蜘蛛の糸

気がつくと、そろそろ秋の気配を感じる今日このごろです。

アキアカネが飛び交ったり、栗のイガイガが落ちていたり、稲穂がたわわに実ったりしているのをみると、ああ今年の夏も終わりだな、と感じます。

気が早いな、といわれるかもしれません。しかし夏が嫌いな私としては、気分だけでも早く秋が来てほしいわけです。

一般に初秋とは、立秋から白露の前日までの期間をいい、白露とは9月8日ごろです。七十二候(気象の動きや動植物の変化を知らせる短文)では「草露白」となっており、これは「そうろしろし」と読みます。草に降りた露が白く光る、と言う意味です。

露は、空気中に含まれている水蒸気が冷えて水滴となったものです。

放射冷却などの影響で地面やその近くのものが冷え一定の温度以下になると空気中に含まれている水蒸気が水滴となります。このときの温度を露点といいます。また植物の葉など地表付近の物体の表面に露が着くことを結露といいます。

特に夏の終わりから秋の早朝には急激に冷え込むことも多くなることから露が降りやすくなります。このころでもっとも気温が下がるのは夜明け前です。なので、我々が露を見つけるのもほとんどが朝です。このため、朝露といわれることが多いようですが、実際には、夜間に冷え込むこともあり、このとき下りる露は夜露といいます。

地上に降りた露のうち、草木の葉につくもの水滴になって良く目立ちます。多くの葉が水をはじく性質を持っており、特に葉の先端や、鋸歯のある葉ではその突出部に大粒の水滴が見られます。

また、水を弾きやすいクモの巣にも水滴が着いているのもよく見かけます。クモの巣には「粘球」と呼ばれるものがあり、これは餌となる昆虫などの小動物をとらえるためのものです。この粘球上に露がつくとだんだんと雪だるま式に大きくなることがあります。朝日を浴びて光るとなかなか美しいものです。




クモの巣は、古くはまた「くもの網(くものい)」と呼んでいたようです。中心から放射状に張られた糸を縦糸、縦糸に対して直角かつ同心円状に張られた糸を横糸といいます。

クモの巣をよくみると、この横糸は実際には同心円ではなく、螺旋状に張られていることがわかります。また網の中心付近には横糸がなく、縦糸が集まったところには縦横に糸のからんだ部分があり、これを「こしき」といいます。クモの巣の主は通常ここを居場所にしています。

網の中で粘り気があるのは横糸だけです。そこに数珠のような玉のようなものが並んでいるのが粘球です。また横糸は螺旋状に規則ただしく張られているように見えますが、実際は網の下側の方が密になっています。網の下側の一部は螺旋ではなく、往復で張られているためです。これは重力で獲物が下に落ちなくするための工夫でしょう。

さらにクモの巣をよく観察すると、網の一番外側には縦糸を張るための枠があるのがわかります。これはその名の通り枠糸と呼ばれています。網を張るには、まずこの枠糸を張らなければいけません。

通常、クモは腹にある「出糸突起」とよばれる部分から糸を出します。この出糸突起の先端近くには、多数の小さな突起があって、それぞれの先端から糸が出る仕組みです。この突起を「出糸管」といいますが、クモによって色々な種類があり、それぞれからでる糸にも差があります。クモは用途に応じてこれを使い分けています。

クモの巣を作るにあたっては、まず出糸突起から糸を出し、これを風に乗せて飛ばします。そして木の枝などの向こう側に引っ掛かると、その糸の上を往復して、最初の糸を強化していきます。

最初に飛ばす糸の距離はクモの種類や大きさによって様々ですが、中には川などを越えて網を張ることができるものもいます。 次に、巣をつくりたいところにぶら下がって懸垂降下し、別の枝や葉などに到達するとその一方をそこに結び付けます。できた三角形をベースにして、円形状の枠糸を作っていきます。

そして枠糸の内外を往復して放射状の縦糸を張ります。縦糸を張り終えると、中心から外側に向けて、螺旋状に粗く糸を張っていきます。これを足場糸と呼びます。足場糸が引き終われば、仕上げの横糸張りです。この横糸を張るのは外側からです。足場糸が横糸を張る邪魔になると、その足場糸は切ります。

最終的にはすべての足場糸は切り捨てられ、細かく横糸が張られて完成します。通常のクモの巣は完成まで1時間とかかりません。

こうしてできたクモの巣の糸は、動物が紡ぐものの中ではかなり頑丈なものです。このためこの糸を工業的に利用する試みもありますが、実用になったものは少ないようです。クモを養殖するためには新鮮な生餌が必要なことと、クモは共食いを起こしやすいためです。

アメリカのマンハッタンにある自然史博物館には、世界最大のクモの糸で作った絨毯があるそうで、これは約3.4メートル×1.2メートルの大きさです。コガネグモ科のクモの糸を使ったもので、その製作には野生のコガネグモ科のクモの捕獲に70人、糸の織布に12人の人手を必要とし、4年間の年月を要したそうです。

このようにクモの糸を単体で使った工芸品を作ろうとすると手間がかかりやすいため、最近では生産のしやすい蚕にクモの遺伝子を組み合わせた品種や微生物を使用し、人工的に蜘蛛の糸を出そうとする試みが行われています。

その結果できた糸の強度は同じ太さの鋼鉄の5倍、伸縮率はナイロンの2倍もあるといい、鉛筆程度の太さの糸で作られた巣を用いれば、理論上は飛行機を受け止めることができるそうです。しかし、コストが高い上に製造上、有害性の高い石油溶媒が必要になるなどの障壁があり、実用化は難しいといわれてきました。

ところが、山形県に本拠地を置くバイオベンチャー企業、Spiber(スパイバー)が、2013年に世界初となる人工クモ糸の量産技術の開発に成功しました。

スパイバーはこれをベースに現在、構造タンパク質素材、Brewed Protein(ブリュード・プロテイン)を開発しており、この素材を用いれば、ポリエステルやナイロンのような石油由来の素材に代わって、現在の合成繊維と同等かそれ以上の性能を持つ材料を製造できる可能性があります。

人工タンパク質は、地球上に多く存在するタンパク質を原料にしていることもあり、脱石油素材の大本命の技術の一つとも言われています。その技術は世界中から注目されて資本を集め、同社の時価総額は未上場ながらも1000億円を超えているといいます。将来的には日本発祥の人工クモ糸が世界中の工業市場を席捲するもしれません。

こうした人工繊維がクモの糸に発想を得ることで開発されたように、蜘蛛そのものも身近な生物としてその昔から何かと我々の生活に関わってきました。

古来、蜘蛛を見ることによって縁起をかつぐ、といったことが行われ、よく言われるのが「朝蜘蛛」「夜蜘蛛」というものです。「朝にクモを見ると縁起が良く、夜にクモを見ると縁起が悪い」という言い伝えを聞いたことがある人も多いでしょう。

ただ、九州地方の一部ではクモを「コブ」と呼び、それゆえに夜のクモは「夜コブ」と呼ばれ、「よろこぶ」を連想させるために縁起が良いものとされています。




生物としての蜘蛛の形は一種独特であり、また他の昆虫などを捕食することもあって嫌わることが多いものですが、実際には臆病で草食的な性格で、畑の害虫なども食べてくれるため益虫とみられる向きもあります。

しかし、やはりどちらかといえば嫌われ者のキャラクターを演じることの方が多く、古代日本でも中央政府に歯向かう土着民の別称として、「土蜘蛛」という表現が使われていました。

大和朝廷に抵抗した異族として「日本書紀」などにも土蜘蛛/土雲といった名前で登場します。上古の日本においてヤマト王権、引いては歴代の天皇家に恭順しなかった土豪たちを示す名称であって、天皇に敵対する土着の豪傑・豪族・賊魁などをこう呼んでいました。

ただ、蜘蛛に由来しているかといえばそうではないらしく、「つちぐも」という名称は「土隠(つちごもり)」に由来していると考えられています。これは横穴のような住居で暮らす者がいたためのようです。彼らの一部にすぎませんが、その暮らす様子が「穴に籠る」ように見えたことがからこう呼ばれるようになったようです。

畿内だけでなく、全国にこうした土蜘蛛はいたらしく、すなわち単一の勢力の名ではありません。似たような経緯で卑しい者として扱われるようになった敵対勢力はほかにもあり、例えば国栖(くず)八束脛(やつかはぎ)大蜘蛛(おおぐも)などがあります。

くずは、ゴミくずをイメージしたものです。また「つか」は長さを示す単位であり、八束脛はすねが長いという意味で、つまりその身体的特徴を蔑視の対象としたものです。

江戸時代の穢多非人(えたひにん)のように差別の対象として見られていたのではないかと思われます。日本書紀や各国の風土記などでは「狼の性、梟の情」を持ち強暴であって、山野に石窟(いわむろ)・土窟・堡塁を築いて住み、朝命に従わず誅滅されるべき存在である、などと表現されています。まるで妖怪扱いです。

「神武紀」では土蜘蛛を「身短くして手足長し、侏儒(ひきひと)と相にたり」と形容しており、ひきひととは、こびとのことです。また「越後国風土記」でも「脛の長さは八掬、力多く太だ強し」と表現するなど、やはり異形の生き物として表現されています。



古くは一土豪にすぎなかったものが、妖怪扱いを受けた結果、伝説やおとぎ話に出てくる悪役のようになる土蜘蛛も多く、各国の伝説を書き出させた風土記と呼ばれるようなものの中にも「古老曰く」「昔」などの書き出しでこうした土蜘蛛伝説が書かれたものがあります。陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前などの風土記がそれらです。

そのひとつ、「肥前国風土記」には、景行天皇が志式島(ししきしま 現在の平戸南部地域)に行幸した際の話が掲載されています。海の中に島があり、そこから煙が昇っているのを見て探らせてみると、小近島の方には大耳、大近島の方には垂耳(たれみみ)を持つ土蜘蛛が棲んでいるのがわかった、とあります。

そこで両者を捕らえて殺そうとしたとき、大耳達は地面に額を下げて平伏し、「これからは天皇へ御贄を造り奉ります」と海産物を差し出して許しを請うたと書かれていますが、この話などは桃太郎伝説の鬼の表現とそっくりです。

女型の妖怪と語られる話もあり、「豊後国風土記」に出てくる「土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)」というのは、山に居を構えて大和朝廷に抵抗したものの全滅させられた女性の土蜘蛛です。八十(やそ)は大勢の意であって、これはこの地方で女性首長を持つ勢力が大和朝廷に反抗し、壮絶な最期を遂げた話をデフォルメしたものと解釈されています。

こうした土蜘蛛の話は、時代を経るに従い、物語や戯曲などに取り上げられ日本を「魔界」にする輩たちとして定着していきました。

土蜘蛛以外では、「山蜘蛛」という表現も見られ、「平家物語」では源氏の家系に伝来する「蜘蛛切り」という刀にまつわる物語として登場してきます。この話は能の五番目物の「土蜘蛛」などにも取り入れられ、妖怪としての土蜘蛛がひろく知られるようになりました。

この話をもう少し詳しく書くと、鬼退治で有名な武門の名将、源頼光が瘧(マラリア)を患って床についていたところ、身長7尺(約2.1m)の怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとしました。頼光が病床にもかかわらず名刀・膝丸で斬りつけると、僧は逃げ去ったといい、翌日、頼光は四天王を率いて僧の血痕を追いました。

すると北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには全長4尺(約1.2m)の巨大な山蜘蛛がいました。頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して川原に晒したところ、頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来「蜘蛛切り」と呼ばれるようになったということです。

源頼光の土蜘蛛退治には別バージョンもあります。14世紀頃に製作された絵巻物「土蜘蛛草紙」に出てくる話で、源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇しました。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れては頼光らを苦しめました。

夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきましたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、その跡には白い血痕が残っていました。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大な山蜘蛛がおり、この蜘蛛がすべての怪異の正体だと判明しました。

頼光が激しい戦いの末に蜘蛛の首を刎ねると、その腹からは1990個もの死人の首が出てきました。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに約20個の小さな髑髏があったといいます。

このように蜘蛛のイメージを悪くしたのは、土蜘蛛の存在だったといえます。しかしもともと元々悪者でもなんでもなく、単に地方の一豪族にすぎなかったものです。それがそうなったのは、天皇をトップにいただく大和朝廷をはじめとする歴代の政権が、悪者を作ることで自分たちを際立たせる目的があったためでしょう。

この土蜘蛛以外で、よく擬人化されて目の敵にされる蜘蛛に、絡新婦(ジョロウグモ)があります。女郎蜘蛛とも書き、その外観から、細身で華やかな花魁を連想して命名されたものでしょう。ド派手な色彩をしており、見ようによっては不気味に見えなくもありません。

夏から秋にかけて、大きな網を張るクモで、コガネグモと共に、日本では最もポピュラーな蜘蛛といえます。混同されることも多いようですが、系統的には別ものです。女郎蜘蛛はコガネグモよりはるかに大きくて複雑な網を張り、網の糸は黄色を帯びてよく目立ちます。

和名は女郎に由来するとよく言われますが、一方で上臈(じょうろう)が語源ではないか、とも言われています。

そのため、有職故実に長けた京の公家出身の女中がこの役職に就くことが多かったようです。法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束など古来の先例に基づいた知識のことを有職故実といいます。

彼女たちのほとんどは御台所や御簾中(貴人の正妻のこと)の輿入れに伴って奥入りしたと考えられており、生家の名前を大奥でもらってこれを代々受け継いでいきました。姉小路・飛鳥井・万里小路・常磐井などがそれらの例です。

上臈は奥女中の中では最上位に位置する職ですが、単に故事を良く知る知恵袋的な扱いを受けるばかりで、大奥の中で実権を持つことはあまりなかったようです。実際に大奥の最高権力者とみなされ、大事小事を差配していたのは単に「御年寄」と呼ばれる職で、本来は上臈よりも下位の職でした。

上臈とは、御台所付上臈御年寄の略で、これは江戸時代の大奥女中の役職名です。将軍や御台所への謁見が許される「御目見以上」の女中であり、大奥における最高位の官職です。儀礼や年中行事を司る立場にある老女の役職ですが、公式儀礼においては将軍付老女が主に差配したため、上臈御年寄は、主に御台所、つまり将軍夫人の相談役を司りました。

ただ、綱吉時代の右衛門佐局、家宣と家継時代の豊原、家治と家斉に仕えた高岳、家慶時代の姉小路、家定時代の歌橋など、上臈でありながら幕政や幕府人事をも左右するほどの権力を握った者もおり、単純に権力を持たなかったとは言い切れないようです。

上臈は多くの人を束ねる職であり、知識人だったので、人生の何事につけても「目利き」が多く、大奥の女性たちからは頼りにされていたようです。

しかしこの上臈に由来する蜘蛛、ジョロウグモのほうは目はあまりよくありません。もっともクモ全体としてこれはいえることで、このため、巣にかかった昆虫などの獲物は、主に糸を伝わる振動で察知します。ただ、大きな獲物は巣に近づいて来る段階である程度視認でき、捕獲のタイミングを整えて捕まえているようです。

巣のどこにかかったのか、視覚では判別しづらいため、巣の糸を時々足で振動させて、そのエコー振動により、獲物がどこに引っかかっているのか調べて近づき、捕獲しています。捕獲された獲物は、毒などで動けないよう処置をされたあと、糸で巻かれて巣の中央に持っていかれて吊り下げられ、数日間かけて食べられます。

女郎蜘蛛の場合、獲物は多岐にわたり、大型のセミやスズメバチなども捕まえて食べます。グロテスクでありますが頭から食べていることが多いようで、これはここが一番栄養があるためです。成体になれば、人間が畜肉や魚肉の小片を与えてもこれも食べるようです。

女郎蜘蛛は JSTX-3 という毒を持っています。興奮性神経の伝達物質であるグルタミン酸を阻害する性質がありますが、一匹がもつ毒の量は微量であって、仮に人が噛まれたとしても大きく腫れたりするようなことはないようです。

女郎蜘蛛の別名の絡新婦は、妖怪としての名前で日本各地に伝説があります。美しい女の姿に化けることができるとされていて、鳥山石燕の「画図百鬼夜行」では、火を吹く子蜘蛛たちを操る蜘蛛女の姿で描かれています。「太平百物語」や「宿直草」などの江戸時代の物語本にも女に化ける女郎蜘蛛が出てきます。

最後に、そうした女郎蜘蛛にまつわる話をひとつ紹介しましょう。

その昔、小間物を風呂敷に包んで背負い、行商をして歩く男がいました。その風呂敷の中には、一匹の女郎蜘蛛がこっそりと忍び込み、一緒に旅をしていました。

ある日のこと、男はひと晩かけて峠を越えようとしましたが、途中で雨が降ってきてしまいました。そこで、慌てて山を下り、古いお堂に駆け込みました。そして、タバコをふかして一息ついていたところ、ふと薄暗いお堂の中に先客がいることに気が付きました。

女は、申し訳ありません。あまりにも寛いでいらっしゃったので声をかけそびれました、といい、自分は旅の芸人だと告げました。

見ると、とてもきれいな女性です。2人はすぐに仲良くなり、一緒に酒をくみかわし始めました。しかし、男は女をひと目見たときから、人間ではないと見抜いていました。商売柄各地を渡り歩いており、いろんな物の怪に出会ってきたからです。

「さっきから考えてたんだが、以前姉さんにどっかで出会ったかねぇ。」

と、かまをかけると、女は今は昔と姿が変わっている、などと言い訳をはじめました。男は、ははーんやっぱり、物の怪かと気が付きましたが、それまでにかなり酔っており、女が弾き始めた三味線の音があまりにも心地良いこともあってついつい眠ってしまいました。

女は眠っている男をじっと見つめていましたが、やがて、ぽつり、ぽつりと独り言を言い始めました。「私達、化性の者には、悲しい決まりがあるんです。正体を人知られちゃ、取り殺すか、自分が死ぬしかない… せっかく優しくしてくれた人の命を取るのは悲しいけれど、どうぞ、かんべんしてくださいな…」

と、女は言い終わると両手から糸を出して男の首に巻き付け、殺そうとしました。しかし、やがて手をとめためいきをつき、がっくりと、うなだれながら言いました。「私はあなたが好きになってしまいました。一緒に旅が出来て楽しい思いをさせてもらったけど、これでお別れです。どうかいつまでも、お達者でいてください…」

翌朝のこと。男が目を覚ますと、お堂の床に一匹の女郎蜘蛛が死んでいるのを見つけました。そしてそのときふいに思い出したのです。半年ほども前のこと、大蜘蛛にからまれて食われそうになっている女郎蜘蛛を助けやったことを…

男は、そっと女郎蜘蛛を手のひらに乗せました。そして「かんべんしてやっておくんな」

と言いながら両手を合わせて、女郎蜘蛛を弔いました。そして、次の里を目指して歩き始めました。

涼しいはなし


ここのところ天候不順ですが、この嵐が過ぎれば、また暑い夏が戻ってきそうな気配です。

私が大嫌いな季節であることは、このブログでも再三書いてきたところです。

が、いったいなぜ夏が嫌いなのだろう、とふと思ったので改めて理由を考えてみることにしました。普段なにげに思っていることをつきつめてみると意外なことがわかったりします。

すると、まずは汗をかくのがいやだ、ということがわかりました。じっとりとかいた汗は衣類を汚しますし、気持ちの悪いものです。冬ならば同じものを2~3日も着ることができますが、夏はそうはいきません。毎日着替えなくては不衛生です。

暑いので自分で体温調節ができないのも気になります。人は、体感温度が体温以上になると行動が緩慢になり、判断力が鈍り、最終的には脱水症状を起こして死に至ります。

湿気が多いのも不快です。まとわりつくような空気に身を晒していると体の中まで湿ってきそうです。日本の夏は湿度も高く、不快指数が80%も超えると体調も崩しがちです

総合的に考えてみると、ようするに環境を自分でコントロールしにくいということがいえそうです。夏以外の季節ならば重ね着をしたりして自分の体調を整えることができます。しかし夏はたとえ裸でいてもそれ以上は涼しくなりません。

扇風機やクーラーがあるじゃないかと言われるかもしれませんが、こうした電気器具は無理に体を冷やしてしまいます。医学的にも体を温めるのが健康にはいいようです。暖房病と言うのは聞いたことがありませんが、冷房病というものが確かに存在します。

原始時代、人は火を持ったことで、暖を取り、寒さを避けられるようになりました。そのおかげで、寒い場所でも生きていけるようになるなど生活範囲も広くなりました。その一方で、暑さから逃れるには、日陰や風を利用するか、海や川で水浴びをしてしのぐしかありません。

鎌倉末期の随筆家、吉田兼好法師は、随筆「徒然草」の中で「家の作りやうは、夏をむねとすべし」と書いています。夏の暑さを基準に家づくりをせよ、というわけで、この有名歌人も夏の暑さが一番厳しい気候条件と考えていたようです。

近代になって冷房が誕生するまでは、太陽から発せられる輻射熱や放射熱は人の活動を制限し、時には命さえ奪いました。このため人は、緯度や高度が異なる涼しい避暑地に引っ越して暑さを避けるようになりました。また、夏まで雪を貯蔵し、涼を取るためにこれを用いたりもしました。




こうした保存施設の歴史がどれくらい古いか正確な記録は残されていませんが、初期の頃には、洞窟や鍾乳洞に貯蔵したと考えられます。またさらに時代が下ってからは、地面に掘った穴に氷を入れ、その上に茅葺などの小屋を建てて覆って、保冷していたようです。

いわゆる「氷室」の中は、地下水の気化熱によって外気より冷涼となります。ここに氷を保存することで、涼しさ・冷たさを夏の間継続して利用することができます。

ただ、夏場の氷は大変貴重品でした。長らく朝廷や将軍家など一部の権力者だけのもので、庶民には手の届かないものでした。

日本書紀」には、氷連(むらじ)という姓が登場します。これは朝廷のために氷室を管理していた一族です。朝廷の要職のひとつで、皇族の一派である鴨縣主家(かものあがたぬし)の家系図にもやはり「氷連」「氷室」の記述が見られます。

また7世紀に施かれた律令制において、製氷職は宮内省の主水司が世襲していました。主水(もひとり)とは飲み水のことで、主水司は水・氷の調達を司る職です。こうした製氷と氷室を管理する職は、その後長きに渡って存在しましたが、明治時代になって消滅しました。

ただ、江戸時代には氷を献納する習慣がまだ残っていました。加賀藩では、毎年旧暦の6月1日(現在の7月の10日頃)に、将軍家へ自藩の氷室の氷を献上する慣わしがありました。

また、江戸では土蔵造りの氷室が作られ、これにより、一部の庶民が氷の提供を受けることができるようになりました。江戸には玉川上水から飲料水が供給されていましたが、夏場にはぬるくなってしまいます。そこで、提供された氷で冷やした水を売る「水屋」という商売が成立し、町中で棒売りがこの冷水を売り歩くようになりました。

ただ、川から直接汲んだ水に氷を入れて冷やしたものであったため、そのまま飲んで腹を壊す人が続出しました。とくに高齢者の場合は重症になることもあったことから、年寄りが無理をするとロクなことがないという意味の「年寄りの冷や水」という言葉が生まれました。

一方、それぞれの庶民が自由に氷を売り買いできるようになるのは明治になってからです。日本で最初に氷店が開かれたのは明治2年(1869年)のことで、横浜・馬車道通り常磐町五丁目において、氷水店が開業したのが嚆矢とされます。

これを営んでいたのは元旗本の町田房造と言う人で、「あいすくりん」の名でアイスクリームを売り出しましたが、外国人にしか売れませんでした。しかし徐々に評判を呼ぶようになり、西洋料理店や西洋洋菓子店のメニューに加わってのちは、日本中に広がっていきました。

ただ、氷のほうはあまり売れませんでした。このころ販売されていたのは、「ボストン氷」という輸入天然氷で高価だったためです。米ボストン港から世界中に輸出され、日本では横浜港に陸揚げされていましたが、運搬中に溶けるので供給量も多くありませんでした。

これを輸出していたのは、アメリカ東部、ニューイングランドの実業家でフレデリック・テューダーという人です。1806年に初めて商業的な規模で氷の輸出を始めた人物として知られ、その後世界的な産業として拡大していく「氷貿易」の生みの親です。

チューダーははじめ、マサチューセッツ州にあるウェナム湖という湖でできる天然氷を、カリブ海にあるフランス領マルティニークに輸出しました。この島には裕福なヨーロッパの上流階級が居住しており、この商売は大当たりしました。

その後、自前の貯氷庫も建設するなど業務を拡大し、販路もキューバやアメリカ南部へと広げました。競合者も現れましたが、市場そのものが大きかったことから、1830年代から1840年代にかけて氷貿易はさらに拡大しました。

彼らの積荷はイギリス、インド、南アメリカ、中国、日本、オーストラリアにまで達しました。チューダーは特にインドとの貿易を通じて一財産を築き、「ウェナム・アイス」が有名なブランドになりました。





明治4年、中川嘉兵衛という実業家が、この商売を日本産の氷でてきないかと考えました。

嘉兵衛は、1817年(文化14年)に三河国額田郡(現・岡崎市)で生まれました。新しもの好きだったようで、横浜が開港したと聞くと早速ここに店を構え、輸入氷や洋菓子の販売を始めます。 1868年(明治元年)には、東京での牛鍋屋の第一号として「中川屋」も開店させました。

そして天然の製氷事業にも着手しました。まず、富士山の山麓に500坪の採氷池を造り天然氷を得ることに成功しましたが、商売にはなりませんでした。最寄りの江尻港(現清水港)までは8里(約31km)あり、馬で運ぶ間に大半の氷が溶けてしまったからです。

さらに横浜まで船で運ぶ間にも氷は溶けました。船賃は一般貨物の2倍もしたといい、そこまでして運んでも残った氷はわずかであり、商売としてはとても成立しませんでした。

挫折した嘉兵衛はその後2年間休業し、各地で氷の産地を探しまわりました。諏訪湖、日光、青森、はたまた釜山と各地を巡り、これらの場所で毎年氷を採り、横浜へと運搬してみました。しかし、あいかわらず歩留まりは低く、いずれも失敗に終わりました。

しかし、諦めることなく今度は函館に渡り、6度目の採氷に挑戦しました。場所は五稜郭です。1868年(慶応4)年の箱館戦争の激戦地になったここは、このころ放置され荒れ放題になっていました。

この五稜郭の濠へは、すぐ西側を北から南へと流れる亀田川から水が引かれ、飲料水として供給されていました。その水は大変清涼な水で、これを視察した嘉兵衛は有望と判断。開拓使より7年間の使用権で濠1万7000坪を借り受けました。

1870年(明治3年)の冬、早速結氷した濠から嘉兵衛は氷を切り出します。しかし、この年は温暖であったため、250トンの氷を横浜に輸送するのが精いっぱいでした。しかし、これに手応えを感じた彼は、翌年の冬には倍以上の670トンの切り出しに成功します。

そして今度は、英米などの船足の速い外国商船を利用し、横浜経由で東京に運搬しました。運び込んだのは、やはり開拓しから借りた永代橋の倉庫でした。ここを貯氷庫にし、京浜市場で販売したところ、ボストン氷に比べて安価な箱館氷は飛ぶように売れ始めました。

当初、5~600gあたり輸入氷10銭であったのに対し、函館氷は4銭であったといい、また、その品質の高さが評判を呼んだ結果でした。嘉兵衛は箱館氷を「堅硬透明、実に水晶状」と表現して売り出しましたが、実際にも質が高く衛生的な氷でした。当時の東京司薬場(衛生試験所)も、「善良にして、飲食に適する」とお墨付きを与えました。

明治10年第一回内国勧業博覧会では函館氷は一等を受賞し、その賞牌に龍の紋章が附されていたことから、嘉兵衛はこの氷に“龍紋氷”という商標を付け、さらに好評を博しました。

その後、五稜郭の濠の貸与期限が終わったことから、嘉兵衛はすぐ北にある神山(現・函館市神山)という村に新たに約900坪、4枚の製氷池を新設します。労働者は地元民を採用したことから、村人は雪が降ると「ゼンコ降ってきた」と喜んだといいます。

嘉兵衛の製氷事業によって、従来高価だった医療用の氷も安くなり、また庶民が安価に安全な氷を食することができるようになったことは、社会的にも高く評価され、新聞各紙も「龍紋氷室」の創立者である中川嘉兵衛を絶賛しました。

ただ、嘉兵衛の成功は社会問題も起こしました。日本の各地で天然氷の採取販売が盛んになり、当時貴重な保冷剤であった“おが屑”が品薄になって相場が高騰したのです。また、他社が作った不衛生な氷を食して健康を害する人が続出しました。

しかし、嘉兵衛の成功は、都市部に氷問屋の開業を促しました。その結果氷が安価になったことで、食料の冷却や、医療・工業用など広範囲の用途に氷が使われるようになりました。

その中にあって、箱館氷はその後宮内省のご用達品にもなり、函館の特産品にもなりました。しかし、その裏では新池の開削費、運賃、販売競争などで経営的には厳しかったといいます。また暖冬の年には生産量が低いなど、その業績は自然条件にも左右されました。

嘉兵衛は、明治30年(1897年)に亡くなりましたが、その前年に事業を支配人だった北原鉦太郎に譲り渡しました。事業そのものは1940年(昭和15年)頃まで継続されました。





天然氷の生産は、その後大正に入っても行われていました。医療や食用もさることながら、養蚕業での需要もあったためです。繭を一斉に孵化させないためには、倉庫に入れ氷で冷やして調整する必要があり、依然、関東や信州では天然氷の採氷場が開設されていました。

ただ、天然氷の時代は、明治20年代がピークで、明治30年代以降衰退に向かいます。これはこのころから冷凍機が導入され、機械製氷がさかんになったためです。

日本で初めて機械製氷が行われたのは1879年(明治12年)のことです。横浜・元町に、米国資本による機械製氷会社、ジャパン・アイス・カンパニーが生産を開始しました。

この会社は2年後、ストルネブリンクというオランダ人に経営権が移転し、横浜アイス・ワークスと社名を変更、その後さらに帝国冷蔵株式会社に買収されました。この会社の製氷工場は神奈川日冷株式会社山の手工場として、1999年(平成11年)まで稼働していました。

一方、日本人が設立した機械製氷会社は、1883年(明治16年)に東京・京橋新富町に建設された東京製氷会社です。同社の工場を皇太子(のちの大正天皇)が視察したことから有名になり、以後、機械製氷は天然氷を凌駕するようになっていきました。

その後、製氷会社が続々と設立され、天然氷と人造氷とが競合をするようになると、互いにネガティブキャンペーンを繰り広げ、熾烈な市場獲得競争に入っていきました。この中で、実業家、和合英太郎は、今日言うM&Aの先駆け的経営者として辣腕を振るいました。

和合は気候によって価格や供給が左右されやすい天然氷に代わり、機械製氷が時代の主流になると見抜き、1897(明治30)年、機械製氷株式会社の設立に発起人として参加しました。しかしその後、日本各地に設立された同業者が競合しては潰し合いをするのを見て、これではこの産業は大きくならないと考え、これら各社の合併に乗り出しました。

1907(明治40)年、まず東京製氷を吸収合併して日本製氷とし、翌年には大阪製氷、静岡製氷を合併吸収。この後も吸収合併を繰り返し、1916(明治5)年頃までには東海地方に散在する10社、更に和歌山、岡山、大分、熊本などの合計13社を相次ぎ傘下に収めました。

1917(大正6)年、日本製氷社長就任、全国の製氷のうち40%を占めるまでとなり、2年後には下関の東洋製氷も吸収し、日東製氷を設立。1925(大正14)年には日本冷凍協会(現・日本冷凍空調学会)を組織し推されて会長となり、その後も日本の製氷・冷凍業界の発展に貢献しました。

和合はさらに、中川嘉兵衛が創立した龍紋氷室と日東製氷を合併させて大日本製氷と改称。1933(昭和8)年に病気で辞任するまで社長を務めました。合併はその後も続き、老舗数社を吸収して日本水産株式会社と名を変え全国の製氷能力の半分を占めるに至ります。

日本水産は1939(昭和14)年に71歳で和合が亡くなってからも更に続きましたが、戦時下にあって、1942年(昭和17年)には、大洋漁業、日魯漁業、極洋捕鯨、全漁連の製氷冷凍部門に統合され、国策会社、帝国水産統制株式会社が誕生しました。

戦後は、GHQによって財閥解体、寡占企業の排除が進み、帝国水産統制株式会社も解体されてしまいました。ただ、その製氷・冷蔵部門が独立しました。名前を変えて成立したのが日本冷蔵株式会社であり、現在のニチレイです。

一方、械製造の氷に押されて他の天然氷業者はほとんど消えてしまいましたが、現在も製造しているところがあります。日本で天然氷を製造している蔵元は、関東周辺では栃木県に3か所、山梨県に2か所、埼玉県に1か所などです。

現在、日本で生産消費されている氷の種類には、下の4種類があります。

管理された池などで、自然凍結した氷を採取する天然氷
家庭用電気冷蔵庫でつくる氷
主として業務用自動製氷機でつくる氷
製氷工場で一定の条件のもとで生産される純氷(じゅんぴょう)

4番目の純氷ですが、「純氷」という名称を、いつ頃、誰が初めて使用したかは不明です。ただ、特定の氷の商品名ではなく、自動製氷機の氷や家庭の冷蔵庫で製氷した氷と区別するために、製氷業界で広く使用されている名称であって、多くの氷商品のパッケージにも使用されています。

1980年代から1990年代にかけて、飲食店で業務用の自動製氷機が普及したため、扱う業者は販売不振に陥っていました。しかし、2013年にコンビニエンスストアの挽きたてコーヒーが登場したことによって、再び需要が上昇していきます。

高品質でほとんど無味無臭の純氷は、近年のかき氷ブームで歓迎され、ふわふわ感が楽しめる氷として求められ、また純氷のオン・ザ・ロックでウイスキーを楽しむ人が増えています。

純氷の定義としてはまず、家庭で製造したものではなく、製氷業界・氷販売業界が製氷工場で造る氷であるという点です。また衛生的に管理された飲料水を原料とし、主として「アイス缶方式」により‐10℃前後で48時間以上かけて凍らせた飲食用途の氷のことを指します。

その普及のきっかけは、1965年(昭和40年)にホシザキ電機が、メーカーとして初めて自動製氷機を発売し、以後、飲食店へ販売されて普及したことです。危機感を抱いた純氷製造業界は、売り上げの低下を懸念し、差別化の目的で「純氷」を大きく前面に出してPRを始めました。

純氷は、時間をかけて結氷するため、氷の結晶が大きく成長し透明度が高いのが特徴です。これに対し、自動製氷機で作った氷は‐25℃で急速に結氷させ、氷を取り出す際には温かいガスをあてて溶解させるため、氷に無数のひびが入って濁って見えます

また家庭用電気冷蔵庫でつくった氷も、-20℃程度の低温で急速に結氷するために、空気や次亜塩素酸ナトリウムが除去されずに残り、中央部が白く濁ります。

氷の結晶の立体構造は正六角形になっています。これが溶けるとき、表面からだけでなく内部からも溶けていきますが、純氷はこの正六角形の結晶が大きく、結晶と結晶の結合面が少ないために溶けにくいという特徴があります。

自動製氷機や冷蔵庫でつくった氷は結晶が小さく、結晶の結合面も多いので溶けやすく、また空気や不純物を純氷に比べて多く含むために、そこからも溶けやすくなります。

このように、純氷は自動製氷機や冷蔵庫で造った氷に比べて多くの利点を持っており、これが舌の肥えた消費者に受け入れられるようになった理由です。その需要は急増しています。

この純氷を作る方法ですが、まずは徹底的に不純物を取り除くことから始まります。純氷の原料となる原水は、活性炭ろ過装置でカルキや臭気を吸着・除去し、フィルターに通して異物を排除した後、さらに逆浸透膜ろ過装置を通してろ過し、不純物を極限まで取り除きます。

こうして不純物を取り除いた原料水をアイス缶に注水します。アイス缶というのは、純氷を作るための専用の長方形の缶で多くはステンレスなどで作られています。濾過水を満たしたアイス缶は、-10℃に保ったブラインという塩化カルシウムのプールの中に漬けます。

これは、冷凍機の冷凍能力を、被冷凍物であるアイス缶の中の純氷に伝える役割をする熱媒体で、一種の不凍液です。そしてアイス缶の中には、圧縮空気をエアパイプで送り、攪拌することで水中に残留した空気などの不純物がさらに空中に放出されます。

こうして-10℃の温度でアイス缶を冷却します。すると、アイス缶の蓋を除く5面の壁面から純水な分子だけが中心に向かってゆっくりと凍っていきます。

しかし、中央部分には凍らない部分が残ります。このため、中央に凍らずに残っている水を吸い取り、新たに水を注入します。この工程を数回繰り返し、中心部まで凍らせます。こうして、残留物をほとんど含まない、濃密で固くしかも溶けにくい透明な氷が出来上がります。

この純氷の製氷にかける時間は、最低でも48時間以上で、製氷工場によっては72時間もかけて製氷させています。さらにブラインのプールからアイス缶を抜き出すときにひびが入るのを防ぐために、1~2時間程度常温でなじませます。

最後に、15℃程度のプールにアイス缶を沈めアイス缶の周囲を溶かし、プールから引き上げたアイス缶から氷を抜き取ります。完成した氷柱は、およそ135kgもある巨大な氷柱です。

こうしてできた純氷は、さらに小分けにして販売されます。扱っているのはいわゆる町の氷店ですが、一般消費者も製氷工場から直販で入手できる場合もあるようです。ただそんなことをしなくても、最近はスーパーやコンビニで簡単に純氷を入手できます。

飲み物の味を損なわないことから、純氷はその昔、高級なホテルやバーでバーテンダーが使う特別品であり、寿司屋などでも高級店だけがこれをネタの保管用に使っていました。

そうした高級氷を、今我々は簡単に入手できる、そんな時代になっています。

暑い夏には、こうしたこだわりの氷を使った、かき氷を食べるのが一番です。かき氷がおいしく感じられる温度は、摂氏30度以上の夏日の日だそうです。そんな日を選んでかき氷と食べれば、少しは涼しい気分にもなろうというものです。

考えてみれば、自分でコントロールできない環境もそうやって色々な工夫をして改善していけば良いのかもしれません。これを書いていて、なんとか今年の夏もなんとかやり過ごせそうな気がしてきました。

墓参りの候

気がつけば7月も終わりで、もうすぐお盆です。

で、いつからがお盆だっけ?という人も多いと思いますが、私も同じです。

そこで、調べてみると、実はお盆というのは8月に入ればもう既に始まっているとうことがわかりました。

1日を釜蓋朔日(かまぶたついたち)と言い、地獄の釜の蓋が開く日であり、一般的にこの日からがお盆とされているようです。これを境に墓参りなども始めますが、ご先祖様をお迎えるにあたってはまず、その通路を清掃します。

家に帰る故人が通りやすいように行うためで、これは例えば里へ通じる道の草刈りなどです。このほか、山や川などの掃除も行います。

地域によっては、この時期に「池や川、海などへ無暗に近づいたり、入ったりしてはならない」といわれます。これはこの時期、ここが霊たちが拠り所とする神聖な場所であり、また故郷への帰り道でもあるため、むやみにそうした場所に行けば、災いをなすと恐れられたためです。

こうして掃除を終えたころに7日の七夕(たなばた)を迎えます。七夕は「棚幡」とも書きます。これは本来、故人を迎える精霊棚と幡(ばん)を用意するためのものです。

精霊棚とは、台の上に真菰のござを敷いたものに、故人の位牌と、香炉・燭台・花立の三具足を飾り、お供え物を置いたものです。また幡(ばん)というのは装飾した幟旛のようなもので、これを立てることで福徳を得て長寿や極楽往生につながるとされています。

これら棚幡を用意する行為が7日の夕方から行われたため、いつしか七夕と書かれるようになったようです。また、地方によってはこれに笹を加えることなどから、七夕に笹を備え短冊を飾る風習ができたと考えられます。

棚幡の用意が終わったのち、13日の夕刻からは、迎え火(むかえび)を行います。門などの家の入口で、皮を剥いだ麻の茎(オガラ)を折って積み重ねて火をつけるのが古来からの風習です。しかし、近年ではこれが盆提灯に変わりました。

また松明(たいまつ)を用意して迎え火とするところもあります。人がやっと持ち上げられる程大きな松明を作って先祖の霊を迎えるところもあり、これらは御招霊(おしょうれい)と呼ばれます。迎え火を行ったら、次には精霊棚へいろいろなお供え物をします。地方によっては、墓に行って掃除などをするところもあり、これを「留守参り」といいます。

15日の盆の夜には、盆踊りが行われます。翌日、16日の晩に行われるところも多く、寺社の境内などに老若男女が集まって踊ります。これは地獄での受苦を免れた亡者たちが、喜んで踊る状態を模したといわれます。多くの地方ではこれをもって夏祭りのクライマックスとなります。

旧暦7月15日は十五夜と呼ばれ、16日は十六夜(いざよい)です。この日に月は望、すなわち満月になることが多く、晴れていれば、月明かりの元、一晩中でも踊ることができます。

全国的にも、この盆踊りを境にしてお盆の行事が終わります。この日に送り火(おくりび)をして、里に下りてきていたご先祖様の霊がお帰りになるのを見送りますが、前日の15日に送り火を行うところも多いようです。川へ送る風習のところもあり、これが灯籠流しです。

墓参りはこの送り火の日までにすればOKです。ただ、故人を送る期間は24日までとされているようです。なぜ24日なのかといえば地蔵菩薩の縁日が毎月24日だからです。地獄の王とされる閻魔王の対あるいは化身とされるのが地蔵菩薩であって、このため地蔵菩薩の縁日までが先祖供養の期間とされます。

このように、近世後期以降の日本では、お盆の間のある一定の期間を決めて墓参りに行く、という行為が定着しています。この間、故人の墓を訪問してその人を偲び、ご先祖様の歴史に触れるというのは、きわめて日本的な文化のひとつです。




ところが、最近では、お盆に限らず、墓参りをするという人も増えています。こうした行為は「掃苔(そうたい)」と呼ばれています。その目的は必ずしも先祖供養ばかりではなく、見ず知らずの他人の墓に参り、その生前の生きざまや功徳に触れることにあります。

供養というよりも、どちらかといえば趣味的な要素が強い行為といえます。江戸時代には既に定着していたようで、墓を巡って見聞を深める人のことを「掃苔家」と呼んでいました。

最近では「墓マイラー」などと茶化して呼んだりもするようですが、英語ではgrave hunter、graver、taphophileなどといいます。また、掃苔をする行為そのものは、英語で“Tombstone tourism”または“cemetery tourism”などと呼ばれます。

こうした墓めぐりは欧米でもさかんで「レジャー」と割り切っている人もいるようで、例えば歴史上の偉人などの霊廟や霊園、墓園や墓地といったところを巡って旅行します。

その目的は、墓のデザインを鑑賞したい、というものもあれば、墓碑銘(エピタフ)に書かれた故人の詩を見るため、当時の字や歴史を知るためなど色々です。単に故人が好きだからという場合もあります。興味本位の面がなきにしもあらずですが、いずれの目的で参拝する場合でも、故人への尊敬の念があってしかるべき行為といえるでしょう。

「掃苔」もそもそも故人を敬う気持ちから作られた言葉です。文字からもわかるように、墓石に生じた苔を掃(はら)う、というのが本来の意味です。墓参りを行って掃除を行うことを通じて個人への感謝や敬意を表わす行為であるわけです。実はお盆に墓参すること自体も掃苔と呼ぶことがあり、俳句などでは秋の季語になっています。

しかし、墓というのは何かと暗いイメージがつきまとうものです。ましてや他人の墓にお参りして何が楽しいのだろう、と思う人も多いかもしれません。しかし、故事が好きな人にとっては歴史に名を刻んだ人に少しでも近づきたいという気持ちを満たしてくれる行為です。

また、掃苔そのものに、哲学的な意味を感じるという人もいます。墓とそこに埋葬されている故人を媒介として、自己を見つめ直したいという向きもあるようです。「墓は掃苔家のモノローグ(独白)を反射するためにある」と言った哲学を語る人もいます。

さらに、墓は書道家の研究の対象でもあります。古い書体の文字が刻まれていることも多く、たとえば墓碑銘です。死者の経歴や事績などが刻まれているものですが、これを揮毫した当時の能書家の書跡を鑑賞し、その史料的価値を確認するのも掃苔家の楽しみの一つのようです。文字だけでなく墓石の材質や形状、寸法、置かれた場所などに興味を持つ人もいます。




こうした掃苔は、江戸初期の貞享・元禄期(1684~1704年頃)ころに始まったようです。その後江戸期を通じて浸透し、明治以後ブームになった時期もありました。明治時代初期にかけての大阪では、市内7か所の大きな墓所を巡回する「七墓巡り」が流行したそうです。

七墓巡りの主旨は、無縁仏を供養することで功徳を積むというものでした。しかし、一般には偉人や著名人の墓を訪ね歩く人が多く、その目的は故人の人生を忍び、その死を惜しんだりすることです。墓碑銘の拓本を取る人も多く、古来、「文人」と言われる人にはその趣味を持った人も数多くいました。

掃苔家としては、随筆「難波噺」で有名な池田英政、江戸中期を代表する狂歌師・大田南畝、「南総里見八犬伝」で有名な作家、曲亭馬琴などがいます。また近代の著名な掃苔家には森鷗外や永井荷風などがいます。

江戸時代にはガイドブックまでもあったようで、「掃苔録」として業者が作成・出版していました。「江都名家墓所一覧」「浪華名家墓所集」といったものが有名で、近年では、小説家の物集 和子(もずめかずこ)が1940年(昭和15年)に刊行した「東京掃苔録」があります。593寺・2477名が収録されており、再版が繰り返されている名著です。

平成・令和の最近も掃苔ブームといえるようで、掃苔家たちが集まって同好会的なものも作り、墓石の形状や銘文および被葬者の略伝を紹介した同人誌や機関誌などを発行しています。「墓マイラー」という呼称もこうしたお墓オタク的な活動から生まれました。

こうした墓マイラーたちの御用達の墓地(霊園)では、彼らによって有名人の墓所を明示した「霊園マップ」が用意されているところもあります。また、個人が掃苔の成果をインターネット上にアップするといったこともさかんに行われています。

スマホのアプリまであり、有名なものでは青山霊園内の著名人の墓所情報を収録したiPhoneアプリ「掃苔之友青山」などがあって、これにより墓参りがより容易になりました。

墓といえばとかく暗いイメージを伴うものですが、こうした墓マイラーさんたちのおかげで最近ではより近なものになりつつあるといえるでしょう。日本でもますますレジャーの色合いが強くなってきた感があり、最近のコロナ騒ぎで行くところが限られた人たちが、俄か墓マイラーになり、また本格的な掃苔家を目指すようになっています。




このように、故人が眠る墓に詣でるということに意味を持つ人々が増える一方で、最近では「墓じまい」をする人が増えるなど、墓自体への意識が薄くなる傾向が強くなっています。その背景には、先祖の墓が遠距離にあるので参拝が大変といったものや、継承者が不在、自身の高齢化や墓の近隣在住の親戚の減少といったものがあるようです。

自分が死んだあとに残された家族に面倒かけたくない、といった人も多いようで、墓じまいのタイミングやきっかけとしても「終活」「身内の葬儀」「先祖供養の節目」が上位にあがっています。

墓じまいだけでなく、自分が死んでも墓を作らないという人も増えています。そうした人の多くが選ぶのが「自然葬」です。これは従来の形式の墓や骨壺といった形で生前の痕跡を残すのではなく、遺骨や遺灰を自然の循環の中に回帰させようとする葬送方法です。

「自然葬」といえば遺骨を粉砕し散骨することをイメージする人も多いと思いますが、土葬の一種として、骨壷を用いず直接土中へ遺骨を埋葬する、あるいは土に返りやすい材質の骨壷を使う方式の埋葬も自然葬と呼ぶようになってきています。

衛生上の観点から現在の日本では、火葬後に遺骨を墓に収納する方式が主です。ただ、一部地域の条例を除けば、土葬も法律上は妨げていません。しかし、火葬にせよ土葬にせよ、故人の名残を埋葬するためにはやはり土地が必要です。

日本の場合、その場所として昔は、人里離れた場所に墓地が設けられ、埋葬されることが多かったものの、最近では都会に住む人が増え、町中ではなかなかそうした土地を見つけられません。日本では墓地埋葬法により、墓地以外に埋葬することはできなくなっており、例えば自宅庭などに埋葬すると死体遺棄罪として罰せられることもあります。

このため、都市部を中心に墓地用地は不足しており、霊廟や納骨堂内のロッカーに骨壺を安置した形の、いわゆるマンション式が増えています。

また、墓を作るにはやはりお金がかかります。地方自治体や寺院などの霊園や地域の共同墓地に墓を立てる場合は、使用権(永代使用権)に基づく使用料(永代使用料)や管理費などの費用が掛かることがほとんどです。金額については、そうした墓所の提供者によって異なりますが、年金暮らしのお年寄りにとってはかなり厳しい額になることも多いようです。

墓を持たない人が増えている背景には、無宗教の人が増えているのに加え、核家族化や少子化によりこれまでの家系を重んじた墓の管理体制が維持できなくなってきているといった社会的な背景があります。これからも墓を作ることを躊躇する人はどんどん増えていくでしょう。


日本では明治時代以降に焼骨を家墓に納める方法が普及し一般的な葬送方法となりました。1948年(昭和23年)に制定された「墓地、埋葬等に関する法律」で「埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行ってはならない」と規定されています。また刑法の「遺骨遺棄罪」の規定もあって、戦後長く散骨は一般的には違法行為と受け止められていました。

ところが、1991年10月、神奈川県の相模灘沖で「葬送の自由をすすめる会」が初めて行った自然葬は、こうした社会的な通念を破る「葬送の自由」が実行された初の例となりました。

同会は会結成の際に「遺灰を海・山にまく散灰は、それが節度ある方法で行われるならば法律に触れることはない」としてその法的な正当性を主張するとともに、最近の日本人は先入観とならわしに縛られて自ら葬送の自由を失っている」と表明しました。

この第1回の自然葬のあと、法務省は「葬送の一つとして節度をもって行われる限り、遺骨遺棄罪には当たらない」としたとされます。また当時の厚生省も「墓埋法はもともと土葬を問題にしていて、遺灰を海や山にまくといった葬法は想定しておらず、対象外である。だからこの法律は自然葬を禁ずる規定ではない」と、発表したといいます。

ただこれは、この当時の新聞各社が、あたかも同会の考えを追認する見解のようにまとめて発表したものであるらしく、必ずしも法務省や厚生省(いずれも当時)の正式見解とはいえないようです。つまり、自然葬を合法とする明文のある法律や規定は現時点では存在しません。

一方では自然葬について厳しいお咎めがあったという例はなく、「葬送の自由をすすめる会」は、その後、全国に12支部、会員1万2千人の組織になり、現在も多くの会員が海や山などで故人の自然葬を行っているようです。また自然葬を扱うその他の業者も年々増えているようです。

自然志向を持つ自然葬としては、海洋散骨のほか樹木葬という形式があります。世界的に広がりつつありますが、その背景は国によって違いがあります。日本の樹木葬墓地は火葬した遺骨を土に直接納骨するもので、散骨とは異なり墓地として認可された場所においてのみ行われています。

散骨が陸地で行われることについては、周辺住民等との間でトラブルとなることもあります。海で行われる場合についても、港湾や漁場・養殖場とその周辺は避けられます。

実際、一人の人間の骨を散骨する場合、その量はかなりのものになります。全身分でなく、儀式としてそのごく一部を散骨する場合を除き、「サラサラと撒く」といったわけにはいきません。

また自己の所有地に散骨する場合であっても近隣から苦情が発生する可能性があります。アメリカでは、散骨を行った不動産の売買をめぐって係争問題が生じています。

実際には陸地での散骨は、宗教法人などが自ら所有・管理する墓地で、樹木葬などの形をとって行われます。私有地であっても散骨をしてしまった場合、土地の買い手が見つからなくなるなどの民事的問題が起こりうるため、墓地を除く陸地での散骨はまず行われません。

さらに現在は自然葬される方の人数は全体としてはまだ少ないほうでしょうが、将来的な社会的な認知とともに希望者がさらに増えた場合、「何等かの汚染」や倫理上の問題を持ち出してくる人も増えてくるでしょう。

ただ、現状において、陸地で散骨が行われる場合、当然他人の私有地に無断で行うことができませんが、公有地については取り決めはなく、これは散骨という葬送方法が従来の埋葬に関する法律や条例の想定外であることも関係しています。しかし今のペースで自然葬が増えれば別です。将来、散骨場所の指定や管理方法に規制がかかる可能性は十分にあります。

1998年(平成10年)6月に厚生省生活衛生局(当時)が公表した「これからの墓地等の在り方を考える懇談会」の報告書では以下の記載があります。

(前略)散骨についての理解が進んでいることが伺える。しかし、一方では散骨の方法によっては紛争が生じる可能性がある。平成6年には、東京都所有の水源林の区域に散骨が実施され、地域住民から苦情が出ており、地元市町村が東京都に対して散骨を容認しないことを求める要請書を提出している。(中略)したがって、散骨については、その実施を希望する者が適切な方法によって行うことは認められようが、その方法については公認された社会的取決めが設けられることが望ましい。

2005年(平成17年)3月には、北海道長沼町が散骨を規制する条例を制定しました。規制の背景には「近隣農地で生産される農産物に風評被害が広がる」との主張があり、散骨という新しい葬送方法への抵抗感が社会的に顕在化した例のひとつと考えられます。

制定直後の2005同年4月、上述の「葬送の自由をすすめる会」は、憲法で保障された基本的人権の「葬送の自由」を否定するものであるとして、この条例の廃止を求める請願書を提出しました。

ただ、これは報道などで大きく取り上げられることもなかったようで、むしろ、この長沼町での条例化を契機として、各地で散骨に対する規制が定着しつつあります。埼玉県秩父市や静岡県熱海市などがその例です。

一方、日本海の隠岐諸島の無人島であるカズラ島では、地元自治体(島根県海士町)の理解を得て散骨が行われています。その他の地域においても、散骨がどの程度普及しているかなど、具体的な統計データはまだないものの、墓不足や無宗教者が増加しているのを背景に、こうした無人地域での散骨が増加していることは確かです。

現状では、散骨の自由化と規制の動きは並行して進んでいるようですが、いずれ自然葬が社会問題化するようであれば、行政がはっきりとした線引きをしなくてはならなくなる時代がやがてやってくるでしょう。

最後に、自然葬に関する最近の傾向について触れておきましょう。あくまで参考データですが、2019年に終活を主業務にする東京の葬儀会社が、「墓の消費者全国実態調査」全国約800人を対象に行い、最近購入した墓の種類を聞いた例があります。

そうしたところ、第1位が「樹木葬」41.5%、第2位「一般墓」27.4%、第3位「納骨堂」24.9%、「その他」6.1%という結果になりました。

同社がその前年の2018年に実施した調査では、第1位「一般墓」41.2%、第2位「樹木葬」30.0%、第3位「納骨堂」24.8%であり、樹木葬と一般墓の順位が逆転する結果となっていおり、この傾向は最近まで続いているようです。

この会社が全国調査を開始した2010年時点では、約9割が一般墓を購入していたため、10年間で消費者の嗜好が大きく変わってきていることがわかります

なお、樹木葬を選んだ人344人が選んだタイプ別では、第1位が「庭園タイプ」59.6%、第2位「公園タイプ」25.9%、第3位が「里山タイプ」4.1%でした。

庭園タイプは、シンボルツリーや花木を植え、ガーデニングを施したもの、公園タイプは、墓域をマウント状にして芝生を植えるなどし、1~数本の樹木を墓域に植えたもの、里山タイプは自然保全の目的を持ち、1区画に1本ずつ樹木を植えたものです。

かくいう我が家にも3体のお骨があります。埋葬方法を決めかねてここまで持ち越してきたものですが、いずれ自分たちのものも含めて、いずれ自然葬にしようと考えています。上のような樹木葬もいいかもしれませんが、死後もできるだけ他人に迷惑をかけないという点では海洋散骨のほうがいいかなと思ったりしているところです。

私たち夫婦は、基本的無宗教であり、かつ転生論を信じています。死して骨になったら、そこには魂は宿っておらず、それはカルシウムにすぎない、と考えています。しかし人間の尊厳という立場などからこれに反論する人もおり、それはやはり単なるモノでなない、とする考え方もあることも承知しています。

そうした意見を刺激するようなことまでして散骨しようとは思いません。しかし、ささやかな一生を送った人が自然に帰ろうとするのを法や他人の干渉で妨げてはならないとも考えています。

人間もまた自然の一部です。死したら自然に帰るというのが本来の在り方ではないでしょうか。形の残る墓ばかり作っていてはいつか地球は墓だらけになり、環境破壊さえ引き起こしかねません。

死後「千の風になって」この世を吹き渡りたい、というのが理想です。ただ、風といっても暴風雨はいけません。せめてそよ風くらいでいい、と考えているのですが、この気持ち、ご理解いただけるでしょうか。

オリンピックあれこれ

7月も中盤に入りました。

子供たちや学生さんは、もうすぐ夏休みということで、ワクワクしていることでしょう。学校へ行っていなくても、梅雨明けあとの眩しい夏を想像してなんだか明るい気分になっているという人も多いのではないでしょうか。

今年は加えてオリンピックがあります。伝染病の影響によってほどんどの会場が無観客観戦となりましたが、国をあげてのこの祭典を楽しみにしている人はやはり多いに違いありません。

このオリンピックの起源は、神話の世界だといわれます。古代ギリシャの詩人、ホメーロスによれば、トロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが競技会を行ったのが、オリュンピア祭、すなわち現在のオリンピックの始まりだそうです。

パトロクロスというのは、メノイティオスという神様の子です。トロイア戦争というのは、大神ゼウスが、増え過ぎた人口を調節するために起こした戦争で、神々が半々になり、敵味方に分かれて戦いました。アキレスはこの戦争で弱点の踵を射られて命を落としました。

この神話の競技会はその後、ギリシアの四大競技大祭として実際に開催されるようになりました。以下がそれです。

オリュンピア大祭:開催地オリュンピア 4年に1度開催 祭神:ゼウス
ネメアー大祭:開催地ネメアー 2年に1度開催 祭神:ゼウス
イストモス大祭:開催地イストモス 2年に1度開催 祭神:ポセイドン
ピューティア大祭:開催地デルポイ 4年に1度開催 祭神:アポロン

これらの競技大祭のうち、大神であるゼウスに捧げられるオリュンピア祭が最も盛大に行われました。ゼウスの神殿が建てられたオリュンピアにある競技場で開催され、これはギリシャ南部のエーリス地方(現在のイリア県)にあったようです。

この当時の競技場はスタディオンと呼ばれていました。これはそもそも、古代ギリシアおよびローマで使われていた長さの単位です。複数形はスタディアといいます。その距離は、太陽の上端が地平線に現れてから、下端が地平線を離れるまでの間に人間が太陽に向かって歩く距離と定義されています。これは、だいたい180メートル前後です。

古代ギリシアの陸上競技は1スタディオンの直線コースで行われ、これをスタディオン走といいました。1スタディオン以上の競走はコースを往復しました。競技場の大きさもこのスタディオンを基準として設計されたことから「スタジアム」という言葉が生まれました。

コースのスタートとゴールは石板で作られていました。現在も遺跡としてあちこちに残っており、この間の距離を現在の技術で計測すると、アテネ近郊のデルポイ遺跡やアテナイ遺跡で178 m、エピダウロス遺跡では181.30 m、オリュンピア遺跡では192.27 mです。

地域によってスタディオンの値が微妙に違うのは、これがこの当時の測量技術が未熟だったせいもありますが、ある程度の誤差は許容されていたからでしょう。古代オリンピックはきっと、おおらかに行われていたに違いありません。

とはいえ、フライングした選手には、鞭打ちのペナルティが与えられました。現在なら失格で済むところです。また、この当時はまた、勝つために競走相手をつかみ、転倒させ、走路妨害も行われていました。これも現在なら失格ですが、この当時は、「あり」でした。

当初のオリンピックの競技種目は、このスタディオン走のみで、1日で終わっていたようです。紀元前724年の第14回大会でディアウロス走(中距離走)が導入されるまでは大会唯一の種目でした。コースの奥の置かれた祭壇に供物を捧げる際にこの競技が行われ、1スタディオンを最も速く走り抜けた者に、灯火に点火する栄誉が与えらました。

基本的には女、子供、奴隷は正規のスタディオン走には参加できませんでした。参加資格のあるのは、健康で成年のギリシア人の男子のみです。競技は全裸で行われ、指導者も全裸でしたが、当初はふんどしのようなものを着用していたようです。裸で競技を行ったのは、中には男装して参加する女性もいたらしく不正を防ぐためだったようです。

女人禁制の掟を破ったものは、崖から突き落とされるというルールがありました。ただ、記録に残る限り適用例はなく、女性を立ち入らせないための象徴的なものでした。後年、女性の参加が認められたともいわれますが、これには諸説あります。

そもそも、競技大祭中は女は入れなかった、という説と、神殿と競技場には入れず、外で待っていたという説、フィールドに立ちさえしなければ実質的には咎めはなかった、という説等があります。また、未婚女性に限り観戦が許された、という説もあります。そもそも大会を神官が仕切っていたので、少なくとも女神官が観戦していたのは確かなようです。



審判は当初、王が行いましたが、のちに競技の数が多くなると市民からくじで選ばれました。選ばれた審判たちは、オリンピック期間中、神官として扱われたといい、10か月に渡り専門家から専門の施設で競技規則について教えを受けました。その間、続々と各国から選手が集まり、1か月前になると選手とともに合宿練習をしてまた規則の確認を行いました。

予選はそれぞれの国ではなく、この合宿所で行われました。大会直前になると全選手、全役員が行進したそうです。現在でも開会式で各国選手の行進がありますが、この当時は、エーリスから会場となるオリュンピアまでだったといい、その距離は50キロ以上にもなります。

競技会初日は開会式兼神を称える儀式が行われ、最終日は勝者のため宴と表彰式が丸1日かけて催されました。また、詩の競演なども行われたという記録があります。

紀元前4~500年くらいになるとしだいに競技種目も増えました。これは例えばディアウロス走(中距離走)、ドリコス走(長距離走)、円盤投、やり投、レスリングなどです。五種競技(走幅跳、円盤投、スタディオン走、やり投、レスリング)も行われるようになりました。

このため、開催期間も当初の1日から5日以上の長期になっていき、競技数が増えるにつれてさらに長くなりました。上の競技以外では、ボクシング、パンクラティオン、戦車競走、走り高跳びなども行われるようになりました。

パンクラティオンというのは格闘技の一種で、勝敗は片方が倒れるか降参するかで決まります。選手は全裸で体に油を塗り、眼球への攻撃・噛みつき以外はすべて認められていました。成年ではなく少年が行う競技もその後解禁されましたが、種目は少なかったようです。

最終種目は、現在ならマラソンですが、この当時は武装競走でした。これは重装備の歩兵の軍事訓練を目的に作られた競技です。兜をかぶり、丸い盾を手に、両足にすね当てをつけた姿で競技が行われました。のちに簡略化され、は左手に盾をもつのみとなりました。走行距離は2スタディオンで、のちには倍の4スタディオンの競技も行われました。

最終日の表彰式には、優勝者に賞が授与されました。当初、賞を手にすることができるのは優勝した選手のみで、その賞も勝ち名乗りだけでした。しかし、のちにはゼウス神官よりオリーブの冠が授与され、自身の像を神域に残す事が許されるようになりました。

レスリングなどの格闘技では死闘になることも多く、相手を殺した勝者には、オリーブの冠は贈られなかったといいます。逆に、勝者であれば死者であっても冠が贈られました。ただ、基本的には大神ゼウスに捧げられる祭典であり、神の前での殺し合いは厳禁でした。

冠を授かった勝者は、神と同席することを許された者として、故郷に帰ってからも盛大に迎えられました。祖国の神殿に像が作られた競技者もおり、税が免除されたり多額の賞金が贈られることもありました。

しかしこの過剰な褒章が、逆に腐敗を生むようになっていきます。優勝者に支払う報奨金は跳ね上っていき、褒章欲しさに不正を働くものが現れ、審判を買収する者すら出てきました。

大会を運営する神官もこれに危機感を覚えたようです。不正の深刻さに応じて肉体的懲罰や大会追放が言い渡されるようになりました。また、買収を行ったものと応じたものには多額の罰金が科すようになりました。

この罰金を元に、「ザーネス」と呼ばれる不正を象徴する見せしめのゼウス像が作られました。調べてみましたがどんな像だったか、よくわかりません。オリジナルのゼウス像は、顎鬚を生やした威厳のあるものですが、これを醜く変形させたものだったでしょうか。

ザーネス像の数は増える一方だったといい、記録によれば最終的には16体までザーネスが建てられたとされますが、今日のオリュンピアに残されているのはその基部のみです。



その後ローマがギリシア全土を征服し、属州に編入させられた後もオリュンピア祭は続けられました。こうした中で、暴君として知られるローマ皇帝ネロは、自分が出場して勝者となるために、相当なズルをしたようです。

第211回オリュンピア競技会では、自分の都合でその日程を、本来行うべき年から2年後にしたのみならず、自らが参加した競技では敗れても優勝扱いにさせました。また、自分の歌を披露するため、音楽競技を追加ました。これは聴くに堪えないほどひどいものだったといいます。

当然、こうした権力の濫用と不正に対する批判は強く、この祭時を変えさせてまで開催を強行した大祭は後には正式な大祭とされず、公式記録から抹消されました。

その後、ローマ帝国がヨーロッパを席捲し、全土でキリスト教が広まるにつれ、ローマ神の祭典と目されたオリュンピア祭は、異教徒の祭としてしだいに廃れていきました。393年、ローマはキリスト教を国教としました。この時キリスト教以外のすべての宗教が禁じられため、オリュンピア大祭も開催が許されなくなりました。

この年に開催された第293回大会は最後の古代オリンピックとなりましたが、どんな内容の大会だったか記録は残っていません。記録に残る最後の大会は、369年の第287回オリンピュア祭で、これも拳闘の勝者に関する記録だけしか残っていません。

ところが、1990年代になってから、第285回オリュンピア祭までの全競技の勝者を記録した青銅板がオリュンピアで発見されました。この記録から、最後の大会より前の361年までは、ギリシア語圏内の広く各地から競技者が参加していたことが判明しました。

これは古代史を研究する学者たちには意外でした。オリュンピア祭が禁止される前、これはエーリスとその近隣諸都市だけで細々と行われていたと考えていたからです。

いずれにせよ、ローマ帝国が実権を握って後、異教徒のオリンピュア大祭は衰退を極めました。神殿破壊令なども発せられ、大会に関する遺跡の多くは消滅しました。こうして、古代オリンピックは、その長い歴史の幕を閉じ、人々の記憶からも抹消されていきました。

しかし、それから1500年も経った19世紀末に突如、オリンピックは復活を遂げます。パリ大学で開催された会議でフランスのピエール・ド・クーベルタン伯爵が古代ギリシャのオリンピアの祭典をもとにした世界的なスポーツ大会の開催を提唱し、了承されたのです。

これにより、1896年に第1回の近代オリンピックが、その発祥の地であるギリシャ王国アテネで開催することになりました。ただ、その開催のための資金集めには苦労し、会期もわずか10日間と近代オリンピックの中では最短でした。

しかし、古代オリンピックを復活させたこと自体は高く評価され、世界各国から大勢の観客が訪れるなど盛況の中、大会を終えました。このことは、それまでバルカン半島の小国の一つにすぎなかったギリシャ王国という国の国際的地位を著しく向上させました。



ただ、古代オリンピックの拝金主義の復活も懸念されました。このため、1908年の第4回大会で初めて発言があったという、「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」という言葉がその後もてはやされるようになりました。

これは一般に近代オリンピックの提唱者、クーベルタンのもの、とされます。が、実はこれは事実ではありません。最初にこれを言ったのは、アメリカの聖教者、エセルバート・タルボットです。

この大会はロンドンで行われました。この当時、ホスト国で世界に君臨していたイギリスと急速に国力を伸ばしていたアメリカは、お互いをライバル視しており、両国は犬猿の仲といえるような関係になっていました。このため、アメリカの選手団はロンドンに来てから色々な嫌がらせを受け、すっかり意気消沈してしまいました。

このとき、このアメリカ選手団に随行していた米国聖公会の大司教、タルボットは元気をなくしていたアメリカ選手たちを見て一計を案じます。気分転換にと、ロンドンの金融街にある教会、セント・ポール大聖堂で行われた聖餐式に彼らを参加させたのです。

この聖餐式は、一種の交流会のようなもので、米選手団だけでなく、他国の選手や職員も招待されていました。タルボットは彼らを前に、以下のような演説をぶちました。

「もし、アメリカ選手がイギリス選手に打ち負かされたり、引き離されたり、はたまた彼らが本来持っている力を発揮できなかったとしても、それが何だというのだろう。一番大切なのは、オリンピアの精神である。オリンピックゲームそのものが、レースや賞よりも尊いのだ。聖パウロも賞などというものは取るに足らないものだと教えている。」

「真の賞は腐敗しない。月桂樹の花輪を身に着けることができるのは1人だけだが、すべての選手がゲームに参加することによって喜びを分かちあえる。彼らに高揚感を与えるのは、我々の励ましだ。それこそが彼らの魂を救うことができる。そのためには、厳正かつ公正な競技こそが彼らに与えられるべきなのだ。(原文英文:筆者訳)」

ゴシックの部分が、クーベルタンが語ったとされる部分ですが、ニュアンスが前述のものと少し違うことがわかります。これを聞いた聴衆はタルボットとアメリカ選手団に対して盛大なる拍手と声援を送り、その結果意欲を失っていた彼らも元気を取り戻したといいます。

クーベルタンもこの会場にいました。タルボットのあと、同じく檀上に上がって発言しましたが、彼が実際に語ったのは、「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」という内容だったそうです。

彼は、後日、このタルボットの言葉を引用した演説を行っており、そこで「オリンピックで大事なのは勝つことではなく参加することだ」と述べています。これが、のちに世界に広まって、彼の言葉とされるようになったようです。

その後、この言葉通り近代オリンピックは健全に発展し、古代ギリシャの権威を背景に、世界屈指の国際スポーツ競技大会として発展していきました。

ただ、世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになり、1968年のメキシコシティ大会では黒人差別を訴える場と化し、1972年のミュンヘン大会では、イスラエル選手に対してアラブのゲリラによるテロ事件も起きました。東西冷戦の間には、西側諸国と東側諸国の対戦という構図も成り立ちました。

オリンピックは、その規模が巨大化するに従って、開催する国の財政負担の増大が大きな問題となり、1976年のモントリオール大会では大幅な赤字を出し、その後夏季・冬季とも立候補都市が1〜2都市だけという状態が続きました。

これを救ったのが、1984年のロサンゼルス大会で大会組織委員長に就任したピーター・ユベロスです。彼の指揮のもとオリンピックをショービジネス化した結果、この大会では2億1500万ドルもの黒字が計上されました。

これによって、その後「オリンピックは儲かる」との認識が広まり、立候補都市が激増しました。しかしその結果、誘致にあたっては、各国の競技レベルに加えて政治力・経済力までが問われるようになりました。結果、まるで総力戦の様相を呈するようになり、途方もない金銭が投入されるようになっていきました。

こうしたカネが優先される風潮の中で、アマチュアリズムはだんだんと軽んじられていきました。アマチュアリズムを徹底すればするほど、選手は働かないでスポーツに専念しなければならないからです。となると、金を持っていない人はスポーツはできません。自らが資産家であるか、さもなければその支援を得る者だけが活躍できる状況になっていきました。

そこで共産圏ではアスリートを公務員にしたり、自由諸国では実質のプロ選手を国・自治体・公共団体・企業が囲うステートアマチュア、企業アマチュアにすることが横行しました。結果、こうした仕組みがない国からの不満が抑えられない状況になっていきました。

1974年には既にオリンピック憲章からアマチュア条項が削除されていました。そこでIOCはこれを理由に「オリンピックを最高の選手が集う場にしたい」という大義名分をうち建て、プロ選手の参加を促進しました。これを金儲けに目ざとい商業主義者たちが後押します。

結果、1992年のバルセロナ大会ではバスケットボール競技でアメリカのNBA所属の選手による「ドリームチーム」が結成されるなど、オリンピックはアマチュアの祭典から、プロを交えたアスリートの祭典へと変化しました。

これはプロを「雇う」ということにほかなりません。商業主義に走るということでもあり、多くの金が動くということでもあります。かくしてオリンピックの開催にはさらに多額の費用が必要になっていきました。かくしてオリンピックは巨大な産業に変貌しました。

2000年以降、オリンピックの開催地は2008年が北京、2016年が南米初のリオデジャネイロといったBRICs各国にも広まるなど国際化が加速しました。一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠された結果、立候補都市数は2010年代からは2~3都市で推移しています。これまでのピークは、1997年入札の2004年大会開催時の12都市でした。

これに危機感を覚えたトーマス・バッハ第9代会長は、オリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、「オリンピック・アジェンダ2020」を出し、2014年12月のIOC臨時総会で採択されました。

そのポリシーには、開催候補地の負担を減らすことや、八百長防止と反ドーピング活動のなどが盛り込まれました。しかし、メインテーマは参加選手数を抑えるということで、夏季大会では約1万500人が上限とされました。規模を縮小すれば、主催者の負担も減り、今後手を挙げる国も増えてくるだろうという目論見です。

ところが、先日発表された東京オリンピック全339種目の参加選手数は約1万1000人です。リオにおいても既に上限を超えて10,568人でしたが、さらにそれを上回っています。つまり、オリンピックの規模をコンパクトにして、かかる費用をより少なくしようという目標は今のところ達成できていません。次のパリ大会ではさらに増えることが懸念されます。

一方では感染症の影響もあって今大会では観客数は過去最低になるのは間違いありません。IOCは儲かるオリンピックを目指していたのに、このままでは大幅減収は間違いないでしょう。政府やスポンサーも多額な投資をしたのに、これでは元手は取れそうもありません。

しかし、これはオリンピックの規模縮小のための良いチャンスと考えることもできます。これを機会に選手も観客も減らし、競技数も古代オリンピック並み、とまではいいませんが、もう少し少なくしたほうがいいのではないでしょうか。

テイストのよく似た競技が多いのも気になります。例えば、格闘技は5種目もあります。初めて導入された空手などは開催国が日本であることに考慮したのでしょうが、あれもやりたいこれもやりたい、では規模が大きくなるばかりです。

1912年のストックホルムオリンピックから1948年のロンドンオリンピックまで合計7回の大会では、芸術競技というのがあったそうです。種目は絵画、彫刻、文学、建築、音楽があり、スポーツを題材にした芸術作品を制作し、採点により順位を競うものであったといいます。

現在のオリンピック競技を見直し、こうしたものと暫時入れ替えていくというのはどうでしょう。マンネリ化した現在のオリンピックを活性化する起爆剤にもなり得るし、投資するスポンサーも多様化して運用資金もかえって潤沢になるのではないでしょうか。

巨大な競技施設は必要なく、投資も少なく済みます。「私は文学でオリンピックを目指します」なんてセリフを某芸人さんがのたまうのも聞きたいものです。

オリンピックを意味する「五輪」は、宮本武蔵の著作「五輪書」を由来としています。剣術の奥義をまとめたもので、いまや日本刀は、いまや世界的にも高い評価をされている芸術品です。この武蔵の唱えた武士道の精神を導入し、

“オリンピックで大事なのは勝つことではなく、拝金主義を斬ることだ”

を現代オリンピックの標語にしてはどうでしょう。これが世界共通語になる日がいつか来ることを期待したいものです。

(写真:山口県柳井市)

メズマライズ・ラビリンス





今年も早、夏至を過ぎました。ということは、これからは冬至に向かってどんどん陽が短くなっていきます。

今年の夏至は先週の6月21日でした。1752年のこの日、ベンジャミン・フランクリンが嵐の中、凧を上げて積乱雲が電気を帯びていることを確認する実験を行いました。彼は独学で科学を学び、今日の我々の生活にも深く関わる数々の発明をしたことで知られています。

フランクリンは、この当時発明されたばかりのライデン瓶というものの存在を知り、電気に興味を持ちました。そして、雷を伴う嵐の中凧をあげ、凧糸の末端にライデン瓶をワイヤーで接続し、瓶の中に電気が溜まることを証明しました。これにより、雷の電気にはプラスとマイナスの両方の極性があることも確認されました。

この実験によって彼の名声は高まり、ロンドン王立協会の会員にもなりました。しかし、この成功は奇跡的だといわれています。運よくライデン瓶に電気が伝わったからよかったものの、凧糸を持つ彼の体に雷の電気が走れば感電死していたかもしれないからです。

フランクリンは、この実験をきっかけとして、以後さらに多くの発明を成し遂げていきます。最も有名なのが避雷針であり、そのほかフランクリン・ストーブとして知られる燃焼効率の良いストーブ、遠近両用眼鏡といったものがあり、さらにはグラス・ハーモニカ(アルモニカ)というものも発明しました。

これは、グラス・ハープを応用したものです。グラス・ハープは、水を入れたグラスを多数並べてこれを擦ることで音を出しますが、準備に手間がかかりますし、その演奏の習得も大変です。これに対して、フランクリンが発明したグラス・ハーモニカは、径の異なるお碗状にした複数のガラスを用意し、これを大きさ順に並べて音階を創るというものでした。

その中心に鉄などの金属でできた回転棒に通し、回転させながら水で濡らした指先でガラスの縁をこするように触れると、その摩擦によってガラスが共鳴し、音楽を奏でることができます。グラス・ハープよりもさらに細かな音を出すことができ、同時に多数の音を出すこともできるため、これひとつでオーケストラ並みの演奏が可能になりました。

ヴァイオリンの名手ニコロ・パガニーニはその演奏を聞いて驚嘆し「何たる天上的な声色」と表現し、米国大統領トーマス・ジェファーソンも「今世紀の音楽界に現れた最も素晴らしい贈り物」と称え、フランクリン自身も「何ものに比べがたい甘美な音」と自賛しました。

ゲーテ、モーツァルト、ハッセ、テオフィル・ゴーティエなども、その音色を聞いて絶賛したといい、マリー・アントワネットも、これを習って演奏したといわれています。

この魅惑的な音色を持つ新しい楽器は、発表当初から熱狂的な支持を得、人々はその音色に酔いしれました。多くの人がその練習に熱中するようになり、これが発明された18世紀後半以降、少なくとも4~5,000台のグラス・ハーモニカが欧州各地に出回ったとされます。

また、関連する多数の著作物が生み出され、この楽器のために、400にものぼる作品が作曲されました。その中には、モーツァルト、ベートーヴェン、シュトラウス、ドニゼッティ、サン=サーンスなど、我々も良く知る大作曲家の作品も含まれています。





ところが、あるときから、このグラス・ハーモニカに悪い噂が立つようになりました。練習や演奏を行った結果、神経障害やうつ病、目まい、筋肉の痙攣などが発症するというのです。噂は噂を呼び、その美しい音色とは裏腹に大変怖い楽器だと言われるようになりました。

実際、精神病院に入院したり亡くなった人もおり、それがますます根拠のない憶測を招き、人々の恐怖を煽っていきました。あげくは、そのえも言われぬ甲高い響きが死者の魂を呼び寄せ、聞いた人の頭をかき乱してしまうのではとまで言われるようになりました。

さらにあるとき、グラス・ハーモニカの演奏会場で子供が死亡するという事件まで発生しました。演奏との因果関係は明らかではありませんでしたが、この事件をきっかけに、ドイツ各地で警察当局が、グラス・ハーモニカの演奏を禁止するという事態にまで発展します。

その結果、家庭内の痴話喧嘩から、早産、ペットの痙攣、といったおよそ音楽とは関係のなさそうな問題までグラス・ハーモニカのせいにされ、それを演奏している姿が発見されると警察に通報され、逮捕されてしまうといった社会現象までおきました。

こうした一連の騒動をきっかけにして、その後グラス・ハーモニカは、ほぼ完全にこの世から姿を消してしまいます。愛好家の何人かが自宅に保存するものが残っていましたが、少なくとも公の演奏会では、どこにおいても見かけることはできなくなりました。

ただ、その消滅は、この頃の音楽の流行の変化にも起因しているともいわれています。18世紀から19世紀にかけての時代というのは、ベートーヴェンやその後継者たちによって音楽の嗜好が、それまでの繊細なものからより壮大なものへと移り変わっていった時代です。

それ以前は比較的小さなホールで演奏がなされ、グラス・ハーモニカはそうした場所での演奏にも適していました。しかし、宏壮な音楽が好まれるようなってからは、演奏会もより大きなホールで開かれるようになり、デリケートな音は好まれなくなりました。

同様に、チェンバロなどもほぼ同じ時期に見られなくなっており、この時期を境に音楽はそれまでのモーツァルトに代表される古典音楽から、「表現」に重点を置いたロマン派音楽に移行するなど、質そのものが変わっていったと考えられます。




こうしてグラス・ハーモニカは、1820年までにほぼ製造されなくなりました。その後も長らく「幻の楽器」とされていましたが、1984年になって、アメリカのゲアハルト・B・フィンケンバイナーというガラス職人がこれを「発見」しました。

その音に魅了された彼は自力でこれを復元し、演奏会まで開くようになました。その結果、少数ながらもこれに共鳴する演奏家たちが現れ始め、その魅惑的な音色は「伝説の音」として喧伝され、少しずつ音楽業界に浸透し始めました。

フィンケンバイナーはその後、マサチューセッツ州のウォルサムに自社工場を設立しました。同社はNASA等の国家機関から高純度なガラス製品など特殊な品物を受注しています。そうした本業の傍ら、プライベートな時間を使ってグラス・ハーモニカも製造しています。

しかし、すべて手作りであり、その生産数は極めて少量です。それゆえにグラス・ハーモニカの音に魅せられた人々にとっては、世界的にも貴重な工房となっています。

今日、グラス・ハーモニカによって発狂者が出たとされる原因のひとつは、鉛中毒ではなかったかといわれています。これが流行した当時のグラス・ハーモニカは柔らかい吹きガラスで作らており、これは鉛を25~40%含んだクリスタル・ガラスと呼ばれるものです。

このため指を濡らしてこれを奏でるとき、触れた指先から鉛が体内に入った可能性が指摘されています。今日、鉛の摂取で神経症状が起こることは広く知らており、日本でも1980年代末頃まで水道管に鉛管が使われていたことから、多くの人が鉛中毒になりました。

鉛は脳と肝臓に多く蓄積され、他の臓器や組織にも広く分布することから、数々の病気の原因となります。初期症状としては疲労、睡眠不足、便秘などがあり、ひどくなると腹痛、貧血、神経炎などが現れ、最悪の場合、重篤な脳障害の一種である脳変性を引き起こします。

このため、現在のG.フィンケンバイナー社製のグラス・ハーモニカには鉛やその化合物類は添加されておらず、高純度の無機ガラスで製作されています。またこの楽器は音量に乏いという欠点がありましたが、今ではマイクによって音を増幅できるようになりました。

日本では、ガラスの専門家である小塚三喜夫氏が第一人者といわれており、世界的にも有名です。復興活動にも積極的に取り組んでおられ、国内でも演奏活動が広がりつつあります。




ところで、このグラス・ハーモニカが流行していた18~19世紀のころ、モーツァルトのパトロンでもあったウィーンの医師、フランツ・アントーン・メスメルという人物が、これを使ったある治療を行っていました。

メスメルは、今日催眠術や催眠療法と呼ばれるものに近い方法を使った医療活動を行っており、その治療で、締めくくりにグラス・ハーモニカの演奏を行っていました。

彼は患者たちを、個別療法と集団療法の両方で治療していました。個別治療においては、患者の前に膝が触れあうほどの距離で座り、患者の目を見つめました。次いで患者の肩から腕に沿って手を動かし、横隔膜の下を指で押し、時には長くそこに手を置いたままでいました。

これによって、多くの患者たちは奇妙な感覚を覚え、さらに治癒直前には指や手で押さえらえた場所が痙攣をおこしました。しかしその後、各々が抱える病状が消えたといいます。

集団治療も独特のもので、20人ほどの人々を円形に座らせ、その中央に置かれた「バケツ」の中から出したロープをそれぞれの患者に握らせ、さらに患者同士もロープで結びました。メスメルはバケツに何等かの気を注ぎ込むような行為を行い、それがロープを握る患者には「流体」として感じられたといい、その結果、参加者の症状が改善されたといいます。

そして治療が個別であっても集団であっても、メスメルはその最後に当時まだ発明されたばかりであった楽器、グラス・ハーモニカを自分で演奏していたそうです。

メスメルはこの医療行為を通じて、「動物磁気説」というものを唱えました。人間や動物、さらに植物も含めたすべての生物は、目に見えない自然の力を持っており、これを彼は「動物磁気(動物磁性)」と呼びました。

磁石は空間を隔てて作用します。このため古来より、物と物との間に働く目に見えない力があると認識されていました。この当時は、科学常識として空間には不認知の流体が満たされていると考えられており、これは「エーテル仮説」と呼ばれていました。

メスメルは、この流体を磁気に似た性質を持つ「磁気流体(magnetic fluid)」と呼び、これは生物も含めた物質内を貫流し、生体相互の間でも作用しているとしました。また、この時、生物の体内に入り込んだ流体を「動物磁気(animal magnetism)」と名付けました。

彼は体内においてこの磁気に不均衡が生ずると病気になると考え、これを均衡化させることが、当時治療法が不明であった病気の治療になると考えました。




これに先立つ1774年にメスメルは、ヒステリーを患うフランシスカ・エスターリンという女性を治療しました。鉄分を含む調合剤を彼女に飲ませた後、身体のあちこちに磁石をつけ、彼が言うところの「人工的な干満」を起こしました。彼女は体内を流れる不思議な液体の流れを感じたと言い、数時間後に症状が緩和されたといいます。

しかし、メスメルはこれが磁石で治療されたのではなく、彼自身の体内に蓄積された動物磁気が彼女に伝わった結果だと考えました。そして、磁石を使わず、患者の頭や背中の上に手を置く行為(按手)などによって自らの磁気を与えることで治療ができるという学説を唱え、またそれを実践するようになりました。上の個別・集団治療がそれです。

それから3年後の1777年、メスメルは18歳の盲目の音楽家マリア・テレジア・フォン・パラディスの治療を行いました。パラディスは歌手としてピアニストとして様々なサロンやコンサートで演奏を行っていた人気演奏家で、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調」は彼女ために書かれたと言われています。

このときもメスメルは治療の最後にグラス・ハーモニカを演奏しました。しかし、上述の通り、このころこの楽器は既に人の気を狂わせ、奏する者や聴く者を死に至らしめる恐怖の楽器と恐れられており、正式に禁止令が発令されていました。

治療の結果も思わしくなく、パラディスの視力は回復しませんでした。人々はやはりグラス・ハーモニカが彼女の精神に悪影響を与えたと言いふらし、これが官憲の注意を引くところとなって、メスメルは禁止令に反した罪でウィーン追放を命じられました。

翌年、メスメルはパリに逃れ、金持ちや権力者が好む町の一角に部屋を借り、再び動物磁気による治療をはじめました。パリでは、メスメルのことを、ウィーンから追放されたもぐりの医者と見る者もいましたが、偉大な発見をした人物だと好意を寄せる人もいました。

そうした人々の中に、シャルル・デスロンという医者がいました。彼は高い専門知識を持つ社会的地位のある人物で、メスメルの弟子になりたいと申し出、さらに動物磁気についての本を出版してはどうかと彼に勧めました。その結果、当時のメスメルの理論の要点を述べた「動物磁気の発見に関する覚え書」といいう本が出版されました。


この本は話題となり、ルイ16世の耳にも入った結果、国王は科学アカデミーのメンバー4人を動物磁気の調査のための委員として任命しました。

この4人は、化学者アントワーヌ・ラヴォアジエ、医師ジョゼフ・ギヨタン、天文学者ジャン=シルヴァン・バイイ、そして、当時在フランスのアメリカ全権公使になっていたグベンジャミン・フランクリンでした。言うまでもありません。グラス・ハーモニカの発明者です。

こうして1784年、この委員会は動物磁気に関する対照実験を行いました。これは二つの異なる環境で効果のあるなしを比較するというものです。ただ、実験はメスメルの治療結果を検証するものではなく、彼が発見したとする新しい物理流体を確認することが目的でした。

検証の結果、同委員会はそのような流体の証拠はどこにもないと結論づけ、その治療がもしうまくいったとしても、それは「想像力のおかげ」であるとしました。この結果メスメルの名声は地に落ちました。彼はパリを後にし、その後ドイツに亡命、1815年、メーアスブルクにて81歳で没しました。最後の20年間の行動はほとんど知られていません。

メスメルが唱えた治療法とは、彼に言わせれば、治療者が自らの磁気を患者に当てることで患者の体内の磁気を乱し、それによって磁気を均衡させ、治療するというものでした。

またメスメルは、この動物磁性による力が、治癒が必要な人だけでなく、日常生活を普通に送っている人にも影響があると信じており、自ら何度もその科学的立証を試みていました。しかし、その都度、実験は失敗に終わっていました。

彼の理論は斬新なものではありましたが、国王が招集した委員会の面々もそう感じたように、あまりにもオカルティックなものであったため、当時は否定されていました。しかし、治療術自体は何らかの成果があると見なす者も多く、その研究を引き継ぐ学者もいました。

こうした研究成果はやがて催眠術や催眠療法へと発展していくことになります。現代においても「催眠術」のことを”Mesmerize(メズマライズ)”といい、「催眠術師」のことを”Mesmerist(メズマリスト)”と言うのは、彼の名に由来してのことです。

それからおよそ四半世紀を経た1841年、イギリスのジェイムズ・ブレイドという外科医が、フランス人の興行師、シャルル・ラフォンティーヌがマンチェスターで行った興行、「メスメリズム」を見て、強い衝撃を受けました。

これは、動物に磁気術、つまり催眠術を施すというもので、当初動物園から借りたライオンで行っていましたが、後には人を対象にするようになりました。観衆を舞台に上げて催眠術をかけるというこのパフォーマンスは評判を呼び、各地で巡業が繰り返されました。ラフォンティーヌは、この術を使って盲目や聾唖、麻痺などの患者の治療も行っていたといいます。

ブレイドは実は外科医としては高名な人物で、内反足、斜視、脊椎側彎症の専門家として英ロイヤルカレッジの外科学のメンバーでもありました。彼自身も最初は懐疑的でしたが、メスメリズムを繰り返し見ているうちに、やがてこれがトリックでないことを確信します。

そして、この現象が動物磁気なるものによるものではなく「暗示」によるものだと考えるに至り、心理生理学的な現象として実験を繰り返した結果、科学的にこれを証明しました。ブレイド自身、メスメリズムを行う公開実験に成功し、メスメリズムに代わり、「神経催眠」”Neuro-Hypnotism”という言葉を創出しました。

これは”Neurypnotism”と短縮され、さらに”Hypnotism”=「催眠」とされました。Hypno-はギリシャ語で眠りを意味します。これはメスメリズムや動物磁気といった言葉のもつオカルト的、超科学的な意味合いを払拭するものでした。

ブレイドの用いた催眠導入法は、今日では凝視法とも呼ばれるもので、被験者を一点に集中させて目の疲れを促し同時に暗示を入れます。古典的催眠手法の一つであり、彼はこれによって、磁力など用いずに人を催眠状態にすることに成功していたのです。


ブレイドはまた、1844年の公演で、従来催眠によって発現するとされた、透視、千里眼、読心などが間違いであることも証明しました。これによって、彼は現在に至るまで、催眠療法と近代催眠の父として称賛されるようになりました。

ただ、ブレイドは、このころすでに外科医として十分な名声を得ており、催眠の大家と称されることをあまりよくは思っていなかったようです。その思いとは裏腹に彼の創出した理論と催眠という言葉は受け継がれ、その後も世界中で支持されるようになりました。

ブレイドは、死の直前まで、催眠に積極的な関心を示し続けましたが、1860年3月25日、脳卒中で64歳で亡くなりました。1997年には催眠療法の普及発展を目的とした「ジェイムズ・ブレイド協会」が設立されています。

その後の第1次、第2次世界大戦では、激しい戦闘によって傷ついた兵士たちが、無感動、衝動的攻撃行動、麻痺、健忘など戦争神経症にかかりました。このとき催眠療法が兵士の症状除去、記憶回復に使われ、短期的には症状が除去できたと言われています。

またこのころ、ベルリン大学のヨハネス・ハインリヒ・シュルツは、自己暗示を組織化した自律訓練法を提唱しました。これはリラクゼーション法として現在でも使われる手法です。

第二次大戦後、催眠研究は隆盛を極めますが、それはこれら戦時の試みが成功したおかげです。しかし、その後医学での催眠利用は廃れていきました。当初、痛みや出血を抑えるためにも導入されましたが、その後は麻酔技術が進歩したため必要がなくなったためです。

リハビリテーションの分野でも、早期発見・早期治療が進み、筋肉が萎縮する前にリハビリテーションを行うようになったため、無痛を求める必要がなくなりました。

人間の意識は、9割が潜在意識であって、覚醒時に論理的に思考する顕在意識は1割とされています。そして催眠とは、意識レベルをこの潜在意識レベルに誘導することといえます。

しかし催眠状態というような特別な状態がはっきりと存在している訳ではありません。催眠状態といえば特別なシチュエーションのように思えますが、電車の中でうたた寝をしているのに近く、誰しもが入りこむことができる状態です。

こうした催眠状態では意識が狭窄しているので、外界からの刺激や他の概念が意識から締め出されています。このため、1つの事象が意識を占領することによって、暗示のままに動かされたり、様々な幻覚が作り出されたりします。例えば、10数えたらあなたはウサギになります、といわれればその真似をしたりしてしまいます。

催眠が医療の現場であまり見られなくなったとはいえ、その効果を用い、潜在意識に働きかけて治療する試みは今もなされています。対人恐怖症やあがり症の治療などがそれです。また臨床心理学や医学の一部で研究され、医療援助法として取り上げられることもあります。

ただ、催眠を医療に用いる試みはアメリカでは積極的に行われていますが、日本では積極的な医療機関は限られています。一般的には、まず薬物療法など他の治療法を十分に試みた上で、適用可否の判断を含めて訓練を受けた専門家により行われるべきものとされています。

かつて、グラス・ハーモニカで精神に異常をきたした人が出たのもあるいは催眠による効果だったのかもしれません。しかし、後に復興されてから現在に至るまで、多くの人々や演奏家がこの楽器を奏してきました。にもかかわらず、この楽器のせいで精神を病んだといった症例が医学界に報告されたり、それを証明したという発表はいまだなされていません。

現に、これを発明したフランクリン本人でさえ、何事もなく84歳までの長寿を全うしています。彼はこの楽器の無害を自ら証明するために、世評に動じず生涯演奏し続けました。

現代においても真相は不明です。しかしその不思議な音色ゆえに、怪奇な伝説さえもこの楽器の逆説的な魅力として人々の興味を強く惹きつけています。

最近、少し神経症気味というあなた、一度試してみてはいかがでしょうか。