それからの早雲

8月の初めのころ、「早雲の夢」というタイトルで、ここ伊豆や小田原を中心に活躍した戦国武将の北条早雲の前半生について書きました(早雲の夢)。

が、その後、暑さに負けてしまい、その後半部分を書きかけてやめてしまっていたので、今日改めてその続きを書いておきたいと思います。

とはいえ、前回書いてからかなり経っているので、早雲の前半生の概略から入っていくことにしましょう。

北条早雲は、彼が死してからこう呼ばれるようになった名前です。元の名前は、伊勢盛時(いせ もりとき)といいます。室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖です。伊勢宗瑞とも呼ばれますが、これは早雲が晩年出家したときの名前です。

北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動はここ静岡を初めとし、坂東と呼ばれた関東地方、ひいては日本全国を戦国時代に突入させた人物として歴史にその名を刻まれています。

が、駿河や関東の出身ではなく、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた西国の伊勢氏を出自とする考えが主流です。

最近の研究では、この伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘(現岡山県井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって300貫ほどの荏原荘の半分を領する領主であることがほぼ確定しています。

ちなみに、後年早雲が切り取ることとなる「坂東」という場所は奈良時代以来ずっとこの名で呼ばれてきた国々であり、14世紀中期に室町幕府が成立し、鎌倉に鎌倉公方(鎌倉府)が置かれると、鎌倉公方の管轄する諸国である相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国の8か国が正式にこう呼ばれるようになったものです。

その後戦国期に入るとさらに伊豆国・甲斐国を加えた10か国が「関東」と認識されるようになりましたが、ここではそれ以前の物語ということで、伊豆と甲斐を除いた地域を関東として記述するとともに、「関東管領」などの用語もあることでもあり、坂東・関東入り乱れるとややこしいので、以下ではすべて「関東」に統一して記述していきます。

応仁元年(1467年)に全国の武将たちを二分する形で応仁の乱が上方で起こり、今の静岡県の豪族、駿河守護今川義忠もまた上洛して東軍に加わりました。同じ東軍に加わっていた伊勢家はその縁で今川家と交わるようになり、早雲の姉(または妹)の北川殿が義忠のところへ嫁いでくることになりました。

ところが、文明8年(1476年)、今川義忠は遠江の塩買坂の戦いで西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にしてしまいます。

残された嫡男の龍王丸は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなりました。

今川氏の家督争いが始まったことを知った早雲は駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めました。竜王丸の母は早雲の姉(または妹)の北川殿であり、竜王丸は北条早雲の甥にあたることとになり、当然といえば当然の行動です。

同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して小鹿範満とその弟小鹿孫五郎を殺し、このとき龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して「今川氏親」を名乗り正式に今川家当主となりました。

早雲と氏親は叔父甥という関係ながらも、同じ家内にあっては主従という関係です。かつ年も離れていたわけですが、この出来事によって深い絆が生まれるようになり、その後生涯に渡ってこの二人は助け合いながら戦国の世を切り開いていくことになります。

こうして早雲はこの戦いの功により、伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられるとともに、まだ若い氏親を補佐して、今川家の事実上の執権となります。

明応2年(1493年)4月、早雲は、同年夏か秋頃に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃しました。この事件を伊豆討入りといい、この時期に東国で戦国期が始まったと考えられています。

茶々丸についてはこのブログでも何度も書いてきました。

その父は足利将軍家の一族で室町幕府6代将軍足利義教の次男であった足利政知の子です。政知は坂東平定のために足利幕府から鎌倉府へ派遣されましたが、幕府と敵対状態にあった古河公方の足利成氏の勢力が強大なため鎌倉に入ることができず、伊豆の韮山に居を構え、堀越公方と呼ばれるようになっていました。

茶々丸はこの政知の嫡男でしたが、幼いころから素行不良で、このため父の命により土牢に軟禁され、代わりに弟の潤童子が後嗣とされていました。一説には、潤童子の実母(茶々丸にとっては継母)の円満院が政知に讒言したため、父に疎まれていたという説もあります。

執事の上杉政憲は政知による茶々丸の廃嫡を諌めましたが聞き入れられず、自害させられたといいます。ですから、悪者のように言われることの多い茶々丸ですが、最初のころは案外と家来の受けはよく、公方の嫡男としては優れた資質を持っていたのかもしれません。

しかし、茶々丸の評判を著しく落としたのは、延徳3年(1491年)4月の政知死後のとき、7月に牢番を殺して脱獄し、堀越公方に決まっていた潤童子と継母を殺したことです。これにより事実上の堀越公方になりあがりましたが、当然世間体受けする出来事ではありません。

父の死によって継母の円満院に虐待されたためとも伝えられていますが、真偽のほどはわかりません。

ところが、その後はさらにいけません。まだ若かったためか、奸臣の讒言を信じて、筆頭家老で韮山城主の外山豊前守、秋山新蔵人などの重臣を誅するなどしたことから、旧臣の支持を一気に失い、この内紛は伊豆全土に波及していきました。

早雲はこの混乱をみて、茶々丸を伊豆から除き、今川家の覇権をこの地に伸ばそうと考え、明応2年(1493年)に伊豆へ乱入しました。このころ茶々丸は潤童子や円満院を殺した反逆者と見なされ、伊豆国内では求心力が著しく低下していたようです。

早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中を通って甲府に逃亡しました。早雲は伊豆国韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として伊豆国の統治を始めます。そして高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告しました。

また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施したため、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民たちは次々と早雲に従っていきます。

一方では抵抗する下田の関戸吉信の居城である深根城を落とし、その配下を皆殺しにするなど、武威を持って力をみせつけています。しかし、それまでのこまごまと規定が多く重い税制を廃してより単純な四公六民の租税に改めるなどの改革も行っており、メリハリをつけたその采配に領民や部下たちは次々に服従を示していきました。

このため、伊豆一国はわずか30日ほどで平定されたといいます。

堀越御所から逃亡した茶々丸は、その後も武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに擁せられて早雲に数年に渡って抵抗しました。

早雲はこれに手を焼きましたが、手なづけた伊豆の国人を味方につけて、茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年(1497年)になって茶々丸が下田の深根城に逃げ込んだとき、ここを再度落として茶々丸を誅し、ようやく全伊豆の平定に成功しました。明応2年(1493年)の伊豆討ち入りから5年後のことでした。

このように伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、明応3年(1494年)頃からは今川氏の兵を指揮して遠江(とおとうみ・静岡県西部)へ侵攻し、中遠(静岡県中部)の武将たちに示威行動を起こしています。しかし、結局早雲の生きている間には遠江の完全統治は実現しませんでした。

また今川氏はもともとは駿河や遠江国の守護でしたが、応仁の乱以降、もともと奥羽を本拠とする斯波氏に領地を分断されてこの地の多くを奪われており、今川氏と斯波氏は各地で領土を争う形となっていました。

しかし、この早雲の活動により駿河の国全土へ今川の名が知れわたるようになり、完全なる統治はされてはいないものの、この地で面と向かって今川家へ楯突いてくる豪族はいなくなりました。こうして背後を固めた早雲と氏親はさらに連携して領国を拡大していくことになります。

小田原城奪取

二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる。という霊夢を早雲が見たという話が「北条記」に書かれているそうです。二本の杉とは代々足利将軍家から関東管領の職を拝領してきた山内上杉家と扇谷上杉家のことで、鼠とは子の年生まれの早雲のことでした。

早雲が駿河の国の平定に奔走していた明応3年(1494年)、関東では、長年この関東管領を交互に拝していた山内上杉家と扇谷上杉家という二者の内部抗争が激化し(長享の乱)、このとき扇谷家の上杉定正は駿河の早雲に援軍を依頼してきました。

これを受けて早雲は関東に出兵。定正と早雲は荒川で山内家当主で、このときの関東管領上杉顕定の軍と対峙します。ところが、早雲を呼んだ定正は不運にも荒川渡河中に落馬して突然死んでしまいます。このため、依頼主を失うことで出兵の意味を失ってしまった早雲はやむをえず伊豆へ兵を返しました。

さらに、扇谷家は相模(現神奈川県)の三浦氏と大森氏からいつも厚い支援を得ていたのですが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去するという不運に見舞われました。

この結果、関東における勢力バランスが崩れ、その形勢は次第に山内上杉家のほうへ傾いていくとともに、相模など南部地方に力を持っていた扇谷上杉家の勢力に陰りがみえてきました。

一方の早雲はこのころまだ甲斐に逃げ込んで抵抗を続けていた茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐に攻め込み、茶々丸を擁護していた甲斐守護武田信縄と戦っています。

そして同年9月には、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取しました。大森氏は上述のとおり早雲を頼りにしていた上杉扇谷と友好関係にあった武将です。これを討ち取ったことなどから、この頃から既に早雲は、相模を足掛かりとして関東に進出し、そろそろ戦国の世を切り取ろうと考え始めていたことがわかります。

「北条記」によれば、早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになったといい、早雲はただ力任せの武将ではなく、策略などの智謀においても優れていたことがうかがわれます。

ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許しました。ところが、早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れていました。

その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放ちます。数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたといいます。

典型的な城盗りの物語で、似たような話は織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にもあります。この話もかなり芝居がかっており、実際にはそんなに簡単なものではなかったと思われます。

ちなみに、早雲はこの小田原攻めで扇谷上杉方の大森氏をだまし討ちにしたことになっていますが、近年の研究ではこの小田原城奪取も大森藤頼が扇谷上杉氏を見限り、山内上杉氏に寝返ったこと原因だったと考えられているそうです。

が、とにもかくにも早雲はこうして小田原という関東南部に拠点を持つことになり、関東攻略の足掛かりを作ることに成功しました。

こうして小田原城は後に後北条氏の本城となりますが、この後も早雲は終生、伊豆韮山城を居城としています。よほど伊豆の地が好きだったのでしょう。あるいは、周囲を敵に囲まれたこの時代にあって、背後は奥深い天城山であるこの地のほうが、平地である小田原よりも身を守るのに適していると考えていたのかもしれません。

このように早雲は伊豆韮山を拠点としながら、近隣の土地を切り取って関東攻略の機会を探っていましたが、今川氏の武将としての活動も忘れてはおらず、文亀年間(1501~1504年)には現愛知県東部の三河にまで進軍し、今川家の領地を広げようとしています。

しかし、1501年9月には、現岡崎市にあった岩付(岩津)城下で松平長親(徳川家康の高祖父)と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わってしまいました。このころ東国への進出は順調でしたが、西国にはいまだ火種を抱えているといった状況だったようです。

相模平定

その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、さらに関東攻略のために動き出します。ただ、このころ深根城に追い込んだ茶々丸は既に死んでおり、それまでのように将軍家の逆賊を討伐するために彼を追って関東に進出するのだといった、世間への表だった名目は失っていました。

このため、この後の関東における軍事行動においては、各地の豪族の同意を得られず、関東制覇の道は険しい状況でした。

更に、早雲によって伊豆・西相模を切り取られた上杉山内家の顕定の抗反も始まり、これまでは扇谷家と親しい早雲や氏親らにどちらかといえば好意的だった、細川政元と11代将軍足利義澄が山内家に急速に接近しはじめたため、氏親・早雲の関東での政治的な立場が弱くなっていました。

細川政元は、足利氏の庶流の細川氏当主で、このころ京都では将軍をしのいで事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれていた権力者でした。幕政を牛耳り、その後も勢力を拡げましたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれてその後家臣に暗殺されています。

細川政元が上杉顕定に接近したのは、将軍家側にはこのころ関東で勢力を伸ばしつつあった早雲らを彼によって牽制する目的があったと思われ、また早雲らと親密な扇谷上杉家よりも大内上杉家のほうが関東を意のままにするためには都合が良いと思ったからでしょう。

このため早雲と氏親は、今度は前将軍であった足利義稙とその後ろ盾であった山口の大内政弘に近づき、彼等の威光を背景として相模の豪族たちを手名付けていこうとしました。

こうして、細川政元と現将軍をバックとする山内上杉家ラインと扇谷山内家と前将軍を後ろ盾とする早雲・今川氏親という二つの勢力が対峙するという構図が生まれ、時間が過ぎていきました。

が、永正元年(1504年)、ついに両者の間で衝突が起こりました。扇谷定正の甥で扇谷家当主となっていた上杉朝良と山内上杉家との間に戦闘が勃発し、当然のことながら早雲は上杉朝良に味方することになります。

この戦いは、「武蔵立河原の戦い」と呼ばれており、武蔵立河原とは、現在の東京都立川市のあたりです。この戦いで氏親と共に出陣した早雲は、山内顕定に勝利し、この成果はその後の関東進出のための大きな契機となりました。

ところが、この敗戦を受けて、上杉顕定は反撃に出ます。今度は弟で越後守護であった上杉房能と同守護代長尾能景の応援を受けて相模へ乱入し、扇谷家の諸城を攻略し始めたため、翌永正2年(1505年)、河越城に追い込まれた上杉朝良は降伏してしまいます。

この戦いで上杉扇谷誌は上杉山内家に屈服した形となり、長年争ってきた両家の抗争は終わりを告げた形となりました。上杉家はその内部事情はともかく、表面上はひとつに統一された格好になったわけです。

このことにより、早雲はこの後、「上杉家」としてひとつに結託した山内家、扇谷家の両上杉家と敵対していくことになります。

これ以降は早雲は今川氏の武将としての活動はほとんどやめ、駿河国周辺の抗争は氏親に任せ、相模から関東中央部への進出に集中するようになります。そしてその後の戦いに備えて力を蓄えるため、永正3年(1506年)には相模で検地を初めて実施し、その支配力の強化を図っています。

永正4年(1507年)、前述のとおり、京都で管領の細川政元が家臣の香西元長・竹田孫七・薬師寺長忠に暗殺されるという事件が勃発しました(永正の錯乱)。これは上杉家をバックアップしていた強大な権力者の没落ということで、早雲には大きな追い風となります。

同年には、越後守護の上杉房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺されるという事件が起きており、この混乱に乗じて早雲は為景や元山内上杉家の家臣の長尾景春と結び、上杉顕定を筆頭とする関東上杉家への牽制を開始します。

長尾家は、代々山内上杉家の家宰の家柄で、景春の父の景信は上杉家の筆頭家老でしたが、父の死後、この家宰の地位を叔父の忠景が継ぐことになり、この叔父の後援者であった山内上杉家当主・上杉顕定に対して不満を抱き、やがて顕定や忠景を憎悪するようになっていました。

早雲は、越後と関東に地場を持っていた上杉家における内紛をうまく利用しようとしたわけです。

永正6年7月、関東管領であった顕定はこの越後の動乱を抑えるべく、大軍を率いて越後へ出陣。同年8月、この隙を突いて早雲は上杉扇谷家の上杉朝良の本拠地である江戸城に迫りました。

上杉朝良は早雲のかつての盟友ですが、このころには扇谷家は山内家に服従の立場ですから、このときはもう敵です。この早雲の進撃に対して上野に出陣していた朝良は兵を返して反撃に出て、翌永正7年(1510年)まで早雲と武蔵、相模などの各地で戦いを繰り広げました。

早雲は権現山城(横浜市)の上田政盛を扇谷家から離反させるなどの調略を裏で行い、攻勢に出ようとしましたが、同年7月になって上杉山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出てきたため、権現山城は落城。

一方では、三浦半島に拠点を置く扇谷家の配下の三浦義同(道寸)が早雲方の住吉要害(平塚市)を攻略して小田原城まで迫ってきました。この小競り合いでは早雲は手痛い敗北を喫してしまいましたが、このとき早雲は、扇谷家となんとか和睦をしてこの窮地を切り抜けました。

ところが同年6月に、長年早雲と争ってきた仇敵の上杉顕定が、越後に出陣したのち、長尾為景の逆襲を受けて敗死するという事件がおこります。さらに彼のその死後、2人の養子である顕実と憲房との間に家督相続の争いが発生し、上杉家内部には大混乱がはじまりました。

これより以前の50年ほど前、鎌倉公方であった足利成氏が幕府に叛いて反乱を起こすという事件がありましたが、このとき将軍家の命を受けた早雲の主君家の今川は成氏の陣取る鎌倉を攻めてここを取り返しました。

このときから成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、このころから古河公方は幕府方の関東管領である上杉氏と激しく戦うようになっていました。

上杉家で家督相続の混乱が生じていたちょうどこのころ、この古河公方家でも足利政氏・高基父子の抗争が起こっており(永正の乱)、ようするに関東はぐちゃぐちゃの状態になっていました。

無論、この状況は関東制覇を目論む早雲にとっては願ったりかなったりの状況でした。しかし、関東へ進出するためには、三浦半島に拠点を置く扇谷家の配下の三浦氏をなんとかして除かなければなりません。

三浦氏は相模三浦氏ともいい、伊豆で源頼朝が挙兵をしたころからこれに賛同し、鎌倉幕府創立の功臣としてその後この地で絶大なる勢力を有していた名族です。が、その嫡流は執権の北条氏に滅ぼされていました。しかし、その傍流は相模の豪族として続き、とくに三浦半島を中心として大きな力を持っていました。

この頃の三浦氏は扇谷家に属し、当主は三浦義同(道寸)という人物で、相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)を本拠とし、三浦半島の新井城(または三崎城・現三浦市)を子の義意が守っていました。早雲の相模平定、ひいては関東進出のためには、どうしても滅ぼさなければならない相手です。

しかし、早雲はかつて三浦義同に小田原で敗れてしまっていました。しかし、この敗戦から徐々に体勢を立て直し、永正9年(1512年)8月には三浦義同の守る岡崎城を攻略し、義同を敗走させることができました。義同は現逗子市にある住吉城という小城に逃げ込みましたが、勢いに乗る早雲によってここも落とされ、ついには息子の義意の守る三崎城に逃げ込みました。

こうしてついに早雲は鎌倉に入ることに成功し、南関東の相模の支配権をほぼ掌握することになります。しかし、まだ三浦氏を完全に滅亡させなければ関東へは進出できません。

この戦い後、上杉朝良の甥の扇谷朝興が三崎城に逃げ込んだ三浦義同を救援するために江戸城から駆けつけましたが、早雲はこれを撃破しています。さらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に玉縄城を築きました。

義同はしばしば兵を繰り出して早雲と戦火を交えましたがが、次第に圧迫され、その後は三浦半島に封じ込められて出て来れなくなってしまいます。上杉家や扇谷家も関東から次々と救援の兵を送りますが、早雲によってことごとく撃退されたため、三浦親子は完全に孤立した状態となりました。

永正13年(1516年)7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めてきましたが、早雲はこれを打ち破り、その勢いを買って義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せます。三崎城は堅城で、なかなか落とすのには苦労しましたが、激戦の末にとうとう落城し、このとき義同・義意父子は討ち死に、ここに名族三浦氏はついに滅びました。

こうして早雲はついに相模全域を平定し、この地を完全掌握するとともに、悲願であった関東進出に乗り出します。

まず、早雲は上総(現房総半島北部)の真里谷武田氏を支援するため、房総半島に渡りました。そして、ここを拠点として、翌永正14年(1517年)まで関東各地を転戦しはじめました。

しかし、この頃にはもうすでに早雲は最晩年でした。享年は64または88と諸説ありますが、その寿命が尽きる前年の永正15年(1518年)には、何等かの病を得ていたためか、家督を嫡男氏綱に譲っています。

そして、翌永正16年(1519年)に死去しました。家督を継いだ嫡男の氏綱は2年後に菩提寺として神奈川県箱根町に早雲寺を創建させました。

この早雲の年齢については諸説あると書きましたが、江戸時代のころから、永享4年(1432年)生まれで、享年88と信じられてきました。

しかし、これは当時としては非常に長命です。もしこれが本当だとすると、早雲が歴史上に登場するのが50歳近く、本格的に活動するのは60歳を過ぎてからとなり、最晩年の80歳を過ぎても自ら兵を率いて戦っていたことになります。

このため、この享年88歳説に疑問を呈する研究者も多く、これらの研究者のひとりが、この説は江戸時代中期以降の系図類から出たものであり江戸時代前期の史料には存在しないことなどを明らかにしました。

このため、江戸時代前期成立の軍記物で「子の年」生まれと記載されていること、姉の北川殿の結婚時期と考え合わせて、24歳若い康正2年(1456年)生まれであろうとする意見が出るようになり、これだと享年は64歳ということになります。

が、この説については未だ検討中の段階だそうで、依然として昔のままの享年88説を採る研究者もいるようです。

早雲以外の歴史上の武将で長生きした人の中には、戦国時代の武将で出雲守護代だった尼子経久のように享年が84であったことがはっきりわかっている人もおり、また武田信玄の父、武田信虎(享年81)なども80代まで生きています。

さらに肥前熊本の戦国大名、龍造寺家兼のように、90代になってから挙兵、合戦をし、家を再興している事例もあるため、早雲が88歳で死んだというのもあながちありえない話ではないかもしれません。

ところで、早雲の盟友であった、今川氏親は、支援していた足利義稙が周防国の大内義興の支援を得て第12代将軍に復帰すると、早雲の死去する6年前の永正10年(1513年)に、正式に幕府と将軍家から現浜松を中心とする静岡西部の遠江(とおとうみ)守護に任じられ、遠江支配の大義名分を得ました。

ところが隣国の尾張守護の斯波義達は今川家に反抗的であり、このため斯波氏との間にしばしば戦闘が勃発し、さらに引馬城(現在の浜松市)の大河内貞綱が今川家に背き、斯波義達に加勢したため戦闘はさらに激しさを増しました。

しかし、氏親は出陣して引馬城を包囲して、水攻めによって引馬城を降伏させ、このとき貞綱は討ち死にしました。さらに斯波義達とも刃を交えた結果義達は敗走し、のちに出家して降伏。これにより、遠江は氏親によって完全に平定されました。

また、甲斐の武田信虎と争い、のちに甲駿同盟が成立するまで、たびたび甲斐への侵攻を行い、武田氏との対立を続けました。が、その一方では氏親は新たな領国となった遠江の支配を固めるために早雲の立案による検地を実施し、また現・静岡県静岡市葵区にあった安倍金山を開発して財力を増しました。

しかし、早雲の死から7年後の大永6年(1526年)、氏親もまた駿府の今川館で息を引き取りました。氏親の葬儀は今も葵区に残る増善寺で執行され、7,000人の僧侶が参加して盛大に執り行われたといいます。

氏親の奥さんは、公家出身の寿桂尼と言う人で、こうした都人との結婚によって京とのつながりが強まったことで、京の文化が駿府に取り入れられるようになりました。氏親自身も和歌と連歌を特に好んだといいます。

これまで記述してきたように、早雲は領国支配の強化を積極的に進め、関東地方に進出してここを動乱の渦に巻き込むことで、日本を戦国時代に突入させた大名であり、野心的かつ好戦的な人物と目されることも多いようです。

しかし、その一方では、のちに「早雲寺殿廿一箇条」という家法を定めるなどして一族を厳しく統制し、また領土の整備においても「分国法」という規律を作り、これはその後の江戸時代にまで残る法律の祖形となりました。

分国法とは、そもそも何もこうした領地に関する規定のなかった戦国時代において、戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法令です。

分国とは中世における一国単位の知行権、すなわち領主が行使した所領支配権を指す語であり、分国法はその支配のためのルールといえ、これにより、領国内を統治するために基本的な法令の基礎が形づくられました。この法律はその後各地の守護大名に真似され、戦国期を経て一国単位の領国化が進む中、日本各地において分国支配が形成されていきました。

各分国の大名は、領国内の武士・領民を規制するために分国法を定め、これが規定する主な事項には、領民支配、家臣統制、寺社支配、所領相論、軍役、などがあり、これらはいずれも江戸時代にまで残る基本的な国づくりの仕組みの祖となりました。

ちなみに、早雲の盟友だった今川氏親は、晩年は中風にかかって寝たきりになり、その妻の寿桂尼が政治を補佐していましたが、その死の2ヶ月前に遠江国の分国法である「今川仮名目録」を急いで制定しています。その制定が急がれたのは、嫡男氏輝がまだ成人していないため、家臣の争いを抑える目的もあったためともいわれています。

早雲も自らの所領で分国法を制定し、永正3年(1506年)に小田原周辺で行った検地はこの法によるものであり、さらにその後はこの分国法に基づいて在地領主に土地面積・年貢量を申告させています。早雲が行った検地は、戦国大名による検地としては最古の事例とされています。

なお、早雲は死の前年から伊勢氏の印判として、虎の印判状を用いるようになっており、これは後年の後北条氏においても継承されています。

印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を止める体制が整えられましたが、このしきたりもまた、分国法の一部であり、江戸時代まで受け継がれていったもののひとつです。

さて、早雲の死後、その志を継いだ嫡男の氏綱は、北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大し、以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになります。

そのことについても今日も引き続き書いて行こうかと思いましたが、さらにまた長くなりそうなので、ここいらでやめておきましょう。

明日は雨模様の天気が回復し、好天が戻ってきそうです。そろそろ伊豆の紅葉も深まりつつあります。みなさんも伊豆へお越しください。

完全無欠のマグロとウナギ

先月の末、関西の私立大学である近畿大学が、養殖魚専門料理店「近大卒の魚と紀州の恵み 近畿大学水産研究所 銀座店」を来たる12月2日にオープンするとの発表をしました。

場所は東京・銀座二丁目の銀座コリドー街というところで、晴海通りや昭和通りといった表通りには面していませんが、銀座の一等地であることには変わりありません。

なぜ大学が料理店を開店するかというと、実はこの店の売りは、同大学が開発した「近大マグロ」などの養殖魚であるためです。

近畿大学は、古くから農水産関係の学問分野に力を入れており、和歌山県白浜町にある同大学の近畿大学水産研究所は半世紀以上の歴史を持ち、ここで長年養殖魚の研究、育成を行ってきました。

この「近代マグロ」というのは、同研究所が世界で初めて「完全養殖」に成功したクロマグロです。

先の4月には、「近大卒の魚と紀州の恵み 近畿大学水産研究所 梅田店」を大阪・梅田のグランフロント大阪にオープンしたばかりであり、これはこの銀座店と同じコンセプトを持ち、大学という教育機関が消費者に直接養殖魚を提供する日本初の料理店でした。

同店は開店から半年が経過した10月現在も連日行列ができ、予約を取りづらい状況が続いているといいます。

2号店となる銀座店では、近畿大学水産研究所が育てた近大マグロ、マダイ、シマアジ、ブリ、カンパチ、ヒラメ、クエなどの養殖魚を中心とした魚料理を提供する予定だといい、またこのほかにも和歌山県産の食材、酒類が提供されます。

席数は57席あるそうで、ランチタイム直前の午前11時30分に店開きし、ディナーは午後5時~午後11時でラストオーダーは午後2時とのこと。

マグロを提供するということですが、完全養殖魚ということでおそらくはかなりリーズナブルな値段で食することができるのではないでしょうか。

すぐ近くには霞ヶ関や永田町、虎の門などがあり、ここに務める官公庁や一般企業に勤めるお客さんを中心としてこの銀座店もまた賑わいそうです。

さて、このマグロですが、寒いところで獲れる魚だと思っている人も多いでしょうが、実は暖かい海に住む外洋棲の魚です。回遊性であり、黒潮に乗って寒い北の海まで北上するため、寒い海の魚という印象が強いのだと思いますが、日本近海を始めとする世界各国の暖かい海で獲れ、各地で重要な食用魚として供されています。

なぜマグロというかというと、日本語の「マグロ」は目が大きく黒い魚であること、つまり「目黒」~まぐろに由来するという説が強いようです。このほかにも保存する事が困難とされた鮪は、常温に出しておくとすぐに黒くなってしまうため、まっくろ→まくろ→まぐろ、と言われるようになったと言う説もあります。

本来は、マグロといえば、マグロ属の中の1種であるクロマグロを指すものだと思っている人も多いようですが、実際には全長は60cmほどのものから3mもの大きさにまで達するものまで多様な種類があります。

「カジキマグロ」や「イソマグロ」といった魚もマグロだと思っている人が多いでしょうが、これらは生物学上は同じ種(マグロ属)ではありません。カジキマグロは、メカジキの俗称で、またイソマグロはイソマグロ属の魚です。

昔から言い習わされていた俗称の梶木鮪、磯鮪、などがそのまま引き継がれてそう称されるようになったもので、マグロの仲間ではなく、味もマグロとは少々異なります。

マグロ属(Thunnini)に類する魚は、英語表記では“Tuna”です。「マグロ」属といっていますが、これは正しくなく、本来は英語表記そのままに「ツナ」属としたほうが正しい表現です。

が、最初に邦訳した人が勘違いして、ツナの一種にすぎないこのマグロの名を冠してマグロ属と呼んでしまったようです。

従って、マグロは、本来は「ツナ属」に分類されるひとつの「ツナ」であり、ツナであるマグロ属にはマグロのほかにも、カツオ、ソウダガツオ、スマなどが含まれます。このあたり、ややこしいかぎりです。

また、マグロとカツオを混乱する人も多いでしょう。が、同じツナ(マグロ属)であるという点では、この二つは兄弟魚と呼んでも良いでしょう。ただ、我々が通常マグロ、と呼んでいるものにはカツオは含まれません。つまり、カツオはマグロではありません。

マグロに分類されるものは、全部で8種です。

クロマグロ(黒鮪)をはじめとし、タイセイヨウクロマグロ(大西洋黒鮪)、ミナミマグロ(南鮪)、メバチ(メバチマグロ/目鉢)、ビンナガ(ビンナガマグロ/鬢長)、キハダ(キハダマグロ/黄肌・黄鰭)、コシナガ(腰長)、タイセイヨウマグロ(大西洋鮪)がそれです。

その多くの体型は紡錘形で、体の横断面はほぼ楕円形、鱗は胸鰭周辺を除けばごく小さいかほとんど無く、高速遊泳に適した体型です。最大種のタイセイヨウクロマグロは全長4.5 m・体重680 kgを超え、その最大泳動速度は約90 km/h(50ノット)程度もあります。

これらすべてのマグロは、筋肉内の血管は動脈と静脈がくっついて体中に張り巡らされている、いわゆる「奇網」(きもう)という構造を持っています。これまでの研究では、これにより体内の熱が逃げるのを防ぎ、体温を海水温より高く保って運動能力の低下を抑えることがわかっています。

また、水中を最高で魚雷並みの時速90kmほどもの速度でなぜ泳ぐことができるか、についての研究も進められていますが、はっきりしたことはわかっておらず、ただ体の表面のやわらかな粘膜が水との抵抗を少なくしているのではないかということがいわれています。

上述のとおり本来は暖かい海の魚です。熱帯・温帯海域に広く分布しますが、種類によって分布域や生息水深が異なります。海中では口と鰓蓋を開けて遊泳し続け、ここを通り抜ける海水によって呼吸しています。従って、泳ぎを止めると窒息するため、たとえ睡眠時でも停まらないそうです。

最近はこのことが良く知られるようになり、マグロのように死んでいる、という表現はまり使われなくなり、あいつはマグロのように働く、とよく言いますよね。

その餌となるのは、表層・中層性の魚類、甲殻類、頭足類などであり肉食です。海洋の食物連鎖においてはクジラ、アザラシ、カジキ、サメなどと並ぶ高次の消費者であり、それゆえに相対的に個体数が少なく、また、生物濃縮によって汚染物質を蓄積しやすいという点が最近問題視されています。

食物連鎖の頂点にある生物には様々な物質が生物濃縮により蓄積する事は以前から知られており、海洋生物のトップであるクジラやマグロも例外ではありません。

マグロは小型の魚より汚染物質の濃度が高い事も同様に知られており、とくに問題視される汚染物質には、有機水銀(メチル水銀)、ダイオキシン類、放射性物質などがあります。このため、福島県沖を泳ぐマグロへの今後の放射性汚染が注目を浴びています。

マグロ属8種のうち、その代表選手と目されるのがクロマグロ(黒鮪)です。全長3m・体重400kgを超え、日本近海を含む太平洋の熱帯・温帯海域に広く分布することから、もっとも我々にもなじみが深いものです。

希少価値も高く最上等種とされ、高価格帯で取引されており、魚体の色と希少価値から「黒いダイヤ」とも呼ばれています。

キハダ(キハダマグロ/黄肌・黄鰭)は、マグロとしては少々小ぶりで、日本近海では全長1~1.5 mほどのものが多いようですが、インド洋産は全長3 mに達するものもいます。

世界的にみても最も漁獲量の多いマグロで、8種の中で最多です、缶詰のツナ缶の材料として用いられるのはたいていこれです。身はトロに当たる部分がなく、脂肪が少ないのが特徴です。

メバチ(メバチマグロ/目鉢)もまた、我々が口にすることが多く、世界的な漁獲量はキハダに次ぎます。日本での流通量は最多で、店頭に並ぶ機会も多いようです。

クロマグロ、キハダ、メバチに次いで我々が食卓で口にすることの多いマグロのひとつがミナミマグロ(南鮪)です。これは身の脂が豊富で、本マグロ以外で寿司ネタに好んで用いられます。

このほか、ビンナガ(ビンナガマグロ/鬢長)は、体長1 mとかなり小さいマグロです。「ビンナガ」と呼ばれる理油は、大きな胸鰭があるためで、これを鬢(もみあげ)に見立てたことから出た名前です。トンボの翅に見立ててトンボと呼ぶ地方もあるようです。

身は淡いピンク色でやや水っぽく、酸味があります。鶏肉に似ることから欧米での需要が高く、こちらもツナ缶として缶詰などの加工食品で多く流通します。上述のキハダで作ったツナ缶は白っぽいのに対して身がやや赤いのでその違いがすぐわかるでしょう。

生食で食べることも多く、すし屋では「ビントロ」もしくは「ビンチョウ」という名前で食されていることが多いようです。

このほか、コシナガ(腰長)という全長だいたい60cmぐらいの小型種もいます。こちらは日本近海では夏季に捕獲されますが、味がイマイチなので主に加工して用いられます。クロマグロの幼魚のことを「ヨコワ」といいますが、コシナガの食味はヨコワより劣るため、市場では「ヨコワもどき」「にせヨコワ」と呼称されます。

残る、タイセイヨウマグロ(大西洋鮪)。これも全長1 m程度の小型種です。大西洋西岸に分布しますが、遠い外洋のマグロであるため、我々が口にすることはこれまであまりないようです。

これらのマグロの日本での利用として最も多いのは、やはり寿司です。が、これ以外にも刺身、寿司種、焼き魚、ステーキ、缶詰など幅広く、日本人には最も人気のある魚と言って良いでしょう。

背中側と腹側では脂肪の含有量が異なり、部位によってご存知のとおり「赤身」「中トロ」「大トロ」と呼ばれます。目玉や頭肉、のほかえらの周りのカマ、尾の身、内臓などもおいしくいただくことができ、ほとんど捨てるところのない魚です

日本人は古くからマグロを食用とし、縄文時代の貝塚からマグロの骨が出土しています。古事記や万葉集でも「シビ(鮪)」という名で記述されており、「大魚(おふを)よし」は、「鮪」の枕詞です。「鮪突く海人(あま)よ、大魚(おふを)よし」、といった具合です。これは海女さんが、大きなマグロをモリで仕留めた、といった意味です。

江戸の世相を記した随筆「慶長見聞集」ではこれを「シビと呼ぷ声の死日と聞えて不吉なり」とするなど、その扱いはいいものとはいえませんでした。これはその昔、マグロの鮮度を保つ良い方法がなく、腐敗しやすかったことに由来します。

魚介類の鮮度を保つには、水槽で生かしたまま流通させる方法もありますが、かつてはマグロの大きさではそれは不可能でした。現在でも難しい技術です。

また干魚として乾燥させる方法もありますが、マグロの場合は食べるに困るほど身が固くなるのが難点です。カツオの場合は、乾燥させた上で熟成させ、鰹節として利用できますが、マグロはその大きさから、そういった目的では使われてきませんでした。

唯一の方法は塩漬にする事ですが、マグロの場合は塩漬けにすると風味がかなり落ちるため、江戸時代にはこうした加工マグロは下魚とされ、最下層の庶民の食べ物だったようです。

一方、江戸時代の中期ころからは、調味料として醤油が普及したことにより、マグロの身を醤油づけにするという新たな保存方法が生まれ、これはご存知、「ヅケ」と呼ばれるようになり、握り寿司のネタとして使われはじめました。

マグロは近代以降は冷蔵技術が進歩した事から、赤身の部分の生食が急速に普及しましたが、戦前まではどちらかといえば大衆魚であり、けっして高級魚ではありませんでした。

北大路魯山人は「マグロそのものが下手物であって、一流の食通を満足させるものではない」と評していたそうで、脂身の部分である「トロ」は特に腐敗しやすいことから猫もまたいで通る「猫またぎ」とも揶揄されるほどの不人気でした。その結果、その昔は、トロはもっぱら缶詰などの加工用に使われるだけだったようです。

冷凍保存技術の進歩と生活の洋風化に伴う味覚の濃厚化で、1960年代以降にトロは生食用としては最も珍重される部位になりました。ちなみに、マグロの品質が低下しない冷凍温度帯はマイナス30℃以下であり、実際の流通上ではマイナス50℃の超低温冷蔵庫に保管します。この超低温保存技術がトロの普及を後押したわけです。

なお、一度解凍したマグロを再凍結すると組織が破壊され、非常に質が劣化します。再解凍後にはドリップ(旨味成分等を多量に含んだ汁)が流れ出すなどして風味も落ちてしまうため、マグロの解凍の仕方はその風味を守る上で重要です。

マグロの一番良い解凍方法としては、冷蔵庫に入れたまま徐々に解凍するほうが自然解凍よりもドリップが出ませんが、最初から氷水につけてマイナス1~2度くらいの一定温度に保ったままゆっくり解凍するほうがよりドリップが出にくいそうです。以前見たNHKの放送でも同じことを言っていました。

1995年の統計では、世界のマグロ漁獲量191万tに対し、日本の消費量は71万tもあります。そのうち60万tを刺身・寿司等の生食で消費しています。加工品では「ツナ」もしくは「シーチキン」(商標名)などに代表さえるサラダオイル漬けの缶詰が多いようです。

しかし、日本の各県庁所在地での家計調査によると、一世帯当たりのマグロの購入量は年々減少しています。これはマグロそのものの資源量が減っていることと関係があります。

消費率はマグロ水揚げ日本一の静岡県および隣接する山梨県、関東地方が上位を占めます。一方で西日本の数値は軒並み低く、食文化の相違がみられます。

2012年1月6日、築地市場で青森県大間産のクロマグロ269キロが5649万円の史上最高値で落札されました。それ以前の史上最高値更新は、2001年に青森県大間産の202キロが2020万円、2011年の北海道戸井産342キロが3249万円でしたが、これを上回る額です。いずれにせよ、こうした高級マグロ一匹の値段は住宅並みです。

マグロの漁法としては、延縄(はえなわ)、一本釣り、曳縄(トローリング)、突きん棒、巻き網、定置網などがあります。近年は種苗個体を採捕して肥育した養殖(蓄養)ものも流通するようになっています。

日本国内の主なマグロの陸揚げ港としては、焼津漁港(静岡県)、三崎漁港(神奈川県)、勝浦漁港(和歌山県)、気仙沼漁港(宮城県)、塩釜漁港(宮城県)などがあります。

かつてマグロ漁船といえば重労働・高収入の代名詞でした。そのため大金を入手する必要がある場合には「マグロ漁船に乗せる」などという言い回しも用いられましたが、近年では輸入量の増加、養殖ものの流通等により、必ずしも高収入ではなくなってきています。

一方では、世界的な日本食・「sushi」ブームによってマグロの消費量が増大し、マグロの価格は高くなっています。日本も輸入マグロの割合が増え、価格の影響を受けやすくなっており、さらに原油価格高騰・漁船燃料高騰による出漁のコスト増、マグロ減少による漁場の遠距離化、出漁に対する成果の低下も重なり、価格高騰に拍車を掛けています。

マグロを取り扱う日本国内の各漁業協同組合・水産企業では漁船の燃費節約に迫られましたが、対応できず倒産する水産企業が相次ぎ、漁協の解散例すらも出ており、これもマグロ漁獲高減少・価格上昇につながってきています。

90年代後半から2000年代初めにかけては台湾漁船の大量漁獲によって、日本での水揚げが減少したため、日本は減少分を台湾から輸入して維持していましたが、海洋資源保護の立場から、今度は台湾のマグロ漁さえもその急拡大が批判されるようになりました。

このため台湾政府はマグロ漁の規制に乗り出し、マグロ漁船を公開解体するなどで海外にアピールしました。このため台湾での規制は進みましたが、日本へ入ってくるマグロはますます減少してしまいました。

それでもこれまでは、米国およびオセアニアにおいては、脂身であるトロは商品的価値・需要が低かったので、日本の商社はトロを比較的安価で購入することができました。

ところが、最近はさらに、中国都市部での日本食ブームによってマグロ需要が急増し、日本の漁獲減少の隙を突いて、中国漁船による活動が拡大し、競争が激化しています。

このように、マグロは相対的な個体数が少ないにもかかわらず、需要増加・価格高騰が拍車をかける形で世界中でマグロが乱獲されている状況です。絶滅が危惧される生物を記載したIUCNレッドリストには、マグロ8種のうち5種が記載されており、このため国際的な資源保護が叫ばれています。

過激な保護運動を行う環境団体には、クジラ並みにマグロ漁禁止を求める強硬派もおり、こういった国際的な動きに対して、日本は2001年から02年にかけて、水産業界を中心に不利な規制が多数決で押し通される恐れがあると「中西部太平洋マグロ類条約」の準備会合をボイコットしました。

が、結局2004年に日本抜きで発効され、翌年に日本も加盟することになりました。食糧農業機関(FAO)水産局長の林司宣(早大教授)は日本は世界中の海でマグロを取りまくっていながら、規制強化には後ろ向きだ、という悪いイメージを与えたと述べています。

その後、2010年3月、ドーハでのワシントン条約締結国会議において21世紀初頭の個体数が1970年代と比較して90%減少したタイセイヨウクロマグロの附属書Iへの掲載の是非について審議が行われましたが、その後の採決では大差で否決されました。

国際条約としては現在、全米熱帯まぐろ類委員会強化条約、中西部太平洋まぐろ類条約があり、これらの遵守はますます我々の食卓にあがるマグロの供給を逼迫させています。

こうした国際条約により、マグロの乱獲防止と資源保護のため漁獲量の2割減が決まっており、これによってさらに流通価格は高騰するといわれており、そのために近年では世界中でアカマンボウなどのマグロの代替品が増えています。

養殖

そこで、なんとかマグロを人工的に養殖できないかという努力が近年なされるようになってきました。

マグロは長距離を遊泳すること、成熟に時間が掛かること、小さな傷が死につながるほど皮膚が弱いことなどがあり、このことから現代では捕獲したマグロの稚魚や若魚を養殖する「蓄養」が中心に行われています。

マグロ価格高騰と天然物の漁獲量低下の追い風もあり、蓄養による養殖の出荷量は増加しています。低コスト化・安全性向上の他、トロの割合を多くし価値を高める研究も行われており、とくにクロマグロの蓄養は、幼魚が黒潮に乗って回遊してくる西日本各地で多く行われるようになりました。

養殖のマグロの出荷量は、1位の鹿児島県が2位の長崎県以下を大きく引き離しており、現在流通している養殖マグロはほぼこれらの地域の蓄養によるものです。

ただ、蓄養はマグロの稚魚の乱獲になるという批判も出はじめており、これは前述の親魚の乱獲問題にも連なる問題です。これはウナギでも同じであり、その稚魚の乱獲により、最近はめっきり口にできなくなりました。

こうした状況の中、卵から成魚まで育てる「完全養殖」の技術確立が急がれていましたが、
そんな中、2002年に近畿大学水産研究所が30年余かけて商業化に向けた研究を続けてきた結果が成果を生み、世界で初めてクロマグロの完全養殖に成功しました。

2004年には市場へと出荷が開始されましたが、これが冒頭の近大マグロのはじまりです。

近畿大学は当初、和歌山県串本町の大島実験場と奄美大島の奄美実験場を拠点に技術開発を進め、その結果、卵から稚魚を孵化させることに成功し、また育った稚魚の輸送技術も確立しました。

このため、2007年12月からは、孵化させた稚魚を親魚にし、これから採卵した卵からさらに稚魚を孵化させるという、完全養殖稚魚の生産を行う事業を開始しました。

これによって得られた養殖魚は、稚魚を天然から捕獲して養殖した蓄養マグロと異なり、養殖施設で卵から人工孵化させた完全養殖マグロを「生産」できることになり、これによりマグロ資源の減少を防ごうというわけです。

しかし、その技術開発には大きな壁が立ちはだかっていました。

マグロの稚魚は皮膚が弱く刺激に過敏であり、光等の僅かな刺激でも水槽の壁で衝突死したり、底部への沈降死をしてしまいます。さらには共食いもあり、研究当初は人工孵化した稚魚が大量死してしまい、研究が頓挫したこともありました。

しかし、研究を積み重ね対策を講じた結果、ついに2002年6月に多くの稚魚を成魚にすることに成功し、完全養殖が完成したのです。

さらに、当初クロマグロの稚魚生き餌しか食べませんでしたが、研究の結果、2008年にはクロマグロ用の人工配合飼料も開発され、これにより養殖産業としては更に幅のあるものに成長する可能性も出てきました。

このため、近畿大学は大学機関でありながら、関連会社として「アーマリン近大」という会社を立ち上げ、この会社を通じて、成魚を百貨店・飲食店等に販売しようと乗り出しました。

こうしてできたアーマリン近代は、和歌山県西牟婁郡に本社を置く、近畿大学のベンチャー企業です。近畿大学水産研究所元所長の熊井英水氏が、ちょうどこのころ法制化された新事業創出促進法に基づき、最低資本金規制特例による認可申請を行ったところ、和歌山県法務局で認められたため、近大が出資する形で企業化されました。

現在までのところ、その主な事業は養殖用種苗、加工品の販売であり、アーマリン近大によって販売されている成魚は無論、近畿大学水産研究所によって生み出された養殖魚です。

クロマグロだけでなく、マダイ、シマアジなどの20種以上の魚が卵から成魚まで一環した管理体制で育てられ、薬に頼らないストレスフリーな環境により育てられたこれらの魚は、安全かつ優良な養殖魚として着目されています。

社名のアーマリン近大とは、常に水産増養殖の分野で先頭を行く開拓者であるという決意を込め、アルファベットの最初の文字であるAと海を意味するマリン、そして近畿大学の略称である「近大」を組み合わせたものとなっています。Aはまた、あんぜん(安全)・あんしん(安心)のローマ字読みの頭文字でもあります。

冒頭でも述べたとおり、今年の4月には、大阪駅北側の梅田にある再開発地区である「うめきた」の中にある、グランフロント大阪の北館「ナレッジキャピタル」6階に、養殖魚専門の料理店「近大卒の魚と紀州の恵み 近畿大学水産研究所」が開店しました。

この出店にあたっては、近畿大学とアーマリン近大だけでなく、大手飲料メーカーであるサントリーグループと和歌山県も協力し、運営やディスプレイ・使う食材などの面において多くの助力が得られたといいます。

水産研究所が育てた「近大マグロ」などの養殖魚を中心とした魚料理だけではなく、和歌山県の協力を得て、他の和歌山県産の食材も提供されており、「和歌山ブランド」を前面に押し出す方針です。

一方、店舗開発、運営等については飲食ビジネスに精通したサントリーグループがパートナーとなっています。大学が研究の成果として自ら生産したものを、このように産官学が連携して専門料理店にて消費者に直接提供するケースは、無論、日本の大学としては初の試みとなります。

近大水産研究所では、2009年には既に約4万匹の稚魚を育成、内約3万匹を養殖業者へ出荷しています。この4万という数字は日本の海で漁獲されている幼魚の10分の1の量にあたります。

ただし、現在のところ、稚魚の生存率はまだ3~5パーセント程度であることから、将来的にはこれを10~20パーセント程度に向上させたいとしています。

同様の試みは、水産大手のマルハニチロでも開始しており、同社では2015年に約1万匹の完全養殖マグロの出荷を目指したい考えです。この近畿大学の成功に刺激され、公立大学である東京海洋大学でも、養殖魚の研究に取り組んでおり、同大では移植によってサバにマグロの精子を作らせることより、マグロを量産する方法の研究を進めているそうです。

近い将来、寿司やスーパーで売っているマグロやサバのほとんどは、天然のものから完全養殖魚に取って代わられる時代がすぐにやってくるに違いありません。

ところで、上でも少し述べましたが、資源の枯渇の状況はマグロだけでなく、日本人に大人気のウナギでも同じ状況です。

ウナギ資源は1970年代から減少を続けており、消費の99%以上を占める養殖ウナギに用いられるシラスウナギの日本国内での漁獲量はピーク時には200トンを超えていましたが2013年には5.2トンにまで落ち込んでいます。

しかも今年の2月にはニホンウナギはついに、環境省によってレッドリストの絶滅危惧種として選定されてしまいました。

このため、ウナギにおいても卵から育てる完全養殖の研究が加速しています。

ウナギに関しては、既に2002年に三重県の独立行政法人、水産総合研究センターが、仔魚をシラスウナギに変態させることに世界で初めて成功しています。

また2010年には、同センター(以下、水研センター)が人工孵化したウナギを親ウナギに成長させ、さらに次の世代の稚魚を誕生させるという完全養殖に世界で初めて成功させ、25万個余りの卵が生まれ、このうち75%が孵化しました。

さらに今年の4月上旬、水研センターは「実験室で生まれ成長したウナギのオスとメスから精子と卵を採取し、人工授精を行った受精卵から、2世代目となる仔魚(しぎょ)をふ化させることに成功したと、発表しました。

ウナギは古くから日本の食文化に浸透している魚です。ところが近年では、養殖用の稚魚であるシラスウナギの捕獲量が世界的に減少しており、ウナギ養殖に必要な量を供給できないという事態も起こってきています。

こうした状況から、人工的に稚魚を生産する技術の開発と確立は、不安定な天然資源に頼らずにウナギの養殖を実現する方法として、養殖関係者も長い間待ち望んでいたことでした。

水研センター養殖研究所が実際に卵から稚魚に育てることに成功したのは2002年でした。

しかし、これを親に育てるためには、ウナギの生育環境や生態のデータが必要であり、この当時はそれがまったくといっていいほどありませんでした。ウナギの完全養殖がこれまで困難なものと目されていた理由はここにあります。

その後、実験室生まれのウナギを親として次世代を誕生させるべく、養殖研究所と志布志(しぶし)栽培漁業センターで稚魚を継続して育成。ようやく餌として与えるべきものや成長させるための環境が解明されてきました。

こうして今年はじめには、孵化後2〜5年経過し親候補たちを全長45〜70cmにまで育てることができ、さらにはこの親候補の魚たちにホルモン剤を投与することで、人工的に成熟を促進させるところまでこぎつけました。成熟させる、というのはつまり、産卵が可能な状態にするということです。

こうして成熟したメスから受精卵25万粒が採取され、このうちから19万尾ものシラスウナギが生まれました。この6月現在、このうちの4000尾が順調に育ち、2cmほどにまでに成長しているそうで、その後の経過は報道されていませんが、おそらくは現在、これより更に大きくなっていることでしょう。

……と書けば、簡単に聞こえますが、この研究が成功にこぎつけるにあたっては試行錯誤によって膨大な時間を要したようです。

稚魚は生まれたときにはオス、メスの区別はありません。環境により性別が決定するのです。何もしないと人工ふ化でも天然でも、大半がオスになってしまいます。そのためホルモンを餌に混ぜ、メスを作り出す必要もありました。

また稚魚は一度に大量に誕生させられません。これを安定して育てるのは非常に難しいことです。天然稚魚は大量に捕獲して養殖場の池に放つと、それぞれが争って餌を食べます。ところが少数の稚魚だとお互いに牽制しあって餌を食べてくれないのです。

こうした様々な問題をクリアーしてようやく達成したウナギの完全養殖は、無論、世界的にも大きな評価を受けています。

こうした成功を受け、水研センターは、先述のマグロの完全養殖に成功した近畿大学と協力し、ウナギの養殖がさかんな静岡県の水産技術研究所の援助もうけながら、この3機関で構成する研究グループを結成しました。

そしてこのグループは、平成24年度より、農林水産省の諮問する技術会議の委託を受け、プロジェクト研究として「天然資源に依存しない持続的な養殖生産技術の開発」をスタートし、この中で「シラスウナギの安定生産技術の開発」に取り組むこととなりました。

新たなプロジェクト研究では、これまでの成果を基礎として、量産化に向けて重要なステップとなる大量採卵技術の開発や、人工飼料、飼育容器等の開発といった難易度の高い課題に重点的に取り組むといい、これらの成果をシラスウナギの安定的供給につなげたい考えです。

しかし、残された課題もまだ多いようです。今後は飼育に適したウナギ、しかも病気に強く成長が良いなどの特徴を持ったウナギの育種や、安定して稚魚を生産する技術の開発を進めるそうです。

今や我々が口にすることもできないほど高級魚になってしまったウナギ。完全養殖により、これもまたマグロと同じく安定して食卓に上る日が来るのも近いかもしれません。

海峡


西洋に対するのは東洋であり、その英語表記は、それぞれthe West、the Eastです。

この東洋を学術的に語るときには、「東方世界」を表すために「オリエント」ということばが使われますが、それでは、オリエントに対して、西洋世界を示す言葉はなんと言うかご存知でしょうか。

正解は、オクシデント(Occident)であり、またはオチデントとも呼ばれます。19世紀ごろ以降、東洋・西洋の概念が定着したことを受け、その後学術用語として使われるようになったオリエント(Orient)の対義語としてこのオチデント(Occident)ということばも使われるようになりました。

ただし、現代では、東洋・西洋を表すときには、the West、the Eastで済ますようになり、学術用語としても古風なオクシデントはあまり使われなくなりました。

一方のオリエントのほうはそのエキゾチックな響きのためか、文学的表現を中心としていまだに生き残っていますが、オクシデントのほうは現代用語としては既にその役割を終えているかんじです。普段あまり耳にしないのはそのためです。

オクシデントとは、元々ラテン語で「日の没する所」という意味であり、転じて西の方角を表すようになりました。一方、古代ローマではシリア・エジプトなどを「日が昇る方角」を意味するオリエンス(Oriens)と呼びました。

古代ではオクシデントとはローマを中心とした西欧世界そのものであり、これより東側すべてがオリエンスでした。このオリエンスという言葉は、さらに時代が下るにつれ変じてオリエントと呼ばれるようになり、オクシデントの対極になっていきました。

このオリエントとは、トルコから東のアジア全域を指す場合もあれば、イスラム社会である中東を除いた東南アジアから極東を漠然と指す場合もあります。

しかし、主にヨーロッパの人々の歴史観からみた西洋と東洋を分類する場合には、オリエントとはトルコを起点とし、その東側のロシアやバルカン地域までもがその範疇になります。これらの概念は近東、中東、極東という言葉にも表れており、これらの中には東洋の「東」という文字が含まれていることでもわかります。

そして、この東洋と西洋を分けるトルコの中にあって、厳密にこれを分けているのが、ボスポラス海峡です。西洋史においては、正式にはオリエントとはトルコのボスポラス海峡より東の地域ということになります。

ボスポラス海峡(Bosporus Strait)は、このトルコのヨーロッパ部分のオクシデントとアジア部分オリエントを隔てる海峡です。

ボスポラスとは古代ギリシャ語では「牝牛の渡渉」という意味です。ギリシャ神話の中では、不倫をしていたゼウスが妻ヘラを欺くため、その不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えますが、ヘラはそれを見破ります。そしてイオを襲わせるために、恐ろしいアブ(虻)を放ちました。

そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったことから、ここをボスポラス(牡牛の渡り場)と呼ぶようになりました。

トルコ語では「海峡の内」を意味するボアジチ(Boğaziçi)という名で呼ばれており、イスタンブール海峡という呼び方をされることも多いようです。

地図を見るとすぐにわかると思いますが、南北に細長く、北は黒海、南はマルマラ海で、マルマラ海とエーゲ海を繋ぐダーダネルス海峡とあわせて黒海と地中海を結ぶ海上交通の要衝をなしています。

長さは南北約30km、幅は最も広い地点で3700m、最も狭い地点でわずか800m程です。水深は36m~124m。両岸の全域がイスタンブール市の行政区内で、南側のマルマラ海への出口の西岸、金角湾との間の地は、かつてビュザンティオン、コンスタンティノポリスと呼ばれた古い地域で、イスタンブールの旧市街になります。

この海峡はイスタンブールを文字通り分断しているため、市民の足として、両岸の各所に定期船の船着場があるほか、1973年に建設された全長1074mの第一ボスポラス大橋(別名ボアジチ大橋)、1988年建設に建設された全長1090mのファーティフ・スルタン・メフメト橋(通称第二ボスポラス橋)の二つの自動車用橋が架けられています。

また、日本の大成建設グループなどにより建設が進められた、総延長13.56kmの鉄道用海底トンネルが通っており、このうち海峡下の長さは1387mもあります。このトンネル掘削計画は、マルマライ計画と呼ばれ、2004年5月に着工、2013年10月に開通しました。

ただし、海底トンネル沈設完了の公式セレモニーはこれ以前の2008年10月に、貫通記念セレモニーは2011年2月にそれぞれ執り行われています。

今年2013年8月4日には、ここを通る地下鉄の試運転が始まり、トルコ共和国建国から90周年に当たる2013年10月29日に開業にこぎつけました。その開業記念式典・開通式典には日本の安倍晋三内閣総理大臣も出席したことが、先月末のニュースでも大々的に報道されたので、ご存知の方も多いでしょう。

この全事業区間のうち、ボスポラス海峡下を通る13.6 kmの区間は、沈埋トンネルによって建設され、これは「ボスポラス海峡横断トンネル」と呼ばれています。これ以外の区間は既存設備を改良してリメイクされ、その延長は63 kmとなり、事業区間の東端のゲブゼと西端のハルカリ間の合計76.3 kmには高頻度で鉄道が運転される予定です。

この建設にあたっては、日本の大成建設と現地トルコのガマ重工業、ヌロール社の3社によるJVが組まれ、高度な技術を必要とする沈埋トンネル部分を主に大成建設が、近隣対策が必要な郊外部分を主にガマ重工業およびヌロール社が施工しました。

海峡区間は、11個の函を組み立てた全長1,387mの沈埋トンネルにより構成されています。沈埋トンネルとは、あらかじめ海底に溝を掘っておき、そこに鉄筋コンクリートで作ったケーソン(沈埋函)を沈めて土をかぶせるという、沈埋工法で作られたトンネルのことです。

地中を直接トンネルを掘りながら進む開削・シールド工法によるトンネルよりも水深(海底の地中深度)の浅い海底付近トンネルを設けることができるため、比較的短距離のトンネルを作ることができるというメリットがあります。

その工事手順は次のとおりです。

1.ケーソン製作 ケーソンを地上で構築する。
2.基礎工事 ケーソンを設置する部分に平らな穴を掘っておく(海中)。
3.曳航 両端をバルクヘッドという蓋で閉塞して浮上後、船で目的の位置まで牽引する。
4.埋設・埋め戻し アンカーワイヤーで位置を調整をしながら、所定の位置に設置する。
5.内部構築 内部の仕切り壁などを構築する。
6.完成 側部と上部を埋戻して完成。

ちなみに、私はかつて大学を卒業して間もないころに務めていた建設コンサルタント会社で、このケーソンを設計したことがあります。設計自体は難しくない、といってもそれなりの知識を必要としますが、設計よりもこれを浮かべて正確に沈めるのはかなり難しいだろうな~と考えながら設計をしていたのを覚えています。

その通り、その設置にあたってはかなり高い測量技術が必要であるとともに、ドックヤードでのケーソンの施工にあたっても高い精度が求められます。

ボスポラス海峡では、これらの函はもっとも深いところで海面下約60mの場所に水平に置かれました。正確には、もともとの海底の平均水深が55mで、ここから海底を5m掘り下げた位置です。

この海峡は、世界有数といわれる海流速を持ち、その速さは約2.5m/秒(9km/h)もあります。鳴門海峡における最大流速は20km/hにもなりますから、これには及びませんが、それでもかなり厳しい条件下での施工になります。

2004年5月に着工し、2008年8月には海中60mでの沈埋函接続が実施され、2010年2月にはこの沈埋工法による海底トンネルとアジア側のアイルルクチェシュメからシールド工法によって掘り進められていた陸地トンネルとの接続を成功させました。

2011年2月にはさらにヨーロッパ側のカズルチェシュメから掘られたトンネルとも接合され、こうしてトンネル全体が貫通しました。

このトンネルはすぐ近くの北アナトリア断層から18kmしか離れていないため、地震時の危険性を懸念する技術者や地震学者もおり、30年以内にマグニチュード7.0以上の地震に見舞われる可能性が最大77%になるという予測結果もあるようです。

このため、トンネルが建設された下の土壌が地震で液状化する可能性が考えられ、これを防止するため海底下24mの深さまで海水に強いセメントが筒状に注入されました。

また、トンネルの壁面は防水コンクリートと鋼鉄のシェルで形成され、それぞれが独立して水の浸透を防ぐしくみになっています。さらに万一地震が発生した場合に、トンネル構造体は高層建築物のように曲がるように造られており、壁が壊れた場合には、函の接続部にある水門が閉まり、水を隔離できる仕組みも導入されました。

いずれも日本の建設業界が世界に誇る最先端技術であり、こうした技術がなければボスポラス海峡トンネルは実現しなかったかもしれません。

このトンネル掘削計画は、マルマライ計画(Marmaray project)と呼ばれました。Marmarayの名称は計画区域のすぐ南にあるマルマラ海 (Marmara) と、トルコ語で鉄道を意味するrayを合成した混成語です。

このトンネル掘削の完成は、トルコ国民の長年の夢でした。

イスタンブールは人口1300万人を有し一大経済圏を形成し、またアジアとヨーロッパ結ぶという地理的な要因によって交通の要所として栄える、イスラム圏最大級の世界都市です。そのイスタンブールにおいて都市形成に大きな障害になってきたのが、ヨーロッパとのアジアとを分断する全長約30kmのボスポラス海峡でした。

上述のようにこの海峡には第一ボスポラス大橋、ファーティフ・スルタン・メフメト橋という2本の道路橋やフェリーなどの船舶があるものの、道路橋は常に渋滞に見舞われ、船はいつも満員になるなど、人口増加や経済発展に伴い深刻化するイスタンブールの交通事情のボルトネックとなっていました。

このため地下トンネルによって両岸を鉄道で結ぶ事で街の混雑緩和を図り、海峡で二分された街の一体化によって名実ともに“アジアとヨーロッパの結合点”として成長させることが長年求められてきており、トルコ国家を挙げての大事業がマルマライ計画でした。

計画自体はオスマン帝国時代の1860年に設計図が描かれて以降、何度も計画が立ち上がったものの、政治的あるいは技術的理由により頓挫した経緯を持っており、トルコ国内では“トルコ150年の夢”として国民の多くが高い関心を寄せていました。

全線開通後にここを通る鉄道の地下駅としては、ユスキュダル駅のほか、シルケジ駅、イェニカプ駅などが新たに建設され、ボスポラス海峡を隔てて東西左右に従来あった37駅は改築あるいは改装されます。

東西のイスタンブール市内では、海峡を通る地下鉄と周辺のライトレールが接続される予定だそうで、これに伴い市内の郊外線も改良され、これらによって海峡を通る輸送能力は7万5000人/時に増やされ、ゲブゼ~ハルカリ間は104分で結ばれる予定です。これまでフェリーで30分間かかっていた海峡間の移動は、このうちの4分間に短縮されます。

完成すると、イスタンブールでの公共交通の鉄道利用率が3.6%から27.7%にまで急上昇するといわれており、東京の60%、ニューヨークの31%に次いで世界第3位になるといわれています。

この海峡を通る地下鉄車両は、全長22mのステンレス車は5両編成または10両編成で組成され、現在トルコの車両製造メーカーなどのほか国外の会社によって製造中です。車両は3次に渡って製造され、最初の2011年には160両製造され、2014年にもすべてが完成する予定です。

しかし、マルマライ計画は、2年以上の遅れが発生しています。この遅れは海底トンネルのヨーロッパ側の終端予定地でのビザンティン帝国時代の遺跡の発掘が大いに関係しており、トンネルの建設中の2005年に、4世紀のコンスタンティノープルの港「ポルトゥス・テオドシアクス(テオドシウス港)」の遺跡が掘り当てられました。

さらに発掘により、アンフォラと呼ばれる陶器が発見されました。これは2つの持ち手と、胴体からすぼまって長く伸びる首を有する美しい壺で、古代ギリシア・ローマにおいて飲料や穀物を入れて、ブドウ、オリーブ・オイル、ワイン、植物油、オリーブ、穀物、魚、その他の必需品を運搬・保存するための主要な手段として用いられたものです。

このほかにも古器物や加工品、その他の陶器の欠片、貝殻、骨、馬の頭蓋骨のほか、袋の中に入った9つの人間の頭蓋骨さえも発見され、放射性炭素年代測定等によってこれらの器物は紀元前5000年ほど前のものであることなどもわかりました。これにより、古代のギリシア人やローマ人がこの時代からイスタンブールに定住していたことがわかりました。

現在のイスタンブールの前身は、コンスタンティノープルと呼ばれていました。東ローマ帝国の首都であった都市で、強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した町です。

ギリシャ正教会(東方正教会)の中心地ともなり、このため現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁(正教会で筆頭の格を有する総主教庁・教会)が置かれています。

キリスト教におけるその正式称号は「新ローマ・コンスタンディヌーポリの大主教、全地の総主教」であり、コンスタンティノープルの時代にこの町につけられた「新ローマ」の名称は、キリスト教信者の間では現在もなお使われています。

ちなみに、このコンスタンティノープルの守護聖人は聖母マリアです。それほどキリスト教においては重要な町ということです。

コンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、古代ギリシアの植民都市ビュザンティオンという場所に建設した都市でした。調べてみると、このビュザンティオンというのは、ボスポラス海峡の西側に広がる市街のやや北寄りの海岸近くにあった町で、イスタンブールの旧市街地にあたるようです。

この地は古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また金角湾と呼ばれる天然の良港を擁していました(現在も金角湾の名で親しまれている)。当時の都市名の「コンスタンティーノポリス」はこのころのローマ皇帝の名前にちなんでおり、「コンスタンティヌスの町」を意味します。

395年のローマ帝国東西分割後は、東ローマ帝国の首都となり、「新ローマ」「第2のローマ」という意識が定着していきました。正教会がこの町を新ローマと呼び始めたのもこのころのことです。

やがてこの町は、東ローマ帝国の隆盛と共に、30万~40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄し、「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれるまでに成長していきます。

現在もこのころに造られた立派な建造物が残っており、この当時は無論、ヨーロッパ屈指の大都市としてその偉容を誇りました。それゆえに、キリスト教の頂点とも目される正教会の首長であるコンスタンディヌーポリ総主教座が置かれたのであり、これによって正教会の中心ともなり、やがてはビザンティン文化の中心にもなりました。

ビザンティン文化というのは、世界史の時間に聞いたこともある人も多いと思います。

古代ギリシアや、古代ローマの文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えたこのコンスタンティノープル(コンスタンティーノポリス)を中心に発達した独自の文化です。

その後14世紀にはイタリアへ伝えられ、やがてここを中心として広まったルネサンスは正教会を信仰する諸国および西欧諸国の間に広まり、各国の文化芸術に多大な影響を与えました。

また、とくにその建築技術などは、その後のイスラム文化と相互に影響し合いました。

ギリシャ人が国民の多くを占め、キリスト教を国教とした東ローマ帝国においては、ヨーロッパの文化の二大基盤といわれる「ヘレニズムとヘブライズム」が時には対立をしながらも融合してこの文化を形成し、このことがその後のルネサンスなどのヨーロッパの文化形成に大きく寄与したのです。

(※注:ヘレニズムとは、古代オリエントとギリシアの文化が融合した「ギリシア風」の文化のこと、またヘブライズムとは、「ユダヤ人(ヘブライ人・ユダヤ教)風の文化性」のこと)

先述のとおり、このコンスタンティノープルは強固な城壁の守りでよく知られ、東ローマ帝国の長い歴史を通じて外敵からの攻撃をたびたび跳ね返してきました。

しかし1204年に第4回十字軍の攻撃を受けると衰退が加速していきました。十字軍とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことです。

この第4回目の十字軍は、1202年から1204年にかけて、フランスの諸侯とヴェネツィアなどの国が中心になって行われた遠征であり、結果的には、キリスト教国であった東ローマ帝国をも攻略し、コンスタンティノープルを陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍とも呼ばれています。

この十字軍は、東ローマ帝国を一旦滅亡させたために、当初の目的とは逆にこの地域のキリスト教国家の力を削ぐことになり、後にイスラム文化を持つオスマン帝国によって東ヨーロッパの大部分が支配されるようになってしまうきっかけを作りました。

やがて1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡すると、この街はオスマン帝国の首都となりました。ちなみに日本ではこれ以後、この町のことをトルコ語によるイスタンブールの名で呼ぶことが多いようです。ただし、公式にイスタンブールと改称されるのはトルコ革命後の1930年のことになります。

さらにこのオスマン帝国が滅亡し、オスマン帝国が所有していた、次回の冬季オリンピック開催地ソチを含む海岸地帯が、帝国の崩壊により、1829年にロシアに割譲されていったことなどは、3回ほど前のこのブログでも書きました。(ソチは何者?

19世紀になって衰退を示し始めたオスマン帝国の各地では、ナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立してゆき、帝国は第一次世界大戦の敗北により英仏伊、ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体されました。

コンスタンティノープルもまた、ギリシャやアルメニア人たちに侵略されそうになりましたが、これに対して旧帝国軍人などの旧勢力、進歩派の人たちは国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こし、その結果1919年5月にトルコ独立戦争が勃発。

その結果、1922年には初代トルコ共和国大統領となるムスタファ・ケマルを中心として、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取ることに成功。

トルコ革命後8年を経た1930年からは、コンスタンティノープルはイスタンブールと呼ばれるようになったわけです。

トルコはその後、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家となり、二次世界大戦後は、巨大勢力になりつつあったソ連に南接するこの国は、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、NATO、OECDに加盟するようになります。

現在のトルコは、イスラム国家とはいえません。しかし、イスラム人は圧倒的に多く、このためイスラムの復活を望む人々は多数います。が、彼等による国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化を邁進している国であり、半イスラム国家ともいえる国です。

その最終目標はEUへの加盟です。しかしその加盟には、クルド問題(独自の国家を持たない世界最大のイスラム民族集団)やキプロス問題(トルコが実効支配する北とギリシャ系住民が居住する南に分断)、アルメニア人虐殺問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが大きな障害となっています。

ところで、日本とトルコの関係については、かつてのオスマン帝国時代(1299年~1922年)に遡ることになります。

といっても、江戸時代以前には、直接的な関わりはありません。15世紀に入ってオスマン帝国の勢力が伸長すると、それまで陸路でアジアから香辛料を入手していたヨーロッパは、通商ルートを帝国に遮られることとなり、新たな通商ルートの開拓の必要性に迫られました。

このため、ヨーロッパ諸国の中でも、強力な艦隊を持っていたポルトガルやスペインは喜望峰廻りの海洋通商ルートを開拓し、アジアにも勢力を拡大していくこととなりました。

ということはすなわち、1543年の鉄砲伝来によってはじまる日本と欧米との接触は、オスマン帝国の勢力伸長と大きく関係があり、その間接的な影響を受けて起こった出来事であると言えるわけです。

実質的なトルコと日本の接触の最初の出来事は、これより更に300年以上も後のことです。

1887年(明治20年)、小松宮彰仁親王がヨーロッパ訪問の途中でイスタンブールに立ち寄り、これに応える形で1890年、オスマン帝国スルタン(イスラム世界における君主)であったアブデュル・ハミト2世の使節としてフリゲート艦「エルトゥールル号」が日本へ派遣されました。

使節は明治天皇へ親書などを手渡し帰国の途につきましたが、運悪く和歌山県沖で台風に巻き込まれ座礁沈没。このとき特使オスマン・パシャを含め500名以上の乗組員が亡くなりました。

しかし紀伊大島の住民が救援に駆けつけ69名を救出。さらには報せを聞いた明治天皇が直ちに医者と看護婦を派遣させ、介護に全力をあげました。その後、このときの生存者には日本全国から多くの義捐金・弔慰金が寄せられ、1891年、生存者は日本海軍の装甲コルベット「金剛」、「比叡」の2艦によりオスマン帝国まで丁重に送還されました。

その翌年の1892年には日本各地で講演を行い義捐金を集めた山田宗有がトルコに渡り、アブデュル・ハミト2世に謁見しています。この事件はトルコ国内で大きく報道され、日本人に対する友好的感情はさらに高まっていきました。

この山田宗有(そうゆう)という人は、もともとは沼田藩(現群馬県)の江戸家老の家の次男として生まれた人です。

その後、茶道の名家の宗徧流家元の山田家に養子入りしましたが、17歳のときに、家元が亡くなったあともその名を襲名せず、言論界に入って活躍するようになりました。このとき、名前も養子入り前の実名、寅次郎を名乗るようになります。

明治23年のこのオスマン帝国軍艦エルトゥールル号の遭難事件を知ると、寅次郎は民間に義捐金を集めて犠牲者の遺族に寄付することを思い立ち、親交のあった新聞社に働きかけて募金運動を起こし、日本中を演説会をして回って、2年をかけて5000円(現在の価値で1億円相当とされる)の寄付を集めました。

そして明治25年(1892年)、寅次郎は義捐金を携えてオスマン帝国の首都・イスタンブールに渡り、早速オスマン帝国外相を訪問し、義捐金を送り届けます。

これにより彼が遠い日本から民間人でありながら義捐金をもってやってきたことがイスタンブールの人々に知れわたりました。やがて、朝野から熱烈な歓迎を受けるようになったことから、皇帝・アブデュルハミト2世にも拝謁できることになりました。

アブデュルハミト2世は、寅次郎に仕官学校での日本語の教育や、東洋の美術品の整理を依頼したため、彼はイスタンブールに滞在するようになりました。そしていつしかトルコに愛着を覚えるようになり、そのままイスタンブールに留まって事業を起こすことを決意します。

30歳になったころから、イスタンブールに中村商店という店を開いて日本との間での貿易事業を始め、以後、日本とトルコの間を何度か行き来しながら、前後20年近くイスタンブールに滞在しました。

この間、一時帰国した時に大阪の紡績商の娘と結婚し、子供も設けましたが、妻子は大阪に置いたままで、日本に落ち着くことはほとんどなかったといいます。

彼がイスタンブールに滞在していた当時は、日本とオスマン帝国の間では正式の国交がもたれていませんでした。大日本帝国側が欧米列強と同等の待遇の条約を望み、治外法権を認めるよう要求したのに対し、このころヨーロッパにおける勢力が弱小化しつつあったオスマン帝国はこれを認めると日本の権益が大きくなりすぎると警戒したためです。

このため、彼はこの町で唯一人の日本人長期滞在者でした。彼はトルコ人から呼びやすいムスリム名をつけられて親しまれ、これによって事業も順調に推移していきました。

このころイスタンブールを訪問する日本人たちは官民、公用私用を問わずみな中村商店を訪問し、寅次郎に様々な便宜をはかってもらっていたといいます。また、日土両国の政府関係者と繋がりを持ってトルコにおける日本の便益をはかったので、この時期の寅次郎は、事実上の「大使」であったともいわれています。

彼のイスタンブール滞在中に起こった日露戦争では、ロシア黒海艦隊所属の艦艇3隻が商船に偽装しボスポラス海峡を通過したとの情報がイスタンブールから在ウィーン日本大使館を経て日本に送られ、これは重要情報として高い評価を受けました。晩年の寅次郎が語ったところによれば、この監視と打電を行ったのは寅次郎自身であったといいます。

その後はイスタンブールに大正3年(1914年)まで滞在しましが、第一次世界大戦が勃発するとドイツら同盟国側に引き入れられつつあったオスマン帝国の対外情勢は緊迫したため、寅次郎はイスタンブールを最終的に退去、帰国しました。

帰国後、昭和2年(1927年)には吹田製紙(現・三島製紙吹田工場)を創業しました。寅次郎はその後合併して昭和11年(1936年)に三島製紙と名前を変えるこの会社の社長、会長を歴任するようになりましたが、トルコとの親善交易にも関心に持ちつづけました。

昭和6年(1931年)には17年ぶりにトルコを訪問し、イスタンブールに滞在して現地の財界から大歓迎を受け、このとき独立戦争を経てトルコ共和国の初代大統領になっていたムスタファ・ケマル大統領にアンカラに招かれて面会しました。

このとき、ケマルは士官学校で宗有が日本語を教えていた時、自分もその中のひとりとして日本語を教わったという思い出を語り、寅次郎に対して大変な友誼を示したといいます。

昭和23年(1948年)、宗有は三島製紙の会長を辞任して実業界から離れ、以後は茶道に専念、90歳で没しました。

ちなみに、ですが、1904年から始まった日露戦争では、この当時まだオスマン帝国であったトルコ国民は、この戦争に大きな関心を寄せました。これは1853年~1856年に勃発したクリミア戦争や、1877年~1878年の露土戦争などによって、オスマン帝国(トルコ)がしばしばロシアからの圧力を受けていたことによるものです。

この当時、両国にとって南下政策を推し進めるロシアは共通の敵であり、ロシア黒海艦隊に対する封鎖など、日本に協力的な政策を行うとともに、上述のようにロシアの情報を日本へ送ろうとしていた山田宗有を支援しました。

1905年日本が日本海海戦でロシアバルチック艦隊に対し決定的な勝利をおさめると、オスマン帝国国内では自国の勝利のように喜ばれたといいます。

しかし、ロシアに対抗する必要のあったオスマン帝国は、第一次世界大戦には同盟国側として参戦、このとき連合国側として参戦した日本とは交戦国同士となりました。山田宗有がイスタンブールを離れ、帰国した理由はこれによります。

敗れたオスマン帝国は1920年セーヴル条約によって広範な領土を失い、さらなる列強による国土分割・植民地化の危機にありましたが、独立戦争で勝利を勝ち取り、現在のトルコ共和国が成立。1923年に日本を含む8か国が参加したローザンヌ条約で現在の国境が確定しました。

大正13年(1924年)には、ようやく日本との国交が樹立されました。その後トルコでは近代化政策が進められましたが、民族資本の育成や国立銀行の設立、法制面の整備などの諸改革は、日本の明治維新を手本にしたものであったといいます。

1930年、日土通商航海条約が結ばれ両国の関係はより強固になりましたが、その後勃発した第二次世界大戦でははじめ、トルコは枢軸国側に参加することはありませんでした。戦時中もトルコは中立を宣言していましたが、やがてイギリスをはじめとした連合国の圧力により、1945年日本に宣戦布告しています。

しかし国内世論は宣戦布告に反対であったといい、実際の戦闘においてもトルコは日本に対しての軍事行動は一切行わなかったそうです。

やがて二次大戦が終了し、戦中に破棄された両国の国交はサンフランシスコ平和条約によって回復しましたが、このときもトルコは日本に対して賠償金その他の請求を一切行いませんでした。

戦後は経済大国へと発展した日本によるトルコへの政府開発援助での支援が積極的に行われるようになり、特にイスタンブール市内のインフラの整備などに日本の多額の資金と技術が投入されました。

その後もトルコと日本の友好関係はさらに続いていきます。

1985年3月、イラン・イラク戦争が激しくなり、イランに取り残された日本人215名は国外脱出をしないと命の危険がある状況になりました。ところが、日本は彼らを脱出させる飛行機の準備ができませんでした。

あわや全員、イラクが空爆を宣言したテヘランに取り残されると思われた寸前、トルコ航空が日本人の救出にかけつけ、攻撃開始寸前にどうにか脱出することができました。

さらには1990年、湾岸戦争直前、アメリカその他の多国籍軍にイラクを攻撃させないため、サダム・フセインに日本人や他の外国人が人質にとられるという事件がありました。この際、どうにか助け出された日本人人質を国外に連れ出してくれたのも、トルコ航空です。

その後、1999年のトルコ大地震の際には、日本からは国際緊急援助隊として消防(国際消防救助隊)と海保の隊員により編成された救助チームが生存者を救出しました。このときは合わせて緊急円借款供与、緊急物資・無償援助、仮設住宅供与などが行われました。

これに対して、2011年の東日本大震災では、トルコは最大限の支援を表明し、外務省内に状況把握を目的とした特別チームを設置、トルコ赤新月社は緊急救助隊3チームの派遣。支援・救助隊の33名が送られてきました。

また、トルコ政府は震災のあった翌月の4月、飲料水約18.5トンを宮城県に、豆およびツナの缶詰約68,800個を福島県に、毛布約5000枚を東京都世田谷区他の被災者受入れ3区に支援物資として提供してくれました。

ちなみに、東日本大震災にトルコが派遣してくれた支援・救助隊33名は、各国の救援隊のうちもっとも長く日本に残って支援活動に協力してくれたといいます。

さらには、トルコの災害救助グループ「GEA」が来日しトルコの子供たちが製作した21500枚のカードと、2300点の絵画、2500個の玩具、日本の子供たちのため作った「友情の架け橋」というタイトルのビデオクリップが届けられました。

世界広しといえども、これだけの友好関係を示してくれる国があるでしょうか。もっともかつての敵国でありながら今や同盟国であるアメリカもまた日本には好意的ですが、その親意の裏には何等かの含みがありそうなかんじがします。が、トルコからの援助にはストレートな温みしか感じられません。

ちなみに、私のハワイ大学留学時代に、指導教官のひとりにトルコ人の先生がいました。コンピュータによるシミュレーション技術を教えていた先生で、あるとき奨学金を出すから自分の研究室へ来ないかと誘われました。

私としても非常に興味があったのですが、この時すでに別のポーランド人の先生からのオファーを受けたあとだっために、丁重にお断りしました。が、その後も卒業まで何かと親身になって接してくれたこの先生のことは今も忘れていません。

今思えば、奨学金のオファーもトルコ人の日本びいきのせいだったのかな~とも思い、お断りして申し訳なかったという気持ちになってきます。

さて、トルコ政府は、現在さらに原発建設計画の推進を決めており、黒海沿岸では原発輸出に力を入れる日本と協力文書を締結しており、東日本大震災による福島第一原発の事故後も「原子力発電所建設計画は継続する」と述べ、原発導入を見直す考えはないとの意向を示しています。

先月の29日、安倍首相は、トルコのエルドアン首相とイスタンブールで会談後、トルコの黒海沿岸シノップに原子力発電所4基を建設する計画をめぐり、三菱重工業などの企業連合とトルコ政府が合意書に調印した旨を発表。安倍首相による原発輸出の「トップセールス」が実ったことを明らかにしました。

日本の原発輸出は東京電力福島第一原発事故以降初めてで、安倍首相は会談後の共同記者会見で「原発事故の教訓を世界で共有することにより、世界の原子力安全の向上を図っていくことは我が国の責務だ」と強調しています。

が、本当に大丈夫なの?と原発反対派の私はついつい思ってしまいます。

この原発が将来、トルコの人達の仇にならないよう、それによって両国間に長い年月をかけて培ってきた友情が失われないよう、彼らの期待を裏切らないよう、くれぐれも慎重に事を運んで行って欲しいと思います。

盗聴

ここのところ、ドイツのメルケル首相の携帯電話がアメリカの情報機関に盗聴されていたというニュースが流れ、世間を騒がせています。

オバマ米大統領は先月の23日の電話会談でメルケル氏に「自分は知らなかった」と釈明したとされていますが、本当に知らなかったのかぁ?ということでかなりバッシングされているようです。

ドイツ誌のシュピーゲルによると、米国家安全保障局(NSA)と米中央情報局(CIA)が在ベルリンの米大使館を拠点にする「特別収集部局」で盗聴を実施していたそうで、メルケル氏の携帯は02年から対象のリストに載せられていたといい、盗聴は今年6月のオバマ氏の訪独直前まで続いていたといわれています。

ただ、なぜアメリカはこれほどまでに大胆な盗聴をおこなってきたか、どうやって盗聴していたのかなど詳しいことについては、必ずしも明らかになっていません。

が、最近元気のないヨーロッパ諸国の中において、ドイツは経済的にトップであり、アメリカの経済を脅かす相手になってきていることとの関連が取沙汰されています。

アメリカが高い失業率や二番底を迎える危機感に怯えている一方で、ドイツはベルリンの壁崩壊以来、最速の勢いで経済発展を遂げています。そしてこのドイツの発展の裏側には、「中国」との関わりがあるのではないかという憶測もあるようです。

アメリカでは経済的に大きな成長を続けてきた中国に警戒感を感じているようですが、中国は輸出国として最も重要な国のひとつであり、また経済成長を続けるドイツにとってもまた中国は大切な「お客様」です。

ドイツは中国に輸出を続けることによって莫大な利益を得ており、昨年、ドイツ製重機の最大の海外市場はアメリカから中国に移動したことは有名です。また、多くのドイツの中小製造業も中国に助けられているといいます。

このため、中国とドイツの間には良好な国際関係が築きはじめられており、その一方で、アメリカはドイツの台頭により、従来中国から得ていたものをドイツに奪われているという側面があります。

アメリカは現在でもなんとか対中輸出で世界1位を保っていますが、ドイツは一部の分野での中国との貿易額ではこのアメリカを凌駕し始めています。

昨年のドイツ・中国間の貿易総額は1150億ドルを突破しましたが、今年の2月には10億ドルという巨額の貿易黒字を発生させており、これは対中輸出量が過去最大となったことに起因しています。

一方ではアメリカと中国との貿易総額はここ数年4000億ドル程度で頭打ちになっており、伸び悩んでいる状況です。アメリカは、中国という大きな市場をドイツに奪われつつあり、このためアメリカは中国寄りになっているドイツから目が離せない、というのが現在の状況です。

従って、今回の盗聴事件もこうした米独中の相関関係を背景として発生したのではないか、ということが言われているようです。何ごとにつけても自国の利益だけを優先したがるアメリカのやりそうなことです。

それにしても、今回の話題の中心になっているNSAとはどんな組織なのかというと、これはアメリカ国防総省に所属する諜報機関です。

アメリカの諜報機関といえば、中央情報局(CIA) がよく知られていますが、こちらが主にヒューミント (Humint:Human Intelligence)と呼ばれるスパイなど人間を用いた諜報活動を展開するのに対して、NSAはシギント(Sigint:Signal Intelligence)と呼ばれる通信、電磁波、信号などを媒介とした情報収集活動や分析などをおこなっています。

他にシギントをおこなう機関として、イギリスの政府通信本部(GCHQ)やフランスの軍事偵察局(DRM)、日本の防衛省情報本部(DIH)などが知られていますが、その中でもNSAはアメリカ中央保安部(CSS)とともに世界各地で大規模な作戦を展開する最も強大な機関だと考えられています。

彼らは、自らのウェブサイトで「国外の通信、レーダー、およびその他の電子システムなど、様々なソースから」データを収集していると述べているように、トルーマン大統領の命令によって1952年に設立されて以来、合法、そして時には違法的な手段を通じて、数々の諜報活動を行ってきました。

2013年時点で40000人の職員を抱えており、108億ドルの予算を抱えており、これはアメリカの軍事予算のだいたい1.5%前後ともなり、けっして少ない比率ではありません。

大統領令に記載されたNSAの使命は、国内の活動に関する情報の取得ではなく、「外国の諜報や防諜」に関する情報を集めることです。しかし、彼らはアメリカ国内でもかなり大っぴらに傍聴活動をしており、過去にもしばしば問題になってきていました。

にもかかわらず、アメリカがNSAの存続を支持し、その役割は拡大し続けてきた背景には、その設立直後の第二次大戦などで、自国に大きな恩恵をもたらしたことがあげられます。

彼等はその傍聴活動によって、北大西洋におけるドイツのUボートの脅威を打ち破った実績があり、また、太平洋におけるミッドウェー海戦でも日本語の暗号解読によって日本の連合艦隊を破ることに貢献しています。

第二次世界大戦が終わったあとにやってきた冷戦時代では、今度はソ連を相手に傍聴活動を行っており、それぞれの時代状況は確かにNSAという諜報機関を必要としてきました。しかし、そうした時代が終わってもなお、アメリカはNSAの存在を認め続け、それどころかより一層重視しています。

とはいえ、NSAは1960年代に行っていた「プロジェクト・ミナレット」と呼ばれる計画では国民から大バッシングを受けました(ミナレットとはモスクの尖塔のこと)。

これは、ベトナム戦争に反対したマーティン・ルーサー・キングなど主要な公民権運動の指導者や著名な米国のジャーナリスト、スポーツ選手などに防諜活動を行ったというものであり、さらには上院議員などにもNSAは盗聴をしかけたというものです。

民主党のリンドン・ジョンソン大統領が1967年防共の一環として「ミナレット」を実行に移し、6年後に共和党のリチャード・ニクソンがウォーターゲート事件で失脚するまで継続していましたが、その途中でその存在が暴露され、大きな批判を受けました。が、誰が盗聴の標的だったのかについては公表されていませんでした。

ところが、今年の9月になってジョージ・ワシントン大学の研究グループが機密解除文書を情報公開制度で入手し、その内容を公表しためにそれらが誰であったかが判明しました。

約1600名がミナレットの対象にされており、この中には上述のキング牧師のほか、黒人公民権運動活動家のマルコムXなども入っています。キング牧師はマルコムXに対して、白人社会との和解・統合を勧めていた立場でしたが、それでもその影響力の大きさからNSAからの盗聴を免れることはできなかったようです。

また、世界王者になってからイスラムに改宗してチャンピオンベルトを奪われたモハメド・アリもまた、「アッラーの名の下でのみ戦う」と発言して徴兵忌避したために、盗聴対象となりました。

他にも、民主党のフランク・チャーチ上院議員や共和党の戦争支持派ハワード・ベイカー上院議員、「ベトコンの逃亡兵に恩賞をつけて戦わせた方がずっと安上がり」と書いただけのワシントン・ポストのアート・ブッフバルト記者がいました。

こうした防諜活動が発覚したことによってNSAは厳しく批判を受けることになったため、その力を制限されるようになりました。また、1974年にウォーターゲート事件によってリチャード•ニクソン大統領が辞任した後にも、後ろ盾を失い、FBIやCIAとともにNSAはさらなる批判にされるようになっていきました。

しかしこのように、NSAの諜報活動に対して度々疑惑が持ち上がっても、彼らの活動をやめさせようとする動きはありませんでした。むしろ、2001年の同時多発テロを契機として、2008年の外国情報活動監視法(FISA)改正案などに見られるように、NSAの権限はより強まることとなっていきます。

それにしても、アメリカ国民の間でも、NSAが極秘のうちにデータ収集をおこなっていることに対する見解は分かれています。2013年6月の「ラスムッセン・レポート」による調査では、国民の59%がこれを承認しないと答えていますが、驚くべきことに、一方でその49%はそれに賛成しているか、決めかねているという態度だったといいます。

もし、アメリカ人の多くが、自分たちの生活が何らかの脅威から守られるならば多少の監視は仕方ないと考えているならば、これは結構危険な兆候です。

プロジェクト・ミナレットやウォーターゲート事件は、政府による監視行為が暴走する危険性についてアメリカ人たちに強い警告を発したわけですが、いまやNSAは彼等の情報操作の技術力を大幅に向上させ、これによってこうした警告を過去の記憶へと忘却させることにさえ成功させつつあるのかもしれないからです。

さて、ところで、ですが、この盗聴とはそもそもどういう技術によって行われているものなのでしょうか。

盗聴の定義は、いうまでもなく、会話や通信などを、当人らに知られないように聴取・録音する行為です。聴取した音声から様々な情報を収集し、その情報は関係者等の動向を探る目的で用いられます。

その昔は、直接家屋に侵入、屋内の様子を直接盗み聞くといった原始的な方法が取られていましたが、その後の技術の発展によって、無線機器が小型化・高性能化され、これに伴って、無線盗聴が一般的となっていきました。

最近は、窓ガラスなど物体表面の振動をレーザー光線で計測して、その振幅を変調・音声として出力させる技術が実用化されており、こうした盗聴器は、通信販売や専門店等の店頭で販売されています。

盗聴の目的は様々でしょうが、家庭内の不義調査から企業内の動向調査まで多岐に及び、これに加えて私的な趣味や愛憎関係や怨恨、あるいはストーカー目的でこれらの機器を購入して使用するケースも増えており、一種の社会問題にまで発展しそうな勢いです。

また、世の中には盗聴マニアと呼ばれる輩もいるようで、その多くは、一般無線からの垂れ流しを傍受するのみですが、一部には一般家屋やホテルに侵入して盗聴機器を設置してまで行為に及ぶケースもあるようです。

これに対して盗聴器の捜索、除去を行う専門業者も実在するようで、いわゆる探偵業を自称する人達の多くがこうした盗聴器除去の作業も引き受けてくれるようです。

ソ連時代、在モスクワの外国公館全てに盗聴器が仕掛けられていたというのは有名な話であり、こうした盗聴は単に個人的なプライバシー侵害に終わらず、国家規模の諜報合戦においては国家間の戦争にも到るような重要問題にまで発展する可能性を秘めています。冒頭で述べたメルケル事件もまたその象徴といえるような出来事です。

しかし、その反面、事件究明におけるこれら盗聴では、組織・団体に対する内偵手法として用いられ、疑獄の真相が解明されるなど良い面もあります。ただ、こうした手法によって得た捜査情報が果たして合法といえるかどうかといえば、かなりグレーであり、多くの場合には盗聴によって得た情報であることすら明かされないことも多いようです。

一般的な盗聴器

一般的な盗聴器の構造はワイヤレスマイクと何ら変わらないものです。電話の盗聴の場合、電話用のコネクタ内に仕込まれることが多いようですが、戸外の電話架線より盗聴するケースも見られ、架線保護用に設けられる電話線のヒューズボックス内に、純正の部品に偽装した盗聴器が仕掛けられることもあります。

また、部屋の物音や声を集音する場合は、電源コンセントやACアダプタ・三又プラグなどに仕込まれ、またはそれに見せ掛けた製品まで出回っているようです。いずれも電気を設置場所から得ることができるために、半永久的に発信を続けることが可能です。

このほか、音を感知しないと電波を発信しないタイプもあり、これは常時発信タイプよりも電池寿命が長くできます。また普段は電波を発していないので、発信元の探知も難しいというメリットがあります。

隣の部屋から発せられる声や物音を盗聴する場合はコンクリートマイクが用いられます。これは、壁等の物体で遮られた向こう側から伝わってくる、かすかな音声の振動を増幅し聴き取ることを可能としたもので、これをICレコーダーなどに接続して録音します。

更に高度な盗聴器もいろいろあるようで、これらはそれ専用の技術者が設計・開発から製作までを行っており、さらなる小型軽量・低消費電力化が進んでいるといいます。

しかし、市販されている無線式盗聴器は、一般的には「技術基準適合証明」を受けていないものがほとんどです。違法行為を目的に開発された装置に行政が証明を与えるわけはありませんから、一般的に出回っているものを使用して電波を発した場合、電波法違反で処罰を受ける可能性があります。

ただし無線局免許も技術基準適合証明も要しない「微弱無線局」だと言い張れば、この規制を逃れることができます。このため盗聴目的であっても直ちにお縄になるとはいえず、このあたりが盗聴目的のいかがわしい行為の取締りが進まない要因のようです。

また、上でも書きましたが、レーザー光を窓などに当て、音声による振動を光センサーで検知する機械も多く販売されており、これはかなり遠距離からの盗聴も可能です。隣のビルからレーザーを照射すれば、相手に気づかれにくくかつ発見もされにくいのが特徴です。

携帯電話の蓋を空け、中に超小型の集音マイクをとりつけて盗聴するというやり方もあります。その携帯電話の発信回路そのものに細工をして盗聴を可能にしたものもあり、こうしたものは専門の盗聴器発見業者でも見つけにくいそうです。

では、こうした盗聴器を自ら発見し、除去するにはどうしたらいいのでしょうか。

小型の無線盗聴器の場合には、盗聴器の存在が発見しにくいケースも多いものですが、この場合には、「広帯域受信機」というもので盗聴電波を確認し、電波の発信源のおおよその位置や方向を特定し発見する方法が取られているようです。

また、電話線に仕掛けられたタイプの物ではノイズが入るなど、電話の通話品質に影響が出る場合もあり、不審に思ったら、専門家に依頼するのが一番です。FMなどの帯域を利用しているものも多いので、ラジオ放送へ雑音が含まれる場合には、室内のどこかに盗聴器があることを疑ってみてください。

こうしたFM電波を使う市販の盗聴器は、おおむね使用されている周波数が決まっているため、その周波数にのみ反応する比較的安価な電波受信機も市販されているようです。これを購入すれば、機器の反応の強弱で盗聴器の位置を特定、発見する事ができます。

無線・電波・電磁波の傍受

一般的な盗聴は、上に述べてきたように、何等かの器械を設置して盗聴を行いますが、こうした単独の装置を使わず、単に「傍受する」ことも盗聴の技術のひとつです。

たとえば警察無線、消防無線、航空交通管制、タクシー無線、鉄道無線などの業務無線を盗み聞いたり、身近なところでは携帯電話やコードレス電話などがあり、これらの無線通信は暗号化されていないものであれば、かなり簡単に傍受できます。

日本の電波法では、単にこれらの無線通信を傍受することを直接は禁止していません。このため、日本では誰でも合法的にすべての無線通信を傍受することができます。

ただし、特定の相手方に対して行われる通信の傍受、あるいは通信の当事者以外が暗号化した無線通信を傍受して解明し、その内容を自己または第三者の利益のために利用することは電波法で禁止されており、こうした行為のことを窃用(せつよう)といいます。

しかし、電波法に違反するといっても、その行為自体を見つけだすことは容易ではなく、たとえ窃用している現場に警察が踏み込んだとしても、ラジオを聞いていたといえば、何ら罪に問われることはありません。

電波の盗用にはこのほかは、洩電磁波を拾う、という方法もあります。PCや周辺機器のモニター、キーボードの接続ケーブル、ネットワークケーブル、USBコネクタなどからは、常に微弱な電磁波が発射されており、これを微弱信号として入手し、分析して含まれている情報が入手することが可能です。

隣接する建物や車などに指向性のある特殊なアンテナを向ければ、壁や窓があってもこれを素通りして、目的のパソコンなどの電子機器などの微弱信号をキャッチできるといわれており、実用的には数十メートル離れた場所からこのような信号を傍受できるそうです。

この場合、同じ場所に複数のパソコンがある場合がありますが、これらの機器間の同期信号のずれを利用し、特定の情報だけを選択的に傍受することさえ可能だそうです。

また一般にはあまり知られていいないことですが、携帯電話などの無線中継用のパラボラアンテナからも微弱な電磁波が漏洩することがあり、盗聴を行いたい相手の携帯電話での会話をこうした公共アンテナから取得するといった方法があるそうです。

ただし、この盗聴を行うためには、同じ形状のパラボラアンテナを入手し、これを電波暗室と呼ばれる、外部からの電磁波の影響を受けないように電気的に隔離された実験設備中に入れ、このアンテナの電磁波放射パターンを測定することが必要です。

そんなことは普通の人にはできませんが、前述のNSAのような大規模な諜報機関ならできそうです。

実際、アメリカ軍は、こうした漏洩電磁波の傍受技術の確立をめざしているそうで、と同時に自軍の情報漏洩対策も検討しており、こうした一連の技術をテンペスト(TEMPEST; Transient Eletromagnetic Pulse Surveillance Technology)と呼んでいます。具体的には、パラボラアンテナから発せられる電波による信号伝達方式自体に秘匿性の高いものを用いるといった手法などが検討されているといいます。

国家レベルで行われるような大規模な盗聴としては、このほか電話回線や光ケーブルといった通信システムへの盗聴があり、こうしたしくみはそうそう簡単にはみつけられません。

一般的に「盗聴」というと、特定個所に設置された「盗聴器」ばかりが話題となりますが、こうした盗聴では、通信というサービスを提供しているシステム全体が盗聴の対象となりうるため、その盗聴元の発見はかなり大がかりになります。

例えば電話局の交換機には「回線モニタ」という経路が付加されており、これは本来は通話品質をチェックするためのものですが、これを傍聴することは技術的には可能であり、これにより証拠を残さずに盗聴を行うことができます。

しかし、電話交換機は電話回線局の構内にあって警備されており、こういった盗聴行為を行うためには、内部関係者を引き込む必要があります。

日本では、戦前の二・二六事件の前後に、事件関係者の陸軍皇道派に対して、東京憲兵隊や陸軍省軍務局が当時の逓信省の協力を得て電話局で電話の傍受・盗聴をおこなっていたことが戦後明らかになっています。無論、この行為は戦前においても憲法に定められた「信書の秘密の不可侵」を破るものでした。

戦後の日本ではこういった盗聴事件は表だって報告された例はないようです。しかし現在では携帯電話のローミングサービスなどが盛んに行われており、ここから情報を盗みだすことは比較的容易です。

ローミングサービスとは、事業者間の提携により利用者が契約しているサービス事業者のサービスエリア外であっても、提携先の事業者のエリア内にあれば、元の事業者と同様のサービスを利用できることをいいます。

従って、契約しているサービス事業者が自社内ネットワークからの情報漏洩に気を付けていても、提携している他業者のネットワークからその情報が漏れるおそれがあります。

また、現在のように電話回線がデジタル化され、インターネットと同じように光ファイバーなどの通信インフラに依存していることなどを加味すると、この通信経路のハードウェアに何等かの細工するなどして、その通信内容を傍受することは不可能ではありません。

もっとも光ファイバーによって増幅送信されているデータはかなり複雑な暗号化が進んでおり、その盗用にはかなり高度な技術が必要とされます。

しかし、今日では国家レベルの諜報機関ならばこれも可能だといい、電話の情報だけではなく、知らない間に、その回線を通じてパソコンからも情報が盗まれていた、というのはありえない話ではないのです。

サイエンス・フィクションにでも出てきそうな話ですが、これはもう小説の話ではなく、実際に使われてはじめている盗聴技術だと考えたほうが良いかもしれません。

エシュロンの存在

近年、こうした技術を向上させて、アメリカ・イギリスが全世界的な電子盗聴網「エシュロン」という組織をひそかに構築してこうした技術を使って大規模な盗聴行為を行っているという噂が出回っています。

実際にそのことが欧州議会により告発されており、AP通信が2005年に報じたところでは、米海軍が保有する原子力潜水艦「ジミー・カーター」が海底ケーブル傍聴用の設備を搭載しており、これはエシュロンがテロの動向を探るためであったことなども報じられました。

エシュロン(Echelon)は、フランス語で「梯子の段」を意味することばです。先述のNSAが構築した軍事目的のシギントシステムのひとつではないかと、欧州連合などが指摘しているようですが、無論、アメリカ合衆国連邦政府自身が認めたことはありません。

実在するとすれば、国家による情報活動に属するシステムということになりますが、公式にはその存在が確認されていないので詳細は不明です。が、収集・分析・分類・蓄積・提供の各機能によって構成されているかなり組織的なグループであることがわかっています。

また、エシュロンはほとんどの情報を敵や仮想敵の放つ電波の傍受によって収集しており、その能力は1分間に300万もの通信を傍受できるほど強力だといわれています。

その盗聴電波には軍事無線、固定電話、携帯電話、ファクス、電子メール、データ通信などのあらゆるものが含まれており、同盟国にある米軍電波通信基地や大使館・領事館、スパイ衛星、電子偵察機、電子情報収集艦、潜水艦を使って敵性国家や敵性団体から漏れる電波を傍受したり、時には直接通信線を盗聴しています。

また、現代においては、データ通信の大部分は、光ファイバーを利用した有線通信によって行われており、上でも述べましたがこうしたデジタル情報は高度な技術で暗号化されているため、その傍受は極めて困難であるといわれています。

ところが今年アメリカ政府の情報を漏えいしたとしてWANTEDがかかった、あのエドワード・スノーデン氏の告発により、エシュロンの技術陣はこうした光ファイバーの有線データ通信さえも盗聴できるほど高度な技術を有していることが明らかになっています。

アメリカ政府が電気通信事業者の協力を得てデータ収集を行っている可能性までも指摘されており、アメリカ政府はいまや多方面からのバッシングによってかなりあわてているはずです。

実際、アメリカの電子フロンティア財団は、NSAがサンフランシスコのAT&Tの施設に傍受装置を設置してインターネット基幹網から大量のデータを収集・分析していたことに対して、アメリカ合衆国政府およびAT&Tに対し訴訟をおこしています。

そこへ来て、今回のメルケル首相の電話盗聴事件の発覚です。NSAやエシュロンの情報収集活動は、米国以外でも行われていることが明らかになったわけですが、実はこれらの一連の「犯行」は、アメリカが単独で行っているものではなく、エシュロンに加盟している各国もさまざまな形で協力しあって行われていると言われています。

その参加国は、アメリカ合衆国のほか、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドであり、これらは英米同盟(UKUSA:United Kingdom & United States of America)とも呼ばれるアングロサクソン諸国です。無論、この中にはドイツは含まれていません。

UKUSAは、1948年にアメリカとイギリスとの間でUKUSA協定が結ばれたことに始まり、カナダ・オーストラリア・ニュージーランドは2次メンバーとして後に参加しました。

しかし、実はドイツや日本など、第二次世界大戦時の敵国であっても、現在は同盟関係にある国には、エシュロンへの参加は認めないものの、単にデータを傍受だけなら参加OKとしており、ギリシア、スペインなどの同盟国もそうではないかといわれています。

これらの国は「サードパーティー」と呼ばれ、エシュロンの閲覧は許可されないものの、傍受施設の設置が認められているほか、UKUSAの国益に反しない限りにおいてエシュロンで得られた情報の提供が行われることすらあるようです。

日本には、青森県の三沢飛行場近くの姉沼通信所に大きな輪状のアンテナ施設があり、これは通称「ゾウの檻」と呼ばれ、傍受で活用されていました。しかし現在では既に使用が中止され撤去が予定されているようです。

が、この姉沼通信所には、いまだに1000人単位のNSA要員が詰めていて、いまだに南北朝鮮やロシア、中国などの情報を傍受し、エシュロンに寄与しているといわれています。

このほか東京都心のいくつかのUKUSA同盟国の公館内、例えば駐日アメリカ合衆国大使館などにも傍受施設が存在し、分担して傍受活動を行っているとされており、朝日新聞は2001年に、日本を含むアジア・オセアニア地域に置かれた傍受基地の存在を報道しました。

日本政府、日本企業も監視の対象とされており、無線、短波無線、携帯電話、インターネット回線など、ありとあらゆる日本国内の通信が常に傍受され、データはニュージーランドの通信所に送られてここのエシュロンに蓄積されているといいます。

日本に関する情報収集の対象は主に経済分野であり、経済活動をアメリカ政財界に更に有利にするための、トップの意思決定についての情報収集を重点的に行っているとされているようです。

1980年代から90年代初頭においても、アメリカ政府の度重なるダンピング提訴や、日本企業とアメリカ企業との間の受注合戦や訴訟合戦において、エシュロンが暗躍したともいわれています。

このときは、アメリカの国益を守るために、三沢飛行場、ワシントン州、ニュージーランド、オーストラリア、香港のエシュロンをフル稼働させた可能性があり、それが日本の企業活動に大きな損害を与えました。

なんで自国の利益を損なうような輩を日本国内にのさばらせているのかと、歯がゆい思いを誰でも持つでしょうが、これが日米安保の維持によってアメリカの傘の下に入っている日本の現状です。

しかし、一方では日本政府が施設を提供している見返りとして、エシュロンから重要情報が提供されたと推定される例もいくつかあります。

例えば北朝鮮の最高指導者金正日の長男金正男が成田空港で摘発された事件がそれであり、事前に日本に対して通報があったとされています。また、日本赤軍最高幹部であった重信房子が極秘裏に日本に帰国して潜伏しているという情報も、エシュロンによって情報が得られ、日本政府に通報されたと噂されているようです。

2004年、「週刊ポスト」は、日米首脳会談で小泉純一郎内閣総理大臣が、日本のエシュロンへの参加を打診したところ、アメリカ政府は、イラク戦争での多国籍軍参加の見返りに、エシュロン参加を許可したとの報道がありました。ただし、その真偽のほどは不明です。

エシュロンは高い機密性を持つために、多くの事象は疑いがありつつも、日本政府が実際に関与しているかどうかまでは確証まで至らないのが現状のようです。

このエシュロンの誕生の背景には、19世紀末にインドや香港などの植民地との電信電話による通信業務を行なっていた英国の国有企業「イースタン・テレグラフ社」が関係しているといわれています。この会社はこの当時全世界の1/3の国際通信網を保有するまでになり、現在でもケーブル・アンド・ワイヤレス社として世界の情報業界に君臨しています。

21世紀になった現在では、個人や私企業が行なう通信を盗聴・傍受するにはさまざまな規制が存在しますが、イースタン・テレグラフ社が誕生したころにはこうした障壁はあまりなく、英国政府はほぼ自由にイ社の通信情報を取得していたと考えられています。

現在、このイースタン・テレグラフ社はエシュロンとは直接の関係はないようです。が、国家による通信傍受のための大規模なシステムはこの会社がその大元を作ったと考えられています。そして英国における諜報組織MI6の誕生は、かつてのイースタン・テレグラフ社の存在抜きには考えられないといいます。

1943年5月に「英米通信傍受協定」が結ばれ、この時にエシュロン・システムは誕生しました。5年後の1948年には米、英、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド間の秘密協定として先述の「UKUSA協定」が結ばれ、通信傍受の協力体勢が作られました。

アメリカでは1949年には統合参謀本部安全保障局が作られ、これが1952年に組織改編して作られたのが国家安全保障局(NSA)です。ちょうどこの頃から、エシュロン・システムは拡大を始め、その活動も活発になったといわれており、表向きは明らかにされていませんが、これがNSAがその後ろ盾だといわれるゆえんです。

エシュロンの情報収集活動に関連があると推定されている事件はこれまでもいくつかありますが、いずれの事件とも、エシュロンの関与が実証されたことはありません。ただ、エシュロンの情報収集要員が米海軍や米空軍の部隊に同乗していたことが確認されたとされる事件がいくつかあり、そのひとつが1968年に起きた、プエブロ号事件です。

米国の情報収集艦が国境侵犯を理由に北朝鮮軍に拿捕され、このときブエブロ号の乗員1名が死亡し、残る乗員82名が11ヶ月間も拘束されました。彼等はのちに、米国の「謝罪」によって乗員のみ送還されるという米国にとって屈辱的な結果となりましたが、この情報収集艦そのものがエシュロンの情報収集の一環だったとされています。

また、2001年4月に中国の海南島の上空で発生した領空侵犯事件である海南島事件では、不時着した機内にNSAの複数要員が乗り込んでいたとされており、これもエシュロンに関わる情報収集活動だったといわれています。

こうした艦船や航空機を用いた大規模な諜報活動だけではなく、エシュロンは地道な情報収集も行っています。ある特殊な電子辞書を持っているといわれており、この辞書に登録された文字列を含む一般人のメールを常に盗聴しているともいわれています。

この盗聴では、対象とする被疑者のメールの内容だけでなく、登録済みのこのメールアドレスにメールを送受信した人達のメールの内容も盗聴されているといい、これによってエシュロンは、人知れずに盗聴範囲を拡大し続けているともいわれています。

登録・盗聴を避けようと、メールアドレスを変更しても、記録されている送受信先のメールアドレスを盗聴しているため、変更後のメールアドレスをもいずれはエシュロンの知るところとなり、再びエシュロンに盗聴されるとのことです。

送受信者のメルアドともども一度に全てのメールアドレスを変更するということはまず考えられないため、いつまでもエシュロンの盗聴から逃げ出すことはできないのです。

今、あなたが送ろうとしているメールの内容もまた、エシュロンに盗聴されているかもしれません。

さて、以上長々と盗聴について述べてきました。盗聴の世界もついにここまで来たか、というかんじですが、最後に笑える話をひとつ。

かつて1960年代にアコースティック・キティー(Acoustic Kitty)と言う計画がありました。CIAが行ったスパイ活動ツールの開発計画であり、この計画では盗聴のためにネコが用意されました。

このネコには、小型マイクと電池、さらに尻尾部分にはアンテナが埋め込まれ、また、ネコが任務を忘れてネズミを追いかけてしまうことなどの注意散漫を防止するため、あらかじめ、空腹を感じなくするための手術が施されたといいます。このための訓練・手術等に費やした諸費用は、約1000万ドル(約10億円)にも及んだといわれています。

このネコの最初の任務は、ワシントンD.C.ウィスコンシン大通りにあったソビエト連邦大使館員の盗聴でした。大使館近くの公園で行われ、その任務の内容は、ベンチに座っている二人の人物の会話を盗聴してくる、というごく簡単なものでした。

しかしネコは放たれたとたんに、通りがかったタクシーに轢かれて死んでしまったといい、この失敗によりその後結局この計画は中止となりました。

ただ予算を浪費しただけだと結論づけられ、その理由はネコが死んでしまったこともありますが、実際の諜報活動において工作員が目標の至近距離までネコを連れて行かねばならず、そのために盗聴が露見する可能性もあり、あまりにも実用性に欠けると判断されたためです。

実験では目標のすぐ近くから放たれた場合などには成功したようですが、こうしたこの計画の経緯が、2001年9月、「情報の自由に関する法」(en:Freedom of Information Act (United States))に基づき新たに40あまりのCIA関係文書が公開され、この計画は公の知るところとなりました。

ネコを盗聴に利用する計画の概要を報告したその文書の最後は、次のように締めくくられていたそうです。

「この問題に関する長年にわたる研究の功労者は、本計画を指導してきた○○をはじめとする面々である。とりわけ○○の努力と想像力は、科学の開拓者の模範といえるものであろう。」

○○内には人名が入るのですが、誰なのかについては公開されていないそうです。

もうすぐ11月……


10月も終わりに近づきました。明日の10月31日は、ハロウィンです。

ハロウィンは、ハロウィーンとも発音され、英語表記でも“Halloween”,“ Hallowe’en”のふたつあり、欧米諸国でも統一されていないみたいです。

もともとは、古代ケルト人がやっていたお祭りが起源だと考えられています。

ケルト人というのは、紀元前1200年以上の大昔に、中央アジアの草原から馬や、車輪付き戦車、馬車などを持ってヨーロッパに渡来した「ケルト語」を話していたという民族です。

青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期の紀元前1200年~紀元前500年ごろから、鉄器時代初期にかけて、ここに「ハルシュタット文化」という文化を築きました。

しかし、この当時、ヨーロッパの文明の中心地はギリシャやエトルリアであり、このためケルト人たちは彼等からの大きな影響を受け、その結果このハルシュタット文化は紀元前500年~紀元前200年に隆盛を迎える「ラ・テーヌ文化」に発展していきます。

やがて紀元前1世紀頃に入ると、このころ既にヨーロッパ各地に広がっていたケルト人たちは、各地で他民族の支配下に入るようになります。とくに現在のドイツ人の祖先、ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服されます。

その後、500年にわたってローマ帝国の支配を受けたヨーロッパ西部ののケルト人たちは、被支配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、中世にはゲルマン系のフランク人に吸収され、これがやがてフランス人に変質していきました。

ケルト人は、無論、現在のイギリスであるブリテン諸島にも渡来しました。ローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器を持つケルト部族社会が幅を利かせていました。

しかし、西暦1世紀ころ、イングランドとウェールズもまたローマの支配を受けるようになります。しかし、このローマ人たちはその後イングランドに侵入したアングロ・サクソン人に駆逐され、アングロサクソンの支配の下でイギリスにおけるローマ文明は忘れ去られていきました。

ただ、同じブリテン島でも西部のウェールズはアングロサクソンの征服が及ばず、それ以前に隆盛を誇っていたケルト人の文化が残り、このため古代のケルト語が残存しました。

このほか、ブリテン島北部のスコットランドやアイルランドは、まったくといっていいほどローマの支配すら受けなかった地域であり、このため、現在でもケルト人の色濃い地域です。

こうして、現代に継承された「ケルト人」の国というのは、これを残存するケルト語派の言語が話される国と定義するのであれば、アイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、及びブルターニュの人々ということになります。イギリスを中心としたヨーロッパ北西部の地域に住まう人たちです。

ただ、これら5ヶ国の人々の中で、いまだにケルト系言語を使って日常的生活を送る人の数は30%程度を超えないそうです。またアイルランド以外のケルト人の国は、より大きい異民族の国家に併合された上、本来の母語を話す人が次第に減少していっています。

しかし、ハロウィンのような風習だけは、廃れないまま現在も受け継がれています。

この古代ケルト人が発祥といわれるハロウィンというお祭りですが、もともとはケルト人の1年の終りが10月31日であり、この夜は死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていたことに由来します。

ケルト人たちはこの時期に、死者以外にも、地獄から有害な精霊や魔女が出てくると信じており、これらから身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていました。

古代ケルトのケルト人社会にはドルイドと呼ばれる祭司がいました。ドルイドの社会的役割は単に宗教的指導者にとどまらず、政治的な指導をしたり、公私を問わず争い事を調停したりと、ケルト社会におけるさまざまな局面で重要な役割を果たしていたとされています。

そのドルイドがもともと持っていた風習がハロウィンに変わっていきました。ドルイドたちの信仰では、新年の始まりは冬の季節の始まりである11月1日のサウィン(Samhain)祭でした。そして、普通は月の始まりがスタートと考えるところですが、彼等はその前日の日没こそが新しい年の始まりだと考えていました。

したがって、この祭りは「収穫祭」として毎年10月31日の夜に始まりました。ヨーロッパの中でもとくにアイルランドと英国に住んでいたケルト人のドルイド祭司たちは、この日の夜に火をつけ、作物と動物の犠牲を捧げるとともに火のまわりで踊りました。こうした儀式を行うことで、太陽の季節が過ぎ去り、やがてやってくる暗闇の季節の中でやってくる悪霊たちに備えようとしたのです。

というのも、1年のこの時期には、この世と霊界との間に目に見えない「門」が開き、この両方の世界の間で自由に行き来が可能となると信じられていたからです。

この祭典では悪霊を退散させるためには、とくにかがり火が大きな役割を演じました。更にこの祭典で村民たちは、屠殺した牛の骨を炎の上に投げ込みました。かがり火が燃え上がると、村人たちは他のすべての火を消して厳粛にその夜を過ごしました。

さらに11月1日の朝が来ると、ドルイド祭司は、各家庭にこの火から燃えさしを与えました。人々はそれぞれこのかがり火から炎を持ち帰り、自宅の炉床に火をつけ、かまどの火を新しくつけて家を暖め、これによって彼等が「シー(Sith)」と呼んだ妖精などの悪霊が入らないようにしたのです。

ケルト人たちの間でこうした祭典がある一方で、紀元1世紀ころにブリテン島にローマ人が侵入してきたとき、彼らは女神ポモナを讃える祭りという風習をケルト人たちにもたらしました。

偶然ですが、この祭りもまた11月1日頃に行われていたため、このあとこのポモナ祭りもまたハロウィンの行事のひとつとして定着していきました。ポモナとは果実・果樹・果樹園の女神で、そのシンボルはリンゴです。現在もハロウィンではダック・アップルと呼ばれるリンゴ喰い競争が行われるのはこれが由縁です。

またハロウィンのシンボルカラーである黒とオレンジのうち、オレンジはポモナに由来するとの説があり、また黒のほうは、古代ローマの死者の祭りであるパレンタリア(Parentalia)におけるシンボルカラーが黒であったからだともいわれています。

ところが、イングランド南部でせっかく定着しかけたこのハロウィンの習慣は、17世紀以降、同じ時期に祝われるようになったガイ・フォークス・デイに置き換わり、廃れていきました。ガイ・フォークスについては以前このブログでも少し書きましたが、国王ジェームズ1世らを爆殺する陰謀を企てた人物で、実行直前に露見して失敗に終わり、捕えられて処刑されました。

これにちなんだ祭事が毎年11月5日にイギリス各地で開催されるようになり、これと同時期に行われていたハロウィンのほうがあまり流行らなくなったのです。しかしながら、スコットランドおよびイングランド北部においては広く普及したままでした。

こうした一方、ヨーロッパからアメリカへ移住する移民が増えると、ハロウィンはむしろアメリカのほうでよく祝われるようになりました。

ハロウィンがアメリカの年鑑に祝祭日として記録されたのは19世紀初頭以降のことです。これ以前では、このころのアメリカの中心地であったニューイングランドでは改革派のピューリタンが幅を利かせており、彼等はハロウィンに強く反対していました。

しかし、19世紀になりアイルランドおよびスコットランドからの大量の移民がやってくるようになり、やがてアメリカ中でハロウィンが定着していきました。

ハロウィンは、アメリカでは19世紀半ばまで特定の移民コミュニティ内部のイベントとして行われていたようですが、徐々に主流社会に受け容れられ、20世紀初頭には、社会的、人種的、宗教的背景に関係なく、あらゆる人々に普及していきました。

やがて東海岸から西海岸へと浸透していき、やがてはこのアメリカが世界の大国となっていく中で、その風習は全世界へと広められていったのです。

しかし、その二次的な発祥地と目されるアメリカでは、現代では民間行事として定着しているだけであり、本来もっていた宗教的な意味合いはほとんどなくなっています。

ただ、古代ケルトのサウィン祭はアイルランドのキリスト教会に影響を与えていたため、アメリカに移住したアイルランド人たちが信奉していたカトリック教会も、彼等の民族の根幹にかかわるこのお祭りを民衆から取り去ることはできませんでした。

このため、カトリック教会にもともとあった「諸聖人の祝日」である11月1日の前夜祭をハロウィーンとして民衆のために残すことにしたのです。

諸聖人の日は、もともと東方教会に由来するもので、カトリック教会では609年に導入され、当初は5月13日に祝われていたものですが、8世紀頃から英国やアイルランドでは11月1日にすべての聖人を記念するようになったものです。

ハロウィンという名称も、もともとはキリスト教でいうところの「諸聖人の日前夜」です。これはこれ以後に用いられるようになったと考えられていますが、ハロウィンという用語が現在のように巷に定着するようになったのは、ずっとあとの16世紀ころと考えられています。

しかし、現代のキリスト教会では、ハロウィンの習俗がキリスト教的ではないとの認識ではおおむね一致しています。

たとえばカトリック教会では「諸聖人の日」が祭日とされていますが、10月31日のハロウィンは祭日ではなく典礼暦(教会暦)にも入っておらず、教会の宗教行事・公式行事として行われることはありません。

ただ、宗教には関係ないと割り切って、参加してもよい、あるいはキリスト教の行事ではないことを明確にし、娯楽として楽しむのならよいとしています。

カトリック信者の中にはキリスト教の伝統の中でなおも保持された風習に、キリスト教的意義を見出すことが大事と考えている人も多く、起源・歴史を知り、真実を伝えていくことが大切と考えている人もいるようです。

一方のプロテスタントもまた同様ですが、完全否定まではしないもののあまり積極的にハロウィンを祝おうという機運はなく、どちらかといえば否定派が多いようです。いくつかの福音派は完全にハロウィンを否定しています。

プロテスタントでハロウィンに否定的な人たちは、キリスト教信仰とは無縁、むしろ対立する恐ろしい悪魔崇拝であると考え、死神と邪悪な霊をたたえ、傷害事件まで誘発しているとまで考えているようです。

とはいえ、民間の風習としてのハロウィンは、現代では主にアイルランド、イギリス、アメリカ、カナダ、ニュージーランドでさかんに行われており、オーストラリアの一部でも広まっています。

これらの国ではハロウィンが盛大に祝われますが、アイルランド以外はプロテスタント信者が多いせいもあって、その翌日にあたるキリスト教の記念日である諸聖人の日には、通常これといった行事は催されないのが普通です。

こうしたプロテスタント諸国では宗教改革によってカトリック教会の祝日である諸聖人の日が徐々に廃れたためであり、ハロウィンのみが残された格好になっています。アメリカの一部キリスト教系学校では、ハロウィンがキリスト教由来の行事ではないことから、「ハロウィンを行わないように」という通達が出されることさえあるそうです。

しかし、こうした宗教の違いによる肯定・否定はともかく、ハロウィンはクリスマスと同じく、季節の風物詩を示す民間行事として欧米の人達の間ではなくてはならないもののようです。

主として肯定派たちが行事として行う、トリック・オア・トリート (Trick or Treat)の習慣もまた、楽しいものです。

この習慣は、ヨーロッパでその昔、クリスマスの時期に行われていた、soulingと呼ばれる「酒宴」の習慣から発展したといわれています。

カトリック教会では、先述の11月1日の聖者の日の翌日の2日は「死者の日」とされており、古くは「万霊節」と呼ばれていました。

この日に、信者たちは「魂のケーキ(soul cake)」を乞いながら、村から村へと歩いていたといい、物乞いをして施しを受けるときには、その代償として亡くなった家族や親類の霊魂の天国への道を助けるためのお祈りをしました。

これは、さきの古代ケルト人が、サウィン祭のとき徘徊する幽霊に食べ物とワインを残す風習を持っていたことに由来します。が、やがてこの魂のケーキの分配はケルトの人々の酒宴に変化していきました。

しかし、酒宴に変わったとはいえ、その基本的な考え方は慈悲を持って霊を救うというキリストの教えと合致したため、カトリックに代表されるキリスト教会はこれを奨励するようになっていきます。

とはいえ、教会で酒宴を行うわかにもいかず、このため本来の習慣に立ち戻って食べ物とワインを捧げることになり、やがてはこれを信者に求めるために、村々を回るようになりました、

しかし、時代が下がるにつれてこの食べ物はより現実的な菓子のようなものになり、さらに年月を経ていくうちにワインも姿を消し、やがてはケーキだけとなり、このケーキも現在のように飴や駄菓子などへと変わっていき、物乞いをする相手もご近所さんへと変わっていったわけです。

現在では、魔女やお化けに仮装した子供達が近くの家を1軒ずつ訪ねては、「トリック・オア・トリート(Trick or treat. ご馳走をくれないと悪戯するよ)」と唱えて回ります。

また、ハロウィンの催しとしては、冒頭の写真にもあるようなジャックランタンづくりが定着しています。

これは、この11月2日の死者の日に因み、その前々日の31日のハロウィイの夜から、カボチャをくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャックランタン(Jack-o’-lantern)」を作るというものです。

このほか、カボチャの菓子を作り、子供たちは貰ったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりもします。お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよいということになっています。

このカボチャですが、ハロウィンにはオレンジ色のカボチャをくりぬき、刻み目を入れ、内側からろうそくで照らしたものを造ります。最もハロウィンらしいシンボルといえます。

カボチャを刻んで怖い顔や滑稽な顔を作り、悪い霊を怖がらせて追い払うためであり、ハロウィンの晩、家の戸口の上り段に置かれます。

正式には「ジャックランタン(Jack-o’-Lantern)」といい、読み方もジャック・オ・ランターンのほうが正しいようです。日本語では、お化けカボチャ、カボチャちょうちんなどと言われることもあるようです。

ハロウィンの本場のスコットランドでは、もともとはカボチャを使わず、カブの一種である「スィード(swede)」を用いました。現在のようにカボチャが多くなったのは、二次的な発祥地となったアメリカではカブよりもカボチャのほうが栽培に適していたためでしょう。

もともとは、「ウィル・オー・ザ・ウィスプ(Will o’ the wisp)」を象徴したものといわれます。ウィルオウィスプ、ウィラザウィスプともいい、世界各地に存在する、鬼火伝承の名の一つです。青白い光を放ち浮遊する球体、あるいは火の玉であり、イグニス・ファトゥス(愚者火)とも呼ばれます。

他にも別名が多数あり、地域や国によって様々な呼称がありますが、いずれも共通するのは、これが見られるのは夜の湖沼付近や墓場などであるということです。近くを通る旅人の前に現れ、道に迷わせたり、底なし沼に誘い込ませるなど危険な道へと誘うとされています。

その正体は、生前罪を犯した為に昇天しきれず現世を彷徨う魂、洗礼を受けずに死んだ子供の魂、拠りどころを求めて彷徨っている死者の魂、ゴブリン達や妖精の変身した姿などなどいろいろな言い伝えがあります。

その意味は「一掴みの藁のウィリアム」または「松明持ちのウィリアム」だそうで、このウィリアム(ウィル)というのは、死後の国へ向かわずに現世を彷徨い続けた男で、この鬼火はこの男の魂だという伝承もあります。

ウィリアムは生前は極悪人で、遺恨により殺された後、霊界で聖ペテロに地獄行きを言い渡されそうになった所を、言葉巧みに彼を説得し、再び人間界に生まれ変わります。

しかし、第二の人生もウィリアムは悪行三昧で、また死んだとき死者の門で、聖ペテロに「お前はもはや天国へ行くことも、地獄へ行くこともまかりならん」と言われ、煉獄の中を漂うことになります。

それを見て哀れんだ悪魔が、地獄の劫火から、轟々と燃える石炭を一つ、ウィリアムに明かりとして渡しました。この時からウィリアムは、この石炭の燃えさしを持ち歩くようになり、その石炭の光は人々に鬼火として恐れられるようになったといいます。

が、これはあくまで伝承です。この鬼火の正体は、球電(自然現象)と言う稲妻の一種、あるいは湖沼や地中から噴き出すリン化合物やメタンガスなどに引火したものであるといわれています。日本でも人魂現象としてよく知られています。

このほか、ハロウィンといえば仮装です。ハロウィンで仮装されるものには、幽霊、魔女、コウモリ、黒猫、ゴブリン、バンシー、ゾンビ、魔神、などの民間で伝承されるものや、ドラキュラやフランケンシュタインのような文学作品に登場する怪物が含まれます。ハロウィン前後の時期には、これらのシンボルで家を飾るのが習わしです。

また、日本ではあまり行われませんが、先述のダック・アップル (Duck Apple)もまた欧米でハロウィンらしい行事のひとつです。またの名を、「 アップル・ボビング(Apple Bobbing)」ともいい、ハロウィン・パーティーで行われる余興の1つであり、水を入れた大きめのたらいにリンゴを浮かべ、手を使わずに口でくわえてとるリンゴ食い競争です。

このほか、アガサ・クリスティの書いた「ハロウィーン・パーティー」の中ではこのリンゴ食い競争の他、昔から代々伝わってきたゲームとして、小麦粉の山から6ペンス硬貨を落とさないよう小麦粉を順番に削り取る「小麦粉切り」や、ブランディが燃えている皿から干しブドウを取り出す「スナップ・ドラゴン」(ブドウつまみ)などが紹介されています。

さて、こうしたハロウィンは、日本では、2000年頃まではハロウィンは英語の教科書の中もしくはテレビで知られるだけの行事であり、現在ほどさかんなものではありませんでした。

しかし、クリスマスと同様にアメリカで行われる娯楽行事のひとつとして日本でも定着し、多くのイベントが催されるようになり、さらなる娯楽化、商業化が進んでいます。

ハロウィンのパレードとしてはJR川崎駅前の「カワサキ・ハロウィン・パレード」などが有名であり、このパレードでは約3000人による仮装パレードで約10万人の人出を数えるそうです。1997年より毎年のように開催されています。

また、東京ディズニーランドでも、1997年10月31日に園内に仮装した入園者が集まるイベント「ディズニー・ハッピーハロウィーン」が開催されて以降、10月になると恒例のイベントとして行われるようになり、現在では時期も早まって9月初旬から始まるそうです。

欧米系島民が多数在住する東京都小笠原村父島では、島民の秋のイベントとして定着しており、幼年の子どもたちの大多数が参加するほどの盛況ぶりを見せているといい、このほかにも、欧米系村民が多数存在し、海外からの観光客も多い長野県白馬村では、毎年10月の最終日曜日に村民ボランティアによって「白馬deハロウィン」が行われています。

今やこの時期になるとどこのお店へ行ってもお化けカボチャのディスプレイを飾るのが通例になっていて、ハロウィン関連の商品の売れ行きも上々のようです。

それが別に悪いともいいませんが、それにつけてもちょっと流行るとすぐ右へ倣えをしてしまうところは、いかにもミーハーな国民性だなと思ってしまうのは私だけでしょうか。

ま、こうした行事によって季節感が感じられるのは悪いことではなく、この行事が行われるということは今年もあと二か月なんだなと、時の移ろう速さを教えてくれる指標でもあります。

そう、今年もあと二か月です。そろそろ年賀状の心配もせねばならず、同窓生の忘年会のセットもありで、何かと忙しい季節ではあります。そうそう、今のうちから大掃除もしておきましょう。庭の手入れもしかりです。

が、何を一番先にやるべきでしょう。皆さんは、あと二か月を何を優先してお過ごしでしょうか。