくわかりません。おそらくは遺族のどなたかが保管しているのでしょう。

2人を解釈した古賀は、その後裁判で4年の実刑判決を受けましたが、出所後に元楯の会のメンバーが古賀に会ったといいます。

このとき、このメンバーは「あの事件で、何があなたに残ったか」を古賀に訊ねました。すると、古賀はただ掌を上に向けて、何かの重さを感じるようにしてじっとそれを見詰めていただけだったといいます。そして、その何かとは、三島と森田の首の重さではなかったかと思われます。

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ところで、五十嵐九十九さんが三島と同じく制服のデザインをしたという、ド・ゴールの名前を知っているは多いでしょう。

それもそのはず、シャルル・ド・ゴール国際空港は、パリ郊外にある国際空港ですし、同名のバラの品種もあります。また、シャンゼリゼ通りの入口にあり、かつてはエトワール広場と呼ばれていたパリの名所エトワール凱旋門のある広場もまた、シャルル・ド・ゴール広場です。

セーヌ川にかかる橋にも同じ名前が残されており、最近では、イスラム国への反撃のために、ペルシャ湾を航行する、フランス海軍の原子力空母、シャルル・ド・ゴールの雄姿をテレビのニュースで見た人も多いかと思います。

本名は、シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴールという長ったらしい名前です。1890年11月22日生まれといいますから、我が息子君と誕生日が同じです。

1970年11月9日に解離性大動脈瘤破裂により79歳で亡くなっていますが、政治家であるとともにフランスの陸軍軍人でもありました。第二次世界大戦においてはドイツの新興による本国失陥後、ロンドンに亡命政府・自由フランスを樹立し、レジスタンスとともに大戦を戦い抜きました。

戦後すぐに首相に就任した後、1959年にはフランス第18代大統領に就任して第五共和政を開始し、混乱に陥っていたフランスを立て直しました。共和制というのは、人民が統治上の最高決定権を持つとされる政治形態です。

日本は、議会制民主主義体制であり、国民が選んだ議員の中から密室政治によって首班である総理大臣が選ばれますが、フランスではアメリカと同じく人民が直接大統領を選びます。ただ、政府の大半の意思決定は元首の裁量によるのではなく、成立した法を参照して行われる、とされています。この場合の法とは、これを造りだす議会のことです。

ただし、現在のフランスは、直接選挙で選ばれる大統領(任期5年、2002年以前は7年)に議会の首長である首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられ、立法府である議会より行政権の方が強い体制が敷かれています。

フランスは、1799年のフランス革命によって「フランス第一共和政」が成立しました。が安定せず、ナポレオンによる帝政の時代や王政の時代を何度もはさんで複数の共和制が起こっており、ド・ゴールが大統領に就任したのは四番目の共和制、第四共和政のあとの第五共和制のとき、ということになります。

きっかけになったのは、アルジェリア戦争です。これはかつてフランスによって植民地化されていたアルジェリアの内戦に続いて引き起こされた独立戦争です。アルジェリアはフランス系住民も多く、フランスは簡単に独立を認めることはできず弾圧を強めました。

このためアルジェリア戦争は泥沼の様相を呈し始めますが、この政治的混乱を収拾するために大統領に就任したルネ・コティは、これを治めることができませんでした。

1957年、アルジェリア独立問題はこじれにこじれ、フランスがアルジェリアに派遣していた駐留軍は弱腰の政府に業を煮やし、翌年、一度は政界から退いていたド・ゴール将軍の政界復帰を要求してクーデターを起こしました。

これに加えてパリのフランス軍中枢部にも決起部隊に呼応する動きが表面化したため、コティは同年6月に、隠棲していたド・ゴールを首相に指名。大統領に強力な権限を付与する新憲法制定を主張していたド・ゴールはその3カ月後月に新憲法を国民投票で承認させ、10月に第五共和政が成立。第四共和政は12年足らずで終焉しました。

この第五共和制では、第四共和政に比べて議会(立法権)の権限が著しく低下し、大統領の執行権が強化され、行政・官僚機構が強力となりました。このため現在でも共和制国家でありながらもフランスでは大統領の権限がかなり強くなっている、というわけです。

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大統領就任後、東西両陣営の間で冷戦が続く中、ド・ゴールはアメリカとソ連の超大国を中心とする両陣営とは別に、ヨーロッパ諸国による「第三の極」を作るべきだという意識を持ち、フランスをその中心としようとしました。

一方では、このころ南アフリカ連邦のアパルトヘイトに端を発して人種差別に対する国際批判が高まっており、これに賛同したド・ゴールは、アルジェリアをはじめとし、自国が宗主国であったアフリカの植民各国の独立を認めました。

このため、1960年にはアフリカ大陸ではフランス以外の国が統治する植民地も含め多数の国が植民地からの独立を達成し、脱植民地化が進みました。これにより、この年は「アフリカの年」と呼ばれています。

また、同年には核兵器の開発に成功。さらに中華人民共和国の成立を承認し、冷戦下では西側陣営でありつつも独自路線を貫きました。1966年に発生した学生と労働者による五月革命は、政界にも大きな影響をもたらしました。ド・ゴールはこの動きを鎮圧し、総選挙で圧勝することで事態を収拾したものの、翌年には大統領を引退することとなりました。

のちの選挙では社会党のフランソワ・ミッテランが当選し、フランス共産党との左派連合政権となりました。以降の第五共和政下では保守派と革新派が大統領と首相を分け合う、コアビタシオン(保革共存)と呼ばれる状態がしばしば発生しています。

第5代大統領となった共和国連合のジャック・シラクは、イラク戦争では派兵を拒みました。シラクの後継となったニコラ・サルコジ政権(国民運動連合)では対米協調がおこなわれましたが、ご存知のとおり、就任当時から奇行が多く、極右派といわれました。

大統領に当選直後、地中海に自家用ジェット機と豪華ヨットでクルージングし、野党からはあまりに豪華すぎると批判されたりしました。しかし、国民からの支持率は高く、70パーセント台を記録したこともあります。しかし、2007年にフランス大統領府はサルコジの給与を現状の2倍以上に引き上げる意向を示しました。

彼の率いる与党・国民運動連合は「大統領であるのに他の閣僚よりも給与の額が低いから」と説明しましたが、折りしもサルコジの改革に対して野党・国民から批判が高まりつつある時期の給与増額は波紋を呼びました。

2012年フランス大統領選挙に出馬しましたが、決選投票にて社会党のフランソワ・オランドの前に敗北を喫し、2012年5月15日をもって第23代大統領を退任しています。

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そんなフランスが、ド・ゴールに率いられていた時代、1960年のアフリカの年に宗主国から独立したのは17ヵ国に及びます。フランス以外ではソマリランド(イタリアから独立)、コンゴ共和国(ベルギーから独立)、ソマリア(イギリスから)、ナイジェリア(イギリス)の4ヵ国だけであり、残り13ヵ国はすべてフランスからです。

先日、テレビでおなじみの池上彰さんも日経新聞のコラムに書いていらっしゃいましたが、現在、フランスにアフリカ諸国や中東の若者が多く住み、テロリストを生み出す背景には、かつてフランスが、こうした国々を植民地支配していた、ということが関係しています。

植民地からの解放後、大勢の人々が本国フランスに移り住み、彼等に対してフランスは同化政策で臨みました。良きフランス人になれ、というわけで、公の場ではイスラム教徒である女性に顔などを隠すスカーフの着用を禁じるなど、郷に入らずんば郷に従えといわんばかりに、フランスではフランス式に過ごせ、と移民に命じました。

しかし、そんな同化政策にもかかわらず、アフリカや中東からの移民の子供たちは、フランスの文化を迎合できませんでした。社会に馴染めない移民、2世や3世は、近年勃興してきたイスラム国などのアジェンダにかぶれ、過激な思想に傾倒していった、と考えられています。

イスラム国に対するフランスの空爆が、こうした感情に火をつけ、先日のパリの同時多発テロを引き起こしたとも考えられます。彼等にすれば元々の母国を今住んでいるフランスという国が空爆している、ということを耐えられない気持ちで見ているのでしょう。分からないでもありません。

テロは卑劣なやり方ではありますが、これ以上対立が深まれば、移民の3世、4世が社会に絶望して次の世代のテロリストを生み出す可能性があります。空爆だけでは解決できない歴史的な背景のある複雑な問題である、ということを日本人である我々は理解しておくべきでしょう。

ところで、このフランスによるイスラム国への報復攻撃において、象徴のように最近メディアによく登場するシャルル・ド・ゴールという空母がどんな空母なのか、興味が沸いたので調べてみました。

すると、フランスはこれだけの大国でありながら、持っている空母はこれ一隻のようです。1960年代までは、クレマンソー級という航空母艦を2隻持っていたようですが、老朽化に伴い、1番艦は2000年までにフランス海軍からは退役しました。が、2番艦はブラジルが購入し、「サン・パウロ」として再就役させているそうです。

現在、唯一の現役艦である、この原子力空母シャルル・ド・ゴールに次ぐ2隻目を、イギリス海軍が配備予定のクイーン・エリザベス級航空母艦の準同型艦として建造する案が進められているそうです。が、まだ建造が決定されているわけではないようです。

本艦はヨーロッパの海軍では唯一の正規空母です。正規空母の意味は、元より空母として運用されたものを意味します。現代においては、建造国が正規空母という分類で建造した艦であっても、STOVL機(短距離離陸垂直着陸機)の運用能力しか持たなければ正規空母ではなく軽空母と分類されています。

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例えば、イギリスでは、満載排水量2万トンのインヴィンシブル級の空母を保有していますが、STOVL機の運用能力しか持たないためにこれは軽空母に分類されています。このほか、ロシア海軍はが「アドミラル・クズネツォフ」という基準排水量5万トン超の大型空母を持っています。

しかし、この艦は、建造費用を圧縮するという政治的な理由により蒸気カタパルトを装備せず発艦時はスキージャンプを使用します。これは艦載機の離陸滑走距離を短くするため、離艦用甲板の先端部に上向の角度をつけることで、艦載機を加速させて離陸させる形式です。主にSTOVL機の組み合わせで使われます。

このため、「アドミラル・クズネツォフ」もまた、超弩級の空母でありながら、正規空母とはみなされていません。

カタパルトというのは、英語では“aircraft catapult”といい、航空母艦から航空機を射出するための機械で、射出機とも呼ばれています。カタパルトには火薬式、油圧式、空気式、蒸気式、電磁式のものがありますが、近年ではアメリカが開発した蒸気式カタパルトが最も性能が高いとされます。

アメリカが保有している空母はすべてが原子力空母であり、この原子炉は、主機関のほか、カタパルトへの高圧蒸気供給も担っています。逆に言うと原子力であるからこそ、高性能の蒸気式カタパルトが使えるということになります。

同国のニミッツ級航空母艦のカタパルト長は94メートル、フル装備のF/A-18を2秒で265キロメートル毎時に加速させることができるといいます。フランスのシャルル・ド・ゴールもまた、このアメリカ海軍の空母と同じ蒸気カタパルトを備えており、非常に優れた機動性を持っている、といわれています。

デザインは正規空母としてはじめてステルス性を考慮したものとなり、船舶としても高性能で速力も27ノット以上も出せます。もっとも、アメリカのニミッツ級の30ノット+にはかないませんが。

フランス海軍の空母は搭載する航空機に核攻撃能力を与えていて、原子力潜水艦の戦略核兵器と合わせて現在でも重要な任務の一つとされています。2015年1月にイラクで過激組織ISILを標的とした空爆作戦に投入されることが決定、ペルシャ湾に移動後2月より攻撃が開始されましたが、先日の同時多発テロを受け、さらなる攻撃を開始しました。

世界の中でこのほか空母を持っているのは、ブラジルとインドがあります。しかし、インドの「ヴィラート」「ヴィクラマーディティヤ」は、スキージャンプ甲板を利用する軽空母です。

また、ブラジルの空母「サン・パウロ」は、上述のとおり、元フランス空母「フォッシュ」で、カタパルトを装備しますが、排水量は第二次世界大戦当時の空母程度で運用可能な艦載機の重量に厳しい制限があるようです。

このほか、イタリア、オーストラリア、タイなどが、垂直/短距離離着陸機の搭載可能な空母もどきを保有していますが、いずれも小さなものです。また、日本もヘリコプター搭載艦を空母と呼ぶならば、これを5隻ほど保有しています(「かつらぎ」の来る日)。

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あともう一国、「空母といえるようなもの」を持っている国があります。中国です。一隻だけですが、遼寧(りょうねい)といい、これは旧ソ連で設計された航空母艦「ヴァリャーグ」の未完成の艦体を入手し、航空母艦として完成させたものです。

しかし、その入手の仕方が汚い、とさんざんこれまでも各国のメディアから批判的な記事を書かれてきました。同艦はそもそもソ連が崩壊した際、これを引き継いだロシア連邦政府が極度の財政難のために完成させることができなかったものです。

しかも、本艦を建造していた黒海造船工場自体が独立したウクライナに接収されてしまい、本艦の所有権自体がロシアとウクライナで争われることになりました。

結局、ロシア、ウクライナの両政府は、共同でノルウェーの船舶ブローカー、リーベックを通じて海外に売却する事で一旦は妥結しました。リーベックは、同艦は船体及び機関がほぼ完成し、兵装や電子機器は未搭載なので、これらの機器類は購入した国が自由に選べることのメリットを強調して各国へ売込みを図りました。

インド、中国、アルゼンチン、ブラジル等の新興国と接触を図りましたが、この時の売却価格は、搭載機込みで約40億ドル(艦そのものが20億ドル、さらに搭載機が20億ドル)と見込まれており、この金額は当時売り込み先と目された国々の一年分の軍事費の半分以上に当たるものでした。

結局高過ぎてどの国も買えないまま宙に浮いた形となり、海外売却の話も消え、ロシア海軍に就役する見込みもない「ヴァリャーグ」は、岸壁に係留されたまま放置され、他の艦に移設可能な装備を撤去される有様でした。

その後、ウクライナは本艦をスクラップとして2,000万ドルで売却する意向を示し、マカオの「中国系民間会社」である創律集団旅遊娯楽公司が1998年に購入しました。「中国本国で海上カジノとして使用する予定」とされていましたが、実はこの会社の社長は中国海軍の退役軍人でした。

また、創律集団旅遊娯楽公司は、事務所も電話もないペーパーカンパニーであり、カジノの営業資格もありませんでした。そもそもマカオの港は水深10メートル程しかなく、6万トン級の大型艦は入港できません。しかも、動力装置の無い大型艦が曳航されてトルコが保有するボスポラス海峡などを通過し、マカオまで廻航するのは大変危険でした。

また、既に見かけも航空母艦であり、空母の海峡通過を禁じたモントルー条約に抵触することから、トルコ政府は海峡通過に難色を示しました。そこへ仲介を申し出たのが中国政府でした。中国はカジノが開かれたのちには、トルコへの観光客を年間200万人に増やすと約束し、政治的折衝で妥協。2001年、航海を経てようやく中国本国に回航されました。

こうして2002年に中国沿海に曳航されてきた同艦は、案の定、マカオではなく大連港に入港しました。その後同艦は大連船舶重工集団に所属する大連造船所の乾ドックに搬入され、錆落しと人民解放軍海軍仕様の塗装を施され、修理が進められました。

このため一部では「中国が大連において空母の建造を計画」などと伝えられましたが、中国の報道機関はこれを否定。しかし、2008年末に中国海軍報道官が2012年までに中型空母を建造保有する計画を発表した際に、本艦を練習空母として就航、同時に艦載機をロシアから購入する計画があることを表明しました。

2009年には大連造船所のドックから離れ、ドックから大連港の30万トン級の艤装埠頭へ移動し、艤装が本格化しました。そして2011年には「中国初の空母」として出航すると中国メディアの新華社が報じました。

2011年8月には数百人の兵士らが参加する完成式典が行われ、共産党中央軍事委員会高官も視察しました。その後渤海湾等で海上公試が行なわれ、10回の公試を終えた後、2012年9月に遼寧省大連の港で中国人民解放軍海軍に引き渡す式典が行われ、この地にちなんで正式に「遼寧」と命名されました。

2013年2月には、青島の軍港に移動。この軍港は4年間を費やして建造されており、遼寧の母港としての機能を備える軍港とされています。

しかし、この空母はかなりポンコツだという評判でしきりです。「ヴァリャーグ」の機器はその多くが撤去されており、原設計から10年以上経ていることもあって中国では独自に機器を調達し備えることとなりました。が、遼寧の蒸気タービンはヴァリャーグの物が残されており、これが改良されました。

ところが、当初は蒸気を発生するボイラーの圧力があまりに高く危険であったため、出航速力に必要な出力を得られなかったといわれています。また、改良された現在でも蒸気を冷却して水に戻す復水器の冷却水パイプやバルブなどに問題を残したままではないか、といわれているようです。

さらに、空母といいながら、ヘリコプターによる離着艦が報道されているだけで、航空機の離発着は確認されていないようです。この船はカタパルト非搭載であり、搭載機はスキージャンプ式の発艦しかできません。

このため、飛行甲板は270mと比較的長くなっていますが、両翼下にミサイルを搭載するなどの重量機の発艦は確認されていません。また、ロシアから着陸の際に飛行機を短い滑走距離だけで着陸・停止させるための鋼索状の支援設備(アレスティング・ワイヤー)の調達を目指したものの不調に終わり、自主開発したものを使っているようです。

ようするにかなりのズルをしてポンコツを輸入したものの、やはりポンコツにしか仕上げられなかった、というわけで、中国は空母と称しているものの、とても空母とはいえない、というのが専門家の見方のようです。近年、南沙諸島の埋め立てにより軍事施設を築こうとしているのは、いつまでたっても空母が完成できないためだ、とする説もあるようです。

2012年ごろ、複数の中国メディアが伝えたところによると、消息筋の情報としてこの船には「毛沢東」の名前が付けられる、という案もあったようです。しかし、中国の建国の父といわれる彼もこんな船に自分の名前がつけられなくてよかった、と草場の陰で喜んでいるでしょう。

何ごとにつけてもやはり不正はいけません。国際的な批判を無視して建設が続く南沙諸島の軍事施設とともに、この世から葬り去られることを祈りたいところです。

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セブン

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毎年、11月22~23日ごろは、二十四節気の「小雪(しょうせつ)」にあたります。

わずかながら雪が降り始めるころであり、次の節気の大雪(たいせつ)、これは12月7日ごろですが、その前日まで続きます。小雪は更に、初侯、次候、末侯の3区分に別れていて、初候は「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」であり、このころには 虹を見かけなくなります。

続く次候は「朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)」であり、北風が木の葉を払い除けるようになり、大雪直前の末候は、「橘始黄(たちばなはじめてきばむ)」で橘の葉が黄葉し始めます。

ちょうどこの連休中が、この初候の「虹蔵不見」にあたります。虹が見えなくなるころ、といいますが、確かに雨も少なくなり、次第に空気が乾燥することも多くなるため、虹を見かけることも少なくなるように思います。

しかし、かつて私が滞在していたハワイでは年から年中、虹が見えていました。これは、ハワイには貿易風がいつも吹いていて、海からの湿った空気が島にぶつかり、雲ができやすいためです。

この雲は水分をたくさん含んでいますから、多数の雲の粒がくっつくと雨雲になります。しかし、貿易風によってこの雲は流れやすく、雲が流れてきた場所では雨が降りやすくなり、そこに太陽の光が当たると虹ができます。雲が去ろうとする間際には「狐の嫁入り」状態になることが多く、これが虹の出現を頻発させる、というわけです。

意外と思われるかもしれませんが、ハワイは割と雨が多い場所です。離島なのでさぞかし水不足に悩まされることも多いだろう、と思う人も多いでしょうが、このためかなり水は豊富です。これは山間部で降った雨が、溶岩の中を染み透って、海岸付近にたくさん湧き出ているためです。

また、この溶岩は水をきれいにしてくれる浄化作用も持つため、ハワイの水は極めて美味です。ミネラルウォーターとしてブランド化し、海外へ輸出しているほどです。

このように雨が多いので、傘が手放せないのでは、と思われるかもしれませんが、しかし、貿易風によってすぐに雨雲は場所から場所へと移動してしまうので、局所豪雨といったことにはめったになりません。ただ、10月から4月は、一応「雨季」となっており、この時期はことさら虹が多くみられます。

このように虹が頻繁にみられることから、ハワイは「虹の州」とも呼ばれ、車のナンバープレートにも虹があしらわれているほどです。また、ハワイ大学の野球部の名前は「レインボーズ」です。アメフトチームもその昔、私が留学していたころはレインボーズとよばれていましたが、現在はウォーリアーズ(「勇士たち」の意)になっているようです。

こうした、野球部やフットボールチームのメンバーの人種は原住民はポリネシア人のほか、アジア人、欧米人と実に雑多です。ハワイはアジア諸国とアメリカの接点でもあって多人種が住んでいるためです。このため、肌の色の違いを超えて1つの虹になるという意味からも、ハワイではことさら虹を共通のシンボルとみなしたがる風潮があるようです。

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地上ではアーチ状に見えますが、飛行機からなどでは眼下に360度円環状に見えます。私は体験したことがまだありませんが、ハワイでは観光用のヘリコプターや遊覧飛行機もよく飛んでおり、上空からはこの円形の虹がよく観察されるということです。

ハワイ以外の場所でも、雲海を超えるほどの高い山の上などでは、眼下に円形の虹が見えることがあり、こちらは「ブロッケン現象」と呼ばれています。ドイツのブロッケン山で登山家が見かけたことからこの名が付きました。日本でも富士山クラスの高い山で見ることができることもあり、こちらは「御来迎(ごらいごう)」として知られています。

この虹は、物理学的にみれば、赤から紫までの光のスペクトルが並んだ、円弧状の光です。太陽の光が、空気中の水滴によって屈折、反射されるときに、水滴がプリズムの役割をするため、光が分解されて、複数色の帯に見えるものです。

雨あがりだけでなく、水しぶきをあげる滝のあいだ、あるいは太陽を背にしてホースで水まきをした時などにも見ることができるのはご存知でしょう。これは空中に散布された水滴がプリズムの役割をしているわけです。

虹の色の数は一般的に7色とされ、これは、ニュートンの虹の研究に由来します。ニュートンの住んでいたこの当時のイギリスでは虹の基本色は赤黄緑青紫の5色と考えられていました。が、ニュートンは柑橘類のオレンジの橙色と植物染料インディゴの藍色を加えて7色としました。

しかし、実際には虹の色と色の間は無限に変化しています。ニュートンもこのことを知っていましたが、それにもかかわらず、虹を7色としたのは、当時、7が神聖な数と考えられていたからです。音楽のオクターブがドレミファソラシの七音音階であるのも、宗教的な意味合いから来ている、という説もあるようです。

西洋で7 は幸運の数とされるのは、新約聖書のヨハネの默示録の中に7つの教会が示され、その7つの門の前で神の啓示がある、とされたためです。一方では、キリスト教では七つの大罪というもあります。これはキリスト教において人間を罪に導く可能性があるとされている欲望や感情であり、傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲がそれです。

いずれせよ、キリスト教では7は重要な数字であり、1週(7日)のうち1日は休息を取る習慣もこの宗教からきています。さらに、キリスト教の七大天使七大天使が各曜日に当てられることもあります。これは、ミカエル(日)、ガブリエル(月)、ラファエル(火)、ウリエル(水)、セアルティエル(木)、イェグディエル(金)、バラキエル(土)などです。

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ニュートンも、こうした聖書に由来する話しに造詣が深く、「自然哲学者」の一面も持っていたことから、自分が研究していたこの虹の基本色も神聖なる数字、7と定めたのでしょう。しかしニュートンが虹を7色と決めたからといって、欧米の社会一般で虹の色が7色だと統一されたわけではありません。

現在でもアメリカでは一般的に赤、オレンジ、黄、緑、青、紫の6色と認識され、ドイツでは物理の教科書でスペクトル分類と合わせて赤、オレンジ、黄、緑、青、紫の6色とされる場合もあり、国によって認識もさまざまです。

虹の色を何色とするかは、地域や民族・時代によって異なり、お隣の中国でも古くは5色とされていました。日本でもその昔は、5色、あるいは8色や6色とする時代もありました。また、沖縄地方では2色(赤、黒または赤、青)でした。現代でも、沖縄では、焼き物の絵柄や絵画などを描く際、虹を明・暗の2色、とする場合もあるようです。

現在の日本では、一般的には虹の色は、赤・オレンジ・黄色・緑・水色・青・紫の7色とされます。7つで定着したのは、仏教の影響もあったでしょう。初七日や七七日(四十九日)、「七回忌」などに見られるように、日本人は何かと7にまつわる行事を持っています。

1月7日の朝に、春の七草が入った粥を食べる七草粥を食べるのもこうした宗教的な意味合いからです。また、神様にも大黒天・恵比須・毘沙門天・弁才天(弁財天)・福禄寿・寿老人・布袋の七福神がいます。

さらに、日本人は北斗七星が大好きです。これにまつわる神話は日本各地に多数ありますが、これは中国では「破軍星」と呼ばれ、これを背にして戦うと必ず勝利するという中国の故事から派生したモノが多いようです。

近代では、ドラマや映画、漫画などにもよく、7にまつわるヒーローがよく登場します。1954年公開の黒澤明監督の映画、「7人の侍」はその代表であり、海獣と戦う「ウルトラセブン」はウルトラシリーズの第3作です。その昔、元犯罪者の特殊部隊が悪と戦うといった漫画がありましたが、こちらは望月三起也さん作の「ワイルドセブン」です。

また、ワイルドセブンならぬ、マイルドセブンというのもありますが、セブンスターは JT のタバコの銘柄です。このほか、日本に関して言えば、震度の最大値は7ですし、日本の郵便番号は7けたです。ラッキーセブンということで、7を愛車のナンバーに登録する人も多く、777はパチスロの大当り(ビッグボーナス)に相当するため、とくに人気があります。

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この7を幸運の数字であるとする風習はしかし、日本が発祥ではありません。英語圏を中心とする思想の輸入です。いろいろな説があるようですが、野球が起源とも言われ、アメリカの野球の試合において、7回目の攻撃で打った球が強風でホームランになったことに由来しているといわれます。

1885年9月30日のシカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)の優勝がかかった試合では、7回にホワイトストッキングスのある選手は平凡なフライを打ち上げました。ところが、このフライは強風に吹かれてホームランとなりました。

このホームランによってホワイトストッキングスは優勝を決め、勝利投手はこの出来事のことを「ラッキーセブンス(幸運な7回)」と表現しました。一説にはこれが「ラッキーセブン」の語源であるされます。

確かに、野球における7回というのは点が入りやすいという印象があります。理由としては7回というのは、先発投手の球数が100球を越えることも多く、球威が序盤ほど残っていないことが多いことがまずあげられます。その際、先発よりも実力の落ちるリリーフ投手が登板することも多く、これが点が入りやすい原因だとされます。

また攻撃側に関しては打者の目が先発投手に慣れてきている、といったことなどもあるでしょう。しかし、意外にも7回に点が入りやすいというのは統計的には根拠がないそうで、むしろ得点の入りにくいイニングであるという統計もあるということです。

がしかし、一般には仮に点が入らなくても試合のターニングポイントとなるイニングであるという認識は根強いようです。

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ところで、私ごとなのですが、先日、我が家にもついにマイナンバーが届きました。早速開いてみて番号を確認したのですが、その12ケタの番号を「数字根」にしてみると、驚いたことに、私もタエさんも7でした。

一般的に、生年月日や姓名を数字に置き換えて、ひと桁になるまで全ての数字を足し、最後に出た数字のことを数字根といいます。英語ではDigital rootといい、その結果得られる数字から運命を占ったりすることもあります。

しかも、さらに驚くべきはその7になる前の合計が、ふたりとも61であり、え~っ!?こんなことあり~と二人して驚いたものです。

12ケタ全部が9の場合でも最大の合計値は108ですが、数字根が7になる場合というのは、25(52)や34(43)、16と61、そして106などたくさんあります。

そのなかで夫婦してルートが同じ61になったというのはとても偶然とは思えず、ついつい運命を感じてしまいました。

こうした数字根を使った占いのことを、一般的には数秘術(Numerology)と呼ぶようです。西洋占星術や易学等と並ぶ占術の一つで、かなり古くかあり、ピタゴラス式やカバラ式といったものがあるようで、「数秘学」という学問体系すらあるようです。

無論、数字根はマイナンバーだけでなく、いろんなものから算出できます。占う対象を生年月日にしたり、姓名をアルファベットにし、それぞれの文字が何番目のアルファベットであるかを数えて加算する、という方法もあります。

数秘術の創始者は一般的にピタゴラスの定理で有名なピタゴラスと言われています。彼のことを「数秘術の父」と呼ぶ向きもあるようで、数千年前のギリシャや中国、エジプトやローマでもこの数秘術が使われていた事を示す証拠が存在しています。「秘術」というくらいであり、その当時は、許された者にのみ、口頭でその情報が伝えられていたようです。

ピタゴラスの後、その思想はプラトンに引き継がれ、数学の発展と共に成熟していきます。生年月日や姓名を数字に置き換えるだけの単純な作業が数学に発展?と思われるかもしれませんが、誕生日や姓名の一部だけを計算したり、誕生日と姓名の数を組み合わせたりする事もあり、時代が下るにつれてその占い方法も複雑化しています。

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こうしたものの中から、魔方陣(Magic square)と呼ばれるものも生まれました。正方形の方陣に数字を配置し、縦・横・斜めのいずれの列についても、その列の数字の合計が同じになるもののことをさします。

一番簡単なのは、タテヨコ斜め、各列の合計が15になる下のようなものです。

816
357
492

4×4の魔方陣は全部で880通り存在し、5×5の魔方陣ともなると、2億7530万5224通りもあるそうで、現在までには27×27の魔方陣も発見されているということです。こうした数字遊び中から、人類は数学を発展させてきたわけです。

この数秘術はさらに、西洋占星術やタロット等とも結びつき、ユダヤ教のカバラの書物によって補強され、ルネサンス期にはヨーロッパで隆盛を極めました。現在では、アメリカ・ヨーロッパ全土で注目されているといいます。

日本でも、インターネットの普及によって、この数秘術を扱うサイトが増えてきているようです。「数波」なるモノを提唱しているサイトもあります。

これは、人名や文章といったコトバを数字に置き換えることで、その数字と共鳴する波動を導き出す?のだそうで、結婚相談やら人生相談に使える、とのたまわって多額の金を巻き上げるケースもあるようです。

無論、数字に波動がある、というのは何の根拠のないものです。なので、いかがわしいサイトだと思ったら深入りしないようにしましょう。しかし、誰しもがそうですが、自分の生まれた誕生日などには、何かの意味があるのでは……と思ってしまうものです。

また、親からつけてもらった姓名にも何かの運命的な意味が含まれているのでは、と誰でも思うでしょう。日本人の場合、姓名をローマ字で表記し、そのアルファベット順などで数字に置き換える事が多いようです。

誕生日は誰しもが変わらない事から、持って生まれた性格や先天的な宿命等が占えるとされます。また、姓名数は結婚等で姓が変わったりする際に変わることから、結婚後の運命を気にする人も多いようです。

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これらの「運命数」の中で日本人に嫌われるのが4という数字です。「四の字」といわれ、漢字文化圏のでは、死と音が通じることから忌み数とされる漢数字の「四」をことさらに不吉と見なす傾向が強いようです。死の連想を嫌う病院では特に忌避傾向が強く、病室の階数や番号に「4」の数字を使用することは避けられることが多いようです。

このほか、日本では「苦」に通じる 9 も忌避されます。また、西洋では 13 が忌数としてよく知られているほか、666は、「獣の数字」として嫌われます。

しかし、こうした忌数字は、それぞれの国で異なり、万国共通のものではありません。ベトナム語では「死」の読みが「惨」と同じであることから、3が嫌われてきました。また、中国では、「五」と「無」の発音が同じなので、5が忌み数とされることがあるようです。

イタリアでも、17 が忌み数とされますが、これは17 をローマ数字で書くと XVII となり、これを並び替えると VIXI となります。これは、ラテン語で「私は生きることを終えた(私は死んでいる)」という意味になるからだそうです。

このように、忌数というのは、国毎に違うことでもあり、ことさら気にする必要はありません。日本での4も死につながるから、とはよく言われるものの、何の根拠もあるわけではありません。

江戸時代には、何かと人々が四の字を嫌うので、これを笑い飛ばそうとする向きもあり、「しの字嫌い」(1768年)といった古典落語も作られました。これは、働き者で忠義に厚いが何かと堅物で通っていた下男を、主人がこらしめてやろうとする噺です。

主人が下男に向かって「死ぬ」「しくじる」など、「し」のつく言葉は縁起が悪いから、一切禁止にする、と宣言します。そして主人は、「もし下男が先に言ったら1年間無給、私が先に言ったら小遣いをあげよう」と提案しました。主人は下男に、なんとか「し」を発音させようと苦労します。

しかし、下男もなかなかしたたかで、主人が飯が炊けたかを質問しても「おまんま、炊いて“し”めえやした」と言うところを、「おまんまは、炊いて、……炊き終わっとります」「水は汲んでおいたかな?」「水なら、とっくに汲んで……“汲んでおわった”」と健闘します。

さらに、主人は再び策を巡らせ、下男が普段「お“し”りが大きい」と悪口を言っている、分家の嫁のことについて質問したり、さらに四貫四百四十四文(しかんしひゃくしじゅうしもん)の銭を勘定させることを思いつきます。

「この前、分家のおかみさんの悪口を言っていたな。あれ、なんと言っていたんだ?」「あれは、お、おケツが大きい、と」下男。さらにそろばんの勘定では、「へぇ……よ貫よ百よ十よ文」。

さらに主人は「あ“し”」の、“し“びれが切れました」と言わせるよう、下男を長時間正座させていましたが、しびれを切らした下男は、「”あんよ“の、”よびれ“が切れた」と切り返す始末。

そして結局、これを聞いていた主人は思わず、「うーん、”し“ぶとい」と言ってしまう、というのがオチになります。

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このほか、江戸時代には、「むつかしや四の字をきらふ旦那様」「四の字でも小つぶ四つは気にかけず」といった川柳も詠まれていました。これも、江戸では四の忌避を滑稽に感じる向きもあったことを示しており、前者は「四の字」に代表されるような迷信を信じる旦那を小馬鹿にしたものでしょう。

また、後者の小つぶとは、小粒銀、小玉銀のことで、この当時の銀でできた小銭のことです。四の字といった古臭い風習は気にかけるくせに、小粒玉四つほどの小額は気にかけないような人を笑ったものです。

なので、マイナンバーが届いて、その数字根が4になった、という方。ことさらにこれを気にする必要はありません。4を含めた1から9までの一桁の数字、数秘術ではこれを「ルート・ナンバー」と呼び、すべての数の基本となる数だと考えます。

ルート・ナンバーには、それぞれ固有の数秘術的な意味がある、とされますが、いろいろネットで検索した結果、以下のようなものもありました。

1:はじまり。独立。革新。リーダーシップ。男性原理。
2:調和。結合。人間関係。協力。女性原理。
3:真実を語る。イマジネーション。楽観主義。陽気。クリエイティヴな表現。
4:建設する。形づくる。ハード・ワーク。持久力。まじめ。実際的。
5:変化。移行。進歩的な考え。機知に富む。自由。多才。増進。
6:バランス。育てる。奉仕。責任と義務。家族の力。結婚と別れの数。家庭と仕事の問題。
7:分析。リサーチ。科学。テクノロジー。孤独。叡智。スピリチュアルな力。調査。神秘主義的。形而上学的。
8:権威。力。財力。ビジネス。成功。物質的価値。組織。自己制御。
9:終わり。ヴィジョン。寛大。変容。スピリチュアルな意識。宇宙。教え。全体性意識。完全性。

数の意味は、“Kay Lagerquist, Ph. D., and Lisa Lenard, The Complete Idiot’s Guide to Numerology, Alpha, 2004”が出典だそうです。

さらにご興味のある方は、以下のサイトにアクセスしてみてください。主唱者は欧米の多数の占いを紹介している方で、朝日カルチャーセンター、NHK文化センターなどでも講師をされているようです。

運命の世界

秋もたけなわになってきました。もう伊豆、修善寺の紅葉をご覧になりましたか?

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カメリア

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行楽の秋だというのに、ここのところ天候不順で、今日の伊豆も一日曇りがちです。

そろそろ、あちこちに紅葉の撮影に出たいと思っているのですが、こう天気が悪いと出鼻をはじかれたような気分になります。

「さざんか梅雨」というのだそうで、11月下旬から12月上旬にかけての、サザンカが咲くころに降るためこの名前がつけられたようです。

ただ、10月ごろまでに続く「秋雨」とはまた違うようで、毎年あるというわけでもないようです。確かに去年の今頃は天候に恵まれ、毎日晴れていたように思います。

気象庁は何の関連性もアナウンスもしていませんが、これは現在南米で発生しているエルニーニョと関係があるのではないかと私は思っています。

南米の太平洋沖での海水温が異常に高い状況が長く続く現象であり、その影響を受けてか、ここのところ暖かい日が続いています。冬になり、北から入ってくる冷たい空気と暖かい海水のせめぎ合いが、この不安定な天気を造りだしているのでしょう。

ところで、サザンカとツバキは何が違うのでしょうか。調べてみると、いずれもツバキ科ツバキ属に属する近縁種です。しかし、サザンカは秋の終わりから、冬にかけての時期に花を咲かせますが、ツバキの花期は冬から春にかけてです。ツバキの中にも早咲きのものは冬さなかに咲くものがあるようですが、一般には早春に咲く花とされているようです。

また、ツバキは日本が原産のようですが、サザンカは日本以外にも中国や台湾、インドネシアまで幅広くみられ、これらの国で園芸品種として改良されて日本に入ってきたものも多いようです。

このほかのツバキとサザンカの違いとしては、サザンカはめしべや葉柄(葉と茎を繋いでいる柄)に毛がありますが、ツバキにはありません。

さらに、ツバキは花弁が個々に散るのではなく、花ごとボトッと落ちます。一方のサザンカは、個々に花びら散ります。花が丸ごと落ちることから、その昔の武士は首が落ちる様子に似ているというのを理由にツバキを嫌った、という話があります。

その一方で、ツバキの木質は固く緻密、かつ均質で、木目は余り目立たないことから工芸品、細工物などに使われ、摩耗に強くて摩り減らない等の特徴から印材や将棋の駒として使われます。

また、ツバキの木炭は品質が高く、椿油は、高級食用油、整髪料として使われてきました。日本が原産でこのように古来から日本人には愛されてきた、という意味でもサザンカよりもツバキのほうがより日本的な花といえるかもしれません。

いずれも多数の園芸品種があり、どちらが好きかは好みによります。が、サザンカのほうは、明治時代以後のごく最近になって流行するようになった花のようです。ツバキよりもよりあでやかな品種が多いことから、近年ではサザンカを好む人のほうが多いのではないでしょうか。

一方のツバキのほうはとくに江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行しました。

1600年代初頭までには多数の園芸品種が生み出され、1681年には,世界で初めて椿園芸品種を解説した書物が当時の江戸で出版されています。

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江戸時代には逆にこの日本原産のツバキが海外へ輸出され、人気を博しました。17世紀にオランダ商館員のエンゲルベルト・ケンペルがその著書で初めてこの花を欧州に紹介したのがきっかけであり、後に、18世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ヨーゼフ・カメルはフィリピンでこの花の種を入手してヨーロッパに紹介しました。

その後スウェーデンの博物学者、植物学者であり、「分類学の父」として高名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿に「カメル」という名前をつけましたが、これが今日、英語でツバキのことをキャメリア(日本語ではもしくはカメリア、Camellia)とする語源になっています。

19世紀には園芸植物として流行し、今日、オペラとしても上演されることの多い「椿姫」にも主人公の好きな花として登場します。フランスの劇作家、アレクサンドル・デュマ・フィスが小説として描いたものを、イタリアのロマン派音楽の作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディが、1853年にオペラとして完成させたのがはじまりです。

ヴェルディの作品は、この椿姫だけでなく多数のものがその後世界中のオペラハウスで演じられるようになり、またジャンルを超えた展開を見せつつ大衆文化に広く根付いています。イタリア・オペラに変革をもたらしたとされ、現代に至るまでもオペラ界では最も有名な作曲家です。

彼が創作した「椿姫」もまた、オペラ史上、最も有名な作品と言っても過言ではないでしょう。

しかし、この作品の初演は大失敗に終わったそうです。これはパリ社交界の高級娼婦が主人公という設定がイタリアの聴衆には馴染めず、さらに、ヒロインであるヴィオレッタ役の歌手があまりに太っていたというのが失敗の原因だったそうです。しかし、初演から2か月後に行われた再演では主役を変え、今度は大喝采を浴びました。

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この椿姫のストーリーですが、私もタモリさんと同じでオペラやミュージカルの類が苦手なので、見に行ったことがありません。が、あえて調べてみると、時は19世紀半ば、舞台はパリです。

夜の世界、これをフランス語では「ドゥミ・モンド」といい、裏社交界のことです。その世界に生き、月の25日間は白い椿を身に付け、残り5日の生理期間には赤い椿を身に付けたために人々から「椿姫」と呼ばれた高級娼婦ヴィオレッタ・ヴァレリーは贅沢三昧の生活に心身共に疲れ果てていました。

そこに現れたのが友人に紹介された青年、アルフレード・ジェルモンでした。青年の正直な感情に最初は戸惑いを覚えていたヴィオレッタでしたが、今まで感じ取ったこともない誠実な愛に気づき、二人は相思相愛の仲となります。

ヴィオレッタは享楽に溺れる生活を捨て、パリ近郊にあるアルフレードの別荘で彼ととともに幸福の時を過ごすようになります。

しかし、その生活は長くは続きませんでした。息子のよからぬ噂を聞いて駆けつけたアルフレードの父親が、アルフレードの妹の縁談に差し障りとなるので、息子と別れるよう彼女に迫ったのです。ヴィオレッタは自分の真実の愛を必死で訴えますが、受け入れられず、悲しみの中で別れを決意。家を出ていきます。

彼女が残した置き手紙には別れの理由は何も書かれておらず、手紙を読んだ何も知らないアルフレードは、彼女の裏切りに激怒します。

その夜、ヴィオレッタはパリの社交界に戻り、かつてパトロンだった男爵に手を引かれて現れます。彼女を追ってきたアルフレードは、ヴィオレッタが男爵を愛していると苦しまぎれに言うのを聞いて逆上し、社交界の大勢の人前で彼女をひどくののしりました。

侮辱され、ヴィオレッタは悲しみますが、しかし彼を心底愛していたため、その場で反論もできません。数カ月後、ヴィオレッタは自宅のベッドで横になっています。実は難病におかされていて、死期が近づいていたのです。

そこへ駆け込んでくるアルフレード。いまや全ての事情を父から聞いた彼は、彼女に許しを請います。二人はまたいっしょに暮らすことを誓いますが、時はすでに遅く、ヴィオレッタは過ぎ去った幸せな日々を思い出しながら、アルフレードに抱かれて静かに息を引き取ったのでした……。

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この椿姫は、その後世界中で上演され、現在でも数あるオペラ作品の中でも最も人気のあるひとつのようです。その後2008年にイギリスで「マルグリット(Marguerite)」の名前で翻案したミュージカルとなり、日本でも赤坂ACTシアター、梅田芸術劇場、日生劇場で2009年に初演、2011年に再演されました。

この赤坂での初演では、その直前に東日本大震災が発生し、開始が延期された、ということもあったようです。初演の際にマルグリットを演じたのは、宝塚歌劇団退団後初めての舞台出演であった、春野寿美礼さん、再演の主演は、今なにかと結婚話で話題になっている、藤原紀香さんでした。

一方、この椿姫を創作したヴェルディは、イタリア、パルマの町のフィルハーモニー楽団の音楽監督をやっていた22歳のとき、17歳のときから付き合っていたマルゲリータ・バレッツィと結婚しました。

結婚後、一男一女を設けましたが、ところがこの二人は幼くして亡くなってしまいます。また、彼が27歳のとき、妻のマルゲリータは脳炎に罹って亡くなってしまいました。妻子を全て失ったヴェルディの気力は萎え、そのころ仕上げた「一日だけの王様」というオペラもスカラ座の初演で散々な評価を下され、公演は中断される始末でした。

ヴェルディは打ちひしがれて閉じこもり、もう音楽から身を引こうと考えましたが、その年も押し迫ったある日の夕方、街中で、スカラ座の支配人、メレッリと偶然会いました。メレッリは彼を強引に事務所に連れ、旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本を押し付けましたが、やる気のないヴェルディは帰宅し台本を放り出しました。

ところが、開いたページにたまたまあった台詞「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」が眼に入り、再び音楽への意欲を取り戻したといわれています。構想に構想を重ね、翌年秋に完成させた「ナブッコ」は、謝肉祭の時期に公演される事になり、様々な準備を経て1842年3月9日にスカラ座で初演を迎えました。

この演目は、旧約聖書の時代に題材をとり、バビロニア国王ナブッコと、勇猛なその王女アビガイッレに率いられたバビロニアの軍勢がエルサレムを総攻撃している、という設定で始まります。その後、王女アビガイッレと敵エルサレムの王子との恋愛などが展開され、王ナブッコとエホバの神との交わりなども壮大なスケールで描かれた一大叙事詩でした。

その上演の結果といえば、観客は第1幕だけで惜しみない賞賛を贈り、挿入歌、「行け、わが思いよ、黄金の翼」の合唱では、この当時禁止されていたアンコールを要求するまで熱狂しました。

これは、この歌がかつてミラノが支配されていた時代を歌ったものだからです。観客はこの中で追放されるミラノの奴隷の悲嘆に触れて国家主義的熱狂にかられました。現在のイタリアでも大変人気があり、「行け、我が想いよ」は第2のイタリア国歌とまで言われているようです。

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こうして「ナブッコ」の上演は大成功に終わり、1日にしてヴェルディの名声を高めました。

その後ヴェルディは再婚しています。かねてより知り合いだった2歳年下のソプラノ歌手のジュゼッピーナ・ストレッポーニがそのお相手です。フランスとイタリアの境にある古都、サヴォアの町で45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式を挙げました。

その後、80歳を越えるまでも精力的に活動し、多くの名作を作り上げましたが、晩年には若いころにイタリア北部郊外のサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)に購入していた農場に戻り、音楽ではない仕事に熱心に取り組みました。

構想を暖めていた音楽家のためのカーザ・ディ・リポーゾ・ペル・ムジチスティ(音楽家のための憩いの家)の建設がそれであり、この事業にオペラ制作同様に情熱をかけました。ヴェルディは、かねてから引退した音楽家らが貧困に陥ったまま生涯を終えるさまを気に病んでおり、彼らのために終の棲家となる養老院建設としてこれを計画したようです。

最晩年には公のことは嫌って、イタリア政府の勲章もドイツ出版社の伝記も断り、とくにその中でもミラノの音楽院が校名を「ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院」に変えようとする事には我慢がならず声を荒げたといいます。同校の改名はヴェルディの死後に行われました。

1898年秋、ヴェルディは伴侶ジュゼッピーナを肺炎で失いました。いまわの際、彼女は彼が手に持つ好きなスミレを目にしながら息を引き取ったといいます。ヴェルディは目に見えて落胆しますが、そんな彼を娘マリアや親しくしていた脚本家、ソプラノ歌手などが付き添いました。

ヴェルディとジュゼッピーナの間には子供はなく、このマリアは、父が亡くなった際に引き取り、娘として育てた歳の離れた従妹だったようです。

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この年齢になっても講演をみるためにヴェネツィアへなどにもよく出かけていましたが、彼自身は既に自らの老いを感じ取っており、1900年4月頃には遺書を用意しました。

同年末、マリアと一緒にミラノでクリスマスを過ごし、定宿となっていたグランドホテル・エ・デ・ミランで年を越していましたが、1月20日の朝、起きぬけの際、脳血管障害を起こして倒れ、意識を失います。

多くの知人に連絡が届き、友人たちが駆け付けました。また王族や政治家や彼のファンなどから見舞いの手紙が届き、ホテル前の通りには騒音防止に藁が敷き詰められましたが、1901年1月27日未明、偉大な作曲家は息を引き取りました。享年87。

同日朝、棺がホテルを出発して「憩いの家」に運ばれ、妻のジュゼッピーナが先に眠る礼拝堂に葬られました。出棺時にはスカラ座やメトロポリタン等の音楽監督を歴任し、20世紀前半を代表する指揮者とされる指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニが指揮し、820人の歌手が「行け、わが思いよ、黄金の翼」を歌いました。

遺言では簡素な式を望んでいましたが、意に反して1ヶ月後には壮大な国葬が行われました。また、後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれるようになりました。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では説明できないイタリア人の情をうまく表現したためといわれています。

ヴェルディの残した「憩いの家」は、現在も老齢音楽家のための活動を続けています。ミラノ市のブォナローティ広場の一角に建つこの建物は、その二階にはヴェルディの遺志通りパイプオルガン付きの小ホールがあり、中心には礼拝堂、レストラン、病院なども完備されています。

運営資金はヴェルディの作品の印税が切れたのちは、全世界からの寄付と援助、さらにヴェルディの残した「ヴェルディ基金」から捻出されているそうです。彼は今、自身の建てた「憩いの家」の中庭に妻ジュゼッピーナと共に眠っています。その墓所では、ときに若い音楽家の卵と老齢の音楽家が仲良く集う姿が見ることができるそうです。

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「カメリアコンプレックス」という言葉があります。その語源は、彼が創作した「椿姫」の主人公、ヴィオレッタ・ヴァレリーとアルフレード・ジェルモン、もしくは、原題の小説の主人公たちにちなんでいます。

不幸な女性を見るとつい救ってしまいたくなる男性の心理を言います。ヴィオレッタは高級娼婦であり、このため西洋では「カメリア」といえば、罪を犯し贅沢なことを行う商売女の意味合いを持っています。

こうしたことから、カメリアコンプレックスとは、相手の女性が不幸だと感じたら、どんな女であってもどんなことがあっても、救い出そうとする男性の心理全般のことをさすようになりました。

女性にとってはありがたい極みなのかもしれませんが、そうしたコンプレックスを持つ男性というのはともすれば破滅型であり、場合によっては身上を潰したり、ヒモに成り下がって、人生を壊してしまう可能性もあります。

オペラ、椿姫では、相手の女性が死んでしまったために、悲劇の幕が閉じられましたが、もしヒロインが生きていたら、青年は一生彼女にかしずいて生きて行かなくてはならなかったかもしれません。

一方では、同じコンプレックスでも「ユディットコンプレックス」というのもあります。これは、自ら進んで強い男に身を任せたい強い願望と、それにもかかわらず支配はされたくはないという精神状態を表す概念で、こちらは女性に用いられる用語です。

女性には強い男に進んで身をまかせたい心理があるとされますが、その一方で自分の操を汚した男を殺したい憎しみとが無意識に混在する、といわれます。この状態がいきすぎてしまうと男性にどんどん汚される事で逆転的に男性を傷つけようとすることもあるそうです。

このため、このコンプレックスを持っている女性は、男性から見ると男の心を弄んでいるように見られることもしばしばです。

「ユディット」の語源は、旧約聖書の外典のひとつ「ユディト記」に出てくるユダヤ女性です。その原典では、このユディトが男性に乱暴されるとか、そういう話は出てきません。むしろ英雄として扱われています。

夫を日射病で失って寡婦となっていた彼女は、美しく魅力的な女性で多くの財産をもっていましたが、一方では唯一の神に対して強い信仰をもっていたため、人々から尊敬されていました。そんな中、アッシリアの王は自分に協力しなかったユダヤなどの諸民族を攻撃するため、軍隊を派遣して攻撃しようとします。

このとき、ユディットは、ユダヤを攻撃するためにやってきた司令官を姦計によって、おびき出します。その酒宴の席で、司令官は泥酔し、やがて天幕のうちにユディトは眠る司令官と二人だけで残されます。

このときユディトは眠っていた司令官の短剣をとって彼の首を切り落としました。その後、ユダヤ人はたちはこの機会を逃さず出撃し、敗走する敵を打ち破ったとされます。

ユディトはその後、105歳で亡くなるまで、静かにユダヤのベトリアという町で暮らした、といわれます。しかし、この話は後年、未亡人ユディトは、自分の町に侵略してきた敵の将軍を魅惑し、抱こうとした将軍の首を斬り町を救った、というふうに変わっていきました。

一部では「処女を与え首を切った」という話に飛躍してしまっており、これが自分の操を汚した男を殺したいほど憎むという、ユディトコンプレックスに変わっていったというわけです。この心理はカマキリの雌が交尾した雄を殺して食ってしまう事にもよく例えられるようです。

さて、あなたがたカップルは、カメリア派でしょうかユディト派でしょうか。三連休となるこの週末に、じっくりと話あってみてはいかがでしょうか。

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パナマ

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112年前の今日、「パナマ運河条約」がアメリカ合衆国とパナマ共和国との間で締結されました。

これは、1903年に締結された条約で、パナマ運河の管理運営権と軍事警察権をアメリカが管理することをパナマ共和国側が認めるというものです。と同時にパナマ運河と運河の中心から両側5マイルずつ(幅16km)の運河地帯の永久租借権、そして運河自体の建設の権利をアメリカに与える、というものでした。

つまり、この時点ではまだパナマ運河は完成していません。とはいえ、パナマ共和国は来たるべき将来に完成するであろうパナマ運河の運用の権利はほぼ放棄し、永久にそれをアメリカに与えた、ということになります。

なんでそんなことになったのかといえば、それはこのころ急速に大国として急成長していたアメリカという国の「世界制覇」の野心によるためにほかなりません。

そもそもアメリカは1898年のスペインとの戦争、米西戦争を契機に、アメリカ東岸と西岸の連絡がいかに重要であるかを知るようになりました。アメリカは東西4000km超の国土を持ち、この間を鉄道で結ぶにしても時間がかかりすぎます。

アメリカの大陸横断鉄道は1869年に完成していますが、この当時はニューヨークを出発してからサンフランシスコに到着するまで最短でも84時間かかりました。このため、1901年にセオドア・ルーズベルトが合衆国大統領に就任すると、より短い時間で太平洋と大西洋を結ぶことができるよう、中米地峡に運河を建設しようと考えました。

地峡とは、海峡の逆で、二つの陸塊をつなぎ、水域にはさまれて細長い形状をした陸地です。地図をみれば一目瞭然ですが、パナマ地峡は、中央アメリカのカリブ海と太平洋との間、パナマ中部にあり、南北両アメリカ大陸を結ぶ帯状の地峡です。

スペインの探検家、バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアがカリブ海沿岸を航行している際、原住民より「南の海(太平洋のこと)」の話を聞いたことから、1513年9月25日に発見したとされます。1513年といえば、日本はまだ室町時代中期であり、後の戦国時代の雄、豊臣秀吉の母、仲こと、のちの大政所がようやく誕生した年です。

この発見から、6年後の1519年には、この地峡の太平洋沿いの小規模な原住民の居住区の近くに、スペイン人たちによって初めてパナマの町が創設されました。南米ペルーへの探検と、黄金や銀をスペインへ運ぶための拠点とするためであり、その後ペルーへの中継地点として町は重要な貿易港として発展し、地域の行政上の中心地となっていきました。

この地峡の最狭部はサンブラス地峡と呼ばれるもので、その幅はわずか64キロメートル。他の多くの地峡と同様、いや、それ以上に貿易・軍事を拡大していくために戦略的にも重要なポイントです。ただ、ほかに同じ中米には、パナマから北西へ600km離れた場所に、「ニカラグア地峡」と呼んでもいいような場所があります。

こちらは幅が250km以上あり、パナマに比べて開削するには不利です。が、ニカラグア共和国政府の現職大統領、オルテガ大統領は経済効果が高いとして、2014年に運河の開削を開始に踏み切りました。2019年までには完成する予定だといいます。

このニカラグアの地峡には19世紀始めにはナポレオン三世も計画の実現可能性が高いとして興味を示していたといいます。が、パナマのほうが先にできたために計画は頓挫していました。それがようやく実現するわけですが、建設費には膨大な費用がかかり、ニカラグア政府はその金を中国に頼ろうとしています。

施工主体のHKNDという会社は、2012年に香港に設立されたIT企業で、運河は開通後50年間の運営権がHKNDに与えられることが契約されており、さらに50年間の延長も可能になっています。HKNDには中国人民解放軍や中国民主党の関与も指摘されており、事実上、100年間にも及ぶ中国の租借地になってしまう可能性もあるということです。

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それはさておき、こうした中南米にある地峡を開削すれば、大西洋から簡単に太平洋へ、またその逆に出られるということは誰にでもわかります。大西洋と太平洋とを結ぶ運河は、アメリカや中国がここに目をつけるよりずっと以前のパナマ地峡の発見後すぐに構想されました。

1534年、パナマを保有を宣言していたスペインのカルロス1世がその調査を指示しましたが、当時の技術力では建設は不可能であり、実際に建設されるまでにはこれから400年近い歳月が必要となりました。19世紀に入ると、産業革命や蒸気船の開発などによって船舶交通が盛んとなり、また土木技術の進歩によって運河の建設は現実実を帯びてきました。

1848年にはカリフォルニアでゴールドラッシュがはじまり、アメリカ東部から大勢の人々が西海岸をめざしましたが、当時は大陸横断鉄道はまだなく、人々は両洋間の距離が最も狭まるパナマ地峡をめざして押し寄せました。これらの人々を運ぶため、1855年にはパナマ鉄道が建設され、両洋間の最短ルートとなりました。

しかし、大量の物資を大西洋から太平洋に運ぶためには鉄道よりも船舶のほうが当然有利です。このため、何度か開削計画が立てられましたが、膨大な費用がかかることが予想されたため、多くの事業者が躊躇しました。しかし、その中で唯一着工を決断したのは、中東のスエズ運河の開削に成功し、巨額な富を得ていたフランスの実業家レセップスでした。

フェルディナン・マリ・ヴィコント・ド・レセップスは、フランスの元外交官であり、この当時フランスが進出しようとしていたエジプトに、1833年に駐アレキサンドリア副領事として就任しました。

そのエジプトへの赴任途中、船内でコレラが発生し、上陸が一時停止され、海上で隔離されてしまいます。このとき、レセップスはフランス人の技師ルペールという男がナポレオンに宛てたエジプトに関する報告書を暇つぶしに読みました。

スエズ運河は、エジプトとサウジアラビアの間にあるおよそ200kmのスエズ地峡にある運河です。その報告書の中にこの運河の開削計画に関する記事があったことから、彼はその構築の夢を抱くようになります。エジプトに到着後、副領事を務めるようになってからはその業務の傍ら、のちのエジプト総督、アッバース・パシャの家庭教師を務め、慕われました。

このころ、エジプトはイギリスによって武力鎮圧され、イギリスの保護国となっていました。そんなエジプトへフランスが進出しようとしていたのは、アフリカやインドの制覇を進めるフランスにとって、いわば目の上のこぶであったイギリスを牽制するためでした。

インドに重要な植民地をもつイギリスは、植民地と本国とに連絡を取るに当たりエジプトを経由しており、このため、エジプトを奪うことはイギリス本国とインド植民地、さらにインドと地中海の結びつきをなくすことができ、あわよくばインドの植民地を奪取することにもつながるため、戦略上も重要と考えられていました。

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しかし、そのエジプトのかつての宗主国は、東ヨーロッパからアフリカ北東部を統治するオスマン帝国であり、300年近くもエジプトを支配していた同国は依然としてエジプト国内に影響力を持っていました。

このため、この運河の開削は、イギリスとフランスそしてオスマン帝国という三者三つ巴の利権に関わる重要な案件となりました。しかし、オスマン帝国のスルタン(君主)は、この運河の開削によって同国の領地が分断されるのではないかと恐れて反対でした。

また、イギリスは影響力を持つインド貿易が、自由に通行できる運河開通によってフランスに脅かされるのではと懸念していました。

アッバース・パシャがエジプト総督に即位すると、レセップスはこのかつての教え子と懇意であったこともあり、スエズ運河の開削権を与えられました。が、運河に反対で自国の通商への脅威とみなしているイギリスはオスマン帝国スルタンに圧力をかけ、たびたび妨害しようとしました。

このため工事の着工は延滞しますが、レセップスはあきらめず、1854年国際スエズ運河株式会社を設立し、その株式を売却することで国際世論に訴え、オスマン帝国スルタン未承認のまま、翌年、試験掘削という名目で着工しました。

イギリスはさらにオスマン帝国に圧力をかけましたが、フランス皇帝・ナポレオン3世が仲裁に入り、難工事と疫病の蔓延を克服して1869年に完成させ、開通式には7000名の各国の王族や名士が参列しました。 その後、スエズ運河会社は莫大な利益をあげ、さながら1つの国家の様相を呈しました。

ちなみに、エジプトは第一次大戦後の1922年に独立してエジプト王国となり、翌年イギリスもその独立を認めました。その後クーデターによってエジプト共和国となり、第二次中東戦争で英仏イスラエルとスエズ運河の利権をめぐって戦いました。

戦況はエジプトに不利でしたが、降伏直前に米ソの仲裁が入り、英仏軍は撤退。その後スエズ運河はエジプト共和国の国有となりました。エジプトは国有化宣言を実行できた上に、イスラエルと英仏に対して正面から戦ったことでアラブから喝采を浴び、中東での発言力を確固たるものとしました。

レセップスはスエズ運河完成後、今度はパナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、パナマ運河会社を設立して資金を募りました。このころパナマ地峡は、スペインから独立したコロンビアが保有していましたが、レセップスはこのコロンビア共和国から運河建設権をスエズ運河の利益から得た豊富な資金で購入します。

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こうして、パナマ運河もフランスの主導で1880年に建設が開始されましたが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航しました。フランス政府はこのため国債を発行して多数の市民から建設資金を得ました。しかし、1884年の恐慌の影響も受けて1889年にスエズ運河会社は倒産し、事実上計画を放棄しました。

このとき、多額の資金を投じていたフランス政府は計画を頓挫させるわけにもいかず、工事を続行するために新会社を設立して運河会社の清算を進め、1890年にはコロンビアとの契約が更新されました。

1892年には運河会社の清算処理方針が決まりました。しかし、このとき約80万人の一般国民が買った債券は紙切れとなり、これを怒った債権者がリークしたのか、政府中枢にあった多数の大臣が運河会社から賄賂を受けていたという情報を新聞が報じました。

この結果、6人の大臣を含む510人の政治家が、運河会社の破産状態を公表しない見返りに収賄したとして告訴されるに至るという大規模な疑獄事件に発展します。これがいわゆる「パナマ運河疑獄」と呼ばれるもので、この事件は当時のフランス政界を大きく揺るがすものとなりました。

しかしこのとき弾劾された政治家は、前開発大臣が有罪判決を受けただけで大多数が無罪となりました。議会にも調査委員会が設けられ、104人が収賄したとされましたが、彼らは結局訴追されませんでした。レセップスとその息子およびエッフェルも背任・詐欺の罪で訴えられ有罪判決を受けたが、上訴審では無罪となりました、

ただ、レセップスはこの事件が元で精神錯乱の末1894年に病死。フランスはこの事件によりパナマ運河計画から事実上撤退を余儀なくされます。

一方、運河の開削地であるパナマ地域を統治するコロンビアでも、このころ内乱が起こり始めていました。

中央集権の保守党と連邦主義の自由党の二大政党制の対立により、内戦が起こり、1899年から1902年までの約3年間続きました。これは「千日戦争」によばれましたが、この騒ぎに乗じてパナマ運河の開削に身を乗り出したのがアメリカです。

アメリカは、中米における運河建設計画としてニカラグア案とパナマ案の二つを持っていました。が、1902年、レセップスが設立した新パナマ運河会社から運河建設等の権利を買い取るかたちでパナマ案が正式に議会で採決されました。そして、ここに運河を作りたいがために、コロンビアに軍事干渉し、これによって千日戦争は終結しました。

こうして、運河建設はその後このアメリカ合衆国によって進められることとなりました。太平洋と大西洋にまたがる国土を持つアメリカは、両洋間を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも必須のものであると考えていました。

このころまだパナマ地峡はコロンビア領でしたが、パナマ運河の地政学的重要性をほかのどの国よりも注目していたアメリカは、何が何でも運河を自らの管轄下におこうと強く志向します。こうして、アメリカがコロンビア政府に強く働きかけた結果、1903年、ヘイ・エルラン条約が両国間で結ばれました。

アメリカのジョン・ヘイ国務長官とコロンビアのトーマス・ヘルラン大使との間で結ばれたため、こう呼ばれる条約ですが、これは1千万ドルの一時金と年25万ドルの使用料で、百年にわたる運河建設権と運河地帯の排他的管理権をアメリカに認めるというものでした。

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しかし、コロンビア議会は大激論のうえ、この条約批准を拒否。またアメリカの策動に備えただちに400名を超える部隊をパナマに送りました。これに対して、ルーズベルト大統領は、コロンビアを「腐敗した虐殺者の猿ども」とののしり、許可なしでも運河建設を強行すると公表。

その後もコロンビア共和国は、アメリカがパナマ運河を建設することを拒否し続けていましたが、千日戦争で疲弊していたこともあり、パナマ地域の分離・独立の運動を抑えきれず、同年11月には、パナマ地区で暴動なども起きました。

これに乗じて、アメリカはパナマ湾に戦艦ナッシュビルと巡洋艦ディキシーなどを派遣して洋上待機の体制に入り、さらに陸路でも軍隊を派遣します。パナマでは独立派とアメリカに反感を持つ勢力が争うようになっていましたが内乱にまでは発展せず、こうした中、アメリカの支援も受けてやがて独立派は独立を宣言し、軍の将校団を軟禁。

すでに独立派に買収されていたコロンビアからの派遣軍もこれに抵抗せず、こうして独立派は臨時評議会政府を樹立し、コロンビア本国から独立を宣言してパナマ共和国が誕生しました。

マヌエル・アマドールが初代大統領に就任。セオドア・ルーズベルトのアメリカ合衆国は10日後の11月13日にこれを承認し、5日後の1903年11月18日、つまり112年前の今日、パナマ運河条約が締結されたというわけです。これによりアメリカは、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手できるようになりました。

かなり強引なやり方ではありましたが、パナマの持ち得る経済効果、ラテンアメリカ地域における軍事的重要性をパナマの住民にも焚き付け、分離・独立を裏で画策した成果といえ、現在にまでも受け継がれるその優れた戦略性、およびアメリカのしたたかさを世界に印象づけた出来事でした。

こうして誕生したパナマ共和国で新たに制定された憲法では、パナマ運河地帯の幅16kmの主権を永遠にアメリカ合衆国に認めるとの規定も明記され、以降パナマ運河はアメリカ合衆国によって事実上支配されることになりました。

運河地帯の主権を獲得したアメリカ合衆国によって運河建設は進められ、こうして、条約締結から11年後の1914年にパナマ運河が開通しました。なお、ルーズベルト大統領はそれから5年後の1919年、就寝中に心臓発作のため死去しました。

運河の開通した1914年は第一次世界大戦開戦直後であり、このため運河利用は1918年ごろまで低迷を続けました。しかし1919年に第一次世界大戦が終結するとともに、運河の利用は激増しました。

この運河の開通が莫大な経済的な効果をアメリカにもたらしたことは言うまでもありません。アメリカはまたこの運河の獲得によって、大きな軍事的な優位を得るようになります。パナマ独立時の条約によって、運河地帯両岸の永久租借地にはアメリカの軍事施設がおかれ、南米におけるアメリカの軍事拠点となりました。

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1930年代後半になると世界情勢が再び緊迫し、日本との対立が激しくなる中、アメリカ政府はパナマ運河の拡張案を成立させ、1939年に着工しました。この工事は別水路を作ってパナマ運河の通航可能量を増大させるもので、新規の閘門を作ることから第三閘門運河と呼ばれました。が、日本との戦争が激しくなったため、1942年に工事は中止されました。

しかしこの工事跡はその後も残り、21世紀に入ってパナマ運河拡張案が再浮上した時に再利用されることとなりました。その後もアメリカ政府はここを拠点として、パナマに対する有形無形の干渉を続けましたが、第二次世界大戦後になるとパナマの民族主義が高まり、運河返還を求める声が強くなっていきました。

1968年、パナマ共和国では軍事クーデターが起き、これによってオマル・トリホスが権力を握ると、国粋主義的な方針を取るトリホス政権は運河の完全返還を強く主張するようになります。これを契機にアメリカ合衆国と返還をめぐる協議が始まり、1977年、ジミー・カーター大統領の時代に「新パナマ運河条約」が締結されました。

これにより、運河および運河地帯の施政権は1999年12月31日にパナマへ正式に返還され、アメリカ軍は完全に撤退しました。新パナマ運河条約により、パナマ運河の管理運営権はパナマに委譲され、全ての国の平和的航行に対して平等に開放する、とされました。

現在もパナマ運河はパナマ共和国が管轄しています。しかし、アメリカはいまだもって有事の際には軍事介入する権利を留保しています。

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ところで、軍事といえば、第二次世界大戦時、旧日本軍は極秘作戦の一つとしてこのパナマ運河を爆破する、という突拍子もない計画を持っていました。

この計画は、同盟国ナチス・ドイツの敗戦が濃厚になり始め、不要となった米英蘭の連合軍大西洋艦隊の太平洋への回航が予想されたために持ち上がったものです。この艦隊を少しでも遅らせるために、パナマ運河を爆破し、時間稼ぎを行おうとこの計画が立案されました。

早速、大日本帝国海軍は極秘裏に艦上攻撃機晴嵐を3機搭載した「海底空母」の建造を進め始めました。「伊四〇〇型潜水艦」と呼ばれる特殊な潜水艦であり、別名「潜特型」とも呼ばれていました。

3機の特殊攻撃機「晴嵐」が搭載可能であり、第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で最大の艦でした。通常動力型潜水艦としては、2012年に竣工した中国海軍の032型潜水艦(水上排水量3,797t、水中排水量6,628t)に抜かれるまでは世界最大であり、その全長はアメリカ海軍が二次大戦中に主力潜水艦としていたガトー級を27メートル上回っていました。

理論的には、地球を1周半航行可能という長大な航続距離を誇り、日本の内地から地球上のどこへでも任意に攻撃を行い、そのまま日本へ帰投可能でした。排水量3,350tは軽巡洋艦と比較してなお大きく、かといってこうした船にありがちな鈍重さはなく、水中性能は良好であり、急速潜航に要する時間はわずか1分でした。

伊四〇〇伊四百型の建造目的は、元々はアメリカ本土の攻撃であり、南アメリカ南端を通過してアメリカ東海岸を隠密裏に攻撃することを目標としていました。そしてその立案は山本五十六だったといわれており、おそらくワシントンD.C.やニューヨーク市を標的としていたものと考えられています。

そのため、建造要綱として33000海里(6万1千キロ超)の航続距離が要求されましたが、この長大な航続距離を得るためには巨大な燃料タンクが必要であり、船体の大型化が不可欠でした。また、内陸を攻撃するために航空機を搭載されることが求められ、かつ隠密裏に目的地に達するために「海底空母」の実現が望まれました。

その航空機、「晴嵐」の搭載数は当初2機でしたが、のちに戦況の悪化に伴い伊四〇〇型の建造数が当初の18隻から10隻に削減されたことより、急遽3機に変更要請されました。この変更のときすでに建造は開始されていたため、格納塔を後部へ10m延長する、格納扉にくぼみを設ける、弾薬庫と対空火器の位置を変更する、などの設計変更が行われました。

これにより3機の搭載が可能なりましたが、搭載機「晴嵐」の仕様もこれに合わせて変更されました。

飛行機格納筒の直径は晴嵐のプロペラがギリギリ収納できる直径4mでした。このため、晴嵐の主翼の格納は90度回転させてから後方に折りたたむという、今までの日本海軍艦載機では類を見ない特殊な格納方法となりました。また、フロート部分は取り外され、格納塔外の最上甲板株に収納されました。

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その後、ドイツが降伏したことで大西洋方面の米英艦隊が太平洋に移動してくることが予想されたため、攻撃目標はアメリカ東海岸からパナマ運河に変更されました。この計画は、運河のゲートを破壊することによって、運河の大西洋側にあるガトゥン湖の水を溢れさせようというものでしたが、そのために「晴嵐」には魚雷の装備も要求されました。

こうして、伊四〇〇と搭載機晴嵐は完成しました。通常の複殻式船体の潜水艦は、1本の水密された筒からできている内殻と、それの外部にメイン・タンク、補助タンク等を置き、さらに全体を包む外殻から構成されています。しかし伊四〇〇型では2本の筒を並列し、これを合着した内殻としたため、艦の断面図が眼鏡のような形になっています。

この内殻の外部をさらに外殻で包み、艦の全高を抑えたため安定性を高めることができました。左右の内殻にディーゼルエンジンを2基づつ配置し、横方向に4基のエンジンが並びます。2基のエンジンで1つのスクリューを駆動し、2つのスクリューが推進力です。

晴嵐を射出するカタパルトには、日向、大和に採用された射出機よりもさらに40cmほど大きいものが採用され、最大5tの航空機を射出できました。射出動力は強力な圧搾空気が採用されました。ただ、この「晴嵐」の射出には時間がかかりました。

射出の前に機体を組み立てる必要があったからで、この組み立ては、飛行機に不慣れな乗員が行っていたこともありましたが、3機の「晴嵐」を発射するのに当初は半日近くかかりました。しかし、パナマへ向けての訓練が開始されたのちには、わずか15~20分程度で3機の射出が完了するほどまで機動員の熟練度が上がりました。

ところが、いざ四〇〇型の出動が可能といわれるようになるまでには、既に大半の米英艦艇は太平洋に移動済みとなっていることが判明します。

このため今さらパナマ運河を破壊しても戦略的意義が無いということになり、再び攻撃目標が変更が検討され、開戦後に伊二十五潜水艦などにより行われたことのあるアメリカ本土西海岸部への再度の攻撃も検討されました。しかし、昭和19年12月に発生した東南海地震に加え、本土空襲で愛知航空機の工場が破壊されたため、晴嵐の完成が遅延します。

晴嵐はこの伊四〇〇とともに、同じく潜水空母に改造された伊十三、伊十四などの通常型潜水艦にも搭載が予定されており、船団を組んでアメリカ西海岸を目指す予定でした。昭和20年3月の時点では、伊四〇〇本体と搭載航空機、晴嵐は完成しており、共同訓練も終了していましたが、これらの同伴艇に晴嵐が搭載されておらず、格納庫は空の状態でした。

このため、ふたたび作戦目標の再選定が行われ、最終的に1945年(昭和20年)6月12日頃、フィリピン東部およそ2000kmにある、ウルシー環礁に停泊する米機動部隊への攻撃が決定されました。

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しかし、この作戦が実行されるまでにも遅々として晴嵐の製造は進まず、このため、伊四〇〇型2艇が先行して攻撃を実行することとなりました。この作戦の遂行にあたっては、伊十三・伊十四には偵察用の艦上偵察機「彩雲」が搭載され、トラック島に輸送したのち、これらの彩雲偵察機が作戦目標であるウルシー泊地を先んじて偵察する計画でした。

ところが、先行して船出した伊十三は7月16日に米護衛空母の艦載機と水上部隊によって撃沈されてしまいます。しかし、伊十四は輸送に成功。彩雲を陸揚し、作戦の第一段階が果たされました。これにより、伊四〇〇二隻からなる第一潜水隊の攻撃予定日は8月17日3時と決定されます。

7月20日、二隻の伊四〇〇は出撃しますが、敵に発見されるのを恐れ、別々のコース取ってウルシーに向かいました。8月14日、先行していた伊四〇〇はウルシー沖の会合地点に無事到着し、後続艦とのランデブーを待っていましたが、その翌日8月15日には終戦の報を受けます。

艦内で玉音放送を受信すると、このまま攻撃を実施するか、母港の呉に帰港するか激論となりましたが、最終的に艦長判断で攻撃を中止し、呉に帰ることになりました。ところが、内地へ帰投する途中、米軍に発見され、東京湾から北東500海里(926km)の位置で拿捕。また会合地点に到着できなかったもう一隻も帰還中、三陸沖で米軍に拿捕されました。

その後、この2隻ともハワイ近海で実艦標的として撃沈処分されました。その背景には同じく戦勝国となったソビエトがその実見検分を要求してきたことがあったとされます。アメリカとしては、詳細に調べ上げた本艦のデータは既に保持しており、いまさらソ連にその「最高機密」を見せたくなかったのでしょう。

伊四〇〇型は、この2隻以外にも、佐世保海軍工廠で竣工した艇がありましたが、8月11日に呉で爆撃をうけ損傷しており、呉で整備中に敗戦を迎えました。が、残念ながらこちらも1946年(昭和21年)に長崎県五島列島北方の東シナ海でアメリカ軍の実艦標的として撃沈処分されています。

今年の7月には、海上保安庁の観測船「海洋」が東シナ海でこの伊号四〇〇潜水艦と思われる沈没船を発見したと発表して、話題となりました。また、2013年にもハワイ沖で沈没処分にされた同艦が発見されており、ハワイ大学とNHKが共同で潜水調査をしていました。

伊四〇〇はこのほかにも、数隻建造途中のものがありましたが、終戦の際に連合国軍に対する技術隠匿のために自沈処分されたり、建造中止後に解体されたりしています。

従って、現存する資料はアメリカ側が秘匿しているであろうもの以外には何も日本には残っていません。ただ、米軍が拿捕した際に撮影した一隻の伊四〇〇乗組員のカラー映像や、当時の動画として、終戦翌年ハワイ入港時の甲板上の様子が写ったカラーのもの、魚雷で撃沈される白黒のものなどがあり、報道番組などで公開されています。

また、こうした数少ない資料をもとに甲板上の形状まで再現したコンピュータグラフィック作られており、今年の5月、NHKによるドキュメンタリー番組、「歴史秘話ヒストリアスペシャル・幻の巨大潜水艦 伊400〜日本海軍極秘プロジェクトの真実」として公開されました。

こうして、日本帝国海軍による幻のパナマ運河攻撃計画が実行に移されることはありませんでした。しかし戦後、そのパナマ運河を日本は大いに活用しました。

竣工当初、この運河を最も利用したのはアメリカ、次いでイギリスであり、その他の国の利用はわずかな量にとどまっていましたが、1960年代以降、日本が経済的に台頭するに伴い利用量を急速に拡大させ、アメリカに次ぐ第二の利用国の地位につきました。

2000年には、パナマ運河利用貨物総量の6割がアメリカ、2割が日本、残り2割がその他の国の利用でした。大西洋から太平洋への輸送貨物の第1位はアメリカでしたが、太平洋から大西洋への輸送貨物の第1位は日本であり、この状況は30年以上も続きました。

1970年代に入ると日本の経済的躍進や世界経済の拡大によってパナマ運河の容量不足が徐々に叫ばれるようになり、1982年にはパナマ・アメリカ・日本3か国によるパナマ運河代替調査委員会(3か国調査委員会)が発足、1993年に調査報告書を提出しました。

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その後、1999年のパナマ運河返還によって運河がパナマ政府のもとに戻ると、パナマ政府はこの調査報告書に着目しました。この時期には通航量の増大や船舶の大型化の流れを受けて2010年にも受入れ能力の限界が来ると想定されており、運河拡張はますます急務となっていました。

これを受け、2006年に運河拡張計画案がパナマ運河庁より正式に提案され、国民投票により実施されることが決定され、2007年9月3日に着工が開始されました。この「新パナマ運河」では、新たに第3レーンを設け、完成後は現在の2倍の約6億トン(船舶トン数換算)もの航行量を見込んでいます。

2016年第1四半期までには拡張計画が完了する、とパナマ政府は明言していましたが、今年の7月、パナマ運河庁は運河の拡張工事の進捗率は約90%まで進み、来年4月には終了するとの見通しを明らかにしています。

年内中にも拡張部分での航行試験を行う予定だそうで、この拡張によって、最大で幅49m、全長366mの大型船が通れるようになります。現在対応可能な幅32m、全長294mに過ぎませんから、大幅に拡大することになります。

しかし現在、日本の船のパナマ通過量は往時に比べてかなり減っています。一方では南米西岸諸国(チリ、エクアドル、ペルーなど)の利用が急拡大し、2003年には太平洋から大西洋への輸送貨物の2位がチリ、4位がエクアドルとなって、日本は6位にまで後退しています。

このほか、中国はじめ東南アジア・東アジア諸国も経済的成長とともに利用を急速に拡大しており、2003年には太平洋から大西洋への輸送貨物においては中国が日本を抜いて第1位の利用国となっています。

なお、冒頭でも述べたように、中国はニカラグアの運河計画へも豊富な資金をつぎ込んでおり、その完成後は、この二つの運河は競合するようになるでしょう。そのため、現在パナマ運河の通航料が、1トンにつき1ドル39セント、平均で54,000ドル(約650万円)といわれているものが、どのくらい安くできるかが課題になってくるでしょう。

が、アメリカの同盟国、日本はそんな中国マネーでできた運河よりも、既存のパナマ運河をより多く使うでしょう。また、TPPの締結により環太平洋諸国との貿易量が増せば、それと同時にパナマ運河を通っての環大西洋諸国との貿易量も増すかもしれません。

ちなみに、パナマ運河の周辺地域は、1903年から1999年までのアメリカ施政下に十分な社会基盤が整備されていましたが、パナマ運河の返還によってこれらの施設はパナマ政府に無償で譲渡されています。パナマ政府はこれらの施設や土地を有効に使った開発を進めており、これによって運河沿いには多数の観光施設が相次いで建設されています。

ガトゥン湖畔には2つのリゾートホテルが建設されて運河の風景と熱帯の自然を楽しめるようになっているといい、いつかは筆者も行ってみたいと考えています。みなさんも、運河拡張工事の完成式典が行われる際にでも、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

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