タイタニックの人々

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今日は、103年前にイギリスの豪華客船「タイタニック」が沈没した日です。

当時世界でも最大級の客船が起こした事件であり、多数の犠牲者を出したことで史上最悪の海難事故といわれ、また処女航海でもあったことから、一層センセーショナルな受け止め方をされ、今日に至っています。

このブログでも再三とりあげ、もう新しく書くネタもないな、というくらいなのですが、史実を調べていくといまさらのように色々と知らなかったことも出てきたりして、ついつい深入りしてしまいます。

なぜそれほどまでに惹きつけられるのかについて考えてみたのですが、ひとつには、船の沈没という異常事態において、限られた短い時間の間にこれに対処しようとする人それぞれの生き様のようなものが浮き彫りにされること。

そこで取った行動は後世の人には様々に受け止められ、批判にもつながるようなものもある一方で、賞賛されるような英雄的な行為もあったわけですが、それぞれがそれまで生きてきた中で培った判断基準に基づく行動をとったわけであり、良かれ悪しかれ、そこにはその人の人生が凝縮されているように感じます。

あるいは、何かをしようと思ったものの、何もできなかったという人も多かったと思われ、生死を分ける瞬間にどういった時間がどの程度与えられたかによって、その人のそれまで生きてきた価値のようなものが神様に試されたような気もするわけです。

さらに、豪華客船だけにその当時一流と言われた人々が乗船していた一方で、船底に近い三等船客室には、アメリカに移民することで新たな道を切り開こうとしていた貧しい人々もおり、そうした身分の差を超えていかに人間的な行動をとったか、とれなかったか、なぜとらなかったのか、といった時代背景的なところにも興味がわきます。

ジェームズ・キャメロン監督が製作した映画、「タイタニック」はそうしたこの当時の身分差を超えた恋愛を中心とし、生死の境の場でその時代の人々がどう生きようとしたか、あるいはどう死んでいこうとしたかを見事に描き切った、ということでその当時高い評価を得ました。

私もその昔この映画をみて本当に感動したのですが、今日改めてそうした生死の狭間にあった人々がどう行動したかについて、少し整理してみようかと思います。とはいえ、膨大な人々がいる中でのことであり、どういった人を取り上げるかについてはそれこそ私自身の「判断基準」によって選別ささせていただくことにしましょう。




まず、やはりこの船を沈没に追いやった最大の責任者ということで、船長のエドワード・スミスをみてみましょう。

この人は、イングランド中部のハンリーというところで、陶芸家の父の元に生まれたという経歴を持ち、それほど上流階級の生まれというわけではありません。13歳の時に既にリバプールで船舶の仕事に就いており、その後船舶関係の仕事で研鑽を重ね、30歳でタイタニックを保有するホワイト・スターライン社に入社しました。

入社時してすぐに四等航海士となり、その後、会社のオーストラリア航路やニューヨーク航路に勤務し、瞬く間に昇進を重ねていき、37歳で蒸気船リパブリックの船長となると同時に英国海軍予備役大尉となりました。これは、戦争の際には英国海軍の一員として活動することを求められうることを意味していました。

40代からはより大型船の船長を務めるようになり、45歳から9年間はブルーリボン賞を受賞したこともある高速客船、「マジェスティック」の船長を務めました。この間、イギリスとオランダ系ボーア人が南アフリカの植民地化を争った第二次ボーア戦争が始まると、スミスはマジェスティックとともに徴用され、南アフリカへの軍隊の輸送にあたりました。

この時の南アフリカの植民地、ケープへの2回の航海では何も事件が発生せず、スミスはこの輸送で1903年にエドワード7世から「Transport Medal」を授かっており、ここでスミスは「安全な船長」という評価を受けることとなりました。

しかし、3回の座礁、3回の船内火災と、決して無事故ではなかったといい、このころからもう既にどうも船長としての資質の何かを欠いていたフシがあります。

スミスは、やがてその先任順位が上がるにつれて、乗客や乗組員から穏やかで華麗だという評価を得るようになっていきましたが、54歳になったころにはホワイト・スターライン社の他の全ての船長から報告を受ける立場の先任船長の立場となりました。

乗客の中には大西洋を横断する際にはスミスの船を選ぶ者もでるほどになり、また、イギリスの上流階級から、自分たちの乗る船の船長をスミスにしてくれという要求などもあり、「大富豪たちの船長」として知られるようになりました。

先任船長となって以来、新しい船が出来上がった際の処女航海で舵を取ることは決まった仕事となり、当時世界最大であったホワイト・スター社の客船バルチックや大型客船アドリアティックの処女航海を担当しましたが、特段事故は発生しませんでした。

アドリアティックの船長時代、スミスは予備艦隊から永年勤続表彰を受けるとともに、中佐に昇進しています。ますます評価は高まっており、世界で最も経験豊かな船長の一人という名声を築き上げていきました。

そこで、ふたたびこの当時世界最大の船の最初の船長のお役目が回ってきます。それがタイタニックとともに姉妹船として建造された「オリンピック級」の客船「オリンピック」でしたが、そのリバプールからニューヨークに向けての処女航海においても初代船長としの役割を担いました。

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この任務はほぼ無事終了しました。しかし、この航海では、ニューヨーク港に接岸する際、12隻のタグボートのうち1隻をオリンピックの船体に衝突させてしまっており、これは右舷スクリューが発生させた後流によってこの船が翻弄されたためでした。また、その3カ月後にオリンピックはさらに大きな事故を起こしました。

イギリス海軍の防護巡洋艦ホークと衝突し、このときホークは船首を破損し、この衝突でオリンピックの防水区画のうち2つが破壊され、プロペラシャフト1つが折れ曲がりました。オリンピックは自力でサウサンプトン港に戻ることができましたが、海軍側はこの事故がオリンピックが巨大であったことによる吸引力が原因だと主張しました。

この事件の最中、スミスはブリッジにおり、その一部始終を指示する立場でした。このとき姉妹船のタイタニックはまだ建造中でしたが、オリンピックのこの事故により、タイタニックに取付ける予定だったプロペラシャフトの一つをオリンピックに使うことになり、このためタイタニックの完成を遅らせざるをえなくなりました。

このため、タイタニックの処女航海は予定より20日ほど延期となりましたが、こうしたトラブルにも関わらず、タイタニックがサウサンプトンから処女航海に発つ際に、スミスは再び船長として徴用されました。

このときスミスは既に62歳になっていましたが、出航当日もスミスは外套に山高帽という普段の服装で自宅からタクシーでサウサンプトン港に向かい、午前7時にタイタニックに乗り込みました。

しかし、その12時の出発の際にもその先を案ずるようなちょっとした事件がありました。この港に係船されていたシティ・オブ・ニューヨークという客船が、タイタニックが通過する際のスクリューの水流に巻き込まれ、係留具が外れてタイタニックに向かってしまったのです。

このときはスミスの迅速な指示により間一髪で衝突は回避されましたが、こうした似たようなことを再三繰り返してきたことをみると、エドワード・スミスという人は、やはりどこか船長としてどこか抜けていたのではないか、と想像してしまいます。

自身の操船の技術そのものは優れていたかもしれませんが、部下に安全に船を運航を指示する、あるいはそういう組織を育て上げるといった能力に欠けていたようにも思われます。管理技術者として人の上にたつための何かが足りなかったのではないかと思わざるを得ません。

サウサンプトン港出航の直前にはこんなこともありました。このとき前任の航海士が後任の航海士と入れ替わるという人事異動があり、異動となった前任の二等航海士が、双眼鏡をキャビンにしまったことを後任の航海士に引き継がないまま下船してしまいました。

このため、この二等航海士用の双眼鏡はその所在を知らないまま出向するところとなりました。双眼鏡による監視は二等航海士による専任作業であり、このため、タイタニックはその後の航海においてその進路における周辺の監視を双眼鏡を使わずに肉眼で行うしか方法がなくなります。

些細なことかもしれませんが、そうした人事に伴う大切な備品の引き継ぎなどについても組織としてきちんとした管理が行われていれば、そうしたことはおこらなかったはずであり、そうした管理面でも最高責任者としての船長スミスの力量が問われていたわけです。

この双眼鏡がなかったということは、その後の事故の直接的な要因とはいえないにせよ、その後の沈没原因の究明にあたっては疑義の対象となりました。

タイタニックは、出国直後から、たびたびその航路における流氷群の危険性が、無線通信で警告されていました。この危険性はスミス船長も認識しており、航路を通常より少なくとも18㎞南寄りに変更していたようです。

問題の海域である北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りは、多数の氷山を肉眼で発見していましたが、タイタニック号が問題の氷山に遭遇したころは海面には靄が漂っていました。

このときの当直見張員フレデリック・フリートという人物でしたが、上述のとおり、二等航海士から手渡されるはずの双眼鏡はなく、遠望はできない状態でした。

こうした靄があるような状態では双眼鏡は役に立たなかった可能性もあるわけですが、いずれにせよタイタニックのような大きな船の航海において、その目ともなりうる道具を備えていなかったという点は、当然、非難されるべき点でしょう。

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とはいえ、夜でもあり双眼鏡があっても視界はまり効く状態ではありません。月のない星月夜でもあったため、氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときには手遅れでした。

1912年4月14日23時40分、タイタニックは北大西洋で氷山に衝突します。船は2時間40分後の15日零時20分ごろに沈没し、約1,500人が命を落としましたが、スミス船長もまた亡くなった者の一人でした。

この氷山への衝突から沈没までの船長としての対応については、素早い救援要請を行い、脱出、救命のための指示などについても比較的迅速でした。が、一方では、1等船客を優先して避難させたことについては後年、大きな批判の声が上がりました。

沈没が差し迫ったタイタニックでは、スミス船長の指示により、左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードック1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮しましたが、彼等は1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行ったものの、それより下層の船客にはほとんど避難誘導を行いませんでした。

また脱出するためのボートが不足していた点についても被害者が増えた大きな原因です。これは会社側の責任ともいえますが、船を運航する安全管理者として、事前に会社に対して船長であるスミスから何も主張がなかった点も非難されてしかるべきでしょう。

さらに沈没までの時間の推定についても読みが浅かったといったことが指摘されているようであり、「不沈船」とも称されたこの大型客船の安全性に対しての驕りがあったことに対しては疑いようもなく、現在なら、生きていれば当然のようにその責任が問われたでしょう。

しかし、従来の慣例通り船と運命をともにしており、この点、昨年韓国で起きたフェリー事故の船長や、これ以前におきたギリシャの客船の船長のように自分だけ脱出するといった卑怯な行為は見られず、多少なりともその汚名をすすぐことができたのでは、という見方もあります。

タイタニックが沈んだ際、スミスがどのように亡くなったのかについては諸説があるようです。数人の生存者たちは、救命胴衣を身に付け海中にいるスミスを目撃したと証言している方で、オープンブリッジに浸水が及ぶ中、操舵室にいるスミスを見たという証言もあります。

また、沈没の10分前にあたる午前2時13分にスミスがブリッジに入っていったと証言している人もおり、最上階のデッキプロムナードまで戻ったスミスが、その直後に窓が割れて船内の大階段に向けて吸い込まれていくのを見たという証言もあります。

その死の瞬間がどうであれ、このときスミス船長はそれまでの人生をどう思ったでしょうか。その人生最大の失敗をしてしまったことについて、悔いるには十分な時間があったと思われますが、何を思いその瞬間を迎えたでしょうか。

エリート船長としての栄華とともに、その中で犯してきた数々の失敗を思い出し、それを悔いつつ迎えた死であったのかもしれません。

スミス船長以外にも自らの意思で船上に残り殉職した乗員も多く、沈没までの時間をいかに過ごしていたのだろう、自分だったらどうしただろう、などとついつい考えてしまいます。

一方では船員の多くは、乗客たちを脱出されるのに忙しく、皆それぞれが自分が与えられた立場においてその職責を十分に果たせたかどうかも考える余裕もなく、海の中へ消えていったと思われます。

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この事故で亡くなった乗客側においても数々のドラマがありました。船と運命を共にした人の中には、スピリチュアリズムの開拓者であり、沈没を予言していたといわれるジャーナリストのウィリアム・トーマス・ステッドなどもおり、この人物については以前のこのブログ、憑いてますか?でもその生涯について書きました。

このほか、ブルックリン橋を完成させたことで知られる土木技術者・ワシントン・ローブリングの甥のワシントン・オーガストス・ローブリング二世とか、ドイツ出身のアメリカの実業家で後に百貨店のメイシーズを買収して世界的な百貨店に育て上げ、アメリカ下院議員も務めたイジドー・ストラウスといった人もこの事故で亡くなっています。

また、一等船客の女性で、他の女性に救命艇の座席を譲って船と運命を共にしたエディス・エヴァンズといった女性もいます。

独り身で旅をしていたエヴァンズには、付き添いの男性がおらず、エヴァンズと同じく1等船客で戦史研究家として知られ、後に生還を果たしたアーチボルト・グレーシー大佐という軍人がいました。彼は、エヴァンズと船内で語らっていたとき、彼女が数年前ロンドンで「水に気をつけるように」と占い師に言われたと語っていたことを証言しています。

二人はともに他の人々を思い遣ることができるタイプの人達であり、事故発生後も他人の避難を優先し、最後に乗る予定だった救命ボートも、降下の準備ができていたものの、エヴァンズとブラウンの両方を乗せる余裕はなく、どちらか一人しか乗船できませんでした。

このとき、エヴァンズは渋るブラウンに何度も「家でお子さんたちが待っているのだから、先にお行きなさい」と勧めたといい、この救命ボートはグレーシー大佐だけを乗せ、エヴァンズを船上に残したまま離船しました。

そのほかにも沈没の最後まで聖書を朗読し続けた神父、甲板上で音楽を奏で、最後の瞬間まで乗客の不安を和らげようと尽力したバンドの面々、船底に近い三等客室から必死で脱出の努力を続けた船客などなど、生と死の狭間でが繰り広げられたであろうドラマの数々を想像するにつけ、心が痛みます。

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このタイタニックには、日本人も乗船しており、これは細野正文という、明治期の鉄道官僚でした。ミュージシャンの細野晴臣は孫にあたります。

細野氏は、1912年、第1回鉄道院在外研究員としてのロシア・サンクトペテルブルク留学の帰路の際、タイタニック号に日本人ではただ1人乗船していたのですが、タイタニック号の沈没ののち、「他人を押しのけて救命ボートに乗ったとの白人男性の「証言」を元にしたとされる誤報が流れました。

この話はすぐに日本国内でも広まり、新聞や教科書で社会的に大きな批判を集めることとなりましたが、ご本人は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えました。弁解しなかった理由は武士道精神と考えられています。

しかし死後の1981年になって彼が救助直後に残した事故の手記が発見され、映画「タイタニック」が公開された1997年に手記等の調査から人違いであることが確認されて正式に名誉回復がなされました。

このほか、この当時生後19ヶ月だったイギリス生まれの男の子は、両親や兄姉たちとともにタイタニック号に乗船して、事故に遭い彼を含む一家全員が死亡しました。その後、長い間「身元不明児」(The unknown child)と呼ばれていましたが、その身元が判明したのは、事故から1世紀近く経過した2007年になってからでした。

映画「タイタニック」ではこうした実在の人物だけでなく、主人公のジャック・ドーソン こと、レオナルド・ディカプリオやローズ・デウィット・ブケイター こと、ケイト・ウィンスレットなどの架空の人物が多数登場しました。

無論、そうした史実はないわけですが、映画の最後のほうでは、この「ローズ」という人物が事故後にアメリカに渡り、有名女優になった、といった描かれ方がされています。

キャメロン監督はとくに言及していませんが、私はこの「ローズ」というのは、生存者のひとりである、「ドロシー・ギブソン」という人物がモデルであったのではないかと思っています。

ニュージャージー州ホーボーケン生まれの彼女の家は貧しく、17歳くらいから歌手やダンサーとしてさまざまな劇場やボードヴィルの舞台に立つようになりました。20歳のころにはモデルの仕事を始めましたが、同じ年にメンフィス生まれの薬剤師と結婚しました。

結婚後もモデルなどの仕事を続けていましたが、その後徐々に人気が出始め、彼女の姿を描いたイラストは、さまざまなポスターや絵葉書、本の挿絵に使われるようになりました。更に「コスモポリタン」「レディース・ホーム・ジャーナル」といった著名な雑誌や新聞のカバーイラストなどにも採用されるようになり、その名は広く知られるようになりました。

その後この夫との仲は冷え切り別居に至りますが、22歳ころからは映画界入りし、パリを拠点とするエクレール・スタジオの主役級女優として雇用されました。まもなく、ここでもその自然で繊細な演技が賞賛を受けるようになり、とりわけ短編映画ではコメディエンヌとしての魅力を発揮して、映画スターの一人と認められるようになりました。

1912年、当時22歳のドロシーは母ポーリン(当時45歳)とともに、6週間の休暇をイタリアで過ごし、休暇の終わった後、ニューヨークで新たな映画シリーズの撮影に入る予定でした。2人はシェルブール港からタイタニック号に1等船客として乗船し、そしてこの事故に遭遇しました。

事故当時、ドロシーと母は、同じく1等船客だった乗客と一緒にラウンジでトランプ遊びを楽しんでいたといい、彼等とともに7番救命ボートに乗り込んで脱出し、生還を果たしました。この事故の後、ドロシーは自ら脚本を執筆して、事故発生から1ヵ月後に公開された映画“Saved from the Titanic”に主演しました。

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この映画はアメリカのみならずイギリスやフランスなどでも大成功を収め、この成功によって、ドロシーは一躍ドル箱スターの座に着きました。しかし、その人気絶頂の中映画スターとしての一線を早々に退き、声楽家としてのキャリアを模索するようになります。

その後、声楽家としてもそこそこ成功し、ニューヨークのメトロポリタン・オペラハウスなどでも活躍しました。が、イーストマン・コダック社の大株主でユニバーサル・ピクチャーズの共同創立者でもある、映画界の大立者ジュール・ブリュラトゥールとの不倫などが発覚するなど何かと私生活では波乱が続きました。

前夫とは離婚し、二人はその後結婚しましたが、すぐにまた離婚。38歳のころ、一人身になったドロシーは、パリに移住しました。第2次世界大戦中にはナチスのパリ占領にもかかわらずレジスタンスとして活動すべく残留しました。が、2度にわたって敵性外国人として逮捕され、一度は収容所から脱走を果たしています。

しかし、2度の逮捕や脱走などは、ドロシーの健康を大きく損ない、57歳のときパリのホテル・リッツに滞在中、心臓発作を起こして死去しました。タイタニックの事故から31年後のことでした。

遺体はパリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーにある墓地に埋葬されています。映画「タイタニック」の主人公とは少し異なる一生でしたが、これはこれで十分に映画にもなるような、ちょっとした物語として本にでもなりそうな、そんな人生でした。

映画「タイタニック」では、「ローズ」ことこのドロシーと「ジャック」ことディカプリオ様との恋物語が中心として印象的に描かれているわけですが、もうひとり、この映画で印象的に描かれていた人物で、実在の人物がいます。

映画のほうでも、そのまま実名で登場しており、この人は、「マーガレット・ブラウン 」といいます。

劇中、新興成金で、上流階級である他の一等船客からは成り上がり者として見下されているものの、貧乏人であるジャックが上流階級のパーティに出席する際に、彼女は息子の礼服を貸し出したり食事のマナーを耳打ちしたりしてジャックを陰から支える、という役柄で登場しました。

演技派女優であるキャシー・ベイツがこれを演じ、なかなかの見せ場を作りました。タイタニック沈没の時に救命ボート上で救助のため引き返すのを主張した乗客は彼女だけだったという設定でしたが、実際にもこの話にかなり近い行動をとっていたようです。

事故後、“The Unsinkable Molly Brown” とアメリカ国内で呼ばれるようになり、これは邦訳で「不沈のモリー・ブラウン」とされています。が、ここでのUnsinkableは、不沈の船といわれたタイタニックへの掛け言葉であり、「鉄の女」というほどの意味です。その後の人生でも不屈の精神により数々の慈善事業を成し遂げたため、こう呼ばれたわけです。

映画でもそう描かれたように、タイタニック号沈没事故の際、生存者捜索のため救命ボート6号を戻し、女性生存者の代表者格として有名になりました。その前半生は貧しかったものの、ある幸運から後半生ではこれを跳ね返すようなアメリカンドリームを体現してみせたことで、この当時のアメリカ国内ではかなり英雄視された人です。

ミズーリ州ハンニバルで、アイルランド移民の父母との間に生まれたマーガレットは、18歳のときコロラド州のリードヴィルという田舎町に姉妹とともに移り住み、デパートメントに職を得ました。金持ちと結婚する、というのが願望でしたが、実際に結婚したのはジェイムズ・ジョゼフ・ブラウンという、しがない鉱山技師でした。

しかし、夫のジェイムズは、進取に富んだ気性で、独力で勉強をし、自らの鉱山技術に磨きをかけました。その努力は実を結び、あるとき、ジェイムズの開発した技術が、堅固な原鉱に割れ目を入れるのに役立つことが証明されます。

彼が勤める鉱山会社の雇用主もこれを認め、自らが経営する鉱山でその技術を役立てるべく、資本金から12,500株をジェイムズに譲渡することを決め、理事の席を提供しました。

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こうして鉱山からの利益で次第にジェイムズ一家は豊になっていき、その中でマーガレットは、女性の権利獲得に情熱を燃やすようになり、国立アメリカ女性参政権協会のコロラド支部の設立を助けるようになりました。

しかし、貧しい家庭に育った中でもクリスチャンとして親に厳しく育てられたマーガレットは、富裕層にありがちな高慢さなどはみじんほどもなく、夫の鉱山の鉱夫の家族を援助するスープ・キッチンで働くなどの庶民派であり続けました。

27歳のとき、一家は大都市であるデンバーに引越しますが、これによりさらに社会福祉の好機を得るところとなり、マーガレットはデンバー女性クラブの創立メンバーとなり、成人教育と慈善を通して、女性の生活の改善・解放を叫ぶ運動などにも身を投じるようになりました。

34歳のころには、ニューヨーク州のカーネギー研究所へ寄付をするなど科学研究の発展にも寄与するようになり、このころまでには社交界の女性の美々しい衣装にも順応し、芸術活動などにも没頭するようになりました。

勉強家だったようで、フランス語、ドイツ語、ロシア語にも堪能になり、42歳では、ついにアメリカ合衆国上院にも立候補しました。しかし選挙には落ち、また結婚生活23年目にして、夫とも非公式なら別居合意に達し、別々の道を歩むことになりました。が、離婚はせず、生涯を通じて互いを気遣ったといいます。

この合意によりマーガレットは示談金を手にし、現在博物館にもなっているデンバーの自宅も所有し続け、また旅行や慈善活動を続けるための費用を、月に700ドル受け取ることができました。そうした豊富な資金を惜しげもなく慈善活動に投じ、この資金によりデンバーの「無原罪聖母大聖堂」を1911年に完成しています。

さらには貧しい子供たちを助け、アメリカ合衆国初めての少年裁判所の設立に努め、近代的な少年裁判所のシステムの基礎確立を支えました。また、このころから、フランスでも人権運動などにも参加するようになっていたようです。

その関係で訪れたフランスから一旦アメリカへ帰国しようと乗船したのがタイタニックでした。マーガレットはフランスのシェルブールから、SS ノマディックという客船によってサウサンプトンまで行き、ここで旅客船タイタニックの一等船客となりました。

彼女はこのとき45歳でしたが、氷山に衝突して沈没寸前のタイタニックからの脱出の際にも博愛精神を発揮し、他の乗客が先に救命艇に乗り込むのを助け、自らの乗船は最後まで固辞していたといいます。

しかし、最終的には救命艇6号に乗って船を離れることを承諾します。離船後、この救命艇を指揮していたのはロバート・ヒッチェンズという操舵員でしたが、マーガレットなどの乗員が水に落ちて叫んでいる人々を救うために返すように促しても、彼はボートで沖へ出るのをやめようとしませんでした。

「戻っても無駄です」の一点張りを繰り返す彼に業を煮やしたマーガレットは、「乗員たちに暖を取らせるためです。オールを私たちに渡しなさい。」と、漕ぎ手を水夫たちから乗員たちに代えるよう要求しました。しかしそれでも尻込みする彼をみていたマーガレットは、ついに彼を無視して自らオールを奪い取り、乗客たちに渡し始めました。

彼はこれを見て驚き、抗議の言葉で彼女を口汚くののしり始めました。これに対して彼女は、「そこにじっとしていなさい。さもなければ海中に彼を放り投げるわよ」とやり返しました。これを見ていた他の乗客もようやく彼女に賛同を示すようになり、口々に、そうだ、静かにしていろ、と言い、水夫からオールを奪い、自らが手に手にこれを持ち始めました。

それでも彼が文句を言ったのに対してマーガレットは、”Don’t you know you’re talking to a lady?” と静かに言い放ったといいます。直訳すれば、「あなたは、女性と話しているということを知りませんか?」ですが、これは、「それがレディに対する礼儀なの?」というふうに意訳できると思います。

日本語ではその雰囲気が伝わりにくいものの、これはある種凄みの利いた恫喝です。

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後年、こうしたやりとりが新聞で発表されるようになったときには、さらにこれに脚色が加えられ、彼女をさらに英雄に祭り上げるような書き方にされていったと考えられますが、いずれにせよ、こうして彼女は豪華客船の沈没という悲劇的な事故におけるヒロインとして人々に印象付けられるようになりました。

マーガレットはその後、カルパチア号に救助された際も、女性乗客の間でリーダーシップを発揮したといい、その後の慈善活動において、その評判は非常に役立ちました。彼女が勝ち取ろうとしていた労働者と女性の権利や、子どもの教育の推進において、彼女の名声がモノをいったわけです。

タイタニックの沈没から10年後の1922年には、夫のジェイムズが亡くなりました。このときマーガレットは、「彼ほど高潔で、心の広い、すばらしい男性はいなかった」と語っています。夫婦の間には2人の娘がいましたが、33歳と35歳になっていたこの子らとは、夫の財産の継承をめぐって5年間争うことになりました。

二人は非常に浪費癖があったといい、彼女にすれば忸怩(じくじ)たる思いがあったでしょう。しかしこの裁判の結果は彼女にとって不利なものとなり、マーガレットは現金と証券とでたったの20,000ドルだけしか受け取ることができませんでした。

が、ほかに100,000ドルの信託財産の利子が彼女の名で用意されました。これは現在の日本円の価値に換算して3億円あまりです。

とはいえ、富豪といわれた往時に比べればこの額はあまりにも少なく、残りの多くの額は2人の子供が受け取ることになりました。マーガレットはこれ以降亡くなるまで、この2人に会うことはなかったといいます。

その後、マーガレットは、第一次世界大戦で荒廃していたヨーロッパにおけるアメリカ人支援などの活動に参加するために再度フランスに渡りました。フランス人やアメリカ人兵士の傷病者を助ける運動を続けていましたが、アメリカでの慈善活動を含め、そうした一連の活動が認められ、フランスのレジオンドヌール勲章が授けられました。

人生最後の数年間は、女優業にも取り組んでいたといい、最後の最後まで活動的な女性でした。1932年、タイタニックの沈没からちょうど20年を経たこの年、睡眠中の発作により死去。65歳でした。その遺体は、ニューヨーク州ウェストベリーのホリールード墓地に埋葬されています。

その死は世界大恐慌の間のことであり、先に裁判で父親から財産の贈与を受け取っていた2人の娘は、さらに浪費を繰り返していたのか貧窮しており、彼等はマーガレットの財産をたった6,000ドルで売却したといいます。

マーガレットはその生前、夫のジェイムズ・ブラウンと結婚したときのことを述懐してこう語っていたそうです。

「お金持ちと結婚したかったけれど、私はジェイムズを愛しました。私は父を楽にさせてやりたかったし、疲れて年老いた父にしてやりたかったことをかなえてくれる男性が現れるまでは、ずっと独身でいようと決心していました。」

「ジムは私たちと同じくらい貧乏だったし、チャンスに恵まれた人生を送っていたわけではありません。私はその頃、激しく葛藤していました。私はジェイムズを愛していたけれど、彼は貧しかったのです。」

「最終的に私は、富で自分を惹きつける男性とではなく、貧しくても愛する男性と過ごすほうが幸せだという考えに至りました。だから私はジェイムズ・ブラウンと結婚したのです。」

けっして損得を考えて行った結婚ではなかったでしょうが、その結婚とその後のタイタニックの事故をきっかけに英雄視されるようになっっていったその一生を彼女がけっして計画していたものではなかったことが、これからもわかります。

人の一生というものほど摩訶不思議なものはない。いつにもましてそう思う次第です。

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からだが痛い……

2015-0855筋肉痛です。

昨日、この別荘地の樹木の伐採の行事があり、温泉管理組合の理事としてこれに参加したのですが、この冬の間の運動不足が祟り、夕方作業を終えるころには、満身創痍の状態となりました。

夜は温泉に浸かり、早めに就寝したのですが、今朝になってもあちこち痛く、いまさらのように加齢したことを恨めしく思ったりもしています。

しかし、まてよ……歳をとると筋肉痛はすぐには発生せず、時間が経って翌日ぐらいから痛くなる、とよくいわれるじゃないか、と思ったわけです。

だとすると、当日すぐに痛くなったということは、まだまだ若いからじゃないか、と思い直し、少し喜んだりもしたわけです。が、それにしても、本当に加齢により筋肉痛の発生が遅くなるということが定説なのでしょうか、調べてみる気になりました。

すると、結論からいえば、加齢による筋肉痛のピークの遅れはないとするのがむしろ定説のようです。というか、そうした研究結果が多いとされる段階だそうで、筋肉痛が発生するメカニズムに関してはまだよくわかっていないことが多いといいます。

ただ、よく言われるのは、運動で生じる「乳酸」の一部が筋肉中の毛細血管に溜まり、これが筋肉への酸素供給を阻害して鈍痛を引き起こす、という説です。とはいえ、一般的な伸張性運動の場合でも、血液中の乳酸値が運動後比較的速やかに下がってしまうことなどが観察されていて、その矛盾が指摘されているようです。

また、運動により、筋線とその周りの結合組織の損傷するため、その回復過程において炎症を起こし、この際に発生した発痛物質が筋肉を覆っている「筋膜」を刺激する、という説もあるようです。が、これについても実際にどのようなメカニズムで炎症を起こしているのかについては、詳しいことがわかっていないといいます。

ただ結合組織の損傷の回復の度合いが加齢と関係する、という説もあるようです。損傷個所を治すということは、その壊れた箇所に血液が集まるということです。血液には細胞の損傷を癒してくれる成分が含まれているからですが、そのために鬱血が生じます。

ところが、回復されるべき細胞そのものが、加齢とともに衰えているため、せっかく血液がそこに集まってもその回復には時間がかかる、というわけで、それがゆえに加齢によって筋肉痛になるのが遅くなる、ともいわれます。

とはいえ、この説もはっきりとした根拠はないといい、つまりは、「2日も経ってから筋肉痛になっちゃってさ~」、「えっ、それって歳喰ったってことじゃねーの」といったふうな会話は、お天気の話題と同じであり、日常の挨拶のようなものと考えておくぐらいがいいようです。

筋肉痛の発生が人より遅いからといって、「歳を取った」と卑屈になる必要はないというわけですが、これだけ医学が発達しているのに、筋肉痛の原因すらもわからんのかい、と突っ込みたくもなります。

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ただ、筋肉とその周りの結合組織の接続が壊れて何等かの炎症を起こしたものが筋肉痛であるというのは一般的な認識のようで、その回復方法としては、色々なものが実践され、効果がある、と認識されています。

例えば、冷やす、という単純な方法であり、また時間をかけて安静にする、入浴などで筋肉を温めるといった方法であり、これは「消極的休息」といいます。このほか、軽度の運動やストレッチングなどで血行をよくする、という考え方もあり、これは「積極的休息」といいます。

とはいえ、「筋肉」と一口にいうものの、人間の体には600を超える筋肉があるそうです。このうち、こうした筋肉痛の原因になるのはどれかといえば、「骨格筋」と呼ばれるものが主です。人間のこのほかの筋肉としては、平滑筋と心筋があり、平滑筋は血管や膀胱、胃・小腸・大腸などにある筋肉で、心筋とは心臓にある筋肉です。

これに対して骨格筋は、文字通り骨格を動かすための筋肉であり、これはさらに、「体幹筋」と「体肢筋」に分けられます。後者はいわゆる手足などの四肢を動かすためのもので、昨日の作業で私が痛みを感じているのは主にここの筋肉です。

一方、体幹筋というのは何かといえば、手足や頭、首を除いた胴体の部分についている筋肉です。骨格を補助して内蔵を保持する役割や、骨格筋の運動時のバランスをとる役割があり、腹筋や横隔膜、僧帽筋などが我々が良く知る体幹筋です。

普段はあまり意識していませんが、この筋肉が弱ると運動が不安定になるほか、肩や腰などの痛みを発症しやすく、歩く、座るなどの日常生活においても何かと不便が出てきます。

この体幹筋を普段から鍛えておくということは、四肢の筋肉痛の予防としても効果があるようで、これはいわゆる「体幹トレーニング」などにおいては、体幹の筋肉と同時に四肢の筋肉、大肢筋をもそれなりに鍛えることになるからです。

どんなトレーニング法があるか、については「体幹トレーニング」とネットで引いただけで、ゴマンとその手法が出てくるので改めてここでは書きませんが、これを続けると、いろんなメリットがあります。

「基礎代謝がアップする」「体の軸がしっかりして、姿勢が良くなる」「基礎体力がつき、ハイレベルなトレーニングがこなせるようになる」などがそれであり、特に、姿勢が良くなると腰痛改善なども見込めます。

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ただ、日常の生活の中でこうしたトレーニングを継続するというのは結構億劫なものがあります。私などもジョギングやウォーキングならば毎日でも継続できるのですが、「トレーニング」と称したストレッチングの方法をわざわざ調べて実践する、というのはやはり面倒くさいものです。

しかし、こうしたジョギングや散歩でも、意識すれば体幹トレーニングになるといい、とくに走ることに関しては、「体幹ランニング」と呼ばれる走り方もあるようです。

特段難しいものではなく、走るときの重心を下半身に置くのではなく、重心を上半身に置いたまま、直立した状態から、頭からお尻まで一直線に保ちつつ、姿勢が曲がらないように、やや前傾に傾けて走るだけです。

イメージ的には一輪車を漕ぐようなイメージであり、一輪車ではスピードを出そうと意識し過ぎて、無理に足が先行して体を前方へ運ぼうとしてしまうと、重心が後方へ引きずられてしまいます。

重心を上半身に置き、頭からお尻まで姿勢を真っすぐに保ったまま、前傾に傾けながら走ると、重力に逆らわずにスムーズに体を前方へ移動させることができるようになり、これはバスケットボールをドリブルする時のイメージです。

ジョギングなどに慣れている人は知らず知らずのうちに、こうしたフォームを取っているため四肢のトレーニングをすると同時に体幹トレーニングもやっていることとなり、それゆえに、いったん走り終えるとまことに体調がよくなります。

以前、通っていた鍼灸院の先生がおっしゃっていましたが、時節こうしたジョギングなどを行い、四肢や体幹をトレーニングすることを「チューニング」というそうです。走ることによって体全体の筋肉が鍛えられと同時に血行もよくなりことを指し、体調が回復します。

チューニングのためだけなら毎日走る必要はなく、週1回程度でも効果があるようで、私の経験からすれば、2週間とはいいませんが、10日ぐらいは持続効果があるように思います。

試したことはありませんが、ウォーキングでも同様な効果があるようです。が、これもだらだらと歩いていてはダメで、上述のように重心の位置に気を配り、速足で歩くと良いようです。

毎日の体幹トレーニングがめんどくさい、と思う人はぜひジョギングなり、ウォーキングなりを試してみてください。体調のよくなること請け合いです。

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そもそも、こうしたジョギングなどの有酸素運動は、心肺機能を改善させ、体調を整えるために生み出されたもののようです。1967年に、アメリカ軍軍医の、ケネス・H・クーパーという人が、肺機能を改善させる運動プログラムを開発、これを “AEROBICS” と名づけて1967年に発表しました。

このプログラムでは12分間走により評価した体力区分と年齢をもとに各自に合った運動を実施する、といった形式ばったものだったようで、これが日本に入って来たときもどちらかといえばスポーツよりも医学的な治療方法として受け止められ、このとき”AEROBICS”が「有酸素運動」と訳されました。

ジョギングやウォーキングでは、体内の糖質や脂肪が酸素とともに消費されるためこう呼んだわけですが、これに対して、短距離走などの一気に短い距離を走る運動は、酸素を消費せずにエネルギーを発散するので、無酸素運動(Anaerobic)といいます。

有酸素運動を行うことによって多くの健康促進効果が期待できるとされ、これは、呼吸筋を発達させ、肺と外部との空気の循環、体内への酸素のとりこみをよりスムーズにする、といったことであり、このほか血液の循環をより効率的にし、また、平常時の心拍数を下げます。

さらには、骨格筋中の毛細血管の新生を促す、冠動脈疾患の危険性の減少、安静時の血圧を低下させる、血液中の悪玉コレステロールや中性脂肪を減少させ、善玉コレステロールを増加させる、体脂肪を減少させる、などなど良いことずくめです。

冠動脈疾患、高血圧、大腸がん、糖尿病、骨粗鬆症の発症率を低下させる、といった報告もあり、このほか不安や抑うつ感を軽減し、健全感を高めるなどなど、ここまでくると万能薬並です。

現在では、娯楽のひとつとも考えられるようになり、ジョギングする人をジョガー(Jogger)と呼ぶように、趣味の一環とも考えられるようになりましたが、そもそもはこの「走る」という行為の目的はまったく違うものでした。

古代メソポタミアやエジプト、それにマヤやインカでは、兵士を動かすための軍事目的であり、あるいは宗教儀式として結びついた「伝令」などが行った行為でした。王や神官もメッセージを伝えんがために走り、古代ギリシアでは、オリンポスの神々のお告げを人々に伝えるために彼等は走りました。

日本などの東洋でも、山岳信仰の修行僧が修業のために山々を走り回り、やがては懸賞金目当てに走るギャンブル・ランナーや走る姿を見せる芸人ランナーまで現れ、それらを否定する中から、アマチュアリズムが生まれ、そしてこれが近代オリンピックにつながってきました。

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それ以前の時代までは走るという行為は娯楽でも健康増進のためでもなんでもなかったわけであり、一昔前は、朝な夕なに自宅の周りを走る回ろうもうなら、頭のおかしい人、と思われても仕方がなかったでしょう。

現代ではどこへ行っても誰かがそこら中を歩き回り、走りまわっているわけですが、もし江戸時代の人がここへタイムスリップしてきたなら、あの人達は何をしているのだろ、といぶかしがるに違いありません。

あるいは走れば金になるのだろうか、と思うかもしれませが、無論ジョギングをしている我々もそれで金銭が得られるなど露ほどにもおもったりはしません。

が、アメリカではロードレースとしてのプロランナーを制度的に認めているそうで、このほか、北朝鮮やアフリカの某国などは、オリンピックなどで良い成績を収めることで、高額な金品を与える国もあるようです。

その他の国ではもはやランニングに関してはプロスポーツとみなしてこれをリーグ化するような動きはとくにないようですが、北朝鮮と同じく良い成績を出したものには、金銭与えるなど人参でもって選手達を発奮させようという行為はどこの国でもやっています。

日本でも先日、日本実業団陸上連合が、マラソン日本新に1億円を出す、と発表したことが話題を呼んだばかりです。

以前は「偽アマチュアリズム」と呼ばれたこともあり金銭のためにスポーツをやるなんて……と厳しく非難されたことが不思議でさえあります。

現在では普通にまかり通っていることに対して別に憤りのような感情はありませんが、その昔は悪とされていたものが、現在ではあたりまえとされているのをみると、やはりなんだかな~と思うのは私だけでしょうか。

現在は、オリンピック憲章からは「アマチュア(リズム)」という単語は削除されているそうで、世界的なスポーツ界の流れとしても、オリンピックなどの国際大会における純粋なアマチュアというものは事実上存在しないに等しい、というのが現状のようです。

スポーツをしながら飯を食っていくということは大変なことであり、アマチュアリズムというものがなくなってしまったことを否定するものではありません。が、馬の前の人参よろしく、金銭をぶらさげて選手を発奮させるという方法以外に、良い成績を取らせる方法は他にないものなのか、とついつい考えてしまいます。

それについての結論は今日はもう、筋肉痛がひどいのでヤメにします。プロスポーツでの成功を目指す方でこのブログを見た方で、良い方法があれば教えて頂きたいと思います。

とまれ、次には筋肉痛にならないよう、私もジョギングを再開することにしましょう。これからの新緑の季節のジョギングはまた楽しいものです。みなさんもご一緒にいかがでしょうか。

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山口~ゴア~パンプローナ

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今日は私の実家のある「山口市」の誕生日のようです。

戦前の1929年(昭和4年)4月10日、旧山口町と吉敷郡吉敷村が合併、市制が施行されました。

「郷里」と書きたいところなのですが、実際には生まれたのは愛媛県の大洲市なので語弊があります。が、育った広島以上にここで過ごした時間は濃く、小さな町でもあるので街の隅から隅まで知っています。

とはいえ、言ってはなんなんですが、ヘンな町です。

というのも、県庁所在地のある町としての人口の最下位を、同じく人口の少ない松江市と毎年のように争っており、20万人に届きません。そのくせ、国の中央機関と地方の中央機関の両方が置かれている行政都市でもあり、県内の文化の中心でもあります。

やたらに文化施設の多い市であり、県立図書館・県立博物館・県立美術館が整備され、その他大小の博物館や資料館などの箱モノがあちこちに点在し、周辺一帯は県内随一の文化・教育の一大拠点をなしています。さらに意外にも産業も活発で、山口市の年間商品販売額は山口県内第1位です。

しかも、山口県のほぼ中央に位置しており、山しかないのかと思いきや南端は瀬戸内海に面しており、北端は島根県と接しています。また立地的に不便なところかと思えば、山口県は道路網が整備されていることから、県内のほぼ全域から1時間30分以内で到達することが出来ます。

加えて、旧小郡町との合併により、山陽新幹線のルートもこの市域に取り込まれるようになり、「新幹線が止まる街」として最近は内外にアピールしているようです。

政令指定都市でもないのに、何から何までこれだけ集中している市というのは他に例はなく、強いていえば京都市がこれに近いのですが、こちらは人口150万に迫る大都市であり、比べようがありません。

ただ、歴史の町という点では共通点があり、盆地である点も京都と似ています。山口はよく「小京都」と言われます。応仁の乱以後には乱を逃れてきた文化人を歓迎したので大内文化が花開き、「西の京」として栄え、戦国時代には大内義興、大内義隆が市街を整備し栄華を極めました。

室町幕府10代・12代将軍の足利義尹(義稙)がこの地にいたこともあり、幕末には京都から追放されてきた7人の公家が在留したり、画聖ともいわれた雪舟もここで長期に渡り創作活動を行っているなど、この町に縁のある京都人はたくさんいます。

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ヘンな町、といいつつもそこらあたりが誇らしくもあるわけですが、さらにはこの地から維新の原動力となる数々の志士が排出されていったのは、それだけここには何でも揃っており、彼等を養う経済的な下地と土地柄があったことに他なりません。

確かに何からなんでもあって便利であり、住みやすいか?と聞かれれば、まぁYESと答えるべきでしょうか。県庁や市役所、警察や病院などほぼすべての公的機関が、わずか半径5kmほどの土地に網羅され、しかもこの中にデパートや中央商店街、都市銀行などがあり、大企業の支店も数多く存在します。

かといって、他の県庁所在地ほどごみごみはしておらず、歴史遺産が多いので散歩する場所には事欠きません。少しクルマを走らせればのどかな田園風景が広がり、30分ほどで海にも行くことができます。市内に中国自動車道のインターチェンジがある点もポイントが高いでしょう。

が、盆地であるがゆえに夏の暑さはハンパではなく、これが暑いのが苦手な私がここへ戻らない理由でもあります。が、ちょっとした文化的な生活もできる田舎町、といった場所をIターンでお探しの方には良いのではないでしょうか。おすすめします。

広島と福岡の中間地点にもあたり、ちょっとした買い物などはこちらへ行けばよく、またコンサートやスポーツ観戦を楽しみたい場合にもこれらの大都市圏が近いというところは大いにアピールするように思います。

……とこの街の事を書きながら、ウィキペディアで改めてこの市のプロフィールをおさらいしていたのですが、ふと目にとまったのが「姉妹都市」の項。中国の済南市や鄒平県、韓国の公州市などがそれなのですが、これは、戦前から山口市民もこれらの町に渡り、商取引をしていたためだと思います。

が、もうひとつ、スペインの「パンプローナ市」とあるのは何故なのでしょうか。

しばらく考えてみてすぐに思いあったのは、フランシスコ・ザビエルのこと。早速調べてみたところ大当たりで、ザビエルは、その昔スペイン北部にあった「ナバラ王国」の一都市であったこのパンプローナ郊外の「ハビエル城」で生まれていました。

生家は、地方貴族の家だったようで、19歳で名門パリ大学に留学後、23歳のとき学んでいた哲学コースの先生から強い影響を受け、聖職者を志すようになり、イエズス会に入会しました。

当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することを決めており、このときザビエルはこれに志願。30台後半はインド各地で宣教し、39歳のときマレーシアの港湾都市、マラッカにその宣教活動の場を広げました。

ここで、多くの人々をキリスト教に導きましたが、その活動がちょうど2年経ったころ出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)という日本人でした。これが縁で、ザビエルは翌1549年、自ら洗礼を与えたヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指しました。このとき42歳。

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一行は明を経由し、ヤジロウの案内でまずは薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、その後現在の鹿児島市祇園之洲町に来着しました。薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得たところ、これを許されます。が、その後この貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去ります。

ザビエル一行は肥前平戸に入り、ここで宣教活動を数か月行いましたが、さらに京を目指しここを出立。1550年には関門海峡を渡り、このとき始めて周防山口の地を踏みました。

周防の守護大名・大内義隆にも謁見しましたが、このときは男色を罪とするキリスト教の教えを大内氏がよく思わなかったため不調に終わり、いったんは宣教を断念。同年12月に周防を立ち、改めて京を目指しました。

ザビエルが京を目指した理由は、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るためでした。この当時の日本の統治をしていたのは、天皇家及び足利幕府であったため、ザビエルは後奈良天皇および足利義輝へ親書を送って拝謁を請願。しかし、これは実現しませんでした。

その理由としては、献上の品がなかったためといわれていますが、この当時の京都は室町幕府の権威失墜により荒れに荒れており、御所や幕府も異国人による布教?そんな奴らと会っている場合じゃない、といった状況だったようです。

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こうして京での滞在をあきらめたザビエルは、再び山口を経て、1551年、平戸に戻ります。本来は山口で改めて大内氏に布教を願う予定でしたが、京での経験から、何かを権力者に依頼するときは、賄賂が必要、ということを学んだからでした。

平戸に戻ったのも、ここに置き残していた献上品を取りに戻ったからであり、これを携え、三度山口に入ります。このときザビエルは既に45歳でした。1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観も重視されることを学習していたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上したといいます。

このときの献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであったと伝えられており、またザビエルは、初めて日本にメガネを持ち込んだといわれます。

これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めました。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えました。この大道寺というのがどこにあったのかを調べてみたのですが、これは、現在の山口市内東部にある自衛隊の駐屯地敷地のすぐ南側にありました。

もうすでに廃寺となり、この当時の遺跡等は何も残っていませんが、記念碑が建てられて「ザビエル公園」と呼ばれる小さな小さな公園になっているようです。無論、私も今初めて知った事実であり、この界隈にはよく行くのですが、気が付きませんでした。

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ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったといい、この山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師もいました。

彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会でも名説教家として知られ、精力的な布教活動を行うようになる「ロレンソ了斎」となりました。ロレンソはその後九州を中心に宣教活動を行い、その後織田信長から布教の許可を得ると畿内を中心に宣教活動を行いました。

琵琶法師として日本の伝統文化や仏教・神道の知識が深かったロレンソは、その知識を生かしてキリスト教を布教し、戦乱の世にあって救いを求め、キリスト教の教えを知ろうとした多くの人々の疑問に答えました。

当時の畿内や九州で多くの洗礼者が出たことはロレンソの布教活動に負うところが大きいといわれます。しかし、豊臣秀吉によるバテレン追放令を受けて九州へ戻り、長崎で亡くなっています。

そのロレンソを弟子としたザビエルは、その後、豊後府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をスペイン人の弟子たちに託し、この地へ赴きました。

ここでも守護大名・大友義鎮(後の宗麟)の保護を受けることができ、宣教を行いましたが、日本滞在が2年を過ぎるこのころから、インドからの情報が来なくなったことを気にしていました。

このころのポルトガル領インドの首府はゴアであり、アジアの全植民地を統治するポルトガルのインド総督あるいはインド副王が駐在しており、ゴアとリスボンの間には喜望峰経由の定期航路が開かれていました。多くのポルトガル人をアジアに送り出し、アジアの富をポルトガルに持ち帰っており、ローマ教会の大司教座も設置されていました。

ローマ教会において全アジアを管轄する中心となり、これを機にサンタ・カタリナ大聖堂という大伽藍が建設されたのもこのころです。ゴアはモザンビークから長崎に広がるポルトガル海上帝国の首府として「東洋のローマ」と呼ばれる黄金時代を迎えており、当時のゴアの人口は20万人に達していました。奇しくも現在の山口市と同じ規模です。

市内には壮麗な教会や修道院、総督府などの建物が立ち並んで、ヨーロッパの都市にも引けを取らなかったとされています。ゴアから何の連絡もなかったのは、日本以外のアジア諸国との商活動と布教が忙しく、船便を出す予定がなかったからにすぎませんが、そんなことは知らないザビエルは一旦インドに戻ることを決意します。

1551年11月、日本人青年4人を選んで同行させ、出帆。種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指しました。この日本人青年のうちの一人であるベルナルドは、その後ゴアで学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となりました。

ゴアに戻ったザビエルは、この地に特に異変のないことを知ると安堵し、再度の日本渡航を考えます。しかし、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、部下の神父を自分の代わりに日本へ派遣。

ザビエル自らは中国を目指し、同年1554年9月上川島(じょうせんとう)に到着しました。これは現在の香港・マカオの西50kmほどの洋上にある島です。

ここで中国政府からの入国許可を待ちますが、その入境は思うようにいかず、精神的にも消耗しており、やがて病を発症。12月3日、上川島でこの世を去りました。46歳でした。

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遺骸はゴアにあった聖パウロ聖堂で納棺されました。この棺は一般拝観が許されていましたが、このとき参観者の一人の婦人がザビエルの右足の指2本を噛み切って逃走しました。

この2本の指は彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がパンプローナザビエル城に移されました。遺骸は現在もゴアのボン・ジェズ教会に安置されており、10年に一度ご開帳が行われているそうです。

その後、1614年には、ローマのイエズス会総長の命令で、この遺体の右腕が切断され、この時本人の死後50年以上経過しているにも係わらずその右腕からは鮮血がほとばしったそうで、これをもって「奇跡」とされました。

切ったのはポルトガルへ持ち帰ろうとしたためと思われますが、右手の肘から下の部分は、今もローマ・ジェズ教会に安置されています。そしてこの右腕は1949年の「ザビエル来朝400年記念」の際には、日本へ運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示されました。また、1999年の同450年記念の折りにも日本で展示されています。

一方切り取られた腕の上腕部分はその後マカオに移され、さらに耳・毛はリスボンに、歯はリスボンに次ぐポルトガル第二の都市ポルトに、胸骨の一部は東京に、などと分散して保存されているといいます。

また、1952年には山口市に初代山口サビエル記念聖堂が建設されました。これはザビエルの生誕の地とされる、パンプローナ市近郊にあるハビエル城を模して建てられた聖堂です。しかし、初代聖堂は1991年に焼失し、現在は異なる新しい近代的なデザインの第2代聖堂が建っています(2枚上の写真)。

このパンプローナという町は、あまり日本人には馴染がないようですが、「牛追い祭り」が行われる町といわれれば、あぁあれか、と思い当たる人も多いでしょう。正式名は、「サン・フェルミン祭」といい、毎年7月6日から14日まで開催され、その様子がテレビや雑誌のニュースで紹介されたのをご覧になったのだと思います。

スペイン北東部、ほとんどフランス国境にも近いところにある街ですが、その歴史は古く、紀元前75年から74年にかけて、この一帯は共和制ローマの将軍ポンペイウスが外国との争いの中で駐屯地としたことに起源を発します。

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その後も城塞都市として発展しましたが、現在世界遺産にもなっている、スペイン北部のサンティアゴの巡礼路の通過拠点として重視され、ピレネー山脈を越えてやってくるヨーロッパのキリスト教徒と商業・文化のやりとりの中継地としても多大な貢献をしました。

スペイン独立戦争あたりまではまだまだ要塞都市としての機能を遺憾なく発揮しており、この戦争ではこの街を占拠したフランス軍の軍事拠点となり、独立を勝ち取ろうとするスペイン人たちを悩ませました。

しかし、第一次大戦以後、急速に発達する軍事兵器の前には古代に造られた城壁などは役に立たず、その後急速に城塞都市としての機能を失いました。二次大戦後は工業とサービス業が発達し、地方からの流入者だけでなく、海外からの移住者も増えました。

最重要のものが自動車産業関連で、フォルクスワーゲンはここでフォルクスワーゲン・ポロを生産しており、同社や他会社のため稼働する補助工場を多く持ちます。その他の顕著な産業は、建築材料、金属加工、食品加工であり、中規模な都市ではありますが、その生活水準とクオリティ・オブ・ライフはスペインの中でも高い都市の一つとされます。

驚くなかれ、人口は約20万人と山口とほぼ同様であり、「意外に豊かな町」という点でも何か共通点があるようです。姉妹都市の提携を結んだのは、ザビエルつながりでしょうが、それを超えた何かの縁があるような気もします。

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また、山口市は詩人の中原中也や、芥川賞作家の斯波四郎(1989年没)を生み、また種田山頭火のゆかりの地であるなど何かと文士にも縁がある街ですが、パンプローナもアメリカの小説家、アーネスト・ヘミングウェイゆかりの町です。

長編小説「日はまた昇る」の舞台になったのがこのパンプローナであり、ヘミングウェイは3度もこの街を訪れてこの作品の構想を練っています。1923年7月に初めてここを訪れ、サン・フェルミン祭の牛追いと闘牛に魅了されたといい、当初はこの体験を短編の題材に、闘牛士の話を書く予定だったといいます。

この牛追いは、スペイン語では、エンシエロ(encierro)といい、祭礼などで牡牛の群れの前を人間が走る行為で、前を走るのは人間ですが、日本語では牛追いと表記されます。エンシエロは祝祭における伝統的な闘牛の慣習のひとつでもあります。

この闘牛に魅せられたヘミングウェイは、当時闘牛士として有名だった人物をモデルとした物語を書き始めましたが、マドリード、バレンシア、再びマドリード、サン・セバスティアンと、闘牛の興行を追ってスペインを転々とする間に内容が変化していき、最終的には長編小説にすることに決めました。

フランスの首都パリからおよそ南西80kmほど離れた都市シャルトルには、フランス国内において最も美しいゴシック建築のひとつといわれる「シャルトル大聖堂」がありますが、ここを1925年に訪れた際に「日はまた昇る」というタイトルを思いついたといいます。

小説は1926年3月頃にほぼ完成し、同年10月、「The Sun Also Rises」という英名で5090部の初版が刊行され、1冊2ドルで発売されました。アメリカ国内ですぐにセンセーションを巻き起こし、「タイムリーなテーマ、簡潔な文体、生き生きとした会話、個性的な登場人物、エキゾチックな舞台背景」などが若い世代を熱中させました。

刊行から2カ月で7,000部を売り上げ、処女長編作としては大成功をおさめ、その後もアメリカで一番といわれるほどの人気作家になりました。ヘミングウェイはそのほとんどの作品を、この「日はまた昇る」が書かれた1920年代中期から1950年代中期に書き上げており、その集大成として1954年にはノーベル文学賞を受賞しています。

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1961年7月2日に満61歳で亡くなりましたが、ライフル自殺でした。晩年の1954年にはその代表作とされる「老人と海」が大ヒット作品となり、その評価がノーベル文学賞を受賞につながったわけですが、同年、二度も航空機事故に遭っており、この二度とも奇跡的に生還しました。

しかし、この事故で重傷を負ったためノーベル賞の授賞式には出ることができず、以後は事故の後遺症による躁鬱に悩まされるようになり、執筆活動も次第に滞りがちになっていきました。人気作家にはありがちなことですが、思うように書けないという心の葛藤が自殺の原因だったのでしょう。

この「日はまた昇る」という作品は、私もまだ読んだことがありません。

が、このタイトルは、「復活をかける」というような意味でつけられたのではないようです。毎日毎日同じように昇る太陽に、主人公の日々変わらない平凡な生活をかけたもので、日々昇る太陽のように退屈な毎日続く、という鬱々とかわらないそのやるせなさを表した作品です。

読んでもいないのにそのあらすじを書くのはさすがにはばかれるのでやめておきますが、必ずしもハッピーエンドではなく、戦争で傷ついた「失われた世代」の自暴自棄な気持ちをテーマとして描かれた小説であるわけです。

しかし、読んだことがある人の書評によれば、そうした物語の「哲学性」以上に、闘牛の場面などの描写は読者をスゴイ、と唸らせるような内容だということであり、そう言われると一度は読んでみたい気はします。

さて、今日から明日にかけてはお天気が悪く、どうやら明日の朝、伊豆で「日が昇る」可能性は薄そうです。が、山口では今日中に雨がやみ、明日の早朝から晴れるようです。

市内中心部にそびえる標高338mの「鴻ノ峰」からは、その朝日に染まった美しい街並みもよく見えるに違いありません。桜は終わりましたが、新緑の良いころです。妙に山口に帰りたくなってきました。

次はいつのことになるでしょうか。

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憂いの季節

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学校では入学式や始業式が終わり、今日から本格始動という新入生も多いことでしょう。

また、会社組織では、入社式が終わって、フレッシュマンにそろそろ初仕事を任せるというところも多いかと思います。

新たにスタートする集団生活の中で揉まれ、社会という荒波の中であえぎながら、それぞれに成長していくわけですが、慣れない人間関係や仕事に精神を擦り減らし、5月になるころにはもう会社なんか行くのイヤ!というふうになる新人さんも増えてきます。

いわゆる5月病というヤツで、ゴールデンウィーク明け頃からこうした人が急に増えるためにこの名称があるわけです。

医学的な診断名としては、「うつ病」もしくは「適応障害」というそうで、れっきとした病気でもあります。なので、病院なんて……と思わず、少々おかしいなと周囲が気付いたら、本人に勧めるぐらいが本当はいいのでしょう。

しかし、誰しもが通る道であり、そうして悩むことが人生経験につながるんだ、という「根性論」がまかり通りやすい国です。少々のことは歯を食いしばって頑張っていれば、いずれは事態が好転すると考え、たいていの人は会社通いを続けます。

性格が真面目で責任感があり、忍耐強い人ほどその傾向が強く、そうこうしているうちに適応障害がもとでもっと深刻な身体的な異常が出始め、自律神経失調症や心身症ともよばれるような病気に発展していくこともあります。

人間不信、情緒不安定、不安感やイライラ、被害妄想などの症状が現れはじめ、やがては、動悸がする、朝起きられない、耳鳴りがするといった身体的な症状も出始め、ひどい人などは、吐き気や頭痛を感じたり、過呼吸になったりもします。

実は私もかつて大学を卒業して就職したてのころは、自律神経失調症気味になったことがあります。このころはまだ会社の寮にいたのですが、ここへ毎日夕方帰るとぐったりと疲れ、放心状態になる、といったことを繰り返しており、同僚からはお前大丈夫か、と励ましの声をかけて貰ったりしていました。

街を歩いていても、右手と右足が同時に出る、という感覚に襲われるなど、今考えると確かに「適応障害」だったな、と思います。毎日会社に行くのがイヤで、どうやったら行かない理由ができるだろう、などと真剣に思い悩むほどで、その頃通っていた小田急線の電車のホームからじっと線路をみつめていたことなどを思い出します。

思い余った末、色々な本などを読んだりしたのですが、人生訓のようなものは何の役にも立たず、結局のところ辿りついたのが「自律訓練法」に関する本でした。

自己催眠法といわれるものの一種であり、ストレス緩和、心身症、神経症などに効果があるとされるものです。その方法を紹介していたのがどんな本だったのかは忘れたのですが、この治療法は、ドイツの精神科医のシュルツという博士によって創始されたとされ、どの本を読んでもほぼ同じ方法が書いてあるはずです。

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最も一般的な自律訓練法は、次の基礎公式によって行います。

まず、静かな部屋で気持ちを落ちつけ、仰向けになって横になり、目を閉じます。そして「気持ちがとても落ち着いている」と自分に言い聞かせながら、最初に左足が重い、左足が重い、と念じます。するとしばらくすると、本当に左足が重くなっていくように感じます。

そうなったら、次は右足が重い重い重い……と念じます。すると今度は右足が重くなります。こうして両方の足が重いと感じるようになったら、今度は、両足とも重い重い重い……と続けます。

同じく、両手についても片手ごとに重くなることを確認でき、両手でも重みを感じとることができるようになったら、最後に両手両足が重い重い……とやり、すべての四肢の重さを感じれるようにトライします。

ここまでが第1公式です。この場合、手と足の順はどちらでもよく、手が重い重い……を最初に試し、その後に足に行っても大丈夫です。

次いでの第2公式では、今度は、「手足が暖かい」です。第1公式と同様に手か足の右左どちらかから始め、最後にすべての四肢が暖かみを感じるかどうかを確認します。

ここまでの公式を試している間にたいていの人は眠くなりますが、そのまま眠ってしまっても大丈夫です。眠りにつけるということはそれだけ精神が安定してきたということであり、治療の効果があったということです。

しかしそれでも眠りにつかない人は、次の第3公式、第4公式へと進みます。第3公式は「心臓が静かに打っている」であり、第4公式は「呼吸が楽になっている」です。さらに第5公式「お腹が暖かい」となり、第6公式「額が涼しい」まで行って、はじめてワンセットの治療が終わります。

これらの公式を順に心の中で繰り返し唱え、自己催眠状態になっていくわけですが、この自律訓練法では、めまい、脱力感などが生じることもあるため、眠りにつかなかった場合などでは、次の「消去動作」を行うと良いとされています。

下記の運動により特有の生理的変化や意識状態が取り消されます。

1 両手の開閉運動
2 両肘の屈伸運動
3 大きく背のび
4 深呼吸

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この訓練法を試す時は、気が散らないように、静かで快適な温度の場所を選びます。また衣服はゆったりとしたものをつけ、身体を締め付けるベルトやネクタイは外したほうが良いようです。また、椅子に座った姿勢でもOKですが、やはり目は閉じます。

1日に2~4回程度が適量と言われているそうですが、私の場合には一日2回程度で十分だったように思います。ただ、心臓、呼吸器、消化器、脳に疾患のある場合は、行なうべきではないとされているようです。

私自身の経験では、この自律神経法を試すことによって、日常で左足と左手が同時に出る、といったようなこともなくなり、確かに精神が安定していったように覚えています。日々の通勤がそれほど苦にならなくなり、物事に対する集中力も高まっていったように記憶しています。

仕事にヤル気がでてくるようになり、このころから会社だけでなく、積極的に外のサークルなどにも参加するようになり、英会話学校などにも通い始めました。これがのちの留学にもつながるわけですが、すべてはこの自律神経治療法から始まったといってもよいくらいです。

また、後で気が付いたのですが、この方法は花粉症対策にも有効なようです。私も春先になると、ぐすんぐすんと鼻水が出ることが多く、いつも鼻を詰まらせていたのですが、この訓練法を試すと、すーっと鼻が抜けていくことに気が付きました。

自律神経失調症は、自律神経である交換神経と副交感神経のバランスが崩れることが原因とされています。このうちの副交換神経は、鼻水の分泌を促す、経鼻腔腺の機能をコントロールしていることから、根拠のないことではありません。

この二つの神経系は、このほかにも、目の瞳孔の収縮や、唾液腺の分泌、涙腺のコントロールのほか、心臓や動脈、気道・肺、胃や腸、すい臓といったありとあらゆる臓器に関連しているため、こうした部分に疾患がある人にとっても有効とされているようです。

膀胱や生殖器などにも関連しているようで、このほか、汗腺にも関わっていることから、そのバランスをうまく取れるようになれば、本当にありとあらゆる体の部分を癒してくれるはずです。

自律神経の中枢は脳の視床下部というところにあり、この場所は情緒、不安や怒り等の中枢とされる辺縁系と相互連絡していることから、こころの問題も関わってくるとされています。であるがゆえにこれを鍛えるということは、精神的にも強くなれるということを意味します。

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この方法を開発した、シュルツ博士というのは、ベルリン大学の教授だったそうです。博士は、ある日、催眠状態に入って心身共にリラックスした人では手足を中心とした温かい感じが起こることに気づきます。

やがて手足が温かく感じられるような状態を自分で作ることができれば、催眠状態の場合のように他人の力を借りなくても自分で心身がリラックスした状態に入れると考えるようになりました。そして、リラックスした姿勢で座っている人に自己暗示によって、手足の温感・ひたいの涼しい感じなどを起こす自発的な訓練を行う方法を1932年に考案しました。

ただ、まったくのオリジナルというわけでもなく、もともと同じドイツの大脳生理学者でフォクトという人が、その原型となる治療法を1926年に論文発表していたものを参考にしたようです。

日本には、第二次世界大戦後、心身医学とともにアメリカから流入し、自律訓練法が初めて紹介されたのは1950年代に入ってからのことです。これを日本人向きに「いつでも・どこでも・だれでも」実践できるように改良したのが、池見酉次郎(ゆうじろう)という精神科医です。

戦後、アメリカの医学が日本に流入した際、心身医学の存在を知り、九州帝国大学医学部を卒業後、アメリカミネソタ州のメイヨー・クリニックに留学し、帰国後、現在104歳のおじいちゃん先生として知られる日野原重明博士らとともに昭和35年に「日本心身医学会」を設立し、初代理事長になりました。

翌年には九州大学に国内最初に設立された精神身体医学研究施設(現在の心療内科に当たる)教授に就任し、内科疾患を中心に、心と体の相関関係に注目した診療方法を体系化、実用化に尽力した人です。

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従って、医学的にも実績のある確かな精神療法であるといえ、私自身も確かに効果があったと自覚しており、これから5月を迎え、こうした症状にお悩みの方はぜひ試して欲しいと思います。また、催眠療法士という肩書を持って、こうした治療を行っているところも多くなっていますので、症状が出たら、迷わずその門を叩きましょう。

こうした催眠療法をいかがわしいと思う向きもあるでしょうが、欧米では、催眠療法家が協会を結成し、催眠療法士を認定する仕組みが一般的になっており、米国催眠士協会(NGH)は、100時間のトレーニングを受けた人に「ヒプノセラピスト」の資格を発行して、催眠療法家として認証しています。

また、米国催眠療法協会(ABH)は、45時間のトレーニングに対してヒプノセラピスト資格(初級レベル)を、90時間のトレーニングに対して、マスター・ヒプノティスト資格(上級レベル)を発行しています。

また、米国には催眠療法の博士号もあります。日本ではこうした学位は存在しませんが、資格としては、日本催眠医学心理学会認定の「催眠技能士」等があります。ただし催眠療法自体は危険なものではないという理由から、日本では国家資格にはなっていません。誰でも試せるようなものは国家資格に値しないというわけです。

こうした催眠療法の中には、「前世療法」というものもあります。「退行催眠」と呼ばれる催眠により患者の記憶を本人の出産以前まで誘導し、心的外傷等を取り除くとされるもので、アメリカ合衆国の精神科医であるブライアン・L・ワイス博士によって提唱され、1986年に出版された”Life Between Life”という本で世に広く知られるようになりました。

このワイス博士の話はこのブログでも再三書いてきているので、愛読者の方は、またか、と思われるかもしれません。

なので詳しくは書きませんが、「前世」があるということを前提にした治療であるため、基本的には輪廻転生を信じていない人にとっては「眉唾物」というふうに映るようです。

かつて催眠によりありもしない記憶が作られた例が多くあったこともあったようで、「過去性の記憶」と実際の歴史との符号を確認するきちんとした調査が行われていない、などがその批判の理由のようです。

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しかし、ワイス博士らの試験により、「前世」を想起することで、被験者の現在の心理的疾患が実際に治癒されるケースもあり、疾患の治癒は前世の記憶と関係が深いと認める学者も最近では増えてきています。

退行催眠により現れた記憶を「前世」のものと仮定することで、子供が生まれながらに持つ言語的なまりや恐怖症、癖や異様な性癖などの特徴が発生した原因を矛盾なく説明できるとする学者もいるようです。

退行睡眠で思い出した過去の記憶がみごとに史実と一致し、かつ本人の知るはずの無い正確な記憶を話す事例も数多く存在します。

例えば1990年にはシカゴ在住の女性が、16世紀のスペイン女性の生涯を詳細に物語るというケースがありましたが、後のスペインの公文書館に所蔵されている資料による調査が行われ、彼女の記憶は正確なものであることが判っています。

また別のケースでは、ある被験者が過去の時代の歴史的背景について、不気味なほど正確な描写をし、自身が全く知らないとする言語を話す、といった例がいくつも報告されています。

例として、ある35歳の科学者が無意識に発した言語は古代スカンジナビア語であったことが言語学的に確認されたそうで、この被験者は既に絶滅した言語となった紀元前メソポタミアのササニド・パーラディ語を無意識下で書くこともできたといいます。

その一方で、前世記憶について、それを思い出す人の前世は大抵、国王や貴族など高貴な身分であり、召使などの低い身分のものであることはない、といった批判もあります。要は史実として記録されているような出来事に関係した人ばかりが前世として現れるのは、その退行催眠から導き出された結果自体が捏造だ、というわけです。

しかし、退行催眠を行った多数の被験者において、その90%が小作人や労働者、農民や狩猟採集民である過去生を思い起こしていたという統計データもあり、現代ではこうした批判に答えるだけのデータはかなり蓄積されているようです。

こうした退行催眠と前述までの自己催眠は、「催眠」という点で共通しているわけですが、退行催眠を行うことで、前世の自分を思い出し、それまで生じていたいろいろな症状が改善する、という点では自律神経の失調の治療法である自己催眠と似たところがあります。

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私は退行催眠も受けたことがあるのですが、リラックスして自分の中に入っていく、といいう感覚はほぼ同じであり、多少手法は違えども原理は同じなのではないかと思います。

そこで、改めてこの「催眠」の定義は何かを調べたところ、これは、「暗示を受けやすい変性意識状態のひとつ」だそうです。変性意識状態ってなによ、ということですが、これは日常的な意識状態「以外」の意識状態のことだそうで、ますますわからなくなりますが、要は電車の中でうたた寝をしているような状態のことを指すようです。

我々の意識の構成には「清明度」、「質的」、「広がり」という3つの要素があります。「清明度」というのは意識がはっきりしているかしていないか、の尺度であり、これが低下するということは一般に意識障害を示します。昏睡、失神といった状態がこれです。

また、「質的」というのは、意識の「内容」のことであり、その内容が日常的でないということは、意識混濁に加えて幻覚や錯覚が見られるような状態、すなわち「せん妄」や「もうろう」といった状態です。こちらは酸素の欠乏や気温の低下、ドラッグの使用などで引き起こされます。

そして、最後の「広がり」というのは、通常我々が「意識している範疇」です。これは無限に広がっていますが、この「広がり」が低下した状態であり、これを「意識の狭窄」といいます。人間の意識に顕在意識と潜在意識の2つがありますが、このうちの潜在意識は意識のうちの9割を占めており、健在意識は1割にすぎません。

覚醒時に論理的に思考するのが、この顕在意識ですが、催眠とは、この顕在意識を制限して、つまりは、「意識を狭窄させる」「その広がりを制限する」ことによって、潜在意識レベルに誘導すること、ということのようです。

潜在意識というのは、言い換えれば「無意識」ということです。日常でも、無意識にペンを取っていた、とか無意識に箸を置いていた、といったことがあるわけですが、この状態にもっていくというのが催眠の本質のようです。

これがすなわち「暗示を受けやすい変性意識状態」ということで、この状態になると、顕在意識がないので、なんでも人に言われた指示通りのことをしてしまいます。よく催眠マジックショーとしてテレビなどでやっているあの状態です。

この状態は、ヨガや座禅といった瞑想や薬物の使用などによってもたらされますが、非常にリラックスした状態を意識的に生み出すことによってももたらされます。ときには「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い、そうした体験は、時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものになるともいわれます。

トランス状態とも、入神状態、あるいは脱魂状態や恍惚状態など、いろいろな呼び方があるようですが、催眠による場合は、表層的意識が消失して心の内部の自律的な思考や感情が現れるとされます。

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そうして現れた無意識というものが、過去生から来るものなのか、現生における生身の体の奥底に澱(おり)のように「溜まっている」ようなものから出てくるのか、によって退行催眠と呼ぶのか自己催眠と呼ぶのかが違ってくる、というのが私の解釈です。そしてそれはもしかしたら同じものかも。間違っているかもしれませんが。

しかし、そうした無意識の状態というものを否定する人はおそらくいないと思います。日常的に無意識何かをやる、というのは誰しもが経験することだからです。

ただ、それを前世の記憶とするのか、あるいは超心理学的な状態と考えるか、はたまたまったく科学的に説明できる状態と考えるかは別です。それぞれ正しいと思う解釈で、治療方法として利用するなり、瞑想法として使うなりして催眠療法を活用すればそれでいいと思います。

だんだんと話が散漫になってきたのでそろそろやめようと思いますが、ともかくもどんな形であれ「催眠療法」というものが社会的に認知されている現状では、その効果が限定的である、とかいって否定する人も少なくなってきているように思います。

前半で述べた自律神経治療法も、おそらくは提唱されたころには多くの批判が集まったのではないかと推察されますが、いまでは多くの人が実践するようになっています。さすれば、前世療法もいずれは社会的な認知を経て、多くの人が試すような時代が来るのではないかと思う次第です。

とまれ、現時点で輪廻転生も前世療法も信じない、という人でも、上で示した自律神経治療法は確かに効果があると思いますので実践してみてください。

その中であなたの前世が見えるかもしれません。そして「もしかして……」と思ったら、それが事実であるかどうかを自分自身の心の中で検証してみていただきたいと思います。

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言霊のこと

2015-0567先日来、各種メディアではつんくさんが声帯を摘出して声を失ったという話でもちきりです。

ファンだけでなく、その名を知らなかった人たちも驚きとともに、切ない思いに駆られたと思いますが、私も同じです。

しかし、自分が一番大事にしてきたものを犠牲にしても、ともかく生きる、という選択をとられたことについては、誰もがエールを送っているかと思います。

それにしても声を失う、ということはいったいどういうことなのか。改めてこの「声帯」というものについて調べてみました。

すると、声というものは、まず、肺から押し出される空気が声道を通過することによって生み出される、ということがわかりました。声道というのは、人間を含めた哺乳類の場合、喉頭と咽頭、つまり我々が「のど」と認識している部分に加え、口の中の空洞と鼻の穴を合わせたものの総称です

このうちの咽頭、これは食べ物が通る食道とつながっている部分ですが、この咽頭の前にある部分が喉頭で、肺とつながっている管です。この喉頭の部分には、粘膜で覆われ内部に筋組織を持つ両側に存在する1対のひだがあります。これが、声帯です。

この声帯は、普段は開いていますが、肺から空気を押し出して空気を出す時、無意識に閉まったり、開いたりします。これにより、通過する空気が振動し、音になります。ただ、この時点では声と認識できるものではなく、このあと、口腔と鼻腔がこの震動をさらに変化させ、共鳴音を作り出します。

そして、口や鼻の外から外へ放射されるのが、「声」です。

今回のつんくさんの病気は、この声帯の部分に癌ができたことにより、その切除手術を行い、他への転移を防ぐ、というものだったようです。過度の物理的刺激、例えば大声を張り上げ続ける、歌い続ける、といったことにより、声帯にポリープができることはよくあるようで、通常は声帯への負荷を避けることにより自然治癒するようです。

が、何等かの要因である一線を超えると癌になるようで、その要因もいろいろあるようですが、飲酒や喫煙、精神的なストレスといったものがあげられているようです。つんくさんの場合が何だったのかは明らかにされていないようで、よくわかりませんが。

とまれ、なかなか治りにくい病気です。「声帯癌」という呼称は一般的ではなく、もっぱら「喉頭がん」と呼ばれるようです。これまでも芸能人や有名人で亡くなった人はたくさんおり、例えば同じくミュージシャンの忌野清志郎さんもこの病気でした。このほか立川談志さん、池田勇人元首相なども喉頭がんで亡くなられました。

それにしても、声帯を切除するということは普通にしゃべれなくなるということであり、その決断にはさぞかし勇気がいったことでしょう。が、声帯を取らなければ他への転移も考えられるわけであり、苦渋の選択としても本当に辛いことだったでしょう。

2015-0332

私自身も仮に声をなくすとしたら、やはりそれは人生の一大事に違いありません。そこで、改めて、この声を失う、ということの意味を考えてみました。

まず考えられる物理的な意味は、文字通り、「言葉を失う」ということです。言葉というものは、話す・書くことによって、心、気持ち・思い・考え等を表すための手段です。

人は言葉によって認識を共有する事が容易となります。太古の時代より、人間はそれぞれの民族毎に意味を持った言葉を作り出してきましたが、言語の形成は、さらに人間に「思考」というものを与えました。

考える、ということを言葉を使って行うようになったわけです。これにより意志・感情を言葉で表現することによって複雑な心理を明確にすることができるようになり、そして、このことによって自己理解もまた深まり、知能を発達させたと考えられています。

この、言葉というものがまだ無い時代の原始時代の人は、その意思伝達を行うために、ただ、あーとかうーとか、動物と同じように唸るだけで相手の注意を喚起していたようです。しかし、それだけでは伝えられないことも増え、次第にこれに加えてボディーランゲージや絵文字等を指し示す、といった行為も行われるようになりました。

こうした行為は、日常の生活の中では、だいたい同じパターンになります。社会生活の中で、同じボディランゲージや絵文字を指し示す、といったことが何度も繰り返されるうちには、一定の規則性が生じます。そしてあるとき、これを発声行為に置き換えればいいんだ、と気づきます。

やがてはただのあー、うーだったのが、がぁ~とか、うぅーも加わって、そのバリエーションも増えて規則性のある言葉が増えます。それと絵文字等が合致し、絵文字を指し示すと、それに関する音を口から出す、といったことで言語が生まれたと考えられており、これがやがて時代を経てさらに高度な言葉の文化になっていきました。

従って、声帯を失い、その言葉を口から出す、という行為ができなくなる、ということは、いわばその文化を生み出すための原動力、能力の一つを失った、ということになります。しかし、声は失われたかもしれませんが、まだ書くことで意思を伝えることがでるわけで、意思伝達方法のすべてを失ったわけではありません。

相手に何らかの方法で意思を伝えることができ、それを言語と呼ぶのなら、口がきけなくなっても言語を失ったとはいえないわけです。目は口ほどに物を言う、とも言うように、目による意志疎通もでき、ボディランゲージで自分の考えていることも伝えられます。無論、手話も言語のひとつといえるでしょう。

また、現在では、言語に代わり、科学的な方法で自分の意思を伝える方法はたくさんあります。音声合成などがそれで、これについては後述しますが、従って自分の声を失ったからといって意思伝達の方法がまったく失われたわけではありません。

しかし、声を失うということでもうひとつ大きな喪失があります。それは、歌うことです。歌、唄とは、声によって音楽的な音を生み出す行為のことであり、リズムや節をつけて歌詞などを連続発声するという行為は、娯楽とも考えられますが、より洗練されたものは「芸術」といわれるものになります。

「歌う」ことは、「感情を表現とすること」を最大の目的としており、その点で、事件や事象を聴く人にわかりやすく伝達することだけを目的とした言葉を「語る」こととは大きく異なります。極論すれば、歌詞などもまったくめちゃくちゃの意味不明でもよいわけで、この点が単に「言語を話す」ということと違います。

鳥もまた、「うたう」というぐらいで、彼等は言語なんか知りません。歌詞などなくても、歌えるわけです。そういう意味では、そうした自分らしさを表現をする重要な手段を失ったということの喪失感は大きいでしょう。

とくにつんくさんのように人気歌手だった方が自分のアイデンティティを示す最大の手段を失うということは、相当に大きなダメージだったに違いありません。

しかし、ハミングなど、歌詞をともなわない歌唱方法もないわけではありません。つんくさんもハミングができるのではないでしょうか。

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結論からいうとこれは難しそうです。ハミングというのは、鼻音唱法とも母音唱法ともいい、いわゆる鼻歌です。言葉の明瞭さはないものの、実はこれも声帯の振動によって音を出しています。

普通の人はハミングしている状態で甲状軟骨を優しく触診すれば声帯振動を指に感じることができます。つまり、ハミングは声帯を使って音を出していることがわかります。

声帯をなくした人が訓練を積み、食道などの部分を使ってこれを共鳴させ、共振による音造りをする、ということは聞いたことがあり、ある程度は可能なようです。しかし、これはかなりの厳しい鍛錬が必要になるといい、また、仮にハミングができるようになったとしても、普通とはかなり違う音になるようです。

従って、つんくさんも普通のやり方で健常者と同じ程度に歌うことができるようになるかというと、それ相応の努力が必要になる、といえるでしょう。

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とまれ、もう少し、この「歌う」ということの意味を考えてみましょう。

「うた・歌う」の語源は、「うった(訴)ふ」だそうです。これからもわかるように、歌うという行為には相手に訴えたい内容、すなわち何等かの「歌詞」の存在を前提としています。また、この歌詞は「うた」が語源です。

このうたとは、古代では「言霊」と考えられており、言葉そのものが何等かの霊力を持っていると考えられていました。これを発することによって相手の魂に対し激しく強い揺さぶりを与えることができます。つまり、相手を「打つ」わけで、この打つが、「打た」、に変わり、「うた」になっていったという説があります。

この言霊は、ことだま、とよみますが、清音では「ことたま」とも発音します。仮名文字(平仮名、片仮名)を母音に基づき縦に五字、子音に基づき横に十字ずつ並べたものを「五十音」といいますが、古代の日本では、この言葉ひとつひとつによって森羅万象が成り立っているという考え方があり、これを「コトタマの法則」といいます。

古代では、声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられており、この五十音を使って良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされました。このため、何等かの行事で祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意されたといいます。

今日にも残る結婚式などでの行事でもこのコトタマの法則の名残はあり、例えば「忌み言葉」というのがあります。サル、キル、カエルなどがそれであり、これは「去る」「切る」「帰る」などであり、こうしたおめでたい席では使ってはいけないことばです。これも言霊の思想に基づくものです。

また、その昔の日本人は、この日本という国は言魂の力によって幸せがもたらされると信じ、そうした国を「言霊の幸ふ国(さきわうくに)」としました。言霊があふれて幸せな国、という意味になります。また、この「幸ふ」は「万葉集」などでは、「佑ふ」と表現されており、大和の国(日本)は、「事靈の佑(さき)はふ國」などの表現がなされています。

この「佑」という漢字は「助ける」という意味があり、つまり、言霊によって助けられている国、ということになります。ちなみに、この例からもわかるように、この時代には「言」と「事」が同一の概念でした。漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられており、例えば古事記では「事代主神」が「言代主神」と書かれている箇所があります。

なので、これは正しいのかどうかはわかりませんが、「事件」という現代用語は「言件」とも書けるわけであり、これは言霊によって起こされた出来事、ということになります。言い争いなどによって起きた結果、というほどの意味になり、事件の本質を表しています。

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さらには、自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の「慢心」に基づいて発せられたものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられていました。

例えば「古事記」において倭建命(ヤマトタケルノミコト)が伊吹山に登ったとき山の神の化身に出会った際、「これは神の使いだから帰りに退治しよう」と「言挙げ」しました。しかし、この言霊は彼が、自分は強いんだぞ、という慢心によるものであったため、命は神の祟りに遭い亡くなってしまった、とされます。

このように、言霊思想というのは、それを発する人間の心の持ちようによっては良いものにもなり、悪いものにもなるという、心のありようを指し示す物差しと考えられたわけで、さらには、万物にもその言霊によって神が宿る、と考えられていました。

日本だけでなく、他の文化圏でも、こうした言霊と共通する思想は見られます。旧約聖書や新約聖書でも、「言霊」に相当すると考えられることばがあるそうで、これを「プネウマ」と呼んでいました。これは「吹く」という意味の動詞を語源とし、息、大いなるものの息、といった意味です。

聖書には、「風はいずこより来たりいずこに行くかを知らず。風の吹くところいのちが生まれる」といった表現があり、この「風」と表記されているものが「プネウマ=言霊」です。「風の吹くところ」を言い換えると、「言霊があるところに命が生まれる」というふうに訳すことができます。日本と同じです。

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このように、洋の東西を問わず、一般に、言霊は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされます。また、言霊は言葉だけでなく、「音」にも宿るとされます。

祭礼や祝い、悪霊払いで、神事での太鼓、カーニバルでの笛や鐘、太鼓などはこうした音を立てて場を清めたわけであり、日本の神社で柏手を叩いたり、中華圏での春節の時の爆竹を使うのもそのためです。

そして、こうした祭事に出された音が次第に高度化していったものが、「音楽」であり、また音と言葉が合体したものが、「歌」であるわけです。呪文や詔(みことのり)には、時に抑揚をつけて現代のような音楽のようにして唱えられていましたが、その霊的な力を利用して神事を執り行おうとしたわけです。

無論、さまざまな文化により、時代により、また個人によりそうした行事の内容は大きく異なっているわけですが、いずれにせよ、歌もまた言霊であり、言い換えれば真理や魂の叫びを伝えるものだということになります。

単なる言葉よりもさらに高度な、心から神に伝えたい気持ちを表出するための手段でもあり、それを失うというのは、人間にとってはかなりつらいことかもしれません。なんにせよ、それを自分の体から発することができなくなるわけですから。

しかし、ここでちょっと考えてみてください。歌が歌えても音痴な人はいます。音痴な人はどうするかというと、他の人が歌っている中に混じって自分の歌の下手さをごまかすか、あるいは楽器を奏でてこれを補ったりします。

またメガネをかけている人はメガネが無くなったら何もできません。このメガネは視力が弱いことを補助する道具に過ぎませんが、その道具を使うことによって、目がみえるようになります。

ごく普通に正当化されていることであり、それならば、声が出せない人は同様に何等かの道具を使って音を出しても何ら人に不思議がられることはなく、ましてや非難されるようなことは何もありません。

メガネ同様、自分自身の力で矯正できないからと言って恥じることは何もなく、言霊を自らの体から発せないならば、何等かの手段でもってそれを出せばいいだけ、ということになりませんか。

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ご存知のように、最近は音性合成技術がかなり進んでいます。

イギリスの理論物理学者であるスティーヴン・ホーキング博士の例で有名になりましたが、博士は意思伝達のために「重度障害者用意思伝達装置」を使って生活しています。スピーチや会話ではコンピュータプログラムによる合成音声を利用しており、その音声を聞いたことがある人も多いでしょう。

こうした音声合成技術を使って、現在ではメガネのように気軽に自分の声を合成して出す、という技術が確立されつつあります。

まだまだ、完成度は低いようですが、いずれはもっと進化し、つんくさんが生きておられる間には、声を失う前とほとんど寸分変わらないような声を出したり、歌ったりすることができるようになるかもしれません。

実はこうした音声合成技術の歴史は古く、現代的な電子信号処理が発明されるずっと以前から、音声を模倣する試みはなされてきました。西アフリカには、「トーキングドラム」とうものが昔からあり、これは日本の鼓(つづみ)のような形をしていますが、これを叩いて人の声を真似た合図が遅れるそうです。

ただ、もっと科学的な意味での音声合成の試みとしては、1779年にドイツ人クリスティアン・クラッツェンシュタインという人が、母音(a, e, i, o, u)を発声できる機械を製作したものが嚆矢とされているようです。

1791年には、オーストリア(ハンガリー)のヴォルフガング・フォン・ケンペレンがこれを改良して、ふいごを使った機械式音声合成器を作っており、この機械は舌と唇をモデル化しており、母音だけでなく子音も発音できたそうです。

同様の試みは、1837年のイギリスの物理学者、チャールズ・ホイートストンも行っており、彼はケンペレンの合成装置をさらに改良し、「しゃべる装置」のレベルまで引き上げたとされています。

さらには、1930年代、アメリカのベル研究所のホーマー・ダドリーが、通信用の電子式音声分析・音声合成マシンとして、ヴォコーダー(Vocoder、Voice Coderの略)を開発しており、その後この器械の音声合成部にキーボードを付加した、世界初の「鍵盤演奏型スピーチ・シンセサイザー」、ヴォーダー(voder)を製作しました。

この器械は、ニューヨーク万国博覧会 (1939年)に出展されましたが、その発声は十分理解可能だったと言われます。その後も、多くの科学者が同様の機械の開発に取り組みましたが、最初のコンピュータを使った音声合成システムは1950年代終盤に開発され、最初のテキスト読み上げシステムは1968年に開発されています。

1961年、ベル研究所の物理学者ジョン・ラリー・ケリーとルイス・ゲルストナーは、IBM 704というコンピュータを使って音声合成を行い、「デイジー・ベル」という歌を歌わせることに成功しました。これは、現在でいうところの、「ボーカル・シンセサイザ」ーの走りです。

この器械の噂を聞いてベル研究所に来ていたアーサー・C・クラークは、このデモを聴いて感銘を受け、これにより「2001年宇宙の旅」でHAL 9000が歌うクライマックスシーンが生まれたといいます。この器械は現在までにさらに進化しています。これは後述します。

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一方、ただ単に言葉をしゃべるだけの音声合成装置はこれ以上に進化してきています。初期の電子式スピーチ・シンセサイザーの発声は、ロボット的であまり明瞭ではないものが多かったようです。が、その後の発達により、単にテキストを読み上げるだけならば、人間の声と区別が付かないほどになっています。

最近では、文字を読むことが困難な障害者や、文字が読めない人(幼児、外国人など)のために、画面を読み上げてくれるコンピュータソフトは既に普及しており、これは「スクリーンリーダー」といいます。

また、家電製品の音声ガイダンスや、公共交通機関や防災関係のアナウンス用途として音声合成されたものが広く使用されるようになっており、カーナビでもこうした音声装置は普通に使われています。

ただ、これらの電子式の機械式音声合成装置は、スピーカーから音が出ているため、どうしてもどこか機械が出している音のように聞こえてしまいます。そこで、ロボットで人間の体の構造を模倣した機械式音声合成しようとする試みも最近は進んでおり、これなら、もっと人間に近い発声になると考えられています。

とはいえ、これはつまり人間の声帯を真似たロボットということになり、そこまで優れたものはまだ完成されていないようです。いわんやロボットに歌を歌わせるというのは、かなり難しい技術らしく、人と寸分変わらず歌が歌えるというものはまだないようです、

しかし、上述の「ボーカルシンセサイザー」のようなコンピュータとスピーカーの組み合わせだけで音声合成するものは、かなり開発が進んでいて、メロディと歌詞を入力することで歌声の合成ができるものができているそうです。

特に有名なボーカルシンセサイザーはヤマハのVOCALOIDで、動画共有サイト利用者の間で爆発的に普及したそうです。2003年に発表され、編集ソフトの最新版は昨年暮れに最新版が出ています。

2010年にはこの装置とソフトを用いた「EXIT TUNES PRESENTS Vocalogenesis feat.初音ミク」という曲が、VOCALOIDをボーカルに用いた楽曲を集めたアルバムで初のオリコン週間チャート1位を獲得したそうです。

メロディーと歌詞を入力することでサンプリングされた人の声を元にした歌声を合成することができるそうで、対応する音源については、主にヤマハとライセンス契約を締結した各社から販売されています。

これらの各社と契約した歌手から音声サンプリングを収録してライブラリを製作し、ヤマハ製のソフトウェア部分と組み合わせて製品として販売されているそうで、このサンプリングを過去のつんくさんの歌った歌で行えば、つんく版の音声合成はできそうです。

このほか、AquesTalk(アクエストーク)といった音声合成ソフトも出回っており、これは「アクエスト」という会社が開発・販売しているものです。
この技術を応用しているボーカルシンセサイザーもあり、2013年1月現在は試作品という形で無料にて配布されているといいます。

このように、声を失ったとはいえ、つんくのようにたくさんの声を録音しているような人はその過去の遺産を生かして、これをさらに別の曲に作り替えることもできるはずであり、音楽業界にお詳しい方であろうことから、当然こうしたこともご存知でしょう。

とはいえ、口で言うのは簡単で、それを実際に行うのは、ご当人も大変でしょうが、これを支える人達もまた大きな労苦が必要になってくるでしょう。

が、自分で発する言霊は失ったかもしれませんが、自分の意思で現在の技術を使って新たに生み出せる言霊もあるはずであり、従来作品以上に素晴らしい言霊をぜひ再び提供していってほしいと思います。御健闘をお祈りします。

2015-0982