アバディーンシャーの3人

2015-01454月初めの悪天候がウソのように、最近良いお天気が続いています。

長期予報によれば連休中もこのお天気は大きく崩れる予定はないようであり、さぞかし行楽地は賑わうことでしょう。

ここ伊豆も一大観光地であるため、今週は他県ナンバーでごったがえすに違いありません。昨年もこの時期に修善寺駅前を通ったときには、すれ違うクルマの7~8割は他地域のものでした。多いのはやはり東京や神奈川のものですが、中京方面からのクルマも結構あります。

時には九州や東北のナンバーを見ることもあり、そんな遠くからここまで来る人がいるというのは、それだけ人気がある場所なのでしょう。住んでいると麻痺してしまいますが、そういういいところに住んでいるというのは、ありがたいことだと思わなければいけないのかもしれません。

しかし、人気が高いといっても全国一位というわけでもないようで、季節にもよりますが、伊豆の観光地人気ランキングはだいたい、10位前後を行き来する程度のようです。上位は、というとやはり京都が断トツ一位で、次いで北海道や沖縄、長野や出雲などがいつも順位の上のほうを賑わすようです。

ただ、個別の観光地となると、やはり人気が高いのはこの時期だと奥入瀬や白神山地、屋久島など新緑を満喫できるところであり、このほか摩周湖などに代表される北海道の湖沼であったり、風光明媚な海岸などの場所を訪れる人が多いようです。

この海における個別観光スポットの中でも最近人気急上昇中といわれるのが、私の郷里の山口県の長門にある「角島(つのしま)」です。位置的には、山口県の北西端にあたり、元は島でしたが、2000年に1780mの長さを誇る「角島大橋」が竣工したことで陸続きになりました。

周囲の浜は、花崗岩が劣化してできた砂で構成されているため真っ白であり、かつこのあたりの海はまさに「マリンブルー」といわれるようなコバルト色です。そこへ架かる角島大橋はまるで映画の一シーンに出てくるようで、本土側からみると天国への架け橋のようでもあり、見るものを惹きつけます。

最近、テレビドラマや映画のロケ地として使われたり、コマーシャルにも登場したりしたため、さらによく知られるようになり、これからの海水浴シーズンともなろうものなら、大勢の観光客でごったがえす一大観光地になってしまいました。

橋が完成してすぐのころにはまだ認知度が低く、この角島大橋の本土側のたもとにある小さなビーチもほとんど地元の人しか利用していない隠れた名所でした。

が、最近は他県からの利用者が増え、結構イモ洗いになっている、と聞きました。角島に渡った側にもビーチがあり、こちらには飲食施設なども整備されたことから、さらに大勢の観光客が訪れているようです。

せっかくの秘境の地が……と残念ではあるのですが、地元にとってはまた大きな収入源が増えたわけであり、この地は、2005年の平成の大合併で下関市の一部となっていることから、市のお役人さんはここからあがってくる税金でホクホク顔でしょう。

この島は周囲17kmほどであり、道は細いものの一応一周できます。が、生活道路がほとんどなので、地元の方への配慮からあまり不用意な立ち入りはやめておいたほうがいいと思います。

もっとも観光地として綺麗な場所は、こうした集落がある場所ではなく、上述のビーチが整備された箇所とともに、先端部にある「角島灯台」の周辺部です。こちらも公園として綺麗に整備されているほか、灯台も「参観灯台」として立ち入ることができます。

1876年(明治9年)に初点灯した洋式灯台で、石造りのがっしりしたそのたたずまいは明治レトロそのものです。高さ43mあって、その展望台から見る景色は絶景です。眼下には響灘一帯の青黒い海原が広がり、その中を時折ちっぽけな漁船が行き交う様をみると、地球の広さを感じることができます。

この灯台を設計し、施工を監理したのは、リチャード・ヘンリー・ブラントンというスコットランド人です。

明治時代に来日したお雇い外国人のひとりで、数多くの灯台設置を手がけ、「日本の灯台の父」とも言われました。技師として日本に滞在していた7年6ヶ月の間に26の灯台、5箇所の灯竿、2艘の灯船を設計施工しており、外洋航路の開拓がひとつの課題であった日本における産業界に大きく貢献したといえます。

ちなみに、灯竿というのは小型の灯台で、灯台というよりも航路標識のようなものです。現在でも防波堤などの端に設置されているので見たことがある人も多いでしょう。主として夜間に港の位置を示すためのものです。

また、灯船も同様の目的で設置されますが、こちらは灯台設置の困難な海上・河口などに停泊する船の上に置かれます。最近はあまり見ることはないようです。彼が施行したこの灯竿、灯船も現存していないようですが、26灯台のうち、23は現在も存在して現役で稼働しています。

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リチャード・ヘンリー・ブラントンは、1841年、英国海軍の艦長の息子としてスコットランドに誕生しました。長じてから鉄道会社の土木首席助手として鉄道工事に関わっていたところ、英政府から勧められ、日本にやってきました。

来日したとき弱冠26歳でしたが、訪日にあたって灯台建設や光学、その他機械技術を、短期間の内に英国内で実地体得しており、既にその道のエキスパートでした。

1868年(慶応4年)に妻子及び助手2人を伴って来日しましたが、和歌山県串本町の樫野崎灯台を皮切りに日本中に灯台を設置しまくり、日本における灯台設計の体系の基礎を築き上げました。また灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いでいます。

ブライトンは灯台以外でも、多くの功績を草創期の近代日本にもたらしており、日本初の電信架設(1869年、東京・築地~ 横浜間)のほか、幕府が設計した横浜居留地の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し街路を整備しました。

また、日本最初の鉄道建設についての意見書を提出するとともに、大阪港や新潟港の築港計画に関しても意見書を出しています。このほか現在の横浜公園の設計を行ったのも彼です。

1876年、34歳のとき明治政府から任を解かれ帰国しましたが、その後もイギリスで建築家として、建物の設計及び建築に携わりました。晩年、仕事の合間に書きためた原稿「ある国家の目覚め―日本の国際社会加入についての叙述とその国民性についての個人的体験記」という長ったらしいタイトルの本をまとめ終えると、程なく世を去りました。

明治34年、59歳没。

彼が生まれたのは、スコットランドの、のアバディーンシャー州というところですが、これはグレートブリテン島の北端に近い場所の東側にある行政区であり、北縁とはいえ、ここに24万人余りの人々が暮らしています。

スコットランドという国は、メキシコ湾流の延長上にある北大西洋海流という暖かい海流が辺縁を流れており、これと偏西風の影響により緯度の割にはそれほど寒い、という場所でもないようです。

最寒月平均気温は2℃~6℃で、日本の関東中部から北部にかけてと同じぐらいの気温にしか下がりません。一方、夏は最暖月でも14℃~19℃程度と涼しいようです。年較差が小さく過ごし易いといった気候は、北海道に似ているかもしれません。

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先日までNHKの朝ドラで放映されていた「マッサン」の主人公、竹鶴政孝が、ここの風土スコッチウィスキーの本場スコットランドに似ているから、という理由で選び、小樽近郊の余市に醸造所を作ったのもこのためだといわれています。

マッサンこと竹鶴の妻、竹鶴リタこと、本名、Jessie Roberta “Rita” Cowanは同じスコットランドでも南西部のイースト・ダンバートンシャーという町の出身で、来日は大正時代です。

ブラントンのように明治期に来日して日本の文明開化に深く関わったたスコットランド人で、同じくアバディーンシャー出身者はほかにもう二人います。

その一人は、トーマス・ブレーク・グラバーで、この人はこれも人気の観光地、長崎のグラバー邸を建てた人物として、ブラントン以上によく知られています。

武器商人として幕末の日本で活躍したことで知られ、商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役割を果たしました。維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行い、造船、採炭、製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献しました。

意外に知られていないのが、国産ビールの育ての親だということで、これは彼が晩年三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎の元で働くようになっていたころの事業です。このころ、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーという欧米資本の飲料会社の再建参画を岩崎に勧め、これが後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)になりました。

グラバーは、明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めましたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで、巨大な富を集めていたグラバー商会を破産させています。このとき、昔から恩を売っていた三菱の岩崎弥太郎に助けられて、高島炭鉱の経営者になりました。

以後は、岩崎財閥の番頭さんのようになってしまいましたが、晩年まで東京で過ごし、1908年(明治41年)には、それまでの功績を認められて、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与されました。1911年(明治44年)に73歳で死去。

「ツル」という日本女性と結婚し、長女ハナと長男富三郎の二人を設けました。この息子はのちに、倉場富三郎と名を改めましたが、この「倉場」とは“Glover”を日本語にしたものです。

この富三郎は、長崎の加伯利英和学校を経て学習院を中退後にアメリカのペンシルベニア大学で生物学を学び、帰国後、父の興したグラバー商会から暖簾分けしたホーム・リンガー商会に入社。また長崎汽船漁業会社を興して日本に初めてトロール漁業を導入するなど第二次世界大戦前まで長崎の実業界にて活躍しました。

ところが、大戦がはじまってまもなく、彼がイギリス人と日本人の混血児だったことからスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送ることを強いられました。また、このころちょうど造船が始まっていた戦艦武蔵の機密保持を理由にグラバー邸を退去させられたり、妻に先立たれるなど不幸な晩年を送りました。

更に終戦直前には長崎に投下された原爆により故郷が壊滅し、これが追い打ちとなったのか、終戦直後の1945年8月26日に長崎の自宅で首吊り自殺を図り、亡くなっています。自殺の理由については、スパイの疑いを晴らすために積極的に戦争に協力した事で連合国から戦犯として裁かれるのを恐れたとする説もあるようです。享年74。

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遺体は長崎市の坂本国際墓地に、同じく日英混血だった妻のワカ(旧姓中野)とともに埋葬されており、その隣にはグラバーとツル夫妻も仲良く埋葬されています。

父のグラバーのほうは生涯母国のスコットランド、そしてアバディーンシャーに二度と帰ることはなかったようです。

そのスコットランド・アバディーンシャー出身で日本ゆかりのもうひとりの人物は、こちらもあまり知られていない人ですが、ジェームズ・マードックという人です。

東京帝国大学などで教え、彼が教えた人物の中には夏目漱石がいます。アバディーンシャーでは、地元の雑貨商として生まれており、家は決して裕福な家庭ではなかったものの幼いころから優秀で、アバディーン大学の奨学金を獲得して入学し、学士号、修士号を得たのち、名門オックスフォード大学でも学んでいます。

22~23歳ころから、フランスのパリ大学、ドイツのゲッティンゲン大学などに遊学しており、このゲッティンゲン大学在学中に、牧師の娘と結婚しました。これを機に研究生活をやめ、24歳で研オーストラリアに移住。33歳まで教師としてここで過ごしますが、やがて結婚生活は破綻。

教えていた大学でも経営陣と対立したため辞め、その後は急進的な社会改革思想に傾倒し、労働者階級の過酷な生活条件の改善を訴えるジャーナリストして活躍しました。白豪主義の勃興期にあったこのころのオーストラリアでは、とくに労働階級での中国人排斥の声が高く、その視察のために1888年に中国に行き、香港と広東を取材しました。

その帰りに、九州で教師をしている学生時代の友人を訪ねて日本に立ち寄ったのが日本との縁の始まりです。これを機に大分中津の中学で6週間英語を教えるようになりました。その一方では、長崎の高島炭坑の労働環境の酷さについてオーストリアの雑誌に寄稿するなどジャーナリストとしての活動も継続。

おそらくこのとき、高島炭鉱つながりで、グラバーとも面識があったでしょう。

日本の生活が長くなるにつけ、実際の日本と日本人がこれまで持っていたイメージと違うことに気付き、と同時に大いにその良さを気に入ったマードックは、いったんオーストラリアに戻ると、日本に長期滞在するための身辺整理を手短に済ませ、すぐさま再来日しました。

このときの来日は、ブラントンと同じくお雇い外国人としてであり、のちの東大教養学部となる第一高等中学校でヨーロッパの歴史と英語を教えるようになりました。この時の教え子の一人が夏目漱石になります。

この再来日では、教職の一方、「ジャパン・エコー」という雑誌の発行を始め、6号を発行するなどジャーナリストとしての活動も続けていましたが、また著述家としての活動もはじめ、短編集や小説も書くようになりました。

このほか、日本人で初めてアメリカ国籍をえた「浜田彦蔵」の評伝なども執筆していました。浜田彦蔵というのは、幕末に活躍した通訳で、元は兵庫の播磨の漁師の子でしたが、紀伊半島沖で嵐に遭って2ヶ月太平洋を漂流した後、南鳥島付近でアメリカの商船・オークランド号に発見され救助された、という経歴を持ちます。

その後、アメリカ・サンフランシスコに渡り、下宿屋の下働きなどをしていましたが、税関長の家庭にもらわれてそこで学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼も受けました。このときの洗礼名はジョセフ・ヒコであり、こちらの名前のほうで記憶している人も多いでしょう。

日米修好通商条約で日本が開国しのちに、9年ぶりの帰国を果たし、幕末には領事館通訳などを勤めました。のちに貿易商館を開いたり、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊したりもしました。維新後は大阪造幣局の創設に尽力するなど、その後の大蔵省の創設にも関わった人物です。

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マードックはこうしたアメリカゆかりの日本人の評伝のようなもののほか、日本の写真の草創期を築いたウィリアム・K・バートン、小川一真、鹿島清兵衛といった写真家とも組んで、日本の風景や文化を紹介する本の文章も担当するなど、日本文化の世界への発信にも尽力しました。

しかし、このころもまだ社会改革思想の実現に燃えていた彼は、37歳のとき突如日本を去ります。オーストラリア時代の同志がパラグアイに作った実験的な共産主義的コミューン「新オーストラリア(New Australia)」に参加するためでした。

ところが、マードックがパラグアイに到着するまでには、入植者の約3分の1が離脱しており、彼が想像していた社会主義の楽園はそこにはありませんでした。それだけでなく、貧困や病気が原因の仲たがいなどもあり、こうした現実に幻滅した彼は、ほんの数日滞在しただけで、このときはオーストラリアには戻らず、母国のイギリスに帰りました。

このパラグアイではどうやら体を壊していたようで、このときはその療養のためにロンドンで過ごしています。おそらくはアバディーンシャーよりも医療事情がよかったためでしょう。療養中は日本における16世紀ヨーロッパの修道士の手紙を翻訳する大英博物館の仕事をしていましたが、病が治ったのか5ヶ月間を過ごした後、日本に戻りました。

こうして再々来日を果たしたところをみると、やはり自分が住むべきところは日本だと思ったのでしょうか。このときは、一高時代の同僚の紹介で、最初は金沢の第四高等学校で英語を教え、のちに東京に戻り、高等商業学校(現在の一橋大学)で経済史と英語を教えるようになりました。

43歳のとき、旧幕臣・岡田長年の娘、岡田竹子と結婚し、芝高輪で暮らすようになりました。が、このころもまだ体調がすぐれず、健康のことを考えて新妻とともに温暖な鹿児島に移り住むことにし、ここの第七高等学校で教鞭をとるようになります。

また、日本語の資料収集を日本人の友人に手伝わせ、英文で日本が外国との交流を持つようになった幕末からの歴史書などを自費出版しています。

この本のタイトルは、”A History of Japan During the Century of Early Foreign Intercourse”といいますが、同書はイギリスにおいて日本研究書として長きに渡って使われ、1967年まで版を重ねました。

語学の才に長けたマードックはラテン語、スペイン語、フランス語、オランダ語、ポルトガル語の資料が読めたといい、また上の歴史書の第一巻を出版後日本語資料を自ら読むための勉強を始め、2~3年のうちに古事記や万葉集を読めるまでになったといいます。

鹿児島には52歳まで滞在していましたが、教職契約がきれてもここにとどまり、神戸の英字新聞に寄稿するほか、果樹園を作って暮らしていました。日本語はまだ流暢では無かったものの、日本人でも読めない古い日本語の文献を読むことができるようになっていたといい、以後も「日本史」などの日本の歴史に関する史書を執筆しました。

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それほど慣れ親しんだ日本ですが、61歳のとき、マードックはオーストラリアに戻ります。王立陸軍士官学校とシドニー大学で日本語を教えてくれという依頼があったためで、オーストラリアでは国防上の理由から、対日諜報活動のため日本語話者の育成が急がれていました。

陸軍学校では、ドイツ語・フランス語クラスから選抜された精鋭8人を生徒とし、シドニー大学では80人の生徒を抱えて、彼等に日本語を教えましたが、日本語教育には母語話者の助手が必須であるとして日本に行って助手を募り、両校に日本研究のプログラムを設立しました。

この時陸軍大学の助手に雇われた日本人は、妻の兄弟の「岡田ロクオ」なる人物で、この訪豪の際には、妻の竹子も伴っています。しかし、のちに単身鹿児島へ返しています。

こうした才能のある人間はどこの国でも目をつけるもので、1918年、62歳になった彼には今度は早稲田大学からの教授招請の動きがありました。しかし、彼を手放したくないオーストリア政府は、彼にシドニー大学の終身教授の座を与え、さらに陸軍士官学校の支援で同大学にマードックを長とする東洋研究部門を設けました。

しかし、第二の故郷日本への帰国を切望する彼に対し、国防省からは日本の世論と外交政策の変化の一次情報を取得するため、という名目で年間、£600もの報酬が与えられ、毎年日本を訪問することが許可されました。これは、現在の日本円にすると2400万円ほどにもなるようです。

オーストラリア政府は、さらに彼に対日政策についてのアドバイスを求めるようにもなりましたが、マードックは長年築いた人脈から日本の軍部や政府の内情に詳しく、上程した報告書には、日本の最優秀な人材は陸軍と海軍に集められており、さらにその中の最優秀頭脳が情報部に配属されていること、などの詳しい情報が書かれていたといいます。

こうして晩年はオーストラリアと日本の間を行き来する暮らしを続けていたようですが、上述の「日本史」の第4巻を執筆中に、65歳で肝臓がんのため死去。亡くなったのはシドニー北西部の、ニューサウスウェールズ州のボウカムヒルズという場所でした。

さて……

今日は角島の話題から飛び火してアバディーンシャーという同じ場所出身の3人のスコットランド人の伝記ものになってしましました。

なってしまいました……という言い方もないでしょうが、ここまで書いてきて、同じ明治という、日本にとっては開花期の時代に同じ場所から日本で活躍する人物3人も出たというのは、単なる偶然ではないような気がしています。

いつも言うようにすべてのことには意味があり、必然とするならば、この日本の文明開化に多大なる寄与をしてくれたトリオの日本への派遣もまた、神の御意志だったのでしょう。

彼等の功績の上に今の日本があるとすれば、やはりその活躍に感謝をすべきかと思います。アバディーンシャーに何等かの石碑でも建ててはどうかと思う次第です。

政府関係者の皆様。もしこれを読んでいらしたら御一考ください。

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ドローンと行ってみよう!

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先日、首相官邸の屋根の上にドローンが見つかって大騒ぎになっています。

空からやってくる無人機への対処など完全に想定外だった、というわけですが、これまでにもホワイトハウスの敷地内にドローンが落ちたこともあるというのに、いったい日本政府の危機管理意識はどうなってるんだ、ということで、今後とも色々論議を呼びそうです。

しかしまぁ、我々にしても普段歩いているときに空から何かが襲ってっ来るのを心配しているかといわれれば、そんな懸念はまったく持っていないわけであり、公安にそこまでの対処を求めることはできません。空から降ってくる隕石の心配まで警察にしてもらう、というのはどう考えても行き過ぎです。

しかしそこは世界に名立たる大国なのですから、今後はもっとしっかりと空からの脅威を見張るよう、セキュリティの強化を図っていくべきなのでしょう。何ごとも失敗は成功の元です。

この、「ドローン」の語源を調べてみると、これは英語の“drone”で「雄のハチ」を指すようです。

しかも、いつも巣にいてあまり活動しないハチを意味するとのことで、オス蜂といえばせっせせっせと花から花へと蜜を探して飛び回る働きバチの印象がありますが、こちらは常に巣にいて、自分たちの家であるその巣を大きくする働きバチのことを指します。

転じて不活発な活動体の事を指すようになり、その後自律制御で飛んで、空中に静止することもできるような無人の飛行体を指すにようになりました。こうした飛行物体はハチの発するような音などを出すことも、こうした呼び名はぴったりだったのでしょう。

「スタートレック」や「スターウォーズ」といったSFに登場するサイボーグのことも、ドローンといいますが、こちらも上と同じ“drone”から来ています。しかし、この場合は集合体における末端レベルでの各種作業に従事する「システム端末」といった意味合いで使われるようになったものです。

生体と機械とが融合したものであり、また一体のサイボーグが周囲の生命体を同化する事でも仲間を増やす事が出来る、といったふうに、こちらのドローンの意味はその後色々脚色されてその形態が変化していきました。

無人の飛行体のドローンのほうの嚆矢は、第一次世界大戦中に航空機を遠隔操縦するという発想のもとに行われた「飛行爆弾」の開発にあるようです。アメリカで行われた研究であり、これは第一次世界大戦のころに行われました。

第一次大戦といえば、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)にかけて戦われた世界大戦であり、いまから100年も前のころです。そんな時期にそうした自律飛行ができる飛行機があったのか、と俄かには信じがたいところですが、これがあったのです。

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その最初の製造は1916年に試みられ、これは当初「空中魚雷(aerial torpedo)」と呼ばれました。これは、エルマー・アンブローズ・スペリーという科学者が自ら発明した船舶用ジャイロスタビライザーとジャイロコンパスを中心として運用される飛行体で、スペリーはこうした一連の技術で特許を取得していました。

その名も「スペリー」という航法装置を製造する会社を立ち上げましたが、この会社は、第一次世界大戦の際には、航空機用の爆撃照準器や射撃管制装置なども手がけるようになり、第二次世界大戦においても軍需によって大きく成長しました。

戦後も特に高い技術を要求される装置、例えばアナログコンピュータ制御の爆撃照準器、空挺レーダーシステム、自動離着陸システムなどを開発製造して成長しました。が、1986年、に計算機・コンピュータを生産するバロースという会社に敵対的買収をしかけられ、これが成功して両社が合併してできたのが、現在のIT企業の雄、ユニシスになります。

このユニシスの前身となるスペリー社に目を付けたのがアメリカが海軍で、海軍はスペリーにこの空中魚雷の開発を依頼しました。彼はその得意とする自動制御システムを使って、「ヒューイット・スペリー自動飛行機(Hewitt-Sperry Automatic Airplane)」と呼ぶシステムを完成させ、これをカーチス社製のN-9という改造水上機に搭載しました。

最終的には「カーチス・スペリー飛行爆弾」として完成させる予定だったようですが、うまく自動制御することができず、この最初のアメリカ海軍の目論見は失敗に終わりました。

次にこの飛行爆弾に目をつけたのは、アメリカ陸軍でした。陸軍航空局はオハイオ州に住む、チャールズ・ケタリングという技術者に対して、50マイル (80km) の範囲にある目標を攻撃できる無人の「飛行爆弾」が設計できるかを尋ねました。

このチャールズ・フランクリン・ケタリングという人は、オハイオ州ラウドンビル生まれの元教員でしたが、その後エンジニアに転向し、主として自動車に関する数々の発明をしました。晩年は社会哲学家としても名を馳せ、アメリカでは結構名が知られている人物です。

ケタリングのほうは、ライト兄弟の弟、オービル・ライトとともに、デイトン=ライト・カンパニーという会社を立ち上げていました。彼はこの要請を受け、正式にこの仕事をこの会社で請け負いました。このときケタリングの設計した機体は海軍側ではケタリング空中魚雷 (Kettering Aerial Torpedo) と呼ばれました。

後には「ケタリング・バグ」として知られるようになるこの機体は、オービル・ライトが計画に対して航空学のコンサルタントとなり、スペリーが誘導操縦装置を設計しました。

このため、ケタリングら請負側の間では、「デイトン=ライト・バグ」と呼ばれており、これと上述の海軍の名称が合わさって、のちにケタリング・バグと呼ばれるようになったものです。

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ケタリング・バグは無人の小型複葉機であり、翼幅は15フィート (4.5m) 、全長12.5フィート (3.8m) 、高さ7.7フィート (2.3m) という小さなものでした。これに「バグ(bug)」と名付けたのは、これは「小さな昆虫」を示すことばだったからでしょう。現在は、コンピュータープログラミングにおける欠陥のことを示します。

エンジンは40馬力の4気筒フォード・モーターの大量生産品で、これはデ・パルマエンジンと呼ばれ、価格は約40ドルでした。これは現在の円に換算すると12~13万円という安さであり、また胴体にも木材と紙が多用され、ほとんど張りボテのような飛行機でした。

このため、総重量もわずか530ポンド (240kg) でした。主脚には鉄道の車輪と同じものが使われ、離陸にはこれと噛みあわせる金属のレールが用いられていました。1903年にライト兄弟が人類で最初に飛行機を飛ばした際にも、こうした金属レールが用いられました。無論、滑走を滑らかにするためであり、離陸の際の負荷を少なくするためです。

離陸後は搭載された小型のジャイロスコープによって機体が制御され、約120mph (193km/h) の速度で目的地へ飛行させる予定でした。制御システムにはケタリングが開発した、空気/真空システム、電気システム、アネロイド型気圧計、高度計といった、この当時の最新式の機器が採用されました。

Kettering_Bug

バグは、無人の飛行爆弾として開発されたものであり、このためが目標に命中したかを確認するため、その航路を追跡するシステムを考案する必要がありました。しかし、この当時はまだコンピュータのようなものは開発されておらず、自律飛行する飛行体を目的地に到達させるためには、かなりアナログな方法が用いられました。

すなわち、バグの離陸前に、これを飛ばす技術員は、まず飛行経路に沿った風速および方向を考慮し、目的地までのおおよその「距離」を決定します。次に、この距離からバグが目標に到達するために必要なエンジンの回転数を計算します。片やエンジンのほうには、この回転数を自動記録する「積算回転計」という装置が取り付けられました。

積算回転計が、目的地に達する回転数に達したとき、エンジンは停止するようになっており、その時点で飛行機は目的地に落下します。しかしさらに確実に落下させるため、エンジンが止まると同時に翼を固定したボルトも外れるようにしてあり、これでバグは爆弾もろとも目標物に向かって落下していく、というわけです。

その爆弾としては180ポンド (81kg) のものが搭載されましたが、これはこの当時としてはかなり大型の爆弾だったようです。

バグの試作機は第一次世界大戦終盤の1918年に完成し10月2日にその初飛行が行われましたが、このフライトでは機体が離陸後急上昇し、その後墜落、大破し、失敗に終わりました。しかし、その後の陸軍航空局のあるデイトンでの6度の飛行のうち、2回が成功しました。

ただ、その後も4度行われたうちの成功はわずか1回、また14度のうちの4回が成功と言った具合に何度か飛行には成功したものの、性能は安定しませんでした。結局約45機のバグが生産されましたが、バグの実戦投入が行われる前に戦争は終結しました。

バグの存在とその技術は第二次世界大戦まで秘密とされ、1920年代に予算が削減されるまで、陸軍航空部は実験を継続しました。現在では秘密開示が行われ、その技術はもとより実験に使われた部品なども公開されており、オハイオ州デイトンのアメリカ空軍博物館には原寸大の再現機が展示されています。

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ケタリングの開発したこれらの技術が、そのまま流用されたかどうかは不明ですが、こうした自律飛行する飛行体の開発は、その後ドイツでも行われ、第二次世界大戦時には、V-1ロケットというミサイル兵器が実用化されました。

パルスジェットエンジンという高性能エンジンを搭載した、現在の巡航ミサイルの始祖とも言える兵器です。宣伝相ゲッベルスはこれを「報復兵器第1号」と命名して、ドイツ本土を空襲するイギリスへの対抗兵器と位置付けました。

しかし兵器としての完成度は低く、発射に失敗したものも多かったようです。が、実際に発射されたV-1は21,770発にのぼり、イギリスの被害は死者および重傷者24,165人にも上ったという記録があります。

次いでドイツが開発したV-2ロケットは、さらに威力を増し、特徴的な唸り音を発するV1飛行爆弾と違い、超音速で前触れもなく飛来し、既存の兵器では迎撃不可能な V2 によって、ロンドン市民は不安に晒され、実際、市街地への被害も甚大であったようです。

ちなみに、二次大戦後は、このV1、V2ロケットを開発したドイツ人技術者たちが大量にアメリカやロシアへ渡り、その一人であるフォン・ブラウンはその後のアメリカのロケット開発における生みの親となりました。

ソ連もまた多数のV2ロケットと250人余りの技術者を捕らえることに成功し、彼らをソ連国内の孤島に隔離収容して、V2ロケットをもとに多くの新しいミサイルの開発を行なわせました。

こうした両国のロケット開発は、のちに両国が大量の核爆弾を所有するという事態に発展し、「冷戦」と呼ばれる時代を築くきっかけともなりました。

この現在のロケット技術開発の先駆けとも目される、ケタリングは、その後はこうした軍事技術の開発に関与することなく、1958年に82歳で没しています。

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彼は、若いころから目が悪かったといいますが、努力してオハイオ州立大学で電気工学を専攻。学校の教員などを掛け持ちしながら、28歳という年齢でようやく大学を卒業しましたが、卒業後は、新しいアイデアというものはチームであればこそ進化させることができる、というポリシーの元、誰かと組んで仕事をすることが多かったといいます。

20世紀初頭、オハイオ州西部の都市デイトンは米国の工業都市のなかでもリーダー格となっていましたが、そうした理念のもと、33歳のときには、自動車関連の研究のため、エドワード・A・ディーズとともに、デイトン・エンジニアリング・ラボラトリーズ・カンパニー(デルコ)を創設しています。

ケタリングとディーズとは事業においても、専門家としても、また、個人としても生涯の友でしたが、このころデイトンには高い能力をもったエンジニア、科学者が集って働いており、彼はまた38歳のとき、彼等を集めて、「エンジニアズ・クラブ・オブ・デイトン」という研究者クラブも結成しています。

彼自身は、その後自動車業界に転身し、第一次世界大戦中には、まだ自動車だけの技術者団体であったSAE (Society of Automotive Engineers)で会長職にも就いています。

彼が創設したデルコは、その後1920年にゼネラル・モーターズ (GM) に売却され、ゼネラル・モーターズ・リサーチ・コーポレーション(General Motors Research Corporation )、およびデルコ・エレクトロニクスに発展しています。

ケタリング自身も、このゼネラル・モーターズ・リサーチ・コーポレーションの副社長となり、その後27年間、GMの研究所を率いました。

この間、彼が発明し、特許を得た物件は、300以上もあり、その中にはモーターを動力とした。電動レジスターといったもののほか、バッテリーを利用したイグニッション・システム(高圧点火システム)、電気式のセルフスターター(セルモーター)、電気式ヘッドライトなどがあります。

この「高圧点火システム」は現在では一般に「ポイント式」と呼ばれているもので、点火プラグとともに、その後のモータリゼーションの時代には、自動車エンジンを簡単にスタートさせるためには不可欠のものとなりました。アメリカでは、「ケタリング式点火装置」とも呼ばれています。

また、レジスターの電動化をヒントとしてアイデアを得たといわれる、「セルフスターター」はそれまでの標準であったクランク始動にとって変わることになります。

内燃式の自動車エンジンというものは、内部にピストンとクランクがあり、これによって気化したガソリンを圧縮し、これに点火してエンジンをスタートさせます。

その点火を自動で行えるようにしたのが、上述の高圧点火システムですが、一方では、この重いピストンとクランクを最初に動作させるためには、当初、「クランク」というハンドルを手で回す装置を使って、手動でエンジンをスタートさせるのが普通でした。

ケタリングは、この装置をも蓄電池によって給電されたモーターで行うことができるように改良しましたが、これが「セルフスターター」です。1911年に高級車、キャデラックに始めて搭載されましたが、同時に先のイグニッション・システム、ヘッドライトもこのクルマに搭載されました。

以後、電気を利用したイグニッション・システム、セルフスターター、ヘッドランプというケタリングの発明の3点セットは米国の自動車業界で広く使われるようになり、ひいては現在の日本製自動車も含めたすべてのメーカーに採用される技術となって現在に至っています。

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そのほかに携帯型ライト、性病の治癒法、未熟児保育器、速乾ペイント、エンジン使用の発電機など、現在に至るまで使われている技術の多くは彼によって発明されたものです。

性病の治療法というのはよくわかりせんが、彼の業績を讃えてニューヨーク市にメモリアル・スローン=ケタリング・がんセンターというのが作られており、その前身の研究機関で開発された何等かの医療技術なのかもしれません。

一方では、彼の発明の中には、後年の時代、大禍を招いたものもあります。彼が開発した高オクタン価の「有鉛ガソリン」などがそれで、その後人体に対する有害性が露呈し、多数の死者を出すなどの社会問題を起こしました。

その後有鉛ガソリンは、世界的にも販売が禁止されるようになっていますが、このほかにも彼が開発したフロンガスは、現在では地球温暖化のための有害物質とみなされるに至っています。

ガスによる冷却システムに応用するために開発されたものですが、ご存知のとおり、その後このフロンガスは、冷蔵庫やエアコンなどありとあらゆる冷却装置に使われるようになりました。

ちなみに、オハイオ州のデイトン郊外にある「ケタリング」は、彼の業績にちなんで命名された最高級住宅地ですが、1914年、ここにケタリング自身によって建てられた家は、米国で最初にエアコンが使われた家として歴史的建造物の指定を受けています。

ケタリングの息子の奥さんが、改修して長らく住んでいたものですが、その後地元ではリッジレー・テラス (Ridgeleigh Terrace) と呼ばれるようになり、現在でも会議場として使われています。

上述の通り、彼は「チームを組んでアイデアを進化させる」ということを若いころからポリシーとしていましたが、晩年には、個人としての才能を開花させるための秘訣に関しても多く名言を残しています。

たくさんあるのですが、例えば私が好きなのは、「問題を手際よく表現すれば、問題は半ば解決されている。」というもので、これは問題をきちんと整理して表現できれば、その問題の半分は解決したようなものだ、という意味です。

「人が欲しいと思うものを作ればビジネスは自然と立ち直る。」というのも、なかなかの格言であり、また「我々の行く手、未来に招く希望をさえぎっているのは、実は我々の想像力なのである。我々が明日花開くのにただひとつ足かせとなるのは今日の疑念だろう。」というのも考えさせられる言葉です。

さらに、「失敗は、うまくいくための練習だ。」「座ったままで、偶然にチャンスを見つけたという話は聞いたことがない。」「成功へと至る道では、失敗、それも度重なる失敗が道しるべとなる」「失敗するという事はこの世で重要な教育科目の一つなのだ」といった言葉の数々は、「失敗は成功の元」を人生訓として生きてきた彼の生きざまをよく表すものです。

こういうのもあります。

「過去に興味はない。未来に興味がある。なぜなら、そこで残りの人生を過ごすことになるからだ。」

試行錯誤を重ねながら、成功を目指して一歩一歩進み続ければ、必ず地平線は開ける、心を開いていれば、そこは常にフロンティアだ、という言葉の数々は、時代を超えて現在も心に響きます。

あなたも、自分自身を信じ、自分の考えを信じつつ、人生を歩んでいきましょう。

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オリンピックは伊豆で

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4月になり、サクラの季節だというのにお天気が悪い日が続くな~とおもっていたら、これは伊豆だけでなく、全国的な傾向だといいます。

が、今週からは天候もかなり持ち直し、来週からのゴールデンウィークに向けてはかなり期待できそうです。

と、いうわけで、この時期は暑くもなく寒くもなくで、新緑は目に優しいし、何かとお出かけしたくなるわけです。が、考えることはみんな同じであり、人気の観光スポットなどには人が集中し、ストレスをとりに行ったつもりが逆にストレスが溜まったりもします。

元々「人にあたる」たちの私は、これが嫌でしょうがなく、ゴールデンウィークともなると家に身をひそめることも多く、事実昨年も結局はどこへも行きませんでした。今年はどうしようかな~と思案中ですが、何も連休だからどこかへ行かなければならないというわけでもなく、行くとしても近場でいいじゃん、ということになりそうです。

伊豆という風光明媚な場所に住んでいるだけに、ちょっとお出かけするだけでほとんどどこでも観光名所というかんじであり、ここから歩いて20分ほどで行ける修禅寺虹の郷などは私のお気に入りの園地であり、一日中ここで遊べます。

伊豆市にはこのほか、「サイクルスポーツセンター」なるものがあり、これはJKA(旧・日本自転車振興会)など競輪運営団体の寄付金や補助などで建設費や運営費がまかなわれている施設です。

1965年開設で、ちょうど今年で50周年ですから、私が今住んでいる別荘地の分譲開始と同じ年にオープンしたことになります。サイクルスポーツの普及を図る目的で建てられた施設であり、遊園地もありますが、競輪選手を養成する「日本競輪学校」も敷地に隣接して建てられており、自転車関係者の間では「競輪のメッカ」と目されているようです。

元々自転車競技のための施設として開園した経緯があり、遊園地などは後付の施設です。このため、園内あちこちにある遊具と隣り合わせで本格的な競技トラックがあり、ロード競技用5kmサーキット・トラックレース用400mピスト(走路)・MTB(マウンテンバイク)コースなどがあります。一般にも有料で一般開放しているようです。

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連休明けの5月23日には、国内最大規模の自転車ロードレース、「ツアー・オブ・ジャパン」の「伊豆ステージ」もここで開催されます。これは、1982年から1995年まで14回に渡り開催されていた「国際サイクルロードレース」を継承する自転車ロードレースで、1996年にこの名称に変更され、第1回ツアー・オブ・ジャパンが開催されました。

日本国内で行われるロードレースとしては、都府県をまたぐ唯一のステージレースで、第1ステージは5月17日に堺で始まり、以後、いなべ(三重)、美濃(岐阜)、南信州(長野)、富士山(静岡須走)、に次いで伊豆で開催され、最終ステージは5月24日に東京の大井ふ頭で行われます。

全ステージを通じて30万人近くの人々が会場や沿道に集まるといい、日本国内では貴重な存在ともいえる公道開催型の自転車ロードレースです。各開催地では出場選手たちによるセミナーやワークショップなども行われるようで、ここ伊豆でもこうした交流活動を市が支援するようです。

一応は国際大会であり、また日本国内最高のステージレースとされているため、海外のチームも参加します。が、同じ時期に他の国でも同様な国際大会が開かれるため、なかなか強豪チームを招待しにくい現状があるようです。世界的に見るとレベルの低いレースとみなされているようで、さらにこの中でも日本選手はなかなか勝てないようです。

1996年の第1回大会以降、個人の総合優勝をしたのは、2004年、第8回大会の福島晋一選手だけです。ちなみに昨年の優勝者はイランの選手であり、一昨年の2013年とその前の2013年はイタリア国籍の選手でした。

ただし、このイタリアのチームは、日本の建設会社・NIPPOの支援の下で結成されたチームで、監督さんは大門宏という日本人です。このため、所属選手はイタリア人がほとんどですが、日本人も数人含まれており、チームは数々の国際大会にも参加して実績をあげていることから、そのうちこれらの日本人選手の中からも有名な人が出てくることでしょう。

サイクルスポーツセンター内にはこのほか、日本初の木製走路競技場である「伊豆ベロドローム」があります。一番の特徴は、走路が木製であるということ。走路が木製仕様の自転車競技場は、日本では西宮競輪場(1949年〜1965年)以来となり、常設および室内の木製走路の自転車競技場としては、日本初です。

これ以外の日本の自転車競技場の走路はすべてアスファルト仕様ですが、2000年のシドニーオリンピック以降、トラックレースの国際大会は、一般的に、室内競技場であること、1周 250メートルあること、そして木製仕様の走路であること、などが開催の条件のようになってきています。

厳密に木製であることが規定されているわけではないようですが、これが国際的な標準仕様とみなされるような風潮があるようで、そうした背景から、2020年の東京オリンピックにおいては、自転車トラック種目の会場を、当初予定の東京からこの伊豆ベロドロームに変更してはどうかという動きがあるようです。

東京オリンピックは当初の計画では予算がかなり超過し、建設コスト軽減のため、数多くの施設が見直しの対象になっていることはご存知だと思います。自転車競技も例外ではなく、当初東京都江東区の有明に仮設の施設を整備する予定でした。

しかし、昨年12月に国際オリンピック委員会(IOC)が他都市との分散開催を認めたことを受け、元総理で自民党のドン、森喜朗オリンピック組織委員会会長が「伊豆を使うことがいいのではないか」と発言。伊豆ベロドロームが有力候補として浮上したわけで、これに引き続き、2月には日本自転車競技連盟(JCF)がこの案に同意する決議をしました。

同連盟は国際自転車連合(UCI)にこの内容を記した親書を送っており、東京都の枡添知事も新たに競技場を作るよりはコスト削減につながるとして、前向きの姿勢をみせているようです。伊豆市の菊地豊市長も「候補として名前が挙がったことは大変うれしい。もし決定すれば、伊豆半島の皆さんと一丸となって歓迎したい」と期待を示しています。

ただ、五輪で求められる規格を満たすためには観客席を増設する工事が必要だそうで、宿泊施設の確保や輸送などの課題もあります。とはいえ、東京からは新幹線利用で1時間半、また宿泊施設は地元の修禅寺温泉や長岡温泉などいくらでもあり、受け入れるベースはかなり整っているといえます。

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このベロドロームには私も行ったことがありますが、大変に綺麗で立派な施設です。トラックレースのみならず、ロードレース、マウンテンバイクレース、BMXの競技も行えるように造ってあり、その設計はサイクルスポーツの本場、ドイツのラルフ・シューマンという人が行い、建設はこうした箱モノで定評のある日本の清水建設が行いました。

走路にはシベリア松を使用、周長 250mで、最大カント(最大傾斜角度)はナント45度もあります。なのに、幅員は7.5mしかなく、走路の間近に観客席があるため、文字通り「かぶりつき」で観戦ができます。

ただ、国内の他の競輪場で見られるような金網などはまったくないため、身を乗り出しての観戦は危険を伴います。また観客の不注意でモノを走路内に落としたりすることよって、競走中の選手に危害を及ぼしかねない可能性もあるため、こうした対策をどうするかは今後の課題でしょう。

また、観客席数が常設1800席、仮設 1200席というのは、オリンピック施設としては少々少なすぎる気がします。上述のとおり、五輪で求められる規格を満たすためには観客席の増設工事が必須となるようです。

とはいえ、2011年9月の竣工からまだ4年弱しか経っておらず、2020年の東京オリンピックの際でもまだ10年未満となりますから、ほとんど新品です。こうした立派なモノを使わない手はなく、ぜひ伊豆開催を実現してほしいものです。

サイクルスポーツセンターの諸施設も設立後半世紀を経てかなり老朽化しており、これを機会に施設の刷新を図ってはどうか、などと個人的には思ったりもしています。その昔は伊豆に数少ないスポーツ施設として、また遊園地として賑わったものですが、最近はかなり入込客も少なくなっているようです。

遊具などにかなりサビが浮くなど危険度も増しており、また施設アイテムそのものも古すぎます。最近日本最大級のジャングルジムなどが新たに導入されるなど、少しずつ刷新が図られているようですが、いまだにメリーゴーランドや足こぎボートなど、古色蒼然としたアトラクションが満載です。

園路などもガタガタのところがあり、食事施設やショップも正直言ってイマイチ。何かもう少し工夫はないのかなと思うのですが、こうした遊園地の老朽化は何もここだけでなく、全国的な問題になっているようです。

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近年は、レジャーの多様化などで厳しい経営を迫られている施設が多く、老舗遊園地でも閉園するところが増えており、特色作りに励み、新アトラクションを導入したり、逆に採算の合わない遊具を廃止するなど、規模を縮小したり、あるいは異業態へ転換する例も後を絶ちません。

「遊園地」ということば自体も古すぎる、というわけで、レジャーランド、あるいはテーマパーク、などと名前を変えてみたりはするものの、中身はあまり変わらないのでは人気が出るわけはありません。

静岡にも裾野市に「日本ランドHOWゆうえんち」、浜松市に遊園地パルパルというのがありましたが、それぞれ名前を変え、現在はそれぞれ「ぐりんぱ」、「浜名湖パルパル」になっています。が、最近行っていませんがおそらく中身は大きく変わっていないのではないでしょうか。

バブル景気の頃から1990年代中頃にかけては、通称リゾート法といわれる「総合保養地域整備法(1987年制定)」にも後押しされて、全国各地にこうした旧来の遊園地の名前を変えてテーマパークと銘打った様々な施設が計画され、建設されました。

しかし、十分なリピーターを獲得するだけの魅力に乏しい施設も多く、平成不況の影響もあって来場者が激減し、各地で民事再生法や会社更生法などの適用が相次ぎ、現在に至っています。

長崎オランダ村の閉鎖と失敗による倒産はそんななかでも象徴的なものです。これは今、ハウステンボスとして復活してはいますが、長崎の歴史とオランダの紹介という独自のテーマを掲げてテーマパークの先駆け的存在であった前身のかたちはあとかたもなくなっています。

このほか、新潟ロシア村、柏崎トルコ文化村、富士ガリバー王国の3テーマパークの設立に参画し融資を行って破綻した新潟中央銀行も失敗しており、第三セクター方式により設立した石炭の歴史村や夕張リゾートの開発を手掛けた北海道夕張市などもその失敗によってかなりの痛手を受けました。

そんな中でも浦安の東京ディズニーリゾート(TDR)と大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)は来場者が落ち込まず、テーマパーク業界では運営的に一人勝ちの様相を呈しています。

ただ、東京ディズニーリゾートも最近はひところほど絶好調というわけではないようで、今後の状況を楽観視はできなくなっているといい、リーマンショックを発端とする不景気の影響で地方のテーマパークの営業環境は一段と厳しくなっているといえます。

こういった大型行楽施設とは別の方向性として、都市部の大型商業施設の1フロアやその一部を占有する形で、屋内型の「ミニテーマパーク」と呼ばれる施設も首都圏・大都市圏で増加傾向が見られます。

こうした都市部のミニテーマパークは公共交通機関などによる交通の便が良く、また商業施設の利用者がついでに立ち寄る事もできるようアトラクション数や所要時間は少ない・短いなどの配慮が見られ、また屋内施設であることから全天候型施設としても人気を集めているようです。

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ミニテーマパークと呼ばれるものの中には、「フードテーマパーク」や「レトロテーマパーク」といったスタイルのモノが多いようです。

フードテーマパークとしては、「新横浜ラーメン博物館」などがその代表であり、「昭和ノスタルジー」を意識して、横町をイメージしてあえて狭くした通路、ガラス戸・駄菓子の陳列棚・ホーロー看板・白黒テレビなどの小道具、セピア色から連想された茶色がかった照明などなどの施設は「大正レトロ」を感じさせるというので大人気です。

出店するラーメン店も人気がなくなれば差し替えればよく、小さい規模なだけに、運営も楽というわけで、以後、ラーメンに限らず、うどんやそば、寿司、お好み焼きなどなど同様の施設が日本中にゴマンとできました。

また、レトロテーマパークもまた新横浜ラーメン博物館の受け売りと言え、これは昔使われていたかつてよく見られた木造住宅風の造形セットを施したり、レトロな小道具などの展示、懐古風のレプリカなどを売りにした施設で、一例をあげれば、玩具コレクターとして有名な北原照久氏が館長の「ブリキのおもちゃ博物館」などがそれです。

このほか、東京の下町風俗資料館、小田原懐かし横丁、横浜のハイカラ横丁などがあり、ここ伊豆でも、伊豆高原に「怪しい少年少女博物館」なるものがあります。

大規模なものでは、博物館明治村、江戸東京博物館、江戸東京たてもの園、北海道開拓の村なども同類です。ここまでくるとけっしてミニパークとはいえませんが、これらの施設では展示コーナーの一部が人気不振で入れ換えられることはあるものの、施設全体としては好評を博しており、こうしたレトロテーマパークは全国的にも増加傾向にあるようです。

なお、重要文化財や史跡・名勝といった全体が文化財の施設もレトロテーマパークといえなくはありませんが、こちらはあくまで歴史遺産であり、「パーク」とはいえないでしょう。しかし、最近はこうした施設にも飲食店やショップを併設するところが増えてきており、テーマパークとの境界線はあいまいになってきています。

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このほかのミニテーマパークとしては、「働く事を体験する」という職業体験型テーマパーク、「キッザニア」や、自動車のショールーム内にアトラクションを設けたMEGAWEBのように、遊園地という形態からは完全にかけ離れた様式も登場しています。

「キッザニア」は、メキシコ、日本、インドネシア、韓国やアラブ首長国連邦など世界中で展開されている、子供向けの職業体験型テーマパークであり、Kid+z+aniaで“こどもの国”の意です。就学前~中学校程度までの児童を対象としており、主要な80職種について職業を模擬体験することができます。

日本では、東京のららぽーと豊洲内にある「キッザニア東京」や同じく兵庫の西宮ららぽーと内にある「キッザニア甲子園」などがあります。

また、MEGAWEB (メガウェブ) は、東京青海のパレットタウン内にある、トヨタ自動車の展示ショールームです。主要なトヨタ車・一部のダイハツ車が展示されており、展示車種は自由に乗り降りすることが可能です。ゲームなどのアトラクションと飲食店もあり、「カタログ販売機」という自動販売機もあります。

これは日刊紙を扱う新聞自動販売機と同じようなもので、高級車、センチュリーを除くトヨタ車の全車種を網羅していて、特別仕様車のカタログもあるといいい、なかなかの人気のようです。無償ではなく有償としたところが、さすが「販売のトヨタ」だなと思うのですが、そうしたマニアックなところが受けるのでしょう。

海外を含めた自動車雑誌やミニカーなどを購入することも可能だといい、このほかMEGA WEBのある建物に沿って敷設された1.3kmのコースで、トヨタの市販車の殆どを試乗する事が出来るといいます。試乗料金は1台につき300円でコース2周ができ、新型車が登場したときなどにはキャンペーンで試乗料金が無料になる場合もあるそうです。

ただし、試乗は完全予約制となっており、予約は館内端末かMEGAWEBのサイト、または電話予約窓口を利用することになるようです。

ここまで規模が大きくなると、これもまたもはやミニパークとはいえませんが、お台場という立地からすれば施設規模も小さいほうといえ、シーズンごとにアトラクション内容を入れ替えることもできてテナントとしても扱い易く、パレットタウンのような大型商業施設新設の際に、こうした施設が導入されて集客が図られることも多くなっているようです。

こうしてみると日本の遊園地の形態もかなり様変わりしてきたな、という印象であり、もはや既存のかたちだけでは生き残っていけない時代に突入しているという感があります。

伊豆のサイクルスポーツセンターもまた、そうした時代淘汰の荒波に立ち向かっていかなければならないわけであり、もし東京オリンピックの自転車競技の誘致が決まれば、本格的にその内容の刷新にとりかかっていただきたいと思います。

と、ここまで書いてきて目をあげると、今日は久々に富士山の姿が見えるではありませんか。こんなブログなんか書いていないで、新緑を浴びに外へ出かけるとしましょう。みなさんもぜひこの週末には伊豆の若葉を見るためにこちらへお越しください。

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420

2015-95914月も下旬に入ってきました。

来週は、もうゴールデンウィークです。麓の温泉街も、修禅寺の新緑を求めてあちこちから観光客が集まり、さぞかし賑わうことでしょう。

その一週間前の、今日4月20日は、ぶっそうな話しですが、「マリファナデー」と呼ぶそうです。420(フォー・トゥエンティ, four-twenty)ということで、アメリカやカナダの大麻使用者は、毎年この日にマリファナを摂取し、それを味わえることを祝うためにひとところに集うといいます。

日本では厳しく取り締まれている麻薬であり、なんだかなーと思うのですが、カナダのバンクーバーの例では金融街を中心にその解放をめぐってデモも行われ、主要な道路が封鎖される規模になることもあるということです。

こうしたカナダやアメリカなどの北米の大麻のカルチャーにおいては、420という番号は、大麻を表すスラングだそうで、「フォー・トゥエンティしてる?」は、大麻やってる?の意味になるといいます。

その正確な由来は不明です。現在も多くの論争の対象になっているといいます。ただ、1970年代初め、カリフォルニア州サンラフェル (San Rafael) のサン・ラフェル高校の生徒の集団が、毎日放課後の午後4時20分、大麻を吸う目的でルイ・パスツールの銅像の前で会っていた、という話があるようです。

この時間由来説がもっとも広く受け入れられているとのことですが、ほかにもアメリカのパトカーにおいては、大麻薬事犯を発見したとき、「420」というコードを使って無線で交信する、という事実もあり、これが由来だという説もあるようです。

いずれにせよ、こうしたスラングが流行り始めた時期は1970年代前半といわれており、これは1975年に終結したベトナム戦争と何か関係があるようです。ベトナム戦争で精神を病んだ大麻を吸うアメリカ兵士が急増したといわれており、彼等の間の隠語として「420」が定着していったのでしょう。

しかし、アメリカ大陸においては、これよりもかなり昔の1549年には、すでにアフリカのアンゴラから連れてこられた奴隷がブラジル東北部での砂糖のプランテーションで砂糖とともに大麻を栽培し、喫煙していたといいます。アメリカ大陸のスペイン領やイギリス領でも大麻の栽培は行われ、特にメキシコでは大麻使用が大衆化しました。

アメリカ合衆国内で本格的に流行するようになったのは、1840年に医薬調合品として大麻の利用が可能になったことがきっかけといわれています。

1842年から1890年代まで処方される薬の上位にあり、その後、大麻を吸引できる店が開店し、上流階級や地位のあるビジネスマンがここにお忍びで通いました。また、禁酒法時代にはクラブなどの公共の場で酒の代わりとして振る舞われていたそうです。

しかし、1915~27年には南西部州を中心に医療目的以外の大麻使用が州法で非合法化され始め、禁酒法の廃止や治安悪化、人種差別や移民問題、合成繊維の普及と相まって、1937年に連邦法によって全米で非合法化されました。

ところが、1960年代にはヒッピー・ムーブメントで大麻使用が大衆化され、上述のようにこのあとベトナム戦争が起こって、戦争の後遺症に苦しむアメリカ兵士の間で大麻を吸う者が急増しました。

こうした背景もあり、アメリカでは一応連邦レベルでは禁止されているものの、州レベルでは合法化されているところもあります。2014年月時点で23州で医療大麻として、また2州では嗜好品として合法化されています。

2012年のアメリカ大統領選においても、その前哨戦で嗜好品としての大麻合法化の是非を問う住民投票が3州にて行われ、コロラドとワシントンの2州が賛成多数で可決し嗜好品として大麻が合法化されました。比較的最近のことなので、このニュースを覚えている人も多いでしょう。

このほかの州においても、米国の連邦法と矛盾するものの、米国では一般法は基本的に州法が優先されるため、大麻問題に関しても同様に州法が優先することとなっています。2013年のギャラップ調査によると58%のアメリカ人が大麻の合法化を支持しているといいます。

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片や日本では、大麻には多幸感をもたらす鎮痛作用・食欲増進などの薬理作用がある、として、大麻取締法による規制を受ける「麻薬(痲薬)」の一種に分類されています。日本での使用は、無許可で所持しただけで最高刑が懲役5年、さらに営利目的の栽培は最高刑が懲役10年とされており、厳しい罰則が適用されるれっきとした犯罪です。

が、日本においても違法に「ヘッドショップ」といわれるタバコ店などで取り扱われているようで、その存在を隠すため、上述の「420」などの隠語が使われているそうです。例えば、日本でチェーン展開しているあるヘッドショップの店名は「four-twenty」だそうです。

試しに、ネットで「420」、「ヘッドショップ」と入力して検索してみてください。次々にいかがわしげなサイトが出てきます。無論、その全部で大麻を扱っている、とういわけではないでしょうが。

この「ヘッドショップ」の意味や由来は、調べてみましたがよくわかりません。が、本家はオランダの雑貨店だった、とするサイトをみつけたので、案外と正しい情報かもしれません。オランダではこうした雑貨店に大麻関連の商品が並ぶことが多いといい、これをヘッドショップと隠語で呼んでいるようです。

日本でも、愛煙家向けに主に煙草、薬草、パイプを扱う店があり、所によって「薬関連」も取り扱う雑貨屋があります。おそらくはそうした店は非合法に大麻なども扱っていると思われ、それをオランダに習っていつのまにか「ヘッドショップ」と呼ぶようになったのでしょう。

実はオランダでは大麻は合法化されています。1976年に大麻に関しての寛容政策が行われ、コーヒーショップやユースセンターでの大麻販売を認めました。大麻がコーヒーショップなどで販売され、早くから大麻が事実上合法化されている、ということは日本では意外に知られていません。

こうした薬物使用は「公衆衛生」の問題として扱われ、犯罪ではありません。タバコや酒と同じく、高じれば生活習慣病にはなる可能性はあるものの、摂取は認められています。

この施策は現実に即した実用主義的な政策だ、とオランダ政府は主張しているわけですが、ただ、同じドラッグでもコカインなどは「ハードドラッグ」と位置付け、大麻(マリファナ)などはソフトドラッグとし、明確に区別しています。そして使用を許可しているのは後者だけです。

これはどういうことかというと、元々大麻などのソフトドラッグ使用者が多いオランダでは、そもそもソフトドラッグというものは完全追放できないと考えたようです。

オランダは、ヨーロッパにおける海上貿易の玄関口としての側面があり、物品の出入が激しく、薬物の入出が激しい国であり、ロッテルダムの貿易量は世界一であり、貿易中継地点です。また、歴史的に多くの迫害者を移民として受け入れてきており、それにより、さまざまな文化に対して寛容です。

18世紀から19世紀の西欧諸国において、薬物、特にアヘンの貿易は経済的に重要でしたが、オランダにとってもまた、アヘンは重要であり植民地への商品として輸出されました。20世紀初頭までは、オランダはコカインの最大生産国であり、これもアヘンと同様に植民地へ輸出されていました。

こうしたことから、アメリカ合衆国やその他西欧諸国に比べると、薬物への危機意識が少なく、このため早い時期から薬物市場が形成されていました。

しかし、これを禁止法で抑えつければ、ソフトドラッグがハードドラッグと同じ闇市場に出回る結果となる可能性があります。ソフトドラッグ使用者がハードドラッグ使用に走る機会を増し、薬物による害を増やすことになる、というわけです。

そんなことになるよりは、行政がしっかり管理できる施設にのみ一定条件下でソフトドラッグ販売を許可し、ソフトドラッグ市場とハードドラッグ市場を完全に分離したほうが薬物による害は少なくなる、とオランダ政府は考えました。ハードドラッグが入ってこないようにソフトドラッグ市場を限定して厳格に管理したほうがやりやすいと考えたのです。

厳しい政策で薬物を完全に追放することは不可能だという前提に立ち、その上で薬物による害を減らそうというのが彼等ならではやり方といえ、言ってみれば「必要悪」ということになるでしょうか。

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しかし、他国の大部分は、日本もそうですが、薬物は社会にとって有害であると考え、オランダとは反対に、ソフトドラッグを含め薬物全般を追放する政策を取っています。その温度差から、最近では薬物対策を巡ってオランダと周辺諸国の間では何かと摩擦が生じているといい、特に近隣のフランスやドイツとの摩擦が顕著だといいます。

この「大麻」ですが、薬や嗜好品としての歴史は長く、中国では2700年前に既にシャーマンが薬理作用を目的として使用していました。また、紀元前450年ころ、東ヨーロッパではスキタイ人やトラキア人は大麻を吸っていたといい、70年にはローマで医療用として既に大麻が使われていました。

その後、アラビアと中東では900年から1100年にかけて大麻の喫煙習慣が広まりましたが、ヨーロッパには、1798年のナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征によってエジプトから伝えられ、1843年にはパリで「ハシッシュ吸飲者倶楽部」が設立されました。さらに、1870年にギリシアで大麻使用が全土に普及しています。

また、イギリスの上流階級の間にも広がり、ヴィクトリア女王は生理痛の緩和に使っていました。その用法としては腹痛や発熱、不眠症のためであり、ほかにも結核患者に使われていたという記録があります。

日本では、江戸時代の1709年、博物学者の貝原益軒が発行した「大和本草」に大麻の項があり、麻葉の瘧(オコリ・マラリアのこと)への治療薬としての効能が記載されているほか、これ以前の日本書紀などでも大昔から麻が植えられていた様子が記されています。

明治に入ってからは、1886年(明治19年)に「印度大麻草」の呼称で日本薬局方に記載され、1951年の第5改正日本薬局方までそのまま収載されていました。戦前の生薬学では、紙巻煙草による嗜好用途のほかに鎮静薬及び催眠薬、あるいは喘息に効くとされ、戦後も規制される前は、庶民の間でも痛み止めや食用として普通に使用されていました。

ただし、日本で伝統的に栽培されていた大麻は幻覚成分である「THC」と呼ばれる成分の含有量が0.1%程度と弱く、薬用として使われることのほうが多かったようです。ところが、第二次世界大戦後にアメリカ進駐軍が入ってきてからは、彼等を真似て嗜好目的で使う人が著しく増え、広まっていきました。

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しかし、アメリカ人兵士による大麻犯罪が増えたことから、1947年(昭和22年)にはGHQが「大麻取締規則」を発し、また翌年の1948年には日本政府による「大麻取締法」も施行され、厳しくその所持が制限されるようになりました。

今日では、日本だけでなく、多くの国が大麻に関して原則的に規制をする法律を規定しています。これらの法律となる基準は、国連が定める麻薬に関する国際3条約であり、多くの国はこれに批准するとともに、これに準拠した上で国内法を整備しています。

国際3条約とはすなわち、1961年の「麻薬に関する単一条約」、1971年の「向精神薬に関する条約」、および1988年の「麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合条約」であり、北朝鮮でさえ2007年にこの3条約に批准しています。

ただし、条約批准国の中には、一部の国の一部地区において、使用形態・使用用途などを絞って、例外的に許可する場合が存在します。上述のアメリカの一部の州やオランダなどがそれです。

1961年の「麻薬に関する単一条約」から50年が経った現在では、オランダと同じように全面禁止による対策はむしろ麻薬の蔓延を助長するという考え方に同意を示す国も多いようです。2011年に国連の「薬物政策国際委員会」が提出した報告書にも、禁止による対策は失敗し、これが薬物による問題を助長している、と書かれているといいます。

この報告書ではとくに、大麻のようなソフトドラッグの薬物としての有害性を誤って評価した結果、このような事態に発展したとし検討の余地がある、としており、今後ともこの大麻の使用を巡っては国際論議が活発になっていく可能性があります。

もっとも、元々嗜好品として使う歴史の浅い日本では、オランダのようなことにはならないのではないでしょうか。とはいえ、昨今、大麻所持が暴露されて逮捕される芸能人がやたらに増えているようであり、少々気にはなります。

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ところで、この大麻ですが、何か特別の植物からつくられる麻薬、と思っている人も多いかと思いますが、実は違います。

これはなんのことはない、「アサ(麻)」から作られます。日本人にもなじみの深い植物であり、中央アジア原産とされるアサ科アサ属で一年生の草本です。

昔は麻のことを、普通に大麻(たいま)または大麻草(たいまそう)と呼んでおり、第二次世界大戦の終戦前までは、日本では米と並んで作付け量を指定されて盛んに栽培されていた主要農作物でもあります。

ただし、古来から日本で栽培されてきたものは麻薬成分をほとんど含まないものでした。4か月で4メートルの背丈になるほど成長が早く、茎などから繊維が得られ、食用となるほか、油も取れるなど高い利用価値があります。現在でも大豆に匹敵する高い栄養価を持つ実を食用として使うこともあり、料理に使うこと自体は違法ではありません。

が、麻薬成分の含有量は少ないとはいえ、大麻取締法があるため、国内では許可なく育てることはできません。このため、食用の種子は輸入に頼っています。しかし、その使用方法を巡っては、法律で規制される麻薬と混同され、無用の疑いをかけられる可能性があるため、この輸入モノの麻は、「ヘンプ」と呼ばれることもあります。

ただ、この輸入モノのヘンプの中にも当然麻薬成分の含有量が多いものも含まれ、麻薬成分を多く含む品種の葉及び花冠を乾燥または樹脂化、液体化させたものを、現在では特に大麻(マリファナ)と呼びます。

この麻薬としての利用は、上述のように江戸時代にマラリアなどの治療薬として使われ始めたのが起源ですが、生活用品としての利用の起源は、戦国時代にまで遡ります。

木綿の栽培が全国に広まるまでは、高級品の絹を除けば、麻が主要な繊維原料であり、糸、縄、網、布、衣服などに一般に広く使われていました。木綿の普及後も、麻繊維の強度が重宝されて、特定の製品には第二次世界大戦後まで盛んに使用されていました。

現在でも衣類・履き物・カバン・装身具・袋類・縄・容器・調度品など、様々な身の回り品が大麻から得た植物繊維で製造されており、麻織物で作られた衣類は通気性に優れているので、日本を含め、暑い気候の地域で多く使用されています。

また大麻の繊維で作った縄は、木綿の縄と比べて伸びにくいため、荷重をかけた状態でしっかり固定する時に優先的に用いられます。また、伸びにくい特性を生かして弓の弦に用いられることもあります。

このほかの麻の用途としては、その昔は、繊維を取った後の余った茎を苧殻(おがら)と称し、懐炉用の灰の原料として広く用いられており、これを燃やしてお盆の際に迎え火・送り火とする、といったふうにも使われていました。

現在では、その果実は生薬の「麻子仁(ましにん)」として調剤されます。この麻子仁には大麻のような陶酔成分は無く、穏やかな作用の便秘薬として使われます。栄養学的にはたんぱく質が豊富であり、脂肪酸などの含有バランスも良いため食用可能であり、香辛料(や鳥のエサにもなります。七味唐辛子に含まれる「麻の実」はこの麻子仁です。

また、果実を搾ることにより油を得ることができます。この油を含んだ線香がアロマテラピー用として市販されているほか、「ヘンプ・オイル」としてボディーケア製品・潤滑油・塗料・工業用途など、非常に広範囲に使われています。また、抗菌性の性質を持っているため、石鹸・シャンプー・洗剤などの成分としても使われています。

この麻は、戦前、日本の小学校の教科書では栽培方法や用途が教えられるとともに、教育の一環として学校で栽培されることもありました。戦前の日本はまだまだ貧しい国であったため、特に衣服に重宝されたようで、国家によっても大麻の栽培・生産が奨励されていました。

しかし、戦後のGHQによる「大麻取締規則」や日本国政府による「大麻取締法」の施行によって、嗜好用だけでなく産業用の大麻にまで規制を行うようになった結果、日本における大麻の栽培者数は1950年代には2~4万人であったものが、1960年代には1万人を下回り大幅な減少を続け、1994年には157名にまで減少しました。

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おそらく現在では何等かの伝統工芸を作るために麻を栽培している、といった農家以外では麻を作っているところはほとんどないのではないでしょうか。

ただ、日本では麻は古来から神聖な繊維とされており、神社の鈴縄、注連縄(しめなわ)や大幣(おおぬさ)として神事に使われるものにも国産が多く使われます。また、相撲で横綱の締める注連縄も麻繊維で出来ており、相撲もまた元は神事から発祥したものですから、やはり国産のモノが望ましいとされているようです。

大幣(おおぬさ)というのは、よく神社で、宮司さんが、棒のあたまに白いふさふさの箒のようなものが付いたものでお祓いをしてくれると思いますが、アレのことです。

この大幣のことを実は大麻とも書き、この「おおぬさ」は、神道の祭祀においてお祓いに使う道具の一つで、ただの棒に見えるものは、榊(さかき)の白木の枝です。

またその先端につけられているふさふさは、「紙垂(しで)」と呼ばれる白い紙の場合もありますが、絹織物を含めた織物の場合もあり、他に麻で作った糸、「麻苧(あさお)」をつける場合もあります。

両方を総称して、祓串(はらえぐし)とも言いますが、「大麻」(おおぬさ)」と呼ぶ場合の、「ぬさ」とは神への供え物や、罪を祓うために使用する物のことであり、これに「おお」をつけるのは、「ぬさ」の美称です。当初は主として麻や木綿(ゆう)を使っていたことから、大麻と呼ぶようになりました。

この大麻(大幣)は、祓う対象となる人や物に向かって左・右・左と振って使用し、これによって大麻に穢(けがれ)が移ると考えられています。神社によっては、大麻で祓った後に、小さな榊で塩の入ったお湯を撒く場合もあるほか、大麻自体を塩湯が煮え立った釜に入れて振り、無病息災を祈るところもあります。

日本最古の神社とされる、伊勢神宮から頒布される「神札」のことも大麻、または「神宮大麻(じんぐうたいま)」と呼びます。伊勢神宮では、江戸時代、伊勢講などの講が組織されて多数の人がここを訪れるようになりましたが、その際、参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことを御師(おんし)と呼びました。

この御師が、頒布した御祓(おはらい)がこの神宮大麻の起源だそうで、当初はお祓いをつとめた祓串(大麻)を箱に入れ配っていたそうです。最初は、箱にこの祓い串を入れたもの、あるいは祓い串を剣型のお札で包んだものを頒布していたようです。ただ、現寸ではなく、おそらくは本物のお祓い串のミニチュア版のようなものだったでしょう。

が、参拝客にいちいちこうした嵩張るものを手渡すのは面倒だということで、明治以降は単にお札に「天照皇大神宮」と書かれ、これに「御璽(ぎょじ)」と呼ばれるハンコを押したものだけになりました。

中身も、ご神体である大麻から変わって、御真(ぎょしん)と呼ばれるお札だけになりましたが、明治時代になると、国家神道の形成により御師の制度は停止されるようになり、こうしたお札は伊勢神宮が組織した神宮教に所属する神社から全国的に頒布されるようになりました。

しかし、その元は神具である大麻の頒布であったわけであり、人々はこの麻を自宅の神棚に祀って、1年の間の家内安全・無病息災などを祈ります。伊勢神宮の神社本庁から頒布された大麻の数は、2011年のデータでは、888万545体であったといいます。

今このブログを書いている私の頭上にある神棚にもこの神宮大麻が修められています。

さて、その神宮大麻を神社から頂いた正月から4ヶ月が経とうしています。なかなかに厳しい時代であり、今年もまだまだ先が長いわいなと、気が遠くなる思いがあるのですが、だからといって、麻薬になどに手を出そうとは思いません(が、酒はやめられないかな?)。

みなさんも大麻などに手を染めることなく、神社から貰ったこうしたありがたい大麻で身を清め、(楽しく酒を飲みつつ)残りの一年を乗り切りましょう。

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黄色いレンガと銀の靴

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3日ほど前に事故を起こした、アシアナ航空については、事故原因などをめぐって連日のようにテレビなどで報道が続いています。

この事故は、韓国の仁川国際空港発、広島空港行きのアシアナ航空162便、エアバスA320型機が、広島空港へ東側から着陸する際、標準より低い高度で滑走路に接近し、滑走路手前で計器着陸用の誘導装置に接触したものです。接触後、同機は一応着陸したものの、滑走路を逸脱し、横滑りしてほぼ180度回転して芝生エリアに停止しました。

事故機は誘導装置のアンテナとの接触により左主翼が損傷しエンジンカバーが脱落した状態で、着陸直後には左側エンジンから発煙があったといいます。

乗客・乗員計81人(乗客73人、乗員8人)は全員が脱出用シューターで脱出して無事でしたが、脱出の際、乗務員による避難誘導は無く、開いたシューターを使って乗客同士が助け合って脱出したといい、この事故により、27人が軽傷を負いました。

事故原因はまだ調査中のようですが、事故時の空港周辺では霧が発生するなど大気の状態は不安定で、気象庁からも、雷と突風及び降ひょうに関する情報を数回出し注意喚起を促していたようです。

ただ、過度の低空進入になっていたことから、部分的に発生していた濃霧により操縦士が着陸直前に進入角度を確認できていなかったのではないか、という指摘もあがっており、パイロットの操縦ミスの可能性もあるようです。あわやの惨事というきわどい着陸であったことなども報じられており、今後の調査結果が注目されます。

このアシアナ航空ですが、「アシアナ」はラテン語で「アジアの」を意味する語だそうです。どこの航空会社だったっけ、と調べてみると、韓国の会社のようです。韓国国内線では、12都市14路線、国際線では22カ国67都市91路線を持っており、このうち日本への乗り入れは16都市に達しています。

日本の地方空港へ乗り入れる外国の航空会社としては、この乗り入れ地点数は最大であり、スターアライアンスメンバーに加入していて全日本空輸と株式を持ち合っていることなどから、最近この航空会社をよく使う、という日本人もかなり多くなっているようです。

とくに日本の地方から外国へ向かう旅行者がソウル・仁川国際空港を経由し外国へ向かうことが非常に多いといい、同じ韓国のライバル会社である大韓航空と比較して、長距離国際線は少なくアジア内重視の傾向が強いようです。

私は大韓航空しか乗ったことがないのですが、その評判をネットなどで調べてみると、親切丁寧で機内食が良いという意見が多いようで、機内サービスの評価は高いようです。機内マジックショーやメークアップイベント等のサービスを用意する便もあるとのことで、最先端の機内設備を通して、サービス面において他社との差別化を図っています。

ファーストスイートクラスの搭載機材には、航空業界でも例を見ない大きさの32インチ高画質個人用モニターが搭載されているほか、日本発着路線には京懐石料理を、また誕生日や結婚などのお祝いケーキなどと言った特別機内食も提供されるといいます。

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しかし、1988年の発足以来、事故が多い航空会社です。ざっと取り上げると、まずその最大の事故は1993年のものです。これは「アシアナ航空733便墜落事故」といい、ボーイング737で運行されたこのフライトでは66人が死亡しました。死亡事故としては、このほか2011年の貨物機事故があり、このときは済州島沖で乗員2人が死亡。

前者の墜落原因はパイロットの操縦ミスとされ、また貨物機のほうは、積荷に火災の原因となりうるリチウムイオン電池、塗料などが大量に搭載されていたことから、火災による墜落とされています。

さらに、2013年には、に仁川国際空港を離陸し、サンフランシスコへ向かっていたアシアナ航空のボーイング777が、サンフランシスコ国際空港への着陸に失敗、炎上しており、この事故では3人が死亡、約180人が負傷しました。アメリカの運輸省は操縦士の判断の遅れが事故の主因だとする見方を示し同社に対し50万ドルの罰金を課しました。

このほか、死亡事故ではありませんが、2009年に関西国際空港でも着陸に際し、機体後部を滑走路に接触させる事故を起こしているほか、2012年にはハワイ行きのエアバスA330が島根県上で気流に巻き込まれ乗客2人が骨折などのけがをしています。

事後調査で同機操縦室の気象レーダー電源が切られていて、運航乗務員はそれに気付いていなかったことが原因だったようです。

直近では昨年の2014年4月、仁川からサイパンへ向かっていたアシアナ航空のボーイング767が飛行中、福岡上空付近でエンジンの警告ランプが点灯し異常を通知されていたにもかかわらず、飛行を継続し目的地まで飛行していたという事件もありました。

後日、韓国の国土交通部は運航乗務員には30日の資格停止、運航航空会社には同路線の7日間の運航停止、または課徴金2,000万ウォンが課されています。

こうしてみると、非常に事故が多い印象であり、また操縦士のミスが事故につながったことが多いようで、今回の事故もまた操縦ミスだったとすると、同社の運行体制にはかなり問題があると考えざるを得ません。特段、格安航空ともいえないようでもあり、利用はしばらく控えたほうがいいのかもしれません。

このアシアナ航空の、航空会社コードの「OZ」となっています。日本航空はJAL、全日空はANAですが、なぜアシアナなのにOZなのかと思ったら、これは「オズの魔法使い」に由来してこう決めたのだとか。

なんでオズの魔法使いだったのかな~と考えたのですが、よくわかりません。おそらくは魔法使いはほうきに乗って空を飛ぶので、こうしたのではないかと思われ、単なる魔法使いとするよりも、「オズの魔法使い」としたほうがカッコいいと思ったのではないでしょうか。

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また、この話は、魔法使いが気球に乗ってどこかへ飛ばされてしまうというエンディングだったと思うので、そこにもひっかけたのかもしれません。しかし、子供のころに一度読んだような記憶があるのですが、よく話の筋を覚えていません。改めてどんなストーリーだったかな、と調べてみると、だいたい以下のようなあらすじのようです。

愛犬トトと共に、アメリカ・カンザス州にある自分の家ごと竜巻に巻き込まれてしまったドロシーは、「オズ」という魔法の国に迷い込んでしまいます。二人が落ちたのは、なんとここに住まう、「東の悪い魔女」の家の上。

この魔女は落ちてきたドロシーによって壊された家の下敷きになって死んでしまいます。ところが、彼女によってこき使われていたこの国の種族、マンチキンたちはドロシーたちに感謝をして大喜び。しかし、彼等に聞いてもカンザスに帰る道はわからず、ドロシーは途方にくれてしまいます。

泣き出すドロシーの前に現れたのが、北の良い魔女グリンダ。グリンダは、東の悪い魔女が履いていた不思議な力を持つ銀の魔法の靴をドロシーに履かせます。そして、「魔法使いならあなたをおうちに帰してくれるかもしれないわ」と言って、彼が住むエメラルドシティーへ、ドロシーを向かわせます。

その道中、ドロシーが最初に会ったのがカカシであり、彼は全身がわらでできているため、痛みも感じませんが、脳みそもありません。魔法使いのところへいったら、自分に脳みそをくれるかも知れないということで、彼女と同行することにします。

次に出会ったのはブリキのきこりで、彼はブリキでできているから心がないので、同じく魔法使いに会ったら心をくれるかもしれない、といい、自分も連れて行ってくれないかとドロシーに頼みます。

するとそこへ突然一匹のライオンが襲ってきます。しかし、少しも迫力がなく、彼曰く、
「僕はぜんぜん勇気がないんだ。百獣の王なのに怖がりだし……魔法使いに会ったら勇気をくれるかなぁ?」

……ということで、こうしてエメラルドシティーへ向かう一行は、犬のトトとドロシーを入れた4人になりました。

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こうしてその珍道中は続きますが、そんな中、今度は「西の悪い魔女」が彼等の前に立ちふさがります。彼女はドロシーが押しつぶした東の魔女の姉であり、自分の妹を殺したドロシーをことあるごとに邪魔してきます。

しかし、その妨害をもなんとかはねのけドロシー達はやっとの思いでエメラルドシティーに到着します。が、目的とする魔法使いはなかなか彼等に会ってくれず、あげくのはてには「西の魔女をやっつけたら会ってやろう」という条件まで出してきます。

悪い魔女を倒せば、魔法使いが私をカンザスへ帰してくれる、と発奮したドロシーは、3人を引き連れ、悪い魔女の城へ乗り込みます。危険な戦いの末、魔女に水をかけると、魔女は苦しみながら溶けて死んでしまいました。

こうして力を合わせて魔女をやっつけた4人の前にようやく魔法使いが姿を現します。ところが、魔法使い魔法使いと言った割には、目の前に現れたのは普通のオッサンであり、しかも彼はただの発明家で、魔法なんて使えない人間であることが発覚。

しかし、彼は、「案山子は旅の困難を切りぬけようと頭を使い、ライオンは危険に立ち向かい、ブリキの人形はドロシーの運命に涙を流した」と彼等を称え、さまざまな方法で彼等の願いは果たされます。

しかも彼は発明家だけに、気球を持っているからドロシーの帰郷も大丈夫、と請け合います。こうしてドロシには一緒に気球でテキサスへ帰れる、と喜んだのもつかの間、出発間際ふとしたことから気球は魔法使いだけを乗せて舞い上がってしまいます。

魔法で家へ帰れると思っていたドロシーはまたしても泣き出してしまいますが、そこへ北の良い魔女のグリンダがふたたび助けの手を差し伸べます。彼女の願いを叶えてくれることになり、ドロシーは仲間に別れを告げてグリンダの言うままにある方法で自宅のあるカンザスを目指します。

やがてドロシーが目を開けると、そこには育ててくれた伯父伯母をはじめ、ドロシーの住む農場で雇われているハンク、ヒッコリー、ジーク、マーヴェルが傍にいました。彼等は魔女を一緒に倒したカカシ、ブリキ男、ライオンにそっくりでしたが、彼女にとって皆がオズの国で一緒だったことを覚えていないのが不思議でしょうがないのでした……

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このオズの魔法使いという物語を創作したのは、ライマン・フランク・ボームという、アメリカ合衆国の児童文学作家です。

ボームはニューヨーク州のチッテナンゴ村という小さな村に1856年に生まれました。父はペンシルベニア州の油田で財を築いた人であったため、ボームは裕福な環境で育ち、ごく若い頃から創作に取り組んでいました。父は彼に簡易的な印刷機を買い与えており、彼と弟はそれを使って新聞を発行していたといいます。

これは広告も入った本格的なものだったそうで、数号は続いたといい、17歳になるまでに彼はさらに切手収集家のためのアマチュア誌を創刊しました。と同時に演劇にも傾倒し始め役者としての成功を夢みます。が、父のように商才はなかったのか、その後は興行的な失敗によって幾度となく破産寸前に陥るようになります。

一時期は演劇から離れ、衣料品会社で事務員などもやっていましたが、再び演劇の世界に戻り、さまざまな芸名で活動するようになります。24歳のとき、そんな彼を見かねたのか父が彼のために劇場を建ててくれました。

ボームはこの劇場で脚本家の地位に就き、役者をやってくれる仲間を集め、脚本を書くだけではなく、劇のための作曲も行い、さらには舞台で主役を演じました。ところがボームが巡業で留守にしている間にこの劇場が火事になり、建物のみならずボームの脚本の多くも焼失してしまいます。

この頃までにはボームは結婚していましたが、33歳のボームと妻はこれを契機にサウスダコタ州のアバーディーンに移り、そこで彼は「ボーム市場」という雑貨店を開きました。しかし、品物を安易にツケで手放してしまうという彼の悪癖により、店は結果的に破産に追い込まれます。

そのため今度は、この町の地方新聞の編集者の職を得ますが、この会社もじきに潰れると、彼と妻と、そして4人の息子はシカゴに移りました。ここでボームは「イヴニング・ポスト」の記者の仕事を見つけますが、彼は旅回りのセールスマンとしても働かなくてはなりませんでした。

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そんな中、41歳になった彼は初めて自作でヒットを飛ばしました。”Mother Goose in Prose”という本で、これは古文で書かれていたマザー・グースを、現代用語に直してわかりやすくした短編集でした。この本はそこそこ売れ、ようやく息を吹き返した彼が次に取り組んだのは、詩集”Father Goose, His Book”でした。

「ファーザー・グース、彼の本」というパロディ満載のナンセンス本だったこの本は大ヒットし、この年の児童書としてはベストセラーになり、さらに気をよくした彼が次に執筆したのが、「オズの素晴らしい魔法使い“The Wonderful Wizard of Oz”」でした。

この本は批評家から絶賛を浴び、商業的にも成功を修め、その後2年間に渡り児童書のベストセラーの地位に君臨し続け、その後もボームはオズの国や住人を扱った続編を13作も書いていくことになります。

この出版の2年後には、同作をミュージカル化し、これは1902年にシカゴで初演され、1911年まで成功裏にアメリカ国内を巡業が行われましたが、評判は上々でした。ミュージカル版の成功以降、原作の題名もミュージカル版に合わせて “The Wizard of Oz”(オズの魔法使い)に縮められるのが一般的になりました。

しかし、ボームはその後こうした「オズ・シリーズ」以外にはヒット作に恵まれず、ミュージカルの成功から1年後に出した、1901年の “Dot and Tot of Merryland”(陽気な国のドットとトット)などは、ボーム屈指の駄作と酷評されました。

以後も次々と新しい作品に挑みましたが、その都度もっと面白いものをという一般読者からの要求、子供たちからの手紙が相次ぎ、結局はオズ・シリーズの続編に戻る、というパターンを繰り返しました。

演劇に懸ける終生の愛情のために、彼はこのほかにも、しばしば凝ったミュージカルに対して資金を出しましたが、ことごとく失敗し、しまいには借金で首が回らなくなったボームは初期作品「オズの魔法使い」を含む作品の著作権を売却する羽目に陥りました。

その結果、初期作の低品質版が出回ることになり、ボームの名声は下落し、その後の新作までが売れなくなりました。ボームは蔵書、タイプライター、など手放せる財産を徐々に放出して行き、最後には無一物となりました。

ボームによるオズ・シリーズの最終巻「オズのグリンダ」は彼の死後の1920年に刊行されたものですが、これは別の作家によって書かれたものであり、さらにシリーズは長い間別の作家たちによって書き続けられました。

しかし、一文無しになったボームはその後も演劇界での仕事を続け、シリーズ第6作目の「オズのチクタク男(Tik-Tok Man of Oz)」はハリウッドでそれなりの成功を修めました。

これで息を吹き返した彼は、58歳のときハリウッドに移り、自作を映画化するための会社The Oz Film Manufacturing Company(オズ映画制作会社)を起業。

自ら会長、プロデューサー、脚本家をつとめましたが、この時期に彼が使ったキャストの中には無名時代のハロルド・ロイドもいました。会社は順調に推移していたようですが、そんな中、1919年5月5日、ボームは脳卒中で倒れます。そしてそのまま翌日静かに息を引き取りました。63歳の誕生日の9日前のことでした。

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末期の言葉は、うわごとのように口に出した”Now we can cross the Shifting Sands.”であったといいます。「さあ、いまこそ流砂の上をわたるぞ!」という意味であり、このときもまた何か新しい創作物を昏睡状態の頭の中で考えていたのでしょう。

ボームは、その後カリフォルニア州グレンデールにあるフォーレスト・ローン記念公園(Forest Lawn Memorial Park)に埋葬されました。

この彼の遺作であり、最大のヒット作だった「オズの魔法使い」は、児童文学であると同時に、これが発表された19世紀末のアメリカ経済に関する「寓話」とも解釈されることもあるようです。

というのも、この作品が1900年に世にでる直前の1880年から1886年にかけては、アメリカ経済は23%ものデフレーションを経験しており、当時の西部の農民達のほとんどが、東部の銀行からの借金で開拓を行っていました。しかし、デフレーションの発生は貨幣価値をおとしめ、逆に相対的に借金の価値を増大させます。

このため西部の農民は苦しみ、一方では東部の銀行が何もせずに潤うという事態が発生するところとなり、東西で貧富の格差は広がるばかりでした。このため、当時の民主党などは、不足する貨幣供給量を銀貨の自由鋳造で賄い、これによりゆるやかなインフレを起こすことが有効対策だと主張しました。これを「リフレーション政策」といいます。

急激なインフレはまた別の意味での問題を起こしますが、少しくらいのインフレならば経済も順調に動き、世の中の金の巡りがよくなる、というわけですが、これに対して従来の金本位体制を支持する立場の共和党は、真向うからこれに反対しました。

民主党は銀貨の採用、すなわち銀本位制を主張し、共和党はあくまでも金本位制にとどまることを主張したこの論争は、次の大統領選挙においても最も重要な論点となっていきました。ところが、こうした政治的な話が、実はオズの魔法使いの中に盛り込まれているのでは、とこの当時の歴史学者や経済学者は考えました。

どういうことかといえば、例えば物語最後のほうで、ドロシーは家に帰る道を見つける方法を探る中で、「黄色いレンガ」でできた道をたどる、といったシーンが出てきます。

黄色=黄金、と置き換えれば、これはこじつければドロシーが金本位制で家へ帰る道を探そうとした、という解釈もできます。しかし、結局彼女はその黄金色のレンガでできた道を辿って家に帰る方法を見つけることができませんでした。

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一方、ドロシーは、物語の最初のほうで、北の良い魔女グリンダの「銀の靴」を履かせてもらって魔法使い探しの旅に出ています。

この銀の靴の魔法については物語の進行中は明かされません。しかし、物語の最後で魔法使いが用意した気球に乗れず、途方に暮れていた際に再登場します。北の良い魔女グリンダはこのとき、ドロシーにこういいます。

「その銀の靴にはね、不思議な力がいろいろあるの。なかでも一番すごいのは、それが世界中のどこへでも三歩で運んでくれること。しかもそれはは一瞬のうちに起こるのよ。あなたはかかとを三回うちあわせて、靴にどこへでも行きたいところへ運べ、と命令すればいいだけ。」

これを聞いたドロシーは仲間に別れを告げ、教えられた方法でカンザスへ飛んでいくのですが、その途中、銀の靴が脱げてしまい、強い魔力を持つ銀の靴は、オズの国を取り囲む砂漠の中に永遠に消えてしまいます。

つまり、彼女を助けた銀の靴=銀貨の自由鋳造と置き換えれば、こうした世直し手段もまた、どこかへ行ってしまった、という解釈ができるわけです。

これが、このオズの魔法使いが、この当時のアメリカ経済に関する寓話とも解釈される、といういわれです。

こうした解釈によれば、ドロシーこそが、この当時のアメリカの「伝統的価値観」なのだそうで、これは銀本位制の推進こそが民衆を助けると主張する民主党の考え方そのものと考えることができます。

また、3人の同行者のうち、カカシは農民、ブリキマンは、工場労働者、臆病なライオンは1896年民主党大統領候補のウィリアム・ジェニングス・ブライアンだとされます。そしてドロシーたちを苦しめる、西の悪い魔女:第25代大統領ウィリアム・マッキンリーは共和党、また魔法使いもこの当時の議会における議長、共和党のマーク・ハナです。

極め付けは、「オズ」の意味は、金の単位オンスの略号(OZ)というわけで、「オズの魔法使い」は、「錬金術師」とも解釈できます。結局ドロシーは最後に、家に帰る道を見つけますが、この説では、それが「黄色いレンガ道」ではなかった、というところが強調されます。

黄色いレンガ道をたどる方法ではうまくいかなかった、ということで、すなわち金本位制は崩壊する、というのがこの物語の結末だ、というわけです。

しかし、実際には1896年の大統領選挙では民主党は大統領選挙に敗れ、金本位制は維持されることになりました。銀本位制は結局導入されなかったのですが、しかし、その後1898年にはアラスカで金が発見され、また、カナダや南アフリカの金の採掘量も増え、結果的に貨幣供給量は増大しました。

この結果、デフレは解消されてインフレ傾向となり、農民は借金を容易に返せるようになりました。銀の靴は、砂漠の中に消え去りましたが、ドロシーは無事にカンザスの家に戻ることができた、というわけです。

もっとも、ボームに関する伝記作家や研究者は、この物語にそうした政治的解釈ができる、という点には否定的です。また、ボーム自身は政治的に無関心な人だったといい、こうした比喩による現代風刺にも興味を持つような人ではなかったといわれており、オズの魔法使いの序文でも「ただ今日の子供を喜ばせる為に書いた」と書いています。

ちなみに、くだんの「黄色いレンガの道」に関しては、由来となった建物がボームの別荘があるミシガン州内の公園に実在するそうです。

現在の日本もこの時代のアメリカとかなり似たような状況であり、もしかしたら、銀の靴を見つける、あるいはこの黄色いレンガ道を辿れば、問題の打開の道がみつかるのかもしれません。

もっとも、その道を辿っていってもけっして金鉱には辿りつかないでしょうが……

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