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あぁねったい

2014-1424今朝の伊豆は久々に晴れて、良いお天気です。

しかし、一昨日の夜、伊豆では、相当の雨が降りました。……が、少々疲れ気味だった私は、早めに床に入り、それをタエさんからそれを聞かされたのは昨日の朝のこと。見ると、家の中からあちこちの窓がべしょべしょになっており、この夜の風雨の強さを物語っていました。

その雨が、東へ移動し、昨日の札幌近郊はだいぶ大きな被害が出たようです。現在まだ道東で雨が降っているようですが、これ以上被害が拡大しなければいいのですが。

この雨は、おそらくは先日来の台風のなごりによって、取り残された湿気がもたらしたものでしょう。台風による直接被害ではありませんでしたが、まだまだこの先、こうした気象擾乱は起きやすい季節が続きますから、油断はできません。

また、今年の台風の発生数は、8月までだとまだ13個です。平年だと13.6個ですから、だいたい平年並みです。が、年合計の平年値は25.6個だということなので、ようやく半分程度に達したにすぎません。まだまだ9月10月と発生して日本列島に接近する可能性もあるわけで、今後とも注意が必要です。

それにしても今年はなぜか台風による直接被害ではなく、前線の停滞などによる集中豪雨による被害が多いような気がします。台風が来ていなくても、日本中どこかで必ず雨が降っているような印象で、例年になく大気が不安定なようです。

この集中豪雨というヤツですが、積雲や積乱雲によってもたらされるというのは、さんざんテレビやら新聞やらで知らされて誰もが知っていることです。積乱雲はもくもくと発達して急激に雲頂の高さを増しますが、こうした雲の中で対流中の空気の上昇流の速度は他の循環による上昇流に比べて桁違いに大きいことが知られています。

このため、積乱雲の上層部と下層部では、かなり大きなエネルギー落差が生じ、これによって雨粒や氷晶の急激な発達が起こり、激しい雨となるわけです。

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では、にわか雨と集中豪雨は何が違うのでしょうか。

一般的な積雲や積乱雲では激しい雨をもたらすものの、そうした雨の多くは、急に降りだしてすぐ止んでしまう一過性の雨です。夏の日、とくに午後になると日本では大気が不安定になることが多く、このため散発的な積乱雲が発生し、いわゆる夕立をもたらしますが、これがにわか雨の代表選手です。

このにわか雨を降らせる積乱雲の場合、その塊が雑然と集ることなくそれぞれが独立的に活動しており、このため降雨は長続きしません。このようなタイプの降水をもたらす積乱雲をシングルセル(single cell)といい、雨域は水平方向に5~15km、寿命はおおむね30-60分ほどです。

ところが、大気が著しく不安定となった場合に積乱雲が発達すると、シングルセルがダブルセルになり、トリプルセルとなって雨量が増し、数十分で数十mm程度に達します。このような雨を気象庁は「局地的大雨」と読んでいます。

そしてさらに条件が整うと、1時間で数十mmの局地的大雨が数時間あるいはそれ以上継続し、総雨量が数百mmに達し、これが「集中豪雨」と呼ばれるものになります。集中豪雨になる必須条件としては、寿命の短い積乱雲が世代交代をして次々と発生・発達することであり、かつその積乱雲群が連続して同じ地域を通過することです。

局地的大雨も集中豪雨も、1つ1つのシングルセルの寿命は30-60分ほどですが、集中豪雨では積乱雲が世代交代しながら数時間もの間連続して通過することで雨の降った地域に壊滅的な影響を与えます。時には十数時間から数日に亘って強い雨が続く場合があり、過去には一週間以上も広域にわたって降り続いた例もあります。

昭和47年に起こった「昭和47年7月豪雨」では、高知、熊本、愛知、岐阜、神奈川などの各県において、7月3日から15日まで12日間も雨が降り続き、死者421名、行方不明者26名、負傷者1056名の大惨事を引き起こしました。

また、近年では5年前の平成21年(2009年)の7月19日から一週間に渡って山口県や福岡県で集中豪雨が続き、これは「平成21年7月中国・九州北部豪雨」と呼ばれました。時間雨量は防府市で70.5mm、福岡市博多区で114mmなどであり、大規模な土砂崩れが発生し、32人もの死者が出たことは記憶に新しいところです。

こうした集中豪雨では、積乱雲の世代交代において、降水セルが線状あるいは団塊状にまとまることが多く、これはさらに単一の巨大な降水セルとなり、こうしたセルのことを「マルチセル」またはさらに激しいものを「スーパーセル」といい、たいてい雷を伴った激しい降雨をもたらすため、マルチセル型雷雨、あるいはスーパーセル型雷雨とも呼びます。

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こうした雷雨は研究者によればさらに2~4種類に分けられるようですが、そのうちのひとつに「バックビルディング型」と呼ばれるものがあり、この用語は最近ニュースやワイドショーでよく取り上げら、すっかりおなじみになりました。

日本で最も発生しやすい型といわれており、成長期・成熟期・衰退期など異なるステージの複数のシングルセルが線状に並びつつ移動します。季節としてはやはり梅雨期が多く、1998年8月上旬に新潟県下越・佐渡で起きた「平成10年8月新潟豪雨」もこれでしたが、先日20日広島で起きた「平成26年8月豪雨」もこれだといわれています。

日本における集中豪雨は、発生時期で見ると梅雨の時期、特に梅雨末期が多いようです。が、この広島の災害の際には梅雨はとっくに明けており、にもかかわらずまるで梅雨前線のように停滞していた前線がこの豪雨をもたらしました。

停滞した前線がもたらす大雨は、年間を通して見ると、1時間程度の短時間のものは、「局地的大雨」として日本国内どこでも見られます。ところが、24時間以上続く長時間の集中豪雨は、暖湿流が流れ込みやすい九州や関東地方以西の太平洋側に多い傾向があるようです。また、梅雨期に限ると、集中豪雨はとくに西日本に多く発生するといわれています。

単位時間当たりの雨量の極値をみても、10分間程度の短時間における雨量は国内どこでもだいたい同じくらいで、その差は小さいようです。ところが、1時間雨量、24時間雨量になると南の地方ほど雨量が多くなる傾向があり、これらの地域でもさらに南側の斜面沿いの地点で多くなる傾向が顕著になります。

ちなみに10分間雨量の極値は日本では40~mm程度であり、これ以上になることはまずありません。これすなわち、10分程度の短時間の雨量は単一のシングルセルに起因するにわか雨であることにほかなりません。これに対し、長時間の大量の雨は上述のようなマルチセルやスーパーセルの積乱雲の連続通過に起因するわけです。

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気象庁の観測統計によれば、こうしたマルチセルによる集中豪雨は、アメダス1000地点あたりでみると、時間雨量50mm以上のものが、1976~1986年に160回でした。ところが、1998~2009年には233回になっていて、+45%と明らかな増加を示しています。ここ数年の統計はまだなされていないようですが、最近の状況をみていると更に増えていそうです。

また、同じく時間雨量80mm以上のスーパーセルといわれるような豪雨の年間平均発生回数は1976~1986年に9.8回だったものが1998 ~2009年には18.0回になっていて、これも+80%と更に急激な増加を示しています。

2011年、気象庁の外郭団体である日本気象協会は「総雨量2000mmの時代を迎えて」と題する見解を発表しました。

この中で気象協会は100年後をシミュレーションした予測結果によれば日本の南海上の海面水温は台湾近海並みに上昇した水温となり、台風の進行速度や海面水温を考慮すれば、日本も台湾と同様に総雨量2000mmを超える大雨を想定した対策が必要としています。

世界でも多雨地帯であるモンスーンアジアの東端に位置する日本は、年平均1718mmの降水量があり、これは世界平均(880mm)の約2倍にも相当します。年間降水量で日本を超えているのは、インドネシア(2702mm)、フィリピン(2348mm)、シンガポール(2497mm)の3カ国だけであり、2000mmはこれらに迫る値です。

いずれ、日本でもこうした国のように毎年のように大雨が降るようになり、このため植物がどんどん育ってジャングル地帯が多くなり、これに伴い生物相も増えて、ちまたにひらひらとたくさんの蝶々が飛び回る虫大国になっていくに違いありません。

こうした背景にはやはり地球温暖化があるというのが一般的な見解です。最近デング熱の発生で話題になりましたが、とくに東京では急速に「熱帯化」が進んでいるといわれているようです。この「熱帯」の定義としては、最寒月の平均気温が18℃以上でヤシが生育できること、平均気温が一年中19℃以上であることなどです。

港区にある、国立科学博物館付属自然教育園は、東京でも数少ない自然に近いかたちで森を残してきた場所ですが、ここにはヤシ科のシュロが大量に繁殖しています。このシュロは、園内1万本の樹木の2割を占めるまでになったといい、最近では、実こそ結ばないものの、キウイまでもが普通に自生し、インコが飛び回っているそうです。

このシュロという木の若芽は、通常冬の平均気温が4度以下になると枯れてしまうといわれていますが、最近は枯れることなく、逆に繁殖が増加しているといい、こうしたことからも、東京は早、熱帯に含められるのではないか、といわれているわけです。

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もっとも、熱帯ではなく、亜熱帯ではないか、といわれることもあります。しかし、実はケッペンの気候区分には亜熱帯という区分はありません。温帯に含まれる地域の一部を俗に亜熱帯と呼ぶことがあるだけです。

ケッペンの気候区分というのは、植生分布に注目して考案された気候区分で、気温と降水量の2変数から単純な計算で気候区分を決定できることに特徴があり、世界標準とされているものです。

このケッペンの気候区分に亜熱帯はないわけですが、一般的には、最寒月平均気温が-3℃以上18℃未満で、冬季の積雪は根雪にならないが、ヤシが生育するほどでもない地域のことを亜熱帯といいます。日本では、東京都小笠原の各諸島、鹿児島県の奄美群島、沖縄県の沖縄諸島・宮古列島・尖閣諸島などが亜熱帯に属するとされています。

その他の日本の地域はだいたい、「温帯」に分類されます。最暖月平均気温が10℃以上で、
安定した気候で四季の変化に富み、多くの動物・植物が生息します。

こうした中にあって、東京だけが熱帯化、あるいは亜熱帯化しているとされるのは、上述のようなシュロのような熱帯性の植物がごく一部とはいえ見られるようになったことに加え、夏には謎の集中豪雨がここを襲うことが多くなったことなどにも由来します。

とくに新宿などの東京西部が多いとされており、この東京西部という場所は、相模湾からの南風と鹿島灘からの東風がぶつかって上昇気流が起き、集中豪雨に見舞われる場所として以前から知られていました。

しかし最近、海からの風が吹かない日にも集中豪雨が起きることが知られています。これは乱立するビルのためだということが言われており、ビルなどからの人工排熱で大気が局地的に熱せられて上昇気流が起き、積乱雲が発生するためのようです。

また、真夏の東京23区内で1日に排出される人工熱量を試算すると、東京ドーム0.7杯分の水を瞬時に沸騰させ、蒸発させることができるほどの熱量になるといいます。驚くべき熱量です。

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来たる東京オリンピックからわずか5年後の2025年ごろには、東京都心でも最高気温が40度を超すようになり、50年以降はそれが毎年のことになると予測する専門家もいるようです。また発熱は地下でも著しく、都心13カ所で下水道の温度を調べたところ、この30年で年平均温度が4.8度、冬に限ると7度も上昇しているといいます。

こうした現象は、家庭で風呂場や食器洗いなどで湯を使う量が増えた影響と考えられており、人工的に発せられる熱の1割が下水に捨てられているためだといいます。

さらには、この下水が流れ込む東京湾でもとくに冬場の水温上昇が著しく、20年間で2度も上がり、プランクトンが大量発生して酸素欠乏の状態が続き、外来種の貝の異常繁殖なども起こっているようです。

このような東京の熱帯化から、ひところ話題になった首都移転も再び現実味をおびてくるようになりました。しかし移転のためには多額の費用もかかることから、このためせめて夏場だけでも、首都機能を移転したらどうかという人もいます。真夏に霞が関の官公庁を訪れた人は分かると思いますが、ここは地獄です。

建物の中は非常に暑くて、到底仕事に集中できる環境ではなく、確かにエアコンは28℃設定になっているのですが、実際はパソコンなどの電子機器も動いているのでもっと暑く感じます。こんな環境で働いても効率が落ちるだけですし、スーパークールビズでどうにかなるような話ではありません。

このため、思い切って夏の間だけでも中央官庁の機能を首都圏から仙台などの北にある場所に移転を考えてみようということで、官僚というものはもともと「転勤族」といわれているぐらいですから、元々移動には慣れています。これを契機に恒久的な移転の雰囲気も出てくる可能性もあるし、考えてみても良いのではないか、というわけです。

資料などの移動が大変だという意見も多いでしょうが、今のようにインターネット全盛でデジタルな時代には、基本的に身一つとオンライン環境さえあれば大概の仕事はできるはずです。機能を分散して涼しいところで働く人間を増やしたほうが、業務効率も上がるでしょうし、東北に官公庁が移転すれば、現地の復興の手助けになるかもしれません。

東京だけでなく、日本の気候はますます熱帯化しており、この首都圏のプチ移転を契機にあらゆる習慣、制度の見直しを進めるというのも手かもしれません。さらに、高校野球に代表される公式な競技大会も、酷暑の中で実施するのはやめて、思い切って北海道や東北などの涼しい地域に場所を移して大会を開催すればいいと思います。

あるいは、時期を秋にずらせば、春の大会と秋の大会ということでバランスがとれます。また、甲子園から東京ドームへ会場を移すといった手もあります。甲子園が聖地だからという理由だけで、これからも延々と真夏の炎天下での野球を球児に強要するのは理不尽な気がします。

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2020年の東京オリンピックもまた、真夏の一番暑いときに行われる予定のようです。7月24日〜8月9日までの日程で、競技会場はいずれも東京都に所在します。「東京オリンピック」と銘打っている以上、こちらはさすがに開催地移動、というのは難しいと思いますが、一部競技を別の場所でやるくらいはIOCも大目にみてくれるのではないでしょうか。

自転車競技などは仮設の競技場を有明に作るとか言っていますが、伊豆には伊豆ベロドロームという国際基準に合致した立派な自転車競技場があります。伊豆も東京の一部だ、というのは多少(かなり)無理があるかもしれませんが、新たな競技場の建設費用のことなどを考えれば、検討してみる価値はあるように思います。

しかし、競技場などの代替地を周辺に求めたとしても、東京の熱帯化が今後も進んでいくとすれば、依然デング熱のような、いわゆる「熱帯病」の対策が必要になってきます。国際都市としての東京をアピールする際に、ここにこうした病気が蔓延したまま、というのはぜがひでも防がねばなりません。

この熱帯病ですが、とくにはっきりした定義はないようですが、熱帯地方に多くみられる病気とされています。熱帯地域には蚊やハエ、寄生性の強い原虫といった有害生物が多く、これらの生物を媒介してヒトに感染する病気が熱帯病とされることが多いようです。

デング熱意外にどんなものがあるかといえば、マラリア、黄熱病、HTLV感染症、リーシュマニア症、トキソプラズマ症、肝蛭症、赤痢アメーバ、クリプトスポリジウム症、などなどです。

これ以外にも、狂犬病、トラコーマ、ハンセン病などのように、既に日本ではほぼ撲滅されたとされるものも含め、WHOではだいたい17種ぐらいを熱帯病として指定しているようです。

このうち、「マラリア」については、日本では過去に土着マラリアが存在しましたが、現在では絶滅しています。しかし海外から帰国した人が感染した、いわゆる輸入感染症が年間100例以上報告されており、増加傾向にあるといいます。現在も指定感染症とされており、診断した医師は7日以内に保健所に届け出る必要があります。

マラリアは、単細胞生物であるマラリア原虫がハマダラカによって媒介されることで発症します。発症すると、40度近くの激しい高熱に襲われますが、比較的短時間で熱は下がります。この点、現在流行しているデング熱と似ています。ただ、マラリアには、三日熱マラリア、四日熱マラリアなどの2~3種があり、症状はひとつではありません。

三日熱マラリアの場合は48時間おきに、四日熱マラリアの場合72時間おきに、繰り返し激しい高熱に襲われることになり、これが三日熱、四日熱と呼ばれるゆえんです。また卵形マラリアというのもあり、こちらは三日熱マラリアとほぼ同じで50時間おきに発熱します。

いずれの場合も、一旦熱が下がることから油断しやすいのですが、すぐに治療を始めないとどんどん重篤な状態に陥ってしまいます。一般的には、3度目の高熱を発症した時には大変危険な状態にあるといわれており、最悪なのは、マラリアの場合、放置した場合などにはこれが慢性化するケースがあることです。

マラリア原虫が肝細胞内で休眠型となり、長期間潜伏するためであり、この原虫は何らかの原因で分裂を再開し、再発の原因となります。四日熱マラリア原虫の成熟体は、血液中に数か月~数年間潜伏し発症させることもあるといいます。

明治~昭和初期の日本では、全国で土着マラリアが流行し多数の感染者を出しました。戦後も500万人を超える復員者による再流行が危惧されましたが、1946年ころの28000人ほどをピークに減少しています。しかし上述のとおり、外国でマラリアに感染し、帰国してから発症する例が年間100~150例程度あるものの、土着マラリアは流行していません。

その理由としては、マラリアの媒介者であるハマダラカの多く発生する水田地帯の環境変化、稲作法の変化などによる発生数の減少や、日本の住宅構造や行動様式の変化により夜間に活動するハマダラカの吸血頻度が低下したことなどが理由としてあげられているようです。

しかし、ヒトスジシマカのような、いわゆるヤブカといわれ、普通にどこでも繁殖する蚊によって最近デング熱が広がっているわけであり、ハマダラカもまた大量に発生する可能性は、今後とも大いにあります。

ちなみに、デング熱に効くワクチンはまだないようですが、マラリアの予防ワクチンは年々開発が進んでいます。このワクチンが実用化された場合、マラリア発症リスクが56%、重症化リスクが47%それぞれ低減されるとされており、日本でも大阪大学微生物病研究所らのグループで開発が行われているそうなので、オリンピックには間に合うかもしれません。

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このほか、「黄熱病」はネッタイシマカによって媒介される黄熱ウイルスを病原体とする感染症です。ネッタイシマカは、全世界の熱帯・亜熱帯地域に分布し、日本ではかつて琉球諸島と小笠原諸島で生息が確認されたことがありますが、国内での定着は確認されていません。また天草諸島でも1944年に異常発生しましたが、1952年までに駆除されました。

1970年以降は天草での採取例はなく、沖縄でも20世紀初頭に確認されたこともありましたが、いつの間にか姿を消し、ヒトスジシマカに席巻されている状況です。最近デング熱で話題になっている新宿界隈でもまだ発見はされていないようです。

しかし、2002年、日本生態学会により日本の侵略的外来種ワースト100に選定されており、再び国外から侵入定着する危険が指摘されています。

このネッタイシマカやヒトスジシマカによってもたらされる黄熱病の特効薬はありません。が、1回接種の生ワクチンによって予防が可能です。ただ、移されると潜伏期間は3~6日で発症し、突然の発熱、頭痛、背部痛、虚脱、悪心・嘔吐などの症状を呈します。

発症後3~4日で症状が軽快し、そのまま回復することもあります。が、重症例では、数時間~2日後に再燃し、発熱、腎障害、鼻や歯根からの出血、黒色嘔吐、下血、子宮出血、黄疸などの症状がみられます。黄熱病の死亡率は30~50%と高く、この黄熱病の研究途中で野口英世が自ら感染し、死亡したことは良く知られています。

主にアフリカで発見された風土病であり、アフリカから遠く離れた日本ではこれまでに多くの人が感染したという例はあまりないようです。だからといって安心はできませんが。

「HTLV-1」もまた、アフリカ由来のウィルスといわれており、最近話題になっています。平成20年度の厚生労働省の調査によると、現在、国内には約108万人の感染者がいることが明らかとなりました。これはB型肝炎やC型肝炎に匹敵する感染者数で、決して少ない数ではありません。

もともと感染者は九州などの地域に多いといわれていましたが、厚生労働省の調査で関東や関西の大都市圏でも増加傾向にあるとわかりました。HTLV-1は、ヒトT細胞白血病ウイルス(Human T-cell Leukemia Virus Type1)の略で、このウイルスは、血液中の白血球の1つであるTリンパ球に感染して白血病を起こします。

母子感染(主に母乳)、性交渉によって感染し、血液感染もします。HTLV-1に感染しても自覚症状はありませんし、また約95%の人は生涯病気になることはありませんが、ウイルスに感染していても症状がない人を「キャリア」と呼びます成人のHTLV-1キャリアのうち、約4~5%が白血病などを発症し、潜伏期間は約40年で男性にやや多い傾向があります。

日本にはもうすでにかなり浸透しているようであり、熱帯病というのは適当ではないかもしれませんが、そうしたものがある、ということも覚えておきましょう。

このほか、「リーシュマニア」は、原生生物が細胞内に寄生して引き起こし、この原虫は「サシチョウバエ」という、ハエによって媒介されます。日本にもチョウバエの仲間は、オオチョウバエやホシチョウバエなどがいますが、サシチョウバエのような吸血性のものは今のところ確認されていません。

これもアフリカ起源でアジア、アフリカ、中南米の熱帯地域に分布する吸血性の「サシチョウバエ」によって媒介され、感染後数ヶ月から数年たってから、発熱、肝臓や脾臓の腫大と貧血といった症状が出て、放置すれば死に至ります。ヨーロッパ各国による新世界の植民地化に伴って流行したもので、最近でも欧州と南米は発生が顕著なようです。

「トキソプラズマ」もまたは、寄生性の原虫によって引き起こされるもので、ヒトを含む幅広い恒温動物に寄生してトキソプラズマ症を引き起こします。世界人口の3分の1が感染していると推測されていますが、通常は免疫により抑え込まれるため大きな問題とはなりにくいようです。しかし、免疫不全の状態では重篤あるいは致死的な状態となりえます。

特に妊娠初期に初感染した場合、胎児が重篤な障害を負うことがあるそうです。日本では、まだあまり広まっていないようですが、症例がないわけではなく、また詳細な疫学調査はほとんど行われていないため、感染経路を含む感染の実数調査が望まれているようです。

「肝蛭症(かんてつしょう)」。これも寄生虫病であり、人獣共通感染症です。蛭によって感染します。日本ではこの原因になる「肝蛭」という蛭が広く分布しており、現状でも感染の可能性はあります。ただ致死性は少なく、初期では発熱や主に肝臓の機能異常を起こし、慢性期では不規則な発熱、貧血、腹痛、消化不良、下痢、黄疸、などがみられます。

「アメーバ赤痢」、これは一般にいわれている赤痢菌による赤痢ではなく、アメーバによって引き起こされるため、細菌感染症ではなく、これも寄生虫症に分類されるようです。大腸に寄生した赤痢アメーバによって引き起こされ、まれに肝膿症や脳・肺・皮膚などへの合併症が報告されています。

感染経路は性感染によるものもあるため、性行為感染症に分類される場合もあり、日本では男性同性愛者、海外旅行者や集団施設生活者などでの感染報告例などが多いといわれています。

「クリプトスポリジウム」、これも原虫によるものでヒトを含む脊椎動物の消化管などに寄生します。場合によっては致死に至ることもあり、先進国においてもしばしば集団感染が報告されています。有名な事例としては、米国ウィスコンシン州ミルウォーキー市(1993年)や埼玉県越生町(1996年)の感染事故などがあります。

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さて、以上ざっと熱帯病と言われる主なものを俯瞰してきましたが、ここに書いていないものでも日本で発症した例はいくつもあります。また、これらからわかるように、ほとんどの熱帯病は、原虫やウィルスを原因とし、蚊やハエ、蛭といった媒介者がこれを運ぶことでヒトに感染することが多いようです。

熱帯化するということは、こうした生物が増えるということです。なぜでしょうか?これは、生物が無生物から区別される特徴として、自己増殖能力、恒常性(ホメオスタシス)維持能力といった能力のほかに、高いエネルギー変換能力を持っているためです。

気温が高いということは、その生命維持のためのより高いエネルギーを得られやすいということであり、このため小さな微生物から大きな哺乳類に至るまで、さまざまな生物相が豊富になります。従って、赤道直下のように世界中で最も気温が高いところに、地球の生物相の大部分が集中しているといっても過言ではありません。

しかし、日本が熱帯化しているといっても、いきなりこのような赤道直下の国のようになることはあり得ません。日本の大部分の地域は温帯に属し、さらにいえば、温帯のうちの「温暖湿潤気候」に分類されますが、上述のとおり、小笠原村諸島や奄美群島、沖縄諸島などのように亜熱帯に属しているところもあります。

従って、熱帯化していると言われる東京もまた、熱帯地域と呼ぶのは少々言い過ぎであり、どちらかといえばこれらの島嶼地域のような亜熱帯に「移行しつつある」、考えるのが適当でしょう。

とまれ、熱帯であれ、亜熱帯であれ、東京だけでなく日本全体もまたこうした暑い地域の気候区分に分類される日が着々と近づいていることは確かのようであり、世界でももっとも生物相が多様といわれる地域になりつつあるわけです。

ということはすなわち、これからはますます、これまでには存在しなかった生物の脅威にさらされていく、ということにもなり、これまで経験しなかったような熱帯病の脅威もさらに増えてくると考えていいでしょう。

しかし、生物の数が増えるということは、必ずしも悪いことばかりではありません。上述のように世界で最も年間降水量の多いインドネシアでは、世界最大といわれる約32万種ともの動植物が生息・生育しており、とくに哺乳類は515種であり、これは世界の12%に相当します。

一国に生息する種数としては世界最多であり、またその多く(36%)が固有種であるなど、インドネシアはアマゾンなどとともに世界でも有数の生物の多様性に富んだ地域となっています。温暖な気候のためもあり、人口も多く、その総人口は日本のおよそ倍の2億4000万人ほどであり、中国・インド・アメリカ合衆国に次ぐ世界第4位です。

今後も人口は着実に増加してゆく傾向にあり、これを支えているのが、この国の豊かな生物相だといえます。マングローブ林などに代表される低湿地から高山帯にいたる森林まで、実に多様な生息・生育環境、生態系が存在します。

振り返ってみれば、日本は高齢化が進み、人口は減る一方です。現在においても豊かな季節変化に恵まれ、世界的にみても多様な生物や植物が生息・生育しているわけですが、これらがさらに多様な方向へシフトしていくと考えれば、まんざらでもなく、もしかしたらそのことによって、人口の減少にも歯止めがかかるかもしれません。

温暖化が悪い悪いとばかりいわずに、増え続けていくであろう生物や植物の多様性をむしろ積極活用し、生活に生かしていくようすれば今後はさらにより豊かな国になっていくような気もします。

熱帯化を大きなビジネスチャンスとしてとらえる向きもあります。例えば温暖化によって増える可能性のある災害に対する備えは、巨大な建設需要にもつながる可能性があり、環境の変化に対応した食住のダイナミックな変化対応の中にもまた商機はあるでしょう。更には、上述のような伝染病の蔓延を防ぐための企業の開発力も培われるでしょう。

また、アパレルの世界では、これまでは8、9月になると来たるべき秋を先取りして秋物が売れていましたが、最近では温暖化が進んで売れなくなっているといいます。秋になってもまだまだ暑いのに、そんなものもう着ていられるか、というわけです。

そういった中で、「見た目は秋、機能は夏」という商品が売れるようになっているそうで、こうした新商品は、購入者の「そろそろ秋モノという頭と、まだ暑いという実感」のギャップに注目したものであり、これからは気候の変動に伴うこうした新たな商品がどんどん出てくるに違いありません。

このように気候の変動は、人の営みに大きな影響を与えるだけに、その変わりゆく部分に広くアンテナを張り、ヒントを探し、取り込む力が、今後の日本人には求められていくのでしょう。

もっとも、暑いところが嫌いな私としては、それでもやはり、涼しいところに住んでいたいと思います。年間降水量2000mm時代の伊豆がどんなところになっているかわかりませんが、気温もさらに上がるようであれば、今度は北海道にでも移住を考えなくてはなりません。

しかし、ここ伊豆だけは、生きているうちには本気でそういうことを考えなくて済む程度の環境変化であってほしいと思うのですが、どうなるでしょうか。

皆さんのお住まいの土地はどうでしょう。熱帯化、進んでいますか?

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コピーが欲しい

2014-5604フランスのラスコー洞窟のことはご存知の方も多いでしょう。

フランスの西南部ドルドーニュ県、ヴェゼール渓谷のモンティニャック村の近郊に位置する洞窟で、先史時代の洞窟壁画があることで有名です。

この壁画は、1940年の今日、9月12日に、ラスコー洞窟近くで遊んでいた近くの村の子供たちによって発見されました。俗には、犬が逃げ込んだ穴から入って、偶然見つけた、といったことがいわれていますが、これは間違いらしく、探検するつもりで、当時15~18歳の4人の少年がこの穴に入って見つけたというのが事実のようです。

地下に長く伸びるこの洞窟は枝分かれし、壁画は一カ所だけでなく、いくつかの大空間にそれぞれ集中して描かれています。これらの空間の側面と天井面、つまり上半部一帯に数百の馬・山羊・羊・野牛・鹿・カモシカなど描かれており、このほか人間や幾何学模様の彩画、刻線画、顔料を吹き付けて刻印した人の手形が500点ほども書かれています。

旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれたと推定されており、絵の材料としては、赤土・木炭を獣脂・血・樹液で溶かして混ぜ、黒・赤・黄・茶・褐色の顔料が使われていました。これらの顔料はくぼんだ石等に貯蔵されており、こけ、動物の毛、木の枝をブラシがわりに、または指を使いながら壁画を塗って描いたと考えられています。

古い絵の上に新しい絵が重ねて描いてある物も多く、レイアウトはなどはあまり気にせず自由に描かれているということで、驚くべきはこの時代にあって既に遠近法が使われていることです。黒い牛の絵などでは、手前の角が長く描かれ、奥の角は手前の角より短く描かれていて、このほかの動物や人の絵にも、同様の遠近法がみられるそうです。

かつては大勢の観客を洞窟内に受け入れていたようですが、観客の吐く二酸化炭素により壁画が急速に劣化したため、1963年以降から、壁画の外傷と損傷を防ぐため、洞窟は閉鎖されました。現在は壁画修復が進む一方、一日に数名ごとの研究者らに応募させ入場・鑑賞させているだけで、一般には非公開となっています。

このラスコーの壁画に描かれている黒い牛は、「オーロックス」と呼ばれる牛であることがわかっています。これは家畜牛の祖先とされており、体長約2.5~3mほどで、体高は約1.4~1.9m、体重約600~1000kgであり、体色はオスが黒褐色または黒色、メスは褐色です。角があり、これは大きく滑らかで、長さは80cmほどとされています。

およそ200万年前にインド周辺で進化したと考えられており、その後中東に分布を広げ、ヨーロッパに到達したのはおよそ25万年前であるとされています。1万1000年ほど前には、ヨーロッパ・アジア・北アフリカなどの広い範囲に分布するようになり、このラスコーの壁画に描かれたのは、これより4000年ほど古い、1万5000年ほど前のものです。

かつてはユーラシア全体および北アフリカで見られましたが、生息していた各地で開発による生息地の減少や食用などとしての乱獲、家畜化などによって消滅していき、南アジアでは有史時代の比較的早期に姿を消し、また、メソポタミアでもペルシア帝国が成立する時代には絶滅していたと考えられます。

北アフリカでも古代エジプトの終焉と同時期にやはり姿を消し、中世にはすでに現在のフランス・ドイツ・ポーランドなどの森林にしか見られなくなっており、16世紀には各地にオーロックスの禁猟区ができましたが、これは単に諸侯が自らが狩猟する分を確保するために設けたものでしかなく、獲物を獲り尽くすとそれぞれが閉鎖されました。

最後に残ったのはポーランドの首都ワルシャワ近郊のヤクトルフというところにある保護区でしたが、ここでも密猟によってオーロックスの数は減り続け、1620年には最後の1頭となってしまい、その1頭も1627年に死亡が確認され、オーロックスは絶滅しました。

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その後、1920年代より、ドイツのベルリンおよびミュンヘンの動物園において、現存するウシの中からオーロックスに近い特徴をもつものを交配させることによってオーロックスの姿を甦らせる試みがなされました。

このように往年の名種を再生したり、新たに品種を作り出したりすることを「作出」といいますが、オーソロックスの作出は1932年に成功し、その個体の子孫は、現在でもドイツの動物園で飼育・展示されています。

このウシは体形や性質はオリジナルのオーロックスに近いものを持っているといわれますが、体格はいくぶん小柄で、作出に携わった当時の動物園長でドイツ人の動物学者、ルッツ・ヘックの姓を採ってヘック牛(Heck cattle)と呼ばれています。

この例にもみられるように、太古に失われた生物や植物を復活させようという動きは、すでに20世紀初頭からあり、最近ではさらに、世界的にそうした動きが加速するようになってきています。

背景には近年、遺伝子操作の技術開発が急速に進んだことがあり、昨年の3月には、オーストラリアのニューサウスウェールズ大学が、80年代に死滅したカエルの一種の遺伝物質を親類のカエルの卵細胞に埋め込む実験を行いました。

ただ、実際に胚子にまで発達したものの数日で死んでしまったそうです。また、2009年にも絶滅したヤギの一種のクローンが生まれましたが、生後数分で死亡しています。しかし、学者たちの多くは絶滅種のクローン化のブレークスルーは間近だと予測しています。

カエルであれば、あと1、2年で成功するかもしれないという遺伝子技術の専門家もおり、マンモスの場合でも、20~30年くらい実現できるのではないかといわれているようです。このほか、1930年代に絶滅したタスマニア・タイガー、17世紀に死滅した「飛べない鳥」ドードーなどの再生が研究されており、学者たちの挑戦は続いています。

このように絶滅した種を蘇らせるには、保存状態の良いDNAを摂取できる組織が必要です。だいたい20万年前までのDNAであれば、おそらくは問題なくクローンをつくることが可能だといわれています。が、もしかしたらだけど、これより前に絶滅したとされている恐竜の復活もできるのでは、ジュラシック・パークが実現するのでは、と誰しもが思うでしょう。

しかし、結論からいうと、これはかなり難しいということです。オーストラリアのマードック大学の研究グループは、たとえDNAが残っていて、これを最適な条件下で培養しても、恐竜が絶滅してから現代までの間の10分の1以下の時間で、DNAの結合が壊れてしまうことがわかったと発表しています。

彼等は、現在までに残されているいろんな生物の標本の年代と、これから採取されるDNAの劣化の状態を比べてみて、DNAの半減期はだいたい520年くらいだと割り出したそうで、これは、520年たつと、標本のDNA構造の半分が壊れてしまう、ということです。さらに520年たつと、残りの半分も崩壊します。

たとえ標本を理想的な状態のマイナス5℃で保存しておいたとしても、クローンが残せる効果的な結合は、最大680万年で完全に壊れてしまうと予想されるそうで、従って最後の恐竜が生きていたのは、6500万年前のことであるため、現在使えるDNAはこの世に存在しない、ということになるようです。

生物が死ぬとそのDNAはかなり早く解読不能になってしまうというわけで、520万年はおろか、150万年もたてば、残っているらせん構造が短くなりすぎ、重要な情報を伝達できなくなってしまう、ということもいわれています。

世界中で発見されている化石には、使えるDNAは残されておらず、これからもありえないだろうというのが、これまでの研究からみられる予測であり、恐竜の復元は、現在の科学技術では不可能というのが現実のようです。

が、もしかしたら、ありえない条件下で発見された恐竜の化石に、奇跡的にDNAが残されている可能性があるかも、とついつい思ってしまいます。また、恐竜の末裔ともいえるべき動物たち進化をさかのぼり、そのDNAを利用することで、新たなる道は開けるかもしれない、と思ったりもするのですが、我々が生きているうちにはその実現は難しいでしょう。

ただ、失われた生物の復活は難しいとしても、現在生きている種や、新しく作出された品種のコピーなどであれば、DNAさえあれば、現在の技術を使ってなんでも作れるまで科学は進歩してきています。

いわゆる「クローン」と呼ばれる技術を使えばいいわけであり、この「クローン」という言葉は、同一の起源を持ち、尚かつ均一な遺伝情報を持つ核酸、細胞、個体の「集団」をさします。もとはギリシア語で植物の小枝の集まりを意味することばから来ており、本来の意味は「挿し木」です。

1903年、ハーバート・ウェッバーという学者が、栄養生殖によって増殖した個体集団を指す生物学用語として“clone” という語を考案しました。「栄養生殖」というのは、胚、つまり俗な言い方をすれば「卵」や種子を経由せずに根・茎・葉などの栄養器官から、次の世代の植物が繁殖する無性生殖であり、イモ類や球根で増える植物がその良い例です。

また、地上の浅いところに薄く「茎」をのばして増殖する植物もクローンであり、竹はその好例です。我々が根だと思っている竹の根は実は茎にすぎません。タンポポにも広大な範囲に渡ってクローンを形成する種があり、カビは、体細胞分裂により生殖子を作る無性生殖が広く行なわれており、これも子孫をクローンによって増やしています。

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従って、現在では新しい技術のように思われていますが、もともとこのクローンは自然界にも普通に存在するものです。特定の植物のように、「無性生殖」を行う種は、原則としてクローンを作って増えており、動物においても単細胞生物の細胞分裂は基本的にはクローンによる複製です。

天然にクローンを作る種では、進化により、その環境に応じた適応が生まれ、こうしたことができるようになったと考えられていて、環境条件にもよりますが、こうした種の親は自分のクローンのみを生みさえすれば生殖活動など必要なく、最も効率よく子供を繁殖できることになります。

しかしクローンは、同一種のコピーにすぎないため、伝染病、寄生虫などの単一の要因により大きな被害を受ける可能性があります。これが、クローンのみによる繁殖をする種が少ないことの一因です。

ただ、その弊害をも乗り越えて、自然界に存在するクローンを人為的に行おうとする試みは多数の研究者が行い始めており、これが「クローン技術」といわれているものです。例えば植物についてみれば、古くから農業・園芸で行われている「挿し木」が実はクローン技術です。これはクローンの語源である、とは上でも述べました。

また、遺伝子をクローニングすることは、インシュリンの製造などの過程で行われています。インシュリンは糖尿病などの治療に有効な薬で、当初はヒトインスリンに構造が非常に近いブタやウシのインスリンからヒトインスリンが合成されていました。

しかし、この方法では大量のインシュリンを製造できないため、1970年代の初頭から、ヒトインスリンの遺伝子の情報を、微生物中にあって自らを複製するDNA、「プラスミド」に組み込んで大量培養し、微生物にヒトインスリンを産生させる技術が開発されました。

現在ではインスリンの各アミノ酸配列に対応する遺伝子を化学合成してプラスミドに組み込み、大量にインシュリンを作り出すということが行われており、これも最新の遺伝子工学を応用したクローン技術です。

このように植物や遺伝子レベルでのクローン技術は現在までにも既に実用化されているものは多く、いまや有用物質を生産する上において、不可欠の技術となっています。

ところが植物とは異なり、動物ではプラナリアやヒトデなどのごく一部の例外を除き、分化の進んだ、つまり大人になった体細胞や組織を分離してその細胞を動物個体に成長させることは未だにできていません。これは、細胞分裂を繰り返したことより、こうした分裂化が進みすぎた体細胞には分化機能、すなわちコピーを作る能力が失われているためです。

ただ、分化の進んでいない、つまり分化機能を保ったままの受精卵ではそれが可能です。この受精卵を使った方法で最初に開発された方法は「胚分割法」といいます。受精卵を分割して、それぞれから正常な個体クローンを作成する方法で、この方法による人工的な動物個体のクローンは、ウニにおいて1891年に初めて成功しました。

その後カエルやマウスの実験から核移植法というものが開発されました。クローン元の動物の細胞核を未受精卵に移植することによりクローンを作成する方法で、クローン元の動物の細胞核が、生殖細胞(胚細胞)由来の場合は胚細胞核移植、体細胞由来の場合は体細胞核移植といいます。前者は卵細胞クローン、後者は体細胞クローンともよばれています。

この前者の卵細胞クローン技術を使った、哺乳類のクローンとしては、1995年、イギリスの、エジンバラ大学付属のロスリン研究所が、分化の進んだ胚細胞の核移植に成功し、これを育て上げてメーガンとモラグという2体のヒツジのクローンの作製に成功しました。これによって初めて分化後の胚細胞からのクローン化に道がつけられました。

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卵細胞クローンとは一体どういったものかといえば、これは簡単にいえば、2匹の雌雄を親に持つ双子、3つ子、5つ子といった、多胎児を人工的につくってやることです。

牛や豚などの畜産動物の生産においては、良質の動物を数多く出生させる目的でこの方法が実用化されています。例えば、質の良い雌雄の受精卵をあるていど分裂が進んだ状態にあるとして、この分割数を仮に8個としましょう。そしてこの8個の受精卵を取り出します。

そして、これを核を取り除いた別の卵子に挿入し、別の雌の子宮で育てて、卵細胞クローンを作ります。 結果的には、質の良い遺伝子の雌雄を両親に持っ8つ子が誕生するという仕組みです。

ただし、この方法では、同時に生まれる子供の遺伝情報は同じですが、その遺伝情報は、親である雄と雌の情報を半々に受け継いでいます。つまり、雄親か雌親のどちらかの遺伝子だけを持った完全コピーではないわけであり、一般にイメージされているクローンとは違ったものかと思います。

これに対して、たとえば、ひとつの動物の遺伝情報から、その動物とまったく同じ動物を複製するのが、体細胞クローンです。体細胞クローンでは、まず、親となる成体の細胞を使い、この細胞の核を飢餓状態、つまり栄養を与えないようにし、細胞が分裂しないように停止させます。

その後、核を除去した未受精卵と電気的刺激を与えることにより「細胞融合」を起こさせ、その後「発生」、すなわち受精卵から成体になるよう促すことにより体細胞由来のクローンの胎子を作ることができます。この方法で誕生させ、育てた子供は、雄でも雌でもその片親とほとんどまったく同じ遺伝情報を持つことになります。

この方法でも、クローンを作るためには受精卵が必要です。しかし、方法はどうあれ、両親は必要なく、雌雄どちらかだけの体の一部を切り取って、クローンを作ることができる可能性を示したもので、これはすごいことです。

こうして、1996年7月、上述のロスリン研究所のイアン・ウィルムットとケイス・キャンベルによって、ヒツジの乳腺細胞核の核移植によるクローン、「ドリー」が作られました。これは哺乳類で初めて体細胞から作られたクローンということで、このドリーの衝撃は世界中を覆いました。

が、その後ドリーは2003年2月14日に死亡しました。ヒツジの平均寿命は10年から12年であり、20年生きるものもいることから、これはやはり人工的に作ったために遺伝子の劣化が起こったのではないか、ということが言われているようです。

さらに、1997年には同研究所において、人為的に改変を加えた遺伝子を持つヒツジのクローン2匹が作成され、これはポリーとモリー名付けられました。人為的に改変を加えた遺伝子を持つ動物は、「トランスジェニック」といいますが、これはトランスジェニック動物のクローンとして世界で初めてのものでした。

その後細胞融合による体細胞核移植はさまざまな動物で試されるようになり、1998年にはウシにおいてもクローンが作成されました。ところが、この年さらに体細胞を核を除去した卵子に直接注入することにより、細胞融合を行わずクローン個体を作製する方法が開発されました。

これをホノルル法といいます。前述までの体細胞クローンを作るためには、核を除去した未受精卵と電気的刺激を与えることにより「細胞融合」が必要でしたが、このホノルル法ではその過程を省くことができ、より簡単にクローンを作ることができるようになりました。このため現在、このホノルル法がクローン作成法の標準といわれています。

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この技術を開発したのは実は日本人です。若山照彦という人で、世界で初めてこの方法によってクローンマウスを実現した人物であり、2008年には16年間冷凍保存していたマウスのクローン作成に成功し、絶滅動物復活の可能性を拓きました。

どこかで聞いたことのある名前だと思う人も多いでしょうが、そうです。最近大騒動になっている、STAP論文の共著者でもあります。ちなみに、ホノルル法という名が付けられたのは、彼がハワイ大学に留学していた時代にこの方法の開発に成功したためです。

この細胞融合を必要としない体細胞核移植であるホノルル法によって、現在では、ネコ、ウマ、ヤギ、ウサギ、ブタ、ラット、ラクダなど多くの哺乳動物で、体細胞由来のクローン作成の成功例が報告されるまでになっています。

ではヒトのクローンは現在存在するのでしょうか。ヒトのクローンは未だ成功していないとする考えが一般的ですが、一部には既に成功例があると噂されています。

アメリカのパナイオティス・ザボスという研究者は、実際に死者のヒトクローン胚も作成したことがあると語っています。10歳のとき交通事故で亡くなった赤ちゃんの血液が冷凍保存されていたものをその母親がこのザボス博士に送り、博士はこれを牛の卵子に融合させ、人間と牛を交配したクローンを造成したといいます。

この人と牛のハイブリッド種は試験管で生成後、クローン生成プロセスの研究に役立てられたといいますが、このときはさすがにザボス博士も動物と交配させてできた「ハイブリッドクローン人間」の創造にまでは踏み込まなかったようです。

ところが、博士は2009年4月、100%ヒトのクローン胚を14個生成し、うち11個を女性4人の子宮に移植したと発表しました。

移植手術に立ち会ったドキュメンタリー監督が英インディペンデント紙に語った証言によると、女性たちはみな人類初のクローンベイビー出産を望む人たちだったそうで、子宮提供者は既婚3名に未婚1名。イギリス、アメリカ、そして中東の出身です。

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無論、ヒト・クローンの作成は多くの国の法律で禁じられています。日本でも「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」が公布されていて、クローン人間の作製に罰則を科し、これを禁じています。

これは英米でも同じであり、このため、博士は米国内2つのクリニック以外に秘密のラボを構え、移植はそこで行ったようです。おそらくクローンが違法化されてない中東のどこかの国ではないかと噂されています。

しかし、このときは移植した胚はどれも妊娠には至らなかったとされており、博士は記者のインタビューに応じ、これは人の細胞からクローンベイビーを生成する研究の“第1章”に過ぎないと語り、さらに「研究を強化すればあと1年か2年で実現できる」と語ったということです。

このときから、現在すでに5年が経っており、その後ザボス医師からの公表はないようですが、既にタブーは破られ、ヒトクローン胚を実際に女性の子宮に移植した結果、クローン人間は既に世界中に存在しているのではないか、という噂が飛び交っているわけです。

先日も、24歳の日本人男性がタイで代理出産により16人もの子供をもうけていたとされる問題が発覚しており、その目的は何かよくわかりませんが、何が何でも子どもが欲しいという人は世界各国にいると思われ、とても噂の範疇では終わらない気がします。

この「クローン人間」が実際に実現している、と仮定しましょう。すると、一般には「自分と姿・形が全く同じ人間」というイメージがありますが、現在の技術水準を考えると、SFのようにまったく同年齢のクローン人間を創るということは不可能であり、いったん誰か女性の子宮を借りた上でコピーを作り、赤ちゃんのときから育てあげる必要があります。

従って、仮にコピーを創ったとしても、誕生した時点ではクローンは赤ん坊であるため、既に大人である細胞の提供者とは年齢のギャップが生じます。このため、当然容姿は似ているでしょうが、本人同士は互いに相手のことをコピーというふうにはあまり思わないかもしれません。

また発生生物学的に考えると、血管のパターン(配置構造)や指紋などは後天的な影響によって形成されることが知られています。従って、コピーといえども、血液パターンや指紋などは遺伝的に異なっている可能性が高く、「生体認証技術」などでもはじかれてしまう可能性があるといいます。

もっともかなり本人には近いはずなので、認証手法によってはシロ、とされてしまう可能性もなきにしもあらずです。ただ、最近の生体認証技術はかなり向上していて、こうした高度な技術を使った認証システムに基づいたセキュリティシステムにおいて、クローン体がこれを突破しようとすることは現実的ではない、といわれているようです。

ヒトのクローンをつくる目的は、このように犯罪への応用が懸念されています。それだけでなく、他にも多くの倫理的な問題を包含しており、例えばコピーしたヒトは、当然意思を持つはずであり、ロボットではないわけですから、その国籍はどうするのか、また人権はどうなるのか、といった色々な問題が出てくるはずです。

が、非常に難しい問題なのでこれに関する議論はカンカンガクガクであり、それに対する十分な答えはいずれの国でもまだ用意されていません。これが現在、日本をはじめ多くの国でクローンをつくることを禁じている理由です。

一方、完全なる個体全身のコピーではなく、その途中経過で発生した幹細胞を利用することで、元の細胞提供者の臓器などを複製し、機能の損なわれた臓器と置き換える、あるいは幹細胞移植による再生医療に使うためのクローン技術の研究もなされています。こちらなら、倫理的にも容認されやすいでしょう。

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しかし、臓器といってもいろいろあり、例えば心臓、また臓器ではありませんが、脳などのように人間が人間であるがゆえの根本機能を司る体の一部の製造には反対する意見も多く、どこまでがクローンなのかといった技術の体系化も含め、世界各国で議論がなされている中で、ともかくヒトクローンを創ることは許されないとする向きが多いのも確かです。

それぞれの国によっていろいろな事情があり、その理由もさまざまあると考えられ、例えば「外見の全く一緒の人達が何人もいると社会制度上大変なことになる」といったことや、「優秀な人間のクローンをたくさん作り優秀な人間だけの軍隊を作る」、「独裁者がクローンで影武者を立てる」などといったSF的なものもあるでしょう。

もっとも、生まれてきたクローンにもそれぞれ意思があるはずであり、優秀な人間だけで軍隊や野球チーム、サッカーチームを作るためには、クローン人間に子供のころから強制的に軍人やスポーツ選手の道を歩むよう、し向けない限りは不可能です。それを強制するというのは人権の無視であり、奴隷制度にもつながりかねません。

では、クロマニヨン人やネアンデルタール人等といった、ヒトの祖先を蘇らせるのはどうか、ということになると、人類進化のための研究のため、という観点からは許されそうな気がします。しかしそもそも絶滅した古人類をヒトとして扱うか動物として扱うか、ということになるとなかなか結論が出そうもありません。

ただ、6500万年前に絶滅した恐竜と異なり、人類の歴史はせいぜい10万年程度ですから、マンモスの生体細胞の再生が研究されているのと同じく、人類のDNAの再現は不可能ではありません。アイスマンのような保存状態のよい、古人類の生体が発見されれば、そのクローン化の実現は望まれるかもしれません。

アイスマンとは、1991年にアルプスにあるイタリア・オーストリアの氷河で見つかった、約5300年前の男性のミイラです。ヨーロッパの青銅器時代前期のヒトとされるもので、解凍、解剖され、脳や内臓、骨、血管など149点ものサンプルが採取された結果、ヒトの進化に関する重要な発見もいくつか見出されているといいます。

このように、「自然の産出物」に対する興味から人類は科学を発達させ、生き延びてきたわけであり、このため法学者たちはいくら法規制をしたとしても、研究者やクローンを作ろうとすることは止められないだろうと述べており、また権力者の中にもすくなからず自分のクローンを欲しいと思っている人物も多いに違いありません。

上述のザボス博士の例にもあるように、自国では禁止されているから、他の国で作ろう、という研究者はあまたいると思われ、全世界共通の倫理基準を作るべきだと主張する法学者もいます。

ただ、こうした禁止措置はES細胞、iPS細胞などのような新しい生命科学の発展の障害ともなる可能性があり、両者の考え方の対立がさらに浮き彫りになりつつあるようです。

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一方、宗教的にみると、多くの宗教家はクローン、特に人間のクローンの作成について批判的な見解を持っているようです。

例えば日本の浄土宗は、クローン人間作製を批判する声明を出しています。クローン人間の作成は命への冒涜であり、「人間の優劣・差別、支配・被支配につながるとともに、奴隷人間の生産という修羅道への転落を予告するものである」と主張しています。

また、日本カトリック教会も、クローン人間も絶対的価値と尊厳を有する「人間」であることに変わりはなく、「人間」を作る行為は神によってのみなされるべきものであって人間の手でなすべきことではないと主張しています。

キリスト教ではまた、クローン人間が持つ「男女の営みにおいて誕生し、父と母とのもとで養育される権利」を誰がどうやって保証するのかが明らかになっていない、という点を批判しているようです。

さらに、ヒトのクローンの研究が本当に人類の存続に貢献するかどうかを疑問視する向きもあり、その理由としては、こうした「神の領域」へ踏み込むことによって、予測できない災厄が人類に降りかかる可能性があげられます。

クローン技術によって人工臓器を作って難病に苦しむ人を助け、不妊に苦しむカップルに子孫を残す方法を与えることは、なるほど理にかなっているようにも思えますが、そうした研究の過程において思わぬバイオハザードが起こる可能性もあり、また遺伝子汚染などによって人類が従来とは全く違う異なものになっていくことも考えられるわけです。

医師や研究者のように正しいクローンの知識をもたない者が、誤解から生じた誤った信念に基づきことさらに恐怖心を煽ったり、感情的な判断で世論を誘導したりして、これまで考えられなかったような理由で国際紛争がおこったりする可能もあるわけです。

クローン人間の出現が現実もののとしてあり得るようになったこの時代においては、研究者だけでなく、我々自身もまた今後は、そのあり方についてよくよく考えてみる必要がある段階に入ってきているといえます。

さて、最後に質問です。あなたのとなりにあなたと全く同じ姿をしたあなたがいる、これが現実となったとき、あなたはそのあなたを果たして受け入れられるでしょうか。

私ですか?わたしなら、そんなもの、受け入れたくもありません。こんなできそこないが、世界中をうろつき始めたら、それこそ世界の滅亡も近いことでしょう。

が、せっかくなので、彼と共同で何か面白い事業などをやってみるのもいいかも、とか思ったりもしないではありません。マジックショーなどがいいでしょう。この場所とどこか遠くに二人それぞれいて、これを「瞬間移動」と人に思わせる、なんてのはかなり受けそうだし、いい金儲けができそうです。

もっとも詐欺はいけません。犯罪にも使ってはいけません。が、アリバイを作ろうとすれば簡単にできそうです。

例えば、私のコピーが、私の知らないところで、浮気などをしたら、どうしましょう。万一にでもそれがばれるとタエさんに追い出されてしまいそうです。自分ではないのに……が、少しうらやましいかも……複雑です。

皆さんはいかがでしょう。もし自分のコピーができたら、どう使いますか?

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伊豆の水は甘いか

2014-4871朝晩の空気が冷えてきて、秋近しの感があります。

空気もそうなのですが、水道の蛇口から出る水も、ひところまでは生ぬるかったものが、ひんやりと感じるようになり、このあたりにも秋の気配を感じます。伊豆市の水は渓流などの表流水と地下水の汲み上げでまかなわれており、このため暑い寒いの季節変化は即、水道水の温度にも現れてきます。

また、水道水、といいながら、都会の水道水にありがちなカルキ臭さはまるでなく、そういえば、電気ポットの内部に溜まりがちな、あの白いカルキの結晶も付着しているのをほとんどみたことがありません。

生で飲んでもいつもおいしく、自然の恵みによって生かされている、と感じることができ、改めてこの地に移り住んできてよかったな~と思う次第です。

このカルキですが、正式名称は、「次亜塩素酸カルシウム」といい、消石灰(水酸化カルシウム)に塩素を吸収させて製造します。次亜塩素酸カルシウムを製品化した粉末は、一般にさらし粉(晒し粉)と呼ばれ、これはドイツ語でクロールカルキ(Chlorkalk)なので、略してカルキ、あるいは訳して塩化石灰ともいいます。

次亜塩素酸カルシウムの消毒薬としての効能は吸わせる塩素の量によって変わり、高含有量の製品が「高度さらし粉」と呼ばれます。この高度さらし粉は、吸湿性が小さく、長期の保存に耐えるなどの利点があり、水に可溶で酸化力が強いという特徴があります。

水道水に用いられるのは、濁った水の漂白や水に含まれている細菌を滅するなどの消毒などにも有効であるためであり、これを固形化したものはプールや、プールの付帯施設の足洗い場、腰洗い槽の消毒などにもよく用いられます。

こうした効能は、ひとえにこれに含まれる塩素のおかげです。塩素の漂白作用は1785年にクロード・ルイ・ベルトレーというフランスの医師により発見されました。

化学者でもあり、化学物質の命名法や名前の体系を決めたことでも知られており、それらは現代の化合物の名称の体系の基礎となっています。フランス元老院の副議長もやった政治家という側面もあり、文理両道の人でした。

ベルトレーは塩素漂白を発見したものの、当初、塩素自体の臭い及び毒性の強さから、漂白剤としての実用化は困難と考えました。しかしその後、塩素を石灰水に溶かすと安全かつ漂白作用を維持できることに気づき、1786年にこのことを友人のジェームズ・ワットに教えました。

ジェームズ・ワットといえば、蒸気機関の発明で有名です。この発明によりイギリスのみならず全世界の産業革命の進展に寄与した人物ですが、ワット自身は塩素消毒の技術をさらに深めることはせず、さらにチャールズ・テナント という人物にこれを伝え、彼が1799年に固体で保存できるさらし粉の原型を完成させました。

さらし粉ことこの次亜塩素酸カルシウムにはその後、強い殺菌効果があることも確かめられました。しかし、殺菌効果があるということの裏返しは、実は強い毒性を持つということです。ベルトレーが塩素の漂白を発見したものの、その実用化にこぎつけなかったのもこの毒性の強さゆえです。

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その証拠に、化学兵器としても使われたことがあります。第一次世界大戦中の1915年4月22日、イープル戦線ではこれが使われ、この時にドイツ軍の化学兵器部隊の司令官を務めていたのは後年(1918年)ノーベル化学賞を受賞するフリッツ・ハーバーです。

この戦争では、塩素だけではなく、その他の各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもあります。毒ガスの使用は、毒を施した兵器の使用を禁じているハーグ条約に違反するのではないかと問われたフリッツは、毒ガスを使って戦争を早く終わらせることは、多くの人命を救うことにつながると語っていました。

しかし、ドイツの毒ガス作戦は国際的な非難を浴び、また、彼の周囲でも反対意見があり、とくに妻のクララも夫が毒ガス兵器の開発に携わることに強く反対し続けましたが受け入れられず、彼女は抗議のために自ら命を絶っています。

フリッツはクララの死後も毒ガス作戦を継続するとともに、新たな毒ガスの開発を進め、その後ノーベル化学賞を受賞するに至ります。が、この当時、毒ガス兵器を戦争で使用したドイツの科学界に対する国外からの反感は大きく、この受賞に対しても各国からの批判がありました。しかし、ドイツ国内ではなお一層愛国的科学者として名声を受けました。

ところが、彼はユダヤ人だったため、その後ナチスが台頭する第二次世界大戦では、抹殺こそはされなかったものの不遇の日々を起こることとなりました。戦後はイギリスやスイスに渡り研究をし続けましたが、冠状動脈硬化症により65歳で死去しました。

彼はケンブリッジにいた頃、自分の遺灰はクララと一緒に埋めてほしい、そして墓碑銘には「彼は戦時中も平和時も、許される限り祖国に尽くした」とだけ記してほしいと遺言書に記していたそうで、このため彼の遺体は、妻のクララとともにスイス、バーゼルにある墓地に埋葬され、その墓碑にはその通り記されています。

さて、寄り道が過ぎましたが、このように毒ガスに使われるほど塩素は毒性が強いため、吸引するとまず呼吸器に損傷を与えます。空気中を漂う塩素ガスは、皮膚の粘膜を強く刺激し、目や呼吸器の粘膜を刺激して咳や嘔吐を催し、重大な場合には呼吸不全で死に至る場合もあります。また液体塩素の場合には、塩素に直接触れた部分が炎症を起こします。

塩素を浴びてしまった場合、直ちにその場から離れ、着ていた衣服を脱ぎ、毛布に包まるなどして体を温めなければならず、直ちに医療機関での処置が必要です。塩素を吸い込んで呼吸が停止している場合もあり、一刻も早く人工呼吸による蘇生を行わなければなりません。呼吸が苦しい場合には酸素マスクの着用も必要です。

現在においても、一般家庭にある塩素を含む漂白剤とトイレ用の洗剤のような酸性の物質を混合すると、有毒な単体の塩素ガスが発生することがあります。このため、漂白剤や酸性のトイレ用の洗剤には「混ぜるな危険」との大きく目立つ表示があります。

1986年には徳島県で、また1989年には長野県でも、実際に塩素系漂白剤と酸性洗浄剤を混ぜたことにより、塩素ガスが発生し死亡した事故が起こっています。このように人体にはあまりよろしくない物質ですが、安定で、かつ安価に合成でき、その分量さえ間違えなければ、毒性は低く、逆に殺菌効果のように人のためになる効能を入手できます。

このため、現在の日本では上下水道やプールのみならず、温浴施設の殺菌消毒、リネン・おしぼり業での殺菌・漂白、など広くわれわれの生活に浸透しています。コレラなどの病気が日本も含めてほとんどの国で駆逐されたのは塩素を含んだ水道水のおかげでもあります。

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しかしその一方で、「塩素神話」とも言えるほどのこの薬品への過信と依存が生まれ、その本性への誤解が、新しい問題を引き起こしています。以下、さらにこのことについて書いていこうと思いますが、「次亜塩素酸カルシウム」のままでは書きづらいので、この項ではその主原料である、「塩素」として話を進めます。

そもそも塩素はどうしてこんなにも使われているのでしょうか。これは、そもそも自然界に豊富に存在するため入手がしやすく価格が安いためです。地球上において、92ある天然元素のうち18番目に多く存在し、鉱物やイオン、気体などとしてマントルに99.6 %、地殻に0.3 %、海水に0.1 %が保有されています。

またこれまでの研究結果からは安全性が高いとされ、食品添加物としても認められています。また、日本は雨水や河川水は豊富にあり、こうした豊富な水には大量の細菌や不純物が含まれており、そのまま飲むと健康を害してしまうため、その消毒にも使われています。

大量にあるこの水を低コストで衛生的、かつ安全に使用するために最適な薬剤として選ばれたものこそが塩素であり、現在では、日本人の生活を支える上においては必要不可欠なものになりました。

塩素注入が行われるようになったのは、日本では1890年代になってからです。従ってすでに120年以上経過していますが、世界的にも現在でも水道水の最も重要な消毒剤として君臨し続けています。塩素系の消毒剤としては上述の高度さらし粉(次亜塩素酸カルシウム)以外にも液体塩素、次亜塩素酸ナトリウム、などがあります。

これら塩素消毒薬の長所としては、以下があげられます。

1.塩素は消毒の効果が大きくて確実であること
2.消毒の効果が後々まで残ること(残留効果がある)
3.大量の水でも容易に消毒できること
4.残留塩素の測定が容易で維持管理が容易なこと

残留効果についてですが、水道のように浄水場から末端の給水栓までの距離が長い場合など、その途中で微生物が再増殖してしまう恐れがあります。このような微生物の再増殖現象をアフターグロースと言いますが、これを防ぐためには塩素のようにその効果が持続する残留効果が必要となります。

塩素を含んだ水道水の殺菌効果には高い継続性があるのです。しかし、良いことばかりのように見えるこの塩素消毒にも大きな問題点があります。

そもそも塩素が導入されるようになったのは、我が国では1960年代頃から産業の急速な進展に伴って自然環境の汚染が進み、河川、湖沼などの表流水や地下水も次第に汚濁が進むようになったためです。

その昔は、原水の質が悪くなれば悪くなるほど、加える塩素は多いほど良いと水道関係者は考えていたようです。なぜかと言えば、水道水の摂取による最大のリスクは細菌による感染症にあるという考え方が主流だったためです。

現在でも開発途上国においてはそれが正しい見解で、すべての病気と死亡者の原因の半数以上は、汚染された水の使用が原因だという報告もあります。日本の場合も塩素が用いられる前には水道水が原因となって赤痢が頻繁に発生していましたが、塩素の投下によって1970年代にはほとんどゼロになりました。

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また、現在ではその他の細菌性の病気もまず日本の水道水はどこでも発生することはありえない、とまで言われるようになりました。ところが、近年になって、塩素消毒によって、発ガン性物質が発生する、ということが問題視されるようになってきています。

「トリハロメタン」といい、浄水場での塩素消毒の際に、水中の溶存有機物と反応して生成されます。

有機物は主に動植物の死骸などに由来するものですが、これらは富栄養化した湖沼水やそれを水源とする河川水中に存在し、このほか下水などが混入した河川水中にも含まれます。また自然水中に存在する着色物質であるフミン質などもこの有機物質であり、これらの有機物質と塩素との反応により生成するのが、トリハロメタンです。

トリハロメタンは、一種類だけではなく、代表的なものは7種類ほどありますが、この中には麻酔薬にも使われるクロロホルムなども含まれていて、これらを総称して「総トリハロメタン」と呼びます。

総トリハロメタンは発癌性だけでなく、これの摂取による乳幼児の奇形なども疑われており、最近は、新聞報道などでも水道水中の総トリハロメタンをいわゆる「環境汚染物質」として取り上げることも多くなってきています。このうち、クロロホルムに関してはとくに肝障害や腎障害を引き起こすことが知られています。

とはいえ、日本の厚生労働省の基準は、WHOのガイドラインよりも厳しいものとなっているため、上水道水中のトリハロメタンの数値は、既に厚生労働省基準の数分の1以下もしくは測定レベル以下となっているケースが多く、一般の水道水を飲んですぐに癌になったり、肝臓が悪くなったりといったことはありません。

が、トリハロメタンは、短時間の煮沸でも除去できない、といった間違った報道されたことなどから、最近の環境ばやりにより、逆に短時間の煮沸はトリハロメタンを増加させる、といったデータをあげて危険性を煽り、数十万円の浄水器等を売り込む商法も見受けられます。

このような浄水器の購入を検討する場合には、沸騰直後にはトリハロメタン濃度が一時的に増加するものの、3分以上の沸騰により濃度は半減、10分の沸騰でほとんど消滅するといったことを知っておく必要があります。従って家庭用の電気ポットで除去できないトリハロメタンもガスなどでさらに過熱すれば除去できます。

また、業者が使う検査キットは、厚生労働省の基準をはるかに下回っても危険である可能性もあること、上水道水中のトリハロメタンの数値は、既に厚生労働省基準以下もしくは測定レベル以下となっているケースが多く、煮沸で数倍に増えたところで人体に大きな影響が出るとは考えにくいことなども知っておいたほうが良いでしょう。

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さらに、人間が日常的に摂取、被曝している物質の中には、トリハロメタン以外にも発癌性が確認または疑われるものは多数あり、仮にトリハロメタンによるリスクを除去したとしても、それは全体的な健康リスクの一部が減ったことにすぎません。

化学物質による発ガンリスク分配率としては、水道2%、大気6%、その他2%、食品90%といわれています。つまり、水道由来の発ガンリスクはもともと比較的低いわけであり、水道水に含まれるリスクだけを排除してもあまり意味がありません。

これらに比べれば喫煙のリスクのほうがもっと高いといわれています。すべてのガンによる死亡の30%ぐらいが喫煙が原因であり、水道水や大気汚染などの癌リスクとは桁が違います。

ただ、塩素の入った水道水には、少ないとはいえトリハロメタンのような発癌性物質が含まれているのは確かです。しかしこうした発癌性のリスク以上に最近取沙汰されているのが、塩素の入った水道水で炊飯したり料理をすると、特にビタミン類が破壊されてしまうということです。

日本の水道水に含まれている塩素濃度は、病原生物に著しく汚染される恐れがある場合を想定しているところが多く、だいたい塩素が1.5mg/L(1.5ppm)以上のところが多いようです。

埼玉県にある女子栄養大学では、こうした水道水についての食品への影響を調べるため、いろんな塩素濃度の水道水を使ってご飯を炊いて実験をしました。その結果によればご1.5ppmの濃度の水道水で炊いたご飯の中のビタミンB1の残留量を調べたところ、ビタミン残留量は、14%にまで激減したそうです。

また、水道水で、野菜・米・レバーなどの食品を洗うと、ビタミンの10~30%が損失するともいわれており、これは塩素が食品の細胞に入り込み、ビタミンを壊すことが原因です。キャベツの千切りを氷水などにつけるとシャキッとすることは料理のコツとして知られていますが、水道水でなら、実はどんどんとビタミンが破壊されていることになります。

今の野菜は、農薬漬けですから、ただでさえビタミンやミネラルが不足しているのに、その上に水道水で洗浄、調理すれば塩素によるビタミン破壊もあるということになってしまうのです。

なので、出来るだけ水道水に含まれる塩素は少ない方がいいわけです。ところが、日本の水道水質基準では、蛇口での残留塩素の濃度を0.1mg/L(0.1ppm)以上とだけ決められていて、上限が決められていません。

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一方では原水の汚染も年々ひどくなる一方で、それに伴って塩素の注入量が増やされています。特に、夏場には食中毒の恐れもあるため多量の塩素を入れる自治体も多いようですが、水道水質基準で上限が決められていないため、野放し状態といっても過言ではありません。

そもそもは感染症予防のために導入された塩素消毒ですが、現在ではこれによって水道水中にできてしまう発癌性物質の摂取や栄養素の破壊のリスクの方が、むしろクローズアップされてきているのです。

トリハロメタンは、含有量は少ないとはいえ、発ガン性が確認されている有害物質ですから、当然「ゼロ」であることが望ましいわけです。が、水道水に塩素を投与する限り、どうしても生成されてしまうのは避けられないわけで、原水がかなり汚染されてきた日本の現状では、必要悪ということになり、非常にもどかしいことではあります。

ちなみに、日本におけるトリハロメタンの基準値は、種類にもよりますが、0.03~0.1ppmです。これに対し、ドイツではわずか0.025ppm程度であり、日本よりもかなり小さくなっています。塩素と結合してトリハロメタンを生成する有機物の除去の方法が今後はさらに模索されるべきでしょうし、あるいは塩素に代わる消毒薬の開発が求められています。

このような状況を背景に、最近は塩素に代わる消毒法、すなわち代替消毒法の研究が急がれるようになりました。このため、最近は、「高度浄水処理」という、オゾンで水道水を殺菌する方法を採用する自治体もあるようです。

ただ、オゾンで殺菌するため、塩素消毒より安全なように思われがちですが、送水中にも消毒殺菌が必要なために、どうしても送水の段階で塩素を注入しなければなりません。従って結局、蛇口から出てくる水道水には、やはり塩素が含まれるということになります。

仮に現在の水道水を飲まないという対策を取るとしても、では安全な水を輸入するのかといったら現実的ではなく、またビタミンを壊してしまうからといって、高価なミネラルウォーターで野菜などを洗う、というのももったいない限りです。

このミネラルウォータにしても、実は発がん性はむしろ高いというデータもあります。発ガン性物質といわれているひ素の含有量が、水道水の場合はかなり厳格な水質基準で規制たれていて低いのに対し、ミネラルウォータは基準値の甘い食品基準で管理されているために高いのです。

さらに、山岳地帯で産出するミネラルウォータも、そこが石灰岩地帯であったら、ひ素含有量は多い可能性があります。ひ素量の多いということは癌になる確率も高く、結局ミネラルウォータのほうが危険ということになり、こちらを避けるほうが賢明ということで必然として水道に頼らざるを得なくなります。

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塩素を使わずに、さらに高度処理して安全にする、という方法もなきにしもあらずですが、塩素以上に安価に大量の飲料水を浄化する方法というのは現状ではありえません。またトリハロメタンを除去するために煮沸消毒でもして供給できればいいのですが、エネルギーを相当量消費する高度処理を要求するということは、反持続可能型行為だとも言えます。

とすれば、伊豆のように水のきれいなところから水道をひけばいいのか、となるかもしれませんが、さすがに供給できる水には限りがあり、首都圏はおろか、横浜市だけでも無理です。それにしても、それ以前の問題として、水源が地下水や表層水である伊豆の水道水は100%安全なのでしょうか。

答えは否です。伊豆市が水源としているのは地下水や表流水などの水源にも最近は、有機塩素化合物が混入するようになってきています。

これは、例えば工場などで部品の洗浄につかう溶剤、ドライクリーニングに使用する溶剤なども有機塩素化合物の一種であり、これらが工場排水として排出されて河川水に混入している可能性があるためです。

このほか工業廃水に混入することのあるフェノール類は、極微量でも塩素と反応して強い臭気を持つクロロフェノールとなります。伊豆の水道水にはまったく塩素が入れられていないというわけではないようなので、上述のトリハロメタンの生成の可能性も含めて、こうした有害物質の発生の可能性がゼロ、というわけにはいかないのです。

ただ、伊豆市の表流水の取水の多くは渓流域で行われており、こうした工場はその周辺には少ないため、工場排水に含まれる物質による汚染は少ないと考えられます。が、まったくこうした工場がないわけでもなく、市役所の検査などでも微量なれどもこうした物質が検出されることがあるようです。

このほかではゴルフ場から排出される農薬に汚染された水の渓流域への混入の可能性もあり、ゴルフ場の多いこの周辺ではその可能性は否定できません。従って、伊豆の水道水は都会よりも安全とはいえ、やはりその中に化学物質による脅威が多少なりとも含まれている、と考えるのが妥当です。

さらに、温泉のメッカといわれる伊豆でも最近は、温泉水にも塩素消毒材を入れているところが多いようです。HPなどに掲載されている温泉のレポートやブログなどを拝見すると、「塩素臭い」だとか「カルキ臭がする」などと、塩素を懸念するような記載がされているのを目にすることも多くなりました。

これは近年になってレジオネラ菌などによる温泉の汚染事故が増えているため、温泉旅館などの業者が警戒して、必要以上に塩素を投入していることが原因と考えられます。

ところが、これは意外に知られていないことですが、塩素を温泉や水に入れただけでは通常は塩素臭(カルキ臭)はしません。塩素臭というのは、水中の有機物や病原微生物と塩素が反応して、初めて臭いが発生するのであって、臭いがするというのは、つまりこれらの細菌を塩素が消毒してくれているということにほかなりません。

従って、塩素の臭いがすると言う事は正しく病原微生物などを除去できていると言う事になり、温泉などが塩素臭いと言う事は安全に入浴できると言う事でもあります。

ただ、塩素はアンモニアなどと結合しても塩素臭を出すため、汗のついたタオルや髪の毛に付着しても塩素臭がしますから、必ずしも塩素臭がしたからといって、病原体がいるとは限りません。

また、伊豆は温泉の量が豊富なため、一般にはあまり過剰に温泉の源泉を薄めて使ったりはしません。ところが、不特定多数が入浴する都会の温泉では、「温泉」を称するところは、大なり小なり水道水でこれを薄め、さらには大量の塩素を投入しています。

塩素を使わずに殺菌作用が無い温泉を実現しようとすると、大腸菌や劇症肺炎を引き起こすレジオネラ菌を撃退できないためです。温泉に塩素を使用する、しないは、おおむねその地域を担当する保健所の指導によるものが大半です。都市部ではほとんど塩素投入が義務化されており、当たり前になっています。

塩素が不要なところというのは、湧出量が多く新鮮な湯が大量に注がれている温泉か、近くに民家がなく入浴する人も少ない温泉、殺菌力が強い酸性湯や強塩泉、さもなくば病気になっても責任を負う者がいない、無管理の温泉くらいでしょう。伊豆でもこうした温泉は決して多くはなく、都会ではなおさらでこうした温泉はまずないといっていいでしょう。

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しかし、温泉への塩素の投入は確実に細菌による感染を防いでくれます。ただ、塩素臭が生じるほか、塩素は肌に影響を与えることがあり、塩素によりアトピーが悪化することなども考えられます。

いわゆる「温泉アレルギー」と言われるのは大半が塩素によるものと言われており、アレルギー症状が出たら、温泉の効能によるものよりも塩素を疑ったほうが良いかもしれません。

私自身は経験はありませんが、同じ別荘地にいる人が、皮膚病に効くと思って以前近くの共同温泉に入っていたら塩素のために逆に悪化したという話を聞いたこともあります。効能云々よりも、できるものなら塩素がいったいどのくらい入っているかを確認した方が良いと思います。ただ、温泉提供者は簡単には教えてくれないでしょうが。

なお、純度が高いとされる温泉でも、鉄分が多い地層から出てる温泉では、ごくまれに、金属アレルギーが出る場合があり、また海沿いの温泉の場合には塩化物質を多く含んでいる場合もあります。なんでもかんでも温泉が体にいいと思いこまず、まずは成分を確かめることです。

それにしても温泉水は、最近は100%温泉というところはほとんどなく、都会でそれをうたっているところがあれば、むしろ疑ったほうが良いでしょう。現状では大量に利用者を得たい営業が優先され、湧出量が少ないのに大きな浴槽にして、新鮮なお湯が足らなくなり、循環式を採用して消毒しているところも多いようです。

施設によっては、営業停止や印象悪化を恐れて、レジオネラ菌などを心配する余りに、塩素を必要以上に入れている所もあるようで、塩素の量や消毒方法に関しては、改善できる余地があります。

よく、「天然温泉」といいます。が、日本では99%が単なる水であっても、1%が天然温泉水であればそのお風呂は「温泉」と名乗ることができます。こんな人を騙すことが簡単にできるような現行制度も問題だと思います。

温泉水に加水する理由は主に3つあります。ひとつは、湧出量が少なく、温泉を加えるだけでは排出される量に追いつかないので大きな浴槽を満たす為に加水するためであり、2つ目は湧出する温泉がとても熱いので安易に加水して冷ますため、3つ目は、温泉濃度がかなり濃い場合では浴槽や循環装置を痛めてしまうためです。

温泉に加水する理由としては、そのほとんどがこの一番目の湧出量が少ないためであり、都会では特にこれが目立ちます。ジュースなどでは果汁何%と表示があるように、100%温泉でないのであれば、温泉が何パーセントで、水が何パーセントと言う表示がされるべきでしょうが、現行の法律ではそうした表示義務はありません。

一方では、何百年も前より高温の温泉を加水して冷ますのではなく、「自然冷却」や「湯もみ」して冷ますことにより温泉成分を損なわず提供する努力をしてきた温泉も多く、群馬県の草津温泉などがそれです。このように与えられた温泉資源において安全で良質な泉質を提供しようと言う温泉管理こそが今の温泉施設に問われています。

ところで、我が別荘地の温泉はといえば、これは間違いなく100%温泉水であり、塩素は一切入っていません。ただ、とくに冬季を中心に源泉の温度が下がる場合も多く、また別荘地内が広いために、給湯のための配管を通っているうちに温泉の温度が下がってしまいます。

このため、源泉から各家庭への配管の途中に、基地局が設けられていて、ここのボイラーで再加熱してから温泉水を送り出すようにしています。草津温泉のように源泉の温度が高いために冷ましてから、というのができないのが残念ですが、少なくとも塩素の心配はまったくなく、地下数百メートルからくみ上げているので農薬等の混入の心配もありません。

これまでも述べてきたとおり、水道水にもほとんど塩素成分はなく、ここに住んでいる限りは、東京よりも数倍健康的な生活が送っていけそうです。従って、総じてみれば、こと、「水」の問題に関しては、この地の利はかなりあるということが言えると思います。別荘地としてだけでなく、永住地として伊豆を考えていらっしゃる方は、ぜひこうしたことも参考にしてみてください。

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丙午の空

2014-0453少し前に、「芙蓉の人」こと、野中千代子について書き、このとき、最後のほうで、1966年3月5日に発生した起こった英国海外航空機空中分解事故について少し触れました。

この事故は英国海外航空(BOAC)の世界周航便のボーイング707が富士山付近の上空付近約4500mを飛行中、乱気流に遭遇し、右翼が分断されるなどして機体が空中分解し、御殿場市の富士山麓・太郎坊付近に落下したもので、この事故でアメリカ人観光客を中心とした乗員乗客124名全員が犠牲になる大惨事となりました。

調べてみると、この太郎坊というのは、表富士周遊道路(富士山スカイライン)と御殿場口登山道分岐付近から、さらに御殿場口登山道五合目までの地域で、だいたい標高1300m~1500mくらいのところのようです。

機体は墜落後、その前部が炎上しており、機首付近は本来燃料タンクがないので炎上しないはずでしたが、乱気流遭遇時に主翼付近のタンク隔壁を燃料が突き破り機首付近に溜まっていたのが原因でした。

墜落の瞬間は、この当時の気象庁の富士山測候所職員が目撃しており、この測候所職員以外にも陸上自衛隊東富士演習場の自衛隊員、路線バス運転手など多くの目撃者がいて、その後墜落原因を明らかにするためにその目撃談が役立ったといいます。

彼等の多くが地元の静岡県警察に通報した上に、住宅地からもそれほど遠くなかったために、早いタイミングで警察官や消防隊員が墜落現場に駆けつけ現場の保存や捜索にあたることができました。

この墜落を目撃していた陸上自衛隊員は、直後に事故現場に向かい、現場保存及び捜索にあたっています。また、事故機の墜落時刻に前後して、この日平和台野球場で行われ、NHKラジオ第1放送で中継された、プロ野球オープン戦西鉄ライオンズ対読売ジャイアンツの試合の模様を偶然聴いていました。

そして、この自衛隊員が「1回表の巨人の攻撃で長嶋、森が出て6番打者の吉田の打席のとき、飛行機の主翼の両端あたりから白く尾を引き始めた」と証言したことを基に、本件事故捜査本部が当該中継の録音テープを分析した結果、正確な墜落時刻が判明しました。14時15分です。

これらの目撃証言に加えて、乗客の1人が持っていた8ミリカメラが回収され、この中には、事故直前の機内から山中湖周辺の光景が撮影されており、画面が一瞬(2コマ)飛び、機内と思われるひっくり返った客席と引きちぎられたカーペットが映ったところで映像は終わっていました。

事故機に搭載されていたフライトデータレコーダーは、発見から間もなく回収されましたが、墜落時の火災で破壊されていました。しかし墜落までの光景については、カメラに納められた記録もあり、また自衛隊員や気象著職員はじめ多くの目撃証言とともに事故原因究明に大きく寄与しました。

さらに富士スピードウェイで行われていた自動車レースを取材中の平凡パンチのカメラマンらによって、空中分解し墜落する機体の写真も撮影されており、これらの記録から、この機の墜落原因は中国大陸からの強い季節風のため従来の予想を大幅に上回る強い「山岳波」によるものと判明しました。

上記の8ミリカメラ映像からは、この強い乱気流により、同機のボーイング707の設計荷重を大幅に超える7.5G以上の応力がかかっていたこともわかりました。これにより同機は垂直安定板および右水平安定板が破損、次いで右主翼端やエンジンが脱落、主翼から漏れ出した燃料が白煙のように尾を曳きながらきりもみ状態で墜落に至ったと考えられました。

山岳波は富士山のような孤立した高い山の風下が特に強くなるとされています。またその影響は標高の5割増しの高度まで及ぶといわれており、このため当日の富士山の場合、南側かつ高度5800m以下の飛行は特に危険であり、事故機の飛行ルートはまさにその範囲に該当していました。

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また、事故の原因が、山岳波の中でも特殊な「剥離(はくり)現象」であると気象庁気象研究所が発表したのは、事故から4年たった1970年4月でした。事故当時はロンドン大学の研究者らが発表していた「山体のかなり上部を波状に流れる気流」が原因と見られていました。

しかし、この気流は数十秒から数分の長い周期で流れる方向が変わるのに対し、目撃者の証言や事故の写真撮影などから、気象研究所は「もっと短い周期で方向が変わる未知の空気の流れがあるはず」と研究を進めた結果、山体表面近くの気流が地表から剥がれる時に渦を巻き、それが山体から遠くまで続くことを発見しました。

これが事故原因である事を突き止め、「剥離現象」と名付けて発表したわけですが、しかし、機長がなぜ有視界方式により富士山近傍を飛行しようとしたのかは未だに判然としません。ただ、この機は、ホノルルから福岡へのフライトにおいて濃霧によってその到着がかなり遅れていたことがわかっています。

このため、福岡空港へ着陸後、当日朝に羽田向かう際に、出発が20時間以上遅れており、このことから、飛行距離を短縮させて早く次の目的地に到着したかったために、富士山上空を通過したのではないかと推定されました。

また、同機にはアメリカ人の団体観光客が多かったため、機長が乗客に富士山を見せたいと思ったこともこのルートを通った原因と考えられます。事故以前に同じ911便(別の機長)が何度か富士山上空を経由して飛行したことも確認されています。が、事故機機長が富士経由の飛行を決断したはっきりとした理由は現在に至るまで明確化できていません。

現在も富士山上空を飛行する民間航空ルートは存在しますが、必ず計器飛行方式で飛行し、なおかつ充分な高度をとっているため墜落する危険性は当時よりかなり低いといえます。それでも、富士山周辺での乱気流の発生が予想される際には富士山が見えないくらい大きく迂回するコースを取ります。

特に羽田空港進入のために富士山の南側を飛行する際には八丈島付近まで南下することがあるそうです。

この英国海外航空事故は、この年1966年に起こった航空機事故の3番目の事故です。この当時も今もそうですが、航空機事故というのは、1度発生すると何度も重ねて起こる場合があり、この年もまた再び事故が起こるのではないか、とその可能性が取沙汰されるとともに、一方ではもうこうした大きな事故は起きないだろうと、人々は考えました。

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この年最初に起こったのは、全日空機による羽田沖墜落事故です。同機は、2月4日に午後6時に千歳空港を出発し、目的地である羽田空港へ向かった全日空のボーイング727-100型機であり、東京湾の羽田空港沖での墜落し、合計133人全員が死亡、単独機として当時世界最悪の事故となりました。

導入されてまだ間もない最新鋭機であったことや、日本における初の大型ジェット旅客機の事故で、ほぼ満席の乗客(多くはさっぽろ雪まつり観光客)と乗員の合計133人全員が死亡し、単独機として当時世界最悪の事故となったこともあり、世界中から注目を集めました。

事故後多くの機体の残骸が引き上げられ、これは機体の90%近くに及び、当時の運輸省の事故技術査委員会には、FAA(アメリカ連邦航空局)、ボーイングなどの技術者を主体とした製造国のアメリカ側の事故技術調査団も加わって事故原因についての綿密な調査が行われました。

この結果、同機は、東京湾に差し掛かる際、計器飛行(IFR)による通常の着陸ルートをキャンセルし、有視界飛行(VFR)により東京湾上空でショートカットする形での着陸ルートを選択していたことなどが判明しました。

通常の着陸ルートをキャンセルし、東京湾上空でショートカットする着陸ルートを選択した理由は不明ですが、当時は現在のように計器飛行方式(IFR)が義務付けられておらず、飛行中に機長の判断でIFRで提出したフライトプランをキャンセルし、目視による有視界飛行方式に切り替える判断が容認されていました。

そのため機長の中には、航空路を気にせず、最大巡航速度(マッハ0.88)で巡航し、なかには東京・大阪27分、東京・札幌46分といった”スピード記録”を打ち出す競争を行うような人たちもいたといいます。

羽田空港に向けて着陸進入中の午後7時00分頃の「現在ロングベース」との通信を最後に、突如通信を絶ちました。航空機が着陸する際、空港が混んでいる場合には、後続機との間隔を確保します。この場合、着陸する側の滑走路末端からの飛距離でこの間隔を調整しますが、その時間を短くする方がショートベース、長く飛ぶ場合がロングベースです。

従って、同機はほぼ着陸寸前の状態にあったことがわかり、その後空港管制室が「聞こえるか、着陸灯を点けよ」など繰り返し連絡を取ろうとしたものの、後続機が平行滑走路に次々と降り立っているにもかかわらず着陸灯も見当たらず、また返答もありませんでした。

このとき、付近を飛んでいた別の飛行機の乗員から東京湾で爆発の閃光を目撃したとの通報もあり、どうやら同機は着陸途中に何等かの理由で、羽田沖に猛スピードで激突したことが想像されました。収容された乗客の遺体の検視結果は衝撃による強打での頸骨骨折、脳・臓器損傷によるものも多く、他は溺死によるものでした。

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その後の調査では、「操縦ミスによる高度低下」、「第3エンジンの離脱による高度低下」、「スポイラーの誤作動による高度低下」が主に取りざたされました。

このうちの第3エンジンの脱落説は、この第3エンジンはもともと第1エンジンとして取り付けられていたもので、事故以前からたびたび異常振動などのトラブルを起こしていたことを理由とするものです。

このため、前年に購入したばかりの機体であるにも関わらずオーバーホールを行った後に第3エンジンとして取り付けられ、オーバーホール後もトラブルを起こしていましたが、残骸や遺体の髪の毛に火が走った跡があったため、この説が浮かび上がりました。

また、スポイラーの誤動作説は、「誤ってスポイラーを立てた」、または「機体の不具合、もしくは設計ミスのためにスポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した乱流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」という説です。

スポイラーとは、主翼上面に装備するエアブレーキのことであり、降下時に旅客機がスピードを落とすためのものです。この装置の故障は、地面すれすれに着陸しようとする航空機にとって致命的な事故につながりかねないものです。

しかし、いずれもがはっきりとした根拠となる証拠を見つけることができず、また同機にはコックピットボイスレコーダー、フライトデータレコーダーともに搭載されていなかったこともあり、委員会は高度計の確認ミスや急激な高度低下などの操縦ミスを強く示唆しつつも最終的には原因不明と結論づけました。

この事故をきっかけに、日本国内で運航される全ての旅客機に、コックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダーの装備が義務づけられるようになりました。また、この事故以降はフライトプランに沿って計器飛行方式で飛行するのが原則になりました。

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この年、これに次いで起こったカナダ太平洋航空402便着陸失敗事故は、英国航空機の富士山上空での空中分解事故の前日の3月4日に発生したもので、香港発東京経由バンクーバー行きのカナダ太平洋航空402便が羽田空港への着陸直前に墜落した航空事故です。

一か月前には全日空機の事故が発生したばかりであり、さらに翌日には英国機の空中分解事故が発生したため、これら一連の事故は日本社会に大きな衝撃を与えました。

カナダ太平洋航空402便ダグラスDC-8-43は香港発東京・羽田空港とブリティッシュコロンビア州バンクーバー、メキシコシティを経由してブエノスアイレス行きという環太平洋航空路線として運航していました。

3月2日から日本各地は濃霧に覆われており、陸海空の交通機関が麻痺に陥っており、事故当日の午後4時ごろから羽田空港周辺にも濃霧が広がり、視界不良のため国内線の運航がほぼストップしており、羽田空港へ着陸する国際線到着便も板付飛行場(福岡空港)などへの代替着陸や出発見合わせを余儀なくされていました。

402便は香港啓徳空港を離陸し、羽田への着陸へ向け降下を開始しましたが、悪天候のため空中待機することとなり、15分以内に天候回復しない場合、代替空港として台北松山空港(愛媛県のではなく)に着陸することを決定しました。

ところが、その後、管制から視界が回復したことが伝えられたため、同機は羽田への着陸を再び決め、天候が悪かったため、地上誘導着陸方式により進入しました。この方式は自動着陸や計器飛行ではなく、地上レーダーに基づいた方位・高度の指示を管制官が口頭で伝達する方式で、操縦は乗務員がマニュアルで行わなければなりませんでした。

こうして402便は機長によるマニュアル操作で着陸態勢に入りましたが、着陸直前になって管制官の指示よりも高度が下がり始めたため、管制官はすぐに水平飛行をする旨の警告を与えました。

が、パイロットはこれを無視し、滑走路の灯火を減光するように要求したのみで降下を続けました。このことから、パイロットは着地後の機体制御に関心が向いており、管制官からの呼びかけに耳を貸せるような状態ではなかったことが想像できます。

結局その直後の午後8時15分に、402便は右主脚が進入灯に接触し次々に破壊しながら進行し護岸に衝突、激しく大破し炎上しました。この事故で運航乗務員3名、客室乗務員7名、乗客62名の合わせて72名のうち、乗務員全員と乗客54名の合わせて64名(うち日本人5名)が死亡し、乗客8名が救出されました。

乗客の中にはドイツ人乗客のようにほぼ無傷で脱出した者もおり、事故の衝撃ではなく火災に巻き込まれて犠牲になった者が多数であったようです。

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同機もまたボイスレコーダーやフライトレコーダーは積んでおらず、事故調査委員会は羽田空港のレーダー記録と、無線交信の声紋分析を行うことにより事故原因を分析した結果、乗員がフランス系カナダ人であったための訛りの影響などで、管制官にその意図がはっきり伝わらなかった可能性などが浮かびあがりました。

また、3月2日から日本各地は濃霧に覆われており、陸海空の交通機関が麻痺に陥っていました。事故当日の午後4時ごろから羽田空港周辺にも濃霧が広がり、視界不良のため国内線の運航がほぼストップしていました。このため、調査委員会としては、事故の原因は操縦乗員がこうした悪天候下で強行着陸したことが墜落原因としました。

なお、同機は進入の最終段階になって異常に高度を下げており、これは、パイロットが早く滑走路を視認するために意図的に高度を下げていたことなどが、無線通信の分析結果などからわかりました。同機の高度があと30cm高ければ、進入灯に接触しなかったといわれています。

この翌日、冒頭で述べた3月5日の、国海外航空機空中分解事故が起こったわけですが、しかし、この年の事故ラッシュはこれでも終わりませんでした。8月26日には日本航空羽田空港墜落事故が起き、これでこの年の日本国内における航空機事故は、4件目になりました。

この事故では、事故機のコンベア880-22Mが、羽田空港から離陸直後に墜落炎上し、乗員訓練飛が行につき乗客の搭乗はありませんでしたが、同社員4名と運輸省航空局職員1名の5名全員が犠牲になりました。

事故機JA8030、通称「銀座号」は日本国内航空から日本航空にリース中の機体で、所有権は日本国内航空に残されたままでした。1966年8月26日、銀座号は、午前に羽田から北海道へ往復飛行を行い、午後からは羽田空港で離発着訓練を行うことになりました。

当日羽田空港のA滑走路(旧)が工事により閉鎖されていたため、平行するC滑走路(旧)から離陸しようとしており、これはこの飛行は操縦員の機種限定変更試験のためでした。午後2時35分、試験項目の一つとして、滑走中に第4エンジンが手動停止されました。これは、離陸時にエンジン一発故障の想定で離陸続行を行うというテストです。

ところが、この操作によって風下の外側の推力がゼロとなり、機体は急激に片滑りしはじめました。目撃証言によれば、C滑走路から右へ逸脱しはじめ、左車輪が折れてC滑走路とA滑走路の間で左向きになったうえで、右車輪も折れてしまい、その衝撃で胴体着陸して爆発炎上し、乗員が脱出する時間もないまま全焼しました。

事故原因は、前述の操作が困難な機体に加え、訓練生のミスも誘発されて離陸直後の墜落に至ったためとされています。

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さらに11月13日、今度は全日空機が松山沖で墜落するという事故が起こります。これでこの年における日本国内の事故はついに5つ目になりました。

この事故は、全日本空輸が運航する国産旅客機YS-11による墜落死亡事故で、一回目の着陸でオーバーランの危険が生じたために、着陸をやりなおした際、高度を保つことができずに左旋回の姿勢のまま、松山空港沖2.2kmの伊予灘に墜落し、乗員乗客全員50名全員が犠牲になりました。

この事故において、機体は海面激突時の衝撃で粉砕されましたが、この機の飛行回数は1076回、飛行時間1068時間25分であり、全日空に引き渡されたYS-11としては最も短命でした。また全日本空輸にとってもこの年2回目の墜落事故となりました。

同機は、午後8時28分に一度着陸しましたが、滑走路1200mの半ば、滑走路端から460m地点付近に接地してところ、滑走路が短すぎることに気付き、オーバーランの危険が生じたために、着陸をやりなおす着陸復航を行おうとしました。

ところが、フラップと主脚を格納した同機の上昇は通常より鈍く高度230~330ftまで上昇した後、降下に転じ、左旋回の姿勢のまま、失速して松山空港沖2.2kmの瀬戸内海、伊予灘に墜落しました。

同機もまたボイスレコーダーとフライトデータレコーダーを搭載していなかったこともあり、この失速についても、速度計の誤読あるいは故障等の推測原因が取沙汰されましたが、結局当時の事故調査委員会はとうとう原因を特定することができませんでした。

が、当日は雲が低く垂れ込めていた上に霧雨が降っており、あまり天候がよくなかった上、当該機は当日のダイヤが乱れていたことで同機の松山空港上空への侵入は当時の運用時間である午後8時をすぎていました。

このため、滑走路の照明を再点灯するのに手間どい、これを待つために広島県の呉市上空から向わず山口県の岩国市上空を経由して時間稼ぎをしたため少し遠回りしていたことなどがわかっており、燃料切れも間近だったことから機長以下の乗員の心に余裕がなかったことなどが推測されました。

さらに、当初このフライトでは、機材としてフォッカー社製のF27「フレンドシップ」を使用する予定でしたが、機体のやりくりがつかず予約客も多かったために大型のYS-11へ機体が変更されていました。その結果、事故機の機長は急遽予定にはなかった飛行をこなすことになり、緊張気味であったのではないかとも指摘されています。

これまで述べてきたとおり、これら一連の事故が起きたのは1966年(昭和41年)です。この昭和40年前後のころというのは、関西圏の新婚旅行先として松山の道後温泉が選ばれることが多かったといい、またこの全日空松山便のフライト当日は日曜日で大安吉日でもあり、新婚旅行に向かうカップルが12組(24名)と犠牲者の半数近くにのぼっていました。

このことは世間に深い衝撃を与えました。いずれのカップルも婚姻届の提出を済ませておらず法的には夫婦ではなかったため、その後の航空会社と遺族との損害賠償交渉も少なからず混乱しました。これを受けて法務省は、これ以後、婚姻届を早期に提出するように励行する広報を出したほどでした。

さらには、犠牲者の中には海流に流されて遺体が発見されなかった者が少なくなかったため、付近の海域で取れた海産物が風評被害で売れなくなるといったこともありました。

また、滑走路が仮に2000m程度あればそもそも着陸復航する必要がなく事故も起きなかったと考えられることから、この事故を契機に松山空港を始めとする地方空港の滑走路の拡張工事が進められることになりました。

現在の松山空港も今では2500mまでも滑走路が延長されていますが、こうした事故対策がその後の地方空港のジェット化を促す結果となり、現在のような「空港余り」をもたらす結果となりました。

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この松山空港沖事故では、二重遭難事故も起こっています。事故から2日後の11月15日、各方面のヘリコプターが遺体捜索を行っていましたが、松山空港北方の愛媛県北条市(現在は松山市)粟井沖において大阪府警のヘリコプター”あおぞら一号”と全日空のヘリコプター(JA7012)が正面衝突し、双方の操縦士ら4名が犠牲になりました。

双方とも捜索に夢中になるあまり気付くのが遅れたと見られています。なおこの事故は、警察機関が導入したヘリコプターで初めての事故喪失でした。

この事故を入れると、結局この年には、6件も航空機事故が起きたことになり、その合計では376人もの尊い命が一連の飛行機事故により失われました。

実は、この年、1966年は、丙午(ひのえうま)にあたっていました。出生数は約136万人と前年に比べ大きく落ち込んだ年であり、その前の1960年もはっきりとした記録はないものの、出生数は少なかったようです。

丙午年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる「八百屋お七」に由来します。

八百屋お七が1666年の丙午生まれだとされたことから、丙午の年には火災が多いという噂が広がり、さらにはこの年に生まれた女の子は男を食いつぶす、という迷信になっていったものです。迷信にすぎませんから、このことと1966年の丙午の年に連続した飛行機事故とは何の関係もないことは明らかです。

が、陰陽五行では、丙午の「丙」は十干の「陽の火」、また「午」も十二支の「陽の火」で、つまり、丙午は干・支ともに「火性の年」、ということになります。60年に一度という確率であり、やはりこの年には火災を伴うような事故が多くなる必然があったのではないか、と勘ぐってしまいます。

ちなみに、この年は、1月に水素爆弾を搭載したアメリカのB-52爆撃機がスペインのパロマレス沖で別の空中給油機と衝突、水爆を搭載したまま墜落するというショッキングな出来事があり、また10月には米デトロイト郊外のエンリコ・フェルミ高速増殖炉で史上初の炉心溶融事故おこるなど、火ではないものの原子力がらみの事故が重なっておきています。

また、6月30日には、いわゆる袴田事件が静岡の清水市で起こり、「こがね味噌」専務の自宅が放火され、焼跡から専務自身と、妻、次女、長男の計4人の他殺死体が発見されました。静岡県清水警察署捜索した結果、従業員で元プロボクサーの袴田巖の部屋から血痕が付着したパジャマが発見され、袴田氏はその後の裁判で死刑が確定しました。

しかし、その後も袴田氏は一貫して無罪を主張、今年の3月27日、ついにこれが認められて静岡地裁が再審開始と、死刑及び拘置の執行停止を決定したことは記憶に新しいところです。先の5月、48年ぶりに故郷の浜松市に帰ったことなども新聞報道で大きく取りあげられました。

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それにしても、このように世間を騒がせた放火殺人事件もまた1966年に発生したというのもまた、何ごとかを物語っているような気がします。

ちなみに、この1966年生まれの「丙午の女」とされる有名人にどんな人がいるかを調べてみると、現在47~48歳という油の乗った年齢の彼女たちの顔ぶれは錚々たるものです。

財前直見(1月10日)、三田寛子(1月27日)、川上麻衣子(2月5日)、小泉今日子(2月4日)、大沢逸美(3月23日)、村上里佳子(RIKACO・3月30日)、松本明子(4月8日)、広瀬香美(4月12日)、益子直美(5月20日)、森尾由美(6月8日)、中村あゆみ(6月28日)、渡辺美里(7月12日)、石川秀美(7月13日)、鈴木保奈美(8月14日)、早見優(9月2日)、小谷実可子(8月30日)、斉藤由貴(9月10日)、伊藤かずえ(12月7日)、有森裕子(12月17日)、国生さゆり(12月22日)

ちょうど子育てが終り、女優さん、歌手、スポーツコメンテーターなど色々職業は違いますが、円熟した才能を開花させることのできる年齢のためか、ことさらに有名人がこの年に集中しているように思うのですが、さらに気のせいでしょうか。

無論、このメンツを見る限りは、男を食いつぶす、といったのは迷信であることがわかり、むしろ、いずれもが世の男性陣を楽しませてくれる、一流のエンターテイナーばかりです。従って「丙午の女」は俗信にすぎず、むしろ丙午の年には、航空機事故などの事故が起こる可能性のほうを心配したほうがよさそうです。

ちなみに、次の丙午は、2026年になります。この頃の出生数は既に減少傾向にあり、1846年、1906年、1966年の際とは異なり、仮にこの年に丙午の女の俗信による「産み控え」が起こったとしても、人口動態に大きな影響は与えないと予測されるそうです。

この年には、第25回冬季オリンピックが開催される予定であり、開催都市は2019年に開催予定の第131次IOC総会で決定されます。

日本も立候補する可能性があるといわれており、その最右翼は札幌です。欧米ではスペイン、バルセロナが取沙汰されていますが、もしこの年にも日本で事故が多発するようならば、この立候補は取りやめたほうがよいかもしれません。

1992年の夏季オリンピックを開催したバルセロナ市は、2022年冬季大会への立候補を検討しましたが、このときは市長が準備不足として見送った経緯があり、代わりに2026年大会には全精力を傾けるとしているそうなので、こちらへ譲ったほうが良いのかも。

2026年といえば、わずか12年後。とはいえ、私は60代になっています。まだまだ元気でいると思いますが、果たして1966年のような事故の年になるのでしょうか。そんなことなどないと願いつつ、今日のこの項は終わりにしたいと思います。

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三千世界のカラスとともに……

2014-2773幕末の志士たちの中で、一番好きな人は誰か、と問われて坂本竜馬や西郷隆盛の名を上げる人は多いでしょう。西郷隆盛の双璧にあげられる、勝海舟を好きな人も多いと思いますが、あなたは誰が一番好きでしょうか。

私は、郷里が山口ということもあり、やはり気分的には高杉晋作という人が好みです。幕末の慶應3年(1867年)にわずか27歳で没したこの長州藩士は、異色の志士としてこの時代を駆け回り、奇兵隊というそれまでの身分制を破壊するもととなった部隊を創設するなどして250年続いた徳川幕府を倒す上において重要な役割を果たしました。

その短い生涯の割には、逸話の多い人で、そのひとつひとつがドラマチックかつ、エネルギッシュな行動を伴ったものであり、幕末にあまたの志士がキラ星のごとく現れましたが、短い生涯でこれだけ暴れ回った感がある人は、この人をおいて他にいないでしょう。

坂本竜馬もまた、エネルギッシュにこの騒乱の時期を駆け抜けましたが、晋作と違って下級武士の出であっただけに、とくに初期のころにその行動が制約されたのが玉に傷です。晋作のように藩の名門に生まれていれば、さらにこの時代にもっと大きな影響を与えたのではないでしょうか。

高杉家は、代々藩主毛利氏の直属の家臣で、家格は「大組」であり、これは馬上を許された上級家臣です。父の小杉忠太は、長州藩の支藩である萩藩の御側用人であり、これは藩主の側近であり、その命令を老中らに伝える役目を担っていました。

こうした長州藩の名門の武士の家に生まれた晋作もまた英才教育を受け、藩の名門校である明倫館に入学。卒業後は、柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝されるほどの達人でした。吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれ、藩命で江戸へ遊学して昌平坂学問所などで学びました。

師の松陰は、安政の大獄で捕らえら処刑され、その意思を継ぐことを決意しますが、国を変えるためにはまず諸国の事情や外国を知るべきと考え、松陰の処刑の翌年には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡り、得意だった剣術をさらに磨くべく、神道無念流練兵館道場に入門します。

江戸では開明派といわれた佐久間象山や横井小楠といった巨人に師事するとともに、東北遊学などの地方巡察を行い、文久2年(1862年)には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して大きな影響を受けます。

松陰が処刑されてすぐのころには、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚していますが、その後の動乱の時期には下関の花街で芸妓をしていた「おうの」を見初め、その後半生はほぼこの女性と生活を共にしていました。

文久3年(1863年)、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行いますが、逆に米仏の報復に逢い惨敗した、いわゆる「下関戦争」において、晋作は下関の防衛を任せられ、このときに身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成しました。

この奇兵隊は、その後の晋作らが藩の実権を握る上においても大活躍をし、晋作らが「俗論派」と呼ぶ長州藩の保守派に対してのクーデターを起こした際の主力にもなりました。晋作達は自らを「正義派」と称し、このほかの長州藩諸隊を率いて下関の功山寺で挙兵。

元治2年(1865年)に俗論派を駆逐して藩の実権を握ると、幕府による再度の長州征討に備えて、防衛態勢の強化を進めます。その後、土佐藩の坂本龍馬らの仲介によって薩長盟約が結ばれると、盟友の桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共にさらに討幕の準備を進め、幕府以外の諸藩では初の洋式軍艦といわれる蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入。

6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督としてこの丙寅丸に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還。小倉方面の戦闘指揮でも軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させ、その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させました。

その後さらに幕府軍が籠る小倉城を攻略しましたが、幕府軍総督・小笠原長行の臆病な日和見ぶりに激怒した肥後藩細川家をはじめ、幕府軍諸藩もまた幕府軍の脆弱ぶりに愛想をつかしたためが随時撤兵しはじめました。さらに将軍・徳川家茂の死去の報を受けた小笠原がこれ幸いと小倉城に放火し戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となりました。

この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)の大政奉還への大きな転換点となり、その後の明治維新へとなだれ込んでいくことになります。

しかし、ちょうどこのころから、晋作自身は、肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、慶応3年4月14日(1867年5月17日)、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去りました。

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人生のはかなさを笑い飛ばしていたようなところがある人でした。と、同時にそのはかなさを悲しんでいたようなフシがあります。

辞世の句、「おもしろきこともなき世をおもしろく」はことさらに有名です。「おもしろきこともなき世“に”おもしろく」でななかったかという説もありますが、晋作直筆になる歌が残されていないため、正確なところは不明です。

彼の墓所のある東行庵の句碑には「に」とあり、防府天満宮の歌碑では「を」となっています。古川薫、司馬遼太郎の著書では「を」が採用されている一方、一坂太郎は「に」を採用し、「“を”は後年の改作であろう」としています。

かつては死の床にあった晋作が詠み、彼を看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」という下の句をつけたと言われていましたが、近年の研究によればこの歌は死の前年にすでに詠まれていたことがわかっており、このことから辞世の句ではないという人もいます。ただ、死の直前に詠んだものだけが辞世の句というわけでもないでしょう。

晋作がまだ23歳のころ、長州藩では、当初守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞たちと共に尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流していました。

文久2年(1862年)、晋作は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じており、折りしも、外国公使がしばしば横浜の金澤八景で遊んでいたため、ここで彼等を刺殺しようと同志を集めました。

ところが、その一人であった久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太にこのことを話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、晋作らは謹慎を命ぜられるという事件がありました。

これに反発した晋作は、伊藤博文や井上聞太といった子分を率いて品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行いますが、これらの更なる過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では高杉を野放しにすると危険と判断し、江戸から召還して吉田松陰の生誕地である萩の松本村に晋作を幽閉しました。

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このとき、晋作はこの処遇に不平を漏らし、萩の地で草庵を結び、「東行」と名乗って、十年の隠遁に入ると称しました。しかし、幽閉されたといっても藩の名士の子であった晋作には、萩の町に繰り出して大っぴらに酒を飲むことは許されていたらしく、晋作は萩の町の料亭に繰り出しては芸妓を呼び、三味線を弾いては、歌い明かしていたといいます。

おそらくこのとき詠まれたのがかの有名な、「三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」という都都逸です。

都々逸(どどいつ)は、江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年-1852年)によって大成された口語による定型詩です。七・七・七・五の音数律に従うもので、元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物でした。主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれます。

この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われています。

♪男なら お槍担いで お中間となって 付いて行きたや下関
国の大事と聞くからは 女ながらも武士の妻
まさかの時には締め襷 神功皇后の雄々しき姿が 鑑じゃないかな
オーシャリシャリ

♪女なら 京の祗園か長門の萩よ 目もと千両で鈴をはる
と云うて国に事あらば 島田くずして若衆髷
紋付袴に身をやつし 神功皇后のはちまき姿が 鑑じゃないかな
オーシャリシャリ

♪男なら 三千世界の鳥を殺し 主と朝寝がしてみたい
酔えば美人の膝枕 醒めりゃ天下を手で握り 咲かす長州桜花
高杉晋作は男の男よ 傑いじゃないかな
オーシャリシャリ

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最後の「オーシャリシャリ」は、おっしゃるとおり、という意味で、いわゆるお囃子です。

もしも自分が男だったなら、槍を担いで中間(ちゅうげん)として下関について行き、外国との戦争に参加したい。自分も女ではあるが、武士の妻であるから、外国の軍勢が萩に攻めてくるようなことがあっても、神功皇后のようにこの国を守りたい、この1番の歌詞はそんな内容です。

このころ長州藩では尊皇攘夷運動が高まっていましたが、1863年(文久3年)には朝廷からも攘夷令が出され、藩士の多くが外国船攻撃のために下関に集結していました。一方で萩で留守を守る藩士の妻や子供たちも、外国船の報復攻撃に対抗するため、萩の菊ヶ浜沿いの海岸に女台場という土塁を築きましたが、現在でもその遺構の一部が残っています。

「男なら」はその女台場を築く際工事に携わった、長州藩士や奇兵隊をはじめとする諸隊士の妻や子供たちによって謡われた歌です。地元でも一部の伝承者を除いて長らく忘れられていましたが、1936年(昭和11年)に人気女性歌手だった音丸のレコードがヒットして広く知られるようになったもので、炭坑節などと同様に全国的な人気を呼びました。

現在萩市では、古くからある唄や踊りの他に、萩夏まつりなどにおいてはよさこい風にアレンジされた踊りで踊られることもあります。

ところで、この男ならや晋作の都都逸にも出てくる「三千世界」とはいったい何なのでしょうか。

これは、実は仏教用語であり、10億個の「須弥山世界」が集まった空間を表す言葉であり、正確には「三千大千世界」であり、これを略して「三千世界」「三千界」「大千世界」と呼んでいます。

仏教の宇宙論では、須弥山(しゅみせん)と呼ばれる山の周囲に四大洲(4つの大陸)があり、そのまわりに九山八海があるとされます。これが我々の住む1つの世界、つまり1須弥山世界で、この中には上は色界の「梵世」から、下は大地の下の「風輪」にまでが存在します。

この1つの世界が1000個集まって小千世界となり、小千世界が1000個集った空間を中千世界と呼び、中千世界がさらに1000個集ったものを大千世界といいます。大千世界は、大・中・小の3つの千世界から成るので「三千大千世界」と呼ばれます。

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また「三千大千世界」は、1000の3乗個、すなわち10億個の世界が集まった空間であるともいわれます。この広大な三千大千世界を教科できるのは、たった一人の仏様とされていて、このためこれを「一仏国土」ともよびます。

欧米では、限りない星々の集まりが宇宙であるわけですが、こうしたいわば我々の生活に密着した小さな世界の集まりが宇宙である、とする考え方はいかにもアジア的です。この我々が住んでいる世界を包括している一仏国土(三千大千世界)は「娑婆」ともいいます。原語ではサハー“sahā”ですが、俗にシャバとも読みます。

阿弥陀如来が教化している極楽という名前の仏国土は、サハー世界の外側、西の方角にあり、このため西方極楽浄土と呼ばれます。これに対して我々俗人が住まう宇宙を、娑婆と呼び、こうした宇宙観は、明治になって欧米の科学的宇宙観が導入されるまでは普通に信じられていました。

よく刑務所から外の世界を娑婆と呼びますが、塀の中の地獄から見た外界は、この西に住まう慈愛に満ちた仏によって安穏が約束されている国というわけです。

一方の西欧における宇宙観はこれとは全く異なります。19世紀から20世紀初頭の物理学者らも、宇宙は始まりも終わりもない完全に静的なものである、という見解を持っていました。現代的な宇宙論研究は彼等の観測と理論の両輪によって発展してきたという歴史があります。

1915年、アルベルト・アインシュタインは一般相対性理論を構築し、これに基づき、「アインシュタイン宇宙モデル」を提唱しました。しかし、このモデルは不安定なモデルであり、
これによれば宇宙は、最終的には膨張もしくは収縮になるかよくわからん、ということになってしまいます。

ところが、1910年代にヴェスト・スライファーとやや遅れてカール・ウィルヘルム・ヴィルツが、「渦巻星雲」の観測から、天体が地球から遠ざかっているという可能性もあるのではないか、と考えました。

しかし、このことを証明するためには、実際にこの天体までの距離を計測する必要がありました。ところが、これはこの当時の技術では非常に困難でした。天体の直径を測ることができたとしても、その実際の大きさや光度を知ることはできなかったためです。

そのため彼らは、それらの天体が実際には我々の天の川銀河の外にある銀河であることに気づかず、もしかしたら宇宙は遠ざかっているのではないか、という自分達の観測結果から導かれるべき宇宙論の意味についても深く考えることはありませんでした。

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それから10年経った1920、アメリカ国立科学院においてハーロー・シャプレーとヒーバー・ダウスト・カーチスが、「宇宙の大きさ」と題する公開討論会を行い、この中でシャプレーが、「我々の銀河系の大きさは直径約30万光年程度で、ヴィルツらが観測した渦巻星雲は銀河系内にある」との説を展開しました。

対するカーチスは、「銀河系の大きさは直径約2万光年程度で、渦巻星雲は、この銀河系には含まれない独立した別の銀河である」との説を展開しました。この討論は天文学者らにとって影響が大きく、たちまち学者たちの間に大きな論争がおこりました。

ところが、7年後の1927年、ベルギーのカトリック教会の司祭であるジョルジュ・ルメートルが、ヴィルツら渦巻星雲が遠ざかっているという観測結果を理由に、さらにカーチスの理論を発展させ、宇宙は「原始的原子」の「爆発」から始まった、とする説を提唱しました。

これが世にいう、「ビッグバン」です。さらに1929年には、エドウィン・ハッブルがこのルメートルの理論が正しいことを証明する観測結果を出し、この理論に裏付けを与えました。ハッブルは渦巻星雲が銀河であることを証明し、星雲に含まれる「変光星」を観測することでこれらの天体までの距離を測定を可能にしたのです。

彼はこの結果を、銀河が全ての方向に向かってその距離に比例する速度で後退していると解釈しましたが、この事実は現在も「ハッブルの法則」として広く知られています。ただしこの理論は比較的近距離の銀河についてのみ確かめられたものでした。

ハッブルはさらに遠くの銀河についてもこれを証明しようとしましたが、銀河の距離が最初の約10倍にまで達したところでハッブルはこの世を去りました。

宇宙が膨張している、とするこのハッブルの法則には、二つの異なる可能性が考えられました。一つはルメートルが発案したビッグバン理論です。もう一つはフレッド・ホイルが提唱した、銀河が互いに遠ざかるにつれて新しい物質が生み出されるため、膨張しているように見えるという説。

フレッド・ホイルの説では、宇宙はどの時刻においてもほぼ同じ姿となり、いわばみかけ状の膨張が続いているということになります。長年にわたって、この両方のモデルに対しては議論が続きましたが、その支持者の数はほぼ同数に分けられていました。

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しかしその後、宇宙は高温高密度の状態から進化してきたという説を裏付ける観測的証拠が見つかり始め、1965年になって、「背景放射」が発見されて以来、ビッグバン理論が宇宙の起源と進化を説明する上ではもっとも適切な理論と見なされるようになりました。

背景放射というのは、正確には「宇宙マイクロ波背景放射(CMB)」といい、天球上の全方向からほぼ等方的に観測されるマイクロ波です。CMBは、宇宙のスケール長に比例して波長が延び続けており、これが全天球の全方位で観測されたことから、宇宙は拡大し続けているということが裏付けられたのです。

こうしたことよって、現在までに宇宙論研究者の大部分は、宇宙が有限時間の過去から始まったとするビッグバン理論を受け入れるようになりました。最近の研究では、さらにこの広がり続けている宇宙の質量の約25%は目に見えない「ダークマター」で構成されており、目に見える物質はわずか4%程度に過ぎないことも分かってきています。

ただ、このダークマターと我々が見ることができる物質の合計は、29%にすぎず、あと71%足りません。何か別の成分が存在しなければならないわけですが、この正体もまだはっきりとはわかっておらず、学者たちはこの成分をダークエネルギーと呼んでいます。

ダークマターには重力があることは分かっているのですが、光などの放射を出さないので、実験室ではいまだに検出されておらず、その素粒子物理学的性質は全く分かっていません。また、ダークエネルギーの性質についても、そのエネルギー密度や集積しないという性質以外には何も分かっていません。

ダークエネルギーの正体は宇宙論における最も困難な問題の一つですが、その理解が進めば、宇宙の終焉がどうなるかという問題にも答が得られる可能性があります。現時点においてわかっているのはダークエネルギーによって現在の宇宙の膨張が加速しているということだけです。

ただ、この加速膨張もまた将来にわたって続いていくかどうかも分かっていません。ダークエネルギーが時間的に増加して加速膨張の度合が大きくなればやがて宇宙はバラバラになるかもしれません。これを「ビッグリップ」といいますが、逆にこの時点で逆に宇宙は収縮に転じるかもしれません。

20世紀初めまで、宇宙に関する科学的描像の主流は「宇宙は永遠に変化をしないまま存在し続ける」というものでした。が、1920年代にハッブルが宇宙の膨張を発見したことで、宇宙の始まりと終わりがどういう状態なのかという科学的研究に焦点が移り、かくしてこの議論はさらに将来に渡って延々と続いて行くことになるはずです。

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……と、三千世界の話をしていたら、宇宙論についての話にかなり長く寄り道してしまいました。

高杉晋作が都都逸で唄った三千世界という宇宙は、果たして永遠のもののつもりだったのか、限りのあるものだったのかはよくわかりません。が、この三千世界に棲むカラス、というのは、朝寝をともにする愛妾との仲を邪魔する輩、という意味でしょう。

邪魔者はすべて排除して、二人だけになった宇宙でいちゃいちゃしよう、と詠ったものであり、そう考えるとなかなかロマンチックかつしゃれています。

主と朝寝がしてみたい、の「主」とは、一般には、晋作の妾であった、「おうの」だったといわれています。現在下関にある東京第一ホテル裏あたりに、その昔、「稲荷町」といわれる遊里があり、おうのはここの「堺屋」という妓楼にいました。

晋作とはいつ出会ったのか、はっきりわかっていません。が、文久3年(1863年)京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターで長州藩が追放された際、晋作は脱藩して京都へ潜伏しましたが、桂小五郎の説得で帰郷しており、このとき晋作は、脱藩の罪で萩の野山獄に投獄されています。

しかし、身分が高かったため、このときもすぐに謹慎処分となり、この謹慎処分のころもおおっぴらにあちこちで歩いていたようで、このぶらしているときに下関に滞在し、ここでおうのを見初め、身請けしたのではないかと考えられます。

ちなみにおうのは右を向けといえばずっと右をむいているような、ちょっと天然な癒し系の女性だったといわれています。何事にも素直で、聞き分けがよく、晋作に右を向けといったら、いつまでも右を向いているような従順な女性だった、というのは司馬遼太郎さんも書いていました。

晋作にとって正妻は形式だけのもので、ほとんど家に寄り付かなかったといい、命がけの日々の彼の疲れた心を癒してくれたのは、おうののような素直でしおらしい女性だったのでしょう。

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功山寺での旗揚げ以降、晋作は大阪や京都などで常に幕府方から命を狙われるようになりましたが、おうの得意の三味線を片手に晋作に付き添っていたといい、上述の三千世界……の都都逸も、おうのと一緒になってから作られたという説もあるようです。

高杉晋作がいかに彼女を大切にしたか、という話は残された数々の手紙などにも現れていますが、「長崎みやげ」とされるビロードのカバンが下関市の東行記念館に残っており、彼の深い愛情を物語っています。柄物のビロードに、真鍮の金具がついた英国製のバックであり、この当時としては相当高額なものだったでしょう。

高杉晋作は死期を悟った時に、おうののことを白石正一郎に頼んでいます。白石は長州藩など多くの藩から仕事を受けていた廻船問屋で、尊皇攘夷の志に強い影響を受けてその豊富な資金を晋作らの志士に惜しむことなく注ぎ込んでいた人物です。高杉晋作の奇兵隊結成にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊しています。

晋作はこの白石におうのの後のことを託し、また、おうのに対し、「自分が死んだら墓守をして過ごせ。そうしたら、伊藤(博文)や井上(馨)たちが祖末にしないから」と遺言をします。

彼女はこの言葉に従い、晋作の墓所のある「吉田」という場所で山県有朋が所有していた「無鄰菴」という建物を譲り受け、ここで残る一生を終えました。吉田という地は下関市役所の北東部にあり、市内を流れる木屋川にもほど近い場所であり、現在この建物は「東行庵」とよばれています。

晋作は、その生涯で多数の変名を持っており、谷梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助などなどがありましたが、その最後には谷潜蔵と改名していました。おうのはこの谷潜蔵という晋作の最後の名前を使って新たに谷家をおこし、「谷梅処」と呼ばれるようになりました。

しかし、晋作との間に子があったわけではないため、この谷家はその後、2代梅仙、3代玉仙と代々尼になった女性が庵主として継承していきました。この東行庵は晋作の没後100年を前に1966年(昭和41年)に大修理が行われ、同年、その境内に「東行記念館」が建てられて、現在は観光地になっています。

そしておうのは、ここで高杉晋作の遺言どおりに彼の墓守として暮らし、その費用をやはり、伊藤、井上、山県らが出してくれたといいます。明治42年8月7日、68歳で没。墓は、「東行墓」がある所ではなく、そこから少し離れたところから晋作の墓を見守るようにひっそりと建っています。やはり正妻に配慮してのことだったでしょう。

カラスを殺し、というのは都都逸の気分としてはわかりますが、多くの志士に慕われ、親分肌で優しいところのあった晋作の気分としては、あの世でも子分のカラスを殺したりはせず、きっとかしずかせて器用に働かせ、その稼ぎでおうのとの朝寝を毎日楽しんでいることでしょう。

私もあやかりたいところですが、カラスを子分にするどころか、ミミズ一匹弟子にする器量もありません。またタエさんを尻目に愛妾を持つほどの度胸もないので、当面、テンちゃん一匹で我慢することとしましょう。もしかしたら二匹目の妾ができるかもしれませんが……

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