将来メールでできること

2015-8550今日は、1月23日ということで、「1(いい)23(ふみ)」の語呂合わせにより、「電子メールの日」ということになっているようです。

言うまでもなく、コンピュータネットワークを使用して、郵便のように情報等を交換する手段であるわけですが、私自身もメルアドを3つも持っていて、色々な情報収集・情報交換だけでなく、友人・知人との連絡に活用しています。

ただ、我々より年配の方の中には、コンピュータの扱いに慣れていない方も多く、未だにメールでの人とのやりとりが苦手、あるいは、まったくやっていない、という人も多いようです。

また、電子メールを使える環境にある人でもあまり活用していない、という人も少なくないようです。最近はスパムメールが急増しており、これを誤って開いてしまって、せっかくなけなしの金で買ったパソコンをウィルス感染させたくない、というのがその理由の一つのようです。

見知らぬ差出人からのメールは開かない、見ないですぐにゴミ箱に捨てる、などの対策を取っていればだいたいは大丈夫なのですが、最近は偽りの相手を装ってのメールもあって、こうしたメールには、すぐにここに書いてあるアドレスに連絡してください、などとまことしやかに知り合いを装った文章が書いてあったりします。

架空請求メール、ワンクリックメールであり、無論、悪質な詐欺の手口なのですが、それをどう見分けるか、というところが、なかなか難しく、私自身、スパムメールに慣れているつもりでも、うっかりと開けてしまう、ということはよくあることです。

また、中にはまことしやかに添付ファイルをつけているスパムメールもあり、通常はメールを開けてしまっても、添付されているファイルをオープンするなどしなければ大丈夫ですが、何だろうと思ってファイルを開いてしまったところ、この添付ファイルにウィルスが潜んでいた、といったケースも多々あります。

それにしても、いったいこうしたスパムメールの送り手は、どこで私のメルアドを知ったのだろう、といつも疑問に思います。最近はインターネットで買い物をすることも多く、こうした場合にはメルアド登録は欠かせないため、おそらくは、このときの登録データが何者かによって売買されるなどして流出し、第三者に知られているのだと思われます。

頻繁にメルアドを変えれば済みそうなものですが、その都度いつも連絡を取っている人達にメルアド変更を伝える必要もあり、また銀行振り込みやネットショップほかのサービスで登録しているメルアドまですべて登録し直す必要があります。

結局は仕方なく、これまでのメルアドを使っているのですが、毎度のことながら、なんとかならんのか、スパム対策……と思う次第です。

このスパムメール対策としては、サーバ上やメルアドソフト上などでのフィルタリングする方法などもありますが、誤検知により通常のメールがスパムであると判断されてしまい、不着となることもあり、こうした問題が根本的に解決される方法は当面はなさそうです。

最近はISP(インターネット・サービス・プロバイダ)、つまりインターネットやメールを使えるように接続サービスを行っている会社などでも、こうしたスパムメールを監視し、利用者からの通報があればこれを流さないようにしているようです。

しかし、スパムメールであるかどうかの判断が難しく、下手をすれば販売活動の阻害だとして訴えられてしまうケースもあるようです。またメールアドレスは一文字変えれば簡単に別のものが創出できるため、それこそゴマンとあるスパムメールアドレスが存在し、これをすべて駆逐することは不可能です。

とはいえ、最近ではアメリカのようなインターネット先進国では、法律的な規制も強めて取締を強化しているようで、日本においても官側が主導してこうした社会的な取り組みが増えるよう仕向けていくことに今後は期待するしかないのかもしれません。

それにしても、このメールで実際にできることって何だろう、と改めて考えてみたところ、それはやはり、日本国内だけでなく、全世界にデータを配信、または受信できる、というところにその最大のメリットがあるわけです。郵便ならば日本なら数日、地球の裏側だと下手をすれば1週間かかるところをメールなら即座に届けることができます。

また、最近はかなり大きなデータの送受信も可能になっていて、近年の光ファイバー網の発達により、ブロードバンド対応として大容量を謳ったものでは100MB~数GB(ギガバイト)ほどのデータも送ることができるプロバイダも増えています。大手プロバイダのBiglobeなどでも普通に100MBもの大容量のデータがメールで送れるようです。

これがどのくらいの容量かというと、例えばこのブログでいつも掲載されている写真が、だいたい大きくても1MB程度ですから、同じ写真をメールに添付すれば、100枚送れることになります。

当ブログではできるだけ高品質の写真をみなさんに見て頂きたく、通常よりはやや大きめのサイズの写真を公開しているわけですが、これが一度に100枚も送れるということは、ちょっとしたアルバムも電子メールで簡単に送信可能、ということになります。

これは考えてみればすごいことです。メール(mail)とは、元々は手紙の意味だったものが、インターネット時代になってからは通常の手紙と区別するためにこう呼ぶようになってものです。が、通常の郵便でこれと同じ枚数のペーパー写真を送ろうと思ったら、間違いなく、手紙ではなく小包になってしまいます。

それが瞬時に送れる、しかも郵便配達人などの仲介者は全く必要なく(厳密にはISPが仲介しているわけですが)、プライベートからプライベートへ送ることができる、ということは、ほんの20年ほど前までは考えられないことでした。

手紙などの通信文だけでなく、こうしたメディア情報を大量に送ることができる、ということはすなわち大量の情報のやり取りが可能になるということであり、しかもそれが全世界レベルで可能になったことで、その気になれば今や地球上の誰とでも自由にこうした情報交換ができるわけです。

加えてインターネットの普及により、地球上のほぼどこの景色もパソコンで見ることができるようになり、このネットとメールの組み合わせにより、おそらく地球のサイズの感覚というのは、20年前の100分の1くらいになっているのではないか、と思えるほどです。

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しかし、まてよ、と考えます。こうした情報以外に何が送れるのか、ということになると、ほとんど思いつきません。食品を送れるわけもなし、ましてや人や動物を電子メールで送ることができるわけもなく、そうした意味では地球のサイズは今も昔も変わりません。

電子メールを情報の瞬間移動装置、と捉えるならば、物質の瞬間移動も可能ならばいいのに、と思うわけですが、残念ながらそうはなっていません。

しかし、近年の人類の技術の発展はすさまじく、人工知能の発達などによって開発されたロボットコンピュータのようなものができれば、その力を借りて、もしかしたらそう遠くない将来にそうしたものも可能になるのではないか、という気もします。

情報やデータを信号として一方の装置から他の装置へ移動させることは、工学的には「転送」といい、転送は情報やデータを表す電気信号などその形式を変えずにそのまま移動することができる手法です。電子メールはまさにこの転送装置のひとつです。

ただ、じゃあそれならこうした情報やデータ以外に物質を転送できる装置が実際にあるか、といえば、現時点は実現しておらず、SFの世界の話になってしまいます。

実際にモノや人間を転送するというのは、実現不可能なこと、と現時点では考えられているわけですが、それでもいい、夢物語でいいからどんな方法があるか教えて、というならば、過去に作られたSF作品をみると、その分類としては、主に3つのものがあります。

まずは、「ビーム方式」。これは、物質を分解して「ビーム」に乗せて運び、目的地で再構築するというもので、「転送ビーム」とも呼ばれます。

テレビドラマや映画にもなった「スタートレック」の転送(transport)はまさにこれであり、この作品では、人員輸送用と貨物輸送用の2種類があり、人員用は量子レベルまで、貨物用は分子レベルまで分解して転送できました。

このほか、タイムマシン用として開発された転送装置にハエが混じってしまったことで人間の遺伝子にハエの遺伝子が含まれてしまい、「ハエ男」になってしまう、という恐怖映画、「ザ・フライ」などにおける転送方式もこのビーム方式といえます。

が、人間やその他の物質を分解してビームにする、というのは物理的にも化学的にも実現性が乏しく、無論、理論的にも不可能です。未来においてもそうした技術が実現することは不可能といっていいでしょう。そもそも「ビーム」とはいったい何よ、と言った時に光なのか分子レベルの物質なのか説明できる人は誰もいやしません。

また、SFの世界では、電子メールのように、物質をデータ化し、送る方式を「データ方式」というものがありますが、これもまた、ビームと同様得体の知れないものです。

分解して運ぶのならばビームと同じじゃないか、といわれても仕方のないことですが、そこはSFの世界の話です。ビームではなく、データにするのだ、と言われればふーん、そうかぁ、と納得できないまでも黙ってしまいます。

ただ、生物や物体をデータに変換し、通信によって転送、転送先で元の姿に戻すことができる、といわれますが、これはその形式がビームだろうが、データであろうが、工学的にみれば転送ではなく、「伝送」といえます。

例えば、音声、画像、情報、データなどであれば、これを電気の電圧値形式の信号に変え、無線の電波に乗せることで移動させることができます。無線の場合はこれを「変調」といいます。移動完了後、そこで元の形式に戻しますが、これは「復調」であり、無線電信の装置そのもののことを「伝送装置」といいます。

この電波と同じことを動物や物資に適用できないか、というわけですが、無論これも空想の世界の中でしか実現していません。そうした架空のお話のひとつとしては、アニメやゲームでおなじみの「ポケットモンスター」などに出てくるシステムがあり、これは例えば、「ポケモン預かりシステム」というものです。

ポケモンを何等かの形でデータ状態での保管しておき、必要に応じて「解凍」するわけであり、ポケモン主人公のサトシが手にしたボールの中から次々と飛び出すポケモンは、データを復調して表出させた産物です。

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さらには、アニメの「宇宙戦艦ヤマト」で有名になった、「ワープ」による転送方式があります。無論、日本のアニメだけでなく、スターウォーズなどでも有名になったものですが、今やSFにおける宇宙モノといえば、たいていは、何等かの形でワープがでてきます。

ところが、これは前述の二つのように必ずしも空想の産物とばかりもいえません。このアイデアの元になったのは、「ワームホール (wormhole)」というもので、これは、宇宙におけるブラックホールのような時空のある一点から別の離れた一点へと直結する空間領域でトンネルのような抜け道のことです。

ジョン・アーチボルト・ホイーラーという、2008年に亡くなったアメリカ合衆国の物理学者が提唱したもので、その理論式よれば、ブラックホールに突入して抜けたその先には別のブラックホールがあり、この二つはとてつもなく遠く離れているため、物質はその間を瞬間移動できる、というものです。

ホイーラーは、これを研究上の遊びと考えていたようですが、彼が生きていた当時の小説「コンタクト Contact」を執筆中だったSF作家のカール・セーガンが、この新しい小説を書く上において彼にこの瞬間移動に関しての科学的な助言を求めてきました。

このとき、ホイーラーは忙しかったのか、その弟子の、キップ・ソーンという同じくアメリカの理論物理学者にその対応を命じました。このときのセーガンの依頼は、遥か宇宙のかなたにいる地球外生命との接触が可能になるようなシナリオを、読者に対して不自然にならないようなんとか科学的に作れないか、というものだったそうです。

その結果、ソーンは「もし負のエネルギーをもつ物質が存在するならば、通過可能なワームホールはアインシュタイン方程式の解として存在しうる」と結論し、さらに、時空間のワープをも可能にすることを示しました。

負のエネルギー???と私もしっかりとは勉強しておらず、ちんぷんかんぷんなのですが、彼の研究によれば、現在の技術では制御が難しいほどの高密度の負のエネルギーがありさえすれば、ワープは可能という結果になったのだそうです。

しかし、そもそもこの負のエネルギーをどうやって得るのか、またどのようにしてワームホールを通過するのか、あるいは出口がどこなのかは全くの未知の問題として棚上げされた上での研究結果だったといいます。

ところが、後に、このソーンの考えたワームホールを別の科学者が検証したところ、その解は不安定解であることが数値計算から報告されており、ワームホールを正の質量をもつ粒子が通過した場合、その後にワームホールは潰れてしまって通過できなくなるという結論になったそうです。

このため仮に通行可能なワームホールを見つけても、そのワームホールは通ったあとすぐに潰れてしまい、同じ道を通って帰ろうとしても元あったワームホールを通って帰ってくることのできません。つまり、一度きりしか使えない一方通行の道になってしまうというわけです。

しかしもし通行のたびに旅行者がこのワームホールに何等かの人工的な補正を加えて恒久的に維持し続けられるなら、相互通行に使用できるということも数値計算から導かれたといい、まったくの不可能というわけでもない、という結論に至ったそうです。

ただし、その補正には莫大なエネルギーが必要になるとのことで、現時点での技術では不可能です。人類がこれまで手にしなかったような巨大なエネルギー制御の技術を手にすれば将来的には可能「かもしれない」というだけです。

そう聞くと、なーんだやっぱり夢の夢の話か、という人も多いでしょう。が、過去における人類の科学技術の発展の歴史の過程のことを考えると、ほんの100年前には人間が地球外の天体を訪れることなどありえない、と思われていたものが、その後月面探査が実現し、現在は普通に数多くの宇宙飛行士が宇宙で活動をしています。

そう考えれば、物質の瞬間移動の話もけっして夢物語ではなく、時間はかかるかもしれませんが、いつかは実現するに違いないのではないか、と私などは思うわけです。

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このほか、これは必ずしも瞬間移動とはいえませんが、「超光速航法」というものがあります。これはワープとは少々違い、宇宙船が光速を超える速さで航行するための技術であり、高速での移動であるがゆえにほぼ瞬間移動に近い、と考えられているものです。

これも物理学では真剣に研究されているテーマのひとつです。アインシュタインの相対性理論によると、物体の相対論的質量は速度が上がるに従って増加し、光速において無限大となります。このため、単純に加速を続けても光速に達することも、光速を越えることもできません。

しかし、計算上の遊びの上においては、物理理論と整合性を保ったまま、光速を越えることが可能であることが証明されているとのことです。

物理学においては、「エキゾチック物質」というものが仮定されており、これは既知の物理法則を破りうる風変わりで奇妙な物性を持つ仮説上の粒子であり、その存在はまだ一般的に確認されていません。

そうした性質を持つ粒子は現在の物理学研究の中での存在が発見されれば、そうした高速移動も可能となる理論が構築される可能性があるということで、こうした物資は、現在「タキオン」といった名前で呼ばれているようです。

超光速で移動する物質と考えられており、宇宙にある星間物質のうち電磁相互作用をせずかつ色電荷を持たない、光学的には観測できないとされる仮説上の物質である「暗黒物質(ダークマター)」と呼ばれる物質のひとつです。

この暗黒物質の存在に関する研究は、最近急速に進んでおり、昨年の4月3日、欧州合同原子核研究機関において、マサチューセッツ工科大学教授らの研究グループが「暗黒物質が実際に存在する可能性を示す痕跡を発見した」と発表しています。

現在その研究結果の解析が世界中の科学者によって進められており、この研究成果が正しいことが証明されれば、同様の手法を用いて他の暗黒物質も発見されるかもしれず、これから新たに見つかる物質の中には、超高速で移動するタキオンのようなものも含まれているかもしれません。

こうした宇宙研究の中からちょっとしたはずみで、大発見が行われ、それをもとに「超光速航法」の研究が進み、それをもとに物質を瞬間移動させるような技術開発も急速に進むかもしれません。

インターネットの普及から早20年以上が経ちましたが、この間の情報転送技術の発展はすさまじかったことを考えると、その実現の速度は今後更に加速度的となり、100年前から現在に至るまでよりも飛躍的にその時間は短くなるかもしれません。

一方、相対性理論との関係では、この超光速航法とタイムトラベルは結びつけて考えられることも多いそうです。超光速航法自体も相対性理論的にはタイムトラベルの一種だとする説もあるようです。

その昔、ターミネーターというSF映画がありましたが、この映画の主人公は、ビーム方式?と思われるような方法で物質を変化させて時空を飛び、現代にやってきました。もしかしたらこのような方法は超高速航法の延長戦上にあるのかもしれません。

このような超光速航法が可能になれば、同時にタイムトラベルも可能になってしまうかもしれないわけであり、瞬間移動できると同時に過去と未来を自由に行き来できる時代がくるやもしれません。

日本では、東京と名古屋を結ぶ「リニア新幹線」の開業が2027年と目されており、これはあと12年先です。これまでにタイムトラベルができる技術が開発されているとは少々考えにくいですが、東京~大阪間の全線開業は2045年の予定であり、ちょうど30年先です。

東京~大阪間は、このとき最速67分で結ぶと試算されているようですが、もしかしたらこのときには星間移動も瞬時にできる技術ができているかもしれず、その結果、リニア鉄道なんて大昔の技術さ、と人々に笑い飛ばされている、といったこともあるえるかもしれません。

ただ、その時私はまだ生きているでしょうか。仮に死んでいたとしても、また別の技術が開発されているやもしれず、それはあの世とこの世を瞬間移動できる技術かもしれません。

このブログを読んでいる若い方は、そうした技術を体験できるかもしれない、と考えるとうらやましい限りです。もっとも、そんな技術が開発されたら、もはや死ぬということの意味がわからなくなってしまいますが……

……と馬鹿な話しを書いているうちに、今週も週末になってしまいました。

週末は長ければ長いほどよく、できれば瞬間移動よりも、同一時間をできるだけ長くできるような技術も開発して欲しいものです。はたしてそうした技術もまた未来で開発されているでしょうか……
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ニワトリは兵器にあらず

2015-1120640今日は、大寒だそうで、これは「たいかん」と読むのだと思っていたら、「だいかん」のほうが正しいようです。

もっとも、今日1月21日だけを大寒と呼ぶのではなく、期間としての意味もあり、1月20日~2月3日まで、つまり、立春までを大寒と呼びます。寒さが最も厳しくなるころ、とは例年言われることなので、誰でもが知っていることではあります。

たしかにこの頃になると、とくに太平洋側では陽射しに恵まれることが急に少なくなり、曇りがちだったり、雨が降りやすくなります。太平洋高気圧が弱まり、低気圧が入り込みやすくなるためであり、これは本来は寒さの弱まりを意味します。

が、依然気温が低いところへもっていって湿気が入り込むことともなり、時に降雪にも見舞われたりして、より寒く感じられるわけです。

この大寒という期間は、古代中国で考案された季節を表す方式である「二十四節気」のひとつです。二十四節気は、さらに約5日ずつの3つに分けられ、つまり24×3=72で、これは「七十二候」とよれます。

元々の中国では、各七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文が作られており、例えば、「野鶏入水為蜃」というのは、「キジが海に入って大ハマグリになる」という意味です。が、そんなことは実際にはあり得ず、キジは海に入ったら死んでしまいます。

このため、古代中国の二十四節気の名文がそのまま残っているのに対し、七十二候の名称は何度か変更されており、日本でも、江戸時代に入って暦学者によって日本の気候風土に合うように改訂され、「本朝七十二候」が作成されました。現在では、俳句の季語などにも使われます。

現在日本で、大寒の期間の七十二候とされているものは、約5日ずつの3つ、以下の通りです。

○初候(1/21~24・25)
款冬華(ふきのはな さく) : 蕗の薹(ふきのとう)が蕾を出す
○次候(1/26~29・30)
水沢腹堅(さわみず こおりつめる) : 沢に氷が厚く張りつめる
○末候(1/31~2・3)
鶏始乳(にわとり はじめて とやにつく) : 鶏が卵を産み始める

上記のうち、末候にニワトリが卵を産み始めることになっていますが、中国では、これが初候のころとなっています。また、次候には、「鷲・鷹などが空高く速く飛び始める」という意味の、「鷙鳥厲疾(しちょう れいしつす)」が当てられ、そして末候は、日本では次候にあてられている「水沢腹堅」となっています。

このように、日本と中国では共通点もあるものの、「鷙鳥厲疾」のようなものはなく、これが「款冬華」になっていて、その他も順番が違うなどして微妙に季節感が違うことがわかります。

このクソ寒い時期に、ワシやタカが飛び始めるという感覚は日本にはなく、むしろ土の表面を霜柱が覆っている間を、フキの若い芽が出てくる、といった感じのほうがむしろ日本人にはぴったりの季節感です。

七十二候という季節の区切りだけは中国から輸入し継承したものの、季節感だけはこちらの気候や環境、フィーリングに合わせ、季語を変えてきたわけです。

ところが、沢に厚く氷が張り、ニワトリが卵を産み始める、というのは日本も中国でも同じです。ニワトリに関しては、日本は末候であり、中国は初候という違いがありますが、大寒のころにニワトリが卵を産み始める、という感覚は中国も同じ、ということのようです。

では、本当に大寒のころからニワトリが卵を産み始めるのかどうか、というところを調べてみたのですが、実際のところはよくわかりません。現在、鶏卵場などで、採卵用に飼育されている鶏は、1.3日に1個卵を産むよう、選択的繁殖が行われた種であり、一年中卵を産みます。

が、自然に放し飼いのニワトリは、そこここの藪の中や草むらの中に卵を産みますから、地面の霜柱がそろそろ溶け出す春先ころからは動きが活発になり、実際に卵を産み始めるのかもしれません。

その昔は日本だけでなく中国でもニワトリはたいていが庭に放し飼いで飼っていたようですから、あ~大寒になった、そろそろニワトリが卵を産み始める頃だな~、という季節感を昔の人がこのろに感じてもなんら不思議はありません。

ただ、中国や日本で七十二候が定着したころというのは、旧暦を使っていましたから、大寒は実際には今よりひと月ほど早く、年末から始まり、ちょうど今頃の1月20日ころまでです。

なおさらに寒い時期のような気もしますし、いずれにせよ、現代的な感覚では、こうした時期にニワトリが果たして卵を産み始めるかと言えば、???というかんじではあります。

この現在の人類の生活と切っても切り離せないほど身近な存在となっている「ニワトリ」というヤツですが、その起源としては、東南アジアの密林や竹林に生息していたものが原種とする説が有力です。そして、のちにこれらから派生した複数の種が交雑してニワトリとなったとされているようです。

現在ではDNA解析によって、「セキショクヤケイ」という中国南部からフィリピン、マレーシア、タイなど東南アジア熱帯地域のジャングルに生息する野鶏が原種であるとほぼ確定しているそうです。

写真を見るとこれは確かに現在のニワトリに似ています。ただ、羽は赤っぽい笹色をしていて、体重は成鳥でも1kg弱程度とかなり小ぶりであり、どちらかといえばキジに似ています。

それもそのはず、セキショクヤケイは、キジ目キジ科に分類されており、ニワトリも同じで、キジの仲間ということになります。ただ、最近のニワトリは、品種改良のため異種同士との交雑がかなり進んでおり、ひと目見てもキジとはとても思えません。

が、現在もニワトリは、正真正銘、キジ目キジ科に分類されており、日本の地鶏などはこのセキショクヤケイと同じように赤色野鶏の特徴を残しているものが多いようです。

このセキショクヤケイを起源とするニワトリは、その後東南アジアから中国南部において家畜化された後、マレー・ポリネシア、ニュージーランドなどの南太平洋一帯に広まり、一部の島々を除いてほぼ全域に広がりました。

しかし、これらの地域では重要な財産として珍重されることの多かったブタと違い、ニワトリは半野生の状態で放し飼いされることが多く、その昔は主要食料とはみなされていなかったといいます。

日本においては4世紀から5世紀ごろに伝来しました。が、7世紀の終わりころの日本を統治していた天武天皇が、動物保護の観点から、肉食禁止令を出したため、ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザルともの食べることが禁じられました。と、いうことは逆にそれ以前は日本人も犬やサルを食べていた、ということになります。

その後ニワトリは、時を告げる鳥として神聖視され、主に愛玩動物として扱われました。肉食を禁忌する風習はその後も長く日本では伝統的に続きましたが、武士の誕生とともに鍛練として狩猟が行われ、野鳥の肉だけは食すようになりました。

しかし、ニワトリは生んだ卵も含めて食用とはみなされませんでした。有精卵であることも多く、これを食べては殺生になると考えられたからです。

ところが、江戸時代に入って、無精卵が孵化しない事が広く知られるようになると、鶏卵を食しても殺生にはあたらないとして、ようやく食用とされるようになり、採卵用としてニワトリが飼われるようになりました。

そして、江戸時代中期以降には、都市生活者となった武士が狩猟をする事が少なくなりました。このため、野鳥があまり食べられなくなり、代わって鶏肉が食べられるようになり、京都や大阪、江戸などの主要都市においてはむしろさかんに食されるようになりました。

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明治期以降は日本の人口も増えていったことから、さらに需要が増え、いわゆる「養鶏業」という分野も農業のひとつの分野として確立されるようになりました。これは欧米でも同じであり、とくにアメリカでは、いわゆる「ブロイラー」と呼ばれる肉鶏の一品種が開発されました。

短期間で急速に成長させる狙いで作られた品種であり、徹底した育種改良の研究により、ニワトリの生育を早め、一羽あたり数週間で最大2kg前後の肉が取れることができます。

もともとはアメリカの食鶏規格の用語で、孵化後2か月半以内の若鶏の呼称でした。が、そもそもはブロイル(broil)する、すなわち、オーブンなどで丸焼きする際、焼きやすいよう、売りやすいように適した大きさに切るため、ブロイラーと呼ばれるようになったものです。

日本には第二次世界大戦後この技術がアメリカから導入され、現在日本では毎年6億羽ものブロイラーが出荷されています。また、鶏卵のほうも、全国の鶏卵生産量は毎年およそ250万トンを推移しています。

詳しく調べていませんが、おそらくは食肉の中においては最も高い国内需給率を誇るでしょう。ちなみに、鶏卵の自給率は96%とかなり高い水準にあります。

現在の日本の養鶏では鶏舎内にほとんど隙間無くケージ(鳥かご)を設置し、その中で飼うケージ飼いが主流となっており、1つの養鶏場では小規模であっても数万羽が、大規模なものでは数10万羽が飼われています。

ただ、すべて同一のケージ内で同一の飼料を与える、という極めて画一的で平準化された生産手段を採っており、この手法はどこの養鶏場も同じです。このため、多少の飼料の違いによって差別化を図ったとしても、似たような鶏肉と卵にならざるを得ず、他の農産物に比べて別の生産者との差別化が難しい商品といえます。

このため、特定の品種を除けばブランド化はあまり行われていません。日本の養鶏業者は比較的小規模での経営が多く、それに対する流通・販売側は全国規模のスーパーマーケット・チェーンや大手の食品会社であるため、価格交渉力が極めて弱い、という問題もあるためです。

他業者と差別化を図って高くなってしまったら、スーパーには買ってもらえなくなるため、大きな投資を行ってまで品種改良や肉質改善を行おうとしないわけです。

ただ、逆に小規模で生産して餌にも特別なものを与えて価格も高めに設定することで、希少価値としての鶏肉や鶏卵を販売しようという取組みは最近増えているようです。

古くからあるブランドである、南部地鶏(岩手県)や比内地鶏(秋田県)、伊達地鶏(伊達鶏)、薩摩地鶏(鹿児島県)といったもの以外のものも最近は増えているとのことです。

スーパーでみかけるこうしたブランドモノは確かに高いのは高いのですが、臭みが少ないように思い、かつなんといってもやはり美味です。ブロイラーは料理してすぐならまだ食べれるのですが、造った料理を後日食べたりすると明らかな臭みがあることがわかります。

大規模養鶏場で育てられるブロイラーなどがどんなものを与えられて育てられているのかよくわかりませんが、きちっと出所がわかった餌を食べているブランド鶏ならおいしく、品質もしっかりとしており、食の安全が保てる、といった安心感もあります。

しかし、それにしても気になるのが、最近猛威を振るいつつあるトリインフルエンザであり、日本だけでなく、世界的にも感染が進んでいるようです。ときにこうしたブランド鶏の開発に取り組んでいる小規模の養鶏場も襲い、せっかく出てきた良い芽を摘んでしまいます。

とくに2000年代になって急増しており、日本では昨年暮れごろから、九州や中国地方において、複数の養鶏場で相次いで感染が報告されています。

どこの養鶏場も、一般人の立ち入りを極端に制限したり、野鳥が鶏舎に入らないように窓や換気口にネットを張ったりするなど、防疫を厳重に行っているようですが、まだまだ冬が続く中、今年も新たな感染が報告されるのは時間の問題、といったかんじがします。

一般的には鳥インフルエンザウイルスがヒトに直接感染する能力は低いといわれており、また感染してもヒトからヒトへの伝染は起こりにくいと考えられているようです。しかし大量のウイルスとの接触や、宿主の体質などによってヒトに感染するケースも報告されており、なかなかに気を許せません。

現在ヒトに感染する、インフルエンザAやBといったインフルエンザは、本来はカモなどの水鳥を自然宿主として、その腸内に感染する弱毒性のウイルスであったものが、突然変異によってヒトの呼吸器への感染性を獲得したと考えられています。

A型、B型は毎年冬期に流行を繰り返し、多くの場合のヒトのインフルエンザの原因になります。が、これがなぜ冬に集中するかについては、諸説あるようです。ひとつには空気が乾燥しているので、鳥の糞なども乾燥してバラバラになり、風に乗って広がりやすく、これに含まれているウィルスが蔓延する、という説がひとつ。

また、鳥インフルエンザは、通常、野生の水禽類(アヒルなどのカモ類)を自然宿主として存在しており、冬季になると、これらの鳥は暖かい土地を探して飛び立ち、南下します。中国大陸にいたこれらの鳥が、日本に飛来し、何等かの感染経路を経て、ニワトリなどの家畜にも感染症をもたらす、といったことも考えられているようです。

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さて、今日のこの項はなにも鳥インフルエンザについて書こうと思い立ったわけではありません。インフルエンザについては、これについて詳しく書こうとするとまた膨大な記述が必要なので、気が向いたらまとめて書く機会を別に持ちたいと思います。

なので、話を元に戻すと、そもそもはこの寒い時期からニワトリが卵を産み始める、といったことでした。

ニワトリがまだペットに近い感覚で庭先に飼われていた時代の感覚が季語となり、現在でも大寒のころの季節感として表現されるようになったものです。このように、その昔は品種を問わずニワトリを観賞用・ペットとして飼育する機会も現在よりも多かったようです。

しかし、現在はニワトリをペットとして飼うというのは、犬や猫ほどには流行っていません。その理由といえば、雄鶏は朝になると、「コケコッコー」と大きな声で鳴くので、密集した住宅地などでは近所迷惑になってしまいます。雌鳥は雄鶏のように時を告げることはほぼありませんが、産卵直後には「コッコ、コーコー」と鳴くこともあります。

このほか、ニワトリはどこにでもフンをするため、衛生上の問題があるということもあります。雄鶏も雌鶏もそのフンは、茶色いドロドロの盲腸便を排泄することもあって、これはかなりの悪臭を放し、手足や衣服に盲腸便が付着するとしばらく臭いがことがあります。

こうした理由がペットとしてもてはやされない理由だと思われます。しかし逆にその声が愛好されてきたものも古くから多く、長鳴鶏(ながなきとり)は、通常の鶏より、長く鳴くように品種改良された鶏です。20秒以上鳴くものもあり、土佐が原産の「東天紅」や東北の「声良鶏」、新潟の「唐丸」などが有名です。

このほかその容姿が愛されてきたニワトリもあり、チャボやオナガドリは、天然記念物、特別天然記念物にそれぞれ指定されています。また、烏骨鶏(うこっけい)も姿が美しいニワトリですが、最近では、その卵が希少価値があるとして高く取引されたりします。

その肉も栄養学的に優れた組成を持ちまた美味であるため、現在でも一般的な鶏肉と比較して高価格で取引されています。中国では霊鳥として扱われ、不老不死の食材と呼ばれた歴史があります。一般的なニワトリと比べても特異な外見的特徴から、現在でも愛玩用として家庭で飼育される事も多いようです。

烏骨鶏に関してはまた、コンテストなども開かれているようです。手入れ次第では鶏とは思えないほど非常に綺麗な毛並みとなるといい、日本でもファンは多いといいます。

さて、このように、食べるにせよ、観賞するにせよ、ニワトリは昔から人間のお友達としてごく身近な存在であり続けているわけですが、戦後すぐのころ、このニワトリを「兵器」として使おう、とする試みがあったということをご存知でしょうか。

「ブルーピーコック(Blue Peacock)」作戦といい、ピーコックとは英語でニワトリをこうよぶわけですが、つまりは「青いニワトリ作戦」ということになります。

この作戦は、なんとニワトリで爆弾を起動させようとするもので、開発しようとしていたのは、犬や猫などの動物愛好家の多いイギリスでした。

ドイツのライン川区域に多くの10キロトン地雷を置くことを目的としたもので、“Blue Peacock”は、1950年代の英国のプロジェクトの開発コード名です。

この地雷は、ソ連地上軍の侵攻を阻止するために開発され、大量破壊を引き起こすことにより、相当な期間にわたってソ連軍の占領を妨げることを目的に開発されました。

爆発により生じるクレーターは深さ180メートルにおよぶとされ、ブルーピーコックは有線通信による遠隔制御、あるいは、8日間の時限装置によって起爆されることになっていました。また、起爆が妨害された場合、10秒以内に爆発するように設計されていました。

このプロジェクトは1954年にイギリス南東部の「ケント」にあるホールステッド砦という軍事施設で開発が進められました。開発を行ったのは、イギリス陸軍の「軍備研究開発機構」という機関でした。

ところが、このブルーピーコックに使われる予定だったのは、ただの爆弾ではありませんでした。

高性能爆薬に囲まれたプルトニウムのコアを包む巨大な鋼製の球状ケーシングからなるもので、後世ではいわゆる「核爆弾」と呼ばれるようになったものです。大量破壊を引き起こすだけでなく、広範な地域での放射能汚染を引き起こすことにより、長期間のソ連軍の占領を妨げることを目的に開発されました。

その元となったのは、これ以前からイギリスが開発していた「ブルーダニューブ(Blue Danube)」という核爆弾で、これは、イギリスが開発した最初の核爆弾でした。“Blue Danube”は、「美しく青きドナウ」の意味であり、その美しい名とは裏腹に巨大な破壊力を持つ実用核兵器でした。

ただ、この爆弾ではブルーピーコックのように地雷として開発されたものではなく、そもそもイギリス空軍の「3Vボマー」という爆撃機に搭載され、敵地に落とされるよう計画されたものでした。

この当時、イギリスの軍戦略立案者は、イギリスもまたヒロシマ型原爆と同等の威力の原子爆弾の開発が可能であり、またこれを保有することによっていかなる戦争にも勝利することもできると考えていたようです。

とはいえ、開発当初のころのイギリスの技術水準はアメリカなどよりもかなり遅れており、このブルーダニューブは、非常に重く、まだそれを搭載できる航空機が存在しなかったためイギリス空軍のウィタリング基地というところに備蓄されていただけでした。

しかしその後小型化が進み、1954年には、ビッカース ヴァリアント爆撃機を装備する飛行小隊にこの爆弾が搭載され、実戦配備されました。

1958年までに、ブルーダニューブは全部で58発生産されたといいますが、その後より高性能で小さな核爆弾が開発されたため、1962年には引退し、お蔵入りになったようです。

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この「ブルーダニューブ」を元にして造られた「ブルーピーコック」もまた、開発された当時は巨大であり、重さ7トン以上もあったようです。その起爆にあたっては、ケントの郊外に砂利採掘場で試験が行われることになりました。起爆と言っても実際に核爆弾を爆発させるのではなく、起爆装置が動作するかどうかを確認するだけです。

ところが技術的な問題がひとつあり、それは、この爆弾がソビエトの侵攻を遅らせることを目的としているため、寒い地域への配備が予定されていたことです。このためこの試験が行われる予定だったのも冬季でした。ケントはイギリスの南部にあるといっても冬季の気温はかなり低く、零下になることもあります。

このため、地中に埋められた起爆装置も、数日経つと、温度が低すぎるために電子部品が正常に作動せず、起爆しなくなる可能性がありました。この問題に対処するべく様々な方法が検討され、断熱材で爆弾を包むことなども検討されました。

しかし断熱材だけでは十分な保温が得られない可能性が指摘されたことから、目をつけられたのが、なんとニワトリでした。生きている鳥を保温機構の一部にするというアイデアであり、このプランにおいてニワトリは餌と水を与えられ、地雷内のケーシング中に封入されます。

ニワトリはこの餌と水によって一週間程度は生きていることができるとされ、これは爆弾の予想最大寿命と同じでした。この当時の核爆弾は核分裂の制御において問題があり、早期爆発の危険性などもあり、一週間ぐらいなら大丈夫と考えられていたためです。

さらに研究を進めた結果、ニワトリが発する体温は電子部品などのコンポーネントを作動する温度を維持するのに最適だと考えられるようになり、イギリス陸軍は奇抜にもこの方法で起爆装置を作ることを決定しました。

そして、このころにはまだこの爆弾にはコードネームが与えられていませんでしたが、ニワトリを使う、ということから、これを「ブルーピーコック」と名付けたわけです。

その後、イギリス軍は、1957年7月に、野戦部隊が用いる原子力発電用設備であるという偽の名目で、このブルーピーコックをドイツに配備するために10発発注しました。

が、結局、国防省は1958にこのプロジェクトを中止しました。放射性降下物のリスク、および同盟国に核兵器を隠すという政治的側面におけるリスクが単に高すぎ、正当化できないと判断されたためでした。

この事実はその後も機密とされ、プロジェクトの関連文書は国立公文書館で極秘に保管され続けました。しかし、その後2004年になって、機密解除され、こうしてイギリス軍がかつて核兵器を持って東西冷戦を乗り切ろうとしていたことが公となりました。

ところが、この機密解除の日は、折悪く4月1日でした。

イギリスでは、4月1日のエイプリルフールの日には、大手の新聞紙までもがジョークを打つ、という国民性の国であり、このイギリスが実は核兵器を保有していた、しかもその根本装置にニワトリが使われていたという事実を人々は体の悪いジョークだと受け止めかねませんでした。

このため、その公表にあたっては、わざわざ国立公文書館が、本件はエイプリルフールの冗談ではない、と表明しなければならなくなる、という一場目もあったといいます。

その後、イギリスの核兵器機構(Atomic Weapon Establishment)という機関の元職員でデーヴィッド・ホーキングズという人物が、そのさらに詳しい内容を公表しました。

ホーキングは、2001年に同機関を退職しており、持ち出した政府の公開文書をもとに核兵器機構の科学技術誌「ディスカヴァリー(Discovery)」にブルーピーコックについてのより詳しい内容を示した論文を発表したのでした。

こうしてイギリスはかなり早い時期から核兵器を開発していたという事実が公然となりました。もっとも、イギリスは、1952年に、プルトニウム爆縮型の核爆発装置を、モンテベロ諸島と西オーストラリアの間の珊瑚礁で爆発させるという核実験を行っており、現在でも大量破壊兵器を保有する国として世界に知られています。

ただ、この時点ではまだ実験段階の爆弾を持っているにすぎず、アメリカなどに追いつくにはまだまだ時間がかかると思われていました。その実践配備がこの実験からわずか5年後に実現していたことはさらに世界を驚かせました。

こうしてこのブルーピーコックの存在が明らかになったあとは、その当時の研究資料などの公表も次第になされました。実際の爆弾も公開されるまでに至り、現在では、唯一残存するプロトタイプが、イギリスの核兵器機構の歴史コレクションとして展示されています。

無論、核装置はすべて取り除かれており、装置に「搭載」される予定だった哀れなニワトリ君もそこにその姿はありません。

が、人類の友である愛すべきニワトリすらも戦争兵器に使おうとしたあさはかさを考えると、あらためて呻吟たる思いが沸きあがってきます。

昨日も、日本人の人質をとって自分たちの意に他国を従わせようとするという大きな事件が勃発したばかりですが、いつの時代にもニワトリだろうが人間だろうが、生きているものでもなんでも自分の得手勝手のために利用しようという姿は変わらないのだな、と思う次第。

この人質もヒトでなく、せめてニワトリであったならば、とも思うのですが、なにせそれにしてもニワトリ君がかわいそうです。

さて、今晩も寒くなりそうですが、そうした夜のおかずは何にしようか、と考えたとき、ふっと頭をよぎったのが、やはり鍋です。しかも、悪いことにここまで書いてきて、妙に食べたくなったのは、最愛の友人であるはずの鶏です。

寒い夜には鍋をあたため、鶏肉や野菜とごった煮して、ポン酢でいただくのが一番。大寒の夜に体を温めるのには最良です。みなさんも今晩のメニューはこれでいかがでしょうか。

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幽王

2015-81979年前の今日、2006年1月19日に、NASAのニュー・ホライズンズという冥王星探査機が打ち上げられました。

この探査機は長い長い旅を終えつつあり、木星の重力によるスイングバイを行って目的地の冥王星近づいており、今年の7月14日に冥王星に最接近します。しかし、観測は既に先週から始まっており、さらに接近する来月2月には本格的な探査が始まるといいます。

冥王星は質量が小さく地球からの距離が非常に遠いため、これまで探査機を送るのは非常に難しいとされてきました。このため、十分なデータが得られず、冥王星の直径と質量は発見後数十年間にわたって誤って過大評価されており、当初は実際よりもかなり大きく、質量も地球に匹敵すると考えられていました。

しかし、最近ハッブル宇宙望遠鏡のような解像度の高い望遠鏡の観測などにより観測が精密になったため、大きさのほか、とくにその推定質量は急激に下方修正されました。

太陽系全体を通じて見ると、冥王星はどの惑星よりも小さく、圧倒的に質量が少ないことがわかり、それだけではなく、地球の月と比較しても質量は0.2倍以下であり、太陽系には冥王星よりも質量が大きい衛星がほかにも7つもあることなども発見されました。

その7つの衛星とは、ガニメデ(木星の第3衛星)、タイタン(木星の第3衛星)、カリスト(木星の第4衛星)、イオ(木星の第1衛星)、月(地球の衛星)、エウロパ(木星の第2衛星)、トリトン(海王星の第1衛星)です。

かつて1977年に打ち上げられ、土星の観測に使われたたボイジャー1号においても、冥王星の探査を行おうという計画がありました。が、オペレーションチームは冥王星の観測を選択せず、その代わりに土星の衛星タイタンへの接近飛行を選んだため、冥王星への接近は果たせませんでした。

また、同じ年に打ち上げられたボイジャー2号も、土星の観測が主目的であり、そもそも冥王星に接近するような計画ではありませんでした。が、ボイジャー2号は人類史上初めて海王星に近づき、海王星の衛星を新たに6つ発見したほか、また、海王星にも環があること、その表面には大暗斑があることなどの大発見をしました。

ボイジャー2号は海王星以外にも天王星についても観測を行い、数々の成果をあげましたが、しかし結局、冥王星の観測は行われませんでした。

その後NASAはプルート・カイパー・エクスプレス (Pluto Kuiper Express)というミッションを新たに計画したこともありましたが、経費の増大や打ち上げロケットの開発の遅れなどのため、2000年に中止されました。

しかし、その数年後にアメリカ経済も回復基調になってきたことから、ニュー・ホライズンズの打ち上げが計画され、7億ドル(日本円で約800億円)の予算を獲得し、2006年の打ち上げに漕ぎつけることができました。

この打ち上げ費用には、ロケット製造費、施設利用費、装置開発経費及びミッション全体の人件費が含まれており、これから本格化する観測は、ジョンズ・ホプキンス大学応用物理研究所 (APL) のミッションチームが行っていく予定となっています。

このニュー・ホライズンズのミッションとは、冥王星とその衛星カロンの全体的な地質と地形の特徴を明らかにし、表面の組成の地図を作成し、冥王星の薄い大気とそれが流出する割合を明らかにすることです。このためための、画像撮影装置と無線科学調査ツール、さらに分光器とその他の実験装置を搭載しています。

こうした観測を行うにあたっては、当然動力源が必要になります。が、冥王星は太陽から遠く離れており、通常の観測衛星が使うような太陽電池を使えません。このため、原子力電池を搭載しています。

また、冥王星軌道からの地球へ届く電波も微弱となり、通信速度は僅か800bps弱となります。このため、一度に大量のデータを送ることはできず、このため64Gbit(8GB)相当のフラッシュメモリを搭載し、冥王星探査で取得したデータはメモリに蓄積して、数ヶ月かけて少しずつ地球へ送り届ける、という方法がとられます。

こうした観測用の機器の他には、星条旗が搭載されており、ほかにも公募した43万人の名前が記録されたCD-ROM、史上初の民間宇宙船スペースシップワンの機体の一部だったカーボンファイバーの破片が積まれています。また、1930年に冥王星を発見した天文学者、クライド・ウィリアム・トンボーの遺灰が搭載されています。

トンボーは、アメリカ・イリノイ州の生まれで、高校時代にこのころ西カンザスにあった自宅や農場が雹で壊滅し、大学進学を諦めざるを得なりました。彼は独学で学問を続け、20歳のとき、初めて天体望遠鏡を自作して天体観測を続け、観察した火星と木星の記録を、アリゾナ州フラッグスタッフのローウェル天文台に送りました。

そうしたところ、その力量が認められ、天文台に雇われることとなりました。1930年2月18日に冥王星を発見し、一躍時の人となりましたが、ローウェル天文台での観測ではこのほかにも数百の変光星、800近い数の小惑星、2個の彗星の他、29,000にも及ぶ銀河を発見しています。

トンボーはUFOにも関心を持っていたそうで、1950年代には軍の要請でUFOの調査をしていたといわれますが、1997年1月に、91歳の誕生日を迎える直前に、ニューメキシコ州の自宅で亡くなりました。このとき彼の遺灰の一部がニュー・ホライズンズのコンテナに納められ、そのコンテナには以下のような銘文が書かれていました。

「ここに納めるは、冥王星および太陽系 ”第三領域” を発見したアメリカ人、クライド・W・トンボーの遺灰である。 アデルとムーロンの息子、パトリシアの夫、アネットとオールデンの父、天文学者、教師、駄じゃれ好き、そして我らの友、クライド•W•トンボー(1906-1997)」。

このトンボーが冥王星を発見した方法というのは、当時最新の技術であった天体写真を用いたものでした。

空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影して、その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行うというものであり、撮影した膨大な写真を丹念に精査した結果、トンボーは1930年2月18日に、同年1月に撮影された2枚の写真乾板の間で動いていると思われる冥王星を見つけたのでした。

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日本語名の「冥王星」は、発見後すぐに日本人の野尻抱影という民族学者が提案した名称です。彼はこの名称を「幽王星」というもう1つの候補とともに雑誌「科学画報」の1930年10月号に紹介し、その後東京天文台でもこの言葉を使うようになりました。

野尻抱影は、英文学者、随筆家でもあり、古今東西の星座・星名を調べ上げたことから「和製アレン」とも呼ばれました。アレンというのは、リチャード・ヒンクリー・アレンのことで、アメリカのアマチュア博物学者であり、膨大な雑学知識を有していたことによって、友人たちからは「歩く百科事典」と呼ばれていました。

ギリシア・ローマ、アラブ、中国および他の多くの地域の星座と恒星に関する天文学の歴史を広範囲にわたって調査し、その結果は以後、星の名称についての重要な文献とされるようになり、現在でもプロ・アマを問わず、多くの天文学者が星名について当たる資料源となりました。

野尻抱影もまた星の和名の収集研究で知られており、日本各地の科学館やプラネタリウムで行われる、星座とその伝説の解説には、野尻の著作が引用されることが多いようです。

この冥王星の発見から85年もの年月を経て、ついにそのベールがニュー・ホライズンズによって剥がれることになるわけですが、その観測ではまた、冥王星本体だけでなく、冥王星の最大の衛星「カロン」の表面の写真撮影も行われます。

カロンは直径が冥王星の半分以上あり、「二重惑星」ともみなされており、この「二重」の意味は、大きさの近いこの2つの惑星が同じ重心の周りを互いに公転している、ということです。

つまり、同じ円の中心をぐるぐると二つの衛星が回っていることになりますが、互いに同じ周期で回転しているため、カロンは常に冥王星に同じ面を向けており、冥王星もまたカロンに対して常に同じ面を向けています。

よって、仮に冥王星の表面からカロンを、あるいは、カロンの表目から冥王星を見たとするとそれぞれの相手は、空の一点から動かないように見えるはずです。

また、カロンにはかつて地下に海が存在した可能性が示唆されています。冥王星とカロンは常にお互いに同じ面を向け、安定した真円の軌道を回っていますが、この状態に至るまでにカロンは細長い楕円軌道を回っていた時期があったと考えられており、このような時期には潮汐変形で熱が発生し、内部に液体の海が存在していたかもしれないのです。

カロンは、現在では冥王星とともに準惑星とされています。これについては、その当時大騒ぎになったので、ご存知の方も多いと思いますが、冥王星は、発見から76年後の2006年8月に開かれた国際天文学連合(IAU)の総会で、惑星から準惑星に格下げになってしまいました。

冥王星は海王星までの8つの惑星と比較すると離心率や軌道傾斜角が大きいことから、発見された当初から「変わった惑星」だと考えられており、発見されてからしばらくの間は地球と同じ程度からその数倍の質量を持つと推定されていました。

ところが、上述のとおり、ハッブル宇宙望遠鏡やほかの近年の精度の高い観測により、実際はそれよりはるかに小さいことが明らかになり、組成や予想される起源から、太陽系外縁天体ではないかという意見が有力になっていきました。

また、冥王星の表面を覆う氷は彗星が持っている氷と同じ成分であることから、冥王星は太陽系を形成したときの微惑星の集合体だと考えられるようになり、このような研究の進展から、冥王星を惑星とみなすことに疑問を抱く声が高まっていきました。

さらには近年の望遠鏡の技術が進歩により、2000年代に入ってからはさらに多くの太陽系外縁天体が発見できるようになりました。その中には冥王星の大きさに匹敵するものも出てくるようになり、2005年7月29日、2003 UB313と呼ばれる天体が、冥王星と同じ太陽系の外縁で発見され、この星は2006年9月に「エリス」と命名されました。

太陽系の天体の明るさは、サイズとアルベド(反射率)から決定されます。エリスの場合も等級とアルベドを考慮に入れた計算が行われましたが、その結果、冥王星よりやや大きいと推測され、これは1846年の海王星の発見以来、太陽系内で最大の天体の発見でした。

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ただ、この発見のときはまだこの天体を惑星と呼ぶかどうかという議論は活発ではなく、天文学者の間でもこれを惑星と呼ぶ公式な合意は得られていませんでした。

にもかかわらず、発見者とメディアは当初これを「第10惑星」と呼び、10個目の惑星発見という報道もされたことから、これと同じ冥王星を果たしてそれまで通りに惑星と呼んでいていいのかどうか、という議論が巻き起こりました。

この結果、国際天文学連合((IAU)は世界中の天文学者の意見を募り、2006年8月14日からチェコのプラハで開かれた総会で、惑星の定義を決めるための議論が行われることになりました。

その10日後、8月24日に採択された議決においては、それまで明確でなかった惑星の定義を定めるとともに、「dwarf planet」(準惑星)と「small Solar System bodies(太陽系小天体)」という二つの新しい分類を新設することが採択され、「惑星」、「準惑星」、「太陽系小天体」の3つのカテゴリが定義されることになりました。

そして、惑星の定義としても、はじめて次のように定めれらました。

1.太陽のまわりを公転していること。
2.自己の重力によって球形になるほど十分な質量を持っていること。
3.軌道上に他の天体がないこと(他の天体を排除していること)。

この定義の元では、冥王星は惑星としてのこの3つ目の条件を満たさないことになり、これによってIAUは、惑星の総数をそれまでの9つから8つとするとともに、冥王星を「準惑星」に再分類し、太陽系外縁天体内の新しいサブグループの典型例とみなすと決議をしました。

IAU が決議案採択の時点で dwarf planet の例として示したのは冥王星、エリス、ケレスの3個であり、2008年7月にマケマケ、9月にハウメアが追加されて5個となりました。

このうち、エリスのネーミングはトロイア戦争の遠因となったギリシア神話の不和と争いの女神の名をとったものであり、ケレスもまたローマ神話の女神ケレスから命名されたものです。

しかし、その後はギリシア・ローマ神話の神が残り少ないことを指摘されるようになり、その後発見されたマケマケ、ハウメアの命名では別の伝承の名前が提案されました。マケマケは、イースター島の創造神マケマケに因んで命名されたものであり、ハウメアは、ハワイ諸島の豊穣の女神ハウメアに因んで命名されたものです。

ちなみに、ケレスはイタリア人、ハウメアはスペイン人の天文学者によって発見されました。しかしエリスとマケマケは冥王星と同じくアメリカ人による発見であり、近年ではこうした新しい発見においては、アメリカにおける天体観測の技術が群を抜いているとよく言われます。

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いずれにせよ、このIAUの結果から、冥王星は準惑星に分類されることになりました。しかし、この総会においては、1万人以上いるIAU会員のうち総会の出席者は2千人余りに過ぎず、また、最終日の議決に参加したのはわずか424人であり、賛成票が約9割という圧倒的多数ではあったものの、この決議は無効だという抗議の声があがりました。

304人もの天文学者や惑星科学者がIAUに署名した意見書を提出しましたが、その大半は現在世界最先端の天体観測技術を持っているといわれるアメリカ人たちでした。

しかし、この意見書については、冥王星を発見したクライド・トンボーがアメリカ人であったことも関係しており、冥王星は1930年の発見以降長い間、アメリカ人が発見した唯一の惑星とされ、発見当初からアメリカ人の誇りと思われてきたという事情もあったようです。

ディズニーのキャラクターとして親しまれている「プルート」もまた、冥王星が発見された年に誕生しており、冥王星の英名、“Pluto“からきています。このこともあり、多くのアメリカ人は冥王星に特別な愛着を抱いてきており、アメリカ人のこの強い愛着が、冥王星が惑星であるか否かという議論を長らく混乱させる一因にもなりました。

2006年に結局冥王星が準惑星に変更されることが決まると、多くのアメリカ人からは失望や落胆、不満の声があがり、カリフォルニア工科大学やジェット推進研究所などがあるカリフォルニア州のパサデナでは、惑星に扮した8人の科学者が冥王星の入った棺と1,500人以上の会葬者を伴って街を練り歩く、という「珍事」も起きました。

しかし、冥王星を発見したのがアメリカ人なら、惑星でなくなるきっかけを作ったのもまた、アメリカの天文学者たちだったといえます。近年彼等によって格段に精度が高められた観測装置による観測によって、次々と冥王星のような準惑星が発見されたことを考えると、この結果はいかにも皮肉なかんじがします。

冥王星の発見者である、クライド・トンボーが後半生を過ごしたニューメキシコ州ではこのIAUの決議が行われた翌年の2007年に、また彼が生まれたイリノイ州では2009年に、冥王星の発見が報告された3月13日を「冥王星の日」と定めました。

そして、州議会は「州の上空を通っている間は、冥王星は惑星として扱われる」ことを決議したといいます。ただ、冥王星が天の北極に最も近づくのは2193年となりますが、その時点でも、冥王星はニューメキシコ州やイリノイ州の上空を通ることはないそうです。

それにしても冥王星は長きに渡り、惑星として扱われてきた、という事実は消えません。1970年代初頭に打ち上げられた宇宙探査機パイオニア10号とパイオニア11号に搭載されていた金属板には、冥王星が惑星として描かれています。

この金属板は、将来探査機が地球外知的生命体と遭遇した場合に、探査機がどこから来たかという情報を与えることを意図しており、太陽系の図も含まれていて、9つの惑星が描かれていることから、もし宇宙人がこれを見つけたら、あ~地球には惑星が9つあるんだ~と思うことでしょう。

同じように、前述の探査機ボイジャー1号とボイジャー2号にも黄金のレコードなどにもやはり冥王星は9番目の惑星と記録されています。

さらには、原子番号94番の元素はプルトニウム (plutonium)と名付けられており、これは冥王星の(Pluto)から取ったものです。

さらには、我々日本人が、惑星の名前を「水金地火木土天海冥」と覚えていますが、これは今後、「水金地火木土天海」となってしまい、なんだか尻すぼみになったような印象を受けます。

同様に、欧米人もこれを「My Very Educated Mother Just Served Us Nine Pizzas」などのようにして語呂合わせで覚える習慣があります。しかし、IAUの決議によって惑星が8個になってしまっため、このごろ合わせも変える必要があります。

これについてはアメリカでは具体的な動きがあり、逆に、新しく増えたものを加えた新しい語呂合わせを作ろうという運動が巻き起こりました。そして科学雑誌の「ナショナルジオグラフィック」で有名なナショナルジオグラフィック協会がケレスとエリスを含む11個の「惑星」を読み込んだ募集をしました。

その結果、モンタナ州の4年生の少女による「My Very Exciting Magic Carpet Just Sailed Under Nine Palace Elephant」という新しいごろ合わせが優勝したといいます。日本も同様に、新しく増えた準惑星を加えて新しいゴロ合わせをつくるかどうかですが、「水金地火木土天海」に加えてどんな漢字をあてるのがいいのでしょうか。

一方、音楽の世界では、グスターヴ・ホルストによる有名な組曲「惑星」というものがありますが、この曲は冥王星発見以前の1914年から1916年にかけて作曲されており、当時未発見の冥王星は含まれていません。なのでこれはこれで現在の状況に適応しているわけです。

しかし、ホルストは冥王星が発見されて以降、新たに冥王星の曲を作ろうとしたといいます。が、健康上の理由などから挫折したそうで、これを引き継ぎ、その後も他の人による補完の試みがありました。

そして、2000年になってコリン・マシューズという作曲家が作曲した「冥王星、再生する者」が作られたばかりでしたが、こうした努力も今になってみれば、むなしいかんじがします。

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さらには、占いが好きな人に気になるのが、西洋占星術では、冥王星が天蝎宮(さそり座)の支配星であることです。白羊宮(おひつじ座)の副支配星でもあり、星占いでは凶星であり、極限、死、再生を示し、原子力、エネルギーをも示唆するとされてきました。

古代の星占いにおいては、この時代には冥王星は発見されておらず、含まれていませんでしたが、発見以後は取り入れられ、重要な天体の1つとして数えられています。このため、ミャンマーのように、占星術がこれで首都移転を決めるほどの社会的影響力のある国においては少なくない影響があり、ミャンマーの占星術師の協会がIAUの決定を非難しました。

ただ、西洋占星術関係者の一部からは冥王星そのものが消えたわけではありませんし、新たに発見された準惑星も含めて支配星を再定義する必要がある、などの前向きな意見も出ています。そもそも占星術における惑星の定義は天文学的な定義とは異なるため、それはそれでいいんじゃない、と至って冷静に受け止めている占い師さんが多いようです。

とはいえ、このIAUの決定は、マスコミによるセンセーショナルな報道の影響もあって、発見から76年間も惑星として親しまれてきたものが「惑星でなくなった」ということに対して、マイナスのイメージを抱いてしまった人が非常に多いのもまた事実です。

この分類変更は、冥王星は惑星だと記載してきた世界の教科書出版業界にも衝撃と混乱をもたらしており、また多くの国の政治家も「この結論は歴史的なものである」といった趣旨の発言をしているようです。

日本においても、日本学術会議が、2007年に前年のIAU総会で決まった新たな分類の日本語名称を提言しようとしました。しかし、「dwarf planet」についてはその定義にあいまいな部分があり、混乱を招く可能性があるとの結論を出し、この結果、日本では学校教育などの分野では当面、冥王星を準惑星とすることは推奨しないとしています。

私としてもアメリカ人ほどこの変更における著しい憤りは感じておらず、これまで通り、「水金地火木土天海冥」でいいじゃん、というかんじです。

惑星が、天文学上は準惑星扱いされるようになっても、別に冥王星の存在価値そのものが否定されたわけでもなく、天文学の進展によって、より詳しいことがわかった結果である、と考えればよいわけです。今後その詳細が明らかになるにつれ、冥王星はさらに新しい科学文明の象徴のような存在になっていくに違いありません。

がしかし、ニュー・ホライズンズがまだ冥王星に接近していない現時点においては、その詳細はまだ不明の点ばかりです。冒頭でも述べたとおり冥王星には未だに探査機などが接近観測を行ったことがないためでもありますが、冥王星が遠すぎるために地球から詳細に観測することも難しいためです。

冥王星の見かけの等級は14等級以下であり、従ってその観測には必要となる望遠鏡の口径は少なくとも約30cm以上が望ましいといいます。

非常に巨大な望遠鏡で観測しても、冥王星の角直径はわずか0.15″しかないため、恒星と同じように点状にしか見えず、また冥王星の色はごくわずかに黄色がかった明るい茶色である、といったことぐらいしかわかりません。

地球から望遠鏡で観測することにも限界があり、現在世界最高の分解能を持っているといわれるハッブル宇宙望遠鏡でも、その宇宙から撮影した画像からは表面の明暗や模様などがわずかに分かる程度だといいます。

今回のニューホライズンの接近により、人類は初めてその素顔を見ることになるわけですが、今後の予定としては、2月14日ごろから本格的な観測を開始し、今年の4月後半には、送られてきた画像の画質が、ハッブル宇宙望遠鏡による最良のものと同等になるといいます。

そして、6月初旬には全ての観測機器が常時観測体制に入り、7月14日の午前11時47分に最接近し、冥王星と衛星カロンを撮影する予定です。最接近時の距離は13,695kmだそうで、このときの通過予定速度は14km/sという比較的ゆっくりとしたものです。が、これは時速に換算すると50,400km毎時というとてつもないスピードです。

そして、8月後半には、接近後の探査終了し、来年からはかつてのボイジャー1・2号と同じように、果てしない永遠の宇宙の旅を続けることになるようです。

今年の7月、これまで人類の見たこともない冥王星の雄姿を垣間見ることができると考えると、楽しみです。

今年はこのことも含めて、楽しいことがたくさんある一年であることを祈りたいところです。

2015-8324

エンマ vs ボサツ

2015-8422今日は、「初閻魔」だそうで、これは1年で最初の閻魔様の縁日です。

縁日というと、近代以降では、神社仏閣などで露店などが多く出るお祭り、というイメージがありますが、本来は、神仏との縁がとくに深くなる日、~これを有縁(うえん)といいますが~ そうした日です。

神仏と縁が深くなる、というと不思議な感じもしますが、これはその昔は神仏の降誕や何等かの示現があったり、逆に人間側から、例えば災害予防や疫病退治のための誓願などを行ったりすることを「縁がある」、といったものです。従って、こうした神仏と縁(ゆかり)のある日を記念日として選び、祭祀や供養を行ったなごりと考えれば良いでしょう。

この日に神社仏閣に参詣すると、普段以上の御利益があると信じられたものであり、特に、年の最初の縁日を、天神様なら初天神、観音様なら初観音、お不動さまなら初不動などと呼びました。また逆に年の最後の縁日を納め(おさめ)または終い(しまい)といい、納めの天神、終いの観音というふうに呼んでその年の御利益を感謝しました。

明治以前の日本では、現在のようにテレビやインターネットもなく、芸能の種類が少ない中で、こうした縁日が新聞に一覧表で「縁日欄」として載るほどであり、同じく人気のあった娯楽である寄席の情報を指し示す「寄席欄」と共に多くの読者に楽しみにされる情報でした。

そして、閻魔様に関しては、毎月16日が縁日とされており、とくに1月16日と7月16日は、閻魔王の休日とされていました。

この日は奉公人も仕事を休んで実家に帰ることができ、これを「藪入り」といいました。藪入りの語源には諸説ありはっきりしませんが、藪の深い田舎に帰るからという説、「宿入り」(実家へ帰る)からの転訛などの説があります。

また、関東から中部地方にかけては、7月1日は「地獄の定休日」として罪人を煮る釜のふたを開き、亡者を苛む(さいなむ)のを休んだということから「釜蓋朔日」と呼び、この日から盆入りとしました。

一方では、通常の月の16日も閻魔の縁日であることには変わりはなく、その昔はこの日に閻魔様を祀ってある神社仏閣へ行ってお祈りをするとより一層閻魔様の御利益がある、とされました。

エッ?地獄の裁判官である閻魔様に詣でる!?と思われる方も多いでしょうが、一般には延寿、災難除去、病気平癒の御利益があるとされています。また、日本仏教においては閻魔様は、「地蔵菩薩」と同一の存在と解され、地蔵菩薩の化身ともされていますから、閻魔さまというよりも菩薩様に詣でるのだと考えれば、より納得がいきます。

この地蔵菩薩は、仏教の信仰対象である「菩薩」の一尊であり、仏教の発祥の地、インドでは、大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う神様とされていました。

日本に入ってきてからは、民間信仰で道祖神としての性格を強め、また「子供の守り神」として信じられ、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれるようになり、このため、お地蔵さんには、子供が喜ぶお菓子がよく供えられています。

が、元々はお釈迦様のれっきとした弟子であり、毎朝禅定に入って修業に励んだとされています。ところが、お釈迦様の入滅してしまったため、その後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間は、現世に仏が不在となってしまうとされました。

このため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救うために、「菩薩」という存在になったとされています。

その地蔵菩薩がなぜ閻魔様と同じになったか、ですが、これは、元々インドでは、釈迦によって仏教が成立する前に、既にあった古代宗教の中で死者の国の王様だったのが、閻魔であった、ということと関係します。

人間の祖ともされ、閻魔は、サンスクリット語では、「ヤマ(Yama)」と発音されていました。このヤマとその妹ヤミーが兄弟姉妹婚により最初の人類が生まれ、ヤマはその後人間で最初の死者となったゆえに死者の国の王となりました。インドでは、古くは生前によい行いをした人は天界にあるこのヤマの国に行くとされていたといいます。

天界というと、現在の我々はまばゆい光にあふれた天国を想像しますが、この当時のインドでは必ずしも明るいイメージではなく、暗いイメージだったようです。ヤマは時として“死”と同一視され、死者の楽園の王、死んで天界にある祖先を支配する神と考えられていました。

後に赤い衣を着て頭に冠を被り、手に捕縄を持ち、それによって死者の霊魂を縛り、自らの住処・国に連行すると考えられ、またさらに下界をも支配して死者を裁き、地獄に落とす恐るべき神と考えられる様になり、ついには単なる死神としても描かれる様になりました。

ただ、一説によれば、ヤマはこのとき二つに別れ、下界の暗黒世界、すなわち地獄界の王となったのが、すなわち閻魔であり、一方、上界の光明世界である天国では夜摩天、あるいは焔摩天と呼ばれる存在になりました。

閻魔はYamaと発音されたのに対し、夜摩・焔摩はYaamaあるいはYaamaa(ヤーマ、ヤーマー)とされ、本来は別モノですが、発音が似ているため、後の世では混同され、同一視されるようになった、という説もあります。日本においても、閻魔大王のことを焔摩大王と書いたりするのはこのためです。

その後このYamaという存在は、中国にも伝わりましたが、この時には既に天国の神様ではなく、地獄専門の王様になっていました。道教における冥界である「泰山地獄」の主とされ、「泰山府君」と呼ばれましたが、のちに閻魔王、あるいは閻羅王という別名も得ました。

やがては地獄の裁判官の一人とされるようにもなり、数ある裁判官の中でもその中心的存在として、泰山王とともに、「人が死ぬと裁く」という役割を担い、信仰の対象となりました。現在閻魔様の容姿としてよく知られる唐の官人風の衣(道服)を纏った姿は、このあたりで成立したもののようです。

ただし、中国的な発想では、閻魔の尊格は永遠なものではなく、生者が選ばれて任命され、任期が過ぎれば、新たな閻魔と交替するのが当然と考えられていました。このため、唐代や明代に流行った説話には、冥界に召喚されて、閻魔となった人間の話が時々出てきます。

清廉潔白で国家を支えた優秀な官吏が、死後閻魔になったという説話もいくつかあります。例えば、北宋の政治家で能吏であったために生前から庶民に人気があった「包拯(ほうじょう)」という役人がいましたが、没後もその名声・名誉はさらに加速し、死後は閻魔大王になったと信じられていました。

このようにインドから中国に伝わった閻魔は最初から冥界の王として広まりました。ところが、日本では、原作のインドそのままに下界の盟主である閻魔と天界の盟主である焔摩天の二種が伝えられました。中国に伝わったものは最初からこの二つがひとつの閻魔大王に習合されましたが、日本ではそれぞれ別モノとして伝わったわけです。

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ただ、これが伝わった奈良時代では、現世利益優先の傾向が強く、天界の存在である焔摩と閻魔のどちらもこの当時の世相のもとではあまりもてはやされませんでした。

しかし、やがて時代が下がって平安時代になると、末法思想が蔓延するようになりました。末法思想というのは、釈迦が生きていた時代と違って、その次の世は最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のことです。

この時代は貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう時期で、また武士が台頭しつつもあり、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつありました。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃しており、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想が蔓延していました。

このため、こうした末法濁世の世では、阿弥陀仏の本願力によってのみ人々は救済される、と各宗派の僧侶たちが説くようになり、仏像の前での念仏の普遍性が強調されるようになりました。このため、平安後期には焔摩や閻魔の存在は、貴族、一般民衆と広く支持されるようになります。

鎌倉初期には「地蔵菩薩発心因縁十王経」(略して「地蔵十王経」)が生み出され、この中ではじめて、焔摩を地蔵菩薩と称して閻魔と同一の尊格であるという考え方が出てきました。

この中では、地蔵菩薩は地獄と浄土を往来出来るとされ、三途の川や奪衣婆が登場し、「別都頓宜寿(ほととぎす)」と鳴く鳥が描写され、いわゆる「あの世」、「他界」についての情報が飛躍的に増えました。それまでは、黄泉国というのは、あいまいな他界観にもとづく死後の世界であり、漠然と死後ただ行く世界でした。

それに対し、この「地蔵十王経」では、中国から伝えられた情報をもとに、死した後の世界を詳細に定義付けており、この地獄の他界観は人々に新鮮に受け止められました。また、道教と儒教の影響を色濃く受けたこの観念は、人一人一人に対し大変に厳しいものでした。

例えば、その後広く信じられるようになった「地獄」という世界では、死後、人間は三途の川を渡り、7日ごとに閻魔をはじめとする十王の7回の裁きを受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされます。

地獄にはその罪の重さによって服役すべき場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあります。そして服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされました。

閻魔王の法廷には浄玻璃鏡という鏡が設置されていて、死者の生前の善悪の行為をのこらず映し出すとされました。地獄を守護する閻魔が亡者の裁判で亡者の善悪の見極めに使用する水晶製の鏡であり、この鏡には亡者の生前の一挙手一投足が映し出されるため、いかなる隠し事もできません。

もしこれで嘘をついていることが判明した場合、閻魔に舌を抜かれてしまうといい、また、これで映し出されるのは亡者自身の人生のみならず、その人生が他人にどんな影響を及ぼしたか、またその者のことを他人がどんな風に考えていたか、といったことまでがわかるともいわれました。

また、一説によればこの鏡は亡者を罰するためではなく、亡者に自分の罪を見せることで反省を促すためのものともいわれています。

嘘をついた者は、地獄で閻魔に舌を引き抜かれる刑に処されるという俗説はその後も広く浸透しましたが、とくにこの話は聞き分けのない子供には大変効果があり、子供を叱る際によく使われるようになりました。このため、より説得力を持たせるため、和釘を引き抜くのに使われた、やっとこ形の釘抜きを「えんま」と称しました。

このように、末法思想が流行った当時は、地獄という具体的な他界観がクローズアップされ、それまでのあいまい模糊とした冥界とは異なり、明確な情報をもった仏教的他界が示されました。そしてこうした具体的な情報提供により、地獄というものの存在が人々により身近に感じられ、広く受け入れられる結果となっていった、というわけです。

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さらに時代が下り、江戸時代になると、地獄の王たちをそれぞれ仏と相対させるようになりました。悪の対辺には必ず良がある、とする考え方に基づくもので、いわゆる勧善懲悪の考え方にも通じるものです。最初は閻魔大王=地蔵菩薩などのわずかでしたが、時代が下るにつれ、その数も増え、「十三仏信仰」なるものが生まれるに至りました。

冥界の審理に関わる13の仏様であり、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩がそれです。

これらの仏様には、それぞれ地獄の裁判官としての役割が定められ、地獄における13王としての名前も決められました。例えば不動明王には地獄の裁判官としては「秦広王」という名前があり、薬師如来は「泰山王」であり、また地蔵菩薩はやはり「閻魔大王」とされています。

現在でも、これらの考えに基づき、十三体の仏が転じて地獄の王となった姿を描いた江戸時代の絵が多くのお寺さんで残されており、法要をはじめあらゆる仏事にはこの掛軸を飾る風習が伝えられています。

そして、これらの仏は地獄と浄土を往来出来るとされ、地蔵菩薩については、天国におわせば菩薩ですが、地獄に行けばこれが閻魔様になると言った具合であり、こうした「あの世の仕組み」が具体的に流布された結果、閻魔様は地蔵菩薩の化身と広く認識されるようになっていきました。

と同時に地蔵菩薩は地獄においては、人々を救う唯一の希望的存在と考えられるようになっていきました。浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まりましたが、地蔵菩薩については、これを地獄における責め苦から救ってくれるヒーローとみなすようになっていったのです。

とくに地蔵菩薩は弱い子供の救済者とされました。例えば、仏画などでは、賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守る姿がよく描かれるようになりました。また、中世に流行ったといわれる「仏教歌謡」でもそうした姿が唄われるようになり、これが幼くして亡くなった子供を祀る「水子供養」に発展し、ここでも地蔵信仰が集まりました。

冒頭で閻魔様の縁日は、16日であると書きましたが、地蔵菩薩の縁日は毎月24日とされています。閻魔様=地蔵菩薩なら同じ日でもよさそうなものですが、縁日というのはいわばお祭りですから、お楽しみごとはそれぞれ別の日にして増やしたほうが良いわけです。

それにしても、こうした縁日の振り分けがどういういわれで取り決められたかはよくわかりませんが、ほかにも薬師如来の縁日は毎月8日、虚空蔵菩薩は、毎月13日といったふうにそれぞれの縁日同士がかぶらないようになっており、仏教界においてある時期、そうした交通整理が行われたのでしょう。

この地蔵菩薩の縁日はまた「地蔵盆」ともいいます。通常の月の地蔵菩薩の縁日の24日は、地蔵会(じぞうえ)、地蔵祭と呼ばれていましたが、旧暦7月24日についてはお盆期間中であり、それにちなんで地蔵盆と呼ばれるようになったことから、通常月の地蔵会も地蔵盆と呼ばれるようになったものです。

ただ、この地蔵盆は一般には寺院に祀られている地蔵菩薩を対象とした祭りではなく、路傍あるいは街角の地蔵が対象となっています。これは地蔵菩薩が道祖神と習合したためです。

習合とは、地元に定着している宗教信仰と新しく来た宗教が接触した場合に、類似する要素がいくつかあったりした時に起こる現象のことです。日本の多くの田舎では地蔵菩薩も道祖神も同じく崇め奉る存在であり、長い年月の間に二つが習合してしまい、このため日本全国の路傍で道祖神の代わりに地蔵像が数多く祀られるようになりました。

とくに、大阪や兵庫、奈良・京都といって近畿地方では、この地蔵様をお祀りする風習が根強く残っており、上述の水子供養とも関連して、地蔵盆は子供の祭りとして扱われ、地蔵盆が盛んに行われるようです。

一方、関東地方や東北地方では地蔵信仰自体が浸透していないため、地蔵盆も行われません。地蔵盆が当たり前の近畿地方出身者にとって、「地蔵盆は全国区ではない」ということは関東などへ移って驚くことの一つだといいます。

この地蔵盆を祝う風習があるためか、地蔵菩薩の対角線上にある閻魔様を祀る有名な神社仏閣も比較的関西に多いようです。例えば、京都府大山崎町の宝積寺には、閻魔・司録・司命が居並ぶ地獄の法廷を再現した鎌倉時代の木像があり、重要文化財に指定されています。

また、大阪市浪速区には、閻魔を祀った西方寺閻魔堂というのがあり、これは正式には「合邦辻閻魔堂西方寺」といいます。創建は聖徳太子であるという説もあります。

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一方の関東では、鎌倉に円応寺というお寺があって有名なようです。ここの「初江王坐像」はすなわち閻魔様の姿をしています。笑っているようにみえることから「笑い閻魔」と呼ばれ、円応寺で赤ちゃんの名をつけてもらうと丈夫に育つということから「子育て閻魔」とも呼ばれています。

また、東京・文京区の源覚寺には、こんにゃくを供えれば眼病を治すという「こんにゃくえんま」像があります。鎌倉時代の作といわれ、運慶派の仏師が造立した仏像として文京区指定有形文化財にもなっています。

閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴だそうで、この右側の目が濁っている原因としては、次のような伝承が残っています。

宝暦年間(1751~1764年)に一人の老婆が眼病を患い、この閻魔大王像に日々祈願していました。そうしたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたといいます。

この閻魔大王の満願成就が何だったのかはわかりませんが、その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に供え続けたといわれています。

以来この閻魔大王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めるようになり、現在でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくを供える人が多いそうです。

この伝承からか、閻魔様はコンニャクが大好物であるとされるようになったようで、このため、閻魔様の縁日には各地にある閻魔堂で「こんにゃく炊き」の行事が行われるところも多いようです。

ところで、この閻魔様はこんにゃくが大好きと言われるゆえんとなった源覚寺は、徳川家の崇拝も篤く、とくに徳川秀忠、徳川家光から篤い信仰を得ていたそうです。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848年)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれています。

しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れ、明治時代には再建も果たされましたが、その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れました。そしてこのお寺には、別名「汎太平洋の鐘」といわれる鐘があります。

元禄3年1690年に完成し、元々当寺院所有のものでしたが、昭和12年(1937年)に当時日本領だったサイパンの南洋寺に搬出され、サイパンの人々に時を告げる鐘として使われていました。

しかし、第二次世界大戦が勃発し、サイパンは戦禍に飲み込まれ、この鐘も行方不明になっていました。ところが、戦後の1965年に米国・テキサス州にてこの鐘が発見され、その後、1974年になって当寺院に返還されました。

その返還の模様はマスコミにも取り上げられ話題となりましたが、以後毎年のようにこの鐘は除夜の鐘として用いられ、大晦日に突かれています。

その除夜の鐘から早、半月が過ぎました。今年もまた足早に時間が過ぎていこうとしていますが、今年一年が果たしてどういう年になるのか、今はまだ想像もつきません。

が、どんな一年になろうとも、あちらの世では地獄に落とされ、閻魔様に舌を抜かれるような悪いことはしないよう、むしろ善行を敷いて天上の焔摩天に愛され、どこまでも高く空に上がっていければいいな、と思う次第。

このブログを無償で綴って行くのもその善行のひとつと考え、できるだけ長く続けていきたいとは思います。が、どこまで続くことやら。続けていけるのは読んでくれる方がいつづけること、そして増えること。

ご来訪者は神様です。仏様です。今年もまた、そうした神仏のような皆様のご支持とご加護をお願いしたいと思います。

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ヨーガは良いか?

2015-8441正月以来の三連休が終り、今日から心身ともに本格始動、という人も多いでしょう。

私は、というと、この連休はなぜか家の中の整理整頓をしており、その余波もあって、今日はやや休みたいな~という気分です。

なぜ正月早々から家内整理かというと、これはかねてよりの課題でした。伊豆へ引越してきてから、以来今年で4年目に入りますが、引越し当初はこのだだっ広い家の勝手がよくわからず、持ち込んだ家具の配置なども適当に決めていました。

そのおかげで日々生活する上においては、あるべきところにあるべきモノがなく、なくても良いところに邪魔な収納物があったりして、結果として家全体の空きスペースをかなり無駄に使っている、という結果になっていました。

例えばこれまで2階の洗面所の脇にはなぜか冷凍庫が置いてありました。一階のキッチンにおける十分なスペースがなかったため、それなら同じ水回りのある2階へということになったわけですが、幅も奥行も結構あるため、他の家具とのバランスを取る上でもネックになっていました。

しかも、この冷凍庫は引越し以来一度も使ったことがなく、文字通り宝の持ち腐れ状態でした。捨てればよさそうなものですが、そこは二人とも貧乏性なところがあり、もしかしたらいつかは使えるかもと思い、そのままにしていたわけです。

そこで、当面はこれを一階の階段下にある倉庫に押し込むこととし、冷凍庫があった場所にはその代りに本箱を持ってきました。洗面所に本箱?と思われるかもしれませんが、薄型のこの箱は収納にはかなり便利であり、その本箱が元あった場所のスペースも空いて、かなり効率よくその部屋が使えるようになりました。

以後、あとはドミノ倒しのように2階にあった家具を移動しまくり、その結果として各部屋とも広大なるスペースを生み出すことに成功しました。いったいどこにこんな空間があったのよ、という変わりようであり、テレビ東京のビフォーアフターを地でいったような気分ともなり、自分でも大いに満足できました。

それにしてもなぜ正月早々……と疑問を持たれる向きもあると思いますが、こうした家具の移動というのは、結構体力も使い、しかも暑い時期の作業は汗もかきやすく億劫になりがちです。

涼しい時期であれば汗をかかないし逆に体も温まり、しかも一年の初めにそうした面倒くさいことをやっておけば、あとの生活も楽になるであろうし、快適に暮らせます。今年は早々から自分にカツを入れていこうと思っており、そうした意味でもやるなら今しかない、本格的に仕事を始める前に終わらせておこう!と思い立ったというわけです。

しかし、家内整理が終わって思っての最大の反省点は、やはり今回も大がかりな「断捨離」はできなかったな……ということ。

前述の冷凍庫もそうですが、今回の模様替えで出たゴミというのはほんの僅かであり、とくに始める前には大量にある書籍類にも手をつけようと思っていたのですが、結局は本棚の移動に伴い、そのままこれも場所から場所へ移しただけで終わってしまいました。

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この断捨離ですが、改めて説明をする必要もないでしょう。4~5年前から流行り始めた言葉で、元は「やましたひでこ」さんという人が書いた「新・片づけ術『断捨離』(マガジンハウス、2009年)」がヒットしたことからブームに火がつきました。

この人は、石川県在住の主婦のようで、早稲田大学文学部に在学中に入門したヨガ道場がきっかけで、ここで断捨離の基礎を学び、その後、それを自身の家内の片付けに応用し、「断捨離」という造語を生み出しました。

そして、46歳だった2001年よりクラターコンサルタントとして断捨離セミナーを全国で開始。クラターとは、clutter、 散乱したモノ、ガラクタのことで、これを片付けるお手伝いをするコンサルタント、ということのようです。

以後、断捨離の第一人者としてその名を知られ、多くの著書も出版していますが、この断捨離を実践する人のことを「ダンシャリアン」と呼ぶそうです。やましたさんがセミナーを開始したのが2001年なので、その道10年以上のプロフェッショナルダンシャリアンということになります。

やましたさん自身、若いころは片付けが苦手で、ずっとモノが減らない状態になっていたんだとか。ヨガの行法を習ってから、「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を知りました。

これを応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術として確立したのが「断捨離」です。

やましたさんによれば、

断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる

ということで、これは単なる「片づけ」や「整理整頓」とは一線を引くといいます。日本では伝統的に「もったいない」という観念・考え方があり、これはこれでひとつの考え方・価値観ですが、この考え方が行きすぎると、物を捨てることができなくなります。

そして、すでに使わなくなったモノ、将来も使うはずがないモノなどが、家・部屋の中に次第に増えてゆきます。

やがては自分が快適に居るための空間までが圧迫され、狭くなり、また人は膨大なモノを扱うのに日々 膨大な時間や気力を奪われるようになってしまい、知らず知らずのうちに大きな重荷となっていて、心身の健康を害するほどになってしまいます。

断捨離は、こうした「もったいない」という固定観念や思い込みにとりつかれて凝り固まってしまった心を、ヨガの行法を応用して解きほぐし、知らずに自分自身で作り出してしまっている重荷からの開放を図り、快適な生活・人生をとりもどすための方法だといいます。

やましたさんのこの著書の後、様々な著者によって、断捨離の考え方を扱った本が出版されるようになり、さらに自分と物との関係だけでなく、仕事のすすめかたや人間関係にも断捨離を実践することをすすめる書物などもなども出版されるようになりました。

ちなみに「断捨離」という言葉は商標登録されているそうなので、この言葉を冠した商品やサービスを出すのはご法度です。が、2010年の流行語にも選ばれたほどであり、普通に現代用語として使われています。いまや断捨離と聞いて何のことだかわからない、という人はほとんどいないのではないでしょうか。

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私もこの教えに従い、断捨離を実行したいと常々思ってはいるのですが、なかなか思うことを実行に移すというのは難しいものです。しかしまあ、かねてより気になっていた家内整理を年初め早々から終わらせることができた、というのは気分的には大きく、これから本格化させる予定の仕事の上でも大きな効果を与えるような気がしています。

ところで、このやましたさんも学んだという、ヨーガというヤツですが、改めてその起源を調べてみました。すると、元々は、古代インド発祥の修行法であり、英音表記の“Yoga”は、「馬にくびきをかける」という意味の動詞のインド語「yuj」から派生した名詞だそうです。

つまり語源的に見ると、馬を御するように心身を制御するということを示唆しているようです。「ヨガ」と呼ばれることも多いようですが、サンスクリット語では「o」は長母音として発音するそうで、「ヨーガ」のほうが正しいようです。

明確な起源は定かではないようですが、紀元前2500~1800年のインダス文明に起源をもつのではないかということが言われており、同文明の都市遺跡のモヘンジョ・ダロからは、坐法を組み瞑想する神像や、様々なポーズをとる陶器製の小さな像などが見つかっているそうです。

ヨーガに関する最も古い記述は、紀元前800~500年の「タイッティリーヤ・ウパニシャッド」という本だそうで、この本は、「真我」と「宇宙」の合体という難しい哲学について書いてある本のようです。

真我というのは、原語では「アートマン」といい、人間の意識の最も深い内側にある「個」の原理のことです。一方、宇宙を支配する原理のことを「梵(ブラフマン)といい、個人を支配する原理である「我(アートマン)」とが同一であることを悟ることを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」といいます。

この悟りを得ることは、永遠の至福に到達することだとされており、古代インドにおける究極の悟りとされています。私のような凡人にはよくわかりにくい理屈ですが、自分の心と宇宙を合体させれば幸せになれる、という解釈なのでしょう。

紀元前350年~300年頃に成立したとされる「カタ・ウパニシャッド」という書物には、これらについてのより詳しい説明が書いてあるそうで、かつこれがヨーガの最古の説明だとされているものです。

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その後、2~4世紀ごろまでには、「ヨーガ学」なるものが成立し、その理論や実践方法が「パタンジャリ」という学者によってさらに「ヨーガ・スートラ」という本にまとめられました。

この本は、「解脱」への実践方法として体系づけられたもので、解脱とは、煩悩による繋縛から解き放たれて、全ての執着を離れることで、迷いの苦悩の世界から悟りの涅槃の世界へと脱出することを指します。

そして、どうやらこの辺の理屈が、断捨離につながっていくようです。

このパタンジャリという人は、古代インドの文法学者で、その著書である「ヨーガ・スートラ」は、心身の調和と健康の増進を目的としたヨーガの哲学的根拠であり、世界的にもポピュラーな古典とされているようです。

内容としては主に観想法(瞑想)によるヨーガであり、これは「静的なヨーガ」であり、「ラージャ・ヨーガ」(王様のヨーガ)」と名付けられています。

8つの段階からなっており、これは、ヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)、アーサナ(座法)、プラーナーヤーマ(調気法、呼吸法を伴ったプラーナ調御)、プラティヤーハーラ(制感、感覚制御)、ダーラナー(精神集中)、ディヤーナ(瞑想、静慮)、サマーディ(三昧)です。

なんだかどんどん難しくなっていきますが、「ヨーガ・スートラ」では、その要諦として、「ヨーガとは心素の働きを止滅することである」と断じています。

「純粋観照者たる真我は、自己本来の姿にとどまることになる」とも書かれているといいますが、余計にわからなくなります。私的な解釈としてはあれこれと色々考えすぎず、心を落ち着けて「考える」ということから自己を解き放てば物事が見えてくる、ということを言っているのではないかと思います。

その後、12~13世紀には、この静的なヨーガに対して、動的なヨーガが出現し、これは「ハタ・ヨーガ」と呼ばれるようになりました。「力のヨーガ」という意味だそうで、現在世界中に普及している、体を動かすヨーガはこのハタ・ヨーガを基礎としているようです。

内容としては坐法(アーサナ)や調気法(プラーナーヤーマ)を重視しており、テレビの「ヨーガ講座」などで取り上げられているのは主にこれらです。

インドではこれらのヨーガに対して、科学的な研究を行っており、1920年代には、インドマハーラーシュトラ州ロナワラ市に、「カイヴァルヤダーマ・ヨーガ研究所」という研究所が開設されました。

インド政府はその後、8校の“ヨーガと自然療法医科大学”をはじめ30校を超える大学にヨーガ学科を設置してきており、その内の1つであるスワミ・ヴィヴェーカナンダ研究財団の教育部門には大学院大学もあり、ここで修士号・博士号をも取得できるそうです。

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このヨーガを日本に伝えたのは、大同元年(806年)に唐への留学から帰国したのち真言宗を広めた「空海(のちの弘法大師)」です。日本では瑜伽(ゆが)として紹介しました。

東京の世田谷区に東急田園都市線の用賀駅を中心とした「用賀」という場所がありますが、これはこの地にある「眞福寺」という真言宗のお寺の山号が「瑜伽」であり、これが「用賀」に転じたのだそうです。

このように瑜伽は、その後も日本の仏教界に定着し、空海が開いた真言宗だけでなく、天台宗などにもその作法が伝わり、これらは「護摩」などとして現在にも伝わっています。

護摩というのは、炉に細長く切った薪木を入れて燃やし、炉中に種々の供物を投げ入れるというものです。火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうというものであり、近年では、真言宗や天台宗の流派には属さない寺社でも「お火焚き」「火祭り」などの別称を用いて実施されているものです。

このほか、「阿字観」とういものもあります。これは「阿」という梵字(ぼんじ)を軸装したものを目の前に掲げて、観想(瞑想)するというもので、「阿」という字を観するので「阿字観」と呼ぶわけです。この作法を修すると、一切の煩悩を除くことになるといい、「阿」とうい文字は、万物の不生不滅の原理の意味だとされているものです。

護摩ほどポピュラーではありませんが、真言宗や天台宗のお寺では今でも阿字観に参加しませんか、と座禅と同じような感覚での修養を勧めているところもあります。この禅宗に伝わっている「座禅」もまた、ヨーガ・スートラ記述されているもので、語源は「ディヤーナ」といいます。

このように、現在我々はインド発祥とは意識していませんが、巷で流行している健康法の中には、昭和に入ってから元々はヨーガだったものが、名を変えて広く普及するようになったものも多いようです。ひところ世間を大いに騒がせたオウム真理教もまた、伝統的ヨーガを導入した新興宗教団体だったことは記憶に新しいところです。

しかし、一連の事件によって多くの罪を犯したため、そのあおりを受けてヨーガ自体も一時下火になった時代もありました。ところが、2004年頃から健康ヨーガは再びブームとなり、ダイエット方法の1つとして上述のハタ・ヨーガがテレビで紹介されたり、CMで使用されることが増えてきました。

フィットネスクラブなどでは、エアロビクスと同じようなスタジオプログラムの1つとして行なっているところもあります。ただ、この流行は日本で自発的に起こったものではなく、アメリカ、特にニューヨークで流行ったり、ハリウッドの有名人が実践しているということで日本人もこれを真似するようになったものです。

現在でもハタ・ヨーガはアメリカで大人気であり、あちらでは、ヨーガを習う人の数は1,650万人を超えているといいます。無論、日本での人気も続いているようで、芸能人の中にはこれを実践してダイエットに成功した、という人もいて、このためさらにブームに拍車をかけているようです。

“ハタ”はサンスクリット語で「力」(ちから)、「強さ」といった意味の言葉です。教義の上では、「太陽」を意味する“ハ”と、「月」を意味する“タ”という語を合わせた言葉であると説明され、したがってハタ・ヨーガとは陰(月)と陽(太陽)の対となるものを統合するヨーガ流派です。

元々は悟りに至るための補助的技法として取り入れられたものです。従って「霊性」を磨くために修行に取り入れるならば、非常に有効ですが、生半可の理解でこれを習得しても効果は得られません。肉体的操作ばかりに重きがおかれるばかりで精神の修養にはまったく効果がないようであり、元々のハタ・ヨーガの可能性を極端に狭める結果になります。

2015-8519

新年を始めるのにあたって、このハタ・ヨーガを始めるのも良いかもしれません。しかし、私的には、同じヨーガ発祥の健康法としては座禅のほうに興味があります。

その昔、実践していたこともあり、その時は技術士の試験を受けるための精神修養を行うつもりで始めたのですが、直後に試験にも受かり、大いに効果があったように感じています。

その後子育てやら仕事にも追われ、膝を組む機会も減ってしまっていますが、今年このような形で家内を整理でき、落ち着いたスペースができたこともあり、再び座禅を組んでみようか、という気になってきました。

麓の温泉街にある修禅寺はその名の通り禅寺であり、週に一回程度一般向けの座禅会も開催しているようです。こちらに参加してみるのもいいかもしれません。

しかし無論のこと、座禅をするには何も必要なく、どこでもいつでもできます。自宅でもできるわけであり、その際は、富士山の方向を向いて、静かに時を過ごす、というのもいいかもしれません。

みなさんもひとつどうでしょう。身の回りで断捨離を実践し、清涼で落ち着いたスペースを作ってそこで座禅を組んでみる、というのはなかなかよさげです。

身辺の整理のみならず、心の中もリフレッシュして新しい一年にチャレンジしてみる、というのは今年一年の初めにたてる抱負としてもなかなか良いアイデアだと思いますが、いかがでしょうか。

2015-8448下田・爪木崎にて