おバカのはなし

2015-36気がつけば2月も終わりです。

毎年同じことを書いているような気もしますが、1月は行く、2月は逃げる、であり、3月もすぐに去っていくのでしょう。

時間を返せ、バカヤローとどなりたくなるのですが、誰に怒りをぶつけてみても、時だけは戻ってきません。一期一会です。いつの世もそのときそのときどきを一生懸命に生きるだけ、馬鹿正直に生きるのが一番です。

ところで、バカヤローといえば、今日2月28日は、1953年のこの日、国会の衆議院予算委員会で、この当時の吉田茂首相が「バカヤロー」と暴言を吐いたことで知られています。

首相は、社会党右派の西村栄一議員との質疑応答中、激して口論になり、この暴言を吐いたことがきっかけとなって衆議院が解散され、このためこの解散は「バカヤロー解散」と呼ばれます。

ワンマン宰相として知られ、激烈な発言も多かったダイナミックなこの総理大臣の気質を考えると、誰しもが「バカヤロー」とたしかに大声を出したと思うでしょう。が、実際には、吉田首相はこの議論が一時収束しかけたとき、席に戻りつつ非常に小さな声で「ばかやろう」と呟いただけだっそうです。

ところが、このころは高度成長時代に入りつつある時代にあって日本製品の質も高くなってきており、国会の場に持ち込まれたマイクもかなり高性能化していました。このため、この吉田首相が小さく呟いた声をもマイクが拾ってしまって場内に拡大されて広がり、これに気づいた西村議員が聞き咎めたため、さらに騒ぎが大きくなりました。

この議論は、本国会での西村らの社会党の与党に対する質疑応答の際、吉田首相が、過日の施政演説で述べた「国際情勢は楽観すべきである」という根拠はいったいどこにあるのか、という質問に対して、吉田首相が「イギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハウアー大統領自身が言ったから」と答えたことに始まります。

これに対して西村氏は、「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総理大臣の翻訳を承っておるのではない。総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお述べになることが当然ではないか」と切り返したあたりから議論は議論ではなくなっていきます。

更に吉田首相が「只今の私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁致したのであります。私は確信するのであります」、とややヒステリックな高音で発言したところ、西村氏はこれ対して「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか」、とややべらんめー調に返したところ、首相は激高し、「無礼なことを言うな!」とやりました。

「何が無礼だ!」「無礼じゃないか!」と言うやり取りが数回続き、最後の西村氏の「総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ! 答弁できないのか、君は……」といったことに首相は答えずに答弁の席から離れ、このときボソッと、「ばかやろう……」と呟くように吐き捨てたというものです。

もともとこの吉田首相と西村の関係は以前からしっくりいっていなかったようで、第二次世界大戦中、吉田氏は親英派として軍部に睨まれ、一時憲兵に身柄を拘束される憂き目にも遭っていました。

しかし逆に西村は軍人との繋がりがあり、戦時中でもかなりの影響力を持っていたといい、彼に対するこうしたやっかみも手伝って、首相は西村に好感情を抱いていなかったことがこの口論の一因ともいわれています。

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ところがこの声は高性能マイクに拾われ、国会中に響いたことから西村氏は再度雄叫びをあげ、「何がバカヤローだ! バカヤローとは何事だ!! これを取り消さない限りは、私はお聞きしない。取り消しなさい。」と発言します。

自分の失言が国会内中に聞こえてしまったことを当然首相もしまった、と思ったでしょうが、と同時にさすがにこれはまずいと思ったのか、このあと「……私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します」と取り消したことから、ようやく西村氏もその追求の矛先を納めました。

が、この失言を議会軽視の表れとした社会党右派は、吉田氏を「議員としての懲罰事犯」に該当するとして懲罰委員会に付託するための動議を提出。この背景には鳩山一郎・三木武吉ら自由党非主流派の画策があったといわれ、結果としてこの懲罰委員会への付託動議は可決されました。

さらに追い討ちをかけるように内閣不信任決議案が提出され、吉田首相に反発する自由党鳩山派などもこれに同調したことから、3月14日にこれも可決。これを受けて吉田は衆議院を解散し、4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行われることになりました。

解散後の総選挙では吉田の率いる自由党は大敗、かろうじて政権を維持したものの少数与党に転落しました。が、吉田首相は、再度首相に任命されました。とはいえ、氏の影響力は急速に衰えていきます。

その後も鳩山一郎グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していき、さらには政界・財界・官僚の多数が海運、造船業界幹部から賄賂を受けたとされる、いわゆる造船疑獄が明るみ出ました。吉田内閣は当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられるようになり、ついに1954年(昭和29年)12月7日に内閣総辞職。

翌日、自由党総裁を辞任しましたが、この最後の総裁職、総理大臣就任は吉田自身5回目であり、これほど長きにわたって内閣総理大臣に任命されたのは今も昔も吉田茂ただ1人です。内閣総理大臣在任期間は2616日にもおよび、この記録も誰にも破られていません。

その後、自由党トップに返り咲くこともなく、1955年(昭和30年)の自由民主党結成にも当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となりますが、池田勇人の仲介で1957年(昭和32年)に入党。

その後も政界への影響力は大きく、1963年(昭和38年)には次期総選挙への不出馬を表明し政界引退を宣言しました。が、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼしました。

1967年(昭和42年)8月末に心筋梗塞を発症。このときは、あわてて駆けつけた甥の武見太郎(医師会会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれます。

が、その2か月後にはついに最後の時を迎え、死去前日の10月19日には「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたといいます。

これが記録に残る吉田の最期の言葉となり、翌20日正午頃、大磯の自邸にて死去しました。突然の死だったためその場には医師と看護婦三人しか居合わせず、身内は一人もいなかったといい、臨終の言葉もなかったそうです。「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったといい、享年89歳でした。

10月31日には戦後唯一の国葬が日本武道館で行われ、官庁や学校は半休、テレビ各局は特別追悼番組を放送してこの偉大な元首相を偲びました。

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この「バカヤロー解散」のときのことを、晩年吉田はその回想録の中で述懐しており、「取るに足らない言葉尻をとらえて」不信任案に同調した与党の仲間を「裏切り」と糾弾し、「当時起こった多くの奇怪事」で最大のもので「忘れる事が出来ない」と述べています。

しかし、バカヤローと失言したことについては特に後悔の言葉はなく、この様子を綴ったこの当時の新聞記事では、2人の興奮したやり取りの後場内は鎮まり返り、そんな中首相は「ニヤリと笑って立ち上がり丁重に取り消す」とあります。心中は言い過ぎとは思ったものの、普段嫌っていた相手にしてやったり、と思っていたのかもしれません。

ただ、吉田が発言を取り消して謝罪したため、議事録の中では、西村と吉田が発言した「無礼」と「バカヤロー」という単語は空白になっているそうで、この言葉は議事録には記載されていないといいます。

このバカヤローとは、漢字では「馬鹿野郎」と書き、最大級の侮蔑用語であるわけですが、ほかにも馬鹿を強調する場合には前に「大」を付けて「大馬鹿」という場合もあり、「馬鹿者」という使われ方もあります。バカとタレをくってけて、「馬鹿たれ」とするのは罵倒語同士の最強の組み合わせであり、相手を「小馬鹿」にする場合に使います。

「馬鹿」の主たる意味は「知識が足りない」や「思慮が足りない」であり、さらには「理解の度合いが足りない」という意味合いで用いられるわけですが、基本的に当人の理解しようとする意思や努力が不足しているから「バカにされる」わけです。

類語である「阿呆」もまた理解したり思考する能力が不足している、という意味です。関西では軽い揶揄程度で使われることが多いのに対して、関東では相手を罵り倒すときに使用されることが多いようです。が、バカはアホよりも軽く、相手を少したしなめる際に使われることも多いものです。

ところが、関西でバカといわれると、かなりムキになって怒る人が多いそうで、こうしたバカということばの罵り程度の強弱は地方によってかなり違うようです。

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このようにバカ、というのは非常に繊細な意味をもって受け入れられる用語であるわけですが、このほかには逆に肯定的に使われる場合もあり、場合によっては褒め言葉のように聞こえる場合すらあります。

たとえば何かに熱中している人を指して「馬鹿」と言う場合などがそれであり、これは熱中する余り、他への配慮がなおざりになっている様子を指しているわけですが、周囲は一種の尊称として捉えているわけです。映画の「釣りバカ日誌」がヒットしたように、この映画の主人公は自分を「バカ」と称しますが、周囲からは一目置かれる好人物です。

ほかにも、「空手バカ一代」のように、不器用ながらも一つの道を曲げずに歩き続けることで何らかのものを大成する人のことを指す場合があり、このほか素直ではあるものの気が利かないために役に立たない者、といった場合にも使われます。これも悪い意味ではなく、その真っ直ぐさから与えられる感動に対する賛辞なわけです。

親しい間柄や恋人同士の間でかわされる会話で使われる「いや~ん、ばかぁ~ん」というのもののしる意味はなく、これは「親しさ」の表現であり、また「恥じらい」でもあって、ときには「本気で愛している」を表現する上での符丁です。親しくない間柄では使われることはなく、親密な状態であるかどうかを示すバロメータとも言えるでしょう。

しかし、悪い意味で使われるにせよ、良い意味で使われるにせよ、「バカ」ということばは多かれ少なかれ感情的な意味合いを含む言葉であるため、あまり公的な場では使われることはなく、むしろ制限される事が多い用語です。

例えば、所属している組織の上司にこれを使えば、やはり暴言とみなされ、社会人として致命的な状況に追い込まれる可能性があり、また家庭においても、子供同士の他愛の無い喧嘩などで使われるバカは、しばしば罵り合い、掴み合いに発展します。大人からみれば、双方が馬鹿に見えるわけですが……。

いずれにせよ、親しい間柄でない限りはあまり使うべきではない言葉であり、公的な場では相手の気分を害したり、人を見下す意味合いになる場合もありうるため、使用は控えるべきでしょう。

「正直者が馬鹿を見る」という言葉もあります。バカ正直に生きていると失敗や損が多い、という意味ですが、これを少し違った角度からみると、生きてゆく上では失敗や損もあるだろう、だまされることもあるに違いない、しかし、ややこしい考えやたくらみを練らなければ少なくとも正直者ではいられる、というふうにも捉えることができます。

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つまり、「馬鹿正直」に生きるとは、実直に生きる姿勢を表しているわけでもあります。だますのは罪だがだまされるのは罪ではない、馬鹿正直に生きていれば人の一生はそれでいいのではないか、という考え方であり、この考え方は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にも通じる考え方です。

これは、宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモであり、一般には詩として受け入れられています。が、そうではない、ただの創作メモにすぎない、とする批評家もいます。しかし、その素朴で実直な内容は、人生をよく表していると感動を呼び、広く知られるところとなり、宮沢賢治の代表作のひとつともされています。

「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」より始まり、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」で終わる漢字交じりのカタカナ書きです。

「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲の束ヲ負ヒ」といった一文があり、これは人を労をいとわず手助けをして生きている、という賢治の自尊の言葉です。

ほかに、「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」ともあり、これらの一文は、宮沢賢治が、「法華経」の影響をうけているためだとする説があります。初期仏教の法典であり、日本では護国の経典とされるほどに代表的な仏典ですが、この中に「常不軽菩薩」という菩薩様が出てきます。

お釈迦様の前世の姿だとされており、この常不軽菩薩は、菩薩となる生前、自身が非難され迫害されても、他人を迫害するどころか、自身の主張する仏法の怨敵などに対してもけっして誹謗し返さなかったといいます。

この精神や言動は、宗派を問わず教理を越えて、仏教徒としての原理的な行動・言動の規範としてよく紹介引用されるわけですが、宮沢賢治もこの考え方に得心していたため、先の「雨ニモマケズ」を残したのではないか、といわれています。

極めて東洋的な思想であるわけですが、しかし、だますのは罪だがだまされるのは罪ではない、馬鹿正直に生きていればよい、という考え方は何も東洋だけでなく西洋にもある普遍的なものであり、その証拠に「イワンの馬鹿」という物語があります。

元々はロシアに数々ある民話によく登場する男性キャラクターで、極めて純朴愚直な男ではあるが最後には幸運を手にする、といった類の話が多いようです。

帝政ロシア時代の小説家レフ・トルストイが、このイワンを主人公とした作品を創作し、これは日本でも邦訳され、人気となりました。といっても明治時代の話であり、これは、長谷川天渓という人の訳で「大悪魔と小悪魔」と題され、1902年(明治35年)に雑誌「少年世界」に連載されたものです。

以後、「馬鹿者イワン」「イワンのまぬけ」「イワンのばかとその二人の兄弟」などなどいろんなタイトルの邦訳本が出され、児童文学としても広く知られるようになりましたが、最近では小中学校などの教本としてもあまり取り上げられることはないようです。

従って、知名度の高い割にはあまりその内容について知らない人も多いと思います。以下は、そのストーリーを筆者的な解釈も含めて改訳したものです。

読んでいただき、「馬鹿正直な生き方」がどういったものか、ご自分でも考えて頂きたいと思います。

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イワンのバカ(芦屋改訳)

昔ある国に、軍人のセミョーン、デブタラース、馬鹿のイワンと、彼らの妹で啞(おし)のマルタの4兄妹がいました。

イワンの上の兄2人は、都会へ出て働いていましたが、あるとき実家に戻ってきて「生活に金がかかって困っているので、財産を分けてほしい」と兄妹たちの父親に頼み込みました。

これを聞いた父親は、彼らの親不孝ぶりに憤慨し、その愚痴をイワンにこぼしましたが、これを聞いたバカなイワンは「どうぞ、みんな二人に分けてお上げなさいよ」と、逆に父に勧めました。

父親は4人の子供の中でもとりわけイワンを可愛がっており、彼がそういうのでしぶしぶその通りにしました。

ところが、実は、この2人を父親のところへ遣わしたのは、イワンを含めたこの3人兄弟の間に諍いを起こさせようとかねてより狙っていた悪魔の仕業でした。悪魔は、何もいざこざが起こらなかったのに驚きましたが、同時に腹を立て、さらに子分の3匹の小悪魔を使って、3人の兄弟にちょっかいを出させようとします。

3人はそれぞれの兄弟のところへ行き、その一人は長兄のセミョーンに憑りつきます。彼は、軍隊では権力欲の権化でしたが、この小悪魔に囁かれた末に無理な戦争を他国にしかけ、さんざんに負けて、失職してしまいます。

また金銭欲の象徴のようなタラースに憑りついた小悪魔は、その金を散在させ、父からもらった金も使い果たさせたため、ついにセミョーンは一文無しになってしまいました。

ところが、残った弟のバカのイワンに憑りついた悪魔は、いくら彼を痛めてつけても屈服ささせることができず、逆に兄たちのところから凱旋してきていた他の2人の小悪魔と一緒にいるところをイワンに見つかり、捕まえられてしまいました。

小悪魔たちはイワンに助けて欲しいと懇願したので、イワンは可愛そうに思って彼等の頼みを聞いてやることにしました。このとき小悪魔の一人が、助けてくれたお礼にと、一振りすると兵隊がいくらでも出る魔法の穂をイワンに与えました。

他の小悪魔のひとりも、それならと、揉むと金貨がいくらでも出る魔法の葉をイワンに差出し、またもうひとりは、どんな病気にも効く木の根をイワンに手渡しました。イワンが小悪魔を逃がしてやるとき、「イエス様がお前たちにもお恵みをくださるように」と言ったので、それ以来、小悪魔は地中深く入り、二度と出てこなくなりました。

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ところが、正直者のイワンは手に入れた宝で、戦争をしたり贅沢をしたりするようなことはけっしてしませんでした。魔法の穂で取りだした兵隊には、踊らせたり唄わせたりして楽しませ、魔法の葉っぱで出てきた金貨は近所の女性や子供に与えてしまいます。

ちょうどそのころ、地位を失い、無一文になった兄たち2人がイワンの所に戻ってきました。イワンはこれを喜び、彼等を養ってやるようになりました。彼等は結婚した嫁をも伴ってイワンのところに来ていましたが、次第にこの兄嫁たちには「こんな百姓家には住めない」とわがままを言いはじめます。

このため、イワンは兄たちの住む小屋を造ってやりましたが、その家づくりに兵隊たちを使い、材料の調達に大量の金貨を使いました。2人の兄はこれをみて仰天するとともに、たちまち生来の悪性を表に出します。「この兵隊と金があれば今までの失敗を取り戻せる」と考え、イワンにその兵隊と金を少し融通してくれないか、と頼みました。

バカのイワンは、この兄たちの要求も容れ、兵隊や金貨を渡してやりましたが、兄たちはそれを元手にして、やがて別の国へ行き、それぞれがその国で王様になりました。

そのころ、イワンの住んでいた国では、王女が難病になったとのうわさが流れてきました。イワンは早速、小悪魔からもらった木の根を持ってお城まで行き、王女の元で木の根を一振りするとたちまち王女は元気になりました。

喜んだ王様はイワンに王女の婿になってくれるように頼みます。やがて王様が死ぬと、イワンがこの国の王様になりました。しかし「体を動かさないのは性に合わない」イワンは、以前と同じように、領民とともに畑仕事をする、という気さくな王様でした。

一方、イワンのお妃になったかつての王女は、この夫をとても尊敬しまた愛していました。このため、イワンの妹の啞のマルタに畑仕事を教えてもらって夫を手伝うようになりました。こうしてイワンの王国では「働いて手にタコができた者だけが、食べる権利がある。手にタコのないものは、その余りを食べよ」が不文律となっていきました。

ところが、ある日のこと、3人の小悪魔を遣わして返り討ちにされた大悪魔が再び立ちあがります。彼は、人間に化けてそれぞれの兄弟たちの王国に行き、まずセミョーンの造った国では、将軍に化けてその前に姿を現しました。セミョーンはこの軍人に化けた悪魔に騙され、再び他国と戦争をするようになりました。

が、ことごとく破れ、国を追われてまたもとのような一文無しになりました。悪魔はさらにタラースの国へ行き、ここでは商人に化けて彼の前に現れました。このタラースもまた悪魔にそそのかされ、価値のない商品に大量の投資をさせられ、押し寄せた借金取りに財産を巻き上げられて、彼もまた再び無一文になりました。

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最後に大悪魔はイワンの国へ向かいます。ここでも、セミョーンを破滅させた時と同じように、将軍に化け、イワンに対して、このままでは兄の国のようになる、軍隊を持ってはどうか、と仕向けます。

が、イワンもさることながら、この国の人々はみんな馬鹿で、ただ働くだけが生きがいなため、こうした悪魔の讒言にも騙されません。これをみた悪魔は、今度はセミョーンの時と同じように商人に化け、イワンの国中に金貨をばらまきました。

ところが、イワンの国ではみんな衣食住は満ち足りており、金を見ても誰も欲しがりません。このため悪魔はほかにもあれこれ手を尽してイワンとこの国の領民を垂らしこもうとしますが、ことごとく失敗し、いつのまにやら長い年月が経ちました。

イワンの国においては、金で家を建てる民はおらず、みんながお互いに助け合って家を建てることがきまりだったため、悪魔は自分で持っていた金で家を買うことができません。また、食べ物も物々交換だったため、残り物しか食べられず、さしもの悪魔もだんだんと困窮して行きました。

しまいに悪魔は「手で働くより、頭を使って働けば楽をして儲けることができる」と王や人民に演説しはじめましたが、誰もこの悪魔の言葉の意味を理解しませんでした。

来る日来る日も悪魔はイワンの国のあちこちの辻に立ち、演説を繰り返していましたが、ある日のこと、その声が響き渡るようにと高い櫓(やぐら)の上で、頭で働くことの意義を演説していました。

しかし、いつものように聴衆は集まらず、朝から始めた演説は夕方まで続きました。そしてやがてさすがの悪魔も声が枯れ、力尽きていきました。彼は梯子を降りはじめ、その際、自虐的に「なんでだ、何でだ~」を繰り返しながら、自分の頭を梯子の段に叩きつけながら地上に降りて行きました。

が、あまりにも頭を打ちつけ過ぎたので脳震盪を起こし、頭からまっさかさまに地上に落ちてしまいました。

バカのイワン王はお城の高台からこれを見ていましたが、「はてさて頭で働くとは、このことか。こりゃーあの頭にはタコよりもさぞかし大きな瘤ができているだろう、どんないい仕事をしたか、ひとつ、見てきてやろう」と城を出て、悪魔の梯子の下へやってきました。

しかしそこには、大きな地割れがあるだけであり、地が裂けて出きたその大きな穴の中に悪魔は吸い込まれていってしまったようでした。

こうしてバカのイワン王と彼が統治するバカの国は、その後も永遠に幸せな国として続いていきました……とさ。

ちなみに、この悪魔がイワンの国にやってくる前に、別の国へ行き、この国でも同じように頭を使うようにこの国の住民に呼びかけました。ところが、この国の人々はイワンのバカの国とは異なり、これを受け入れ、頭だけを使ってお金を儲けようとしました。

しかもそれまでの法律を変えて他国と戦争ができるようにしましたが、やはり悪魔の目論見どおり戦争に敗れ、バブルもはじけて益を失い、歴史の中から消えていきました。

その国が、はたしてニッポンと呼ばれていたのかどうか、それは今となってはよくわかりません。

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シバとソロモン

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私は、子供のころから音楽の分野ではまるで才能がなく、学校の音楽の時間で何かを演奏するにしても覚えが悪く、楽器というものが大の苦手でした。

観賞するほうにおいても積極的に音楽を聴く、ということはあまり好まず、とくに重厚なクラッシック、あるいは洋モノ、とくに派手なロック、といった類のものはからっきしダメで、同じ年頃の友人たちがそういうものにはまり込んでいるのを見ても、何が面白いのだろう、といつも思っていました。

強いていえば、その当時フォークソングと言われていたようなポピュラーミュージックを勉強の合間に聴くぐらいで、あとはBGMとしてイージー・リスニングといわれるようなものをたしなむくらいだったでしょうか。

このイージー・リスニングとは、くつろいで楽しめる軽音楽の意味で、ムード音楽ともいえる分野ですが、今も続くラジオ番組、JET STREAMは当時もその代名詞ともいえるようなものでした。

深夜の時間帯に穏やかで美しい曲を流し、世界各地をロマンチックなナレーションで紹介するこの番組の一番最初のパーソナリティは、城達也さんという人でした。1967年7月に始まったこの番組を27年間も続け、この間7387回もこの番組を司会しています。

1994年2月に食道癌に罹っていることが発覚した後も治療のかたわらこの番組に登場し続けましたが、「自分の納得できる声が出せない」と同年12月30日の放送を最後にパーソナリティを降板。それから数か月を待たず、翌年2月25日に亡くなりました。わずか63歳であり、あの渋い声がもう聞けないのかと、大変残念です。

「JET STREAM」のナレーターをするにあたり、機長の役に入り込むために、必ず、スーツを着てスタジオの照明を暗くして臨んでいたといいますが、これは航空会社における定期運送用操縦士の制服はダブルのスーツスタイルであったこと、また夜間飛行の際には、旅客機のコックピットは当然真っ暗であったためです。

こうした機長としてのイメージを壊されないようにテレビ出演は一切断り続けるなど、仕事に対して大変真摯なプロ意識を持っていた方だったようです。

この「JET STREAM」でこの当時よく流れていたのが、ポールモーリアや、レイモン・ルフェーヴルといった指揮者によるグランド・オーケストラの曲です。とりわけ私はルフェーヴルが好きで、音楽をあまりたしなまない私としてはめずらしく、LPまで買い込んでよく聞いていました。

ポール・モーリアの「ラブ・サウンドの王様」に対して、「ラブ・サウンドのシャルマン」と呼ばれていたようで、シャルマンとはフランス語で「魅力的」という意味ですが、ここでの意味は「高級なラブ・サウンド」ということだったでしょう。

とくにバイオリンなどの高音が印象的なオーケストラですが、ルフェーヴル自身はピアニスト出身で、パリ音楽院を卒業後、フランク・プゥルセル楽団でプロピアニストとしての経験を積みました。

1956年に「ミス・エジプト」に選ばれたほどの美貌を持つ美人歌手の「ダリダ」のデビュー曲「バンビーノ」の編曲と伴奏指揮を担当。これが、レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラとしてのスタートでした。

その後、1958年に「雨の降る日」、1968年の「ばら色の心」「ラ・ラ・ラ」などが相次いで全米ヒットチャートにランクインし、注目を集めました。

映画音楽も手がけ、サウンドトラック盤を数多く発表していますが、日本では1969年にシングル・カットされた「シバの女王」がロングヒットとなったことから知名度が一気に上昇、ポール・モーリア、フランク・プゥルセル、カラベリとともにイージー・リスニング全盛期を迎える立役者の一人となりました。

1972年に初来日して以降、日本公演は11度に亘って開催され、その間の7公演でライヴ・アルバムが制作されていますが、私が10代のころに聞いたのはそのうちのどれか複数でしょう。

引退するまで約650曲を録音したと言われており、中でも、クラシックの曲をイージー・リスニング風にアレンジした「ポップ・クラシカル・シリーズ」は、彼の十八番といわれました。

さすがにもう亡くなっているだろうな、と思いましたが、調べてみるとやはり2008年6月27日、パリ郊外で肝機能不全により半年強の入院生活を経て亡くなられています。こちらは78歳でした。

私も彼の曲の中ではとく「シバの女王」が好きでしたが、この楽団のオリジナル曲なのかなと思ったら、もとはフランスのシンガーソングライター、ミッシェル・ローランという人が創ったシャンソン曲だったようです。

日本でのこの曲の人気は無論、このルフェーヴル楽団がつくったものですが、その人気上昇のためにラジオが果たした役割は大きく、とくにTBSラジオの深夜番組「白石冬美・野沢那智のパック・イン・ミュージック」で長くエンディングテーマとして使用されたことも多くの人に親しまれた要因でしょう。

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この曲のタイトルにもある、「シバの女王」というのは、実在の人物だったようです。その昔、といっても紀元前1000年前にも遡る時代に、アラビア半島南部に存在していた国家があったとされ、シバの女王はこの国の支配者でした。

どんな人物であったのかについてはほとんど記録がないようですが、ただ、ヘブライの神話として残されたものの中には、エルサレムのソロモン王とシバの女王からネブカドネザルという王子が生まれた、という記述が出てくるそうです。

エルサレムというのは、ご存知のとおり現在のイスラエルの首都とされる街です。が、イスラエルは同国の首都と主張しているものの、国際連合を初めとして多くの国家はこれを認めていません。

大戦後に、ここに住んでいたパレスチナ人などを排除し、アメリカの肝いりで建国されたイスラエルでは、その後組織された議会により、一方的にエルサレムはイスラエルの永遠の首都であるとしました。

1980年に国連総会はこのイスラエルによる東エルサレムの占領を非難し、その決定の無効を143対1で決議(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など)しましたが、今に至るまで、イスラエルはエルサレムが首都と宣言していながら、現在も多くの国は認めていないのはこのためです。現在もエルサレムに置かれている大使館・領事館はひとつもありません。

このイスラエルにおいては、古代にイスラエル王国という国があり、この国を治めていた王ダビデは家臣ウリヤの妻バト・シェバと不義の関係を結び、2人目の子として生まれたのがのちのソロモン王です。彼は父の死後、兄など他の王位継承を狙う者たちを打倒して王となりました。

ソロモンはエジプトのファラオの娘をめとり、エルサレムの北西約10kmに位置するギブオンという町で神に対して盛大なささげものをしましたが、ここでその神がソロモンの夢枕に立ち、「何でも願うものを与えよう」というと、ソロモンはそこで「知恵」を求めたといいます。

神はこれを喜び、多くのものを与えることを約束したといい、これ以後、ソロモンは知恵者として名を馳せるようになりました。ソロモンといえば「知恵」を示す代名詞ともいわれるほどその名は広く知られるようになりましたが、その知識を用いて国を隆盛させるとともにその名に恥じぬほどの善政を行いました。

ソロモンが子供のことで争う2人の女の一件で賢明な判断を示した逸話は広く世界に伝わり、この話はのちに日本にも伝わり、江戸時代には、いわゆる「大岡裁き」の話などにも取り込まれました。

この話はご存知の方も多いでしょう。ある時、町奉行である大岡越前の守のところに、ふたりの女がひとりの子を連れてやってきて仲裁を願い出た、という話です。二人の女は互いに「自分こそこの子の本当の母親だ」といって引かないのをみた越前守は、二人にその子の腕をそれぞれ持たせ、引き合うように命じます。

「力いっぱい引き合って勝ったほうを実母とする」という越前守の言葉に従って、女たちは子供の腕をおもいきり引っぱりはじめましたが、子供が痛がって泣くので、一方の女が思わず手を放しました。

勝った女は喜んで子を連れてゆこうとしますが、そこで越前守は「待て。その子は手を放した女のものである」と言います。勝った女は納得できず、「なぜでございます。勝った者の子だとおっしゃられたではありませぬか」とはげしく抗議しました。

これに対して、越前守は、「本当の母親なら子を思うものである。痛がって泣いているものをなおも引く者がなぜ母親であろうか」。

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とまあこういう話なのですが、この話の大元はソロモン王がその昔に行った行為をパクッたものだ、というわけです。

が、実際のソロモン王がそんな民間人の裁判までやっていたとは思えず、おそらくこの話は後年の創作でしょう。実際にはもっと王様らしい政治的なことをやっていたわけで、例えば外国との交易を広げて国の経済を発展させ、統治システムとしての官僚制度を確立して国内制度の整備を行いました。

このほか、外国との貿易のための隊商路を整備のため要塞化された補給基地を建て、大規模な土木工事をもって国内各地の都市も強化しました。さらに軍事面ならびに外交面では、近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ねて自国を強国に育てあげました。

その結果、イスラエル王国の領土はユーフラテス川からガザにまでおよび、誰もが安心して暮らすことができるようになり、この時点でソロモンは初めてエルサレム神殿を築きました。

やがてソロモンの知恵の深さと浩瀚な知識は周辺諸国にも知られるようになり、親交を求めて来朝する王や使者が絶えなかったといい、レバノンの南西部、地中海に面する国、ツロの王とは深い親交を結び、またアフリカのエチオピアの女王なども、ソロモンの英知を試すため、わざわざみずからやってきたといいます。



このように、ソロモンの長い統治は経済的繁栄と国際的名声をもたらしましたが、彼の野心的な事業を遂行するためには資金が必要です。このため重税と賦役を民衆に課すようになり、またソロモンが自分の出身部族であるユダ族を優遇したことなどから、その後、ソロモン王の支持者と反支持者の対立が拡大していきました。

やがてソロモン王も老いていきましたがその晩年、民衆への負担が激増していく中で享楽に耽ったため財政が悪化。さらにユダヤ教以外の信仰を黙認したことなでユダヤ教徒と他の宗教信者との宗教的対立を誘発し、そうした中でソロモン王は没しました。

死後、ソロモンの政策は王国に内在していた矛盾を増幅させ、それがこの王の死とともに一気に噴出して、イスラエルは南北に分裂、対立していくことになります。

その後もこの地域一帯は分裂や併合が相次ぎ、次々といろんな国ができては消え、対立しては血を流して現在に至るわけですが、その歴史は極めて複雑で日本人には理解しがたく、無論ひとことで語ることはできません。が、その源流はこのソロモン王が統治した、古代イスラエル王国にあることだけは間違いなさそうです。

このソロモン王とシバの女王の出会いは、女王自らがソロモン国を訪問したときとされます。ソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するためにわざわざ遠方からソロモン王の元を訪れたとされ、その来訪時には大勢の随員を伴い、大量の財宝を寄贈したとされます。

新約聖書にもこれに関する記述があり、ここには「地の果て」からやって来た南の女王(Queen of the South)という表現がみられるそうです。

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このシバ国がどこにあったのかについては、上述のようにアラビア半島南部のイエメンあたりであったとする説以外に、アフリカのエチオピアという説もあるようです。が、両説ともこれを裏付ける考古学的発見は未だ皆無だといい、謎の多い王国です。

ただ、ソロモン王との間に子をなしたことがわかっていることから、シバの女王による統治期間はソロモン王とほぼ同時期の紀元前10世紀頃と推定されています。

この二人の話からすぐに連想されるのは、後年のエジプト女王、クレオパトラとローマの独裁官カエサルとのラブロマンスです。

この二人もよく歴史上の奇蹟としてよく引き合いに出されるわけですが、シバの女王とソロモン王のロマンスもまた謎に満ちており、それだけに逆に想像力を掻き立てるのか、何度も小説や絵画などの芸術作品に取り上げられています。

映画化もされており、最近では、1995年の”Solomon & Sheba”などがあり、これは日本では、「クイーン・オブ・エジプト」という名前で公開されたものです。この映画でのシバの女王役は、2002年公開の「007 ダイ・アナザー・デイ」でボンドガールを務めたハル・ベリーでした。

1959年にも”Solomon and Sheba”、というアメリカ映画が創られており、これは「ソロモンとシバの女王」という邦題で、ソロモン王役はユル・ブリンナーだったそうです。シバ女王役は、ジーナ・ロロブリジーダという人で、あまり日本には馴染のない女優さんですが、イタリア人です。

1947年にミス・イタリアの3位に入賞したことをきっかけに芸能界入りし、ハリウッドデビューし、世界的な人気を博したといい、来日もしています。が、知っている人がいるとするとかなりの年配の方でしょう。ユル・ブリンナーすら知らない世代が増えています。

このほか、音楽でもやはりこのシバの女王をイメージして作られたものも多く、前述のミシェル・ローランのシャンソンのほか、古くは、バロック期を代表する作曲家の一人である、ヘンデル(ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル)が作曲した者の仲にも、「ソロモン」というものがあり、この中に「シバの女王の入城」というフレーズがあります(1749年発表)。

このほか、ユダヤ人作曲家のゴルドマルク・カーロイが作曲した歌劇「サバの女王」は名作と言われ、1875年にウィーンで初演されると好評を博し、1938年までウィーン国立歌劇場のレパートリーに残り続けたといいます。

また、バレエ音楽にもイタリア人作曲家のオットリーノ・レスピーギの「シバの女王ベルキス(1930-31年)」というのがあり、女子フィギュアスケートシングルにおいて、アメリカのキミー・マイズナー選手がこの曲をフリープログラムで使って演技しました。

マイズナーは2005-2006年のシーズンに行われたトリノオリンピックではこの曲で6位入賞しており、翌月開催された世界選手権では優勝を果たしています。

しかし、おそらく日本人にとって一番馴染が深いのはやはり冒頭で述べたレーモン・ルフェーブルの、「シバの女王」でしょう。そのシングルは発売と同時に、オリコンシングルチャートに110週に渡って100位以内にランクイン、同期間のみで約32万枚を越えるレコードセールスを記録したといいます。

最近、この曲をむしょうに聞きたくなり、You Tubeなどで探して聴いているのですが、その優雅で哀しげな曲に浸っていると、きらびやかな衣装をまとったシバの女王がソロモン王のところを訪れ、金や宝石などを献上しながら、拝謁する様子などが目に浮かんでくるようです。

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白乳香などの香料なども献上していたという記録もあるようです。この「乳香」というのは、樹木から分泌される樹脂のことで、この樹木は、「ボスウェリア」といいます。オマーンなどの南アラビア、ソマリアなどの東アフリカ、インドなどにしか自生していません。

その樹皮に傷をつけると樹脂が分泌され、空気に触れると固化します。次々とその傷から出て乳白色~橙色の涙滴状の塊となったものを採集しますが、「乳香」の名は、その乳白色の色に由来します。

古くからこの樹脂の塊を焚いて香とし、または香水などに使用する香料の原料として利用してきており、香以外にも中医薬・漢方薬としても用いられ、鎮痛、止血、筋肉の攣縮攣急の緩和といった効能があるとされます。

乳香は紀元前40世紀にはエジプトの墳墓から埋葬品として発掘されているため、このころにはすでに焚いて香として利用されていたと推定されています。古代エジプトでは神に捧げるための神聖な香として用いられていたといい、聖書にも神に捧げる香の調合に乳香の記述が見られるそうです。

日本にも10世紀にはシルクロードを通じて伝来しており、キリスト教の一派である日本ハリストス正教会などでは、古代からの慣習として香炉で乳香を頻繁に焚くことが行われており、これを神様への奉仕としているようです。

16世紀に入ってからは、水蒸気を当てて蒸留して精油が得られるようになり、これは食品や飲料に香料として添加されているほか、香水にも利用され、シトラス系、インセンス様、オリエンタル系、フローラル系など、様々な香水に使われています。

ただ、一般に高価であり、これはボスウェリアは栽培して増やすことが困難なためです。このため、これらを産する地域では特産品となり、かつては同じ重さの金と取引されたこともあります。現在では、その中でもとくにオマーンのものが良質とされ、その商業的な生産は主にこの地域で行われているようです。

シバの女王の時代から使用されていたとすると、乳香は数千年にわたり利用されてきたことになります。香として利用した際の芳香成分には、リラクセーションや瞑想に効果的なものが含まれているとされ、樹脂を燃やした香りを嗅ぐとリラックス効果も得られるそうです。

一方では精油には強い刺激作用があって、その香りには興奮作用もあるといい、麻薬ほどは強い効果はないにしても、ある種の軽い幻覚作用もあるのかもしれません。

古代のシバの女王やソロモン王もこれを嗅ぎながら、ゆったりと二人の間に流れる時間を過ごしたのかも、と考えるとなおさらロマンチックな感じがします。

何かとせちがない現代においても、こうした乳香のような良い香りを嗅ぎながら深い瞑想に入る、というのは忙しく日々を送る人々にとっては必要なことなのかもしれません。

キリスト教の伝統においては、特に修道院の修道士らの日課には瞑想を行う時間が設けられていることが多いといい、信者にとって、俗世から離れたうえで、神への祈りを絶やさず瞑想に励む修道士は、1つの理想、憧れの姿でもあるそうです。

日本のカトリック教会では、修道院などにおいて書籍も何もない場所でじっくりと神に関して思いを馳せて祈りを捧げる「霊の体操」のようなものが行われているといい、これをその名も「霊操」と呼ぶそうです。

「体操」で身体を鍛えるように「霊操」は霊魂を鍛えることを目的とし、修業の到達点においては神と深い人格的交わりを持つことすら可能になるといい、そこで神の御意志を見出すことができるともいいます。

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ちなみに、神といえば、仏教の源教ともいわれる、ヒンドゥー教には、シバの女王ともよく混同される「シヴァ神」というものがあります。世界の寿命が尽きた時、世界を破壊して次の世界創造に備える役目をするという、「破壊神」です。創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌとともに、ヒンドゥー教における3最高神の一柱です。

このシヴァ神の最初の妻は、サティーといいましたが、病いで亡くなり、これを嘆き悲しんだシヴァは、彼女の体を抱き上げて都市を破壊しながら世界を放浪したといいます。それを見かねたヴィシュヌ神がチャクラでサティーの死骸を切り刻み、シヴァを正気に戻しました。

そのとき、世界にサティーの肉片が飛び散り、落ちた地がシヴァの聖地となり、肉片はそれぞれ「シヴァの妃」としてよみがえったとされます。このシヴァとシバは音が同じであり、これが「シバの女王」とも重なるのが、この二つが混同される理由でしょう。が、実は全く別の話です。

こうしたヒンドゥー教の神やその祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えており、その仏教においても古くから瞑想が行われています。仏教の始祖とされているブッダは、”悟った人”の意でもあり、この瞑想によって究極の智慧を得た人とされます。

あなたもときには今の仕事や家庭の喧騒を離れ、一人静かに香を焚いて瞑想にふけってはいかがでしょう。

その中に現れるやもしれぬシヴァ神に会えるかもしれず、はたまたシバの女王やソロモン王の霊とも交わることもできるかもしれません。

そろそろ冬が終り、穏やかな春がやってきますが、そんな早春の静かな夜のひととき、しばし彼等神の世界を垣間見る、というのはいかがでしょうか。

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ミツウロコの道

2015-9335先週末は、ひさびさに夫婦で東京に出て、夜から新宿で催された二人共通の高校時代の同窓会に出席してきました。

同窓生というのはいいもので、この年齢になるとそれぞれ所属する職場ではいっぱしの立場になっている人も多い中、そうした社会的な地位にはまったく気にせず忌憚ない話ができ、しかし気持ちはいつしか高校時代に戻っていて若い気分にもさせてくれ、齢を重ねたことを忘れさせてくれるのが不思議です。

延々と3時間ほどもそんなかんなでいろんな話をし、別れて宿に帰ったのは12時前。伊豆からのドライブに加えての大宴会に少々疲れてはいたものの、楽しかった一時期の余韻に浸りながら、ぐっすりとその夜は眠ることができました。

翌日は日曜日。天気はよくなかったものの、ざあざあ降りというほどでもなく、午後からは多少天気も回復しそう、ということなので、二人して鎌倉か横浜へでも出かけてみようか、という話になりました。

現在は伊豆の山奥に入り込んでいるので、そうした場所へ出かけるのはそうそうある機会でもなく、どちらにしようかと悩んだのですが、こんな天気の日にはしっとりとした雰囲気の鎌倉のほうがいいだろう、ということで、こちらを選びました。

行った先は、建長寺と円覚寺のふたつ。いずれもこの古都を代表する古刹です。場所的には北鎌倉にあり、建長寺のほうは、開基は鎌倉幕府第5代執権の北条時頼、円覚寺のほうは、第8代執権の北条時宗の創建ということで、いずれも北条氏ならびに鎌倉幕府とは切っても切り離せない縁のお寺です。

円覚寺のほうは、文永の役、すなわち元寇の際の戦没者の菩提を弔うために時頼が建てたものですが、その建設期間中、二度目の元寇である弘安の役も起き、このときの戦没者の慰霊も円覚寺の役目となりました。

建長寺のほうの落成はこれより25年ほど古い1253年で、当時の日本は、承久の乱を経て北条氏の権力基盤がようやく安定した時期でした。

この乱は、承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱で、この戦いに勝った鎌倉幕府は政治的に優勢となり、朝廷の権力は制限され、皇位継承などに影響力を持つようになりました。

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その後京都の中央政府の支配力は相対的に弱まり、鎌倉が事実上、日本の首府となっていったわけですが、北条時頼は熱心な仏教信者であり禅宗に深く帰依していたことから、そんな自分の事業の集大成としてこの寺を建てたようです。

この時頼という人は、このように宗教心に厚いだけでなく、生活面でも質素かつ堅実だったといい、執権権力を強化する一方で、御家人や民衆に対して善政を敷いた事で、今でも名君として高く評価されているようです

一般の市民からも受けがよかったようで、後年の江戸時代に流行った「鉢の木」という能などにも登場し、ここでは時頼が諸国を旅して民情視察を行なったというエピソードが物語られています。

元祖水戸黄門のような人だったわけですが、庶民だけでなく幕府内においてもその手腕の評価が高かった人で、二度の元寇の対応においてもその才能をいかんなく発揮しましたが、文永の役を教訓として博多湾岸に現代も残る石塁を構築するなどして国防強化に専念したことで高い評価を得ました。

とくに石塁や警固番役には、御家人のみならず寺社本所領などの非御家人にも兵や兵糧の調達を実施したため、鎌倉幕府の西国における実質的な支配権が拡大したほか、京都に置かれていた六波羅探題に対しても、御家人の処罰権を与てその機能を強化させるなど、鎌倉幕府の基礎地盤を形成した人としても知られています。

その後長らく続く執権北条氏の鎌倉幕府におけるしっかりとした橋頭堡をその施政時代に築いたわけですが、その北条氏も、14代の高時の代にはかなり力が落ち、元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して挙兵すると、もともと鎌倉幕府御家人の筆頭であった足利高氏(尊氏)に寝返られ、彼は六波羅探題を攻略。

関東では上野国のこれもまた鎌倉幕府の御家人だった新田義貞が挙兵し、新田軍が鎌倉へ侵攻すると、第14代執権の北条高時、第15代、16代執権の貞顕、守時ら北条一族や家臣らは自刃して果て、ここに鎌倉幕府は終焉を迎えました。

この建長寺と円覚寺というのは、その執権北条氏がパトロンとなって造営した鎌倉時代最大級のお寺であるわけですが、双方ともその権勢を世にみせつけるために造られただけに、寺のあちこちには、北条氏の家紋である、三鱗(ミツウロコ)があしらわれています。

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それは灯籠や寺内の仏具にしつらえてあったり、柱や梁などの建造物に刻まれていたりであるわけですが、この三鱗を北条氏の家紋に定めたのは、北条家の繁栄の元を創った北条時政です。

ご存知のとおり、源頼朝の妻の北条政子の実父です。頼朝が鎌倉幕府を開いたのち、鎌倉の西、およそ7kmに位置する江の島に参籠して、一族の繁栄を祈願しました。

この時、江ノ島弁財天に37日間祈り続けていたといい、そして祈りの終わりの日の夜明けのこと、その夢枕に赤袴の女性が現れて、「あなたの前世の徳で、あなたの子孫は日本の国主となります」と、お告げをすると二十丈(約60m)もある竜神に変身して海の中に去ったといいます。

実はこの龍は弁財天の化身だったといわれており、時政はこのときこの龍が残したという三つの鱗を大切に持ち帰り、以後、これを北条家の家紋にした、とされています。

この鱗紋は、その幾何学模様が魚やヘビの鱗の連なりに似ていることに由来するわけですが、ヘビというのは古来から神秘的な動物とされており、能においても白拍子が蛇に変化するシーンが出てくる、道成寺という舞台では、この蛇体の衣装に三角の鱗紋が取り入れられているそうです。

しかしこれ以外にはあまり一般的な紋とはいえず、北条氏以外にはほとんど使用されていません。大部分三つ鱗であるようですが、ほかにも一つ鱗や五つ、六つ、九つの鱗もあり、いずれも北条氏関連の氏族で使用されていたものです。

ただ、これらは正三角形のものや、縦長の三角であるのに対し、北条氏主流の鱗紋は、代々底辺が少し長い二等辺三角形であり、その微妙な差により、主流であるかないかががわかるそうです。

のちの戦国時代に伊豆から小田原、関東にかけての覇者となった、いわゆる後北条氏の北条早雲もまた、この正当派ミツウロコを継承しています。が、彼はこの北条一族とは何の縁もありません。この紋を用いることで自らをも北条氏と称し、この先代の北条氏の権力を継承したことを内外に示そうとしたわけです。

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実はこの日、建長寺と円覚寺の訪問のあと、時政がその鱗を授かったというその江の島にも出かけました。そして改めて確認したのですが、ここにもあちらこちらに、これでもかというほどこのミツウロコがあしらってある建造物があり、改めて鎌倉から江の島に至る一帯が北条氏のテリトリーだったことを実感しました。

江の島といえば、サザンオールスターズの歌に代表されるように「湘南」を代表するモダンな観光地、という印象がありますが、その歴史は古く、伝承によれば、西暦552年に海底より塊砂を噴き出し、21日で島ができたと伝えられています。

が無論、んなわけはなく、約20000年前、元々は陸続きであったものが次第に侵食されて島となったもので、大昔には、引き潮の時に「洲鼻(すばな)」と呼ばれる砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができたといいます。

砂嘴というのは、トンボロとも呼ばれるもので、岸から少し離れたところにある島の背後や同じような場所に人工構造物を置くと、その背後に砂が収斂して貯まる現象です。これを応用したものを「離岸堤」といい、テトラポッドのような異形ブロックを積みかさね、その背後に砂が貯まることを期待して、侵食対策に使う、といったことが行われます。

江の島はいわば自然にできた離岸堤というわけで、その背後にも砂が貯まりやすいわけですが、関東大震災のときにはこの地震で島全体が隆起し、これ以降はさらにこの砂の高さが高くなったといいます。

現在も島全域が聖域として扱われていますが、江の島を開基したのは役小角(えんのおずの)がといわれ、これは672年(白鳳元年)だったという記録があります。

役小角は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、修験道の開祖とされており、人々を言葉で惑わしていると讒言され、伊豆大島に流罪になったとき、夜になると海を渡って富士山に登っていたという伝承がある人物です。

実在の人物ですが、ほかにも多くの修験道の霊場を開き、それらを修行の地としたという伝承があり、ここ江の島もその一つというわけです。

が、これは少々後世に脚色された話のような気配があり、伝承といえば、弘法大師、空海も814年(弘仁5年)に、江の島にある「金窟」という岩屋に参拝し、現在もある岩屋本宮(現奥津宮)を創建したともいわれています。

江の島には、この島の西方にある「奥津宮(おくつみや)」のほか、中央の「中津宮(なかつみや)」、北方の「辺津宮(へつみや)」を加えて3つの大きな神社があり、これを総称して「江島大神」と呼ばれています。

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それぞれ、多紀理比賣命(タキリビメ)、市寸島比賣命(イチキシマヒメ)、田寸津比賣命(タギツヒメ)という女神さまを祀っており、タキリビメは、大国主命の娘さんで、「タキリ」とは海上の霧(きり)のことだそうです。

また、イチキシマヒメとタギツヒメは、いずれもアマテラスとスサノオの娘さんで、「イチキシマヒメ」の音からもわかるように、こちらは広島の厳島神社の祭神でもあります。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされています。

三人ともすべて厳島神社や江の島の祭神であるわけですが、これら三人の女神を単独で祀る神社は少なく、「三女神一柱」として祀られるのが通例で、江の島や厳島神社以外には、福岡の宗像神社などが有名です。

ただ、こうした祭神の位置付けは、明治になってからの神仏分離の際に改められたものであり、それ以前の江戸時代までは弁財天を祀っており、総称では江島弁天・江島明神と呼ばれていました。神社の名称も、岩屋本宮(現奥津宮)、上之宮(現中津宮)、下之宮(現辺津宮)という名称でした。

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弁財天はもとは「弁才天」と書きました。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名であり、日本に入って来た仏教においては、吉祥天その他の様々な日本的な神の一面を吸収した存在となりました。

元来インドの「河神」であることから、日本でも、水辺、島、池、泉など水に深い関係のある場所に祀られることが多く、江の島もその例外ではありません。ほかにも弁天島や弁天池と名付けられた場所が数多くありますが、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることが多くなり、財宝神として崇拝されるようになりました。

上述のイチキシマシメと同一視されることも多く、「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっています。

この江の島に弁財天を勧請したのは、853年(仁寿3年)の円仁(慈覚大師)ともいわれていますが、これもまた伝承の域を出ないようです。その後、1182年(寿永元年)に源頼朝の祈願により文覚という坊さんがこの弁才天を勧請したという記録が残っており、これが実質的な江の島神社の始まりと言えるでしょう。

その3年後の1185年(文治元年)には、頼朝はさらに現在の奥津宮に鳥居を奉納しており、そして、上述のとおり、この5年後の1190年(建久元年)には、北条時政もここに参籠して、このとき北条氏の「三鱗」の家紋と定めました。改めて私もこの三社に参り、そこここでこの北条氏の家紋があるのを確認したことは言うまでもありません。

実は、私自身はこれまでこの島に一度も上陸したことがありませんでした。仕事では、その対岸のいわゆる湘南海岸の侵食対策の計画や設計に携わり、おそらくは仕事では10回以上、プライベートでも少なくとも5回はこの地を訪ねているはずです。

しかし、たいていは時間に追われていて、対岸の藤沢市内での用が済むとその日のうちに東京に戻るというのが常であり、ついぞ島への上陸の機会に恵まれませんでした。

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今回は午前中から、建長寺、円覚寺と北条氏ゆかりの古刹を訪れ、そのあとの午後の時間がぽっかりと空いたためこの初訪問が実現したわけですが、初めてのこの島の探訪は正直言って驚きの連続でした。

そもそも、江の島神社というものが三位一体の神様であるということも知らず、またその祭神が我々が結婚式を挙げた厳島神社と同じ方々だということも知りませんでしたから、その一致にまず驚きました。

加えて驚いたのは、その観光客の多さです。日曜日の午後ということもあったのでしょうが、奥津宮に至るまでの参道は人または人で、ごった返しており、またここに連なる店の多さとその賑わいぶりにもまたびっくり。

年齢層はといえば、我々と同様の年配の方もそれなりに多いのですが、意外や意外、若い人のほうが多く、ここはもしかしたら原宿かいな、と思えるほどであり、事実竹下通りを意識したような若者向けの小店も数多く見受けられました。

外国人旅行者らしい人達も多く、一番多かったのはやはり中国人のようで、これが台湾語なのか本土中国の言葉なのかはわかりませんが、あちこちでその黄色い声が響き渡り、このほか韓国語は無論のこと、英語、フランス語も飛び交って、なにやらここは日本ではないような気分にもなりました。

さらに驚いたのは、所詮は小さな島に過ぎないと思っていたところが、意外に広く、しかもアップダウンの激しい地形であり、かなり足腰が鍛えられたことでした。

調べてみると、標高は60mほどに過ぎないようですが、周囲は4kmほどもあるとのことで、凝灰砂岩の上に関東ローム層が乗る地質であることから地盤はしっかりしており、建築物は立てやすい土地条件のようです。

1923年(大正12年)の関東大震災のときの隆起で海面上に姿を現した「海蝕台」が現在の江の島のベースであり、海蝕台というのは、いわば海底にあった岩棚が隆起したものであり、もとから凸凹していたわけです。

標高は60mしかないにもかかわらず、このために島内各所のアップダウンが激しいわけであり、その合間あいまに構造物を建てられる場所を選んで、神社そのほかが建てられ、さらには、昭和に入ってからここに住まう人が急増しました。

一時期は1,000人を超える人が住んでおり、ピークは1955年(昭和30年)の1372人だったそうですが、その後は急減し、現在は島全体で360人を超える程度だそうです。それにしてもこの狭い観光地に人が住んでいるのがまさに奇跡のようでもあります。

島内各所にある観光スポットを巡る通路の両側にはこれに貼りつくように古い民家が並び、窓や入口からはその生活の息遣いが聞こえるような近さです。

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1980年代頃から江の島では捨て猫が急増し、現在では至る所で多数の野良猫を見かけるようになったそうで、なるほど、あちこちでネコを見かけました。

猫好きな観光客や釣り人がエサを与えるなどしたため、ほとんどの猫は人を恐れず、島内の至る所で猫が無防備な姿でいます。猫好きの人間もよく訪れる「ネコの島」でもあるそうですが、たまたま我々が訪れたこの日は2月22日であり、ニャンニャンニャンで、ネコの日だったというのもご愛嬌です。

一部でこれらの野良猫を観光資源ととらえて新たな江の島名物とする動きがあるそうで、餌場を作り猫に餌を与えたりする一方で、野良猫に避妊手術を行うための募金活動を行ったり、全島に犬・猫を捨てないよう訴える看板を掲示するなど、これ以上野良猫が増えないような対策も並行的に進められているそうです。

ネコ以外では、島に当たって吹き上げる上昇気流に乗って旋回するトビの姿も目につきます。その昔はトビの餌になるのは多くは、江の島にある漁港などで発生する漁師の残した小魚でしたが、最近来客目当てに餌付けが進められ、これが名物にもなってきたそうです。

しかし、こうした人工的な餌に味を占めたトビは、弁当を広げる観光客を襲って、食べ物を横取りするようになったそうで、現在、被害が多発している場所には注意の看板が掲げられ、餌付けを名物にしていた飲食店でも、これを自粛しているといいます。

なぜか、リスも大量にいます。島内のあちこちに広がる照葉樹林帯では梢を渡るリスをあちこちで見かけますが、これは「タイワンリス」です。江の島にはそのむかし小動物園があり、ここに伊豆大島から連れてきた54匹のタイワンリスが飼育されていました。

ところが、台風で飼育小屋が壊れて逃げ出し、島内に拡がったようで、こちらも観光客寄せのために餌付けをする例も見られるようですが、小鳥の巣にいる雛や卵を食べたり、電線や電話線をかじるといった被害も出てきているといいます。

午前中に行った円覚寺でもリスを目撃しましたが、江の島だけでなく湘南海岸一帯のこの地域では最近このタイワンリスの繁殖がかなりの問題になりつつあるようです。

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このように、本来神様の島であるはずの江の島は、今や観光客、一般住民に加え、ネコ、トビそれに加えてリスまで闊歩するというなんだかよくわからん世界になっているわけですが、こうした喧騒を抜け、島の最南端まで出ると、そこには別天地が広がっています。

島の周囲、とくに南側と西側は切り立った海蝕崖に囲まれ、ことに波浪の力を強く受ける島の南部には関東大震災の際に海底から隆起した海蝕台の名残をそのまま見ることができ、これは「波蝕台」ともいいます。南西部にある海蝕崖の下部には断層線などの弱線に沿って波浪による侵食が進み、「海蝕洞」が見られる場所があり、「岩屋」と呼ばれています。

古来、金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞などさまざまな名で呼ばれており、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきたといい、富士山風穴をはじめ、関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説があるそうです。

江の島参詣の最終目的地と位置づけられ、多くの参詣者、観光客を引きつけてきましたが、1971年(昭和46年)に崩落事故が起き、以来立ち入り禁止措置がとられていました。その後藤沢市によって安全化改修され、1993年(平成5年)から第一岩屋と第二岩屋が有料の観光施設(入場料500円)として公開されています。

島の南西端の幅50mほどの隆起海食台は、通称「稚児ヶ淵」と呼ばれています。鎌倉にある相承院という寺の白菊という稚児と、建長寺の坊さんが相次いで身を投げたとする話に基づいて名付けられたといいますが、本当の話かどうかはわかりません。

大島、伊豆半島、富士山が一望でき、1979年(昭和54年)かながわ景勝50選の一つに選ばれており、磯釣りのスポットとしても知られています。

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この江の島は、地図などで全体的にみると、奥津宮のある南西部の一部が分離しているように見えます。これは波による侵食が著しく、海蝕洞が崩壊し、大きな谷状の地形となっているためです。南北から侵食が進んで島を分断するような地形となっており、このためこの谷の左右の地形を総称して「山二つ」と呼ばれています。

これより東部を「東山」、西部を「西山」と地元民は呼ぶようですが、この東山の一角には、「コッキング苑」という園地があり、この中央には、江の島展望灯台、通称「江の島シーキャンドル」があります。

その昔ここには「平和塔」という、旧灯台がありました。これは江ノ島鎌倉観光という観光会社が東京の二子玉川の読売遊園(後の二子玉川園)にあった落下傘塔を江の島植物園内に移築し、「読売平和塔」という展望台を兼ねた民間灯台を建設したものです。

戦時中は陸軍が落下傘練習塔として利用したもので、平和塔が展望灯台と呼ばれるようになった昭和30年代には、江ノ島大橋の開通に伴い自動車の乗り入れが可能になったことに加え、大島・熱海航路が開設されたことなどにより、行楽地として江の島の人気は急上昇し、この展望灯台も対岸から見る景観に欠かせぬ存在としてシンボル化されていきました。

私もこの古い灯台をなんとなく覚えているのですが、記憶があいまいなので、検索してみるとありましたありました。以下のようで、少しだけ現在ものよりは小さかったようです。

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これが2002年に取り壊され、江ノ島電鉄が翌年に完成させたのがシーキャンドルで、読売平和塔であった民間灯台という地位を引き継ぎ、現在も「観光用民間灯台」です。

民間灯台といっても、実際に船舶通航のための目標物として使われており、実効光度390,000カンデラ、単閃白色が毎10秒に1閃光で、23.0海里(46km)でまで届くといい、民間灯台としては国内最大級。建物の高さは59.8m(避雷針迄)、海面から120mもあります。

展望台からは遮られることのない360度の展望が楽しめ、気象条件が良ければ筑波山が見えるはずだといいますが、この日はあいにくの天気だったため、登塔しませんでした。

夕方になると、灯台の光だけでなく、発光ダイオード(LED)を用いたライトアップが行われており、これがシーキャンドルと呼ばれるゆえんです。時折ライブなどのイベント会場となるほか、この展望灯台の根元には藤沢市の郷土資料館があって、旧灯台の資料や江の島の古写真などが展示されているそうです。

ただ、上述の「コッキング苑」内に入らないと昇れないようでもあり(確認しませんでしたが有料?)、この日は夕方かなり遅くなっていたこともあり、今回の入園は断念しました。

このコッキング苑というのは、東山頂上部一帯にその昔あった旧江の島植物園をリニューアルし、上述のシーキャンドルの開業に合わせて2003年にオープンした藤沢市立の公園です。正式名称は「江の島サムエル・コッキング苑」といいます。

サムエル・コッキングというのは、1869年(明治2年)に来日し、横浜に住んだアイルランド人貿易商です。この地に別荘と庭園の造営を行い、ここで多くの熱帯植物を収集栽培しましたが、関東大震災の際この施設も破壊され、その後荒廃しました。

しかし、コッキングの収集した熱帯植物のいくつかは成長、繁殖を続け、現存するそうで、そのうち4種は藤沢市の天然記念物に指定されています。

このコッキングが創ったという温室は、その遺構が残っており、その跡地に作られた植物園の地下に埋め込まれたものが、2002年のリニューアル工事の際に再発見され、整備されました。

非公開ですが、時折公開されることもあるそうです。その遺構は3棟の温室の名残であるレンガ造りの基礎、西洋風の池の名残や、ボイラー室、貯炭庫、植物や暖房のために水を蓄えた貯水槽、温室と付属施設とを結ぶ地下通路などなどであり、ふだんは閉鎖されていますが、年に数回特別なイベントがあるときだけ公開され、内部を見学できるそうです。

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コッキングという人は、アイルランドに生まれましたが、幼いころ両親とともにオーストラリアに移住してここで育っており、27歳のとき貿易商を志し、明治2年に来日。2年後にコッキング商会を設立し、この年に流行したコレラの消毒薬として石炭酸を大量に輸入して大儲けしました。

来日して3年後に日本人女性と結婚しており、明治10年にこの江の島頂上部の土地500坪余をこの妻名義で購入し、別荘を建築しました。その別荘の向かいに所在していた江島神社の所有地を買い取り、庭園の造営を開始したわけですが、その後横浜でも石鹸工場を開設するなど手広い商売を続け、明治20年には、外国人居留地内に発電所まで開設しています。

明治39年頃、取引先の英国の銀行の倒産に伴って、事業縮小を余儀なくされますが、この庭園を手放したのはこのころのことでしょう。1914年(大正3年)横浜市平沼の自宅にて逝去。享年72歳。奇しくも亡くなったのはあさって、2月26日です。

来日の際、折からの低気圧の影響で嵐に襲われ、避難したこの江の島の相模湾に浮かぶ緑の美しさが印象深かったことが、後に江の島に別荘を構えるきっかけになったといい、そのころの江の島は今のようにまだ開発されておらず、光り輝いていたことでしょう。

そんな江の島を後にしてこの日は北条家の故郷、伊豆へ帰っていったわけですが、その帰路、湘南バイパスをクルマで走らせながら、かつて北条時政もまた江の島参りの際、この道を通っただろうか、とその時代に思いを馳せていました。

確認はしていないのですが、その時政の菩提寺であり墓もある、伊豆長岡の願成就院にもおそらくミツウロコはあるはずであり、もしかしたらこの地に点在する他の北条氏ゆかりの寺院にも同じものをみつけることができるかもしれません。

伊豆から江の島を通り、鎌倉に至る道を勝手ながらミツウロコの道、と呼ばせていただき、今後また機会あればこの道を辿ってみたいと思います。

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Steam スティーム!

2015-9098先週の2月12日、大阪~札幌間で運営されている、JRの寝台特急列車、トワイライトエクスプレスの最終列車の切符が発売されました。

しかし、午前10時の発売開始と同時にわずか数秒で上下とも完売したそうで、改めてこうした惜しまれつつも消えゆく昔ながらの鉄道車両に対しての根強い人気があることがわかります。

JR西日本は、昨年の5月にはすでに、この列車運転終了・廃止を予定していることをほのめかしており、いよいよそれが実現することになったわけですが、この廃止の理由としては、車両の老朽化などに加え、北海道新幹線開業時に青函トンネルの電圧が変更されることなどもあったようです。

この廃止とともに、並行在来線はJRから切り離され、第三セクター鉄道へ移管されることになっているそうで、その最終列車は3月12日運行される予定だといいます。約26年の歴史に幕を閉じることになり、多くの鉄道ファンに惜しまれての引退となるわけです

ただ、「トワイライトエクスプレス」の名称は、2017年春から営業運転を開始する豪華寝台列車「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」に受け継がれるといい、一昨年の10月に営業を開始して好評なJR九州の「ななつ星in九州」もそうですが、こうしたJRの在来線利用は今後はますます高級化の方向へシフトしていくのでしょう。

一方では、在来線といっても、こうした電気機関車で牽引される車両ではなく、レトロな蒸気機関車のような在来車両は、こうした高級化の波にはなかなか乗りにくいでしょう。昔ながらの古い蒸気機関車の運行は日本各地で行われていますが、商業利用のため再利用するとしてもあまりにも古すぎ、メインテナンスも大変なためです。

しかし、近年ではこうした古い蒸気機関車の産業遺産としての価値が見直されており、地元活性化のための観光資源としての活用が望めるため、そのニーズも高まっています。

こうした古い機関車などを昔と同様に現役で動かしながら保存することを「動態保存」といいますが、1976年(昭和51年)の大井川鉄道での保存運転より始まり、現在では全国でおよそ25台もの動態保存が行われているようです。

無論、常時運行は少なく、多くは休日や夏休みなどの人出が多い時に限っての限定運行のようです。とはいえ、実際に走らせることによって不具合もわかるわけであり、故障の原因となるパーツを交換することで、いつまでも現役を保って行こうとする試みでもあります。

ただ、最近はこうしたレトロな機関車の人気が出過ぎ、逆にこうした古いものが足りなくなるほどだといい、JR東日本などでは、日本各地の静態保存されている国鉄制式蒸気機関車の調査に2009年(平成21年)から乗り出しました。

これまでに3台のこうした蒸気機関車を復活させたといいますが、こうしたものが増えるということは逆に維持保守の手間が増え、さらに蒸気機関車を運転する事が可能な乗務員の更新育成など、課題も多くなってくるわけです。

さらには、燃料となる石炭も良質なものは枯渇状態にあってなかなか入手しずらいといい、このため大井川鉄道などでは、CO2排出抑制の観点からも含め、代替燃料による試験運転を実施するなど、燃料や環境に対する問題への取り組みも始まっているそうです。

古いものを維持していくというのはなかなか大変なことではあります。

この蒸気機関車というものですが、1802年に、イギリスのリチャード・トレビシックがマ高圧蒸機関を台車に載せたものを作ったものが世界初の蒸気機関車とされているようです。

その昔、私が小学生のころの社会科の教科書には、ジョージ・スチーブンソンが発明者と書いてありました。が、これは間違いであり、スチーブンソンが開発した蒸気機関車がかなり実用的であまりにも有名になったため、トレビシックの功績が忘れ去られていただけのことです。

スチーブンソンの蒸気機関車は、世界初の旅客鉄道ともされる実用機関車で、とくに最高時速46.6kmを誇った「ロケット号」は世界中で賞賛されました。

一方、歴史の陰に隠れたかのように忘れさられていたこのトレビシックという人は、鉱山技師の経験を活かし、最初に蒸気機関を用いた「蒸気自動車」の製作を始め、1801年には既に蒸気自動車を試作していました。

この年、人間が乗り込める蒸気自動車を公開し、これをパフィング・デヴィル号と名付け、同年のクリスマス・イヴに数名を乗り込ませて走らせることに成功しています。

その後も試験を続けましたが、3日後に道路にあった溝を通り過ぎた後で蒸気自動車が故障してしまいました。その原因はこの試作車の運転手が蒸気機関の火を消さずに自動車を放置したためでした。試験の途中、近くのパブで飲食している間にこの試験機の事を忘れ、このため内部の水が沸騰し、機関が過熱して壊れたのだといいます。

しかし、トレビシックはこれを重大な失敗とは考えず、運転手の過失によるものだと、サバサバとしていたといいます。こうした発明家には往々にして楽観的な人が多いものですが、この人もそうだったのでしょう。

こうしてトレビシックは、翌年の1802年には、自分で開発した高圧蒸気機関の特許を取得すべく、そのアイデアを証明するためで据置型機関を製作。仕事量を測定したところ、この蒸気機関は145psiという前例のないボイラー圧力を供し、毎分40回のピストン運動で動作したといいます。

これに気をよくした彼はさらに、この蒸気機関を載せた蒸気自動車を線路上を走行する「蒸気機関車」に改良しました。ただ、実際にこれを走らせて動かすことに成功したかどうかははっきりせず、ロンドンのサイエンス・ミュージアムにはその図面とトレビシックが友人に宛てた手紙が残っているだけだそうです。

この図面では、ボイラーから得られた動力を車輪に伝える装置などが石炭をくべる火室の扉の上にむき出しになっているなど、この車両の走行中に燃料をくべるのは非常に危険だったと見られ、記録には残っていないものの、実験は失敗に終わったのでは、という憶測もあるようです。

が、翌年の1803年には、こんどはよほど自信があったのか、「ロンドン蒸気車」と呼ばれるものをロンドンで公開しています。このことから、本来はこれが蒸気機関車の始祖とされるべきでしょうが、一応、その前年にも試作車があったと推定されることから、こちらが、人類史上初めて具現化された蒸気機関車とされるようになったようです。

このロンドン蒸気車は、ロンドンのホルボーンからパディントンまでを往復してみせ、報道関係などの注目を集めたといいます。が、しかし馬車に比べて乗り心地が悪く、燃料費が高くついたため、実用化はされませんでした。

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その後、10年の年月が流れ、この間、トレビシックも含めて複数の技術者の手によって蒸気機関車が製作されました。が、どの機関車も実用的であるとは言い難い物でした。

しかし、1814年、上述のジョージ・スチーブンソンが石炭輸送のための蒸気機関車を設計。プロイセンの軍人の名をとって「ブリュヘ号」名付け、同年7月に初走行に成功しました。

時速6.4kmで坂を上り30トンの石炭を運ぶことができたといい、世界初の輪縁付きの車輪を採用しており、輪縁付き車輪と線路の接触部分の摩擦によって走行するという後年のスタンダードを完成させました。

産業界は、この「ブリュヘ号」を見て馬の代わり以上に活用できると称賛し、結局この蒸気機関車は16台も製作しされました。全16台のうち、存在が特定されたものの多くは、実際に炭鉱鉄道で使われていたそうです。

このように、蒸気機関車の登場は、1800年代初頭です。が、上でも述べたとおり、トレシビックがこれに先立ち「蒸気自動車」を完成させています。

しかし、これに用いられた高圧蒸気機関を考えたのは必ずしもトレビシックが最初というわけではなく、スコットランドの技術者・発明家、ウィリアム・マードックは既に1784年から同様の蒸気機関を開発し、蒸気自動車の試作を試みていました。

1794年にはトレビシックに請われてその実験を見せており、これは1797年から1798年にかけてマードックはトレビシックの近所に住んでいた、という縁があったためのようです。従って、トレシビックの人類史上初の蒸気自動車の発明、という称号はむしろこのマードックに与えられるべきかもしません。

ただ、実際にはこのマードックもまた、はじめて蒸気自動車を発明した人物とはみなされていません。蒸気自動車が発明されたのは1769年とされ、その発明者とされるのはフランスの軍事技術者、ニコラ=ジョゼフ・キュニョーです。

キュニョーは蒸気機関のピストンの直線運動を連続的な回転運動に変換する仕組みを世界で初めてつくり、これを用いて、前輪駆動の三輪自動車を製作しました。その動機はというと、このころフランス軍を統率していた宰相ショワズールの命により、野戦時の大砲牽引をおこなっている馬と荷車に代わるものを開発するよう依頼されたことでした。

5トンの大砲を牽引するための重量運搬具を大砲を後部に積載したい、というのがその依頼内容であり、このため、車としての機能はすべて前方に置かれる設計となり、直接前輪を駆動させるためボイラーを含む蒸気エンジン部のすべての重量が前部にかかる構造となりました。

このため、操舵時は前輪と共にエンジン全体が首を振る構造となりました。当然、舵取りが難しく、しかもこの試作車は全長7メートルを超える大型トラックでした。5トンの荷を積載し大人4人が時速9kmほどで走行できたそうですが、15分ごとにボイラーへ給水する必要があり実際の移動速度は時速3.5km程となりました。

しかし、一応稼働が確認されたことから、試作車として2年で2台が製作されており、この2台が世界最初の自動車と認定されています。

「キュニョーの砲車」と呼ばれ、その2号車は現存する最古の自動車として保管展示されており見学が可能で、これは1770年の試運転中に事故で壊れ翌1771年に補修されたものと伝えられています。

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このように、蒸気自動車が発明されたのは、蒸気機関車や蒸気船よりも古いとされているわけですが、それではそもそも蒸気機関というものはいったいいつ発明されたのか、というところはどうしても気になってきます。

人類の歴史は火の扱いとともに始まったとされているわけで、その歴史はかなり古いのではないかと容易に想像できます。

案の定、文字として記録され残っているものとしては、紀元一世紀というかなり古い時代であり、古代アレクサンドリアの工学者・数学者であったヘロンが考案したさまざまな仕掛けの中に、「ヘロンの蒸気機関」と呼ばれるものが存在するようです。

ヘロンは、紀元10年~70年頃に生きていた人とされ、これは日本ではいつごろかといえば、実在していたかどうかも疑問視される垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代であり、古墳時代です。

アレキサンドリアは、現在もカイロに次ぐエジプト第2の都市ですが、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝の首都として発展し、一時は人口100万人を超えたともいわれ、そのため「世界の結び目」とも呼ばれた町です。

各地から詩人や学者たちが集まる学園都市でもあり、文学・歴史・地理学・数学・天文学・医学など世界中のあらゆる分野の書物を集め、70万冊の蔵書を誇りながらも歴史の闇に忽然と消えたアレクサンドリア図書館があったとされます。

ヘロンのほかにも「幾何学原論」で知られる数学者のエウクレイデスや、地球の大きさを正確にはかったアレクサンドリア図書館長エラトステネスのほか、かの有名な、アルキメデス、クラウディオス・プトレマイオスなどが活躍していました。

従って、蒸気機関があったとしても何ら不思議ではありません。記録に残っているものとしては、これこそが人類史上に蒸気機関が登場した最初のものであるとされています。

これは概念的には「蒸気タービン」に含まれるものです。ただ、ヘロンが創ったものは、蒸気で羽根車を回すというあまりにも原始的なものでした。記録に残っているものとしては、何のことはない、円筒の中に水を入れ、これを外部から加熱して、空けた穴から蒸気を噴出させ、その推力で円筒を回転させる、という簡単なものでした。

蒸気によって得られる圧力をまず往復運動に変換し、ついで回転運動の力学的エネルギーとして取り出す、といったより複雑な原動機、すなわち現代では「レシプロ式」と呼ばれるようなものでは無論ありません。

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人類がこのレシプロ式にたどり着くにはさらに1600年以上もの月日が流れました。ただ、いきなりレシプロにたどり着いたわけではなく、まずは「真空エンジン」というものが考案されました。

フランス生まれでのちに宗教的理由からイギリスに亡命した物理学者であるドニ・パパンは、1695年に、蒸気を使った最初の「エンジン」を試作しました。それまでも蒸気圧はうまく利用すれば動力として使えそう、ということはわかっていましたが、多くの科学者は技術的な理由でその開発に頓挫していました。

パパンもまた、上述のような蒸気タービン式の発想しか当初持っていませんでしたが、試行錯誤の上発想を転換し、蒸気が液化することによって気圧が減少するという現象を利用することを思いつきます。

蒸気は気体であり大きな体積を持ちますが、これを冷やして液体にすることで小さな体積になります。このとき大きな圧力変化が生まれるわけですが、これを真空の容器内で行えば、大きな動力を得ることができる、と考えたわけです。が、しかしパパンはその実験には成功したものの実用化はなされず貧窮のうちに死亡したと伝えられています。

しかし、そのわずか3年後の1698年、イギリスの陸軍大尉で発明家のトーマス・セイヴァリが、ドニ・パパンと同様の原理の真空エンジンの開発に成功し、これを「鉱夫の友」と呼びました。

なんじゃそれは、と批判を浴びそうなネーミングですが、セイヴァリはこれをこのころ始まりかけていた産業革命における要ともいえる鉱山開発にこの装置が使えると踏んだのでしょう。

のちには、「セイヴァリ機関」と呼ばれるこのエンジンの試作品は、国王の前での実験にも成功し、これによりセイヴァリは特許を取得しました。ただ、このシステムは負圧によって直接に揚水するもので、ピストンやシリンダなどは持たず、レシプロエンジンからは程遠いものでした。

しかし、ヘロンの時代から1600年以上という気の遠くなるほどの年月を経て、人類はようやく「エンジン」というものを手に入れたわけであり、それを考えるとパパンやセイヴァリの功績は非常に大といえるでしょう。

なお、セイヴァリが取得した特許は「火力によって揚水する装置」という実に広範かつアバウトなものでした。このため、後続の技術者は何をやってもこの特許に抵触するということとなり、セイヴァリに対しての多額の特許料の支払いを余儀なくされたと伝えられています。

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しかし、これから14年のちのセイヴァリの特許が切れたあとに、イギリスの発明家・企業家であるトーマス・ニューコメンは、1712年に、鉱山の排水用として同じ真空エンジンを使った蒸気機関の製作に成功しました。これが蒸気機関が実用化された第一号とされるもので、これはパパンやセイヴァリの蒸気機関をさらに発展させたものでした。

蒸気に冷水を吹き込んで冷やし、蒸気が水に戻るときに生じる負圧(真空減圧)でピストンを吸引する方式であり、この真空減圧方式エンジンは商用化されました。発明の動機としては、ニューコメンが住んでいた村の鉱山のわき水を汲み出す、自動の「つるべ井戸」を作りたかった、というものでした。

蒸気を造っては冷やす、といった工程を絶え間なく続ければ、常に地底から水をくみ上げることができる、というわけで、確かに実用的な装置でした。しかし、後年のレシプロエンジンのようにまだに往復運動を回転運動に変える、ということろにまでは至っておらず、また、運転速度は、毎分12サイクル程度であったといいます。

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しかし、ニューコメンはこれで商売的に大成功し、折からの産業革命の波にも乗って、1733年に特許が切れるまで、あちこちの炭鉱などで100機以上のこの「ニューコメン機関」が製作され、主として鉱山底に貯まる水の排水などに使われました。

18世紀に入り、イギリスには石炭が豊富に存在したことから、これを燃やすことで良質な鋼鉄が造られるようになり、19世紀に入ってからは、さらに工業機械や鉄道のためにさらなる鉄が必要となっていきました。

イギリスで作られた工業機械は、海外へ輸出され、ドイツなどの工業化をも進めることになりましたが、このためには石炭はいくらあっても足らず、その量産は経済成長のために必須であり、その生産増のためには、炭坑に溜まる地下水の処理が非常に重要だったわけです。

ただ、こうしてうまく排水が行われるようになっても、せっかく掘り出した石炭のうち実に1/3程度がこの揚水ポンプのために消費され、計算上、全体としての熱効率はわずか1%にも達しなかったといい、非常に効率の悪いエンジンでした。

その後も多くの技術者がこの熱効率の改良に取り組みましたが、なかなか良いアイデアは生み出されず、その後30年余りが経ちました。

そこへ現れたのが、スコットランドの数学者・エンジニアであるジェームズ・ワットでした。彼は、1769年に新方式の蒸気機関を開発しましたが、これはニューコメンの蒸気機関の効率の悪さに目をつけて改良したもので、復水器で蒸気を冷やすという機構を取り入れており、これによりシリンダーが高温に保たれることとなり効率が増しました。

さらに負圧だけでなく正圧の利用、往復運動から回転運動への変換、ピストの速度を調整する調速機なども導入し、動作の安定などの改良をも行いました。これが、すなわち今日までエンジンの主流となっている「レシプロエンジン」です。

レシプロエンジンとは、英語ではreciprocating engineと書き、これは日本語では往復動機関あるいはピストンエンジンとも呼びます。

往復だけでなく回転運動をも産みだすエンジンですが、おおまかな動作としては往復運動が主であるためにこう呼ばれます。なお、レシプロエンジン=内燃機関だと思っている人もいるようですが、これは間違いです。

内燃機関、外燃機関というのは、後述するように、エンジンを回すための燃焼機関が駆動機関の中にあるかないか、だけの区別でこう呼ばれるだけであり、蒸気機関のように外部に燃焼器があるエンジンでも、これらを動力として回転運動を得るものはすべてレシプロエンジンです。

また、同様に現在のガソリンエンジンのように、シリンダーの中で燃料を燃やして回転運動を得るものも同様にレシプロエンジンです。

さて、こうして用途の広がったワットの蒸気機関は、水力に頼らない工場の立地や交通機関への応用など、産業革命・工業化社会の原動力になるとともに、燃料である石炭を時代の主役に押し上げていきました。

それまでの炭鉱では馬が動力として利用されていました。しかし、ウマの餌代があるときから高騰したため、炭鉱経営者が馬に代わる動力として安価に入手出来る石炭をなんとか有効利用できないかと考えており、ちょうどそこに登場したのがワットの発明でした。

このため、このワットの新蒸気機関は多くの炭鉱主から引っ張りだことなりました。ワットは科学者でしたが、商才もあった人で、こうした「据置型」の蒸気機関はまだまだ高価であったころから、これを「設備リース」的な手法で売り出すことで顧客に安価にエンジンを提供できるとアピールし、これがまたその普及を推し進めました。

それまで存在しなかった「馬力」という単位・尺度もワットの考案でした。個々のエンジンの性能価値を算定するため、標準的な荷役馬の力も参考に、一定時間の仕事率を指標として作り出された重要な概念であり、その後、蒸気機関に限らずさまざまな動力の尺度に広く用いられることになりました。

こうして、今日の前段で語ってきたような、蒸気自動車が生まれ、また蒸気機関車が生まれ、更には蒸気船が生まれて産業革命は世界中に広がっていったわけです。ちなみに、蒸気船の実用化は、1807年のアメリカ人発明家、ロバート・フルトンが、ハドソン川で運行した蒸気船がはじめてのものだといわれます。

が、彼はこれに先立つ4年前の1803年に既に、船長31m、船幅2.4mで左右舷側に3.5mの直径の外輪を備える蒸気船をフランスのセーヌ川で試走させて成功させており、この船は時速2.9マイルで流れをさかのぼる能力を示したといいますから、これが世界初といえるかもしれません。

その後、蒸気船もまた、外輪船からプロペラ船へと発展し、欧米のみならず、日本人もその技術を受けてその技術力を大いに発展させるに至っており、19世紀後半までは世界は蒸気機関によって成り立っていた、といっても過言ではないでしょう。

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しかし、19世紀から20世紀にはいる頃からは、電気動力のほか、石油を使った「内燃機関」が発達をしはじめました。いわゆる「ガソリンエンジン」であり、正式には「内燃レシプロエンジン」と呼ばれるべきものです。上でも述べましたが、これは燃料を直接エンジン内部に注入し、ここで爆発炎上させて動力を得るため、「内燃機関」と呼ばれるわけです。

これに対して、蒸気機関は、ピストンやシリンダーなどのエンジンの中枢部は石炭などの燃焼させるボイラー、復水器などとは切り離されています。直線運動しか生み出せないものはそのままだと、上述の真空エンジンと同じですが、回転運動まで得られるものは「外燃レシプロエンジン」であるわけです。

内燃機関はこうした付帯設備をすべてひとつのパッケージの中にしまい込んだ形式であり、このためコンパクトにできるのが最大のメリットです。一方の、蒸気機関のような外燃機関では付帯設備が大きいため、対重量比での出力はどうしても低くなり、エネルギー効率が悪くなります。

しかも、起動・停止に手間がかかることなどが災いして、地位の低下を余儀なくされていった結果、とくに大型化にシビアな制限のある小型の移動機関、自動車については早期に内燃機関に移行し、蒸気自動車は姿を消していきました。

自動車ほど小型軽量化にシビアではない機関車は、20世紀中盤まで蒸気機関車が主役の座にあり続けましたが、それもその後減少を続け、冒頭でも述べたとおり、日本でも動態保存されているものが細々と残っているだけです。

ただ、蒸気機関の中でも最も原始的な蒸気タービンだけは今も生き残っています。大きさや起動・停止の手間などが問題にならない大型のシステムについては、それまでの蒸気式のレシプロエンジンからより原始的な蒸気タービンへの移行する、といったことが逆に行われており、とくにこれは「発電」の世界で顕著です。

蒸気タービンは、上でで述べたとおり、アレキサンドリアのヘロンの時代からある原始的な蒸気機関ですが、現代の蒸気タービンには、外部の熱源(ボイラー)により高温高圧となった蒸気がノズルから噴射されるというハイテクなものです。

この噴射蒸気は、圧力や温度が低下すると同時に速度がさらに増加しますが、これをさらに電子制御などで効率よく噴射させるようにし、この蒸気をタービンブレードに当てて軸を回転させ、発電機やポンプを駆動するものです。このタービンブレードそのものも空力学的、流体工学的な研究が進んでかなり効率の良い出力が得られるようになっています。

大規模な発電プラントではおもに蒸気タービンが用いられ、規模の小さいプラントや移動用施設ではディーゼルエンジンやガスタービンが使用されるという形で特性に応じた住み分けが生じており、さらに蒸気タービンの持つ外燃機関特有の熱源の多様性は、現在でも蒸気機関の最大のメリットとして有効です。

ご存知のとおり、原子力発電にも使われており、近年、家庭で捨てられる生ゴミやプラスチックゴミなどの廃棄物を利用した固形燃料である、RDF(ごみ固形燃料、Refuse Derived Fuel、RDF)などの開発が進み、こうした燃料を燃やして得られるエネルギーは蒸気タービンによって生み出されることが多いようです。

一方、船舶の分野でも、ほんの少し前までは(といっても19世紀のおわりころまでですが)、大型船舶用として、蒸気を使ったレシプロエンジンが結構使われていました。従来の蒸気レシプロエンジンは、石炭を使用でき、石油系資源に依存しないとう多様性があったためであり、内燃式のガソリンエンジンともある程度競合ができ、共存ができたためです。

さらに、20世紀に入ってからは旧来の蒸気タービンの改良・開発も進み、とくに民間の船舶に比べ高速・高出力を求められる軍艦においては、蒸気タービンの性能そのものが飛躍的に向上して効率がかなり良くなったことから、大型船舶では蒸気タービン、と言われた時代がありました。

が、その後、とくに戦後は内燃機関エンジンのほうも更に技術開発が進み、小型船舶から大型船舶までにも使われるようになっていきました。また石油ショックを契機に、ディーゼルエンジンの燃費効率が高くなったことから、民間船舶などではとくに蒸気タービンからディーゼルへの転換が進みました。

大型船舶用の蒸気タービンの能力もまた、この発達著しい内燃機関に劣るものではありませんでしたが、内燃機関を用いる船舶と統一性を図るために軽油しか用いられないことも多くなり、このため、本来いろいろな燃料が使える、という燃料面での多様性のメリットが失われるようになりました。

かつ軽油は蒸気タービン用としては揮発性の高さから爆発燃焼事故を招くなどの問題がありました。結果、次第に用いられなくなり、現在では蒸気タービンによる船舶は世界的にみてもかなりマイナーな存在となっています。

ただし原子力推進の軍艦や砕氷船においては、発電所と同じく蒸気タービンが唯一の選択肢として用いられています。その理由は複雑な仕組みを持つ蒸気レシプロよりも単純で故障も少なく安全であり、かつ出力が大きいことにほかなりません。

ただし、蒸気機関の原子力へ向けての利用については、日本に限って言えば先の東電事故をきっかけに非常に先細り傾向にあり、かつ、原子力船はひとつもない、ということはみなさんもご存知でしょう。

さて、今日の総括です。結論としては、大型の発電プラントやRDFのようなエネルギー利用の面においてのみ、蒸気機関は生き残っているというのが現状であり、これらのプラントも風力発電や太陽光発電などの自然エネルギー利用のプラントへとシフトして行っています。

全体的な印象としては既に蒸気機関の時代は終わりなのかな~、といった感じはやはり否めません。が、先達たちが残した産業遺産ということで、SLやその他多くの蒸気発電の遺物は残していってほしいと思います。

あるいは、遠い将来、月面開発や火星の開拓、といったことが実現するような時代には、こうしたレトロながらもシンプルで、大出力が得られる蒸気機関のようなものが大活躍する時代もくるかもしれません。が、それが実現するまで我々は生きていないでしょう。

以上、今日は蒸気機関という、非常にスタンダードな話題に挑んできたわけですが、私自身、意外に知らないことも多く、勉強になりました。みなさんはいかがだったでしょうか。

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そのクロネコ、ルナ

2015-4582先日、ペット保険を扱っている会社が、2月22日の「猫の日」に先駆け、毎年恒例の「猫の名前ランキング」を発表したといいます。

そして、男の子部門、女の子部門を合計したその結果、総合1位は12年から1位に君臨し続けている「ソラ」君だったそうです。

総合の2位と3位は、それぞれレオ、モモ、であり、男の子だけに限ると、1~3位は、レオ、ソラ、コタロウで、女の子はモモ、ルナ、ハナの順だそうです。

この女の子第2位の「ルナ」というのは、昨年は10位にすぎず、これが急上昇したわけは、作品20周年プロジェクトが行われ近年人気が再燃しているアニメ「美少女戦士セーラームーン」の影響ではないか、とこの保険会社は分析しているようです。

主人公・月野うさぎの飼い猫の名前が「ルナ」であるためのようですが、この「セーラームーン」とは、1990年代少女漫画の金字塔とも言われた作品です。

講談社の少女漫画雑誌に連載されると、同時期にアニメ化され、少女だけでなく大人の女性、さらには男性の間にまで広く人気を博し、単なる少女漫画・アニメの域を遥かに超えたブーム・社会現象となりました。

この作品によって、いわゆる「美少女戦士物」というジャンルが誕生するところとなり、普段アニメや漫画とは無縁の層の間にまで広く知られるようになるとともに、日本国内だけでなく、海外へ日本のアニメを広く知らしめる結果にもつながりました。

また、内外ともにこの美少女戦士のコスプレをして楽しむ若い女性も年々増えているようで、現在におけるコスプレブームの先駆けとも評されています。

これを最初に掲載した講談社の少女漫画雑誌とは、「なかよし」であり、こちらは1954年12月創刊の老舗雑誌であり、いまだに販売が続いています。

セーラームーン以外にも「キャンディ♥キャンディ」。「怪盗セイント・テール」、「カードキャプターさくら」といった夢見る少女たちを虜にするような数多くのヒット作が生み出され、この雑誌を読んで育った、という女性も多いのではないでしょうか。

2014年12月発売の2015年1月号で漫画雑誌初の創刊60周年を達成したため、講談社ではこれに先立つ昨年の8月6日に60周年記念ホームページを開設し、過去から現在に至る作品の情報や企画を展開しました。そして同じくこの年に20周年となった「美少女戦士セーラームーン」の記念プロジェクトも実施された、というわけです。

さらには「カードキャプターさくら」の新作グッズ展開や原画展の開催、10周年となった「プリキュアシリーズ」漫画版の単行本発行、過去の作品の単行本復刊人気投票など、様々な記念施策を展開しているそうで、往年の「なかよしファン」にとってはこうした動きは目が離せないのでしょう。

そんな中でセーラームーンの主人公が飼っていたネコの名前が急上昇してきたわけですが、劇中ではこのネコは額に三日月の模様を持ち、人間の言葉を話す不思議な黒猫、という設定になっています。

また、このルナの額にある三日月のことを主人公たちは、「三日月ハゲ」と呼んでからかうシーンが出てくるそうです。が、ルナ本人はこれをハゲではないと言い張り、これを絆創膏などで隠されると、体力が出ない・話せない・探知機能が鈍るなどの悪影響が出るそうです。

世にあまたいらっしゃる、頭の毛の薄い方も、恥ずかしいからとこれを隠そうとせず、堂々と出していただければ、より光輝けるのではないか、と思う次第です。私も超能力がもらえるなら、頭の一部に三日月ができてもいいかな、と思うくらいです。

このルナという名は、もともとローマ神話に登場する月の女神のことで、ラテン語ではLūnaと書き、本来、発音はルーナのほうが正しいようです。が、日本語では長母音を省略し、ルナ (Luna) と呼ぶことが多くなっています。

後にギリシア神話の「セレーネー」と同一視されるようになり、古代ギリシャでは月経と月との関連から 動植物の性生活・繁殖に影響力を持つとされました。また月が形を変えるように三つの顔を持ち、魔法の女神とも考えられるようにもなりました。

セーラームーンこと、月のうさぎが飼っているのが黒猫であるのも、ヨーロッパのおとぎ話や寓話には、黒猫がしばしば魔女の使い魔として登場することと関係があると思われ、原作者の武内直子さんがこれを知ってクロネコにしたのでしょう。

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使い「魔」というぐらいですから、欧米では、かつては不吉の象徴とする迷信があり、魔女狩りが行われた際にはそのあおりをくらって黒猫が殺されることがあったといいます。たとえばベルギーの北西部の町イーペルでは「猫の水曜日」に時計台から黒猫を投げ殺す行事を19世紀初頭まで行なっていたそうです。

このほか、イタリアでは今でも黒ニャンを嫌うことはなはだしいといい、黒猫というだけで年間6万匹もの猫が迷信を信じる市民によって殺害されており、動物愛護団体が署名を募ってこれを防止しようとしているそうです。

かつて行われていた魔女裁判でも、黒猫の飼い主は悪魔崇拝主義者または魔女の証拠とされ、ネコ自身も生まれながら邪悪とみられ、裁判において人間と共に罰せられ、焼き殺されたという哀しい歴史があります。

現在でもこうした欧米諸国では黒猫は不吉な動物とされる場合があり、黒猫をまたぐと不幸がおこる、十三日の金曜日に黒猫を見ると不幸がおこるという迷信が一部で語られています。

なぜそれほどまでに黒猫が疎まれるかといえば、ひとつはその毛並が黒であること。この黒は闇夜の色であり、そこには古来から魔が棲むとされてきました。また、黒猫はその色のゆえに暗闇では人の目に見えにくく、このため暗闇に隠れ留まる能力を持つとされたことも、魔女のパートナーにふさわしいと考えられたのでしょう。

ところが、ヨーロッパの多くの国でこのように黒猫が嫌われるその一方で、イギリスの一部の地域では、これは幸運の象徴ともされています。また、前述のベルギーのイーペルでは昔は公然とネコ殺しを行っていましたが、現在では3年に一度、「猫のパレード」と称するお祭りが開催されるそうです。

このパレードには黒猫装束の人が多数参加し、エンディングでは教会の塔の窓から黒猫のぬいぐるみが投げられるそうで、これをゲットすると幸運になるといわれているそうです。

さらには、近年では往年の魔女が復権し、市民権を得ている、という事情もあり、これとの関連で、黒猫は悪者ではない、とする人も多いようです。そして、この多くの現代の魔女は黒猫をペットとして、聖なるものと見なして飼っているといいます。

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この「現代の魔女」ですが、これは往々にして「ウィッカ」」と呼ばれることが多いようです。

20世紀半ばにして魔女禁止令がようやく廃止されたイギリスでは、かつての魔女狩りの際にも生き残った魔女による秘密の宗教集団があるそうです。

こうした集団のひとつに接触しその教えを伝授されたとするのが、「ジェラルド・ガードナー」という人物で、彼は魔女の宗教についての一連の著作を執筆するなどの活動を通じて、「魔女の宗教」を復活させようとしました。

かつての魔女の宗教に関する学説や儀式魔術の儀式様式などを取り入れて創作されたものとも言われているこの魔女宗教は、当初「ウイッチクラフト」と呼ばれていましたが、後にはウイッカと略して呼ばれるようになりました。

ウイッチクラフトとは、英語では”witchcraft”と書きます。魔女(witch)が施す技(craft)という意味の造語であり、魔術(呪術)、まじない、占い、ハーブ(薬草)などの生薬の技術など、魔女と関連付けられる知識・技術・信仰の集合を指します。

単純に和訳し、「魔女術」と呼ばれることもあり、ガードナーによれば「キリスト教以前に存在したヨーロッパの多神教の復活である」とこれを位置づけています。

キリスト教やイスラム教、仏教とも異なる異教であり、しかも近年提唱されたことから、「新異教」とも言われます。が、一応信仰的側面をもっているため、ウイッカ宗、魔女宗とも呼ばれることもあります。

占星術、錬金術、魔術などに端を発し、「神秘学」ともいわれるオカルティズムとは異なり、欧米では認められ始めている宗教の一つとされます。このウイッカを信奉する魔女さんたちは、自らが魔女でありながら、これを指し示す ”ウイッチ(witch)” を差別用語だとして好まず、お互いをウイッカン (wiccan) と呼びます。

彼女たちは自分たち魔女を「キリスト教の悪意によって魔女とされた、キリスト教以前の古き宗教の神々の崇拝者」であるとし、女神や有角神を崇拝します。

有角神というのは、少し前に小ヒットした、「パンズ・ラビリンス」というスペイン映画を見たことがある人は分かると思うのですが、これに出てくるパンこと、「パーン」というギリシア神話に出てくる牧羊神のことで、ローマ神話では「ファウヌス」といいます。

パーンはもともと羊飼いと羊の群れを監視する神でしたが、彼はある日、怪物たちの王テューポーンに襲われます。テューポーンの体は宇宙に到達するほど巨大とされ、地球を焼き払い、天空を破壊し、灼熱の火炎と共に暴れ回って全宇宙を崩壊させるほどの力を持っていました。

その力は神々の王ゼウスに比肩するほどであり、ギリシア神話に登場する怪物の中では最大最強の存在といわれ、そんな大怪獣に急襲されてはひとたまりもない、ということでパーンは上半身が山羊、下半身が魚の姿になり、ほうほうの体で逃げたといわれます。

パーンというのは、もともと古代ギリシア語では「全ての」という意味です。この時変身したパーンの姿は低きは海底から高きは山の頂上までほどもあり、世界の「すべて」に到達できるとされました。このため、英語では、この「すべて」を意味する接頭語を”pan”といいます。

かつて存在した「全米航空」を意味する、パンアメリカン(Pan American)航空のパンであり、ほかにもパンパシフィック、といった言い方もあり、これら接頭語のパンは、このパーン神が語源です。

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そのパーンが、なぜ魔女たちの崇拝神なのか、ですが、ギリシャ神話ではある時、このパーンが竪琴の神アポローンと音楽の技を競うことになりました。そしてこの競技では、山の神であるトモーロスが他の神とともに審査員となり、かつ審査委員長をつとめました。

やがて試合が始まりました。パーンは得意の笛を吹き奏で、そしてその音色をかつてないほど美しい、と自己満足で絶賛しました。が、傍らで聞いている他の神々には田舎じみた旋律に聞こえたようです。

ついで、アポローンが弦を奏でたところ、その音色は明らかにはるかにパーンの演奏したものを凌駕しており、審査委員長のトモーロスもこれを聞いたとたん、答え一発、アポローンに軍配を上げたのでした。

他の審査委員も同意し、この勝負はアポローンの勝ちとみなされましたが、自分の奏でた曲に自身があったパーンは、異議を申し立て不公正じゃないか、とトモーロスを裁判で糾弾しようとしました。

ところが、アポローンはこのような下劣な耳にわずらわされないよう、彼の耳をロバのそれに変えてしまったといい、このためこの裁判は成立せず、この事件があって以後は、アポローンはパーンと対立していくようになります。

アポローンは、全能の神ゼウスの息子でもあり、太陽神とも称されます。これと敵対するようになったパーンは、やがて太陽の影にいつも隠れて陰が薄い、いわば月のような存在とみなされるようになっていきました。

そして、これがウイッカンが、闇の世界の主であるパーンのような有角神を主神として崇拝する理由です。女神をも崇拝するのは、無論のこと、自分たち魔女もまた女性だからでしょう。

現代の魔女であるこのウイッカンたちは、年に8回開かれるSabbat(サバト)とEsbat(エスバットと呼ばれる集会でこうした神々を讃えるといいます。サバトというのは、魔宴ともいい、魔女の夜宴・夜会の意味であり、エスバットというのは、「満月の集会」の意味です。

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この集会でいったい何をやるのか、ですが、エスバットのほうは、満月、場合によっては新月のときに開かれ、魔法の業を行います。魔法の業って何よ、ということなのですが、これは霊と交渉する、いわゆる「降霊術」の類のものであり、このほか、祈祷や占いといった「呪術」も行われるようです。

また、サバトのほうは、年8回行われる、魔女宗の「祭日」だそうで、これは古代ケルトの火祭などに起源を発します。お祝い事の儀式が中心のようで、ハロウィー の原型でもあります。また、いわゆるキャンドルナイトと呼ばれる、「聖燭節」に似たロウソクを使った儀式なども行われるようです。

欧米における魔女宗の魔女たちは、伝統的には13人で構成されるグループで活動していたといいますが、最近はもっと少ない人数の実践グループとなり、これは「カヴン(魔女団)」と呼ばれています。ただし、一人で活動するウイッカンもいるそうです。

中には全裸で儀式を執り行うグループもあるといい、こうした風習はスキャンダラスに取り上げられがちですが、こうした儀式が、すわ性的な乱れに繋がるか、というとそういう不埒な団体はないといいます。万一そのような不心得の団体がいたとしたら、本物の魔女宗のメンバーとは認められず、他の組織からも糾弾されるといいます。

このように、ウィッカといえば、魔女、そして呪術を行う、といったことで何かと邪悪視されがちですが、これに帰依している人達は極めてまっとうのようであり、実際にはかなり真面目な宗教のようです。

このウイッカンたちの倫理を一つの言葉に集約するとすれば、これは「誰も害さない限りにおいて、望むことを行え」、だそうで、この標語は、”The Wiccan Rede (ウイッカの教訓) ”と題されているといいます。

多くのウイッカンは「3倍返しの法」を信じているといい、これは、善意によるものであれ悪意によるものであれ、あるいは、魔法であれ現実的行為であれ、自分の行うことはいずれには巡りめぐって3倍になって自分の元に戻ってくるという信念だそうです。

ただ、3倍というのはあくまで例えであり、10倍返し、100倍返しになって帰ってくることもあるわけで、自分が行った行為はそれだけ尊く、努力すれば倍になって恩恵として帰ってくるし、悪行を行えばそれはそのままではなくもっとひどい報いになって返ってくる、ということが言いたいのでしょう。

日本でもドラマの「半沢直樹」で有名になった、この「倍返し」ですが、目には目を、という意味ではなく、こうした自己反省の意味で使われるのが、本来は正しいのでは、と思ってしまいます。

現在、アラブ地方ではイスラム国の蛮行に対して、先進国が目には目をの反撃に出ようとしていますが、果たしてそれで正しいのかどうか、これらウィッカの教えを改めて考えてみてはどうか、と私などは思う次第です。

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さて、現代の「魔女」は黒猫をペットとして、聖なるものと見なして飼っている、という話から少々脱線してしまいましたが、この黒猫は、ヨーロッパとは異なり、日本では幸運の女神とされてきました。

近代以前の日本では「夜でも目が見える」等の理由から、「福猫」として魔除けや幸運、商売繁盛の象徴とされ、黒い招き猫は魔除け厄除けの意味を持っていました。また、江戸時代には、黒猫を飼うと労咳(結核)が治ると信じられていたほか、恋煩いにも効験があるとされていたそうです。

新選組の沖田総司は労咳を患って床に伏せっていた際、この迷信を信じて黒い猫を飼っていました。しかし、いよいよ死が目前に迫って来たとき、その死に際にこのネコを斬り殺そうとしたそうです。が、やはりかわいそうで果たせず、このとき、やはり運命というものには逆らえぬものか、と悟って死んでいったといわれています。

近年でも黒猫は大人気です。ヤマト運輸をはじめとするヤマトホールディングス傘下の企業は黒猫を商標にしています。これは、創業者の小倉昌男さんが自社の商標をデザイナーに依頼するとき、優しく丁寧に物を運ぶという企業姿勢を示すために、母猫が子猫を口にくわえて運ぶ様子をロゴにしてくれ、と依頼したことに由来しています。

映画、「魔女の宅急便」にも主人公の相棒役としてジジという名の黒猫が登場しています。この作品には原作者がおり、角野栄子さんといいます。彼女の娘が中学生時に描いた魔女のイラストに着想を得て執筆されたといい、この作品を書いたときは魔女について特に詳しかったわけではなかったそうです。

ところが、映画の公開に伴い魔女についての質問が多くよせられたのをきっかけに魔女について調べ始めたそうで、その後は魔女についてのエッセイも執筆していらっしゃいます。

なお、この映画では、「宅急便」というヤマト運輸の商標がそのまま使われています。一般用語としては「宅配便」が正しいわけですが、映画の公開当初、このタイトルが「ヤマト運輸の商標権に触れて問題になった」と報道されたといいます。

が、実際にはヤマト運輸は映画を公開したスタジオジブリからの依頼に基づいてこれを了承しており、その証拠に、この映画の一部をそのままヤマト運輸のCMにした物も作られています。また、映画化に先立ち、「魔女の宅急便」という用語はジブリによって登録商標されていたそうです。

ただ、角野さんがこの原作本を刊行したとき、「宅急便」はヤマト運輸の登録商標である事を知らず標準語と思っていたといい、このためこの本の初版本にはその断りは書いてなかった、という逸話が残っています。

このほか、黒猫と言えば、我々の世代では、1969年の皆川おさむさんのヒット曲、「黒猫のタンゴ」でおなじみであり、また食品のインスタントラーメン「チャルメラ」シリーズのパッケージには「チャルメラニャンコ」という名の黒猫がチャルメラおじさんとともに描かれています。

このように、黒猫が魔女の手先だ、悪魔の使いだ、といった迷信は遠き過去のヨーロッパでのこと。現在の日本では、黒猫は幸運の女神です。

迷信とは裏腹に、実際の黒猫の性格がおおらかで、甘えん坊で人好きな猫が多いともいわれ、猫の愛好者に人気が高いそうです。

目の色はグリーン、もしくは、榛色(はしばみいろ)あるいは、ヘイゼル色といわれる色ですが、まれにゴールドのクロニャンもおり、これを飼うとお金持ちにもなれそうです。

我が家のテンちゃんはクロネコでありませんが、同じく薄いグリーンのきれいな目を持っており、ときにそれが月のようにも見えます。

最初にこれに気がついていれば、今流行りの「ルナ」ちゃんにしていたかもしれませんが、後の祭り。

みなさんもいかがでしょう。もしネコを飼うご予定があれば、幸運の女神、黒猫を選び、そしてその名を「ルナ」にしてみてはいかがでしょうか。

ありふれていて、いやだ?それならいっそ純日本風に「月子」ちゃんはどうでしょう。それでもやはり「月並み」でしょうか……

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