あなたもテロリスト?

2015-1150026昨日、デンマークで起きた「テロ事件」とされる銃撃戦は世界中を震撼とさせました。

世界中を敵に回している、イスラム国との関連なども取沙汰されているようですが、デンマークといえば世界的にみても最も平和な国のひとつと目されています。そんなところでもテロが起きたとすれば、平和ボケの我が国にも何かあるかもしれず、とても他人事とはいえません。

それにしても、このデンマークという国、いったいどこにあったかな~と思いだそうとするのですが、はっきりとわかりません。

改めて地図を見てみると、ありましたありました、ヨーロッパ大陸の北のほうに。といってもスカンジナビア半島側ではなく、ドイツの真上、北海側に突き出ている大きなでっぱりがこの国の大半を占める「ユラン半島」です。

おそらく日本人の大半はそんな半島の名前すら知らず(無論私もですが)、また、首都であるコペンハーゲンの位置すらわからないでしょう。更に調べてみると、このコペンハーゲンは、このユラン半島の東側にある、「シェラン島」の東の海岸にあり、ここから隣国のスウェーデンまでは幅約10数キロのエーレ海峡をまたいですぐ、という位置関係です。

しかも、このエーレ海峡には現在、「エーレスンド橋」という橋が架かっていて、陸続きでスカンジナビア半島方面へ行くことができます。

このように首都が島にあることからわかるように、デンマークは日本と同じく島国で、ユラン半島以外に443の島があり、このうち76が有人島です。

その総面積は、日本のおよそ11%ほど。ここに、およそ960万人の人々が暮らしていますが、その人口密度126人/ km²は、日本の343人/km²の半分以下であり、いかにもゆったりとしていそうです。

ヴァイキングとして知られるノルマン人がその祖先のようです。8世紀から11世紀にかけて他のヨーロッパ諸国を侵略し、11世紀初頭ころにはイギリスをも支配しており、これは「北海帝国」とも呼ばれました。

14世紀後半にはマルグレーテ1世の手により、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーを支配下にした大国として君臨しました。しかし、17世紀初頭にスウェーデン・ロシア帝国間で発生した「大北方戦争」において破れ、没落。

近代に至って、ナポレオン戦争においても、フランスと同盟を結んでいたため、敗北。1814年長年支配してきたノルウェーをもスウェーデンに奪われ、現在のような位置に押し込まれました。

第二次世界大戦ではナチス・ドイツの占領下に置かれましたが、1944年に駐デンマークのドイツ軍が降伏し、解放されると、戦後は北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、1973年にはヨーロッパ共同体(EU)にも加盟しました。

国内経済、教育水準共に世界トップクラスの先進国の1つであり、国連の非常任理事国も担当しています。北海油田による石油・天然ガスの供給があり、輸出も行われているなどエネルギー資源には恵まれています。このほか、風力発電が盛んであり、1980年代より組合が設立され個人の共同所有方式により多数が建設されています。

すぐ北側の領海には、北海油田に由来する油田を持っており、石油自給率は100%を超えています。また、デンマークの輸出額のうち10.7%を原油、精製燃料、天然ガスが占めており、同じ島国ながら天然資源の大半を輸入に頼っている日本とはココが違います。

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また、高福祉国家として知られており、高齢者福祉や児童福祉が充実していて、国民の所得格差が世界で最も小さい世界最高水準の社会福祉国家です。国民の教育水準も高く、「医療制度と健康」「教育」「環境」「経済的な 豊かさ」など100件以上のデータを基に表された「世界幸福地図」でのランキングでは世界178ヵ国の中で、世界一です。

結婚・葬式、医療費・介護サービスが無料であり、失業手当は所得の90%相当が最長4年間支給されるほか、教育に関しては、大学までの学費は無料であり、出産・育児休暇は男女で56週間とれるだけでなく、給料も支払われます。

しかしながら、この高福祉国家はまた「高負担国家」でもあり、デンマークの最高税率は、所得税・地方税をあわせて51・5%です。国民の平均月収は、48万円ですが、手取りは27万円程度となるとのことで、このほか「付加価値税」なるものもあってその税率は25%におよびます。

これは、日本の消費税と異なり、税率が対象となる物品・サービスによって異なるという制度であり、高級品には高い税率、食品には低い税率という具合に、文字通り「付加価値」の加減によって税率が決められている、というものです。

日本との関係としては、1873年(明治6年)に岩倉使節団がデンマークを訪問したのがその交流のはじまりであり、無論、国交はあります。ただ、現在、デンマーク在住の日本人は1300人超、日本在住のデンマーク人は500名弱ということで、それほど交流が活発というほどではありません。

このほか、1957年に和歌山県沖でに日本の貨物船が遭難したとき、この船の船長以下をたまたま通りがかったデンマークの船が命がけで救助し、その船員のひとりがそのために命を落とす、といったことがありました。

そして、この日本の船員を救おうとして殉難した「ヨハネス・クヌッセン」という人の名が新聞で取り上げられ、当時の日本で大きな話題となりました。

その勇敢な行動は称えられ、事故の翌1958年には、事故現場を望む紀伊日ノ御埼灯台付近の日の岬パーク内に「クヌッセン機関長顕彰碑」が建てられたほか、遺体が打ち上げられた日高町阿尾田杭には「クヌッセン機関長遺骸発見の地」と記された供養塔が建てられています。

この事件は、日本とデンマークの友好と交流の象徴として語りつがれるところとなり、両国の関係が現在も良好なのは、この一事によるところが大きいようです。

デンマークは、サッカーが盛んで代表は1992年欧州選手権で優勝していますが、日本の川口能活選手は一時期、デンマークのサッカークラブノアシェランに所属していたこともあり、この面でもデンマークは日本人にとって著名な国です。

プラスチック製の組み立てブロックの玩具、レゴ(LEGO)が生まれた国としても日本人には馴染があります。この「LEGO」というのは、”Leg Godt” からとったもので、これは「よく遊べ」を意味するデンマーク語です。

このレゴに限らず、なにかデンマークといえばおとぎの国、という印象がありますが、これはやはり、「アンデルセン童話」でおなじみのハンス・クリスチャン・アンデルセンの母国だからでしょう。

コペンハーゲンの有名な遊園地チボリ公園も、それを模したものが岡山県の倉敷市に作られ、「倉敷チボリ公園」として存在していましたが、惜しくも2008年に閉園になっています。

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このアンデルセンという人は、生涯独身だったそうですが、死去するまでの間に多くの童話を発表しつづけた背景には、自らがそうであったように死ぬ以外に幸せになる術を持たない貧しい人々への思いやりがあった、といわれているようです。

また、こうした貧困層に対して無関心を装い続ける社会への嘆きが、優れた作品を生み出す原動力になったともいわれます。

とはいえ、その作風はどちらかといえば暗いものが多いようです。初期の作品では主人公が死ぬ結末を迎える物も少なくありません。

が、年を重ねるにつけ、若死以外にも幸せになる術がある、一生懸命努力していればいいことがある、といった人生訓のようなものを作中に書き出していくようになっていきました。おそらくは自身の成功に照らし合わせての心境変化だったでしょう。

世界中で愛読されていたにもかかわらず、自身は常に失恋の連続だったといい、その要因として、容姿の醜さ、若い頃より孤独な人生を送ったため人付き合いが下手だったことなどがあるようです。また、初恋に敗れた悲しさなどを綿々と綴られた自伝を恋した相手に送るといった、変な癖があったことを指摘する人もいるようです。

極度の心配性だったそうで、外出時は非常時に建物の窓からすぐに逃げ出せるように必ずロープを持ち歩いたといいます。また、眠っている間に死んだと勘違いされて埋葬されてしまった、というある男の噂話を聞いてからは、眠るときは枕元に「死んでません」という書置きを残していたといいます。

70歳の時に、肝臓癌のため死去しましたが、アンデルセンが亡くなった時は、のちのデンマーク王となるフレゼリク王太子や各国の大使、子供から年配者、浮浪者に至るまで葬式に並び大騒ぎになったそうです。

彼の肖像は、デンマークの旧10クローネ紙幣に描かれていたこともあり、彼の生まれ故郷オーデンセにはアンデルセンの子供時代の家が一般公開されており、このほか「アンデルセン博物館」もオープンしています。

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首都コペンハーゲンには、その代表作「人魚姫の像」があり、世界的にも有名です。この話を小さいころに絵本などで読んで覚えている人も多いでしょうが、これは人魚の王の6人娘の末っ子だった主人公が、嵐に遭い難破した船から溺死寸前の王子を救い出し、この王子に恋心を抱いてしまう、という話です。

この王子とどうしても結ばれたかった人魚姫は、海の魔女の家を訪れ、声と引き換えに尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰いますが、その時に、「もし王子が他の娘と結婚すれば、姫は海の泡となって消えてしまう」と警告を受けます。

こうして王子と一緒に御殿で暮らせるようになった人魚姫でしたが、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話せず、王子は人魚姫があのときの命の恩人だと気付きません。

しかも王子は偶然浜を通りかかった娘を、かつての難破の際に自分を救ってくれた命の恩人に違いない、と勘違いしてしまい、この娘との結婚を決めます。

悲嘆に暮れる人魚姫。しかしその前に上の5人の姉妹たちが現れます。そして姉たちは、海の魔女に貰った短剣を差し出し、これでもって王子を刺し、彼の流した血を浴びれば人魚の姿に戻れるという魔女の伝言を伝えます。

しかし、人魚姫は愛する王子を殺せずに死を選び、海に身を投げて泡に姿を変えました。そして、人魚姫は空気の精となり天国へ昇っていきましたが、王子や他の人々はけっしてその事に気づくことはありませんでした……

といったふうになんとも後味の悪い話なのですが、この人魚姫に限らず、アンデルセンの話の結末には暗~いものが多いようです。このほか赤い靴を履いたまま踊り狂う少女の話を綴った「赤い靴」とか、ツバメに目や体の一部を差し出して自分はみすぼらしい姿になった王子の像の話「幸福の王子」とか、「マッチ売りの少女」とかとか、です。

こうした話の中でもとくに地元デンマークで人気が高いのが「人魚姫」だったようで、首都、コペンハーゲンにある「人魚姫の像」もそれゆえに設置されたのでしょう。デンマークは日本と同じ海洋国であり、海が好な人が多いということもあったでしょう。日本人も何かと言えば芸術対象として海に関するものを選びたがるクセがあります。

ところが、この人魚姫の像は、その日本人観光客をがっかりさせる「世界三大がっかり」のひとつとして選ばれているそうです。世界的に有名で見に来る観光客が多い割には、ちゃちくて過剰な期待を裏切るためだということで、後の二つは、シンガポールのマーライオン、ブリュッセルの小便小僧だそうです。

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岩の上に腰掛けた格好をした像であり、コペンハーゲン港北東部ランゲルニエ地区にあります。いくらちゃちいとはいえ、世界に名立たるコペンハーゲンのシンボルです。私は見に行ったことがないのですが、行った人の話によれば、通常は岸から数m先の海上にありますが、干潮時には歩いて像までいくことができるそうです。

人魚姫の物語を演じたバレエに感銘を受けた、デンマークビールの有名ブランド「カールスバーグ」の醸造所の創立者の息子が1909年、この人魚姫の像の制作を要請し、有名彫刻家に依頼して製作されたものだそうで、当初、そのバレエの主役を演じた王立劇場のプリマドンナの肉体美がモデルになる予定でした。

ところが、彼女が裸体モデルを拒否したため頭部のみのモデルとなり、この彫刻家の妻で、E・H・エリックさんと岡田眞澄さん兄弟の伯母にあたるエリーネ・エリクセンという人が首から下のモデルとなったといいます。

アンデルセンの原作では、腰から下は魚だったはずですが、この人魚像は二本足の足首の辺りまで人間で、それ以下が魚のひれになっているという違いがあります。これは、肢体のモデルになったこのエリーネ嬢の脚があまりに美しく、鱗で覆うのがしのびなかったためともいわれています。

ところが、このおみ足の美しい人魚姫の像は、過去には幾度かにわたって損壊されるなどひどい目に遭っています。

1961年に、髪の部分を赤く塗られ、ブラジャーとパンツを描かれたのを皮切りに、1964年には挽き切られた頭部が持ち去られたこともあり、このときはこの切り取られた像の一部はとうとう取り戻すことは出来ず、新たに頭部が制作されたといいます。

その後も、1984年には右腕が切断、1990年には頭部が切断されかけましたが、この時は難を逃れました。しかし、1998年には再び頭部を失い、約1ヶ月後、覆面をした男がある日突然テレビ局に現れ、切断され人魚の首を差し出したといいます。

さらには、2003年、ダイナマイトと思われる爆発物で像の台座にあたる岩石が爆破されましたが、本体は無事でした。その後もこうした悪戯は後を絶たず、2004年には、イスラム教徒の女性が用いる黒いブルカがかぶせられたほか、2006年には緑色のペンキが全身にかけられ、翌年には二度に渡って全身をピンクや赤で塗られました。

一番最近は、2007年5月であり、このときは全身を覆う黒いイスラム装束がかけられ、頭部にスカーフが巻かれたといいます。

今回、コペンハーゲンで起こったテロ事件との関係が想像されます。このころから既にデンマーク国内では反イスラムvs擁護派が争う兆候が既にあったのではないか、と思われるわけですが、このとき人魚の像にイスラム装束をかけたのが、はたしてデンマーク国民だったのかどうかまではわかっていないようです。

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しかし、人魚姫の像には何の罪もありません。こういった自分は何も悪いことをしていない、芸術作品さんに危害を加えることを、「芸術テロ」と呼ぶこともあるようです。

が、これは本来、その芸術作品を創作した芸術家自身が、社会一般的に受け入れられない方法で、自らの作品を発表することを指します。

時に非合法手段に頼ることもあり、最も一般的な芸術テロといわれるものは、何のことはない、壁などへの落書きです。街中を歩いているときにふと見かけることも少なくないわけですが、しかし、これらの大半は意味のない文字の羅列か、罵倒語などで、お世辞にも芸術作品とはいえません。

人目につきやすい所に設置する場合が殆どで、作業は人目をはばかるため夜間や人の少ない時間帯に行われ、日本ではあきらかに犯罪であり、罪状としては器物損壊などにあたるでしょうか。

こうした行為を行う輩は、「芸術テロリスト」と呼ばれる場合もあるようですが、テロリストと言われる人々の中には、卑劣な行為とはいえ、命をかけてその行為に及んでいるわけで、それに比べれば、こうした落書き小僧たちはその名に値するほどのものではありません。

ところが、この「芸術テロリスト」と呼ばれる人の中には、本物の芸術家もときにいるようです。イギリスでは、これをあだ名として呼ばれている芸術家がおり、この人物の作品の芸術的評価はかなり高いようです。

イギリスでは、「バンクシー」と呼ばれており、ニューヨークのMoMAこと、メトロポリタン美術館やロンドンの大英博物館などの館内に、自らの作品を無許可で展示したことで有名になりました。

このほかにも、ブルックリン美術館、アメリカ自然史博物館などでも同じ手口で展示を行っており、他の展示物とは全く趣旨の異なる物でしたが、作品は場に溶け込み、発見されるまでに数日かかったこともある、といわれています。

街中の壁にステンシル(型紙)を使って反資本主義・反権力など政治色の強いグラフィティを残したり、美術館や博物館などの館内に、自らの作品を無許可で展示するなどの派手なパフォーマンスにより、いつのまにやらそのあだ名は「芸術テロリスト」となっていったようです。

さらに2005年には、大英博物館に「街外れに狩りにいく古代人」という題名の壁画の一部を勝手に展示。遺跡にはショッピングカートを押す古代人と、カートに槍が刺さった獣が入っている絵が描かれていたそうです。

その後、バンクシーはロンドン市内のギャラリーで開催されていた自分の個展のためにこの作品を大英博物館から一旦引き取りました。その際、作品横のキャプションに「大英博物館より貸与」の一文をつけたといい、後に、大英博物館はこのバンクシーの作品を正式なコレクションに追加したともいわれています。

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街頭などへのディスプレイにこだわって芸術活動を行っており、企業の商品とのコラボレートやミュージシャンのアルバムジャケットの依頼等はほとんど全て断っているといいます。

その例外としては、2002年に日本のファッションブランドモンタージュのティーシャツを2種類、 2003年にはイギリスの人気ロックバンド、ブラーのアルバム「シンク・タンク」のジャケットを描いたものなどがあるそうです。

しかし、たとえば、世界のトップ企業であるソニー、ナイキ、マイクロソフトや、トップミュージシャンのデヴィッド・ボウイ、オービタル、マッシヴ・アタックなどのオファーがあったにもかかわらず、これをすべて断っているといいます。

彼の作品の多くは街頭の壁面などに描かれており、ただの落書きだと考える市当局による清掃などの際に消えてしまう例も頻発しているといい、あとで気がついて、ムンクの「叫び」のようになってしまう職員もいるということです。

2006年には、イギリス西部の港湾都市、ブリストルに裸の男がバスルームの窓からぶら下がっている壁画を制作。この作品は取り除かれるべきか、そのままにしておくべきかで論争を巻き起こしたそうです。が、インターネット上でのディスカッションでは97%の人々が取り除くべきでないという立場を支持したため、今もそのままになっているといいます。

以上は彼が行ってきた芸術テロのほんの一部ですが、こうしたことからみても、ただの町のチンピラ芸術家とはその腕が違うことがわかってきます。

2007年2月に行われたサザビーズ主催のオークションではバンクシーの作品計6点が落札予想価格を大幅に上回る総額37万2千ポンド(日本円で約8500万円以上)で落札されたそうです。

その芸術性は次第に認められ続け、2009年にはついに、6月13日から8月31日の期間で地元ブリストルの美術館(市営)において大規模展「Banksy versus Bristol Museum」を開催しています。

さらに、2010年、バンクシーを追いかける男の映像をもとに、いつの間にかその男がバンクシーらによってグラフィティーアーティストにしたてあげられていく、という一風変わったドキュメンタリー映画も造られました。

「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」という作品で、自らが監督を務めたといい、同年度のアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にもノミネートされました。

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英国のガーディアン紙によると、本名はロバート・バンクス(Robert Banks)といい、1974年にブリストルで生まれた人物だとされています。一方、BBCは彼の本名をロビン・バンクス(Robin Banks)としています。

バンクシーと顔を合わせてインタビューしたのはこれまでにたった一人しかいないとされ、この取材を行った記者によれば、バンクシーは28歳、ジーンズにTシャツ姿で、片耳に銀のイヤリングをしていたといいます。

2008年3月6日にオンエアされた「奇跡体験!アンビリバボー」で、バンクシーの友人と思われる人物が登場し、このときうっかり「ロビン」という名を口にしたそうで、これが事実だとすると、BBCの報道が正しいのかもしれません。

そしてその4か月後の7月には、ついにバンクシーの身元が判明したとの報道がなされ、その報道によると、バンクシーの本名はロバート・カニンガム、ブリストル出身で1973年生まれだといいます。

この報道が正しいとすれば、彼は現在42歳。油の乗った年齢です。これからさらにどんな芸術テロを見せてくれるか楽しみではあります。

ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーには、バンクシー自身のポートレートが収蔵されているといいます。

が、このポートレート自体にも覆面がかけられているといい、いったいどこまで人を食った芸術家なのかと、笑ってしまいます。

仮に今後日本でもテロ事件が起こるとして、同じテロでも、こうした楽しいテロなら受け入れられるかもしれません。少しずつ景気の上向いている昨今、こうしたテロリストだらけになればさらに日本の運気も上がろうというもの。

芸術の腕前に覚えがある方々は、ぜひこうしたテロリストになっていただきたいものです。

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呉れぬなら・やめてしまえよ・バレンタイン

2015-1130772明日はバレンタインデーということなのですが、会社勤めをしていない私にしてみれば、チョコレートをくれるのは、最近は家内だけ、という寂しさです。

チョコレートでもなんでもタダで貰えればうれしい、と思う気持ちは我ながらさもしい、とも思うのですが、嫌いなものならともかく、チョコレートだけはスイートとして食しても良し、ワインやウィスキーのつまみとしても良しで、呉れるならばこれを拒む理由はありません。

が、タダほど怖いモノはない、とはよく言ったもので、一か月後には今度はホワイトデーなるものが控えており、そのお返しの商品選びに費やす時間のことを考えると、いっそのこと、バレンタインデーなどないほうがいい、と思うのは私だけではないのではないでしょうか。

少し前に行われた、20代〜30代の会社勤めの独身男女に対して行われたアンケートによれば、回答した300人のうち「チョコレート受け渡しの習慣なんかなくなればいい」という回答がOLで70%、同じく男性社員は50%であったそうです。

OLである若い女性からすれば、好きでもない相手に多額の金をかけて品物を贈るのは心理的にも不遜であり、また男性側からみれば気恥ずかしいし、また隣人と貰ったチョコの数を比べられるのもイヤ、といったことた理由だったようで、未婚の男女にはこうした義務的なイベントに対する不快感を強く持っている人は多いようです。

一方、職場には妻子ある男性、女性もいるわけで、彼等もまた「被害者」です。若い女の子からチョコレートを貰ってデレデレできるのは一時のことで、翌日にはすぐに元通り。しかも一か月後にはその数倍の費用負担が発生するのが通例です。その分のお金を妻や子供に対するサービスに費やしたいと考えている男性も多いのではないでしょうか。

また、既婚女性はさらにかわいそうです。未婚の女性につきあって心にもなく職場の男性社員にチョコレートを渡すことにわけですが、後輩への手前、気前よく装っていても、おそらく内心は炎上していることでしょう。

こうした義務的なイベントを無理矢理作り出して、強制的に義理チョコを買わせるのは非人道的な卑劣な商法である、といった痛烈な意見も多数あるようで、さらには、職場内におけるバレンタインデーやホワイトデーにおける商品の相互供与は、「おごりの強要」である、という意見もあり、「セクシャルハラスメント」の温床ともいわれます。

性別を理由に一定の義務を課し、本人の意に反する行為を強要するわけですから、セクハラにあたるというわけで、しかも、女性のみならず男性を含めて職場全員が「被害者」になるわけですから、こんな悲劇はありません。

また、別のアンケートでは、20歳以上39歳以下の会社員女性515名に対してバレンタインデーがあることついてどう思うか、という調査が行われ、その結果、「会社での義理チョコのやりとり、あった方がいい」が26%、「ない方がいい」が74%だったといい、調査年齢層の年齢が上がるほど、否定的傾向が顕著に強くなる調査結果が得られたといいます。

確かに独身である男女間においては、バレンタインデーは特別の意味を持つかもしれませんが、既婚者にとっての男女の間の物品のやりとりは、非常に微妙な空気感を伴うものであり、私などもできれば敬遠したい、と思ってしまいます。

職場における日頃の労苦をねぎらう意味なら別にチョコレートでなくても、別のものでもいいわけで、飴玉でもなんでもよいわけですが、そもそも物品で人のこころを釣ろうという行為自体が卑賤、というかんじがします。

いっそのこと、物品供与はやめ、通常の飲み会を催すなどのコミュニケーションに代えれば、ぎくしゃく感もかなり薄らぎ、その中で日頃の感謝などの誠意も伝えやすいのではないでしょうか。なぜ、いまだに菓子会社の陰謀にのっかってチョコレート、チョコレートと騒いでいるのか、といつも思う次第です。

そもそも、このバレンタインチョコレートなるものを創作した「犯人」は誰なのよ、ということなのですが、これをはじめにやったのは、神戸の菓子会社、「モロゾフ」だそうで、1936年の英字新聞「ザ・ジャパン・アドバタイザー」に、「あなたのバレンタイン(愛しい方)にチョコレートを贈りましょう」という広告コピーを出したそうです。

お・ま・え・か~と、いうわけなのですが、しかしこれは戦前の話であり、その後戦争に突入していく中で、バレンタインデーにチョコレートを贈るなどとい贅沢がゆるされるわけもなく、実際にはこの販促は成功しなかったようです。

が、モロゾフの本店があった最寄り駅の阪神御影駅南側の広場には、現在「バレンタイン広場」なるものが整備されており、聖バレンタインゆかりの地とされるテルニ市からは、その発祥地としての「お墨付き」を得ているといいます。

「バレンタインデー」そのものが固有名詞化してしまっているのでついつい忘れがちですこの「バレンタイン」とは、今から1700年以上前の西暦270年ころに存在した、とされる聖人です。

このころのローマ皇帝クラウディウス2世が、戦士の士気の低下をおそれて兵士たちの結婚を禁止しましたが、このウァレンティヌスこと、バレンタインはこの禁令に背いて恋人たちの結婚式を執り行ったために捕らえられ処刑されています。そしてその処刑されたのが2月14日だったために、以後、キリスト教の聖祝日になりました。

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元々はこのウァレンティヌスを悼み祈りを捧げる日だったわけですが、その後15世紀頃より急速に男女の恋愛の聖人と記念日へと変貌します。きっかけになったのは、イギリスのジェフリー・チョーサー(1343~1400年)という詩人の「バレンタインデーの季節になると鳥が恋人をつくる」というものだったそうです。

この詩をまた別の詩人二人引用しましたが、この詩人たちは人気作家だったようで、これらによって以後、忘れ去られていたウァレンティヌスがスポットライトを浴びるようになりました。そして恋人の守護聖人とされるようになり、その命日は「恋人の日」へと変わっていきました。

さらには、18~19世紀になって、ある印刷会社が自分の会社の印刷物を売らんがために、この話のついでに、「ウァレンティヌスは少女にカードを贈った」という話を付け加えました。

この宣伝は、見事にヒットし、バレンタインデーカードを送る文化が英国で定着しました。そして、このカードを贈る相手が、この時点で恋人から、家族へ変化した、というわけです。

やがては、このカードに加え、花束や何等かのプレゼントを贈る、というふうに変貌していきましたが、以後は大きく変化することもなく、イギリスなどの西ヨーロッパを中心に今でも、花やケーキ、カードなど様々なギフトを親しい人に贈る、という風習が定着しました。

イギリスでは贈りものにつけるカードに、「From Your Valentine」と書いたり、「Be My Valentine.」と書いたりします。

このValentineとは愛する人、というほどの意味ですから、別に恋人に限らず、親や子、親戚、友人でもいいわけであり、日本のように男女間、というわけでもありません。同性間でもいいわけですし、垣根はありません。

従って、日本のように、そのお返しのための「ホワイトデー」などはあろうはずもなく、贈り物合戦は、このバレンタインデーの日に終結するわけです。

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ただ、この「贈り物」の中身が、日本のようにチョコレートになったきっかけもまた、イギリスにあります。これは、19世紀後半にあった菓子会社で「キャドバリー社」の2代目社長でリチャード・キャドバリーという人が、1868年に美しい絵のついた贈答用のチョコレートボックスを発売したことが起因とされます。

これに前後して、キャドバリーはハート型のバレンタインキャンディボックスも発売したといい、これらのチョコレートボックス等がバレンタインデーの恋人などへの贈り物に多く使われるようになり、後にイギリスだけでなく、他の地域にも伝わりました。

しかし、このチョコレートはあくまで贈り物のひとつの選択にすぎなかったわけです。ところが、日本に入ってきてからチョコレート一本槍になった嚆矢は、やはり上述のモロゾフといえるでしょう。

その後戦争に突入したこともありこのモロゾフが放った宣伝文句は忘れさられていましたが、戦後の1958年になって、大手デパートの伊勢丹の職員か誰かがこのキャッチコピーを何かの文献で見つけ、似たような文々を使って、新宿本店で「バレンタインセール」というキャンペーンを打ちました。

さらにその翌年の1960年には、やはりチョコレートを製造する森永製菓が「愛する人にチョコレートを贈りましょう」と新聞広告を出し、伊勢丹もさらに1965年にバレンタインデーのフェアを開催するなど、このように1950年代から60年代にかけて「バレンタインデー」の名が一般に知れ渡るようになりました。

ただ、伊勢丹だけでなく、西武百貨店や松屋も1956年に新聞広告を出したという記録があるそうなので、本当に伊勢丹が最初に「バレンタインデー」を演出した犯人かどうかは断定できません。

とはいえ、どうやらバレンタインデーという悪習を創り出した元凶は、日本のデパート業界ということはほぼ間違いなさそうです。そしてさらにはこの企画に自社の製品を大量に売りさばきたい森永のような菓子メーカーが加わって発展していったもの、と推察されます。

ところが、このデパート各社から打たれたバレンタインデー企画はすぐに大きな反響があったわけではなく、また必ずしもヒットしたとはいえず、商品もあまり売れなかったようです。

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その後は、ソニー創業者の盛田昭夫が、1968年に自社関連の輸入雑貨専門店、「ソニープラザ」で、チョコレートを贈ることを流行させようとした、という記録もあり、盛田さんはこのことをもって「日本のバレンタインデーはうちが作った」とのたまわっていたそうです。

しかし、この「ソニー製」のチョコレートの販売もあまりかんばしくなかったようで、総じて昭和40年代には、「バレンタインデーの贈答品はチョコレート」とする意識は一般には浸透しませんでした。

当時の森永製菓のバレンタインデーの広告ですら、チョコレートは贈答品の「おまけ」として位置付けられていただけだそうで、1960年のその新聞広告には、「チョコレートを贈る日」ではなく、「チョコレートを添えて贈る日」として書かれていました。

バレンタイデーの日には、恋人に手紙を贈りましょう、でもそこにちょっとチョコレートを添えるとなお良いですよ、という控えめな宣伝であり、現在の森永製菓のように、バレンタインデー前になると大々的なキャンペーンを打つ、といったことはまだありませんでした。

バレンタインデーに贈答品を贈るのは誰かという点でも、現在のように女性に限定されておらず、ただ「愛の日」という点は強調されており、この時点ではバレンタインデーの発祥の地であるヨーロッパの風習を正当に継承していたわけです。

ところが、これはあくまでヨーロッパの風習であって、日本においては、「愛の日」だからといって、未婚の男女間のみならず、夫婦や子供、その他の家族や親せきに贈り物をする、というのは理解しがたい行為です。

お誕生日ならばともかく、2月14日その日に決めて、みんなで博愛精神を示しましょう、というのは、当時の社会通念に照らせばほぼナンセンスであり、いわんや結婚を前提にしない男女間や未婚の未成年者へのアピールとしても、ほとんど無意味、ともいえたでしょう。

製造販売業者がその思惑としてこうした「博愛」を続けている間は、売り上げは大きく伸びず、デパート各店もまた、バレンタインデーの普及に努めていましたが、なかなか定着しませんでした。

かくしてやがて1968年をピークに、いくらバレンタインデーのキャンペーン打っても客足は減少し続け、「日本での定着は難しい」との見方もされるようになりました。

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ところが、1973年のいわゆる、オイルショック、つまり原油の供給逼迫および石油価格高騰と、それによる世界の経済混乱に日本も巻き込まれるころから、日本のそれまでの高度経済成長も陰りを見せ始め、1970年代後半になると、景気は下落していきました。

オイルショックによって、日本の消費者物価指数で1974年(昭和49年)には23%上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれ、このインフレーション抑制のために公定歩合の引き上げが行われました。

この結果、企業の設備投資などを抑制する政策がとられたため、生活必需品の生産が滞り、トイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動が起こりました。

日本の産業全体が競争力を失ったかのようになり、「構造不況業種」が増え、新規採用の停止、残業時間の短縮などのいわゆる「雇用調整」が行われるようになりました。

菓子業界も無論、その例外ではなく、たちまち不況に喘ぐようになりました。しかし、泣いていてばかりいてはダメよダメダメ~(このギャグも最近少し下火ですが)、ということで各社とも逆に積極的にマーケティングを行うようになり、この中でも収益性の高いチョコレートを積極的に売ろう、という気運が生まれました。

チョコレートは原料であるカカオ豆がアフリカ諸国などから輸入されますが、原油のように供給が不安定ではなく、また成分の調整によっては安価なものができることから、工夫次第によっては高い利益率をあげることができます。

一方では、パッケージングに工夫を加えて「高級品」として売り出すことも可能なわけであり、1970年代は日本の資本主義がほぼ完成し、「成熟社会」にもなっていましたから、逆にこうした品質の高い商品は、売れ筋となる可能性がありました。

そして菓子メーカー各社は消費者の中でも、とくに小学校高学年から高校生までの「学生層」に目をつけ、彼らをターゲットに積極的にバレンタインデーをアピールする広告宣伝を打ちました。

「チョッコレート、チョッコレート、チョコレートはメ・イ・ジッ」という宣伝文句が頭にこびりついている人も多いでしょうが、明治製菓に限らず、森永、グリコ、ロッテ、といった各社もこうした宣伝ソングをさかんにつくり、チョコレートを積極的に売り出し始めました。

そして、とくにバレンタインデー前に、「彼氏のいない女子から意中の男子へ」という例のおきまりのパターンのキャンペーンを集中的に行ったところ、これが功を奏し、バレンタインデーには、女子から男子へチョコレートを、という図式が定着するようになりました。

この時代には既に、戦後すぐの「ギブミーチョコレート」の時代とは異なり、普通の家でも少々高めのチョコレートを子供に買ってやれるだけの余裕はあります。高いといってもせいぜい500円前後なら、家計を圧迫するほどのこともありません。子供の夢がかなえられるなら、まっいいか、ということになるでしょう。

バレンタインデー普及には、このように菓子メーカー各社の思惑が図にあたったことが大きいわけですが、しかし、その背景には高度成長の終焉と、成熟社会の成立、という社会的な変化があったわけです。

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ただ、このバレンタインデー定着にあたっては、小学校高学年から高校生などの若い世代が、これをむしろ積極的に主導した、と見る向きもあるようです。いわゆる「ブーム」であり、チョコレートを好きな男性に贈るときのあの「胸キュン」が相当に彼女たちにアピールしたわけです。

現在にまで廃れることなくこの風習が続いているのは、この「胸キュン」は今も昔も変わらないことを示しています。

で、改めてその風習に付き合わされている我々大人からすれば、この日他人にチョコレートをあげ、貰うことに果たして「胸キュン」しているか、といえばとんでもなく、逆に胸と財布を締め付けられるような苦しみを味わっているわけです。

さっさとやめてしまえ、と私などは思うわけですが、近年は1970年代以上の不況が長らく続いており、菓子メーカーも生き残りをかけて必死です。

そのため、最近では、男性が女性にチョコレートを贈る「逆チョコ」といった新たな展開での消費活性化を図っているといい、とくにバレンタインデーの産みの親の一つでもある悪名高き某M製菓がこれを積極的に展開しているそうです。

とはいえ、こうしたバレンタインデーをどうとらえるかについては、上のアンケート調査で出た結果のように否定的にとらえる向きがある一方で、別の調査ではむしろ好意的に捉える人も多い、といった結果なども出ているようです。

例えば、10〜30代の1000名超の女性だけから得られたあるアンケート調査では、バレンタインデーを「どういう風習だと思うか」、と少し質問の主旨を変えています。

バレンタインデーの良し悪しを問うのではなく、その社会的な意義を問うたアンケートであり、その結果としては、「日頃の感謝の気持ちを表す機会」とする人が7割、次いで「コミュニケーションの円滑化」が5割、「楽しい年中行事」(32%)という回答結果が得られたといいます。

逆に「義務的なイベント」と回答した人は23%に留まっており、女性に限定すれば、義理チョコに対してポジティブなイメージを持っている人が多いという結果となっています。

つまり、冒頭に披露したアンケート結果でもあったように、OLなどではこんな風習はやめてしまえばいい、と思いつつも、職場の人間関係などの円滑化を図るための「必要悪」と捉えていることがわかります。

アンケート対象に男性が入っていない、という点が問題ですが、うーむ、女性からみれば楽しいイベントなのかな~と男性の私は少々疑問にも思うのですが、日本人全体からみれば、抱く感想はさまざまでしょう。

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とはいえ、社会規範を巡行する立場にある会社織内としては、この風習の存続をどうかと思う、というところも増えているようで、世界最大の恋愛・結婚マッチングサイト「マッチ・ドットコム ジャパン株式会社」は、2009年に「義理チョコ」の配布禁止令を発表したそうです。

また、2012年には、愛知県内の中学校で、バレンタインデーでのチョコのやりとりが「校則違反」とされ、違反した生徒が所属するクラブの活動が活動停止となる、といった事例もありました。

ところが、この措置については、愛知県教育委員会などへは、保護者などから抗議の投書が多数寄せられたそうです。また、有識者や教育関係者からは、配慮不足との声が多数出たといいます。

が、この「保護者」というのはたぶんお母さん方が多数であり、「有識者」というのも女性運動の活動家などが主なのではないか、と私は睨んでいます。女性はやはり根本的にはバレンタインデーがお好きなのではないでしょうか。

なので、百歩譲ってバレンタインデーなるモノを認めるとしても、私などは別にチョコレートにこだわる必要はなく、こうしたメーカーの陰謀に騙されるのではなく、別の「愛情」を贈ればいいのに、と思います。

例えば、同じ職場ならば日頃お世話になっている男性の上司や同僚に、この日に限ってはめったに出さないコーヒーやお茶を入れて上げる、でもいいし、いつもは呼び捨てにしているのに、この日に限っては「さん」付けで呼んであげるとかという方法があるのではないかと思います。

また、冒頭でも述べたとおり、この日に慰労の飲み会を催すのもいいでしょう。

ただし、無論、費用は男性持ちで、というのがポイントです。であれば、翌一か月後には男性は何もする必要はありませんから。

花をあげる、というのもいいアイデアかもしれません。

2010年頃より、花小売店などの花業界が「フラワーバレンタイン推進委員会」を結成し、バレンタインデーを「男性から女性に花を贈る日」として定着させようとする動きが起こっているそうです。

2012年には「初代Mr.フラワーバレンタイン」として、元サッカー日本代表の三浦知良選手(横浜FC、2012年当時)が選出され話題を呼んだといいます。

男性からすれば花を貰う、というのは照れくさいものですが、2月といえばそろそろ花の季節でもあり、机の上に女性社員からプレゼントされた花が一輪ある、というのも職場を華やかな気分にしてくれるのではないでしょうか。

もっとも、バレンタインデーの朝に会社に来たら、机の上に花が置かれていた、というのは、お前は既に死んでいる、という意味に受け取られるかもしれず、すわ肩たたきか、と落ち込む人もいるかもしれませんので、その方法は熟慮せねばなりませぬが……

さて、2月14日のプレゼント、あなたは今年もチョコレートにしますか?それとも……

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神代の国から

2015-8657今日は、建国記念日ということで、祝日です。

改めてこの「建国」の意味を振り返ってみると、これは、「神武天皇」が、紀元前660年にはじめて皇室における初代天皇として即位した日、とされています。

紀元前?と改めて驚いてしまうのですが、歴史的にはこの時代はまだ弥生時代であり、縄文時代に続き、紀元後3世紀中頃までにあたる時代です。弥生時代自体も、紀元前3世紀ごろが始まりだという説もあるくらいで、だとすれば極めて縄文時代に近い時代の天皇ということにもなります。こののちの古墳時代にもなっていない時代です。

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まったとされます。この時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となりましたが、社会構造の根本は旧石器時代と大して変わらず、実力社会でした。

このため、水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われ、やがて開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行するなかで各地に小さなクニが生まれました。

しかし、大型化したこれら集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが絶えず、争いを通じた集団の統合・上下関係の淘汰の中で3世紀前半に「邪馬台国」が誕生し、ここにかの有名な女王「卑弥呼」が君臨したとされます。

従って、この神武天皇の即位は、これより1000年近い前になることになり、卑弥呼の存在さえ神話に近いといわれるぐらいですから、さらに古い、古神話といれてもおかしくないお話になります。

事実、古事記、日本書紀でも「神話」として扱われており、古事記では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、日本書紀では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)という神名になっています。

では誰がいつから「神武天皇」と呼ぶようになったかといえば、これは奈良時代後期の文人である淡海三船という人がその才能を認められて抜擢されたことに始まります。朝廷は彼に歴代天皇の諡号(おくりな)、つまり貴人の死後に生前の事績への評価に基づく名をつけるよう依頼したとされ、このときこの初代天皇に「神武」の名を付したといいます。

その即位は「辛酉」1月1日とされています。辛酉というのは、中国から伝わってきた、全部で60ある「干支」の組み合わせのうちの58番目の年であり、この日が即位日であることから、この年は「神武天皇元年」ともいわれます。

当然、旧暦のことでもあり、のちに明治期に暦が新暦に変わった時には、換算されて2月11日となりました。そして、戦前まではこの日のことを「紀元節」と呼んでいました、

その後、1889年(明治22年)には、この日を期して大日本帝国憲法が発布され、これ以降、憲法発布を記念する日にもなりました。1891年(明治24年)には「小学校祝日大祭儀式規程」なるものが定められ、各地の小学校では天皇皇后の御真影(写真)に対する最敬礼と万歳奉祝、校長による教育勅語の奉読などの行事が慣例となるに至ります。

さらに1914年(大正3年)からは全国の神社で紀元節祭を行うようにもなり、その後日本の軍国主義化に伴ってより天皇が神格化されたため、1926年(大正15年)からは青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典が各地で開催されるようになりました。

戦後も、この紀元節は継続しましたが、そのままの名前ではまずいだろうということで、1947年(昭和22年)までは「建国の日」として実施される法案が国会に提出されました。ところがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が、これをあっさりと拒否、法案は削除されてしまいました。

しかし、日本が独立を回復した1952年(昭和27年)ごろから復活運動がおき、1958年(昭和33年)に再び国会へこの議案が提出されました。

その際も、この旧「紀元節」の復活には賛否両論がありましたが、国民の中には後押しする声も高く、1966年(昭和41年)になってようやく、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨の「建国記念の日」を定める「国民の祝日に関する法律」の改正が成立しました。

こうして、以後、祝日のない2月においては唯一の休日となり、正月が終わって以降、初仕事をひた走りに励む国民のみなさまがたにとっては、ひさびさにホッとできる一日となっているわけです。

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しかしそれにしても、弥生時代の人が天皇に即位した日が建国の日というのは、あまりにも神話的であり、神武天皇その人の実在も疑われる中、このまま祝日にしておいていいのか、という議論は、主として歴史学者の間で過去から現在に至るまでいろいろあるようです。

実際、現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられない、という考え方が主流だそうで、古事記や日本書紀に書かれている神武天皇による「東征」というのもかなり怪しいのでは、ということがいわれているようです。

この「東征」ですが、読んで字のごとし、これは西から東へ豪族をたしなめながら、徐々に東へ進んだことを意味します。ところが、天皇といわれるくらいですから、神武天皇は生まれながらにして京の都にいてここで即位したと思っている人が多いと思われます。しかし、これがそもそも違います。

神武天皇は即位前は、その神話名にもある「神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」と呼ばれていました。そして、生まれ育ったのは、日向国の地「高千穂宮」だったとされています。渓谷美で有名な高千穂峡のある彼の場所ですが、ご存知の方も多いでしょう。

ここで、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)という神様?の四男として生まれたとされますが、三男という説もあります。生まれながらにして明達で、強い意志を持っていたといい、15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)という妃を貰い、一人息子を得たとされます。

45歳のとき、兄弟や皇子を集めてこう宣言します。「天孫降臨以来、179万2470余年が経ったが、未だに我らは西辺の地にあり、日本全土の王化に成功してない。ここより東には美しい土地があるといい、そこに大業を広げて、天下を治め、この地を都とすべきだ」と。

こうして、磐余彦(いわれひこ)、のちの神武天皇は兄らほか一党を引き連れて船で東征に出ます。そして、まずは筑紫国宇佐(現大分県)に至り、さらには安芸国(広島)、吉備国(岡山)と軍を進め、4年後にようやく、現在の大阪である浪速国に至りました。

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さらにこの年、大阪と奈良の境にある生駒山を経て先へ進もうとしましたが、このときこの東征ではじめて大規模な地元民の反抗に遭います。

反抗勢力の親分は、この地を支配する長髄彦(ながすねひこ)といい、彼は軍衆を集めて磐余彦軍に立ち向かいました。このため、東征軍はいったん大阪にまで退いて体制を整え、改めて長髄彦孔軍に挑みますが、その中で磐余彦は数々の忠臣を亡くし、また土地の神の毒気を受け軍衆は次々と倒れていきました。

これを天上からみていた天照大御神は、磐余彦の東征がはかばかしくないことを憂え、「布都御魂(ふつのみたま)」という霊剣を熊野の住民で高倉下(たかくらじ)という男に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上しました。

こうして磐余彦がその剣を手にすると、あら不思議、軍衆は起き上がり、磐余彦らは進軍を再開することができました。が、さらに山路は険しく、その進軍は苦難を極めました。

そこで、天照大御神が今度は、手飼いの鳥を磐余彦に送り、先導させることにしました。

そして、この鳥こそが、現在、日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている、三本足の「八咫烏(やたがらす)」です。熊野三山においては、カラスは死霊が鎮められたものとされ、「ミサキ神」と呼ばれる神使とされており、現在も熊野大神の主として信仰されています。

熊野のシンボルともされる存在ですが、咫(あた)というのは長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、これが8つ、すなわち八咫ということは、144cmもの大ガラスということになります。

が、神話にしてもこれは大きすぎますから、ここでいう八咫はただ単に「大きい」という意味だけです。

こうしてこの大ガラスである八咫烏に案内されて、無事難路を通って先へ進むことができた磐余彦は再び長髄彦に挑み決戦にまで持ち込みました。

が、連戦するもなかなか決定的な勝利を得ることができず(このあたりが歴代日本のサッカー代表チームに似ていますが)、勝てずにいた中、今度はそこへ天が曇り、雹が敵の陣地に降ってきました。さらにはそこへ鵄(とび)があらわれ、そして磐余彦の弓の先にとまりました。

すると、あらまた不思議、電撃のごとき金色の煌きがこの弓から発し、この光に目がくらんだ長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかったところ、敵は総崩れになりました。

こうして、長髄彦は誅され、磐余彦はようやくこの地を平定することができました。そして奈良盆地の南西部にあったこの地を「葛城」と称し、さらに近くにあったる畝傍山(うねび山)の東南の「橿原」と呼ばれる地を都と定めました。

こうしておよそ7年の歳月をかけ、九州は日向の国からはるばるこの地まで東征してきた磐余彦は、年が改まった、「辛酉」の年の正月、自らを始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称し、ここに後に神武天皇と呼ばれる初代天皇が誕生しました。52歳のときのことでした。

以後はこの東征で功のあった者たちを新政府の中枢に据え、才のあるものたちを周囲に集めて国づくりにいそしみましたが、併せてこの戦いで最も戦功があったとして、かの大ガラス、八咫烏をも「幸を運ぶ鳥」として褒賞したといいます

そして、4年後には天下を平定し、のちには皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めました。これは第2代天皇の「綏靖天皇(すいぜいてんのう)」と呼ばれる人物です。

そして、その後も長く都の地を治められましたが、神武天皇年の76年、127歳にして崩御されました。とはいえ、これ以後2700年近い長い年月、第二次世界大戦という存亡の危機はあったものの、皇室そのものは存続し、現代に続く日本という国の繁栄が続いている、というわけです。

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めでたしめでたし……と、いうことなのですが、それにしても、まてよ亡くなったのが127歳?いくらなんでも高齢すぎるだろう、と誰しもが思うでしょう。

実際、その昔明治時代に入ったころにも、これについては、疑問視する学者が多数出ました。

明治になって以後は、科学的な視点から物事をみる、という欧米流の考え方が浸透していき、この中では、「歴史は、同時代史料や、同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだ」という、近代歴史論が展開されるようになりました。

そして、こうした天皇家の歴史の編纂においても、同様な原則が適用されるべきだろう、という意見が多数だされるようにもなりました。

古代史の記述も、他の史料や考古学的知見などに照らして、客観的、批判的視点で厳密に検証される必要が生じるとされ、その作業を経てなお残った記述のみが「史実」として認識されるのが妥当なわけです。

しかし、明治政府としては、ようやく徳川幕府を打倒して天皇をトップに頂く政治体制を築いたというのに、国民に顕示したところのこの「皇室の歴史」に疑義をはさまれてはたまらない、という事情もあります。

このため、こうした全うな意見は多数あったものの、それらに基づく本格的な史料批判は封鎖され、その後も表向きには長い間行われないままでした。

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それにしても、この初期の天皇が異常に長命であることや、その即位の紀年が古すぎることに疑問を持つ者は後を絶たず、たとえば明治の歴史学者で「那珂通世」という人などはひそかに日本書紀の記述を批判しました。

そして、この神武天皇の即位の年というのは、それから1200年ほど経ったのちの、第33代天皇である「推古天皇」の治世のときの絶頂期が601年ころであったことから、この年からさらに1260年遡った紀元前660年あたりを神武即位年にしたのだろう、と推測したといいます。

この英明な女帝、推古天皇が最も寵愛したのが、かの聖徳太子です。彼はその才能を十分に発揮し、冠位十二階や十七条憲法といった、日本の歴史残るような数々の制度を確立し、法令・組織の整備を進めたほか、小野妹子を隋に派遣するなど、優れた外交手腕を発揮しました。

那珂通世は、そうした改革が最も集中して行われたのが、601年ころと推定したわけです。この年から1260年前は、ちょうど紀元前660年であり、この1260という数字は干支と同じ60で割り切れることも何かと都合がよいと推古天皇は考えたのでしょう。

しかし、同じ割り切れるならば、1330年前としておけば、神武天皇が亡くなったのも127-60で、67歳となり、ちょうどいいのにな、と私などは思うわけです。

が、推古天皇の時代、そこまで時代考証は進んでいなかったのかもしれず、あるいは神格化された初代天皇ならばそのくらいの年齢まで生きたとしてもおかしいと思う人はいないだろう、と思ったのかもしれません。いずれにせよ、そこのところの事情はよくわかりません。

が、現代的な感覚では、江戸や明治のころに人は50~60くらいまでしか生きることはできませんでしたし、127歳で亡くなったというのは不可能ではないとしても、やはりおかしい、ということで、この疑義は延々と波乱を呼びました。

その後大正期にも、「神武天皇の存在は、皇室による日本の統治に対して「正統性」を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」とする批判などをする学者が出ました。

津田左右吉(つだ そうきち)という史学者で、このため津田は「皇室の尊厳を冒涜した」として起訴され、有罪判決を受けています。この事件は、「津田事件」として名を残すところとなり、津田は、1942年(昭和17年)に禁錮3ヶ月、執行猶予2年の判決を受けました。

しかしこの裁判については、津田自身は「弾圧ではない」と後に述べており、こうした真摯な態度が戦後も評価され、その戦前における弾圧の経験とあいまって、殆ど熱狂的に学界に迎えられました。そしてこうした神話を否定する“津田史観”は第二次世界大戦後の歴史学の主流となり、敗戦による価値観の転換を体現する歴史学者の代表となりました。

戦前、彼の著書は不敬であるとして発禁処分とされましたが、戦後には多くの歴史学者によって彼の考え方はおおむね妥当な推論であるとして支持されるようになりました。

こうして、この津田ら戦後の学者の研究成果が評価されるようになった結果、以後は、神武天皇だけでなく、さらには初期のころの天皇は本当にいたのかどかさえあやしい、という意見が主流を占めるようになりました。

津田左右吉は当時、神武天皇から第14代の「仲哀天皇」までの実在性に疑義をとなえていたそうですが、さらに研究が進んだ結果、実在可能性に乏しいのは第9代の「開化天皇」までであり、第10代の「崇神天皇」からが実在の人物であるとする考え方が、現代の歴史学会において主流となっているそうです。

そしてそれ以前の天皇については、弥生時代末期から古墳時代にかけての種々の出来事をベースに、実在した複数の人物の功績や人物像を重ねあわせて創作されたものではないか、とする説が出されるようになりました。古事記や日本書紀における神武天皇の説話はその集大成だった、というわけです。

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ただ、神武天皇を実在とする論者もいないわけではなく、神武天皇の東征物語は、九州にあった「邪馬台国」が畿内へ移動したという伝説のもととなっているものだ、という説もあるそうです。神武天皇が開いた大和朝廷そのものも、実は邪馬台国/九州王朝の分家にすぎず、本家は九州だ、とする説もあるといいます。

このように、その存在すらも疑われる神武天皇ですが、その陵(みささぎ)は、一応、奈良県橿原市大久保町にある畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)とされています。

この神武天皇陵は、平安の初め頃の記録で、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであったというものが残されているそうですが、中世以後はその所在も分からなくなっていました。

しかし、江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こり、幕府はその権威をより一層高めるため、元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われる一環で、この神武天皇陵をもその場所を探し始めました。

そしてその結果探し当てたとされる御陵は、現在の御陵よりも東北へ約700mの所にあった小さな円墳だったといいます。

しかし、ここは神武天皇ゆかりの畝傍山からいかにも遠かったため、再調査が行われ、その結果、幕末の文久3年(1863年)になってようやく神武陵は現在の場所であると結論付けられ、この古い墳墓を幕府が15000両を出して修復しました。徳川幕府はまた、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行ったといいます。

現陵は橿原市大久保町洞に所在し、畝傍山からほぼ東北に300m離れており、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めています。毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっているそうです。

このように、神武天皇は実はいなかったといわれる説が有力ではあるものの、江戸時代には墓まで創出?することまで行われて敬われてきており、現在の我々も今日の建国記念日をあえて否定もせず、神武天皇の即位日として祝い、これを国民の祝日としているわけです。

ところが、往時の自民党はこの日を建国記念日に制定するに先立ち、こうした根拠に乏しい日を祝日にすると国民の間から文句が出たら困る、と思ったのか、これを制定する直前の昭和41年に「建国記念の日に関する世論調査」を行っており、全国の20歳以上の男女1万人を対象に、国民の祝日に関する面接調査を行いました。

結果、有効回収票8,700が得られ、「建国記念日はいつがいいか」という質問に対して、47.4%にあたる4,124人が、もとの紀元節である2月11日で良い、と答えました。また12.1%の1,053人は、いつでも良いと答え、また憲法記念日が良い、と答えた人が10.4% (909人)でした。

圧倒的多数というほどではないものの、国民のほぼ半数が、国民の祝日として建国記念日を設けても良い、とした結果であり、「建国記念の日を設けることに反対」などとした人は2.1%(186人)にすぎませんでした。

その理由は今となってはよくわかりませんが、戦後まもないことでもあり、多くの人の頭の中に、戦前の学校で教えられたままに紀元節こそ我が国のルーツとする、という考え方が沁みついていた、ということはあるでしょう。

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しかし、これから50年近くが経った現在、建国記念日がいつがいいか、と問われても、そもそも「紀元節」の意味を知っている人もそれほど多くはなくなっていると考えられ、しかも建国の日が、神武天皇の即位の日、と教えられてもピンとくるひとも多くはないでしょう。

行動成長期には、休みを返上で働きバチのように忙しくしていた日本人も、長い不況を経験して疲れ切っており、休みは多ければ多いほどよい、と思っている人もまた多いことでしょう。おそらくは誰しもが疑義をはさんで休日が減らされては困る、と思っていると思われ、建国の日が何の日であれ存続を望むのではないでしょうか。

が、50年前と同じアンケートをとったら果たしてどんな結果が出るか興味はあります。

とはいえ、山の日や海の日、といったわけのわからん休日がどんどん増えています。そしてその名を変えてはいるものの、これらは歴代の天皇ゆかりの日であるものが多いようです。例えば、天皇誕生日もしかりですが、7月の第3月曜日の祝日、「海の日」はもとは、「海の記念日」とされるものです。

これは、1876年(明治9年)の明治天皇の東北地方巡幸の際の横浜港への帰着にちなみます。また、昭和の日は、昭和天皇の誕生日に由来し、勤労感謝の日は、天皇が五穀の新穀を天神にお供えし、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝するという、「新嘗祭」に由来しています。

これらの祝日の意味すらも知らない人が増えていると考えられ、その休日の意味やその存在意義を問うこと自体が現代ではナンセンスのような気もします。

それなら、いっそのこと、初代・神武天皇から今上天皇まで、全部の天皇誕生日か即位の日を祝日にして、125日分の休日を制定したらどうか、などとも思ったりもします。

一年のうち、三分の一が国民の祝日、というのは世界にはどこにもなく、よくぞやった日本、と世界から賞賛を浴びるかもしれません。

が、やはり日本は平和ボケの国だったわい、と馬鹿にされるのがオチのような気もします。なので、やはり建国記念日は今日一日だけでいいのかもしれません。

いずれにせよ、今日は休日。本来はお休みの日です。私としても多少のお休みはいただきたく、これ以上長いブログを書くのはご勘弁頂くとして、ここらあたりで終了のお許しを願います。

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春よフク

2015-8959今日は、2月9日ということで、29(ふく)の語呂合わせにより、「河豚(フグ)の日」ということになっているようです。

山口県の下関市は、“ふく”の本場とされ、多くのフグを扱う業者が集積しており、このため、「下関ふく連盟」という協同組合が存在しており、ここが1980年に制定した記念日だそうです。

この“ふく”という呼び方ですが、山口では、フグの事を濁らずにこう呼ぶ場合が多いとされ、これは、フグが「不遇」に繋がり、フクが「福」につながるからだとまことしやかによくいわれます。

が、私が知る限りでは、最近はフクなどとわざわざ言い換える人は山口県人にはほとんどおらず、お年寄りはともかく、一般にはフグと普通に発音する人のほうが多いように思います。

フグの本場、といわれるゆえんは、下関には、日本で水揚げされる天然のフグの8割近くが集まり、また長崎県や熊本県で、主に生産される養殖トラフグも大部分が集まる一大集積地であるためです。下関に集まったフグはここで売買され、毒を持つ内臓部分などを除去する加工が成されたあと、東京や大阪の消費地へと運ばれます。

特に下関の「唐戸魚市場」は、1933年(昭和8年)に開設された老舗のフグの取引所として知られていました。が、様々の変遷の後、平成13年にリニューアルされ、現在は食の人気観光スポットとして多くの観光客が訪れる場所としてのほうが有名です。

従って、現在ではフグのセリのほとんどは唐戸市場から分離した「南風泊(はえどまり)市場」で行われています。唐戸よりも大型船が接岸できるためであり、日本最大のフグ取り扱い市場として知られています。

一方、この唐戸と呼ばれるこの土地は、下関市役所のある市中心部に古くからある港町・宿場町であり、その昔「赤間関」と呼ばれていた関門海峡に面しており、現在でも同市の中心地です。

下関市の中心地であるだけでなく、九州方面への海の玄関口として発展した町ですが、1970年代に入ってからは、山陽新幹線や関門橋の開通によって下関の通過都市化が進んだこともあって、一時期はかなりさびれた時代もありました。

平成に入ったころには、海岸沿いでは老朽化した倉庫や建物が立ち並び、さらに下関駅東側の地区では旧国鉄貨物ヤード跡地が広がっていて、いかにも殺伐としていました。が、その後再開発が進み、海峡沿いにおいて「あるかぽーと」および「海峡あいらんど21」と呼ばれる商業地区が形成されました。

倉庫群が一掃され、埋立地であるこの「あるかぽーと」の一角には、市立水族館でもある「海響館」がオープンするとともに、新たな「唐戸市場」が改築されて利用されるようになり、さらには複合飲食施設である「カモンワーフ」がオープンすると、一大観光地として脚光を浴びるようになりました。

この海響館は、この唐戸地区から7~8kmほど東の「長府地区」にあった「下関市立水族館」の施設を移転してきたもので、フグの町下関を代表する施設ということで、ここにある大小の水槽には、100種類以上の世界各地のフグが展示されています。関門海峡を見渡せる風光明媚な場所に立地しており、私も大好きな水族館のひとつです。

このように、山口といえば、フグ、といわれるほど山口はフグの名産地とされているわけで、山口県はこのフグ「県魚」と指定しているほどです。また、山口県警のマスコットは「ふくまるくん」といい、フグが警察官の帽子をかぶり、ベルトをしている、というユーモラスなもので、県内のあちこちでこのキャラクターをみかけます。

このように山口、とくに下関とフグは切っても切り離せない、といった印象がありますが下関がフグの集積地となった背景としては、やはり山口沿岸ではフグがたくさん採れる、ということがあります。

私が子供のころにも、海釣りに行くとやたらに釣れたのが、フグでした。が、もっともこのフグは「クサフグ」といい、一応食用といわれて美味とされますが、調理師免許がないと調理できないもので、日がな一日釣りをしていても、こればかり釣れてほかのものが釣れずに辟易した思い出があります。

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ほかにも食用に適したフグとされるものは多数あるようですが、中でもトラフグは高級魚とされ、これもまた下関沖の玄界灘沖から瀬戸内海西部沿岸に近い海で捕獲されます。下関は、東シナ海、日本海と瀬戸内海を結ぶ交通の要衝の地であり、瀬戸内海以外にも東シナ海、日本海などの漁場も近く、フグのような魚介類の集積地としても最適です。

下関はこの豊かな漁場を足場に発展した漁業の町といえ、さらに明治期に入ると西洋の漁法が取り入れられ、トロール船による遠洋漁業やノルウェー式捕鯨の一大拠点ともなりました。

後の日本水産、現在の「ニッスイ」の前身である、田村汽船漁業部が下関に設立されたのが1911年(明治44年)、また、後の大洋漁業、現在の「マルハ」の前身である林兼商店が創業されたのが1913年(大正2年)であり、日本の水産業の曙はここから始まったといっても過言ではないでしょう。

下関はまた、日本海、瀬戸内海、太平洋(豊後灘)の交点に位置しているという関係から、早くから鉄道も敷設され、交通の要衝となりました。そしてこれらのさまざまな要因が、この町を日本一の漁業の町といわれるまでに発展させた理由でもあります。

しかし、1961年に28万トンという過去最大の漁獲高をあげて以降、年々漁獲高は低下していきました。これは、単に漁獲高が減ったためだけではなく、冷凍輸送やトラック輸送が発達し、他の地域の漁港が近代化したため、下関以外を経由して大都市圏への輸送が可能となったという社会インフラの変化があったためです。

ただ、乱獲による漁業資源の低下、捕鯨の禁止なども理由としてあげられないわけではなく、下関は捕鯨の町という側面もありましたから、やはり捕鯨をやめたことによる凋落の影響は大きかったでしょう。

このため、下関は従来の漁獲物に加え、より付加価値の高い漁業への転換をせまられるところとなり、そのなか着目されたのが「フグ」というわけです。

この魚で町を活性化させようと考えた人が多数現れ、彼等はフグを取引するための新しい市場を開き、フグ関連のイベントなども行って下関ブランドのフグの大衆化に尽力するとともに、フグの養殖化にも取り組みました。

こうした活動を県や市などの行政も積極的に後押ししたこともあり、その後下関はフグの一大集積地として成功をおさめるようになり、フグといえば山口、その中でも下関、といわれるほどの成功をおさめるほどになりました。現在も、フグのなかでもとくに高級とされる天然トラフグは、全国の7割から8割が下関で取引されています。

こうしたフグの集積はまたフグをさばく「加工業」の発展を促し、フグの加工に必須である「身かき」「皮むき」などの加工場が下関付近に多数集積するという結果を生みました。

ご存知のとおり、フグは毒を持つため、その加工技術においては他の魚と異なる技術が必要であり、一朝一夕で習得できるような単純な技能ではありません。こうした技術を持った職人さんは、他地域では多数確保できないことも、ここにフグ専門の加工業者が集積する一因です。

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しかし、近年は漁獲不振により山口県近海で獲れるフグの漁獲高は全体的に少なくなっています。

トラフグは、黄海から東シナ海、日本海の能登半島付近まで広く分布しており、夏から冬にかけて黄海および東シナ海は餌を求めて回遊し、1月から3月にかけて産卵のため、九州の長崎や熊本、山口県などの瀬戸内海、玄界灘や若狭湾へとやってきます。

また、瀬戸内海系のトラフグは、夏から冬にかけて伊予灘、紀伊水道、豊後水道辺りを回遊し、春になると産卵のため瀬戸内海の浅瀬にやってきますが、上述の東シナ海、日本海系群との交流もあるといわれています。

これらのフグを、漁師さん達は主に一本釣や延縄(はえなわ、一本の糸に多数の枝別れした針をつける)によって釣りますが、底曳網や定置網、刺網を使ったやや大規模な網漁により行われるころもあります。特に高級とされるトラフグは、延縄を海底に垂らして引く、という「底延縄」をもちいて捕獲されることが多いようです。

これらフグ延縄漁は、1965年に日韓漁業協定が締結されると、フグの魚場は東シナ海、黄海へと大きく広がり、これとともに下関に水揚げされる天然のトラフグの漁獲高は急激に伸びました。

しかし、1977年に北朝鮮が200海里の排他的経済水域を宣言すると北緯38度以北への出漁ができなくなり、漁獲高は減少傾向をみせるようになりました。さらにはフグの産卵場である瀬戸内海沿岸の埋め立て、乱獲や韓国漁船や中国漁船によるフグ漁の活発化によっても減少し、1990年代に入った以後も漁獲高は低迷を続けています。

フグ延縄漁を行う漁船の数も年々減少し、下関沿岸で1988年には200隻以上が操業していたものが、2000年には29隻にまで減少したといい、多数操業していた小型船は、フグ漁専門では採算が合わず、他の漁と平行して行う状況に置かれています。また、冬場はフグ漁を行うものの、他の時期はアマダイに切り替えるなどの措置を行っているようです。

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ただ最近ではこうした天然ものに代わって、養殖フグが盛んに行われようになっており、年々増減を繰り返していますが、全国のフグ取引量およそ10万トンのうちの、だいたい4~5割ぐらいが養殖フグです。

1979年に唐戸魚市場に初めて養殖フグが上場されたときはまだ天然フグが圧倒的に多かったようですが、1990年代には一時、天然トラフグと養殖トラフグの水揚げ高が逆転したこともありました。

また、輸入物も増えており、この10万トンの取引量のおよそ半分は、海外からのものです。輸入先の99%は中国であり、残りは韓国で、2002年、初めてフグの輸入量が国内生産量を上回りました。近年はこれらの国でも養殖技術が向上しており、国内産の養殖フグも押され気味のようです。

ただ、下関がフグの一大集積地であるということは今も変わらず、前述のように、東シナ海、黄海、日本海の遠洋や瀬戸内海など近海で取れたフグが漁船で直接運び込まれるほか、韓国や中国からの輸入物もここに船で運び込まれます。日本国内ではこれ以外には、若狭湾や伊勢湾、遠州灘などで捕獲されたフグも陸路トラックにより運び込まれます。

冷凍技術の発達により、漁獲されたフグを直ぐに絞めて冷凍保存されて運ばれる場合もあるようですが、高級とされるトラフグなどではこれをやると味が落ちてしまうため、生きたまま、水槽に入れられて搬送されるケースが多いようです。

こうして集められたフグは、「袋せり」という独特の方法で競りにかけられます。これは、仲介者と買い手が、「ええか、ええか」の掛け声とともに、他者から見えないように服の袖から下を互いに筒状の布袋の中に入れて、仲介者の指を買い手が握ることで値段をつける取引です。

指の握り方によって仲介者に値段を伝えるわけですが、袋の中で行われるため、どの買い手がどのような値段をつけたかは分からないようになっています。競りのスピードは速く、トロ箱一つがわずか数十秒で競り落とされるため、買い手はフグの善し悪しを素早く判断し、その値段を決めねばならず、かなりの熟練を要する取引方法です。

このように、下関には内外から多数のフグが集積され取引されているわけですが、これほど多くのフグが扱われる理由はただひとつ、フグは魚の中でもとくに美味、とされるほどの高級魚であり、高値で売れるからです。

その食用の歴史は古く、2000年前の貝塚からはフグの骨が発見されており、縄文時代から食べられていたと考えられています。豊臣政権下の時代に行われた朝鮮出兵の際、兵士にフグによる中毒が続出した、という記録が残っており、このため秀吉はフグ食禁止令を出したそうです。

徳川氏に政権が変わった後にも、武家では「主家に捧げなければならない命を、己の食い意地で落とした輩」として、当主がフグ毒で死んだ場合には家名断絶等の厳しい対応がなされたといいます。とくに長州藩は厳しく、家禄没収などの厳しい処罰が定められていたそうで、また吉田松陰は自身の文筆のなかで武士のフグ食を批判しています。

こうしたことから、そもそも山口県ではフグを積極的に食べる、という風習は昔からなかったようです。現在日本最大のフグの集積地である下関を擁しているのに意外なことです。

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その後、明治になり、この新政府も1882年(明治15年)に河豚を食べた者を拘置・科料に処する法令を出しています。フグ中毒の増加したためで、「河豚食う者は拘置科料に処する」とした項目を含む違警罪即決令でした。

ところが、この明治政府の重鎮で、しかも長州出身の伊藤博文は、地元の下関でこれをこっそり食べたといいます。

現在、関門海峡には関門橋がかかっていますが、この下関側のやや南側に、源平の合戦の際に亡くなった安徳天皇の御陵がある「赤間神宮」というお宮があります。海峡を望む高台に位置し、眺めがよく、気持ちのいい神社ですが、この神社に隣接して、「春帆楼」という割烹料亭店があります。

ここにはもともと、「阿弥陀寺」という寺があり、このためこの一帯は現在も阿弥陀町という名称を冠しています。この寺をその後、九州の中津藩からこの地に移り住んできた医者が買収し、ここに「月波楼医院」という眼科を開院しました。ところがこの医者は早くに亡くなり、その未亡人が一人残されました。

眼科医は、藤野玄洋、未亡人は、ミチといいますが、この藤野玄洋は生前、伊藤博文と仲がよかったといいます。そして、この「春帆楼」という名は、伊藤が春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様子を見て、命名したと言われます。

夫の亡きあと、旅館兼料亭を創業したらどうか、と提案したのも伊藤のようで、おそらくその建設資金もかなり伊藤が援助したものと考えられ、その完成は、1884年(明治17年)のころのようです。

この春帆楼で伊藤がフグを食べたという経緯ですが、上述の通り、このころ明治政府が発布した禁食令が出ており、長州でもこれが遵守されていました。が、これは表向きだけで、下関の庶民は昔から手料理でフグを食べていたようです。

おそらくはこの春帆楼でも裏メニューとして客に提供していたと思われますが、そんななかの1887年(明治20年)暮れ、伊藤博文公がふらりと春帆楼に顔を出しました。ところが、おりしも海は時化続きで魚がまるで捕れない日が続いており、困り果てた女将のミチは、お手討ち覚悟でご禁制のフグを伊藤の前に出しました。

伊藤は無論、政府の重鎮ですから当然それが政府が禁止している食材であることは百も承知でした。しかも、彼は若いころから親友である井上薫や親分的存在の高杉晋作らのワルとつるんで、フグを何度となく食していたため、その味は知りつくしていました。

しかし、伊藤はこのとき、ジロリ、とミチを一瞥しただけで何も言わず、まるで初めてのように何食わぬ顔でフグを食したといいます。

この春帆楼で出されたフグがどんなふうに調理されたものだったかはよくわかりません。が、通常のフグ刺しなどのほかに、絶品とされる白子などもあったのでしょう。伊藤はそれらを残さずたいらげたあと、その味を絶賛したといいます。

そして、翌年1888年(明治21年)には、当時の山口県令(知事)であった原保太郎に命じ、山口県内だけでもフグを解禁しろ、と命じたといわれており、こうして春帆楼は「ふく料理公許第1号」として広く知られるようになります。

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その後、東京帝国大学医科大学の初代薬物学教授で、日本における薬理学的研究の草分けともいわれる「高橋順太郎」医学博士らが、フグ毒の化学的、薬理学的研究を推し進め、1889年(明治22年)にフグ毒の組成をほぼ特定しました。

そして、この毒が生魚の体内にあること、水に解けやすいことなども解明したことから、フグ中毒にかかった場合の対処法なども周知されるようになり、毒性のある部位などを安全に取り除く調理法などの研究も進みました。

その結果、明治政府もフグを解禁するようになり、フグ食の文化は山口県だけでなく全国にも普及するようになり、今日に至っています。

ちなみにこの、春帆楼は、ふぐ料理公許第一号店として名が知れ渡ったあとも、日清戦争後、1895年(明治28年)に締結された日清講和条約(下関条約)の締結会場ともなり、さらに全国的に有名になりました。が、1945年、空襲で家屋焼失。戦後は東京の不動産会社がその跡地を取得して、現在の建物が再建されました。

が、この会社はその後会社更生法の適用を受けて倒産。今はオリックス関連の不動産会社が経営しているということです。

往時には、昭和天皇・香淳皇后ご夫妻が、山口国体開催の時などに2度に渡ってここに宿泊するほど格式の高い旅館であり、敷地内には現在も日清講和記念館(登録有文化財)、伊藤博文・陸奥宗光の胸像など、講和条約時の記念物が鎮座しています。

こうして全国で食されるようになったフグですが、今もフグに当たって死亡する、という事故が時々あります。高級食材とされ、フグ調理の許可を持たない人にしか調理できないがゆえに高価になりがちであり、このため素人が自分で調理しようとするためと考えられます。

しかし、所詮は素人であり、うまく毒を取り除けず食中毒をおこすわけですが、1996年から2005年の10年間だけでも全国でフグによる食中毒は315件発生しており、31名が死亡しています。

フグの毒の部分を取り除くためには、ふぐ調理師免許という各都府県が発行する免許が必要となる、とされています。この資格は、各都府県の「ふぐ条例」により定められていますが、すべての県が定めているわけではなく、例えば北海道にはこうした条例はありません。

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ところが、このふぐ条例は、あくまで「条例」にすぎず、法律ではありません。従って、ふぐ料理についての営業施設・処理施設・調理師等を管理については、各都道府県の裁量に任されており、調理師の試験もある県とない県があり、ある県でもその試験制度に細かな違いが存在します。

大阪府の条例を例に取ると、ふぐ販売営業を許可制とし、専任のふぐ取扱登録者、ふぐ調理師によるフグ毒を除去する調理と有毒部分の適切な処理を義務付けています。が、こうした条例がない県では、単に「ふぐ取扱指導要綱」という形で規定しているだけのところもあります。

また、「ふぐ調理師」というのも俗称であり、都道府県によっては、ふぐ包丁師、ふぐ取扱者、ふぐ処理師、ふぐ調理士、ふぐ取扱登録者、ふぐ調理者とその呼び方が違います。

国家資格ではないわけで、ふぐ調理師の免許や資格は各都道府県が個別に定めているため、せっかく資格をとっても特段の定めのない限り当該都道府県内のみでしか通用しません。

従って、大阪の調理士さんが、東京へ出て行って、大阪の条例に定められた方法でフグを調理して客に提供すると、東京の条例に違反しているとされて、罰せられる可能性があります。

こうしたことから、「全国ふぐ連盟」は日本全国で統一した制度を求めているようですが、いまだ実現せず、都道府県によって免許や講習受講による「資格」取得の条件や難易度は異なるばかりか、いまもって講習において受講資格を定めていない自治体や、受講後の試験のない自治体もある、というのが現状です。

山口県には無論、フグ条例はありますが、面白いことに、フグのメッカであるこの県が条例を定めたのは、全国の都府県の中で最も遅い1981年であったといいます。最初に制定したのは、大阪府で1948年ですから、33年もあとのことになります。

この間、どうしていたのかと思うのですが、伊藤公のころと変わらず、どこか曖昧なままに中毒を起こすかもしれないフグを客に出し続けていたのでしょう。

総理大臣を8人も出したように(菅元総理を入れれば9人)、組織の力をフルに活用する派閥名手が多く、理論的でクールな現実主義者が多いといわれる県民性であるにもかかわらず、どこかこうしたおおらかなところがある長州人らしい、と私などは思ってしまいます。

いずれにせよ、こうした条例がない、または専門の調理師さんの養成が行われていない県では、フグは食べない方が無難かもしれません。条例がないというのは、そもそもあまりフグの流通のないところに多く、例えば北海道や山形県を除く東北のすべての県では、ふぐ調理師制度はありません。

従って、こうした地域でもし「フグ刺し」がメニューに上がっている料理店があったら、ちょっと考えた方が良いかもしれません。

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フグを食べて死んだ人の中には歌舞伎役者で、人間国宝だった「八代目坂東三津五郎」のような有名な人もいます。

昭和50年(1975年)1月、京都で公演中に、近くの料亭で肝を四人前食べて中毒死されたもので、食通として知られていた三津五郎はこのとき、渋る板前に「もう一皿、もう一皿」とねだったそうです。

ところが、この事故は思わず余波を呼び、危険を承知の上で毒性の高い肝を四人前もたいらげた三津五郎さんがいけなかったのか、フグ調理師免許を持っている板前の包丁さばきがいけなかったのかで、かつてなかった大論争を引き起こしました。

結局裁判沙汰まで発展し、その公判では板前の情状を酌量しつつもその「中毒死の予見可能性」における過失は覆いがたいとして、業務上過失致死罪及び京都府条例違反で執行猶予付きの禁固刑という有罪判決がでました。

それまではフグ中毒事件を起こした調理師に刑事裁判で有罪判決が下ることは稀だったことから、この判決は世間を驚かせ、以後「フグ中毒」といえば「三津五郎」の名が必ず引き合いに出されるほどになったといいます。

関西では「当たれば死ぬ」ことから、フグは、「テッポウ」(鉄砲)とも呼ばれているそうで、またはこれを短くした「テツ」と呼ぶそうです。ほかに隠語として、長崎県島原地方では「ガンバ」と呼ばれています。「ガンバ」とは島原では棺桶の方言です。美味なフグを食す際は傍らに棺桶を用意せよというわけです。

また明治時代の文明開化期には、当時精度の低かった天気予報に引っ掛けた洒落で、「測候所」とも呼ばれたそうです。あまり当たらないが、たまに当たる、の意味です。

その天気予報によれば、ここ伊豆では、今週から来週に至ってはしばらく晴天が続くようです。去年の今ごろは、大雪で悩まされたわけですが、果たしてこの天気予報、当たっているでしょうか。

2015-9086伊豆、達磨山にて

夢見るキノコ

2015-8840寒い日が続きます。

昨日のこの町は、終日雨交じりの雪でした。もっとも、麓の修禅寺では終日雨だったようで、雪が降っていたのは、標高の高いここから、達磨山にかけての高地だけだったようです。

この降雪のおかげで、終日陽がささず、夕方までの気温も5℃以上なることはとうとうありませんでした。

それでも終日零下になるのが当たり前の、日本海側の地方や東北北海道などに比べればましなほうであり、そこは暖地であるこの地のメリットではあります。が、それでも夜はさすがに冷えるので、最近の夕食はというと、ほぼ毎日のように鍋になっています。

簡単に用意でき、かつ暖まるし、野菜もたくさん採れる、ということで我が家では冬場の定番なのですが、この鍋においていつも欠かせないのが、キノコです。

色々な種類がありますが、通常スーパーで出回っているのがエノキタケや、シメジ、エリンギなどですが、ここ伊豆ではやはり名産地ということで、シイタケが安く売られていることが多く、我が家でもたいがいこの黒いダイヤモンドが鍋の中央に座ります。

そのエキスから出る独特のダシも鍋のスープの味わいを引き立たせてくれ、食べても非常に美味な逸品です。無論、その他のキノコを入れてもおいしく、キノコオンパレードにして「キノコ鍋」にするのもまたオツなものです。

このキノコですが、例によって改めてこれが何者かを調べてみる気になりました。いろいろな病気を引き起こす、バイキンに近いもの、ということは薄々知っていたのですが、キノコはこのうちでも、比較的大型のもので、厳密な定義があるわけではないものの、無論、微細なバイキンとは明らかに異なり、植物でもありません。

どちらかといえば「カビ」に近く、このカビと共に」「菌類」という生物群にまとめられるようで、この菌類の特徴は、「菌糸」と呼ばれる管状の細胞列を持ち、これが体外の有機物を分解吸収することで生長し、繁殖を繰り返します。

ただ、一概に菌類といっても大きいものも小さいものもあり、その姿はカビに見えたり酵母状のようなものであることもあり得ます。その場合、たとえば枯れ枝の表面などに張り付いていたり埋もれていたりする微小な点状のものもキノコです。

しかし、一般的は「キノコ」と言えばより大きい、傘状になるものを指し、たいてい日陰や湿ったところに生えます。実際にそういうところで目にする場合が多いわけですが、ただ、キノコの側からすれば、好んでこうした暗くて陽の当たらないところに育っているわけではないようです。

というのも、キノコは地下性のものを除けば、もともとその成長のためにはある程度の光が必要な場合が多いそうです。また、キノコは繁殖するために、その胞子を外界に飛ばします。このため、広い空間が必要であり、朽ち木の中の閉じた空洞で胞子を飛ばしても仕方がないので外に開かれた場所で成長する必要があります。

しかし一方では、自らの体を作る菌糸は、湿った場所でしか育ちません。キノコ自身は明るい場所が好きなのですが、明るい場所は乾燥しやすく成長するにはあまり良い環境とはいえません。スポーツは大好きなのだけれども、炎天下で運動すると肌が弱く日焼けしやすいので、室内でしか運動できない体質の子供のようなものです。

このため、開けてはいて多少陽はさすとしても、周囲に比べるとやはり暗く湿ったところが生育場所にならざるを得ないわけです。が、真っ暗で閉鎖的なところではキノコは太く大きな傘を形成することはできません。その代表例がびん栽培のエノキタケです。

か細くひょろ長くなり、一応キノコの形はしていますが、同じく冷暗所で育てられるモヤシのようです。自然に生えたエノキタケは立派な傘を持っており、びん栽培のエノキとは明らかに違います。

無論、この自然に近い状態で育てたエノキもエノキタケとして販売されています。びん栽培のものとは食感も全く違うし、別の種類だと思っている人も多いでしょうが、同じものです。

このほか、キノコは雷が大好きだ、という話をご存知でしょうか。落雷した場所では大量のキノコが生育しやすい、という話は、ギリシャ時代の哲学者、プルタルコスが「食卓歓談集」という本に記しているほどで、昔から事実とされてきました。

落雷によるショックで防衛本能から子孫の増殖本能が働くため、そうした場所ではキノコが増えやすい、と考えられているようです。実際に木材腐朽菌のシイタケ、ナメコ、クリタケ、ハタケシメジの4種類のほだ木に人工的に交流の高電圧パルスを与えた栽培実験では、2倍程度の収量が得られた事が報告されています。

ギリシャ時代からこうした事実が知られているほどですから、人類は昔からキノコが大好きです。食用としてのその歴史は古く、ギリシャ時代には焼いて食べるくらいだったようですが、後世の古代ローマ時代からは、色々なキノコ料理が発明されるようになりました。また、薬用としてもいろいろな使い方をされてきました。

日本においても古くから身近な存在であったようで、縄文時代の遺跡からは既に「きのこ型土製品」も出土しているほか、シイタケなどの人工栽培が普及し、このほか漢方薬としても使われてきた歴史があります。霊芝や冬虫夏草などがそれであり、また最近では健康食品としてアガリクス(ヒメマツタケ)なども重用されます。

ただ、ご存知のようにキノコには、食べられるものと食べられないものがあります。食べられるものは、「食用」ですが、食べられてもまずく、非常に硬く食用にされないもの、毒性が不明なものは、「不食」とされます。また。毒または猛毒で間違って食べれば大きな副作用のあるものもあり、これはいわゆる「毒キノコ」と呼ばれるものです。

このうち、食用キノコについては、現在世界では一年間に800万tが食べられているそうです。その多くは人工栽培されたものでしょうが、無論、自然から採取して食べる風習は日本だけでなく、世界各国であります。

ちなみに、キノコは英語では、マッシュルームといいますが、日本でいうところのマッシュルームは、もともとは商品名です。正式な名称はセイヨウマツタケといい、和名はツクリタケです。これもご存知でない方が以外に多いものです。

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このセイヨウマツタケもまた、人工栽培がさかんですが、元々は自然にあったものです。それを最初に見つけて、食べられるかどうかを試した人は勇気がいったと思われますが、他のキノコも同じであり、食べられるキノコと毒キノコ類を見分けるのは、簡単ではありません。

キノコの形態は多様であり、その様々な特徴において毒があるかないかを見分ける、ということが先人により行われてきました。現在でも古人の経験則を頼りに同定するわけですが、ただ、上で述べたように元来キノコは菌類、つまりカビと同じように毒性をも持ち合わせている可能性の高い、微細な仕組みの生物であることを忘れてはなりません。

それが多数積み重なって肉眼的な構造を取ってはいるものの、カビと同様に微生物としての目に見えない部分の特徴が実は重要です。従って、みかけでは、食べられる、と判断しても、胞子などを顕微鏡で見れば実は違っていた、なんてこともあり得ます。

もちろん、熟練したキノコ狩りの達人ならば、顕微鏡を使わずとも、大抵の同定を正しく行えるわけですが、これはその地域に出現するであろう類似種や近似種の区別を、その地に住んでいるならではの土地勘というか環境勘というか、そうした知識によって知っているからできるためだといわれています。

他地域に行けばこうした名人でも見分けられない可能性があるわけで、また「キノコ図鑑」なる絵入りのガイドブックなどもあるようですが、外形の写真だけの図鑑での同定は基本的には正しくできない可能性がある、と考えていたほうが良いといいます。

毒キノコの確実な見分け方は存在せず、いわんや、キノコの同定の経験に乏しい人が野生のキノコを食べるのは非常に危険です。食用キノコか否かを見分ける方法は、実際に食べてみるしかない、とまで言われているようです。

一般に言われているように、毒キノコは必ずしも色が派手なものとは限りません。このほか、「たてに裂けるキノコは食べられる」「毒キノコは色が派手で地味な色で匂いの良いキノコは食べられる」「煮汁に入れた銀のスプーンが変色しなければ食べられる」「虫が食べているキノコは人間も食べられる」といった見分け方もありますが、これも迷信です。

何の根拠もなく、事実、猛毒であるコレラタケ、ドクササコなどはたてに裂け地味な色であり、こうした俗説を信じて、野にあるキノコを口にしてはいけません。食用か毒かを判断するには、そのキノコの種、さらにはどの地域個体群に属するかまでの同定結果に基づくべきです。

実際に起きているキノコによる中毒の多くは、既に毒であることが知られていたキノコであるにもかかわらず、これをミスジャッジして食べてしまったことによるものです。必ず専門家の知恵を借りて、安全性を確認しましょう。そしてその専門家も、本当にプロと言える人だけを信じるようにしましょう。

キノコ狩りのプロ、と言われるような人でもその地域のキノコのことしか知らない場合が多く、常住の人達だけに伝わっている俗説に基づいて毒キノコかどうかを同定している場合があるわけです。

これらのよく知られた俗説が全国区の権威あるものとして広まった背景としては、一部で流布していた俗説を事実であると誤認した内容が、明治初期の官報に掲載されてしまったためであるとも言われています。

なお、ハエトリシメジのように人間とそれ以外の生物では毒性がまるで異なるものもあります。この場合は昆虫などに猛毒で、人間への毒性は微弱であり、このように摂取する動物により毒性の程度が異なるキノコも多数存在します。

このように、キノコはさまざまな種類のものが食用となる一方で、人間にとっては猛毒になる毒キノコも数多く存在するわけです。が、その毒についても致命的な毒を持つものから、中程度の毒を持ち神経系に異常をきたすもの、軽い症状で済むものなど色々です。

摂取すると、嘔吐、腹痛、下痢、痙攣、昏睡、幻覚などの症状を生じ、最悪の場合死に至るようなものは最も危険ですが、このほか、長期にわたる体の麻痺を生じるようなキノコや、変わったところでは、アルコールと一緒に食べると中毒を引き起こすヒトヨタケのようなキノコもあります。

しかし、一般に毒キノコとされる、ベニテングタケ、シャグマアミガサタケなどある種の毒キノコは調理によって食用になる場合もあります。ただ、これらは例外であって、ほとんどの毒キノコはどう調理しても食用になりません。「ナスと一緒に食べれば中毒しない」といった説もありますが、これも迷信です。

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ところで、このベニテングタケは、摂食した際の中毒症状として「幻覚作用」を起こすことが知られています。

東シベリアのカムチャッカでは酩酊薬として使用されてきた歴史があり、西シベリアではシャーマンが変性意識状態になるための手段として使われてきたように、ベニテングタケはシベリアの文化や宗教において重要な役割を果たしてきました。

古代インドの聖典で「リグ・ヴェーダ」というものがあるそうですが、ここに登場する聖なる飲料「ソーマ」の正体が、実はベニテングタケではないかという説もあるようです

日本では、覚せい剤としての使用の歴史はないようですが、少量摂取では重篤な中毒症状に至らず、軽い嘔吐程度で済むことなどから、長野県の一部地域では塩漬けにして摂食されているそうです。

ただ、本種を乾燥させると、毒性が強化され、また長期間食べ続けると肝臓などが冒されるといいます。有効成分は水溶性であるため、加熱調理を加えれば部分的には解毒することもできますが、いずれにせよ有毒菌であるため本種の喫食は厳に慎むべきです。

しかし、現在のところ、国際連合の国際法で未規制のため、日本を含めたほとんどの国ではベニテングダケの所持や使用は規制されていないようです。

しかも、ベニテングダケ以外にも、日本には幻覚症状を起こす種類のキノコは多数自生しており、実際には野放し状態であり、規制されていません。ところが、「マジックマッシュルーム(Magic mushroom)」のように脱法ハーブとみなされ、規制されるものが最近は増えてきました。

幻覚成分であるシロシビン、またはシロシンを含むキノコであり、日本ではこれらの成分を含有するキノコを、「麻薬原料植物」として規制対象にしており、許可なく栽培することが禁じられています。

ただ、日本を含め、世界に100以上の種が存在しています。栽培が禁止されているため、目につくところにはありませんが、実際は似たような品種が、自生している可能性もあります。そしてこれらをひそかに栽培、もしくは許可なく輸入し、裏世界で生成して販売している業者が出るようになりました。

1990年代より、既にサブカルチャー向け雑誌等で脱法ドラッグの一種として紹介されていたといいますが、当時はこうした麻薬になる品種の栽培を規制する法律がなく、また栽培も容易であり、野放し状態でした。

ところが、その後、「デザイナー・ドラッグ」と呼ばれるものが増えるようになりました。法律で麻薬に指定されている化学物質以外に、化学式が非常に良く似ている物質を、これらの品種から抽出して合成したものです。麻薬に似てはいるものの、厳密には指定されていない薬物であることから、違法でないとしてこれを製造する輩が増えました。

そして、これが「脱法ドラッグ」、もしくは「脱法ハーブ」と呼ばれるものです。その後は、インターネットの普及も手伝って流通するようになり、やがて大きな社会問題となりました。

このため、このマジック・マッシュルームものちには規制の対象となり、薬として、また食品として販売することはそれぞれ薬事法、食品衛生法に触れるようになったわけです。

それでも、「観賞用」等の名目で販売されることが多かったといい、雑誌の通販などでほそぼそと販売されていましたが、インターネットの普及でより広範に販売されるようになりました。2001年には、俳優の伊藤英明さんがマジックマッシュルームを摂取して入院するという騒動が発生し、騒ぎを大きくしました。

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このマジック・マッシュルームとは、もともとは、古代メキシコなどでシャーマンが神託を得るために食べるものであったとされます。その後も南北アメリカ大陸を中心に神聖なる物として扱われ、アメリカの先住民は、先コロンブス時代から数世紀にわたり、マジックマッシュルームを宗教儀式や病気の治療などに用いてきました。

グアテマラのマヤ遺跡では、キノコの形をした小型石像がいくつも発掘されているといい、14〜16世紀に栄えたアステカ王国では、「神の肉」を意味する「テオナナカトル」と呼ばれ、キノコを食べる先住民の姿などが描かれた写本も残っています。

またアステカの花の神、「ショチピリ像」には、幻覚キノコや幻覚性植物の彫刻が身体にほどこされているといいます。

その後、スペインによる征服とカトリック布教に伴い、幻覚キノコや植物の使用は弾圧されたようですが、現在でも南北アメリカの人里離れた地域では現在でも用いられているようです。

1950年代に、アメリカのキノコ研究者ロバート・ゴードン・ワッソンらの実地調査によって初めてこのキノコの存在が明らかにされました。さらには、1959年ごろアルバート・ホフマンという学者がこの幻覚成分を特定し、成分にシロシビンとシロシンと名をつけました。

1960年にメキシコでマジックマッシュルームを食べた心理学教授のティモシー・リアリーという人は、自らこれを摂取した結果、神秘体験をして衝撃を受け、オルダス・ハクスリーやリチャード・アルパートらと共に研究を開始。

刑務所の囚人や、400人ものハーバード学生らにシロシビンの錠剤を投与した結果、前向きな変化が現れることを確認しました。神学校の学生に投与した際には、10人中9人が本物の宗教的な体験をしたと報告したといいます。

そして、1970年代に入ると、LSDの規制に伴いナチュラルな幻覚剤の人気が上昇します。LSDは化学的に人工合成された強い麻薬ですが、比較的簡単に製造できるこの薬が規制されたことからマジックマッシュルーム栽培が一躍着目され始めます。

ガイドなどが出版されるようになり、ハイ・タイムズなどのカウンターカルチャー雑誌は、自宅でマジックマッシュルームを簡単に栽培するための菌糸や栽培キットの販売を行うようになりました。

カウンターカルチャーとは、既存の・主流の・体制的な文化に対抗する文化、「対抗文化」という意味です。またハイ・タイムズ(High Times)はアメリカで販売されている雑誌であり、嗜好品としての大麻の使用の合法化を強く主張しています。大麻に寛容なカナダ、アメリカ西海岸などでは、コンビニエンスストアでも気軽に入手可能な雑誌です

それでは、このマジックマッシュルームの実際の作用はどういったものかというと、まず肉体的作用としては、脱力感、悪寒、瞳孔拡散、嘔気、腹痛などが挙げられます。問題は知覚作用であり、これは視覚の歪み、色彩の鮮明化などがあり、これは瞳孔が拡散するために起こるとされます。

このほか、皮膚感覚の鋭敏化、聴覚の歪みなどが挙げられ、閉眼時にも視覚的な認識があり、何らかの模様や色彩的な変化を感じます。LSDの知覚的作用に良く似ているといい、しかし視覚的な変化はLSDを上回るといいます。

摂取より1時間ほどで効果が現れ、5時間から6時間ほど持続し、ほかの薬物摂取と同様に摂取時の周りの環境や自分自身の精神状態の良、不良により、経験する内容も大きく変わります。また、効果が消えてからも、摂取経験からくる何らかの偏執に捕らわれることもあるそうです。

その摂取により、感情の波が激しくなり、摂取者の経験に因る部分もあるが自身での感情のコントロールが難しく、偏執に捕らわれることも多いといい、基本的にはハッピーな気分になる、すなわち「多幸感」と呼ばれる感覚を伴います。

が、感情の波がネガティブな方向に向かってしまう、いわゆる「バッド・トリップ」になるとパニック症状を起こしたり、ネガティブな偏執に捕らわれたりします。つまり、「幻覚」を見るわけです。

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この幻覚とは、見たことがない人にはさっぱり理解できないものです。無論、私もみたことはありません。

定義としては、対象なき知覚、即ち「実際には外界からの入力がない感覚を体験してしまう症状」をさすようで、幻聴、幻視、幻嗅、幻味などの幻覚を含みますが、四肢を失った人が良く感じるという、幻肢もまた、幻覚だそうです。

ただ、錯覚実際に入力のあった感覚情報を誤って体験する症状は幻覚ではなく、これは「錯覚」と呼ばれるものであり、あー勘違い、というアレです。

この幻覚は、マジックマッシュルームのような麻薬などの服用によって起きるわけではありません。また、精神病や心的外傷後ストレス障害(PTSD)などといった、特殊な状況でのみ起きるわけでもなく、正常人であっても起こりうるといいます。

夜間の高速道路をずっと走っている時など、刺激の少ない、いわば感覚遮断に近い状態が継続した場合に発生することがありますが、これも幻覚の一種だそうです。このほか、アイソレーション・タンク(Isolation tank)のように徹底して感覚を遮断することでも幻覚が見られることが知られています。

これは、内部に人間が浮かぶ程度の比重を持った液体を入れ、光や音を遮蔽した小部屋ないし大きな容器のこと。アイソレーション(Isolation)とは分離を意味します。1990年代以降はヨーロッパを中心にフローティング・タンク(floating tank)と呼ばれることが多いようです。

感覚遮断(感覚遮蔽)の効果をみるためにジョン・C・リリーという人が1954年に考案し、現在では心理療法や代替医療としても使われています。タンク内部の液体は通常、濃度の高い硫酸マグネシウム溶液が用いられ、液体に浮かんだ人間が温度差を感じないように人の皮膚と同じ温度に調整されます。

この部屋に入り、液体に浮かんだ人間は視覚・聴覚・温覚を完全に、また重力によって発生する上下感覚からある程度遮蔽されます。タンクには、温水が浅く張られ(約25cm)、温水には硫酸マグネシウムが溶かされており、非常に濃い塩水となっています。

その濃さは死海、あるいはグレートソルトレイクよりも、遥かに浮力が高い程で、水の中に仰向けに横たわる人は、コルクのように水面に浮かぶことが可能だといいます。扉を閉めるとタンクは完全な闇になります。外からの視覚刺激が全く無い状態は、我々のほとんどが通常の生活では経験できることはない体験です。

タンクの中では、あまりも暗いために、目を開けているのか閉じているのかさえも分からない状態となり、耳は水面下にあって、耳栓をしているために、外の音も全く聞こえません。これもまた通常では全く経験しない体験です。光と音の両方が消され、またタンクに入れられる水温は、肌の表面温度に等しいため、暖かくも冷たくも感じないそうです。

このため肌と水の境目がわからなくなり、温痛覚、触覚などの皮膚感覚のブランクアウトが生じます。また、体が浮くことによってなくなるもう一つの感覚は、重力による圧力で、これは「深部感覚」といいます。

この感覚を感じるようになると、それまで毎日、一日中顔を突き合わせている重力から解放されます。日常における我々の神経活動の90%は、どこに重力があるのか、どちらの方向を向いているのか見極めること、そしてどう動けば倒れずに済むのかを考えることに無意識に費やされているそうですが、そうした重圧から解放されるわけです。

タンクで浮き始めると、それまでずっとしてきていた、あらゆる重力計算から即座に解放されるため、このため、今まで分散されてきた意識の集中が解放され、この解放される意識の中には「無意識」も含まれます。

そして、これらのすべてが一つのことに向かい集中されることにやがて自ら気づくといい、それはまるで、月と地球のどこか中間に浮かんでいて、自分にかかる引力が全くない状態のようだといいます。もちろん動けば自分がどこにいるのかはわかるわけですが、動かなければ、周りの世界は全て消え、事実上自分の体を全く感じなくなります。

このようにアイソレーション・タンクを使えば、呼吸を整える、何かを集中して見つめるといった瞑想テクニックが、到達しようとして努力していながらなかなか得られないでいる感覚が得られるといいます。最新のテクノロジーを用いて、素早く、簡単に、確実に、しかも安全にこうした体験ができるわけです。

仏教では、特に密教では仏に対する讃歌や祈りを象徴的に表現した短い言葉、「マントラ」を繰り返すことで、無我の境地に至るとされます。これが、発展したものがいわゆるヨーガにおける音声による修行であり、アイソレーション・タンクによって得られる効果も、これと同じだといいます。

そして、初めてアイソレーション・タンクを体験する人でも、このヨーガと同じように、数分のうちに自分の体が消えてなくなるように感じ、完全な闇、音の無い虚空の中に、無重力状態で浮遊していると気づけるといいます。

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また、最近は心理療法としても使われるようです。使用後20分ほどで脳波は覚醒時のアルファ波やベータ波からシータ波に脳波が移行するといいます。シータ波は就寝前や起床前に見られる脳波であすが、このタンクの中では意識が飛ぶことなくシータ波が数分間観測されるようになるとのことで、この状態が治療上必要です。

シータ波が観測される状態とは、自分と他との境界の消失、あるいはその逆に融合などにつながる体験だそうで、これが痛んだ心を癒してくれるわけです。

また、多くの研究者が、フローティングには大きなストレス軽減効果があると言っているようです。アメリカの有力大学の一連の研究では、定期的にフローティングすると、心拍数、酸素消費量、ストレスに関連した血液中の副腎皮質刺激ホルモン、乳酸塩、アドレナリンなどのレベルの低下がみられたといいます。

そして、それら生化学物質はセッションのあと数日間、場合によっては何週間も、低レベルに抑えられていることも示されたといいます。

うつ病にも効く、とされます。1960年代からの研究により、慢性的な精神的なストレスと肉体的ストレスの間には高い関連があり、慢性的な高いストレスはうつ病の原因となることが知られています。

そしてアイソレーション・タンクの精神的、肉体的なリラクゼーション作用は、こうしたストレス緩和に有効であり、感情のバランスを整え、うつ病を予防する作用があると考えられているようです。

無論、アイソレーション・タンクは、こうした医療目的だけではなく、気軽にリラックスしたいときにも有効です。

無重力で浮かぶフローティングは、他のいかなる方法でも体験できないほどの深いリラクゼーションが体感できるといい、この深いリラックス体験は体内の免疫力や恒常性を賦活し、交感神経と副交感神経のバランスを改善します。

心と身体のアンバランスによって生じる様々な自律神経症状である、頭痛、めまい、肩こり、腰痛、ほてり、倦怠感、イライラ感などを緩和し、また不眠症の改善作用があるといいます。これは我が家自慢の温泉と似ています。

そして、この効果はスポーツへも応用できます。アイソレーション・タンクの感覚遮断状態では、通常の感覚刺激の90%が解放されているとされといい、この筋肉が重力から解放された全く負荷のない状態では、身体の慢性的な疼痛なども急速に改善されるそうです。

スポーツマンにありがちな、ストレスや心配事などの混乱で低下したパフォーマンスを、瞑想的な気づきの体験によって克服したり、イメージトレーニングの効果を最大限に拡張することが可能であるとされます。

アイソレーション・タンクをスポーツのイメージトレーニングに用いた最も成功した例は、ロサンゼルス五輪の際のカール・ルイスであったといわれており、彼は参加した4種目全てで金メダルを受賞しています。

このように、タンクによるフローティングは睡眠と覚醒をコントロールする技術であり、麻薬のような薬物に頼らずに、覚醒した意識の中での夢見を可能にする技術のようです。

日本国内では、東京や愛知県、長野、岡山、愛媛、沖縄などにアイソレーション・タンクを利用できるそうした施設があるといいます。

みなさんもいかがでしょうか。少なくとも、違法な脱法ハーブよりもずっと健全のようです。が、費用がどのくらいかかるかは問題です。ちょっと調べてみたところ、結構いい値段のようなので、我が家では当面、同等の効果がある? 温泉で我慢することになりそうです。

が、温泉がお宅にない方は一考してみてはいかがでしょう。少なくとも摂取して死んでしまう可能性のある、毒キノコよりもずっといいと思います。キノコをたべてトリップをしようと考えているあなた、ぜひ試してみてください。

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