そろそろ雨の季節……かな?

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雨の季節が確実に近づいている感があります。

昨年の梅雨入りがいつだったか調べてみると、東海地方は6月8日、関東甲信も同日だったようで、これはいずれの地方も平年値と同一です。しかし、おととしの2013年に東海地方は5月28日に早々と梅雨入りしており、関東甲信は6月10日とやや遅れました。

が、これは、関東より南にある東海のほうが梅雨前線の影響を受けやすいためであり、毎年だいだい東海地方のほうが先に梅雨入りする傾向にあるようです。

今年の梅雨入りはいつごろなのかな~と各気象予報会社の予想なども調べてみたりしたのですが、東海・関東甲信の梅雨入りは例年より少し遅れそうだ、と予報しているところが多いようです。

一方、梅雨明けはいつごろかといえば、梅雨の期間はふつう1か月から1か月半程度であり、東海・関東甲信の平年値は7月21日です。これより関西、あるいは東部・北部の地域の梅雨明けの時期はこれより速かったり遅かったりですが、一方で梅雨の期間の長さそのものはほとんどかわりがありません。

しかし、この間の降水量そのものには明らかに違いあり、例えば梅雨期の降水量は九州では500mm程度で年間の約4分の1です。これに対して関東や東海では300mm程度で年間の約5分の1です。

また、西日本では秋雨より梅雨の方が雨量が多いそうです。が、逆に東日本では秋雨の方が多いようで、これは梅雨の時期に西日本のほうが台風が接近することが多いこととも関係があるようです。

日本本土で梅雨期にあたる6~7月の雨量を見ると、日降水量100mm以上の大雨の日やその雨量は西や南に行くほど多くなるほか、九州や四国太平洋側では2カ月間の雨量の半分以上がたった4-5日間の日降水量50mm以上の日にまとまって降っています。梅雨期の総雨量自体も、日本本土では西や南に行くほど多くなります。

従って、梅雨といえば、「雨がしとしとと降る」「それほど雨足の強くない雨や曇天が続く」というイメージがありますが、これは東日本では正しいようですが、必ずしも西日本ではあてはまりません。

なお、梅雨は何も日本だけの専売特許ではありません。日本も含め、朝鮮半島南部、中国の華北から長江流域にかけての沿海部、および華南、台湾など、東アジアの広範囲においてみられる特有の気象現象です。

ただし、梅雨の雨の降り方にも地域差があるようで、たとえば緯度的には西日本にもほど近い、中国の長江の中流域付近の「華中」と呼ばれる地域では、積乱雲が集まった「雲クラスター」と呼ばれる水平規模100km前後の雲群がしばしば発生します。そしてこれはこの地域に毎年のように激しい雨をもたらします。

このほか、華北の一部、長江下流の華東、中国の南部華南、台湾などでも梅雨がみられますが、これらの地域では、華中ほど激しい雨は降らず、どちらかといえばおとなしい日本タイプの梅雨です。ただし、中国南部や台湾は日本の西日本と同じように雨量が多く、激しい雨が降りやすいようです。

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それでは、これらの日本以外の国々では、日本と同じように梅雨入り梅雨明けを発表しているのでしょうか。調べてみると、まず、中国大陸部では各都市の気象台がこれを行っているといいます。また台湾でも中央気象局が梅雨入りと梅雨明けの発表をおこなっているようです。

中国各都市すべてを平均した梅雨入り・梅雨明けの日にちは、だいたい緯度的に九州とほぼ同じ、長江下流域、上海などの華中に代表されるようです。1971年~2000年の統計では、梅雨入りは6月14日、梅雨明けは7月10日です。

また、華中から600~700km内陸に入った淮河(わいが)流域などの、中国奥部などでとった統計では、梅雨入りは6月18日、梅雨明けは7月11日とやや後ろへずれます。

ただ、これらは、日本でいえば東北から九州まですべてのデータを押しなべて平均したようなもので、少々乱暴な統計です。

なので、地域的に順番にみていくと、台湾や華南などの南部の地方では5月中旬ごろに梅雨前線による長雨が始まり6月下旬ごろに終わります。時間とともにだんだんと長雨の地域は北に移り、6月中旬ごろから7月上旬ごろに上述の華中や華東、そして6月下旬ごろから7月下旬ごろに華北の一部が長雨の時期となるということです。

長雨はそれぞれ1か月ほど続く点はいずれの地方も同じです。が、これから中国へ旅行に行かれる方は、南方面ほど梅雨明けが早まる、北はその逆、と知っておくと良いでしょう。傾向は日本と同じであり、入梅明梅の時期は各地域による緯度差で判断できそうです。

なお、朝鮮半島はどうかというと、これらの地域の緯度は、日本では中国地方から東北地方のそれに相当します。日本と同じく6月下旬ごろから7月下旬ごろに長雨の時期となり、1か月ほど続く点も同じであり、北にいくほど梅雨明けがやや遅れるのも中国や日本と同じです。

が、韓国北部では日本の東海・関東甲信と同じようにしとしと長雨になる傾向があるとのことです。また、北朝鮮はかなり北になるので、北海道と同じくほとんど梅雨はないようです。

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このように、日本だけでなく各国とも梅雨入り梅雨明けの時期があり、それぞれの国での観測結果に基づいて入梅明梅の宣言をしているわけですが、それにしても、こうした発表をする意味はどこにあるのでしょうか。

日本の気象庁が梅雨入り・梅雨明けの情報提供を始めたのは1955年(昭和30年)のことで、最初は、「お知らせ」として報道機関に連絡していただけでした。が、当初、気象庁としてはこうした情報提供には乗り気でなく、積極的におこなわない方針であったといいます。

その理由はよくわかりませんが、この時代の気象庁の長期予報の精度はまだまだ甘く、下手に梅雨入りや梅雨明けを宣言すると、社会の混乱を招く、といった判断などがあったのでしょう。

気象情報として公式に発表を始めたのは精度も十分にあがった1986年(昭和61年)になってからで、このときの理由としては、人々に大雨による災害に関心を持ってもらう、ということだったようです。

とくに梅雨入りを発表することで、長雨・豪雨という水害・土砂災害につながりやすい気象が頻発する時期に入ることを知らしめ、防災意識を高める目的がありました。

梅雨入りの宣言によって、多くの人が防災意識を持つようになれば、雨の季節だから何かと気をつけよう、という予防意識が芽生えると思われ、これにより官民による色々な防災対策の推進が図りやすくなる、ともいいます。

ホントか~?思ったりもしないでもありませんが、これから雨の季節になることを意識することで、実際にいろいろ雨対策をとったりすることも多いものです。例えば地下室に雨水が流入しないように土嚢を用意したり、家の周囲の側溝のゴミを取る、雨どいの枯葉を掃除しておくといったことは、個々の家庭で、いざというとき役に立つように思われます。

また、雨のシーズンに先駆けて、崩れやすい斜面の点検をしたり、普段あまり見ることのないマンホールの中をチェックしたりといった公的な対策も施して、用心するにしくはありません。

一方、高温多湿が長続きする「梅雨」の時期をしらせることは生活面・経済面でも役に立つことがあります。

例えば衣類をかびさせないように除湿剤を早めに買い求めるとか、高温多湿の季節になるので食中毒にかからないよう、食べ物の保存に気を付けるといったことであり、またそうした生活必需品や食料を提供するメーカー側も、梅雨の期間の間にどれだけ売れるかどうかという推測が立てやすくなり、在庫管理がしやすくなります。

さらに「梅雨」という一種の季節の開始・終了を知らしめることは、四季がはっきりしているがゆえに季節に敏感な日本人の感覚にとっても「季節感を知る」という点においても重要な意味を持ちます。同様に、春一番、木枯らし、初雪などの発表も、日本人にとっては季節感の把握のための重要情報というわけです。

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一方、入梅明梅宣言をする短所としては、梅雨特有の長雨・豪雨という気象パターンが強調されるがゆえに、それ以外の季節にときたま訪れる豪雨に対する防災意識・対策がおろそかになる、ということがいわれているようです。

これは当たっているともそうでないとも言えそうです。が、確かに梅雨明けだ!と宣言されると安心してしまい、ちょっとした雨なら、梅雨でもないし、どうせひどくはならないさ、すぐに止むだろう、と軽視してしまう、といった傾向はあるでしょう。

お隣の韓国の気象庁は、2009年から梅雨明け・梅雨入りの予報を行わなくなりました。近年の気候パターンの変化によって梅雨前後の降水量が近年増加してきており、梅雨入り・梅雨明けを発表することによって住民の災害への警戒がおろそかになるなどの弊害が大きくなった、というのが理由だそうです。

現在の日本で気象庁が梅雨入り梅雨明け宣言をやめたらどうなるか、ですが、日本では1993年の気象業務法改正によって、気象庁以外の者でも天気予報が出せるようになったことから、さまざまな気象予報会社が設立されるようになっています。

彼等は単に天気予報をするだけでなく、食品や衣類などの各製造メーカーの製造管理における天候変化による影響まで予測するようになっています。従って、もし気象庁が梅雨入り梅雨明け宣言をやめたとしてもこれらの民間会社が引き続き梅雨の季節の情報を流し続けるでしょうし、気象庁もこれを止めることはできないでしょう。

もっとも、気象庁のほうも、上述のとおり人々に防災意識を啓蒙する上でもきめ細かい気象情報の発信は重要と考えているようですから、韓国のように梅雨入り梅雨明けの情報公開をやめてしまう、というような乱暴なことはやらないでしょう。

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さて、梅雨の話はネタが尽きてきたのでそろそろやめにしましょう。

それにしても天気予報というものは、その地域や国によってかなり異なるようであり、日本では全国どこへ行ってもほぼ同じ気象予報ですが、国土の広いアメリカなどでは、地方によって天気予報の表現が結構異なります。

アメリカの天気予報では、例えば、dew point というのが使われる地方があります。これは何かと言えば、日本ではあまり使われない、「露点温度」というもので、大気中の水蒸気が水滴、つまり露になる、すなわち「結露」する温度のことです。湿度が高ければ露天温度も上がり、湿度が100%のときは、温度=露天温度です。

これは何に使うかと言うと、結露が起きると農産物や建築物、機械などに被害を与えることがあるので、その防止に使うということのようです。とくに広大な地域で農作物を栽培することの多いアメリカでは、結露情報は重要です。このため、日本では、湿度はパーセントだけで表示されますが、アメリカではこの dew point の方も併用してよく使われます。

ちなみに、アメリカの気温表示は、華氏温度(Fahrenheit)であり、これは˚F と表示されます。私は当初アメリカ渡った際、これっていったい何度なんだ?とずいぶん困惑したものです。これを我々が普段使っている摂氏温度に換算するためには、この華氏温度から32を引き、9分の5をかけると摂氏温度になります。

すなわち 80˚F は27.72˚C です。が、これは結構面倒くさい計算になるので、簡単には華氏温度から30を引き、それを半分で割ってそれよりやや多めの1~2度上の温度が摂氏温度、という計算をすれば、だいたい合っています。暗算が苦手の人は試してみてください。

なぜ摂氏ではなく華氏なのかといえば、アメリカは未だにメートル法を採用しておらず、ヤード・ポンド法を採用してるからであり、単位系を変えると色々七面倒くさいことが出てくる、ということのようです。

今やメートル法を採用していないのはアメリカとミャンマーだけだそうで、日本も含めヨーロッパ諸国もメートル法なのにいい加減に変えろよ、といいたくなってしまいます。が、メートル法を採用していても、アメリカを真似て華氏表示のままの国も多いので、いずれにせよ、上の換算法は覚えておくと良いでしょう。

とはいえ、要は慣れの問題です。私もアメリカにいたころには、そのうちこの華氏温度での表示に慣れてしまいました。また、華氏の方が便利なこともあって、例えば、日常生活で使う温度は、0˚Fから100˚F の間にだいたい収まり、温度の刻みが小さいので、摂氏のように小数点を使わなくてもより細かい温度がわかる、という利点もあります。

キーボードを打つときにいちいち小数点をうち込まなくても済むということでもあり、つまらん話ではありますが、このことはデータ処理をすることが多い職種などでは結構重宝です。

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このほか、温度といえば、こうした摂氏や華氏温度によるその日の最高温度や最低温度だけでなく、その下に、「体感気温」という表示をする国もあります。例えばタイの天気予報には、通常の摂氏温度の下に“cool”とか“hot”とかの表現がなされています。

かなりアバウトな表現ですが、これは、タイは熱帯地方のため、暑いのが当たり前であり、あまり細かい温度を示しても誰も気にしない、ということのようで、それなら体感温度で示したほうがよりわかりやすいだろう、という配慮のようです。

それにしても、この国では、最低気温が18度以上あっても”cool”などになるようで、逆に30度を超えても、”hot”になることは少ないといいます。ところ変われば、暑さ、寒さの感覚がこんなにも違うわけです。それにしても、あくまでその国の人にとっての「体感温度」であり、外国人にはわかりにくい予報とはいえます。

また、国によって、天気予報マークの種類や表現方法の違いかなり違います。例えば北欧諸国では雪の予報は降り方に応じて5~6種類あるのが普通で、とくにエストニアは雨や雪の表現が豊かで、雪に関しては7種類もあります。

ちなみに、日本では雨を「傘」で表しますが、世界では「雨雲」がほとんどです。「ほとんど」というより、私は傘マークを日本以外で見たことがありません。

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このほか、最近は天気予報のほかにも、紫外線情報や熱中症情報などの生活情報を出す国も多くなっています。しかし、日本では「紫外線予報」というのはありません。これがあるのはオーストラリアなどであり、この国はいち早く日焼けによる健康被害に注目した国で、世界で最も進んだ紫外線対策の基準を発表しています。

1980年代からスタートし、現在でも世界で最も進んだ対策を行っています。「サンスマートプログラム(Sun Smart Program)」といって、非常に具体的なのが特徴であり、紫外線の害を予防しようという考えは国民の間に広く浸透しています。

紫外線から肌を守るために、衣類や帽子、サングラスといった身に着けるものにこまごまとした指針が定められており、また日焼け止めについても細かい規定があります。

日本人にとっても参考になりそうなものを取り上げると、例えば衣類。これはまず、ゆったりめの軽い服装で、できるだけ腕、脚、首を覆うものが良いそうです。またTシャツは首が隠れないので、ポロシャツの方が望ましく、生地は、綿、麻等の風通しが良いものを選びます。

ポリエステル・綿の混紡や綿100%の衣服は紫外線被害を95%防ぐという結果が出ており、
洋服が濡れていたり、あせたり、古い場合には予防効果が弱まります。また、一般には白い色がいいと思いがちですが、意外にも、薄い色より濃い色の衣服の方が紫外線を吸収しないため、紫外線対策としてはより良いのだそうです。

また、オーストラリアの衣服には、紫外線保護指数UPF(Ultraviolet Protection Factor)なる基準があり、衣服のラベルにUPF指数が表示されているものが多いようです。これは衣服が太陽の紫外線を遮断する効果を数値化したもので、UPF値が高いものほどその効果が高いといいます。日本でも参考にしてはどうかと思う次第です。

このほか、帽子は、顔、首、鼻、耳、頭皮を紫外線から守れるものを着用します。屋外では、8~10cm(小さい子どもなら6cm)程度のつばのある帽子をかぶること。ただし、帽子のみだと部分的にしか覆うことができないため、日焼け止めも必ず使用します。

野球帽やサンバイザー、つばの浅い帽子は顔や首をおおうことができないため、あまり好ましくありません。また、帽子は上からの紫外線予防には役立ちますが、反射からは守ることが出来ないため、サングラスの着用や顔・首に日焼け止めを塗ることを忘れないようにします。

さらに、紫外線は、日焼けの他、目の痛み、白内障、盲目等のダメージを与える場合もあります。このため、サングラスと帽子を両方着用することにより、目に届く紫外線を98%カットすることができるとされ、普段メガネをかける人は、紫外線防止フィルムをメガネにつけるか、できれば度付きサングラスを購入します。

日焼け止めについては、日本で販売されているものにも最近は、SPF(Sun Protection Factor)という基準値が表示されているものが多くなっているようです。オースラリアでもこの値が重要な目安です。最低SPF15、できれば30のものを使用しますが、状況に応じて異なります。細かい使用方法はネットでもたくさん出ていますので参考にしてください。

ただ、サンスマートプログラムでは、浸透する時間を考え、屋外に出る最低20分前に塗るようにすることや、2時間毎に塗り直すこと、また、泳いだり運動したりした場合にも、すぐに塗り直すことなどを推奨しています。

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このオーストラリア政府が推進するサンスマートプログラム中でも、特に力を入れているのが子どもへの紫外線予防指導です。これは、「スリップ・スロップ・スラップ・ラップ(Slip, Slop, Slap, Wrap)」というスローガンを合言葉を用いた具体的な対策です。紫外線予防のために取るべき行動を示す言葉で、次のような意味があります。

長そでのシャツを着よう! (Slip on a long sleeved shirt!)
日焼け止めを塗ろう! (Slop on some sunblock!)
帽子をかぶろう! (Slap on a hat that will shade your neck!)
サングラスをかけよう! (Wrap on some sunglasses!)

子どもの時に大量の紫外線を浴びることが将来的な健康被害リスクを高めるため、紫外線から子どもたちを守ろうということで、このスローガンが誕生しました。

このほかにも、子どもが日中長時間過ごす学校では、分かりやすく、きめ細かい指導が行なわれており、例えば、「ノーハット・ノープレイ」ということで、帽子をかぶらない子どもが校庭で遊ぶことを禁じている学校が少なくありません。しかも、戸外活動授業でさえ禁止してしまうという徹底ぶりです。

日光の当たる身体部分にはすべて日焼け止めを塗ることを義務づけ、各クラスには日焼け止めが常備されています。さらに子どもは先生や大人を見習い、真似をする中で学ぶことが多いため、学校では先生が、家では親が良い手本を示し、上述のような衣類やサングラ・日焼け止めに至る細かいサン・スマート・プログラムの規定を実践しています。

もっとも、肌の色が白人ほど白くない日本人にそれほどまでの徹底した紫外線対策が必要かと言えば、そこまで神経質になる必要はない、という意見もあります。

そもそもなぜ肌の色が人種によって違うかといえば、実は黒人のような濃い肌の色は紫外線を遮断するために生まれたといわれています。

それによって肌が炎症を起こしたり、皮膚がんになるのを防ぐ効果があるといわれており、日差しの強い赤道直下の人種の肌が先天的に黒いのは、紫外線が強いためにそれに体が合わせて長い間に変化してきたのだという説が有力です。上述の衣類の話でも色の濃い色のほうが紫外線をカットしやすいと書きましたが同じ理屈です。

このため、高緯度になるほど紫外線が弱まるため肌の色も薄くなっていきます。中緯度に住む我々は肌が白くはなくて黄色であり、北欧などの地域を起源に持つ欧米人に白人が多いのはそのためといわれています。

紫外線の悪影響は、これが科学的に研究されてきた結果、現在では皮膚や目だけでなく、免疫系へも影響があることがわかっており、急性もしくは慢性の疾患を引き起こす可能性があることが解明されています。

皮膚の色の薄い欧米人はこれを遮断できないためこうした病気の罹患の可能性が高くなります。従って、紫外線を防ぎたいという気持ちは我々黄色人種よりも強いわけです。

しかし、なんでもかんでも紫外線を遮断すればいいというわけではなく、紫外線は人体にとっても重要なものです。

皮膚においてビタミンDを生成しているため、これが欠乏すると色々な障害を起こすことがあります。大腸癌、乳癌、卵巣癌、多発性硬化症の相対的な多発が指摘されており、ビタミンDの欠乏を起こし、アメリカで何万もの死者が生じているという学者もいます。

米国では日照の少ない緯度の高い地域でとくにこうした患者が多いといい、このほかビタミンD欠乏は、骨軟化症(くる病)を生じさせ、骨の痛みや、体重増加時には骨折などの症状を生じさせます。さらに、皮膚の疾患、例えば乾癬と白斑の治療において、紫外線の利用は有効であり、必ずしも紫外線は悪者というわけではありません。

精神病の治療に、紫外線が利用される場合もあるようで、まったく紫外線を浴びないで生きて行くというのは日陰のモヤシになるようなものです。

従って、黄色人種である我々は紫外線対策、日焼け対策を重要と考えつつも、多少その恩恵も享受しつつ、四季を過ごすというのが正しい生き方のようです。

これから入る梅雨にはその紫外線を含む太陽光を浴びる時間も少なくなりがちです。家に閉じこもってばかりおらず、梅雨の晴れ間には外出して少しの間紫外線を浴びるとともに、日本ならではのその豊かな自然を満喫しましょう。

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富士に鉄道でのぼる日

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梅雨入りまでは秒読み段階とはいえ、このころは一年の中でも一番過ごしやすい季節かもしれません。

秋口のころはその後厳しくなる寒さやせわしい年末に備えてなにかと緊張感のようなものがあるのに対し、この時期は、まだまだ先は長いさ、夏が来るまでじっくりやろうか、という心の余裕のようなものがあるような気がします。

いまごろから少しく体力をつけて、今年の夏こそは富士山に登ろう、と心に誓う人も多いに違いありません。例年だと7月1日が解禁日のようですが、それまでには一ヶ月近くあり、この間に体力をつけ体調を整えて、いざ日本の最高峰へ、とするのも良いでしょう。

私も……とも思うのですが、ニュース報道などでよくみかける登山の混雑状況をみると、やはりどうしても気が引けてしまいます。人ごみ嫌いの私には辛い山登りになりそうです。

なので今年の夏富士も見て過ごすだけかな~と今からもうすでにトーンダウンしているのですが、最近聞いた報道によれば、そんな富士山に登山鉄道を建設しようとする動きがあるようです。

鉄道で行けるのならちょっと考えなおそうかな、という気にもなります。どのみち混雑するのには変わりないでしょうが、鉄道ならクルマとは違って秩序だった運行ができそうで、今のように誰でも簡単にクルマで五合目まで行けるがゆえの環境破壊と、無秩序きまわりない登山風景も少しは緩和されるのではないでしょうか。

鉄道でしか登れない、というふうに規制をかけることも将来的にはできるかもしれません。が、そうなると、東京マラソンのように、抽選でしか富士山に登れなくなる可能性もあります。地元の人にとっても客足が遠ざかることになり、観光収入が減るので反対する人も多いでしょう。

とはいえ、登山鉄道そのものは観光の目玉にもなりうるわけであり、その運用の仕方によっては観光資源としての富士の価値はさらにアップしますし、それに合わせた観光収入の増加、環境破壊の抑制、などのトリプル効果を狙える可能性を秘めています。

いっそのこと頂上まで鉄道を敷設して、行きも帰りも登山鉄道で、というのは不可能なのかな、と思うのですが、技術的にみるとこれはどうも難しそうです。というのも五合目から上の富士山というのは、気象的にはかなり過酷な条件となり、とくに冬場はむき出しの斜面であるがゆえの突風などもあって、これは鉄道車両にとってはかなりの脅威です。

また、遠くからみるほど山肌はつるつるではなく、ほとんどがぼろぼろの溶岩でできているため、崩落しやすいのが富士山の特徴です。過去に何度も落石があり、石に当たって亡くなった方が何人もいます。

最近こそ登山道周辺には落石ないように整備が進んだようですが、その昔は素人に富士登山は無理、といわれていた時代がありました。登山鉄道を頂上まで造ろうとするならば、万一の風や雪氷への対策と落石対策などを万全にする必要があり、そのための対策費用はおそらく莫大なものになるでしょう。

その点、五合目までならば、既に道路がありますし、この既存インフラに沿って鉄道を這わせればいいだけであり、建設費用もかなり安くなる可能性があります。とりあえずは五合目まで建設し、その後さらに可能ならば上を目指していく、という考え方もあり、それならば無理からぬ計画になりそうです。

それにしても、登山鉄道の定義とは何ぞや、と気になったので調べてみたのですが、日本では普通の鉄道で越えられる勾配は最大で35‰(パーミル・1,000m進むと35m上がる(または下がる)坂道の勾配は35‰)と決められています。これを超える勾配区間は特認扱いということで、これが登山鉄道ということになるようです。

特に50‰を超える路線を走る車両は、ブレーキなどに特殊な装備を施していることも義務づけられているということで、さらに車輪とレールの密着度(摩擦度)の高い特殊車両(これを粘着方式車両という)ならば、短編成に限るという条件付きながら80‰以上の勾配の登山鉄道も建設が可能なようです。

海外では例外的に100‰程度の粘着式車両の例もあるようです。が、一般的には安全性も考えて80‰以上の勾配や長大編成となる区間はラックレールなどの特殊な装備を敷設することが推奨されているようです。

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しかしそもそもそんな登山鉄道の実績が我が国にあるのかな、と調べてみたところ、結構あるようです。関東地方では、最近火山噴火で何かと話題の箱根にある、箱根登山鉄道線(80‰)は、鉄道事業法準拠の粘着式普通鉄道であり、かつこの形式では最急勾配です。

また、旧信越本線で使われていて、現在は観光用に使われている、碓氷峠鉄道文化むらのトロッコ列車(66.7‰)や、黒部峡谷鉄道本線(50‰)、関西では叡山電鉄鞍馬線(50‰)、南海電気鉄道高野線(50‰)神戸電鉄有馬線・粟生線(50‰)などが、現役の粘着方式登山鉄道です。

箱根登山鉄道線は、小田原市の小田原駅を起点とし、箱根町の強羅駅までを結ぶ鉄道路線です。建設にあたってスイスのレーティッシュ鉄道という鉄道を参考にしており、これらのヨーロッパの登山鉄道を視察した明治時代の名士による提案により着工が決まったといいます。

この名士というのが誰なのかはわかりませんが、1907年(明治40年)、スイスにおける登山鉄道の実況を視察したというこの人物から、この当時まだ小田原電気鉄道と称していた箱根登山鉄道宛てに、「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が送られてきたそうです。

それまでも、この当時まだ「温泉村」といっていた箱根町から「路線を当村まで延長して欲しい」という要望が出ていたといいます。が、社内では株主の反対により計画はとん挫していました。しかし、この手紙がきっかけで、再び登山電車の建設計画が具体化し、実業家の益田孝や井上馨などの後押しもあって、臨時株主総会で建設が決定。

社内技術者をヨーロッパに派遣し。約半年間にわたる視察を終えた結果、最急勾配80‰の粘着式鉄道として登山鉄道を建設することになり、1912年に建設が開始されました。その後資金難や第一次世界大戦の影響で輸入予定だった建設資材の未着や遅れが発生したことなどで工事は大幅に遅れましたが、着工から7年以上経過した1919年5月に完工。

その後、数々の事故もあり、さらに経営危機、同じく箱根開発を目論んでいた西武グループとの「箱根山大戦争」といった出来事もありましたが、完成から100年近くも経た現在でも現役の登山鉄道として活躍しています。

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ちなみに、この箱根登山鉄道の終点駅、強羅(ごうら)の標高は541mで、始点の小田原駅との標高差は527mにすぎません。登山鉄道とはいえ、少々物足りないかんじです。

一方、こうした粘着式鉄道よりさらに高所をめざすとなると、やはり車両のレールや車輪に工夫が必要になります。山は高所になればなるほど勾配がきつくなりますから、80‰以上ともなると、かなり特殊な車両が必要となり、その代表とされるのがラック式鉄道です。

車輪に歯車状のギザギザがついていて、これをレールにも施された凸凹と組み合わせて急斜面をのぼります。日本においてこのラック式を用いて最大勾配を登るのが、兵庫県川西市の妙見山中腹を登る、能勢電鉄シグナス森林鉄道(138‰)です。

もっともこれは遊園地の乗り物のような趣であり、一応トロッコ列車とは名がついてはいますが、時速は5km/hしか出ません。また軌間もわずか38.1cmというおもちゃのような鉄道です。終点駅の標高もせいぜい590m程度であり、強羅とたいしてかわりありません。

これ以上の高所まで80‰以上の勾配で登る登山鉄道ということになると、日本ではあとふたつしかありません。

そのひとつは、大井川鐵道井川線です。日本の鉄道事業法準拠の普通鉄道での最急勾配である90‰の斜面を登ります。車両形式はこれもラック式ではあるものの、さらに特殊なアプト式とよばれるラック式鉄道になります。これは通常のラック式が左右二つの車輪が歯車状になっているのに加え、真ん中にもうひとつ歯車状の車輪が加わったものです。

また、両輪には歯車が与えられず、真ん中に歯車を設け、それに対応する凸凹レールを中央に敷設する、という形式もあり、井川線はこの形式です。かつては、信越本線の碓氷峠区間にも同じアプト式のラック式鉄道がありましたが、その後車両技術やレールの敷設技術が向上したため廃止になりました。

なお、信越本線のように廃止になってものも含め、日本の営業用路線では過去にこうしたアプト方式によるラック式鉄道しか存在しなかったため、ラック式鉄道そのものを「アプト式」と誤解して呼ぶ事がありますが、アプト式はあくまでラック式鉄道の一種類です。

この登山鉄道は、そもそも大井川の上流に計画された多目的ダム、「長島ダム」の建設資材を運ぶために建設されたものです。ダム自体の建設は1972年に始まりましたが、このダムよりさらに上流には1957年に完成した井川ダムがあり、このダムを利用していたのが、その当時の「大井川電力」です。

現在は中部電力に吸収されてしまっていますが、この電力会社の専用鉄道として存在していました。井川ダム建設のための資材を運ぶ路線として1935年(昭和10年)に完成し、1954年(昭和29年)に中部電力に買収されて同社の専用鉄道となりました。

そして、中部電力はこの路線を引き継ぐとともに、同年大井川鉄道井川線として一般旅客向けの営業も開始。これが現在の大井川鐵道井川線になります。

現在の路線は2002年に完成した長島ダムにできた新駅を追加し、もとからあった奥地の井川ダムのある終点、井川駅まで続きます。一方の始点は静岡県榛原郡川根本町の千頭駅となり、ここで大井川線に乗り換えて、島田で東海道線に接続する、という位置関係になります。千頭から井川まではだいたい1時間半弱の工程です。

大井川鐵道井川線は、ダム建設のための専用鉄道として建設された経緯から、我々がふだん見慣れている車両よりはかなり小さく、車両幅も最大で1850mmしかありません。ちょっと大きめのトロッコといった趣ですが、ちゃんと窓や扉はあります。が、客車はすべて手動ドアであり、駅に停車すると乗客がドアを手で開けて、車掌がドアを閉めてまわります。

大井川の流れに沿って山間を縫うようにゆっくりと走りますが、全線の1/3がトンネルと橋梁で占められています。私自身はまだ乗ったことがありませんが、その昔クルマで大井川ダムまで行ったことがあり、このとき並行する道路からこの鉄道がたことがあります。

傍目には結構「登山鉄道」していましたが、実際に乗ってみても非常にカーブが多く走行中は車輪が軋む音が絶えないため、結構迫力があるといいます。日本において一般向け営業をしている鉄道路線の中では唯一こうした山岳鉄道の味わいを感じることができるものではないでしょうか。

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しかし、この登山鉄道の終点の井川駅の標高も686mであり、1000mを越えません。いまひとつ山岳鉄道といえるのは高さが足りない気がします。

この点、もうひとつ、勾配80‰を超える鉄道として日本で最高地点まで登るのが、国土交通省立山砂防工事専用軌道(83.3‰)です。

役所の専用鉄道であり、詳しいデータが公表されていないのですが、始点の立山の千寿ヶ原467mから上り詰めた先の水谷という場所の標高は、1500m内外のようです。

ただし、国の砂防事業である常願寺川流域の砂防施設建設に伴う資材・人員の輸送を目的として建設されたものであり、通常は一般の人の乗車は許可されません。ただし、地元の博物館が主催する砂防工事の見学会に参加することで、乗車することが可能です。

立山連峰に端を発し富山市で富山湾に流れ込む常願寺川は、日本のみならず世界でも有数の急流河川です。その上流部は、非常にもろい、火山性の立山カルデラと呼ばれる地質であり、過去に何度も水害や土砂災害を流域にもたらしてきました。

このため、明治の終わりごろから砂防工事が始まりましたが、この当時の資材等の運搬はもっぱら人力に頼っていました。いわゆる”ボッカ”と言われている人夫です。

ボッカたちは明治39年に開かれた立山新道(旧立山参詣道)の急な山道を千寿ヶ原から立山温泉まで日帰りしていましたが、彼等は60㎏のセメント樽の上に他の荷物も載せ、20~30人の隊列を組んで仕事をしていました。その日の内に作業現場に到着するために、朝の3時頃に千寿ヶ原を出発していたといいます。

1926年(大正15年)に、この当時の内務省の中に砂防ダムなどの砂防施設建設工事を行う部門ができ、このとき、ここの主導により資材や機材・人員を輸送するための工事用軌道も建設されるところとなりました。昭和元年に本格着工が始まり、1931年(昭和6年)までには現在のルートがほぼ確立しました。

しかし、現在のようにレールが敷かれるのは1962年のことであり、それまでは「索道」を用いたインクライン形式でした。

インクラインとは、鉄性の索道、すなわち鋼索(ケーブル)が繋がれた車両を巻上機等で引き上げて運転する鉄道です。自力走行で山を登る電車とは異なり、区間区間で巻き上げ機を設置する必要があり、手間もかかりますが、費用も莫大にかかります。

このため、索道を軌道に置き換える工事が1962年から始まりました。終点の水谷にほど近い、樺平付近まで連続18段に及ぶスイッチバックを設ける工事が開始され、1965年に工事は竣工しました。が、路線は急峻な山岳地帯に敷設されていることから、工事中には大雨による路盤の崩壊や落石・倒木等の被害も少なくなかったようです。

スイッチバックというのは、険しい斜面を登坂・降坂するため、斜面少し昇ったら、ほぼ180度向きを変え、反対方向へと鋭角的に進行方向を変えながらジグザグに登っていく方法です。総体的には走行距離は長くなるものの、車両が昇る勾配は緩くすることができます。

このため、立山砂防工事専用軌道の勾配は、上述の箱根登山鉄道の90‰よりも低い83.3‰に抑えられており、またこのためアプト式やラック式といった特殊車両を用いる必要もなく、粘着式の鉄道で済ませることができました。

ただ、勾配を緩くしようとすれば当然スイッチバックの数も増えます。当初は18段でしたが、その後段数を増やし、最終的には38段にまで増えました。

この38段のスイッチバックというのは世界的にも類例は少ないようです。中国に本路線を上回るスイッチバック専用鉄道があるものの連続していません。18キロの区間に連続38段ものスイッチバックがある路線は他に例はありません。なお、上述の箱根登山鉄道にも一部スイッチバック駅があります。

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列車はディーゼル機関車が人車・貨車3両前後を牽引するのが基本編成で、モーターカーによる単行運転もあります。機関車には多様なヘッドマークが取り付けられており、これは、列車系統番号等を示すために先頭部取り付けられている表示幕です。これを撮影さるためだけに千寿ヶ原を訪れる鉄ちゃんもおり、人気があります。

その特異な線形や車両に加え、る全線の所要時間は1時間45分の間に立山連峰の絶景地帯を走行することから、こうした鉄道ファンのみならず、一般の観光客からも乗車を求める要望が絶えません。

しかし、工事の資材・人員運搬が主目的の鉄道であり、沿線では落石等の危険もあるため、便乗は原則として認められていません。が、1984年から所管の立山砂防事務所の見学会の参加者に限り、砂防施設への移動のため利用ができるようになり、現在は立山砂防に隣接する立山カルデラ砂防博物館が同館主催の「野外体験学習会」の参加者のみが乗れます。

当初は「富山県在住者のみ」「砂防博物館の来館経験者のみ」という応募条件だったそうですが、ブーブーという声があがり、こうした制約は2007年に撤廃されました。ただし参加するためには事前に申し込みをして抽選に当選する必要があり、その抽選倍率は最大で6倍にも達するということです。

なかなか入手しがたいプラチナチケットのようですが、不満の声も多いことから最近は千寿ヶ原付近に設置されている訓練軌道を利用して、体験乗車会が催されることもあるそうです。このためだけに訓練軌道の延伸工事が行われ、現在では約1.5kmほどです。詳しくは立山砂防か立山カルデラ砂防博物館のHPを参照してください。

なお、この立山砂防工事専用軌道は、2006年に国の文化審議会が認めるところの「登録記念物」になっており、文化財保護法の制度上では「遺跡」として扱われているとのことです。九州・山口の近代化産業遺産群の、ユネスコの世界遺産暫定リストへの登録が認められた矢先のことでもあり、今後さらに人気がでてくるかもしれません。

今後、もし本当に富士山に登山鉄道を作るとすれば、やはり参考とされるのは箱根登山鉄道や大井川鐡道、そしてこの立山砂防の専用軌道でしょう。どの形式が採用されるのか、また建設するのは民間なのか国なのかといった具体的な話しは何もまだ決まっていませんが、2020年の東京オリンピックまであと5年、建設はけっして不可能ではありません。

オリンピックの年に大勢の外国人が日本に押し寄せる中、日本初の標高2000mに達する登山鉄道の完成は大いに日本の技術力や観光力を海外にアピールできると思うのですがいかがでしょう。

最近日本の経済もかなり上向いてきたようです。ぜひとも「富士登山鉄道」を実現してほしいものです。

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5月生まれは……

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昨日の奄美地方の梅雨入りに続き、今日は沖縄も梅雨入りしたとの報が入ってきました。

例年より少し遅めのようですが、早晩、関東や伊豆でも梅雨入りすることでしょう。うっとうしい季節になりますが、心の中にまでカビを生やさないよう、がんばりましょう。

さて、5月も下旬に入ってきました。年が明けてから3月4月と何かとせわしい気分ですごしてきましたが、新緑が深緑に変わるのと同時に、気持ちも何やら少し落ち着いてきたような気がするのは私だけではないでしょう。

十二支の元ともなった中国の占い、陰陽五行によれば、この5月に生まれた人は明るく行動力があり、頭の回転が速い探究心にあふれた気質を持っている、といいます。人の気持ちに敏感で、瞬時に周囲の信用を得ることができる点も5月生まれの長所。ものごとの理解力が高く、社交的で自己アピール能力の高さはピカイチだとも。

現在、私の周囲にはこの5月生まれの人はいませんが、その昔勤めていた会社で仲の良かった同僚は5月生まれでした。同期入社したこの友人は、私が会社を辞めて留学した直後にやはり会社を辞めました。クラッシックが趣味で、それが高じての退職で、その再就職先も新日本フィルハーモーニー交響楽団でした。

私と同じく大学は土木工学科を出た技術者だったわけですが、同部門に配属されたといこともあり、同期入社の中では一番仲がよく、忌憚なく上司の悪口も言え仕事の上でのグチも交わせる相手でした。確かに明るく行動力があり、一方では人の気持ちに敏感できめ細かい神経を持った男で、「瞬時に周囲の信用を得ることができる」というのもうなずけます。

人望のある人物でしたが、その再出発も大正解だったようで、その後楽団の事務方を昇りつめ、フィルの事務局長まで務めました。最近は財団法人の日本オーケストラ連盟のほうに移籍し、ここでも事務局長などをやっているようですが、今も周囲の人の理解を得る達人であり続けているのでしょう。

もうそれこそ20年以上も会っていませんが、何年か前に久々に会うチャンスがありました。共通の知人がその消息を教えてくれたため、メールの交換が実現したのですが、ちょうどそのころは私のほうが伊豆への引越し等で忙しくなり、結局は再会が果たせませんでした。いずれまたの機会をみつけて、ぜひ久々の再会を果たしたいものです。

そうした優しい性格の5月生まれの中でも、新緑の深まる今日、5月20日に生まれた人はどんな人がいるかなと検索してみました。

すると、まず目についたのが高村光太郎の妻、高村智恵子。光太郎作の詩集、「智恵子抄」の主人公であり、この物語は泣かせます。女子大時代の智恵子は機知にとみ、一事に集中する性格だったといい、出会ったころに荒れていた光太郎を全うなところに導くことができた、というところは5月生まれの包容力ならではのことだったでしょう。

同じく詩文関係では詩人で書家の相田みつおさんも、今日が誕生日です。相田さんは人間臭く、わがままで、嫌いな相手とすぐケンカになったりということも多かったようですが、自己アピール能力の高さからか、懇意にしていた書道家仲間も多数存在し、女性に大層もてたといいます。

その愛情に満ちた書や詩も「瞬時に」人のこころを掴むという特性がありました。が、脳内出血で1991年に亡くなっています。享年67。

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続いて目についたのが、政治家です。民主党の元外務大臣の玄葉光一郎さんと同じく民主党で総理大臣まで務めた、野田佳彦さんは同じ誕生日です。二人とも篤実で敵を作らない、敵もすぐに見方にしてしまう、というタイプであり、これも5月生まれの社交性を発揮している典型的なひとたちのように思えます。

そのほかスポーツ選手の面々もこの日生まれが多く、有名どころでは王貞治さんや、バレーボールの益子直美さんがいます。こちらも他人好きするというか、誰にでも信用され、自然とリーダーに推挙されて上に上がっていくタイプです。益子さんはオリンピックにこそ出ることができませんでしたが、イトーヨーカドーバレーボール部時代は主将でした。

また、スポーツの世界では、戦前生まれの人にとっては、おそらく王さん以上に有名なのが、「前畑ガンバレ!」の前畑秀子さんです。

1914年(大正3年)5月20日生まれで、1995年(平成7年)に80歳で亡くなっています。どんな性格の方だったのかまでは詳しい資料がないのでわかりませんが、引退後は母校の後進の育成に努め、ママさん向けの水泳教室なども開いていたようなので、やはり人に好かれる社交的なタイプだったのでしょう。

1932年のロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎで銀メダルを獲得したほか、1936年のベルリンオリンピックの同競技では金メダルを獲得しました。

この試合は、現地での試合が日本時間では午前0時を回っていたため、NHKのラジオ放送の中継が始まったときのアナウンサーの第一声は、「スイッチを切らないでください!」だったそうです。

この試合で前畑選手は、地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて、1秒差で見事勝利を収めることになりますが、その最後のデッドヒートはかなり白熱したものでした。

このときのNHKのアナウンサーは、興奮のあまり途中から「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」と20回以上も絶叫し、真夜中にこの中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させました。

このアナウンサーは、河西三省(さんせい)といい、この当時のラジオのスポーツ中継番組の実況アナウンスでは広く知られる人だったようです。野球中継においては、「河西の放送を聴けば、そのままスコアブックをつけることが可能」と評されるほどの豊富かつ克明な描写で知られていました。

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このベルリンオリンピックでは、こちらもNHKの名物アナウンサーとして知られていた山本照とともに数々の実況担当をしていましたが、この日の200m平泳ぎの結晶は川西アナが担当となりました。しかし連日の放送で彼自身もかなり疲れていたといい、普段の冷静さからは一転し、以下のような白熱したアナウンスとなりました。

「前畑! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ! ゲネルゲンも出てきました。ゲネルゲンも出ております。がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! 前畑、前畑リード! 、前畑リード! 前畑リードしております。前畑リード、前畑がんばれ! 前畑がんばれ! 」

「リード、リード、あと5メーター、あと5メーター、あと4メーター、3メーター、2メーター。あッ、前畑リード、勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! 前畑勝った! 前畑勝った! 前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑の優勝です、前畑の優勝です。」

ほとんど同じ言葉の羅列にすぎませんが、アナウンサーという職責を忘れた一生懸命さが伝わってきます。この実況を遠く離れた日本で深夜に聞いていた多くの人たちも思わずこれを聞いて手に汗握り、かつ歓喜したというのもうなずけます。翌日の読売新聞朝刊においては「あらゆる日本人の息をとめるかと思われるほどの殺人的放送」と激賞されました。

この放送を聴いていた名古屋新聞浜支局の支局長が興奮のあまりショック死してしまうという事件も起こったといい、この放送は現在でも語り草となっています。

その後、レコード化までされたようです。ただ、この試合では最後の追い込みでゲネルゲンにかなり迫られるシチュエーションもあったようで、最後のデッドヒートの前に河西アナが「前畑危ない」と連呼している場面もあるといいます。このため、このレコードでは、その部分だけはカットされているとのことです。

この前畑選手というのは、豆腐屋さんの娘だったようです。和歌山生まれで小さいころから紀ノ川で泳いでいたといい、尋常小学校5年生のとき女子50m平泳ぎで学童新記録を出しました。次いでは高等小学校2年生のとき(現在では小学6年に相当)、汎太平洋女子オリンピックに出場し100m平泳ぎで優勝、200m平泳ぎで準優勝しました。

当時の慣習から、高等小学校を卒業後は、学業や水泳をやめて家業の豆腐屋を手伝うはずだったそうです。が、彼女の水泳の素質に着目した学校長など関係者が両親を説得にかかり、名古屋の椙山女学校(現・椙山女学園)に編入し水泳を続けることができるようになりました。

ところが、17歳になった1931年(昭和6年)、1月に母が脳溢血で、6月にも父が脳溢血で相次いで亡くなり、一度に両親を失っています。この不幸が災いしたのか、その翌年に開催された第10回大会ロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎでは、金メダルを逸し、銀メダルに終わっています。

金メダルはオーストラリアのクレア・デニスで、前畑とは0.1秒差だったといい、大会後はこうした家庭の事情もあり、引退も考えたといいます。しかし、祝賀会に駆けつけた東京市長の永田秀次郎に説得され、競技人生を続けることを決めます。

このとき永田市長は、「なぜ君は金メダルを取らなかったのか。0.1秒差ではないか。無念でたまらない」と言ったといいます。が、これは彼女を非難することばではなく、次のオリンピックで必ず金を取れ、という激励だったようです。

当時、永田は東京市長としてオリンピックの日本誘致に奔走しており、そのこともあってこのとき涙を流さんばかりに前畑を説得したといい、前畑はこうした周囲の大きな期待に押され現役続行を決意しました。

その後、1日に2万メートル泳ぎきる猛練習を重ねたといいます。日本の水泳選手の練習量は、現在の男子水泳の一人者、入江陵介選手でも一番多いときで1万6~7千メートルにすぎないといいますから、時代が違うとはいえども、女性の彼女にとっては、かなり激しい練習であったと思われます。

その成果は、1933年(昭和8年)の200m平泳ぎの世界新記録を樹立として現れました。そして更にその3年後のベルリンでは、悲願の金メダルを獲得することになりました。この金メダルはその後、母校の校長の管理の下、金庫に納められていたそうです。が、その後の太平洋戦争時に、空襲で金庫ごと吹き飛ばされてしまっています。

同じベルリンオリンピックでは、平泳ぎ200mでドイツのエルヴィン・ジータスとの接戦の末に金メダルを獲得した、葉室鐵夫選手がいました。彼が獲得した金メダルは戦時下を無事くぐり抜けたため、前畑選手は戦後、この金メダルから作り上げたレプリカを大事に持っていたといいます。

ベルリンからの凱旋の翌年、前畑は名古屋医科大学(後の名古屋帝国大学、現在の名古屋大学医学部)助手の兵藤正彦とお見合い結婚をして兵藤姓となり、引退後は母校の椙山女学園職員となりました。その後はここで後進の育成に努めるとともに、ママさん水泳教室を開くなど一般への水泳の普及にも貢献しました。

戦後の1964年(昭和39年)の秋の褒章で、紫綬褒章を受章。1977年(昭和52年)には再びベルリンの地を訪れ、ゲネンゲルと再会しましたが、このとき62歳になっていた前畑と66歳のゲネンゲルは、二人仲良く50mを泳いだといいます。

69歳のとき両親と同じく、脳溢血を発症し倒れましたが、リハビリにより再びプールに復帰。75歳のとき、日本女子スポーツ界より初めて文化功労者に選ばれましたが、その5年後の1995年(平成7年)2月24日、急性腎不全のため80歳で亡くなりました。

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実はこの前畑がベルリンオリンピックで金メダルを獲得した試合を現地で直接観戦していた、同じく5月20日生まれの日本人がいました。

鉄道省技師の島秀雄がその人であり、島といえば、「デゴイチ」のあだ名で知られる蒸気機関車D51形の設計者としても、また新幹線の産みの親としても知られる人です。長年勤務した国鉄退職後は、宇宙開発事業団でロケット開発にも携わっており、戦後の日本の産業界において最も高名な技術者のひとりに数えられます。

このときベルリンにいたいきさつというのは、ちょうどこの年、所属していた鉄道省からの海外の鉄道事情視察の命を受け、翌年にかけてアジア・欧州・北米と外遊していたためでした。

この渡航は、彼にとっては2度目であり、1927年(昭和2年)にもヨーロッパ諸国とアメリカを歴訪しています。ただ、このときは鉄道の調査が目的ではなく、鉄道省幹部の国際会議への出席に随伴する私設秘書としての渡航でした。

この2度目の渡航では、このほか南アフリカや南米などにも渡っており、ほぼ世界中の鉄道事情を視察し貴重な写真や資料を持ち帰っています。ベルリンオリンピックを観戦したのは、この当時日本は次の第12回大会における東京招致も決定していたため、開催に備えてのベルリンオリンピックにおける観客輸送の実体などの調査も兼ねてのことでした。

一説には開会式しか出席しなかったともいわれているようです。が、当時も評価の高かったドイツにおける鉄道事情の視察にはそれなりに時間はかかったはずであり、おそらくはこちらも前評判の高かった前畑の決勝戦を観戦したというのも事実でしょう。

それにしても、同じ誕生日生まれの2人が、お互い遠く離れたベルリンの地で同じときに同じ場所にいたというのが不思議な感じがします。

ただ、島のほうは前畑を知っていたでしょうが、前畑のほうが島の渡欧を知っていたかといえばそうではないであろうし、偶然といえば偶然です。この2人はそれ以前、それ以後も接点はなく、たまたま居合わせたのはこのときだけのようです。

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また、前畑は和歌山県橋本市生まれで、島は大阪府生まれです。この点でも接点はありません。しかし、同じく鉄道技術者だった島の父の島安次郎は和歌山市生まれです。橋本市と和歌山市はほど近く、安次郎も幼い秀雄を連れて郷里に帰ることも多かったでしょう。ですから、もしかしたら子供のころ、どこかで2人は出会っていたかもしれません。

この話は、私のまったくの想像です。が、誕生日の偶然はもしかしたら地の理の偶然につながっている、てなことはもしかしたらもあるかもしれません。たとえば、星占いは惑星の運行と誕生日の関係から運命を占うものであり、生まれた地の同一性は運命の類似性にも影響を及ぼします。

で、あるならば生まれた日と生まれた場所が近ければ、単に誕生日が同じということだけにとどまらず、同じような性格を持つ可能性もあるわけであり、違った人生を送っていても、かなり類似点は多くなる、という理は通るかもしれません。

前畑は21歳で金メダルを取り、翌年に結婚して家庭に入っており、その後の人生で男性の島ほど大きなターニングポイントといえるようなものはありません。が、49歳のとき、紫綬褒章を受章を受賞しています。一方、島は49歳のときには国鉄車両局長でしたが、このとき鉄道史上の大参事といわれる桜木町事故がおきました。

この桜木町事故というのは、1951年(昭和26年)4月24日に京浜東北線の桜木町駅構内で発生した列車火災事故です。原因は架線・パンタグラフのショートによるもので、その火花が車両の可燃性の塗料に着火して車両全体に燃え広がったものでしたが、このとき乗客は脱出ドアを開けることができず、多くの死傷者を出しました。

当時の車両は、車両と車両の間の貫通路を乗客が通れなくしてありました。しかも職員によって施錠されていたため、乗客は逃げ場を失い、窓ガラスを破って脱出しようとしました。が、パニックになった乗客たちでおしくらまんじゅう状態になったため、それも果たせず、結局2両が全焼し、死者106人、負傷者92人という大参事になりました。

このとき島は、事件の責任をとって国鉄を辞職しています。彼がこうした憂き目に遭ったのに対し、同い年のとき、前畑は褒賞を受けるという対比的な運命を辿ったわけです。

ただ、島はこの下野後は、鉄道車両台車の最大手メーカーである住友金属工業の顧問を務めたほか、1953年に発足した鉄道趣味者団体「鉄道友の会」の初代会長に就任しています。従って見方を変えれば、この事件は彼にとっては新たな分野を経験するターニングポイントになったともいえます。

その2年後には国鉄に復帰しています。国鉄総裁が彼を信頼する十河信二に変わったためで、新総裁から復帰を要請されると、国鉄技師長に就任、その後は広軌高速鉄道「新幹線」計画に携わるようになりました。そして、その後は彼が中心となって東海道新幹線が完成したといわれます。

官公庁から車両メーカーである住友金属工業へと職場が変わったことが、この新幹線における最新技術の開発の数々の開発に大きな影響を及ぼしたことは想像に難くありません。また、単に車両技術を提供するという立場ではなく、乗客として乗って楽しむという立場を友の会で学んだことは、あの新幹線の乗り心地の良さにつながったに違いありません。

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ところが、新幹線開通の前年の1963年には十河が「新幹線予算不足の責任」を問われて総裁を辞任すると、島も後を追って国鉄を退職しました。彼が62歳になったときのことで、1964年10月1日に東京駅で行われた東海道新幹線の出発式に、国鉄は島も十河も招待しませんでした。従って島は、自宅のテレビで「ひかり」の発車を見ています。

一方、前畑は同じ62歳のとき、上述のとおり再びベルリンの地を訪れ、ゲネンゲルと再会しています。これは傍から見れば人生のターニングポイントとはいえるほどの出来事ではないかもしれません。が、若かりし頃の好敵手との再会は女性である前畑にとっては一大事であったに違いなく、人生における大きな出来事であることは間違いありません。

ここでも同い年で島と前畑は、良悪対照的な経験をしたことになります。が、島にとってはこれも49歳の時と同じく、人生二番目の大きなターニングポイントとなりました。国鉄を去ったことがきっかけにの後宇宙開発事業団に入っており、この出来事がなければ、新しい分野へのチャレンジはなかったことになります。

人生初めての鉄道畑以外の仕事でしたが、前述の新幹線のときと同じく、最先端高性能の技術より安全性信頼性を重視したロケット・人工衛星開発の信念を貫きました。現在日本が使用している人工衛星に「ひまわり」・「きく」・「ゆり」など植物名が付けられているのは島の園芸趣味からきているといいます。

さらにしつこいながらも二人の共通点を探してみたところ、島秀雄は東海道新幹線建設の功により、1969年に文化功労者として顕彰されています。前畑もスポーツに貢献があったとして1990年に文化功労者に選ばれています。

島は67歳のとき、前畑は75歳のときのことであり、年齢差はありますが、スポーツ関係では初めて、鉄道関係者としても初めて、という「初めての文化功労者」というところでも共通しています。

島秀雄は、その後宇宙開発事業団の理事長職を2期8年続けて引退。前畑に遅れること3年の1998年(平成10年)に96歳で永眠。さすがに命日は同じではありませんでしたが、前畑が2月24日、島が3月18日に亡くなっており、近いといえば近い。同じ魚座のシーズンです。

以上、みてきたとおり、二人の人生には何かしらと共通点があります。無理やりこじつけただろう、と言われても仕方がありませんが、私は同じ誕生日で同じ場所に生まれた人の人生はどこかでつながっている、そんな気がしてなりません。

まったく接点のない2人が、ただ人生の一時期だけ、ヨーロッパのドイツにおいて同じ場所にいた、というのはその極みのひとつです。みなさんはどうお感じになったでしょうか。

さて、今日は5月生まれ、あるいは5月20日という日にこだわって、この日生まれの人を追跡してきましたが、もうひとり、5月20日生まれをみつけました。

ジム・ライトルという、元プロ野球選手で、1946年5月20日生まれです。1969年にヤンキースからメジャーデビューしたのち彼の地で活躍しましたが、その後1977年に来日して広島東洋カープに入団しました。

来日1年目から活躍を見せ、衣笠祥雄や山本浩二らとクリーンナップを形成し、1979年から1980年の日本シリーズ連覇に貢献しており、往年のカープファンはそのさっそうとしたプレーを覚えている人も多いでしょう。

1980年の日本シリーズではMVPを獲得。攻守共にバランスが良く、勝負強い打撃、守備では強肩を発揮して広島の黄金時代を支え、1978年から4年連続でダイヤモンドグラブ賞を受賞するとともに1981年には最多安打を獲得しています。

その後はフロリダの大学でコーチなどもつとめていたようですが、69歳になって現在は老後の余生を送っておられるでしょうか。フロリダ州立大学の卒業だそうで、同大学で一時学んでいた私とも縁があります。

それにしても最近のカープは常に1点差で負け続けており、かつてライトルも所属していた同じヤンキースから黒田が帰ってきたのにいまひとつ元気がありません。

「明るく行動力があり、頭の回転が速い」5月生まれのライトルのような外国人を加入させ、ぜひ、瞬時にカープファンの信用を得ることができるようになっていただきたいもの。

プロ野球中盤のオールスターまでにはまだまだ時間があります。ぜがひともこれから梅雨入りする時期に向けて頑張っていただき、秋口にはひさびさにファンを喜びの絶頂に導いてほしいものです。

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昆布と蝦夷と……

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今日は、5月18日、ということで、ファ(5=ファイブ)・イ(1)・バー(8)の語呂合せで「ファイバーの日」なのだそうです。

誰がそんなダジャレを思いついたのかと思えば、食物繊維に関する情報提供を行う学術団体だそうで、「ファイバーアカデミア」というものがかつてあったようです。

ファイバーはつまり、食物繊維のことです。体内の老廃物や毒素を吸着して排出する「解毒」として我々が生きて行く上で必須の素材であり、その正しい摂取方法などを提唱していく、ということを目的に、栄養学の専門家かドクターなどが2005年ごろに発足させた団体のようです。

そもそも食物繊維とは何ぞやということですが、これは人の胃などにある消化酵素によって消化されない、食物に含まれる難消化性成分の総称です。植物、藻類、菌類に多く含まれ、これらを食品として摂取した場合は、消化されないで、体外に排出されます。

このため、その昔は役に立たないものとされてきました。が、後に有用性がわかってきたため、日本人の食事摂取基準で摂取する目標量が設定されているようになりました。成人では、1日に必要な食物繊維の摂取目安量は20~27gとされていますが、現在の日本人の摂取量は1日14g程度だといわれています。

目標量に比べて不足している、というわけで、上述の団体がこの足りない分量の摂取を呼びかけていくことを目的に発足させた、ということのようなのですが、意図はわからなくはないにせよ、組織化までしたいったい何を目指していたのかよくわかりません。また、ホームページも閉鎖されており、関連記事もみつかりませんでした。

なので、どういった運営をしていたのかなどもどうかもよくわかりません。いまはもう解散してしまっているのではないでしょうか。もし存続していたとすると、大変失礼なことで、お詫びしなければなりませんが。

ま、それはともかく、食物繊維というのは、人間の体になくてはならないもののようです。その効用としては、脂質異常症予防、便秘予防、肥満予防、糖尿病予防などがあるようで、このほか動脈硬化の予防、大腸癌の予防、その他腸内細菌によるビタミンB群の合成、といった効能もあるようです。

食品中の毒性物質の排除促進等も確認されているということで、上述のとおり「毒消し」の効果もあります。さらに高齢者で食物繊維の摂取量が多いと、働き盛りの青壮年なみに胃の中にビフィズス菌等が優勢になるそうで、老人特有の有害菌が抑えこまれていることも実証されているそうです。

つまりは、老化防止になるわけであり、さらには腸内腐敗防止、免疫強化、腸内感染の防御、腸管運動の促進などなど、胃や腸にはいいことずくめです。

海藻、全粒穀物、豆などに食物繊維が多く含まれますが、とくに多いのが、ワカメやヒジキ、昆布などで、100グラム中に、それぞれ69g、61g、37gも含まれています。このほか、かんぴょう30 g、海苔26 g、切り干し大根21gなども多いようです。小豆18 g、大豆17 gなどの豆類も食物繊維の多い代表です。

ちなみに、私はワカメや昆布、海苔といった海藻が大好きで、今朝もワカメを食べました。そのためかどうかわかりませんが、総じてお通じはいいほうで、日々の生活で大の字が出ないという日は、ほぼありません。

……きたない話でスイマセン。しかし、ダイエットにもいいわけであり、食べてもよしで、私としては声を大にしてこうした海藻食をみなさんにお勧めしたいとおもいます。

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それにしてもワカメと昆布は何が違うのだろう、と疑問を呈するひともいるかもしれませんので、一応解説しておくと、ワカメも昆布もいずれも、「コンブ目」に属する同じ仲間の海藻です。ただし、ワカメは、コンブ目チガイソ科の海藻であり、コンブはコンブ目コンブ科に属します。

しかし、ワカメは北海道以南ではだいたいどこでも、生育していますが、コンブのほうは、北海道沿岸と三陸海岸などの寒い地域の海藻であり、寒流である親潮が流れ込む冷たい海でないと育ちません。また、ワカメはあまり大きなものないため手で摘むこともできますが、コンブは巨大になる物も多く、ときにその収穫には船は欠かせません。

が、いずれも古くは、食用の海草として「め」と呼んでいました。漢字では、古くは「軍布」(万葉集)、「海布」(古事記)、「海藻」(風土記)などと書かれ、とりわけ昆布を指しては「ひろめ」とか「えびすめ」と呼んでいたようです。「ひろめ」は幅の広いことで、すなわち広布、「えびすめ」は蝦夷の地から来たことに由来すると考えられています。

今のように「コンブ」と呼ばれるようになった理由にはいろいろ説があるようですが、最も有力なのは中国から輸入された言葉の「昆布」の音読みであるとする説です。この漢名自体は、日本ではすでに正倉院文書や「続日本紀」(797年)に確認できるそうです。

しかし、こうした文字で確認できる依然の縄文時代の遺跡からも、ワカメや昆布などの海藻の植物遺存体が見つかっており、かなり古い時代から食されていたようです。平安時代には陸奥で採れた昆布が朝廷に貢納されていた記録があり、さらに時代が下った戦国時代には、陣中食としても使用されていました。

江戸中期には、北海道から入ってくるコンブの中継地が敦賀となり、ここから大阪や江戸の各地に広がりました。しかし、敦賀から琵琶湖を経て陸路で京都経由でないと大阪までは届きません。一方、北前船なら日本海航路を通って下関へ行き、ここから瀬戸内海経由で大阪に昆布を運べます。

遠回りにはなりますが、大量に昆布を運ぶことができますし、だいいち昆布はすぐに腐るものではありませんから、こちらのほうが輸送方法としては尊ばれるようになりました。

その後蝦夷地の開発が盛んになると、北前船の航路の整備もさらに進み、出荷量がさらに増加して、全国に広まっていく事になります。このため大阪には多くの昆布問屋できるようになりました。

乾燥させた昆布を湿気の多い大阪で倉庫に寝かせておくと、熟成することで昆布の渋みが無くなり甘みがでてきます。安土桃山時代に農・乾物の一大集積地であった大阪は多湿な気候が功を奏して乾物や昆布の旨味を熟成させ、江戸時代にはこれらは大阪の味ともされました。

一方では、大阪の農産物が北前船で蝦夷に渡り、これと交換に蝦夷から運ばれた乾物は、昆布のほか、帆立貝、棒ダラ、身欠きにしんなどがありました。しかし昆布の輸送量は中でも断トツに多く、上方でその上質なものの大部分が消費されました。

このため、江戸へ回る昆布の量は少なく、その残りものだけが江戸で流通するようになりました。品種としては、数ある中でもとくに蝦夷での採取量が多かった日高昆布が主流でした。

しかし、江戸の水質は上方より硬度が高く、昆布のダシが出にくいものであったために相対的にはあまり普及せず、ダシの材料としては主に関東近辺でも入手しやすいカツオを使った「鰹節」が多く使われました。

このため、「だしの文化」として江戸はカツオ、大阪はコンブ、とはよくいわれることです。江戸では、このようにコンブの流通量が少なかったため、だしをとったあとのコンブも貴重品といえ、このため、出がらしのコンブを醤油などで煮しめて再利用しましたが、これが「佃煮」と呼ばれるものです。

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江戸時代も後期になると、こうした蝦夷地と上方間の北前船の運行によって、この昆布などで大儲けをする廻船業者も増えましたが、中でも最も有名なのが、高田屋嘉兵衛です。

明和6年(1769年)に淡路島の百姓・弥吉の長男として生まれました。22歳の時に郷土を離れ、叔父の堺屋喜兵衛を頼って兵庫津に出ますが、淡路で瓦船などに乗った経験のあった嘉兵衛はすぐに頭角を現し、船の進路を指揮する表仕、沖船頭(雇われ船頭)とすぐに昇格していきます。

その後カツオ漁などで儲けた彼は、これを元手に北前船を購入しましたが、この船はこの当時としては最大級となる千五百石積み(230トンほど)の船で、「辰悦丸」といいました。
そして辰悦丸を入手したのちは、蝦夷地まで商売の手を広げるようになりました。

兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて酒田に運び、酒田で米を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという商売を行いますが、この商売は当たり、寛政12年(1800年)ころまでには、兵庫の西出町に「諸国物産運漕高田屋嘉兵衛」の看板を掲げる店を開けるようにまでなります。

さらには、国後島と択捉島間の航路を開拓して、択捉島では17か所の漁場を開き、アイヌに漁法を教えることでさらに漁獲量を増やしていきます。そして享和元年(1801年)33歳のとき、択捉航路の発見・択捉島開拓の功により、嘉兵衛は幕府から「蝦夷地定雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許されました。

文化3年(1806年)には大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ、嘉兵衛は漁場を次々開拓、蝦夷地経営で「高田屋」の財は急上昇していきました。このころから慈善事業にも取り組むようになり、文化6年の大火で箱館市街の半分が焼失した際には、被災者の救済活動と復興事業を率先して行ないました。

市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等も自己資金で行なうなど、箱館の基盤整備事業も実施しました。文化7年(1807年)には箱館港内を埋め立て造船所を建設。兵庫から腕利きの船大工を多数呼び寄せ、官船はじめ多くの船を建造しましたが、現在の函館の隆盛の基礎はこの高田屋嘉兵衛が創ったといっていいでしょう。

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ところが、このころから日本はそろそろ幕末の激動期に入っていきます。文化元年(1804年)、ロシア皇帝アレクサンドル1世は、外交官で商人でもあったニコライ・レザノフを日本に派遣し、日本との通商を要求しました。しかし江戸幕府はその信書を受理せず、通商要求に対しては長崎への廻航を指示。

これを受けて長崎に向かったレザノフは、ここを拠点に半年にわたって江戸幕府に交渉を求めますが、その活動範囲は出島に留め置かれ、幽閉に近い状態を余儀なくされました。

その上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至ります。そして皇帝の指示も仰がないまま、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させました。

文化3年(1806年)には樺太の松前藩居留地を襲撃し、ロシア兵が上陸。倉庫を破り米、酒、雑貨、武器、金屏風その他を略奪した後放火したのち、逃走するという事件がおきます。

それ以前から幕府は危険を察知し、新津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田藩(秋田藩)から約3,000名の武士が徴集して蝦夷地の要所の警護にあたっていましたが、このロシア側の行動に対してはなすすべもなく、利尻島では襲われた幕府の船から大砲が奪わるというようなこともありました。この襲撃は文化年間に起こったので、「文化露寇」ともいわれます。

この事件は、爛熟して文化の華が開き、一見泰平にみえた日本に、あらためて国防の重要性を覚醒させる事件となりました。江戸幕府の首脳はロシアの脅威を感じることとなり、以後、幕府は鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めるようになります。

文化露寇の後、日本の対ロシア感情は極めて悪化していましたが、そうした中、文化8年(1811年)、軍艦ディアナ号で千島列島の測量を行っていた船が国後島の泊に入港した際、艦長で指揮者だったヴァーシリー・ゴローニンが、国後陣屋の役人に騙されて捕えられ、松前で幽囚の身となります。

ゴローニンはロシア帝国の海軍軍人で探検家でもあり、1807年から1809年にかけディアナ号で世界一周航海に出て、クリル諸島の測量を行なうなどの歴史的な偉業もあげ、ロシア国内でも高い評価を得ていた人物です。

このとき、目の前で艦長が連行されるのを目の当たりにした、ディアナ号の副艦長のピョートル・リコルドは一旦オホーツクに戻り、この事実を本国に報告しました。

ちなみに、現在のオホーツクは、ウラジオストックやナホトカよりはるか北にある小さな町ですが、このころはアラスカからの毛皮や水産物の交易でも栄え、露米会社の拠点でもありました。その後沿海州をロシアが獲得したことにより、ウラジオストックが極東ロシアの中心として繁栄し、オホーツクの重要性は失われました。

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その後、オホーツクに戻ったリコルドは、ゴローニン救出の交渉材料とするため、文化露寇で捕虜となりシベリアに送られていた商人の中川五郎治(良左衛門)や文化7年(1810年)にカムチャツカ半島に漂着した摂津国の歓喜丸の漂流民を使うことを思い立ちます。そして彼等を牢獄から出し、同伴して国後島に向かいました。

国後島に着いたのちはまず漂流民を釈放し、さらに日本側からゴローニンの消息の情報を得るために良左衛門を解放し、幕府との仲介にあたらせました。その結果、幕府からはゴローニンは死んだと伝えられます。が、リコルドはこれを信じず、国後島沖に留まりました。そして、日本船を拿捕して更なる情報を入手しようと待ち受けました。

そこにたまたま通りかかったのが高田屋嘉兵衛の船です。嘉兵衛は官船・観世丸に乗り、干魚を積んで択捉島から箱館に向かう途中、公文書を届けるため国後の泊に寄港しようとしていたのでしたが、文化9年(1812年)の8月朝、国後島ケラムイ岬の沖合でディアナ号に拿捕されました。

嘉兵衛はこのころはもう苗字帯刀を許されており、北方の情報を幕府にもたらす情報エージェントとしても活躍しており、このためこのゴローニン事件のいきさつを知っていました。そしてゴローニンンの消息も知っていたため、リコルドにも彼が生きていることを伝え、さらには義侠心から自らが人質となってカムチャツカに行きたいと申し出ます。

嘉兵衛という人は、身銭を切ってまで慈善事業をやるような人であり、困っている人は外国人であっても助けようという博愛精神の持ち主だったようで、この当時の日本においては極めて稀有な存在といえるでしょう。

ディアナ号に拿捕され、虜囚の身となったにもかかわらず、リコルドとの会話のなかで彼等の困窮を聞くと、自らが捨石となることを決意します。そして、弟の嘉蔵・金兵衛に遺書を書き、食料と衣服をディアナ号に積み替え、ロシアへ連れて行くよう、逆にリコルドに申し出ました。

このとき、嘉兵衛と行動をともにしたのが、彼に心服していた水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治などであり、これに加えて前日にディアナ号に捕まっていたアイヌのシトカとともに、彼等はカムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキーに連行されました。

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しかしこうした献身的な行為にロシア側も善意で答えます。ペトロパブロフスクでの扱いは罪人のそれではなく、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎があてがわれ、さらにはここでリコルドと同居しました。

このとき、嘉兵衛は、オホーツク生まれの少年・オリカと仲良くなり、ロシア語を学んだとも伝えられており、現地での行動は自由であり、新年には現地の人々に日本酒を振る舞うなどしてそれぞれの親交を深めました。また、当時のペトロパブロフスクは貿易港として各国の商船が出入りしており、嘉兵衛もこれら諸外国の商人と交流しています。

しかし翌年2、3月に、文治・吉蔵・シトカが相次いで病死すると、嘉兵衛は精神不安定になりました。そして、早く日本へ行き、自分たちを交渉材料にゴローニンの解放を求めるようリコルドに迫りました。

リコルドは、このときカムチャツカの長官に任命されていましたが、嘉兵衛の懇請を受けて改めて日露交渉に赴くこととしました。こうして国後沖の拿捕からおよそ9ヶ月後の1813年5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号でペトロパブロフスクを出港、国後島に向かいました。そして、泊に着くと、嘉兵衛は、まず金蔵と平蔵を国後陣屋に送りました。

次いで嘉兵衛自らが陣屋に赴き、事の経緯を説明し、交渉のきっかけを作りました。このとき、幕府側(松前奉行所)からはロシア側が自分たちの非を認めればゴローニンを釈放する旨を記した説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」が起稿され、嘉兵衛はディアナ号に戻り、これをリコルドに手渡しました。

その後、ディアナ号の国後島到着の知らせを受けた松前奉行所は、吟味役・高橋重賢を国後島に送り、交渉にあたらせました。ただし、直接ロシア側と会談はせず、嘉兵衛を高橋の代理に立てて交渉を行いました。

その結果、リコルドはロシア本国からの了解を取りつけるために、いったん本国へ帰ることになり、ディアナ号で極東の拠点、オホーツクへ向け国後島を出発しました。

そしてその後、嘉兵衛は高橋重賢とともに松前に向かいます。高橋は松前奉行・服部貞勝に交渉内容を報告、これを受けた幕府の指示があり、こうしてゴローニンはおよそ2年と4ヶ月ぶりに牢から出されました。

一方のリコルドは、オホーツクでイルクーツク知事とオホーツク長官による松前奉行宛の釈明(実質は詫び状)が書かれた書簡を受け取ると日本に向かい、エトモ(現・室蘭)に到着。箱館で待機していた嘉兵衛はディアナ号を途中で出迎え、箱館に入港しました。

その後、嘉兵衛は日露間を往復し、会談の段取りを整えるなどの活躍をしています。その甲斐もあって、その後リコルドと高橋重賢ら松前奉行側の役人との会談が実現し、リコルドはオホーツク長官からの書簡を日本側に提出しました。松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、既に釈放していたゴローニンをリコルドたちに引き渡しました。

こうして1813年(文化10年)9月29日、嘉兵衛たちが見送る中、ディアナ号が箱館を出港し、ゴローニン事件が終結しました。

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嘉兵衛はその後、外国帰りのため、しばらく罪人扱いされていました。松前から箱館に戻ってからは称名寺という寺に収容され監視を受けることとなり、ディアナ号の箱館出港後も解放されませんでした。が、その後体調不良のため自宅療養を願い出てこれを許され、自宅で謹慎するようになります。

翌文化11年には再び松前奉行所に呼び出されましたが、その場において出国したのはロシア船に拿捕されたためであることを釈明し、奉行所側もゴローニン事件での交渉にあたって彼の功があったことを認めたため、晴れて無罪が申し渡されました。しかもそののちにはゴローニン事件解決に尽力したことへの褒美として、幕府から金5両が下賜されました。

その後嘉兵衛は、兵庫の本店に戻りましたが、今度は大坂町奉行所から呼び出され、宗門関係の調べを受けました。ロシアの宗教に染まっていないかどうかの確認の意味でもありましたが、このころ頻発する外国船対策のこともあり、嘉兵衛がこれまでに知るところのロシアの状況についての情報収集が目的でした。

このため、この奉行所の取り調べに引き続いてさらに、大坂城代・大久保忠真にも召し出されて、ここでもゴローニン事件について詳しく質問されています。

その後4年が経ちました。すでに49歳になっていた嘉兵衛もそうでしたが、妻のふさも病気がちになっており、このため二人して淡路島に帰っています。しかし、やはり大阪のほうが住みやすかったのか、再度ここへ戻り、大阪城の西にある野田の地に別荘を建てて、ここに逗留するようになりました。

しかし翌年の文政7年(1824年)にはついに隠居を決め、淡路島に帰ります。以後はここで暮らし、灌漑用水工事を行ったり、都志港・塩尾港の整備に寄付をするなど地元のために財を投じています。

文政9年(1826年)、57歳になった嘉兵衛は、徳島藩主・蜂須賀治昭からそうした功績を称えられ、小高取格(300石取りの藩士並)の待遇を受けています。そして、この翌年の早春には、その御礼のため徳島に行き、藩主にも拝謁しています。しかし、同年、背中にできた腫物が悪化、4月に59歳で死去。

亡くなったのは郷里の淡路島でしたが、その後亡骸は北海道に移され、墓は函館山の北方の船見町にある称名寺内にあります。上述のとおり、嘉兵衛が一時幽閉されていた寺です。

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その後、ペリーの来航に続いて日米修好条約が結ばれると、諸外国との交流はさらに活発化し、ついには幕府が瓦解し明治を迎えることになるのは周知のとおりです。しかし、明治に入ってからもこの嘉兵衛の功績は讃えられ続け、とくに函館などの北方開拓の功績をが評価されたため、死後にも関わらず明治44年(1911年)には正五位が追贈されました。

昭和13年(1938年)には、北海道札幌市中央区にある北海道神宮の敷地内にある開拓神社の祭神にもなりました。ちなみに、この神社では、同じく北海道開拓に偉業があった伊能忠敬や、黒田清隆、間宮林蔵も祭神となっており、ここ伊豆から彼の地に渡り、帯広などの開拓に功があった依田勉三も祭神のひとりとなっています。

高田屋は、嘉兵衛の生前に弟・金兵衛が跡を継ぎ、松前藩の御用商人となりました。このため、兵庫にあった本店を文政7年には箱館に移しています。しかし、嘉兵衛の死から6年後の天保4年(1833年)に、突然、幕府からロシアとの密貿易の疑いをかけられます。

そして評定所で吟味が行われたところ、ゴローニン事件のときに嘉兵衛がロシア側と取り決めた「旗合わせ」を隠していたことを咎められます。これは、高田屋の船がロシア船と遭遇した際、高田屋の船を襲撃することを避けるため、高田屋が店印の小旗を出し、それに対しロシア船が赤旗を出し、相手を確認した、という嫌疑です。

要は、ロシア側と以前より密貿易をしていたのではないか、と疑われたわけですが、この審問の結果、高田屋は闕所および所払いの処分となりました。闕所とは土地などを没収する財産刑であり、江戸時代では重罪の者に付加刑として位置づけられ、田畑、家屋敷、家財を根こそぎ没収のうえ、お上の財産にされるというものであり、処払いは追放です。

このため、すべてを没収された高田屋は没落しました。しかし、その後、子孫の代になり闕所が解かれ、日高昆布場所を拓くなど、高田屋は明治時代に昆布業界で活躍しました。

なお、嘉兵衛の叔母の夫・和田屋喜十郎の弟は、この事件の以前から本家から暖簾分けされて店を持ち、伯耆・八橋(やばせ、現・鳥取県琴浦町)に本店を構え、伯耆と兵庫を結ぶ廻船を営んでいました。のちには鳥取藩御用達となり、苗字帯刀を許され、内山姓となりましたが、通常は屋号で通し、登城時に内山喜兵衛と名乗っていました。

また、嘉兵衛の生前には、辰悦丸建造、高田屋独立時の協議に加わっており、兵庫で財を築いたことから、堺屋喜兵衛とも称していました。寛政7年(1795年)からは本家から高田屋を名乗ることを許され、以後伯耆高田屋とよばれるようになり、自らも高田屋喜兵衛と名乗りました。

嘉兵衛の弟・金兵衛が、幕府から嫌疑をかけられ没落したとき、この喜兵衛の店も高田屋を名乗っていたため疑われましたが、ロシアとの交易には関わっていないことが証明され、こちらは闕所を免れました。このため没落した本家高田屋の面々の受け皿となり、嘉兵衛の兄弟らも世話したと伝えられています。

現在、函館山の麓、高田屋屋敷跡を通る高田屋通(護国神社坂)のグリーンベルトには高田屋嘉兵衛像あります。北海道出身で、昭和時代の彫刻家、挿絵画家の梁川剛一氏作で、銅像の高さは3m、台座が7.5mです。昭和33年、箱館開港100周年を記念して建てられました。そしてその傍には、平成12年に建てられた「日露友好の碑」もあります。

一方のロシアでは、2006年、ゴローニンとリコルドの子孫が彼の地に嘉兵衛の名を残そうと尽力しました。ロシア地理学会とサンクト・ペテルブルグの貴族会を通じて、カムチャツカ州政府に提案したもので、この結果、ナリチェヴォ自然公園内にある名前が付いていなかった3つの山に、嘉兵衛の名も含めた名前が与えられました。

その名も、「ヴァシリー・ゴローニン」(1333m)、「ピョートル・リコルド」(1205m)、そして、「タカダヤ・カヘイ」(1054m)です。

一連の事件では一番功績のあったはずの、嘉兵衛の山がもっとも低いのが気になりますが……

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反射炉のこと

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韮山反射炉の世界遺産への登録が決まりそうです。

お隣の伊豆の国市の産業遺産ということになりますが、とりあえずは「伊豆国」住民としてお喜びを申し上げたいと思います。

この反射炉ですが、再三の報道で皆さんご存知でしょうが、金属融解炉の一種です。18世紀から19世紀にかけて鉄の精錬に使われました。が、20世紀以降も、鉄以外の金属の精錬には一部の特殊な分野で使われています。銅製錬、再生アルミニウムなどがそれです。

が、鉄鋼の精錬では転炉など他の方式に取って代わられ使われることはなくなりました。熱を発生させる燃焼室と精錬を行う炉床が別室になっているのが特徴です。燃焼室で発生した熱を天井や壁で反射、側方の炉床に熱を集中させます。

そしてその炉を形成するためには大量のレンガが使用されます。また、排煙設備も必要となり、そのための煙突にもレンガが使用されたため、炉床や燃焼室と合わせてああいう特殊な形状の構造物が形成されるわけです。

幕末に、このような反射炉がバタバタ作られたきっかけは、欧米各国の船舶の、和親通商を求めての頻繁なる来航です。このため、日本近海に外国船の出没が増え、海防の必要性が問われるようになりました。

薪や水の提供を求める彼等は強引に上陸することもあり、住民とのトラブルも急増しました。鎖国政策をとっていた幕府は、沿岸防備の重要性を痛感し、朝令として「お寺の梵鐘を毀して銃砲を作れ」という命令を各藩に下します。こうして、各藩は、鐘を鋳つぶして青銅砲の製作にかかりました。

しかし、産銅の減少や、数量、費用的な面からすぐに鋳鉄製とする必要に迫られるようになります。外国船に対抗するには精度が高く飛距離の長い洋式砲が必要とされましたが、そのためには鉄製が最適でもありました。しかし従来の日本の鋳造技術では大型の洋式砲を製作することは困難であり、そこで、外国式の溶解炉に活路を求めました。

各藩ではいろいろこの溶解炉について研究を始めます。そしてその結果、オランダの技術書により反射炉というものがあることを知ります。しかし、外国の技術者を招聘することが叶わない時代でもあり、佐賀藩の鍋島直正、伊豆韮山代官の江川英龍、などは、オランダの技術書を翻訳し、「鉄熕鋳鑑図」として、これを参考に自前で反射炉を作り始めました。

この書物はその後他藩にももたらされ、さらに他の藩でも反射炉の製造を始めましたが、その製作年代順としては、最初が佐賀藩、薩摩藩、ついで伊豆となります。さらに技術水準は低かったものの、これに追従したのが、水戸藩、鳥取藩、萩藩(長州藩)などでした。

これらの各藩は、当初すべて幕藩体制に取り込まれていました。順番にみていくと、このうち、佐賀藩は別名、肥前藩ともいわれ、薩摩、長州、土佐ともに維新に貢献した藩です。明治以後の藩閥、薩長土肥の一角を占める藩であり、藩主の鍋島直正の主導で、反射炉を完成させました。そして、最も先進的な技術を持っていた藩です。

薩摩の反射炉。これは、英明な藩主として高名な島津斉彬公の英断により作られたものです。しかし、試行錯誤の途中で斉彬が死去したため完成しませんでした。その後、薩英戦争で灰燼に帰したため、遺構としては鹿児島市の仙巌園内に反射炉の土台のみが残ります。

伊豆国は幕府直轄領です。直轄の代官所、韮山代官所のエリート官僚であった韮山代官の江川太郎左衛門の主導で佐賀藩の助けも得ながら、反射炉を完成させることができました。その詳細は、とりあえず置いておくとしましょう。

水戸藩。これも徳川将軍を出す家柄であったので、佐幕派です。しかし、藩士による桜田門外の変、天狗党の乱などが相次ぎ、藩論統一と財政難を克服することができず、結局、反射炉を完成できませんでした。なお、茨城県ひたちなか市那珂湊には1937年に復元されたものがありますが、これは本物ではありません。

鳥取藩は、幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとっていました。翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになりますが、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵隊「山国隊」などを率いて転戦しました。

資金難で喘いでいた鳥取藩での反射炉の建造は、同藩で廻船業を営む「武信家」に委ねられ、ここに養子に入った武信潤太郎という町民ながら砲術家であった人物の主導で製作され、なんとか完成に至っています。鋳造された砲は、幕末には外国勢力への牽制として、また、戊辰戦争などでも使用されましたが、残念ながら反射炉の遺構は残っていません。

萩藩。これは、長州藩の別名です。藩庁は長く萩城に置かれていたためにこう呼ばれていましたが、幕末には山口の山口政事堂に移ったために、周防山口藩とも呼ばれます。

反射炉に関しては最もその開発が遅れました。のちに討幕派となった佐賀藩などに技術者を送って技術を学ばせましたが、結局反射炉の製作は試験段階で終わりました。というか途中で開発をあきらめました。幕府に立ち向かうためにいちいち反射炉など作っている暇はない、というのが理由で、戊辰戦争ではもっぱら輸入した大砲でこれを戦いました。

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以上が、日本で開発された反射炉の概要です。このうち、ほぼ原形をとどめているのが伊豆の韮山反射炉と、不完全ながらかろうじて残っているのが萩反射炉です。

韮山反射炉の建設計画は、1853年(嘉永6年)に持ち上がりました。この年の黒船来航を受けてのことであり、江戸幕府直営の反射炉として築造が決定されました。同年、伊豆下田にて築造開始。ところが翌年、下田に再入港したペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入し、その存在が露見しかけたため、築造場所が韮山に変更された、という経緯を持ちます。

製造を主導した韮山代官江川英龍は、1840年(天保11年)に勃発したアヘン戦争に危機感を覚えました。そして幕府に提言する海防政策の一つとして、鉄砲を鋳造するために必要な反射炉の建設をあげ、その築造許可を得ました。

しかし、その完成には四苦八苦し、結局、江川英龍はその生前にはこれを完成させることができませんでした。1855年(安政2年)、江川英龍が死去すると、跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め、1857年(安政4年)にようやくこれを完成させています。

製作開始から3年後の1857年(安政4年)のことであり、しかし築造途中だったこの炉の完成のためには、佐賀藩の技師田代孫三郎・杉谷雍助以下11名を招き、技術協力を得ています。以後、1864年(元治元年)に至るまで、ここでほぼ7年間操業され、大砲数百門を鋳造してその役目を終えました。

ただ、実際には、製造された大半が青銅鋳砲で、鋳鉄砲は、ほとんど作られなかったといいます。それでも大小数百の砲は、江戸湾防備のために品川台場に設置されました。しかし、1863年に続けた起った薩英戦争、下関戦争などでは、こうした国産大砲はイギリスなど外国船の大砲に比べて全く使えないことがわかりました。

もうひとつ遺構が現存する萩の反射炉。しかしこれは遺構として残っているのはほとんど煙突部だけです。しかも実用炉ではなく試験炉とされます。萩市の東側、椿東(ちんとう)というところにその遺構がありますが、これは松下村塾からもほど近い場所です。

江川太郎左衛門と同様、長州藩もアヘン戦争や黒船来航によって海防強化の必要性を感じていました。このため、西洋式の鉄製大砲を鋳造するために必要な金属溶解炉として反射炉の導入を計画し、藩士の山田宇右衛門にこれを命じました。

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山田宇右衛門という人は、山田氏の養子になって家督を継いた人で禄高100石ほどの家柄の武士でした。大組という比較的身分の高い家柄で、これは、別の藩では馬廻組と呼ばれるほどの役職です。長州内の各地の代官などを歴任していましたが、のちに尊王攘夷運動にも参加しています。ただし藩政においては当初、中立派に属していました。

ところが、元治元年(1864年)の正義派によるクーデター(功山寺挙兵)によって討幕派が藩政を握りました。ちなみにこの前年とこの年には2度に渡って長州は、下関において欧米の艦隊と砲火を交えており、激動期の真っただ中にありました。

山田はこのとき参政首座となって、木戸孝允とともに藩内における指導的立場となり、軍備拡張を推進するなど藩政刷新に尽力しました。残念ながら維新前に病没しましたが、山鹿流兵学は吉田大助について学び、大助の養子である吉田松陰の後見役でした。あまり知られていませんが、歴史の陰に隠れた維新の立役者のひとりです。

史実によれば、この山田宇右衛門らは、藩命により1855年(安政2年)7月、反射炉の操業で先行していた佐賀藩に指導を仰ぐために同藩に赴き、教えを乞いました。しかし、その交渉の段階で技術供与を受けることに失敗しています。

このとき、佐賀藩は製砲掛の不在などを理由に拒否したようです。おそらくは福岡藩を挟んでほぼ隣国といえるような位置関係にある長州藩に最新の技術を渡すことに脅威を覚えたのでしょう。そこで長州藩は、翌8月、今度は小沢忠右衛門という人物を再度佐賀藩に派遣しました。

小沢は武士ではなく、大工の棟梁でした。山田に代わって小沢のような職人を派遣したのは、佐賀藩の警戒心を解くためだったでしょう。さらに長州藩は、自力で開発した、「砲架旋風台(ほうかせんぷうだい)」という器械の模型を山田に持参させており、これは、その上に大砲を載せる装置で、「回転式砲台」の原型です。

現在では特段珍しいものではありませんが、砲台を回転させる部分などに秘訣があったのでしょう。これをみて喜んだ佐賀藩は、小沢に反射炉の見学を許可します。小沢はそのスケッチを作成して持ち帰ることに成功し、こうして長州でも反射炉の製作が始まりました。

長州藩における反射炉の製作では、村岡伊右衛門という人物が、御用掛に命じられました。こちらも藩の重臣だったようですが、「雛形は経費をかけずに造ったが、正式な建設には莫大な経費が必要で、当分中止しては」といった伺いを藩主に立て、認められています。

このため、実際に完成した反射炉を使って鉄製大砲の鋳造がされた、という事実はなく、雛型による本操業も行われず、試験炉に終わったのではないかとされています。

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それにしても、そもそも、韮山の反射炉も萩の反射炉も、世界的にみれば、このころにはもう時代遅れの技術でした。これらが作られた同時期には、ヨーロッパではさらに生産性の高い「転炉 (convertor) 」が出現しており、反射炉のように一度に少量しか鋼鉄が製造できない融解炉はほとんど使われなくなっていました。

このため、欧州にも反射炉の遺構は現存しますが、日本のもののように重要視はされてはいません。今回韮山と萩の反射炉が評価されたのは、あくまで幕末から明治にかけての勃興期における日本全体の工業力が「歴史的に」評価されたためであり、反射炉そのものの機能が評価されたわけではありません。

だとしても、この当時の日本では、せいぜい数百メートルしか砲弾が飛ばせない青銅製の大砲を作る技術しかなかったため、より飛距離を伸ばせる鉄製の大砲を作ることのできる融解炉を持つということは夢のような話でした。

そしてその最先端の技術を、西洋のものと比肩できるほどの実用化技術として高めていたのは唯一佐賀藩だけでした。伊豆の江川太郎左衛門も、長州の山田宇右衛門も反射炉の製造にあたっては佐賀藩の指導を仰いだ上で、これを完成させており、この当時の佐賀藩の技術がいかに高かったかがわかります。

佐賀藩は、肥前国佐賀郡にあった外様藩です。肥前藩ともいいますが、鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩という俗称もあります。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたります。
幕末における藩主は、鍋島直正といいました。号は閑叟(かんそう)といい、この名のほうが有名かもしれません。佐賀の七賢人の一人ともいわれ、英明な人物だったようです。

他の6人は、佐野常民、島義勇、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信であり、佐賀の乱をおこして討伐された島と江藤を除けば、全員が維新後に大きな業績を残しています。

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鍋島直正は、「精錬方」という科学技術の研究機関を創設しました。ここでは、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなどの研究・開発が行われ、そのほとんどが実用化に成功し、これによって佐賀藩は幕末期における最も近代化された藩の一つとなりました。

反射炉に関しては、鍋島直正はまずオランダのヒュギューニン著「ロイク王立製鉄大砲鋳造所における鋳造法」という技術書の翻訳を命じました。また、理論や仕組みについては、幕府直轄の理科学研究所的な役割を果たしていた、伊豆の江川塾、これは上述の江川太郎左衛門が創設した学校ですが、ここの協力も得て研究を進めました。

また、「大銃製造方」という役所を城下に置き、ここに藩内外からの俊英を集め、研究させることによって日本最初の洋式反射炉を1851年に完成させました。日本最初の製鉄所といわれることもあるようです。集められたのは武士だけでなく町民も含まれており、ペリー来航の2年も前のことです。いかに閑叟の先見性があったかがうかがわれます。

反射炉内は高温になるために耐火レンガが必要ですが、この品質が悪いと、高温でレンガが熔けて、不純物として鉄に混じることになります。同時期に開発を試みた薩摩や水戸で反射炉が成功しなかったのは、レンガの質が悪かったからでした。

「大銃製造方」においてはこの問題を解決するために、地場産業である有田焼の技術を活用しました。レンガ製作では瓦職人、反射炉の築造には左官などを徴用し、有田焼で培われた在来技術が活用されました。最初に完成した反射炉で試行錯誤を繰り返しながら、7回目の鋳造でようやく実用に耐えうる砲身を鋳出できたといいます。

ヒュギューニンの著書では、この砲身に砲道をくり抜くために動力が蒸気機関の旋盤を使用していました。ところが、当時の日本に蒸気機関は存在していなかったため、水車を動力としてドリルを動かしました。かなり原始的な方法ではありましたが、ともかく一門の鉄製砲を完成させて長崎砲台に設置し、一年後には36ポンドカノン砲も完成させています。

こうしてでき上がった大砲の信頼性は高く、以後幕府からの大量発注がくるようになりました。このため、城下の多布施川沿いにもう2基の反射炉を増築、量産体制を整え、更に幕府の海防用にと技術提供してできたのが伊豆の反射炉です。韮山反射炉は結局ペリー来航後3年も経ってからできましたが、佐賀藩はそれ以前にこれを完成させていたわけです。

無論、この技術供与は自藩の反射炉の開発において協力をしてくれた伊豆の江川塾に敬意を払ってのものです。こうした成功に自信をつけた佐賀藩はさらに大砲だけでなく、造船業を興して蒸気軍艦の製造を行い、ガラス製造など重工業部門においても、日本の近代工業黎明期に最も先駆的な役割を果たしました。

この日本最初の実用蒸気船は「凌風丸」といいましたが、その製造にあたっては領内に「三重津海軍所」という海軍まで造っており、ここで、慶応元年(1865年)に完成したこの船はその後有明海内の要人輸送などに用いるとともに、海軍練習艦としても活用されました。

同海軍所の遺構跡地には、日本最古のドライドックの痕跡もあり、様々な規格の多量の鉄鋲(リベット)とボルトなども出土していて、海員(士官・水夫)教育や蒸気缶製造等の西洋船運用に関る施設群が存在していたものと考えられているそうです。

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佐賀藩ではまた、慶応2年(1866年)には当時の最新兵器であるアームストロング砲を輸入して研究し、藩の洋式軍に配備したといわれています。アームストロング砲とは、イギリスの発明家、ウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲です。

後装式ライフル砲を改良したもので、装填時間は従来の数分の一から、大型砲では十分の一にまで短縮されました。砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量でした。しかも銃身内に旋条(ライフル)が施されていたため高い命中精度と飛距離を誇りました。

このような特徴から、同時代の火砲の中では断トツの優れた性能を持っており、1858年にイギリス軍の制式砲に採用され、その特許は全てイギリス政府の物とされ輸出禁止品に指定されるなどイギリスが誇る最新兵器として期待されていました。

しかし、薩英戦争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射したところ28回も発射不能に陥り、旗艦ユーリアラスに搭載されていた1門が爆発するという事故が起こりました。

その原因は装填の為に可動させる砲筒後部に巨大な膨張率を持つ火薬ガスの圧力がかかるため、尾栓が破裂しやすかったことにあります。そのため信頼性は急速に失われ、イギリスでは注文がキャンセルされ生産は打ち切られて過渡期の兵器として消えていきました。

しかし、一部のアームストロング砲はその後、南北戦争中のアメリカへ輸出されました。そして、このときは欠点もかなり克服されていました。南北戦争が終わると幕末の日本へ売却されましたが、中でも江戸幕府がトーマス・グラバーを介して35門もの多数を発注しました。しかし彼は討幕派に与したため引き渡しを拒絶し、幕府の手には届きませんでした。

一方、反射炉の開発に一度失敗した長州藩では、こうした最新式の大砲を独自開発するのをあきらめ、これを輸入に頼ろうとしました。このため幕府が手に入れられなかったこれらのアームストロング砲をグラバーを通じて入手しています。

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長州藩の軍総督、大村益次郎が江戸城開城のあと、さらに抵抗しようとした彰義隊殲滅を成功させた一因として、この最新式のアームストロング砲があったためといわれています。

上野戦争とよばれるこの幕府残党の掃討戦では、大村はこのアームストロング砲の使用の機会を十分に計算していたといわれます。戦闘が午後を過ぎても終わらず、官軍の指揮官たちは夜戦になるのを心配しましたが、夕方近くになって突然加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えてアームストロング砲による上野山の砲撃を指示しました。

彼は前線には立たず、江戸城内で指揮をとっていたため、その戦果を知る由もありません。しかし、平然と柱に寄りかかり懐中時計を見ながら「ああもう何時になりますから大丈夫。心配するに及ばない。夕方には始末もつきましょう。少しお待ちなさい。」と言いました。

やがて江戸城の櫓から上野の山に火の手が上がるのを見て「皆さん、片が付きました。」と戦況も見ずに告げたといい、その直後に戦勝を告げる伝令が到着しました。このとき一同全員が大村の頭脳に感服したと伝えられています。

この話は司馬遼太郎さん小説、「花神」に書かれていますが、大村の頭脳もさることながら、彼がこの砲にいかに全幅の信頼を置いていたかがわかります。この小説の中で、当時の最新最高の兵器とし紹介されたことからアームストロング砲が有名になりました。ただ、その威力に関してはかなり誇張されており、史実ほどは大活躍していない、ともいわれます。

というのも、日本で輸入使用されたのは主に6ポンド軽野砲であり、口径は64mmに過ぎませんでした。これは当時の日本で主力洋式野戦砲だった四斤山砲(口径86.5mm)よりも小口径であり、射程や発射速度は上回るものの威力で特段優るわけではありませんでした。

ただ、この当時は、世界最先端といわれた砲であったことは間違いなく、もしさらに大口径のものが大量に使われていたら、明治初期の動乱はもっと早く治まっていたでしょう。

ところで、上述のとおり、史実では、大村益次郎が使ったアームストロング砲は輸入ものとされているようですが、一説によれば、当時の日本で最先端の技術力を持っていた佐賀藩がこれを反射炉を使って完成させていた、という話もあります。

しかし、アームストロング砲の製造にはパドル炉、圧延機、加熱炉、蒸気ハンマーなどの大規模な設備が必須です。当時のイギリスですら最新最高の設備を持った工場でしか生産できないような物だったのに対し、大砲に穴をあけるのに水車を使っていたような当時の佐賀藩がイギリスに匹敵するほどの設備を持っていたとは俄かには考えにくいことです。

ただ、佐賀藩の精練方に勤めていた「からくり儀右衛門」こと「田中久重」は、佐賀藩がアームストロング砲の製造に成功したと記しています。上述の鉄製の元込式の6ポンド砲がそれであるとしており、32本の施条が刻まれていたとまで明記しています。

この田中久重は武士ではありません。筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師の長男として生まれました。幼い頃から才能を発揮し、近所の祭礼で当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判をとりました。

20代に入ると大阪や江戸でも興行を行い、その成功により日本中にその名を知られるようになりました。当初町民だったため、田中の苗字はなく儀右衛門と名乗っていました。

35歳で上方へ上り、大坂船場に居を構えると、ここで折りたたみ式の「懐中燭台」、圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案し「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになりました。さらには京都へ移り、ここで天文学を学ぶために土御門家に入門。

天文学の学識も習得した田中は、革新的和時計の須弥山儀(しゅみせんぎ)を製作し、50歳を過ぎたこのころからは、蘭学にも挑み、様々な西洋の技術を学びはじめます。このころには季節により文字盤の間隔が全自動で動くなどの世界初となる様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させています。

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その後、再び西下して佐賀に移住した儀右衛門は、鍋島直正に認められ佐賀藩の精煉方に着任しました。このとき田中の名前を拝領し、同時に名も久重と改めました。日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造したのはこの後すぐであり、その後の反射炉の設計と大砲製造にも大きく貢献しました。

が、彼自身が果たしてアームストロング砲の製造にまで関わったかどうかについてははっきりしません。記録としては、上述の彼自身の手記と、加賀藩の史料にこの砲の製造を試みた、という記述があるだけです。しかしそこにも田中の関与は書いてありません。

また、佐賀藩がームストロング砲を完成したかどうかもまたはっきりはわからないわけですが、仮にそれが事実だとしても、実際に製造された砲が、西洋から輸入したアームストロング砲と同等の性能を持っていたかどうかについては、同定する資料がありません。

これは、戦時中の金属類回収令により、佐賀藩製造とされていたアームストロング砲が供出で失われたためです。ただ、写真は残っています。戊辰戦争で活躍したとされる佐賀藩製のアームストロング砲とされるもので、おそらくは上述の大村益次郎が上野戦争において、彰義隊攻撃に用いたものだろうといわれています。

Sagahan_Armstrong_gun_used_at_the_Battle_of_Ueno_against_the_Shogitai_1868

佐賀藩が自前でアームストロング砲の製造に成功していたのかどうか、その真偽のほどは歴史の闇の中です。が、それにしてもこのように当時の日本における最先端技術を持ち、日本有数の軍事力と技術力を誇った佐賀藩は、実は幕末にはそれほど活躍していません。

藩主の鍋島直正はこれらの技術を行使することを嫌い、というか禁じ、幕末においては中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還、王政復古まで静観を続けました。

その理由は、彼はもともと佐幕派にかなり近い路線にいたためです。水戸藩士に暗殺された大老の井伊直弼とは盟友だったといわれており、彼が桜田門外で横死した後の、激動の中央政界では佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置きました。

このため、「肥前の妖怪」と警戒され、参預会議や御所会議などでの発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるものの実らず、政治力・軍事力ともに発揮できませんでした。また、藩士の他藩士との交流を禁じ、「鎖国藩」といわれるもとをつくりました。

しかし1867年(明治元年)には、次男の直大が藩主となり、このとき新政府からは佐賀藩には北陸道先鋒に立つように命令が下りました。これに対して直正は異を唱えず、このため佐賀藩兵も戊辰戦争に参加するために東上し、上述の上野戦争などで戦いました。

その結果として、維新後、佐賀藩からも明治政府に多数の人物が登用されました。明治維新を推進させた立役者として「薩長土肥」に数えられ、上述の佐賀七賢人である副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民らが活躍しました。

ところが、征韓論問題に端を発して下野した前参議江藤新平らはその後、島義勇ら旧佐賀藩士を中心として反乱を起こしました。しかし、その後討伐に向かった政府軍に同調する藩士も多く、江藤らの目論んだ「佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」という考えは浸透しませんでした。

佐賀の乱における佐賀軍の総兵数は詳しくはわかっていませんが、戦死者数が200人以下であることなどから推定して6000人程度ではなかったかといわれているようです。大阪鎮台、広島鎮台などを中心に組織された政府討伐軍に圧倒され、戦闘は一週間ほどで終わり、江藤新平は捕縛後わずか3週間で処刑され、島も1ヶ月を待たずして処刑されています。

この佐賀の乱が、その後維新政府において活躍する佐賀出身の逸材の活躍の場を奪ったかといえば、それほどの影響はなかったようです。佐賀の七賢人のひとり、大隈重信はその後2度に渡って総理大臣を務め、死後には国葬まで行われています。

また、副島種臣は外務卿、内務大臣に就任、大木喬任も東京府知事を勤めたあと、初代文部卿、司法卿、元老院議長などを歴任。佐野常民も大蔵卿になるなど、佐賀の人材はその後の明治の時代を担いました。鍋島閑叟は明治維新後は議定に就任し大納言の位を受け、最晩年には北海道開拓使長官となりますが、任地に赴くことなく1871年(明治4年)死去。

また直正が重用した田中久重ほかの技術者の多くも日本の近代化に貢献しました。県内でも工業が勃興し、殖産興業の一環として杵島や唐津一帯の炭鉱では機械の導入による増産が進められ、鉄道の建設がそれを後押ししました。

1916年(大正15年)には佐賀市に佐賀紡績(後の大和紡績)が設立され、この会社は1920年には従業員1,500の工場へと拡大するなどの発展を遂げています。

ただ、現代の佐賀県は工業集積が進んでいません。太平洋戦争末期の空襲の被害も近県に比べて少なかったものの、戦災を免れた故に都市基盤が旧態依然で戦後の発展も著しいものではなかったのが理由といわれています。商業の発展があったものの、従事者や生産額ともに依然として第一次産業の比率が比較的高い農業県となっています。

しかし、かつて佐賀県が排出した技術者たちの多くは日本の産業の育成に大きく貢献しました。とくに田中久重は、明治6年(1873年)に東京に移ったあと、75歳となった明治8年(1875年)に東京・京橋区に電信機関係の製作所・田中製造所を設立しました。

明治14年(1881年に82歳で死去しましたが、久重の死後、田中製造所は養子の田中大吉(2代目久重)が引き継いで芝浦に移転し、これが、後に東京電気株式会社と合併して、東京芝浦電気株式会社となり、現在の「東芝」となりました。

高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである。」との言葉を残しています。

反射炉をはじめとし、日本の近代を築く技術の礎を形成した、佐賀藩とこの藩が輩出した多くの人材に敬意を表し、「佐賀藩バンザイ!」と唱えたいと思います。

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