震災の日に

2015-1170984今日は、4年前に東日本大震災が起こった日です。

国内観測史上最大のマグニチュード9.0を記録する巨大地震により、地震動・液状化などによる被害だけでなく、巨大津波によって東北地方から関東地方までの太平洋沿岸一帯が壊滅状態になったことはいまだ記憶に新しいところです。

加えて福島第一原子力発電所事故を誘発し、日本は地震、津波、原子力災害というトリプルパンチを受けたわけですが、いまだその後遺症から抜け切れていません。今日という日を迎える前から再三テレビ報道などで復興の状況が伝えられていますが、それらの進捗が思わしくないことは、みなさんもご存知のとおりです。

この震災当時、我々家族は多摩地方のマンション住まいであり、ここも震度3強ほどの揺れに見舞われました。が、幸い私も含め家族全員が怪我をするようなこともなく、家の中の器物も棚から電球が一個落ちてこわれたぐらいの被害だけで済みました。

この日私はちょうど自宅で仕事をしていたので、その後の経過をテレビで注視していましたが、巨大津波によって次々と飲み込まれていく東北の各都市の惨状をみつつも、これは本当に現実なのだろうかと、なかば茫然としていました。

現在のようにメディアが発達してくると、こうした遠く離れた場所での災害の様子や事故の経過などを簡単に茶の間で見ることができ、そうした状況が現実の生活とあまりにも違うためにそのギャップを頭が整理しきれないためにああなったのだろうと思います。

こうした震災もそうなのですが、現在中東で起きているような戦争の状況などもまたこうしたメディアで目にするにつけ、なんと自分は無力なのだろう、といつも思うのですが、その無力感を埋めてくれるようなものはなかなか見つかりそうもありません。

地球全体を見渡した時、こうした災害や戦争がいったいどのくらい同時進行しているのだろう、とぼんやり思ったりもするのですが、さすがにメディアがいくら発達していても、また現在のようにインターネットが普及していても、それらすべてを同時把握する術はありません。

が、神様はすべてお見通しなのだろうな、と思うわけで、改めて人知を超えたそうした存在への畏敬の思いが沸いてきたりもします。

おそらくはこうした災害や戦災をも司った上で、別の場所では恵みをもたらし、全世界のバランスを取っていらっしゃるのだろうな、と推察するわけですが、さすると、こうした人類へ与える脅威の意味は何のだろう、と逆に改めて哲学的な思考に走ったりもします。

私は否定的ですが、大勢の人が死に、怪我をしたり、家を失ったりすることに意味があるとすれば、それは神様の警告であり、戒めである、という考え方をする人もいます。

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1923年に発生した関東大震災後も、こうした災害は天譴(てんけん)によるものだ、という思想が流行したそうです。

東日本大震災が起こる前には、この関東大震災が、この当時の日本人にとっては直近の大災害であり、当時の人々の中にも異常な心理的反応が起こったのは当然のことですが、なぜこの、「天譴」という聞き慣れないことばが流行ったのかを調べてみました。

すると、「天譴」という思想はもともと儒教主義に基づくものであり、奈良・平安の王朝時代に既にこのことばは使われていたようです。本来の意味は「為政者に対する天の譴責」、すなわち、国の指導者に対する天の戒めということのようです。

このことばが何故この大正時代に再びよみがえったかといえば、これはそれ以前に起こった日清戦争や日露戦争による連戦連勝のためです。これらの戦争によって、一応日本は豊かになりましたが、その一方では戦争成金国として人々の心が傲慢になり、道徳心が極端にまで弛緩していた、ということが言われているようです。

震災前のわずか1~2か月間に、情死、姦淫、背任、背徳といった事件が相次いでいたといい、日本の国民生活はまったくもって無反省な、無省察な空虚なものになりつつあった、と指摘する人もいて、ここに大天災が起こって、国民の惰眠を覚醒させた、というわけです。

つまり浮かれすぎ、堕落した人々を懲らしめ、あるいは目をさまさせんがために天が地震を起こしたというのが、この大正版の「天譴論」です。

懲らしめのために天が地震を起こすなどということが実際にあると当時の人々が真底から信じたかどうかはともかくとして、戦争に次ぐ戦争、そしてそこでの勝利という背景を通じて、この「天譴論」に共感を示す人が、大震災体験者たちのうちに数多く含まれていたということは確かのようです。

たとえば内村鑑三は、その日記の中で次のように記しています。「東京は一日にして、日本国の首府たる栄誉を奪われたのである。天使が剣を提げて裁判を全市の上に行うたように感ずる。時々斯かる審判的大荒廃が降るにあらざれば、人類の堕落は底止する所を知らないであろう。」

北原白秋などは、この「天譴」という言葉にその歌心まで揺すられたようで、いくつかの「天譴和歌」を作っています、その一つは、「世を挙り心傲ると歳久し天地の譴怒いただきにけり」であり、また「譴」という言葉は出てきませんが、「大御怒避くるすべなしひれ伏して揺りのまにまにまかせてぞ居る」というのもあります。

このような「天譴」という考えに、知識人を含め当時の多くの人たちが心を引きつけられ賛意を示したということは、東日本大震災を経験した我々にも重要な示唆を与えてくれるように思えます。

今回の震災においても、これは天が我々の素行の悪さを見抜き、これを戒めたのだと考える人は少なくないのではないでしょうか。

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しかし、この「天譴論」の本質は反省と自戒を含めた自罰的、あるいは自虐的な気分が人々を支配したものといえ、よくよく考えてみればその時々の時勢に乗ったいわば「気分」にすぎず、著しく合理性を欠いたものであるのは明白です。

「天譴」を振りかざす人々の間に強い自己反省の意識が含まれているのは確かであっても、そのことは、「天譴論」の軽薄さを薄めるものではありません。我々日本人が今回のような大災害を前にしたときいかに非合理的観念、態度に陥りやすいかを、教訓としてこの大正時代の事例は教えてくれているわけです。

ただ、この天譴論だけでなく、日本人はこうした災害に出会うとまず悲観的になり、そしてとかく自暴自棄になる傾向があるようで、このほかにも「災害は文明、人間存在のはかなさの証明である」というのがあります。

芥川龍之介は、この関東大震災のあと、「丸の内の焼け跡を歩いた時にはざっとああ云う気がしました」と書いており、「ああ云う気持ち」というのは、「人間のはかなさ」のことです。

芥川以外の文人も、たとえば安倍能成は「この大震災,大火災に面して誰しも直に感ずることは、絶大な自然の暴力に対する人間の無力である……」と書いています。

ほかにも、「みな等しく過ぎし世の夢ではなかったのか(室伏高信)」、「我々の営みの果敢なさを感じない訳に行かなかった(宇野浩二)」などがあり、これらはやはり人間の無力さ、文明のはかなさを嘆ずる声です。

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我々日本人がこの「はかなさ」に含ませているのは、死んだ人に対する「悔やみ」のことばであり、この「悔やみ」というものは死者に対するひとつの「免罪符」としての意味を持ちます。

「悔やみ」を口にすることによって、人は死者に対する関係を絶ち切り、生き残った者が死んだ者に対して感ずる「うしさめたさ」に似た気持ち解消することができます。

ところが、この「悔やみ」の中には、その死を生かそうとかこれを契機により強い意思を持って生きようとかいった意味合いは含まれておらず、それゆえこの「悔やみ」の意味を包含する「人間の存在のはかなさ」という考え方もまた、いかにも後ろ向きな考え方であることがわかります。

「われわれにできることは、あきらめることだけだ」というのもあります。

和辻哲郎は、「“きれいにあきらめること”が日本人の心的特性であり、淡白に忘れることは,日本人が美徳としたところである」と述べています。

こちらは「開き直り」とも受け止められます。「あきらめ」というのは開き直りの極地でもあり、一見高い妥当性をもっているように思われます。良い悪いは別として、「あきらめの境地」は自我の放棄であり、それそのものは上述の天譴のように批判されるべきものではありません。

「今さらどうこうしても仕方がない。ただあきらめるしかしようがない」という考え方をする人は、今回の震災体験者などの間でもかなり多いのではないでしょうか。

武者小路実篤もまた、その手記で関東大震災のあと次のように書いています。

「随分恐ろしい出来事だったと思った。死んだ人の話なぞには正視できないようなことがいくらでも起ったことを知った。しかし皆過ぎてしまったことである。もう自分達には如何とも出来ない。勿論前に知っていたとしても、逃げることより他、別にいい知恵が自分にあるとも思わない。」

まさに「あきらめの境地」であり、自然の脅威に対してなすすべはないという自分の思いを武者小路実篤のような大文人ですらも素直に吐露しているわけです。

とはいえ武者小路はまた、「すぎてしまえば、生き残った者は生きのこったよろこびを味わって生きてゆこうと努力するより仕方がない。」とも書いており、災害に対する無力感をただ開き直るだけでなく、それを生きるためのエネルギーに転換しようと考えていた点は共感できます。

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開き直りといえば、「災害など意味をもたない」というのもあります。関東大震災直後に書かれた知識人の手記・体験記の類の中には、史上稀な大災害を経験したにもかかわらず、比較的冷静な反応を示したものが意外と多いようです。

例えば、寺田寅彦は地震発生後2か月ほどあとに知人に宛てた手紙の中で次のように書いています。

「地震の災害も一年たたない内に大抵の人間はもう忘れてしまって此の高価なレッスンも何にもならない事になる事は殆んど見えすいて居ると僕は考えて居ます、来年あたりから段々人気は悪く風俗も乱れ妙な事になって来るだろうと予想して居ます。」

「唯市街が幾分立派になるかも知れんがそれも結局は従来と大した変りもなく、チャゴチャとしたものになり、今後何十年か百何年かの後に、すっかりもう人が忘れた頃に大地震が来て又同じような事を繰返すに違いないと思って居ます。……いつ迄たっても人間は利口にならないものだと思って居ます」

「此の高価なレッスンも何にもならない」といった表現は、災害の発生の意味の否定であり、また「又同じような事を繰返すに違いない」「人間は利口にならない」は、災害に対する備えという努力についての拒否とも受け止めることができます。

正宗白鳥も、震災後の「週刊朝日」へのインタビューの中で「災厄に面した際には、これが世の末だと思っても、少し日数がたつと、太平楽を唱えて元気のいい所を見せるのは、文学者ばかりではないのである」と語っています。

また、「災厄に会って今更らしく無常を感じて、道徳によって無常が消え失せるように思ったりするのは滑稽に見える」という意味のことも語っており、寺田と正宗のこうしたことばの共通点は、自然災害に対するあきらめの意識や無力感の先にある、「災害など大した意味をもたない」という気分のようです。

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このように、自然災害に直面した場合の日本人の対応・反応の特徴は、天譴のような非合理的な思考であり、あるいは「はかなさ」「無力感」ですが、ときにこれは「あきらめ」のような「開き直り」となり、究極は「意味を持たない」となるわけです。

自然災害というものに対して人それぞれが感じることであり、そのひとひとつをって正しいとか悪いとかいうつもりはありませんが、総体的にみて多くの日本人が感じるこうした感情はいかにも後ろ向きな感じがします。

とはいえ、これが自然災害に対する日本人の心理的・精神的対応であり、こうした日本的災害観イコール日本人特有の人生観・世界観なのでしょう。

恐らくは、震災後の復旧においても、日本人は全般にこうした人生観、世界観に基づいて行動していると思われ、東日本大震災後に世界を驚かせたような、整然とした対応はここから来ているものだと考えてよいのではないでしょうか。

天譴や「災害など意味を持たない」はあまりにも両極端な気がしますが、その両方に振れすぎないように、うまく、「はかなさ」「無力感」「あきらめ」の気分の中で自分たちをコントロールしているようにも見え、そこが逆に日本人が持っている素晴らしい特性のような気がします。

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日本は地震や津波だけでなく、火山の噴火や台風といった災害に常にさらされているといっても過言ではなく、そう考えると、こうした自然災害に対する「気分」は「文化的な現象」である、という見方もできるでしょう。

自然災害は日本固有の文化と深く結びついており、日本人の人生観・世界観はそこから形成されている、と考えるならば、自然災害そのものが日本文化を形成しているとまで言えるかもしれません。

今回の震災や阪神淡路大震災も含め、それが起こった理由を一言で言うならば、それは天譴などではなく、日本人の文化を形成するために必要なものだった、ということがいえるのかもしれません。

それが、今日のおまえの「論文」の結論か、といわれればかなり貧弱なロジックだと思いますが、ひとまずこれで逃げさせていただくとしましょう。

実は、今日3月11日というのは我々夫婦にとっても特別な日です。3年前の今日、東京を離れてこの伊豆の地に越してきたその日であり、いわば「引越し記念日」です。

たまたまその日は震災記念日でもあったわけですが、その日が我々の特別な日であったということもまた必然なのでしょう。この日を自分たちの日だとだけ考えるのではなく、震災に遭われた人々のために何ができるかも考えろ、と神様がおっしゃっておられるような気もします。

4年目に突入する今年、その何かが何であるかを見極めたいところですが、それが実現するかどうかもまた天の思し召しと考え、何が起こってもそれは教訓、今後も自然体のままでいよう、それこそが我々の文化だ、と心に誓って行きたいと思う次第です。

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東京赤坂 豊川稲荷別院にて

メッセージ・イン・ア・ボトル

2015-9670今朝方、妙な夢を見ました。

家の中を整理しているというシチュエーションの中で古い封書が出てきたのですが、不思議なことに開封されておらず、開けていいものかどうか迷いつつ、やっぱり開けよう、いやいや待てよと、延々と逡巡を繰り返す、といったものです。

どういう意味があるのかな~と紐解いてみようと思うのですが、結論が出るような話でもなく、朝食を終えて、今こうして机に向かってそのことを書き始めた次第。ネットで夢占いのサイトを探して読んだところ、古くボロボロになった手紙を受け取る夢を見たら、昔の恋人との再会や、疎遠になっている友達との交流復活がありそう、とのことでした。

受け取ったわけではなく、自分で見つけたんだったよな~と改めて自分が見た夢とは少々違うことが気になったのですが、しかし解釈を変えれば、自分自身が昔の友人か誰かを発掘する、ということなのかもしれません。

ここ静岡には、昔大学のとき沼津や清水に住んでいたころにできた地元の友人も何人かおり、疎遠になっているものの、確かに連絡を取れば再会できる可能性があります。そうした人と連絡を取れば何か良いことがあるかもよ、という夢だったのかもしれません。

この夢が正夢かどうかはいずれわかるでしょうが、それにしても、手紙というものはなかなか捨てられないものです。

先日、といっても正月過ぎのことですが、実際に押入れの中を整理していたところ、古い手紙の束が出てきました。すっかり忘れていたそのひとつひとつに目を通すと、往時のその手紙の相手との関係性が改めて思い起こされ、そのころの気持ちや情景があざあざと目に浮かんできて懐かしく思ったものです。

いわば「タイムカプセル」のようなものであり、それゆえに古い手紙は捨てられないのだろうと思います。ご存知のとおり、カプセル状の容器にその時代のものを入れて地中に埋め、ある年月後に開ける、というものですが、それにしても、この長い時間を封じ込める装置は一体いつごろからあるのでしょう。

調べてみたところ、まず「タイムカプセル」という用語が初めて使われたのは、1939年のニューヨーク万国博覧会のときのことだったようです。

この博覧会の目玉のひとつとして、文明が崩壊しているかもしれない5000年後(=6939年)のための「時限爆弾(タイムボム)」を埋めることが提案されました。が、爆弾はぶっそうだというので、より穏当な「タイムカプセル」という言葉に置き換えられたようです。

このタイムカプセルは、ウェスティングハウス社が製作し、魚雷型で長さ2.2m、直径20センチほどだったそうで、ケースだけで重さ360キロあまりもありました。7つの鋳鉄の円筒がアスファルトで結合されたもの。内側は耐熱ガラスが張ってあり、真空にされたうえで、窒素が充満されたといいます。

中には、糸巻、人形、本、主な穀物の種を入れた小瓶、顕微鏡、15分間のニュース映像、通信販売カタログや約14000語をふくむ辞書や年鑑を撮影したマイクロフィルムなど日用雑貨や当時の記録が収められ、万博が始まる前の1938年9月23日ニューヨーククイーンズのフラッシング・メドウズ公園の会場内の地下15mに埋められたそうです。

ほかにも、5000年後に欠乏しているであろう石炭や、このカプセルがいかにして成り立ったかその発見方法・英語発音に関する注意書きなども封入されたそうですが、当然のことながらこれが開封されるころには、これを埋めた人も、またその事実を記している私も含めた現在の人類はすべて生きていないでしょう。

日本で知られるものとしては、1970年の日本万国博覧会の年に、当時の松下電器(現・パナソニック)が毎日新聞により企画、製作され大阪城公園に埋められたタイムカプセルがあります。こちらも5000年後の6970年開封予定だそうで、我々が生きている間に中身を見ることはかないません。

そんな埋めた当人が見れないようなものを埋めてどうすんじゃー、という意見は当然あるでしょうし、私もそう思います。が、そうしたものを埋めて未来の人に残す、というロマンなのだよ、君は理解できないのかな~とまことしやかに言われると、まっいいか、誰が損をするわけでもないし、と思ったりもします。

が、こうしたイベントで作られるタイムカプセルには大枚な金が投入されることも多く、しかもその投資額は投資者が生きている間には当然回収されることもないわけですから、その費用をだれが持つのか、という問題は当然出てきます。

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ロマンなんだから金の心配なんかすんな~という声も聞こえてきそうですが、そうだとしても実際には完璧と思われたタイムカプセルの密封度が十分でなく、中身が保存予定期間の間に失われてしまう可能性も指摘されています。

とくに酸化による劣化は、長期保存を行うタイムカプセルの内容物にとっては重大な脅威であり、このほかマイクロフィルムや磁気テープなど記録する媒体自体が時間と共に劣化し再生できなくなる可能性も大です。5千年後に媒体内にあるデータを読み取る機器や規格が廃れる可能性もあり、このほか記録した言語が滅びてしまうことだってあるでしょう。

価値も分からなくなり結局無価値になるものを金かけてわざわざ埋めるんかい、という批判はおこって当然であり、実際にも短期間で掘り出されたタイムカプセルにはこうした問題が発生しています。

例えばアメリカのオクラホマ州で、この州の合衆国加入の記念行事の一環として、加入50年目の1957年の記念行事で設置されたタイムカプセルは、「核攻撃にも耐える」堅牢な地下室構造のものだったそうです。この中には、当時の人気自動車プリムス・ベルヴェデアの他、50年後の石油資源の枯渇も考慮しガソリンの缶詰も内部に納められました。

華々しいセレモニーが行われる中、埋設されたこのカプセルは予定通り、50年後の2007年に予定どおり開封されましたが、いざ実際に地下室から取り出された自動車は、その原型こそ保たれていたものの、往時の見る影もなく鉄屑も同然に赤錆びており、もはやスクラップにでもするしか使い道の無い有様であったといいます。

地下室は厳重に封印はされていたものの気密性が低く、長い年月の間に徐々に地下水が地下室に染み込んでゆき、これが原因で腐食してしまったようです。同様な話は、日本などでも散見され、学校においての卒業記念や、会社の創業記念、建物竣工記念などでつくられものが掘り出されたときのトラブルは後を絶たないそうです。

そもそも埋設地の目印がなかったため、場所が突き止められなかったというケースは案外と多く、このほか、後年にその場所が駐車場や道路として舗装されてしまっていたり、直上に建物などの構造物が建てられてしまったケースもあります。

教育機関や公共施設では、人事移動や退職の際にタイムカプセルの件について引き継ぎがされず、やがて埋設の当時を知る職員がいなくなり、目印が撤去されたり施設が改築されるなどした結果、埋めた場所が判然としなくなるというケースもあるようです。

少子化に伴う学校統廃合などにより施設が廃止され、その跡地が企業に売却されたり住宅用地として分譲されるケースもあり、後年になってから騒動となるケースもあるようで、このほか、過疎地域では、過疎化の進行などでコミュニティ自体が事実上崩壊し、そのまま忘れ去られてしまう、といったことも起きているようです。

未来の人類に対するメッセージとしての夢もある一方、こうして意図的に作られたタイムカプセルは金がかかるばかりでちっとも歴史的資料にならない、といった批判が後を絶ちません。作った人の日常生活が分かるもの、たとえば日記帳、スナップ写真、書類などのほうがより歴史的価値が上がるだろうとする学者も多いようです。

突然の火山噴火によって埋もれたポンペイ遺跡のような「意図せざるタイムカプセル」には、往時の落書きなどが豊富に残り、古代ローマの日常生活について知る重要な手がかりになっているといいます。タイムカプセルに入れるものとしては、あまり奇抜なものは避け文書や映像などの基本的なものにすべきだという声も多いようです。

日本では、経典を後世に残すために陶・石・金属などで作られた容器を造り、さらにそれを石・陶製の外容器に入れた「経筒」を木炭などの除湿剤とともに埋納する「経塚」が太古に多数作られており、近年こうしたものが発見されて話題になるとともに、貴重な史料として高い評価を得ています。

木星探査機、パイオニア10号・11号に取り付けられた金属板には、これを地球外知的生命体に発見させ、内容が解読されることを期待して設置された金のレコードが取り付けられており、このレコードに電子的なメッセージを入れています。

115枚の画像と波、風、雷、鳥や鯨など動物の鳴き声などの多くの自然音のほか、様々な文化や時代の音楽、55種類の言語のあいさつ、カーター大統領と国際連合事務総長クルト・ヴァルトハイムからのメッセージ文なども加えられ、このうちの画像はアナログ形式でコード化され、残りの音声情報は16と3分の2回転で再生できるようにしてあります。

宇宙では酸化はありえないため、宇宙の果てを延々と飛び続けるパイオニア10号・11号が他の星の知的生命体に発見された場合には、これを解読して貰える可能性は高く、同じタイムカプセルでもこうした形のほうがより合理的です。

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しかし、このパイオニア計画におけるメッセージは、私たち自身が見ることはできないわけであり、そこが最大の問題です。そこで、我々の子孫が見ることができるようにする、「宇宙タイムカプセル」をロケットで打ち上げよう、という計画があります。

現在の地球の人々から、カプセルが大気圏再突入する5万年後の人類に対して贈られるメッセージを搭載した衛星を打ち上げようというもので、当初2003年に打ち上げを予定されていましたが、2006年、2007年、2010/2011/2012年と延期され、今のところ、今年2015年にこれが予定されているということです。

KEO衛星といい、この名前は、口語で最も頻繁に使われている3つの音であるKとEとOに由来するそうで、国際連合の教育科学文化機関や欧州宇宙機関、中国の大手通信事業グループ、ハチソン・ワンポアやその他の組織に支援されています。

搭載されるメッセージは、プロジェクトのウェブサイトか郵便によって誰でも投稿することができるそうで、世界中の全ての文化や人種が代表できるように、子供、老人、非識字者の人からもメッセージを集めることが目的とされています。

なぜ5万年後かといえば、これは人類が洞窟の壁に絵を描き始めてから今までとほぼ同じ期間だからだそうです。

この衛星は、全ての地球人約60億人以上から集めたメッセージを搭載するのに十分な容量を持っているといい、衛星が打ち上げられた後も、ウェブで自由にそのメッセージを見ることができるといいます。無論、衛星搭載の本文の書き換えはできないのでしょうが。

KEOにはこのほか、ランダムに選んだ人の血液、空気、海水、土を封入したダイヤモンドも載せられる予定だといい、このダイヤモンドにはヒトゲノムのDNAも埋め込まれているそうです。

また、いくつかのパルサーの現在の回転速度を示す天文時計、全ての文化の人々の写真、現在の人類の知識をまとめている百科事典の抄録等も載せられ、これらのメッセージと図書は、ガラス製の放射線耐性能を持つDVDに記録されるといいます。

未来の人類がDVDプレーヤーを作成できるように、何通りかの図形での説明が加えられているといい、衛星自体は直径80センチメートルの中空球で、球には地球の地図が掘られ、アルミニウム層、耐熱層、真空で接着されたチタンやその他の重金属製の何枚かの層で覆われています。

宇宙線、大気圏再突入、宇宙塵との衝突等に耐えられるように設計されており、打ち上げられたあと、高度8,700マイル(1,400km)の地球軌道を回るように設計されています。軌道上で幅10メートルの1対の翼のような太陽電池を広げ、これにより通信機能や飛行高度を維持する動力などを得るように設計されています。

かなり大きな翼であることから、遠い未来の地球からの観測者も見つけやすいといい、5万年間ぐらい漂ったあと、主電源が落ちるようになっていて、大気圏に突入するようプグラミングされています。また、この再突入時には、表面の耐熱層が燃焼して人工のオーロラを作るようにもなっているともいいます。

そのオーロラを見た未来人があれは何だ!と見つけてくれるのを期待してのことなのでしょうが、果たしてそううまくいくのかどうか。が、仮に発見されなくても強化合金で本体は保護されているため、無事に地上へ落下するはずだといい、また万一海に落ちた場合でも浮力があるため、漂っていられるそうです。

そうすると、仮に未来人に発見されることなく海に落ちた場合は、長らく「ボトルメール」状態になるわけであり、酸化の心配のない宇宙ならまだしも、塩分も多い海の上でホントに大丈夫なの?と疑い深い私などはついつい思ってしまいます。

がまあ、遠い未来の地球人たちはそうした地球外からの飛来物を探知する技術を持っているやもしれず、地上に接近したらこれをキャッチできるに違いなく、また海の上でも探しだすことのできる能力を持っているに違いありません。

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片や、現在における人類は、この「ボトルメール」ですら探知する能力はありません。放流されるやいなや海の上を漂い続けるだけのものであり、放流しても誰が拾ってくれるのか、また本当に拾ってくれるかどうかもわかりません。

日本語では「漂流ビン」などと表現されることも多く、“ボトルメール”という表現はあまりなじみがないかもしれません。

和製英語であり、ボトルメールは英語では、“message in a bottle”といいます。その名も、「メッセージ・イン・ア・ボトル」という映画が、1999年にケビン・コスナーが主演で公開されたため、その呼び名を知っている人も多いでしょう。

この映画は、ノースカロライナ在住の主人公が亡くなった恋人への哀悼のために流したボトルメールを、遠く離れたマサチューセッツの海岸で別の女性が拾い、そのことがきっかけで二人がめぐり合う、というラブストーリーですが、私も見た記憶があります。

無論、架空の物語なのですが、実際、長い年月を経てこうしたボトルメールが発見されることがごくたまにあり、この映画に近い哀話が事実として存在します。

1914年、第一次世界大戦のさなか、あるイギリスの兵士が妻に宛てた手紙を緑色のボトルにつめてイギリスの海峡で投げ込んだといい、その彼は2日後、フランスにおける戦いのさなかに死んでしまいました。

ところが、これから85年も経った1999年になって、漁師がテムズ川でそれを拾い上げたといい、宛先の女性はすでにこれより20年前の1979年に亡くなっていたそうです。が、この手紙はその後、ニュージーランドに住んでいる、女性の娘に届けられたそうで、この話はその当時全世界的なニューとして流れたようです。

また、ロバート・クラスカーという、オーストラリア人 カメラマンが1977年に記した本には、日本人の漂流者がやはりボトルメールを残した、という記事があります。

それによれば、1784年、日本人の「マツヤマ・チウノスケ(おそらくは松山千代之介)」とその43人の仲間が太平洋諸島へ財宝探しに行こうと海にのりだしましたが、嵐に遭い珊瑚礁に座礁し近くの島に避難せざるを得なくなりました。

しかし、その島で飲料水と充分な食糧を見つけることができず、そこで得られるココナッツや蟹だけを食べているうちに脱水症と飢餓で死亡者が出始めました。そこで千代之介は自分が死ぬ前に、自分たちの旅で起きたことをココナッツの木の断片に書き、それを瓶につめて海に流したところ、これがおよそ151年後の1935年に日本に漂着しました。

見つけたのは、日本のワカメ採りの漁師だったといい、その場所はなんと千代之介の故郷の海岸だったというのですが、なぜこのカメラマンがその事実を知っているのか、なぜ日本側には記録がないのが少々不思議です。が、戦前の話であるため、往時の記録は戦争のため日本側では焼失してしまったということは考えられるでしょう。

また、戦争前でありまだ日豪の交流があった時期のことであったとすれば、在日していたオーストラリア人の誰かがこの話を母国に持ち帰ったのかもしれません。

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が、実話かどうかわからないためか、ギネス世界記録に登録されている、「回収された事のある最古のボトルメール」の記録としては、1914年6月10日に海に流され、2012年4月に発見された手紙となっています。これは、グラスゴー航海学校のC・ハンター・ブラウンという人が流した合計1890本の瓶のうちの一本だそうです。

北海の深層海流を調査する目的で放流されたものであり、海底付近を流れるように特別な錘が付けられていといい、これによってこの瓶は、流地点からわずか約15kmの地点でトロール船によって網で引き上げられたといいます。ビンの中には「646B」という番号が振られた紙が入っていたといい、これによってその出所が確認されたというものです。

最近では、1913年、ドイツのバルト海に投げ入れられたボトルメールが101年目にあたる昨年の2014年3月に海底から回収され、送り主の孫娘が特定される、ということがあったようです。上述の航海学校よりも古い記録なので、現在はもうギネス記録が更新されているのではないでしょうか。

以後、ボトルメールが投函された記録を古い順に見ていくと、1916年2月には、ドイツの飛行船、ツェッペリンL 19に乗っていた乗員が海に投げ入れたボトルメールが、6カ月後にスウェーデンの漁師によって6カ月後に発見されました。

このL-19は天候悪化のため、海上に墜落して乗員全員が死亡。その後遺体や機体の一部が発見されたようです。このボトルメールを出した乗員はその手紙の中で、この飛行船がエンジントラブル3回繰り返したのち、故障したことなどを記しており、「最後のメッセージ」と記していたことから、この後のトラブルを予想した遺書だったことがわかっています。

さらに1945年12月には、第二次世界大戦中、アメリカ軍人が乗船していた船の上から投げたところ、これをアイルランドの女性が拾い、これをきっかけに二人は7年間も手紙の交換を行うようになりました。しかし、国際的な報道合戦の中で、彼らはこのロマンスをうまく全うすることができませんでした。

一番最近では、2005年5月には80人ものコスタリカの難民が漂流中に瓶の中にSOSメッセージを入れて流したところ、運よくこれを漁船が見つけて彼等は救出されたそうです。が、このケースは本当に稀なケースであり、通常なら何年かかって漂着するかわからないようなものに自分の命を託すということはありえません。

過去に長い歴史の中で、ボトルメールが実際に届いたとされる記録は上述までのようにかなり少なく、確かにロマンを感じる行為ではあるのですが、実際に誰かに拾ってもらえるというのは、かなり確率が低いことと認識せざるを得ません。

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ましてや、遭難救助のために流すというのはまず正気の沙汰とはいえません。それでふと思い出しのですが、1989年に、北海道の大雪山系で黒岳から旭岳に向かう途中に行方不明になった登山者を捜索していた北海道警察のヘリコプターが、登山ルートから外れた場所で倒木を積み上げて造られたSOSという文字を発見する、という事件がありました。

行方不明だった登山者はそこから2、3キロ北で無事救助されたそうですが、このSOSの文字については本人は知らないと話したため、別の遭難者がいたと見た北海道警察は、翌日改めてヘリコプターを派遣し、調査を進めました。

その結果、動物により噛まれた痕のある人骨の破片とSOSと叫ぶ若い男の声が記録されたカセットテープレコーダーなどが収容され、最終的には、行方不明者のリストや遺留品から1984年頃に遭難した男性と特定されました。

遺留品のカセットテープレコーダーには男の声で「エースーオーエース、助けてくれ。崖の上で身動きとれず、ここから吊り上げてくれ」と吹き込まれていましたが、聞いている者がいないのになぜこのような事を絶叫し遺したのかについてはかなりの疑義を呼びました。

一つの推測として、テープレコーダーに大声で録音したものをボリューム最大で再生すれば、地声による「SOS」よりも誰かの耳に止まる可能性が高いと考えたということがあげられます。また、ヘリコプターが飛んでいるのを見て声を出して動いている際、バッグの中で偶然カセットテープレコーダーの録音スイッチが入ったのでは、との説もあります。

が、いずれにせよご本人が死亡しているため、その真相は闇の中にあります。2012年には、ロシアで同じような事件があり、このときは、コケモモを求めて山中奥深くに入り込んだ男女3人が遭難。シラカバの幹でSOS文字を作り、救助を待ったところ、たまたま森林火災の消火を行っていた航空機がこれを発見しました。

遭難から5日という短い期間で救助されたといい、上述のコスタリカ難民よりも効率がよかったわけですが、それにしてもたまたま運がよかっただけといえ、海でも山でも人気のない場所で遭難という危機に瀕したときのこうした対策は全くあてにはなりません。

この北海道の遭難者が残したテープには、ほかにこの当時のアニメ人気作、「超時空要塞マクロス」と「魔法のプリンセス ミンキーモモ」の主題歌などが収録されていたといい、かなりのオタク少年ではなかったのかという憶測もこの当時さかんにマスコミや週刊誌が流したようです。

が、プライバシーの問題もあり、その後この人物の詳しいプロフィールの公開は行われなかったようです。それにしても北海道のこんな僻地に何しにいったのかは今もって謎です。オタク少年を魅了するような何かがこの土地にあったのでしょうか。

オタクといえば、こうしたアニメのほかにゲームの大好きな最近の若年層向けに、ボトルメールを模したソフトウェアが開発されているようです。ボトルを流した者同士でボトルを拾いあい、互いのデータを自動的に交換できるしくみだそうです。

実際のボトルメールは不確実性があるのに対し、こちらはある程度確信的な手紙交換といえ、ボトルメールという言葉自体がしっくりこないような気もします。が、ネット全盛のこの時代とはいえ、ついに電子上でもボトルメールが登場したかと、少々呆れてしまいます。

このほかネット上を「漂流する」メールを開発した会社もあって、こちらはさすがにすぐに廃止になったようです。すわスパムメールか、と思う人も多いことから当然といえば当然ではあります。が、ある日突然、何十年前のメールが届く、といったことがもしもあったとしたら、多少のロマンを感じないでもありません。

が、不気味なことでもあり、セキュリティの事を考えればあってはならないことでもあります。

それでも、寂しい時代です。こうしたボトルメールを欲しがる人もいると思われ、日本でも高齢化が進み、一人暮らしのお年寄りが多い中、ボトルメールでもいいから、こないかな、と思っている人は案外と多いかもしれません。

あなたはいかがでしょうか。振り返ってみて、それでもボトルメールがやはり欲しい、と思ったら、それはもうすでにあなた自身の高齢化が進んでいる証しかもしれません。

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地リスたちの春

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今日は啓蟄(けいちつ)です。

音では「ケイチツ」とよく知ってはいるものの、いざ漢字で書こうとすると書けないもののひとつです。

改めて文字を確認した上でその意味を紐解いてみると、「「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意です。よく言われるとおり、「冬籠りの虫が這い出る」という意味であり、これから本格的な春を迎える日とされています。

次の24節気の春分の日(21日)までは、次の順で春が進んでいく、ということになっています。

1.冬蘢りの虫が出て来る(蟄虫啓戸)
2.桃の花が咲き始める(桃始笑)
3.青虫が羽化して紋白蝶になる(菜虫化蝶)

ホントにそういう順番で春を迎えるかどうかは別として、確かにこの季節になれば梅や桃の花が満開になり、そうこうしているうちに羽虫も飛び交い始めるなど、なんとなく春を感じさせるころではあります。

しかし、この二十四節気の輸入元の中国では、この順番と内容は少々異なっており、1番目の「虫が出てくる」が、「桃の花が咲き始める」に置き換わっており、次いで、山里で鶯が鳴き始める、鷹がカッコウに姿を変える、と続きます。

中国と日本では環境や天候の移ろいが異なるため、これを日本の風土に合わせて置き換えたためですが、ということは、中国では土の中から動物が出てくる、というのはないのか、と思いきや、中国では啓蟄の二つも前の「立春」に「冬蘢りの虫が動き始める」とされる「蟄虫始振(ちっちゅう はじめて ふるう)」が割り当てられています。

日本のほうが啓蟄が遅い、つまり暦の上ではそれだけ春が遅い、ということになるわけですが、こうした動物が這い出てくる季節にも中国と日本の風土の違いが見て取れるわけです。

それでは欧米ではどうなのかな、ということなのですが、アメリカにも「グラウンドホッグ」なる動物が外に出るか、出ないかで春を占う「グラウンドホッグデー」というものがあるといいます。

“groundhog”の”hog”とはブタのことですが、地面の中にいるブタということで、これはすなわち「地リス」と呼ばれる栗鼠の一種のことです。大半は北アメリカに分布し、少数の種がユーラシア大陸、アフリカ大陸に分布するだけで、無論、日本には生息していません。

が、北米ではそこら中に穴を掘って巣をつくるため、ポピュラーな動物なようで、動物園でよくみかけるプレーリードッグなどとも近縁種のようです。食性も同じ草食性で、同じように草や根、種子、木の実のほか、キノコ、昆虫、鳥の卵などを食べます。

両種とも「ネズミ目リス科アラゲジリス亜科マーモット族」に属し、このマーモット族のうち、大型のものは「マーモット」や「プレーリードッグ」、小型のものは「シマリス」と呼び分けられますが、いずれも土中に穴を掘って生活することから、これらを総称して「地リス」と呼ぶようです。

生息地は多様です。草原や高山地帯のほか、熱帯の砂漠地方に住む種もおり、極地に住むホッキョクジリスといった種もあります。木ノ上で生活する一般的なリスとは異なり、木には登らず、地面に掘った穴や、木の洞や倒木の陰、岩の間などを巣穴にし。ここを中心とした地上および地下がテリトリーです。

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樹上性リスに比べ「社会性」が高い、といいこれはすなわち群れで暮らすことが多い、ということです。複雑な社会構造を持つコロニーを形成して生活することが多いといい、なにやら日本人と似ています。

警戒心が強く、危険を察知した際や、高い草の向こうを見る必要があるときなどに、前足の掌を胸につけ後足で立ち上がる習性があります。捕食者の存在を仲間に知らせるため、鳥のさえずりや口笛のような甲高い警戒声を発しますが、プレーリードッグのこうした様子をテレビなどで見かけたことのある人多いでしょう。

北方に生息するものは冬眠します。極地に棲むホッキョクジリスなどは1年のうち9か月ものあいだ冬眠して過ごすそうです。

この地リスこと、グラウンドホッグが冬眠から目覚める日こそが、「グラウンドホッグデー」であり、この習慣の発祥の地とされるアメリカ・ペンシルベニア州「パンクサトーニー」や、カナダ・オンタリオ州「ワイアートン」では、共通してこの日が2月2日と定められています。

グラウンドホッグが、外に出て「自分の影を見ると、驚いて巣穴に戻ってしまう」とされていて、影ができるということは、すなわち、晴天であり、こうした日はグラウンドホッグは自分の影におののき、冬眠していた巣穴に戻ってしまいます。そして、その年は「冬があと6週間は続くだろう」という占いの結果になるといいます。

一方、影がない、すなわち曇や雨の日には、グラウンドホッグは、影を見ることなく、そのまま外へ出るとされており、この占いの結果は、その年は「春は間近に迫っている」となります。

アメリカのパンクサトーニーでは、わざわざこの占いのためだけに、「フィル」と名付けられたグラウンドホッグを飼育しており、このフィル君は毎年2月2日に、グラウンドホッグデーの主役となり、町の郊外の森の中にある広場(Gobbler’s Knob)で彼自らが「占いを行う」といます。

が、実際には、このフィルが飼育されている小屋から彼を外へ追い出し、これを祭りに参加した人々が観賞するだけで、まだまだ寒いこの時期に外に引っ張り出されたご本人にはいい迷惑です。

本来ならば、巣穴から出てきたグラウンドホッグの行動を観察してその年の春の到来を占うべきところですが、実際にはそんなことはできるわけもなく、このフィルの舞台への登場とともに、その日の天候が発表され、それが晴れか曇りかはたまた雨かによって、その年の春の到来が高らかに読み上げられます。

この祭は日の出前から始まるといい、そんな朝早くから始まるというのに大勢の人がわざわざこれを見るために6時ごろからも集まるといい、7時半のフィルの登場と天気予報がメインイベントです。

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“パンクサトーニー・グラウンドホッグ・クラブ”という会員制のクラブが造られており、なかでもInner Circleと呼ばれる特別会員達がフィルの普段の世話をするとともに毎年の祭を主催しており、彼等はこのグラウンドホッグデーにタキシードとシルクハットを着用して登場するそうです。

フィルの名前の由来は”King Phil”とされ、正式名称は「占い師のなかの占い師、賢者のなかの賢者、預言者のなかの預言者にして、類まれなる気象予報者、パンクサトーニーのフィル」だといいます。

もっとも、このフィルはパンクサトーニーの図書館にある空調の効いた部屋で、「フィリス」という名の妻と一緒に飼育されており、冬眠はしていないそうです。Gobbler’s knobに登場するのはこの2月2日の祭の日だけです。

普通のグラウンドホッグの寿命は6~10年程にすぎませんが、このように大切に扱われているフィルを、クラブのメンバーは「フィルは寿命を延ばす秘薬を飲んで永遠に生き続けている」と主張しており、毎年おなじフィルが登場し続けているとしています。

この催しが始まったのは1887年のことだといい、リスごときが、んな長生きなわけはないのですが、これまでに何のグラウンドホッグが「フィル」を襲名したかについては明らかにされていません。

また同クラブは、フィルの予報はクラブのメンバーが作っているわけではなく、フィルがクラブの会長に「”グラウンドホッグ語” で教えてくれている」とも主張しています。

このグラウンドホッグデーは、古代ヨーロッパとキリスト教の風習、祝日の混じったものが、移民によってヨーロッパからアメリカ大陸に伝えられて、できあがった風習のようです。とくにドイツにおいて春になるとネズミが出てくる、という俗信があったようで、ただし、この場合はネズミはネズミでも、ハリネズミが対象だったようです。

冬眠していたハリネズミや、ほかにもクマなどが早く目覚めすぎると、自分の影を見て驚き、ふたたび巣穴に戻ってしまうとされてきたもので、ヨーロッパ人の起源といわれる古代のケルト人は冬至と春分の中間日を2月2日とし、この日に火と豊穣の女神「ブリギッド」に捧げる祭が行われたといいます。

春の訪れを祝うケルト民族の祭りされ、スコットランドやアイルランドなどではこれを「インボルグ」称し、日が長くなって、春の兆しが感じられるのを現在でも祝います

祝いには、暖炉の火と特別な食べ物(バター、牛乳、パン)などが用意され、今後の縁起を占うために、ろうそくの火や、天候が良ければ焚き火が用いられますが、このとき、このころの蛇やアナグマが穴から出て来る状況から判断して、伝統的にその年の天候を占ったといいます。

これが、このグラウンドホッグデーの起源とされるわけですが、その後この2月2日にはキリスト教の正教会においても、聖燭祭(キャンドルマス)が行なわれるようになり、これは聖母マリアのお清めの日とされます。火を使うことなどが類似していることから「インボルグ」から派生してできた行事でしょう。

この日でクリスマスシーズンは終わりとし、と同時に冬が終わって春が来るというわけで、これを祝うためにキャンドルが灯され、と同時にクリスマスツリー等を燃やしますが、これは日本のどんど焼きと似ているのが面白いところです。

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これらが変じて行われるようになった北米のグラウンドホッグデーの風習は、19世紀のアメリカのドイツ系移民の間で始まったようです。

上述のとおり、ドイツ人たちはハリネズミを春の象徴と捉えていましたが、北米にはハリネズミは生息しない(ヨーロッパ、アフリカ、中近東、東アジア(日本を除く)、ロシア、インド)ので、冬眠をする似たような哺乳類として、代わりに地ネズミが選ばれたのでしょう。

パンクサトーニーから東へ500キロほど離れた、ペンシルベニア州バークス郡は、こうしたドイツからの初期の移民の多かった場所であり、ここに設立されている歴史協会には、キャンドルマスとグラウンドホッグとヨーロッパの言い伝えについて書かれた、ある商店経営者の記録が残っているそうです。

これは1841年2月4日付けの日記だそうで、その後もおそらく地元の風習として細々と続けられていたのでしょう。が、現在のパンクサトーニーで行われているような大々的なグラウンドホッグデーは、1887年に、ここの地元新聞編集者の発案で行われ始めたもののようです。

ただ、その当初も、森の中で行われる小さなイベントにすぎませんでした。が、毎年の報道により次第に有名になり、特に1993年にこのパンクサトーニーを舞台にし、グラウンドホッグデーを題材にした映画「恋はデジャブ」が公開されると、人口6200人あまりの町に、世界中から数万人の観光客と多くの取材陣が集まるようになりました。

以来、米各地で同様のイベントが行われ、テレビや新聞で報道されるようになりましたが、グラウンドホッグを飼育していない動物園などでは、プレーリードッグやミーアキャット、ハリネズミなどで代用するようになりました。

パンクサトーニーでは、このお祭りの主人公は「フィル」ですが、カナダではオンタリオ州ワイアートンの「ウィリー」が最も有名であり、他にもケベック州ガスペの「フレッド」、ノバスコシア州シュベナカディのサム等の予報がテレビで報道されるほか、ニューヨーク・スタテン島の「チャック」も人気者です。

今や2月2日には、パンクサトーニーだけでなく、北米の多くの場所でのグラウンドホッグでの祭りの様子がテレビや新聞で報道される過熱ぶりですが、各地の祭りの中でもやはりその元祖であるパンクサトーニーが最も動員が多く、毎年約4万人が訪れるといいます。

ちなみにアラスカ州では2009年に2月2日を「マーモットの日」として公式の休日にしたそうです。これは冒頭で述べたとおり地リスが属する「マーモット族」のことであり、アラスカではこちらの呼称のほうがポピュラーなようです。

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日本には、このように春先に地面から這い出てきた動物を見て、春の到来を祝うといった習慣はとくにないようであり、このアメリカでのグラウンドホッグデーの過熱ぶりをみると、不思議な感じもします。

が、アメリカでももともとはメジャーなお祭りだったわけではなく、これが流行し始めたのは、上述の映画「恋はデジャ・ブ」がきっかけだったわけです。バレンタインデーも恵方巻きもまたメディアや食品メーカーのたくらみによって流行になったものであり、そのように考えると、メディアの力はやはり大きいと言わざるを得ません。

しかし、メディアがまだ十分に普及していない江戸時代などにも流行はあり、これらはとくに思想や信仰において顕著でした。例えば、江戸時代のええじゃないかは、もともとあったお伊勢参りの風習が集団的熱狂状態となり、爆発的に流行した現象です。

従って必ずしもメディアが悪いというわけではなく、要はこれを受け入れる我々の問題であり、これを受け入れるか否かは、その時代時代を形成する人々の価値観、あるいは美意識のありようです。

現代では、流行に飛びつくのはやはり若者が最初であることが多いようで、既存のこうした価値観や美意識、はたまた規範などとはかなり異なっていることも多く、こうしたものを守ってきた年輩者からは逸脱したものとみなされがちです。

とはいえ、こうした流行を採用しなければ遅れていると言われ、若者の間でもセンスがねエなー、とかいわれるため、ついつい受け流されてしまいます。かくして流行にどっぷりとつかってしまう、というのが日本人の伝統のような気もします。

かつて司馬遼太郎さんが、日本人は世界一ミーハーな国民だ、と書いておられましたが、そういうところは確かにあるでしょう。流行が廃れ始めたら本人たちもなぜあのようなものに心を捉われていたか説明できなくなることが多いくせに、その時々ではハマってしまう、という国民性は今も昔も変わりません。

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が、それが悪いことなのか、と問われれば特段悪いことをしていると思うわけでもなく、これを「トレンド」という用語に置き換えてしゃぁしゃぁとしていられる、というところは、むしろ愛すべき、あるいは尊敬すべき国民性なのかもしれません。

さて、流行に関する講釈ばかりたれていると、ネタがないので、今日もページ稼ぎか、といわれてもしかたがないので、そろそろやめにしましょう。

が、最後に先の「恋はデジャ・ブ」がどんなストーリーだったのか、気になる向きもあるようなので、ここに紹介しておきましょう。ネタバレになるかもしれませんが、ちょっと考えさせられる内容でもあるので、後学のために読んでみてください。

もともとはロマンティックコメディとして製作されたものですが、公開後の反響はそれなりに大きく、とくに人間の幸福は自分の中をいくら追求しても求められるのではなく、「他人の幸福によって得られる」といった哲学的な面からの評価が高くなった作品です。

ちなみに、この映画の主人公の名前は、上述のパンクサトーニーのグラウンドホッグの人気者と同じ「フィル」です。この主演男優は、俳優でコメディアンでもあるビル・マーレイであり、その恋人役は、美人モデルとして活躍するアンディ・マクダウェルでした。

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「恋はデジャ・ブ」あらすじ(原題:Groundhog Day、1993年2月12日全米公開)

TVの人気気象予報士、フィル・コナーズは仕事仲間のリタ・ハンソンおよびラリーとともに、毎年2月2日の聖燭節に行われるグラウンドホッグデーを取材するため、ある日都会を離れ、田舎町であるペンシルベニア州パンクサトーニーに滞在していました。

グラウンドホッグデーとはグラウンドホッグが地上に現れ、自分の影を見て冬眠に戻るか、春を迎え入れるかを観察するという言い伝えにちなんだ伝統的なお祭りですが、フィルにとってこの田舎行事の退屈さは耐え難く、当然取材にも身が入りません。

嫌々ながら一日を終えた彼ですが、取材を終えて帰るその帰路、天候が急変したため、パンクサトーニーを離れることができず、前日の宿に再び泊まるハメになりました。

ところが翌朝、フィルが目を覚ますと、その日は前日の2月2日であり、同じグラウンドホッグデーでした。フィルは、昨日と同じ振る舞いを繰り返す人々や仕事仲間に戸惑いを覚えながらも、こいつはもしかしたら、いわゆるデジャ・ブ(既視感)というものかもしれない、と考え直しながら2度目の取材を終えます。

ところが、この日もまた夕方になると天候が悪化し、同じ宿で寝起きするハメに。翌朝再び目が覚めたときもまた、同じ2月2日が繰り返されることとなり、その理由も分からないまま彼はこの時間のループに留め置かれ、天候のためパンクスタウニーの町を出ることができない状態が続きます。

病院にも行き、精神科で奇妙な症状を訴えるフィルに対し、医者は特に異常はないと診断し、精神病院行きを勧めます。ヤケになったフィルは、トラブルを起こし警察に逮捕され、留置場で夜を迎えますが、その翌朝も目覚めるとやはり同じ宿のベッドの上で2月2日を迎えるのでした。

しかし、同じことを繰り返すうちにフィルは、前日の失敗をなかったことにして何度でもやり直せるということに気がつきます。そしてこの自分だけの特権を活用し、町の人々のプロフィールや1日の行動を調べていきました。

こうして得た情報を用いて行きずりの異性を口説き落としてみたり、現金輸送車を襲って大金を得たりしながら満足を得ようとします。また、その中で前から気があった仕事仲間のリタを口説き落とそうと試みます。

ところが、何度繰り返しても彼女を落とすことができず、やがてフィルは際限なく繰り返されるグラウンドホッグデーの1日に再び嫌気が差してしまいます。ベッドの横に置かれた目覚まし時計を壊しても、祭事に用いるウッドチャックをさらって町からの脱出を試みても、ループを抜け出すことは叶いません。

ついに彼は自暴自棄になって自殺まで試みますが、どのような手段で自殺しても結局は死ぬことはできず、やはり2月2日の朝に同じ宿のベッドで目覚めるのでした。

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あるとき、ついに思い余ったフィルは、ついにリタに自分の事情とループで得た知識を明かしてみせます。驚くリタ。しかし、これをきっかけにフィルは、彼女と心の交流を得ることができるようになり、少し自分を取り戻せたように感じます。

その後、フィルは今までの態度を改めてみることとし、他人に気前良く大金を配って回ったり、無尽蔵の時間を生かしてピアノを習ってみたり、寿命でその日に死ぬ運命にある老人を救ったりもするようになります。

フィルは金の無心をするこの貧乏老人に、日によっては大金を施したり、食事を振舞ったりしますが、彼は毎晩になると老衰により回避不可能な死を迎えます。

老人を救うことはできず、ほかにも数々の失敗を繰り返しますが、これらを教訓にかつての自己中心的な性格も改めるようになっていきます。やがては自分だけでなく、その日に起こる些細な事故やトラブルから人々を守ってみたいという気持ちが沸いてくるようになり、こうして次第に充実した日々を送ることできるようになっていきます。

やがて、そのフィルの行為は実を結び、ある日などにはたった1日にしてパンクサトーニーの人々から尊敬を集めることができるような人物になります。と同時にリタからの愛も勝ち取ることができ、ついにその夜フィルは、リタと結ばれます。

そして、翌朝、なぜかそこにはリタが共にいて、日付も2月3日に進んでいることに気がついたフィルは、ついにループからの脱出に成功したことに狂喜します。

しかし、フィルは都会に帰ってTVキャスターに戻る道を選びませんでした。リタと共にパンクスタウニーに永住することを決め、街の人々のためにその一生を尽すことを決めたのでした……。

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河津発ロールス・ロイス ~河津町

2015-1040273南伊豆の河津桜がそろそろ満開のようです。

ここ修善寺でも、狩野川沿いの狩野川大橋から下流の右岸側に同じ桜が植えられ、ほぼ見ごろを迎えています。

河津町には、その名も「河津川」という川が町の中心を流れていますが、その河口付近の谷津地区から役場付近の峰地区と言う場所まで延々3kmほどもこの河津桜の並木が続いていて、毎年早春に行われる「河津桜まつり」で賑わいます。

河津川左岸、やや川から離れた500mほどのところの民家の庭に、この河津桜の原木とされるものがあり、樹齢は約60年ほどだといいます。この桜の木を植えたのは、この家の主の飯田勝美さんという人(故人)で、昭和30年頃の2月のある日、河津川を散策していたとき、冬枯れ雑草の中で芽咲いているさくらの苗を見つけて、家に持ち帰りました。

10年ほど経った昭和41年頃からは見事な花をたくさんつけるようになったといい、早い年には1月下旬頃から淡紅色の花が咲きはじめ、約1ヶ月にわたって咲き続けることから、ご近所さんの注目を集めるようになりました。

その後の学術調査で今までに無かった雑種起源の園芸品種であると判明し、1974年に「カワヅザクラ」と命名され、翌年には河津町の木に指定されました。このころから町おこしの一環として川沿いにこの原木からわけぎを取って増殖したものを植えるようになり、以後、40年を経て、現在のような見事な桜並木ができたわけです。

春まだ浅いころから蕾をつけるこの早咲きの桜は全国的にも珍重され、いまや全国のホームセンターなどでも「河津桜」と銘打って販売されています。

この河津町は、町域の81%は山林と原野で占められ、市街地は天城山南東の山稜を源流とする河津川下流の平地に広がる街であり、東部は相模灘にも面しています。海もあり、山もあり、しかも温泉も出る(湯ヶ野温泉)ということで、昔から観光地として発展してきた町でもあります。

人口はわずか8000人程度ですが、この河津桜に合わせて行われるお祭りには、毎年この数倍以上の人が訪れ、この時期には町中の空き地が駐車場と化します。が、サクラの時期だけでなく、他の季節にも観光客は多く、これは河津川の上流にある、河津七滝(ななだる)と呼ばれる滝の一群や、さらにその上にある天城トンネルのおかげでしょう。

観光客だけではなく、古くから文人がこの地を訪れ、作品を残しており、その面子といえば、井伏鱒二、川端康成、中島敦、梶井基次郎、荻原井泉水、石坂洋次郎、三島由紀夫と錚々たるものです。

近年では、西村京太郎さんも訪れていて、この街を題材に「伊豆・河津七滝に消えた女」、「河津・天城連続殺人事件」といったものを書かれています。

列車や観光地を舞台とするトラベルミステリーに属する作品を数多く発表されており、シリーズキャラクターである「十津川警部」はとくに有名です。多くの作品がテレビドラマ化されており、これらは例えば「西村京太郎トラベルミステリー」であったり、「西村京太郎サスペンス・十津川警部シリーズ」といったものです。

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失礼ながらまだご健在なのかな、と調べてみたところ、1930年生まれで今年85歳になられるようですがお元気なようです。が、1999年頃、脳梗塞で倒れ入院されており、現在は、左半身の一部がご不自由だとのこと。これを機に湯河原へ転居されたそうですが、一応現在も執筆活動は続けられているようです。

こうした昔の作家さんには多いようですが、西村さんも原稿を執筆する際、ワープロ等は使わず全て手書きだそうで、かつては月に平均で400枚ほど執筆していたそうです。現在どの程度書かれているのかはよくわかりませんが、こうした全盛期に比べればかなり執筆量は減っているのはないでしょうか。

しかし、今なお衰えぬ大人気作家であり、この脳梗塞を起こしたときも、驚いて大勢の編集者たちが駆けつけたそうです。今まだ死なれては困るというわけで、ペンを持たされ「何か書いてくれ」といわれ、手が動くかどうか確認させられたそうで、それほど当代を一世風靡する作家であるわけです。

もともと人事院に勤務する官僚だったそうです。西村京太郎というペンネームの由来は、人事院時代の友人の苗字と、東京出身の長男の名前を組み合わせたものだといいます。が、11年勤務後に退職し、私立探偵、警備員などを経て作家生活に入りました。その後の得意分野となる推理小説というジャンルを選んだのは、この時代の経験があったからでしょう。

とはいえ作家としてスタートした初期のころは社会派推理小説を書いていたといい、じきにスパイ小説、ミステリー、パロディ小説、歴史小説など多彩な作品群を発表するようになり、中でも海難事故ものが多かったといいます。

これについては西村さんご自身が海が好きだったためだと語っており、のちの十津川警部シリーズの主人公が大学ヨット部出身という設定もそのためのようです。河津町を訪れて滞在したのも、海が近く、今井浜海水浴場などがあるからでしょう。

1kmほどの砂浜が相模湾に面して、南北に広がっており、遠浅の海岸で、浜の真ん中に岩場があり、松原もある「白砂青松」の浜で、なかなか風情があります。周辺にはホテルや旅館が立ち並び、とくに、東急ホテルズが経営している、「今井浜東急リゾート」と老舗旅館「今井荘」には、三島由紀夫が避暑にしばしば訪れたそうです。

小説「禁色」は三島がここに投宿中執筆したもので、彼が訪れていたときはまだ伊豆急行が開業しておらず、自動車で訪れていたようです。おそらく西村さんも同じ宿に泊まったのではないかと思われますが、現在では伊豆急行が通っており、最寄の駅は今井浜海岸駅です。

この河津町でも執筆が行われた十津川警部シリーズのヒットによって、一躍人気作家となり、とくに鉄道などを使ったトリックやアリバイ工作は、そのリアリティゆえにファンも多いようです。オリジナル著作は過去に500冊以上あり、その後も新刊の刊行は続いていて、単行本の累計発行部数は2億部を超えるといいます。

当然、納税者ランキングの上位に毎年のようにその名を連ねているようですが、無論西村京太郎の名ではなく、本名の矢島喜八郎の名で納税されているはずです。

ただ西村さんは30代の前期から作家活動を始めましたが、著作の90%以上は50歳を過ぎてから刊行されたものであり、作家としては大器晩成型の部類に属していると言えます。にもかかわらず累計発行部数が2億部を超えるというのはスゴイことであり、この数字を記録した作家は、日本では西村さん以外では赤川次郎さんしかいないといいます。

鉄道ミステリーのシリーズが大ヒットしたことで、出版社から鉄道ミステリーの依頼ばかりが舞い込むようになり、他のジャンルの作品を書く余裕がなくなってしまったといい、ご本人は江戸時代を扱った時代小説を書きたいと長年希望しているものの、どの出版社に話を持ちかけても「いいですね。でも、それは他の社で」と言われてしまうそうです。

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鉄道が舞台の作品が多いためか、現在湯河原町にある西村京太郎記念館には、鉄道模型が展示してあるそうで、これは最新の800系新幹線や700系新幹線などから、ゆふいんの森のキハ72系などだそうで、その周りのジオラマで殺人事件が起こるなど配置を凝らしたものだといいます。

このほか、生原稿などが展示されており、2階にあるショップでは直筆サイン入りの本を販売しているほか、毎週日曜日に記念館を訪れサイン会を行っているそうなので、西村ファンは一度湯河原へ足を運ばれてはいかがでしょうか。

このように鉄道モノの推理小説の執筆が多く、自身の記念館に鉄道模型まで展示してあるくらいですから、当然鉄道はお好きなのでしょう。が、拝察するに執筆活動にお忙しく、鉄道旅行などはする時間はないのではないでしょうか。

それと関係があるのかどうかはよくわかりませんが、西村さんが脳梗塞を発症する以前、京都に住まわれていたころ、1988年式ロールス・ロイス・シルバースピリットを所有していたといいます。ただし、西村さん自身は運転免許を持っていなかったといい、その後このクルマは手放し、現在は、自動車ジャーナリストの福野礼一郎が所有しているそうです。

イギリスの自動車メーカー、ロールス・ロイスブランドで1980年から1995年まで販売されていた高級車であり、同じプラットフォームからの派生車としてロングタイプのボディなど多数のバリエーションが存在しますが、これらの派生車種とともに1980年代のロールス・ロイスを代表する車種です。

「他車との性能比較といった世俗的な表現を超越した権威の象徴」ともいわれるほどの名車だそうで、かつ、人生の成功と最高のゆとりを享受する階層の自動車であるといわれます。

西村さんも人気作家としての頂点を極めたゆえに手に入れることができたわけであり、とくにバブル景気に沸いた1980年代には、西村さんだけでなく、当時の特権階級やごく一部の富裕層が入手し、彼等だけが乗れる、世界で最高の「調度品」であったようです。

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このクルマを創った、ロールス・ロイスという会社の起源は、1906年にイギリスで設立された製造業者、ロールス・ロイス社です。設立者は、その社名にも名を残す、「チャールズ・ロールズ」と「フレデリック・ヘンリー・ロイス」の二人です。

ロールズのほうは、元々上流階級の家に生まれたスポーツマンで、ケンブリッジ大学在学中から黎明期のモータースポーツに携わった自動車の先覚者でした。在学中からイギリスの王立自動車クラブの前身となる自動車クラブの設立に寄与した人物で、卒業後はヨーロッパ車の輸入代理店C・S・ロールズを設立して自動車の輸入ビジネスを営んでいました。

片や、ロイスのほうはリンカンシャーの貧しい製粉業者の家に生まれで、9歳で働き始めてから苦学を重ねて一級の電気技術者となり、努力して20歳で自らの名を冠した電気器具メーカー、F・H・ロイスを、マンチェスターに設立しました。

努力家で完全主義者のロイスは、火花の散らない安全な発電機とモーターを開発して成功を収め、更に従来は人力に頼っていた小型定置クレーンを扱いやすい電動式に改良して成果を挙げたといいます。

その頃人件費の安いアメリカやドイツのメーカーがF・H・ロイスの市場に競合相手として出現してきたため、新分野の市場を開拓する必要に迫られ、そこに目をつけたのが自動車でした。自動車の将来性に着目したロイスは、自ら自動車を製作することを決意し、1904年に完成した「10HP」は、この小さな町工場で作られたとは思えないような名車でした。

直列2気筒1,800ccエンジンを前方に搭載し、3段変速機とプロペラシャフトを介して後輪を駆動する常識的な設計でしたが、奇をてらわない堅実な自動車で運転しやすく、極めてスムーズで安定した走行性能を示し、実用面でも充分な信頼性を持っていました。

メカニズムについてはあくまで単純で信頼性の高い手法を取りましたが、高圧コイルとバッテリーを組み合わせた点火システム、そして精巧なキャブレターは、当時としては最高に進んだ設計で、エンジン回転の適切なコントロールができ、この年の4月に行われたテストドライブでは約26.5km/hのスピードで145マイル(約233km)を走破しました。

この優秀な小型車に着目したのが、ロイス社のすぐ近くで工場を経営していたヘンリー・エドマンズという人で、彼はC・S・ロールズの関係者でもあり、チャールズ・ロールズが優秀なイギリス車を求めていることを知っており、彼を介して早速二人のコンタクトが図られました。

1904年5月にマンチェスターで「10HP」に試乗したチャールズ・ロールズは、性能の優秀さにいたく感銘を受け、彼は「ロイス車の販売を一手に引き受けたい」と申し出、ロイスもこれを了承。以後ロールズとロイス、は、相携えて高性能車の開発、発展に関わっていくことになりました。

その後の同社の歴史を語ると更に長くなるため詳しくは割愛しますが、数々の名車を生み出すと同時にあまたあるスポーツレースでも数多くの優勝を勝ち取り、第一次大戦を契機に航空機用エンジンも生産するようになりました。

スポーツマンであったチャールズ・ロールズは1898年に初めて気球に乗って以来、熱心な飛行家にもなり、後にはライト兄弟とも親交を結んだといいます。更にロールズは、イギリスで2人目の公認パイロットとなり、余暇には飛行機の操縦に熱中しました。

しかし、黎明期の未熟な航空機での飛行は極めて危険なものであり、ロールズは1910年7月12日、ボーンマス国際飛行大会で、乗機の墜落によって事故死しました。享年32歳。

ヘンリー・ロイスもまた、この翌年の1911年に悪性腫瘍とも言われる病気で倒れて療養生活に入りました。しかし、その後持ち直し、これ以降20年以上に渡り療養先で図面を書き設計チームに適切な助言を与え続けたといいます。

また早くから周囲の技術者を独自の方法で訓練してあったので、1933年に77歳で亡くなった後も、ロールス・ロイスの伝統には何の変化も起こらなかったといいます。ただ会社はその偉大な創業者を称え、その喪に服するため、このときから自社のロールス・ロイスのラジエーターのエンブレムの色を赤から黒に変更したといいます。

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その後も、同社は、「シルヴァーゴースト」、「ファントム」といった、後年名車といわれるような高級車を世に出していきましたが、とくに「シルヴァーゴースト」で確立された、卓越した耐久性の高さも特記に値するもので、特に大型モデルの頑丈なシャーシは装甲車ボディの架装にすら耐える強度があったといいます。

なお、航空機エンジンメーカーとしてのロールス・ロイス社のステイタスは、第二次世界大戦中に確立されたとみられます。1939年に第二次世界大戦が勃発すると同社は自動車生産を中止し、航空用エンジンをはじめとする軍需生産に特化しました。

ロイスが最晩年に手がけた液冷V形12気筒エンジンは「マーリン」の愛称で改良を重ねつつ、第二次世界大戦中を通じて大量に生産され、戦闘機のスピットファイアやハリケーン、爆撃機のランカスター、偵察・戦闘爆撃機のモスキートなど、数多くのイギリス製軍用機に搭載され、イギリス本土防衛戦や対独攻撃において大きな成果を挙げました。

戦後は再び自動車造りも再開し、以後は、一般向けの量産モデルも生産するようになりました。1922年には「シルヴァーゴースト」より小型の「トゥウェンティー(通称ベビー・ロールス)」でオーナー・ドライバー向けの高級車市場を開拓。

小型とはいえ4リッター級であり、日本では超弩級のクルマです。このベビー・ロールス系はその後何度かモデルチェンジを繰り返してはその性能を増し、ロールス・ロイスの市場を広げました。

戦後日本の内閣総理大臣になった吉田茂は第二次世界大戦前に外交官として英国に赴任していた当時、私費でこの1937年式のベビー・ロールスのサルーンを購入して日本に持ち帰り、総理在任中も含め公私において終生愛用したそうで、これは日本に残るロールス・ロイスの中でもとくに有名な1台で、現時点でも可動状態です。

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大戦後の最上級リムジンとしては、1950年に復活した「ファントムIV」を皮切りに、1959年の「ファントムV」、1968年には「ファントムVI」が登場しています。

第二次世界大戦前からの長きに渡ってイギリス国王の御料車はデイムラーでしたが、1955年に「ファントムIV」がエリザベス2世女王の御料車に採用され、念願の頂点を極めているほか、このクルマは昭和天皇の御料車としても短期間使用されています。

が、その後は次第に第二次大戦中から携わっていた航空機エンジンのほうへ重点が置かれるようになり、世界的にみてもジェット機全盛の時代となったため、同社もジェットエンジンの生産に企業努力の大半をつぎ込むようになります。

ところが、1960年代、大型ジェット旅客機「L-1011 トライスター」向けに開発中だったRB211エンジンがトラブルを招き、エンジン全ての再設計が必要となり、この経過は、ロールス・ロイスにとって莫大な経済的損失となりました。この失敗などによってロールス・ロイスの財政はたちまち逼迫、1971年には遂に経済破綻しました。

公的管理下におかれ、しばらくは国有化されていましたが、その後民有化され、現在は相互に独立したふたつの会社になっています。

その二つとは、1973年に設立され、航空機エンジンや船舶・エネルギー関連機械などを製造・販売している「ロールス・ロイス・ホールディングス」と、ドイツの自動車会社BMWが1998年に設立し、「ロールス・ロイス」ブランドの乗用車を製造・販売している自動車会社、「ロールス・ロイス・モーター・カーズ」です。

もともとは、このロールス・ロイスの自動車造りは、ロールズとルイスが創業当初から行っていた車作りに加え、1931年に同じイギリスのスポーツカーメーカーである「ベントレー」を買収し、これを基盤として規模拡大していったものです。

上述のとおり、1971年にそれまでの新型エンジンの開発などの失敗が響いて経営破たんし、国有会社になっていましたが、その2年後の1973年、この国有会社となっていたロールス・ロイス社のうち、旧ベントレーであった自動車部門のみが分離され、イギリスの製造会社・ヴィッカーズがこれを買って同社の車の製造販売を継続することとなりました。

ちなみに、売却されたこのロールス・ロイスの自動車部門は、かつて買収したベントレーを自社ブランドとは別のブランドとして差別化を図り、その名も「ベントレー」として販売していました。このため、ロールス・ロイス車といってもこの中には、純正ロールス・ロイスとベントレーの二つのブランドが含まれることになります。

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ところが、これらを引き受けたヴィッカーズもまたその後経営が悪化したことから、1998年、ロールス・ロイス・モーターズの売却を計画、最高額を提示したフォルクスワーゲンがその買収に成功しました。

このとき、ややこしいことに、ロールス・ロイスのブランド名やロゴタイプなどだけは同じドイツの自動車メーカーBMWに譲渡されることとなりました。

しかし、それでは車が売りにくい、ということでその後、フォルクスワーゲンとBMWの協議の結果、2003年からはロールス・ロイスの製造販売はBMWが、ベントレーの製造販売はフォルクスワーゲンが行うこととなりました。

BMWは同年、ロールス・ロイス・モーター・カーズという自動車会社を設立、社屋や工場を新築し、1998年から独自に開発した「ロールス・ロイス」の製造販売を開始しました。

冒頭で述べた西村氏が所有するロールス・ロイス・シルバースピリットは、このBMWに買収される前のロールス・ロイス社によって製作されたものであり、それ以前の「純正品」でもあることから、なおさらに貴重なものといえることになります。

新しくロールス・ロイスを造り始めたBMWは、デビューから20年近くが経過し旧退化していたこのシルバースピリットの後継モデルとして、1998年3月には「シルヴァーセラフ」を発売していますが、このクルマに搭載されているエンジンはイギリス製のものではなく、BMW製のV型12気筒エンジンです。

ロールス・ロイスの名を冠してはいるものの、もはやその心臓部はドイツ製ということになり、新たにこれを購入する人にとってはややありがたみが薄い、ということになってしまうようです。

ま、もっとも現在日本メーカーのブランドで売られているものの多くもまた、裏をひっくり返して製造国名を見れば、それは中国製であったり、台湾製、インドネシア製であったりするわけであり、モノの品質さえ悪くなければ、SONY製、トヨタ製だと人に自慢できるわけです。ロールス・ロイスにしても同じなのかもしれません。

が、やはり「純正」にこだわる人は、本場イギリス製のロールス・ロイスが欲しいと思うでしょうし、やはりブランドと品質の一致があるにこしたことはありません。

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ところで、1973年に自動車部門が分離・民営化されたロールス・ロイス社はその後どうなったかといえば、これ以降もイギリス国有企業として存続し、航空機用エンジンのほか、船舶、防衛、エネルギー関連などの製作・販売を続けていました。

しかし、マーガレット・サッチャー政権下に再度の民営化が決定され、1987年に民間企業「ロールス・ロイス・ホールディングス」に業態転換しています。自動車のように他国に買収されず、イギリスのメーカーとして生き残ったことに対して、多くの英国民はほっとしていることでしょう。

自動車部門を切り離したことで、経営が楽になったのか、その後の業績は好調のようで、現在、ロールス・ロイスの防衛航空宇宙部門は世界で17番目であり、これはグループの売上の21%を占めます。ほかに民間航空機向けの売上は53%、船舶向けは17%、発電向けは8%を占め、日本でいえば、三菱重工か、IHIのような存在といえます。

が、こちらの部門でも、BMWとの提携が進んでおり、1990年にはBMWと合弁でBMWロールス・ロイス・ドイツを設立し、共同で航空機エンジンを製作しています。

さらに1994年には米国の航空機エンジン製造会社であるアリソン・エンジンを傘下に収めており、これにより、ロールス・ロイスは新たに民間機向けのエンジンが4機種増え、ますます国際競争力を増しています。

このように、航空機産業の世界では、イギリスとドイツの共闘に加え、これにアメリカも参入する形での新たな時代がつくられつつあり、もはやイギリス製だの、ドイツ製だの、といったことにこだわってはいられない、という風潮が強くなっているようです。

これに対して日本は、宇宙開発においてはまったく他国との提携はなく、いまのところ独自路線を歩んでいるようです。航空機産業においてもヨーロッパやアメリカのメーカーと技術提携などは行っているものの合弁で会社を創る、といったところにまでは踏み込んでいません。

ただ、日本の航空機関連メーカーは各社とも欧米の航空機メーカーが造っている飛行機の開発に参加させてもらいながらその技術力を培ってきた、という経緯があるため、いまさらこれを止めるつもりはないようです。逆に最近ではその分担率を引き上げるようさらに努力しているようです。

その一方で、リージョナルジェットと呼ばれる小型近距離旅客機の製造に積極的です。三菱のMRJの初飛行がいよいよ今年の4月以降に行われるようであり、また本田技研工業のホンダジェットも昨年の6月、その量産1号機が初飛行に成功しました。

防衛関連でも、大型機の輸送機、C-X・P-Xの同時開発やステルス戦闘機ATD-X開発など、大型プロジェクトが推し進められており、日本の航空産業は新たな展開を迎えています。

片や自動車産業の分野では、先にトヨタが世界に先駆けて水素自動車の実用車を販売したのに続き、ホンダも今年水素車を発売予定であり、今後は、航空、宇宙、自動車の分野における欧米との競争がますます激しくなってきそうです。

が、競争してばかりいても技術革新はできない、ということで欧米では国境を越えた協力が進んで生きているわけであり、クルマのロールス・ロイスの例でもわかるように、もはやブランド名でモノを売るような時代ではなくなりつつあるのを感じます。

いわんや、その中身はイギリス製でもなんでもないわけであり、今後はやれローレックスだの、エルメスだのと、名前買いをするのは古臭い、といわれるような時代が来るのかもしれません。

人気ブランドとなったブランドはその大衆化や日常化のためにいつのまにか陳腐化していくことも多く、ブランド価値の低下とのバランスをいかに図っていくかが最大の課題です。

ロールス・ロイスのように、希少性を訴えるものであればあるほどそのバランスが難しいといえ、一度その名声を失った場合、そのブランド名とは異なるサブブランドあるいは別ブランドでの展開を図っても、うまくいかないことが多いものです。

ブランドは国を超えて売買されており、実態としてはブランドがある特定の国に従属するものではなくなってきているこの時代は、「グローバル経済」の時代ともいわれます。そんな中での「日本ブランド」を独自路線で維持していくのか、欧米と協力していくのか、あるいはさらに別な道があるのかどうかを模索していく姿勢が問われています。

少々話は飛躍しますが、冒頭で述べた河津桜ももはや河津町だけのブランドではなく、日本中いたるところで普通にみられ、普遍化、陳腐化してしまったような感があります。いっそのこと、日本が得意とするバイオ技術で蒼や紫色の桜でも新たに開発してみてはどうかと、私などは思う次第。

しかも、春先にではなく、真冬に咲けば、観光客も喜びます。青いバラやチューリップが開発も成功しているようなので、実現は不可能ではないはず。バイオで新時代の日本を築く、というのは案外と日本再生の一番の近道かもしれません。

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あぁ 雛祭り

2015-86383月になりました。

実は明日は私の誕生日です。5×歳になりますが、例によって詳しい年齢はあかさないことにしています。私の年齢など、今の世の中にあまたある重大事件に比べれば、取るに足らないことでもあるので、忘れていただくこととしましょう。

雛祭りです。男として生まれたのに雛祭りとはおめでたい……と子供のころからさんざん言われてきたことなので、いまさら気恥ずかしい気も何もありません。が、かえすがえすも悔しいのは、5月5日は端午の節句、男児の成長を祝う日ということで休日なのに対し、女の子の成長を祝うこの雛祭りはなぜか休日でないことです。

江戸時代には雛祭りは「五節句」のひとつとしてれっきとした祝日だったそうで、男尊女卑のこの時代でも男女平等に休日があったというのに、男女雇用均等法が施行されている民主国家でありながら今の日本ではこれは実現されていません。

この日も休日にせんか~い、といつも思うわけですが、政権が民主党になっても自民党が返り咲いても、これを悔い改める法案は今のところで出そうもありません。

ただ、かつて二度ほどチャンスがありました。一度目は、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになったときで、祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたそうです。

が、最終的には5月5日の端午の節句を祝日とする案が採用されました。3月は北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪いことも多いのでこれを避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされます。しかし、そんなの関係なーい、と声を高らかにして言いたいところです。休日を決めるのに寒い暑いの議論は無用です。

二度目。これは、かつて社会党の村山富一さんが自社連立政権を敷いて総理大臣になったときのことです。村山さんの誕生日は3月3日で私と同じ。彼が強いリーダーシップを取って、自らの誕生日を休日にしよう!と言ったなら、きっと実現したと思われます。

が、村山内閣のときには阪神・淡路大震災発生があり、この時政府の対応の遅さが批判され、内閣支持率が急落、その後デフレも顕在化するなどして、その政治の遂行能力を問われるようになり、2年を待たずに連立政権は崩壊しました。

その後、雛祭り生まれの総理大臣は誕生しておらず、同じく3月生まれの魚座の総理大臣なども実現してこなかったことから、この雛祭り休日法案は未だに出されていません。

ほかにだれか雛祭り生まれの有力政治家はいないかな、と思って調べてみたところ、1951年生まれの竹中平蔵さんが同じく雛祭り生まれです。が、小泉政権時代にさんざん活躍したためか、最近はあまり表に出てくることも少なくなり、経済がご専門のことでもあり、どうやら今後ともこの雛祭り休日法案を応援してくれそうには思えません。

政治家以外に他にどんな人が雛祭り生まれかな、と調べてみると、有名どころでは、電話機の発明者のアレクサンダー・グラハム・ベル(1847)、小説家、正宗白鳥(1879)などがそうですが、そのほか歴史に残るほどとりわけ有名な人、というのはあまりいないようなかんじです。私が知らないだけかもしれませんが。

芸能人では、中田ダイマル・ラケットの中田大丸さん(1997没)とか、徳光和夫さん、マッハ文朱さん、栗田寛一さんなどがおり、スポーツでは、陸上の金メダリスト、ジョイナー選手や、サッカーのジーコ元日本チーム監督なども3月3日生まれです。

いずれも私とはくらべものにならないほど才能豊かな人々ですが、誕生日が同じだからといって同じ才能に私が恵まれているわけではありません。だから何なのよ、と突っ込まれるのがオチです。

それでも性懲りもなく、ならば、ヒト以外の誕生物ならどうか、ということで調べてみると、まず、1845年にはこの年の3月3日にアメリカでフロリダが州に昇格し、アメリカ合衆国27番目の州・フロリダ州となっています。

また、ミネソタ州も1849年にミネソタ準州が州に昇格して、32番目の州・ミネソタ州となっており、このほか1915年には、NASAの前身の国家航空諮問委員会(NACA)が創立されています。

1885年には、アメリカ電信電話(AT&T)が設立、1923年、週刊ニュース雑誌「タイム」が創刊、1931年「星条旗」がアメリカ合衆国の国歌として制定、といった具合で、アメリカでやたらと雛祭り生まれの事物が多いのはなぜなのでしょうか。

しかも私はといえば、そのアメリカへ、しかもフロリダで留学経験があります。単なる偶然の一致のようにも思えないのですが、かといって、あちらへ行ってOh! Youはわが州の誕生日と同じ日にウマレタネ~♫とかいって喜ばれたことは一度もありません。

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日本の事物でこの日生まれは何かないのかな~と、さらにしつこく調べてみたのですが、余りめぼしいものはないようです。が、その中でも1958年に富士重工業が「初の軽自動車」ともいわれる、スバル・360を発表した、という記事が目につきました。

私くらい以上の年齢の方には懐かしい乗用車のひとつでしょう。1958年から1970年までのべ12年間に渡り、約39万2,000台も生産された国民車であり、量産型の軽自動車としては史上初めて実用上大人4人の乗車を可能とするとともに、当時の水準を超える走行性能を実現したことで有名です。

3月3日がこのスバル360の誕生日だといわれるゆえんは、1958年のこの日、このクルマが市販車両として公式にプレス発表されたからで、その会場は東京都内の千代田区丸の内にあった富士重工業本社でした。

プレス発表というイベントに慣れていなかった富士重工のスタッフは、実車無し、カタログのみで発表を済ませようとしていたそうですが、斬新な新型車を期待して大挙参集した報道陣から「実車はどうした」と催促されました。

そこで、急遽2台のスバル・360がトラックで群馬県の伊勢崎にあった工場から東京本社へ届けられることになりました。夕方4時まで辛抱強く待った記者たちは、到着したスバルを代わる代わる運転し、その乗り心地と走行性能を体験しました。

その反響は著しいものがあったといいます。彼等が書いた記事を読んだ国内の他の自動車メーカー各社からも関心を持たれ、一般人も試乗車に殺到。日本国内のメディアのみならず、イギリスの老舗自動車雑誌「オートカー」が「これはアジアのフォルクスワーゲンとなるだろう」と好意的に評するなど、欧米の自動車雑誌にも取り上げられました。

当初から強く注目される存在となりましたが、販売1号車の顧客が松下幸之助であったということは、有名な逸話であるのに意外と知られていません。

昨年亡くなった長州人の私の叔父も大のスバルファンであり、戦後最初に買ったクルマがやはりこれでした。母と姉妹であった叔母ともども夫婦でよく私の実家のあった広島にもこのクルマでやってきていました。その関係で、夏冬の休みや盆暮れなどにはこのクルマに同乗させてもらってあちこち遊びに行ったこともあり、私にとっても懐かしい一台です。

戦前は航空機製造メーカーであった富士重工がその技術を駆使して開発した超軽量構造を採用しており、また限られたスペースで必要な居住性を確保するための斬新なアイデアが数多く導入されたクルマでした。比較的廉価で、十分な実用性を備え、1960年代の日本において一般大衆に広く歓迎され、モータリゼーション推進の一翼を担いました。

日本最初の「国民車」ともいわれ、同時に「マイカー」という言葉を誕生・定着させ、日本の自動車史のみならず戦後日本の歴史を語る上で欠かすことのできない「名車」と評価されています。

模範のひとつとなったといわれる「フォルクスワーゲン「のあだ名となっていた「かぶと虫」と対比させ、「てんとう虫」の名愛称で広く親しまれました。そのコンパクトにまとめられた軽快でキュートなデザインは今みてもなかなか斬新です。

そのためか、生産中止後も、1960年代を象徴するノスタルジーの対象として、日本の一般大衆からも人気・知名度は高く、私の叔父と同様にスバル・360が初めての自家用車だったという中高年層が多いこともその人気を裏押ししているようです。

生産台数も多かったことから、生産終了後約50年近く経過してもまだ後期モデルを中心に可動車も少なくなく、愛好者のクラブも結成されており、ごくたま~に街中を走っているのをみることさえあります。

スバル360発売以前の1950年代中期、日本ではこうした国産乗用車は富士重工以外にも複数の大手メーカーから発売されていました。しかしその価格は小型の1000cc級であっても当時で100万円程度であり、月収がわずかに数千円レベルであったほとんどの庶民にとっては縁のないものでした。

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そこに「軽自動車」という規格が現れました。そのきっかけは、第二次世界大戦後、敗戦国を中心に、二輪車や航空機の余剰部品や材料を利用した簡易車両を造ろうという動きが出たことでした。

戦後の日本は(戦中もそうでしたが)、道路事情が悪く、細い道が多かったことなどから、大型の車よりもより小さい車のほうが求められる傾向にあり、経済復興とともに手軽な移動手段としてのほか、省資源の観点からこうした超小型自動車を見直す気運が高まりました。

日本の軽自動車が初めて規格として世に登場したのは、1949年(昭和24年)のことで、当初から運転免許証も普通車、小型車とは区別され、免許取得月や地域によっては、実地試験が免除となり、費用負担も少ない「軽限定免許」なる優遇措置があることがウリでした。

しかし、当時のモータリゼーションの主力および市場の需要はもっぱらオート三輪やオートバイに集中しており、軽四輪自動車の本格的な製造販売を手掛けるメーカーはなかなか出てきませんでした。

この1949年にはじめて制定された規格では、軽自動車とは、長さ2.80m、幅1.00m、高さ2.00mと規定され、4サイクル車は150cc以下、2サイクル車は100cc以下という現在の軽と比べるとかなり小さく非力なものでした。

このため、実際にこの規格で製造された四輪車は存在せず、翌1950年に早くも最初の規格改定を迎えることとなり、このとき、4サイクル車は300cc以下、2サイクル車は200cc以下となり長さ3.00m、幅1.30m、とやや拡大されましたが、高さは2.00mのままでした。

しかし、この規格でも実際に製造を試みるメーカーはなく、この時代までに軽四輪自動車の製造販売に挑戦した少数の零細メーカーはほとんどが商業的に失敗するか、資本の限界で製造の継続ができなくなるなどの理由で、ほどなく市場からの撤退を余儀なくされていきました。

そんななか、翌年の1951年には、運輸省令「道路運送車両法施行規則」として規格改定がなされ、4サイクル車の排気量は初めて360ccまでアップされました(2サイクル車は240cc)。

この360ccという規格は、その後1976年まで続きました。排気ガス抑制のための4サイクルエンジンへの移行を促進させたい、という政府の意向を受けたものです。それなら排気量をアップさせてよ、というメーカー側からの強い希望により実現したもので、この排気量550ccが法令化されるまで、360ccの軽自動車生産はなんと22年も続きました。

そしてその後も平成2年排出ガス規制が敷かれるなか、この550cc規定の改定についてもメーカー側から強い働きかけがあり、1990年にも660ccにまでアップして現在に至っています。

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この1951年における360ccへの軽自動車規格改定において、ようやくメーカー側も、ここまで排気量をアップしてもらえたならなんとかいける、と思ったのでしょう。翌年の1952年には、史上初の4輪軽乗用車となる、250cc車「オートサンダル」というクルマが、名古屋の零細メーカーである「中野自動車工業」で製造されました。

三菱の汎用単気筒エンジンを用いて手作業で製造したもので、リアエンジン2人乗りのフリクションドライブ車であったため、およそ通常の実用に耐えうる性能ではありませんでした。

フリクションドライブというのは、駆動装置の接触による摩擦力を利用して動力を伝達する方式のことで、回転する円盤同士を接触させてその摩擦により動力を伝達するものです。ギアやチェーンなどに比べて構造が単純で、かつ滑らかで無段階な動力の伝達が可能ですが、伝達時にすべりが発生するため、大きな力の伝達には効率が悪くなります。

このクルマはそれでも1954年までに200台ほどを製造して初めて販売がなされました。が、この中野自動車というメーカーは零細企業のためほとんど資料が残されておらず、どのくらい売れたのかも詳細は不明です。その後より革新的な前輪駆動モデルの開発なども行ったともいわれているようですが、量産化せずに生産中止したと言われています。

その後1957年頃までに、いくつかのメーカーが4輪軽乗用車の開発を行い、「日本自動車工業」が、「NJ(ニッケイタロー)」を、三光製作所が「テルヤン」などを開発しました。しかしこれらの会社も中野自動車と同様の零細企業であり、確たる技術的裏付けの薄いままに急造した粗末なものであったため、製造も販売も長続きはしませんでした。

このほか、大手織物メーカー傘下の住江製作所という町工場が、軽量4輪軽自動車「フライングフェザー」開発しています。これは2気筒の350ccのエンジンを積む2座席者でしたが、4輪独立懸架の採用はともかく、華奢な外観は商品性に乏しく、前輪ブレーキがないなど性能的に不十分な面も多く、結局数十台が市販されただけで製造中止となりました。

このほかにも、上述の「フライングフェザー」の開発者が、富士自動車という小さい会社から後輪を1輪とした125ccの2座キャビンスクーター「フジキャビン」を出しました。が、こちらもパワー不足と操縦安定性の悪い失敗作で、85台しか作られていません。

比較的まっとうな成績を収めたのは、自動織機メーカーから2輪車業界に進出していた当時の鈴木自動車工業で、この会社は現在の「スズキ」です。現在、日本市場においては軽自動車の販売台数で国内屈指のメーカーに成長しましたが、この会社は1955年に前輪駆動の360cc車「スズキ・スズライト」を開発しました。

これは実質西ドイツの「ボルクヴァルト」という会社が販売していたミニカー、「ロイトLP400」を軽自動車規格に縮小したような設計で、外観も酷似しており、乗用車・ライトバン・ピックアップトラックの3タイプがあり、乗用車タイプは大人4人が乗車できる、が一応の謳い文句でした。が、実際は後部座席は子供が精一杯の広さでした。

乗用車・ピックアップの販売は不振で、1957年には後部を折り畳み式1座とした3人乗りのライトバン仕様のみとするなど販売面では追い込まれました。結局このライトバン仕様の「スズライト」も商業的に大きな成功は収められず、スズキの軽自動車生産が軌道に乗るのは改良型の「スズライト・フロンテ」に移行した1962年以降のことでした。

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このころ、戦前の航空機メーカーの雄、旧・中島飛行機を前身とする「富士産業」という会社が興っていました。群馬県太田市の呑竜工場と、東京都下の三鷹工場において、1946年からスクーター「ラビット」を生産し、実績を上げており、徐々に注目を集めていました。

また、群馬県の伊勢崎工場では1947年から軽量なバスボディの製作で好成績を収め、1949年にはアメリカ製のバスを真似たリアエンジンバス、「ふじ号」を日本で初めて開発しました。いずれも、航空機メーカーとしてのエンジン技術や金属モノコック構造設計に関する素地があっての成功でした。

ところが、1950年にGHQ指令による財閥解体命令が出たため、富士産業は計12社に分社されました。うち2工場は富士工業に、また伊勢崎工場は富士自動車工業に改組されます。

しかし、1952年(昭和27年)に日米地位協定締結され、アメリカと日本との平和条約が発効されて日本の主権が回復されると、ようやくGHQの占領が終わりを告げます。

これを受けて翌年の1953年には、この富士自動車工業に残りの5社が協同出資して「富士重工業」が設立され、2年後の1955年にはこの5社はすべて富士重工業に吸収合併されるという形で統合されました。

その後、富士重工業は1970年代初頭から、本格的なアメリカ市場への進出を開始し、当時の円安を背景とした廉価性を武器に、国産他メーカーと同じくアメリカ市場での販売台数を飛躍的に伸ばすことに成功しました。が、バブル崩壊後、提携していた日産自動車が経営不振に陥り、同社保有の富士重工業株全てがゼネラルモータース(GM)に売却されます。

しかし、GMの業績悪化に伴い2005年(平成17年)Mが保有する富士重工株20%をすべて放出。放出株のうち8.7%をトヨタ自動車が買い取って筆頭株主となり、現在のように富士重工業とトヨタ自動車は提携し、蜜月関係にあるわけです。

最近スバルのクルマがやたらにトヨタっぽくなりつつある、と感じているのは私だけではないと思いますが、これはトヨタとの共同開発も多くなっているためでしょう。

このように少々昔の荒々しさが消えつつある富士重工ですが、しかしスバル・360を開発したころはまだ唯我独尊で開拓精神旺盛でした。その開発以前の1952年から既に普通乗用車の開発に取り組み、モノコック構造を備えた先進的な1500cc・4ドアセダン「スバル1500」の試作まで行っていました。

しかし、採算面や市場競争力への不安から、富士重工業成立後の1955年に市販化計画を断念しました。もっともこの幻のスバル1500の開発は、技術陣にとっての多大なデザイン・スタディ、ケース・スタディとなり、その成果はスバル360に遺憾なく注ぎこまれました。

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そのスバル360に関するマニアックな性能の記述は煩雑になるので避けたいと思いますが、フル・モノコック構造の超軽量車体後部に空冷エンジンを横置きし、後輪を駆動するリアエンジン・リアドライブ方式は、その後長らく主流となるFR車のスタンダードになりました。

サスペンションは日本で初めてトーションバー・スプリング(棒鋼のねじれによる反発を利用したばね)を用いた極めてコンパクトな構造として車内の客室容積確保を図り、またタイヤは当時としては異例の10インチサイズでした。

14インチ以上が主流であったこの時代にこんな極小タイヤはなく、これまた新規開発させたものでした。ちなみにこの10インチタイヤはその後、ブレーキ規制が強化された1980年代末を境に、サイズアップし、12インチサイズに移行して行きました。

その斬新なボディのデザインを完成させたのは、佐々木達三という人で、戦前から船舶塗色や建築などのデザインを手がけてきたベテランでした。が、彼にとっても初めての自動車デザインであり、彼はデザインと並行して自ら自動車免許を取得したといいます。

日野自動車がライセンス生産していた当時の代表的小型車「日野ルノー・4CV」を運転するなどして自動車の理解に努めたといい、フォルクスワーゲン似と言われることの多いスバル360ですが、随所のディテールを見るとむしろこのルノー・4CVとのほうがよく似ているといわれます。

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とはいえ、従前の軽自動車のようにこのルノーを滑稽なまでに強引に縮小した、というイメージはなく、4人乗りミニカーという大前提のもと、機能と直結した美しい形が生み出されたことは画期的であり、スバル・360が日本の工業デザインの歴史において高く評価されている理由でもあります。

車内は、これ以上ないというほどに簡素な車内で、軽量化とコストダウンのためにあらゆる無駄が省かれており、航空機開発の経験が豊富な同社の技術陣が、戦前に開発した航空機を先例として可能な限り軽量化に徹して完成させたものです。

例えばステアリングホイールは強度に問題のないギリギリにまで部材を細身に削られており、計器類はステアリングポスト上に配置されたスピードメーターとその中の積算距離計が唯一です。

また、最小限のスイッチ類が薄い「ダッシュボード」前面に備わっていますが、このダッシュボード下には車体全幅に渡るトレーが設置され、荷物スペースの一助とする、といった工夫も取り入れられており、こうした点が運転(操縦)装置以外の無駄なものは一切取り払われた戦闘機とは異なるところです。

ただ、シートは前後席とも、アルミ合金の湯たんぽ状のフレームをベースに、ゴムひもとウレタンフォームでクッションを整えてビニール表皮を張っただけという軽量でシンプルな構造で、それほどの高級感はありませんでした。とはいえ、私もなんとなく覚えているのですが、座り心地は当時としてはまずまずの水準であったと思います。

この名車ともいわれるスバル360の開発を主導したのは戦前の中島飛行機のベテランエンジニアたちでしたが、中でも、百瀬晋六という人が主導をとりました。上述でも述べましたが、1949年に日本初のモノコック構造リアエンジンバス「ふじ号」を開発した人であり、スバル360のあとも、初代スバル・サンバー、スバル1000などの名車を生み出しました。

長野県塩尻市の造酒家の家に生まれで、旧制松本高等学校を経て、東京帝国大学工学部航空学科へ入学した俊才です。大学では原動機を専攻し、1941年の卒業と同時に、中島飛行機株式会社に入社。主に戦闘機用エンジン「誉」エンジンの改造などに従事しました。

その後海軍技術士官として海軍航空技術廠に転向したため、中島飛行機での仕事は軍籍のまま行われたものであり、このため終戦時には海軍技術大尉の身分でした。敗戦後、伊勢崎工場を継承した富士自動車工業の社員に返り咲きます。

富士重工業が飛行機産業から自動車生産業者へと転換するにあたり、上述のふじ号の第1号試作車、スバル1500を1954年に開発。その際に蓄積された技術をもってスバル360の開発を主導しましたが、その時代を先取りした人間優先の設計思想により、軽自動車の設計に新しい可能性を切り開き、日本における「軽自動車の父」とも称されるべき人です。

スバル360は後輪駆動者ですが、1961年には、百瀬の理想であった前輪駆動車(FWD)の開発にも取り組み、スバル1000を完成させました。1966年に発売された同車は、現在も富士重工車の技術の象徴ともいわれる水平対向4気筒エンジンなどをはじめ、電動式冷却ファンを導入するなど画期的な新技術を満載していました。

その根本的な設計思想は今日のスバルの主力車種、インプレッサ・レガシィ・フォレスターといったクルマにも受け継がれています。

チーフエンジニアとしての百瀬は、暇さえあれば部下の机を覗いて回り、問題点を発見するとそこに腰を据えて担当者と共に考える習慣を持っていたといい、「技術に上下の差は無い」というのが口癖だったそうです。

技術・車に対する真摯な姿勢やその考え方・哲学は社内外で「百瀬イズム」と呼ばれ、今日に至るまで思想的財産として引き継がれています。1993年の2代目レガシィのビッグマイナーチェンジ大ヒットを見届けて、1997年(平成9年)1月21日逝去。享年77でした。

ちなみに、この2代目レガシーは、私がハワイから留学後、はじめて買った愛車であり、このクルマに搭載されていたボクサーエンジンと呼ばれる水平対向エンジンのボッボッボッという、腹の底に響くようなサウンドを聴きながらのドライブは最高でした。

というわけで、私自身もこのスバルのクルマとは縁が深いことに今気づいたのですが、このスバル360の生みの親の百瀬氏ももしかしたら、雛祭り生まれ?と思ったのですが、調べてみてもさすがにこれは違っていました。

しかし、2月20日生まれの魚座であり、私と同じです。早春の生まれにふさわしく、デリケートで優しいのが魚座の特徴だといい、何よりも「感応する力」が最大の特徴であり、その直観力により百瀬氏もまた優れたアイデアを探し当てることができたのかもしれません。

芸術的な才能にも恵まれているといい、そんな才能がスバル360のようなすばらしいデザインの車を生み出したのでしょう。

私もあやかりたいものですが、百瀬氏が生きた77歳まで生き延びれるかどうか、いわんや彼のような素晴らしい業績が残せるかどうか…… 先行きは妖しいところです。

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