桜と制服

2015-11708533月も下旬になってきました。

昨日、静岡市内では桜の開花宣言があったそうで、今年もまたあのピンクの饗宴の季節が始まります。

それでふと思い出したのですが、その昔の軍歌で、「♪~七つボタンは桜に錨」というのがありましたが、これはどういう歌だったかな、と調べてみると、これは「若鷲の歌」というタイトルのようです。

戦前、海軍飛行予科練習生、いわゆる「予科練」を募集するための宣伝目的で作られたもので、1943年に日蓄レコードより発売され、大ヒットしました。

作詞は、あの有名な西条八十であり、彼は作曲をした古関裕而(ゆうじ)とふたりで土浦海軍航空隊に一日入隊してこの歌の構想を練ったそうです。古関裕而の名は知らない人も多いでしょうが、多数の軍歌や歌謡曲、応援歌を創ったことで有名で、早稲田大学や慶應義塾大学の応援歌のほか、阪神タイガースの応援歌「六甲颪」も彼が作曲しました。

予科練

この予科練というのは、1929年(昭和4年)に設けられた制度で、「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年であり、その後1年間の飛行戦技教育が行われたようです。

1936年(昭和11年)には応募資格が、満15歳以上20歳未満に変更され、当初は、横須賀海軍航空隊の追浜基地がその教育に用いられましたが、手狭なため、1939年(昭和14年)、霞ヶ浦海軍航空隊に場を改めました。

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が始まると、航空機搭乗員の大量育成のため、予科練への入隊が大量に募集されました。各期3万人以上が採用となりましたが、こうなるともう霞ヶ浦だけでは足りなくなり、予科練は岩国海軍航空隊・三重海軍航空隊・鹿児島海軍航空隊など、最終的には19か所に増えました。

1943年(昭和18年)から戦局の悪化に伴い、短期養成を行うようになり、また1944年(昭和19年)10月頃には、海軍特別志願兵制度で海軍に入隊していた朝鮮人日本兵・台湾人日本兵を対象にした予科練も新設され、卒業生は鹿児島空へ配属されました。

戦前に予科練を卒業した練習生は、太平洋戦争勃発と共に、下士官として航空機搭乗員の中核を占めましたが、それゆえに戦死率も非常に高く、期によってはおよそ90%が戦死しています。また昭和19年に入ると、予科練卒業生がいわゆる「特攻」の搭乗員の中核となり、その多くもまた空に散っていきました。

昭和19年夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れないものが多かったといい、中には、航空機搭乗員になる事を夢見て入隊したものの、人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいたといいます。

終戦間際は予科練自体の教育も滞り、基地や防空壕の建設などに従事する事により、彼等は自らを土方(どかた)にかけて「どかれん」と呼び自嘲気味にすごしたそうです。戦争末期の1945年(昭和20年)6月には一部の部隊を除いて予科練教育は凍結され、各予科練航空隊は解隊され、そのまま終戦に至っています。

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軍服

「若鷲の歌」にある、「七つボタンは桜に錨」というのは、この予科練においては1942年(昭和17年)からは制服を軍楽兵に範を取った「七つ釦」の制服を採用する事になったことに由来しています。制服には7個のボタンが付いており、この時代「7つボタン」と言えば予科練を表す言葉でした。

この予科練のように、若年者を下士官要員として育成する制度は、第2次世界大戦後の海上自衛隊でも自衛隊生徒・一般曹候補学生として設けられており、自衛隊生徒や曹候補学生は、この予科練等の制服に似た、短ジャケット7つボタンに下士官型軍帽の服制が定められています。

それまで、飛行予科練習生は、昇進こそ早いものの兵の階級を指定されている間は、通常の水兵服を着用していたため、応募を志す若者の間ではさほど人気は高くなかったといいます。そこで、海軍は、軍楽兵と同様の短ジャケット7つボタンに下士官型軍帽を制定し、人気を高めようとして、この変更を断行しました。

その翌年に若鷹の歌がヒットしたため、さらに予科練の人気が高まり、募集人員も増員に増員を重ねるほどまでになったわけですが、その宣伝文句に踊らされて入隊した若者たちの多くが死んでいったことを考えると、ついついその功罪を考えてしまいます。

しかし、制服というものはもともとそういうものです。格好良い制服やかわいい制服は、あこがれを抱かせ、その制服を着たいと思わせるのに役立ち、転じてはその職種に就きたい・その組織に入りたいという願望をもたせる役割を持ち、人材確保の上では重要なものといえます。

元来、その目的は、同じ制服を着ている者同士の連帯感を強めたり、自尊心や規律あるいは忠誠心を高める効果を期待してのことです。また、組織内部の人間と組織外部の人間、組織内の序列・職能・所属などを明確に区別できるようにする目的も持ちます。

とくに軍人の制服には階級章・所属章・部隊章・資格章等の記章が付けられており、デザイン、色彩、材質等も厳格に定められており、それらをみれば命令系統の統制や上下関係なども一目でわかるわけです。

旧日本海軍の軍人が着用した制服も、こうした思惑から制定されたものですが、明治の建軍当初はまだどんな制服にしてよいやらわからず、イギリス海軍の軍服を参考にしました。
しかし、紺色長立襟ホック留ジャケットはイギリス海軍ではなく、フランスの影響だそうです。

また、陸軍の制服は当初フランス軍の影響が強く、後にドイツ軍の軍装の影響が強くなりましたが、その後日露戦争の勝利などによって日本の国際的地位が向上するにつれて独自の制服に変わっていったようです。

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制服

こうした旧日本軍の軍服というものは、軍の統制という意味で、その組織を維持していく上で重要な役割を担っていたわけですが、現代でも警察官、消防吏員、海上保安官などで同様の機能を持った制服が導入されており、また民間企業でも鉄道員・駅員・警備員などは業務上の観点から制服の着用が重要視されています。

また、一般社会においてもある程度あらたまった服装で勤務することが求められることも多く、とくに女性社員の勤務着として制服を採用している企業が多く見られます。また男性社員にもこうした制服着用を責務とする会社も多いようです。

ただ、男性の場合は、スーツにワイシャツ・ネクタイ姿で勤務する人が多く、この背広やワイシャツは実質的に制服とされているとの見方もあるようです。

しかし、バブル崩壊後の企業業績悪化に伴うコスト削減や、女性が多くを占める派遣社員の増加、その一方での制服着用の一般職女性社員の削減、などなどの企業の雇用形態の変化に合わせて、近年女性社員の制服を廃止する企業も増えています。

フェミニズムの観点から、女性にのみ制服を適用するのは女性差別という声もちらほら聴かれるようになり、男性社員の服装も背広ではなくもっと自由でいいのではないかという声も高まっています。

こうした男性社員の服装の自由化を求める声も高まり、大企業を中心としてカジュアルな服装でも勤務可という職場が多くなっているといい、また夏の勤務における快適性の観点から、公務員においても国策としての温暖化対策のためクールビズ、ネクタイ不着用が標準となりつつあります。

一般社会においては制服がない業種や職種も少なくなく、組合などが中心になって制服不要論をぶちあげている企業もあるようです。

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学生服

こうしたトレンドは、当然小中高などの学校にも飛び火しており、現在公立小学校のほとんどは、私服で通うことが認められています。中学校ではまだ制服というところも多いようですが、徐々に私服化にシフトしていっているようです。

その理由は何かというと、制服が生徒の個性を抑圧し異質なものへの寛容心を奪っているのではないか、といったことが言われているようです。いじめや不登校の増加もこの制服の強要と関係があるのではないか、ということがまことしやかにささやかれます。

こうしたことから制服を廃止、または「標準服」として強制しない中学校や高等学校も増えてきているようです。その昔、大学にも制服があった時代がありましたが、現在ではほぼすべての大学が私服化されており、それを考えると、やがて中学や高校もすべて私服で通う、という時代になるのかもしれません。

しかし、一度制服を廃止した途端に受験者数が落ち込む、といったケースもあるようで、制服を再導入する学校も出てきているといいます。

千葉県立の小金高等学校では、公立の学校としては珍しく1993年から私服通学を認めていましたが、志願者が減少の一途を辿っていたため、2011年から制服を再導入すると決定したところ、志願者数が増加したといいます。

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学制服のファッション化

長い歴史を持つ伝統的なデザインというのは人気があることも多く、そのほか伝統はなくてもデザインが良い、という制服は確かにあり、あの学校の制服、カッコえーなーというのはいつの時代もあります。上述の七つボタンしかりであり、最近では「制服のファッション化」を意識して、そのデザイン性にこだわる私学も多いといいます。

最近では、スーツなどのフォーマルウェアも、その着こなしようによってはとてもおしゃれに見えるように、学生服もまたファッションの手段としてこれを着る傾向も強まっているようです。

私服での登校が認められている高校に通う生徒などが、市販の制服や他校の制服を私服として通学時や学校のない時に着たり、他校の指定の鞄を持ったりすることもあるそうで、これは「なんちゃって制服」と呼ぶそうです。

学生服メーカーや販売店などもそうした需要に注目しており、衣料品メーカーのなかにはこの「なんちゃって制服」の需要を見込んで、一見したところ制服風のブレザー、リボンタイつきブラウス、プリーツスカート、ワンポイント入りハイソックスなどを販売しているところもあるといいます。

ファッションセンスの良いことで知られるフランスでは、公立学校の女学生のことを「リセエンヌ」と呼びますが、1980年代ころ、日本ではこの清楚な学生らしさとリセエンヌたちのシックでオシャレな制服が受け、新感覚のファッションとして流行りました。

雑誌で取り上げられ、リセ・ファッションとか、リセ・スタイルなどが人気となりましたが、こうした日本の学生服の新潮流もまた、ファッション史の見地からは正統派のリセファッションと評価する向きもあるようです。

この制服を私服として着る、というのは服装の乱れとは真反対の発想であり、親にすれば、ヘンな格好をされるよりはかなりマシ、ということでそのファッション制服をお金を出して買ってあげるという家庭も多いようです。

制服さえ買ってもらえれば、あとはリボンなどの小物は自分の小遣いで買い足していくこともでき、色の組み合わせを変えることでさらにオシャレを演出できます。私服よりも安価にオシャレを楽しめるわけであり、流行るのも分かる気はします。

最近の日本でのこのような制服のファッション化は、逆にフランスでも注目されているそうで、フランスの雑誌などでも取り上げられ、「日本の女子高生の制服は自由の象徴」といった紹介もなされています。

フランスには、Japan Expo(ジャパン・エキスポ)という、総合的な日本文化の博覧会があります。漫画・アニメ・ゲーム・音楽などの大衆文化のほか、書道・武道・茶道・折り紙などの伝統文化を含む日本の文化をテーマとして2000年からフランス・パリ郊外で毎年開催されているものです。

ここにおける制服ファッションの展示は毎年増えており、最近はとくにこの制服ファッションを着て会場を訪れるパリっ娘も増えているといいます。同じくタイでもブームだといい、ファッション誌に常にこうした制服が特集されており、首都バンコクでは「カワイイ・フェスタ」なる制服ファッションイベントまで開催されているそうです。

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ランドセル

また、制服ではありませんが、最近は小学生が使用するランドセルが、欧米で人気だそうで、これは昨年、アメリカの女優で、人気歌手でもあるズーイー・デシャネルが赤いランドセルを背負った写真が出回ったことがきっかけのようです。

これに端を発し、若い人たちの間でもランドセルを身に着けることがブームとなりつつあるようで、最近ではアニメなどを通じてランドセルを知った外国人が、日本の土産として購入する例が増えており、入国者数が増え続けている中国人の間でも大人気だといいます。

ところが、このランドセル、元々は軍事用のバックだった、ということを知っている人は少ないのではないでしょうか。

幕末に、江戸幕府が洋式軍隊を導入する際、将兵の携行物を収納するための装備品として、オランダからもたらされた背嚢(はいのう)を模して造らせたもので、「ランドセル」はオランダ語の「ransel」からきています。

本来の発音は、「ランセル」または「ラヌセル」でしたが、これがなまって「ランドセル」になったものです。明治時代以降も、帝国陸軍の下士官以下用の収納鞄として採用されましたが、これが民間に流用されたきっかけは、官立の模範小学校として開校した学習院初等科でも採用されたからです。

創立間もない1885年(明治18年)、学習院は「教育の場での平等」との理念から馬車・人力車による登校を禁止、学用品を入れ生徒が自分で持ち登校するための通学鞄として背嚢が導入しました。

当初はリュックサックのような形だったそうですが、1887年(明治20年)、当時皇太子であった大正天皇の学習院初等科入学の際、伊藤博文が祝い品として帝国陸軍の将校背嚢を真似た鞄を献上、それがきっかけで世間に徐々に浸透して今のような形になったそうです。

この献上品は革製でしたが、革は贅沢な高級品であった事から戦前は都市部の富裕層の間で用いられる事が多く、地方や一般庶民の間では風呂敷や安価な布製ショルダーバッグ等が主に用いられていました。

現在のような形で革製のランドセルが全国にふつうに普及しはじめたのは昭和30年代以降、高度経済成長期を迎え、日本人が裕福になったころからのようです。

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ランドセルの色は、その昔は男子は黒、女子は赤がお決まりでしたが、最近はピンク、茶、紺、緑、青などカラフルな色が選べ、複数の色を組み合わせた物も発売されているようです。

このランドセルはすべての学校で強制かといえば、そうでもないようで、一部では指定のランドセルを使わせている小学校もあるようです。が、傷みの進行や本人の好みの変化などによって、卒業前にランドセルの使用をやめる児童も多いようです。

ランドセルは両手が使えるし、肩で重さを支えられる等、安全で便利という人も多く、手提げのバッグよりも合理的だという声もあるようです。しかし、同じ背負うならば別の形のものでも良いわけですし、ランドセルにこだわる必要はないわけです。

加えて最近ではおじいちゃんおばあちゃんがこれを買ってあげる、というのがトレンドになっているようです。しかし、高いものでは5万円近くもするものもあるということで、こうした高価なものを小学生に持たせるという感覚は、私には理解できません。

もっと安いものを使っている生徒もいるわけであり、学校という公共の場において、その贅沢さを競うような風潮は好ましくないのではないか、と思うわけです。ただ、制服と同じく指定メーカーを決め、一定の金額内のものを購入するよう制限をかけている学校も多いようで、それなら納得できます。

が、学生服もランドセルもその学校を卒業すれば不要になるもの。いずれ捨てることになるものを強制で購入させるというのは極めて不合理だと思います。もっとも卒業後にもこれを着るというなら別ですが、一生学生服やセーラー服を着て過ごすというのはちょっとぞっとしません。

ところが独裁国家などにおいては、物資の節約や意識の共有などを目的とした服装の統制が行われることがあり、こうした国では一生同じ制服姿のままです。中国や北朝鮮の人民服などがその例であり、日本でも戦時下において「国民服」なるものが存在しました。

いずれもいかにも非個性的なデザインであり、やぼったいと思うのですが、考えてみればこれを着てさえいれば、新しい服を買う必要はないわけであり、着るものなど何でもいい、着こなしなど面倒くさいと考える人にとっては大いに重宝されそうです。

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制服を着ることの意味

制服に限らず、服というものは、人間の文化の主要構成要素の一つであり、単に人体の保護だけに用いられるものではありません。現在の被服は、その時代時代のファッションの影響を強く受ける消費財として定着しており、そうした意味ではその消費は産業の発展においては重要なものです。

21世紀に入り、服は、その製造・流通・着用・廃棄の各過程において更に多様化が進んでおり、それに対応したさまざまな新技術が開発されていて、文化の発展のための礎でもあります。

さらには環境問題に配慮して様々なリサイクルも試みられており、今後は本格的なウェアラブルコンピュータの研究開発とも相まって、ますます新しい形の服が生み出されていくでしょう。

そういう意味では「制服」というものは、古い形式を固定し、その進化を保留し続けているわけであり、服という文化の新しい発展形を妨げている典型、という見方もできるかもしれません。

にもかかわらず、さまざまな職種の中においては制服そのものがその職業のステータスになっている場合もあり、この場合はそれに対する一種の憧れのような場合も多く、自尊心や願望を満たすためにそれを着る、ということも多いでしょう。

漫画やアニメ、ゲームなどの主人公に「なりきる」ためにその人物の着ている服を着る、というのも一つの文化であり、最近定着しつつある「コスプレ」もそのひとつです。

この場合必ずしも制服とは限りませんが、特定の職業で採用されている制服や特定の着衣を好む若者は多いようです。いまやコスプレは日本の文化ともいわれており、世界コスプレサミットなどにおける各国での予選会場の中には、日本人から見ると想像もつかないほどの盛り上がりとなっているところもあるようです。

それでいて、日本人のコスプレに対するイメージは「オタクがやるもの」というイメージが強く、とくに年配者はどこかそこにいかがわしさを感じてしまうようです。

一方、世界各国のコスプレに対するイメージが「何かになりきってみんなで騒ぐのは最高」という感覚のようであり、その格差はいったい何なのだろうと考えてしまいます。

日本初の「文化」が世界に定着していくのはうれしいのですが、何かどこかが違うような。どこか軽薄な感じがし、日本の恥部をひけらかしているような気がする、とまでは言い過ぎかもしれませんが、そう感じるのは私もまたその年配者のひとりになった証拠でしょうか。

が、制服を着るとそのモノにもよりますが、しゃきっとした気分になれる、ということはあります。制服とはいえないかもしれませんが、冠婚葬祭できる礼服もそのひとつであり、やはり制服には人を変える魔力のようなものがあるような気がします。

コスプレも気分を変えるためにおしゃれをする、という感覚だとすれば理解できるような気もします。だとすればここはひとつ、怪人二十面相か何かの格好をして修善寺の温泉街でも歩けば、何か名士のような気分になれるかもしれない、などと考えたりもするのですが、変質者と思われて逮捕されるのも考え物です。

実際、極端に肌を露出する衣装や血糊のついた服を着るなど過度なコスプレは、場合によっては軽犯罪法違反になるそうで、軍服ないしは自衛隊の制服などは集団で着ると逮捕される可能性もあります。

ほかにも粛々とした場所での着用はモラルの問題が問われます。屋外型博物館である博物館明治村において行われたコスプレは問題となり、その後ここでは規制されるに至ったそうで、時と場合をわきまえた着装が必要です。

が、日本は自由な国であり、法に抵触しさえしなければ、何を着てもいいわけであり、気分を変えるために制服を着てみたり、コスプレもときにはいいのではないでしょうか。

そろそろ桜の咲く季節でもあり、桜に錨の七つボタンの学ランを着て、港町を歩く、というのはなかなかカッコいいかも。身も心も引き締まるに違いありません。

もし、みなさんが制服を着たいとすれば、なんでしょうか。看護婦さんや警察官、戦国武者などいろいろあるでしょう。

が、70歳、80歳を超えてからの猫耳や魔法少女、特撮ヒーローはやめましょう。気持ち悪がられるだけですから。

2015-1170905沼津市 狩野川河口の防潮水門 ”びゅうお”より

戦艦武蔵のはなし

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先日、戦艦「武蔵」が発見されたという報道がなされ、本物かどうかをめぐって疑義も呈されてきましたが、どうやら多くの専門家が間違いなさそうだとしているようです。

これまで大和ほどは騒がれることがなかったのは、その消息を巡って何一つニュースの提供されるようなネタがなかったためでしょうが、ここへきて急速に話題性のあるものになってきました。

私自身も特段の興味を持っておらず、それだけにこの戦艦についてはあまりにも無知できたため、今日は忘備録のつもりで、この船についてまとめてみようと思います。

「武蔵」は、第二次世界大戦中に建造された大日本帝国海軍の「大和型戦艦」の二番艦です。大和型戦艦は、一番艦大和及び二番艦武蔵、そして三番艦「信濃」が大戦中に就役しています。また、本艦は大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦となりました。

1934年(昭和9年)12月、日本は第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉が不調に終わったことを受けてワシントン海軍軍縮条約から脱退し、列強各国が軍艦の建造を自粛していた海軍休日は終わりを告げました。

1936年(昭和11年)末、海軍司令部は三菱重工最高幹部を招き、第三次海軍軍備補充計画(通称マル3計画)における巨大新型戦艦建造について事前準備を依頼します。翌年開催の帝国議会ではその予算が正式に承認され、計画名「第一号艦」「第二号艦」と仮称され、大和と武蔵の建造がスタートしました。

建造

第一号艦「大和」は1937年(昭和12年)11月4日に呉海軍工廠で起工、第二号艦「武蔵」は、その翌年の1938年(昭和13年)3月29日、三菱重工業長崎造船所での建造が始まりました。三菱重工建造の戦艦としては、5隻目でしたが、従来の4万トンから大和型7万トンへの飛躍には、ドック拡張を含めた技術者の研究と努力が必要でした。

本艦は設計段階から司令部施設の充実がはかられ、第一号艦大和で弱点と指摘された副砲塔周辺の防御力も強化されました。その建造にあたり、兵装などの艤装における中心人物としては、艦隊の防空に関する研究で評価の高かった千早正隆中佐がおり、また艤装員長は、長らく参謀総長を勤めた有馬馨大佐(開戦時には少将)でした。

建造開始から4年後の1942年(昭和17年)には、連合艦隊司令部からはより巨大化させろという拡張要求があり、実行されることになりました。この時点で「武蔵」は「大和」と同じ内部構造とされていましたが、この変更により、内装の入れ替えに駆逐艦1隻分の工事費増加、3ヶ月の竣工遅延が生じました。

姉妹艦「大和」や「110号艦(信濃)」と同様、本艦の建造は極秘とされました。なお、信濃は、大和型戦艦三番艦とされ、武蔵よりも2年遅い1940年5月4日に起工されましたが、戦艦になる予定だったものを、その後の戦局の変化に伴い戦艦から航空母艦に設計変更されました。

建造中の艦乗組員のことを「艤装員」といいますが、彼等は、この戦艦の建造指揮者でもあった有馬大佐の名をとった「有馬事務所」に勤務するよう命じられました。が、実はこれは長崎造船所でこの船を秘密裡に建造するための偽装でした。

このように、武蔵建造においては機密に対する警戒が極めては厳重で、艤装員長の有馬大佐ですら、腕章を忘れると検問を通過できなかったといいます。外部に対しては、さまざまな方法で「武蔵」を隠す手段がとられ、船台の周囲には魚網として使う棕櫚(シュロ)が使われ、これをすだれ状に垂らした目隠しが全面に張り巡らされました。

このとき膨大な量のシュロが極秘に買い占められたため、市場での欠乏と価格の高騰を招き、漁業業者の告発により警察が悪質な買い占め事件として捜査を行ったといったこともあったそうです。付近の住民らは船台に張り巡らされた棕櫚の目隠しをみて、「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、この船体を指して「オバケ」と呼びました。

住民に対する監視も厳しく行われ、造船所を見つめていると即座に叱責を受けて体罰を受けた、逮捕されることもあったといい、造船所を見渡す高台にあったグラバー邸や香港上海銀行長崎支店を三菱重工業が買い取ったそうです。

姉妹艦「大和」よりも遅れて起工された本艦には、「大和」建造中に判明した不具合の改善や、旗艦設備の充実が追加指示されました。

設備の整っていた海軍工廠で建造された「大和」はドック内で建造されましたが、「武蔵」は従来型の戦艦を建造する「船台」を改造したものの上で建造されたため、「船台から海面に下ろし進水させる」という余分なステップが必要でした。

巨大な重量物を陸上移動させる必要があり、その軽減のため、舷側や主要防御区画の装甲は進水後に取り付けるという配慮が必要でした。更に工事の途中で太平洋戦争が始まってしまったため、1942年(昭和17年)12月の完成という予定から6ヶ月も前倒しするように司令部から促されました。

このため三菱重工業の作業担当者たちには非常に過酷な作業が強いられましたが、超人的な努力で事に当たり、ついに船腹を進水させるまでに完成させることに成功しました。

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進水そして艤装

1940年(昭和15年)11月1日の進水時には船体が外部に露見してしまうため、この日は「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に憲兵・警察署員ら600名、佐世保鎮守府海兵団隊員1200名などが配置され、進水式が執り行われました。

厳重な警戒態勢の中で海軍首脳部が列席しましたが、秘密厳守のために同席した皇族の伏見宮博恭王でさえ、平服で式場に入り、その後軍服に着替えるという徹底ぶりでした。

この巨大戦艦の進水時には、進水台を潤滑する膨大な量の獣脂を調達・調合するといった苦労もありましたが、進水後、やや傾いた状態でなんとか無事に狭い長崎港内に滑り込んだ武蔵の船体は、制動までに予定より44mよけいにかかって停止したといいます。

しかし、この時、周辺の海岸に予想外の高波が発生しました。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したという記録も残っています。この進水式の様子は映像として記録されたそうですが、終戦時に焼却されており、現存していません。

同日付をもって正式に「武蔵」と命名された本艦は、排水量4万トン程度と偽って世界に公表される予定でしたが、海軍中枢部の反対により急遽中止されました。進水後は日本郵船の大型貨客船「春日丸」(後に空母大鷹に改造)に隠されながら移動し、向島艤装岸壁で仕上げの工事が進められました。

その兵装は世界最大の戦艦の名にふさわしいもので、46cm(45口径)3連装の大砲を3基、合計9門持っていたほか、15.5cm(60口径)砲3連装4基12門、12.7cm(40口径)連装高角砲6基12門、25mm3連装機銃12基36門、13mm連装機銃2基4門などなど、まるでハリネズミのような様相でした。

これらの兵装は、のちに対戦相手となるアメリカ軍の主力が航空機となったことから、これらを打ち落とすためのさらに小口径の砲門が多数追加され、最終的には25mm連装機銃は35基105門に増やされ、また25mm単装機銃25基25門、12cm28連装噴進砲2基56門などがあらたに追加されました。

この進水式からおよそ1年後の1941年12月8日には、真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまりました。この戦争の緒戦で日本は連戦に次ぐ連勝を重ね、これによる浮かれた空気の中で長崎の住民も「武蔵」のことを公然と話題に出すようになってきていました。しかし、なおもそのは機密であり、第一船台は簾で隠されたままでした。

市民はシュロに覆われて海上に浮かんでいるのが薄々新型戦艦であることは知っていましたが、この船台にも「武蔵がもう1隻いる」と噂するようになっていました。あるとき、船台のある造船所内で夜間火災が派生し、このとき簾ごしに巨大艦の姿が浮かびあがって大騒ぎになったといいます。

が、実はこれは第二船台で建造中の空母「隼鷹(じゅんよう・橿原丸)」でした。のちのミッドウェイ海戦以降は大型正規空母の「翔鶴」、「瑞鶴」をサポートし、それに勝るとも劣らぬといえる活躍をした船で、のちには高速輸送艦として運用され、終戦まで残存した船として知られています。

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竣工そして初出撃

1942年8月5日、武蔵は竣工しました。10月15日には、レーダー試験が開始。よく日本海軍はレーダーを有していなかったために、戦争に負けた、と言われますが、まったく所持していなかったわけではありません。

太平洋戦争初期には、アメリカもまだそれほど性能の高いレーダーを持っていたわけではなく、索敵能力は十分でなかったため、訓練で練度が高かった日本海軍が戦局を優位に進めました。しかし、その後その性能が加速度的に進化し、その結果、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦など、多くの戦いで日本軍は敗北を重ねるようになりました。

開戦後、レーダーの重要性を痛感した日本海軍は慌てて開発に力を入れ始め、終戦までその開発に全力を投じました。その中途の1941年には水上索敵と射撃管制用の「2号2型電探」を初めて武蔵などの大和型戦艦に備え、実戦にも使用しました。

改良を続けることにより光学測距と遜色ない精度がでるようになり、事例は少ないものの、2号2型電探を使ったレーダー射撃による対艦攻撃が実践されました。1000台以上量産され、主力艦から駆逐艦まで多くの艦艇に装備されましたが、距離測定はともかく、方位角測定が当てにならないなど信頼性に欠けるものでした。

「武蔵」に装備されたレーダーは、その調整に並行して主砲発射試験なども行われましたが、その衝撃でレーダーが故障する、といったこともありました。このようにまだこの新型戦艦の完成度は十分とはいえないものがありましたが、戦争はどんどんと進行しており、1943年(昭和18年)1月18日には、試験航行のため呉を出港することになります。

初代船長は、艤装員長も務めた有馬馨大佐でした。この有馬艦長の指揮のもと、「武蔵」は空母瑞鶴、瑞鳳、軽巡洋艦神通、駆逐艦4隻とトラック島泊地へ向かい航行。

翌月2月には連合艦隊司令長官山本五十六が乗艦。連合艦隊の旗艦となりました。しかしその山本長官も4月18日に戦死。後任として、古賀峯一大将が、連合艦隊長官として武蔵に赴任しました。

山本長官の遺骨は、この「武蔵」で運ばれ、トラック島から同年5月17日に横須賀へ帰還。これが本艦の初任務となりました。日本に戻したことについては、北方のアリューシャン列島のアッツ島に米第7師団が上陸したことに対しての備えの意図があったとも言われます。

6月24日には、昭和天皇行幸。御召艦となるという誉を受けますが、翌7月には長崎沖から第五戦隊(妙高、羽黒)、軽空母雲鷹、軽巡洋艦長良、駆逐艦曙と共に再びトラック島へ向かいました。

トラック島は、オーストラリアの北西部約3000kmの太平洋中西部に位置する諸島であり、太平洋の荒波から環礁によって隔離された広大な内海という泊地能力の高さから“日本の真珠湾”ないし“太平洋のジブラルタル”とも呼ばれ、日本海軍の一大拠点が建設されていました。

太平洋戦争に突入後は武装化に拍車がかかり、陸上攻撃機の離着陸が可能なように拡大整備されたほか、水上機基地が設けられ、島々の各所には要塞砲が設置され、3万トンの重油保管タンク、4,000トンの航空燃料保管タンクの設置も進められました。「小松」や「南国寮」などといった有名な海軍料亭の支店もあり、福利厚生施設も充実していました。

太平洋戦争中は、連合艦隊主力が進出、優れた泊地能力を活かし、根拠地として能力を遺憾なく発揮。環礁内は航空母艦が全速航行しながら艦上機を発艦させられるほどの広さがありました。また、ラバウル航空基地を始めとする南方基地への中継地として航空移動の中心的役割も果たしていました。

ただ、大型船が着岸できる岸壁などはなく、ドックなどの船舶修理設備もなかった為、損傷艦艇の修繕は応急処置にとどまり、本格的な修理は本国への回航が必要でした。

このトラック泊地に到着した武蔵は、しかし長らくそこにとどまったままであり、前線に出撃しませんでした。このため「武蔵御殿」と陰口をたたかれました。

しかし、10月17日初出撃。マーシャル方面に米機動部隊出現の報告を受けて、迎撃に出動しましたが、9日間待機しても米機動部隊は出現せず、トラックに帰投。これまた「連合艦隊の大散歩」と揶揄されました。

こうして何の戦果も挙げられないまま、年が明け、1944年(昭和19年)の2月には、軽巡洋艦大淀、駆逐艦白露以下4隻を引き連れて、トラック泊地を出港し、横須賀に帰還。

この廻航は、トラック島を含めた南西部太平洋に兵員を運ぶための輸送業務に就くためのものであり、横須賀で部隊を乗せて、今度はトラック島の西部に位置する、パラオに向けて出発しました。

翌3月、このパラオにおいて米軍の空襲があるとの情報が入り、これを避けるため第17駆逐隊(磯風、谷風)に護衛され事前退避する途中、米潜水艦タニーが「武蔵」を雷撃。魚雷1本が武蔵の左舷艦首部に命中します。

「武蔵」は24ノットに増速して退避しましたが、被害は大きく、浸水は2630tに及び、このとき戦死者7名、負傷者11人の被害を出しました。そのまま呉に向かい、修理が行われましたが、直径7-8mの破孔が開いたものの損傷は限定的であることがわかりました。

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マリアナ沖海戦

その後、呉での修理は順調に進み、こののち上述のような対空戦闘の為に兵装を増やすなどの改装工事が行われました。

5月11日には、第二航空戦隊、第三航空戦隊、第十戦隊第四駆逐隊、第二駆逐隊と共に日本を離れますが、以後、10月までは、タウイタウイ泊地(マレーシア)、ビアク島(西パプア)、と転々とし、最後にマリアナ沖海戦参加すべく、バチャン泊地(インドネシア)に他の艦船とともに集結しました。

1944年6月19日から6月20日にかけてマリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行われたこの海戦は、アメリカから「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されるほどの一方的な敗北となりました。

日本海軍は空母3隻と搭載機のほぼ全てに加えて出撃潜水艦の多くも失う壊滅的敗北を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失しました。マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなり、西太平洋の制海権と制空権は完全に米国の手に陥ちました。

しかし、この海戦では武蔵は温存され、6月24日 日本に戻り、広島湾の桂島錨地に停泊。ここで、陸軍兵と資材を艦体が2m沈下するほど搭載し、7月8日に再度南方へ向かいました。そして、インドネシア西部にある、リンガ泊地に到着。

このリンガ泊地では、米袋に入れた土嚢を機銃台のまわりに積み上げるなどの出撃準備が行われ、このとき乗員にシンガポールへの休暇が許されたといいシンガポールへの移動には戦艦「長門」が使用されたそうです。

この間の8月12日、「武蔵」の艦長は、三代目の朝倉豊次大佐から、猪口敏平少将に交替しました。

猪口少将は、鳥取県鳥取市出身で、海軍兵学校(46期)を卒業したのち、各種艦船で乗員としての経験と積んだのち、砲術学校教官、横須賀砲術学校教頭などを経て、戦艦「武蔵」の第4代艦長に就任したものです。このとき海軍少将に進級しており、世界でも珍しい「提督艦長」となりました。

当時の海軍軍人にありがちであった花柳界での派手な遊びを好まず、神社仏閣詣でをしたり、熱心に坐禅に取り組み、部下将兵に対しても叱ったりしない穏やかな性格の人物であったと言われます。

10月18日、リンガ泊地を出航し、その二日後の10月20日にマレーシア・カリマンタン島北部のブルネ港に入港しました。これが、武蔵が最後に寄港した港となりましたが、この時「武蔵」だけは塗装を塗り直し、他の艦より明るい銀鼠色となりました。

この塗装を嫌がる物も多く、「死装束」だという者、「武蔵は囮艦なのだ」と不安になる者もいたといい、他艦からも縁起が悪いとみなされていたようです。この塗装が艦隊の命令だったのか、可燃物である塗料を始末しようとする武蔵首脳の独自の判断だったのかについては現在もなお不明です。

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最後の航海

さらにその二日後の10月22日、武蔵はその最後の戦いとなるレイテ沖海戦に参加すべく、ブルネイを出撃します。

この海戦で「武蔵」は栗田健男中将指揮の日本軍第一遊撃部隊・通称「栗田艦隊」に所属し、宇垣纏中将率いる第一戦隊の一艦として大和型戦艦「大和」、長門型戦艦「長門」と行動を共にしました。この時、「長門」水上偵察機2号機が「武蔵」に移され、「長門」の整備兵7名も共に移乗しています。

10月23日、栗田艦隊はパラワン水道を通過中に米潜水艦「ダーター」 (USS Darter, SS-227)と「デイス」の攻撃に遭い、重巡洋艦「愛宕」、「摩耶」が沈没、「高雄」が大破しました。このとき「武蔵」は駆逐艦「秋霜」が救助した「摩耶」の乗組員769名を収容しました。

このレイテ沖海戦においてアメリカ海軍は、ウィリアム・ハルゼー提督(大将)、マーク・ミッチャー中将率いる第38任務部隊は4つの空母群を持っていました。 第1空母群は補給のため後方におり、第3群が最も北側、第2群、第4群がその後方に配置されており、「武蔵」をはじめ栗田艦隊を襲撃したのは、この第2~4群の空母群です。

翌10月24日午前6時32分、「武蔵」は距離40kmに敵味方不明飛行機を発見します。午前8時20分、栗田艦隊が、米軍の索敵機に発見されたため、「ブル・ハルゼー」こと、雄牛、猛牛の異名をもつ積極的な性格のハルゼーは即座に攻撃命令を下しました。

このアメリカ軍の動きに対し、日本軍は零戦111(爆弾装備機含む)、紫電一一型11、彗星12、九九式艦爆38、天山8という規模の攻撃隊を送り込みますが、この攻撃隊はアメリカ軍の的確な迎撃により壊滅し、空母に対する戦果は軽空母「プリンストン」撃沈のみでした。

午前9時30分、3機の哨戒機型B-24爆撃機が栗田艦隊に接近し、「武蔵」の見張員がこれを発見します。このとき、この戦争が始まって以来初めて「武蔵」の左舷高角砲が火を噴き、同時に戦艦「金剛」、重巡洋艦「筑摩」が発砲しましたが、撃墜には至りませんでした。

10時頃、「大和」と軽巡洋艦「能代」がレーダーにより、約100km先から米軍機40が向かって来ていることを探知し、直後に、敵の第1次攻撃隊45機(ヘルキャット戦闘機21、カーチス急降下爆撃機12、アヴェンジャー雷撃機)が攻撃を開始しました。

この第一次空襲では、小型爆弾1発が一番主砲塔天蓋に命中し、室内灯が笠ごと落ち、6機の雷撃機による攻撃では、魚雷2本が艦底を通過、1本が右舷中央に命中、第7、第11罐室に漏水が発生しましたが、機関科兵が行った応急作業で食い止めました。

この攻撃で「武蔵」はバルジへの浸水で右舷に5.5度傾斜しましたが、左舷への注水でバランスを取り戻しました。

その後およそ一時間後を経た11時15分、「武蔵」再び敵機による襲撃を受け、雷撃機による魚雷が1本右舷後部に命中、右12、14区が浸水します。これにより、出し得る最大速力は26ノットに減ったと司令部に報告していますが、公試での最大速力は27ノットであり、航行に支障はありませんでした。

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主砲など主要な砲塔も健在でしたが、さらに12時6分、空母「イントレピッド」からの第2次攻撃隊33機(戦闘機12、爆撃機12、雷撃機9)が攻撃を開始。アメリカ軍機は栗田艦隊外周の駆逐艦、巡洋艦の対空砲火をくぐりぬけ、「武蔵」に殺到します。

この殺到の原因については、リンガ泊地に於いて「武蔵」だけが塗装を塗りなおしたため、一番目立っていたのも要因とされているようです。この攻撃に対し、「武蔵」は、はじめて46cm主砲三式弾9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受けたといいます。

この第二次攻撃による被害は、左舷に魚雷3本、艦首と艦中央部に爆弾2発というもので、僚艦の「大和」の乗員も「武蔵」に複数の魚雷が命中した時に発生する水柱を認めています。この被弾により、「武蔵」は指揮装置の故障で高角砲の一斉射撃ができなくなり、各砲個別照準となって命中率が低下しました。

また、左舷中央部に命中した爆弾は、甲板2層を貫通して中甲板兵員室で炸裂し、爆風が通気孔を通じてタービン室に突入し、4つある機関の一つが使用不能となります。3軸運転を余儀なくされ、最大速力は22ノットに落ちましたが、魚雷命中による弾薬庫の直接の被害等はありませんでした。

しかし、各砲塔は被害を受けて射撃不能となるものが続出しました。ただ、二番主砲塔、三番主砲塔は空襲が終わるまで射撃を続けていた、と生存者が語っています。しかし、至近弾による弾片やアメリカ軍機の機銃掃射が、甲板上の機銃兵員達を殺傷し、艦上は血の海でした。

「武蔵」の甲板に備え付けられている25mm対空機銃のほとんどは防護板もなく敵機に晒されたままで、またその他のシールドのある対空兵器も、アメリカ軍のF6Fヘルキャットが6門装備するブローニング12.7mm重機関銃の掃射やロケット弾攻撃の前では無力でした。

この第二次空襲のあと、次の第三次空襲の間に1時間ほど小休止がありました。このため館内では、猪口艦長の指示により戦闘配食が配られました。しかし、その休息もつかの間、13時30分、第3群の空母エセックス 、レキシントンを発進した第3次攻撃隊83機が栗田艦隊に襲いかかります。

上空に到達した攻撃隊のうち、エセックス隊が武蔵や大和、長門に対して激しい攻撃開始しましたが、この第三次攻撃では、アメリカ軍機が撤退するまで、「武蔵」は魚雷5本、爆弾4発、至近弾2発を受けました。

「武蔵」は浸水と傾斜復元のための注水で艦首が水面近くまで沈み、速力が低下し、「大和」を中心とする第一部隊から落伍し、「金剛」を中心とした第二部隊に追いつかれました。しかし攻撃はこれだけ画は終わらず、14時15分、今度は第4群の空母フランクリンから発進した第4次攻撃隊65機が来襲しました。

一連の攻撃でフランクリン攻撃隊は「武蔵」に爆弾4発、魚雷1~3本を命中させました。相次ぐ攻撃に対し、同じ第二部隊にあった重巡洋艦「利根」が、「武蔵」に接近し、護衛を開始しました。

時刻は14時45分、このとき、「武蔵」は旗艦「大和」に対し、「射撃能力は一番砲塔以外さしたる故障ないものの、浸水又は注水のため出し得る速力20ノットの見込み」と報告しています。

また、栗田艦隊長官は、「武蔵」に対して、戦闘力発揮に支障あるため、戦場を脱して「コロン島」経由、馬公市へ向かえと命じました。が、この撤退命令が伝えられる中も、第4群空母「エンタープライズ」から発進した、戦闘機12、艦爆9、艦攻12で第五次攻撃隊を編成し、またしても栗田艦隊上空に到達しました。

ロケット弾を装備したヘルキャットが武蔵と並走する「利根」と「清霜」を狙い、急降下爆撃機と雷撃機が「武蔵」を狙いましたが、このときのアメリカ軍機の乗員が後に語ったところによれば、このとき「武蔵」は油を引いているだけで火災も起きておらず、艦体も水平だったといいます。

しかし、実際には「武蔵」は注水と被雷により大量の海水を飲み込んでおり、動きは鈍くなっており、敵機を避ける回避行動もままなりませんでした。この攻撃により、前部艦橋の防空指揮所(艦橋最上部)に命中した爆弾は、防空指揮所甲板、第一艦橋、作戦室甲板を貫通して爆発。

爆風が第一艦橋へ逆流し、「武蔵」の幹部達多数を殺傷しました。防空指揮所では、高射長、測的長を含む13名が戦死、猪口艦長を含む11名が負傷しました。また第一艦橋では、航海長を含む39名が戦死、8名が負傷したため、加藤副長が指揮を継承し、三浦徳四郎通信長が臨時の航海長となりました。

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停止そして沈没

このエンタープライズ攻撃隊の乗員がのちに提出した戦闘レポートによれば、このとき「武蔵」には1,000ポンド爆弾11発、魚雷8本命中、重巡洋艦(利根)に爆弾を命中させ、駆逐艦2隻撃破または撃沈したとしており、「武蔵」の艦首が沈下し、大火災を起こして完全に停止したことも記録されています。

最終的に「武蔵」は爆弾10発以上被弾、魚雷10本以上を被雷したとされますが、のちに生存者たちがまとめた記録では、右舷に5本、左舷に20本以上、合計33本と推定しています。

この激しい攻撃により、艦の前部に著しい浸水を見た「武蔵」は、前後の傾斜差が8メートルを超え、前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになりました。このため必死の浸水防止の対策が採られましたが、「大和」からみた「武蔵」は既に左に15度も傾斜していました。

「武蔵」は復旧作業をおこないながら重巡洋艦「利根」、駆逐艦「島風」、「清霜」、「浜風」に伴われて栗田艦隊から分離し、コロン湾を目指しますが、被害の累加と共に次々と発電機が使用不能になりました。

15時30分には舵取機電源切断によって、舵が効かなくなったことが報告されており、この最後の第五次空襲で「武蔵」はほぼ停止・操舵不能となりました。

しかし、「武蔵」は大損害をうけながらも僅かながら戦闘力を維持しており、16時55分には米軍機を撃墜したといいます。

「武蔵」の所属する第一戦隊の宇垣纏司令官は、これより少し前の16時24分「全力を尽して保全に努めよ」の伝令を「武蔵」に伝えていますが、その後継続航行は困難と思ったのか、その30分後の17時5分には、「自力又は曳航で移動不能なら、一時的に島陰などへ向かい、艦首をのし揚げるなどの応急対策を講ずるように」と命じています。

17時37分、「武蔵」は右舷の操舵が可能になったため、極力コロン島に回航したいと発していますが、「清霜」による艦尾曳航などの援助も求めており、こうした連絡もすでに電気を使用する通信機は使えなかったため、探照灯や手旗信号などによって行われたようです。

18時15分ころ、「武蔵」から宇垣長官に伝えられた連絡では、「右舷内軸のみ運転可能、操舵可能」あるいは、「我れ機械6ノット可能なるも、浸水傾斜を早め前後進不」だったとされており、このとき宇垣長官は翌朝まで持ちこたえられるかもしれないと見ていたといいます。

18時30分、駆逐艦「島風」が「武蔵」左舷に横付けし、前日潜水艦の雷撃により沈没した重巡洋艦「摩耶」の乗員のうち、「武蔵」が救出して乗艦させていた607名を収容しました。一方、艦内部では必死の防水作業、復旧作業が続いていました。

これほどの被害を受けながら火災の方はすぐに鎮火したらしく、左舷への傾斜を復旧させるため、左舷主錨の海中投棄が行われ、機銃の残骸や接舷用の器具(防舷材)、負傷者や遺体といった重量物を右舷に移す作業も行われました。しかし、傾斜は酷くなる一方で、やがて一斉に甲板上を右舷から左舷にこれらの重量物が滑落しました。

これに巻き込まれ死亡した乗員が少なからずいたといい、このとき艦内での排水作業では、角材がマッチ棒のように折れ、鉄板がベニヤ板のようにしなる、と言った具合で、浸水による水圧は凄まじいものでした。

乗組員の間で、「不沈艦」と信じてきた「武蔵」が沈没するかもしれないという不安が広がっていったのもちょうどこのころでした。傾斜復旧のための注水作業は、注排水区画が満水のため缶室、機械室、居住区などあらゆるところに注水が行われ、沈没の直前には機械室、及び右舷に6個あったボイラー室のうち、3つにも注水がなされました。

19時5分、第二艦橋に猪口艦長以下の幹部が集まり、猪口艦長は加藤副長に遺書と形見のシャープペンシルを渡すと、第二艦橋下の海図室に降りていきました。19時8分、「浜風」「清霜」は「武蔵」から「至急武蔵の左舷に横付けせよ」という手旗信号を受取ります。

乗員救出のための措置でしたが、巨艦の沈没に巻き込まれることを恐れた両艦は100mまで近づくのが限度だったといいます。19時15分頃、ついに「武蔵」は左傾斜12度となり、加藤副長より「総員上甲板」が発令され、乗組員は後部甲板に集合しました。

半壊したマストから軍艦旗が降下されて間もなく、「武蔵」は急激に傾斜を増し、総員退去命令が発せられ、乗組員は脱出をはじめました。このとき、たまたま艦橋をふりかえった数名が、艦橋旗甲板で脱出者を見送る猪口艦長を目撃したといいます。

19時35-40分、「武蔵」は完全に転覆。水中に入った煙突から炎と白煙があがり、しばらく右舷艦底を上にして浮いていましたが、やがて水中爆発音2回があって艦首から沈没し始めました。この爆発は缶室のボイラーが水蒸気爆発を起こした、あるいは主砲弾薬庫の弾薬が転覆による衝撃で誘爆したなど、諸説あるようです。

建造期間1591日に対し、「武蔵」の艦齢はわずか、821日でした。

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戦艦としての評価

海に飛び込んだ乗組員は「武蔵」沈没時の大渦に巻き込まれたり、水中爆発により圧死したりした者もいたといわれますが、随伴していた駆逐艦「清霜」、「浜風」に約1350名が救助されました。「清霜」は25日午前1時まで救助作業を行ったと記録しています。

この「武蔵」の沈没に伴う戦死者は全乗組員2399名中、猪口敏平艦長以下1023名、生存者は1376名、「長門」派遣下士官兵7名でした。さらに重巡洋艦「摩耶」の乗員も117名が犠牲になっています。

先に駆逐艦「島風」の横付けにより「武蔵」から脱出した乗員以外に、武蔵にとどまって戦闘を続けたい、と志願した摩耶乗員たちであり、それぞれが配備に就き極めて勇敢に奮闘したと伝えられています。

この「武蔵」がアメリカ海軍機から受けた攻撃による命中弾は、米軍の統計によれば、爆弾直撃44発、ロケット弾命中9発、魚雷の命中25本、総投下数161発中命中78発とされています。その攻撃は艦前部を中心にほぼ左右両側でした。

このため両舷の浸水がほぼ均等であり、わずかばかりの傾斜はすぐに復元可能であり、またアメリカ軍の攻撃に時間差があったため艦体の沈降に伴って被雷個所がずれていったことも影響して、被弾数の割には長時間交戦できたものと推測されています。

ちなみに、アメリカ軍はこの戦闘を教訓として、のちの1945年(昭和20年)4月に「大和」へ加えた攻撃の際には、これを左舷に集中させたとされています。絶対的不沈艦などありえないわけであり、これだけの打撃を与えれば不沈艦といえども沈没してしまいます。

とはいえ、大和型戦艦は予備浮力が多く確保され、その比は従来型戦艦の長門型戦艦の1.5倍もありました。同時期の他国の戦艦と比較しても、浸水に対しては余裕を持った設計になっていましたが、100機以上の敵航空機から集中攻撃される事態は設計者達の予想を超えていました。

大和型戦艦は日本軍航空隊が制空権を掌握した上で、その掩護下で艦隊決戦を挑むために開発された戦艦であり、味方航空機の支援が1機もなく、逆に日本軍航空隊が壊滅した状態でこれだけの敵機から攻撃されることは想定外であったとも言われているようです。

大和型戦艦設計者の一人である牧野茂氏は、「味方に航空兵力が存在する戦闘で相対的不沈艦とすることは望ましく、大和型戦艦はおおむねその成果を達成した」と述べています。

10月25日、駆逐艦「清霜」と「浜風」に乗った「武蔵」生存者は、マニラ海軍病院分院に収容された100名をのぞき、フィリピンのコレヒドール島に上陸しました。しかし、その後も続いた戦闘に再度投入される者も多く、そのままフィリピン守備隊に残されその多くは日本に戻れず、戦死してしまいました。

その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなく、生還者は56名だったとされています。1977年(昭和52年)には、それらの生存者で結成された「軍艦武藏会」は慰霊祭を靖国神社でおこないました。

再発見

アメリカ海軍は戦後、沈んだ武蔵を探深機で捜索したといいますが、発見できず、沈没地点とされる場所をいくら調査しても武蔵が発見されませんでした。

このことから、沈んだ時点でも武蔵にはまだ浮力があって海底まで沈下せず、艦内に閉じ込められた英霊と共に、シブヤン海の8~12ノットもある強い潮流に乗って海中を彷徨い続けているのではという噂話も存在していたようです。

しかし、今年になってから、アメリカ・マイクロソフト社の共同創業者であるポール・アレンが武蔵をシブヤン海の水深1kmの地点で発見し、先の3月3日に記者会見が行われました。その映像をみた旧日本海軍史研究家などが、艦首の菊花紋章や船を係留するための鎖やロープを通す穴の形状などから、武蔵の艦首と考えてほぼ間違ない、と断定。

その他の日米複数の専門家が武蔵だと断定したことから、にわかに注目を集めるようになり、ポール・アレンにより3月13日にインターネット生中継された映像動画には、海底に静かに眠る武蔵の映像が鮮明に映し出され、数多くの人がこれを生で見ました。

ニコニコ動画のコメント欄では、この発見に感謝の声が多かったといい、70年ぶりのこの発見の余波で、猪口艦長への墓がある鳥取では墓参りが急増したとも伝えられています。

読売新聞は、歴史的記憶として貴重であり後世に残すべきとの特集コラムを掲載したほか、週刊新潮と朝日新聞は引き上げにかかる費用を試算しました。しかし、巨大な費用がかかる事から現実的でない、と言われているようです。

この発見を受けて自主映画製作も発表されているといいます。楽しみではあります。

長くなりました。疲れました。が、「武蔵」と一緒に海の底に沈んでいった兵隊さんたちはもっともっと、疲れていたことでしょう。お疲れ様です。

そして、ご冥福をお祈りしたいと思います。

2015-9196

100万回生きてみそ

2015-9871今日は彼岸の入りです。

21日の春分の日を中日とし、その前後3日間を彼岸と呼びますが、その彼岸ウィークの初日というわけで、春の到来を祝うその日にふさわしく、ここしばらく経験していなかったようなぽかぽか陽気です。

この期間にお寺さんなどで行われる仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼びますが、仏教が中国伝来だからといって、この彼岸会もそうだろうと思う人も多いでしょうが、これは日本独自の風習です。

浄土教という、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く民間宗教のような形で流行したものであり、がしかし「宗教」」と呼ぶほど格式は高くないため、「浄土思想」と呼ばれるほうが多いようです。

その思想の中身ですが、阿弥陀如来が治めている土地、これを「浄土」といい、西方の遙か彼方にあるとされ、これを極楽浄土、または西方浄土と呼びます。ようするに西方にあるパラダイスであり、生前に悪いことをしなければ死後にはここへ行って仏様になれる、という思想です。

なぜ西方かといえば、春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むためです。陽が沈む=死、というわけで、この西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸会の始まりです。

極めて原始的な思想であり、従って宗教ごとというよりは、もともとは庶民の間で自然崇拝として流行った行事というふう捉えるほうが正しいようです。

それをなぜお寺さんで仏事としてやるようになったのか。その答えは簡単です。江戸幕府が定めた「寺請制度」により、人々は必ずどこかの寺の「檀家」として登録が義務付けられたため、庶民と寺は切っても切り離せない仲になったためです。

寺請制度の確立によって民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となる事を義務付けられ、現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされました。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招いたり、逆にお寺に行く、という慣習ができました。

従って寺院というのはいわば今の公民館のようなものであり、彼岸会のような年間行事もここに皆で集まり、寺側が総元締めとして取り仕切るようになりました。

寺受制度は、もともと江戸幕府が人々の戸籍を明確にして税収入を安定化させる目的でつくられた制度であり、また宗教統制の観点からは、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度でもありました。

法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、この際には「お布施」という形で寺院に一定の収入が与えられ、僧侶の生活が保証される形となりました。が、一方では檀家の信徒を指導統制する責務が負わされることになりました。

2015-9292

こうして僧侶を通じた民衆管理が法制化され、寺院は事実上幕府の出先機関の役所と化しました。従って、本来の宗教活動がおろそかとなり、江戸期を通じて汚職の温床にもなりましたが、こうした腐敗に対する反感が明治維新を起こす原動力にもなったわけです。

ただ、民衆の側からすれば、死後の葬儀や供養、あるいは彼岸会のような行事などの七面倒くさいことはすべてお寺でやってくれるため、楽ちんということはあったでしょう。江戸期以前の戦国時代で破壊された多数の寺院は、その多数がこれら門徒の寄進によって再建されています。

それだけ人々の間には、菩提寺になる寺を求める要望が高かったということであり、寺院側にも地元の人々の間にも双方ともにメリットがあったために、寺請制度は社会へ定着していきました。

なお、神社については、江戸時代以前にはお寺と合体しているところも多く、神社なのかお寺なのかよくわからん、というものも多かったようです。従って隣接するお寺が受け元となって檀家となった信徒は、同時にその神社の氏子でもある、というケースがほとんどでした。

従って、神社の氏子もまたお寺の檀家として寺に管理統制されていたわけです。しかし、こうした制度も、明治維新後に政府が断行した廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)制度によって完全に打ち砕かれました。

仏教排斥を意図したものではなかったともいわれますが、まずはこれら寺社と人々の結びつきを払って、明治政府があらたに定めた戸籍制度上にひっぱってくることがその目的でした。

その目論見は確かに成功し、また仏教・神道以外のキリスト教のような宗教も解禁されたため、それまでのような民衆と寺社の絆はかなり弱まりました。

と同時に、神仏習合を廃止、すなわち同じ領地内にお寺と神社が一緒に祀られている、寺社をみつけると、これを分離するように政府は命じました。また仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭なども行われましたが、その結果、おびただしい数の仏像・仏具・神像や神具が破壊されました。

空前絶後の文明破壊ともいわれるほどの暴挙であり、明治政府が行った数々の改革は評価されたものも多い中での暗黒部分である、とは良く言われることです。

2015-9239

この新制度によって、人々はお寺、あるいは神社から監視され、統制されることはなくなりました。が、今でも江戸時代の名残により寺院や神社との結びつきを保っている家庭は多く、こうした場合、彼岸会にはその菩提寺へ行って先祖の墓に参り、ついでにそのお寺で行われている法事に参加したりします。

ちなみに、上述のように彼岸はもともと遙か彼方の極楽浄土に思いをはせる原始宗教的なものでしたが、現代ではその性質が変わり、祖先を供養する行事に変わっており、彼岸といえばお墓まいり、というのが当たり前のようになっています。

死線を越えるのは自分だけではない、ということでいつのまにやら民間信仰としての彼岸会は、家族の中から出た死者をも弔う仏事になっていき、ひいては死んでいった祖先までをも供養する仏事として定着したわけです。

このように、現在の日本でこの仏事として定着しているものは、この彼岸会もそうですが、インドや中国を起源として伝来した元々の仏教には含まれておらず、日本独自の風習が仏教と習合したものです。

それぞれがくっつきやすい要素を持っていたから合体したわけですが、逆にオリジナルの仏教が持っていた思想でも日本には定着しなかったものもあります。

例えば輪廻転生という考え方。死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言うわけですが、「輪廻」の一語で使う場合は動物などの形で転生する場合も含み、「転生」だけだと間の形に限った生まれ変わりを指すようです。

両方を一緒くたにして輪廻転生として使われることも多いので、ここでもそうしますが、それにしてもなぜ定着しなかったか。

これは、釈迦に原点を発するオリジナルの仏教では、「解脱して成仏する」か、「輪廻転生という苦しみの中にいる」がその考え方の根本にあるからです。

この釈迦仏教では、成仏しなかった場合には死後49日を経ていれば生まれ変わり、別人として人間界に生まれ変わっていたり、動物界に生まれ変わって犬やネコになっているかも知れないということになります。

仏にならない限りは、常に生まれ変わりを果たしているのですが、一方、その後中国から入ってきて日本で普及した仏教は、死後の転生はなく、そのかわり信心さえしていれば死んでも必ず成仏する、とされています。従って、既に仏様になったご先祖様はこちらの世界に帰ってくることはなく、このため「先祖供養」なるものが成立しました。

そして、死者であるご先祖様がこちらに帰ってくるのは、輪廻転生ではなく、お彼岸のようなイベントがあるときだけであり、しかもその行事が終わると、あちらにお帰りになる、というわけです。

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しかし、元々のお釈迦様の教えによれば、何十年も前に死んだ血縁者の供養・先祖代々の供養などは全くのナンセンスであり、不必要なものということになります。さらに言えば、もはや死んだ本人は別の体を持って生まれ変わるわけですから、抜け殻である肉体や骨は用のないものであり、墓も必要ないということになります。

ところが日本人の信じる仏教では、先祖供養と墓がきわめて大切なものとされ、信仰の中心となっています。こうして考えてみると、シャカの説いた仏教と、日本人が信じる仏教は明らかに異なり、極論すれば、日本人はシャカの教えに反した仏教を信仰しているということにもなります。

これが、輪廻転生が日本では定着していない理由です。日本の仏教で常識となっている先祖供養や墓の存在は、シャカの教えとは矛盾しているためであり、日本における自称「仏教徒」は、「先祖供養」と「死後の救い」をこの宗教に期待しているわけです。

シャカの教えでは、成仏とは悟りを得て輪廻を卒業することであるわけですが、悟りを得られて真の仏になれるならば墓は不要だ、と唱えているようなお寺や宗派は日本には存在しません。

むしろ死んだら仏になれる、その仏を供養するためには墓が必要だよ、とせっせと寺の土地を法外な値段で切り売りしたりしています。お墓の中に魂はいません。千の風になって吹き渡っているはずです。

だからといって、古来からの先祖崇拝的風習をすべてやめてしまえ、などと言うつもりはありません。亡くなった人々を敬い、弔うという考え方は当然あってよろしく、そのひとたちのことを思い遣るという気持ちはいつの時代にも尊いと思います。

が、私自身は輪廻転生という考え方を信じており、死んだらすぐに仏様になる、という考え方は否定的です。今あるからだが滅びたあとその魂はいったんあちらの世界に帰り、そこでまた修業をするなりして、機会あらばまたこの世に降りてきます。

機会あらば、というのはそれほど人間に生まれ変わりたい魂が多いからです。そのすべてが実現すれば、この地球という環境がパンクしてしまいます。このため、選ばれた人しか生まれ変われない、というわけであり、機会あらばというのは、君が生まれ変わるのを優先していいよ、と言ってくれる他の魂が多い場合に限る、という意味です。

従ってこの世に生まれて今生きているというのは非常に貴重な体験であり、その体験を通じて学んだことが、その魂を成長させ、それが何度も何度も繰り返されることで、さらに上質な魂になっていくわけです。

そして、その行きつく先が、お釈迦様の言うところの仏であるわけです。

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この輪廻転生を描いた絵本があります。以前、このブログでも少し触れたかもしれませんが、「100万回生きたねこ」という童話です。

1977年に佐野洋子さんという方が書かれたもので、画も文章もご本人のものです。一匹の猫が輪廻転生を繰り返していく様を描いた作品で、ご存知の方も多いかもしれませんが、子供より大人からの支持を得ており、「絵本の名作」と呼ばれます。

仏教的な内容なのかといえばそういうことでもなく、読み手により宗教を超えた様々な解釈ができ、私も読んだあとちょっと考えさせられてしまいました。

生まれ変わるたび、それまで飼われていた主人には心を開くことなく、虚栄心のみで生きていた猫が、その最後の生まれかわりでは家族を持ち、大切な人を亡くすことで、はじめて愛を知り悲しみを知る、というストーリーで、非常にシンプルなのですが、奥が深い物語です。

そのあらすじをここで書こうかなとも思ったのですが、読んだことがない人にはぜひ読んでいただきたく、あらすじを書くとその最初の感動が失われてしまうかもしれませんのでやめておきます。

ただ少しだけ書いておくと、100万回生きて100万回死んだ主人公のオスネコは、最後には二度と生き返らなくなります。このエンディングのあと「めでたし、めでたし」と思う気持ちがある反面、さらに複雑なさまざまな思いが浮かんでくるのがこの本の不思議なところです。

今いくらするのかな、とおもったら税込で1512円もするようで、この値段の絵本が売れるというのは、やはり現在でもそれなりに人気があるからでしょう。が、それなりの価値はあると私は思います。

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著作者の佐野洋子さんというのは、作家、エッセイストであり、脚本家、詩人としても有名だった谷川俊太郎と結婚されていましたが、のちに離婚されています。

北京生まれで、7人兄妹の第二子、長女でしたが、幼少時に病弱だった長兄を亡くしており、これが後の作風、そしてこの作品にも影響を与えた、ということが言われているようです。

武蔵野美術大学デザイン科卒。ベルリン造形大学でリトグラフを学び、ここを卒業後、デパートで働いていましたが、すべての工程を自分で決めたいと、デザイン、イラストレーションの仕事を手がけながら、「やぎさんのひっこし」で絵本作家としてデビュー。

1990年、谷川俊太郎さんと結婚し、1996年に離婚したころに、沢田研二さん主演のミュージカル「DORA 100万回生きたねこ」がヒットしたことから人気が再燃したようです。無論、現在でも人生や愛について読者に深い感動を与える絵本として子供から大人まで親しまれて重版を重ね続けており、海外でも訳本があります。

エッセイストとしても知られ、「神も仏もありませぬ」で2004年度の小林秀雄賞を受賞。その後のエッセイの中で、がんで余命2年であることを告白しておられましたが、2010年11月5日、乳がんのため東京都内の病院で亡くなられました。72歳没。

まだ5年しか経っていないので、まだ転生は果たしていらっしゃらないと思いますがわかりません。あるいはもうすでに我々のすぐ近くのどこかに生まれ変わっておられるかも。

あるいは99万回生まれ変わったあとの最後の死だったかもしれず、既に仏になられているかもしれません。だとするとこのお彼岸には帰ってこられるのかもしれません。一度お会いしてお話を伺ってみたいものです。

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金沢あれこれ

2015-1130683北陸新幹線が開通しました。

首都圏から長野、新潟、富山を経て石川県へと、少々回りくどいルートのような気もしますが、それにもかかわらず2時間半ほどで古都金沢へ行けるとあって、とくに東京に在住の人は新たな旅の選択肢が増えたことを喜んでいることでしょう。

同じく古い都である京都へは2時間15分ほどで行けるようですので、こちらのほうが多少アクセスしやすいとはいえますが、盆地に囲まれた隘地である京都に比べ、金沢は海あり山あり、半島ありで、より盛りだくさんです。今後とも京都の大きなライバルになっていくことでしょう。

実は私もこの金沢には特別な思いがあります。というのも、私の祖先はこの地で代々呉服屋を営んでおり、明治の半ばごろまでは金沢駅前に店を出していました。その後曽祖父の代に商売に失敗して没落してしまい、今はその店もなくなりましたが、市内にはまだ先祖代々の墓があります。

最近とんとご無沙汰しているので、ひさびさに墓参りに行きたいな~と思ってはいるのですが、多忙なこともあり果たせていません。また、北陸新幹線ができても静岡に住む我々にとってはあまりメリットはありません。金沢へ行くのにわざわざ東京へ出るよりは、名古屋経由で向かったほうが速く着くためです。

それでも、東京の人、金沢の人、沿線の埼玉や群馬、長野、新潟、富山の人々は熱狂を持ってこの開業は受け入れているようです。

その計画が持ち上がったのは、1965年(昭和40年)で、この年の9月、金沢市の石川県体育館で「1日内閣」なるものが開催されました。これは後年に言うタウンミーティングのようなもので、当時の政府の現職閣僚が地方へ出向いて実情を聞く公聴会の側面もありました。

当時内閣総理大臣を務めていた佐藤栄作氏も出席したこの公聴会において、富山県代表の公述人である砺波商工会議所会頭、岩川毅(中越パルプ工業創業者)氏は、この会議で初めて政府に対して東京を起点とし金沢を経由して大阪に至る「北陸新幹線」の建設を求めました。

このときは、東海道新幹線の開業からわずか1年足らずの時期でしたが、そんな時期に早々と北陸新幹線の構想が提起されたわけです。この提案に、鉄道官僚出身でもあった佐藤総理も興味を示し、この「1日内閣」での新幹線構想の発表を新聞などのメディアも大きくとりあげたため、北陸における新幹線誘致の機運は大いに高まりました。

2年後の1967年(昭和42年)には、北陸三県商工会議所会頭会議において、北陸新幹線の実現を目指すことが決議され、その後、北陸新幹線建設促進同盟会が発足。

こうした動きを受け、1970年(昭和45年)には全国新幹線鉄道整備法が制定され、1972年(昭和47年)に東京都~大阪間を高崎・長野・富山・金沢経由で結ぶ「北陸新幹線」の基本計画が策定され、その着工は現実のものとなりました。

翌年の1973年(昭和48年)には整備計画決定および建設の指示がなされ、1989年(平成元年)にまず高崎駅~軽井沢駅間が着工され、1998年2月の長野オリンピックに合わせて前年の1997年(平成9年)には高崎~長野駅間が「長野新幹線」として開業しました。

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しかし、そこからが長かった……以後、17年もの歳月が過ぎ、高崎~軽井沢間で初めて着工されてからは実に27年、計画決定からは42年もかかって完成したわけですが、その背景にあるのはその途中でバブルの崩壊により税収が伸び悩み、建設スピードが著しく落ちたからでしょう。

しかし、この開通により、最速列車では東京駅~富山駅間が2時間8分となり、さらに東京駅~金沢駅は2時間28分となり、より一層北陸地方が近くなりました。

江戸~明治以降

そこで、改めて我が先祖代々の地である、この金沢という場所がどんなところかを今日は見ていきたいと思います。

金沢市は、石川県のほぼ中央に位置し、県庁所在地ではありますが、明治維新直後は旧石川郡および河北郡に属し、「金沢区」と呼ばれていました。1889年(明治22年)になって、この金沢区534町がすべて「市」に昇格し、金沢市として成立。その市域は10.40 km²です。現時点では人口約47万で「中核市」指定を受けています。

全国では43市がこの中核市に指定されていますが、これに指定される意味は無論のこと、中央政府から事務などの手続きなどが移譲されるなど、地方行政の実施にあたっての大きな権限が与えられるメリットがあるわけです。当然国の出先機関の主要なものはほとんどここにあり、政府中央とのつながりも強くなります。

江戸時代には、江戸幕府が、約800万石であったといわれるのに対して、大名中最大の102万5千石の石高を領し、「加賀百万石」の加賀藩城下町として栄えました。この人口規模は江戸・大坂・京の三都に次ぎ、名古屋と並ぶ大都市です。

最盛期の17世紀後半にはその人口は10万人を超え、日本第4位の都市として発達し、美術工芸など現在に受け継がれる都市文化が花開きました。ただ、幕末から明治維新の頃からは人口が徐々に減退し、名古屋に次いで日本第5位にまで落ち込みました。

その後は産業・交通発達の基軸が太平洋側へと移り、明治20年頃には六大都市を形成することになる神戸や横浜にも人口で抜かれ、さらに活性化する他都市に次々と追い抜かれ、現在ではその順位は35位にまで落ち込んでいます。

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おそらくは明治時代に入ってか入らないかぐらいがこの街が一番賑やかだった時代であり、このころには金沢大学の前身である旧制第四高等学校が設けられたり、日露戦争の旅順攻囲戦で知られる陸軍第九師団が置かれたため、学生や軍人が多数在所していました。

このため、学都・軍都としての印象が強かったといえますが、その後工業などは隣の富山県の富山市のほうが栄えたため、軍事の重要施設などもそちらへシフトしていったようです。

ところが、これが幸いし、第二次世界大戦中は金沢はほとんど被害を受けませんでした。工業県としての圧倒的な実力の差が石川と富山の明暗を分けることになったわけで、富山市は1万2千7百発の焼夷弾を雨アラレと受け、11万人が焼け出され、2,776人の死者を出しました。

富山市の焼失面積は95%、焼失率全国一の焼け野原になり、また左隣の福井市なども焦土と化しましたが、石川県全体全体では空襲で60人以上の死傷にすぎず、金沢市もまた機銃掃射等があったものの大規模空襲を免れることができました。これが、金沢の市街地には未だ歴史的風情が今なお残っている理由です。

しかし、かつては軍都とまで言われた金沢になぜ空爆が無かったのかはいまだに謎とされます。米軍の資料によれば、金沢は、爆撃対象から除外されていたといい、その理由は明らかにされていません。

推測としては、金沢は第九師団がある軍都でありながら、当時師団が台湾に駐留していたため、兵卒はもぬけの殻であり、極めて戦略価値が低かったということがまず考えられます。しかし、金沢が空襲をまぬがれたのは、原爆投下の実験候補地として、無傷のまま残したかったから、という話しもあるようです。

その一方で、逆に米軍は、歴史的街並みを残す金沢や京都への爆撃をためらい、保護しようとしとの見方もあるようです。が、あの国宝姫路城のある姫路の町も焼夷弾にさらされているわけですから、金沢だけが空襲の対象外とは考えにくいところです。ちなみに姫路城はこの空襲で焼夷弾を受けながらも奇蹟的に炎上しなかったことで知られています。

このほかにも、爆撃機がここに至るためには白山が邪魔だったとか、空爆の予定はあったものの当日白山方面に雲が沸いて視程が悪かったため富山に変更されたとか、先導機が金沢と間違えて富山に行ってしまったとか、いろいろ言われているようですが、真相は藪の中です。

いずれにせよ、こうして金沢は京都と同じく古都としては空襲を免れた稀有な存在として残り、空襲による被害者やその遺族が少ない地域という理由から、終戦間もない頃には来日するアメリカ市民の滞在先としても優先して使われたといいます。

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金沢市の発祥

この「金沢」という地名の出所ですが、その昔、現在の市南部に位置する「山科」という場所に住んでいたといおう通称「芋掘り藤五郎」という人物が掘り出した山芋を川で洗っていたところ、そこに砂金があるのを発見しました。このためその後そこは「金洗いの沢」と呼ばれるようになり、それが金沢になった、という話があるようです。

伝説、伝承の域を出ない話ではありますが、場所は違えど、この「金洗いの沢」は、兼六園内の金沢神社の隣りに現存し、今では「金城霊沢」と呼ばれているようです。

その開祖は、織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政といわれます。天正8年(1580年)、戦国時代の本願寺派による一向一揆では、その拠点が尾山御坊(金沢御坊)と呼ばれた地でしたが、盛政はこれを攻め落とし、7年後の天文15年(1546年)に、この当時尾山城と呼ぶ城を築城しましたが、これが後に金沢城となりました。

その後、賤ヶ岳の戦い以降、前田利家が秀吉からこの地を戦勝の褒賞としてもらい、この尾山城(金沢城)を居城とし、のちの加賀藩の原型が形成されました。城の周りには二重に堀が穿たれ、その背後の各所に曲輪が設けられ、城の外には環状に市民の町が形成されるという典型的な環濠都市となりました。

ただ、それまでもことあるご一向一揆の中心的な存在となってきた寺院だけは、金沢城から南西の犀川流域、東側の卯辰山、南東の小立野台地の三ヶ所に集められました。それぞれは城の周辺を取り囲む武家屋敷などの外に留め置かれて警戒区域とされ、これらはのちに寺町寺院群、卯辰山山麓寺院群、小立野寺院群と呼ばれるようになりました。

慶長5年(1599年)に利家が死去すると、翌年には関ヶ原の戦いが起こりました。利家の遺領を相続した長男の前田利長は、東軍の徳川家康につき、西軍に属した弟の前田利政の所領を戦後に与えられ、加賀国、能登国、越中国を有する大大名となります。

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第三代藩主前田利常の時代には、十村制や改作法といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立しました。第五代藩主前田綱紀は名君として名高く、兼六園の前身にあたる蓮池庭(れんちてい)を作庭し、多くの学者の招聘につとめ学問を振興しました。

また綱紀は和書や漢書、洋書などの多様な書物の収集にも努め、その書物の豊富さから「加賀は天下の書府」と言われました。集められた書物や美術工芸品の収蔵品は尊経閣文庫と呼ばれ、現在では前田育徳会というNPO法人により保存管理されています。

その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の城下町として繁栄することとなるわけですが、江戸時代の参勤交代の際、前田氏は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて江戸との間を往来したといいます。

参勤交代は江戸幕府に対する恭順のあかしであり、その行事にそうした大枚をはたくことによって幕府からにらまれないようにすると同時に、そうした出費によって蓄財を吐きだしている、と思わせることが目的だったようです。

石高は高いものの外様大名であり、この外様の地位にあるのも豊臣政権下において家康と肩を並べる大名家だったからです。このため少しでも隙を見せればお取り潰しの憂き目を見ることなるため、こうしたパフォーマンスをしていたわけですが、その一方では警戒されないよう細心の注意を払いながら内向きの産業や工芸を奨励しました。

このため、これらの目立たない産業から得た利益はかなりの額になり、表向きはともかく、藩の財政にはある程度余裕がありました。得た収入を元手に京都などから職人を招聘し、さらには加賀友禅などのこの時代の最新かつ最高の技術を育成できました。

江戸時代初頭には金箔などの箔打ちは幕府に独占されていました。が、加賀藩はこれにも手を出し密造を続けた結果、その技術では幕府を凌駕するようになります。ついには幕府も真似できないレベルになったためついに幕府もその製造を許すようになりました。湿度が高いため金箔の製造には向いており、他にも伝統工芸の漆塗りの製造にも適した地です。

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現在の金沢

現在でも金沢市の金箔の製造は全国シェアの98%、銀箔は100%であり、このほかにも江戸時代には絹織物でもその品質は他国のレベルの遥か上を行っており、ほかにも長年の都市文化に裏打ちされた数々の伝統工芸があります。

こうした工芸、手工業を基盤として、明治時代には繊維工業や染織加工業が発達ましたが、
繊維製品の生産に必要な織機の製造は現在でも衰退しておらず、金沢の主要な産業になっているほか、近年では、パソコン周辺機器に関する企業群が急速に成長しています。

市内で創業したパソコン周辺機器大手のアイ・オー・データ機器などが有名で、この会社はマイコンを利用した工場制御用の周辺機器開発からスタートした企業ですが、織物用の柄を修正するディスプレイ装置の開発といった繊維工業への貢献も行っています。

ホールや劇場、スポーツ施設も充実しているほか、教育施設も金沢大学を始め、多数あり、2009年にはユネスコの創造都市に認定されました。また北陸地方を管轄する国の出先機関や大企業の「北陸支社」「北陸支店」が置かれ、北陸地方の中心的な都市としての機能も担っています。

北陸地方では二番目に大きな卸、小売業販売額をあげる商業都市でもあり、百貨店・大型ショッピングセンターを有します。市中心部の香林坊・片町から堅町にかけてはとくに賑やかな一角で、約1500もの飲食店がある北陸最大の歓楽街となっており、若い女性向けのブランド・ショップが入るビルや多数の路面店が軒を連ねています。

このように金沢市は「商業の町」といった趣が強い街ですが、かといって大阪のようにごちゃごちゃした印象にはなく、これは上述のように戦禍を免れたことが最大の理由であり、残された町並みが綺麗に保存されていて独特の風情を楽しむことができます。

日本三名園の一つとして知られる兼六園を知らない人はいないでしょうからここであえて説明はしませんが、このほかこの兼六園から百間堀を隔てた金沢城跡には、当時の建造物のうち一部である石川門や三十間長屋などが現存しています。

この跡地には城の中の大学として金沢大学のキャンパスがあり、その昔私が学生だったころには中に入れませんでしたが、現在では郊外へ移転したため、その後一部の櫓が当時の技術のままに復元され、一般に公開されているようです。

このほか、金沢の観光といえば、加賀藩の藩祖・前田利家の金沢入城に因んだ「金沢百万石まつり」が有名で、毎年6月に行われるこの祭りでは、前田利家の金沢入城を模したメーンイベントである「百万石行列」行列が街の中を練り歩きます。

この行列の利家役には毎年男性有名人が選ばれていて、今年6月6日に行われるこの行列では前田利家公役に内藤剛志さん、正室、お松の方役は菊川怜さんが選ばれました。

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市内中心部にあるこの金沢城を中心としてその西に広がる長町には石畳に整備された路地に並ぶ武家屋敷跡が各所に残ります。これを挟み込むようにして、その北側には浅野川、南側には犀川という二つの川が流れており、これがこの街の景観の大きなアクセントになっています。

このうちの浅野川の北側の川沿いの東山周辺は、ひがしの茶屋街と呼ばれ、その昔は「東の郭」といわれていた遊郭地帯であり、遊び場だった当時の古い町並みが残ります。

その一部は内部を改装して飲食店やショップなどに利用されており、こことその対岸の主計町は重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。また、一方の犀川沿いには、にし茶屋街があり、こちらは昔「西の郭」と呼ばれています。こちらも雰囲気があっていいところですが、料亭が軒を連ねていて、あまり観光客は行かないようです。

このほか、金沢城の北東部、浅野川の北側には、卯辰山という標高141mの小高い丘があり、ここからは市街地から遠く日本海までを見渡すことができます。また、2004年に開館した金沢21世紀美術館は金沢城の真南、市役所横に立地し、現代美術をテーマとした展示を行っています。

かなり前衛的な展示物がウリで、開館1年で地方都市の公立美術館としては驚異的な157万人の入館者を集め、5周年にあたる2009年には累計入館者数700万人を突破し、兼六園と並ぶ新たな観光資源として注目されています。

こうした観光地を巡るための交通も充実していて、バリアフリーのバスが数多く運行しているほか、観光用のボンネットバスがあり、これで金沢周遊ができ、さらに、金沢駅から「兼六園シャトル」が20分間隔で走っています。また自転車のレンタル・シェアリングも開始されており、これにより、市内のより細かい部分を見歩けるようになりました。

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浄土真宗の町金沢

上述のとおり、市域の南西の犀川流域、東側の卯辰山、南東の小立野台地は、それぞれ寺町寺院群、卯辰山山麓寺院群、小立野寺院群となっていて、これ例外にも各所に古刹が点在することから、金沢は非常に寺社が多い町、という印象もあります。

市内には、仏教寺院が390余りあるほか、神社も330余りあって、これらの仏教寺院を宗派別に見ると、寺院全体の半数を超える210寺が浄土真宗であり、その内の192寺が真宗大谷派です。他宗派が17世紀からほぼ横ばいなのに対して、これら浄土真宗の寺は3倍あまり増加しているといいます。

この浄土真宗とは、鎌倉時代初期の僧である親鸞が宗祖とされる教団であり、親鸞の没後にその門弟たちがこれを善国に広め、発展させました。

その本拠地として戦国の混乱の時期に創設されたのが、京都の「本願寺」です。親鸞の死後、文永9年(1272年)、親鸞の弟子や関東の門徒の協力を得た覚信尼(親鸞の末娘)により、親鸞の墓所として建立された「大谷廟堂」が本願寺のはじまりです。

この寺は、民衆が支配者に対して展開した解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力となりましたが、この間に、教勢は著しく発展し、日本有数の大教団として、また一個の強力な社会的勢力としての地位を得るにいたります。

この本願寺の前身である大谷廟堂の、「大谷」は、親鸞が入滅したとされる、京都鳥部野北辺の地名「大谷」にちなんでおり、親鸞はこの地に葬られました。

この親鸞が葬られた後に造られた墓を管理・護持する僧たちの代表は、「留守職」(るすしき)」と呼ばれ、こののちこれが代々浄土真宗の代表の役割を担っていくようになります。天文23年(1554年)、第10代の留守職である「証如」の入滅にともない、「顕如」がこの大谷廟堂こと本願寺を継承し第十一世留守職となりました。

この顕如のころからは、留守職は「宗主」とも呼ばれるようになり、のちの西本願寺では「門主」とも呼ぶようになりますが、この顕如のころはまだ宗主であり、彼がその地位についてからのおよそ100年間は、戦国混乱の時期にあたります。

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顕如が宗主の座についてから16年後の元亀元年(1570年)には、天下統一を目指す信長は、この当時の一大勢力となっていた浄土真宗門徒の攻略にとりかかります。本願寺は「証如」の宗主であった時代の天文2年(1533年)に、本願寺教団の本山を大阪の石山の地に移し、ここを本拠地としていました。

この地は、ご存知の方も多いでしょうが、その後の大阪城が築造され場所です。淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、また住吉・堺や和泉・紀伊と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地でした。この地に建設された「石山本願寺」は、堀、塀、土居などを設けて要害を強固にし、武装を固め防備力を増していきました。

次第に城郭化していき、いつの日からか「摂州第一の名城」と言われるほどになり、石山本願寺城とも呼ばれるようにもなり、これは本制覇を目ざす信長にとっては当然目障りであり、排除されるべき存在でした。このため、本願寺に対して退去を命じますが、寺側はこれに反発し、以後約10年にわたる「石山合戦」が始まりました。

合戦当初、顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦しますが、戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する穏健派と、徹底抗戦を主張する強硬派とに分裂していきました。この教団の内部分裂が、のちの東西分派の遠因となっていきます。

天正8年(1581年)、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、信長と和議が成立しました。顕如は穏健派と共に石山本願寺から紀伊鷺森(鷺森本願寺)へ退隠しましたが、子の教如は、信長を信用せず徹底抗戦を主張しました。このため顕如は、教如を義絶していますが、教如は実父に絶交された後も「石山本願寺」に籠城します。

しかし、重ねての信長の圧力に屈し、ついには同年8月、教如も近衛前久の説得に応じ「石山本願寺」から退去、信長に寺を明け渡しましたが、その直後に信長はこれに火を放つことを命じたため、城郭は灰燼と化しました。

これを見た教如は怒り、この後も強硬派への支持を募りつつ反抗の機会をうかがっていましたが、それから2年後の天正10年(1582年)に本能寺の変が起こり、信長は自害。このときの天皇、後陽成天皇は信長を継承した秀吉などに顕如に教如の赦免を提案します。顕如はこれを受け、これにより親子は一応和解しました。

赦免後教如は、顕如と共に住し、寺務を幇助するようになり、これで反目し合っていた親子の間も元の鞘に戻ったかに見えました。

翌天正11年 (1583年)には、石山本願寺跡地を含む一帯に豊臣秀吉によって大坂城が築かれますが、本願寺の内部抗争が治まったと判断した秀吉は8年後の天正19年(1591年)に本願寺に対して現在の本願寺のある場所の寺地の寄進を申し出ます。

こうして、翌年の天正20年(1592年)、阿弥陀堂などが新築された現在も京都駅の北西部にある「本願寺(西本願寺)」が完成します。しかし、秀吉の知らないところで、この教団の内部分裂は継続しており、文禄元年(1592年)11月24日、顕如の入滅にともない、教如が本願寺を継承すると、その内紛がたちまち表面化しました。

この時、新宗主となった教如は、石山合戦で籠城した元強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した元穏健派は重用しなかったといい、これが教団内の対立に拍車をかけました。これに対して、穏健派と顕如の室如春尼(教如の実母)は、顕如が書いたという「留守職譲状」を秀吉に示して、遺言に従い三男の准如に継職させるよう直訴。

この訴えを受けた秀吉は、文禄2年(1593年)、教如を大坂に呼び、この譲渡状は信憑性があるとの見解などを示した十一か条の条文にまとめたものを教如に示し、10年後に弟の准如に本願寺宗主を譲るよう、命じました。

このため、いったん教如はこの命に従おうとしましたが、周辺の強硬派坊官たちが、秀吉に異義を申し立て、譲り状の真贋を言い立てました。これが秀吉の怒りを買い、「今すぐ退隠せよ」との命が教如に下されると、同年9月、弟の准如が本願寺宗主を継承し、第十二世となりました。

教如は本願寺北東の一角に退隠させられ、「裏方」と称せられるようになりましたが、引退後も教如は精力的に布教活動にいそしみ、なお本願寺を名乗って文書の発給や新しい末寺の創建を行っており、のちの本願寺分立の芽はさらに着々と育っていきました。

慶長3年(1598年)8月18日、秀吉歿。関ヶ原の戦い後、かねてから家康によしみを通じていた教如はさらに彼に接近し、4年後には後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領の寄進を受けます。またこれを機会に教如は本願寺の一角にあった隠居所から堂舎を移しここを本拠とするようになります。

ここに「本願寺の完全分立」が成立。これにより本願寺教団も、「准如を十二世宗主とする本願寺教団」となり、これが現在の浄土真宗本願寺派となり、また「教如を十二代宗主とする本願寺教団」が誕生し、これが現在の真宗大谷派になりました。

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慶長8年(1603年)、この大谷派は、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え入れ、これを本尊として、これを大谷派本願寺とします。これは七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようになります。

一説によると、これに先立ち家康は、この両者を和解させ、本願寺を一本化させようと考えていたともいいます。関ヶ原の戦いに際して准如は西軍側についており、これを理由に准如に代えて教如を宗主に就けようとしましたが、教如自身がこれを受けなかったといいます。

また、この時、家康の側近の本多正信は、両者を無理に一本化する必要はなく、分裂させたままにしておけばその勢力を削ぐことができる、との意見を述べたともいわれており、このため教如への継職を止め、別に寺地を与えることに決したのだともいいます。

一方、教如側である現在の真宗大谷派は、この時の経緯について、「徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示しています。

いずれにせよこの東西本願寺の分立により、戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされたという見方もあります。が、教如の大谷派が平和裏に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させたという面もあるようです。

現在、本願寺派(西本願寺)の末寺・門徒は、中国地方に特に多く、広島などのいわゆる「安芸門徒」などに代表されるのに対し、大谷派(東本願寺)では、東海地方に特に多くなっています。いわゆる「尾張門徒」「三河門徒」などですが、北陸地方にも多く、今日諸介している金沢においても「加賀門徒」が多くなっています。

これは元々加賀門徒である大谷派に属する僧侶などが中心となり、前田家などの政権に対してしばしば一向一揆を起こしていたこととも関係があると思われ、石山合戦では信長に反旗を翻した籠城した教如の影響力が強かった土地柄ということになるようです。

食のパラダイス金沢

しかし、金沢城下では前田家の治世以後、一揆などによる著しい混乱は少なく、江戸の太平の時代に豊かな文化が育まれ続けました。

金沢は、食の文化でも有名であり、とくに加賀料理として有名なのが治部煮であり、これは鴨肉を小麦粉にからませ、ダシ汁で煮たものです。ほかにも、蕪で鰤の塩漬けを挟んで発酵させた熟れ鮨の一種の「かぶら寿司」、ゴリ料理、鯛の唐蒸し、鱈の白子、笹寿司くるみの佃煮、河豚の卵巣の糠漬けなどなど、ヨダレの出そうな料理が目白押しです。

金沢市の海に面した地域である大野地区は醤油の産地としても有名で、今でも醤油蔵が立ち並んでおり、加賀料理の味の引き立て役として欠かせないものです。他のメーカーに比べ、くどさがあまりなく、甘いのが特徴です。

観光都市として注目を浴びるようになってからは、台湾を始めとした日本国外からの観光客も増えており、仏ミシュランの2009年3月発行の「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン2009」では、兼六園が3ツ星、金沢21世紀美術館と長町武家屋敷跡の野村家が2ツ星を獲得しています。

金沢は和菓子でも有名です。市民1人当たりの和菓子購入額全国第1位であり、これは加賀藩が茶菓子作りを奨励したためです。京都や松江と並ぶ「日本三大菓子処」として知られており、市民の多くは日常的に食べる和菓子の種類によって季節を感じるほどだといいます。

その菓子作りを題材にしたNHKの朝ドラが始まるようです。タイトルは「まれ」だそうで、現在の「マッサン」に代わり、3月30日から半年をかけて放映される第92作目です。

パティシエの世界一を目指し都会にやってきたヒロイン、津村希(まれ)が夢を諦め、育った故郷で小さなケーキ屋を開き、再び夢を取り戻していく物語だそうで、能登地方の輪島市と横浜市を舞台に繰り広げられるといいます。

このヒロインは2020人が応募するオーディションによって選考されたそうで、土屋太鳳(たお)さんというそうです。主人公が活発なイメージということから、役作りのためにロングヘアをバッサリと40cmも切ったといい、元気な役作りが期待できそうです。

輪島市や珠洲市がメインの撮影地だそうですが、このほか金沢の懐かしい風景が流されるに違いありません。しばらく行っていない彼の地が見れそうで楽しみです。

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人間五十年、下天のうちを比ぶれば

2015-9870伊豆では、そろそろ梅の季節が終り、河津桜の樹間にも緑葉が混じる頃になってきました。

あと一週間もすれば南伊豆ではソメイヨシノが咲き始めるところも出てくるでしょう。今この原稿を書いている場所から少し離れた通り沿いのサクラの木も、気のせいか少しピンクがかってきたような気がします。

それを眺めながら、去年咲いたその桜の色などを思い出したりもしているのですが、あれからもう一年経ったか、と改めて時間の過ぎるスピードの速さを感じています。

再三このブログでもボヤいていることではあるのですが、齢をとると時間の経過が早くなります。

同じことを何度も何度も繰りかえしてきたために、年齢を重ねれば重ねるほど、そのひとつひとつの所作に要する時間が効率よく短くできるようになります。そのために経過時間が短く感じられるのだ、という人もいるようです。確かに一理あるかもしれません。

人生は経験の連続なので、経験を積めば積むほどいろんなことができるようになるため、それらに要する時間も短くて済む、というわけですが、しかしと同時にこなすことができる仕事も増えるので、一層多忙になります。

忙しいときにはやはり時間の経過などかまっていられなくなるわけであり、これもまた時間が速く過ぎるように感じる要因なのでしょう。

実際、会社勤めをしている人達、とりわけ50代の人たちの仕事量というのはかなりのものではないでしょうか。20代の若い人に比べれば格段に効率的な仕事ができるのはもちろんのこと、30代、40代の後身の管理もしつつ、対外的には営業にも出ていかなければならないし、社内的にも重要なポストに就くことも多くなり、それだけ会議も増えます。

それだけに心労も多く、仕事のストレスによってうつ病などの心因性の病気にかかったりもします。アトピーやじんましんといった症状は精神的なものから来ることも多いといい、痔ろうについてもまたしかりです。また、タバコや酒など体によくないものに走りがちです。

なので、仕事ができる反面、このころから急速にふける人も多く、あなた、ホントに50代?という、どうみても70代にしか見えないオッサンや淑女がいたりします。

その昔は、人生50年といわれた時代もあったようなのですが、これは現在のように疫病対策やさまざまな病気の治療方法が確立していなかったためであり、昔の日本と同じくらいこうした対策が十分でないアフリカの諸国の多くは、現在でも45~55歳が平均寿命のようです。

片や、今の日本人の平均寿命は82.6歳で世界一であり、女性の平均寿命は日本が85.99歳で世界一、男性の平均寿命は3位で、79.19歳となり、いまや人生50年どころではなく、人生80年の時代です。

が、その昔は50年も生きれば十分、さらに60にもなろうものなら、それはそれは長寿ということで、いわゆる還暦のお祝いをしたりして大はしゃぎをしたわけです。赤色の頭巾やちゃんちゃんこなどを贈り、その長寿を祝ったりしますが、これはかつては魔除けの意味で「産着(うぶぎ)」に赤色が使われていたためです。

60歳は、12干支×5サイクルの終点であり、この時点で、生まれた時に帰るという意味でこの慣習があるわけですが、欧米でも、ダイヤモンドを60周年の祝いに贈って60周年の象徴とする風習があるようです。

では、50歳になったら何かお祝いをするのか、といえば特にそうした風習はないようです。ただ、中国では、50歳のことを「杖家(じょうか)」と呼び、この年になると家の中で杖を用いることが許されるといい、ほかに天命、もしくは知命という言葉があって、これは「五十にして天命を知る」という意味で、天が自分に与えた使命を自覚することです。

50にして立つ、という言葉があるかどうかは知りませんが、それだけ責任が重い年齢に達したということでもあり、天から与えられた使命を知ったからには、その齢からはさらにその天命を全うすべく日々身を大切にして生きよ、というわけです。

有名な話しとして、織田信長が、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」という「敦盛(あつもり)」という謡を口ずさみながら舞うのが好きだったという逸話があります。

この「人間」は「じんかん」とも読むそうですが、人間の寿命は50年でしかない、という意味だと思っている人も多いようですが、実は意味が少し違うようです。

このあと、「一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」と続くため、人の一生は50年ほどにすぎず、一度世を受けたものは、この年齢ほどにもなると死んでしまうのが常だ、ああ無常、というふうに解釈しがちですが、違うようです。

信長が生きていた16世紀には、「人間」を「人の世」の意味で使っていたといい、それゆえ「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年という歳月は、下天のうちのほんの少しの時間にすぎない」という意味になります。

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そもそも、「下天」と何か。これは、本来は「化天」と書き、仏教でいうところの、「六つの欲」の5段階目のことです。

仏教には、「六道」という世界観があり、これは、一番底辺にある地獄界から始まって、餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界というふうに続きます。これらはすべて欲望に捉われた世界、つまり「欲界」でありこの六道の世界を経て、ようやく仏様が住むさらに上の世界へと進める、とされています。

一般に人間界の上にある天上界には欲はない、と思いがちですが、この天上界にも欲界があり、ただし、これは人間の欲に比べれば限りなく欲が薄く、物質的な「色界」と精神的な「無色界」の二つに分けられています。

この色界と無色界の下に、我々の住む5番目の人間界があるわけですが、この世界は別名を、「化楽天(けらくてん)」または、楽変化天(らくへんげてん)といい、これを略したのが「化天」です。

「天」というのは仏教でいうところの「世界」のことであり、この天に住む者は、自己の五境、すなわち眼・耳・鼻・舌・身(色・声・香・味・触)の五感を駆使して、その世を娯楽する、とされています。

要するに、この五感を使わなければ生活できない我々が棲んいるのが人間界というわけですが、この六道のうちの、第5段階の化天では、ここに棲む住人の寿命は8,000歳とされています。

えっそんなに長く生きれるわけないじゃん、と思うでしょうが、そこは仏教の説話の話です。この化天住人の一昼夜は人間の800年に当たり、その寿命は8000年ですから、人間に換算すると、800×365×8000=2,336,000,000年も生きる、ということになります。

が、いくらなんでもそれだけの期間き続けることはできませんから、この間、何度も生まれ変わることになります。輪廻転生です。

従って、人間の人生を仮に50年とすると、4672万回ほど人間は生まれ変わる、ということになります。「100万回生きたネコ」という童話がありますが、それ以上です。もっとも、日本では最近寿命が長くなっているため、総平均すると、この生まれ変わり回数はもう少し少なくなるはずです。

つまり、上の「人の世の50年の歳月は、下天のうちのほんの少しの時間にすぎない」の「下天のうち」は「化天のうち」であり、化天住民である我々にとっては50年の人生は長いようであるが、これは23億歳の寿命を全うするうちの、ほんのわずかな時間にすぎない、という意味になります。

ところでこの化天がなぜ下天に変わったか、ですが、織田信長が舞った「敦盛」には、その原点になった「幸若舞」という舞があり、その初期のころの演目ではこれは「化天」となっていたようです。

その後、敦盛が人気演目になるに従い、「下天」に変わっていったわけですが、そう変わった理由はおそらくはあの世を意味する「天上」という言葉と対比させやすかったためでしょう。

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が、ややこしいことに、実はこの下天というのは、実は上述の天上界も含めた「六道」それぞれに住む王様のうちのひとり(正確には一グループ)が住んでいる場所の名前です。

この6人(6組)の王の住む世界は、依然として欲望に束縛される世界であるため、それぞれを「六欲天」とも呼びます。そして、ここにいる王様とは、天上界から順番に、他化自在天(天魔波旬)、化楽天、兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん)、夜摩天(焔摩天)、忉利天(三十三天)、そして四大王衆天、となります。

この四大王衆天というのは、四天王のことで、これは我々が仏教彫刻でよく目にする、持国天・増長天・広目天・多聞天などです。この四天王がいる場所が実は、「下天」であり、六道の中では地獄界に相当する世界です。

上述のとおり、「化天」は欲界の上から2番目の世界ですが、その一番下の界のことを下天というわけで、ランクが4段階も違うわけです。そして、このランク付けでは、一番下の住民の寿命が一番短く、上に行くほど長くなります。

下天は一番下の階層になるため、ここの住民の寿命はかなり短くなり、500歳しかありません。「化天」では8000歳でしたから、地獄界の住民はその十分の一以下しか生きられないわけです。

従って、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」の「下天」のところを「化天」とするか否かによって、その時間スパンは異なることになります。

が、いずれせよ、人間の寿命に対して、それはそれは長い時間ですよ、ということを謡っているわけですから、どちらを使っても、人の一生は、化天界(下天界)を通じての寿命よりも遙かに短くはかない、というもともとの意味を逸脱するものではありません。

「人間五十年、“下天”の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」「人間五十年、“化天”の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」でもどちらでもよく、人間の人生50年は、地獄界の500年、化天界の8000年というスパンを考えると、ほんの一瞬にすぎないね、だからくよくよするなよ、ということが言いたいわけです。

この人生50年を詠う、敦盛の原点となった、幸若舞というのは、中世から近世にかけて、能とは別に武家達に愛好された芸能です。能というのは、猿楽とも呼ばれ、明治時代以降は狂言とともに能楽と総称されるようになったもので、発祥の地の中国では、軽業や手品、物真似、曲芸、歌舞音曲など様々な芸能が含まれていました。

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幸若舞もこの能に発想のヒントを得て生み出されたことは想像に難くないのですが、能と違って日本独自の舞であり、また武家の中から出てきたところが宮廷で発達した能と異なり、その題材も武士の華やかにしてかつ哀しい物語を主題にしたものが多いようです。

後に武家政権である鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たる、「源義家」から10代後の子孫に、「桃井直詮」という人物がおり、この人が始祖といわれます。そして幼名を幸若丸といったことから「幸若舞」の名が出たといわれています。ちなみに「幸若」のよみは「こうわか」です。

幸若丸は越前国、つまり現在の富山県に住んでいましたが、父の没後、比叡山の稚児となりました。生まれつき歌舞音楽に優れた才があり、草子に節をつけて謡ったのが評判になって「幸若舞」と呼ばれるようになったとのことで、彼の出身地が越前であることから、「越前幸若舞」とも言われます。

信長が愛したように、敦盛が代表的なものです。が、我々がよく知る敦盛は、信長の舞に代表されるような一場面にすぎませんが、実はそのストーリーはもっと長いものです。

これは、1184年(元暦元年)の源平合戦、またの名を「治承・寿永の乱」の際、須磨の浦における「一ノ谷の戦い」での出来事を描いたもので、この乱のとき、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめました。

このとき、平清盛の甥の平経盛の子で、若き笛の名手でもあった「平敦盛」は、退却の際に愛用の漢竹でしつらえた横笛を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまいます。この笛は「小枝(さえだ)」という名品で、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛(清盛の父)が鳥羽上皇から賜ったものだといいます。

敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚上で馬を飛ばしますが、退却船の武士たちもこれに気付いて岸へ船を戻そうとします。しかし逆風で思うように船体を寄せられません。敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり、馬を上手く捌けずにおり、いたずらに時間のみが過ぎようとしていました。

そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将に違いない、と見極め、敦盛のところまで来て一騎討ちを挑みました。敦盛は当初これを受けあいませんでしたが、直実はしつこく将同士の一騎打ちを迫り、これに応じないならば、兵に命じて矢を放ちかけさせるぞ、と脅しました。

退却船からは大勢の仲間が見ており、多勢に無勢な中、一斉に矢を射られて殺されてしまうような無様な姿をみせるくらいなら、と、敦盛は直実との一騎討ちについに応じてしまいます。しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまいます。

必死に抵抗するも組み伏せられてしまいますが、直実がいざその頸を討とうと、もとどりを掴んでグイとその顔を上げさせると、その立派な鎧姿からかなりの年配者と思っていたその武将は、なんと元服間もないようにも見える紅顔の若武者であることを知ります。

重ねて名と齢を尋ね、これに答えた敦盛は、名は名乗らず、しかしわずか数え年16歳だとだけ答えました。実は、直実は、この一ノ谷合戦の最中に長男を討死させたばかりであり、我が嫡男と同い年だというこの少年の哀れな姿をみているうちに、ついつい亡くなったその息子の面影を重ね合わせてしまいます。

生かしておけばまだ将来あるであろうこの若武者の将来を思い、討つのを惜しんでためらうのは当然であり、このまま討とうかそれとも何か理由をこじつけて助けようかと心の中での逡巡が始まります。

この姿を見ていた同道の源氏諸将は、次第にこれを訝しみはじめ、ついには、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めました。ここまで言われては仕方がないと、ついに直実は心を痛めながらもついに敦盛の頸を討ち取りました。

別に伝わっている話では、息子を失った直実がその仇討ちとばかりにこの若武者に挑んだとき、直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたか」と訊くと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」と健気に答えたとなっています。

これを聞いて直実は一瞬この若武者を逃がそうとしましたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切ったとされます。このとき敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答えたとも伝えられています。

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いずれにせよ若き敦盛はこれによって短い生涯を終えますが、心ならずも息子と同年齢のこの若者を討ったことがその後も長く直実の心を苦しめるようになります。

結局この一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わりましたが、敦盛以外めぼしい武将を討ち取ることのできなかった直実には、合戦後の論功行賞も芳しくなく、同僚武将との所領争いも不調でした。

翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実はやがて世の無常を感じるようになり、ついには出家を決意して世をはかなみながらその残りの人生を送るようになります……。

と、謡の敦盛のストーリーはここまです。が、敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実はその後、出家の方法もわからず方々を放浪したといいます。

やがて高僧として名を知られていた「法然」の存在を知り、救いを求めたいとその弟子に面会を求めました。面談を初めていきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、ようやくそこへ法然が現れました。

このとき直実は法然に対して「後生」について真剣にたずねたといい、このとき法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり」と応えました。これは罪には軽い重いはない、念仏を唱えすれば必ず救われる、というほどの意味でしょう。

この言葉を聞いて直実は、さめざめと泣いたといい、実は刀を研ぎ始めたのは、法然の前で切腹するか、手足の一本ほども切り落とそうと思っていたのだといいます。

この法然や熊谷直実も、史実の上でも実在した人物であり、こうした話の信憑性は高いようです。法然の父は、押領使という宮廷の警察長官のような官吏だったようですが、法然が9歳のとき、土地争論に関連して敵対する武士に襲われて重傷を負いました。

やがて傷が悪化して瀕死となりますが、その死に際に法然に仇討ちはならぬと釘を刺したため法然もこれを断念し、母方の叔父の僧侶もとに引き取られ、自らも仏道を進むことになりました。そしてのちに浄土宗の開祖と仰がれるようになる人物です。

一方の直実の家も武家であり、その祖父は若いころは源氏の武将として名を馳せたとされます。実はこの熊谷家は平家の流れを汲む家柄であり、そのあととりである祖父はその名を「平盛方」といいました。

上皇の身辺を警衛したり御幸に供奉した北面武士であり、天皇家を操る平清盛の父で、清盛に反発していた平忠盛を襲撃したグループの一員だったため、天皇の怒りに触れて処刑されました。このため熊谷家は没落しました。

このとき赤子であった息子の平直貞は、乳母に抱かれて武蔵国に落ち延びたといい、成長後も所領もない寄寓の身でした。が、あるときその育った坂東の地において見事な熊退治を行い、これが領主の目に留まり、ようやく所領を得ることができた、といます。

そしてこの平直貞こそが、熊谷直実の父となります。この所領を得たとき、平の名を捨てて熊谷家の養子となっており、熊谷家は源氏に仕えていたことから父の直貞も直実も源氏方の武将になりました。が、元は坂東平氏の血を引く流れであったわけです。

時代が変わって立場も変わり、同じ平氏の若者を討たざるを得なかった、というところが、この「敦盛」という演目により悲哀を与え、と同時により深みを与えているわけで、当時の武将たちが好んでこれを舞ったというのは分かる気がします。

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その後の直実がどうなったかといえば、建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり出家し、法名を法力房 蓮生(れんせい)としました。

出家から2年後には鎌倉で昔の同僚の頼朝と再会していますが、このときは泣いて懐かしんで頼朝と語り合ったといい、武骨な人柄で知られていた直実こと蓮生が頼朝にとつとつと仏法を語ったことは周囲を驚かせたといいます。

その後この頼朝の庇護を受けるようになった蓮生は数多くの寺院を開基していますが、その後、京都に戻り、建久8年(1197年)、錦小路東洞院西にあった、父・貞直の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して1「法然寺」を建立し、さらに翌年には粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開基しました。

さらにその後生まれ故郷の関東に帰った蓮生は、そこに小さな庵を建て、念仏三昧の生活を送ったといいます。しかし、建永元年(1206年)8月、翌年の2月8日に極楽浄土に生まれる、すなわちその日に死する、と予告する高札を武蔵村岡の市に立てました。

ところが、その春の予告往生は果たせなかったため、再び高札を立て、建永2年9月4日(1207年9月27日)に実際に往生したと言われています。享年66。

直実の遺骨は遺言により、京都粟生の光明寺の念仏堂に安置されましたが、この直実の墓は師匠である法然の廟の近くにあります。また一ノ谷で亡くした直家の墓もこの直実の墓に並んであるそうです。

高野山にも直実の墓があるといい、これはおそらく分骨したものでしょう。敦盛の墓と並んでいるそうで、直実は建久元年(1190年)に法然の勧めにより、ここで敦盛の七回忌法要を行っています。

直実が晩年暮らした庵は、その跡に天正19年(1591年)幡随意白道上人という人が寺を建て、これは「熊谷寺」として現在も地域の人々に親しまれています。また、熊谷直実の「熊谷」の苗字は、そのまま、この寺のある埼玉県「熊谷市」にその名を残しています。

ところで、敦盛において一ノ谷の戦いで死んだとされる、直実の嫡男直家の戦死は実は脚色だそうです。

謡では死んだことになっていますが、実際には刀傷を受けて重体になったのをなんとか生き延びたようです。その息子の怪我を見舞った直後にちょうど敦盛が現れ、平家憎し、と憤った直実が一騎打ちをしかけた、というのが真相のようです。

この直家は、直実が出家してしまったためこれに代わり、家督を継いで53歳で死去しており、これは人生50年、という当時の平均寿命をほぼ全うした年齢といえます。

その父子はその後何回生まれ変わりを遂げ、今、何回目の生まれ変わりを経験しているでしょうか。もしかしたら、あなたの隣人がその人かもしれず、またあなたも何度も何度も繰り返し生まれ変わり、23億年あまりをこの人間界で過ごす中で、同じ人物に何度か遭遇しているに違いありません。

しかし、何度生まれ変わってもその一生は昔ならたかが50年、そして今は80年にすぎません。

若いころには時間はいくらあっても構わないと思うものですが、齢を重ねるにつれ、その次に控えている次の人生を考えれば、時の流は速ければ速いほど良いと無意識に思うようになるものなのかもしれず、23億年という途方もない時間を過ごすためにも、死期が近づけば近づくほど時の流れを速く感じるようなしくみになっているのかもしれません。

できれば一度その時間の流れを止めて、これまでの旅の経過を味わい、またこれからの行先を見極めたいと思うのですが、なんとかならないものでしょうか。

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