U-2

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ちょっと前の首相官邸へのドローンの侵入事件以来、最近、ドローン、ドローンとやたらに無人飛行機の話題が目につきます。

この「無人飛行機」には全幅30メートルを越える大型から手の上に乗る小型までの様々な大きさのものが存在し、固定翼機と回転翼機の両方で軍用・民間用いずれも実用化されています。操縦は基本的に無線操縦で行われ、機影を目視で見ながら操縦するものから衛星回線を利用して地球の裏側からでも制御可能なものまで多様です。

飛行ルートを座標データとしてあらかじめプログラムすることでGPSなどの援用で完全自律飛行を行う機体も存在します。大きな機体ではガスタービンエンジンを搭載するものから、小さなものではガソリンエンジンを搭載し、極小の機体ではバッテリー駆動されます。

元々は軍用に開発されたものであり、このため最近では偵察だけでなく、攻撃能力のある機体も増えています。

機体そのものに人間が搭乗しないため、撃墜されたり事故を起こしたりしても操縦員に危険はなく、また、衛星経由で遠隔操作が可能であるため、操縦員は長い期間戦地に派遣されることもなく、任務を終えればそのまま自宅に帰ることも可能です。

しかし、無人機の活用を推し進めるアメリカ軍では、こうした無人機を操縦する兵士の負担がむしろ増しているといいます。というのも、無人機の操縦というものは、有人機の操縦以上に神経を使うものであり、しかも、年間平均飛行時間は有人機では200~300時間ですが、無人機では900~1100時間にも上るといいます。

想像以上に無人機の操縦士は酷使されており、労働時間は平均で1日14時間、週6日勤務となっており、人手も不足しているとのことで、アメリカ軍ではこうした状況を打破するための改善策を検討中だといいます。

また、攻撃機として使われる場合は、操縦者が人間を殺傷したという実感を持ちにくい点も問題視されています。敵を殺傷する瞬間をカラーテレビカメラや赤外線カメラで鮮明に見るということは、ほとんどゲームをやっているのと変わらず、それだけに事後に自分がやってしまったことの後悔がじわりじわりと沸いてきます。

従来の軍事作戦では有り得ない生活を送るわけであり、いつミサイルを発射してもおかしくない状況ながら、その直後に家に帰って家族と普通に食事する、ということもあり得るわけです。平和な日常と戦場を行き来する、といったアンバランスな生活は操縦者にさまざまな精神的問題を引き起こすといい、操縦員に大きな精神的ストレスを与えます。

イラク戦争のときなどには、実際にイラクに展開している兵士よりも無人機のパイロットのほうが高い割合で心的外傷後ストレス障害を発症していたというデータもあるようです。

それなら、いっそのこと有人偵察機に戻せばいいじゃないか、という意見もあるようですが、しかし、元々撃墜される可能性を想定しての無人機開発であったはずであり、それでは本末転倒です。

ただ、無人飛行機全盛のこの時代にあって、有人の偵察機が未だに使われているという事実は意外に知られていません。

ロッキード U-2(Lockheed U-2)はロッキード社がF-104をベースに開発した、そうした有人のスパイ用高高度偵察機であり、初飛行はなんと、今から60年も前の1955年です。公式ではありませんが、ドラゴンレディ(Dragon Lady)という愛称があり、また、その塗装から「黒いジェット機」の異名もあります。

CIAの資金により開発されたU-2は、1955年(昭和30年)8月4日、1号機が進空したのに続いて計55機生産され、冷戦時代から現代に至るまで、アメリカの国防施策にとって貴重な情報源となりました。

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U-2は高度25000m(約82000ft)以上と成層圏を飛行することができます。その並外れた高高度性能は、要撃戦闘機による撃墜を避けるため、敵機が上昇し得ない高高度を飛行するためのものです。旅客機は通常10000m(約33000ft)程度なので、その2倍以上ということになります。

外観は誘導抵抗を減らすためのグライダーのような縦横比の大きな主翼形状が特徴で、軽量化と非常に小さな空気抵抗により目的の性能を生み出しています。

軽量化を徹底した結果、車輪が胴体前部と後部の2箇所にしかありません。離陸時には翼の両端に地上から離れるときに外れる補助輪をつけ滑走します。着陸時には車がU-2と並走して翼が地面につかないよう指示を出しつつ十分に低速になったところで翼端を地面にすりつけ着陸、その後補助輪を装着され滑走路から移動を行います。

パイロットは高高度を飛行するため、特殊な与圧スーツを着用します。それはまた高高度で脱出する際に必要不可欠な装備でもあります。このスーツは宇宙服とほぼ同様で、違いは色と生命維持装置が付いているかいないか、及び宇宙空間での推進装置が無いだけであるといいます。

このスーツのヘルメットには数個の穴があり、ヘルメットを脱がずにチューブ入りの食料を摂取できます。また、呼吸と排泄のためのチューブが、外付けの機械と繋がっています。

U-2は、偵察用の特殊なカメラを積み、冷戦時代はソ連など共産圏の弾道ミサイル配備状況をはじめとする機密情報を撮影してきました。当初、CIAとアメリカ空軍、台湾空軍で使用されていましたが、1970年代にCIAと台湾空軍はU-2の運用を取りやめたため現在ではアメリカ空軍のみで運用されています。

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無人機全盛のこの時代になぜ、こうした有人偵察機が使われて続けているか、ですが、理由はいろいろあるなかで、そのひとつには無人機では判断できない高度な情報収集が有人飛行ならできる可能性があります。

例えば傍聴した音声の内容を機械は正確には理解できません。器械に組み込まれたコンピュータプログラムによる反応には限りがあり、咄嗟の判断といった人間臭い判断は大の苦手です。

特殊な状況下においては、生身の人間ならば即座に判断して、もっと別のソースから情報を得るといった、臨機応変の対応ができる可能性があります。昨今は自動車の自動運転の技術がかなり高度化していますが、まだ実用にほど遠いのは、いざというときの判断がまだ機械には委ねられないからであり、同じ理屈です。

しかし、戦闘機や地対空ミサイルの能力が向上した現在、撃墜される危険のある地域を強行偵察することはやはり困難です。ただ、電子/光学センサーの進歩は著しいものがあり、U-2に搭載されている重量約1.36tの探査センサーを使えば、直接敵国上空を飛行しなくとも、かなりの情報収集が可能になるといいます。

敵国の付近を飛ぶだけでも、通常高度500~600kmの低軌道に位置する偵察衛星に比べれば遥かに近い距離からの偵察であり、より精度の高い情報収集が可能です。従って、日本の領海に上空にとどまりながら、北京の政治状況を探る、といったことも場合によっては可能になるようです。

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U-2には後継機があり、これはステルスタイプのSR-71という偵察機でした。ロッキード社が開発しアメリカ空軍で採用された超音速・高高度戦略偵察機です。愛称はブラックバード。実用ジェット機としては世界最速のマッハ3で飛行できました。

ところが、このSR-71は機体の特殊性ゆえの運用コスト高や偵察衛星の進歩により、アメリカ議会でその高コストは軍事費削減の格好のターゲットになり、1990年に退役しました。

しかし、U-2は現在でも、湾岸地域やボスニアでは有力な情報収集手段となっており、現役で活躍中です。アメリカ空軍はコクピット等のアビオニクスの機能を向上させ、エンジンをF118-GE-101(推力8390kg)に換装した性能向上型U-2Sへの改修計画を進めています。

アビオニクス(Avionics)というのは、航空機に搭載され飛行のために使用される電子機器のことで、通信機器、航法システム、自動操縦装置、飛行管理システムなどです。こうした機器の多くは組み込み型コンピュータを内蔵しており、最近の最新鋭戦闘機の価格の80%はこうしたアビオニクス関連だといわれています。

SR-71が退役後もU-2が生き残った理由はただ一つ。安価だからです。SR-71は高高度を音速で飛ばすという高性能が求められたため、全体の93%にチタンが使用され、高性能のターボジェットエンジンを搭載するためにかなり高価になりました。

対してU-2はジュラルミン製のペラペラの機体であり、スピードも最高速度はせいぜいマッハ0.8ですが、ともかく製造コストが安く、これなら偵察機としていざというときに残しておいても金はかからなくて済む、というわけです。

失速して、揚力を失っても頭部を下げれば再び揚力を回復できるなで、安定性が高いといわれ、また、徹底した軽量化は燃費に優れ、長い航続距離と飛行時間を確保できます。

しかし、空気の薄い高高度を飛行するため、SR-71と同じく極めて操縦が難しい軍用機といわれます。万一失速した場合、高度を下げる事になるので、そのこと事態が即墜落に結びつくわけではありませんが、作戦行動中であれば被撃墜リスクは高まります。

その昔は高々度を飛んでさえいれば撃墜は不可能だといわれましたが、最近は高性能の対空ミサイルの発達により、ちょっとでも高度が下がれば比較的撃墜がしやすくなったともいわれます。

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1960年5月1日にはソ連領空内にCIA所属のU-2偵察機が領空侵犯をし、偵察飛行をしていたところ、ソ連軍の放ったS-75地対空ミサイルによる迎撃を受け、撃墜される、という事件がありました。これは、ミサイルが直撃したのではなく、ミサイルが付近で爆発した際の爆風で機体が破壊され、墜落したものでした。

地対空ミサイルの威力が強かったのではなく機体外壁がとても薄く作られていたため、衝撃波に耐えられなかったためであり、このとき高高度から墜落した機体は、大破と言うよりは潰されたような形で発見されました。

軽量で大柄な機体のために空気抵抗が大きくなり、落下速度があまり速くならなかったためであり、ミサイルによる直接破壊ではありません。これは、「U-2撃墜事件」として知られる事件です。偵察の事実が発覚したことから、この当時予定されていたフランスのパリでの米ソ首脳会談が中止されるなど大きな影響がありました。

激化していた米ソ冷戦が、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相の訪米などで一時期緩和されていた時期のことでもあります。ちょうどこのころのアメリカではソ連にミサイル・ギャップ(技術格差)をつけられたという認識が高まっていました。

ソ連の戦略ミサイルを徹底的に監視することで安全保障を確保する方針を固め、当時、ロッキード社で開発されたばかりのこのU-2偵察機による高高度偵察飛行によりソ連領内のミサイル配備状況などの動向を探っていました。

同機はアメリカ国内でもその存在は秘密にされるほどのトップシークレットであり、いわんや外国にもその姿を見たことがある人間はほとんどいませんでした。ところが、事件が起こる前年の1959年9月、厚木基地配置のWRSという分遣隊に所属するその一機が、燃料切れにより藤沢飛行場へ緊急着陸するという事件を起こします。

事件当日は飛行場でグライダー大会が行われており、このため多数の親子連れがU-2を目撃する事態となってしまいました。U-2撃墜事件が起こる前の当時、当然同機は日本でも完全に秘密扱いされていました。

このため、厚木からアメリカ軍がU-2を回収しにやって来るまでにU-2を目撃した民間人は無論のこと、日本領土内に住む日本人であるにもかかわらず、不時着機の写真を撮影した人物はすべてアメリカ軍による家宅捜索を受け、アメリカ軍の守秘義務誓約書にサインさせられました。

日本ではこの事件は、のちに「黒いジェット機事件」と呼ばれてその事実が明るみに出ましたが、事件が起こった当時は、読売新聞や産経新聞、朝日新聞などの全国紙もこの事件を一切報道せず、わずかに翌25日付で神奈川新聞が小さく報じたのみでした。

しかしその後、1959年12月1日の第33回国会衆議院本会議で日本社会党の飛鳥田一雄によって採り上げられ、一般に知られるようになりました。マスコミにおける「黒いジェット機事件」の名称はこの時以来のものです。

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このU-2の厚木基地への配備は、ソ連領内のミサイル配備状を探るためでした。アメリカ空軍はこのU-2を定期的に飛ばしていましたが、対するソ連側も成層圏飛行で領空侵犯してくるU-2のことに気がついており、その何度目か以降には連防空軍はMiG-19P迎撃戦闘機などで幾度となく迎撃を行うようになっていまし。

しかし、当初のソ連の戦闘機での迎撃は高度が足らず実質的に不可能であったため、その後新型のSu-9迎撃戦闘機の完成を急ぐと共に新型の地対空ミサイルの開発も進めました。その結果、この黒いジェット機事件が発生したころには、U-2のような高高度偵察機を撃ち落せる能力のあるミサイルが実戦配備に就くようになっていました。

そして、パリ・サミット開催予定の2週間前の1960年5月1日、パキスタン・ペシャーワルの空軍基地を離陸し、ソ連領内で偵察飛行中のU-2に対し、ソ連側が地対空ミサイルをスヴェルドロフスク州の第1ミサイル部隊から発射し、これを撃墜することに成功した、というわけです。

ちなみに、この際1機のSu-9迎撃戦闘機も迎撃に上がりましたが、迎撃に失敗しています。この事件の際有名になったソ連の迎撃ミサイルはS-75といい、その後ベトナム戦争でも多くのアメリカ軍機を撃墜することで西側にも認知されるようになりました。

このときのU-2のパイロットの名前は、フランシス・ゲーリー・パワーズといいました。彼はパラュートで脱出し、スヴェルドロフスク州コスリノに着地し一命を取り留めました。

自殺用の硬貨内蔵の毒薬を所持していましたが、これを使用しませんでした。このことは、のちに彼がアメリカに帰国したときに明らかにされましたが、一部からはこのCIAの作った自殺用毒薬を使用しなかったという批判もなされました。

また、撃墜後、ソ連側に逮捕される前に彼がU-2機密情報や偵察写真、部品を自爆装置を用いて処分することを怠った、という非難も起きました。

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とまれ、行き延びた彼は村民に捕らわれ、その後ソ連側により公開裁判にかけられました。やがて、スパイ行為を行っていたことを自白し、こうしてアメリカ側のスパイ行為の実態が明るみに出るところとなりました。

その当時、アメリカ軍機による頻繁な自国領空侵犯の報を受けやきもきしていた、この当時の首相、ニキータ・フルシチョフは、事件がおこった当日、モスクワ赤の広場でのメーデーパレードに参加しており、その開始直後にこのアメリカ軍偵察機撃墜成功の報告を受けました。

首相はすぐに、アメリカ政府に対し事件に関する謝罪を要求。このため、パリ・サミットは崩壊し、フルシチョフは5月16日に会談を一方的に打ち切られるという政治的な余波がありました。

さらにフルシチョフはこの事件を、「アメリカによる犯罪行為」として大いに反米プロパガンダに利用しました。これに対して当初アメリカ政府は、「高高度での気象データ収集を行っていた民間機が、与圧設備の故障で操縦不能に陥った」という嘘の声明を発表します。

しかし、パワーズの自白が明らかになると態度を一変し、当時のアメリカ合衆国大統領のドワイト・D・アイゼンハワーは、「ソ連に先制・奇襲攻撃されないために、偵察を行うのはアメリカの安全保障にとって当然のことだ。パールハーバーは二度とご免だ」と開き直り、スパイ飛行の事実を認めました。

パワーズは8月19日にスパイ活動で有罪と判決され、禁固10年シベリア送りを宣告されました。しかし、ソ連側がシスキンKGB西欧本部書記官を、アメリカ側が顧問弁護士のドノバンをそれぞれ代理で出し、二人の会合の結果、両国は東ベルリンのソ連大使館でスパイを交換釈放することで合意しました。

1年9ヶ月後の1962年2月10日、自首し亡命を申し出た別のスパイの供述を元にFBIが逮捕したソ連のスパイ、”マーク”、ことルドルフ・アベル大佐ほか一名とベルリンのグリーニケ橋で交換されました。なお、この橋は東西ドイツの国境であり、度々スパイ交換が行われた場所でした。

パワーズは、帰国後に撃墜から拘留中の出来事についてCIA、ロッキード社、空軍から事情聴取を受けたあと、1962年3月6日、上院軍事委員会に出頭しましたが、結局上院軍事委員会はパワーズは重要な機密は一切ソ連側に洩らしていないと判断しました。

その後、彼は1963年から1970年までロッキード社にテスト・パイロットとして勤務し、1970年、事件における自身の体験を綴った“Operation Overflight”を出版しました。この本の中でパワーズは、かつてソ連に一時亡命したアメリカの諜報員がソ連側に渡したレーダー情報がU-2撃墜事件につながったと指摘しています。

その後彼は、1977年、ロサンゼルスでKNBCテレビのレポーターとしてヘリコプターに搭乗中、墜落死しました。事故原因は燃料計の故障でした。遺体はアーリントン国立墓地に埋葬され、今もここに眠っています。

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ちなみに、交換されたソ連側のスパイ、ルドルフ・アベル大佐は、本名ウィリアム・フィッシャーといい、イギリス生まれでした。が、両親は共にロシア人であり、このため彼もソ連に忠誠を誓っていました。英語が堪能であったため、長じて統合国家政治局(OGPU)という秘密機関に採用され、欧州諸国で非合法活動を行っていました。

独ソ戦勃発後、破壊工作とパルチザン活動に従事する部隊に志願。この期間、後の彼の偽名となるドイツ人パルチザン、ルドルフ・アベルと知り合いました。二次大戦中、フィッシャーは、ドイツ軍の占領地に派遣された他のパルチザン及び諜報員のための無線手を養成したりしていたといいます。

終戦後、非合法諜報に復帰。1948年、アメリカの原子力施設からの情報入手のために、アメリカに派遣され、このとき、コードネーム「マーク」が与えられ、ルドルフ・アベルの名で画家を装い、活動を開始していました。

1949年5月末までにはかなりの成果を上げ、母国からは赤旗勲章を授与され、その後も7年間に渡って諜報活動を続けていました。が、あるとき、ブルックリンで大きなミスを起こします。新聞配達少年が客の誰かから新聞代として受け取った5セント硬貨を落とし、その中からマイクロフィルムが出てきたのです。その落とし主こそが彼でした。

FBIは、ニューヨーク市にアメリカの核情報を探るスパイがいるとして捜査を開始し、その結果、1957年、自称画家であったマークが浮上。FBIによって逮捕されました。当時、ソ連当局は、彼によるスパイ行為への関与を否定し、またフィッシャーは、死んだ友人の名前「ルドルフ・アベル」で押し通し、自分はドイツ人であると主張し続けました。

さらにスパイ行為への関与を否定し、裁判での証言を拒否し、アメリカ当局からの買収の申し出も撥ね付けたため、裁判では死刑判決が出るところでした。そこを、元アメリカ軍の諜報機関出身の弁護士に助けられ、その弁護によって禁固30年に減刑され、ニューヨーク刑務所、後にアトランタ刑務所に収監されていました。

東西ベルリンの境界であるグリーニケ橋においては、U-2パイロットのゲーリー・パワーズ、もう一人、スパイ容疑で拘留中であった留学生フレデリック・プライヤーと交換される形で解放されました。ソ連への帰国後は、諜報部に復帰し、非合法諜報員の教育に当たっていましたが、1971年、68歳で死去。

レーニン勲章、赤旗勲章3個、労働赤旗勲章、一等祖国戦争勲章、赤星勲章を受章したほか、1990年には、ソ連郵政当局が発行した顕彰切手には、アベルの肖像写真が使われています。

この事件以後、アメリカのミサイル技術もソ連以上に格段に向上し、敵のミサイルなどの軍事技術を偵察する意味も薄れたため、U-2によるソ連領内の高高度偵察飛行が行われることはなくなりました。

が、ソ連同様、アメリカと対立する国々へのU-2による高高度偵察飛行は依然として続けられてきたと考えられ、キューバ危機の際にもU-2が対空ミサイルで撃墜されるまで頻繁に続けられていたことがわかっているほか、現在までにも中国や北朝鮮に対するスパイ飛行が行われているようです。

少し前までは、中国に対してのスパイ飛行はアメリカより台湾空軍に供与された機体で行われていました。CIAの支援の下で台湾空軍内にU-2を運用する、通称「黒猫中隊」が創設され、1959年から2機のU-2が中国奥地への偵察に従事したとされます。

当然、中国政府が支配している地域への領空侵犯をしながらの危険な任務であり、中国空軍による迎撃で5機を失い3名のパイロットが戦死、任務中や訓練中の事故で6名のパイロットが殉職しました。

しかし、黒猫中隊のもたらした情報は、中ソ国境での軍事的緊張をキャッチし、中ソ対立が深刻化していることを明らかにし、また中国の核開発の情報をもたらしました。しかし、1972年にニクソン大統領の中国訪問で米中両国間の国交が樹立され、米中両国間の緊張関係が緩和されると中国への偵察任務は停められ、1974年に黒猫中隊は解散となりました。

アメリカや台湾側はこの件に関して当然のことながら沈黙を保ち続けてきましたが、中国側はソ連より供与されたSA-2により数機を撃墜し、残骸を北京の軍事博物館に並べて一般公開しています。

その後、中国側によってU-2が再び撃墜されたという記録はありません。しかし、おそらくは、さらに性能をアップし、現在もU-2は日本海の上、遥か高高度を飛び回り、周近平主席らの言動を嗅ぎまわっているに違いありません。

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渋谷新宿界隈

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さて、大型連休が明けました。

これから先というもの、7月20日の海の日まで休日はなく、しかも6月、8月とまったく休日のない不毛地帯が続きます。

今日から久々の仕事を再開、という方も多いと思いますが、この先の長丁場の中、頑張りすぎて体調や精神面でのバランスを崩さないよう、気をつけていただきたいと思います。

季節的には初夏から梅雨に向かい、しかも私の大嫌いな暑い夏がやってきます。一年で一番憂鬱な時期ではあるのですが、この地の涼しさにも助けられ、昨年まではあまり嫌な思いはせずに済みました。

それにしても、ほんの4年ほど前まで東京に住んでいたことが夢のようです。それまでに住んでいた街のことなどをつれつれ思い出すにつけ、なぜ東京に住まうようになったかな~と述懐してみます。

すると、そのきっかけは、大学を卒業して最初に勤めた会社が渋谷にあったからでした。この会社への入社を初めとして、その後日本橋や半蔵門などの東京各所の職場を転々としましたが、毎朝それらの職場を目指すにあたってのベースとして選んだのは、やはり土地勘のある、東京以西の多摩地方や神奈川県地方でした。

最初は、相模大野、次いで、杉並区の阿佐ヶ谷に移り住み、その後は田園都市線の鷺沼などにも住みましたが、最終的に家を買ったのは多摩であり、結局そこに20年以上住むことになりました。

その東京暮らしにおける最初の記念すべき居住地は相模大野でした。ここを選んだのはほかならず、ここに就職した会社の寮があったからでした。ここから毎朝毎朝小田急線に揺られて都心に向かい、途中で千代田線から銀座線と乗り継いで外苑前駅に降り立ちます。

そこから、神宮球場のほうへと昇っていく通りは、通称キラー通り、といいます。1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックに向けて着工された「外苑西通り」の一部で、青山通りと交わる南青山三丁目交差点の前後約1キロメートルを指します。

この呼称は、作家・堺屋太一さんによる命名であり、「キラー(Killer)」は、沿道にある墓地(青山霊園)、激しい交通、当時流行していた「ピンキーとキラーズ」などから連想されたものであるといいます。

堺屋氏の知人であるデザイナー、コシノジュンコが1970年(昭和45年)、この通りに店を開店する際の案内状にこの名を書いたことから世間に広まることとなりました。通りの北端には、ビクターの青山スタジオがあり、道路の両脇にはちょっとこじゃれたブティックや喫茶店なども散見されたりして、神宮外苑のなかなかおしゃれな通りという印象です。

サザンオールスターズはデビュー以来、レコーディングをこのスタジオで行っており、2005年(平成17年)に発売されたアルバムのタイトルは「キラーストリート」で、そのジャケットにはキラー通りの風景イラストが描かれていました。

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外苑駅前からの道のりはやや緩やかな昇りになります。そして、峠を越えて、ビクタースタジオの手前約200mのところの左手にあったこの会社には、その後アメリカに留学するまで結局5年間お世話になりました。

現在は、フィットネスクラブ、レストラン、オフィスからなる複合ビルに建て替わっており、一部はイギリスの高級車、ジャガーの青山店になっているようです。が、ここにかつて東京オリンピックの際の選手宿舎として建てられた三角形の形をした変わったビルがありました。

12階建だったと思います。最上階は役員室などが主であり、私の勤務先はその階下の11階にありましたから、職場としてはこの会社の最上階に位置していたことになります。

建築されたのは、東京オリンピック前ですから、昭和37~38年ころでしょう。当時のこのあたりはまだ開発も進んでおらず、一般民家も多数ありましたから、当時としてもかなり目立つ斬新なデザインだったでしょう。その後キラー通りが現在のように賑やかになってからも、この地域でもかなりシンボリックな建物としてみなされていたようです。

各階三ヶ所にある非常階段への扉を開けたところにある踊り場は、仕事が行き詰ったときの息抜きの場所でもあり、ここから見える新宿副都心の変わりゆく姿をみながら、5年間を過ごしました。

会社勤めを始めたころはまだこの西新宿にある高層ビルはそれほど多くなく、新宿住友ビル、新宿三井ビル、新宿野村ビル、新宿センタービルなどの5つか6つぐらいだったと思います。が、私がここへ勤めている間に次から次へと新しいビルが建っていき、かなり様相が変わっていきました。

調べてみると、私がこの町で日々の大部分を過ごした1980年代には、「超高層ビル」と呼ばれるものが9本建っており、以後、1990年代には10棟、2000年代にも10棟が完成しています。現在進行形の2010年代にも既に3棟が完成しており、今後とも新宿のランドスケープはさらにさらに変わっていきそうです。

ちなみに、こうした都会の風景を「スカイライン」といいます。本来は山岳の稜線などが描く輪郭線のことですが、近代では都市の高層建築物と空や大地が醸し出す風景のことを指します。これは以前にもこのブログでも書きました。日本ではクルマの名前のほうが有名ですが、欧米では普通にこうした都市景観のことをスカイラインと呼びます。

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こうした新宿のスカイラインは、1960年代まではまったくの地平線、といっていいほど凸凹が少ないものでした。いわゆる60mを超すような超高層ビルというものはなく、高いといっても、私が勤めていた会社のようなせいぜい10階建て前後の30~40m前後の建物が普通でした。

いわんや、江戸時代以前には、新宿はまだ何もない原野のようなところでした。おそらくは狐狸の住むような藪だけのような土地だったと思われます。そこへ、ようやく宿場町ができました。1603年に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸幕府を樹立してから約100年ほども経った1698年のことです。

信州は高遠藩の藩主、内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として設けられたもので、このため、この宿は当初、「内藤新宿」と呼ばれました。その本陣は、甲州街道と鎌倉街道が交差していた現在の新宿二丁目付近だったようです。

その後、江戸から甲府までの主要街道として開かれた「甲州街道」の整備が整うにつけ、宿場町としてさらに発展していくことになり、やがて、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展していきます。

非公認の売春宿、岡場所などもできてさらに繁盛するようになり、「四谷新宿馬の糞の中であやめ咲くとはしほらしい」という狂歌も詠わるようになりました。「馬の糞」というのは活発な馬の往来のことをさし、「あやめ」は飯盛女・遊女を意味します。歓楽街としての新宿の原型は、この時代に既にあったといえます。

ところが、明治維新によって武士が没落したため、武家地が多かった新宿もここに住まうものがいなくなり、荒廃し始めました。そこで、とくに広大な敷地を誇った内藤新宿は大蔵省によって買い上げられ、海外から持ち込まれた動植物の適否を試験する「内藤新宿試験場」となりました。

1879年には宮内省の所轄となり、これが現在の「新宿植物御苑」、通称「新宿御苑」になります。また、1885年(明治18年)には山手線が開通し、新宿駅が宿場の西はずれに作られ、続いて現在のJR中央線にあたる甲武鉄道や、路面電車の東京市街鉄道などがこの新宿駅に乗り入れるようになりました。

1915年(大正4年)には京王電気軌道、現京王線が乗り入れ、ターミナル駅としての姿を見せ始め、さらなる発展を遂げていきましたが、その流れをさらに加速したのが、実は、1923年(大正12年)に起きた関東大震災でした。

この地震によって、表層地盤の弱い都心部の銀座や東部の浅草などの下町エリアの繁華街は全滅しましたが、新宿などの東京西部のいわゆる「武蔵野台地(山の手台地)」と呼ばれる地域は地盤が固く、この地震でもほとんど被害を受けませんでした。

このため、同じく武蔵野台地に位置していて被害の少なかった、南側の渋谷、北川の池袋といった他のターミナル駅とともに、大震災後の復興を担う町として一躍時代の表面に躍り出てきました。

それまでは東京の中心といえば皇居のある旧江戸城を中心とした東側や南側だったわけですが、これらの地域の壊滅後には、より安全な地域と人々に目されるようになり、新たな繁華街が形成されるようになりました。

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また、中央線の整備も進み、京王線もどんどんと西進を続けたため、東京西部の郊外人口も急増しました。多摩地方のあちこちには住宅街が形成されるようになり、これらの人が京王線や中央線を使って大量に東京に入ってきます。そしてその際、人々が最初に降車する町として、新宿駅周辺には繁華街が形成されるようになりました。

とくに当時の中央線は西郊から都心に乗換えなしに行ける唯一の鉄道であったことから利用が多く、さらに昭和の初めには小田急線、西武鉄道も乗り入れ、新宿に交通が集中するようになると、新宿は東京駅周辺や銀座とも1~2位を争う繁華街となっていきます。

伊勢丹デパートや中村屋のカリー、高野商店の果物(フルーツパーラー)といった名物をはじめ、武蔵野館、新歌舞伎座、帝都座、ムーランルージュ新宿座などの映画館、劇場、カフェーなどが集中し人々で賑わうようになったのも、この昭和初期の時代です。

しかし、その後の太平洋戦争では、新宿もまた東京大空襲により大きな被害を受けました。ただ、このときも浅草などの東部の下町と比べれば人的被害も物的被害も少なかったほうで、このため、新宿駅周辺には戦後間もない頃から闇市が建ち並ぶようになりました。

良きにつけ悪しきにつけ、戦後の東京における復興の先駆けとなり、東口の中村屋横にできたハーモニカ横丁では「カストリ」と呼ばれる模造焼酎が売られるようになりました。また、これを真似て、統制外の粗悪紙を用いて濫造された、低俗な内容の雑誌なども流行るようになり、これらを総称して「カストリ文化」の名も生まれました。

ただ、その後政府によってこうした闇行為の撲滅運動が始まると、1950年頃までには新宿から闇市は姿を消していきました。小売店も次々と再開または新規開店し、新宿駅を中心とした商店街は東口を中心に戦前にも増して活気で満ちあふれました。

1952年には新宿駅が日本一乗換駅が多い駅となり、さらに、昭和30年代にかけて、丸井、小田急、京王などの百貨店が続々と進出し、現在見られるような新宿駅の西、東の商業地の風景が形成されました。

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そして、高度成長時代です。昭和30年代に入ると人々の心にもゆとりが生まれ、新宿は商業の急激な発展とともに、娯楽・演劇の拠点としても戦前以上の賑わいをみせるようになります。そして、その中心となったのが、戦災で焼失した新宿駅北方の地の一角、すなわち、歌舞伎町でした。

歌舞伎町を中心に数々の映画館が建ち並び、1956年には新宿コマ劇場がオープンし大衆の人気を集め、1964年には紀伊國屋ホールが開場し若手演劇人の登竜門となりました。そしてこの頃から、いわゆる「アングラ演劇」も盛んになり、新宿は独自のサブカルチャーの発信地としての地位を確立していきます。

新宿のジャズ喫茶、歌声喫茶などの喫茶店には多くの若者が交流の場を求め、集まるようになりましたが、と同時にこうしたサブカルチャーの余波は隣接する渋谷にも押し寄せました。

1970年頃までは、若者の街、若者文化の流行の発信地といえば、何といっても新宿でした。しかし、1973年(昭和48年)に渋谷でPARCOの開店があり、これを機に日本における若者文化の歴史が大きく変化したといわれます。そして、その流れは「新宿から渋谷、または原宿を含めた渋谷区全体へ」と移り変わっていきました。

新宿における若者の街、若者文化などは、渋谷へ向けて大移動を始め、渋谷は新宿に代わって新たな流行の発信地となりましたが、と同時に隣接する原宿も若者の集まる街として人気を集め、渋谷プラス原宿、そして表参道といった渋谷区の中心に大きな変化が訪れるところとなりました。

このころから、渋谷原宿と言えば若者の町、といわれるようになり、新宿はどちらかといえば大人の町と呼ばれるように変わっていきました。そして、私が大学を卒業して渋谷にある会社に就職したのはそうした「文化大移動」が終結して定着しつつあった1980年代の初頭ということになります。

既に若者の町としての渋谷は完成されつつあり、渋谷パルコ劇場、クラブ・クアトロ、シネセゾン渋谷、スタジオパルコなど、ライブハウスや劇場、映画館群が形成されたのもこの時代です。若者は皆、手に手に「ぴあ」を持ち、これらの劇場群をはしごするようになります。

さらには、PARCO・OIOIの進出やシブヤ109が誕生し、渋谷は若者のファッション文化の発信の地ともなりました。原宿とともにファッションの町としての地位を確立していった時代であり、いわゆる「竹の子族」なる人種が湧き出たのもこのころです。

ファッションの最先端ということで、当然芸能人たちもこぞってこの町で遊ぶようになり、この時代、私も夜になるといわゆるアイドルと言われるような人やタレントさんをよく見かけたものです。

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が、私といえば、こうした若い喧騒のある渋谷より、落ち終いた雰囲気のある新宿のほうがどちらかといえば好きでした。戦後の西新宿の開発は、1971年(昭和46年)に京王プラザホテルが建設されたのを皮切りに本格化し、次々と200m超の高層ビルが建設され、東口とは趣の異なる、オフィス街として熟成されていきました。

しかし、文化都市の側面もあり、熊野神社を含む広大な中央公園もあったり、あちこちには、ギャラリーや画廊なども散見されます。私も休日などには新宿のあちこちにあった(現在もあるでしょうが)フォトギャラリーで、有名な写真家さんの写真を見て歩くのが趣味で、その後待ち合わせた友達と飲みに行くこともありました。

が、私はどちらかといえば人とつるむのは好きでなく、アパートに帰りひとりでその余韻にひたるほうが好きでした。また、今でこそ映画館は各回の総入れ替え制ですが、このころは映画は何度でも最初に払った値段で見ることができたため、お気に入りの映画で休日を過ごすこともままありました。

また週末の土曜日などには一晩で4本も5本もの映画を連続上映するテアトル系の映画館もあり、ここで映画を見てからの朝帰り、というのもよくやりました。朝方映画館を出て、朝焼けの中でぼんやりと遠くに見える西新宿の高層ビル群がやたら綺麗に見え、いつかああゆう超高層ビルで仕事をしたいな~、と思ったりもしたものです。

とはいえ、最初に就職したこの会社での仕事は、慣れるにつけ何かと楽しく、また周辺が渋谷新宿という「行楽地」でもあり、大いに青春を謳歌できた感があります。なんというか、時代の最先端にいる、という気分があり、日々が楽しかったことが思いおこされます。

しかし、そうした生活にも時間の経過とともに「慣れ」が生じます。就職して5年目を迎えるころになると、オレの一生はこのままでいいのだろうか、と思い出しはじめましたが、結局はそうした「気分」がエスカレートするところとなり、長年お世話になった、その会社を辞めることになりました。

そして、フロリダ~ハワイにつながる長い海外生活に入ることになるわけですが、当初は2年程度で帰ってくるつもりが、結局はその倍の足掛け4年ほどの海外生活を送ることになりました。このため、その後、この間の新宿や渋谷の変わりようは目にしていません。

1990年代はじめに日本に帰ってきたころは、ちょうど東京都庁が完成したころであり、この新宿西側の様相も相当に変わっていたように記憶しています。また、渋谷にあったかつての勤務先のビルも取り壊されており、ある日その跡地を訪れたときは新しいビルが既に建っており、もうここは自分の居場所ではないな、と強く感じたのを覚えています。

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新宿や渋谷は、今でも仕事とプライベートの両方でたまに訪れることがあります。が、あのころのように自分の町、という感覚は既になく、ただの通過点になってしまっています。

しかも今、そこから遠く離れた伊豆の空の下にいて、そこで日々を送っているのが何やら不思議でしょうがありません。

彼の地で日々を送った生活から流れた時間を数えると早、30数年。この間の新宿渋谷の町の変遷を、今流行りのタイムラプスで見てみたいと思うのですが、どこかにそうした映像はないでしょうか。

もしあったとして、おそらくその映像の中で変わらないのは背景にある富士山くらいなのかもしれません。たしか、新宿駅西口からは、高層ビル群越しに富士山が見えたはずです。富士を中心にして撮影したそうした時間の流れをぜひ見てみたいものです。が、それはかなうはずもありません。

しかし、人は死ぬとき、その一生の映像を一瞬で見ることになる、といいます。映像と共に過ごした月日の良きこと悪きこともすべて見させられるともいいますが、そんな中でこの若かりし時代はどんなふうに見えるのかな~と想像したりもします。

更に思いかえすと、あの時代には、楽しかったことだけでなく、悲しかったことも多々あり、浮沈さまざまな気分を味わいましたが、と同時にこの町で過ごした日々はやはり人生で一番ワクワクしていた時代だったかな、とも思います。

1980年代というのは、バブルに向かう時期でもあり、渋谷や新宿の町が日本でも一番ダイナミックな変遷を遂げていたこの時期をそこで過ごせたのは少しくラッキーだったかな、とも。

少なくとも、5年経っても10年経ってもおそらくはあまり変わり映えしないであろう、この伊豆の地に住んでいたことよりも、新しい経験ができた時代であり、良い時代であった、と人生の最後には思うのかもしれません。

連休が終わり、また都会の喧騒に帰っていくみなさんも、そうした目で今過ごしている時間をみてみてはいかがでしょうか。

連休の間の楽しさは失せ、いやな仕事やノルマが待ち受けているかもしれません。が、その世界はのちに振り返ることになる長い人生の中においては、もしかしたら実は変化に満ちた驚きの時代であるかもしれない、ぜひ、そういう可能性についても考えてみて頂きたいと思います。

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かぶき者慶次のこと

2014-1763連休が終わりました。

……といっても、今日明日も休んで超豪華長期休暇にする、なんて人もいたりするわけで、今日から仕事という人も2日会社に行けばまた休み、というのが普通でしょう。なので、多くの人はまだまだ連休気分は抜けていないのではないでしょうか。

本格的な始動は来週からにして、今週は仕事もそこそこにしておこう、というのが大方の気分でしょうが、かくいう私も同じです。

が、連休といってもとくに遠出をすることもなく、近くの山の登山に出かけたくらいであり、連休の合間である明日あたりは観光地の伊豆も多少人が減るでしょうから、ここぞとばかりにどこかへ出かけようか、と目論んでいる次第です。

ところで、4月から、NHKで面白い時代劇をやっています。「かぶき者慶次」というドラマで、主人公の前田慶次こと、前田利益を演じるのは、渋い役者さんとして高名な藤竜也さん。

実は、この「慶次モノ」というのはこれが初出ではなく、NHKとしては、2002年の大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」で、慶次を登場させており、このときは及川光博さんが演じたようです。ほかの民放でも放映されているほか、小説でも多くの作家さんが慶次のことを書いており、時代劇好きの人にはおなじみのキャラのようです。

しかし、今回の慶次は石田三成の遺児を育てる養父という、奇抜なキャスティングでストーリーが組み立てられており、これまでの作品とはちょっと違った雰囲気です。

昔の作品を全部みているわけではないので、どこがどう違うかとはいえないのですが、登場させている役者さんの顔ぶれや前宣伝などをみるとNHKとしても大河ドラマ並の力の入れようのようです。

実は私は、主人公役を演じる藤竜也さんをじかに見たことがあります。その昔、ハワイに留学していたおり、ワイキキのホテルでシンポジウムか何かがあった際に、エスカレーターで下から上がってくる藤さんと、すれ違いました。

何かの撮影のためにハワイに訪れたのか、白い上下のスーツで、上着の下には赤っぽいシャツを着ておられました。ポケットに片手を突っ込んでホテルの中を眺めながらエスカレーターを昇ってこられたかと思いますが、さすがにかっこえーな~とほれぼれするようなお姿でした。

現在73~74歳になられているかと思いますが、私がハワイにいたのが、27~28年前ですから、その当時50歳前で、役者さんとしても脂の乗り切ったころだったでしょう。現在はそのころにも増して演技に円熟味が出てきて、「かぶき者」を演じるにも最適なキャスティングと思えます。NHKの目の付け所に拍手したいと思う次第です。

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「かぶき者」というのは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮で、とくに江戸や京都などの都市部で流行しました。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのことを指し、当時男性の着物は浅黄や紺など非常に地味な色合いが普通だったのに対し、彼等は概して派手好みでした。

色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだといわれ、立髪や大髭、茶筅髪、大きな刀や脇差、朱鞘、を差すなどの異形・異様な風体が流行しましたが、その代表選手が、ご存知、織田信長です。

しかし、かぶき者になるのは、一般には若党、中間、小者といった身分の低い武家奉公人が多かったようで、本来は武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす者たちで、その生活は貧しく不安定でした。

徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪ったり、家屋の障子を割り金品を強奪するなどの乱暴・狼藉をしばしば働いたので、多くの人に嫌われました。

自分の武勇を公言することも多く、それが元でケンカや刃傷沙汰になることもあり、辻斬り、辻相撲、辻踊りなど往来での無法・逸脱行為も好んで行い、衆道や喫煙の風俗とも密接に関わっていたといいます。

しかし、こうした身なりや行動は、世間の常識や権力・秩序への反発・反骨の表現としての意味合いがあり、彼らは、仲間同士の結束と信義を重んじ、命を惜しまない気概と生き方の美学を持っていたといわれます。

その男伊達な生き方は人々の共感と賞賛を得てもいたようで、このため武家奉公人だけでなく、町人や武士である旗本や御家人がかぶき者になることもありました。

このNHKのドラマの前田慶次もそうした一人であった、という設定ですが、時代背景も関ヶ原直後のころを想定しており、かぶき者全盛のころ、ということで一致しています。

ちなみに、その後1603年(慶長8年)に出雲出身といわれる、出雲阿国(いずものおくに)がかぶき者の風俗を取り入れたかぶき踊りを創めると、たちまち全国的な流行となり、これが、のちの歌舞伎の原型となったといわれています。

かぶき者の文化は江戸時代の初めのこうした時代に最盛期を迎えましたが、同時にその頃から幕府や諸藩の取り締まりが厳しくなっていき、やがて姿を消していくことになります。が、その行動様式は侠客と呼ばれた無頼漢たちに引き継がれ、さらにその美意識は歌舞伎という芸能の中に受け継がれていくことになりました。

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さて、この前田慶次という人物ですが、実在したかどうかということになると、答えはイエスのようです。そのモデルになったのは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将の前田利益(とします)だといわれています。自らも慶次と名乗っていたようですが、利益のほかにも宗兵衛、慶次郎、利貞など時期によって異なる名前を用いていたようです。

養父の前田利久は、前田利家の長兄です。つまり、加賀百万国の創始者、前田利家の義理の甥ということになります。利久は現在の古屋市中川区にあった、尾張国荒子城主であり、長男であったため、本来は前田家を継ぐ身分でした。が、主君・織田信長の命により家督を弟の利家に譲っています。

その理由は、利久に実子がなく、病弱だったからのようで、このため、同じく信長に仕え、織田家の重臣だった滝川一益の一族の子である、利益を養子として迎えました。一説に一益の従兄弟、あるいは甥といった説が存在するようです、が、利家よりも年上だったようなので、年齢的にみて一益の兄か弟ではなかったか、という説もあります。

しかし、滝川家には非常に多くの支流や系譜があり、利益の出自が本家なのか分家からなのかもよくわかっていません。それでは、この一益とはどういった人物だったか。

これは、信長に付き従い、長島一向一揆と石山合戦、武田討伐と次々に武勲を挙げて、信長のお気に入りだった武将の一人です。

柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉と並んで四天王の一人に数えられた人物で、信長の命により数々の戦功をあげ、関東を鎮定以後、それまでの功により伊勢の地を拝領するとともに、引き続き、関東周辺の地の鎮定に邁進しました。

そして、当初、現在の群馬県高崎市箕郷町にあった上野箕輪城、次に群馬県前橋市にあった厩橋城に入り、ここで当面鎮定した関東の治世にあたることになりました。

ところが、信長が本能寺の変によって横死すると小田原城の北条氏直(氏政の嫡男)を初めとする北条勢が北関東にまで押し寄せてきました。一益はこれを迎え討ちましたが、のちに和平を結び、これによって信長の死後ようやく織田の領国である美濃国に入ることができました。

このとき、一益は清洲にて信長の嫡孫、三法師(織田秀信)に拝礼、伊勢に帰ったといいますが、しかしこの途上に、秀吉の遺臣たちによる事後処理会議、いわゆる清洲会議が開かれ、これに一益は出席できませんでした。このため、織田家における一益の地位は急落。

清洲会議後、三法師が織田氏の後継者となりましたが、これに信長の三男・織田信孝は不満を持っていたため、事態は三法師を擁立した羽柴秀吉と、信孝を後援する柴田勝家の対立に発展していきます。

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一益は勝家側に与して自国の伊勢で、秀吉との戦端を開きましたが、伊勢国桑名郡(現在の三重県桑名市長島町)にあった自城の長島城では、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に粘り、織田信雄と蒲生氏郷の兵2万近くの兵を釘付けにしました。ところが、柴田勝家はその後賤ヶ岳の戦いで敗れ、琵琶湖北部、北ノ庄において自害してしまいます。

残った一益は更に長島城で籠城し、孤軍奮闘しますが、やがて降伏。これにより一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、かつての同僚、丹羽長秀を頼り越前で蟄居生活に入りました。

織田対豊臣の戦いはこれで終わりかと思われましたが、天正12年(1584年)、今度は信長の次男、織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げます。これがいわゆる「小牧・長久手の戦い」の始まりで、このとき一益は隠居に身でしたが、娘婿である滝川雄利は信雄の家老を務めており、本来ならば老骨鞭打って出馬し、家康につくべきところでした。

ところが、ここが一益のエライところで、時代を読み切っていたのか、隠居生活を送りつつ秀吉に接近していました。秀吉のほうも一益の能力を高く評価していたことから、この戦では秀吉の誘いに応じ、秀吉方となりました。

結果、この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆と前田長定を調略するなどの功があったため、秀吉から次男の一時に1万2千石を与えられました。しかし、そのわずか2年後の天正14年(1586年)に死去。享年は62と云われます。

一益には4人の息子がおり、長男の一忠は小牧・長久手の戦でも父と行動を共にしていましたが、尾張国南西部における秀吉陣営と織田・徳川陣営の間で行われた蟹江城合戦での不手際を秀吉に責められ、追放処分となりました。

また、次男の一時は滝川家の家督を継ぎ、豊臣氏の家臣として1万2千石を与えられていましたが、後に請われて徳川家康にも仕えることとなり、徳川方より2千石を与えられ、合計1万4千石の大名となりました。

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しかし、一時は慶長8年(1603年)に35歳で死去。その際、豊臣氏から与えられていた1万2千石は没収され2千石の旗本とされました。また、一時の嫡男・一乗は幼年であった為、叔父の一忠の子で米子藩主中村氏に仕えていた滝川一積が呼び戻され名代となり、その後、家督と750石が一乗に返却され、滝川本家として存続しました。

その他、一益には三男に辰政、四男に知ト斎という二人の息子がいました。このうち辰政は、大坂の陣で戦功を挙げ1千石を加増され、合計3千石となり、その子孫は池田氏の移封に伴い、備前岡山藩士となりました。また、知ト斎は因幡鳥取藩池田氏に仕え、それぞれの子孫は岡山と鳥取の池田氏に仕えました。

いずれにせよ、往時の信長の代にあって大大名といわれた一益が興した滝川家は、相次ぐ戦乱の波に飲まれ、没落は避けられたものの、その後の徳川の世では、旗本、もしくは小大名になりさがるところとなりました。

さて、少々前置きが長くなりましたが、前田利益は、この滝川家の中興の祖、滝川一益の一派から出ました。前田家に養子に出されたわけですが、時代背景をみると、どうやら一益がまだ信長の四天王として活躍し、関東や北関東を鎮定しつつあったころかと思われます。

滝川家から前田家に養子に出された、という事実をみると、おそらくは滝川家の流れを汲む名門家の出であったとしても、嫡男としてではなく、次男三男がその出自だったと思われます。

この前田家の始祖の、前田利家もまた一益同様信長に信頼されていた人物です。利家は、はじめ小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持つほどの武将であり、その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、連勝しました。こうした功績が信長に認められ、のちには能登一国23万石を拝領して大名になっています。

同じく重臣の滝川一益とどこまで仲がよかったかどうかまではよくわかりません。が、勘気の強い信長の元でいつまで続くかもわからない乱世の中、できるだけ重臣同士は縁戚関係になり、敵を作らないようにしていたと考えられ、昔ながらのよしみで、利益を養子にしてやってよ、ということだったのではないでしょうか。

ところが前述のとおり、利益の義理の父となった、利家の兄、利久には子供がなく、病弱のため、その後信長から「武者道御無沙汰」、つまり武士としては甲斐性がない、と判断され、隠居させられてしまいました。そして、前田の家は、弟の利家が尾張荒子2千貫の地(約4千石)とともに継ぐことになりました。

これによって利久は没落し、このため利益は養父に従って、一旦は尾張の荒子城から退去し、浪人の身分になったとされます。しかし、さすがに食えなかったのか、その後利家は累進し能登国一国を領する大名となると、利久と利益は利家を頼り、これを許されて能登で仕える事になります。

このとき利家から利久・利益親子には7千石が与えられたといい、そのうち利久は2千石にすぎず、利益には5千石が与えられました。弟の利家からもよほど能力がないと思われていたのか、あるいはこのとき利益に家督を継がせることが決まっていたのでしょう。

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ところが、天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が起きます。その二年後には、天下人の継承をめぐって、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で、上述の小牧・長久手の戦いが起こりますが、この時、利家は秀吉側についており、当然、利益も彼の手先となりました。

彼らが住まう加賀・能登へは、徳川方の佐々成政が侵攻してきましたが、このとき利益は、佐々らに攻められた能登の末森城の救援に向かい、徳川方と交戦しました。この戦いは結局秀吉側の勝利に終わり、徳川は秀吉の一大名に成り下がりました。

叔父の利家は、末森城の戦いに勝ったのに続いて隣の越中国へも攻め込んで勝利し、越後の上杉景勝と連絡をとって北陸を平定、また秀吉の弟・羽柴秀長に従って四国へ進出してここを制しました。これによって前田家の地位は豊臣政権にあって不動のものとなり、利久と利益親子もまた利家に帰依していたため、それなりの恩賞を受けたと考えられます。

しかし、小牧・長久手の戦いから3年後の天正15年(1587年)には、義父利久が没しました。このとき、利益は家督を嫡男の正虎に与え、また利久から貰い受けた2千石をも正虎に与え、引き続き利家に仕えることになりました。

こうして、利益は実質、隠居状態になります。このとき57歳であり、年齢的にももう戦はご免、という時期だったでしょう。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると利家が北陸道軍の総督を命ぜられて出征することになったので、利益もこれに従うよう命令が下ります。

また、次いで利家が陸奥地方の検田使を仰付かったときにも、利益はこれに随行しており、隠居の身とはいえ、利家が頼りにするほど、その知力にはまだまだ余裕があったことがうかがわれます。

しかし天正18年(1590年)以降、利益は突如として利家と仲が悪くなります。理由ははっきりわかりませんが、利益に長年付き従ってきた部下が利家の嫡子である利長と不仲だったからと伝えられています。このとき既に家督は長男の正虎に譲っており、養父の利久も亡くなっていることから、前田家と縁がなくなったと判断した彼は、出奔を決めます。

金沢を飛び出した利益は、その後は京都で浪人生活を送りながら、連歌師の里村紹巴・昌叱父子や学者の九条稙通、武将ながら茶人でもあった古田織部ら多数の文人と交流したといいます。40代後半のころにはすでに京都での連歌会に出席していた、という記録が残っており、この出奔以前から京都で文化活動を行っていたようです。

なお、このとき、利益の嫡子である正虎は当然のことながら、妻や他の子供なども一切この出奔には随行せず、そのまま金沢の利家の元に残りました。NHKのドラマ「かぶき者慶次」の中では、この妻を江波杏子さんが演じており、その名は「前田美津」となっており、また娘のひとりは、左乃(西内まりや)などとして描かれています。

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この京都では、同じく信長の家臣であった、細川幽斎とも親交があったようで、彼が出席した連歌会でたびたび顔を合わせている、という記録もあります。細川幽斎とは、初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力しますが、後に織田信長に従い丹後宮津11万石の大名となった人物です。

後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川氏の祖となりましたが、若かりしころは明智光秀とも親しい間柄でした。信長の薦めによって嫡男・忠興と光秀の娘・玉を結婚させており、この玉こそ、のちに細川ガラシャといわれる人物です。のちに夫忠興が家康に組したことで、その留守に石田光成に襲われ、城ごと焼死することになります。

この細川幽斎のような大物中の大物と親しかったという利益もまた、かなりの人脈があり、有名人が多数出席するような連歌の会に出席していたことなどから、教養がある人物であったことは容易に想像できます。

この京都への出奔後、しばらく遊び暮らしたのちに利益は、越後の上杉景勝に仕官しています。この上杉景勝は、豊臣政権の五大老の一人で、前田利家とも親交がありました。

豊臣政権下では、前田家、上杉家とも格の上では同じくらいであり、両者とも乱世を生き抜き、家を江戸まで存続させたという点で共通点があります。同じ北陸地方ということで親近感もあったでしょうし、そこへ仕官したというのもうなづけます。

が、仕官というよりも、家格からしておそらくはどちらかといえば食客として迎えられた、というのが正しいと思われます。時期としては、関ヶ原の2年前の慶長3年(1598年)のころのようです。実は、この年は、上杉家は、秀吉の命により120万石に加増された上で、会津に移封された年であり、このとき当主の上杉景勝は、「会津中納言」と呼ばれました。

利益は既に65歳になっており、新規召し抱え浪人の集団である組外衆筆頭として1000石を受けています。

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この上杉家への入封においては、主君景勝のブレーン、直江兼続のとりなしもあったことがわかっており、兼続が利益のために屋敷を建ててやれ、と部下に命じる書状なども残っています。その後も兼続とは何かと親交が深かったそうで、このほか上杉二十五将の1人といわれた安田能元とも親しく、2人での連歌が今に残っています。

利益が上杉家に入ってから、1年後の慶長4年(1599年)には、叔父の利家が61歳で亡くなっています。叔父とはいえ、義理であり、利益よりも年下であったことからもその関係性がうかがわれます。利家にとっては結構けむたい甥だったのではないでしょうか。

前田家は彼の死により嫡男の利長が継ぐところとなりましたが、このころまでには既に秀吉は死んでおり、天下は徳川と旧豊臣派が真っ二つにわかれて睨みあう情勢になっていました。前田家は元々親豊臣でしたが、利長の代に、結局は家康の脅しに屈服し、利家の死から一年後に勃発した関ヶ原合戦では東軍に与しました。

一方、上杉家は打倒家康の闘志をむき出しとして徳川方と抗いました。関ヶ原の前哨戦ともいわれる山形盆地で行われた「長谷堂城の戦い(慶長出羽合戦)」では、徳川方の最上義光・伊達政宗率いる東軍と激戦を行っています。

このとき、利益は直江兼続の傘下に入って伊達軍と戦い、数々の功を立てたとされ、そうした奮闘もあって一時は上杉が優勢でした。しかし、この戦いの途中で、主君の景勝が参加していた関ヶ原の戦いで西軍が敗れたとの報が入ります。敗報を知った兼続は自害しようとしたものの、このとき彼を諌めたのが、利益だったといわれています。

利益に説得された兼続は、撤退を決断します。が、最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転。上杉軍が撤退を開始する中、最上伊達連合軍が追撃した結果、上杉方は大勢の兵を失いましたが、兼続らの首脳陣は命からがら越後へ逃げ帰りました。

結果、上杉家は会津120万石を没収された上、30万石に減封された上で米沢に移されることになり、利益もこれに従って米沢藩に仕えるところとなりました。そして、米沢近郊の堂森(現、米沢市万世町堂森、慶次清水と呼ばれる)において再び隠居生活に入りました。利益はこの時すでに68歳になっていました。

隠棲後は兼続とともに「史記」に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなど自適の生活を送ったと伝わっています。そして、慶長17年(1612年)6月4日に79歳で、堂森で没したとされます。子は一男三女(五女とも)をもうけたとされますが、その後の生涯は不詳です。

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NHKドラマでは、この晩年の米沢時代の利益を描いているわけですが、しかし、これまで書いてきたような史実の中には、劇中にあるような、石田光成の子供を預かったというような事実は見えてきません。

ただ、前田家、上杉家とも秀吉の五奉行を命じられていたころから、同じく五奉行だった石田三成と親しかったことは確かでしょう。

三成には、3男3女もしくは2男5女がいたとされます。しかし、うち、長男と三男は関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命されたものの出家させられて坊主になっており、可能性のあるのは次男の「石田重成」という人物です。

しかし、米沢に渡ったという事実はなく、関ヶ原の戦い後、津軽信建という津軽氏の武将の助力で畿内を脱出。津軽氏に匿われ、のちに、「杉山源吾」と名を変え、津軽藩の家老職となっています。その子孫は津軽家臣として数家に分かれており、従って、NHKのドラマではこの事実をかなり脚色しているものと思われます。

利益の亡骸は米沢の北寺町の一花院に葬られたとされますが、一花院は現在廃寺となっており、当時の痕跡は残っていません。また堂森の善光寺というお寺には供養塔が残っているそうですが、こちらの供養塔は昭和55年(1980年)に建てられたものです。

利益の残した足跡としてもうひとつ残っているものとしては、山形県米沢市の宮坂考古館に利益の甲冑とされるものが展示されています。また、2009年、山形県川西町の掬粋巧芸館で、もう一つ利益のものとされる甲冑の40年ぶり2回目の特別公開があったそうです。

もともと非公開だっただけに、保存状態は極めて良いといい、これが、本物かどうかは不明ですが、上杉家に伝わった甲冑をまとめた「御具足台帳」には利益所用の甲冑は3領のみだったと記されているそうです。この残されたふたつが3つのうちの二つということになるのかもしれません。が、真偽のほどはわかりません。

それにしても、「かぶき者慶次」とよばれるような本当にユニークな人物だったのだろうか、というところが気になります。それについても今日書いていこうかと思ったのですが、前置きが長くなりすぎ、紙面も押してきたので今日のところはもうやめにしましょう。

史実によれば、確かに、利益には「かぶき者」と呼ばれるような傾向があったようで、常日頃世を軽んじ人を小馬鹿にする悪い癖があり、また、いたずら癖、奇行の持ち主だったようです。

が、そろそろ晩飯の支度をしなければなりません。そのことはまた別の機会に書きましょう。今晩夜8時のドラマの放映が楽しみです。

2014-1815

食べるものいろいろ

2015-20445月になりました。

伊豆は他県からの観光客だらけで、イモ洗い状態です。

人ごみの嫌いな私は、この連休中にはどこへも行かないぞ!と固く心に誓っていたのですが、さすがの連日のお天気のよさに、家にいるのもなんだかな~と、ついつい思ってしまいました。

しかし、できるだけ人ごみは避けようとも思い、行楽地は避け、山登りをすることにしました。

我が家からごくわずかな距離のところに益山寺(えきざんじ)というお寺があります。標高300mほどのところにある真言宗のお寺で、弘法大師の創建と伝えられます。

ウソでしょう。が、かなり歴史のあるお寺であることは間違いなく、境内には、根回り5.46㍍、目通り4.05㍍、樹高27㍍、樹齢900年ほどの大楓があります。県下最大の楓です。保存は良好で、木肌も美しく、一方で隆々とした瘤が多くあって、盛り上がるその力強さは見る者を圧倒します。

このお寺のすぐ裏側には神社があり、急な階段を昇って参拝すると、さらにその裏手に登山道があります。これを辿って伊豆の名峰、葛城山に達することもできますが、その反対側を海の方に登っていくと、発端丈山(ほったんじょうやま)という山の山頂に出ることができます。

2015-2004

今回の登山はこの益山寺のふもとからこの発端丈山の頂上を目指すコースでした。麓にある駐車場(無料)から、かなりゆっくり歩いても1時間ほどの工程で頂上に着きます。が、この益山寺もかなり見どころのある場所であり、ここでたっぷりの時間を使って写真を撮り、頂上までは1時間半ほどかけました。

山頂は、ほんの少しの面積ですが広場になっており、北西方向が開けています。南北朝時代に畠山国清という武将が城を構えたという資料があり、これは「三津城(みとじょう)」と呼ばれていたようです。

登山道を昇り切った山頂の広場がその城跡の楼閣があったところでしょうか。ここからは真正面に富士山がどんと座り、目を左に移すと駿河湾の深い青が目に入ってきます。

さすが、「静岡の百山」のひとつとして選定されている山であり、この発端丈山からの眺めは秀逸です。北方の沼津の方向は樹木に遮られて見えませんが、山頂からさらに三津側へ5分ほど下ったところには、北方を見ることができる展望台があり、ここからの眺めも素晴らしい。

麓の駿河湾奥部の内浦湾も眺めることができ、そこには宿泊施設が並び、それらの中に混じって伊豆・三津シーパラダイスの一部もみえます。

西武グループの企業である伊豆箱根鉄道の経営の水族館で、その前身は、「中之島水族館」といい、なんと戦前の1930年が創業です。日本で5番目に開業した水族館です。初めてハンドウイルカの飼育を開始したことでも知られています。

かなり昔のこと、たぶん学生のころに一度行ったことがあるはずなのですが、展示内容はよく覚えていません。が、今もたぶん大きくは変わらないでしょう。40トン水槽で駿河湾の約400種の魚介を飼育しているほか、ペンギンやアオウミガメといったものから、アザラシ、オタリア、セイウチ、オットセイといった海獣が多いのが特徴です。

イルカショーも有名であり、「イルカの海」でバンドウイルカ・カマイルカ・オキゴンドウによるショーが行われた後、隣接の「海獣の広場」でカリフォルニアアシカ・トド・カマイルカによるショーがオムニバス形式で行われている、とのことです。

入場料、中学生以上のおとな1,960円(4才~小学生は980円)が高いか安いかどうかはわかりませんが、おそらくこの連休中にはかなりの観光客でここもごった返していることでしょう。

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ところで、イルカといえば、静岡県民はこれを食します。

エッ、あの可愛い動物を食べる!? 動物保護派の人は眉をひそめるでしょうが、本当です。県内のスーパーでは、どこでもフツーにイルカの肉がパックに入って売られており、このイルカ肉は、たいてい血抜きをされていないため、鉄分が酸化し黒っぽい色をしています。

調理法としては一般的には、塩漬け・塩抜きし、もしくは、醤油とみりんと砂糖で作ったタレに漬けてゴマをふり、天日干しにします。こうしたイルカの干物は「イルカのタレ」と呼ばれ、焼いて食べますが、また燻製にもします。

また、煮物にすることも多く、この場合は水に晒して血抜きをし、4~5時間ほど下茹でしてアク抜きをし、臭みを除いてから、ショウガ・ゴボウ・ニンジン・大根・こんにゃくなどとともに味噌煮にすることが多いようです。伊豆を含む静岡県東部地方ではこれが冬の定番の郷土料理です。

私も学生のころに旅館でバイトをしていたとき、まかないに出てきたこのイルカ煮をよく食べました。かなりの美味だったことを覚えています。新鮮な生肉は刺身にもできるそうで、これも水に晒して血抜きをし、硬い表皮を除き、肉と脂肪層を数mmの薄切りにして刺身にするようです。おろしショウガ醤油・おろしニンニク醤油などで食べます。

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近年になって大型のクジラの捕獲量に制限が加えられ、流通に支障が出てくるようになると、単に「鯨肉」と称してイルカの肉が市場に出回るケースもあるようです。イルカも広義には、鯨類ではあるため間違いではありません。

もっとも、現在のJAS法上はそのような表示は不適法とされており、それぞれ「ミンククジラ」「イシイルカ」などの鯨種別表示が必要だといいます。

それにしても、あれほど知能の高い動物を食べるなんて……と批判の目が静岡県民には向けられそうです。しかし、戦前や戦後の食糧難の時代、日本ではクジラと同じくイルカも、貴重な蛋白源でした。

静岡以外でも、駿河湾で水揚げされた魚貝類が流通する内陸部の山梨県では明治初期からイルカ食が行われ、山梨県富士川町の鰍沢河岸からはマグロなどの大型魚類とともにイルカの骨が出土しています。

このほかでも静岡県以外でもイルカがよく回遊することころでは、いまだに食用にする習慣が残っているところも多く、その代表は和歌山県です。各都道府県知事許可漁業の「いるか突きん棒漁業」「いるか追い込み漁業」として認可を受けて操業している漁業者も少なくなく、和歌山県でもイルカ食文化はいまだ健在です。

2009年にイルカ追い込み漁を批判する映画「ザ・コーヴ」がこの和歌山の地を舞台に製作され、公開の際にはかなりの物議を呼びました。

しかし、実はイルカの最大の産地は岩手県だそうです。イルカの漁獲量は一般の漁業と異なり、重量ではなく頭数管理とされていてクジラなみの扱いです。定置網で混獲されたイルカが食用とされるのは普通のことのようです。詳しく調べてみていないので細かいことまではよくわかりませんが、食べ方も静岡よりもさらにバラエティーに富むようです。

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このようにイルカを食べる習慣はいまだに各地で残っているわけですが、世界的には野蛮な習慣だとして止めるようにしつこく言ってくる国も多いようです。海洋資源の無秩序な乱獲は慎むべきだというのが表向きの理由ですが、実際には動物福祉の観点から非人道的である、というのが彼等の意見のようです。

イルカと同じくらいに知能が高い動物の代表としてはサルが挙げられますが、じゃあ、サルを食べるか、といえば、やはり日本人でも嫌がるでしょう。イルカも同じだ、という彼等の論調もわからなくはありません。

ただ、古くは日本でもサルは食されていたようで、天武天皇4年(675年)に出された肉食の禁止令では、牛馬鶏犬とサルを食べることを禁じています。また江戸時代末期に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンは江戸の店先でサルが食用として売られている状況を記録しています。

さらに、現代にいたっても第二次大戦後、サルの数が急に減少したのは、戦後の食糧難の時期に食用になったためと言われています。また、熊の胆嚢を熊胆として利用するように、サルの胆も薬用とされました。

さすがに現在の日本では食しませんが、中国ではいまだにサルの脳を高級珍味として食べるそうです。その名も「猿脳」というそうで、清王朝時代の北京における宮廷料理にそのルーツがあるといいます。

どうやって食べるか、についてはあまりにもおぞましいので書きませんが、生きたままのサルを縛り上げ、調理人がその場でサルの頂部を処理して、客に提供するそうです。中国では特に猿の脳はインポテンツを治療すると信じられているようで、猿食のこの習慣は乱獲を引き起こすほどだそうです。

とくに、中国南部のミャンマーと接する雲南省あたりでは今もさかんに食べられるようですが、さすがに中国政府も外聞が悪いと思ったのか、最近厳しい法規制を敷くようになったといいます。

このほか、イギリスのダイアナ妃の元執事は、サウジアラビアを訪問したときにバナナの葉とココヤシに載った猿脳を供されたといいます。

アフリカなどでも猿を食べる風習のある部族がいるとのことですが、こうした猿食の行為に対してはエボラ出血熱やHIVに感染する危険性も指摘されており、中国も含めて今後はこうした風習は減っていくことでしょう。

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このように野蛮な風習というのは時代の変遷とともに廃れていくものです。いわゆる「人肉食」もそのひとつであり、さすがに現在ではもう人肉を食すことはないだろう、と思ったら、北朝鮮などでは現在もありうるといいます。

この国では、農業政策の失敗などから食料不足が慢性化しており、飢えに耐えかねた親が子を釜ゆでして食べて捕まる事件や、人肉の密売流通などの事件が後を絶たないといいます。

お隣の韓国でも日本統治時代の昭和初期に至っても自分の子供を殺して生肝を食べさせる事件や、ハンセン病を治すために子供を山に連れて行って殺し、生肝を抜くという行為が散見されたそうです。

さすがに習慣化しているものではなく、両国とも現在はきつく戒められているようですが、じゃあ日本はどうなのよ、といえば、日本でもほんの100年ほど前の江戸時代には、薬用として人肉を食べていたという記録があります。

江戸時代、処刑された罪人の死体を日本刀で試し切りすることを職とした山田浅右衛門なる人物は、死体から採取した肝臓を軒先に吊るして乾燥させ、人胆丸という薬に加工して販売したとされます。当時は人胆丸は正当な薬剤であり、山田家は人胆丸の売薬で大名に匹敵する財力を持っていたと言われています。

こうした風習は明治になっても続き、1870年(明治3)年には明治政府が人肝、霊天蓋(脳髄)、陰茎などの密売を厳禁する弁官布告を行っています。しかし闇売買は依然続いたらしく、たびたび事件として立件、報道されています。

昭和40年代まで全国各地で、万病に効くという伝承を信じて、土葬された遺体を掘り起こして肝臓などを摘出して黒焼きにして高価で販売したり、病人に食べさせたりして逮捕されていたことが新聞で報道されていたそうです。

こういう人食は、いわゆる「共食い」であり、こうした風習を英語では「カニバリズム(cannibalism)」といいます。ただし、社会的制度的に認められた慣習や風習を指し、現在の北朝鮮のような一時的飢餓状態下の緊急避難的な場合や精神異常による食人を含みません。

しかし、緊急性がなく、かつ社会的な裏づけ(必要性)のないカニバリズムは、さすがに現在では世界的にもなくなりつつあります。文明社会では、直接殺人を犯さずとも死体損壊等の罪に問われる内容であり、それ以前に、倫理的な面からも容認されないタブーです。そして仮に起こったとすれば猟奇殺人に伴う死体損壊として扱われます。

ただ、タブーとされるがゆえに、それを扱った文学・芸術は多く見られます。フィクションでは、「スウィーニー・トッド」、「ハンニバル・レクター」などがそれであり、スウィーニー・トッドの原作では、悪魔的な理髪師が、剃刀で犠牲者の喉を掻っ切り、主人公の愛人がその死体を解体して肉をミートパイに混ぜて焼き、何も知らない客に売りさばきます。

ハンニバルのほうは、精神科医にして連続猟奇殺人犯である主人公が、殺害した人間の臓器を食べるというもので、その野蛮な行為から「人食いハンニバル」として人々から恐れられる、という物語です。

2015-2070

この映画は、トマス・ハリス原作の同名小説「羊たちの沈黙」として1990年に封切られましたが、アンソニー・ホプキンスが演じるこの主人公の天才精神科医は、アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が企画した「AFIアメリカ映画100年シリーズ」における「悪役ベスト50」で1位に選ばれています。

また、彼のセリフ「A census taker once tried to test me. I ate his liver with some fava beans and a nice Chianti」は、「アメリカ映画の名セリフベスト100」で21位にランク入りしています。これは、日本語字幕では、「昔、国勢調査員が来た時、そいつの肝臓を食ってやった。ワインのつまみだ。」と訳されたようです。

この「ハンニバル」は、映画化された最初の「羊たちの沈黙」以下、「レッド・ドラゴン(2002年)」、「ハンニバル・ライジング(2007年)」としてシリーズ化され、最後のハンニバルライジングですべての秘密が解き明かされる、という仕組みになっています。

実によく練られたストーリーであり、カニバリズムに憑りつかれた教養ある人物の偏執的ともいえる復讐劇が繰り返される、といったその内容は、それまでのありきたりのホラー映画以上に怖い、しかも痛快、ということで映画ファンならずとも多くの人に広く支持されています。

私もファンのひとりであり、原作は無論購入して全部読みましたし、映画化された3本もすべて見ました。

紙面の関係から今日はもうそのあらすじを書くのはやめにしますが、もし原作本も映画もまだ未経験の方がいたら、残る連休中にぜひビデオなど借りて初体験してみてはいかがでしょうか。

ただし、酒のつまみに国勢調査員のレバーを食べながら、ビデオを見るのはやめにしましょう。イルカやサルもまたしかり。映画鑑賞にはやはりポテチが一番なのかもしれません。

2015-2028

アドルフの妻

2015-1514今4月30日は、アドルフ・ヒトラーの命日です。

ユダヤ人を始め多くの罪のない人々を殺した残虐な独裁者という印象があり、その死を悼む、という気にはなかなかなりにくいのは事実です。が、改めてその最後の様子を調べていたところ、その死の前日に、エヴァ・ブラウンなる人物と結婚式を挙げていた、ということを初めて知りました。

生涯独身だったと思っていたので、ちょっと驚いたのですが、どんな人物なのか興味が沸いてきたので調べてみることにしました。

エヴァ・ブラウンはリッツ・ブラウンという教員の父を持ち、母フランツィスカとの間に、次女として1912年2月6日に生まれました。生まれたのはミュンヘンで、ほかに3歳年上の姉イルゼ、3歳年下の妹マルガレーテがおり、3人姉妹でした。

父のブラウンは、教育者だけに厳格な人だったようで、娘たちが中等教育を終えたあとは教育の総仕上げに修道院に送り、礼儀作法などを覚えさせるのを一家のしきたりとしていました。

ただし、修道院といっても聖職者になるための教育を受けさせるのではなく、院運営の職業訓練校のようなものだったようで、しかもここに通うのは1年間だけです。

エヴァはここに16歳で入りましたが、修道院だけにその教育内容は厳格なものだったようで、当然男女交際などは認められません。保存されているこの学校の卒業生名簿には彼女の名前が記載されているそうですが、そこには同時に処女であることを証明する産婦人科医の証明書が付記されているといいます。

17歳でここを卒業したエヴァは、すぐに診療所の事務員として数ヶ月勤務するようになりましたが、職に馴染めず、次の仕事を探し始めます。そして、求人広告を見て興味を持ったのが、「ハインリヒ・ホフマン美術写真商会」という写真館でした。

記念写真を撮影するだけでなく、写真を中心にした美術品なども扱う骨董商でもあったようで、店主のホフマンはナチ党員でした。ヒトラー専属のカメラマンでもあり、このため、客層の中には、ヒムラー、ボルマン、ヘス、といったヒトラー側近のナチ党幹部もおり、彼の写真館を頻繁に訪れていました。

エヴァの修道院の職業学校での成績は平凡だったようです。が、体操だけは好成績だったとされており、これは彼女が演劇にあこがれていたことと関係があるようです。ダンス、演劇が好きだったといい、映画の「風と共に去りぬ」を何度も繰り返し見て感動しており、もしかしたら女優になることを夢見ていたのかもしれません。

しかし、残っている写真を見ると、それほど美人というかんじはなく、女優は難しかったかもしれません。ただ、ドイツ人らしいというか、堅実な感じがする女性であり、体操が得意というだけにスタイルは大変よかったようです。

その立ち姿の良さを気に行ったハインリヒ・ホフマンは、彼女をモデル兼助手として雇うことを決め、こうして彼女の新しい生活が始まりました。

2015-1525

ヒトラーとの運命的な出会いは、務めを始めてから3週間後の事でした。1929年10月、スタジオに姿を現したヒトラーはこのとき、40歳。17歳のエヴァよりも23歳も年上でしたが、エヴァはこのときのヒトラーの印象を「おかしな口ひげを蓄えた中年紳士で、イギリス製の明るい色のコートと大きなフェルト帽を身に着けていた」と友人に語っています。

エヴァのほうは、それほどでもなかったようですが、ヒトラーの方は、エヴァの目の色が彼の母にとてもよく似ていると評していたといい、出会ったその瞬間に彼女に惹かれたようです。

エヴァは自分の脚をじっと見るヒトラーの視線に気づいていたといい、その日、ヒトラーはホフマンとエヴァとともに簡単な夕食をとりましたが、その食事中にもエヴァを見つめ続けていたといいます。

数日のちには、早くも彼女をドライブに誘いますが、エヴァはこれを拒絶しています。これは当然でしょう。修道院で男女の間のことは軽はずみに考えないようにと、厳しくしつけられていた彼女が、2回りも年齢が違うおっさんにデートに誘われてすぐにホイホイと承諾するわけはありません。

しかし、熱心なヒトラーの誘いによって逆に彼について興味を持ったエヴァは、ホフマンにどういう人物なのかを聞きます。そこで初めてヒトラーが政治家であることを知り、カッコいいと思ったのかどうか、家に帰って彼のことを教師である父に尋ねています。

このころのヒトラーの反政府運動は熱を帯びて年々過激化しており、5年前の1924年には、イタリアのファシスト党が行ったローマ進軍を真似、反政府を掲げて「ベルリン進軍」と称する示威行進をミュンヘン中心部へ向けて開始しました。

この際バイエルン州警察に逮捕されており、このときヒトラーは要塞禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されました。収監後、しばらくは虚脱状態となり、絶食していたといい、逮捕直前に自殺を試み、側近に制止されたとい逸話も残っています。

しかし、その後のナチ党の幹部となる多くの側近の励ましをうけて立ち直ったヒトラーは、逮捕後の裁判において、弁解を行わずこの反政府運動の全責任を引き受け自らの主張を述べる戦術を取りました。そして、弁舌さわやかな口調でその場を彼の独壇場としたことと、その潔い態度が民衆に受け、一躍注目を集めるようになりました。

このころ、前大戦で活躍したエーリヒ・ルーデンドルフ将軍という人物の人気も高く、彼もまた右派に傾いていましたが、同じ思想を持つヒトラーに親しく接するようになっていたことから、ヒトラー自身もこの英雄にも並ぶ大物と人々から目されるようになっていきました。

花束を持った女性支持者が連日留置場に押しかけ、ヒトラーの使った浴槽で入浴させてくれと言う者も現れたほどの人気であり、所内でも特別待遇を受けました。この間、ルドルフ・ヘスによる口述筆記で執筆されたのが「我が闘争」です。ヒトラーは職員や所長まで信服させ、入所から5か月経ったころには所長から仮釈放の申請が行われ始めました。

州政府は抵抗したものの、裁判を行った判事がヒトラーのためにアピールを行うという通告もあり同年12月に釈放。翌年の1925年には、活動禁止が解除されたナチ党は息を吹き返しました。が、大規模集会で再び政府批判を行ったため、州政府からヒトラーに対して2年間の演説禁止処分が下され、他の州も追随しました。

しかし、ドイツ民衆からの支持は衰えず、1926年までには党内の不満分子なども屈服させ、この年「指導者ヒトラー」の指導者原理による党内独裁体制が確立しました。ちょうどこのころ、党の宣伝にと、腕の良い写真家を探していた折に出会ったのが、ホフマンであり、彼はその後党の公式写真家となりました。

2年後の1928年5月にはナチ党としてはじめての国会議員選挙に挑みました。が、このころはまだドイツも黄金の20年代と呼ばれる好景気に沸いていた状況で支持は広がらず、12人の当選にとどまりました。

しかし、獄中で発表した「我が闘争」の印税などによりこのころのヒトラーの財政状況は悪くなく、バイエルン・アルプスの美しい町ベルヒテスガーデンの近郊の山腹オーバーザルツベルクにある別荘「ベルクホーフ」を買う余裕もあったほどでした。

2015-1532

世間からは新しい時代を切り開く政治家として着目され、もてはやされる傾向は続いていましたが、しかし、有識者の間では極右思想の政治家とみなす雰囲気があり、必ずしも評判はよくありませんでした。エヴァの父もその一人であり、ヒトラーのことをよく思っていないことを彼女に告げたようです。

しかし、エヴァはこうした彼の過去を知れば知るほど興味を抱くようになっていったようで、その後のヒトラーの誘いにも乗るようになっていました。

いつしか二人は交際するようになりましたが、このころまでにはもうエヴァのほうがヒトラーにぞっこんになっており、写真館の店員仲間にも「ヒトラーと婚約している」と見栄から来た嘘をついており、これをホフマンに叱責されています。

エヴァの両親はこの交際に反対だったようですが、一方のヒトラーの近親者たちもこの2人の接近に大反対でした。中でもヒトラーの異母姉アンゲラ・ヒトラーは、この交際をけっして認めなかったといいます。

それにはある理由があったといわれており、それはこのアンゲラの娘の、ゲリ・ラウバルとヒトラーとの間にあったことに起因しているといわれています。

夫に先立たれたアンゲラは、1928年からヒットラーの山荘、ベルクホーフに居住し、ヒトラーの身の回りの世話をしていました。このころ同居していたちょうど20歳の彼女の娘、ゲリは叔父ヒトラーから大変かわいがられていました。

ゲリはレオ・ラウバルと、ヒトラーの姉、アンゲラ・ヒトラーの第二子として生まれましたが、8歳の時に父親が死亡し、母のアンゲラの手で育てられることになりました。その後、母親がヒトラーの世話するようになったため、1928年にヒトラーが別荘ベルクホーフを入手すると、ゲリもまた母親とともに住居するようになっていました。

このゲリのことをナチ党のお抱え写真家であったハインリヒ・ホフマンは「天真爛漫な立居振る舞いですべての人の心をとりこにするかわいい娘」と好意的な評価をしています。その一方でホフマンの娘ヘンリエッテは「粗野で、挑発的で、向こう気が強い」としており、しかし、「抗し難い魅力を持った」人物とも評していました。

美しいわけではないものの、人を惹きつける自然な魅力があったといい、どこかエヴァと似たようなところがある女性だったようです。叔父であるヒトラーからもらった金の鉤十字以外は宝石らしきものは身に着けることも無かったといい、そうした質素な面がある一方では行動的な性格であり、映画やオペラやショッピングを好んだといいます。

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実は叔父と姪という関係を超えていたのではないかともいわれています。ヒトラーはホフマンに対して「私はゲリを愛している、だが彼女との結婚は望めない」と語っており、通常の叔父姪の関係を超えた愛情を注いでいたと周囲の他の人物たちも証言しています。

しかし、具体的にどの程度の関係であったかは当人たちだけが知る事実であり、必ずしも明らかになっていません。が、いずれにせよ彼女を愛するがゆえに、次第にヒトラーはゲリを束縛するようになり、友人とさえも自由に行動することを許さず、ヒトラー自身か信用できる者を常に彼女の傍につけさせていたといいます。

また、ヒトラー自身が付き添う事もあり、ウインドウショッピングをするゲリに待たされることもあったといいます。しかし、そんなヒトラーの束縛とは反対に、ゲリは自由奔放に振舞っていました。23歳の夏には、当時運転手であった親衛隊指導者のエミール・モーリスと親しい関係になり、ひそかに婚約しました。

これを知ったヒトラーは激怒して不忠をなじり、彼を解雇したといいますが、彼をそそのかしたゲリのほうに問題があることは明らかでした。家政婦の証言によれば、ゲリは「ヒトラー夫人になることを望んでいた」としながらも、惚れっぽい性格であったとも証言しています。

後に秘書の一人クリスタ・シュレーダーに、愛人エヴァ・ブラウンと結婚しないのかと聞かれ、ヒトラーは「エヴァは好ましい女性だ。しかし、私の生涯で本当に情熱をかき立てさせられたのは、ゲリだけだ。エヴァとの結婚は考えられない。生涯を結びつけることができる女性は、ただ一人、ゲリだけだった。」と語っているそうです。

こうした背景から、ゲリの母のアンゲラは、ヒトラーとエヴァの交際を認めなかったのではないか、といわれているわけですが、実の娘と弟の結婚という近親相姦を、果たして彼女が本当に望んでいたかどうかまでは、史料からは読み取れません。

エヴァは、このヒトラーとゲリとの関係を知らされていなかったようです。おそらく仲の良い叔父と姪、ぐらいに思っており、そこには何の疑義ももっていなかったでしょう。

が、後年、上述の秘書シュレーダーから、ヒトラーがこのようにゲリとの結婚をほのめかしていたことと聞かされていたといいます。しかし、その事実をシュレーダーから聞いたエヴァには特に何も反応はなかったといいます。

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ところが、ゲリはその数カ月後に突然この世からいなくなります。奔放な性格からその後もオーストリア人の画家と交際するようになっていたゲリでしたが、ヒトラーは姉アンゲラと協力し、このときも二人を別れさせました。

1931年9月17日、ヒトラーとゲリは二人だけの昼食の席で激しい口論をしたといい、ヒトラーはその直後に会議のためにニュルンベルクに出発した後、彼女は家政婦に「私とおじさんの間には共通点が何もないわ」と家政婦に告げました。

この後、家政婦の一人がゲリが紙を4つに破く姿を目撃しており、彼女があとで紙をつなぎ合わせてみると、それはエヴァ・ブラウンからヒトラーへのラブレターであったといいます。ゲリは邪魔をしないようにと彼女に言い残すと、部屋に閉じこもりました。そして家政婦は夜中、何か鈍い物音を聞いたものの、気にせずそのまま就寝しました。

翌9月18日の朝、起きてこないゲリを心配した彼女は、ヒトラーの側近の一人に錠前屋を呼んでもらい、そこで夫人が見たものは、胸から血を流して倒れていたゲリと、傍らに転がる拳銃でした。弾丸は心臓を貫通しており、彼女はすでに死亡していました。

その頃ヒトラーは、ホフマンとともに自動車でニュルンベルクに向かっていましたが、ホテルのメッセンジャーボーイが「ホテルに電話が入っている」と連絡してきたため、ホテルに戻り、そこでゲリの異変を知ります。ヒトラーらは猛スピードでミュンヘンに戻りましたが、すでに遺体は警察によって運び出されていたといいます。

ゲリは遺書を残しておらず、新聞が彼女の死を報じ出すと、様々な解釈が行われ、自殺ではなく誰からに殺されたのではないか、あるいは事故ではなかったのか、といった憶測も生まれたようです。が、多くの取り巻きは自殺であったと断言しています。

ヒトラーの落ち込み様は相当なものであったようで、別荘に姿を隠したヒトラーは目に見えて憔悴していました。側近の運転手は自殺を防ぐためにヒトラーの拳銃を隠したほどだったといい、彼は食事も取らずに2日間も別荘の周りを歩き回っていたそうです。

ゲリの葬儀は、9月20日、オーストリアのウィーンで行われましたが、ヒトラーはオーストリア政府から政治活動を禁じられており、入国を禁止されていたためにこの葬儀に参列できませんでした。

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実は、ヒットラーは民族としてはドイツ人でしたが、生まれはオーストリアであり、国籍はオーストリアでした。20過ぎまではこの母国で暮らしていましたが、24歳のとき徴兵を拒否して罰則を受けており、その後ドイツ国内へその過激な闘争の場を移したこともたたってオーストリアへの再入国が禁止されていました。

このためゲリの葬儀にもヒムラーらの側近が立ち会いましたが、その日の深夜、ヒトラーは密かに自動車でオーストリアに潜入し、ゲリの墓に参っています。

その直後にヒトラーは、側近に対して政治について熱く語り出したといい、2年後までには政権を取るとの決意を示したそうですが、一両日後の朝、朝食の席で側近のヒトラーはハムを食べることを拒否するこの総統の姿を目にします。

そのとき、ヒトラーは、「いわば死体を食べるようなものだ!」と叫んだといい、以降ヒトラーは、一切の肉を食べることを拒否するようになったといいます。

若かりし頃のヒトラーには芸術家になる希望があり、その後戦火を逃れた彼のヌードスケッチの中には、ゲリをモデルとしたものもあったそうです。どれほど彼女を愛していたのか、二人の関係性についてはこうした事実も加味して押し図るべきかと思われます。

その後もヒトラーはゲリの死にショックを受け、長きに渡って憔悴していたようですが、結局、このころ19歳になっていたエヴァがゲリの代わりにヒトラーの傍で暮らすことになります。エヴァの手記によるとその時期は1932年の春頃とされているようです。

しかしヒトラーには他にも交際が噂される女性がおり、そのひとり、女優レナーテ・ミュラーへの嫉妬はエヴァを苦しめました。

ヒトラーの身長は徴兵検査の結果などから175cm程度だったようで、けっして小柄というほどではありませんでした。が、チャップリンの映画「独裁者」などで小柄なチョビ髭というイメージが定着したため、どうしてもそういうイメージで見てしまいます。

しかし、けっして平均的なドイツ人としては背の高いほうではなく、自身の容姿にはそれほど自信は持っていなかったのではないかと思われます。また運動不足から、その後亡くなる数か月前には体重が100キロを超えていたといい、このゲリが亡くなったころから、健康を害しはじめ、戦争指導の末期には猫背になり老人のように見えたそうです。

しかし、そんなヒトラーに対してもエヴァは深い愛情をいだいており、「あちらのほう」でもあまり男性としての自信が無かったヒトラーに「性的欲求も得たいのなら、他の男と付き合いなさい」と忠告されても離れることは無かったといいます。

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そんななかの、1932年11月1日、エヴァは突然、自らの胸を拳銃で撃ち自殺を図りました。ヒトラーの他の女性との交友関係への嫉妬心などから苦しんだあげくと思われますが、しかし、弾はそれて頸動脈付近にとどまり、自殺は未遂に終わりました。

ヒトラーはゲリに続く、彼女の自殺未遂にショックを受け、以降は他の女性との交際を控えるようになりました。しかし、ヒトラーは外部に向かっては「自分はドイツと結婚した」と主張し続けていたため、“妻”エヴァの存在は山荘の側近だけが知る事実でした。

ヒトラーはその後も女性問題をエヴァに悟られないように気を付けていたようですが、首相に就任して多忙な日々を送るようになり、エヴァのもとを訪れる回数も減少しました。こうしたことから、エヴァは再びヒトラーの愛情に疑問を抱くようになり、1935年5月28日、睡眠薬により2度目の自殺を図ります。

しかしこのとき飲んだ睡眠薬は危険性が低いものであり、命に別状はありませんでした。この時、エヴァの父、リッツ・ブラウンはこの娘の再三の自殺に心を痛め、ヒトラーに「娘を家族の元に帰してくれるように」手紙を書きました。ところがこの手紙は父に託されたホフマンを通じてエヴァの手に渡るところとなりました。

このとき、彼女はこの手紙を破り捨てています。父親といえども自分の恋愛に口を突っ込んで欲しくない、という気持ちからだったでしょう。しかし、面と向かってヒトラーにグチを言うでもなく、彼女はさらにひきこもるようになります。

一方のヒトラーも、さすがにこの二度目の自殺にはショックを受けたようで、エヴァを身近に置いておくべきだと判断し、ミュンヘン郊外に移し、邸宅、ベンツ、運転手、メイドを与えました。しかし、エヴァはすぐに山荘に戻ってきてしまいました。

このころ、ヒトラーの異母姉アンゲラはここに住むことを禁じられて移住させられています。これはヒトラーとエヴァの存在を依然として認めようとしない彼女の存在が、エヴァをさらに刺激することを恐れていたためでしょう。

山荘内ではこうしたどろどろとした人間関係が続いていましたが、対外的には、ヒトラーはこうした事実は無論のこと、彼女の存在をも隠し続けていました。独身であることで婦人票が得られると考えていたためであり、このため、第二次世界大戦が終わるまでドイツ国民がエヴァの存在に気づくことはありませんでした。

山荘のあるオーバーザルツベルクはナチス専用の保養地と位置づけられ、外交や政治の舞台ともなっていましたが、ヒトラーが彼女の存在を隠していることをエヴァ自身も知っており、けっして表に出ることはありませんでした。ただし、エヴァは政治にも無関心であり、興味があったのは流行のファッション、音楽、映画だったといわれています。

ヒトラーが山荘にいるときは外に出られず、友人や両親、親類を招いて夕食を共にすることが多かったといい、彼女自身が望んだことだったとはいえ、側近には、そんな彼女がどこか脅えているようで、籠の鳥、不幸な女性に見えたといいます。

ヒトラーとの性生活などでもわりと淡泊だったようで、2人は山荘、ベルリンにある総統官邸、そして総統地下壕においても寝室は別々でした。エヴァのほうはヒトラーを敬愛していたようですが、対外的な対面からか、ヒトラーのほうはエヴァに対して冷淡で時に侮辱した態度をとることもあったといいます。

ゲリの時と同じように、束縛を好み、エヴァには喫煙を許さなかったといい、またヒトラー以外の男性とのダンスを禁じていました。エヴァはそうした束縛に不満を募らせており、二人のが口論する様子が度々目撃されています。

しかし、そんな束縛された生活の中でも、エヴァは楽しみをみつけてはそれをエンジョイするタイプの女性だったようです。

恋愛小説の読書や友人たちとの映画鑑賞など遊興に時間を費やすほか、かつてホフマンの写真館で覚えた写真の技術を持っており、自分の暗室を作ってもらい、そこで裸で日光浴をする自分の写真などを数多く残しています。ヒトラーのスチール写真や映画を現像することもあったといいます。

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そんな中、ドイツの戦況は次第に不利なものになっていきます。1944年の6月には、ソ連軍の一大反攻により東部戦線が崩壊、また連合軍が北フランスに大規模部隊を上陸させるノルマンディー上陸作戦に成功するなど敗色濃厚な中、ヒトラー自身に対する暗殺未遂事件も起こり、彼も軽傷を負います。

1945年3月、エヴァはヒトラーの反対を押し切ってベルクホーフ山荘を後にしてミュンヘンへ移り、4月初旬、既に戦火に曝され荒廃した首都ベルリンへ入ります。が、すぐに4月中旬には総統地下壕へと避難せざるを得なくなります。両親や姉妹が再三ベルリンを離れるよう説いても、エヴァは最後までヒトラーと共にいることを選びました。

4月20日には、ついにソ連赤軍がベルリンに侵攻。そんな中、ヒトラーとエヴァは4月29日に、総統官邸地下壕内で簡素な手続きによって結婚しました。この結婚式では宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルスとナチ党ナンバー2のマルティン・ボルマンが立会人をつとめました。花嫁は青色のシルクドレスを着けていたとされます。

彼女は結婚書類の署名欄に「Eva B……」と書きかけましたが、すぐに気がついて「B」に線を引いて消し、「Eva Hitler」と書き直したといわれています。

ヒトラー自身は、この結婚以前から彼女のことを、フロイライン・ブラウン(ブラウン嬢)と呼んでいたそうですが、式の後、地下壕の者達が「フロイライン」と呼びかけたところ、エヴァは誇らしげに「もう、フラウ・ヒトラー(ヒトラー夫人)と呼んでくれていいのよ」と言ったといいます。

翌日30日午後3時30分頃、エヴァは青酸化合物を嚥下して自殺。ヒトラーは銃弾の貫通痕から青酸カリのカプセルを噛んだ直後、顎の下から拳銃で頭を撃ち抜いて死んだと推察されています。

2人の遺体は、連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却されたといい、焼却された総統官邸の庭でソ連軍によって発見された遺体はひどく損壊していました。遺体は軍の歯科助手によって鑑定され、歯型から二人であると確認されたのち、ベルリンから西へ150キロほど離れたマクデブルク近郊に埋葬されました。

1970年に遺体は掘り出され、完全に焼却されたのちベルリン近郊が源流のエルベ川に散骨されました。エヴァの両親は戦後も行き延び、父は1964年に、母は1976年にそれぞれ亡くなりました。姉イルゼは1979年に71歳で死去しました。

妹グレーテルの夫は、敗戦は間近いと知り、妻以外の別の女性を伴ってスウェーデンに逃げようと企てたとして捕らえられ、ヒトラーの命によって銃殺されています。このとき彼女は妊娠8ヶ月で、姉のエヴァの死の5日後に生まれた女児に姉の名を取り、「エヴァ」と名付けました。

グレーテル自身は、戦後織物商と結婚し、1987年に72歳で死去しましたが、「エヴァ」の名を貰ったこの娘は、30歳になった1975年に叔母と同じく自殺しています。

ほぼ生涯にわたって独身を通し、死の直前に結婚したので、ヒトラー自身には直系の子孫はいません。ただ、ヒトラーが第一次世界大戦に従軍した際、部隊の駐屯地であったフランス北部で現地の女性と親しい関係になり、男の子が生まれたという説があり、この男性はその後、現地でドイツ兵の私生児として生まれた男性ではないかと騒がれました。

しかし、この男性が1985年に死亡したのち、2008年に行われたDNA鑑定では、「ヒトラーの子供ではない」という結論が出されています。

一方、ヒトラーの遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものであり、また側近らの証言も曖昧であり、長い間ヒトラーの死の詳細は西側諸国には伝わらず、この事が「ヒトラー生存説」が唱えられる原因となりました。

それらの噂には、「まだ戦争を続けていた同盟国日本にUボートで亡命した」という説や、「アルゼンチン経由で戦前に南極に作られた探検基地まで逃げた」という突飛な説、果ては「ヒトラーはずっと生きていて、つい最近心臓発作のため102歳で死去した」という報道まで現れました。

俗説のひとつとして、スターリンの晩年に「ヒトラーが生存しているのではないか」といううわさがたびたび立ち、そのたびに彼は自宅の裏庭から木箱を掘り起こし、中の頭蓋骨を確認してから埋め戻した、というエピソードがあります。

この頭蓋骨は実在するそうで、2009年、アメリカのコネチカット大学の考古学者がそれまでヒトラーのものであるとされてきたこの頭蓋骨のDNA鑑定を行ったところ、これもやはりヒトラーのものではなく非常に若い女性の頭蓋骨であると結論づけられています。

たった一日だけの夫婦生活をこの世で過ごしたヒトラーとエヴァは、ほぼ同時にこの世から旅立ったのち、直後にあちらの世界で再会したことでしょう。

その後改めて結ばれたか、はたまた生まれ変わってこの世のどこかで再び暮らしているのかどうかもわかりません。

案外と我々のすぐ近くにいるのかもしれず、だとしたら今度こそ幸せな結婚生活を送っていてほしいと思います。そう祈るばかりです。

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