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魔女の一撃

2014-3898先日のこと、ここのところ恒例になっているジョギングから帰り、シャワーを浴びて着替える際、衣類を取ろうとちょっと前屈みになった際、「グキッ」……と、音がしたわけでもないのですが、腰のあたりに激痛が走りました。

あっ、やっちゃったかな、と思ったのですが、実は伊豆に引っ越してくる前の東京でマンション暮らしの際にも、同じ経験があり、これはどう考えてみても、いわゆる「ギックリ腰」というヤツです。

医学的には、急性腰痛症というそうで、突然腰部に疼痛が走る疾患です。原因は関節の捻挫のほか、筋肉の損傷・炎症などであることが多いようですが、まれに、背後付近にある膵臓や腎臓の炎症が原因となることもあるそうです。が、多くは筋肉の捻挫や炎症であり、軽傷であれば、安静にしていれば一ヶ月内外で自然に治ることがほとんどのようです。

しかし、前回東京でやったときは、歩けなくなるほどひどかったため、即座に針治療院に駆け込み、針の5~6本も打ってもらったでしょうか、その日のうちになんとか歩けるようになり、一週間ほどでほぼ痛みは引きました。が、その後約一ヶ月はまともな生活ができませんでした。

で、今回はというと、このときほどはひどくはないようで、前回と違うのはなんとか歩くことができることです。ただ、椅子に座ったり、腰を曲げて物を取ったりすると激痛が走るのが問題で、一瞬また針治療に行ってみようかな、とも思ったのですが、我が家には温泉もあることであり、症状もやや軽そうなので湯に浸かって経過を見ることにしました。

その後、朝夕温泉に浸かって、自己流のマッサージなどを繰り返していたところ、3~4日後には、かなり痛みが和らぎ、日常生活には支障がなくなってきました。ちょっと軽く走ってみても大丈夫そうなので、中断していたジョギングも再開しようかなとも思いました。

ところが、ネットで調べてみると、安静にしていられず治らないうちに仕事や運動などを再開したことで再発してそのまま慢性化してしまう事例も少なくないと書いてあり、安静が一番ということなので、思いとどまり、走らず我慢の日を重ねていました。

が、ギックリをやってから一週間にもなると、体がなまった感が強くなったので、昨日、おそるおそる走ってみたところ、どうやら大丈夫のようで痛みもなく、また走ったことで血行がよくなったのか、さらに痛みが和らいだような気さえします。

こんなに早く治ったのはやはり、温泉効果かな~と思っており、温泉を引くのにもそれなりにお金はかかりますが、針治療代にお金がかかっただろうことを考えると、元がとれたかな、と思ったりしている次第です。

このギックリ腰は、年齢を経てから発症する人も多いという印象がありますが、基本的には筋肉の捻挫や炎症が原因なので、若い人でも経験する可能性があります。予防策としては、荷物などを持つ際、足場の悪いところで無理な姿勢で持つなどしないように心がけることや、極端に重いものはなるべく持たないようにすることです。

また、睡眠不足でなおかつ過労ぎみの時なども起きやすいといいます。これはおそらく、寝不足や過労でぼーっとしている際には筋肉も油断していることも多く、こういうときは急に体重をかけたりといった、急激な体位の変化にも対応ができにくいためでしょう。

このため、予防のために普段から過度ではない程度の運動をして腰まわりから背中にかけての筋肉全体が弱らないようにしておくこともそれなりに有効なようです。私は毎朝ジョギングをしているので、筋肉の衰えはないと思っていたのですが、たしかに背筋や腰回りの運動にはあまり気にかけていませんでした。

今回の発症もそれが原因のようであり、やはり全身運動は常に必要だというのを身に染みて思い返した次第です。

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ところで、このギックリ腰という呼び方は、地方によっては「びっくり腰」とも呼ばれるそうで、欧米ではその病態から「魔女の一撃」と呼ばれるようです。ドイツ語では魔女の一撃のことを“ Hexenschuss”というそうで、これは「ヘキセンシュス」と読みます。

直木賞作家で、元医師だった渡辺淳一さんもこの用語についてはご存知であり、「愛ふたたび」という小説では、ある女性弁護士がギックリ腰になり、主人公の医師のところへ治療にやってきたところ、この医師がこの用語を口にし、“魔女の一撃”というような意味になります」と説明する場面があり、この会話をきっかけに二人は恋人になっていくそうです。

が、私はいまさらこの齢でこのヘキセンシュスを口に出して、若い女性の興味を惹こうなどと大それた考えは持っておらず、第一、エラそうにこうした喋り慣れない言葉を口にすると、舌をかんで、「ハクションです」とでも言ってしまいそうなので、やめておくにこしたことはありません。

この「魔女」というヤツですが、これは、ヨーロッパでは超自然的な力で人畜に害を及ぼすとされた人間、または妖術を行使する女性のことです。日本にはこういう用語はなく、言いかえるなら女呪術師、といったところでしょうか。が、魔女の一撃ならばまだしも、「呪術師の一撃」ともなると、一発でコロリといってしまいそうです。

とはいえ、ヨーロッパの魔女や魔法使いの元祖も呪術師であったようで、旧石器時代の洞窟壁画には呪術師ないし広義の「シャーマン」と解釈される人の姿が描かれており、呪術は有史以前に遡る人間とともに古い営みであると考えられています。

この呪術師は、その後ヨーロッパにおいては、複雑な背景を持つ重層的な概念となっていき、そこから派生した魔女像も非常にいろんなものがあります。古代や中世前期での原型的魔女ないし魔法使いから、民間伝承やメルヘンの世界での妖精的なもの、ロマンチックな魔法少女的なものまでさまざまなものが魔女という言葉で括られています。

しかしやはり魔女といえば、15世紀ころから呪術師とは別の概念として広まった「悪魔と契約を結んで得た力をもって災いをなす存在」であり、魔女とは悪魔に従属する人間であり、悪霊(デーモン)との契約および性的交わりによって、超自然的な魔力や人を害する技を授かった者、というイメージです。

16世紀から17世紀の近世ヨーロッパ社会においては、識字層を中心にこうした魔女観が広がり、このため魔女裁判が盛んに行われましたが、これが現在に至っても、魔女といえば「魔女狩り」というイメージが先立つようになっています。

この「魔女狩り」の一般的な定義としては、魔女または妖術を行う呪術者の訴追・裁判を行い、刑罰を与えるというものですが、なぜに、そうしたものがヨーロッパで流行ったのかについては、なかなか日本人には理解できにくいところがあります。

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妖術に対する恐れは過去のヨーロッパのみならず多くの社会に普遍的にみられる人類学的事象ですが、どういうものを「妖術」とみなすかについては至極あいまいであり、また魔女と名指しされた人たちがどのような人々であったかについては、ヨーロッパ各地の事情や個々の魔女裁判によって異なるため一般化して説明するのは難しいようです。

また、告発された人は女性とは限らなかったようです。「魔女」と称されるため女性ばかりのように思われやすいものですが、犠牲者の全てが女性だったわけではなく、男性も多数含まれていました。

裁判記録に基づく統計によれば、西欧ではおおむね女性でしたが、とくに北欧では男性の方が多いところもあったようです。また、対象となった犠牲者は貧しい下層階級の人々が多く、高齢の女性が多い傾向にありました。

しかし、時には比較的身分の高い人や少年少女が魔女とされることもあり、このほか上層下層に限らず、とくに集団妄想を先導するような輩や、同性愛者や姦通者、隣人の恨みを買った人たちなどに悪魔憑きのレッテルを貼り、排除対象のマイノリティとして告発しました。

また、民間療法の担い手として、正規の医者ではないけれども医者の代行を務めたような人も訴えられることもあったようで、今で言う助産師、産婆を魔女として糾弾することもありました。が、裁判記録にみられる産婆の数はけっして多くなく、また民間の治療師や占い師である白魔女も裁判記録を見る限り、ことさら多くはなかったようです。

ちなみに、白魔女というのは、良い目的に用いられる、いわゆる「白魔術」を扱う呪術者のことで、白魔術としては、聖人が施すことで病気が治癒する、といった奇蹟のようなもののほか、害を得る者がなく、術者・願者に益をもたらすものとされます。

病気治療のほか、恋愛成就・雨乞い・豊作祈願・収獲祈願・紛失した物を見つけ出す、といったことや、また破損品を修復し新品同様に戻す魔術を白魔術という場合もあり、これらはむしろ重宝がられ、こうした術は中世以降、化学・医学の原型となりました。

「魔女狩り」が流行った背景には、キリスト教の普及があるようです。これがヨーロッパ中に広がると同時に、片や悪魔と結託してキリスト教社会の破壊を企む「背教者」というスケープゴートが生まれ、これが「魔女」として変化し、彼等(彼女ら)を裁く「魔女裁判」が開始されました。

そして初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて魔女熱狂時代とも大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来しました。しかし、キリスト教会の主導によって行われ、「数百万人が犠牲になった」というようによく言われますが、魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく、どちらかといえば民衆の側にあったと考えられています。

15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで処刑された人数も推定で4万人から6万人程度であったと考えられており、しかしその魔女に仕立てられたのは反キリスト教を掲げる人達ではなく、上述のようにどちらかといえば社会的な弱者や、マイノリティでした。

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歴史上の魔女狩りの事例の多くから俯瞰すると、魔女狩りというものは社会不安から出た、一種の集団ヒステリー現象であったとも考えられています。従って、キリスト教徒たちが魔女狩りを行ったというよりも、この当時の宗教的な大変動や社会的不安が人々を精神的な不安に落としいれ、魔女狩りに駆り立てたと考えられます。

この当時の不安定な世相においては、権力者にとって魔女狩りは中央集権化した国家や教会の中枢による臣民のコントロール手段として有効であり、また庶民側も戦争や天災に対する怒りのスケープゴートとして魔女を求めた、とも考えられ、両者の意向が一致したことが魔女狩り流行した理由のようです。

多くのメディアなどでは、依然として魔女狩りをステレオタイプなイメージで捉えて「キリスト教会主導で行った大量虐殺」としていますが、これは間違いとする説のほうが現在は有力であり、その数も思っていたよりも少なかったことがわかってきています。

ただ、魔女裁判にかけられた人の数が我々が考えているよりも少なかったとはいえ、その裁判の過程と結果は残酷なものが多かったのは事実のようです。

上でも書きましたが、魔女として訴えられた者には、一般には貧しく教養がない、あるいは友人が少ないといった特徴を持つ人が多く、社会からつまはじきにされる人が選ばれる傾向があったようです。

また、必ずしも非キリスト教者の排除手段とはいえなかったとはいえ、宗教界の権威者たちは、旧約聖書の多神論のようなものを信奉し、唯一神論の自分たちの権益を脅かそうとする人達をとりわけ魔女に仕立てあげたがっていました。

裁判において訴えられたこうした人達が魔女であるか否かは取調べによって明らかにされましたが、そこでは拷問が用いられることもあり、残酷なものとしては熱い釘をさしたり、指を締め上げたりといった恐ろしい方法も用いられました。処刑法としてはヨーロッパ大陸では火あぶりが多く見られたようですが、ほかにも絞首刑や溺死刑などがありました。

魔女の疑いをかけられた者に対しての取調べや拷問は、通常の異端者や犯罪者以上に過酷なものでなければならないという通念がはびこっていたためであり、時には魔女に対する取調べのために新しく考案された拷問もあったといいます。

ただ、拷問によって本人の自白を得るばかりではなく、知人や隣人に証言させるという方法が用いられることも多かったようです。また、拷問が全員に対して行われたわけでなく、拷問の使用の是非は地域や取調官の性格によっていたようで、訴えられた人がすべて魔女とされたわけではなく、無罪放免になったケースもわりとあったようです。

魔女狩りを行うことで、儲けるような人物もいたようです。たとえば清教徒革命の時代(17世紀)にイギリス東部で「魔女狩り将軍」を名乗ったマシュー・ホプキンスなる人物がいました。かれは魔女と思しき人物を探し出し、体にある「魔女のしるし」を見つけては魔女であることを確定し、それによって報酬を得ていました。

魔女狩りの歴史において最悪の「魔女発見人」の一人といわれていた彼は、イギリス政府から魔女狩りを任されていると吹聴して、無実の人々を魔女に仕立て上げて処刑し、多額の収益を得たといわれています。

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イギリス東部サフォークで清教徒の牧師の息子として生まれたたホプキンスは、当初弁護士をしていましたが、余り有能ではなかったようで、このため生活に必要な収入が得られず、地元で魔女集会が行なわれたのを機に魔女狩りを生業とするようになりました。

これは彼が法律に精通しており魔女狩りにおいて、合法すれすれの手段を使えたからだといわれています。彼はジョン・スターンとメアリー・フィリップスという男女二人の部下を連れて、イングランド東部各地を巡回して魔女狩りを行ないました。

こうした巡回による当時の魔女発見において、一般的な手数料以上の料金は請求しなかったと彼は書き残しています。が、実際には彼が魔女狩りを行なう時には地元住民からかなりの額の特別徴税を取っていました。

一度の裁判で庶民の年収に相当する20ポンド前後の大金を受け取ったとする記録もあり、彼が魔女狩り業務に従事していた3年弱の間に稼いだ金額は数百ポンドとも1000ポンドとも伝えられています。この当時の価値は、1ポンド約10万円くらいという統計もあるようですから、年間1千万から数千万円もの金を魔女狩りで稼いでいたことになります。

彼が告発して処刑された魔女の人数はおよそ300人とされ、イングランド全体で魔女として死刑になった者は1000人ほどという推計値もあるようですから、イングランドの魔女の3分の1弱がホプキンスの手にかかった事になります。

彼がこれほどの「成果」を上げ得たのは、住民からの特別徴税からもわかるように地元の行政からの後押しがあったからでもあります。しかし、ホプキンスが用いた方法は不正が多く、多数の無実の人を魔女としてでっち上げ、処刑して多額の料金を得るというものでした。

彼は町や村、もしくはその近郊に住む女性で、貧しく教養がない、あるいは友人が少ないといった特徴のある者を選んで魔女に仕立て上げていました。隣近所との交際も乏しい孤立した人は、その心の代償として犬や猫などのペットを飼っていることが多いものですが、それをも「使い魔」であるとでっち上げて魔女の証拠にするのも常套手段でした。

また、魔女に仕立てた一般人を自白に追い込むための拷問も卑劣なものでした。が、当時のイングランドの法律では基本的には拷問が禁止されていたため、彼は様々に工夫を凝らし、違法すれすれのやり方を用いました。

このため、容疑者を長期間眠らせず部屋の中で歩行を続けさせ、疲労のため意識がもうろうとなった状態で誘導尋問を行ない、魔女であるとの自白を引き出すといった方法をとりました。それでも効果がない時は、「スイミング」と呼ばれる「水責め」を用いました。

当時、水は聖なるもので魔女を受け入れないので、魔女は水に浮くという言い伝えがあり、このため、魔女と疑われる人物を紐で縛り上げ、水に入れて浮かべば有罪、沈めば無罪とするのがこの水責めを行った理由でした。

しかし、浮上がれば当然有罪となり死刑なのですが、沈む、沈んだまま、ということはつまり浮き上がって来れないということであり、多くの被疑者は溺死してしまいました。通常人は水に沈められると、息ができなくなるので浮き上がってくるものですが、浮かんでこなかったというのは、何らかのトリックを用いていたに違いありません。

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さらに、ホプキンスは「針刺し」と呼ばれる方法も使用しました。この当時、魔女は、悪魔との契約の証しとして体のどこかにマークを付けられ、その箇所は、針を刺しても痛みがなく血も出ない場所と考えられていました。このため、魔女候補の容疑者の体には全身に針が刺され、この痛くない場所を探す、という残忍な方法がとられました。

そのための針刺しを専門に実施する業者まで現れ、ホプキンス自身もまたこの「針刺し業者」の一人でした。しかし、所詮は、この針刺し業者も無実の人を魔女に仕立て上げるための「サクラ」でした。

こうした業者が用いた針には特殊なしかけがしてあったといいます。容疑者の体に押し当てると針の部分が柄の中に引っ込む仕掛けになったものであり、これとは別に普通に針を仕込んだだけのものを用意します。この普通の針で被疑者の全身を刺していきますが、ある部位のときだけ、この針が引っ込む仕掛けの針を使います。

結果として痛みも出血もない魔女マーク発見、となりますが、刺された当人もその仕掛けを見抜くことができないわけであり、信じられない、と目を丸くすることになります。ホプキンスは、こうした業者を使った不正で多くの魔女を捏造しましたが、自らもこうした術に長けており、針刺し業者としての多額の報酬も得ていました。

しかし、こうした悪どいやり方については当然批判する人も多く、やがて公然と非難する人たちが現れ、あるとき、ひとりの牧師が彼の尋問の残虐さや違法性をあばく証拠を集め、告発状を出しました。これによってホプキンスは信用を失い、1646年末頃までには、この魔女狩り将軍は廃業へと追い込まれていきました。

彼の没年やその状況ははっきりしませんが、彼自身が魔女とされて、後述の「水責め」を受けて殺されたとする説もあります。が、実際は病死したというのが通説のようです。

彼は、1647年に「魔女の発見」という小冊子を出版しており、そこには世間の批判に対する釈明が書かれているそうです。無論でっちあげでしょうが、この残された冊子や彼を告発した牧師らが配布した資料は、現代でもこの当時の魔女狩りの事情を知る上で貴重な資料になっているといいます。

こうした魔女や魔女狩りは、現在においてはもはや存在しない、と思いきや、インド農村部やアフリカの一部で魔女狩りが行われているほか、パプア・ニューギニアなどでは妖術や精霊の存在が信じられており、天災があった場合などには、彼等のせいだとして暴徒による彼等「狩り」が行われているそうです。

インドでは、2008年ごろにテレビで魔女狩りの様子が放映されたことがあり、先進諸国の人々を驚かせました。しかし、さすがに最近は先進国の仲間入りをしようと頑張っている国でもあり、この報道をきっかけに、女性を暴行したとして6人が逮捕されています。

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このほか、ナイジェリア、ガンビア、タンザニア、といったアフリカ諸国ではまだ魔女狩りが行われています。とくにガンビアでは魔女の疑いがかけられ千人ほどが拘束され、大統領自身が魔女狩りへの関与をしているそうです。

また、タンザニアでも、不妊や貧困、商売の失敗、飢え、地震などの災厄は魔女の仕業という迷信が根強く残っているといい、魔女狩りによって年平均500人の女性が殺されているといいます。

アフリカといえば、最近エボラ出血熱によって、各国で多数の人が死んでいますが、死者者が70人近くにのぼっているといわれるコンゴ共和国では、エボラ出血熱が魔女の魔法によって起こるという噂がながれ、発生の原因とされた人たちが石打ちにあったりして殺された、という話もあるようです。

このほか、中東のサウジアラビアでは現在も合法的に魔女狩りが行われており、イスラム宗教省には「魔法部」なるものがあるそうで、ここに魔法使いに魔法をかけられた場合にどうしたらよいかといった電話相談を受け付けているといいます。

相談内容に信憑性がある場合には調査、逮捕、起訴が行われ、実際に魔女とされる人物が死刑執行されることもあるそうで、サウジアラビアといえば、日本も原油の主要輸入国としている国でもあり、中東諸国の中でも先進的なイメージがありますが、まだまだそんな風習があるのかと、驚いてしまいます。

こうした、アフリカや中東諸国以外の、アジアやオセアニア、欧米諸国においてはもうさすがに魔女狩りはないと思われますが、「ハリー・ポッター」を生み出したイギリスでは、魔女狩りがなくなったあとも、魔女や魔法といったことを本気で信じている人は多いようです。

しかし、それを言えば、日本でも昔からいるとされる、妖怪や物の怪の類の存在を信じている人は多く、対象は違えど事情は一緒でしょう。また、穢多非人といった社会的弱者を設け差別する、といった風習はごく最近まで根強く残っていました(場所によっては、現在でも)。

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このほか、こうした先進国では、実際の魔女狩りはなくなったものの、思想的偏見にもとづいて行われる糾弾・排除行為のことを「魔女狩り」と隠喩表現することがままあります。

たとえば1950年代のアメリカ合衆国で吹き荒れたマッカーシズムの嵐がそれです。マッカーシーというのは、あの日本占領に赴いた、マッカーサー元帥のことではなく、アメリカ合衆国上院議員のジョセフ・レイモンド・マッカーシーのことです。

彼が提唱した「反共産主義」に基づく社会運動、政治的運動のことで、彼は国務省内に250人もの共産主義者がおり、そのリストを持っていると発言したことがきっかけとなり、多数の政府職員、マスメディアの関係者などが攻撃され、これは「現代の魔女狩り」と呼ばれました。

逆に、共産主義国の中国では、1960年~1970年代に反共産主義者だとされて、多数の人々が虐殺された文化大革命がおこっており、これも「魔女狩り」と評されました。党の権力者や知識人だけでなく全国の人民も対象として、紅衛兵による組織的な暴力を伴う全国的な粛清運動が展開され、多数の死者を出しました。

文革時の死者数の公式な推計は中国当局の公式資料には存在していませんが、内外の研究者による調査により最低でも40万人、可能性としては1000万人以上、研究者によっては2000万人いう数字を示す場合もあるようです。

この騒動をもとに、その後中国では「密告」が普通に行われるようになり、家族同士で、親兄弟までも容赦なく告発されるような風潮が定着したことから、その後国家としてのモラルが著しく低下したといわれています。

こうした「現在の魔女狩り」は、いわば「吊るし上げ」、もしくは「総括」といった意味を持つものですが、こうしたアメリカや中国の例にもみられるように、政府機関などによる横暴な摘発などの「理不尽さ」の面を強調する時に使われることも多いものです。

日本においても文部科学省が所管しほぼ公的機関といっていい「理化学研究所」が発した、女性博士による「論文捏造」もまた現在の魔女狩りではないか、との意見があるようです。ひとりの人間を魔女として切り捨てれば、組織の安泰は保てる、というわけです。

が、STAP細胞なるものの存在すらまだ確認されておらず、これが本当に魔女狩りなのかどうかも明らかになっていない中、関係者の自殺がおこり、この事件の方向性は二転三転し、混とんとしています。

願わくば魔女裁判など行われることなく細胞の実存が確認され、逆に「世界に誇れる魔女」だった、と称賛される日が来ることを待ちたいところですが、はたしてどういう結末になるのでしょうか。

さて、腰の具合もそろそろよく、この長文のブログを書いている間も特に痛みません。が、油断をせず、さらなる「魔女の一撃」を喰らわないよう気をつけて、おそるおそる仕事を始めることとしましょう。

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旅・放浪・カメラ……

2014-04578月も下旬に入ってきました。

子供のころのこの時分の気分としては、あ~もうすぐ夏休みが終わってしまう、学校行きたくないな~、であり、できることならもう一ヶ月でも二ヶ月でも夏休みが続いてくれないものか、と切に願ったものですが、やがて容赦なく新学期は始まりました。

社会人になってからは、この気分は盆明けのときのものであり、帰省やら何やらでひとときの休みを取り、ゆっくりしたあとの出社はやはり嫌なものでした。とはいえ、学校にせよ会社にせよ、休日という切り替えの時間を使ってリフレッシュしたあとは、何か新しいものにチャレンジしようかという気分になるものです。

季節もまた、ちょうど夏から秋へと向かうころであり、日もまた短くなって、生活サイクルも少し変わってきます。着るものが少しずつ増え、食べ物も冷たいものばかりだったのが、少し暖かいものを欲するようにもなり、入浴時間も少し長くなったりします。

秋はまだまだ先かもしれないけれども、これから訪れる本格的な季節変化に備えると同時に、残る四半期を有効に使うべく、夏バテした体を愛おしみながらも何か新しいことをやろうという気分に一番させてくれる、これからはそんな季節のような気がしています。

それにしても何をやるかですが、これは人それぞれでしょう。また、どう始めるかについても、「心機一転」というふうに、覚悟を決めて新たな気持ちになって始める場合もありますが、何がやりたいかもわからず、ともかく何等かのスタートを切ろう、といったあいまいな始まりもあるでしょう。

新しい生活を始めることを「門出」といいます。この「門(かど)」は「家の出入り口」のことであり、「出」は「新しく生じる」「出発する」という意味ですから、「門出」というと「わが家を出発して旅立つこと」です。新しく何かを始めたいのだけれども、はっきりとやりたいことが分からない、といったとき、何かと人は「旅」に出たがるものです。

この「旅」というものの歴史を遡って概観してみると、人類は狩猟採集時代から食糧を得るために旅をしており、農耕が行われる時代になった後も、全ての人々が定住していたわけではなく、猟人、山人、漁師などは食糧採集のための旅先で毎日を送る生活を送っていました。

その後、宗教的な目的の旅がさかんに行われるようになり、ヨーロッパでは4世紀ころには巡礼が始まり、この風習は今でも続いています。また、近世のイギリスでは、裕福市民層の子が学業仕上げのグランドツアーや家庭教師同伴の長期にわたる海外遊学などを行っていましたが、その名残で海外留学はヨーロッパを中心として今もさかんです。

日本でも仏教の伝来から平安時代末ころには巡礼が行われるようになりました。また、江戸時代にいくつもの街道が整備され、馬や駕籠も整備され、治安も改善されたので、さらに旅がさかんになり、明治維新以後は、西洋から鉄道や汽船などの交通手段が導入され、ますます旅は身近なものとなっていきました。

旅には目的地のある旅と無い旅があります。一般的に言えば、旅は何等かの目的地を決めて行われており、その目的地に行って何かを楽しむものです。例えば、温泉が目的地の場合、ここで身体を癒したり、ゆっくりと宿で滞在したり、観光を楽しんだりします。

一方では、この“目的地”が形式的に設定されているだけであまり重要でない場合もあり、電車のような乗り物に乗る行為そのものが目的の旅もあり、その移動中にさまざまな風景を見ていくことこそが主たる愉しみである旅もあります。

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さらには、目的地を定めず期間だけを決めて旅に出る、つまり行き先は成行きにまかせ、旅先での偶然や必然に身をゆだねる、という旅をする人おり、目的地だけでなく期間も定めずあてどもなく長期の旅に出る人もいます。

「放浪の旅」がそれであり、放浪とは、さすらうこと、あてもなくさまよい歩くことを指します。流浪、彷徨ともいい、英語では一般には“wandering”です。

ただ、同じ英語でもローム(roam)、ノマド(nomad)、バガボンド(vagabond)、ストロール(stroll)、ドリフター(drifter)などの表現がありそれぞれニュアンスは異なります。

例えばロームとは、なんのあてもないまま歩き回るという意味であり、ストロールとは、散歩などのことで、ぶらつくというような意味合いです。ドリフター、バガボンドなどはそれぞれ漂泊者、来訪者・異邦人の意味で使われます。

また、ノマドは牧歌的放浪であり、「遊牧民」の意味もあります。家畜などを連れ、その餌となる植物を求めて放浪を繰り返す人々であり、その放浪の旅は生活のためです。一方ではただ、単に生活のためではなく、人生の意味を求めて放浪をする場合もあり、近年ではとくに若者にそうした傾向が見られます。

何らかの意図を持たずに放浪を繰り返すものも多く、放浪の体験やそこから得た印象を芸術活動に反映させることのできる能力のある人もおり、古来より放浪の旅を続ける行為そのものを文学や絵画などの芸術の肥やしにしてきた人は多数存在します。

放浪をした有名な日本の芸術家といえば、松尾芭蕉や種田山頭火といった、俳人が真っ先に思い浮かびます。このほか、あまり知られてはいませんが、井上井月という人がおり、この人は幕末から明治初めにかけて活躍した俳人です。信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けました。

また、尾崎放哉(ほうさい)は井月と入れ替わるように世に登場し、明治大正に活躍した俳人で、種田山頭火らと並び、自由律俳句の最も著名な俳人の一人です。この人は、東京帝国大学法学部を卒業後、東洋生命保険に就職し、大阪支店次長を務めるなど、元は出世コースを進み、豪奢な生活を送っていたエリートでした。

ところが、ある日突然、それまでの生活を捨て、「一燈園」という特殊な団体に加わり、俳句三昧の生活に入ります。この一燈園というのは、京都市山科区に本部を置き、明治末期に設立された団体です。宗教法人ではなく、法人格としての正式名称は一般財団法人懺悔奉仕光泉林といいます。

争いの無い生活を実践することを「道」と考えており、ひとつの宗教とも考えることもできますが、仏教のように特定の本尊があるわけではなく、また所属者する者それぞれは自身の信仰を持つことを否定されません。修行者は生活そのものを祈りとする、いわば原始宗教的な毎日を送るだけで、その信条は、「大自然に許されて生きる」というものです。

人は生まれると大自然からその生活の糧を与えられるのであり、様々な競い合いや争いごとをせずとも、裸一貫、無所有であっても、我執を捨てて、生きることに感謝し、それを奉仕という形で社会に還元すれば人はおのずと活かされるというのが、この信条の意味です。

尾崎放哉は、ここで小間使い(寺男)としてで糊口をしのぎつつ、日本各地を放浪して回り、最後は小豆島の庵寺に移り住みました。そしてここで極貧の生活を送りながら、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ちつつ、俳句を作る人生を送りました。

そんなダイナミックな人生を送るような人ですから、当然クセのある性格の持ち主であり、そのためもあって何かあと周囲とのトラブルも多く、その気ままな暮らしぶりとも合わせて「今一休」と称されました。しかし、その自由で力強い句は高い評価を得るところとなり、その代表的な句、「咳をしても一人」は有名です。

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こうした俳人以外では、山下清もまた、日本中を旅して回ったことで知られ、放浪の画家として有名です。

1922年(大正11年)3月、東京市浅草に生を受けましたが、生まれた翌年に関東大震災がおこり、生家のあった田中町一帯が焼失すると、両親の郷里である新潟県の新潟市白山に転居しました。しかもさらに悪いことに、3歳の頃には重い消化不良で命の危険に陥り、一命こそ取り留めたものの、軽い言語障害、知的障害の後遺症を患ってしまいます。

清が4歳のとき、一家は元の浅草に戻りましたが、今度はここで父が死去し、生活は困窮を極めました。このため、母子は杉並区方南町(現: 杉並区方南)にある母子家庭のための社会福祉施設「隣保館」へ転居。この頃に母ふじの旧姓である山下姓を名乗るようになります。

清はここから尋常小学校へ通い始めましたが、しかし知的障害のために学校では勉強についていくことができず、次いで、千葉県東葛飾郡八幡(現:千葉県市川市八幡)の知的障害児施設「八幡学園」へ預けられました。

この学園での生活でようやく生活の落ち着きを取り戻した清は、ここで生涯続けていくことになる「ちぎり紙細工」に出会います。これに没頭していく中で磨かれた才能は、1936年(昭和11年)から学園の顧問医を勤めていた精神病理学者「式場隆三郎」の目に止まり、式場の指導を受けることで清の才能は一層開花していきました。

やがて1938年(昭和13年)には、銀座の画廊で初個展を開催するほどにもなり、1939年(昭和14年)には、大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催され、清の作品は多くの人々から賛嘆を浴びました。このとき、日本画の大家、梅原龍三郎もここを訪れており、清を高く評価した一人でした。

このように八幡学園での生活は充実したものであり、その在籍期間は13年にもおよびましたが、18歳になったとき、清は突如学園を「脱走」し、放浪の旅へと出ます。1940年(昭和15年)のことであり、この旅はその後さらに1954年(昭和29年)まで14年も続きました。

この間、日本は太平洋戦争に突入しており、出奔した翌々年に20歳になるため、徴兵検査を受ける必要がありましたが、清はこれを受けたくないために人の目を逃れ、更に放浪を続けました。

この時代、こうした「徴兵逃れ」は重罪であり、21歳になり、とある食堂で手伝いをしていたところにやって来た八幡学園の職員によって、取り押さえられてしまいます。そして、無理やり徴兵検査を受けさせられましたが、知的障害や言語障害があり、また幼いころの病気のためもあって体格が貧弱だったため、兵役免除となりました。

こうした放浪の旅の記録は、その後山下本人の手によって「放浪日記」として取りまとめられ、戦後の1956年(昭和31年)に出版されました。この本はすぐにテレビドラマなどにも取り上げられて評判になり、その影響もあって、この放浪時代のいでたちである、ランニングシャツにリュックサックを背負った姿は彼のトレードマークのようになりました。

しかし、実際にリュックサックを使っていた期間は短く、当初は茶箱を抱えての旅であり、その後風呂敷と変わり、リュックサックになったのは2年ほどの間だけでした。短かったとはいえ、そのいでたちは耳目を集めるものであり、加えて、その絵の才能は大いに評価され、戦後は「日本のゴッホ」、「裸の大将」と呼ばれ、親しまれるようになりました。

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1956年(昭和31年)東京大丸で開催された「山下清展」を始め、その後全国巡回展が約130回も開かれ、観客総動員数は500万人を超えました。この大丸の展覧会には当時の皇太子も訪れたといい、1961年(昭和36年)には、こうした展覧会から得られた収入で、恩師である式場隆三郎らとともに約40日間のヨーロッパ旅行に出発しました。

このヨーロッパ旅行における各地の名所を絵に残したものの中には、現在でも彼の代表作とされるものも多いのですが、その後は、国内のあちこちを旅し、国内各地の絵も多数残しました。晩年には東京都練馬区谷原に住み、「東海道五十三次」の制作を志して、東京から京都までのスケッチ旅行にも出掛けています。

この創作活動にはあしかけ5年の歳月をかけており、結果として55枚の作品を遺しています。ただ、その作業中に高血圧による眼底出血に見舞われており、その完成が危ぶまれての制作でした。

1971年(昭和46年)7月12日、脳出血のため49歳の若さで死去。ちょうどその死の直前、常磐線我孫子駅で販売される駅弁の包装紙のデザインを依頼されていましたが、この依頼は四季をテーマに4種類あり、そのうちの3種類だけしか完成していなかったため、四服一式が揃うことはありませんでした。

驚異的な映像記憶力の持ち主だったといわれ、「花火」「桜島」など行く先々の風景を多くの貼絵に残していますが、それは現地で作成したものではなく、すべて自宅のアトリエに帰ってからの記憶の再現によってのみ制作されたものです。写真やスケッチといった補助道具は一切もたず、記憶だけで細部を再現するというのは、通常人では不可能なことです。

とりわけ、花火が好きだった清は、花火大会開催を聞きつけると全国に足を運び、その時の感動した情景をそのまま作品に仕上げていますが、この刹那刹那に一瞬にして消え去る花火すら、彼は鮮明に記憶していたようです。

花火を手掛けた作品としては、「長岡の花火」が著名であり、ちょっと前に「なんでも鑑定団」でその一つが出ていましたが、数百万の値段がついていたと思います。

旅先ではほとんど絵を描くことがなく、八幡学園や実家のアトリエに帰ってから記憶だけを基に描くことができたことから、清はサヴァン症候群であった可能性が高いといわれています。知的障害や発達障害などのある者のうち、ごく特定の分野に限って、優れた能力を発揮する人が発する症状です。

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清のように、航空写真を少し見ただけで、細部にわたるまで描き起こすことができる「映像記憶」に優れた人のほか、ランダムな年月日の曜日を言える、書籍や電話帳、円周率、周期表などを暗唱できるといった人もおり、膨大な量の書籍を一回読んだだけですべて記憶し、さらにそれをすべて逆から読み上げることができた、といった例もあります。

一応、病気の一種とされているわけですが、別の見方をすれば、ある種の天才です。知的障害や発達障害、言語障害がある人たちは、その障害を補うために特殊能力を授かるのだ、ということを言う人もいます。まさに天賦の才です。

山下清は、その生まれつきの不遇のゆえに放浪生活をするようになったと考えられますが、上述の尾崎放哉をはじめとする芸術家たちの多くは、むしろ金銭や仕事には恵まれた生活を送っていました。にもかかわらず、それを捨ててまでして放浪の旅に出たのは、やはり気ままな旅先において、その才能を生かすインスピレーションを得たかったためでしょう。

実はここ、伊豆にも放浪の有名人がおり、この人は「間宮純一」といいます。1908年(明治41年)に現伊豆の国市で生まれ、1981年(昭和56年)に73歳で亡くなりました。

将棋の棋士です。かつて、カメラメーカーとして有名だった、マミヤ光機製作所の創業者間宮精一の甥で、明治時代に、我が家からもほど近い、伊豆「大仁」で間宮家が営んでいた呉服屋、「木屋」を継いだ間宮徳次郎の長男がこの間宮純一になります。

幕末から明治にかけて、活躍した教育家に、谷口藍田(らんでん)という人がいますが、間宮純一はこの人の外孫になります。儒学や漢学、洋学など内外の学問を学んだ人で、佐久間象山や伊東玄朴といった科学者・医者とも交流があり、江藤新平・副島種臣らとも面識があり、大隈重信らと王政復古の運動にも関与していました。

元々は九州の生まれですが、伊豆で暮らしていた一時期があり、このとき網元の娘との間に産まれた娘の長男が、間宮純一であり、外孫はつまり、私生児の子ということです。明治になってからは、鹿島藩に招聘され、藩校弘文館教授を務めたほか、沖縄・熊本・大阪などの各地で経書の講義を行ない、また宮家子弟の教育を行ないました。

70歳を過ぎてからも、東京に私塾・藍田書院を開いて若手の育成にあたり、明治35年(1902年)に80歳で亡くなるまでも、何等かの教育携わっていた人で、近代教育の父と呼ばれた人でした。

その外孫の間宮純一は、戦後すぐの1946年、四段で順位戦C級に参加し、その後もC級に在籍し続けるなどの実力を持っていた人です。順位戦というのは、毎日・朝日の両新聞社主催の将棋の棋戦であり、A級・B級2組・C級2組の5つのクラスからなり、A級の優勝者が名人戦の挑戦者となります。

従って、C級はさほど高い位ではなく、また間宮勝ち越す事はついにありませんでした。しかし、その名が有名なのは、放浪の棋士として知られていたためであり、放浪時代は、「間宮久夢斎」と称していました。借金の無心を繰り返していたといい、しまいには将棋連盟から退会勧告を受け1957年に退会するという、不名誉な出来事も彼の名が残る理由です。

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その後生家を継いだ弟の間宮登也が生活の面倒を見ていたそうですが、この弟もまた、アマチュアながら有段将棋棋士だったということです。ちなみに、伊豆国というのは昔から有名棋士が多く、江戸時代の安井家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家のうちの一つの本因坊家の第十四世「本因坊秀和」も現在の伊豆市の出身です。

この当時、小下田村と呼ばれていた場所に生まれ、9歳の時に本因坊丈和に入門。これは父と沼津に行った際に万屋某という12歳の少年に四手で負け、その結果に腹を立てた父親が江戸に上り、丈和のところに俊平を預けて帰ったためでした。

ところが、伊豆に帰ったあとに家族に猛反対されたため、再び江戸に戻って息子を連れ帰る旅中、前の少年に再び出会い、このときは互角で打ち分けました。これに気を良くした父親は家族を説得し、今度こそ正式に門下生にしたのだといい、その後本因坊家の家督を継いで十四世本因坊秀和を名乗るまでになりました。

その後、秀和ほどの名人が伊豆から出たという話は聞きませんが、東伊豆町出身の「八代弥(わたる)」という、20歳で四段を持つプロ棋士もおり、今後が楽しみです。伊豆にこうした優れた棋士が多いのは、のんびりとした気候ゆえに、棋風もまたのんびりしていて、相手には捉えどころのないためかもしれません。

話しが脇に逸れてしまいましたが、この放浪の棋士、間宮純一の叔父が「間宮精一」であり、先述のとおり、カメラメーカーのマミヤ光機の創業者です。1899年(明治32年)に伊豆の国市大仁で生まれ、1989年(昭和64年)に90歳の大往生を遂げましたが、その生涯を発明家、実業家として過ごし、カメラ設計者としても有名な人です。

間宮家は近江源氏佐々木氏の佐々木神社神主家系で、戦国時代は武田や北条、後には徳川の旗本の家柄でした。地元では秀吉の小田原攻めの際、山中城で奮戦した間宮康俊が知られています。幕末明治には学校教育などにも力を注いだ一族であり、これには上述の谷口藍田が深くかかわっていたようです。

この精一の父の間宮勝三郎もまた、事業家兼発明家であり、上述の伊豆大仁の呉服屋「木屋」を創業したのはこの人です。暗算が得意だったといい、呉服だけでなく、様々なビジネスを営んでいたそうで、生来発明好きで、楠から樟脳を採ったり、三宅島で芋焼酎やイチゴ酒、椿油を製造したかと思うと、北海道に渡ってリンゴ酒を製造したりしていました。

1919年(大正8年)には「間宮式金庫」を発明し、同年株式会「間宮堂」を創業。大仁に本社社屋を建設し、金庫を製造しました。長男の間宮精一もまた、父のDNAを受け継いで発明が得意で、その後「間宮式加減算機」を開発、さらにはそれをベースに1926年日本初のキャッシュレジスター「間宮式金銭登録機」を生みだし、間宮堂で製造販売しました。

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1928年12月に間宮堂は、事業家でその後外相も務めた、藤山愛一郎の支援を受け「日本金銭登録機」と社名を変更。間宮精一は技術部門の責任者となりますが、路線の相違などからカメラ事業へと転身することを決め、同社がアメリカNCRと提携したのを機に退社してマミヤ光機を創業しました。

NCRというのは、アメリカの総合情報システム企業で、流通システムや金融システムに強く、こちらもPOSシステム、現金自動預け払い機、小切手処理システム、バーコードリーダー、オフィスの消耗品、などを販売しており、1935年(昭和10年)に上の「日本金銭登録機」と提携し、同社の日本法人、日本NCR株式会社になりました。

ところが、戦前の1940年(昭和15年)、アメリカ他の欧米諸国との関係が悪化したのを機に、日本国内では外資排除が行われ、このため日本NCR株式会社は、東京芝浦電気株式会社(現東芝)が買収し、同社の大仁工場となりました。

現在でもこの工場は、「東芝テック」の名で操業しており、戦後すぐには、照明器具ではランタン・誘蛾燈、事務機では和文タイプライタを製造していたといいますが、現在は東芝のグループ企業として、POSシステムやデジタル複合機、レジスター、自動認識装置(バーコードなど)、インクジェットプリンターヘッドなどを製造しています。

その後、大仁にあったという、木屋呉服店は間宮純一の父の登也が継承しましたが、その後は縁戚関係にあった元総理の「鈴木貫太郎」家の縁戚者により営業が続いているといいます。現在も駿豆線大仁駅近くにあり、ここは宝くじ店をやっていたこともあり、良く当たる店として有名だったといいます。

マミヤ光機を創業した間宮純一の叔父、間宮精一は、生まれは大仁だったようですが、育てられたのは東京のようです。中学生の頃より写真機や撮影に深く興味を持ち、写真雑誌のコンテストに頻繁に投稿していたそうです。

浅草にあったヤマト商会という写真機店の店主がアマチュアの面倒見が良く「ヤマト写真倶楽部」という同好会を作っており、精一もここに所属していましたが、ここには木村伊兵衛などその後写真界の巨匠といわれるような人や、新派劇俳優、映画監督で名を馳せた井上正夫といった人も所属しており、芸術家の巣窟のような組織だったようです。

「懸賞荒し」の異名を取るほど非常に入選が多く、特徴的な作画は審査員に覚えられてしまい、ある時などは「いつも賞金賞品を独占するのはまずい」と考え友人の名前を借りて応募しました。が、これも入賞してしまい、出版社から電話があり「この作品は間宮さんのではないか、それを認めるなら入選させる」と白状させられたこともあったほどでした。

幼いころからカメラの機構に深い興味があり、「いつかは舶来品を凌駕する立派な国産カメラを作ろう」と考え写真機の考案をしていたといい、また、あるときのコンテストで一等賞品としてライカを得たことから、その後「ライカ倶楽部」という写真家集団を結成して作家活動をも行いました。

しかし、長じてからは大仁の父の事業を手伝うようになります。上述の「間宮式加減算機」の発明は、1923年の関東大震災によって高価な金庫の需要が減り、また進歩した海外製品が輸入されるようになって父の事業は窮地に立たされため、父を助けるために輸入品に対抗できるキャッシュレジスターを製造しようと考え末に生み出されたものでした。

この発明の際には、大仁に帰り、鉄道人夫の空き家を借りて食事は家族より握り飯を差し入れてもらって研究する日々を送ったといい、この当時、「間宮の坊やは頭が変になった」と言われつつ「間宮式加減算機」を完成、さらにはそれをベースに1926年日本初のキャッシュレジスター「間宮式金銭登録機」を発明し、1927年には試作に成功しました。

舶来品より国産は低く見られた時代で当初この製品はなかなか売れませんでしたが、1928年に国産振興博覧会に出品し優良国産賞を受け、表彰式の場で役員だった藤山雷太に事業化を訴えました。この藤山雷太こそ、藤山愛一郎の父であり、上述のとおり、雷太の紹介によりこの息子の愛一郎から資金の提供を仰ぐことができるようになります。

その後、藤山愛一郎との関係はさらに深まり、1928年には、間宮堂を改組し藤山愛一郎を社長とする日本金銭登録機株式会社が設立されました。この会社は、この当時世界でも2番目のレジスターメーカーであり、間宮精一はこの会社の技師長でした。

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しかし、1935年にNCRの日本法人となった際、レジスターの国産化を目標としていた間宮精一とは路線が異なるところとなり、精一は1937年に退社、カメラ開発に転身しました。

国産レジスターの量産からカメラ開発に転身した1939年には「寫眞器ニ於ケル焦點調整装置」を実用新案登録しましたが、これはいわゆるバックフォーカシング機構のことです。現在のカメラの主流である、レンズを動かしてピントを合わせる方式ではなく、フィルム面を前後に動かしてピントを合わせる機構でした。

こうした斬新な機構をもってカメラ開発を始めるに当たり、写真の弟子であった菅原恒二郎が銀行家であった父を紹介して資金調達し、菅原恒二郎が社長、間宮精一が技師長となり1940年マミヤ光機製作所を設立、最初のカメラとして、「マミヤシックス」を発売しました。

このカメラでは、前述のフィルム面を前後に動かすバックフォーカス方式を採用することで、不安定になりがちで光軸がずれる危険のあるレンズ部での手動式の焦点調節をする必要がなくなり、光学系の精度を格段に向上させることに成功しました。日本のカメラ史上でも名機といわれています。

軍隊などの機関にこれを予約販売する方法を新しく取ったところ意外に反響が大きく申込者250人、予約金は6万円(約1億円)にも達しましたが、精一は「納得いかない機械は出さない」が信条で改良を重ねて納期が遅れ、始末書を取られたこともあったといいます。

その後さらに改良を重ねたマミヤシックスは売れ続け、マミヤの屋台を大きくするのに大きく貢献しました。戦争激化に伴い一時製造中止されましたが戦後復活し、1959年まで製造されるという、ロングセラーになりました。

その後、マミヤ光機は、日本光学(現ニコン)やキャノンとともに、日本を代表するカメラメーカーに成長しましが、間宮精一は1955年顧問に退き、1966年にマーシャル光学を設立、マーシャルプレスというカメラを設計発売しました。フィルムを半自動装てんできるというちょっと特殊なカメラでしたが、あまり売れなかったようです。

間宮精一は、昭和天皇崩御の前日である1989年(昭和64年)1月6日に90歳で亡くなりました。その後マミヤ光機は、1992年(平成4年)にオリムピック(旧オリムピック釣具)と合併し、現在はマミヤ・オーピー株式会社となりました。なお、現在釣り具を扱っているオリムピックは事業継承を受けた別会社であり、組織的な繋がりはありません。

しかし、マミヤ光機から継承した光学器械製造部門は、主力商品の中判フィルムカメラ・デジタルカメラの売り上げが不振であったことから、その後コスモ・デジタル・イメージング株式会社に移譲され、これは現在はマミヤ・デジタル・イメージングという会社になっています。

現在もデジタルカメラ、Mamiya645AFDなどの中判機を生産していますが、かつては、2000万画級の一眼であるMamiya-ZDも製造していたこともあり、これは100万円以上もする高級機でした。

素人はなかなか手が出せない高額なカメラですが、これには及ばないながらも、私もニコンの名機といわれるカメラを持っていて、日々撮影にいそしんでいます。

放浪の旅は芸術のインスピレーションを高めてくれるようですから、私もこのカメラでも持って放浪の旅に出たいところですが、果たして、タエさんが許してくれるでしょうか。

いつかどこかで、リュックをしょったヒゲオヤジを見かけたら、私だと思ってください。「怪しいヒゲオヤジ」として、後世では有名な写真家としてもてやはされているかもしれません。

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変身へんしん

2014-1150692お盆に入った一昨日、大学に通っている一人息子君が、学校のある千葉に帰りました。

親元を離れてからも、毎夏、毎冬、きちんと里帰りに帰ってきてくれ、あちらであったことを色々話してくれるのはうれしい限りであり、こちらもそういう気持ちに答えようと、食事やら何やらでそれなりのもてなしをして、返すようにしています。

その一環で、彼が帰ってくるといつも親子三人で、映画を見に行ったりもするのですが、この度も何を見に行こうか、と相談したところ、今回はお互いに既に見てしまった映画も多く、選択肢があまり多くはありませんでした。

なので、あまり気乗りはしなかったのですが、「トランスフォーマー」というVFX作品を見に行くことにしました。VFXとは、Visual Effects(ビジュアル・エフェクツ)の略で、日本語にすると「特撮」ということになるでしょうか。が、CGやアニメを駆使したいわば仮想作品であり、実写の割合は昔の映画に比べてかなり少なくなっています。

このトランスフォーマーですが、今回の作品はシリーズ4作目で、正式には「トランスフォーマー/ロストエイジ」というタイトルになります。最初の作品は、2007年のもので、これは「トランスフォーマー」、2作品目が「トランスフォーマー/リベンジ(2009年)」。3作目が「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン(2011年)」です。

このうちの第1作目も、息子君を連れて三人で見にいっており、このとき彼はまだ中学生でした。子供向けの作品であることを承知での鑑賞でしたが、思いがけず面白く、とくにそのVFX映像にはただただ驚かされるばかりでした。

その後、我々二人は2作品目、3作品目は見ておらず、今回は久々の鑑賞でした。この4作目については新聞の論評で、最新のVFX技術は見るに値すると書いてあり、なのでストーリーはあまり期待せず、その映像美を楽しもうと思っていました。が、ストーリーのまずさばかり気になり、また、映像技術も期待したほどではなく、正直がっかりしました。

実は、この映画、一番最初の作品、「トランスフォーマー」の企画の段階ではスティーブン・スピルバーグが監督する予定でした。ところが、脚本が完成した段階でメガホンを取る時間が割けず、また脚本の内容から「自分よりも若い監督がメガホンを取るべき」とスピルバーグ監督が判断したため、マイケル・ベイに監督に依頼をしたそうです。

このため、スピルバーグは「製作総指揮」という名前だけを貸す、という形とり、以後、4作目まで、すべての映画で、スピルバーグは、「監修者」という形態をとっています。

ただ、スピルバーグは一連の作品にまったく関与していないわけではなく、主に演出面で経費を節約するアドバイスなどを行ったということであり、このため、最初の作品においては、2億ドル以上かかると言われた本作の制作費を1億5千万ドルまで抑えることができたといいます。

マイケル・ベイ監督は、この映画の撮影のオファーの話が来た際、子ども向け玩具を原作とする本作の監督をすることに難色を示していたといます。が、この当時「玩具」として全米で発売されていたトランスフォーマーの製作メーカー、「ハズブロ」に出向いて、資料などを見させてもらっているうちにその精巧さに驚き、考えを改めたそうです。

ハズブロは、1980年代から展開されてきた“変型するロボット”をテーマとする玩具・アニメーションを発売しており、この宣伝のために、コミックシリーズの発売にも関与しており、映画版の「トランスフォーマー」はこのコミックやロボット玩具を売らんがため世伝作品という向きもあります。

当初から、配給会社側はトランスフォーマーを三部作にする事を決定していましたが、ただしこれは、第一作の興行収入が好調であればという条件付きであり、最初から続編の製作が決定していたわけではありません。ところが、この第一作目は、アメリカでの初日興行収入は30億円以上、2週間で240億円以上を記録し、日本でも大ヒットしました。

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ただ、2作目の「トランスフォーマー/リベンジ」の最終興行成績は23.2億円と前作を下回って失速し、マイケル・ベイ監督も今作を失敗作であると認めました。しかし、はじめての3D作品として送り出した、第3作の「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」は、興行収入こそ40億円と1作目を下回ったものの、そこそこヒットしました。

とくに、3D鑑賞者が多く、3Dでの鑑賞率は91%であり、これは「アバター」の数値を上回っています。そこへ来て、今回の4作品目ですが、まだ興行中なので何とも言えませんが、私的には失敗作だと感じており、おそらくはあまり興行収入は伸びないのではないか、と思います。

このトランスフォーマーですが、2007年に最初に映画化の話が持ち上がる以前から何度か実写化は企画されてきたものの、映像面の問題や物語展開が困難などの理由で実写化は不可能とされてきたものでした。

そもそも、こうした「変形ロボ」の元祖は、日本の玩具メーカーである、株式会社タカラ(現:タカラトミー)から発売されていた「ミクロマン」と呼ばれるおもちゃで、1974年から1980年まで発売されていました。全身14箇所可動の身長10cmの小型フィギュアでロボットを変身させると、サイボーグになる、というコンセプトでした。

これが大ヒットしたのち、タカラは今度は、「ダイアクロン」という新たな商品を開発し、これは1980年から1984年まで発売されていました。同じく変形ロボでしたが、他のロボットと「合体」できるところが新しい特徴であり、このため「変形合体ロボ」と呼ばれました。

ネーミングは「ダイヤのように固い友情の、サイクロンのように力強い仲間たち」から来ており、ミクロマンで重視された「可動人形とそれが乗り込む変形メカ」の路線を練り直し、当初は3cmの隊員と複雑な変形合体ロボの取り合わせを基本として展開されました。

ところが、1982年になると、実際の乗り物を精巧にミニチュア化し、自動車や電車がロボットに変形する「カーロボット」をはじめとした「リアル&ロボット」シリーズが主体となっていきました。これをアメリカの市場においては、「トランスフォーマー」の名で出したところ大ヒットし、翌年に日本へ逆輸入され、逆に「ダイアクロン」の名は消えました。

その後、株式会社タカラは、「トミー」と名をあらため、更には現在の「タカラトミー」に変更し、アメリカの玩具企業であるハズブロや、コミック作品で有名なマーベル・コミックとの連携により、新たな展開を行うようになりました。

この「ハスブロ」という会社ですが、マテル社と並んでアメリカを代表する世界規模の玩具メーカーで、規模的にはマテル社に次いで全米第二位です。“Making the World Smile”を企業メッセージとして掲げており、ロゴマークも笑顔をモチーフにしたものです。

ハズブロという名前は聞いたことがなくても、「モノポリー」を作っているメーカーといえば日本人でもあ~あれか、と思い当たるでしょう。こうしたボードゲームとアクションフィギュア等のキャラクター玩具が主力商品で、創業は1923年に遡ります。

ユダヤ系の“Hassenfeld”という兄弟が最初は文具会社からスタートさせた会社であり、ハズブロ(Hasbro)の名は、“Hassenfeld Brothers”から来ています。1940年ころから玩具の製造・販売に乗り出し、以降、多数の関連企業を傘下におさめる巨大グループに成長しました。

その後もデジタルゲームを作る会社を買収するなど、新しい分野の開拓にも積極的で、1992年には、日本の老舗玩具メーカー「野村トーイ」を買収の形で傘下に加え、その社名をハズブロージャパンに変更して日本法人を設立しました。

ところが、1998年、突然経営不振になって、これによりいったん解散しましたが、その後タカラトミーとの業務提携契約を結ぶ形で復活し、現在も同社とは親密な関係にあり、トランスフォーマーを作る技術もタカラから提供を受けている、というわけです。

しかし、北米ではハズブロ以外にも、タカトクトイスやトイボックス、トイコーといった、玩具メーカーがロボット玩具を発売しており、これも「トランスフォーマー」と称して販売しています。が、これを日本に輸入する場合はタカラが保有する権利との関係上、発売できないものも多数あるといいます。

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一方、日本国内ではタカラと同じく、大手の玩具メーカーであるバンダイが、これを「マシンロボ」の名前で販売しており、タカラトミーのトランスフォーマー同様、自動車や新幹線、戦闘機や猛獣などが人型ロボットに変形する商品をメインアイテムとして展開しています。

スピルバーグは、こうした日本の変形ロボを入手し、子供に与えて遊ばせているうちに、自らもこれにはまり込み、いつか実写映画化したいと考えていたそうで、2007年にマイケル・ベイ監督にそれをゆだねることにはなったものの、本当は自分でも作品化したかったようです。

しかし、それ以前は複雑な動きをする変形ロボの撮影技術は未発達であり、それが可能になったのは近年におけるVFX技術の発達のおかげであることは言うまでもありません。
いまや、映画やテレビドラマにおいて、現実には見ることのできない画面効果を実現するために不可欠な技術となっており、VFXで描けないものはないとまで言われています。

SFXと何が違うのか、ということなのですが、SFXとは“special Effects”の略で、これは日本語では「特殊効果」のことです。撮影の現場で直接加える効果のことをSFXと呼ぶのに対し、VFXは撮影したあとに、その映像を加工する段階で付け加えられる効果のことをいいます。このため、日本語では「視覚効果」と訳して「特殊効果」と区分しています。

CG(Computer Graphics)もまたVFXと混同されがちですが、CGはコンピューターを使用して作成されるイメージを指します。イラストレータのようなグラフィックスソフトを使って描かれるイラストや図形などをCGと思っている人も多いかと思いますが、これも本来CGではなく、コンピュータで生成し「レンダリング」したもののみがCGです。

一方でVFXは「CGまたは合成処理によって実写映像を加工すること」とも定義されます。従って、CGはVFXを形成する一つの技術にすぎない、ということになります。

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こうしたVFXは、トランスフォーマーのような子供向けの映画ばかりではなく、従来映像化ができなかった歴史ものや、その中でもとくに古代からの神話の世界を描くのにもよく使われます。

「変身譚(へんしんたん)」というカテゴリが昔からあり、これは人間が異性や、動物や植物などの人間以外のものに変身するという神話・物語・伝説などを指しています。その歴史は古く、古代ギリシアからヘレニズム、ローマ帝国時代にかけて多くの物語が作られており、古代ローマの詩人、オウィディウスの「変身物語」はその集大成であると言えます。

これは15の作品から構成されており、ギリシア・ローマ神話の登場人物たちが、動物、植物、鉱物、更には星座や神、といった様々なものに変身してゆくエピソードを集めた物語です。中世文学やシェイクスピア、そしてグリム童話にも大きな影響を与えました。

有名な話としては、「ナルシスト」の語源ともなったナルキッソスが、呪いにより自己愛に目覚めやがてスイセンになる話などがあり、また、そのナルキッソスを愛するエコーが木霊になる話などがあります。

このほかにも、蝋で固めた翼で空を飛んだイカロスが墜落死する話、アポローンに愛されるもゼピュロスの嫉妬により円盤で殺されたヒュアキントスがヒヤシンスの花になる話など、かなりメジャーな話もこの「変身物語」に収められています。

近代になっても、こうした変身譚は人気があって非常にたくさん作られており、カフカの「変身」はとくに有名です。この話は、ひとりの青年が、ある朝自室のベッドで目覚めると、自分が巨大な毒虫になってしまっていることに気が付く、という話です。

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簡単にあらすじを書くと、主人公の布地の販売員、青年グレーゴル・ザムザは、父親の借金の返済と妹を音楽学校に通わせる学費を稼ぐため、懸命に働いていました。しかし、ある朝自室のベッドで目覚めると、自分が巨大な毒虫になっていることに気がつきます。

彼は家族に、自分が虫になってしまったことを説明しようとしますが、人の言葉を使うことはできず、家族は気味悪がるばかりであり、唯一彼であることを信じたのは妹のグレーテだけでした。グレーテは兄に食事を与えようとしますが、彼の嗜好は人間であったころとは変わってしまい、腐った野菜や残飯などを好むようになっていました。

このため、最初は彼を気遣っていたこの妹も、次第に彼の世話をしなくなっていきます。さらにグレーテは母と一緒になって彼の部屋から彼が使っていた家具をすべて片付けてしまい、グレーゴルは自分が人間だったことの証明が失われるように思い、悲しみます。

空っぽになった部屋でしたが、グレーゴルは自分の醜い姿を人に見られるのを嫌い、部屋からはけっして出ませんでした。ところが、ある日のこと、この家に下宿していた紳士が、グレーテが弾くヴァイオリンの音を聞きつけ、リビングに来て演奏するように言います。

紳士は妹が演奏するのを退屈そうに聞いていましたが、これを聞いたグレーゴルは懐かしく思い、思わず部屋の外へ這い出してしまいます。これに気づいた父親は怒って彼にリンゴを投げつけ、紳士をなだめようとしますが、怒った紳士は即刻この家を引き払い、またこれまでの下宿代も払わないと宣言します。

失望する家族たちの中で、グレーテはもうグレーゴルを見捨てるべきだと言い出し、父もそれに同意します。グレーゴルは部屋に戻りますが、リンゴを投げつけられた怪我が原因となって痩せ衰えていき、やがて家族への愛情を思い返しながらひっそりと息絶えます。

翌日、グレーゴルの死体は手伝い女によってすっかり片付けられました。彼のことで心を痛めていた家族たちは、休養の必要を感じ、ある日のこと、めいめいの勤め口に欠勤届を出し、3人そろって散策に出ます。

そうして家族で散歩をしながら話をしてみると、それまであまり家族の会話はなかったことに気がつき、またどうやら互いの仕事はなかなか恵まれていて、将来の希望も持てるじゃないか、ということを改めて思います。

そして娘のグレーテをみると、長い間の苦労にも関わらずいつの間にか美しく成長していることにも気づいた両親は、そろそろ娘の婿を探してやらなければ、と考えるのでした……

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……という、暗~い話なのですが、実はカフカはこの作品の原稿を友人の前で朗読する際、絶えず笑いを漏らし、時には吹き出しながら読んでいたといいます。また、「変身」の本が刷り上がると、カフカはその文字の大きさや版面のせいで作品が暗く、切迫して見えることに不満を抱いていたそうで、彼にとってはこの話は「喜劇」という感覚だったようです。

かなりの変人と思いきや、この40歳で夭折したチェコ出身の作家は、意外にもジェントルマンだったようです。物静かで目立たない人物ながらも、人の集まる場ではたいてい聞き役に回り、たまに意見を求められるとユーモアを混じえ、時には比喩を借りて話したといい、職場では常に礼儀正しく、上司や同僚にも愛され、敵は誰一人いなかったそうです。

掃除婦に会った際にも挨拶を返すだけでなく、相手の健康や生活を案じるような一言二言を必ず付け加えたといいます。掃除婦の一人はカフカについて「あのかたは、ほかのどの同僚ともちがっていました。まるきり別の人でした」と話しているほどであり、残した作品の不可思議さからはまったく想像できないほどです。

このカフカについては、これらのエピソードだけで片付けてしまっては理解できない人物であり、面白い人物だと思うのでまた別の機会にじっくり書いてみたいと思うのですが、早逝だったせいもあり、その著作は必ずしも多くはなく、死の年までに出版された著作はわずか7冊です。

ただ、多数の短編を残しており、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙もあって、少なからぬ点数が未完であったことも知られています。その多くが、どこかユーモラスでありながら、そこに孤独感と不安が織り交ぜられ、夢の世界を想起させるような独特の作風であり、「変身」はその代表作とされています。

死後中絶された長編小説の遺稿が友人によって発表されて再発見・再評価をうけ、これら長編に加えて未発表の短編なども発行されて世界的なブームとなりました。現在ではジェイムズ・ジョイス、マルセル・プルーストと並び20世紀の文学を代表する作家と見なされています。

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こうした変身譚は日本にもいくつか有名なものがあります。その代表的なものとしては、中島敦の「山月記」があり、これは戦前の1942年に発表された作品で、最近では文科省認定の高校生向けの教科書にも頻出しています。しかし、「山月記」は、唐の時代に書かれた「人虎」という変身譚のリバイバルです。

簡単にそのあらすじを書くと、この話は唐の時代に秀才といわれた「李徴」という役人が主人公です。李徴は、その身分に満足しきれず、官職を辞し詩人として名を成そうとしますが、うまく行かず、ついに挫折。そのうち発狂して山へ消え、そこで虎に変身してしまいます。

その翌年に、彼の数少ない旧友がこの山を通ったとき、その途中で突然虎に襲われます。しかし、現れたその虎の正体は実は李徴であり、彼が旧友だと知った李徴は人間の姿に戻り、すすり泣きをしながら、これまでのいきさつを語りはじめました。

そして、「昨年、何者かの声に惹かれ、わけがわからぬまま山中に走りこみ、気がついたら虎になっていた。人間の意識に戻る時もあるが、次第に本当の虎として人や獣を襲い、食らう時間の方が長くなっている。」と語ったあと、この友人に、「まだ自分が記憶している数十の詩編を書き記して残してくれないか」と頼みます。

友人はこれを素直に受け入れ、李徴の朗ずる詩を部下に書き取ります。それらは見事な出来ばえでしたが、微妙なところで何か足りないものがあるように感じます。そして、それはおそらく李徴の性格に由来するものと考え、そのことを李徴に語りました。

これを聞いた李徴は、なぜ自分が虎になったのかを悟ります。そして、自分は他人との交流を避け、人はそれを傲慢だと言ったけれども、それは実は臆病な自尊心のために人を避けていたのであって、本当は詩才がないかも知れないのを自ら認めるのを恐れ、人と交わることで苦労して才を磨くことも嫌がっていたことに気がつきます。

そして、その心中の傲慢さが姿を虎に変えたことをようやく理解しますが、そのころもう夜は明けかけていました。別れを惜しむ友人に李徴は、残された自分の妻子の援助を頼み、夜が明けたら自分はもうすぐ虎に戻る、早くここを離れろといい、ただ、しばらく行ったら、ちょっとだけ振り返ってくれ、と友人に頼みました。

友にここから去るように勧めたのは、夜が明ければ、再び醜悪な姿を見せることになり、また振り向かせようとしたのは、その恐ろしい姿を垣間見させ、二度と再びここに来て会おうとの気を起こさせないためでした。

友人は、言われた通りしばらく歩いてから振り返ると、そこには朝明けの空ですっかり光を失った月がひとつ残っており、その下にシルエットとなった1頭の猛虎がいました。虎はそこで月に向かって一声咆哮すると姿を消していきました。そしてそれ以降、二度とその姿を人々に見せる事はなかったといいます……

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この話は、1997年に新潮社から朗読CDも発売されており、このとき読み手は、俳優の江守徹さんだったそうです。その後も何度か読み手を変えて販売されているようなので、ご興味のある方はネットで入手してフルバージョンで楽しまれてはいかがでしょうか。

前述のとおり、この話は中国のものが原作であり、これを中島敦が意訳したものですが、実は日本には、輪廻によって人が動物に生まれ変わる話はあっても、生きながらにして人間が動物その他に変身する話はあまりないようです。

妖怪話のように、変身能力をもった動物の話はたくさんありますが、そういわれてみれば、化け猫もおキツネ様も元は人間ではなく、動物が人間に変身したものです。このほかタヌキ、ムジナ、カワウソの類の話も多く、里見八犬伝もイヌが人間に変身する話であり、確かに人が動物に変身する、という話はあまり聞きません。

ところが、近年になってからは、仮面ライダーに代表されるような、いわゆる「変身ヒーローもの」が一大ブームになっています。特撮映画・テレビドラマ・アニメなどの映像作品に登場する人物が、特殊な能力を持つヒーロー・悪人・怪獣になる、といったもので、変身するときは、「トヤーッ」といった何らかのかけ声と共に「決めポーズ」がとられます。

「変装」ではなく、「着替え」でもなく、あくまで「変身」であり、こう呼ばなければなりません。こうした敵の目の前でポーズを取る変身は極めて日本的な現象だと言われています。アメリカン・コミックスのスパイダーマンやバットマンも奇抜な服装で活躍していますが、それらは日本での「変身」ではなく、どちらかと言えば身元を隠すためのものです。

異装の超人の活躍を楽しむという趣向は同じにもかかわらず、日本のヒーローが、これまではアメコミヒーローほど全世界規模で受容されてこなかった理由のひとつは、この「変身」という概念が障害になっているからだとも言われています。

日本の場合の変身は、仮面と素顔の使い分けではなく「見栄」としての色彩が濃く、これは時代劇の流れを汲んでいることに起因するといわれます。たとえば時代劇に登場する忍者は、「忍法○○の術!」などと自分が使う術の名前をわざわざ先に宣言して、敵に攻撃手段を教えます。

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実際にそんなことをやっていたら、その間に敵の刃にかかってしまうのは目に見えていますが、時代劇でそうしないのは、そうした合理性よりも視聴者への印象づけに重きを置いているためです。

このあたりが、欧米のヒーローと異なり、スーパーマンが、「いざ世界を救わん!」とか言って空に飛んで行ったら間が抜けてしまいます。ところが日本のウルトラマンが飛ぶときには、わざわざ飛んでいく方向を見上げ、「ジュワッチ」とか言いながら飛んでいきますが、これも歌舞伎の見栄のようなものです。

ところが、最近はこの日本の「ヘンシン」もまた、海外で受け入れられつつあるようで、少女向けのアニメ作品、「美少女戦士セーラームーン」や「ふたりはプリキュア」などは海外でも大人気です。ご存知、「月に代わってお仕置きよ!」が決めゼリフのあれです。

アメリカの人気ロックバンド、ヴァン・ヘイレンのデイヴィッド・リー・ロスが日本で製作したショート・フィルム「外人任侠伝〜東京事変」の決めゼリフもこれでした。このほか、「スーパー戦隊シリーズ」や、仮面ライダーをリメイクした「パワーレンジャー」なども海外でドラマ化されており、今や日本の変身モノは世界的ブームになりつつあります。

さらに、高屋良樹の漫画作品「強殖装甲ガイバー」も高校生が宇宙人の残した技術で超人ロボットに変身するというストーリーです。

これは、ハリウッドで「THE GUYVER」および、その続編「GUYVER DARK HERO」のタイトルで2度にわたり実写化されて公開されており、冒頭のトランスフォーマーほどではないものの、これもマニアにはそこそこ受け入れられたようです。

今公開されている、“Godzilla”は変身ものではありませんが、最近こうした日本発のアニメやヒーロー物が世界を席巻し始めている感もあり、変身モノもまた、世界に胸を張って輸出できるようになる時代も来るのかもしれません。

ジョニー・デップが、「へ~んしん、トゥ」、とかいいながら、怪人に変身するのを想像すると楽しくなります。

さて、お盆もたけなわになりつつあります。伊豆は他県からのクルマであふれかえっており、ちょっと外出すると渋滞に巻き込まれそうなので、お盆期間中はおとなしくしていようかと思っています。

いっそのこと毒虫でもなんでもいいから飛べる動物に変身して、どこか遠くへ飛んでいきたいとも思うのですが、変身したあとに元の姿に戻れなくなって、タエさんに捨てられると困ります。

化けるならせいぜいタヌキぐらいにしておいて、狸寝入りを決め込むことにしましょう。

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2014-1120732今日は、暦の上では迎え火です。

客人や神霊をむかえるためにたく火のことであり、古くは神迎えや婚礼、葬式の際にも行った行事ですが、近年では主にお盆の時の先祖の霊を迎え入れる行事になりました。

火を焚くのは、先祖の霊を迎え入れるための目印とするためであるわけですが、お盆期間中はずっと焚き続け、これによって先祖の霊が滞在している証しとする、というのが本来のあり方でもあります。

この迎え火は旧盆として7月13日にやる地方もあるようですが、一般的には月遅れの盆ということで今日8月13日にやるところが多いようです。だいたい夕刻ぐらいから始めますが、その準備もあり、今日のお昼頃からその支度を始めたご家庭も多いかと思います。

その歴史は古く鎌倉時代から行われている行事ですが、年中行事として定着したのは江戸時代と言われています。昔は、野火を焚いたようですが、のちに迎え火の変形としていわゆる「盆提灯」が使われるようになりました。

ただ、地域によってはいまだに家の門口や辻で皮を剥いだ麻の茎(オガラ)を折って積み重ね、着火したりするところもあります。関東地方でも、オガラではなく、麦藁を焚きながら「盆さま盆さまお迎え申す。」と大声で叫び、子供がその火を持ち、再び火を焚くところもあるそうです。

このほか関東地方の一部の地域では、墓から家までの道に108本の白樺の皮を竹につけ、順に火をつけ、墓から山まで先祖の霊を迎えるところもあるといいます。

風情があってみてぜひ見てみたいものですが、しかし、そんなことをやっていると大変だし、第一火事の心配があります。提灯が一般化したのはそのためでしょう。

この提灯による迎え火にももともとは様式があって、これは13日の夕方、墓のある自家の菩提寺まで家紋入り提灯をもって家族ほぼ総出で墓参りに行き、帰路は提灯に灯りを付けて帰り、その火を仏壇に点灯する、というものです。

ただ、こうしたことができるのは田舎だけであり、多数の人が東京(江戸)や大坂などの都会に出るようになり、また墓も集団墓地に集約されて菩提寺参りが現実的でないことから、すべて自宅で済ませる省略形が増え、逆に田舎でもこれが普通になりました。

山口の実家では母がこの時期になると電球式の盆提灯を押入れから引っ張り出して点けているようです。しかし、伊豆の我が家では仏教や神道などの特定の宗教にこだわりはなく、とくにその習慣はありません。が、お盆の時だけでもと、お線香だけはあげて、亡くなった人達のために祈るようにしています。

ところで、この迎え火という言葉を聞くと、毎年、日本航空123便の墜落事故のことを思い出されます。その当時の報道番組などで頻繁に墜落直後の生々しい映像が流れ、そこにはあちこちでまだ火がくすぶって煙がたなびく様子が映し出され、いかにも迎え火を連想させたからでしょうか。

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このお盆の時期にまるで合わせたように起きたこの事故を知らない人はいないでしょう。1985年(昭和60年)8月12日の月曜日に起きた事故であり、同日18時56分に、羽田発大阪行の日航の定期便ボーイング747SR-46、通称ジャンボジェットが、群馬県多野郡上野村の高天原山(たかまがはらやま)の尾根、通称「御巣鷹の尾根」に墜落しました。

この事故の原因と経過については、今年で29年にもなることでもあり、これまでも繰り返し繰り返しメディアで報道がなされ、新しい事実はもう出てこないようです。が、昨日の夜、フジテレビが、ボイスレコーダーに記録されていた音から“新たな声”を分析できたとしてその内容を報道していました。

ちなみに、この番組では、今年迎えるこの日のことを、「29年後の今日」ではなく、「30回目の夏」と称してこの特番を組んでいました。事件が起きた年を起年とした数え方ですが、なるほどそう考えれば、今年はひとつの節目ではあります。

フジテレビではこれまでマスコミに公表され、多くの人が耳にしていたものに比べ、より鮮明に記録された、限りなくオリジナルに近い音源のテープを当時の事故調査委員会の関係者から初めて入手したといい、そのボイスレコーダーの音声を最新技術によってより一層のクリア化に成功しました。

分析を行ったのは、アメリカコロラド州にある音響解析の専門会社だそうで、アメリカまでわざわざ出向いてそこの専門家に依頼し、最新のノイズ除去技術を駆使した結果、事故調査委員会が行った調査では聞き取ることがかなわなかったコックピット内のやりとりが聞き取れた、としています。

番組ではさらに123便の航跡データが記録されたフライトレコーダーを再解析し、専門家やOBのパイロットたちの協力を得て、墜落までの32分間の航跡を、最新映像技術によってCG化し、再現していましたが、その合間あいまに、亡くなった乗客たちの遺族の方々のエピソードも交えた内容となっており、涙なくしては見れませんでした。

番組の最後のほうでは、ボイスレコーダーに録音されていた、機体に異常が発生したきっかけとなったとされる、ドーン(バーン?)という爆発音の分析結果も披露されていました。コックピットに備えられていたマイクによって拾われたこの音は、よく聞くとひとつではなく、ドーン、ドーン、ドーンという3つの衝撃音だったことも明らかにされました。

最新音響技術で解析した結果から、この衝撃音には確かに3つの波長があったことも判明し、その最初の音は、圧力隔壁が壊れた際のもの、次いで、機内から急激に噴き出た空気によって垂直尾翼が破壊されたもの、そして最後に、補助エンジンなどの最後尾部にあった部品などが破壊されて飛び散ったもの、と分析されました。

この分析結果は、当時の運輸省空事故調査委員会が行った結果得た結論と一致しており、分析結果から新事実が明らかになった、というほどではないにせよ、改めてこの当時の調査結果が正しかったことが、証明されたことになります。

この当時、同委員会からの派遣メンバーは事故発生の翌日の8月14日には墜落現場に入り、本格的な調査を開始していますが、その後事故機の製造国であるアメリカから、国家運輸安全委員会の事故調査官らも顧問として加わりました。

そして事故から約1ヵ月後の9月6日、事故機の製造者であるボーイング社が声明を発表し、同機が以前起こした「しりもち事故」の際に自らが行った圧力隔壁の修理にミスがあったことを認めました。

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事故から2年後の1987年6月には、事故調査委員会は事故調査報告書を公表し、本事故の推定原因を発表しましたが、その結果は上述のとおり、事故機の後部圧力隔壁が損壊し、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に流出したことによって、機体尾部と垂直尾翼の破壊が起こった、というものでした。

さらに、この尾部に集中していた4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出し、同機はこの爆発以降墜落まで全くの操縦不能に陥りました。

圧力隔壁の損壊は、隔壁の接続部の金属疲労によって発生した亀裂により、隔壁の強度が低下し、飛行中の与圧に耐えられなくなったために生じたと推定されましたが、この亀裂の発生は、事故の7年前に起きた「しりもち事故」の際、修理交換した隔壁の下半分と上半分との接続強度が不足した状態であったことに起因していたことが判明しました。

このしりもち事故はというのは、1978年6月2日、羽田発伊丹行の同機が伊丹空港に着陸する際、同機が機体尾部を滑走路面に接触させた事故です。死者はいませんでしたが、不良着陸後機体がバウンドしたことで、3名の負傷者を出しました。

この不良着陸により機体尾部の圧力隔壁が破損。製造元のボーイング社に修理を依頼したわけですが、その修理の際、損傷した隔壁部分の裂傷を一枚の「つなぎ」の接合板を介して接合しようとしたところ、その接合方法に誤りがあり、このため修理箇所に金属疲労が発生、この部分が機内の与圧によって破壊され、垂直尾翼の脱落に至ったものです。

また同機は、このしりもち事故以外にも事故を起こしており、これは1982年8月19日、羽田空港発千歳空港行きが、着陸の際に天候悪化のための視界不良とパイロットの判断ミスにより滑走路の右に逸脱したというものです。

このときは、第4エンジンが地上に接触し、同機は再び離陸して着陸をやり直しましたが、操縦者は副操縦士でした。しかし、こうした視界不良の中の着陸は、通常は機長が行うというのが、当時の日本航空の社内規定であり、規定は守られておらず、副操縦士に操縦を行わせたのは、明らかに社内規定違反でした。

1978年のしりもち事故以後の点検で圧力隔壁の異常を発見できなかったのは、その修理位置が視認しにくい場所であったということなのですが、ボーイング社による修理ミスがあったとはいえ、こうした修理したばかりの重要な部分のチェックを見過ごした日本航空側に全く責任がなかったとはいえないでしょう。

ところが、その後の調査によって日本航空側に落ち度はないとされ、この事故は不起訴になりました。が、遺族の中にはまだ、完全に事故原因は究明されていないとする人がおり、事故原因が究明されるまでは責任を誰がとるかは問えない、とする立場をとり、責任の所在を巡っては満足されていない方も多いようです。

私もこの事故に限っては、日本航空側に責任はない、とする見方に異を唱えるつもりはないのですが、これ以前からも同社がたびたび起こしていた事故による啓発が生かされていなかったことや、日本航空という会社の体質のことを考えると、この大惨事は、その姿勢を戒めるものではなかったか、という気がしてなりません。

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事故当時、日本航空はそれまでの半官半民の特殊会社体制から完全民営化へと移行する方針を決定していましたが、この事故によってその安全体制や経営姿勢に対する社会から厳しい批判を受けたこともあってその後著しく経営が悪化し、政府主導により抜本的な体制の刷新が行われました。

事故を起こした同年1985年の12月には、当時カネボウの会長だった伊藤淳二氏が日航副会長に就任し、後には会長へ昇格しました。外部からの新しい風を入れ、経営体質の改革に取り組むことが目的でしたが、同時に事故を教訓に「絶対安全の確立」めざし、その後機付整備士制度の導入や技術研究所の設置などの新施策が導入されました。

旧運輸省はこれらの改革を評価し、その結果、事故から二年後の1987年11月に同社の完全民営化を認めました。民営化後の日本航空は、本業の運輸業以外にもホテル事業などを手掛けるようになり、これに加えて教育事業やIT事業、レストラン事業や出版事業の子会社を次々設立するなど、事業の多角化を進めました。

こうした多角化は、バブル景気にも乗って順調化に見えましたが、しかしその後、湾岸戦争による海外渡航者の減少と燃料の高騰に見舞われ、また1991年にはバブルが崩壊。それまでの海外のホテルなどへの無理な投資や、燃料先物取引の失敗などの経営判断のミスが重なり、1992年度決算で538億円という巨額の経常損失を計上して経営不振に陥りました。

これに対し、国内外ホテルの売却や共同運航便の増加、ヨーロッパ線などの不採算路線の廃止、低コスト運航を行う子会社を設立などによる事業再構築を行った結果、円高による海外渡航者の回復などもあって1990年代半ばには経営状況が回復し、その後2000年代入ってからも業績は順調に推移しました。

しかし、これによって気をよくしたのか、また気を緩めすぎたのか、まだバブル余波による痛手が癒えない段階だというのに、無謀ともいえる国際線の拡充を行い、強い労働組合からの突き上げもあって同業他社に比べ高い給与を社員に与えるなどの放漫経営を続け、ついには3,000億円を超える有利子負債を抱えてしまいます。

そこへきて、日本航空はさらにアメリカ同時多発テロ以降に深刻な経営不振に陥っていた国内線大手の日本エアシステムと2002年には合併を前提とした経営統合を行いました。以後大幅に経営体系が変わり、持株会社である株式会社日本航空を筆頭として、その関係各社の体制が見直され、現在の日本航空グループが確立しました。

しかし、合併以降の元日本航空と元日本エアシステムの社員の間の対立によるサービス上の混乱や、航空機の整備不良、反会社側組合による社内事情の意図的なリークなどの相次ぐ不祥事によって、著しい客離れを起こしました。が、この離反には無論、123便の航空機事故による同社への不信感も影響していたでしょう。

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その後も、旧日本エアシステムは高コストの会社であり、これを吸収したがゆえの低効率体制を維持し続けていましたが、そんな中2003年2月に発生したイラク戦争によって再び航空燃料の高騰し、さらにはSARSと呼ばれる新型肺炎が、カナダや中国、ベトナム、シンガポールなどに広まり、国際線の需要を著しく落としました。

さらには2007年後半より起きた新型インフルエンザの発生、世界同時不況と原油高、改善しない人的コストなどを受けて、2008年以降は再び経営状況が悪化。こうした状況を受けて、2009年にはついに再び政府が介入し、日本政策投資銀行の融資に加え、大手都市銀行や国際協力銀行などが合わせて1000億円の協調融資が行われました。

その後は日本貨物航空との貨物事業の統合や、不採算路線の統廃合に対する検討を進め、併せて総合職や客室乗務員数の削減、給与待遇の見直し、退職者に対する企業年金の減額などのコスト削減を進め、さらに政府は、2009年、「JAL再生タスクフォース」を設置してJALグループの再生に取り組ませました。

しかしこのタスクフォースは同年内中にあえなく解散、頓挫し、このためついにその経営は破綻。2010年1月19日、親会社である日本航空、日本航空インターナショナル、ジャルキャピタルの3社はついに、東京地方裁判所に「会社更生法」の手続を申請、受理される事態となりました。

現在、日本航空は「株式会社企業再生支援機構」をスポンサーに、経営再建を図っています。分割・民営化により国営企業はなくなりましたが、いまだにその後ろ盾には日本政府がついており、度重なる融資を国からしてもらって存続していることにはかねてより批判も高く、親方日の丸的体質は、昔から変わらない、と指摘されています。

親方日の丸とは、説明するまでもありませんが、親方が日の丸、つまり胴元が日本政府というわけであり、国の援助がなければ存続しえないダメ事業体を侮蔑してこう呼ぶわけです。いわゆる「お役所仕事」的な業務のいい加減さ、傲慢さ、また、経営破綻や大きな赤字などに対し、責任を認めようとしない体質を揶揄していうことばでもあります。

かつての国営企業であった三公社五現業、とくに膨大な赤字を抱えた上に順法闘争と称するストライキなどを行なっていた国鉄に対して、この言葉はよく用いられたものです。

現在のJRもかなり体質改善されたといわれますが、それでも昨今のJR北海道の例があり、相変わらず高い運賃のせいもあって、体質は改善されていない、という厳しい指摘も多いようです。

ここで、過去における、日本航空と全日空の事故について調べてみました。死亡事故に限ってですが、日本航空の場合、1950年代、2件、1960年代、3件、1970年代、4件、1980年代、2件、1990年代に1件の死亡事故を起こしています。最近は減ってはいるものの、とくに1950年代からは70年代までは各10年毎に一件づつ増えていることになります。

これに対する全日空はというと、1950年代1件、1960年代6件と異常に多くなっていますが、1970年代は1件であり、それ以後は皆無です。

無論、かつて国際線を有していたのは日本航空だけであり、保有する機体の数にも隔たりがあるため、両者を比較する上においては平等とは言えないかもしれません。が、私は、全日空の場合の1970年代以降の死亡事故数がゼロというのは注目するに値すると思います。

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しかも、この1970年代の1件というのは、1971年7月30日の「全日空機雫石衝突事故」です。全日空58便ボーイング727-200(JA8329便)が岩手県雫石町上空で、航空自衛隊松島基地所属で訓練生が操縦していたF-86F戦闘機と衝突し墜落した事故で、この事故では乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡し、自衛隊機の乗員は脱出して無事でした。

その後の裁判の結果、訓練生は無罪、教官は禁錮3年(執行猶予3年)の実刑判決を受け、民事訴訟では、全日空機は30秒前から10秒前の間に訓練生機を視認し適切な回避操作をしていれば事故の発生を十分回避できたと認定し、過失割合は自衛隊側が2、全日空側が1とされました。

全日空側にも責任はあったとされたわけですが、民間機の飛行ルートへの自衛隊機への侵入という、いわばあり得ない事故の責任を全日空側に負わせるのは少々行き過ぎだという見方は、この当時もあったようです。

しかし、これ以降、全日空は死亡事故を起こしていません。1960年代に急増した事故による反省とこの一件を教訓に、最悪の事態を避けるべく体質改善するよう努力してきたのではないか、と私は考えます。

一方の日航は、1980年代には2件と死亡事故はそれ以前より減ってはいるものの、この2件の中には、これまで述べてきた123便の事故以外に、日本航空羽田空港沖墜落事故という重要事故が含まれています。

この事故は、1982年2月9日、福岡発羽田行のJAL便が羽田への着陸進入中に突然失速して滑走路沖の東京湾に墜落したもので、搭乗員174名中乗客24名が死亡しました。機長が着陸直前に逆噴射をするなどの異常操作が原因であり、機体の推力を急激に減少させながら機首下げを行ったため、機体は急に下降して滑走路の手前に墜落しました。

機長は、まだ副操縦士であったこの事故の6年前から幻覚を見るようになっていたといい、それ以後、初期の精神分裂病、うつ状態、心身症などと診断をうけ、大学病院の医師や会社の常勤内科医、非常勤精神科医らの診察、治療を受けていましたが改善しませんでした。

事故直前には「ソ連が日本を破壊させるために、二派に日本を分断し、血なまぐさい戦闘をさせている」といった妄想まで抱くようになっていたといい、事故当日の乗務中には、ついには「敵に捕まって残忍な方法で殺されるよりも、自分から先に死んだほうがマシだ」という妄想を抱くに至りました。

しばらく恐怖に震えた後に現実に戻る、といった状態を繰り返すような精神状態にあったといい、羽田への着陸にむけ、高度200フィートに至って、本来は「ランディング」(着陸する)または「ゴー・アラウンド」(復行する)と答えるべきところをこの機長は「チェック」というのみでした。

そして、機体が200フィート以下に降下した後、突然「イネ、イネ……」という言葉が機長の頭全体に響き渡ったといい、これを聞いた?機長はとっさに「死ね、死ね……」との命令と理解し、手動操作に切り替え、操縦桿を押し込み、エンジンを逆噴射させました。

航空機関士はすぐに機長のこの異常操作に気づき、機長の右手を叩いて止めさせ、リバース・レバーを戻しました。副操縦士も機首が急に下がったことに気づき、反射的に操縦桿を引き起こそうとしましたが、機長が操縦桿を押し込む力が強く、引き起こすことができませんでした。

副操縦士が「キャプテン、やめてください!」と叫ぶと、機長は操縦桿への力を緩めましたが、時既に遅しで、日本航空350便は8時44分7秒、滑走路進入端から510メートル手前の東京湾に墜落しました。

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その後、機長は業務上過失致死罪により逮捕されましたが、精神鑑定により妄想性精神分裂病と診断され、心神喪失の状態にあったとして検察により不起訴処分となりました。が、こんな精神異常者に、飛行機という高度な操縦操作が必要な乗り物の運転を任せていたこと自体をみても、日本航空の体質が疑われます。

この事故のことを知ってか知らずか、123便事故で亡くなった歌手の坂本九さんは、けっして、日本航空便に乗らなかったといいます。このころ、坂本九人気は少し落ち始めていた時期であり、この年所属する会社を移籍して、事故の3ヶ月前に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して、再び歌手活動を本格化させようとしていた矢先でした。

事故当日はNHK-FM放送での仕事を終えた後に、大阪府のある友人が出る選挙の応援のために駆けつける途中であったといい、坂本さんは本来、国内移動には日航ではなく必ず全日空を使っており、所属プロダクションや奥さんで女優の柏木由紀子さんも「手配は必ず全日空で」と指定していたほどでした。

しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便でした。このため、家族も乗客名簿が発表されるまで日航機に乗っているはずがないと信じていました。

ところが、乗客名簿の中に坂本九の本名「オオシマ・ヒサシ」と彼のマネージャーの「コミヤ・カツヒロ(小宮勝広)」の名が出て、事故に遭遇したことが判明。この事故で運命を共にした小宮さんは早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉しましたが、お盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったといいます。

また同じく123便に乗っていて亡くなった、阪神タイガース取締役社長の中埜肇(なかのはじむ)さんは、63歳で亡くなりました。

事故前日の1985年8月11日には、タイガースが福岡県福岡市の平和台球場で地方主催試合(対中日戦)を行っていたため、中埜さん本人も福岡まで赴き、この日もロッカールームに戻ってきたタイガースの選手一人一人と握手を交わし、選手を労っていたといいます。

翌8月12日は、東京都内で会議があったため、当時阪神電鉄社長でタイガースのオーナーも務めていた久万俊二郎氏の代理で東京に赴いていました。そして会議終了後の帰阪の途でJAL123便墜落事故に遭いました。このとき阪神電鉄常務取締役の石田一雄も同行しており、石田氏もこの事故の犠牲者となりました。

中埜さんの死は、タイガースの21年ぶりの優勝を目前にしての死でした。事故当日、11日の平和台球場での対中日戦を終えたタイガースナインは、13日から行われる後楽園球場での試合(対巨人戦)に備え、中埜さんよりも先に東京入りしました。

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実はこの時にナインが搭乗した飛行機こそ、事故機・JA8119の遭難直前のフライトである福岡発羽田行JAL366便でした。そして都内の宿舎に到着して間もなく、一行はテレビでJAL123便墜落事故の緊急報道番組を目の当たりにし、中埜さんがこのJAL123便に搭乗していたことを知りました。

従って、この日にもしこの福岡からの羽田便で先に圧力隔壁が破裂していたら、タイガースのこの年の優勝はなかったかもしれないのです。

この中埜及び石田両氏の事故機搭乗に大阪市の阪神電鉄本社、及び阪神球団関係者は大きな衝撃を受けました。選手達も例外ではなく、翌日の対巨人戦からタイガースは6連敗を喫して一時はセ・リーグ首位から陥落しました。が、亡くなった社長のためにみんなで頑張ろうと、ナイン全員と首脳陣が誓い合った結果が再結束に繫がり、優勝に繋がりました。

1985年10月16日、阪神タイガースが1964年以来、21年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした際、渡真利克則が捕球したウイニングボールが、中埜さんの霊前に手向けられたといい、自らの手でボールを届けたナインたちは、社長宅で嗚咽をもらしていたといいます。

中埜さんの事故死は、タイガースにとどまらず、他の11球団の関係者にも多大な衝撃をもたらしました。読売巨人軍は氏の事故機搭乗が報じられた直後に「うちも他人事ではない。今後の航空機利用は十分に考え直す必要がある。」という声明を発表し、これを受けて他球団でも今後の航空機利用に関して検討し直しはじめました。

これによりほとんどの球団はそれまで利用していたJALとの契約を打ち切り、航空機移動する際は必ず全日空を利用させるようにしたそうです。また、国内移動は極力航空機ではなく新幹線で移動させるようにさせました。

野球はこの当時もそうですが、現在でも日本で最も人気のあるスポーツであり、こうした野球人たちが日本航空ボイコットの方向に舵を切ったことは、一般の人々にも影響を与え、日本航空の経営にもまた少なからず影響を及ぼしました。

実は、私も日航には乗らない派です。もう20年以上も前からであり、その理由は、無論、123便のこともありますが、あるきっかけが原因でした。

もう大昔のことなので、どこへのフライトだったのかなど詳しくいことまで覚えていないのですが、大きな委員会が絡むある大事な出張のときに、機体に不具合が見つかったという理由で、搭乗予定のJAL便がキャンセルになったことがありました。

当然、この出張に遅れることは私にとっても大きなダメージでしたので、日本航空側には代替便の割り当てを要求しました。その交渉にあたって、どんな職員だったのかまでは詳しく覚えていないのですが、その横柄な態度に腹を立て、その職員と激しいやりとりをしたのだけ覚えており、以後、もう二度とJALは乗らない、と心に決めました。

その後、上述の坂本九さんのケースと同じように、どうしてもやむを得ない場合を除いてはすべて国内フライトはもちろん、海外へ行く飛行機もJAL以外のものにしてきましたが、いまだにこの「習慣」は続けています。

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無論、わたくしごとであり、私のJAL嫌いを人に押し付けようというつもりはさらさらありません。が、それまでも日本航空を利用するたびに、不快な思いをするといったことが何度かあり、客にそこまで不快な思いをさせるというのは、親方日の丸の上にあぐらをかいている、といったどこか体質的な問題があるように思えてなりません。

しかし、日本航空も123便の一件以来、安全には細心の注意を払い、できるだけ事故を起こさないよう努力をしていると思います。それが効を奏してか、この事故以降、乗客の死亡事故は起こっていません。上記の1990年代の死亡事故1件は、乱気流により重傷を負った客室乗務員1名が1年8ヵ月後に多臓器不全で死亡したためのものです。

従って、JALは経営が不安定な中でもよく頑張っているほうだとは思います。それゆえ、もうかつての呪縛からそろそろ自分を解き放ってもいいかな、とは思うのですが、なかなか長く続けた風習を改める気になりません。

いつの日か、JAL便は絶対落ちない、という神話でも構築されるようになれば別ですが、それが私が生きている間に実現するかどうか、です。が、航空運賃が半分になるなら、考えようかな。でもまだまだ死にたくはありません。

さて、今日はこんな悪口を書く予定ではなかったのですが、なりゆきからこんな終わり方になってしまいました。

このお盆からのUターンに飛行機を利用される方もいるでしょうが、JALを使われる方もANAを使われる方も、無事フライトを終えられるよう、祈っている、とだけ書いて罪滅ぼしとさせていただくとし、今日の項は終わりとしましょう。

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ステレオタイプ

2014-1150199台風11号は過ぎ去りましたが、その台風が日本にちょうど接近し始めた先週の7日は、暦の上では立秋だったようです。

秋風が吹くにはまだ少々早く、風は風でも台風によってもたらされた南風が吹き荒れており、まだまだ暑いさかりです。が、このころを境に暑さが緩むといわれており、これがこのクソ暑いのに「立秋」があるゆえんです。

…と、書いてみたりするのは、私が暑さが苦手なためであり、何か理由をつけてでも早く秋が来ないか来ないか、と期待している証拠です。が、私が何を期待しようがすまいが、くるものは来る、しかし、予定通り来るのであって、いつもより何か月も早く来る、な~んてことはないわけなのであります。

かくして今年もまた、あとしばらくはこの暑さとお付き合いをせざるを得ないわけですが、暦の上とはいえもう秋ではあるわけですから、たとえ暑くても、もう秋だ、秋だと思えば、気持ちの上でも少しは楽になろうかというものです。

つまり、「思い込み」をすればいいわけなのです。しかし、この「思い込み」と「固定観念」は違います。例えば、「鳥は飛ぶものである」という考えは、多くの人が持つ思いこみですが、固定観念ではありません。

ところが、鳥であっても飛ぶことのない鳥もいます。ペンギンやダチョウがそれで、この例を持ち出されると、普通、人は「飛ばない鳥もいる」と考えます。ところが、ペンギンやダチョウの例を持ち出されてもなお、「鳥は飛ぶ」という主張をする人もおり、ペンギンやダチョウのジャンプにすぎないものを飛翔と考えます。これが固定観念です。

色々な理屈を述べたりして、自分の観念を押しとおそうとし、自己の主張をどうしても変えない人のことを、「固定観念に捕えられている」といいます。

未知なことや、よく知らないことについて、実証的な根拠に乏しいのに先入観を持って物事を捉えるのが、「思い込み」ですが、何らかの理由でその思い込みにさらにこだわり、どんな例を出されても説明を受けても、思い込みを変えない場合には、その思い込みは固定観念になっているといっていいでしょう。

今は秋だ、これから涼しくなるんだ、という論理を、自分に思い込ませる程度ならばいいのですが、もう立秋だ、秋なのだからサンマを食ってセーターを出さねば、とまでなるとこれはもう完全に行き過ぎであり、こうした固定観念は往々にして人間生活を送る上においていろんなトラブルを引き起こします。

固定観念において自分の考えを押し通し、他人を受け入れようとする姿勢を失っていくためです。

一方ではまた、固定観念と混同され易いものに、「ステレオタイプ」というヤツがあります。「判で押したような」考え方や類別を意味し、多くの人が同じものを共有している状態を表します。一概に他人の考えを退けているわけでもなく、したがって、固定観念のように排他的な考え方とはいえません。

しかし、ステレオタイプな考えは、だいたい単純で底が浅く、個性に欠け、タブロイド思考の一種だとも云えます。タブロイド思考とは、複雑なものごとを、皮相的に、単純化・類型化して把握しようとする思考法です。

通常の新聞よりもサイズの小さな「タブロイド型新聞」から来ていて、電車のなかなどで読むには、コンパクトな大きさの新聞が都合がよいので、このようなサイズの新聞があるわけですが、こうした新聞は興味本位の記事を売り物にする大衆紙が多いわけです。

何かの社会的事象や事件を伝えても、その詳細や、立ち入った分析は行わず、短い文章で読者が理解しやすいように、類型的な決めつけを行うような新聞が多いことから、これを思考法になぞらえて、「タブロイド型思考」というようになりました。

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しかし、タブロイド新聞の記事ばかりを読んでいると、ときに世のなかの複雑な事象が、単純な原理で解明でき説明できるような錯覚にも陥ります。論理の省略、分析の省略によって、ものごとを、上っ面だけで判断して決めつけて答えを出すようになっていき、自分で物事を考えられなくなります。

つまり、ステレオタイプの人とは、単純思考しかできない人のことです。物事を単純化し類型化しているので多くの人に受け入れられやすいわけですが、こういう人たちに限って複雑な思考の努力や反省ができず、流行などに乗って安易に物事を受け入れてしまいます。

これを反証的にみてみましょう。例えばステレオタイプを脱して、実情に則した認識を持とうしようと努力したとします。すると、実際には大きな知的努力や複雑な検証の手順が必要になることがわかり、タブロイド思考しかできない人にとって、このような吟味作業や反省は負担が大きくなります。

そのため一旦受け入れたステレオタイプを考え直そうという気になれず、ますますそれまでの考え方に固執するため、多面的に物事を見るということができなくなっていき、こうしたステレオタイプはやがて、最悪の固定観念になっていきます。

しかし、ステレオタイプから派生しない固定観念のなかには極めて独創的で、他の誰も思いつかないような複雑で知的にも洗練されたものがあります。単純な思い込みから派生したものでも、優れた人の思い込みは非常にパワーを持った固定観念になる場合があります。

例えば芸術家やデザイナーの固定観念は彼等の表現力を強力に推し進めるために非常に大事な原動力になっている場合があります。ピカソのキュービズムの作品を最初に見た観衆はその「醜い作品」を見て衝撃を受け、口々に非難を浴びせたといいますが、この新しい観念への彼の固執は、その後「形態の革命」として受け入れられていきました。

ところが、ステレオタイプはまさに紋切り型で浅薄です。ある思い込みを持つと、その考え方に固着します。固定観念には容易に考えを改めないという欠点でもあり大きな特徴がありますが、ステレオタイプの特徴はというと、考え方が陳腐であり底が浅いといったことです。

こうしたステレオタイプというのは、物語やフィクションなどで造形される人物像にその典型的な形が見られます。水戸黄門や崖っぷち刑事ドラマに代表されるような勧善懲悪の物語では、善役はいかにも善役らしい姿や言動があり、その反対に悪役はいかにも悪役らしい姿や言動で表現されます。

大衆向けの娯楽目的の小説や映画、ドラマなどでは、人物造形がステレオタイプなだけではなく、物語の構成やプロット、展開・結末などもステレオタイプになっているのが一般的です。

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よく漫画やアニメに出てくるパターンに「Boy meets girl, and fall in love」というのがありますが、これも典型的なステレオタイプです。

古代の青春恋愛物語である「ダフニスとクロエー」も同じような構成になっています。これは2世紀末から3世紀初め頃の古代ギリシアで書かれた恋愛物語で、エーゲ海に浮かぶレスボス島の牧歌的な情景を舞台に、少年と少女に芽生えた純真な恋とその成就が抒情豊かに描かれていて、何度か映画化されています。

これら神話に見られるパターンは、こうした恋愛物語以外にも様々な神話類型に分類できます。善の神が悪の神を懲らしめる、といった類の分類であり、これがやがて後世に描かれるようになる様々な物語の影響を与えるようになり、これらに即した基本類型が作られるようになりました。

そしてこれらの基本形はやがて人間心理の普遍的・先天的なありようとも関係してくるようになります。ステレオタイプはここから出てきたと考えられます。

さらに時代を経て、近代において大衆社会、マスコミュニケーションが成立するようになると、政治的、経済的、あるいは社会的な目的においても、過剰に単純化され類型化されたイメージが広く一般に浸透するようになります。そしてステレオタイプの特徴である紋切り型な把握や観念や思考となって定着するようになっていきました。

こうした社会に定着したステレオタイプの例を挙げましょう。例えば、職業におけるステレオタイプというのがあります。理系のステレオタイプといえば、白衣を着ていることが多く、理屈っぽいというイメージがありますが、これがまさにがそれです。

このほか科学者のステレオタイプの代表として、アインシュタインをあげる人も多いでしょう。ぼさぼさの白髪頭に白衣を着ているというイメージは多くのフィクションや映画で使われましたが、しかし実際には、彼は白衣は着ていませんでした。

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このほか「マッドサイエンティスト」というステレオタイプもあります。異常な知識・技術力と研究意欲と功名心を持つとされ、その一方で、一般的な道徳心や倫理、社会通念を欠くか無視しており、精神的には不安定とされますが、映画バックトゥザフューチャーに出てくる、「ドック」はまさにその典型です。

第二次世界大戦において、大日本帝国陸軍は強烈なイメージを欧米に与えました。カーキ色の薄汚れた軍服を着て軍刀を振り回すなど、横暴かつ残虐な振る舞いをするイメージですが、これは戦後の日本においてもなかば自虐的に継承され、戦争映画などにおいてこうしたステレオタイプが使われるようになりました。

当時日本軍は軍服と戦闘服の区別をしておらず、軍服のまま戦闘任務に就くことが多かったためにこうしたイメージが定着してしたわけですが、欧米ではたとえばアメリカ兵は、ふだんはきちんとした制服を着ていますが、戦闘になると、ヘルメットをかぶり、戦闘服に着替えてから戦いました。

ただ、同じ軍部でも日本帝国海軍は違いました。純白の綺麗な軍服に身を包み、陸軍とは対照的にエリートかつ、人に優しく、優雅な振る舞いのイメージがありますが、これは海軍が若者の勧誘、人員確保に腐心していたことに起因しており、現在の博物館のようなものまで建てて、海軍を美化しようとしていました。

太平洋戦争の主導はこうした海軍ではなく、陸軍の暴走に始まり、玉砕によって終わりましたが、戦後はその反動が強かったため、逆に海軍出身者達のほうの政治的発言力が強くなり、マスコミや知識層で「海軍善玉論」が支持されるようになったこともあって、現在においても海上自衛隊のほうがイメージが良い、といったところもあるようです。

趣味・嗜好や性癖におけるステレオタイプというのもあります。一番良い例が、血液型によるステレオタイプでしょう。日本では、ABO式血液型の性格分析を信じる人は多く、A型は几帳面で、B型は雑、O型はおおらかで、AB型は変人、といった分析がよく言われるようですが、その科学的根拠は希薄です。

逆に欧米諸国ではこういった血液型による偏見は見られないといい、また科学的に立証された例はありません。従って日本におけるこのABO型血液分類は、占いの部類、あるいは迷信の象徴的なものといってよいでしょう。

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性癖によるステレオタイプとしてはまた、「ゲイ」のイメージというものがあります。お笑い芸人のレイザーラモンHGの例にもみられるように、こうした感覚の服装をした人が「ゲイのステレオタイプ」と見る向きもあります。

が、彼がゲイであるというのは事実はなく、元グラビアアイドルと結婚し、二子を設けていることからもこれは作られた偶像であることがわかります。

また、同性愛者といえば、すぐにポルノを想起する人が多いようですが、同性愛というと過度に性的観点が重視されがちな傾向があり、こうした点に不快に感じる同性愛者も多いようです。メディアにおいても同性愛者の性を売り物にする傾向が強く、同性愛者=おちゃらけた人々というステレオタイプがまかり通っています。

その他、よく「都会」「田舎」といいますが、これもステレオタイプ的な用語です。都会といえば、東京を指すことが多いようですが、洗練されている、流行の先端を行っている、おしゃれといった良いイメージが先行する反面、人間関係が厳しくクール、教育、健康、育児等において「不健全」な環境というイメージがあります。

大阪や名古屋も都会といえば都会なのですが、東京や横浜、神戸に比べれば少々洗練さに欠けるという見方もあり、こうした見方もステレオタイプです。

一方、田舎はどうかといえば、地味で洗練されていない、訛りがひどい、流行から遅れている、産業は農業もしくは漁業しかないといったマイナスなイメージが先行します。

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その一方で、人間性が保たれており、人付き合いが濃密で、生活や子育てにおいて、健全な良い環境が残されているといったイメージがあります。がもっとも、日本の大半がこの田舎のイメージを持った場所なわけなのですが……

外国人からみた「日本人」というステレオタイプもあります。眼鏡を掛け、出っ歯で背が低く、首からカメラを提げているというイメージで、これは戦後、まだ海外渡航者が少なかったころの日本人団体旅行者が彼等に与えた印象がそのまま残ったものです。

今はこうしたイメージを日本人に持つ外国人は少なくなってきているようですが、目が釣りあがっていていつも笑顔、しかし、イエスとノーが曖昧で、集団主義的というイメージが強いようです。

太平洋戦争に起因する、「ハラキリ」や「バンザイ突撃」、「カミカゼ」といった言葉に代表されるように、捕虜になって辱めを受けるよりも潔い死を選ぶ人々、というイメージはまだまだ強く、こうした「恥の文化」を持ちながらも、一方では手先が器用で物作りが得意であり、英語が下手で外国人嫌い、というイメージもあるようです。

一方、治安のまだまだ悪く経済も日本ほど豊かでないことの多い発展途上国では、日本人のことをきれい好きで道徳意識が高く、マナーがよいというイメージを持っているようであり、外国人からみた日本人のステレオタイプも一通りではありません。

さらに日本人男性と女性のステレオタイプもあります。日本人女性の場合は、貞淑で夫を立てる、献身的といった評価がある一方で、性的に奔放で白人男性に弱い「ゲイシャガール」のイメージもあるようです。一方の日本人男性のほうは、仕事中毒で金儲けに熱心といったいわゆる「エコノミック・アニマル」のイメージが強いようです。

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このほか、日本人男性には勤勉すぎて過労死が多いというイメージがあり、この過労死は、“Karoshi”として英語で通じるほどです。また、ペニスが小さい、好色、男尊女卑、オタクなどのイメージがあるようですが、こうした印象は日本人だけでなく中国や韓国の男性にも適用されることがあります。

というか、私の海外での生活経験からすると、彼等はそもそも、中国人や韓国人と日本人をごっちゃにしています。欧米人の東洋人に対する一般的な印象としては、挨拶のとき必ず合掌しお辞儀をする(日本人はそんなことはしませんが)、理数系の学科が得意、といったものです。

その一方で、東洋人一般のイメージとしては、物事に対していい加減な部分があり、時間や約束事に対してルーズ、物静か、集団的、クリーニング店を経営している、肉を食べない、小柄で細身、すばしっこい、勤勉、目上の者には絶対服従、などなどです。

これらは日本人としても必ずしも該当するものばかりではなく、時間や約束事にルーズというのは明らかに違います。このほかおそらく中国人やインド人などへの印象でしょうか、瞑想をするので精神が安定しているという印象もあるようであり、空手・柔道・拳法など徒手格闘術の達人である、といった印象もあるようです。

以上が、外国人から見た日本人のステレオタイプですが、これを日本国内で、日本人としての視点からみたステレオタイプとしてまず思い浮かぶのが、関西人や江戸っ子といった、仕分けです。

よく言われるのが、関西人は合理主義で現実主義的、お笑い好きでおしゃべりでいらち(=せっかち)といいう印象です。ほかに、派手好き、食い倒れ、東京人嫌いというのもあり、いわゆる「大阪のおばちゃん」は逞しく、金銭感覚に優れ、豹柄や虎縞の服を好みます。

ただ、これらのステレオタイプは、在京マスコミが長年報道し続けた結果定着したものだともいえ、多分に押し付けの感がないでもありません。

逆に、東京人、すなわち、江戸っ子はどうであるかというと、これは「宵越しの金は持たない」に代表されるように、刹那的で場当たり、意地・見栄を張る、口は悪いが人情に厚い、といったものです。

最近のように東京人と地方人の混淆が進むようになってからは必ずしもそうともばかり言い切れませんが、私の知人にはこうした傾向がある人が多いのは確かです。が、年配者に多く、戦後に生まれた若い世代の中には、こうした江戸っ子気質を持っている人はむしろ少ないように思います。

「ニューヨーク・タイムズ」でも、かつてこうした自国人特有のステレオタイプに関する特集を組んだことがあるそうで、その中で「アメリカ合衆国における代表的なステレオタイプ」として、「貪欲なユダヤ人」、「卑劣な中国人」、「馬鹿なアイルランド人」、「怠惰な黒人」などが挙げられました。

が、おそらく日本人が黒人について持つイメージとして「怠惰」というのはないのではないでしょうか。その代わりに、顔が真っ黒で唇が分厚く、アフリカ原住民のようなイメージを持ち、おおらかな人々といった印象を持つ人が多いと思います。

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ところが、日本では近年、こうした黒人に対するステレオタイプを持つことすらも「差別」であると決めつけ、これをなくそうという活動がさかんになりました。

漫画やアニメなどのステレオタイプな黒人の描写が差別的であるとしてさまざまなクレーム活動を行うようになり、その結果、出版社や制作会社が自粛を決定するようになり、黒人自体を漫画などに出すことなどがタブーとなっていきました。

かつて絵本の名作といわれた「ちびくろサンボ」もこの流れで絶版に追い込まれており、このほかにもカルピスの登録商標である、「白い帽子をかぶってカルピスを飲む少年」の使用も差し止められました。藤子プロは「オバケのQ太郎」「ジャングル黒べえ」を絶版。ダッコちゃんも煽りを受け販売停止となり、現在でも絶版状態となっています。

しかし、オバケのQ太郎にそんな黒人蔑視の表現があったかな?と不思議に思ったので調べてみたところ、これは1980年代に「黒人差別をなくす会」という団体が黒人の描写について差別的だと多くの出版社に抗議をした際、本作の一部にその対象となった表現があったことによるようです。

オバケのQ太郎の一連の作品の中に「国際オバケ連合」という話があり、この話の中で登場する「バケ食いオバケ」が問題になったそうで、この中の黒いオバケが人食い人種を思わせると抗議を受けたためだといいます。

オバケのQ太郎といえば、1960年代に爆発的にヒットした作品であり、1965年からテレビ放送されるようになってからは、常に視聴率30%以上を維持し、主題歌の「オバケのQ太郎」400万枚の大ヒットとなり、1966年第8回日本レコード大賞童謡賞を受賞しました。

円谷プロ制作の「ウルトラQ」「ウルトラマン」と共に爆発的な人気番組となり、1967年に終了するまでは他局から「恐怖のQQタイム」と呼ばれるほどであり、町中にはオバQグッズがあふれ、小学生だった私も学校のプリントの裏にしょっちゅうオバQの漫画を描いていました。

本作は作者の藤子不二雄の2人のほかに、石ノ森章太郎や、トキワ荘出身の漫画家らが設立したアニメーション漫画の制作会社、「スタジオ・ゼロ」が関わっており、このため藤子不二雄がコンビを解消したのち、この四者の間で著作権料の割合で揉めていたのが原因で、長期にわたる絶版に至ったのではないかという説もあります。

が、もし、ごく一部の黒人蔑視反対者たちの運動が原因となって絶版となっているのであれば、こうした「軽薄単純で底が浅く、個性に欠ける」ステレオタイプな考え方に陥った人達がおこした運動の犠牲になって、この名作が消えたことになります。

ちびくろサンボも同様であり、いまこそ、こうしたバイアスを取り除き、往年の名作を復活させる時期が来ていると思うのですが、いかがでしょうか。

昨今、同じ藤子不二雄作品の「ドラえもん」が3D映画化されて話題になっていますが、このオバケのQ太郎の3D映画なんてのもまた面白そうです。

夏といえばお化けでる季節。たとえ今年は無理でも、来年こそは、立秋になる前に、ぜひ、復活させて欲しいものです。

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