バックヤード

2015-1020981最近、「バックカントリー」あるいは、「バックヤード」とされる場所でスノボやスキーを行っていた人が遭難する、という事件が相次いでいます。

邦訳すれば「裏庭」ということになりますが、「バック」という言葉自体、なにやら謎めいています。誰も知らない秘密の世界、という響きもあるかんじで、何か楽しそうなことがありそう、と受け取る人も多そうで、それがまた若者を惹きつけるのでしょう。

これはつまりはゲレンデなどの正規のスキー場敷地内ではなく、スキー場よりさらに山奥の場所をさす言葉のようです。子供も含めて誰でもが安全に滑れるように整備してあるスキー場や、スノボヤードのような場所からさらに奥まった場所のことであり、雪がなければ山林、原野といわれ、狐狸しか住まないような場所です。

そうした人里離れた場所にアクセスし、そこでスノボやスキーを楽しむ人がいるわけですが、スキー場内のように避難場所があるわけでもなく、そうした場所へ出かけて行って方向を見失い、遭難する人達が増えている、というわけです。

誰も歩いた事が無い、滑ったことのない新雪のある場所に自分の足跡をつける、というのは確かに快感ではあります。こうした手つかずの場所に魅せられ、普通のスキー場で滑るだけでは満足できなくなった人達がこうしたバックヤードに入るようになったのでしょう。

その昔、スノボが流行り始めたころには、一般のスキー客とぶつかっては危険だから、ということで一般のスキー場ではスノボをやるのはご法度というところが多かったようです。

が、最近はスキーをする人よりも逆にスノボをやる人のほうが増え、スキーだけではスキー場の経営が成り立たないので、スノーボードを認めるところが増えているといいます。

しかし、それにしても一般のスキー客とはトラブルが絶えないので、いっそのこと、スキー客のいない、バックグラウンドならば、いざとなればスキー場へ帰れるし、誰にも気兼ねなく滑れる、という人が増えていると考えられます。

「バックカントリー」「バックヤード」という用語は、おそらく、いわゆる「山スキー」のことを「バックカントリースキー」と呼ぶところから来ているのだと思われます。

バックカントリースキーは、山岳スキー、クロスカントリースキーとも呼ばれ、アルペンスキーのような競技スキーとは違って、雪山登山と同じくらいの装備を持って山に入って行うスキーです。

スキー用具以外には、雪山登山と共通するほどの安全装備が必要とされ、一般には雪崩ビーコン、ショベル、ゾンデ棒、無線機などは不可欠です。

また、装備ではありませが、冬山遭難における捜索へ対応した保険へ加入しておくことが推奨されており、こうしたことを考えると、バックヤード・スノボ(こういう言葉があるのかどうかは知りませんが)もまた、同等の装備を持って山に入ることがしかるべきと思われます。

ところが、そうした装備も持たず、スキー場のすぐ裏山だから安全、と勝手に思い込み、遭難する、というケースが増えているわけです。たとえスキー場に近くても冬山は冬山であり、いったん天気が急変すれば、視界がゼロになり、ときには雪崩も起きうる環境です。

万全の装備を持った上で楽しむべきところをそうした配慮のなさが、事故を生みます。いったんこうした奥山で遭難が発生すると、これを救助するほうも命がけになります。自分の滑りに自信があったとしても、それと雪山におけるサバイバルは別物です。

自信過剰は慎み、他人に迷惑をかけないよう、万全な準備をしたうえで楽しんでほしいと思います。全面的に禁止しろ、などというつもりはありません。が、せめてこうしたバックグラウンドに入る人にも装備を徹底させ、入山届を出させる、といった公的な対応も今後は必要な気がします。

スキー場経営者も、自分の責任範囲外、と知らない顔をするのではなく、バックグラウンドに入ろうとしている人に対しては、注意喚起をする、などの自前措置を取ってほしいと思います。事故が起こったあとは、そのスキー場の名前もメディアで大きくとりあげられるでしょうし、看過した責任が問われることもあるわけですから。

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それにしても、最近は中高年の登山ブームが続いていて、夏山ではいわゆる「トレッキング」と称してあまり高くない山を気軽にあるく人が増えているようです。その延長で、冬山においても、いわゆる「スノートレッキング」を行う人が増えているようで、ここでもスノボと同様に事故の発生をよく耳にするようになりました。

ここでも本格的な冬山登山ではない、として安易な装備で出かけることが事故につながるわけですが、バックカントリーにおけるスノボと同じく、冬山は危険であることをわきまえた上で山に入るべきでしょう。

1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部でもはやりこのスノートレッキングをしていた男女9人が事故で亡くなりました。

ところが、彼等の装備は冬山用のきちんとしたものであり、冬山斜面でのキャンプ経験を積むことが目的だったとされています。

一行10人の最終目的地は事件発生現場から10キロメートル北のオトルテン山という山で、そこまでのルートは、事件当時の季節では踏破の難易度は極めて高いと推定されました。が、一行の全員が長距離のスキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかったといいます。

事件発生から一週間前の、1月25日、彼等は目的地近くの町、イヴデリに列車で到着。トラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80km北方にある最後の有人集落に入り、27日からいよいよオトルテン山へ向け出発しました。しかし翌日この中の一人、ユーリー・ユーディンが急病に侵され途中離脱、一行は9人になりました。

そしてこのユーリーだけがこの事件で助かった唯一の生存者となりました。その後この9人は全員死亡することになりますが、これ以降の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料にのちに推定されました。

それによれば、1月31日、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はついに山麓まで到達し、本格的な登山準備に入る一方で下山するまでに必要と考えられる食料や物資を取り分け、余剰となった分を帰路に備えて周囲に残置しました。

そして、翌2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入り、適した場所で渓谷を北に越え、そこでキャンプを張ろうとしていたようですが、悪天候と吹雪、視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れ、オトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまいました。

やがて彼らはやがて誤りに気づきましたが、1.5キロメートル下って森林地帯に入って風雪を凌ごうとせず、なぜか何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することにしました。

たった一人の生存者であるユーリーはこのことについて、「ディアトロフは既に登っていた地点から降りることを嫌ったか、当初の目的でもあった山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べています。

このディアトロフとは、一行のリーダーで、「イーゴリ・ディアトロフ」といいました。そしてこの遭難事件があった峠は、その後年彼の名をとって、ディアトロフ峠と呼ばれるようになり、事件そのものも、「ディアトロフ峠事件」と呼ばれるようになりました。

ディアトロフは、一行がヴィジャイに戻り次第、速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっていて、クラブの友人たちはおそらく2月12日までには彼から電報が送られてくるだろうと予想していました。

しかし2月12日が過ぎて連絡がなかったにも関わらず誰もこれを不審に思いませんでした。ディアトロフは登山前に一人残してきたユーリーに、場合によっては遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、このことをユーリーから聞いたスポーツクラブの面々の誰もそんなこともあるだろう、と思ったからでした。

こうした冬季の遠征には、天候の悪化などによる数日の遅れはつき物です。しかし、2月20日になってもディアトロフらからの連絡はなく、ようやく、遭難の可能性が取沙汰されるようになり、一行の親族たちの要請で、彼らが所属していた「ウラル科学技術学校」からボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊が送られました。

さらにその後、軍と警察が腰を上げ、救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなっていきました。

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2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で酷く損傷して放棄されたテントを発見しました。テントの第一発見者は学生で、彼はこのとき、テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われており、中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていることを発見しました。

テントは内側から切り裂かれており、8つないし9つの、靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、谷の反対側、1.5キロメートル北東の森に向かって続いていましたが、500メートル進んだところで、雪に覆われて見えなくなりました。

そして、捜索隊はこの森のはずれの大きなヒマラヤスギの下で、下着姿で靴を履いていない2人の男性の遺体、そして焚き火の跡を発見しました。木の枝が5メートルの高さまで折られていたことから、おそらく一行の誰かが木の上に登って、「何か」を見張るためにキャンプの方向を見ていた可能性があることがわかりました。

そして捜索隊はさらに、このヒマラヤスギとキャンプの間で、3人の遺体を発見します。遺体はそれぞれ木から300メートル、480メートル、630メートル離れた位置から別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していました。

残り4人の遺体を探すのには、更に2ヶ月を要しました。その結果、残りの遺体は、ヒマラヤスギの木から更に森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見されました。

4人は他の遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を残りの者たちに譲ったらしいことを示していました。そのうちの一人は先に亡くなった同僚の人工毛皮のコートと帽子を被っており、また足には先に亡くなった5人の男たちの衣服の一部の切れ端が巻かれていました。

最初の5人の遺体が発見された直後、死因審問が始められましたが、検死の結果、5人は死に直接結びつく怪我は負っていなかったことがわかり、全員の死因が低体温症であることが判明しました。

ただ、うち一人は頭蓋骨に小さな亀裂を負っていました。これが何を意味するかは判明しませんでしたが、少なくともこれが致命傷になったとは考えられませんでした。

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ところが、さらに5月になって発見された4人の遺体の検死結果は、事情が違い、明らかに異常でした。彼ら3人のうちの一人は、頭部に大きな怪我を負っており、2人は肋骨をひどく骨折していました。

検視官のボリス・ヴォズロジデンヌイ博士は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、交通事故の衝撃に匹敵するとの検視結果をのちに上梓しています。特筆すべきは、遺体は外傷を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、驚くべきことにこの肋骨を折った男の一人が舌を失っていたことでした。

肋骨の骨折や頭部の負傷は、雪崩によるものとも考えられますが、雪崩によって舌を失う、ということは通常では考えられません。このため、当初は、この地に古くから住まうとされる「マンシ人」と呼ばれる先住民族が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れました。

ところが、さらに細かい現場検証の結果からは現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという結論が得られ、この先住民族襲撃説は否定されました。さらには遭難した彼等の多くが薄着だったことが議論の対象となりました。

気温がマイナス25度から30度と極めて低く、嵐が吹き荒れていたにも関わらず、遺体は下着だけでしかも彼らの内の何人かは片方しか靴を履いておらず、その他の者に至っては、両方とも靴を履いていない者もいました。

上述のとおり、あとで亡くなった4人のうちの何人かの足には、先に亡くなった5人の衣服を引き裂いたらしい衣服の切れ端が巻かれていました。先の5人の死因は、明らかに低体温症によるものと考えられましたが、なぜ衣服を脱いでいたかについては、「矛盾脱衣」と関連があるのではと推察されました。

これは、人が低体温症にかかったとき、失見当識状態、すなわち時間や方向感覚が失われ、相違を区別して認識できなくなるような、認識力を失う状態のことで、いわゆる認知症のような症状に陥ることです。

また、低体温症だけでなく、極度の混乱状態に陥った場合にもこうした症状になることがあるといい、戦争などでアドレナリンが高まり、好戦的な状態になる場合にもみられる症状とされています。

低体温症の場合、中程度から重度の場合こうした症状を呈する場合があるといい、これがおそらく彼らが服を脱いだもっともまともな理由と考えられました。服を脱げば脱ぐほど、身体から熱を失う速度は早まり、極寒のウラル地方では死に至る可能性があるのは当然です。

また、この事故の原因に関して考えられるシナリオのひとつは、押し寄せてきた雪が夜のうちにテントを潰し、キャンプ地を破壊したというものでした。一行はテントを切り裂いて逃げ出しましたが、靴や余分な衣服を雪崩で失った、というわけです。

氷点下の中で湿った雪に覆われると、15分以内に極度の疲労や低体温症による意識喪失が起こり、生存に関わる危機を招きます。

しかし、残る4人の一行の一人が舌を失っていたこと、雪崩の力だけでは説明できないような、強い圧迫力によって死亡したと想像されるような兆候が遺体に見られたことから、別の原因があるのではないか、と取沙汰されるようになっていきました。

ただ、やはり雪崩説が最も有力視され、テントを切り裂いて脱出した面々のうちの4人は、自分たちが人里離れた場所に居るのも構わず、助けを求めて移動しようとし、渓谷に滑落したとも考えられました。

彼らのうち3人の遺体がひどい骨折を負っており、かつ彼らが渓谷の中で4メートルの深さのところに横たわっていたのも、彼らが滑落したことの証左とも見なしうるからです。

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雪の降り積もった山の斜面における雪崩は、特段珍しいものではありません。この一帯は雪崩の起こりやすい地域ではなかったとはいいますが、まったく可能性がないわけではなく、とくに表層雪崩は新雪が積り、人が雪塊を崩したところでよく起こります。

事件のあった夜は雪が降っており、キャンプ地は山の斜面にあって、一行がいたために雪塊は不安定になっていたと考えられました。そして、テントは部分的に切り裂かれ、雪に覆われていたことも、小規模な雪崩がテントを押し流したという説を支持する根拠になります。

とはいえ、捜索隊はキャンプ地から続く足跡を発見しており、この足跡は雪崩によってかき消されてはいなかったという事実があり、この説と矛盾していました。キャンプが発見される以前の25日間に降雨がなかったことが確認されており、彼等が現場に到着したころに雨が降ったとすれば、この足跡は表面が雨で凍ったために保存されたのでしょう。

が、その後大量の雪が降り、これが原因で表層雪崩が起き、雪と彼らだけが流された場合、この積雪前に雨で固く締まった足跡だけが保存される可能性はあります。とはいえ、厳冬期に降雨と降雪の両方が起こるという特殊ケースが成立する、とした仮定の上での話であり、通常ではなかなか考えにくいシチュエーションです。

さらには一行の一人が舌を失っていたというのは異常です。低体温症になり、朦朧とした意識の中であやまって噛み切った、あるいは雪崩に遭った衝撃で思わず噛んでしまった、といった憶測もできます。が、しかしこうした場合には通常、歯を食いしばるものであり、古今東西、雪山で舌を噛んで人が死んだという話は聞いたこともありません。

こうしたことから、この事件は、超常現象から軍の秘密兵器実験、はたまた宇宙人襲撃説などを持ち上げようとする人もでてきました。そしてそうした中で、ジャーナリストらは、入手可能な死因審問の資料の一部を入手して真相を明らかにしようとし、その結果分析を公表しました。

それによれば、一行のメンバーのうち、6人は低体温症で死亡し、3人は致命的な怪我を負って死亡していました。ここまでは既存の事実ですが、このほかにも9人以外に、ホラート・シャフイル山に他の者がいた様子も、その周辺地域に誰かがいた様子もなかったこと、テントは内側から切り開かれていたこと、などが明らかになりました。

さらに一行は、最後に食事を取ってから6時間ないし8時間後に死亡しており、キャンプに残された痕跡は、彼らが自ら進んで徒歩でテントから離れたことを示していました。

検視を行った、ボリス・ヴォズロジデニヤ博士は、3人の遺体が負った致命傷は他の人間によるものではないとし、「非常に強い衝撃によるものであり、その証拠に遺体の軟部組織は何ら損傷を受けていなかった」と報告書に書いていました。

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しかし、このほかにも作られた資料には、メンバーの内臓器官の状態に関する情報があったはずですが、これが含まれていませんでした。

ところが、更に驚くべきことに、何人かの犠牲者の衣服には、高い線量の放射能汚染が認められていた、という事実が当局の捜査資料の中に含まれていたことがわかりました。

これまでの多くの宇宙外生命体との接触物語の中には、頻繁に彼等との接触の後に放射能が検出された例が報告されており、またUFOが着陸した跡地とされる場所からは少量の放射能が測定された、といった例が時折あるようです。

さらには、事件のあった夜、事件の発生地点から南に50キロメートル離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、北(おそらく、ホラート・シャフイル山の方角)の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告している事実が当局の報告書から削除されている、ことなども判明しました。

同様の“光球”は、1959年2月から3月にかけて、この近隣地域で、気象・軍関係者を含むそれぞれ無関係の目撃者によって目撃されています。従って、あぁやっぱりエイリアンの仕業だったか、と誰しもが思うでしょう。が、これは少々短絡的であり、これらは後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが、証明されました。

ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われたことがあり、バイコヌール宇宙基地という場所から、ソビエト連邦内の主要な核実験場だった場所に直接通じる道の途上に位置していたこともわかっており、このことから、彼等の死には軍が何等かの関与をしていたのでないか、とも言われるようなりました。

また、一部の研究者の報告よれば、「大量の金属くず」が、この地域に置かれていたとのことで、これは軍がこの地域を何らかの目的で密かに利用し、これが事実だとすれば軍はそのことの隠蔽のために取り組んできたのではないかという憶測もできます。

ところが、当局の最終的な調査結果は、全員が“抗いがたい自然の力”によって死亡したというものであり、死因審問は1959年5月に公式に終了し、「犯人はいない」と結論づけられました。

事件の資料はその後、機密文書保管庫に送られ長い間書庫に眠っていましたが、ソビエト連邦が崩壊した1990年代になってようやくコピーが公開されるようになりました。

ところが、この公開にあたっては、さらに幾つかの資料が失われている、という指摘が出てきました。公開に先立ち、1967年には、ジャーナリストのユーリー・ヤロヴォイという人物が集めていた資料などです。彼は、この事件後、これにインスピレーションを受けた小説「最高次の複雑性」を出版していました。

ヤロヴォイはディアトロフ一行の捜索活動や、捜査の初期段階において公式カメラマンとして関与しており、事件に対する見識を有していました。しかし、この小説は事件の詳細が秘匿され、現実の事件と比較すると美化されており、一行のリーダーだけが死亡する結末など、よりハッピーエンドになるよう書かれていました。

ヤロヴォイの知人によればと、彼はこの小説の別バージョンを幾つか書いたようですが、いずれも検閲で出版を拒否され、1980年に彼が亡くなって以降は、なぜか彼の持っていた写真や原稿などの資料は全て失われてしまっていたとのことです。

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このため、1990年代のソビエト当局によるこの事件資料の公表後、この中に含まれていなかった事件はどこへ行ったのかを改めてジャーナリストたちが詮索し始め、具体的な捜索を始めました。そしてその結果、ヤロヴォイが保存していた資料などの詳細の一部が見つかり、これらは地元メディアなどで、公にされるようになりました。

それらの中には、ヤロヴォイが集めていた資料のほか、アナトリー・グシュインという作家が、警察当局が死因審問のオリジナルの資料を調査し、それらを出版物に使うことを認める特別許可を出させて得た資料などもありました。

さらには同じ頃、いくつかの資料のコピーが、他の熱心な研究者の間に出回り始めていました。グシュインは、彼の著書「国家機密の価値は、9人の生命」の中で、そうした彼我の資料をまとめた結果を公表しました。

が、この本の内容は「ソビエト軍の秘密兵器実験」説に入れ込み過ぎているものになっていました。このため、事実と反するとして一部の研究者が批判をし始めたため、公の議論は軍関与説からむしろ超常現象への方へと向かっていきました。

この結果、事件後、30年間口を閉ざしていた人々が、事件に関する新たな事実を公表するようになり、そうした中の一人に、1959年に公式の死因審問を率いていた警察関係者がいました。

彼は、当時の捜査チームは事件を合理的に説明することが出来なかった上、地域の高級官僚から、死因審問を中止して、捜査チームが見た“飛行する球体”に関する資料を機密にするよう、直接指示を受けた、と自著の中で公表しました。そして、UFOであるとは断定しませんでしたが、今も何等かの超常現象であったと信じている、とも述べました。

こうした証言もあり、残された資料の再分析がさらに進められるようになりました。現在ではロシア内でも言論の自由化がかなり進んだことから、その後もこの事件に関して多くのジャーナリストやメディアが興味を持ち、たくさんの報告書が出されるようになりました。

そして2000年には、地元テレビ局が、ドキュメンタリー番組「ディアトロフ峠の謎」を制作しました。制作にあたっては、事件をモデルにドキュメンタリー仕立てのフィクション小説を執筆したアンナ・マトヴェーエワという作家が協力しました。

この小説の大部分は事件の公式の資料や、犠牲者たちの日記、捜索に携わった者からのインタビューや、映画製作者が集めたその他の資料の引用から成っていました。

これらの資料は、現在においてもこの事件に関して公表されてきた情報源の中としては一級品として扱われ続けており、その資料やその他の文書のコピーや写しが、熱心な研究者に向けて、徐々にWebフォーラムで公開されはじめているといいます。

さらに、事件の起きた、ウラル地域の工業・文化・教育の中心地で、交通の要衝でもある「エカテリンブルク」では、ここの最高学府のひとつであるウラル工科大学の助けを借りて、「ディアトロフ財団」なるものまで設立されています。

そして、この財団の理事長である、ユーリー・クンツェヴィチは、事件当時に12歳であり、一行のメンバーたちの葬式に出席しており、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想しているそうで、事件の直接の目撃者の一人とされています。

財団の目的は、ロシア当局に対して事件の再調査を開始するよう求めることと、亡くなった者たちの記憶を保存するディアトロフ記念館を維持していくことだそうです。が、果たしてこうした資料や記憶の中から真相は究明されるのでしょうか。

バックヤードでスノボやスキーを楽しむあなた。遭難や雪崩の心配だけでなく、正体不明の地球外生命体に襲われる危険性も考えておいたほうがよいのかもしれません。

明日は太平洋側でも寒気が入り込み、ここ伊豆でも久しぶりに雪になりそうな気配です。

この別荘地も「バックヤード」になるやもしれません。私自身も宇宙人に狙われる心配をしておきましょう。

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鬼はイケメン? ~下田市

2015-8722明日はもう節分ということで、今年も足早に月日が過ぎていきます。

このころになると冬が終わり春の到来をより強く意識するようになってきますが、「節分」の意味するところは、文字のとおり、「季節を分ける」ことです。

立春と何が違うのよ、ということなのですが、立春とは1年365日を季節毎に区切り、これを「二十四節気」としたもので、時間の流れを「季節感」に当てはめて数えるように体系付けた昔の「暦」のひとつです。そしてこの春の初めのころの期間を立春といい、その初日のこともまた、立春といいます。例年では節分の次の日の2月4日になります。

ところが、元々二十四節気は、中国の気候を元に名づけられたもので、日本の気候とは合わない名称や時期もあります。このため、それを補足するために二十四節気のほかに「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取りいれたのが、日本の旧暦です。

そしてこの雑節のひとつが、「節分」というわけで、ほかに土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などがあります。

んなの面倒くさい、一緒にすればいいじゃん、と私も思うのですが、そのあたりが日本人の繊細な感覚のたまものというべきなのでしょう。中国の気候や風習とはちょっと違う、独特の空気感を機械的に一年を分けた二十四節気だけでなく、こうした雑節で説明したかったわけです。

春が来る、だから「立春」というには、ちょっとまだ肌寒いし、それなら「節分」といえば冬と春を分ける日、という意味となり、まだまだ寒いけれども、この日を境にこれからだんだんと暖かくなる、とすれば角は立たず、確かに非常に微妙な解釈ができます。

とはいえ、一日しか違わないのに、立春と節分を一緒にしなかったのには意味があります。そもそも節分とは、二十四節気のうちの「大寒」の最後の日です。また、この大寒は二十四ある節のうちの、最後の節にあたります。つまり、旧暦では節分の日は大晦日にあたる、ということになります。

平安時代の初期頃から行われている鬼払いの儀式として、「鬼やらい」というものがありました。これは、「鬼遣らい」、「鬼儺」などとも表記され、これを略して「儺(な)やらい」ともいいます。

「払う」というほどの意味であり、鬼を「追い」「払う」という意味であり、これをやがて呼びやすく音読みで「追儺(ついな)」とするようになりました。

そして平安の時代にはこうした言葉を口にするだけではなく、大晦日の12月30日に、年中行事にとして、鬼を払う役目を負った役人が、宮中にいるとされる架空の鬼を追いかけまわす、という具体的な儀式が一般化しまた。

この鬼を払う役目を負った役人は、方相氏(ほうそうし)と呼ばれ、その脇には侲子(しんし)と呼ばれる補佐役がいて、総勢20人ほどで大内裏の中を大声で鬼を追い払う掛け声をかけつつ回ったといいます。

また、内裏の中でこれを見ている公卿さんたちも、ただこれを見ているだけでなく、方相氏を掩護する、として見えない鬼に向けて弓矢をひき、さらに公卿の中でも身分の高い「殿上人(でんじょうびと)」と呼ばれる人達は「振り鼓」と呼ばれるでんでん太鼓を叩いて共に鬼退治に参加したといいます。

体育館などに集まった人達が大声で叫びながら会場を駆け回り、その背後では観客がやんややんやと笛やラッパを鳴らし、自分たちも鬼を指さしながら囃し立てている、といった風景を想像するとだいたい似たような光景になるのではないかと思われます。

が、相手もいないのに、単に空をみあげて叫びながら駆け回っている人達を、大の大人が大勢で応援している様子を想像すると、ちょっとヘンです。

とはいえ、宮中で行われた、この年末になると皆で鬼を追い回す、というこのお祭り騒ぎが、たしかに節分のルーツです。

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ところが、その後、室町時代ころには、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させた、という神話にちなんで、桃がこの鬼に向かって投げつけられるようになりました。

中国においても桃は神仙に力を与える樹木・果実とされ、昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物として親しまれてきており、この日本神話はここから来ていると考えられています。

桃である理由は、これは大昔より数少ない果物であり、匂いや味も良いほか、薬用としても使われたためです。咲いた花も美しく、紅い小さな花に続いて豊潤な果実を付けるところが不老不死のイメージにぴったりです。

「桃源郷」とは死のないユートピアのことであり、ここに咲く桃は、人に利益を与え死を遠ざけます。ゆえに、これを鬼に投げつければ、長生きできる、というわけです。

ちなみに、「桃太郎」は桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する民話ですが、これも桃が神聖なものである、としていた時代の桃崇拝から生じたお話です。3月3日の桃の節句は、桃、すなわち男児の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事であるわけです。

邪悪な鬼を退散させる力を感じさせるイメージもあり、古今東西珍重されてきました。がしかし、桃というのは栽培も難しい上に、できた実は腐りやすく保存がききません。このため昔から高値で取引されることが多く、こうした高価な桃を大量に鬼に投げつけるわけにはいきません。

そこで登場してきたのが豆です。その昔宮中では公卿たちが大声を上げて鬼を追い回していただけでしたが、これに桃投げが加わり、やがては安価に入手できる豆を鬼に投げつけながらそこら中を駆け回る、という風習に変わっていきました。

豆もまた「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」とい信じられてきたものであり、桃と同じくこれを持って邪気を払うという考え方もあり、その後は豆が主体になっていきました。

その後、大声で駆け回るという風習もまた変わっていき、現在の「オニは外、福はウチ」に近いものになっていきます。室町時代ころには既に「鬼外福内」を唱えていたという記録があり、その後さらに豆を家の中から外に向かって投げつけることで、鬼が退散する、というふうにさらに変化していったのでしょう。

また、これより以前の平安時代ころにも、鞍馬山の鬼が出て来て都を荒らすのを、祈祷をして防いでいたといいます。「鬼の穴」から出てくる鬼を封じるために、三石三升の炒り豆(大豆)で奴らの目を打ちつぶし、災厄を逃れたという故事伝説があるようです。

やがて、「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」という語呂合わせもできるようになり、さらに親しみやすく庶民の間に定着していきましたが、長い間には、鬼に豆をぶつければ、邪気を追い払い、一年の無病息災でいられる、という民間信仰が人々の間に定着しました。

さらには、豆を撒き、撒かれた豆を自分の数え年の数だけ食べれば健康になれると言われるようになり、地域によっては、自分の年の数の1つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないという習わしがあるところもあります。

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かくして現代では、毎年この年になると、どこのスーパーへ行っても、コンビニでもどこでも豆を売るようになったわけですが、「福豆」として売られているこの豆のパッケージには、厚紙に印刷された鬼の面が豆のおまけについているものもあり、一般家庭では誰かがそれをかぶって鬼の役を演じて豆撒きを盛り上げます。

本来は家長たる父親あるいは年男が豆を撒き鬼を追い払うものでしたが、最近は逆にお父さんが率先して鬼役に回る家庭のほうが多いようです。お父さんに働かせ、自分は家にいてグータラしているお母さんのほうが鬼にぴったりだと思うのですが、たいがいの場合、優しい心根のお父さんが鬼になります。

おとぎ話の桃太郎や一寸法師に出てくる鬼も、おおむね男、とされているようで、だいたいどんな話でも鬼は男、そして悪者であり、これを善の象徴である何者かがやっつける勧善懲悪物語です。

昔話の「桃太郎」でも、桃から生まれた元気な、しかし小生意気な小僧が、出征時に両親から黍団子を餞別に貰い、道中、遭遇するイヌ、サル、キジにその黍団子を分け与えて家来にした上、鬼ヶ島での鬼との戦いで勝利をおさめます。

やっつけられる鬼がどんな悪行をしたかというと、方々に出没しては財宝を奪いとり、蓄財していた、という罪が課せられています。桃太郎たちはその罪を懲らしめ、最終的にこの財宝を没収し、郷里のお爺さん・お婆さんの元に帰ってこれを差出し、幸せに暮らしたとして物語は締めくくられます。

この桃太郎話の発生年代は正確には分かっていないようです。が、だいたい室町時代ごろに発生したのではないかとされています。江戸時代以降にはさらに広まりましたが、これは草双紙というこの当時の絵本が流行ったためで、「桃太郎」「桃太郎昔話」といったタイトルの草双紙が多数出版されて人々に読まれました。

しかし、明治時代初期までは、桃太郎を見送ったのはお爺さん、お婆さんではなく、桃を食べて若返った若夫婦の間に男の子が生まれたという話だったそうです。そして、ここでも桃が不老不死の薬として登場します。

いわゆる、「回春型」の話であり、さらには桃そのものが女性であったという説もあります。おばあさんが拾ってきたのは、大きな桃ではなく若い娘で、桃は若い娘のお尻の象徴である、という説です。

子供が出来ず悩んでいたこのおばあさんは、拾ってきた娘におじいさんの子供を孕ませたといい、おばあさんはその娘から、子供を取り上げて、自分たちの子供にした、という説でもあります。しかし、考えてみると年老いた自分の夫に若い女をあてがって子を孕ませ、あげくは生まれたその子を取り上げる、というのはひどい話です。

もし現在ならば裁判沙汰となり、この女性の親権が争われるでしょうし、結婚していながら若い女をあてがわせたこの婆さん、それを喜々として受け入れたこのスケベジジイもまた、倫理的な面からも非難されてしかりです。それにしてもこの爺さんの年齢がいくつだったのかよくわかりませんが、よく子供ができたものです。

このように、桃太郎が現在のような話になる前は、この物語についてはかなり色々な解釈があったようです。さらには批判的な見方もあったようで、例えば「学問のすすめ」で有名なかの福澤諭吉もまた、桃太郎についてこう書いています。

「桃太郎が鬼ヶ島に行ったのは宝を獲りに行くためだ。けしからんことではないか。宝は鬼が大事にして、しまっておいた物で、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を理由もなく獲りに行くとは、桃太郎は盗人と言うべき悪者である。」

「また、もしその鬼が悪者であって世の中に害を成すことがあれば、桃太郎の勇気においてこれを懲らしめることはとても良いことだけれども、宝を獲って家に帰り、お爺さんとお婆さんにあげたとなれば、これはただ欲のための行為であり、大変に卑劣である……。」

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現代でも「本当は鬼が島に押しかけた桃太郎らが悪者ではないか」と逆に考える人がいてもおかしくなく、事実、裁判所等で行われる模擬裁判の事例やディベートでは、この桃太郎の話が議題として取り上げられることもあるそうです。

さらに最近では桃太郎は「暴力的な話」だとして、小学校や幼稚園向けの絵本や子供向けの書籍では「鬼退治」ではなく「話し合いで解決した」などと改変されている場合さえあるようです。

桃太郎だけでなく、他の日本の昔話もそのまま子供に教えては害になる、とのたまう人々が増えているそうで、グリム童話同様に、「本当は怖い昔話」などの形で書籍化、出版されています。が、残酷話としてだけではなく、官能話などに意図的に話が曲解されているものもあるようで、少々行き過ぎなかんじもします。

同様な話しは唱歌にもあり、「も~もたろさん、ももたろさん」で始まる、文部省唱歌の1つ「桃太郎」も批判の対象にされることがあるそうです。一般には、最初の1~2フレーズしか歌われておらず、多くの人がその後を知りませんが、改めてみてみると実際には、以下のような歌詞になっています。

桃太郎(1911年(明治44年)作詞者不明、作曲・岡野貞一)

桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子、一つわたしに下さいな。
やりましょう、やりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。
行きましょう、行きましょう、貴方について何処までも、家来になって行きましょう。
そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼が島。
おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。
万万歳、万万歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。

とくに、後半のあたりの「つぶしてしまえ、鬼が島」とか、「分捕りものをえんやらや」あたりは結構過激であり、「のこらず鬼を攻めふせるのが面白い」、というのも確かにちょっとな~というかんじはします。

このため、こうした暴力性を感じさせる表現が子供の情操教育にはよくない、というわけで、最近では小学校の音楽の時間で紹介される場合などには、現在では歌詞が改変されたり、後半部を削除したりする場合が多いといいます。

桃太郎が分捕る宝もまた、もともとすべては村人のものである、という主張もあります。このため、宝は分捕りに行くのではなく、「取り返しにいく」と表現されて売られているDVDもあるそうです。さらにこのDVDの結末では、桃太郎が鬼を退治するまでは同じですが、その後奪取した宝はすべて元の持ち主の村人に返しているといいます。

そして、宝を取り返してもらった村人は、その一部をお礼として、桃太郎とお爺さんとお婆さんに渡し、桃太郎達は、お礼の宝をたくさんいただいて幸せに暮らした、という細かさです。天邪鬼な私などはこうした話を聞くと、アホか、良きも悪しきもあるのが世の中じゃ、そこまで変える必要があるんかい、と思ってしまいます。

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このほか、その昔NHK教育テレビの番組「おはなしのくに」の中で紹介された桃太郎話の中では、桃太郎はそもそもが「乱暴者で親の手伝いをしない怠け者」だったことになっています。

ところが、村を襲ってきた鬼に育ての親のお婆さんが襲われたことで目が覚め、鬼ヶ島の鬼たちを懲らしめる立派な男として成長していく……というスポコンドラマのような仕立てになっており、「やればできる」という教訓めいたストーリーになっていたそうです。

このように、鬼をやっつけ、宝を持ち帰る、という話は単純に考えれば楽しいおとぎ話なのに、これを現代的な解釈で折り曲げ、無理やり変えてしまおう、という動きが最近増えているのが少々気になります。

子供に残虐なことや不正を教えてはいけない、ということで正当化される向きもあるようですが、一方では子供の自由で豊かな想像力の発展を阻害する、といった側面もあると思われます。原本のあまりにも行き過ぎた改変は長い間に培われてきた日本文化を愚弄するものでもあり、逆に改悪であると思うのですが、みなさんはどうお考えでしょうか。

さらに、これまでは子供が対象でしたが、最近はこうした民話やおとぎ話を社会問題の提起のために使おうというような動きもあります。例えば「男女差別」を現代用語化した、いわゆる「ジェンダー・バイアス」を排除しようという動きでの応用も見られます。

「ジェンダー」とは、「社会的・文化的な性のありよう」のことを一般にさしますが、この場合の「ジェンダー」という用語それ自体には、良い悪いの価値判断を含むものではなく、単に♂♀の違いを社会的な意味で使うときに使う用語です。

ところが、これに「バイアス」つまり、「偏見」という言葉をつけることで、これは現代社会における男女の役割分担の意識を変えよう、という人々の運動用語として使われるようになります。そして、これをわかりやすく説明しようとして利用されるのが桃太郎などの昔話です。

ご存知のとおり、桃太郎では、男性であるお爺さんが「山へ柴刈りに」、女性であるお婆さんが「川で洗濯」をします。

ところが、現代のように社会への女性の積極的参加が叫ばれている時代には、この役割分担はおかしい、と彼等は考えており、例えば「北名古屋市女性の会男女共同参画委員会」では、「モモタロー・ノー・リターン」という創作劇を作成しています。

この作品の中では男性であるお爺さんが「川で洗濯」に、女性であるお婆さんが「山へ柴刈り」に行くと、両者の役割を逆転させており、これまで当たり前に受け入れてきた男女の役割を入れ替えて、固定していると思いがちな男女の役割について考えてもらう内容になっています。

さらには、主人公も女性の「桃子」になっていて、さらには後段の話における鬼が島には、男の鬼と女の鬼の両方がいます。たしかに、鬼の形態の歴史を辿れば、初期の鬼というのは皆女性の形であり「源氏物語」に登場する鬼とは怨霊の事ですが、これは女性の形で出てきます。

女の本質は鬼であり、また母親が持っている、自分の子供を戦争で傷つけたものに対する憎悪のようなものが鬼に変化したものです。が、桃太郎が話として成立する室町時代ころには、そうした母性の話はどこかへ飛んでしまい、鬼といえば男が大多数ということになってしまいました。

なので、話の筋としては、この鬼が島にも男の鬼ばかりでなく、女の鬼がいてもおかしくはないわけです。ところが、犬や猿、キジを連れて鬼が島に乗り込む最後のほうでは、桃太郎ならぬ、桃子たちは、男の鬼に虐げられている女鬼たちを目撃して、そこに疑問を感じます。

そして、「男も女も、男だから、女だから、ということで区別されず、それぞれが個人として尊重される」のが正しい世のあり方だ、と考え、この鬼が島においても、3カ条からなる「鬼が島改造計画」を鬼たちに提案します。

ここまでくると、もこれはおとぎ話ではなく、原作の桃太郎の話をうまく利用した風刺劇です。最近ではこうした古典をうまく利用して自分たちの主張をアピールするために使いまわそうという動きが多く、誰しもが子供のころから慣れ親しんだ話には、感情移入がしやすい、という点に目をつけているわけです。

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この桃太郎については、さらには別の観点からの解釈もなされています。そのひとつは、桃太郎たちが鬼から奪ってくる「金銀財宝」の獲得の点であり、すなわち経済的に成功しさえすれば何でもやっていいのか、というわけです。

一体何が「正義」なのか、といった価値観についての投げかけなわけですが、そういうふうに考えていくと、なぜ桃太郎が連れて行ったのは猿や雉などの野生動物なのか、別にネコなどのペットでもよかったのではないか、などなど物語の細部に至り、何とでも解釈は膨らんでいきます。

多様化する現代においては、昔ながらの話を勧善懲悪モノとして単純に受け止めるだけでなく、何事も深く考えてみよう、そこから何か見えてくるものがあるかもしれない、というわけなのでしょうが、おいおい待てよ、そんなに捻じ曲げてばかりでは疲れないかい、と私などは思ってしまいます。

鬼はその昔から、「悪い物」「恐ろしい物」の代名詞であり、それを畏怖するところからこうした伝承が生まれてきたのであって、理解不能なモノノケに対する昔の人の純粋な驚きや恐怖をわかりやすく説明してくれたものです。

それ以上それ以下でもない、と思うわけであり、あれやこれやと考えすぎるのが、最近の日本人の悪い癖です。その考えすぎのラビリンスにがんじがらめになった結果が、現在の日本の混迷を招いたのではないかと、思う次第です。

とはいえ、全国的にみれば、鬼といえば「悪」といわれるような単純なものではありません。非常に多様な現れ方をしており、特定のイメージで語ることは困難です。ところによっては「神」のように慕われているところもあって、例えば鳥取県伯耆町(旧日野郡溝口町)では、鬼は村を守ってくれる「強い物」とし崇められています。

また伝説の酒呑童子は赤毛で角があり、髭も髪も眉毛もつながっており、手足は熊の手のようであるとされますが、元々はこのような定まった姿は持っていないとも言われており、これは変身した一つの姿にすぎない、という考え方もあるようです、

鬼の語源の「おぬ(隠)」とは、「姿の見えないこと」でもあり、鬼とはもともと変幻自在の存在です。酒呑童子もまた時には見目麗しい異性の姿で現れることもあったようです。このほかにも鬼が転じて美しい男女となり、人間の若い男や女を誘う、といった話も多々あるようです。

中には、きっと自分を守ってくれるような優しい鬼さんもいるはずであり、その鬼はまた絶世の美女、あるいはものすごいイケメンかもしれません。

なので、今年の節分には、こうした鬼さんを追いやるのではなく、家に招き入れて、一緒に酒を飲むといいかもしれません。まだまだ寒いこの時期、絶世の美女の鬼とともに床に入る、というシチュエーションを想像すると、これはまたなかなかオツなものです。

が、明日の朝目覚めてみたらその鬼は実は愛する嫁だった、な~んてのがオツならぬ「オチ」かもしれません。

さて、あなたのところには明日、どんな鬼がやってくるでしょうか。

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下田市 田牛(とうじ)の竜宮窟にて

離脱はいかが?

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最近、テレビをつけるとやたらに耳目に入ってくるのが「妖怪ウォッチ」というヤツです。

これが何者であるかは、おおかたの人が知っていると思いますが、元々はニンテンドーの小型ゲーム機用のソフトのキャラクターとして創作されたものです。コミックやアニメなどによる多角メディア展開を前提として企画されたもので、これが大当たりし、今やこうしたキャラクター商品の元祖、ポケットモンスターを凌ぐ勢いです。

私自身は息子の子育て時代に慣れ親しんだこのポケモンのほうが馴染みがあり、妖怪ウォッチ?と最初はあまり興味もなかったのですが、ここまで人気が出た理由はなんなのだろう、と気になり、とまれどんなキャラクターがあるのか、ざっと調べてみました。

すると……「妖怪」といえば、その昔流行った「ゲゲゲの喜太郎」に出てきた数々のユーモラスなものを想像するのですが、これら新妖怪はかなり「近代化」していて、ある条件を満たすと進化・合成などによって変化することができるそうで、しかもその種類は400以上もあります。

この種類の多さは、ゲームソフトだけでなく、玩具としての商品化を進める上でも必要なものであろうことは容易に想像できます。

対するポケモンのほうは、もはやブームは終わりつつあるようですが、テレビアニメのほうは地方などでまだ再放送なども続いています。世界的にもまだまだ根強い人気があり、これまでの資産を無駄にしてはなるものかとまだまだ消え去ることはなさそうです。

現在までに719種類のポケモンが登場しているそうですが、さらに追加されるキャラクターもあるのではないでしょうか。

ただ、妖怪ウォッチのほうもこれから更に数が増えていくとして、いつの日にかポケモンを抜き去るのではないかと思います。とはいえ、かつてブームを引き起こしたアンパンマンなどは息の長い商品となっており、ポケモン自体も消え去る日はないでしょう。

こうした日本発の「発明品」ともいえるキャラクター商品は、いまや重要な輸出産業のひとつになっています。

ほかにも、我々の世代の時代からある「スーパー戦隊シリーズ」や「プリキュアシリーズ」「仮面ライダーシリーズ」なども現在に至るまで生きつづけてきていて、これらも海外では大人気だそうです。このほか、「合体ロボ」ものは、アメリカで映画化までされており、ハリウッドまでを取り込んだマルチメディア商品に成長しつつあります。

さすれば、この日本初の「妖怪」もまたいずれはハリウッド映画に進出するのか、と思ったりもするのですが、妖怪ウォッチのキャラクターはまだしも、雪女や河童といった伝統的な日本妖怪はあまりにも海外の妖精、怪物といわれるものとは異なりすぎており、そのままでは受け入れられそうな気がしません。

改めてこのあまりにも日本的な産物が何者であるかを調べてみると、これは1世紀初頭の奈良時代の日本では、「怪しい奇妙な現象」を表す言葉であったもののようです。それが、様々な神や伝承や怪談や宗教や価値観と結びつき、派生した結果、詳細の解らない現象を、具体的な形を持ったものの仕業とするようになりました。

そして、「怪異を起こす存在」を妖怪と呼ぶようになったと考えられます。このあたりの事情は中国やヨーロッパでも同じであり、中国の妖怪が日本のものと似たものが多いのは、同じく仏教国であるからと思われます。また西洋におけるFairy(フェアリー)すなわち妖精もまた、神話や伝説に登場する、超自然的な存在です。

神仏との合体物、という点では日本と同じであるわけであり、とはいえ対象とする神の存在そのものがかなり異なるため、想像された妖怪や妖精、あるいは怪物としての形は異なってくるわけです。

日本人が海外の怪物を「魔物」と呼び習わし、日本の風俗としての妖怪とは別にしたがるのは、これらにどこか異宗教の臭いを敏感にかんじ、日本以外の文化が造り出したこうした創造物を受け入れることに自然と抵抗を持つからでしょう。

では、同じく超常的なものの代表とされる「幽霊」はどうかというと、日本では古くは、人がその死後、何かを告知したり要求するために出現するとされていたようです。その後時代が下るにつれ、次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現しているとされるようになり、あちらの世界に行けずにこの世を彷徨う凄惨なものとされるようになりました。

古来から何度も繰り広げられてきた戦乱においては、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者も多く、それらが霊の形をとって現われるようになったものとされました。

その後、仏教が入って来たことから、その望みや思いを聞いてやり、執着を解消し安心させてやれば、姿を消す、すなわち、「成仏する」という形が浸透するようになりました。

日本で葬式の際に願戻し、死後の口寄せ、あるいは施餓鬼供養などを行うのは、ある意味で死者たちが成仏しやすくしてやり、幽霊化するのを防ぐことだといえるわけです。

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では西洋ではどうかというと、幽霊は英語ではghost ゴーストあるいはphantom ファントム、フランス語ではfantôme ファントーム などといいます。

やはり古くから、死者の魂が現世に未練や遺恨があり、現世に残り、生前の姿で可視化したもの、と考えているものであり、希望を実現しないまま死んだ人、責任を果たしきれないままに死んだ人などが幽霊になって出ると考えられてきました。

婚約したまま死んでしまった女性は幽霊になって花婿のもとを訪れ、出産時に死んでしまった女性の幽霊は乳児のベッドの横に立ち、生前自分が行った行為が良心に咎めて死にきれない者も生者のもとに現れるとされます。

また、殺された人、処刑された人、望みを果たさないまま無念に死んだ人たちの幽霊は、生者が慰め、その願いを代わりに叶えてやることで消え去るものともされており、こうした無念を晴らすために幽霊化する、というあたりの事情は日本も西洋もほとんど変わりません。

ただ、日本のように念仏を唱えて供養してあげれば成仏する、という発想は西洋にはないようです。むしろ降霊術師や霊媒によって呼び出す、降霊術といったものも流行り、幽霊として出てきたものとの会話を通してそのカルマを解消する、とった形がとられることが多いようです。

イギリスなどではむしろこうした幽霊をお友達感覚で扱う、といった感覚もあるようで、幽霊を自分の目で見てみたいと思っている人も多く、幽霊が出るとの評判が高い住宅・物件は、通常の物件よりもむしろ高価で取引されていることもあるようです。

ただ、キリスト教国の多いヨーロッパでは、教会などにおいてこうした死者のために「祈る」という行為が行われ、これによって死者の霊を慰める、といった風習が浸透しています。この点は、日本で念仏を唱えて死者を供養するのと多少似通った感覚かもしれません。

このように、こと幽霊に関しては、日本と西洋では意外と共通点が多く、日本人も西洋人もお互いに彼我の幽霊は似たようなもの、という認識を持っているような気がします。

幽霊には「死霊」と「生霊」のふたつがある、と考える点でも共通しています。死霊とは、いわゆる幽霊のことですが、人にとりついて祟りをする怨霊のこととされることも多く、死の直後に親しい者のもとに挨拶に現れたり、さらに親しい者を殺して一緒にあの世へ連れて行こうとする、といった話が昔からたくさんあります。

柳田國男が東北の不思議話をまとめた「遠野物語」には、娘と2人暮しだった父親が死んだ後、娘の前に父の死霊が現れ、娘を連れ去ろうとした話があります。娘は怖がり、親類や友人に来てもらいますが、それでも父親の死霊は娘を連れ去ろうと現れ、1ヶ月ほど経ってようやく現れなくなったといいます。

西洋でも、殺された人、処刑された人、望みを果たさないまま無念に死んだ人たちは死霊として現れ、この世の人を連れ去ろうするケースが多いようですが、生者が慰め、その願いを代わりに叶えてやることで消え去るものともされています。

一方、生霊(いきりょう)とは、日本ではしょうりょう、せいれい、いきすだま、と呼ばれます。生きている人間の霊魂が体外に出て自由に動き回るといわれているものであり、死者の霊である死霊とは異なるものです。

自由に動き回るだけならかまわないのですが、時には自分をいじめたり殺したものを追い回したり、恋する相手にとりついてさまざまな嫌がらせをしたりもします。

日本では、人間の霊(魂)は自由に体から抜け出すという事象は古来より人々の間で信じられており、多くの生霊の話が文学作品や伝承資料に残されています。広辞苑には、「生きている人の怨霊で祟りをするもの」と書いてあるようですが、実際には怨み以外の理由で他者に憑く話も多く、親しい者に逢いに行ったりするといった話も数多く残っています。

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西洋でも、自分とそっくりの姿をした分身が別の場所に現れるというドッペルゲンガー現象というものが、ドイツなどで伝承されており、また、バイロケーション(Bilocation)という現象があることが知られており、これは同一の人間が同時に複数の場所で目撃されるというものです。

以前、「ドッペルゲンガー」というタイトルで書いたブログ中には、ある学校の女性教師が、教壇に立って授業を行っているにもかかわらず、数度にわたって、別のところで目撃されていた、といった話を紹介しましたが、ヨーロッパではこうした現象の記録が日本よりも多い、という印象を受けます。

日本の生霊にせよ、西洋のドッペルゲンガーにせよ、これらはいずれもが、いわゆる「体外離脱」とも考えられており、その定義は、自分の肉体から「魂が抜け出すこと」です。

ただ、実際には抜け出しておらず、自分の物理的な肉体を外から見ている、という印象を持っているだけだという、「体外離脱体験感覚」のことだ、とする科学的な見解もあるようです。

が、実際に離脱するにせよ、感覚にすぎないにせよ、国籍・文化圏にかかわらず、このような現象は、10人に1人程度は生涯に一度は経験はしているのではないか、ということもいわれているようです。

とはいえ、日本では上述の「死霊」と同じく、「生霊」という言葉自体がマイナスなイメージで捉えられることが多く、生霊(いきりょう)が「憑いた」という表現がなされ、悪いものにとりつかれた、きもちわるい、とする感覚のほうが強いようです。

伝承としても「奇談」として伝えられることが多く、例えば、平安末期の「今昔物語集」にはこんな話があります。

ある身分の低い男が、京の四つ辻で女に会い、某大夫の邸までの道案内を頼まれます。女をつれて邸につくと、門は閉ざされており、どうしたものかと思っているうちに、その女は消えてしまい、しばらくすると中で何やら泣き騒ぐ音が聞こえました。

不思議に思った男が翌朝、昨日の騒ぎは何だったのかを知りたくてこの邸宅を尋ねました。そして門をたたき、出てきた家の者に聞くと、ちょうど昨日男が女を連れて行った時刻に、この家の主人が「(離縁後、)自分を病にさせていた近江の妻がとうとう現れた」と突然わめきたて、まもなく死んだというではありませんか。

無論、そんな女がこの家に実際に現れたという事実はなく、近江?と京から遠く離れたこの地から女がやってきて現れたというこの話を不思議に思った男は、さらにその琵琶湖のほとりの家まで行ったといい、そこでその死んだ大夫の前妻と面会を請いました。

そうしたところ、この女房は御簾越しに謁見をゆるし、そして男から仔細を聞くと、「確かにそういうことがあった」と素直に認め、礼の品などでもてなして男を返したといいます。

実は、四つ辻で現れた女は大夫に捨てられたこの女房の生霊だったと判明したというわけであり、この女房自体もしばしばそうした体験があり、自覚していたということになります。

何分、古い話なのでどこまで脚色されているのやら事実かどうかはわかりかねますが、このように憎らしい相手や殺したい相手に生霊がとり憑く、という話は日本では昔からたくさんあります。

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恋する相手にとり憑く話も多く、享保14か15年(1729~30年)ころ、京都のある商売人の14、5歳の息子に近所の二人の少女が恋をし、その霊が取りついた、という記録があります。息子はこの二人の生霊の呵責にさいなむ様子だったといい、宙に浮くなど体は激しく動き、相手の姿は見えませんが、彼女らと会話する様子もくりかえされたといいます。

こうした噂はすぐに巷に広まり、好奇の見物人がたかるようになってしまったといい、困り果てた息子の父親はついに高名な僧侶に頼み込んで折伏を試み、その結果息子の病もようやく回復した、とされています。

このように、「生霊」とは何かの恨みをもって人に憑くもの、とされているわけですが、必ずしも「生霊」=「悪霊」というばかりともいえず、どういう理由なのかはわかりませんが、自身の体から離れ、どこかへ行ってしまう、という話も多いようです。

近年では、芥川龍之介がやはり生霊を目撃したことを記述しており、その時の体験を短編「二つの手紙」に書いています。大学教師のある男が、自身と妻の生霊を三度も目撃してしまい、その苦悩を語る警察署長宛ての二通の手紙が紹介される、という形式の短編です。

芥川龍之介自身も幽体離脱を経験していたらしいとされる記録もあり、芥川はある座談会の場で、そうした経験が本当にあるかと問われると、「あります。私の二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現れました」と答えたといいます。

この体外離脱はよく、「臨死体験」と混同されることがあります。何かしら危険に遭遇して瀕死の状況になったとき、臨死体験のひとつとして、体外離脱を体験する、というものですが、体外離脱は必ずしも死に瀕したときばかりではなく、平常時、ごく普通の睡眠中、や明晰夢の最中にも起こることが多いといいます。

自らの意思で体外離脱体験をコントロールする人もいるとされ、とくに禅やヨーガの行者などは修行中に体外離脱を起こすことがあるそうです。

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では、体外離脱をしたその本人はその体験を覚えているか、ということなのですが、これについては、体外離脱後には夢とは比較にならないほど強いリアリティーを伴う世界が現れた、と語る人が多く、多くの場合、その体験内容を認知し、記憶しているようです。

ただ、体外離脱後に訪れる世界については、主観と客観の入り混じるイマジナルな世界であるという報告が多いそうです。例えばアメリカの超心理学者として有名なロバート・モンローは、体外離脱中に遠方の住居にいる友人を訪れたときの体験として、その室内を正確に描写することが出来たそうです。

ところが、その友人は体外離脱したモンローに対して、現実の世界ではふだん絶対言わないようなセリフを言ったといい、それが空想なのか現実なのか見分けがつかない状態であったことなどを証言しています。

このモンロー博士については、また別の機会にじっくり書いてみたいのですが、こうした幽体離脱の研究の第一人者として知られる人です。モンロー研究所という幽体離脱専門の研究所を設立し、その中でHemi-Sync(ヘミシンク)技術という音声によるイメージ誘導を用いた体外離脱(変性意識状態体験)に関する技術を開発した、とされる人物です。

もう亡くなっていますが、その研究は現在も後継者によって継続され、ヴァージニア州郊外にあるモンロー研究所では心理学、精神医学、医療、教育などにおいて、外部研究機関との学際的な共同研究も行っています。

このモンロー教授は、1958年にはじめて体外離脱を体験。その後も、複数回にわたり体外離脱を体験したことから、その後はその過程を記録し、体験時の出来事と、実在の場所や人物、会話や時間軸などの検証を試みました。

また、体外離脱体験時における身体的状態を心電図や脳波計などを用い、心拍数、血圧、脳波の測定など、科学的な評価を加えるべく、客観的かつ統計的な分析もすすめました。

医学博士、心理学者立ち会いのもと行った実験では、この心理学者がこう証言しています。「博士と私は同時に、モンローの上半身が熱波のようにゆがんだ印象を受けた。下半身は普通にはっきり見えていた。そのゆがみはおよそ二分続き、実験は終わった。」

さらに、1965年にも、ヴァージニア医科大学の脳波検査室で8回の実験も行いましたが、7回失敗し、八日目の夜、ようやく2回の短い離脱に成功したとされ、その後も幾度か、第三者協力のもとに同じような検証実験を行っています。

こうした実績を経て、1971年にモンロー研究所を設立。ヘミシンク技術を開発して特許を取得しました。これは左右耳から波長がわずかに異なる音を聞くと、右脳と左脳の脳波が同調することを利用した技術で、原理はバイノーラルビートという音響技術(うなりの技術)に基づいているそうです。

ヘッドフォンから聞こえてくる音と瞑想の誘導を使うことでバイロケーション型の体外離脱が達成されるとされるのですが、実際の体験のためにはある程度のトレーニングが必要とされ、この技術を会得するためにはモンロー研究所で行われる滞在型プログラミング(有償)に参加しないと、できない、とされています。

しかも無論英語のプログラムであり、英語が理解できなければ受けても意味はありません。ところが、最近はモンロー研究所自身からこのヘミシンク技術を伝授するためのCDなどの製品が世に送り出されており、邦訳もされているようで、何もわざわざアメリカまで行かなくてもこれが体験できるようになっているようです。

ただ、モンロー研究所お墨付きの正規の販売代理店以外にも多数の業者が「体外離脱ができる」を謳い文句にまがい物を売り出しているケースもあるようなので、その選択においては見極めが必要です。

また、そもそも何のために体外離脱をする必要があるのか、というところもはっきりと目的意識を持っていなければ、単なる「生霊」になってしまう可能性もあるわけです。

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このヘミシンク技術においては、この体外離脱のステージを「フォーカス」と呼び、現在のところ、このフォーカスは49段階まであるようです。

例えば、フォーカス1では、「意識が物質世界にしっかりある状態。覚醒した状態」ですが、学習が進み、フォーカス10になると、「肉体は眠り、意識は目覚めている状態」になります。意識が肉体の束縛から自由になり始める状態です。この状態がヘミシンク・ワークの基本だそうです。

そして、フォーカス12では、「知覚・意識の拡大した状態」となり、意識は肉体的・空間的な束縛から自由になり、五感を超える知覚が起こったり、ガイドやハイヤーセルフと呼ばれる意識存在と交信することが可能になるといい、さらにフォーカス15では、「無時間の状態」となります。

この段階では、意識は時間的な束縛から自由になり、過去や未来へ行くことができるようになるといい、さらにフォーカス21では、「この世(Here)とあの世(There)の架け橋」、物質世界と非物質世界との境界に行きます。

ここよりも上が、いわゆる死後の世界の人々と意思を疎通できる段階とのことで、さらにフォーカス23では、自分が亡くなったことに気がついていないとか、この世への未練や執着が強いなどの理由で、この世に非常に近い領域で囚われ、留まっている人々との霊とのコンタクトができる段階だといいます。

さらにはフォーカス27では、次の生への輪廻転生が体験できるといい、フォーカス35では、人間のみならず、地球生命系内の、時間を超えた自分の意識の広がり・つながりを体験できます。そしてフォーカス42では、地球を飛び出し、太陽系を超えた、太陽系近傍の銀河系内の自分の意識の広がり・つながりが把握されます。

最後のフォーカス49に至っては、銀河系を超えた、銀河系近傍の自分の意識の広がり・つながりが把握されるということで、人によってはさらに上のレベルに行くことも可能です。この宇宙を超えた、さらに大きな自分の意識の広がり、つながりが把握できるといい、まさにこのレベルになると神に近づけるレベルです。

このヘミシンク技術については、「体外離脱体験」、「死後体験」「死後体験Ⅱ」「死後体験Ⅲ」などの連作で有名になった、「坂本政道」さんが日本の第一人者とされており、私もこの本の何冊かおよび関連本を読んだことがあります。

東京大学 理学部 物理学科卒で、カナダトロント大学 電子工学科 修士課程終了後、ソニーで半導体素子の開発に従事していたというエリートでした。

しかし、カリフォルニア州で半導体レーザーの開発に従事していたとき、このヘミシンク技術について知り、以後はこの世界の研究に没頭するようになります。

現在ではモンロー研究所が公式に認定したトレーナーでもあり、「アクアヴィジョン・アカデミー」というヘミシンク技術の伝授・関連グッズの販売などを手掛ける会社の社長さんもやっていらっしゃいます。

国内でヘミシンクを体験するためには、この会社から正規のCDなども入手されると間違いはないと思われますが、アメリカのモンロー研究所へのツアーなども企画されているようなので、英語に自身のある人はチャレンジしてみるのも良いでしょう。

私も体験してみたいところですが、なにせ金と時間が……

ということで、なにやら坂本先生の会社の宣伝のようになってきましたが、体外離脱など嘘くさい、などと言わず、それが実際にありうるかどうかをこうしたCDを入手し、自分で体験してみるのも良いかもしれません。

1980年にグレン・ガバードという研究者によって行われた調査では、339例の体外離脱事例のうち、その体験を心地よいものだと感じた者は85%であったといい、しかもそのうちの半数以上はその体験が「喜びあふれる」ものだったと語っています。

またこの実験では体外離脱者の心理的プロフィールも調査されており、彼らが心理的に正常であり社会的適応能力も極めて高いという結果を得たといいます。

正常のみならず社会的に評価の高いあなたならきっと体外離脱ができるに違いありません。いつの日かレベルを上げ、地球を飛び出して、宇宙を駆け回ってみる、というのはいかがでしょうか。

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水素な日々

2015-710360年ほど前の1953年の今日、東京の銀座で、「銀座チョコレートショップ爆発火災」という事件がありました。

午後1時58分頃、東京都中央区銀の洋菓子店「チョコレートショップ」で爆発が発生。同店と2階にキャバレーが入る木造モルタル造地下1階・地上2階建75坪、延265坪と、かなり大きな建物が全焼。隣接するレストランや、中華料理店、事業所などもそのあおりを喰らって半焼しました。

この事故の際、店には当時店員30人余り・客50人余りがおり、この火災で店員1人が死亡。重傷22人のうち5人が一時危篤になりましたが、命はとりとめ、このほか軽傷56人が出ました。

当時銀座では風船を配布することが流行しており、同店では本件で死亡した店員が中心になって店頭で風船に水素を詰める作業を行っていました。その際に漏れた水素にタバコもしくはストーブの火が引火したことがこの大火災の原因とみられています。

この火災を受け、消防庁はそれまでこうしたイベントの際には普通に使われていた水素ボンベの使用を制限することを決め、届出制とする対策を講じました。銀座にはこのほか大手菓子メーカーの不二家もあり、ここでも風船を配っていたものの水素は使っていませんでした。しかし、本件以降は受け取る人が激減したといいます。

この事件以後、巷で水素入りの飛ばし風船を配布をする様子はほとんど見られなくなり、普通の風船の配布も鳴りを潜めていきました。

そして水素に代わって登場したのがヘリウムです。ヘリウムの宇宙における存在量は水素に次いで2番目に多く、地鉱物やミネラルウォーターの中にも溶け込んでいるほか、天然ガスと共に豊富に産出します。

このため、現在では天然ガスから分離する技術も進み、大量に生産ができるようになって安価になり、水素に代わって気球や小型飛行船の浮揚用ガスとして用いられたり、液体ヘリウムを超伝導用の低温素材としたり、大深度へ潜る際の呼吸ガスとして用いられています。

引火による爆発の危険に少ないことから、特別な事情がない限り風船などにもヘリウムガスが使用さます。またこのおかげで、巷でも飛ばし風船を配る、という風習も復活しました。もっとも最近は環境への影響ということで、自粛傾向にはありますが。

しかしその昔は石炭ガスなどから精製できる水素ガスが安価だったこともあり、これを使った風船のほうが主流でした。ヘリウムガスより水素ガスのほうが浮きやすいという事情もあり、この時代よりも少し前に世界の大空を飛んでいた水素ガスを充填した飛行船は時代の花形でした。

20世紀前半には、大西洋横断航路などに就航していたこともありましたが、1937年に発生した「ヒンデンブルク号」の墜落事故を契機に水素利用の飛行船の信頼性は失墜し、航空輸送の担い手としての役割を終えました。

にもかかわらず、世間一般では水素ガスが安価だという理由だけで使われていたわけですが、世界的にもこの「銀座チョコレートショップ爆発火災」のような爆発事故が相次いだことから、水素ガスを浮遊物のために使う、ということは現在ではまったくといっていいほどなくなりました。

このように、かつては飛行船や身近な風船にも多用された「水素」というヤツですが、学校でも習った通り、原子番号が1 の元素であり、元素記号はHです。ただし、単体では存在しにくく、一般的にはこの水素二つが合体したH2、すなわち「水素ガス」のほうが身近な存在です。

ちなみにヘリウムの原子番号は2であり、いずれも非金属元素の一つで、多々ある元素およびガス状分子の中でも軽いのが特徴です。水素はまた宇宙で最も数多く存在する元素であり、地球上でも水や有機化合物の構成要素として多数存在します。

日本語の「水素」は「水の素」という意味の表現ですが、そもそも発見されたヨーロッパでは、最初に命名されたフランスで「水を生むもの」という意味の表現で呼ばれました。

仏語では 「hydrogèneイドロジェーヌ」といい、これは、ギリシア語の 「ὕδωρ イドロ」(ラテン文字表記:hydôr、=「水」)と 「γννενゲネン」(ラテン文字表記:gennen、=「生む」「作り出す」)を合わせた語です。

水素ガスを自ら初めて分離するのに成功したのは、1766年のヘンリー・キャヴェンディッシュであり、アントワーヌ・ラヴォアジエがこれを1783年に hydrogène と命名しました。

これを英語化したものは、「hydrogen ハイドロジェン」ですが、いずれにしても、水素とは日本語のように「水の素」ではなく、「水を生むもの」という意味の合成語となります。

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水素は自然界にはほとんど存在せず、工業的には、炭化水素を「水蒸気改質」することで大量に生産されます。

水蒸気改質とは、水蒸気メタン改質とも呼ばれるもので、天然ガスに水蒸気を加えて質を変える、つまり「改質」することによって水素を取り出す方法です。700〜1100℃という高温化において金属触媒が存在すると、水蒸気はメタンと反応し、一酸化炭素と水素が得られます。

これを化学式で書くと、こうなります。CH4 + H2O → CO + 3 H2

これまでのところ、水素ガスはメタンを主成分とする天然ガスと水から、触媒を用いたこの水蒸気改質によって生産する方法が主流であり、世界の水素生産量は年間約5000億Nm3(ノルマル立方メートルは、0℃、1気圧の条件下での立方メートル示す)と推定されています。

日本では年間150~200億Nm3の需要があり、ほぼ半分が石油精製の目的で使用されています。このほかエネルギー用としては、わずかながら宇宙ロケットの打ち上げ用に液体水素が年間300~500万Nm3程度ほども用いられています。

なお、製鉄、石油精製、エチレン製造プロセスなどで年間100億Nm3以上の水素が副生していますが、大部分は化学製品等の原料やエネルギーとして自家消費されています。

そして、水素といえば、先にトヨタから発売された、燃料電池車、MIRAIはこれを用いた史上初の実用車であり、大きな反響を呼びました。

搭載した燃料電池で水素あるいは改質水素と空気中の酸素を反応させて発電して電動機を動かして走る車であり、水素のみを反応させる場合は走行時にCO2やCO,NOx,SOxなどの有害物質を排出しないとされます。

この発売を契機に、日本国内の各メーカーもまた、この燃料電池車の販売に次々と参入するようで、年内中にはトヨタに続いて、ホンダも燃料電池車を発売する予定だといいます。

今後の水素市場の一つとして期待されるこの燃料電池自動車市場については、燃料電池実用化戦略研究会は、2020年における燃料電池自動車の期待する導入目標を現在からの累積で、500万台としています。

500万台の燃料電池自動車が全て水素を搭載して走行すると仮定した場合、年間40~50億Nm3の水素が必要になると見込まれています。

仮に、燃料電池自動車が将来的にさらに普及し、今日のわが国の乗用車保有台数約5300万台の半数が燃料電池自動車となることを想定すると、さらにその5倍程度の水素が必要になる見込みです。定置型燃料電池などの水素需要も考慮すればその量はさらに増えることになります。

水素ガスの製造工場は国内にも多数あり、鉄鋼系、石油系全部で40工場ほどが稼働しています。当面の需要は、現在あるこれらの主要な工場で水素で賄うことが可能であり、供給形態としては消費地とは離れた場所にある大型設備を有する水素製造工場での生産を行う、「オフサイト型」が先行するものと思われます。

その後、家庭用燃料電池や燃料電池自動車等の普及に伴い、地域性、市場性に応じてオフサイト型に加え、例えば現在のガソリンスタンド等に対応する水素ステーションなどで直接改質を行って水素を取り出す「オンサイト型」ステーションへと展開されるものと予想されます。

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このように、いずれは水素エネルギーシステムが本格的に普及すると考えられており、そうした場合の水素需要は、既存の供給能力を大きく超えるものと予想されます。このため今後は、水素供給体制の整備が、水素エネルギーシステムを支える上で一つの重要な課題となります。

改質装置の小型化などそのほかにも課題は数多くあるものの、水素ガスを使ったビジネスは将来的にも有望とみなされています。その一つの理由は、無論、燃料電池車などの自動車に搭載される水素ガスは燃焼しても地球温暖化の原因となる二酸化炭素をまったく排出しない、究極のクリーンエネルギーであるためです。

地球温暖化は、単に気温が上昇するだけでなく、海面の上昇を引きおこし、低地の水没や降水分布・植生の変化など、人間社会に様々な影響を及ぼすことが懸念されています。地球温暖化の原因となっているのが、二酸化炭素やメタンといった温室効果気体の濃度の増加であり、燃料電池車ではこれが抑えられるというのが謳い文句です。

ところが、燃料電池車そのものは水しか排出しませんが、このクルマに搭載される水素ガス自体は、上述のとおり、その製造工程で化石燃料を消費するため、この時点で一酸化炭素が発生します。

また、水蒸気改質により発生する一酸化炭素などのうち化成品に利用されない過剰分や燃料として利用される炭化水素は二酸化炭素として環境中に放出されます。さらには、水素の運搬、保存には低温化、高圧化等のために他の化石燃料以上にエネルギーを消費します。

このように、水素の原料が化石燃料である限りにおいては、水素を化石燃料の代替として利用してもそのまま化石燃料の消費量が削減されたり二酸化炭素の発生が完全に抑えられる、ということにはならないわけです。

また、水蒸気改質によって水素ガスを取り出す際に発生する一酸化炭素、CO自体は温室効果気体ではありませんが、対流圏における「オゾン」を作り出す前の組成物質であると考えられています。大気中に含まれているその他の微量成分の寿命を決定し、オゾンと並んで対流圏大気の酸化能を制御しているといわれています。

このことから、COは「間接温室効果気体」と呼ばれ、温室効果気体の濃度を制御する、極めて重要な物質であると言われています。

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ただし、水蒸気改質は化石ベースの燃料以外に、バイオエタノールやバイオディーゼルのようなCO2ニュートラルな液体炭化水素燃料を利用できるため、将来的にはよりグリーンな水素を製造することができる可能性があります。

上でも書いたように、小規模な改質装置が開発され、ガソリンスタンドを水素ステーションに転換するようなこともいずれは行われていることが考えられ、これにより工場での製造、運搬による手間の削減により温室効果ガスの削減が期待されます。

現在では工場で生産した水素ガスを燃料電池車に充填し、これを燃やすという方法が採られているわけですが、これが水素ステーションで行われるようになったあかつきには、さらにその先の延長として、将来的には比較的少量の天然ガスなどの化石燃料をクルマに積み、ここから直接水素を取り出す、といったことも実現するでしょう。

とはいえ、こうした技術は小規模な水素ステーションで実現する上においてもかなり難しいとされており、多くの課題があります。さらには移動するクルマの上でこれを実現しようとすると、まずは、改質反応は高温で起こるため、温度が上がるまでに時間がかかり始動が遅くなること、また、高温に耐えうる材料を必要とすることなどが考えられます。

また、水素ガスを取り出す過程で反応装置から生成される一酸化炭素は上述のとおり、間接的な温室効果気体であるため、これを除去するにこしたことはなく、このため、これに対処するための複雑な一酸化炭素除去装置の組み込みが必要になります。

さらに一酸化炭素は燃料電池を汚染します。燃料電池において水素を発生させるために使用される触媒の白金膜は、一酸化炭素にも非常に敏感で、一酸化炭素によって汚染され、性能が低下します。触媒は非常に高価であるため、頻繁に交換するわけにもいかず、このためにも、一酸化炭素は極力少ない方がよく、その削減は最も重要な課題です。

ただ、繰り返しになりますが、水素ガスを自車生産しながら走るということは、工場で生産した水素ガスの運搬やステーションでの保存や低温化、高圧化などが不必要なり、これによって他の化石燃料以上にエネルギーを消費を削減することもできる、というわけで、現在考えられている中では最高にクリーンなクルマになる可能性があるわけです。

天然ガスやガソリン、ディーゼルのような既存の燃料で動くことができる燃料電池車が現時点では最先端なわけですが、さらに長い目で見ると、この燃料にバイオエタノールやバイオディーゼルのような再生可能な液体燃料を使えば、究極のエコカーが完成します。

とはいえ、当面の目標として、水素ガスの供給ステーションを普及させることだけでも温暖化対策には大きな効果があると考えられています。また、あちこちに水素燃料補給基地ができるということは、これはすなわち災害時などにも近隣の一般家庭に非常用電源を提供する機能をも実現できるということになります。

将来的には、ここからさらに一歩踏み込み、こうした機能をさらにクルマ自体が持てば、一家に一台の燃料電池車を持つことで、災害時の備えは万全といえるほどの体制を日本中に作ることができるでしょう。

このようなことが実現すれば、地球環境に優しい水素はより身近な存在になります。燃やしても水以外の粒子状物質や二酸化炭素などの排気ガスを出さないことから、水素は代替エネルギーとして最も期待されているわけです。

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ところが、水素の利用はこうした燃料電池への応用だけにとどまりません。現在ではロケットの燃料にも使用されており、将来に渡る宇宙開発においても重要なものです。

初期のころのロケットには、常温保存が可能なヒドラジンやケロシンといった個体燃料と極低温にした液体酸素などの酸化剤などが用いられましたが、最近はより高い比推力が得られる「液体水素」を燃料とし、これと酸化剤の液体酸素の組み合わせが、各国の基幹ロケットの主流となっています。

アメリカのスペースシャトル、ヨーロッパのアリアン5などのほか、日本の主力ロケットであるH-IIAなどもこの方式であり、これを「液体燃料ロケット」といいます。

実際に液体燃料ロケットとして世に出たのは、ナチス・ドイツがアメリカなどの連合国相手に戦った第二次大戦で「報復兵器」と名づけたV2ロケットです。

ヴェルナー・フォン・ブラウンや、先のヘルマン・オーベルトなどの科学者・技術者が集い製作したこのロケットは、アルコールと液体酸素を燃料にし、ジャイロスコープとアナログコンピューターにより誘導されていました。

また、ロケットエンジンの下にある推力偏向板(ジェットベーン)により向きを変えられるという、現在存在する液体燃料ロケットの原型とも言える構造をしていました。

世界大戦終結後、鹵獲(ろかく、他国の兵器を奪って自前で使うこと)されたV2や多くの科学者・技術者はアメリカとソ連に連行され、それぞれの地でV2と同じような液体燃料ロケットを製作し、冷戦の軍拡競争で作られた弾道ミサイルとしてそのノウハウを広めることとなりました。

こうして実用化された液体燃料ロケットは、燃料を送り出すための高圧ポンプや複雑な配管システムが必要とされるなど、構造が複雑になり、その分高価になるという欠点も持ちます。

が、その反面、それまでの固体燃料ロケットとは違い、推力の制御が容易であること、いったん燃焼を停止させたものを再度点火するのが可能であることなどの長所を持ちます。

また、この液体燃料ロケットの場合も、酸素と水素を化合させるだけなので、排気ガスは有毒物質を一切含まない水蒸気です。このため、燃料電池車と同じく、クリーンなロケットといえます。

スペースシャトルや種子島宇宙センターのロケット打ち上げ時に出る大きな雲状のものは燃焼ガスとともに排出される水と、音響と熱による発射設備の損傷防止用の注水の水であり、ガスと「湯気」が霧状になった混合物です。

打ち上げの写真を注意深く見るとわかるのですが、固体燃料燃焼ガスの茶色い雲と真っ白の水の霧の二種類があるのが確認できるはずです。この水霧の一部は液体酸素-液体水素メインエンジンの燃焼による水蒸気由来のものです。

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ただし、実際には、液体水素・液体酸素エンジンだけでは離床時の推力が不十分なので、固体燃料の補助ロケットを使用します。この固体燃料補助ロケットの排気にはオゾン層や環境に悪影響を及ぼすハロゲン化合物が含まれるため、将来的にはこうした補助ロケットを使わないで打ち上げる方法が模索されています。

とはいえ、ロケットの発射本数そのものはクルマの生産台数ほどは多くないため、現在までのところそれほど問題視されていません。

日本では、宇宙ロケットの打ち上げ用の燃料としての液体水素の量は、日本全体での水素ガスの需要の1%にも満たない量ですから、たとえ今後ロケットの需要が増えたとしても他の燃料電池車などへの供給量を阻害する、といった心配もありません。

このほか、液体燃料は一般的に燃焼ガスの平均分子量が小さく、固体燃料に比べて比推力に優れているうえ、推力可変機能、燃焼停止や再着火などの燃焼制御機能を持つことができます。また、エンジン以外のタンク部分は単に燃料を貯蔵しているだけなので、大型のロケットでは非常に構造効率の良いロケットが製作できます。

とくに液体酸素を酸化剤、液体水素を燃料とするロケットは、現在実用されている液体燃料の推進剤の組み合わせでは最高の比推力を持ち、そのために、特に衛星打ち上げロケットの2段目や3段目にこれを用いた場合、他の液体燃料よりもペイロード(対費用的に大きなものを打ち上げられる)を増大させることが出来ます。

スペースシャトルのメインエンジンも1機を打ち上げるには150万リットルの液体水素が使われるといいますが、これによる汚染物質の放出も微々たる量であり、このように、水素を使う液体燃料ロケットはクリーンであるのに加え、将来に渡っても有望な宇宙開発ツールといえ、ここでも、水素が今後の人類の発展の鍵を握っています。

ただし、この方式のロケットは、燃焼室や噴射器、ポンプなどの機構は複雑で小型化が困難なので、小型のロケットでは同規模の固体ロケットに比べて構造効率は悪化します。

また、推進剤の種別によっては、腐食性や毒性を持ち貯蔵が困難であったり、極低温なため断熱や蒸発したガスの管理、蒸発した燃料の補充などで取り扱いに難があるものもあり、これらの課題の克服が将来の発展においては必要となります。

こうした課題をクリアーしつつ、クリーンなロケットを次々と打ち上げて人類がどんどんと宇宙に出て行ったあかつきには、さらに人類は「金属水素(Metallic hydrogen)」を発見し、これをさらに技術の発展につなげていけるようになるかもしれません。

金属水素とは、液体水素がさらに圧縮され固体状態になったものであり、最近の研究では水素もまた高い圧力下において金属化すると考えられています。

実際に1996年にアメリカのカリフォルニア州のローレンス・リバモア国立研究所のグループが、140GPa(約140万気圧)、数千℃という状態で、100万分の1秒以下という短寿命ではあるものの、液体の金属水素を観測したと報告しています。

しかしながら、それ以降、他国の研究者が数百GPaのオーダーで圧力を加える実験を続けてはいますが、こうした固体の金属水素の観測はされていません。従って、金属化そのものが実現しているとはまだいえない状況であり、その実在の真偽は未だ不明です。

ただ、理論的にはありうるとされており、なぜこれが重要視されるかといえば、金属化した水素は室温超伝導を達成するのではないかという予想があるからです。

例えば、現在超伝導が確認されているリチウムでは、48 GPa、20 K程度(絶対零度、-253℃程度)で超電導となりますが、金属水素では、30 GPa程度で超電導となり、しかもこれよりもかなり高い温度で超伝導状態となる可能性が十分あるといわれているようです。

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木星、土星や新しく発見された太陽系外惑星の内部では、重力による圧縮により、非常に高い圧力になっており、金属水素が大量に存在すると考えられており、液体金属水素が観測された条件と似ています。

最近増加しているこれら木星型惑星の観測においては、これを構成する最も主要な元素が水素とされています。惑星の磁場にも影響を与えているのではないかといったことも指摘されており、最新の観測データでは、以前に考えられていたよりも多くの金属水素が存在することが示唆されています。

とくに木星では他の惑星よりも金属水素を多数含んでいるのではないかといわれており、木星の磁場が非常に強く、地表面近くにあるのは、金属水素の存在が一因だともいわれています。

しかし、仮に人類が木星に到達し、この金属水素と発見したとしても、30 GPaといった高圧な環境ではその採取は困難です。ただ、その観測などにより、金属水素の存在とその生成過程が確認されれば、その観測結果を持ち帰って地球で再現できる可能性があります。

現在の段階でも、この金属水素を模した「準安定金属水素」というものができるのではないか、とわれており、これによって水を排出するクリーンで効率的な燃料を作ることができると期待されています。

この「準安定金属水素」というものは、通常は液体水素の12倍の密度だといい、分子を再結合すると、酸素中で水素を燃焼させた時の20倍のエネルギーを放出します。

燃焼速度はより速くなり、スペースシャトルで用いられていた液体水素/液体酸素の5倍も効率的な推進剤となりうるということです。上記のローレンス・リバモア国立研究所でも実験が進められているそうですが、現在では燃焼時間が短く、これが「準安定状態」といえるものなのかどうかすら確認できなかったようです。

このほか、水素が金属化すると極めて強力な爆薬になるとの理論計算も行われており、「電子励起爆薬」として研究されています。

爆薬の威力はトリニトロトルエン以来100年以上かけて2倍程度にしか向上しておらず、 現時点で限界に達したと言われています。金属水素を使った新型爆弾は、これを打ち破る技術的ブレイクスルーになる次世代爆薬として期待されているまったく新しい概念の爆薬だそうです。

詳しいことは私もよく理解していないのですが、基本的な概念としては、予め原子の周りのエネルギーを高めた物質、つまり「電子励起状態」の原子を組み合わせて化合物を作ることによって、今までより飛躍的に高いエネルギーを持つ化合物が作れるという発想だそうです。

そのエネルギーは理論上は、いわゆるプラスチック爆弾といわれる強力な爆薬HMXの300倍以上と計算されています。これはTNT換算すれば1トンの爆薬がTNT500トン分の威力を持つことになりこれは、戦術核兵器並、いやそれ以上の通常爆弾が開発できることを意味しています。

ちなみに、TNTとは高性能爆薬の名称であり、ニュースなどでも「A国の原爆BはTNT換算で50キロトンの破壊力」などと表す使い方が一般的に見かけられます。広島に落とされた原子爆弾(リトルボーイ)は、TNT換算で約15キロトンです。それ以上の爆発力を持つ「通常爆弾」ということになり、いかにすさまじいものか想像できます。

この金属水素を使った「電子励起爆薬」は、コンピューターによる電子軌道の計算によって励起状態で安定したまま化合物になる可能性が見つかったことから、実際に製造可能だと言われています。将来的にはこのような研究から金属ヘリウム爆薬と呼べる物ができるのではないかと予想されているようです。

しかし、水素を使った爆弾といえば、人類はすでに「水素爆弾」という核爆弾を完成させています。原爆のように使用された例はまだありませんが、新たな技術の発見はさらに新たな兵器を産み、これが世界に新たな混乱をもたらす、という歴史を繰り返してきました。

水素の利用は今後、燃料電池の普及や宇宙開発などの平和利用に限る、という世界的なルールを作るべきだと思う次第です。

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ほねほね

2015-6210先日、BS-TBS放送の「THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜」という番組を見ていたら、その日のテーマ、登場人物は、アニメでおなじみの「一休さん」でした。

実在の人物で、本当の名前は、一休宗純(そうじゅん)といい、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧です。

出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されています。母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、この当時の天皇、小松天皇の寵愛を受けました。が、のちに帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間人として暮らしているうちに、そこで一休を生んだといわれています。

6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)という高僧の元に入門しました。この安国寺というのは、南北朝時代に足利尊氏らが北海道、沖縄を除く日本各地に設けた寺院のことで、今も各地に同名のお寺がたくさん残っています。

が、京都府内の山城(現中京区四条大宮)にあったとされる安国寺は既に廃寺になっており、同じ京都府内で残っているのは、丹波(現京都府綾部市)にある安国寺のみです。同じく足利将軍家による将軍家による創建とされており、このどちらに一休が入門したかは不明ですが、おそらくは前者の都の安国寺のほうだったでしょうか。

その晩年に至るまでに多くの書画や詩を残していますが、幼いころから既に詩才に優れていたといい、13歳~15歳の時に作った漢詩は、洛中の評判となり賞賛されたといいます。

この安国寺で受戒して僧侶になった一休は、その後応永17年(1410年)、17歳で安国寺を出て、今度は謙翁宗為(けんおうそうい)という坊さんの弟子となり、このとき戒名を宗純と改めました。一休はこの謙翁をかなり尊敬していたようで、人生の師と仰いでいたそうです。

その入門のきっかけは、このころ争乱や疫病で多くの人が亡くなっていたこの時代、鴨川のほとりで、一人の女をみかけたことでした。病で失った子供を抱えて呆然としているこの母親の前で、いつまでも手を合わせて経を唱えていた人こそがこの宗為和尚であり、これをたまたま目撃した一休はその光景に大きな衝撃を受けたと伝えられています。

しかし、一休の入門からわずか4年後にこの師匠は亡くなり、残された彼は途方に暮れ、これが原因で自殺未遂を起こしています。京都市内の川に身を投げようとし、ここで死ぬなら自分の運命もこれで終わり、しかしもし死ななかったらそれは天が我に何らかの使命を与えたのだろう、と覚悟した上での入水だったそうです。

ところが、この一休のお母さんは彼が成人するまで心配で心配でしかたがなかったようです。というのも、彼はいまは民間人に身をやつしているとはいえ、天皇家の御落胤ですから、万が一のことがあってはならない、というわけです。

元々天皇の妻であったわけで、自分の身の世話をする女性くらいは側にはべらせる程度の財力はあり、この女性にいつも一休のことを監視させていたそうです。

そしていざ一休が川へ飛び込もうとしたとき、この女中が後ろから抱きつき、止めようとしました。ところが勢い余って二人ともざぶんと川へ落ちるところとなり、水に落ちた一休は、何が何だかわからないまま振り返ると自分以外に水中でもがいている女がいることに気が付きます。

そうなるともう自分が身を投げたことも忘れ、この女性を助けねばとの使命感が沸いてきました。必死でこの女中の襟をひっつかんで陸へあげ、こうしてこの女性は助かりましたが、奇しくもこうして一休もまた命を取り留めたのでした。

そしてこのとき悟ります。自分はやはり死ななかった、生かされたのは、何等かの使命があるからだ……と。

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そして、このころから、一休は後世にも語り継がれるような、破天荒な生き方をするようになります。

その後洛内を転々としていたそうですが、あるとき琵琶湖南部の大津へ行脚へ出かけた際、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)という人に出会います。前の師匠の謙翁宗為以上の人徳を感じとった一休は、すぐさまこの人の弟子となることを願い出、許されます。

そして、宗曇和尚のもとで修業を積み、ある日出された「洞山三頓の棒」という公案に対して見事な答えを出したことから「一休」の道号を授かります。

これはいわゆる禅問答というヤツで、禅寺では日々座禅を組み、ある悟りを開いたと感じたときに、禅師に乞い、こうした「公案」を与えてもらい、これに答えるといういわば「昇進試験」を受けるわけです。

洞山三頓の棒(どうざんさんとうのぼう)とは、唐の時代に、雲門禅師という高僧のところに何千kmも離れたとこるから、洞山という僧が参禅のため訪ねてきたことの故事に由来する公案です。

そこで、雲門禅師は洞山に、どこから来たのか何をしていたのか、と二度質問を重ねますが、雲門禅師はその答えに満足しなかったため、「お前に三頓(60回)の棒叩きを与える」
といいました。このように、何と答え、と質問されて答えられない場合、坐禅をし、時には何年も考え続けるわけです。

このときと同じ公案を一休も受けたわけですが、その答えは、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」というものでした。

「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指します。煩悩の世界から仏の世界に行くにあたっては、歩いていようが休んでいようが、雨が降ればそれでよし、風がふいてもそれでもよし、といった自失の心境を表現したものかと思われます。

凡人の私にはこの意味はよくわかりませんが、このブログを読んでおられる聡明な方々の中にはお分かりになる方もいるに違いありません。とまれ、この公案に満足した宗曇和尚は彼に「一休」という道号を与えました。そしてさらにそれから10年の歳月が過ぎ、この間一休は師匠と二人でつましい生活を送りつつ、修業に励みました。

ところが27歳になったある夜のこと、カラスの鳴き声を聞いてふとんからガバと起きた一休は、俄かに大悟します。さっそく、宗曇和尚を起こし、その悟りについて話をしたところ、師匠は驚き、一休に印可状を与えよう、と申し出ます。

ところが、一休はこの申し出を辞退したばかりでなく、その印可状を破り捨てた上に、こんな書き物にとらわれているとはなんという馬鹿者だ、とこれまで自分を育ててきてくれた師匠を笑い飛ばしたといいます。

以後はこの師匠の元を離れ、都でひとり托鉢をしながら、以後、死ぬまで詩、狂歌、書画と風狂の生活を送るようになったといわれており、自由奔放で、奇行の多い残りの人生を送ったと伝えられています。

例えば、上述の師匠との別れのときもそうですが、以後は印可の類の証明書や由来ある文書は、ことごとく火中に投じたといいます。

また、仏前にある身でありながら、男色はもとより仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、しかも妾までいたといいます。盲目だったといい、名は「森侍者(しんじしゃ)」だったいう記録もあります。さらにはこの妾との間に岐翁紹禎という実子の弟子まで設けていたといいます。

木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわったという話も残っており、これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされます。

さらには、親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をしたという話も残っています。この時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言ったそうで、これを聞いた一休は吹き出し、蓮如と二人で大笑いしたといいます。

こうした一見奇抜な言動は、一見破天荒に見えます。が、現代ではこうした行動を通して当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されています。より具体的には、一休はこの当時の将軍である足利義政とその妻日野富子の幕政を強く批判していたことも知られています。

この戒律や形式にとらわれない人間臭い生き方は民衆の共感を呼び、多くの人に愛されました。そしてのちの江戸時代には、彼をモデルとして「一休咄」が乱されましたが、これはさらにのちには、「頓知咄(とんちばなし)」として全国に広まりました。

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それほどまでに人気があった一方では、かつての天皇の御落胤である、という噂もまた事実として人々にも信じられていたようです。

正長元年(1428年)に、称光天皇が男子を残さず崩御した際、伏見宮家より後花園天皇という人が迎えられて即位しましたが、この即位はこのとき35歳だった一休の推挙があったために実現したのだ、という話も伝わっています。

一休がその晩年、70歳を過ぎたころの室町時代の応仁元年(1467年)には、応仁の乱が発生しました。8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生したこの内乱は10年以上にわたって継続し、九州など一部の地方を除く全国に拡大しましたが、乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなりました。

十数年にわたる戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃しました。が、そんな最中の文明6年(1474年)、一休は後土御門天皇の勅命により京都の「大徳寺」の住持(住職)に任ぜられました。

ところが、住職に任ぜられたとはいえ、この大徳寺もまた戦乱によって焼失していました。後土御門天皇は、この当時最も人気のあった一休ならば、他の宮家などにも働きかけ、この寺の再建を果たすだろう、と期待したわけです。

しかし、公私ともどもを自分の人生から棄却して生きてきた彼は、勅命とはいえこの新たな煩悩を受けいれるか否かを非常に悩んだようです。とはいえ、この寺の再建こそが、荒廃した京にあって人々の心の拠り所にある、と考え直し、ついにはこれを受け入れました。

問題はその資金であり、これをどう捻出するかです。このとき一休は悩みに悩んだ末、このころ乱によって荒廃していた京から遠く離れた堺の湊へ向かい、ここの商人たちに資金の提供を依頼します。

応仁の乱により、それまで栄えていた兵庫湊に代わり堺は日明貿易の中継地として更なる賑わいをみせ始めていました。琉球貿易・南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まる国際貿易都市としての性格を帯び始めており、ここの商人たちは豊かでした。

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスも、その著書「日本史」のなかで堺を「東洋のベニス」と記しているほどです。これはこの時よりもさらに後年の話ですが、それほどのにぎわいを獲得する前の景気をこのころの堺は既に獲得していました。

この堺の商人たちの寄付への同意はセンセーショナルに京の町にも伝えられ、時には眉をひそめるような奇矯な行動をする人物として認識されてはいたものの、人気のあった一休の元には、貧しい人々からの寄付も集まるようになりました。

こうして、大徳寺は再建され、荒廃した京の町のシンボルのような存在になりました。その後も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受け、江戸時代以降も寺運は栄え今日に至っています。

ところが、一休はこの寺の住職でありながら、ここには住まず、「真珠庵」という小さ塔頭(たっちゅう)を建てて、その後の一生をここで過ごしました。

この「真珠庵」という名の由来ですが、日本臨済宗の祖の一人となった楊岐方会(ようぎほうえ)が雪の夜に楊岐山の破れ寺で座禅をしていた時に風が舞い、部屋の中へ雪が降り込んできたという故事にちなんでいます。その時、床に積もった雪が月に照らされて真珠のように輝いたといい、これもって真珠庵の名を一休が名付けたものでした。

後に「一休寺」とも呼ばれるようになったこの寺は現存し、京都府京都市北区紫野にあります。小さいといっても、大徳寺よりも小さいという意味であり、同じく堺の豪商の寄進によって建てられたものですから、それなりの規模もあり、その後も増築がされているため、現在ではかなり立派なお寺です。

現在に至るまでも天皇家も親しく接せられてきたといわれており、そのためもあってか特別公開時を除き、通常は非公開になっています。

一休はここで88歳まで生きました。死因はマラリアだったといわれています。その昔は、瘧(おこり)と称される疫病で、原虫感染症です。その墓は、酬恩庵というお寺に作られ、「慈揚塔」と呼ばれています。さすがに天皇家の御落胤であり、この寺は昔から皇室によって保護されてきており、現在も宮内庁が御廟所として管理しています。

「陵墓」とみなされるものであり、このため一般の立ち入りや参拝はできません。彼が生きた時代にあれだけ庶民に愛された人のお墓を現在では見ることもできない、というのは少々寂しい気がします。

冒頭でも書いたように、一休は書画や詩などに達者だったそうで、「狂雲集」「続狂雲集」「自戒集」といった詩集が残されているほか、後世の茶人の間ではその墨蹟が極めて珍重されました。

「骸骨」の絵をあしらった書画が数多く残っており、このモチーフが大好きだったようです。生前、杖の頭にドクロをしつらえたものを突いて歩きながら、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いたという逸話も残っています。

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この骸骨とは、髑髏(どくろ)ともいい、俗にされこうべ、しゃれこうべ、ともいわれるものですが、言うまでもなく、白骨化したヒトの頭部の頭蓋骨です。「されこうべ」(しゃれこうべ)は「さらされた(晒された)頭(こうべ)」の意味で、ようするに処刑されたのちに見せしめのために晒された首が白骨化したものです。

このため、一般には死の象徴とされ、欧米では「海賊旗」にもよく使われました。海賊が船や港を襲撃する時は常に「海賊旗」を掲げる必要があり、これはすなわち「襲撃するぞ」という意思表示のために用いられていたものです。相手に降伏を求め、「然らずんば、汝の運命かくの如し」、つまり逆らえば殺されてこうした骨に化すのだぞ、という脅しでした。

襲われた船は、抵抗する術がない場合降伏の印に白旗を掲げ拿捕されますが、こういった無抵抗の降伏の場合、海賊は船や乗組員には危害を与えることなく、ただ略奪を行って去っていったといいます。

しかし降伏がなされない時は海賊旗は降ろされ「赤旗」を掲げ容赦ない攻撃を加えました。一方では、政府の軍艦は「海賊旗」を掲げる船に遭遇した場合、その船は「海賊船である」と了解され、警告することなく攻撃、撃沈することが出来ました。

現在でも、日本では、海上保安庁や水上警察のテロ取締訓練において、「テロリスト」役の船にはこの海賊旗を掲げさせるといいます。このほか、ブラジルの特殊警察作戦大隊のように、警察や軍組織が紋章として利用している例もあります。

その昔、ナチス・ドイツの親衛隊、武装親衛隊等の紋章や徽章として使われたものは、交差した骨の上に頭蓋骨を置いたデザインで、一般には、「トーテンコップ」として知られています。骨が頭蓋骨の後ろに置かれて下顎骨がないというのが海賊旗のデザインと異なっている点です。

このように、この髑髏は一般的に死の象徴として知られ、死神を連想されることも多いシンボルであるがゆえに軍隊などで多用されてきたデザインですが、しかし同時に不死、人の未熟さに対する神の永遠性などを指すこともあります。

ヨーロッパでこれを最初にシンボルとしたプロイセン王国では、王であるフリードリヒ2世が、自分の騎兵たちが永遠に生き続けるようにと願い、その徽章として髑髏をあしらったことが、そもそも髑髏が使われるようになった走りといわれています。

同様な意味では、スカル・アンド・ボーンズのような秘密結社においても、髑髏は永遠の象徴であり、社会的な成功を意味するものだ、としてそのシンボルに選ばれたといわれています。

スカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones)というのは、通称、S&Bとして知られる結社で、その本部はアメリカのイェール大学にあります。「The Brotherhood of Death(死の義兄弟)」の異名もあり、組織内容は秘密厳守ですが、会員名簿は公開されています。

ウィリアム・ハンティントン・ラッセルと、従兄弟のサミュエル・ラッセルという二人の人物が1832年に設立したもので、そもそもは商社として発足したものだったようですが、その後構成員同士が協力し合いアメリカで経済的・社会的に成功することを目的とした結社に発展しました。

2004年秋のアメリカ合衆国大統領選挙の2人の候補者である、ジョン・ケリーとジョージ・W・ブッシュが2人ともS&B出身だったことはよく知られており、また、第43代アメリカ合衆国大統領のジョージ・W・ブッシュの父である第41合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュや、祖父のプレスコット・ブッシュもS&Bのメンバーでした。

プレスコット・ブッシュはユニオン銀行の頭取と社長として知られる人物であり、ヒトラーの資金援助者だったドイツの鉄鋼石炭王フリッツ・ティッセンとも深い関係を築いていたといい、何やらきな臭い臭いがします。

また、きな臭いといえば、歴代のCIA長官はS&Bのメンバーボーンズマンが務めており、その他、金融、石油といった産業界の中枢だけでなく、国防総省、国務省などの政府機関にも数多くのメンバーが存在しています。

そうした結社のシンボルが髑髏というのは、自分たちの組織を永遠に保たせるためこれ選んだのだ、といわれれば理解できないこともありません。が、やはり髑髏というのは死を連想させ、軍隊の精鋭部隊の紋章などに使われるほかにも、現代では一般には危険物ないし毒薬の標識として用いられることが多くなっています。

この髑髏=危険物、という表示は、1829年に、米国ニューヨーク州において有害物質容器のすべてにこの標識を取り付けるように義務付けられるようになったのが初めてといわれています。以来、世界中で用いられるようになり、現在様々なデザインが存在します。

おそらくは放射能汚染の恐れのある場合に使うマークと同じく、世界で一番危険なモノ、という印象を抱かせ、近づかないようにさせる意図があるわけです。それほどこの骸骨というのは昔から忌み嫌われてきたわけで、どうしてもマイナスイメージが伴います。

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とはいえ、誰もが死んだら、その肉体は滅び、いわゆる「白骨」と呼ばれるものになるわけであり、死したのちに残されたそれには魂は宿っておらず、ただのカルシウム、という考え方もあります。

より物理的な視点からだけみれば、白骨化とは、硬い骨を持つ脊椎動物の死体が長期間放置され、腐食や風化をした結果、皮膚や筋肉、内臓などの組織の大半が抜け落ち、ほとんど骨格だけが残された状態のことです。

海などの塩分濃度の高い水の中では白骨化が急速に進みます。が、通常の場合、死体が白骨化するまでにかかる時間は、ヒトの場合、腐肉食動物による死体の損壊や周囲の環境にも強く影響されるが、地上に放置されていた場合、夏場では1週間~10日、冬場では数ヶ月以上かかるといいます。

また乾いた土中に埋められていた場合、大人で7 ~8年、水中では夏場で2週間、冬場では1ヶ月で頭蓋骨の一部が露出します。

意図的に骨格標本を作るためには、炭酸ナトリウム1%の水溶液につけて沸騰させないように煮込むと比較的短時間で白骨化させることができるといい、骨を傷めることなく、骨の中にある油や雑菌を取り除くことができるため、保存性が良くなります。そのほかの方法ではどうしても骨が傷むため、骨格標本には向かないことが多いそうです。

「標本」というぐらいですから、骨格のかなりの部分が残っている場合は、骨格の様々な特徴から性別や年齢を判別することもできます。男性の骨は凹凸が多く、女性よりも筋力があるため、女性の骨よりも長く、厚いという特徴があります。性別の判定には、性別判定式という数式から求めた値が限界値を超えた場合は男性と判断できます。

また、骨折が治癒した箇所は独特の隆起が見られるため個人を特定する手がかりとなります。このほか、外科手術で骨髄内釘、骨螺子、骨接合プレートなどの治療器具を骨に取り付けられる場合は、その後の治癒のため、元々のその人の骨格が特に重要になるそうです。

さらに、何等かの事件や事故に巻き込まれた場合でその身元が特定できない場合などには、古くから歯型や虫歯の治療痕などが手がかりにされてきました。歯牙から個人を特定する方法を研究する「法歯学」と呼ぶ学問もあります。

近年ではDNA型鑑定も行われるようになり、骨からでもDNAを採取することもできるといい、ここから身元特定につながるケースもあるようです。

ただし、日本ではDNAのデータベースそのものが少ないため、DNAだけで個人を特定することは極めて困難です。このため主に親族のDNAと照合するという手段がとられますが、遺体の人物の身元にまったく手がかりがない場合、誰のDNAと照合すればいいのかもわからないため、DNA型鑑定が必ずしも身元特定の決定打とはならないといいます。

このように「白骨」にはひとつとして同じものはなく、その微妙な差異そのものが、それまでその人が生きてきた証しともいえるものです。日本では死した後もその骨が大事に祀られ、墓に入れられたのちは、人々はこれに盆暮れお参りし、ときにはその一部を持ち帰って大事にお守りとしたりもします。

こうした風習は日本だけではなく、世界的にも当たり前といった感覚であり、遺骨は貴いもの、とするのが一般的です。

ところが、これをあくまでも標本とみなし、その収集を日常とする趣味の悪い学者がその昔いました。「ジョン・ハンター」といい、イギリスの解剖学者、外科医でした。一方では「実験医学の父」「近代外科学の開祖」と呼ばれ、近代医学の発展に貢献したことでも知られています。

種痘で有名なエドワード・ジェンナーとは師弟関係にあったといい、解剖教室のための死体調達という裏の顔を持ち、ロンドン中心部の有名な繁華街レスター・スクウェアにあるその自宅は「ジキル博士とハイド氏」のモデルになったといいます。

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの代表的な小説の1つで、1885年に執筆され、世界的に有名になりました。二重人格を題材にした代表的な小説であり、現在でも二重人格の代名詞として、「ジキルとハイド」という語が使われる事もあります。

そのモデルとなったのは、18世紀半ばのエジンバラの市議会議員で、石工ギルドの組合長をしていたウィリアム・ブロディーという人物です。ブロディーは昼間は実業家でしたが、夜間は盗賊として18年間に数十件の盗みを働いていました。

ところが、その正体を見破られそうになったため、あろうことか捜査を行っていたスコットランド税務局本部の襲撃しようとしてその計画が露見して捕まり、1788年に処刑されました。

そうした人物がモデルとなった小説に登場する家として彼の家が選ばれた、ということはすなわち、書き手のスティーヴンソンもまた、このジョン・ハンターにあまりいい印象を持っていなかったのでしょう。世間的にもこの時代にはかなり変人視されていたことが推測できます。

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スコットランドのグラスゴー郊外の農村に生まれ、ロンドンで医師・解剖学者として成功を収めていた10歳年長の次兄ウィリアム・ハンターの元で助手として働くようになりました。兄ウィリアムが開いていた解剖講座に使用する新鮮な死体を集めるため、調達に伴う裏の部分を一手に引き受けます。

やがて解剖講座の助手も務めるようになり、講義の弁は兄より劣っていましたが、持ち前の手先の器用さで標本作成や解剖の実践では兄を凌駕するようになります。

33歳のとき、兄の元を離れ、七年戦争に外科医として従軍。帰国後、歯科医ジェームズ・スペンスと協業し歯の治療と研究に従事し、成果を有名なオランダの画家による挿絵つきの論文「ヒト歯の博物学および歯疾患の報告」として発表しました。これにより医学界で知名度を上げるようになります。

40歳のとき、兄の影響力もあって聖ジョージ病院の常勤外科医となり、4年後には自宅に解剖講座を開きました。医師としてのジョン・ハンターは内科医による瀉血や浣腸、水銀治療といった旧弊な治療を否定し、外科医としても安易に手術を行うことに慎重であり、症例によっては自然治癒に任せたといいます。

教師としては、観察し、比較し、推論することを学生に要求しました。ハンターは当時の医学界では異端とみなされていたようですが、この聖ジョージ病院での臨床による評判と彼の解剖講座に押し寄せた多くの弟子が彼の名を世界に広げる役割を果たしました。

人体のみならず、多数の動物実験や動物標本の作成を行い、解剖学と博物学の分野で評価されており、聖ジョージ病院の職員なる前年の39歳のときには、王立協会の会員にも抜擢されています。

ところが、彼には「骨格標本の収集家」としての側面があり、世界中から一万四千点もの標本を集めたことでも人々の耳目を集めました。中には、非合法な手段を問わず集めた物も多く、珍獣どころか特徴的な人間を見つけると葬儀業者に金をつかませて死体を手に入れたといいます

チャールズ・バーンという身長が249センチにもなる巨人症の人物を標本にするためにいつ死ぬか人を雇って見張らせていたという逸話もあります。

この人は「アイルランドの巨人」という別名でも知られていた人です。彼の正確な身長は推測の域を出ませんが、大多数の記述が8フィート2インチ(2.48m)から8フィート4インチ(2.54m)の身長であったと言及しています。

21歳のとき故郷のアイルランドを離れ、ロンドンでへコックスズ・ミュージアムという見世物小屋に職を見つけました。そしてこの小屋で彼はすぐさま街の人気者となりました。しかし、どんな珍しいものも日々目にしていると誰しもが飽きるものであり、やがてロンドン市民の興味が他に移ると、彼の富と名声はすぐに去っていきました。

やがては過度の飲酒を行うようになり、当時の新聞によると、ポケットに全財産の700ポンドをいれ、飲み歩いていたといいます。悲嘆にくれた彼は酒で悲しみを紛らわそうとしていたようで、1783年6月、22歳の若さでロンドン市内の安アパートで死にました。

ところが、ジョン・ハンターは、このチャールズ・バーンの世にも珍しい「骨格」にその生前から目をつけていました。バーン自身もその生前、ハンターから見張られていることに気づき、万一自分が死んだら彼の標本にされないように棺桶に重りをつけて海に沈めてくれと友人たちに遺言していたほどでした。

しかし、ジョン・ハンターはバーンが死ぬと、葬儀業者が遺体を海に沈めるために彼を運んでいる途中に賄賂を渡して遺体を盗み出すという暴挙に出ました。バーンの希望に反して、彼の亡骸は500ポンドでジョン・ハンターが入手したのでした。

ジョン・ハンターは喜々とし、さっそく盗み出した遺体をチャールズ・バーンのために用意していた特大の鍋で煮込んで骨格標本に加工したといいます。

その彼の遺骨は、7フィート7インチ(2.31m)の骨格標本として、現在もロンドンにある王立外科医師会のハンテリアン博物館に現在も収蔵されています。しかし、実は彼の標本を欲しがっていたのはハンターだけではなかったようです。

彼の死についてある雑誌の伝えるところによれば、「ロンドン中の外科医が貧しい死んだアイルランド人を要求して、さながら漁師が巨大な鯨を狙うようにバーンのアパートの周りを取り囲んだ」とされています。この当時の多くの外科医がバーンの骨格標本を手に入れさえすれば新しい研究テーマが手に入る、と考えていたのでしょう。

とはいえ、このハンターの行為は、当時の法律に照らしても犯罪であり、明らかに異常です。コレクションのためなら手段を選ばない人物だったようで、レスター・スクエアの家には表通りと裏通りに面した入り口があり、表は妻の社交界の友人や患者が出入りし、裏は解剖教室の学生の出入りや死体の搬入出のための玄関にするという念の入れようでした。

そうした奇怪な屋敷の作りもまた、小説ジキル&ハイドのモデルにピッタリであり、また彼自身の名も何やら猟奇的な臭いがします。「ハンター」には「狩人」という意味もあり、これから根っからの骨収集家、「ボーン・ハンター」が連想できるからです。

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しかし、ジョン・ハンター自身も1793年10月16日に狭心症で死亡しました。遺言に従って彼の遺体は弟子や学生の前で検死解剖が行われましたが、その後セント・マーティンズ教会の地下納骨堂に安置され、1879年ウェストミンスター寺院に改葬されました。

彼が生前収集したコレクションは現在も、王立外科医師会のハンテリアン博物館として現存しています。が、彼自身の骨格標本は作られることはなく、その遺骨もまた、ここには入っていません。

過去の模型の造形が困難だった時代には、彼が行っていたような行為は犯罪とはいえ、医療行為の一環としては大っぴらに認められていたようです。また、インドや中国から骨が移出されたり、献体を使った標本があたりまえのように製作されていました。

しかし、21世紀の現在においてこれら本物の骨格標本が一般に展示されているケースは稀です。その後人体模型を作る技術も進み、このため現代では販売されている人体の骨格標本は、倫理上や衛生上の問題からも模型であることがほとんどです。

本物の人骨が売買されることは現在ではないわけです。しかし、売買の対象であろうが、信仰の対象であろうが、人が死んで残った骨は所詮はカルシウムです。死んだらそこに魂は宿っていない、と私は考えています。

一休禅師もまた、そうしたことに気付いていたようであり、死すればただの物体に変わる人の一生というものの無常をいつも考えていたようです。

であるからこそ、骸骨は骸骨にすぎない、とその絵を描いて笑い飛ばし、生きているうちが花だとばかりに、杖にドクロの形をあしらえてそれを突いて歩きながら、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いたのでしょう。

生前、たくさんの川柳を残していますが、その中には自らが帰依した仏教そのものや、死そのものを笑い飛ばしているものもあります。例えば、

「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ」

「親死に 子死に 孫死に」

「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」

こういうのもあります。

「世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり」

今晩食ったあと明日の朝、私は起きることができるでしょうか。起きていなくてもそれはそれ、残るその肉体は、いずれこの世においては骨というカルシウムになるだけ、です。

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