夜間飛行

2015-6833桜の季節だというのに、天気が悪く、この状態はしばらく続くようです。

天気予報によれば、明日も曇りがちだということで、この分だと、明日の夜に見ることができるという皆既月食のチャンスも空振りに終わりそうです。

今回の月食は、月のすべての部分が地球の影によって隠される皆既月食だそうで、一部分だけが影に入る部分月食よりもよりダイナミックな天文ショーになる予定なのに、残念なことです。

再来年の2017年には部分月食があるそうですが、次の皆既月食みられるのは2018年の1月と7月だということで、3年待たなくてはなりません。

石の上にも3年……ということで天文ファンにとっては我慢の月日となるわけです。が、何もこの間他の天文ショーがないわけではなく、今年も4月23日には、こと座流星群が極大になり、8月13日にもペルセウス座流星群が極大になるそうです。

このほか、10月22日~オリオン座流星群極大、11月18日 しし座流星群極大、12月15日 ふたご座流星群もあり、流れ星が好きな人はそれなりに堪能できることでしょう。

それにしても、最近は夜になると光々とした灯りが町中を覆いつくすため、星空が見えにくくてしょうがない、とぼやいている人も多いことでしょう。今や日本で天の川が見える場所というのはほとんどなくなっているようで、気象条件にもよるのでしょうが、東京近郊ではまず不可能なのではないでしょうか。

この「光害」の原因となる光は、家庭や会社、工場、街灯、パチンコ店のライトなどなど、色々ですが、星空観測においてとくに有害となるのは、光があらゆる方向に発されるむき出しの電球や、光源の周りをただのガラス球などで覆ったような街灯などが主なものです。

これらをすべて上に光が行かないように上半分を覆ってしまう、というのが対策のひとつなのでしょうが、一説によると、こうした不適切な街灯を減らすことで電気代に換算して少なくとも200億円相当が節約できるともいわれます。

また、自動販売機などの光も光害の中での大きなパートを占めているとも言われ、夜間明るい光を放っています。日本全国の自動販売機設置台数がどのくらいあるかを調べてみたところ、2000年(平成12年)に560万台だったという統計が見つかりました。今はもっと増えているのではないでしょうか。

また、大規模な照明施設が設置されることの多い、スポーツ施設も光害の源泉であり、夜通し灯りをつけっぱなしの防犯灯や、数あまたある工業団地、ビル群の灯りもまたしかりです。

こうした光害を少しでも減らそうと、環境省(旧環境庁)は、1998年に「光害対策ガイドライン」を策定しており、以後、全国各地の自治体でも、パチンコ店などから発せられる無駄なサーチライトを禁止する条例が制定されるようになりました。

また自治体ぐるみで町おこしの一環として光害対策に取り組みところが出てきており、岡山県美星町(現井原市)では、1989年から、美しい星空を守るための「光害防止条例」が制定されました。

具体的な取り組みとしては、屋外照明は水平以上に光が漏れない設計したものを使用するように推奨しており、建築物、看板等を照明する場合は、下から上に向けて投光することを禁止しているほか、サーチライト、スポットライト、レーザー等の野外灯光器は継続的なものでない場合には、原則として禁止しています。

このほか、事業所等の屋内照明で、大量の光を使用する場合は、カーテン、ブラインド、雨戸等の遮蔽物により、できるだけ屋外に光を漏らさないよう配慮することなどを定めており、これにより、この街の夜空はかなり暗くなったといいます。

それにしても、「美星町」という名前はまさに光害防止の町として相応しいものですが、この光害対策のために新たに町名を付け直したのかと思ったらそうでもないようです。元々この町の中に源流を持つ美山川と星田川という川があり、ここから一文字ずつ取ったものだということです。

また、この星田川の地名は、かつて美星町に三つの流れ星が落ちたという星伝説に由来するものだそうで、この星が落ちたといわれる3カ所にはそれぞれ神社があるということです。なんともロマンチックなお話ですが、美星町では、こうしてきれいになった星空を売りにして色々な町おこしにも取り組んでいるそうです。

このほか、岡山県としても、サーチライト禁止条例を制定しており、同様の条例は佐賀県や熊本県にもあり、群馬県の高山村でも、「高山村の美しい星空を守る光環境条例」を1998年に制定しています。

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こうした町がどんどん出てくれば日本の夜空ももっと暗くなるのではないかと思うのですが、最近監視カメラが全国のあちこちに取り付けられるようになり、その視程確保のためには街灯やその他の灯りが不可欠だということで、夜間の無駄な点灯を自粛するという動きも阻害されがちです。

いっそのこと、毎日とはいいませんから、日にちを決めて、灯火管制などひいたら、夜空のありがたみがみんなわかると思うのですが、どうでしょう。

灯火管制とは、第二次世界大戦などの戦時において民間施設および軍事施設・部隊の灯火を管制し、電灯、ローソク等の照明の使用を制限することです。これにより、夜間空襲もしくは夜間砲撃などの目標となることを防げると考えたわけです。

大戦中は日本だけでなく、イギリス、ドイツ、なども灯火管制をしていたといい、これにより、敵機から都市の位置がはっきりと視認できないようにし、精度の高い空襲を防ごうとしました。

具体的な方法として、窓を塞いだり、照明に覆いをつけたりしたようですが、本当に効果があったかというと、灯火管制下にある中で、明かりが漏れてしまったためにその家が標的になったという証言や記録も残されているそうです。

しかし、その効果は低かったのではというのがもっぱらの評価であり、例えば日本を爆撃したアメリカの爆撃機B-29は高性能のレーダーを搭載していたので、それを頼りに都市の市街地や目標物を爆撃することができたといいます。

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また、イギリスを爆撃したドイツの爆撃機He111やドイツを爆撃したイギリスの爆撃機ランカスターはレーダーの発達していない時期から無線方位測定機器を用いて夜間爆撃を行っていました。ただ、精度に欠けていたため、アメリカ製のレーダーを搭載した戦闘機をパスファインダーとして運用しました。

パスファインダーとは、「開拓者」「先駆者」の意ですが、ちょっと前にNASAの火星探査機でマーズ・パスファインダーというのがあったのを覚えている人も多いでしょう。が、この爆撃に用いられたパスファインダーは、「先導者」の意味であり、最初に爆弾を投下して後続機に目標を示す先導機のことです。

難しい言葉では、嚮導機(きょうどうき)ともいうそうです。イギリスは、この戦闘機として、デ・ハビランド社の「モスキート」という飛行機を使いました。

驚くなかれ、木製でつくられた飛行機であり、このため「The Wooden Wonder(木造機の奇跡)」と呼ばれ、爆撃機を誘う夜間戦闘型以外にも、爆撃型や偵察機型、さらには旅客機型なども作られるなど、幅広い運用が行われました。

このモスキートという飛行機は、イギリスのロールス・ロイスが開発、生産したロールス・マーリンエンジンを両翼に1基ずつ搭載した双発機であり、コクピットには操縦士と航法士が並んで座る並列複座機でした。

エンジンやプロペラなどを除けばほとんど木材を使うという変わった構造で、当時でさえ時代遅れだと考える向きもありました。が、生産にあたって家具など木工分野の工場も動員できる上、木製ゆえレーダーに察知されにくい、表面を平滑にできるため空気抵抗では金属製よりも優れる、といった副次的なメリットもありました。

この当時の金属製の飛行機は板と板の接続を鋲で行いましたが、この突起により飛行機全体としては空力特性が落ちていました。木製であれば内部で接続が可能であるため、こうした突起が外に出ることはありません。

3つの異なる種類の試作機が製作され、爆撃機の試作機が1940年に初飛行を行い、翌年には夜間戦闘機型と写真偵察機型がそれぞれ初飛行を行い、それぞれ成功させました。こうして量産化が決まり、戦術爆撃機のほか、上述のパスファインダー、昼間及び夜間戦闘機、攻撃機、写真偵察機など、幅広い任務に投入されるようになりました。

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この機体を創ったのは、デ・ハビランド社という会社で、1930年代から既に合成木材を使った高速機の開発に実績がありました。イギリス航空省(Air Ministry)は、長引く戦争の中において鉄とアルミニウムが不足していることを憂慮し、使用されていない家具業界の資源とデ・ハビランド社の技術力を利用した木製の航空機が有用であると判断したのです。

その開発においては、当初3基の機関銃砲塔と機関銃要員6名を搭載することを前提に機体が設計され、これにマーリンエンジン2基を搭載しました。しかし平凡な性能しか発揮しなかったため、設計構想を何度かやり直し、エンジンを3基にする案も出されました。

しかし、同社の技術者たちは研究を進めていくうちにまったく別の方向性に気づきました。それは、必要のない重量がかさむものを思い切って全て取り除く、ということでした。機関銃砲塔を1つ1つ撤去していくうちに、性能は次第に改善されていき、なーんだ、防御火器を必要としないほど高速じゃないか、ということになりました。

重いものを減らせばスピードが出るようになるのは、当たり前のことではあるのですが、この結果、より効率的な機体の設計がなされ、小型エンジン2基搭載で乗員2名しか乗れないものの、いかにも高速な爆撃機が考え出されました。

それでも、計算上は、1,000ポンド (454kg) 爆弾を搭載することができ、2,500kmの距離を650km/hで飛行できるはずで、その性能は、鉄やアルミで出きた飛行機にはない性能であり、この特性を活用することで従来機と比肩できるものができると考えられました。

しかし、デ・ハビランド社の提示したこの案に対して航空省は、木製で武装を持たない爆撃機に疑問を拭いきれず、一度はこの構想を却下しました。が、同社はこの構想に不安な点はないと確信し、自社で開発を続けたいと考えました。しかし、資金調達は自腹を切ることになり、その開発には大きなリスクが伴うことになります。

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ところが、思わぬところに助っ人が現れます。既に退役寸前の老体でしたが、大将の肩書を持つウィルフリッド・フリーマンという人で、従来の数々の実績から空軍には幅が効きました。彼は木製機であるがゆえに高速で飛ぶという点に興味を惹かれ、同社を支援することにし、こうして、「フリーマンの道楽」と呼ばれる開発計画が始動しました。

陰口を叩かれながらも、社内呼称 D.H.98というプロジェクトがスタートしましたが、軍当局も「貴重なアルミ資源を浪費しない」という説得に折れ、渋々と貴重なマーリン・エンジンを回してくれました。このため一応、英軍側にも「B.1/40」というプロジェクト名が付けられました。が、実質は一企業による民間開発です。

しかし、誰も期待していないプロジェクトだけに高性能機開発にありがちな横槍も入らず、これが功を奏し、デ・ハビランド社の技術者たちは自分たちが培ってきた技術をのびのびと使うことができました。

軍への計画書が提出されてから2年後の、1940 年11月には早くも初飛行を迎えることができましたが、このとき、その試作機はいきなり 632Km/h という速度を叩き出し、「木製機など」と鼻で笑っていた空軍当局者達の度肝を抜きました。

この当時は、500Km/h程度の爆撃機が、「高速」と呼ばれていたわけですから、632Km/hははるかにこれを凌いでいます。軍は早速、これを偵察機として採用することとし、1940年3月に試作機のB.1/40を含む50機が同社に正式発注されました。

こうして、同機の製造が開始されましたが、ちょうどこのころ、イギリス軍は、フランスにおける西部戦線においてドイツ軍の猛攻の前に屈し、1940年5~6月には、ダンケルクの撤退という史上最大の撤退作戦を余儀なくされるなど、戦況はかなり不利な状態になっていました。

とくにイギリス空軍では戦闘機の不足などが深刻となっており、爆撃機の開発においてもその内容が見直され、航空省は先の爆撃機50機のうちの30機を重戦闘機に変更するように命令を出しました。これに加え、飛行に必要ないものを全て取り除いた専門の写真偵察機も試作するよう注文されました。

この偵察機は、1941年9月20日に初任務に就き、これがその後のこのモスキートの短くも華々しい活躍の嚆矢となりました。

その後の開発により、爆撃機型にも改良が加えられ、227kg(500ポンド)爆弾を胴体内爆弾倉に4個搭載することができるようになり、このタイプは1942年5月に第105飛行隊へ引き渡されました。

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以後、戦中を通じて実に1200機が以上の爆撃機型が生産されるようになりましたが、その過程においてさらに改良を重ねた結果、4,000ポンド(1,816kg)爆弾を爆弾倉に搭載できるようにまでなり、500ポンド爆弾なら最大で6個まで搭載できるようにもなりました。

また、この爆撃機型には、フル・オートマチックで射撃できるように改造した57mm対戦車砲と7.7mm機関銃2門を搭載するという重装備が施されました。航空省は、このような重厚な装備が有効利用できるわけがないと考えていましたが、実際に配備してみるとこれまでのロケット弾を上回る対艦攻撃力を発揮することが、後に分かりました。

このころから、モスキートはパスファインダー・フォース(嚮導飛行隊)にも配備され、夜間戦略爆撃の目標に目印をつける役(パスファインダー)を演じるようになりました。しかし悲しいかな木製であるため、当初の損耗率は高かったようです。

ただ、その後高性能レーダーなどを積載したものは、敵機をより効率的に避けることができるようになったため、同じ任務を実行した際の他の航空機に比べればその損耗率は最も低く、この爆撃機型モスキートは大戦終結まで投入されました。

一方、戦闘機型は、最初に夜間戦闘機型が実戦に就き、1942年1月に第157飛行隊に投入されたのを皮切りに、終戦までに466機が生産されました。

この戦闘機には、20 mm機関砲4門と、7.7 mm機銃4挺が積まれ、最新の機上レーダーを機首に搭載していました。しかし、当時のイギリス軍は、夜間戦闘の戦果がレーダーによるものであることをドイツ軍に知られるのを嫌い、これを隠蔽するため、夜間迎撃部隊のパイロットは優れた夜間視力を持っている、と喧伝していました。

そのために、パイロットたちは、毎日ニンジンを食べている、とPRしていたといいます。

現在、ニンジンに含まれるアントシアニンやカロテノイドが網膜の保護に効く、ということは医学的にも証明されているようですが、視力との因果関係は証明されておらず、ニンジンのために目が良くなったというのは、イギリス情報部による全く根拠の無い捏造話でした。

こうして、戦闘に投入された戦闘機型モスキートもまた、優れた性能を示しました。高性能レーダーを積んだ「パスファインダー・モスキート」は正確な爆撃コースへと重爆隊を誘導しましたが、これを墜とすため血眼になったドイツの夜間戦闘機の多くは随伴したこの高速な夜間戦闘機型モスキートの返り討ちに遭いました。

ドイツの空を我が物顔で飛び回るモスキートはドイツ軍にとって実にいまいましい「蚊」であったわけですが、それを撃墜できるドイツ機は新鋭ジェット戦闘機も含めて数機種しかなかったことから、夜空では圧倒的にイギリス軍が優位に立つことができました。

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このように爆撃と偵察、そして戦闘の全ての任務で常にトップクラスの性能を誇ったことで、これには敵ばかりか味方も驚き、これがこの航空機に「木製の驚異(Wooden Wonder)」という渾名が付けられ理由でした。

また、高性能レーダーを積んだ爆撃機型モスキートは、ドイツの海上輸送網を寸断しました。ドイツ自慢の潜水艦Uボートは、浮上中を狙われ、上述の57mm対戦車砲の餌食になりました。

一方では、モスキートは、人口密集地内でも重要軍事目標だけに正確なピンポイント爆撃を行うことができるという繊細な面も見せ、大馬力エンジンを積んだアメリカの四発重爆が絨毯爆撃によってドイツの街を見境なく瓦礫化していったのとは全く対照的な活躍をみせました。

モスキートはその高速を活かして戦時下の要人輸送にも使われました。この旅客機型は、爆弾倉部分に改造を施し、1名の乗客と貨物を搭載できるようにしたものであり、乗客だけでなく、新聞や雑誌などの反ナチス宣伝物を運ぶためにも活躍しました。

要人や重要書類を中立国スウェーデンに運んだ帰りの便にはお土産代わりに貴重なボール・ベアリングを満載したので、この高速便は「ボール・ベアリング・ラン」の異名で呼ばれました。500 回以上を数えたボール・ベアリング・ランの中で失われたモスキートは4機、しかも人命はわずか2名に過ぎなかったそうです。

こうして、モスキートは連合軍の作戦に欠かせない存在として戦争を戦い抜きましたが、極東でも対日本軍対策に使われました。ビルマ方面に投入されたモスキートがそれで、その高速性能ゆえに日本機に撃墜されることは少なかったようです。

しかし、アジアの高温多湿の気候が最大の敵となり、一部の機体を組み上げるのに使用したカゼイン系接着剤が劣化、ひび割れて機体外板が剥離して墜落事故をおこす、ということが頻繁に起きました。このため、1944年11月に全機を飛行停止にして調査した結果、使用する接着材の使用量が少なすぎたり、接着剤が高温で融けたりする欠陥機などが発見されました。

このため、これらの機体は直ちに廃棄処分され、その対策として迷彩塗装を止め、太陽光を反射する銀色塗装に変更されたことで、主翼内の温度を15度下げることに成功しました。もっともこれにより、低空飛行時の被発見率は高まってしまったといいます。

このようにたかが木製の飛行機と揶揄されたモスキートは、逆に多大なる成果を上げた航空機としえ大いに評価されるようになりましたが、戦時中は伝説的な働きをしたモスキートも、戦後はジェット化の波には逆らえず、第一線を引いていきました。

この飛行機は、全木製という構造化が災いして老朽化が激しく、長期にわたって飛行可能な状態を維持するのが困難です。戦後、内戦状態になった中国では、劣勢の国民党軍が安価な対地攻撃機を大量に必要としており、1948年にカナダ製モスキート180機が導入されました。

しかしその多くは機体寿命の短い木製機の中古であり、しかも船積みで輸送中に海水や高温で機体やエンジンにダメージを受けたため、この段階で28機が使用不能となりました。また一定以上の操縦技量も必要で、機体の不調や事故により実戦投入前に50機以上が失われてしまったそうです。

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その後昼間爆撃を中心とする実戦投入されたものの、移動の多くを夜間に行うゲリラ的な共産党軍に対してはあまり活躍できず、革命成立後も残った機は廃棄されました。現存するものとしては、イギリスのコスフォード王立空軍博物館にある1機などの数機のようです。

このモスキートのような、夜間戦闘機や爆撃機が夜空を飛んでいた時代には、灯火管制がしかれ、さぞかし夜空の星が良く見えたことでしょう。

現在ではさらに高性能なレーダー照準器や暗視装置のような光学機器が開発されてたため、仮に灯火管制を敷いても効果はないといいます。

1992年の湾岸戦争の際のバグダード市内では、厳重な灯火管制が敷かれましたが、アメリカ軍の高性能暗視装置や、GPS誘導技術などによる精密爆撃は著しく精度が高く、ほとんど無意味なものだったといいます。この教訓のためか、2003年のイラク戦争時には、積極的な灯火管制は行われなかったそうです。

戦争が終わって平和になった日本でも灯火管制が行われることはなくなりましたが、夜空をみんがための灯火管制を実施する制度といったものが、導入されてもいいのでは、と個人的には思ったりもします。

福島原発の事故によって計画停電が実施されたときの東京の夜空は実に綺麗だったといいます。皆既月食などの天文ショーが見られる夜くらいは、計画停電ならぬ、計画灯火管制などを行うことなどをぜひ制度化していただきたいと思うのですが、いかがなものでしょうか。

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笑い三年泣き四月

2015-06545月になりました。

ウソです。

ということでエープリルフールです。これでひとつウソをついたので、もう今日は嘘をつくのはやめようと思います。

これもウソです。

というわけで、我々は意識しているしていないに関わらず、たいして罪悪感もなく、むしろ面白がってよくウソをつきます。

基本的に、嘘は悪いこと、とされますが、嘘の中には許容されるものも多いようです。しかし、どのような嘘が許容されるかは、時と場合によるでしょう。「嘘も方便」ということわざもあり、人を救ったり、処世術のためならばよかろうというのが一般的です。

また、人を喜ばせるためのウソも良しということで、イギリスやアメリカなどでは、他人を喜ばせるための嘘は「white lie」といい、これは「良い嘘」というほどの意味です。

さらに、人とのコミュニケーションの中で、嘘はこれを円滑にする効果がある場合もあります。例えば夫婦や恋人との会話の中で、「私を気づかって、朝音をたてないように出っていってくれたでしょう」、「いや、そんなことないよ、ドアが痛まないように静かに閉めていっただけさ」といった具合です。

これはもちろんウソなわけですが、ウソをつかれた女性が男性をうっとうしいと思うかといえばそうではなく、奥ゆかしくて男気のある、そしてユーモアのある男性だと思い、より好きになったりするわけです。

が、実際にはパチンコに出掛けるのをとがめられるのが嫌で、そっと出かけていったのにすぎなかったりもします。

このほかにも、大多数の人は、ある程度の言い訳や責任転嫁などの嘘は無意識的、日常的に行っています。なので、一応、この程度のウソならば精神医学的に言えば「正常」の範囲内です。

が、その範囲を超えて、あえて積極的にウソをつき、相手を笑わせるというのは、ジョークの範疇に入ってきます。聞き手や読み手を笑わせたり、ユーモアを感じさせる小咄などのことであり、日本語では冗句と当て字されることもあります。

「悪ふざけ」と違うのは、これはある程度悪意を持って相手にしかけるものであり、道徳的に問題視されることも多いわけで、相手に好意をもって言うジョークとはおのずから性質が違います。

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ジョークにもいろいろあって、ユーモア、駄洒落、風刺などさまざまですが、その結果得られるのはやはり「笑い」です。

人を笑わせる、といことは楽しいもので、ジョークを仕掛けられた相手も楽しくなります。

では、なぜ楽しくなるのか。これは、笑いによって自律神経に刺激が与えられるからだ、と説明されているようです。自律神経は、交感神経系と副交感神経系の2つの神経系で構成されていて、交感神経というのは、「闘争と逃走の神経(Fight and Flight)」などとも呼ばれるように、激しい活動を行っている時に活性化します。

一方、副交感神経は、安静時に重要となる消化管の機能を司ったり、心拍数を減少させ、血圧を下げて皮膚と胃腸への血液を戻したり、といった役割があり、安らぎ・安心を感じた状態のときに優位で、副交感神経が優位な状態が続くとストレスが解消されます。

笑いによってこれら二つからなる自律神経に刺激が与えられると、交感神経と副交感神経のバランスの状態が代り、副交感神経が優位の状態になります。この結果、より安心できる、安らぎを感じる、といった状態になり、これが「楽しい」と感じられるわけです。

一方、怒りや恐怖を感じたときなどの異常な事態の時には交感神経が優位になります。したがってその状態が長く続くとストレスの原因になります。

また、笑うことで全身の内臓や筋肉を活性化させたり、エンドルフィンという神経伝達物質が血液中に大量に分泌されるそうです。

これはモルヒネ同様の作用を示す物質ということで、多幸感をもたらすと考えられており、そのため「脳内麻薬」とまで呼ばれます。麻薬、といわれるとついつい中毒になるのでは、と考えてしまいますが、確かに「笑い上戸」のことばもあるように、笑いにはそうしたところがあります。

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とはいえ、薬害のある本物の麻薬とは異なり、一般的には医学的にみても笑いは体に良いものだとされているようです。従って人々の笑いを誘うような巧妙なジョークは、社会的にも認められやすく、それゆえに、エイプリルフールが認められているのであり、このほかにも喜劇や、落語、漫才、コントといったものが職業として成立するわけです。

彼等にしてみれば年から年中がエイプリルフールのようなものであり、いかに多数の笑いを取るか、ということが命題です。日本では、1980年代に前半に「漫才ブーム」が起こり、多数のお笑い芸人さんが生まれました。

この漫才ブームに火をつけたテレビ番組は「花王名人劇場」(関西テレビ)・「THE MANZAI」(フジテレビ)などだといわれており、その後「お笑いスター誕生!!」といったお笑い界のホープを探し出す番組などが増え、さらにはお笑い界のチャンピオンを決める、「M-1グランプリ」といった番組が次々とできて、人気を博しました。

この1980年代初頭のブームを第一次お笑いブームとするならば、その後、第二、第三のブームが続いており、現在はその4番目か5番目かのブームとされるようです。

こうした数々のブームの中からは、その後バラエティなどでも活躍する大物タレントが多数輩出され、さらにお笑い界は、演劇界とも結びついて、俳優女優として活躍する芸人も多数でるようになりました。

映画監督としても有名になったビートたけしさんや、とんねるず、タモリ、明石家さんま、片岡鶴太郎、山田邦子などなどと枚挙のいとまがありませんが、彼らに憧れて、お笑いの世界に入る若者も後を絶たず、大学を卒業してまっしぐらに吉本興業の門をたたく人もいるようです。

漫才ブームが後世に残した影響は計り知れないといえ、まさにお笑い恐るべしです。私自身は、あまりお笑い番組は見ないほうなのですが、お付き合いでごくたまに見ることもあり、そうした場合はやはり笑ってしまい、楽しい気分になれます。

が、夢中になってそうした番組ばかり見たくなるか、といえばそうでもなく、ましてや自分で漫談やコントをやってみようとは思いません。

強いて言えば落語なら少しやってみたいかな、という気もしますが、何にせよ、人から笑いを取るというのは、なかなか容易なことではなく、一朝一夕にその技術は実に付きません。

「笑い三年泣き三月」というのは、義太夫節の稽古で、笑い方のほうが泣き方よりずっと難しい、とされたことから生まれたことわざですが、芸事の世界では、笑わせるのも泣かせるのと同じくらい難しいようです。

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こうした漫才や落語は、玄人の域に達したものは社会的にも「芸術」とみなされるほど高尚なものでもあります。先日亡くなった三代目桂米朝さんは、1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、さらに2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章を受章しています。

また、漫才も古くは「萬歳」と呼ばれた古典芸能であり、加賀、越前、三河、尾張などに伝わる各萬歳は、国の指定重要無形民俗文化財に指定されているものです。

こうした笑いの「源流」を辿ってみると、一番古いのは、「古事記」に記されている、アマテラスオオミカミの岩戸隠れのエピソードが、日本で最古の笑いだといわれます。

太陽の神アマテラスオオミカミが、弟スサノオノミコトの乱暴狼藉に腹を立て、岩の洞窟である天岩戸(あまのいわと)に閉じこもってしまい、そのため世界が真っ暗になり災いが起こりました。

そこで神々はアマテラスオオミカミをおびき出す為に岩戸の外で大宴会を行い、女神アメノウズメは着衣を脱いで全裸でこっけいな踊りを披露したところ、これを見て八百万の神々が一斉に大笑いした、という例のはなしです。

その笑い声が気になったアマテラスオオミカミが、岩戸を少しだけ開けて様子をうかがった所、神々の連携プレーで外に連れ出され、再び世界に光が戻った、めでたしめでたし、というわけです。この神々を笑わせた芸能の女神アメノウズメは日本最古の踊り子と言え、また最古の芸能人ということもいえます。

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このように、古代社会においては「芸能」というものは、神や支配者を楽しませるもの、奉納するものとしての要素があったわけで、「竹取物語」、「今昔物語」などにも、こうした、おかしみのある話が多数納められています。

その後、これらは物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能として発達していきましたが、それらの中から出てきたものが、能や歌舞伎、人形浄瑠璃(文楽)といったものです。

江戸時代までには、武士の世界で、面白い話を主人などにする「御伽衆」なる職業が成立し、こうした話芸に秀でた人々がまとめた講釈話が庶民に広がり、講談や落語の源流となったと言われています。

滑稽な話を集めた「笑話集」的なものも多数発刊されるようになり、「醒睡笑(せいすいしょう)」「昨日は今日の物語」「浮世風呂」などがヒットしましたが、後世で最も有名なのは十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などでしょう。

「エレキテル」で有名な平賀源内も、「笑府」というお笑い本の抄訳「刪笑府」を出版しているぐらいで、そのほかいわゆる「小咄(こばなし)」といわれるようなショートショートコントの原案も、元はこうした和漢の笑話本の翻案に由来しているものが多いとされています。

また、江戸時代初期にはじまって盛んになった「滑稽噺」は、上方では「軽口噺」とも呼ばれ、特に「落ち」が特徴的だったので江戸中期には「落し噺」と呼ばれるようになりました。明治に入って「おとしばなし」を「落語」と書くようになり、明治中期以降はこれを「らくご」と呼ぶようになりました。

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このように、日本における「笑い」は、芸能と結びついて独特の文化の源流となってきましたが、世界的にみると、こうした笑いを「芸術」にまで昇華させたものというのはほとんど例をみません。

「喜劇」はあるいは日本の「狂言」に近いものかもしれませんが、各国でこれを独自の文化としたものは少なく、フランスやイギリスで「スケッチ・コメディー」と呼ばれる笑いを題材にした寸劇が流行した時期があったぐらいです。

演劇のジャンルのひとつであり、19世紀の中ごろからイギリスで発達した文化ですが、そもそも本劇の合間に、酒を飲んだ観客が囃し立て劇場内を盛り上げるためのようなものだったようです。

ところが、その後酒を販売することを禁止する「劇場法」というものが制定されたため劇場では演じることができなくなり、ミュージックホールのような大衆酒場も兼ねたところで、演じられるようになりました。

が、師匠が弟子をとってその技術を伝承していくような類のものではないようであり、ましてや国が認定して賞を与えるようなものではなく、どちらかといえば大道人芸に近いものだったようです。

このほか、「笑劇」というのがあり、これも「道化芝居」ともいわれるもので、観客を楽しませることを目的とした、演劇または喜劇の1形態ではあります。が、これはヴォードヴィルと並んで最も低級なものとされています。

ヴォードヴィル(vaudeville)は、日本語ではボードビルともいい、これは、17世紀末にパリの大市に出現した演劇形式です。その後アメリカにも伝わり、舞台での踊り、歌、手品、漫才などのショー・ビジネスを指すことばとなりましたが、本場フランスと区別するために、「アメリカン・ヴォードビル」と呼ばれるようになりました。

イギリスでは、これがミュージック・ホールで演じられ、上述のように「笑劇」と称されました。イギリス英語では“farce(ファース)”がこれに該当します。

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このヴォードヴィルやファースは、実はその後の映画界において重要な役割を持つようになりました。

発明王として有名な、トーマス・エジソンは動画撮影機「キネトグラフ」を発明した、といわれていますが、これは実は部下のウィリアム・ディックソンの発明です。

しかし、自らはこの映画のプロデューサーとして活躍し、1893年には、自分の研究所の敷地内にアメリカ初の映画スタジオ「ブラック・マリア」を設立し、キネトスコープ用の白黒フィルムを制作しはじめました。そして1901年にはマンハッタンに、1907年にはブロンクスに新しい映画スタジオを開き、約1200本のフィルムを制作しています。

ヴォードヴィルやファースの演芸場は、もともとはこうした映画を観客に見せるための前座でしたが、エジソンは、自らが製作した映画の題材のいくつかにヴォードヴィルの見せ物を取り上げています。

その後、映画はエジソン以外の企業家によっても造られるようになり、その中でもヴォードヴィルは、映画の主題として扱われるようになりました。そして、初期サイレント映画の中でもとくにもてはやされるようになっていきます。

このサイレント映画は、映画の歴史の中で重要な位置を占めており、その理由はチャーリー・チャップリンやバスター・キートン、ローレル&ハーディ、マルクス兄弟、ジミー・デュランテといった、その後の映画界を代表する役者たちを登場させたからです。

こうした1910年代から20年代のサイレント・コメディの有名なスターたちは、ヴォードヴィルやミュージック・ホールに出演したのちに映画産業に入りました。

観客を笑わせること及び観客の笑いを引き出すことを主目的としたこうした喜劇映画の中でも、特に体を張ったコメディ映画のことスラップスティック・サイレント・コメディといい、日本では「ドタバタ喜劇」と訳されるこれらの映画は、次々に大ヒットしました。

そして彼らはヴォードヴィルの伝統をトーキーの時代になっても続けていきましたが、その後あまりにも映画という産業がビックになったため、ヴォードヴィルそのものに出演する役者はいなくなり、結果的には映画がその形態を衰滅させる、という皮肉な結果になりました。

このように、欧米における「笑い」を題材とする産業の発達は、日本とは全くといっていいほど違う発展を遂げてきたわけです。

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この映画は今や日本にも浸透し、数々の喜劇映画なども作られていますが、同じ大衆演芸の笑いを源流とする能や歌舞伎と違って、どこか軽薄な感じがするのは、その歴史が浅いからでしょう。

スケッチ・コメディーの発祥から160年ほど、またエジソンらのキネトグラフの発明からは120年ほどしか経っておらず、日本の能や狂言の起源といわれる、散楽や猿学は既に平安時代からあるといわれています。だとすると、1000年以上のお笑いの歴史があることになります。

ヨーロッパでも昔は古代の日本のような原始的な大衆芸能があり、その中で扱われたお笑いがあったはずなのですが、それが日本のように芸能として育まれなかったのは、やはり多数の国が隣接し、戦争と併合・分離を繰り返すことで、ひとつの文化として育てることができなかった、ということが挙げられるでしょう。

一方、中国やインドといったアジア諸国も、ヨーロッパほどではないにせよ、やはり隣国と接する機会が多く、ヨーロッパと同じく独自の芸能文化が育まれにくかったでしょう。もっとも中国には京劇といった伝統芸能があるようですが、これも発祥はせいぜい18世紀のころのようです。

日本は島国であり、一つの文化が他国の文化と交わることもなく独自化し、またその中で枝分かれして成長し熟成する時間が長かっただけ、その内容が濃くなったということは当然といえるでしょう。

しかし、現在のように欧米はもとより、仲の悪い中国や韓国との関係もそれなりに保っている中で、従来のような独自文化がそのまま維持されるとは限らず、時間を経て変わっていく可能性は大です。

例えば、歌舞伎にすれば、「スーパー歌舞伎」に代表されるように、より現代人には馴染みやすく、また外国人にも楽しめるようなものに変わってきており、変化することで進化する、ということを実践しているように思われます。

落語や漫才もしかりであり、最近は英訳されたものがあちらの人には結構受けたりするだけでなく、欧米人で落語家をめざす人なども出てきているようで、いまや伝統的な日本のお笑いもグローバル化しつつある時代といえるようです。

世界中が日本の文化で笑う、という時代もくるかもしれず、そうだとすると我々の責任は重大です。世界を笑いのるつぼの中に落とし込むことは、平和にもつながるからです。

冒頭で、笑いは医学的にみて色々なメリットがあることを書きましたが、このほかにも笑いには免疫系の「NK細胞」の活性を高めるなどの健康増進作用があると言われており、日本のお笑いは医学にも貢献しそうです。

このNK細胞というのは、癌を抑える効果があるとされる細胞で、「ナチュラルキラー細胞」とも呼ばれ、ガンの予防と治療の効果があるとされるものです。

上でも笑うと自律神経のうちの副交換神経が交感神経が活発になりと書きましたが、この二つの神経の頻繁な切り替えが起こると、その脳への刺激により、免疫機能を活性化するホルモンが全身に分泌されます。

このホルモンのことを、「神経ペプチド」といいますが、NK細胞はこの神経ペプチドを受け取ることによって活性化されるのです。

つまり、笑いは癌をやっつけてくれる、というわけで、癌撲滅のためのひとつの手段にもなりうる可能性を秘めているわけです。このほか、笑いは糖尿病の治療にも有効との研究もあるようです。

さすれば、全国にある癌の研究センターなどでも「お笑い研究室」なるものを作って研究をスタートさせればいいのでは、と私などは思うのですが、今のところその動きはなさそうです。

今日4月1日にそうした研究所ができた、とするウソが出回れば面白いのに、と思ったりもするのですが、どこかの新聞社かテレビ局がこのブログを読まないでしょうか。

そんなかんなで、もう4月です。一年の4分の1が過ぎたことに唖然としている人も多いと思いますが、私も同じです。

今年の初めに計画立てたことを現実にしようと思えば、まだまだ頑張らなくてはならず、とても笑ってばかりはいられません。

が、そんな中でもスマイル、スマイル、と毎日を過ごしましょう。笑う門には福来るといいます。しかし、「笑い三年泣き三月」のことわざにもあるように、実は笑うというものは意外にも難しいものです。

福を呼び寄せるためにも、今年はぜひいつでもどこでも笑える技術を身に着けることにしましょう。

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けじめの季節

2015-01483月30日。

……ついつい思い出してしまうのが、その昔流行った「フランシーヌの場合」という歌です。

フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ

覚えているのは、私より上の世代の方々だと思いますが、このフランシーヌとは誰ぞや、と改めて調べてみると、これは、当時30歳だったフランス人女性のフランシーヌ・ルコントという人のことのようです。

1969年3月30日にパリで起こした政治的抗議のために焼身自殺したとのことで、これを歌ったのは、「新谷のり子」という人です。幼い頃から歌が好きで、歌手になろうと高校中退して北海道より上京、銀座のクラブで歌うようになりましたが、同時に学生運動の闘士でもあったそうです。

成田空港建設に反対する三里塚闘争に参加するようになり、ここで出会った市民運動家の紹介で、そのころCMソング作家として活躍していた作曲家と懇意になり、「フランシーヌの場合」を渡され、同曲でメジャーデビューすることになりました。

このフランシーヌが亡くなった年より9年前の1960年の6月15日には、全学連7000人が国会議事堂に突入を図り警官隊と衝突し、このとき、東大生だった闘争家、樺美智子が亡くなりました。これにちなんで、この日は運動家の間では「安保の日」とされており、このレコードは1969年の同日に発売され、約80万枚を売る大ヒットを記録しました。

新谷氏は、その後も闘争に参加しながら芸能活動を続けましたが、2枚目のシングルは、「さよならの総括」といい、左翼団体が暗躍していたこの時代の世相を表したものであり、「総括」という単語への嫌悪感からかあまり売れなかったようです。

このため、次第に歌うことの意味を見失い、メディアからは遠のいていき、また銀座のクラブ歌手に戻りましたが、徐々に政治意識をとりもどし、その後は朝鮮問題や部落問題にも取り組んだといいます。現在69歳になっておられるようですが、5~6年前に久々にテレビに出演し、往年の「フランシーヌの場合」を披露されたとのことです。

それにしても、明日で3月も終わりです。

もう4月か、といつものように時の流れの速さを思ってしまうわけです。なんとか時間を止めたいところですが、止まりそうもありません。この分だと、あっという間にジジイになりそうなので、なんとか歳をとらない方法はないでしょうか。もっとも既にジジイであるわけであり、ジジイがと更に齢を重ねてもやはりジジイであるわけですが……。

……新年度となり、新しいピリオドが始まる時期でもあります。それにしても、なぜ日本では4月が新年度のスタートなのでしょうか。

調べてみると、明治維新当初の明治7年、日本は旧暦から新暦への改暦に合わせて、年度を「1月~12月制」に変更するとし、明治6年(1873年)1月から実施していました。しかし2年後の明治8年(1875年)地租、すなわち土地への課税金の納期に合わせて、「7月~6月制」が導入されました。

従ってそのままいけば、現在でも7月が年度初めのはずなわけです。ところが、その後日本は軍備増強の中で無謀にも帝国海軍の大規模な拡充計画を推し進め、これが原因で著しい財政赤字に陥りました。

明治17年度(1884年度)は従来どおり、7月から始まりましたが、どうにもこうにも金がなくなり、いよいよ国庫の金が底をつきそうになったことから、税金のひとつである「酒造税」については、翌年の明治18年度に入る分を無理やり前年度に繰り入れしてしまいました。

例年だと酒造税の納期の第一期は4月です。その帳尻を合わせるための唯一の方法は、その翌年の4月から新しい年度が始まる、ということにして、この繰り入れてしまった税収を補うことでした。こうして、明治19年度(1886年度)より酒造税の納期に合わせて4月を年度初めとすることになり、その年だけは、酒税の4月の納税が二度行われました。

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国民にしてみればいい迷惑だったわけですが、これが慣習となり、以後、4月が年度初めとなったわけです。そして、この会計年度に合わせ学校や企業なども4月を年度はじめとするようになりました。

現在では何から何まで4月が新しい年度のスタートとされます。学校・官公庁・会社などでは一斉に入社式・入学式が行われますが、このうち入学式の時期はちょうど桜の咲く季節であり、これはまるで、学校に入学することを許可されたことをお祝いをするようで、うってつけの時期ではあります。

このように、日本では一般に春の行事であるわけですが、しかし、欧米では、一般に学校の入学は9月ごろであることが多く、秋の行事です。最近東大をはじめとして、秋に入学時期をずらそうという動きがあるようですが、これも海外からの留学生を増やしたいがための措置のようです。

では、入社式はどうかといえば、こちらはあいも変わらず4月入社というところが多いようです。しかし、欧米やその他の国では4月一斉入社などを行うところはなく、そもそも入社式なるものを行うのは、日本くらいのものです。これはなぜでしょうか。

まず考えられるのは、欧米などの他の国では、卒業時期がそれぞれの学生によって異なるということ。また、企業のほうもそれゆえに、新卒の学生を定期的に採用する事がない、ということがあげられます。

さらに欧米では企業においては「即戦力」である事が重視されます。従って実務経験が全く無い新卒者を手厚く迎える事はありません。もちろん、新卒者が卒業後、すぐに正社員として迎えられる場合もありますが、多くの場合は在学中に「インターンシップ」や「パート・タイム・ジョブ」を経験してから会社に入ります。

あるいは、「契約社員」という形で入ることも多く、このように社会経験を積む事によって、正社員のポジションを獲得していきます。

しかも、彼の国々では比較的頻繁に転職をしますし、退職時期も人によって様々です。なので、いつどのポジションに欠員が出るかを予測する事が出来ないため、必要な人材を必要な人数だけ必要な時に採用するのが一般的、というわけです。

ですから、日本のように、ある時期に一斉に新卒の学生が就職をする、という事はほとんどなく、おのずから入社式も無い訳です

従って、外国人にすれば日本の入社式というものが不思議でしょうがないようです。また、この儀式も独特なものであり、その年に入社する新入社員を一堂に集めて、経営首脳による訓示等を行う、という光景は欧米ではまず見られません。

事業体によっては、入行式、入庫式、入組式、入庁式、辞令交付式、入職式などとその名称まで変わるわけで、ますますわけがわからなくなります。

それでは、なぜ新卒一括採用方式をとり、入社式をするのか。これは、日本では、実務経験の無い新卒者を採用してから「育てていく」という考え方が浸透しているためのようです。そして、入社式で社会人としての「けじめ」をつけさせ、社会の一員として自覚をつけさせる、という目的もあります。

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こうした入学式や入社式以外にも、何かと日本人はけじめをつけるのが好きです。では、そもそもけじめとなにか。これは、連続する物事などの境目、区切れです。何等かの一定の形式にのっとった一定の規律をもつ行為でもあり、「儀礼」ともいいます。

人生にはいろんな境目があります。日本では入学や入社だけでなく、出生、成人、結婚、死などの人間が成長していく過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与することが求められることが多いものです。このとき、何等かのかたちで「儀礼」を行うわけで、これらは一括して、「通過儀礼」といいます。

人生儀礼ともいいます。英語ではイニシエーションといいます。大昔に行われていたものは、だいたいが割礼や抜歯、刺青など身体的苦痛を伴うものでした。割礼とは、男子の性器の包皮の一部を切除する風習であり、主に欧米で行われていた風習です。

いかにも痛そうですが、なんでこんなことをしたかといえば、これは包皮切除をしていれば性病のような症状が発生しにくいからです。包皮が取り除かれ、亀頭粘膜が角質化するため、性器が乾きやすくなります。また、ウイルスが粘膜上で生存する可能性が低減されるなど、ある程度の医学的根拠はあるようです。

このため、欧米では、1990年代までは生まれた男児の多くが出生直後に包皮切除手術を受けていたといい、アメリカの病院で出産した日本人の男児が包皮切除をすすめられることも多かったようです。

しかし、包皮の有無に関わらず多くの性病に関しては陰茎の洗浄を行っているかが重要であり、ウイルスが表面上に滞在することによる感染を防ぎたいのなら、性行為後に念入りな洗浄を行えば包皮の有無は関係しなくなります。このため、こうした知識が普及した現在では欧米でもこれをやる国はかなり減っているようです。

一方の日本では、こうした割礼という通過儀礼は定着しませんでした。と、いうか考えつきもしなかったでしょう。これはキリスト教ほか割礼を推奨する宗教があまり根付かなかったためです。もっとも、キリスト教に帰依していた一部のクリスチャンはやっていたのでしょう。詳しくは調べていませんが。

しかし、多くの日本人は仏教徒であり、そうした庶民の場合は、男子の場合、米俵1俵(60~80キログラム)を持ち上げることができたら一人前とか、地域の祭礼で行われる力試しや度胸試しを克服して一人前、1日1反の田植えができたら一人前などという、年齢とは別の成人として認められる基準が存在しました。

また、女子の場合には子供、さらに言うならば家の跡継ぎとなる男子を出産して、ようやく初めて一人前の女性として周囲に認めてもらえる、ということも多かったようです。

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一方、武家階級では、ご存知のとおり元服というものがありました。服装、髪型や名前を変える、男子は腹掛けに代えてふんどしを締めるといったことであり、女子では成人仕様の着物を着て厚化粧などをする、といったことが行われました。

しかし、武家社会が崩壊した明治以降は、この風習は無くなりました。それと同時に欧米から「会社」という概念が導入され、多くの企業が誕生するようになりました。社員は、会社員ともいい、すなわち給料をもらって働く従業員です。給料は英語でサラリーということからサラリーマンともいいますが、この“salaryman”は元々和製英語です。

大正時代頃から、大学卒で民間企業に勤める背広にネクタイ姿の知識労働者を指す用語として、このサラリーマンはよく使われるようになりました。

この日本のサラリーマンこと、会社員は、「年功序列」で出世していきます。官公庁、企業などにおいて勤続年数、年齢などに応じて役職や賃金を上昇させる人事制度・慣習のことを指し、日本型雇用の典型的なシステムです。

日本においてこのような制度が成立した理由のひとつとしては、組織単位の作業を好むという国民性があり、このため成果主義を採用しにくかったことがあるようです。日本では何かと「和」が重んじられます。集団で助け合って仕事をすることも多く、この場合は、個々人の成果を明確にすることが難しくなります。

しかしそれでは給料に差異をつけられないため、そこで、組織を円滑に動かすためには従業員が納得しやすい上下関係をつくればいい、ということになりました。日本には、年少者は年長者に従うべきという儒教的な考え方が古代から強く、この考え方は浸透しやすかったようです。

つまり、長く働いた人ほどエライ、ということであり、年功序列制度は、集団組織というものを重視しつつ給料格差をつけるといったニーズを満たす合理的な方法でした。

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和を重んじ、争いを嫌う国民性にとっては、こうした年功序列は最も波のたたない、リスクの低い確実な労働制度だったわけです。しかし、年功序列を制度として保つためには、同じ社員を永続的に雇用していく必要があります。

人は誰でも齢をとりますから、死ぬまで雇うというわけにはいきません。が、ある程度の年齢まで行ったらやめて貰うものの、この間の雇用は保証するし、長年働いてくれたご褒美に退職金もあげよう、とすれば皆が納得しやすくなります。そしてこれが「終身雇用制度」です。

現在は事情が変わってきているとはいえ、大企業の場合は、だいたいが終身雇用制であり、ほとんどの社員が大学卒業後に入社した会社で定年を迎えています。

この年功序列と終身雇用制度を組み合わせは、会社人事を検討する上でも好都合です。なぜならば合わせてうまく運用すれば、どの職務にどのような人材がどの程度必要なのかをある程度予測できるからです。

1年も前から人数と職種を決めて新卒者を採用する事が可能になるわけであり、永続して「年功序列」と「終身雇用制度」が保たれていれば、毎年3月にはそれぞれの企業で定年に達した社員が一斉に退職していきます。これにより人員を補充する必要がありますが、そこに新入社員が毎年入って来てくれる、というわけです。

この年功序列に近いものは江戸時代にもありましたが、商家や職人などごく一部の社会だけでした。武士の多くは藩主から雇われている身であり、身分毎に異なる扶持をもらって生活していましたが、年齢には関係なく定額制です。

農民に至っては、米や作物を自ら生産するだけで、たくさん働いてたくさん作ったから、長く働いたからといっても上に行けるというわけではありません。

一方の終身雇用のほうは、起源は丁稚奉公制度ではないかといわれることもあるようで、商売人では近いかたちがあったようです。が、武家社会ではそれぞれの「家」が主体であり、その職務は世襲制でした。このため、一生同じ職業に就くことは普通でしたが、これは社会全体の仕組みにのっとったものであり、現在の会社組織の終身雇用とは少々違います。

そもそも士農工商それぞれの身分で違う生産システムが決められていて、皆で頑張って利益をあげるという、会社組織というようなものもなかったわけです。

従って社会全体の通念としての終身雇用、というものはありませんでした。現在のような長期雇用慣行の原型がつくられたのはやはり明治になってたくさんの会社ができるようになってからです。また、定着したのは大正末期から昭和初期にかけてだとされているようです。

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明治末期から大正にかけては、いわゆる殖産興業がとくに盛んな時期であり、多くの職人がいた時代でしたが、とくに1900~1910年代ころは熟練工の転職率が極めて高かったそうです。より良い待遇を求めて職場を転々としており、当時の熟練工の5年以上の勤続者は1割程度でした。

企業側としては、熟練工の短期転職は大変なコストであり、このため、大企業や官営工場では、その足止め策として定期昇給制度や退職金制度を導入しました。これが現在の終身雇用の原型です。

しかしこの時期の終身雇用制は、あくまで雇用者の善意にもとづく解雇権の留保であり、明文化された制度としてあったわけではありませんでした。このため、その後、終身雇用の慣行は、第二次世界大戦による労働力不足による短期工の賃金の上昇と、敗戦後の占領行政による社会制度の改革により、一旦は衰退しました。

ところが、その後日本は高度経済成長時代を迎え、50年代から60年代にかけては、神武景気、岩戸景気と呼ばれる好況のまっただなかにあり、多くの企業の関心は労働力不足にありました。このため、この時期に特に大企業における長期雇用の慣習が復活し、一般化しました。

1970年代に入ると、種々の裁判で労働者の不当解雇が会社の責任である、とされたことや、多くの企業で労働組合が結成されたことから、実質的に会社側の解雇権の行使も制限されるようになり、戦前まではあくまで慣行であった終身雇用が制度として認められ、人々の間に定着するようになっていきました。

ところが、最近は、長引く不況によって終身雇用を見直したり、中途採用を行ったりする企業が増えてきており、新たな時代に突入しようとしています。

雇用制度を見直す過程で、入社式を行なわない、といった会社も増えているようであり、学校なども秋季入学などが増えていく中、学生の卒業時期もランダムになっていくと思われます。このため通過儀礼としての入社式というものは、そのうちなくなっていくか、激減していくに違いありません。

さすれば、4月の桜の咲く時期の入学式や入社式といった風情もなくなっていくのか、と少々寂しい気もしますが、冒頭でも述べたとおり、そもそもは4月が年度初めなどというのは政府の気まぐれから決まったようなものであり、こだわる必要はないわけです。

通過儀礼としての入学式や入社式も新しい時代に合わせて撤廃するか、形を変えていくかすればいい、と個人的には思う次第です。最近選挙権の行使も20歳から18歳へ引き下げられましたが、これも通過儀礼と言えなくはなく、時代の変化に応じてその内容が変わった良い例です。

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もっとも、現代の日本においては、幼少時の七五三や、老年期の還暦や喜寿の祝いなど、一定の年齢に到達することで行われる通過儀礼はまだ根強く残っており、これらは古きよき伝統ともいえ、あえて撤廃する必要もありません。

ただ、これらの儀礼は、昔ほど明確には意識されていないようで通過儀礼とみなされるほどのものではなくなってきています。それを行ったからといって必ずしも人生の節目や個々の成長の証しと認められるような性質のものではなくなってきているようです。こうした儀式をやらない人は増えているようであり、さらに形骸化していくのでしょう。

一方、まったくなくなってしまった通過儀礼の中には、「徴兵検査」というものもあります。男子の場合、明治の徴兵令施行から太平洋戦争が終結した1945年までは、「国民皆兵」の体制が取られ、徴兵検査がその通過儀礼となりました。

徴兵検査で一級である甲種合格となることは「一人前の男」の公な証左であり憧れの対象でもありました。徴兵検査により健康状態や徴兵上の立場が明らかにされることは、当事者の社会的・精神的立場にも影響を与えました。

現役兵役に適さないとされる丙種合格であった、作家の山田風太郎は、自らを「列外の者」と生涯意識する要因になったと述べています。また、1938年にはこの丙種合格判定をめぐって、日本犯罪史に残る大量殺人事件も起きています。

これは、「津山事件」といい、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件です。犯人の姓名を取って「都井睦雄事件」とも、30名が死亡したことから、「津山三十人殺し」とも言われます。

2時間足らずで30名(自殺した犯人を含めると31名)が死亡し、3名が重軽傷を負うという、犠牲者数がオウム真理教事件(27名)をも上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件でした。

犯人の都井睦雄(といむつお)は1917年(大正6年)、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市)に生まれました。幼い時に両親が病死したため、祖母が後見人となり、その後一家は祖母の生まれ故郷の貝尾集落に引っ越しました。

都井家にはある程度の資産があり、畑作と併せて比較的楽に生活を送ることができたようで、都井も尋常高等小学校に通わせて貰い、成績は優秀だったようです。しかし小学校を卒業直後に肋膜炎を患って医師から農作業を禁止され、無為な生活を送るようになります。

病状はすぐに快方に向かい、実業補習学校に入学しましたが、姉が結婚した頃から徐々に学業を嫌い、家に引きこもるようになっていきました。このため、同年代の人間と関わることはなかったものの、この地域での風習でもあった「夜這い」などの形で近隣の女性達と関係を持つようになっていったといいます。

事件の前年の1937年(昭和12年)に20歳になり、徴兵検査を受けました。この際、結核を理由に丙種合格となり、入営不適、民兵としてのみ徴用可能とされ、実質上の不合格となりました。そしてこの頃から、それまで関係を持った女性たちに、丙種合格や結核を理由に関係を拒絶されるようになっていきました。

翌年、狩猟免許を取得して津山で猛獣用の12番口径5連発ブローニング猟銃を購入。毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至ります。

この頃から犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金をしていたといいます。しかし、祖母の病気治療目的で味噌汁に薬を入れているところを祖母本人に目撃され、そのことで「孫に毒殺される」と大騒ぎして警察に訴えられました。このために家宅捜索を受け、猟銃一式の他、日本刀・短刀・匕首などを押収され、猟銃免許も取り消されました。

都井はこの一件により凶器類を一度はすべて失いましたが、知人を通じて猟銃や弾薬を購入したり、刀剣愛好家から日本刀を譲り受けるなどの方法により、再び凶器類を揃え、犯行準備を進めていきました。

ちょうどそのころ、以前懇意にしてい女性が、嫁ぎ先から村に里帰りしてきましたが、それがちょうど運命の1938年(昭和13年)5月21日の前日でした。

5月20日午後5時頃、都井は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させました。しかし村人たちは停電を特に不審に思わず、電気会社への通報をしたり、原因を調べたりはしませんでした。

午前0時を過ぎ、翌5月21日になった1時40分頃、彼は行動を開始します。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭には鉢巻を締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえ付け、首からは自転車用のナショナルランプを提げるといういでたちでした。

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さらに、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃を持った都井は、まず自宅で就寝中の祖母の首を斧ではねて即死させました。その後、近隣の住人を約1時間半のうちに、次々と改造猟銃と日本刀で殺害していきました。

被害者たちの証言によると、この一連の凶行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされていますが、「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをする老婆や、返り血を浴びた都井に猟銃を突きつけられたものの、逃げることもできず茫然と座っていた老人などは見逃したといいます。

しかし、都井の凶行はさらに続き、最終的に事件の被害者は死者30名となりました。このうち即死は28名とされ、重傷のち死亡2名であり、このほか重軽傷者が3名出ました。計11軒の家が押し入られ、そのうち3軒が一家全員が殺害され、4軒の家が生存者1名でした。死者のうち5名が16歳未満の少年少女だったといいます。

一方で、激しい銃声と都井の怒鳴り声を聞き、すぐに身を隠すなどして助かった生存者もおり、また上述の老人以外にも「決して動かんから助けてくれ」と必死に哀願したところ都井は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言い、助けられた人もいました。また、2名は襲撃の夜に村に不在だったため難を逃れています。

こうした約一時間半に及ぶ犯行後、都井は遺書用の鉛筆と紙を借りるため、隣の集落の一軒家を訪れました。家人は返り血を浴びた都井を見て驚き動けない状態でしたが、その家の子供は以前から都井の顔見知りでした。彼はその子供から鉛筆と紙を譲り受け、立ち去り際に「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけています。

その後彼は、3.5km離れた峠の山頂で遺書を書いた後、猟銃で自殺しました。都井の遺体は翌朝になって山狩りで発見されましたが、猟銃で自らの心臓を撃ち抜いており、即死状態でした。

その後の警察の調べでは、都井はこのとき書いた遺書以外にも実姉を始め、数名に宛てた長文の遺書を書いていました。さらに自ら自転車で隣町の駐在所まで走り、難を逃れた住民が救援を求めるのに必要な時間をあらかじめ把握するなど、犯行に向け周到な準備を進めていたことなどが判明しました。

自姉に対して遺した手紙には、「姉さん、早く病気を治して下さい。この世で強く生きて下さい」と書いてあったといいます。また、犯行の理由として、以前から関係があったにもかかわらず、他家へ嫁いだ女性への恨みだけでなく他の村人への悪意についても書かれていたようです。

この女性はその前夜実家に里帰りしており、ここに都井は当然のように踏み込んで来ましたが、彼女は運よく逃げ出すことができ、生き延びました。しかし、彼女を追いかけた都井は、逃げ込んだ先の家の家人を射殺しています。

この他にもかねてから殺すつもりの相手が他所へ引っ越していたり、他者の妨害にあったりして殺害することができなかったようで、最後に峠で記した遺書には「うつべきをうたず、うたいでもよいものをうった」という反省の言葉が記されていました。また、真っ先祖母を手に掛けことを、「後に残る不びんを考えてつい」と書かれていました。

この前代未聞の惨劇は、ラジオや新聞などのマスコミがセンセーショナルに報道され、少年誌である「少年倶楽部」までもこの事件を特集したといいます。

この事件が貝尾集落に与えた影響は計り知れず、集落の大部分が農業で生計を立てているため、一家全滅や家人の多くを失った家では生活苦に陥りました。さらに、都井から襲撃を受けなかった親族は、企みを前々から知っていて隠していたのではないかと疑われ、村八分にされたといいます。

現在も津山市の奥にあるこの集落は存在し、そこには昔ながらの墓所が点在していますが、その墓石の多くには“昭和十三年五月二十一日”と刻まれているそうです。

あまりにも身勝手で理不尽な殺人事件ですが、その原因となったのが徴兵検査という通過儀礼であったことを考えると、その意味を改めて考えさせられてしまいます。

出生、成人、結婚、死など通過儀礼は誰しもが否応なく経験することの多いものですが、ことしもまた、例年のように繰り返される入社式や入学式の意味ももう少し真剣に議論されてもいいように思います。

その日のためにわざわざ大枚をはたいて晴れ着やスーツを買って出席しても、その時の社長や学長の御言葉を、卒業まで、あるいは何十年後の退職の日まで覚えているという人はどれくらいいるでしょうか。

なかにはその指導者の言葉に感銘を受けて、仕事や学業に励むようになった、という人もいるかもしれませんが、わざわざ大勢の人をお金をかけて集めて訓示しなくても、ほかに方法はあるように思います。その銭をもっと会社の益になるよう使ったほうがよいかもしれません。

形式にこだわるより、その組織に入った日から必死に働き、勉強しろ、と教えるのが本物の指導者のような気がします。「けじめ」の意味が薄れている現在、そのために行う通過儀礼の意味も問われている時代になっているのではないでしょうか。

2015-0254

坂の上のこと

2015-1040302朝から春の陽光が注ぎこみ、わたしの仕事部屋の気温もグイグイと上がってきました。

すぐ側では愛猫のテンちゃんがその陽を浴びて気持ちよさそうに眠っており、見ているだけでこちらも幸せな気分になってきます。

良い季節になってきました。桜は無論のこと、その他の木々の多くも新芽を蓄え、中にはもう早々と薄緑色の葉を広げているものもあります。

司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の冒頭には、「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。」とありますが、この「開化期」を「開花期」に置き換えると、ちょうど今の季節にぴったりです。

それにしても、本来は「開化期」という言葉はないはずであり、これは「文明開化」と掛け合わせた司馬さんの造語だと思いますが、こうしたちょっとした言葉の遊びが非常に上手な作家さんでした。

物語全体のストーリーとは全く関係はないのですが、そうした言葉の一つ一つが妙に後になって心に残り、もう一度その部分だけを読みたくて読み返したりすることも多く、そこが司馬作品の大きな魅力でした。

この「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」の後に続く文章は以下のようになっています。

”その列島のなかの一つの島が四国であり、 四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。
伊予の首邑(しゅゆう)は松山。城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。
その市街の中央に釜を伏せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間がくれに高さ十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。”

この「首邑」という聞き慣れないことばもまたしゃれており、これは首都というような意味でしょうが、普段使いもしないくせに、自分でも使ってみようかなと思ったりもするわけで、それやこれやで、このあとどんな新しいことばやおとぎ話が続いていくのだろう、とぐんぐんと物語に引き込まれていきます。

こうした司馬作品の魅力はさておき、この作品に出てくる松山城とはどんな城だったかなと思い返しています。

広島・山口に育った私は、海を隔ててすぐ対岸にある松山には子供のころから何回も行ったことがあり、たしかこの松山城にも登ったことがあるはずなのですが、なにぶん30年以上、もしかしたらそれ以上も前のことなので、どんな形状だったかまではよく覚えていません。

が、たしか小高い丘の上のようなところにあったよな、と調べてみたらやはりその通りでした。市街のほぼ中央に位置する標高132メートルの山頂にあり、天守へのルートは、4つほどあるようです。

無論、歩いて登ることができますが、現在ではロープウェイやリフトも整備されているので、高齢者でも辿り着くことができるようです。

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明治維新後においても、本丸の城郭建築群はほとんど破却されることはありませんでした。これは、戊辰戦争のあと明治政府が断固くしようとした1873年(明治6年)の「廃城令」の際も、引き続き軍事施設として利用できるものは残そうとしたからだと思われます。

この伊予松山城という城があった松山という土地は、その昔は四国の中でも1~2位を争う大きな街でしたが、現在でも愛媛県の県庁所在地であり、四国最大の都市でもあって、戦前には商業的・政治的以外にも軍事的な要衝の地でした。

幕末には佐幕派の藩だったため、明治維新後は一時土佐藩に編入されましたが、しかし土佐藩の首邑(早速使ってみました)、高知にあった高知城なんぞは廃城になっており、その跡地は高知公園になってしまっています。

“なんぞは”、などと書くと土佐の人に怒られそうですが、四国の最南端の言ってみれば辺鄙な場所であり、ここに壮大な城を残しておいてもあまり軍事的な意味はありません。

一方では、瀬戸内海で頻繁に多数の船が通るような表通りに面した松山城のほうが軍事的な価値が高いのは当然であり、これがこの松山城が今も残っている理由なわけです。ただ、廃城令でも本丸は残されましたが、麓の城門・櫓・御殿などは解体され民間企業などに払い下げられたため、完全に往時の形が残っているわけではありません。

この城を軍事的な価値があると明治政府が考えていた証拠に、ここには1886年(明治19年)より1945年(昭和20年)にかけて、帝国陸軍の松山歩兵第22連隊が駐屯するようになりました。二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、この連隊の司令部は三之丸に置かれていたようです。

しかし、さすがに本丸だけは使いようがなかったとみえ、1923年(大正12年)には旧藩主家の久松家へ払下げとなり、そのまま松山市に寄贈され、以降、松山市の所有となっています。

その後、昭和に入り、1933年(昭和8年には、放火事件がありましたが、小天守・南北隅櫓・多聞櫓が焼失したもの大天守などの大部分は無事でした。2年後の1935年(昭和10年)、天守など35棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定されました。

その後太平洋戦争が勃発。昭和20年7月26日には松山大空襲があり、被災面積約5平方キロ、罹災戸数14,300戸、罹災者 62200名、死者・行方不明者259名の被害を出し、市街地の大半は灰燼に帰しました。

松山城も天神櫓など11棟が焼失しましたが、このときも大天守などの本丸はほとんど死焼失から免れ、生き残りました。が、戦後の1949年(昭和24年)にも放火により筒井門とその東続櫓、西続櫓などが消失しており、こうしたことから国宝に指定されるほどであった価値がかなり低下しました。

このため、1950年(昭和25年)にあらためて文化財の指定を受けたときには、大天守以下21棟の建造物は「重要文化財」ということになり、少々格が下がってしまった格好になりました。

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しかし、空襲や放火によって失われたものは、写真やかつて国宝指定時に作成されていた正確な図面や写真などをもとに復元されることになり、その工事が昭和33年から本格的に始まりました。

1968年(昭和43年)には、1933年に焼失した本壇の建造物群を木造により復元されたほか、2004年(平成16年)からも大天守ほか6棟の改修工事が行われ、この工事は2006年(平成18年)に終了しました。

「坂の上の雲」の制作はその前からすでに企画されていたようで、その後この落成して生まれ変わった松山城でも多少のロケが行われたようです。ドラマのほうは2009年11月から2011年12月まで足掛け3年かけて放映されました。

この物語について、司馬さんがこれを連載執筆していた1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)のころからすでに「本作を映像化させてほしい」とのオファーが殺到していたといいます。

しかし司馬さんは、「戦争賛美と誤解される、作品のスケールを描ききれない」として許可せず、このときNHKもオファーを行っていましたが、この声を聞いて断念。

しかし、司馬さんの死後、熱烈なエールを司馬さんの死後設立されていた「司馬遼太郎記念財団」に送り、ついにその映像化の許諾を得ました。その後、著作権を相続していた福田みどり夫人の許諾も得て、2002年には製作チームが結成されました。

2003年には、大河ドラマとは別枠の「21世紀スペシャル大河ドラマ」として2006年に放送する予定が発表されました。この2006年というのは、上述の松山城の改修が終わった年であり、おそらくはそれに合わせようとしたのでしょう。

ところが、この企画は突然暗転します。2004年6月に脚本担当の「野沢尚」氏が自殺してしまったためです。野沢尚氏は北野武の映画監督デビュー作の脚本を手掛けたことでも知られているこの当時の人気脚本家でした。

自殺の原因は必ずしも明らかにされていませんが、その2か月前に放送されたドラマには自らの死をほのめかすかのようにテレビ業界への絶望が描かれていたといい、テレビというメディアにおける自作のありように悩んでおられたのでしょう。自殺した際には知人に「夢はいっぱいあるけど、失礼します」との遺書が残されていました。

しかし、自らの命を絶った、野沢氏は全話分の脚本の初稿を書き上げていたといいます。これをもとに作品化を進めることもできたわけですが、ところが更に悪いことに、2005年1月にはこの作品の映像化を強く推進した海老沢勝二会長がNHKの不祥事などを理由に辞任してしまいました。

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こうして作品の完成はますます怪しくなりました。司馬さんの、「絶対映像化させない」という強い思念がこうした事態を招いたのかとも思えないではありません。が、その真偽はあの世の司馬さんに聞いてみるしかありません。

さらには、このころからNHKは受信料不払いことなどから、その経営があやしくなってきており、多数のCGやVFSの利用が必要となると予想され、また出演者はいずれも人気俳優さんばかりであったため、制作費は相当に高額になると考えられました。

このため、この作品を本当に作るべきかどうかの再検討がなされ、その結果、全18回を1年かけて放送するという当初の予定を変更し、3部構成の全13回を2009年秋から足掛け3年で放送することが決まりました。

親方日の丸におんぶにだっこのNHKならではの選択といえ、単年度だけなら大枚の金をそこに投入しなければならなくなるものの、3年に分割すれば、その費用は分散できる、と踏んだのでしょう。

要はすぐには買えない高い買い物をできるだけ長期ローンで済まそうとしたわけです。あれほど良い作品をつくるから、と遺族に懇願してまで製作の権利を勝ち取ったのに、です。

この発表は2007年に行われました。が、それに先立ち前年から心配された脚本については製作スタッフが外部諮問委員会などの監修をもとに完成させており、同年1月に主要キャストとともにその内容が発表されました。

しかし、当初冠にしていた「スペシャル大河ドラマ」は後に「大河」の文言を抜いて単に「スペシャルドラマ」という冠に変更されており、例年の大河ドラマに順応していたファンには異例というか、異端な作品、というふうに思えたことでしょう。

私もこの作品は大好きな司馬作品の中でも特に好きなものだったので、こうしたいろいろないきさつがあったことは知っていたとはいえ、その映像化には大変期待していました。

そしてようやく始まった作品も毎回のように食い入るように見ていたわけですが、いかんせん、3年という長いダラダラとした放映には少々困惑しました。というよりもがっかりした、というほうが正しいかもしれません。

というのも、3年越しの3部構成になっており、その1部1部は、年末にまとめて4~5回連続で放映されるのです。1部が終わるごとに、次はどうなるのだろう、と期待しつつ、次の放映は1年後とずいぶん先になるため、まず最初にみたその部の感動が薄れてしまう、ということがありました。

次の年の年末には、既に前年に見た内容はかなり忘れており、当然どう感動したのかも覚えておらず、どうしても物語に入り込んでいけない、ということがありました。また、「人間ドラマ」としての製作に力点が置かれており、原作にあったようなダイナミックな時代背景の説明といったものが大部分省かれていた点も残念でした。

私と同じような感想は誰しもが持ったようで、その証拠に、初年度2009年の第一部全5回平均の視聴率は17.5%もあったのに、翌年の第二部では13.5%と落ち込み、さらにはクライマックスの第三部では11.5%と低迷しました。

物語の最高潮であるはずの最終回の「日本海海戦」ですらわずか11.4%という寂しさであり、こりゃーやはり司馬さんの祟りだわ、と言われてもNHKは反論できないでしょう。

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……とまあ話の流れで愚痴めいた内容になってきましたが、長年の大河ドラマファンだけに、このNHKの「仕打ち」には少々腹が立っていたので、ついつい書いてしまいました。

その後全巻がDVD化されており、レンタルショップでこれを借りてみることもできたわけですが、そこはやはりタダで見ることができるものをわざわざ金を払ってまで、というわけでこれまでこれを見る機会はありませんでした。

が、その後、私同様に全話をもう一度通してみたいとする視聴者からの反響が大きかったようで、このため番組終了から3年が経過した昨年、この作品の再放送がなされました。10月5日から今年の3月にかけて、1つのエピソードを前後編の2週に分け、合計26回に再編集したアンコール連続放送がNHK BSプレミアムにて放送されたものです。

その放送もあさって、日曜日が最後になるわけですが、無論のこと私も全編を通してこれを見ました。そして、切れ切れで見させられた前回とは異なり、やはり今回はじっくりとこの物語を堪能できました。

この作品は視聴率は低迷したものの、その制作手法を支えた技術に関して、2010年に「放送文化基金賞(放送技術分野)」というもの受賞しています。また2012年にも「第38回放送文化基金賞番組部門(テレビドラマ番組)」で本賞を受賞しています。

その制作費は、従来の大河ドラマを上回るケタ違いの規模であったとNHKは公表しており、確かに改めて見てみると、その映像は圧巻です。とくに最終回の日本海海戦の戦闘シーンは特筆すべき出来であり、私的には最近のどんなFSX映画よりも素晴らしく思えました。

その他の陸上の戦闘場面なども改めてみると素晴らしい映像が多く、またこうした戦場での場面ばかりでなく、主人公3人が過ごした伊予松山の美しい映像なども見て、改めてこの街の美しさなどを思い起こすことができました。

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冒頭で述べた松山城もさることながら、この松山という町は実に見どころの多い街です。この松山城と日本最古の温泉といわれる道後温泉は、ミシュランの観光版ではそれぞれ二つ星に選定されており、このほか四国八十八箇所の1つである石手寺もミシュラン一つ星となっており、多くの観光客を集めています。

また、しまなみ海道開通時には、しまなみブームと呼ばれるほど観光客が増加しましたが、
上述の坂の上の雲が最初に放映された中年の2010年には、その効果からか推定観光客数は588万を超えました。その後も毎年のように観光客は増え続けており、増加率は毎年3%ほどもあるそうです。

坂の上の雲の中でも登場した、俳人正岡子規や秋山兄弟のほか、文豪夏目漱石ゆかりの地でもあり、また放浪の俳人種田山頭火もその晩年をここで過ごし、ここで没しました。市のキャッチフレーズは「いで湯と城と文学のまち」ですが、その尊称に値するほどの文化都市といえると思います。

2007年(平成19年)4月には、松山城を頂く城山の南裾に「坂の上の雲ミュージアム」が開館され、多くの司馬ファンがここを訪れるようです。総工費は約30億円だといい、物語の主人公秋山好古・真之兄弟、正岡子規の3人にまつわる資料が満載のようです。私はまだ行ったことがなく、ぜひ一度訪れたいと思っています。

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ちなみに、この3人はここ松山で死んでいません。秋山好古は昭和5年(1930年)に糖尿病による心筋梗塞によって亡くなり、東京の陸軍軍医学校で永眠。享年71。また、弟の真之は、大正7年(1918年)に腹膜炎で死去、満49歳。兄弟はともに青山墓地に埋葬されています。

子規は言うまでもなく、結核で1902年(明治35年)に享年34で亡くなっていますが、二人とは異なり、東京都北区田端の大龍寺に眠っています。

秋山真之は、日露戦争当時は中佐でしたが、その後明治41年(1908年)、海軍大佐となり、大正2年(1913年)には海軍少将に昇進。さらに。明治41年(1908年)、海軍大佐となり、大正2年(1913年)には海軍少将に昇進。

その後軍務からは遠のき、日露戦争時に海軍大臣であった山本権兵衛が総理大臣になると、このとき海軍大臣になったかつての上司、八代六郎の補佐を務めたりしています。

また、孫文とも交流があったと言われ、非公式に中国の革命運動を援助なども行っていましたが、その後対中政策からは離れ、日本海軍の改革のために海外の海軍の視察などに積極的に出かけました。しかし、大正6年(1917年)、48歳で少将になったとき、海軍から足を洗い、市井に戻りました。

この退官前後から心霊研究や宗教研究に興味を持つようになり、このころ軍人の信仰者が多かった日蓮宗に帰依するとともに、神道家の川面凡児などに師事して神道研究をも行っていました。

しかし、大正6年(1917年)に5月に虫垂炎を煩って箱根にて療養に努めましたが、翌大正7年(1918年)に再発。悪化して腹膜炎を併発し、2月4日、小田原の友人宅で亡くなりました。この友人宅というのは、対潮閣という別荘で、所有者は「山下亀三郎」といい、山下汽船(現・商船三井)・山下財閥の創業者です。

勝田銀次郎、内田信也と並ぶこの当時の三大船成金の一人で、同じ四国は伊予の宇和島出身だったことから真之と親しくなったようです。また、真之が海軍軍務局長をやっていたころに、いろいろと仕事の面でも融通してやったことは想像に難くなく、年齢も真之よりひとつ上なだけで、いろいろと分かち合えるところがあったのでしょう。

日露戦争前、山下は秋山から、「開戦近し」の情報を入手していたといい、戦争になると民間船舶も徴用されることから、これを大量に購入しました。実際、戦争になると買ったものを海軍相手に売りさばき、徴用船となると一般の価格よりも有利であることから、これでかなりの儲けを得たようです。

そうしたこともあり、真之は晩年にはかなりこの山下の世話になっていたようで、その別邸である対潮閣に一室を貰い、死去直前に教育勅語や般若心経を唱えていたといいます。

しかし、退官後わずか1年で亡くなりました。兄の好古とは違ってあとくされのない一生であり、海軍という大組織の育成にその一生を捧げた彼にふさわしいといえばふさわしい最後です。

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一方、あとくされのある兄の好古のほうは日露戦争後も64歳になるまで陸軍で働き続けました。この間、明治42年(1909年)に50歳で任陸軍中将、大正5年(1916年)陸軍大将。大正9年(1920年)には、教育総監となり、陸軍三長官の内の一人にまで上り詰め、また軍事参事官を併任しました。

その3年後の大正12年(1923年)には、元帥位叙任の話もあったといいますが、本人が固辞し、それと同時に退官。翌年には松山に戻り、私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)の校長に就任しました。

予備陸軍大将、それも三長官まで上った者の仕事としては例のない格下人事といえるわけですが、本人の強い希望だったと言われます。

しかし、昭和5年(1930年)、71歳でこの校長も辞任しましたが、これはこのとき患っていた糖尿病が悪化したためと思われます。

ほどなくその治療のために、より医療設備の整っている東京陸軍軍医学校に入院。しかし、筋梗塞により11月4日にここで永眠。墓所は東京港区の青山霊園ですが、のちに有志により松山市の鷺谷墓地にも分骨されました。

晩年は教育にその身を捧げましたが、陸軍時代にも教育総監を勤めるなど、早くから教育に興味があったようです。福澤諭吉を尊敬していたそうで、自身の子のみならず親類の子もできるだけ慶應義塾で学ばせようとしたといいます。

海軍退官後は、自らの功績を努めて隠していたともいい、校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢することは無かったそうです。

中学校長時代は、「学生は兵士ではない」とし、学校での軍事教練を極力減らしたとも伝えられており、戦争を経験し、その中で多くの部下を死なせていった者だけが知る苦悩があったのではないかと推察されます。

弟の真之は兄よりは短い生涯でしたが、心霊研究や宗教に走ったということはやはり自分が経験した戦争の中で何かむなしさのようなものを感じていたに違いありません。

そんな二人が育った松山の地を再び訪れることができるのはいつのころだろうか、と考えてみたりします。静岡からはおよそ1000キロ。飛行機で行けばなんのことはありませんが、各種高速道路が整備された現在ではクルマで行くことも不可能ではありません。

これからの季節、久々に四国の地を訪れるのも悪くはないな、と思ったりもしています。松山城下に咲く桜はいまどんなかんじでしょう。飛び梅ならぬ、飛び桜になって静岡までやってきてくれないものでしょうか。

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ニャンとも眠い

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伊豆では、ソメイヨシノや山桜があちこちで花開き始めました。

ところによってはほぼ満開のところもあり、季節の進み具合は順調のようです。昨日今日と少々寒の戻りはあるようですが、もはや春といってよいのでしょう。

「春眠暁を覚えず」、ということで朝起きれない、という人も多いでしょう。が、私はだいたいどんな季節でも5時台には目が覚めます。

ジジイになったからだろう、と言われそうですが、20代の若いころから早起きで知られており、会社でのあだ名は「ニワトリ小僧」でした。

誰よりも真っ先に職場に入り、朝早くから仕事をするのですが、周囲は静まっており、格段に集中でき、その分、早く仕事を終えて帰れる、というメリットがありました。まさに早起きは三文の徳です。

この、春眠暁を覚えず、は誰が詠ったのかと調べてみると、中国の唐の時代の詩人・孟 浩然(もう こうねん)という人のようです。元文にはこれに続く後段があり、これは「処処啼鳥を聞く、夜来風雨の音、花落つること知る多少」です。

春眠暁を覚えず、と合わせて意訳すると、「春の夜は寒さもやわらぎ心地よいので、眠りについたあと夜明けが来ても気が付かない。目を閉じたままでいると、鳥のさえずりが聞こえるようだ。昨晩は嵐の吹く音がしたが、おそらくその鳥がついばむ花もたくさん散ったことだろう」といった意味でしょう。

昼寝ではなく夜の睡眠について詠った詩であるわけですが、しかし春には夜だけでなく昼間もついウトウトしやすくなります。これは春になると皮膚の表面血流量が増え、交感神経系が活発になり、日中の活動量が増えるということと関係があるようです。

その結果、疲労感やだるさが出やすく、このためはとくに昼過ぎなどには強い眠気に襲われやすくなります。また、入学、入社、異動など、生活環境にもいろいろ変化がある時期なので、その反動で興奮してしまい、逆に夜は寝つきがわるくなる、という人もいるようで、これにより日中に「春眠」してしまうわけです。

いずれにせよ、春という季節には日の出の時間が速くなり、急激に日照量も増えるので、何かと生活のリズム、ひいては睡眠のリズムを崩しやすくなりがちです。それでは、質の良い睡眠をキープするにはどうすればよいか。それは、できるだけ睡眠パターンを統一することです。

よく、平日が仕事で忙しく、思うように睡眠がとれなくなると、休日に「寝貯め」を試みる人がいますが、そうしたからといって、頭や体がすっきり快調になるわけではありません。逆に体調が悪くなる人も多いようです。

これは、人の体には体内時計があり、寝だめはこれを壊してしまうためです。一定のリズムで睡眠し、これに合わせて生活パターンを決め込むと、体はそれに合わせて順調に動いてくれるようになります。

従って、いろんなイベントが重なって前日の就寝が遅くなっても、朝はいつもと同じ時間に起床するようにします。そうすると睡眠時間が短くなるので、その日は逆に眠たくなる時間が早くなるかもしれません。が、体が睡眠を取り戻そうとするので、その夜は深い眠りを導き、体をしっかりと休めることができます。

そして、同様に以後の日々もできるだけ朝起きる時間は同じにして、その前後で睡眠時間が浅かろうが深かろうが、これをキープし続けます。そうすることで、やがて体内時計のサイクルが安定してきます。次第に睡眠時間も一定となり、また体調も安定してくる、というわけです。

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もっとも睡眠時間は人によってまちまちです。いったい何時間寝ればいいのか。ナポレオンは3時間で十分だったといいますが、これくらいで十分かどうかについては、諸説あるようです。が、現代人は八時間労働制の関係もあり、やはり7~8時間というのが一番体内時計のリズムが安定しやすいといわれているようです。

1日の睡眠時間が7時間の人は他の人たちに比べて死亡リスクが低いというれっきとした統計データもあるようで、個人差はあるのでしょうが、やはりこれくらいは寝ておいたほうが良いようです。

ただ、連続して寝る必要は必ずしもなく、切れ切れでもいいようで、日本の場合、電車やバスで通勤・通学をする人も多く、そこで睡眠不足を補うことも悪いことではないようです。私自身、夜の睡眠はだいたいいつも5~6時間ぐらいであり、そのかわりに昼寝で不足分を補っています。

それにしてもなぜ睡眠が必要か、ですが、これは生命にとって大切ないわゆる「免疫力」「自然治癒力」などに悪影響がある、ということが定説のようです。子供の場合は成長ホルモンの分泌にも悪影響があり、睡眠が足りていないと身長が伸びにくくなる、というのは本当のことのようです。

このほか、よくいわれるのが、顔がむくみ、血色が悪くなり、皮膚の状態が目に見えて悪くなる、といったことでしょう。特に女性の睡眠不足は美容の大敵だ、とはよく言われます。

このほか、精神的にも悪影響があり、睡眠不足の人は鬱や躁、といった精神不安定状態になりやすく、記憶力、集中力が悪くなります。結果として仕事や学業に影響を与え、肉体労働などをしている人では深刻な負傷を負ったりします。睡眠不足で死亡事故に遭う確率が高いことは、各種労働統計によっても明らかにされているそうです。

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それでは、人間以外の動物はどうなのか。我が家にも一匹おりますが、ネコでは平均12~13時間だそうで、「ネコ」の語源は「寝子」だという説もあるくらいです。確かによく寝ます。また、イヌでは犬般的には10時間という統計データがあるようですが、その睡眠時間は大きさに依存する、ということが言われているようです。

小型になるほどより長い睡眠時間を取るようで、同じペットで犬より小さいネコの睡眠時間が犬より長いのはこのためかもしれません。ネズミのような小型の齧歯類は15~18時間だといい、逆に大型動物であるゾウでは3~4時間であることからみても、大型化すればするほど睡眠時間は短くなる傾向にあるようです。

背の高さと関係があるのかどうかまではわかりませんが、キリンに至ってはわずか30分~1時間だそうです。

大型動物ほど睡眠時間が短くなるのは、大型化によって新陳代謝の率が低く済むためと考えられているようです。新陳代謝は、脳の機能を維持するために重要なものですが、日中に酷使した脳細胞のダメージの修復をこうした大型動物はより短い時間でできる、ということがわかっているそうです。

が、なぜ短くできるのか、するのかはよくわかっていないようです。おそらくは、そうして睡眠時間短くすることで、巨大であるがゆえに他の捕食者に見つかりやすくなるリスクを軽減しているのではないでしょうか。ゾウやキリンは大型ですが、元来草食性のおとなしい動物なので、肉食系の動物の餌食になることも少なくはありません。

また、相対的に草食動物の睡眠時間は短く、肉食動物は長い傾向にあるといいます。ゾウやキリンは草食動物であり、これを襲うヒョウやライオンはより長眠です。

同じ猫科の動物であるネコも長眠ですが、野生の肉食動物は、ペットと違い餌を貰って生きているわけではありません。獲物をみつけて狩りをして自分で餌を得る努力をしなければなりませんが、失敗することも多く、そうそう毎日ステーキが食えるとは限りません。

必然として食物を得る機会は乏しくなります。しかし、いざ狩りに成功すれば、その獲物はたいへん高カロリーであるため、一度こうした食物を得た後はしばらく食物を摂る必要が無くなります。

この間、何もしなくても良い時間が多く、むしろ何もしないことで消費カロリーを抑えることができ、さらに寝てしまえばよりカロリー消費量は減る、といわけで睡眠時間が長くなる、と考えられているようです。

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一方、草食動物の食糧はその辺にどこでもある草や木の葉なので、摂取する食料に不自由しません。しかし、こうした食料は一般に低カロリーであり、繊維質も多くなりますから、大量にしかも長時間食べ続ける必要があります。

また、長い消化時間も必要となり、結局は起きている時間が長くなることを余儀なくされます。従って、睡眠時間は短くなります。

従って、動物の睡眠時間はそのサイズが大きいか小さいかということ以外にも、肉食か草食かによって、その差異が出てくるわけです。とすると、人間でも背の高い人は睡眠が短く、肉食の人は睡眠が長いのでしょうか。

ウチのヨメのタエさんは背が高いほうですが、睡眠が長く、野菜よりも肉や魚のほうが好きな私は相対的に睡眠が短いようであり、当たっていないような。が、あなたの周辺の人を観察してみてください。案外とその通りかもしれません。

それにしても、以上はヒトやそれ以外の哺乳類の睡眠のおはなしです。それ以外の動物ではどうなのか、といったところに目を向けてみると、例えば魚はどうなのか。

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結論からいうと、魚も寝るそうです。しかし、布団を引いてそこで寝るわけではなく、単に水中を漂う、あるいは水底にじっとする形で睡眠状態に入るそうです。また魚だけでなく、眠りを単に「定期的な休息」と定義すれば、ある種の植物も眠るといい、こうした脊椎動物以外の動物、例えば、節足動物にも睡眠に類似した状態があるといいます。

節足動物と言えば、ミツバチなどの昆虫類、カニなどの甲殻類、クモ類、ムカデ類などですが、彼等も睡眠をとるわけであり、このほかアメフラシなどの軟体動物などの神経システムの比較的発達した無脊椎動物も寝るそうです。

それらを睡眠と呼ぶのかどうかも怪しいようですが、独特の休息場所、休息姿勢、休息時の刺激反応性の低下、日周リズムなどを伴ったそれぞれの休息状態があり、これを睡眠と見ることもできるそうです。

それならば、人間以外のこうした動物は夢をみるのか。これについては、大脳をもつ動物だけが眠る、ということが言われているようです。夢をみるためには、外からの入力が遮断された状態で独自に視覚イメージをつくりだす脳のシステムが必要であり、大脳がこの機能を担っているからです。

また、大脳を持っている動物の中でも、レム睡眠をするものは夢を見やすいのでは、ということもいわれているようです。これは睡眠中の状態のひとつで、身体が眠っているのに、脳が活動している状態であり、体を休めながらも常に脳を活動させ、いざというときに対応しようとする本能だと考えられています。

脳は24時間活動させているとくたばってしまうので、半分覚醒状態にしているのがレム睡眠であり、眠っているその半分のところで、昼間にみた視覚情報を無意識に反復しており、これが夢といわれるものになって現れる、と考えられているようです。

一方、同じ大脳を持っている哺乳類でも、イルカは、水面に鼻(噴気孔)を出して呼吸する必要があります。そのため、脳を半分ずつ眠らせるという「半球睡眠」を行っています。

半球睡眠では、右脳を眠らせるときには左目を閉じ、左脳を眠らせるときには右目を閉じています。これで泳ぎながらでも眠ることができるわけですが、これができるためにレム睡眠をほとんど必要としないそうです。

長距離を飛行する渡り鳥も、半球睡眠しながら目的地まで飛んで行くそうで、飛んでいる最中に数秒間だけ脳全体を眠らせ、地表に墜落する前に目覚めるという芸当をするヤツもいるといいます。

こうした芸当は当然、ヒトなどの霊長類にはできません。できたらいいとは思います。半分目を閉じていれば眠れる、というのは素晴らしい技能です。努力すればできるような気もします。鳥に似た顔つきの人はもしかしたらできるのかも。

が、普通の人はできず、我々はレム睡眠をします。視覚システムがよく発達しており、サルに限って言えば、大脳皮質の約50%以上を視覚情報処理だけのために使っているとのデータもあるということです。

このため日中に見た視覚情報を、夜に行うレム睡眠の中で反復して見ている可能性が高いそうで、つまり、サルも夢を見ている、ということになるようです。

ただ、睡眠中に起きている間に得た情報を反復している、という観点からすると、イヌやネコも視覚は発達していますが、むしろ嗅覚のほうが発達しています。このため、視覚情報よりも、何かを嗅ぐ夢をたくさん見ているかもしれない、ともいわれます。寝ながらムニャムニャしているその姿は、餌の臭いを思い出しているのかもしれません。

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ペットを飼っている人達は、動物が夢をみると信じているようで、かく言うウチのテンちゃんも、私と昼寝をしているときには、なにやら寝言を言っているのを耳にします。ブチャブチャと口を動かしながら、うれしそうに見えるのはよほど何か楽しいことがあったに違いない、と思えるときがあります。

犬を飼っている人で、夜中に突然起き出して、寝ぼけたようにキャンと声を出し、そのまま寝てしまう、あるいは突然むくっと起き上がり、ふらふらと歩いてまた寝てしまう、といった様子を目撃したことのある人も多いでしょう。

似たような経験は、ペットを飼っている人達が多かれ少なかれ持っているのではないでしょうか。やはり何等かの夢をみている、としか思えません。

しかし、言葉をしゃべらない動物が確かに夢をみると証明することは、ほとんど不可能であり、どんな夢を見ていたの?と聞いても答えてはくれません。

ただ、猫や犬が夢をみることは、色々な実験で確実視されるようになっているようです。ネコの夢に関する実験では、ネコのレム睡眠を司る中枢は脳の青斑核という部位にあることがわかったそうです。

この青斑核を人為的に操作した結果、この実験ネコは、レム睡眠中にネズミをとる動作などをすることなどが確認できたそうで、このことから、ネコの夢は目覚めているときの行動のシミュレーションではないか、という仮説も立てられているそうです。

もしお宅のネコちゃんが、睡眠中においでおいでをしていたら、もしかしたらどこからかお金を持ってきてくれるシミュレーションをしているのかもしれません。おこさず、そっとその良い夢を育ててやりましょう。

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