admin のすべての投稿

怒ってる

2014-6242先日のこと、知人の訃報を知らせる一通のメールが届きました。

亡くなったのは、かつて勤めていた会社で同じ部にいた人で、お互い管理職として席を並べて窓際に座って仕事をした同僚であり、メールの送り主はこの当時同じ職場にいた年下の社員でした。

年齢も近く、部下の扱いや仕事の分担などを巡って何かと相談できる間柄でしたが、一緒に仕事をしたことは一度もなく、正直言ってその力量はよくわかりません。また、彼よりも業績を伸ばしたい、といったライバル意識のようなものも私はとくに持っていませんでした。

というのも、私はその会社には中途入社で入り、このため文字通り彼は職場の先輩という立場だったためです。しかし、大学の卒業年次は同じであり、年齢も彼が二つほど上なだけで、いわば「同期」です。

が、私にすれば同僚というよりもやや上の先輩という感じも持っており、その証拠に彼はその後課長の私を飛び越して先に次長に昇進しました。

人間的にはどちらかといえば我が強いタイプであり、スッと人の懐に入り込んでくるような人間が苦手な私にすれば、親しいというよりも、どちらかといえば苦手なタイプでした。

毛嫌いをしていたというほどではありません。が、かといって積極的に友達になりたい、というタイプでもなく、ニュートラルな関係とでもいうのでしょうか、ともかくあまり交わりはありませんでした。先方はどう思っていたかわかりませんが。

そのため普段仕事での必要性があるとき以外と飲み会以外はあまり、会話もすることがありませんでした。が、何かにつけその言動には重みがあり、会議などでは彼が発言すると、ちょっと聞き入ってしまうということも多く、このため、ふだんからもついついその動向が気になる、という相手でもありました。

その彼と、その昔、こんなことがありました。

我々が所属していたそのセクションは、環境調査を扱う部門であり、環境調査にあたっては膨大な調査データを扱うことから、社内の人間だけでなく、派遣会社から何人も技術者を派遣してもらっていました。

あるとき、彼が部下としているそのうちの一人の派遣社員に対し、私が留守の彼に代わって何かの伝達事項を伝える必要がありました。細かい内容についてはよく覚えていないのですが、何か人事についてのことだったようと思います。

私はその内容を淡々と事務的に伝えたのですが、後日、彼から私にメールがあり、その中には、その伝達内容につき、相手の立場に立って伝えていなかった云々といったことが書かれていたかと思います。要はクレームのメールでした。そしてそのメールのタイトルはなんと、「怒ってる」でした。

2014-6388

彼にすれば同僚であるため、あまり遠慮はいらないだろう、それほど言葉を選ぶ必要もない、という判断もあったかと思います。しかし、狭い会社の中のことであり、細かい人間関係もあることから、ふだんはこうした極端な表現は使わないようにする、というのが会社組織というものであり、この激しいワードに私は正直びびりまくりました。

しかし、同僚という意識のほうが強く、先輩社員からの叱責、というふうには受け取りませんでした。やや激しい文面だっただけにあまりいい気持ちはしませんでしたが、あーあしょうがないなー、またしょーもないことでと怒っているよ~といった程度に受け流そうとしたかと思います。

ただ、彼が書いてきたその内容を見る限りは、「怒ってる」という理由もなるほど私の無神経さから出たことのようです。このため、何か釈然としないものがあるまま、そのメールに対してはとりあえず謝罪の文面を返したかと思います。

ところが、あとでその派遣社員へ行った伝達事項のことをよくよく考えてみると、私の立場上とくに問題となるようなことでもなく、むしろ彼の思い込み、あるいは勘違いではなかったと思える部分がありました。それについて、とくに釈明もしなかった私が悪いといえば悪いのですが、謝ってはみたものの、謝り損というかんじがそのときは残りました。

しかし、その後多々ある仕事に忙殺され、そういったこともすっかり忘れ去り、やがて月日が流れました。私はあるときから会社を離れて自立をしたいと考えるようになり、長年勤めたこの職場を後にすることになりました。

その退職の送別会のときのことであったか、あるいはその後また別の機会に彼と会ったときのことだかよく覚えていないのですが、何かのお祝いの席のようでもあり、酒が入っていたと思います。多くの人で賑わうその会において、私の周りで一瞬ですが人気が途切れました。

ちょうどそのとき、退職前にはあまり親しい会話をしたこともなかった彼が私に近づいてきました。そして、ふだんから私とはあまり話をしてこなかったにもかかわらず、私が会社にいたころのことを話したり、その後の私の身の上のことなどをやたらに質問してきました。

彼と話した内容がどんなものだったのかはほとんど覚えていないのですが、少なくともかつてのこのちょっとしたいさかいの話もとくに蒸し返しはなく、たわいない話を延々と彼と続けていたかと思います。

そしてこの日に限ってはいつになく饒舌で私の側で話し続ける彼をみるにつけ、もしかしたら、彼とのくだんのトラブルについては、実は自分に非があったことを彼自身が後日気が付いたのではないか、と思い至りました。本当は謝るつもりだったのかもしれず、私のほうは気にかけてはいなかったものの、彼はずっと気にしていたのかもしれません。

あるいは、私が退職することになったのも、彼とのささいなトラブルが原因ではなかったかと、あとで悔いたのではないかとも思われ、もしそうだとすれば、この飲み会での私の態度はあまりにもそっけなかったかな、と後で逆に悪かったな、と思ったりもしました。

2014-6293

彼は岩手県の出身だったかと思います。どちらかといえば喧嘩っぱやいほうであり、こうした東北人によくありがちな性格で、直情的というほどではないにせよ、思ったことや考えたことをすぐ口にしたがります。が、逆に細やかな神経の持ち主でもあり、部下に対してもかなり繊細な対応ができていた人のように記憶しています。

粘り強い努力家でもありました。しかし、ふだんは無口のくせに頑固なところがあり、不満が高じると酒の席でくだを巻く、といったこともあったように記憶しています。こうした東北人を私もほかに何人も知っています。

私とのトラブルも、ふだんから感じていた何等かの不満がこれを契機に爆発したのではないかとも想像されます。それが何だったのかは鈍感な私にはさっぱりわからないのですが、しかし彼にすれば暴発してはみたものの、あとあと冷静になってみれば、大人げなかったと感じ、自省したのかもしれません。

こうした内省的なところもまた東北の人の美点ではあるのですが、後さき考えずに行動してしまうところが玉に傷です。ちなみに、東北の女性は真面目でしっかり者が多く、若いときから落ち着いている人も多いといい、こうした男女の違いによってうまくバランスがとれているのが東北人、という見方もできるでしょうか。

この彼との出来事は、この会社を退職して十数年がたち、無論すっかり忘れていました。ところが、先々月ごろから、妙にこのことだけがときどき思い出され、その都度、このかつての同僚の顔が出てくるので、いったいなんだろう、と思っていました。

この会社は1000人近い社員を抱える大会社であり、彼以外にも数多くの同僚や上司、部下と様々な仕事を通じていろんな関係を持ってきました。このため、他にあまた社員がいる中で、彼とのこのことだけが、ことさら思いだされたのは不思議でした。

そうした矢先の、彼の死を告げるメールでした。その内容は、この度、長期の療養の末に亡くなった故人と縁のあった方を集め、「偲ぶ会」を開催したいので、参加して欲しい、という内容でした。が、私はこの会社を退職してからかなり経っており、本来ならそういたメールは受ける資格はありません。

しかし、かつてのこの職場は非常にアットホームな雰囲気があり、このため退職したあとも何かにつけ、飲み会などのお誘いがあり、やれ誰かの退職祝いだ、あいつが転勤する、とかいったときには何かと声をかけて頂いています。今回メールをくれたのも、同じく中途入社で会社に入り、親しくしていた同僚でした。

しかし、この「偲ぶ会」のお誘いメールには、彼の死因などについては何も触れられていなかったため、メールをくれたかつての同僚に彼の病気の内容や闘病のことなどについて問い合わせてみることにしました。

2014-6371

その結果、彼の死因は癌の中でもとくに進行が速いと言われるすい臓がんだったこと、また一昨年の暮れに癌だとわかり、その後入退院を繰り返しながらも仕事を継続していたことなどが分かりました。

すい臓がんは、膵臓から発生した悪性腫瘍であり、早期発見が非常に困難な上に進行が早く、きわめて予後が悪いことから「癌の王様」と言われているようです。日本におけるすい臓がんの死亡者数は毎年約22,000人以上であり、癌死亡順位で男性で5位,女性で6位で年々増加傾向にあります。

原因としては、喫煙、肥満・運動不足、長期に渡る糖尿病、慢性膵炎といったことが考えられるようです。が、彼はたしかタバコはやらなかったはずで、アルコールなどによって慢性の膵炎にかかっていたのかもしれません。あるいは、座業の多いこの職業においてありがちな運動不足や、あるいは仕事上のストレスが祟ったのかも、とも思ったりもします。

すい臓がんの治療方法としては、外科的切除が唯一の根治治療のようですが、発見時には進行していることが多く、手術不能の場合が多いそうです。彼も入退院を繰り返していたようで、外科手術も含め、術後の化学療法や放射線療法もためしつつ、闘病生活を送っていたのでしょう。

しかし、癌を発症したあとも、業務を続け、昨年には、私たちの住む修善寺方面の業務の管理技術者もやっていたといいます。今年も3本の業務の管理技術者を勤めていたそうですが、5月から病状が悪化し、復帰することなく7月に亡くなりました。

これを読んでいる方が信じているかどうかは別として、私は、人は“死”によって肉体は滅び、その段階から、「霊的身体」を持って霊界での生活を始めるようになる、ということを信じています。霊界こそが人間にとっての本来の生活場所であり、ここで人間は永遠に生き続けることになる、というスピリチュアル的な観点です。

従って、地上世界は、どこまでも一時的な生活場所にすぎません。ところが、霊界での存在者たちは、死したあとも地上人に対してさまざまな働きかけをしており、何らかの霊的関係を持っている、ということがいわれています。そうした働きかけの一つが「霊」としての出現ですが、これに「幽」をつけて俗に「幽霊」などとも呼びます。

しかし、今回彼は、死したのち私の前に現れたわけではありません。ただ、私が彼との生前の私とのことを思い出したということは、私に何等かの働きかけをしていたのではないか、ということは考えられます。高級霊や善霊は常に地上人にとってプラスとなるように働きかけるといい、時には「霊的成長」や「魂の癒し」などをもたらすといいます。

私が、彼のことをしばしば私が思い出した理由が、彼自身が癒しを求めていたのか、はたまた今の私に癒しをもたらしてくれようとしたのかどうかはよくわかりません。が、何等かの働きかけだったかもしれない、と思ったりもしているわけです。

2014-6392

人は死後、最初に訪れる世界で、自分が“素”になるための経験をするといいます。「素」になるという意味は、心が素っ裸になるということであり、素顔の自分の姿が明らかになるということです。

「素」になるということは、死に至るということでもあります。人はその死の直前に、一瞬にして、過去から現在に至る自分の人生を振り返るともいわれます。そしてその振り返りにおいては、産道を経て、産声をあげた瞬間から、成長し、老いて死ぬまでの、良い行いや悪行までのすべての行為が、細大漏らさず見せられるといいます。

当然、記憶から消えていたことまで見せられるわけで、子供の頃にしたイタズラも映し出されるであろうし、子供のころに過ごした田舎の原風景も見せられるかもしれません。ただ、この映像は死にゆく体や脳細胞に記憶された映像ではなく、霊界がその肉体が生きた様を検証するために記録した映像のようなものだともいわれています。

たとえば、死にゆくある一人の人間が、生前誰か別の人を傷つけたとしましょう。その犯人としての彼の記憶にあるのは、相手の顔や、相手が傷ついて悶絶する様子、あるいは自分が持っていた凶器など、いずれにしても自分の目から見た情景でしょう。

ところが、その死の直前に映し出される映像には、その罪を犯した自分の表情、その心の動きまでわかるような映像が映し出されるといい、まるで誰かがそのシーンを撮影していたかのように客観的にその本人が行った行為が映像として現れるということです。

これはすなわち、本人が自分の主観で過去の記憶をたどっていくならば、どうしても自分勝手な正当化が行なわれ、自分の都合のいい映像になってしまうからでしょう。自分が行ってきた一生が正しいものであったかどうかは、自分が判断するのではなく、客観的に「誰か」に判断してもらうのが一番です。

では、その「誰か」とは誰なのか。よく言われるのが、これは「閻魔様」だということ。「魔」という文字が当てられていますが、これはもともとインドのサンスクリット語のYAMAからきており、「死者の神」を意味するものです。日本にこの用語が入ってきたときに、「地獄」という概念と合わせるために、この文字が当て字として使われたに過ぎません。

従って、閻魔様とは、死者の国の神様として、この死の世界へ来る者の罪を裁く者、ということになります。では、いったいこの閻魔様とは何者なのか、ということになるのですが、これはとりあえずここでは棚上げにしておきましょう。

とまれ、人は死の直前、現世で行なったことを正しく評価するため、こうした映像を見せられるといいます。しかし、この映像を見せられる目的は、本人を表彰したり、罰を与えたりすることではありません。「素」になるのは、霊としての自分が霊界のどの階層に行くかを厳密に仕分けするために、欠かせないプロセスです。

2014-6164

現世においては、人の評価は様々です。どれだけ学問を追究したか、どれだけ富を得たか、どれだけ権力を握ったかなどでなされることが多いものですが、しかし、それは「霊」となったのちは客観的な評価ではありません。

霊界での評価は、数字や記録で表されるようなものによってなされるのではなく、たとえば、どれだけ努力したか、どれだけ人を愛したか、あるいはどれだけウソをついたか、どれだけ争いをしたか、といったことです。

死の直前に、現生におけるそれまでの行為すべての映像をみせられた人は、当然、その映像をみて反省心が起きる人もいるでしょうし、逆に粗暴だった性格がその時点でさらに爆発して、興奮する人もいるでしょう。しかし、つまりその時点でその心は、ますます素っ裸になるというわけです。

そして、その人の「素」の姿を閻魔様はしっかりと見ています。そして、その素の姿のままの世界で、霊界のどの階層へ行くのかが、決定づけられるというわけで、このようなパノラマ化した人生を見終われば、いよいよ大霊界へと旅立つことになるわけです。

この霊界で人はただ単に生き続けるのではなく、「霊的成長」を目的として永遠の人生を送ることになります。人の霊は、それぞれの「霊的成長度」に応じた界層で生活するようになり、霊性のレベルによって厳格に住み分けがなされています。

霊界にいる人霊は、霊性の未熟な者から高度に進化した者まで、さまざまです。すなわち霊界には、低級霊から高級霊に至る無数の「霊性レベル」の人霊が存在しているわけです。

かつてのこの私の同僚もまた、死の直前、そこに至るまでの全記憶を呼び起こさせられたに違いなく、それによって行先の階層が定められたに違いありません。そして蘇った記憶の中には当然私とのこともあり、それが彼にとって良い行為であった悪い行為であったかは別として、ともかくもその時の気持ちや考えもよみがえったに違いありません。

そしてその思いが、彼が住まう町から、遥か離れた伊豆まで飛んできたのだとすれば、そうしたことに敏感な霊媒体質の私がキャッチしたとしても不思議ではありません。

2014-6415

あるいは、死してのち、霊界に行った彼が、さらに何かを伝えたく、メッセージを送ってきてくれていたのかもしれませんが、少なくともこれまでのところ、明確なメッセージとおぼしきものはまだありません。

地上人の中には、生まれつき「霊媒体質」という特殊性を持った人間がいます。こうした人たちの中には、半物質の霊的エネルギーを霊に提供して心霊現象を現出させたり、霊と接触して情報を入手し、そのメッセージを伝えることができる人もいます。またトランス状態で、自分の肉体を一時的に霊に提供し、霊にメッセージを語らせることもできます。

いわゆる「霊媒」とか「シャーマン」「チャネラー」と呼ばれてきた人がそれです。しかし、私のレベルはこうした人達ほど高くはなく、ただ単に普通の人よりも敏感といった程度です。霊界からのメッセージを人に伝えることができるような能力はありません。

霊界における高級霊からの「霊界通信」を行えるような人は、人類に真の霊的成長をもたらす“霊的宝”であり、まさに人類の遺産と呼ぶに相応しいものです。が、こうした優れた霊媒体質の人はごく稀にしか存在しません。

従って、私が彼からキャッチした「霊界通信」は人類の霊的成長にプラスとなるといった類のものではなく、先に逝くからな、といった挨拶のようなものだったかもしれません。が、いずれにせよ、彼からの何等かのコンタクトがあったのは間違いありません。しかし、私自身それにどういった意味があるのかまだ理解できていません。

もっとも、霊界から地上界への働きかけは、必ずしも地上人にとって好ましいものであるとはかぎらず、時には有害なものもあります。不安や恐れを与えたり、肉体本能を刺激するなど、しばしば地上人にとって好ましくないもの・有害なものをもたらそうとする霊もいるにはいるようです。

ただ、生前の彼の行動を見る限りは、清廉潔白で部下思い、かつエネルギッシュな行動でぐいぐい人を引っ張るような人物であり、けっして霊界に行っても低い部類の階層に行く人ではありません。きっともし私に何かを働きかけようとしてくれているならば、その内容は必ずや良き内容に違いありません。

2014-6404

そしてその彼を霊界に導いた「閻魔様」とは、おそらく人が、“神”と呼ぶ存在なのでしょう。すべての人間は「神の分霊」を真の自我として内在させているといい、その意味で万人は「神の子供」です。

スピリチュアル的な観点からは、神のもとにあって等しい霊的兄弟姉妹・霊的同胞であり、地上の人間は、この内在している「神の分霊」を核として、「霊的心」「霊体」「肉的心」「肉体」の5つの構成要素から成り立っているといわれます。

肉体に五感をはじめとするさまざまな肉体能力が与えられているように、霊体にも霊的感覚が備わっているといいます。霊視力・霊聴力・霊触覚・霊臭覚などがそれですが、大半の地上人は肉体に遮られてこの霊体能力を発揮できないようになっています。

しかし、霊能体質者はその特殊性によって肉体を持ちながらも霊体能力の一部分を発揮できるようになっており、こうした人間こそが、地上では「霊能者・超能力者」と呼ばれることになるわけです。

ただ、本来的には誰もが「神の分霊」を核とした「霊能力」を持っているというのが正しく、その意味からすれば地上人全員が霊能者としての素質を持っているということになります。

そして、人が地上世界に誕生してくる目的は、霊界での永遠の生活に備えるためです。地上世界という訓練場での“霊的修行”によってだけ、霊界での幸福を得ることが可能となります。

この地上で送っている人生での努力を通じて「霊的成長」を果たした人間、言い換えれば「霊性を高めた人間」のみが、本当の意味での幸福者であり、現生での真の目的を達成した人間ということになります。

正しい霊的努力を通じて「霊的成長」がもたらされた人は、より高い心境を維持できるようになり、ますます価値ある霊的人生を歩むようになっていきます。それにつれて高級霊との絆がいっそう強化されることになるともいいます。

今回若くしてあの世に旅立った彼もまた、闘病生活やその死の直前まで行っていたという仕事や部下への指導などを通じてきっと大きな霊的努力を払っていたことと思います。そして、必ずや今生にやってくる前にいた階層よりもきっとずっと高い階層へと昇っていったのではないか、そんなふうに思います。

この「霊的努力」とは何か、ということについては、推して図るべきかと思います。が、更に奥深いものですから、みなさんも自問してみてください。

今日はもう紙面も押してきているので、もうやめますが、別の機会にそうしたことを書いてみたいと思います。

台風が近づいています。あの世にいる彼はそれが見えているでしょうか。

2014-6426

トォース!

2014-6177修善寺から下田へ下る途中の湯ヶ島に、「明徳寺」という曹洞宗の古刹があります。

先月の末、ここでお祭りがあり、夜には花火大会なども開かれたようなのですが、残念ながら参加できませんでした。が、前々から気になっていた場所であり、先日、湯ヶ島方面に行く機会があったので、ちょっとよってみることにしました。

実は、このお寺には「便所」の神様が祀られています。便所は、古くは「東司(とうす)」とよばれており、この東司の守護神とされるのが「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」です。

寺自体は、南北朝時代末期の明徳年間に、曹洞宗の利山忠益という禅師により創建されたとされています。曹洞宗はいわゆる「禅宗」であり、伊豆では昔から曹洞宗のお寺が多かったようで、修善寺にある、「修禅寺」もまた弘法大師が開祖といわれる曹洞宗のお寺です。もっとも弘法大師は真言宗を開いた人であり、当初は真言宗のお寺でしたが。

明徳年間といえば、1390年から1393年までの期間であり、今から600年以上も前です。時は南北朝時代(室町時代)であり、将軍は足利義満。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇、南朝方が後亀山天皇で、双方がいがみ合って畿内を中心としてあちこちに内乱が起こっていた時代です。

この時代の伊豆は、鎌倉幕府が瓦解後、勢力が突出していた北条氏が落ちぶれ、伊東氏や狩野氏、工藤氏や河津氏といった豪族が群雄割拠していた時代であり、これらを平定する北条早雲が現れるのは、これよりさらに100年ほどのちのことです。

この明徳寺のある湯ヶ島は、14世紀末には既に、“お湯がいたる所に湧いている”場所という記録があることから、この当時から既に湯治場として利用されていた可能性があり、伊豆の有力者も頻繁に出入りする堀越御所のあった長岡からも比較的近いことから、こうした有力者の誰かの援助でこの寺も創建されたのでしょう。

位置的には狩野氏の居城のあった狩野城も近く、狩野氏をパトロンとして創建されたというのが妥当な推理かと思われます。狩野氏はその後北条早雲によって滅ぼされましたが、その子孫たちは地方に散らばり、そのうちの狩野景信という人がその後絵師として名をはせ、以後狩野派は日本画の主流となり、日本画壇に君臨するようになりました。

これら狩野氏の一連の話は、かなり前に書いた「狩野城」というブログに詳しいので、こちらも参照してみてください。

さて、この狩野氏が援助して建てられたと思われる明徳寺に祀られている烏枢沙摩明王は、不浄なものを浄化する徳を持っているとされる「お便所の神様」です。この明王さまには「おさすり」「おまたぎ」と呼ばれる部分があります。その形状はご想像にお任せしますが、これを撫でたり跨いだりすると下半身の病気に御利益があるといわれます。

毎年8月29日に伊豆三大奇祭ともいわれる、東司祭が行われますが、これが冒頭で述べた私が見逃したお祭りです。ほかのふたつは、尻つみ祭り、どんつく祭り、といい、尻つみ祭りは、源頼朝と八重姫が逢瀬を楽しんだと言われる伊東の音無神社で行われます。

神事は真っ暗な社殿の中で行われ、お神酒を回すのに、隣の人のお尻をつまんで合図したことから、「尻つみまつり」と言われたそうで、現在では境内で、お囃子のリズムにのってお尻をぶつけ合うユーモラスな尻相撲大会が行われるそうです。

また、どんつく祭りのほうは、伊豆南東部の稲取で行われる祭りで、男性のシンボルをかたどったご神体を神輿で担ぎ、夫婦和合、子孫繁栄などの願いを込めて、ドンと突く!のだそうで、こちらはなんと弥生時代からあるお祭りだそうです。いずれのお祭りも下ネタが特徴であり、面白そうなのでいずれ機会があったら行ってみたいと思います。

2014-6184

東司の烏枢沙摩明王はもともと、インド密教における明王さまで、古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神でした。天界の「火生三昧」と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす明王です。

「この世の一切の汚れを焼き尽くす」ほどの功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとされてきた火の仏です。日本に入ってきてからは意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれました。

遠い昔のこと、ある時、インドラ(帝釈天)さまは、仏が糞の臭気に弱いと知り、ちょっとしたいたずら心から仏を糞の山で築いた城に閉じ込めてしまったといいます。

そこに烏枢沙摩明王が駆けつけると大量の糞を自ら喰らい尽くし、仏を助け出したという伝説があり、この功績により烏枢沙摩は仏様から「厠」の守護者に任命されるようになったといいます。

厠は、すなわちトイレのことです。この厠の神様ということで、当然その功徳は便所を清めてくれるということですが、また一般的には下半身の病に霊験あらたかであるとされています。

便所は不潔な場所であるゆえ、日本では古くから人々はこれを「怨霊や悪魔の出入口」と考えており、このため、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まったのでしょう。

烏枢沙摩明王はとくに曹洞宗の寺院で祀られることが多く、伊豆以外にも海雲寺(東京品川)、瑞龍寺(富山高岡市)、万願寺(千葉県)、来振寺(岐阜県)、観音正寺(滋賀県)、大龍寺(京都市)などがあります。静岡でもほかにもうひとつ、袋井市に秋葉総本殿というお寺で烏枢沙摩明王を祀っているようです。

この明王はまた、胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、男児を求めることが多かった戦国時代の武将に広く信仰されてきており、「烏枢沙摩明王変化男児法」という祈願法として今も伝わっています。何かと争乱の多かった伊豆でも男子が常に求められており、明徳寺でこの明王が祀られていることもこれとは無関係ではないでしょう。

ちなみに「トイレの神様」で有名になった、シンガー・ソングライターの植村花菜さんは、明徳寺でこの曲のヒット祈願をして絵馬を奉納したそうです。

便所のことをなぜ昔の人は東司といったかですが、これは元々仏教寺院における便所を守る神様のことでした。が、やがて便所の建物をさす言葉となり、曹洞宗のような禅宗寺院では古くは重要な伽藍であり、立派なものも多かったようです。通常、東司と西司の二つがあり、この伽藍を管理する寺の役職名として、「西浄」と「東浄」のふたつがありました。

が、東司や西司とされる遺構で現存しているものは少ないそうです。また二つも同じ役職があるとややこしいためか時代とともに西のほうがなくなり、「東浄」と「東司」だけが残りましたが、やがてトイレの管理者も不要ということで「東浄」という役職は消え去り、そして、トイレのことを東司とよぶ風習だけが残りました。

しかし、現在ではこの東司という言葉も使いません。ちょっと東司に行ってきます、といっても通じることはまずありません。また厠へ行く、という人もそれほど多くなく、便所、という響きもなにやら汚らしく聞こえるためか、たいていの人は「トイレ」と呼びます。

このトイレは、いわずもがなですが、大小便の排泄の用を足すための設備を備えている場所であり、悪臭を放ち周辺の環境を汚損するおそれのある汚物を衛生的に処分するための機能を持っています。

近年の日本では、施設の多くが水洗ですが、日本以外では乾燥させたり、燃焼させたり、乾燥地帯では砂を掛けて糞便を乾燥させて処分する様式も見られます。が、衛生的に処理できればその方法はなんでもいいわけです。気候・風土・生活習慣によって、求められる機能も様々であるため、世界各地には様々な便所が存在します。

不潔、不浄なイメージが強いため、日本も含め、多くの文化圏で婉曲表現が存在します。日本の「厠(かわや)」という呼び方は古く、「古事記」に既にその記載があるそうで、ただし、文字は施設の下に水を流す溝を意味する「川屋」だったようです。

時代が更に下ると、あからさまに口にすることが「はばかられる」ために「はばかり」「手水(ちょうず)などと呼ぶようになり、中国の伝説的な禅師の名から「雪隠(せっちん)」という語も使われるようになりました。

これは唐の時代の人で、正式には雪竇(せっちょう)禅師と呼ばれていたようですが、なぜこれが雪隠になったのかについては諸説あります。

ひとつは、雪竇禅師がいた中国浙江省の雪竇山霊隠寺で便所の掃除をつかさどったという故事から、また、この霊隠寺というお寺にトイレの掃除の大好きな雪という和尚がいたため、和尚の名前の「雪」と寺の名前の「隠」をとって雪隠という言葉が生まれたという説。

さらには、これは中国由来ではなく、日本にあった雪隠寺というお寺の雪宝和尚という人がトイレで悟りをひらいたから、あるいは、上でも述べた「西浄」の読みの「せいじょう」が、「せいじん」となり、さらになまって、「「せっちん」になったという説など色々です。

また、中国ではかつて、青い椿を便所のそばに植えて覆い隠したことから、トイレを青椿(せいちん)と呼んでいたそうで、この「せいちん」がなまって「せっちん」になったという説もあります。

青い椿?ということなのですが、この当時には時に国一つが買える値段で取引され、万病にも効く薬だとされた蒼椿があったという伝説があるようで、本当にあったかどうかはわかりません。が、椿をトイレの側に植える風習があったとみえ、これを隠語で蒼椿と呼んだのでしょう。

2014-6190

さらに時代が下り、昭和になると「ご不浄」から「お手洗い」「化粧室」としだいに表現がより穏やかなものが使われるようになりました。また、「男性化粧室」と表記する施設もあるようですが、男子は化粧しませんからこの表現は少々ヘンです。戦後では「トイレ」が主流となり、Water Closet の頭文字をとって「W.C.」などが使われるようになりました。

Closetは倉庫、納戸の意味があり、水が出る小屋、というほどの意味でしょう。これももとは暗喩です。また、「トイレ」は元々「トイレット(toilet)」という英語ですが、これは「化粧室」の意味です。が、「便器」の意味もあるようなので、欧米ではあまり使いません。

日常会話では、住居において同室に設置されることが多い風呂と合わせて「Bathroom」と呼ぶことが多く、本来は「休憩室」を意味する「Rest Room」のも多いようです。あるいは「Men’s/Lady’sRroom」と婉曲的な表現が用いられることもあります。

日本語の「便所」は、「便器」とおなじく、かなり直接的な表現です。このため近年では、公衆便所を公衆トイレに変えるべきという議論をわざわざ行った自治体もあるといい、例えば東京荒川区では「便という言葉に不潔なイメージがあり、語呂も悪い」という理由で、公衆トイレに変更する条例案が区側から提出されたことがあります。

荒川区議会でこれを議論した結果、この条例案は賛成多数で可決、本会議で採決されることになったといいます。しかし、もともと「便所」という用語もまた婉曲的な表現だったということをこの議員さんたちは知っていたのでしょうか。

便所の語源は「鬢所(びんしょ)」であり、「鬢」とは頭部の左右側面の髪のことで、室町時代の貴族の家で、この鬢を整え身支度をする場所を鬢所と呼んでいたことに由来します。

また、身支度に適した便利な場所という意味から「便利所・便宜所」が変化したという説もあります。いずれの場合でも、現在使用されている「化粧室」に近い丁寧な表現だったことが理解できます。が、いつのまにやらこれもまた汚らしいイメージを持つようになってしまっており、これは、排泄物のことを「便」と呼ぶようになっためでしょう。

2014-6192

古くは「糞」といっていたものを、明治時代あたりから便と呼ぶようになったようで、「便の」原義は「順調、スラスラ」ということです。他に簡便、至便などの言葉がありますが、もともとは「好都合」の意味であり、「郵便」とは好都合な伝達・通信手段の意味です。

排泄物ということで、便もまた、「スラスラ出るもの、出ると快適で好都合なもの」の婉曲表現だったものですが、時代を経るにつれて、婉曲表現としての機能を失っていき、排泄物そのものととられることが多くなり、これが便所の「便」と重なったわけです。

従って「便所」という言葉には、元々の語源である「鬢所」の意味と、「便を出す所」という二つの意味があるわけです。このように時代ごとの背景により、ふだん使いしている言葉の意味が変わっていくというのはよくあることです。

「ご丁寧」、とか、「ご立派」というのも本来は美化語ですが、最近は「ご丁寧にも」とか「ご立派なことで」とかマイナスイメージで使われることが多くなっているのと同じです。便所という言葉も時代とともに捉われ方が変わってきており、現在の「トイレ」もいずれは汚いと思われるようなり、違う表現に改められていくのかもしれません。

この便所そのものは古墳時代からもうすでにあったようで、それ以前の弥生時代の遺跡にも下水道のような構造が見られることから、遅くともこの時代には排泄専門の施設として便所が成立していたと考えられます。

「古事記」や「日本書紀」には、皇族が厠に入ったところ誰それに狙われた云々といったことが書かれているそうで、厠で暗殺された人物の記述もあるといい、さらに平安時代の貴族は「樋箱」というおまるを使用していたこともわかっています。

一方、「餓鬼草紙」といった絵巻物には、庶民が野外で糞便する光景が描かれており、このことからこのころの一般の人は便所を使用しなかったことが伺われます。しかし、のちには宮廷で主流であった穴を掘っただけの汲み取り式便所が登場するようになり、これは設置がいたって簡単であることからその後長い間日本のトイレの主流となりました。

ところが、皇族や高い身分の武士はさらに進化していました。とくに貴人の排泄物から健康状態を確認するといったことが行われたため、引き出し式トイレが普及し、これによって側人が主人の健康を管理するといったことが行われるようになりました。

が、これは身分の高い人のみの特権であり、一般にはやはり汲み取り式のトイレが普通であり、鎌倉時代~戦国時代における京都などの都市部では、各家庭に厠が付くようになりました。戦乱の時期でもあったことから、武家の家のトイレでは襲撃に備えて人が座った正面にも面に扉があったといいます。

2014-6196

時代が下って江戸時代になると、とくに農村部では大小便(し尿)を農作物を栽培する際の肥料としても使うようになり、高価で取引されるようになりました。江戸、京都、大坂など人口集積地では、共同住宅の長屋などに共同便所が作られ、ここに集まるし尿を収集し商売するものが現れました。

農村部でもし尿を効率的に集めるため、母屋とは別に、独立して便所が建てられるようになりましたが、この頃のトイレは母屋の外に設けられるのが普通であり、とくに田舎ではこの形式はその後戦後まで普通でした。

民家が密集する都会では、わざわざ外にトイレを作るよりも母屋に設置したほうが効率的なので、田舎よりも早くトイレが母屋に移動するようになったと思われますが、それでも戦後すぐにはトイレ別棟は普通だったようです。

江戸時代より前の便器は大型の瓶であり、その上に大きな木枠、木の板を乗せ用を足す事が多く、また、小さな川の上に便所を設置することもあり、これが川屋と呼ばれるようになり厠の語源になった、とは上でも書きました。また琉球などにおいては中国と同じように、便所の穴の下でブタを飼い、餌として直接供給する豚便所も存在していたそうです。

大正時代から昭和にかけて、トイレ後の手洗いがそれまでの水盆式手水(ちょうず)から、軒下につるされた陶器、ブリキ、ホーロー製等の手水を使用する形式になりました。「手水」は、トイレに行くを意味する暗喩となり、これが現在も「お手水に行く」や「ご不浄」、「御手洗」等の現代にも使用される言葉として残っています。

その後、農業へのし尿の利用は廃れていきました。日本を占領した連合国軍のアメリカ軍兵士は、サラダなど野菜を生で食べる習慣があり、回虫など寄生虫感染防止という衛生上の理由から、このし尿利用による野菜栽培を禁じました。

また、化学肥料など他の肥料の普及などからし尿の利用価値が低下し、高度経済成長期にはまったく取引は行われなくなり、このため、汲み取ったし尿は周辺の海域に投棄されることが多くなりました。しかし、国際条約によってし尿の海洋投棄が禁止されることになると、下水道の整備や浄化槽の設置が進みました。

この「下水道」に関しても歴史は古く、最古の下水が弥生時代にはや建造されていたというのは上でも述べたとおりです。安土桃山時代には豊臣秀吉によって太閤下水と呼ばれる設備が大阪城付近に造られ、現在でも使用されています。

江戸時代にもその末期には江戸の神田界隈で煉瓦や陶器を使用した下水道設備が造られたようですが、これらは1923年の関東大震災で壊滅的な被害を受けたため、まとまった遺構としては残っていません。その後全国で下水道の整備が進められるようになり、2014年現在では下水道普及率は約76%だそうです。

2014-6197

下水道の普及とともに、トイレの便器もまた改良され、発展してきました。現在のような衛生陶器は19世紀中期にイギリスで開発され、19世紀後期にかけてアメリカで技術が確立されました。日本では幕末に、以前の木製便器を模した陶製便器の生産が始まっていましたが、無論現在のように洋式ではなく、和式が100%でした。

日本で本格的に陶器製の便器を製造し始めたのは、現在のTOTOです。日本陶器合名会社(現:ノリタケカンパニーリミテド)の製陶研究所が母体となり、1917年に東洋陶器株式会社として設立され、その後この会社を母体とする森村財閥が形成されました。

創業者は森村市左衛門といい、その義弟である大倉孫兵衛、孫兵衛の長男の長男・和親らが出資者となって作られたのが東洋陶器株式会社であり、この会社が設立されたのは現在の北九州市小倉北区にあたり、ここは当時、福岡県企救郡と呼ばれていました。

創業から1960年代までは食器も製造していました。特に瑠璃色の色付け技術を得意としており、現在のロゴマークTOTOの瑠璃色の色はこれが起源です。大倉孫兵衛の孫の大倉和親は、1903年に製陶技術の視察のために渡欧しており、この時に衛生陶器(浴槽、洗面台、便器など)の知識を得て製造に関心を持ったとされます。

その後も洋風建築の増加にともなって衛生陶器の需要が増えたことから、大倉孫兵衛・和親の私財10万円によって日本陶器社内に製陶研究所が設立され、衛生陶器製造の研究が始まりました。

そして硬質陶器質の衛生陶器を生産するため、1913年から1916年にかけて試験的に手洗器・洗面器類が6541個、水洗式の大便器が1432個、同じく小便器が1249個も試作された、という記録が残っています。

さっそくこれを販売したところ、この試験販売の結果は大変好評であり、これを受けて大倉和親は事業化を決定し、1917年に東洋陶器株式会社として正式に発足。福岡県企救郡板櫃村に約17万平方メートルの土地を購入して工場を建設しました。

この地を選んだのは、当時、日本一の石炭生産量を誇った筑豊炭田に近く、陶器製造のために必要な火力を得るための燃料の調達が容易だったためです。また、中国景徳鎮で作られる磁器の材料として有名な、「カオリン」を朝鮮半島から輸入するのにも好立地であり、また九州の天草陶石などの原料の調達にも便利でした。

さらに鹿児島本線と日豊本線の分岐に位置し、1899年に開港した門司港も近く、商品の配送に好都合であり、TOTO本社は現在もこの地に本社を構えています。

会社が発足当時は、衛生陶器の知名度自体が低かったため、大倉らは市場の拡大を目指して高所得者や旅館などのユーザー向けに衛生陶器を解説する冊子も制作しています。また、日本陶器から技術指導や素材供給などの協力を得て磁器製の食器を作りました。

2014-6200

その後、第一次世界大戦によるヨーロッパの生産能力低下などから海外での需要が大きくなり、コーヒーカップ・ソーサーなどがアメリカやイギリスに輸出されました。さらに海外の販路を開拓するために低廉な硬質陶器製食器を開発し、これは東南アジアなどに出荷され、衛生陶器とともに主力商品として育っていきました。

1923年9月の関東大震災では東京出張所が焼けましたが、住宅の復興にあわせて衛生陶器や食器の需要が発生し、丸ビルへの衛生陶器の納入などによって国内向けの売上が増加し、その後も東京市で下水道の普及が進んだことから衛生陶器の需要は伸びつづけました。この時期には皇居や那須御用邸、官庁、ホテルなど様々な顧客に衛生陶器を販売しています。

食器事業では、1926年の硬質磁器製の和食器製造の成功などにより、これが国内市場の売上を拡大させましたが、1969年、住宅の近代化などにより“本業”の衛生陶器・水栓等で十分に稼げるようになったことで、食器事業から撤退。また、略称の「東陶」が浸透したことなどから、現在のTOTOロゴの使用を開始しはじめました。

現在、日本における便器生産はこのTOTO、INAX(現・LIXIL)の2社による製造が大半を占め、ジャニス工業、アサヒ衛陶、ネポンなどがこれに続いています。そのなかでも最もやはりTOTOのシェアは高く、これは約50%であり、約25%のINAXがこれに続きます。

便器は重く嵩張るため、製造コストが安い中国などの発展途上国からの輸送では引き合わず日本市場はほぼ国内メーカーで占められ、将来的にもこの傾向は変わらないとみられています。同様の理由で日本の便器が輸出されることもなく、需要地での現地生産が主なものとなっています。

日本の便器メーカーは海外でも積極的に販売を行っており、現在最も日本のメーカーの便器が販売されている国は中国で、TOTOだけで毎年100万台以上販売されるといいます。

近年では、温水洗浄便座の普及によりパナソニック電工(現・パナソニック)、東芝、日立アプライアンス等、家電品メーカーの参入が盛んですが、これらのメーカーは焼き物の製造は出来ず「便座」部分への参入に留まっています。しかし最近ではパナソニックが樹脂製や有機ガラス系の便器を開発しシェアを伸ばしていてきています。

逆に便器のトップシェア2社は、エレクトロニクス制御技術や陶器以外の新素材導入では家電品メーカーに水を空けられており、温水洗浄便座では苦戦しています。

2014-6201

この温水洗浄便座も現在の日本のトイレを語る上においては無視できない存在です。洋風便器に設置して温水によって肛門を洗浄する機能を持った便座であり、「ウォシュレット」や「シャワートイレ」などと誰もが呼びます。が、ウォシュレットはそもそもTOTO、シャワートイレはINAX(LIXIL)の商標です。

日本ではこの温水洗浄便座を装備した便器が増加しており、現在の普及率は80%に迫る勢いです。内閣府の消費動向調査によると日本における温水洗浄便座の世帯普及率は1992年には約14%だったものが2000年には約41%、2008年には約68%、2010年には71.3%に達しています。最新の統計ではおそらくほぼ80%くらいではないでしょうか。

ところが、最近、温水洗浄便座による火災や感電、漏水などの事故がしばしば起きており、これは、長年使用していることによる老朽化が一因とされるものが多いようです。温水洗浄便座は電化製品の一つとして、メーカーおよび業界団体では10年以上使用している製品については点検や取替えを勧める告知をしています。

また、ある研究グループが一般住宅や公共施設の温水洗浄便座の洗浄水を検査したところ、洗浄水から厚生労働省の水道水質基準を超える一般細菌が検出されたといい、ノズルの先端やすき間から細菌が侵入し、タンク内の温水で増殖したのが原因と指摘しました。

これに対して業界団体の温水洗浄便座協議会は、「これまで約4000万台が生産されているが、感染症などの健康被害は一件も報告されていない。タンクに水が逆流することは構造上ありえず、タンク内で菌が繁殖する危険性は低い。研究ではノズルにもともと付着していた汚物から菌が検出されたのではないか」と疑問を呈しました。

が、タンク内の水道水に含まれる塩素が揮発され、菌に適した環境下になりやすいことから、長期間使わないトイレの洗浄便座を使うときには注意するにこしたことはありません。

ところで、温水洗浄便座は日本人が発明したと思っている人も多いでしょうが、実はアメリカで医療・福祉用に開発されたものが最初です。

日本では1964年に前述の東洋陶器がアメリカンビデ社(米)の「ウォシュエアシート」を輸入販売開始したのが始まりとされます。その後、ライバルのINAXも1967年に国産初の温水洗浄便座付洋風便器「サニタリーナ61」を発売、TOTOも1969年に国産化に踏み切りました。

ただ、初期のこれら商品は温水の温度調節が難しかったことから温水の温度が安定せず、火傷を負う利用者もいたほか、価格も高く普及は程遠いものでした。70年代以前はまだ和風便器も多く採用されており、下水道の普及も進んでいなかったのが不振の一因です。

しかし、TOTOはあきらめず、独自に開発を進めてゆき、1980年、「ウォシュレット」の名称で新たな温水洗浄便座を発売しました。このウォシュレットでは温水の温度調節、着座センサーの採用、さらにビデ機能の搭載などが盛り込まれ改良が年々進みました。

やがて日本人の清潔志向の高まりとTOTOの積極的なCM展開が普及へと繋がることになります。1982年には当時話題を集めていた女性タレント、戸川純を起用したCMで流された「おしりだって、洗ってほしい」のキャッチコピーが話題になりました。

ところが初回のこのCMの放映時間がゴールデンタイムであったため、視聴者からは「今は食事の時間だ。飯を食っている時に便器の宣伝とは何だ」などとクレームが入り、おしりという言葉を使用したことなどについても批判されました。

しかし、このCMはこの批判を乗り越えるだけのインパクトがあり、これをきっかけにウォシュレットの販売は順調に伸びていきました。1980年代半ばには伊奈製陶が「サニタリーナ」に代わって「シャワートイレ」の名称を前面に出すようになり、また松下電工(現:パナソニック)を始めに家電メーカーも参入しはじめました。

1990年代には日本の新築住宅で多くが温水洗浄便座を採用することになり、さらにオフィスビルや商業施設、ホテルといったパブリック用途にも採用が広がり、2000年代には住宅/パブリック問わず採用されるのが一般的となってきています。

さらに鉄道駅、鉄道車両のような不特定多数の利用がある場所でも、採用例が出てきたほか、和歌山県は2013年に県内全公衆トイレに温水洗浄便座を設置する計画を発表しました。

2014-6218

一方、温水洗浄便座における世界のシェアは大部分は日本の企業ですが、海外ではその普及度といえばまだまだけっして高くなく、どこの先進国でも数%にも満たないようです。これはアメリカやヨーロッパなどではコンセントが便所に無いことが原因のようです。

しかし、最近では特に中国の富裕層に人気で、お金持ちの家を訪ねると結構な確率で見かけるようになっています。成田空港や秋葉原で温水洗浄便座の取り付けキットを抱える中国人や他のアジア人の姿も多く見かけられるようになっており、使った事のある外国人の口コミが広がっているようです。

温水洗浄便座の先駆け、TOTOもまたホテルや日本料理店に温水洗浄便座を置いてもらい、「口コミ」を狙っているといい、イギリスではかなりの話題になってきているといいます。

英大衆紙デーリー・エクスプレスは「未来型トイレ」との見出しで、「便座が温かくなり、紙がいらない文明の利器」と絶賛。実際に使用した英紙ガーディアンの記者も「これまでの人生で最高のトイレ経験」と感想を述べたといいます。

温水洗浄便座を設置したロンドンの和食レストラン「幸(さき)」には英メディアや顧客からの問い合わせが相次いでいるそうで、トイレだけをのぞきに来る人も多いといいますが、
英国の一般家庭で利用されているのは、まだわずか200台ほどで、レストランなどの店舗や公共施設では、この幸が初めてだったといいます。

しかし確実に、日本製の温水洗浄便座はシェアを拡げつつあるようで、アメリカでもセレブや芸能に関する情報誌「IN TOUCH WEEKLY」の電子版で、俳優のレオナルド・ディカプリオさんが最近ハリウッドヒルズにある自宅を改築した際、トイレはTOTOの最高級トイレを購入したと報じました。

彼は、「便座が暖かく、ウォシュレット機能付き。トイレは自動で蓋が開閉し、水も自動で流れ便器を清浄。リモコンも付いている。水も節約できる」と絶賛しているそうで、同紙も、「環境に気を使う彼だからこそこのトイレを選んだ」と書いているそうです。

TOTO広報によると、初めて日本に旅行に来た外国人がホテルに泊まった際に、特に感激するのがウォシュレットなのだといい、ディカプリオ以外にもマドンナや、ウィル・スミスなどの著名人も使って驚き、テレビのインタビューなどで絶賛したのは有名な話です。

いいものは必ず売れます。日本が温水便座の輸出大国になる日がいつか来ることでしょう。最近海外へ旅行することがめっきり少なくなった私ですが、次回渡航することがあれば、その国で日本製のウォッシュレットが使えるよう願いつつ今日の項は終えたいと思います。

2014-6225

秋の眠りは……

2014-63999月も下旬に入りつつあり、我が家の庭先にはヒガンバナが咲き誇っています。

ヒガンバナの名前の由来であるお彼岸ももうすぐ。暑さ寒さも彼岸まで。これから迎える豊かな秋に向けて、少々心がざわついているのは私だけではないでしょう。

伊豆で迎える秋ももう今年で3回目になります。自然豊かな地であるがゆえに、あちこちに紅葉のきれいなところはあるようですが、京都や奈良の紅葉の名所のように知名度の高いところといえば、すぐ近くにある修禅寺自然公園か麓の修禅寺温泉ぐらいであり、他は地元の人さえもあまり行かないような山奥が多いようです。

このため、ネットで何を調べても、ここの紅葉がきれいだった!と評判の場所がヒットせず、行く場所にあぐねてしまう、というのがこれまでのパターンでした。

ならば今年は少し趣を変え、今までいったことがないような場所にも飛び込みで積極的に行ってみて、これこそが伊豆の紅葉の名所!といえるようなところを自分で探しあてようと思ったりしている今日このごろです。

それにつけても日の長さはどんどんと短くなっていて、日中に行動できる時間が限られるのがこの季節の難点です。が、一方ではその分、月や星を賞でたり、読書や夜なべにいそしんだりする時間が増えていい、という人もいるでしょう。

とはいえ、私は基本的には朝型であり、夜明けとともに起きて活発に動き、日が沈むころには力尽きて眠たくなる、というパターンです。このように、早寝・早起きを好む朝型の人は、「ヒバリ型」ともいうそうで、これはヒバリが他の鳥たちと比べてみても早起きで、朝もはよからピーチク・パーチク上空で囀っているからでしょう。

逆に、遅く眠り、遅く起きる夜型の人は、「フクロウ型」というそうで、これは言うまでもなくフクロウが夜行性の鳥であるためです。こうした人それぞれが持っている生活リズムは、一般的には「体内時計」によるものだといいますが、これはより専門的には「概日リズム」と呼ぶようです。

平均的には、約24時間ちょっとで変動する生理現象であることが分かっており、ヒト以外の動物、植物、菌類、藻類などほとんどの生物に存在している現象です。「概日」の「概」は、英語の“circadian”の冠詞である“circa”が「約、おおむね」を意味することから来ており、またdianはdiesから来ていて、「日」を意味します。

つまり、“circadian rhythm”とすれば、「おおむね1日のリズム」といことになります。1729年にフランスのジャン゠ジャック・ドルトゥス・ドゥ・メランという長ったらしい名前の科学者が発表した科学論文の中で初めて使われた用語で、彼は植物オジギソウの葉が、外界からの刺激がない状態でも約24時間周期のパターンで動き続けることに気づきました。

植物は光合成で生活していますから、基本的には昼間に活動し、花などは夜間は閉じられることが多く、植物の中には夜間は葉を閉じるものもあります。ドゥ・メランが気付いたオジギソウの動きとはこれであり、ほかにはネムノキなども夜に葉を閉じますが、このような植物の動きを「就眠運動」といいます。

しかし、中には逆に夜間に花を開くものがあります。これは、主に夜行性の動物を花粉媒介に利用している植物です。が、一般の植物は、昼は光合成と呼吸をしており、夜になると光合成をやめて呼吸のみをするようになり、動きを止めます。

このため、夜になると、昼に比べて大気中の酸素濃度はわずかに減少し、二酸化炭素濃度は増加することが知られています。これは植物が日中は二酸化炭素を吸い、光合成によって酸素を生み出しているものが、夜になるとその活動をやめてしまうために他なりません。

夜になると活動を止めるのは動物も同じです。ただ、動物の中には、夜に主に活動するものもあり、これがよく言われる、夜行性、昼行性という区別です。ヒトもまた元々昼行性動物ですが、火を使用し、さらに電灯などを用いるようになり、現在では昼夜を問わず活発に活動するようになりました。

しかし、基本的には現在でもヒトの昼行性は維持されていると考えて良いでしょう。他の動物もその多くが昼行性です。ただ、熱帯地方の砂漠などでは、夜行性の動物が圧倒的に多いそうで、これは昼間は活動するにはあまりにも過酷な環境であるためです。

2014-6104

さて、一般的な動植物の体内時計を司る、概日リズムは、次の3つの基準で定義されています。

1. 白夜や逆に暗黒の世界であっても、約24時間の周期を持続する。
2. リズムの周期は、日昇や日没などの光や闇といった刺激によってリセットされる。
3. リズムは、一定範囲内の温度において周期が変わらない。

3.の一定範囲内の温度において概日リズムが変わらないことを、「温度補償性を持っている」ともいいますが、これは裏返せば温度が急激に変化するような状態ではリズムが狂う、ということになります。天候不順などで気温差が激しいときに体調を崩す人が多いのはこのためのようです。

この概日リズムは、動植物すべてが持つ「時計遺伝子」と呼ばれる遺伝子群によって引き起こされます。動物では“period”、“clock”、”cryptochrome”と命名されている遺伝子などによって司られていることなどが知られています。

こうした遺伝子は、進化上最も古い細胞に起源を持っているといわれています。太古の地球にはまだ十分な大気がなく、このため生物は、昼間はかなり有害な紫外線にさらされていました。こうした環境下では、傷ついたDNAが複製されてしまうため、これを回避するため、DNAの複製は基本的には、夜間に行われることとなりました。

これが、「概日リズム」という形で遺伝子に残り、現在ではほとんどの植物や生物が持っているというわけです。とくにヒトを含む動物において、この概日リズムは、睡眠や摂食のパターンを決定する点において重要です。脳波、ホルモン分泌、細胞の再生、その他の多くの生命活動において概日リズムが影響を与えます。

概日リズムが一時的に狂う現象としては、夜更かしによる不眠や航空機による移動により生じる時差ぼけが良く知られており、この症状の緩和に「強い光が有効」であることも広く知られています。これは、こうした症状の発生メカニズムを細胞レベルの実証実験で証明した結果得られた所見です。

また、外界からの刺激を絶たれた環境下で生活している人は、睡眠・覚醒リズムがずれてきますが、このような体内リズムの乱れは規則正しい明暗サイクルを与えることで解消されることもわかっています。こうした乱れた環境から元に戻すためには、朝晩規則正しく明暗の刺激を与え、これによりリズムを「リセット」します。

例えば宇宙飛行士は真っ暗な宇宙ではとかく体内リズムを崩しがちですが、こうした研究成果から、最近では宇宙船の中に明暗サイクルを模擬した環境を作ることで健康を維持するように仕向けています。

しかし、こうした宇宙のような一年中真っ暗な場所で生活する、というのは極端な例です。通常の人は、朝には陽を浴び、夜は日没によってもたらされる暗闇に促されて眠りにつきますが、こうした本来は、普通の概日リズムを持っている人が、現在では朝型と呼ばれています

一方では、仕事などによる生活パターンによっては、眠る時間がだんだんと後ろへずれて夜型になる人もいます。が、それでも正常な概日リズムを保ち、日常生活に差支えがなければ、誰からも文句を言われる筋はありません。

朝型か夜型かに係わらず、ノーマルな概日リズムを持つ人は、だいたい次のようなパターンを持ちます。

1.朝は予定した時間に起きる事ができ、夜は十分な睡眠がとれるように予定した時間に入眠することができる。
2.望みどおりに、毎日同じ時間に睡眠・覚醒できる。
3.いつもより早く起きなければならない新生活を始めた後も、数日経てば夜もいつもより早く眠ることができるようになる。

3についていえば、例えば、午前1時に眠り、午前9時に起きる習慣のある人が、新しい仕事に就き、月曜日からは午前6時に起きなくてはならなくなったとしましょう。その人は次の金曜日ころまでには、だいたい午後10時ごろに眠り始め、午前6時に起きる事ができるようになります。

2014-6109

こうしたこの早い睡眠・覚醒時間への適応のことを専門用語で「睡眠相の前進」といい、健康な人は、睡眠相を一日におよそ1時間前進させることができるそうです。

また、通常の生活において24時間の昼・夜のサイクルを維持しようとするならば、規則的な環境の時刻情報を常に得ることが重要だといいます。例えば日の出、日の入りを確実に認知する、といったことのほか、朝食や夕食を決まった時間に摂る、といった毎日同じ時間に同じ作業を繰り返し行うといったことが有効です。

これによって、時刻情報を知った脳が細胞にこれを伝え、通常の概日リズムになるよう外界と調和させることができます。

ところが、最近のように昼夜逆転といった不規則な生活をする人が多い時代には、この概日リズムが何をやっても、元に戻らず乱れてしまう、ということもありがちです。これを「概日リズム睡眠障害」といい、この障害を持つ人は出勤、登校、その他の社会生活において要求される通常の時間に寝起きすることができません。

もし自らの体内時計の要求する時間に自由に寝起きすることが許される、例えば昼過ぎまで寝ていて、夜は朝まで起きているという生活パターンが許されるならば、通常十分な睡眠をとることができ、睡眠の質も通常なことが多いのですが、学校へ行ったり仕事を持っている人はそういうわけにはいきません。

このため、中には「非24時間睡眠覚醒症候群」という症状に陥る人もおり、これは概日リズムの乱れによる慢性的な睡眠障害であり、睡眠障害の中でも重症の部類に入ります。

この病気の原因は、環境の時刻情報に反応して睡眠覚醒リズムを調節する能力の低下にあると考えられており、こうした人達は通常より長い概日リズムにシフトするようになっており、時刻情報に十分に反応することができないようになってしまいます。

最近の研究では、健常者の概日リズムは成人であればだいたいどの年齢層も、平均で24時間11分であることがわかっています。が、非24時間睡眠覚醒症候群の患者の睡眠サイクルはこの時間を超えることが多くなり、このため、社会的に受け入れられる時間帯に寝起きすることができません。

例えば、最初のころは午前4時に就寝し正午に起床していたものが、だんだんと起床時間が遅れ、昼過ぎて2時になり3時になっても起きないというふうにずれていき、やがてはこれが当たり前になっていくため、日常のことをやろうとするあまりに睡眠時間が足らなくなり、通常の社会生活をおくる事が困難となります。

ヒトが睡眠をとる目的はまだ十分には解明されていませんが、心身の休息、記憶の再構成など高次脳機能にも深く関わっているとされ、このほか睡眠中には成長ホルモンが分泌されることがわかっており、子供の成長には欠かせません。また創傷治癒、肌の新陳代謝は睡眠時に促進され、免疫力の向上やストレスの除去などの効果もあるとされています。

2014-6110

睡眠を十分にとれないということは、こうした効果が十分に得られないということであり、通常の生活支障が出るのはもちろん、人格的なものにも影響を与え、場合によっては精神分裂病のような精神障害に至る可能性もあります。

こうした概日リズム睡眠障害の治療法としては、まず、「高照度光療法」というのがあり、これは患者に強い光を当て、患者の生物的な概日リズム調整する方法で、患者は、睡眠相の前進か後進に適した時間に、一回に30分~60分の間、10000ルクス以内の高照度の光に曝され、これによって睡眠を遅らせたり早めたりすることができるようになるそうです。

場合によってはメラトニンのような自然な眠りをもたらす薬や、覚醒をもたらす薬、また短時間作用型睡眠薬などを与えることもあるということです。また、行動療法というものがあります。これは、患者に昼寝やカフェインなどの刺激剤を与えないことが避けることや、睡眠と性交以外のときにベッドに入らないことを医師が指示します。

さらに、一番手っ取り早い方法に、「時間療法」というのがあり、これはなんのことはない、毎日1~2時間ずつ寝る時間を遅らせたり早めたりして調節するだけです。

が、そうした指示に従えなかったり、元々動機付けとしてそうしたことができないためにこの病気にかかっているわけであり、個人の意思でそういうふうに調節できるようになるのは簡単なことではないでしょう。こうした病気にかかってしまわないよう、日常から規則正しい生活を心がけることが肝要です。

一方では、この非24時間睡眠覚醒症候群ほどではないにせよ、より軽い症状で、朝起きれない、という人も多いでしょう。

これも病名がついていて、「睡眠相後退症候群」といい、英語の“Delayed sleep-phase syndrome”を略して「DSPS」とも呼ばれます。慢性的な睡眠のタイミングに関する障害と考えられており、概日リズム睡眠障害のひとつです。DSPSの患者は、ほぼ毎日といっていいほど遅い時間に眠りにつく傾向があり、朝起きることが困難です。

ただ、非24時間睡眠覚醒症候群と違って、就寝リズムが少しずつずれていくのではなく、毎日ほぼ同じ時間に眠り起きできるとされており、睡眠時無呼吸症候群のような睡眠障害を持っていない限りは熟睡もできます。ただ、通常と同様の睡眠時間を必要とするわけで、夜遅く寝れば普通の人が起きる時間に起きれないのはあたりまえです。

このため、数時間の睡眠しか取れないまま、学校や仕事に出かけるため起床しなければならないことになり、社会生活の上では困難が生じます。ただ、例えば、午前4時から正午までのように自由な時間に眠ることが許されているのであれば、よく眠り、自然に目覚め、再び彼らにとっての”夜”が来るまで眠たいと感じないのがこの病気の特徴です。

2014-6116

この症候群は通常、幼少期または思春期に発症し、思春期または成人期の始めになくなるといわれています。ただ、治療もできますが完全なる治癒はできないとされており、慢性的な不眠症の7~10%は、DSPSが原因であるとされるデータもあるようです。

しかし、こうした症状をDSPSだと断定してくれる、あるいはDSPSという病気を認識している医師そのものが少なく、このため、患者は治療を受けられなかったり、不適切な治療を受けたりしていることも往々にあるようで、中には精神障害による不眠症または、精神疾患と誤診する医者もいるようです。

睡眠相後退症候群とは逆に、「睡眠相前進症候群」というのもあり、これは睡眠相が望ましい時間帯から慢性的に前進しており、後退させることが困難な状態をさし、これはつまりはや夕方からもう眠くなり、夜中の2時3時には目が覚めると言った人です。

案外と私がそれかもしれません。午前中よりも午後のほうが集中力が落ちるため、極端な場合には仕事や生活にも支障が出ます。もっともたいていの人は午後になると疲れてきて仕事の能率は悪くなりますが。

このほか、概日リズム障害には、「不規則型睡眠」というのもあり、これは覚醒パターンとしての睡眠や覚醒の出現が不規則に起こり、一日に複数回睡眠するというものです。脳腫瘍がある場合などにも似たような症状が出ることもあるようですから、いずれにせよ、病気であり、こうした症状があったら、病院に行ったほうが良いでしょう。

このほか、いわゆる「躁うつ病」も、最近は概日リズム機能の低下と結びつけて考えられており、薬物によって上述の「時計遺伝子」に働きかけることで症状を改善する、といった治療もおこなわれているようです。

また、長期的な概日リズムの乱れは、体の健康を深刻に悪化させることもわかっており、特に心血管病を発生・悪化させるそうで、リズムの乱れは、内分泌・代謝系および自律神経系も影響を与えることから、高血圧になる人も多く、高血圧は心血管疾患を起こしやすくなります。こうした病気にも体内時計を考慮した投薬による治療が行われています。

2014-6129

気管支喘息もまた、概日リズム的な症状を呈することが多く、日中は内因性ステロイドというホルモンが分泌されているため発作が出ませんが、減少する夕刻〜明け方にかけて咳き込む症状が多く見られ、この病気には気温も影響しているということが言われています。

逆に糖尿病は、午前中のほうが午後と比べインスリン需要が高くなることが知られており、インスリン注射療法では午前中の投与量を多くします。このように、概日リズムは、よく知られている病気にも関係することが多く、病人もさることながら、健常者においても健康を保つために極めて重要なものであるといえます。

話しは変わりますが、古代インドで成立した思想・学問に「ヴァーストゥ・シャーストラ」というものがあります。

この教えは、ヨガのように心身の調整・統一を図る修業をするのではなく、また医学・健康法のようなものでもなく、どちらかといえば、現代の建築環境工学、都市工学、心理学、脳科学などに近い学問体系のようです。

インドでは住居や寺院の立地、間取り、インテリアの配置などを決定するため、こうした思想を伝統的に用いられてきており、いわゆる北枕はよくない、といった日常の行動についてもルールにも言及しています。

「インド風水」と称される場合も多く、「ヴァーストゥ」とは、サンスクリット語では「建築物」や「住居」を意味し、また、「シャーストラ」は「(~を扱う)思想・学問」を意味します。

「ヴァーストゥ」広義には「生命力」や「環境」などをも包含した概念を指し、気の流れと調和しようとする点では中国の風水思想と近いようです。が、立地や建物の間取りの方位など中国風水とは実践面で大きな違いがあるといいます。

その思想によると、自然は地(ブーミ)、水(ジャラ)、火(アグニ)、風(ヴァーユ)、空(アーカーシャ)という五つの要素で構成され、自然状態ではそれらのバランスが取れているとされます。他方、人工的なものはそのバランスが崩され副作用を起こすため、ヴァーストゥ・シャーストラによってバランスを取る必要があると考えられています。

2014-6130

なお、この五つの要素、すなわち五大何々という考え方自体が、古代インド思想であり、のちに仏教の思想体系に取り込まれ、仏教思想として日本を含む東アジア一帯に広まっていったものです。身近な例としては、主に供養塔・墓塔として使われている五輪塔がありますが、これも、ヴァーストゥ・シャーストラの流れを汲むものです。

この地、水、火、風、空の五つの要素は、以下のエネルギーにも相当します。

地:安定性を表すエネルギー
水:流動性、冷性を表すエネルギー
火:熱性や反応を表すエネルギー
風:軽快さ、運ぶ働きを表すエネルギー
空:空虚さ、空間性を表すエネルギー

自然界や人工物同様、人間の身体や気分、そして出来事も、これらの組み合わせ、あるいはそれぞれのエネルギーでできているとされ、すべてこれら五つのエネルギーで表現されるといいます。

例えば、「体温」は火のエネルギー、「物流」は風のエネルギーとして表され、また、「憂鬱」は火のエネルギーの増大として、「冷静さ」は地のエネルギーの安定性として、「落ち着きのなさ」は風のエネルギーの性質として表現されます。

さらに、この五大要素はその調和・バランスによってエネルギーの性質が変わり、正の調和は良いエネルギーを、不調和は悪いエネルギーをもたらすとされています。

土地や家に関しても、この五大要素のバランスのとり方によって生じるそのエネルギー量が変わり、その総和がプラスであるかマイナスであるかによって、そこに棲む人間の生活への影響も変わってきます。

こうしたヴァーストゥ・シャーストラの五大要素の中には、「光」は含まれていません。が、光はこれらとは一線を画す別の次元の重要な要素のひとつと考えられているようで、そしてこの考え方が、睡眠障害や情動障害などに一定の効果があるとされる「光療法」と同様の効果を持つという人もいるようです。

とくに光の中でも朝日が重要とされており、これは日中に比べ朝は紫外線が弱いため、過度の紫外線による影響を予防する効果があるためだ、という指摘をする人もいるようです。

インド風水においても、朝早く起きて朝日を浴びることを推奨しているわけで、これが健康を保ち、規則正しい生活をするもとになるのだ、と理解できます。なので、毎日夜更かしをしてお昼まで寝ている人は、その一番大事な自然の恵みを逸していることになります。

2014-6142

ちなみに、このヴァーストゥ・シャーストラは、インド本国においてはヒンドゥー寺院建築などに細々と伝えられるのみで衰退していましたが、近代以降、欧米諸国で注目を浴びるようになり、逆輸入される形で再び隆盛してきているそうです。

最近では、繊維メーカーから発し、巨大な石油化学メーカーとなり、最近では小売業や情報通信産業にも進出し世界有数の企業となっている、インドのリライアンス・グループの代表、ムケシュ・アンバニ会長が、ヴァーストゥ・シャーストラに基づいた、総工費約2000億円ともいわれる自宅を建設していることが話題になりました。

この家は、インドの西海岸に面するマハーラーシュトラ州の州都、ムンバイ中心部の一等地にあり、地上約170mもの高さがあります。本来、60階になるところを、各階ごとの高さを多めにとって27階建てにしたという贅沢な造りで、ヴァーストゥ・シャーストラに基づいた、インドの伝統的な建築デザインになっているといいます。

アメリカのフォーブス誌によれば、ムケーシュ・アンバーニーは、2008年度版の世界長者番付で第5番目となり、その資産が430億ドルといわれる大富豪であり、実弟のアニル・アンバーニーもまた関連する会社グループの代表で、同世界長者番付の第6番目に名を連ねており、兄弟の資産高を合計すれば世界一になるそうです。

そこまでの大富豪になれたのも、このヴァーストゥ・シャーストラの教えの賜物なのかもしれません。

アメリカでは、そんな大富豪もヴァーストゥ・シャーストラを利用していると聞き、急増するインド系市民を核に、一般層や企業にもこの思想が広がりつつあると言われており、マイクロソフト、amazon.com、ボーイング、世界銀行、NASA、オラクル等も、社屋の設計にヴァーストゥ・シャーストラを取り入れたと言われています。

ですから、これから家を新築される方は、一度研究されてみるといいかもしれません。3~4年前ころから、インドやアメリカで発売された翻訳本が日本でも発売されているようなので、ネットで探せば関連本がみつかるでしょう。

ただ、私も調べてみましたが、それほどまだ多くはないようです。まだ爆発的な大人気というところまで盛り上がってはいないというのが現状のようですが、案外とこれからブレークし、ブームなっていくのかもしれません。

秋の夜長に、ヴァーストゥ・シャーストラに関連本を一冊買って読んでみる、というのも良いかもしれません。が、概日リズムを崩して、睡眠障害にならないよう、気を付けましょう。

いつの世も「朝は夜よりも賢い」です。早寝早起きを実践しましょう!

2014-6295

富士とはやぶさ ~富士山

2014-51869月も中旬を過ぎ、夜になって富士山方向を見ても、灯りが見えなくなりました。

夏山登山の季節が終わり、夜間に富士山を目指す弾丸登山の登山者がいなくなったためですが、何やら花火が終わったあとの夜のようで、これはこれで何か寂しいかんじがします。

こうなると、次は富士の初冠雪はいつか、ということになりますが、平年では9月30日ころとなっています。が、去年はこれより19日遅く、10月19日でした。しかし、その前の一昨年は、9月12日と早く、今年もこの年と同じくらい涼しそうなので、そろそろ頂に白いものが見えてもおかしくはありません。

一方、富士山頂の富士山測候所では、2004年に測候所が廃止されるまで、初雪の平年値は9月14日でした。また、最も早い初雪は1963年の7月31日です。遠目には見えなくても山頂ではかなり早くから雪が降るのでしょう。

逆に最後に雪の降る「終雪(しゅうせつ)」の平年値は7月11日だそうで、こうしたデータからも富士山頂ではほとんど一年中雪が降っていることがわかり、いかにその環境が苛酷かが想像できます。

ましてや、真冬の富士の頂はほとんど死の世界かと思われますが、そんな厳冬期でも、富士山レーダーが運用されていたころには、ここに気象庁の職員が常駐していました。

この冬富士山測候所への「通勤」に関して、どんな状況だったのか調べてみると、この当時の気象庁の職員さんの関係者らしい方の記録が掲載されているHPがみつかりました。

その内容を少し引用させていただくと、富士山頂に向かう観測要員はまず、登山の前日より、富士山南東部、標高1500mほどのところにある御殿場口の太郎坊中腹の避難所に入ります。ここで翌朝4時には起床、このとき、山頂の気象データをその日登山が可能かどうかが決められます。

ここから歩いて登るのかと思いきや、そこはちゃんと「通勤バス」があり、これはこうした雪山を上るために設計された雪上車のことです。6時前にこの雪上車で太郎坊を出発。しかし、これで山頂まで一気に、というわけにはいかず、五合目で雪上車を降ります。ここからは道が急峻であるため、さしもの雪上車も登ることはできないためです。

この位置で既に標高約2600m。ここから帰っていく雪上車もまた、平均斜度25度の急坂を下ることとなり、下山もまた命がけです。もしもアイスバーンなどがあって滑落したら、雪上車ごとあの世行きです。

2014-2431

この五合五勺から山頂までは無論、徒歩です。ただ、ルートには鉄製の安全柵が設置されていて、これは所員の通勤確保のため作られた物です。現在も残っているらしく、この当時もそうですが、現在も一般登山者が利用しているようです。

2時間ほどで中間地点の標高3200mほどの7合8勺避難所に到着。食事や水分補給、高度順化も含め、ここで約1時間の休憩をとります。ここからは1時間ほどで山頂に到着するようですが、この最後の坂道はかなり斜度がきつくなっており、職員から地獄坂と呼ばれていたようです。さらに頂上に着いても、剣ヶ峰にある測候所に至る道もまた急坂です。

この測候所は、観測装置が置いてある観測棟とは別に居住棟もあったようで、これに付随して15トン水槽がふたつあり、ここに夏は天水、冬は雪や氷を入れヒーターで溶かして使っていました。トイレやキッチンのほか娯楽室、職員の個室も完備されており、ちなみにトイレは洋式ウォシュレット付き水洗トイレでした。

観測棟には、風向、風速、気温、露点温度、気圧、日射等のデータを観測する装置がひととおりあり、これらのデータを衛星通報システムを使って送っていました。また、データ整理などのためのパソコンも完備されていました。

この測候所が運営していた富士山レーダーは、これへの電源の確保のため、燃料を燃やしてタービンを回し、これから電気を取っていたようです。燃料は無論、雪の少ない夏の間にクローラーなどで上げておくのでしょう。これから6600Vの高圧電源が得られ、各棟の空調設備もこれによって賄われていました。

レーダー観測が行われていた当時は、5人一組を基本として、1回の勤務は約3週間。班長、気象観測、レーダー、通信、調理、とそれぞれ役割が決められていたそうで、基本的には観測は自動で行われるため、職員の主な仕事は各機器の保守点検でしたが、外部の観測機器の着氷落としなどの危険作業もありました。

また、強風や落雷などの恐怖もあったそうで、何もなければ平穏に過ごせるものの、必ずしもそうはいかず、つらいことも多かったようです。また、冬季の交替時の「通勤」はやはり危険なものであり、常に命がけだったといいます。

こうした努力もあり、1932年(昭和7年)に、外輪山南東の東安河原に公設の臨時富士山測候所が開設され、通年測候が行われるようになって以降、2004年(平成16年に完全無人化されるまで、富士山測候所では72年にもわたって貴重な気象データが蓄積されました。

観測所の廃止後、ここは2008年(平成20年)10月1日に「富士山特別地域気象観測所」と名称を変更。時に研究目的で使われることもあるようですが、平時は、観測棟や居住棟などは完全に閉鎖されています。

従って、現在は、仮に冬季に富士登山したとしても、避難スペースも有りませんし、仮に窓を壊して中へ入ったとしても、建物は機密性が高く空調が停止状態なので、中に入ると酸欠の恐れがあるそうです。

この富士山へ通勤する気象庁職員の麓における支援拠点は、観測初期の頃から御殿場太郎坊に置かれていました。臨時測候所が開設されてから9年後の昭和16年(1941年)に開設され、ここを拠点に御殿場口登山道を通って通勤や物資搬送が行われていました。

現在、この太郎坊にも種々の観測施設があるようですが、富士山頂測候所と同じく無人です。ただ、測候所に隣接して建てられていた避難小屋はまだ残されたままだそうで、「太郎坊避難所」として、現在も富士山測候所を利用する研究者達は、ここを出発点として使用しているようです。

この「太郎坊」という地名ですが、これは現在の太郎坊より北側に位置する富士山須走口で祀られていた「天狗太郎」を、明治時代初期ごろに御殿場口で祀るようになり、そのために建てられた神社を太郎坊と呼んだことにちなみます。当時は神社といいながら登山やスキーのための基地になっていたようです。

2014-5318

その後、この神社は富士山北側の吉田口五合目にある「小御嶽神社」に遷座されたか合祀されたかで消滅したようです。が、名前だけが残り、これゆえにこの地一帯が太郎坊と呼ばれるようになったものです。が、とくに地番や境界があるわけではなく、太郎坊の厳密な範囲ははっきりしていません。

1970年代にはリフトを備えた本格的なスキー場である御殿場市営スキー場も営業されていましたが、やや張り出した尾根上の地形で、所々で火山砂が露出しているような地形のため、雪崩が起こりやすく、このためスキー場は閉鎖され、今も冬季の太郎坊一帯への出入りは禁止されているようです。

御殿場市を見下ろす位置であることから、地上波アナログテレビ放送の御殿場中継局が設置されており、以前のブログ「丙午の空」でも書いたように、1966年にはここで英国海外航空機が墜落し、その慰霊碑が建てられています。

澄んだ空気を持つことから夏季にはアマチュア天文家がここを訪れ、このため天文ファンのメッカともなっているそうで、1994年には、ここで群馬県出身のアマチュア天文家が小惑星を発見し、これを「太郎坊」と名付けました。

発見したのは、「小林隆男」さんという方で、その後も会社に勤める傍らで天体捜索を続け、「のぼる」や「八咫烏」といった多数の小惑星を発見しており、その数は2341個にも上るそうで、これは日本の天文家としては最大の発見数です。

富士山周辺においては、太郎坊以外にもあちこちの天体観測ポイントがあり、ここでも小林さんは数々の小惑星を発見しており、これらには「田貫」や「朝霧」といった富士山周辺の地名が命名されています。

この「小惑星」ですが、ほとんどの小惑星は、太陽からの距離が約2~4天文単位の範囲に集まっているといいます。一天文単位は、地球と太陽との平均距離であり、その2~4倍とうことは、木星軌道と火星軌道の間に相当し、この領域は「小惑星帯」と呼ばれており、多くの天文家が発見してきた小惑星はその多くがここに由来します。

1781年に天王星が発見されて以降、この小惑星帯にある未知の惑星を探索する試みが行われ、1801年にはケレスという小惑星が、また翌1802年にパラス、1804年にはジュノー、1807年にはベスタといった具合に、次々と小惑星が発見されるようになりました。

ただ、この当時はまだ小惑星という言葉はなく、天王星や海王星と同じように惑星(planet)と呼ばれていました。しかし、いずれも惑星と呼ぶにはあまりに小さいことから、やがて惑星と区別される必要性が生じ、「小惑星(asteroid)」という用語が、1853年にはじめて考え出されました。

以後、軌道が確定して小惑星番号が付けられた天体は約33万3個にのぼりますが、これ以外にも直径1km程度、ないしそれ以下の「小々惑星」については未発見のものが数十万個あると推測されています。

また、番号登録されたもののうち、既に命名されたのは約17000個ほどに過ぎません。この小惑星の名前については、数ある天体の中では唯一発見者に命名提案権が与えられており、上述の太郎坊なども発見者の小林隆男さんの希望でつけられたものです。

発見者によって提案された新小惑星の名前は国際天文学連合(International Astronomical Union:IAU)の小天体命名委員会によって審査されます。

名前はラテン語化するのが好ましいというのが世界的な暗黙の了解事項のようですが、これはその昔は科学技術が発展していた欧州の科学者の特権ということだったためでしょう。が、現在では日本も含め英語圏意外の国の発見者も多いことから、必ずしも守られてはいません。

2014-4465

ただ、「発音可能な英文字で16文字以内であること」、「公序良俗に反するもの、ペットの名前、既にある小惑星と紛らわしい名前は付けられない」、「政治・軍事に関連する事件や人物の名前は没後100年以上経過し評価が定まってからでないとつけられない」、「命名権の売買は禁止などの基準があるそうです。

従って、「ムシャ&タエ」という小惑星名は付けられますが、我が家の愛猫を冠した「小惑星テン」というのはダメ、また、「おっぱい」や「あそこ」は無論、「イスラム国」なんてのは絶対ダメ、ということになります。

ところで、小惑星といえば、2003年に打ち上げられた日本の探査機「はやぶさ」は、この小惑星のひとつ、イトカワに2005年に着陸し、サンプルを採取したのち、2010年に地球へ無事帰還し、サンプルを納めたカプセルからは、イトカワ由来の微粒子が発見されました。

これは世界初の小惑星からのサンプルリターンであり、現在も容器内の微粒子の分析が続いているようです。が、このはやぶさでは、本来の目的であった岩石の採取を行うことはできず、またイトカワを自由に動き回るローバーの投入もしくじるなど、数々の失敗を重ねており、そのことは以前書いた、「はやぶさの失敗」でも詳しく書きました。

このはやぶさ1での失敗を教訓に、後継器として開発された「はやぶさ2」の打ち上げが、この年末に予定されており、いよいよその時期が迫ってきました。詳しい日時まではまだ公表されていませんが、2014年12月末にH-IIAロケットで打ち上げ予定です。

先月の8月31日(日)、JAXAは、相模原キャンパス内で、の報道関係者向けに、の「はやぶさ2」機体公開が行われ、と同時にその性能が明らかになりました。

新聞記事などによれば、基本設計は初代「はやぶさ」と同一ですが、「はやぶさ」の運用を通じて明らかになった数々の問題点が改良されています。

例えばサンプル採取方式は「はやぶさ」と同じく「タッチ・アンド・ゴー」方式であり、はやぶさ1では、着陸と同時に、弾丸程度の大きさの弾を撃ち込んで舞い上がった砂や岩石を吸引する、といったものでしたが、今回のはやぶさ2では、その打ち込む弾が格段に大きいのが特徴です。

2014-5484

この弾は、直径約20cm、重さ約10kgの円筒形をしており、「プロジェクタイル」と呼ばれます。中には爆薬を内蔵しており、探査機本体から切り離され、小惑星の表面で起爆させ、爆圧によって変形した金属塊を目標天体に突入させ、直径数メートルのクレーターを作り、これによって舞い上がった砂礫を採取します。

はやぶさ1に比べて格段に金属塊の大きさが大きいことから、小惑星表面だけでなく、小惑星内部の砂礫の採取も可能になるといい、その秘密はこのプロジェクタイルの形状が「はやぶさ」の弾丸型から円錐型へと変更されたことです。頂点の角度は90度に設定されており、これにより弾丸型よりも効率的な試料採取が可能となります。

ニュース映像でJAXAによるその実験の模様を見た人も多いかと思いますが、この公開実験では、はやぶさ2の射出機と同じタイプのものを使って、10mほど先の岩盤のようなものへの弾丸の打ち込みが行われました。私もこれを見ましたが、バズーカ砲による射撃訓練と見まがうかのような光景で、当たった先の岩盤は見事に砕け散りました。

また、この「射撃」によって開けられたクレーターにもはやぶさ2を軟着陸させ、粘りのあるシリコンで砂を採取する方法も考えられており、JAXAはこれら二つの方法を用意することでより確実に試料を取ることができるとしています。

さらには魚眼レンズを装備したカメラが搭載され、サンプリングの様子を撮影する他、巻き上げられた粒子の光学観測もはやぶさ2内で行うことでできるといいます。

今回目標とする小惑星体は、イトカワのような名前がまだ付けられていないもので、「1999 JU3」と記号で呼ばれています。これまでの国内外の観測結果からわかっているのは、自転周期は約7時間半と、これは約12時間の自転周期を持つイトカワよりも速いこと、直径は約920メートルで約540メートルのイトカワよりも若干大きいことなどです。

また形はイトカワとは異なり、割と球状に近い形をしており、強いていうならサトイモに近い形であること、また、「含水シリケイト」という、水を含んだ鉱物の存在する可能性があることが観測によりわかっています。

これは、この小惑星からの光のスペクトル分析などによって確認されたものですが、ただ含水シリケイトの存在は観測によって発見されたりされなかったりしているため、実際に存在するかどうかは不確定なようです。が、もしこうした鉱物が発見されれば、小惑星のような星にも水の存在が初めて確認されたことになります。

この1999 JU3の探査においては、はやぶさ1でイトカワに着地させることが出来なかった着陸ローバー「ミネルヴァ」による表面探査も行われます。

しかも、この「ミネルヴァ2」は1基ではなく、3基も搭載されているといい、これに加え、独仏で開発された「マスコット」というローバーも投入予定です。数さえ多けりゃいいのかと突っ込みたくもなりますが、何がなんでもこの小惑星の表情を捉えてやるんだという開発者たちの意気込みは伝わってきます。

2014-5492

このほか、はやぶさ2本体のはやぶさ1からの変更点としては、先代が航行途中にさまざまなトラブルに見舞われたことを踏まえ、安定航行を目的としてさまざまな変更がおこなわれました。

初代では信頼性強化の改造が裏目となり3基中2基が運用不能となったリアクションホイールも3基から4基へと増加され、なおかつ最後の1基はなるべく着陸時までは温存する運用を想定されているそうです。

リアクションホイールというのは、はやぶさ2の方向を、イオンエンジンなどの化学推進装置を使わずに変化させる姿勢制御装置で、1つの回転軸に対して、1つのフライホイール(円盤状のはずみ車)を電動モーターで回転駆動します。ほんの少しだけ機体を回転させるのに用いられ、これによっても燃料などを消費せずに済みます。

また、はやぶさ2では故障の多かったはやぶさ1でのパラボラアンテナに代わり、アレイアンテナを使用します。小さなアンテナを平面状に多数配列したもので、テレビアンテナをもう少し細かくしたものを想像してもらえれば良いと思います。

個々のアンテナの出力は微弱ですが、実際には複数のアンテナからの出力が合成されるので、結果として大出力が得られます。湾岸戦争で活躍したパトリオット地対空ミサイル用のレーダーや、アメリカ空軍の最新鋭の戦闘機のレーダー、国産の戦闘機・三菱F-2でも使われている高性能アンテナです。

さらにはこのアンテナでは、高速通信が可能であり、例えば万一自律判断によるタッチダウンが不可能になった場合などで、指令誘導をする必要に迫られた場合、迅速な指令を伝えることによって、すばやい姿勢制御が図れます。

はやぶさ1では、地球との通信を行うパラボラアンテナが3種備わっており、探査機の姿勢や電力状況によってアンテナは切り替えられ、いずれか1つが常に地球との通信を維持するようになっていました。ところが、原因不明の故障によってはやぶさが意図とせずにイトカワに着陸してしまったときが、このアンテナの受信状態を切り替えるときでした。

このため、地球からの、「どうしたんだ、何をやっているんだ?」という問いかけをはやぶさは受信できず、地上局側ははやぶさの着陸の事実を把握できていなかったという失敗がありました。が、今回は、アンテナそのものを変え、高速通信もできるようになってこのような極限時においても、速やかに指令運用を図ることが出来るようになりました。

こうした高性能の通信手段を持つことで、はやぶさ2からの細かい信号も受信できるようになり、この情報から万一化学燃料の配管に破損などがあった場合の再検討や、イオンエンジンやリアクションホイールの制御なども細かく行えるようになり、搭載した機器の細かいモニタリングや指令の伝達などに関する大幅な信頼性向上が図れるようになりました。

また、主エンジンである、イオンエンジンの推力も8.5mNから10mNへと向上した改良型が使用されており、このために従来1機しか搭載できなかったローバーの数を増やすこともできるようになり、また地球との往復時間の短縮をも期待できるようになりました。

2014-5493

ただ、目標とする1999 JU3はほぼ球形で、自転軸が黄道面に対して横倒しに近く、それが垂直でピーナッツ型をしていたイトカワでは、12時間の自転毎に天体全面を観察できたのに比べ、この自転軸と形状が災いして一日かけても全面を観察できにくいそうです。

このためイトカワでは観測が3ヶ月に過ぎなかったものを、今回は6倍の1年半を費やして調査する事になるということです。しかし、2014年に打ち上げられた場合、2018年に 1999 JU3に到着後、ここでの観測期間も含め、2020年末に地球へ帰還するまでほぼ6年で帰ってくることができます。

はやぶさ1の場合は、打ち上げが、2002年9月で、カプセルが大気圏に突入したのが2010年6月ですから、7年と9カ月かかっており、今回は惑星本体の観測期間が延びるにも関わらず、エンジンが改良されたことでかなり短い時間で帰ってくることができるわけです。

この対象となる小惑星1999 JU3は、現在軌道が判明している46万個の小惑星のうちスペクトル型が判明している3000個の物の中から選ばれており、これらの中からはやぶさクラスの推進力で探査可能な小惑星が選ばれ、さらにタッチダウン運用が可能な自転6時間以上の対象としてほぼ唯一残った対象だったそうです。

また、1999 JU3に短時間で効率的に到着するためには、2014年という年は極めて望ましいタイミングにあるといい、この機会を逃すと次回と同様な条件が整うのは10年後となるということであり、今回のフライトはまたとない希少なチャンスということになります。

そもそもはやぶさ2計画は、新たな生命の起源の存在を探すために企画されたものです。

ヴィルト第2彗星とそのコマの探査を目的として1999年2月7日に打ち上げられ、約50億kmを旅して2006年1月15日に地球へ帰還した探査機スターダストは、この彗星の尾から試料を持ち帰り、その後の分析でこの中からは「アミノ酸」が発見されました。

発見されたのは「グリシン」といい、生命体がたんぱく質を作るのに必要なアミノ酸の一種で、中に含まれる炭素の同位体比率が地球の炭素と異なることも確認され、地球上の生命の起源を宇宙に求める説が裏付けされたと、この当時話題となりました。

1999 JU3は「C型小惑星」と呼ばれる炭素でできた小惑星で、有機物が存在する可能性が高いといわれており、もし1999 JU3から採取されたのと同じ組成の有機物を含む隕石が地球で確認された場合、こうした小惑星と生命の起源との関連が考えられるといいます。

2014-5465

先月末にJAXAの相模原キャンパスで公開されたはやぶさ2の機体には、太陽電池パネルや地球との通信を担うアンテナ、小惑星から持ち帰るサンプルを入れるカプセルなどが既に取り付けられており、ほぼ完成形だということです。

今後、打ち上げ場がある鹿児島県・種子島宇宙センターに輸送され、今年12月に日本の主力ロケット「H2A」で打ち上げられます。

打ち上げ後、太陽を周回する軌道に入り、およそ1年後の来年12月ごろ、地球の重力を使って加速しながら進路を変更し、小惑星に向かう軌道に入ります。目的の1999 JU3に到着するのは、打ち上げから3年半後の2018年6月ごろの予定です。

その後、およそ1年半にわたって小惑星の近くにとどまり、さまざまな科学観測を行い、この間採取した石や砂をカプセルの中に詰め込んだ「はやぶさ2」は、2019年12月ごろ、小惑星を離れて地球への帰途に就きます。

そして東京オリンピックが終わったあとの2020年12月、長い旅路を経て小惑星の石や砂が入ったカプセルを地球に帰還させることになっています。その際、カプセルはオーストラリアの砂漠に落下させる計画ですが、「はやぶさ2」自体は大気圏に突入することなく、再び地球を離れて宇宙へ飛び立つそうです。

その先のミッションについては、JAXAは何も公表していません。この時点でまだたくさん燃料が残っていれば、新たな探査に出す可能性もあるのでしょうが、総飛行距離52億キロの旅のあと、さらにその工程を伸ばすのはなかなかに容易ではないでしょう。

おそらくは地球近傍の月とか、地球そのものの観測に使う、といったことが行われるのかもしれません。が、1977年に打ち上げられ、現在も運用されているボイジャー1号のように、地球から遥か彼方の星間空間を目指すために使うことができるのなら、それもまたいいかもしれません。

私が生きている間に、はるかかなたの宇宙空間からはやぶさ2を通じて宇宙人の声が届く……そんな夢をみながら、今日の項は終わりにしたいと思います。

2014-5499

ダーウィンがいた!2

2014-5026この項、「ダーウィンがいた!」から続く。

ガラパゴス諸島への旅も含めた世界一周の船旅から帰ったダーウィンでしたが、原因不明の病に苦しみ、帰国後に引き受けた地質学会の事務局長の仕事もなかなかこなせない毎日を送っていました。また航海中に思いついた「種の起源」についての研究を進めるために始めた、資料収集もままならず、悶々とした日々を過ごしていました。

このとき、ダーウィン、29歳。結婚適齢期でもあり、ちょうどこのころ、姉キャロラインとエマの兄ジョサイア3世が結婚すると自らも結婚を意識し始めました。

そして、この年の末についに、エマに正式にプロポーズ。前項でも書いたように、エマはダーウィン家と家族ぐるみの付き合いのある、叔父のジョサイア・ウェッジウッドの娘で、従妹にあたります。

しかし新居をロンドンで探している間にも病いは続き、婚約者のエマは彼に休みを取るよう訴えていたといいます。結局病状はそのままに、ロンドン中心部のガウアー通りに家を見つけ、クリスマスにはその後「博物館」と呼ぶことになるこの新居へ引っ越しました。

そして、このころには少し病いは安定していたため、1939年に英国国教会で二人の結婚式が行われました。ダーウィン30歳。そして、その年の12月には長男ウィリアムが誕生しました。

このころ、ダーウィンは世界でも最も古い科学学会である、ロンドン王立協会の会員に選出されており、それまでにかなり進化論の基礎となる、「自然選択理論」のフレームワークを確立していました。

この研究は畜産学から植物の広範な研究まで含んでいましたが、アイディアの細部を洗練させるためには、さらに調査が必要でした。そのための調査研究はビーグル号航海の科学的なレポートを出版するという主要な仕事の陰で行われ、以後およそ10年以上続きます。

33歳になったとき、その中間的な研究結果を端的にまとめるため「ペンシルスケッチ」と題した理論を書き始めましたが、さらに病状は思わしくなく、この年の7月ころには、早死にしたときに備えてこの「スケッチ」をさらに230ページの「エッセイ」に拡張し、もしもの時には代わりに出版するよう妻に頼んでいます。

しかし、幸いにも病気はやがて治まっていき、病状が安定するとダーウィンは、ビーグル号で収集したフジツボを解剖し分類するなど、無脊椎動物の研究を始めました。病後明けのこの研究は実に楽しいものでした。美しい構造の観察を堪能した彼は、その中でも近縁種との構造を比較しつつ、さらに思索を深めました。

この8年にわたるフジツボの研究はその後の進化論の理論の発展を大いに助けました。やがて彼はある種類のフジツボを違う環境で育てた場合、わずかに異なった体の器官ができ、これが新しい環境で十分機能することを発見します。

またいくつかの属でオスのフジツボが雌雄同体のフジツボに寄生していることを発見し、これが♂♀二性の進化に関係していることに気付きました。フジツボは固着生活を送っているため、交尾のため自由に動き回れません。オスの寄生によって♂♀への分化を促進しこの問題を解決していると考えられ、進化の過程でそう変化したと考えられました。

2014-0675

44歳のとき、こうした研究成果をまとめて発表するとこれが認められ、王立協会からロイヤル・メダルを受賞し、ダーウィンは生物学者としてさらに名声を高めました。翌年に再び種の理論の研究を始め、さらに子孫の特徴の違いは、「多様化された自然の経済に適応した結果生じる」、と考えることで上手く説明できると気付きます。

均衡がとれた経済というものは、需要と供給のバランスがとれています。産業別の人口構成をバランスのとれた適切な割合するということや、赤字や黒字にかたよらないバランスのとれた国の財政や貿易などを目指し、それらによって「分散多様化」された経済こそが均衡がとれた経済です。

自然界も同じであり、そのバランスをとるために、微妙に子孫の形を変え、特定の種が突出せず、均衡がとれた自然界が形成されることが望ましいわけです。ダーウィンは、こうしたことを実証するため、47歳ころから卵と精子が種を海を越えて拡散するために海水の中で生き残れるかどうかを調べはじめました。

そして、違う環境に適応するためのひとつの変異を「自然選択」と呼びました。生物がもつ性質が次の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化します。

1.生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られる。(変異)
2.そのような変異の中には、親から子へ伝えられるものがある。(遺伝)
3.変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。(選択)

上記の3番目に関わるのが自然選択です。一般に生物の繁殖力が生存可能数の上限を超えると、同じ生物種内で生存競争が起き、生存と繁殖に有利な個体はその性質を多くの子孫に伝えるため、不利な性質を持った個体の子供は少なくなります。このように適応力に応じて「自然環境がふるい分けの役割を果たすこと」を自然選択といいます。

ダーウィンが49歳のときのこの「自然選択」の理論の構築は半分しか進んでいませんでしたが、ちょうどこのころ、ダーウィンは同じく博物学者、生物学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスから同じアイディアを述べた小論を受け取りました。

アルフレッド・ラッセル・ウォレスは探検家でもありました。マレー諸島を広範囲に実地探査し、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、「ウォレス線」を特定したことで有名で、このため生物地理学の父とも呼ばれます。

ダーウィンとは異なり、ウォレスはすでに種の変化を信じる博物学者として出発していました。彼は近接して生息している種同士は関連があるという進化の仮説を検証するためにアマゾン川流域を調査しましたが、この調査では、アマゾン河とその支流が地理的障壁になっていることに気付き、これを論文、の「アマゾンのサルについて」で論じました。

ウォレスは一度、直接ダーウィンに会ったことがあり、このころまでには親しい文通相手の一人となっていました。ダーウィンは彼からの情報を自分の理論の補強に用いており、このウォレスのアイデアを用いて、ダーウィンの理論構築はさらに加速していきました。

2014-2041

やがてダーウィンの記述を第一部と第二部とし、ウォレスの論文を第三部とした三部構成が完成し、これは共同論文として1858年7月1日のロンドンリンネ学会に提出されました。

しかし、当初この発表には何の関心も世間から寄せられませんでした。学会誌として印刷され、他の雑誌でも何度か取り上げられたため手紙とレビューがいくつかありましたが、学会長は翌年の演説で昨年の発表の中には革命的な発見が何もなかったと述べました。

ダーウィンは、この論文の発表に先立ち、回答が困難と思われる課題をみつけるたびに論文を拡張したため、発表論文は「巨大な本」へと拡大していました。このため、理論の説明が難解になっていたことも理解が得られなかった理由と考えられます。

このためダーウィンはその内容を整理するため、発表後13ヶ月間にわたってこの「巨大な本」の要約に取り組みました。このころいまだ不健康に苦しんでいましたが、友人たちはそんな彼を励ましました。

とくに友人のライエルは出版社からこの論文が出版できるよう手配し、そしてついに1859年11月22日に「種の起源」が発売されますが、この年はダーウィン50歳の節目でした。この本の出版は予想外の人気を博し、その初版には1250冊以上の申し込みがありました。

もっともこれは自然選択説がすぐに受け入れられたからではなく、この当時、すでに生物の進化に関する著作がいくつも発表されており、受け入れられる素地があったためです。ただ、この本は国際的な関心を引き、世界各国で議論を呼ぶようになりました。

しかし、病気で体調のすぐれないダーウィン本人は直接、議論の場に登場することはありませんでした。しかし、熱心に彼の理論に対する科学的な反応や報道のコメント、レビュー、記事、風刺漫画をチェックし、世界中の同僚と手紙を通じて意見を交換しました。

2014-1791

当初ダーウィンは「人間の進化」についてはこの当時の宗教的優勢の雰囲気を察し、「人類の起源にも光が投げかけられる」としか言及していませんでした。ただ、論評は当然この面にも向けられ、ダーウィンの説は「サルに由来する人間」の信条が書かれたとものだと批判されました。

とくに、ケンブリッジ大学時代の恩師セジウィッグは、道徳を破壊する物だとして彼を批判しました。それまで進化論の構築に協力していた親友のライエルですら、すぐには態度を明らかにせず、最終的には理論としてはすばらしいと評価したものの、当初はやはり道徳的、倫理的に受け入れることはできないと言ってダーウィンを落胆させました。

「昆虫記」で知られるファーブルも反対者の一人で、ダーウィンとは手紙で意見の交換をしあいましたが、ここでも意見の合致には至りませんでした。ダーウィンはあまりの反発の激しさに「この理論が受け入れられるのには種の進化と同じだけの時間がかかりそうだ」と述べました。

しかし、その後強力な支持者であるトマス・ヘンリー・ハクスリーなどの支持者の支援を受けてこの学説は次第に社会における認知度と影響力を拡大していきます。

トマス・ヘンリー・ハクスリーは軟体動物の形態学についての論文が有名な生物学者で「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名で知られ、それほどチャールズ・ダーウィンの進化論を強く弁護したことで有名です。元海軍に所属し、ラトルスネーク号という海軍船の外科医のポストを得、この船の調査航海の傍ら海の無脊椎動物の研究に従事しました。

26歳の若さでロイヤル・メダルを受けたばかりか、王立協会のフェローに選ばれ、評議会議員にも選出されましたが、のちに海軍を辞め、王立鉱山学校の講師になり、次いで英国地質調査所の博物学者になりました。

ダーウィンが自然淘汰理論を発表すると、いち早く王立科学研究所のミーティングに参加し、この討論においてダーウィンの理論に賛意を表明しました。その後、ダーウィンが理論の要約として「種の起源」を出版すると、これにも大いに賛同を示し、これを大学での講義に使いました。

この講義には、様々な分野の次世代研究者が群がり、関心を引きつけ、やがてこの時代の主要な科学のテキストとなっていきました。やがてダーウィンの理論は生物学だけでなく、当時の様々な運動に取り入れられて「ダーウィニズム」という言葉が生まれ、その根幹にある「自然淘汰」の概念は世界中に広がっていきました。

2014-2005

ダーウィンは、その人生の最後の22年間も病気の度重なる発作に悩まされましたが、最後まで研究を継続しました。その後、友人のハクスリーは「自然における人間の位置」として解剖学的に人類は類人猿であることを示し、また、1871年、62歳になったダーウィンも多数の証拠を提示して「ヒトは動物である」と論じました。

さらには「性選択」を主張しました。性選択とは、現代においても進化生物学における重要な理論の一つです。異性をめぐる競争を通じて起きる進化のことであり、一つの種において、ある性(ほとんどの場合は雌)の個体数や交尾の機会はもう一方の性よりも少ないというのが基本理論です。それゆえ、交尾をめぐる個体間の争いが起き、進化を促します。

ダーウィンは、クジャクの羽のような非実用的な動物の特徴をこの性選択説を説明するために利用しました。クジャクの羽やゴクラクチョウの長い尾羽など、一見生存の役に立ちそうもない性質にも適応的な意味があるのだろうと考えました。

そして、多くの生物で雌がパートナー選びの主導権を握っており、生存に有利でない性質も雌の審美眼のようなもので発達することがあるのではないかと考え、自然選択説とは別に「性選択説」を主張したのです。

これと同じく、ヒトの文化進化、性差、身体的・文化的な人種間の特徴をもこの性選択によって説明し、同時にヒトは一つの「種」であると強調しました。絵や図を多用した研究に拡張され、翌1872年にこれらの理論は「人と動物の感情の表現」として出版されました。

この本では人間の心理の進化と動物行動との連続性が論じられるという専門性の高いものでしたが、写真を利用した初期の本の一冊でわかりやすく人気があり、これを知ったダーウィンは自分の意見が広く世間一般に受け入れられたことに深く感動したといいます。

1880年、ダーウィン70歳の時、兄エラズマスが闘病生活の末、没すると、彼を慕っていたダーウィン一家は悲しみ、「頭が良く、慈愛に満ちた兄だった」と述べましたが、年をとったダーウィンもまた次第に疲れやすくなっていました。が、研究の手を止めることはなく、息子のフランシスと娘たち、使用人がこれを手伝いました。

彼の進化に関する実験と観察は、ツタ植物の運動、食虫植物、植物の自家受粉と他家受粉の影響、同種の花の多型、植物の運動能力と多岐に及び、72歳のとき最後に出した本では若い頃の関心に立ち戻り、ミミズが土壌形成に果たす役割を論じました。

2014-1140282

晩年の楽しみはエマのピアノと小説の朗読で、特に古典よりも流行の小説を好んだといいますが、1882年明けから心臓に痛みを覚えるようになり体がいっそう不自由になりました。そして、4月19日、ロンドン南東部、ダウン村の自宅で、生物学において大きな足跡を残したこの学者は亡くなりました。享年73歳。

ダーウィンは当時の多くの人と同じように、必ずしも男女平等主義者ではなく、女性は能力が劣るとも考えていたようです。しかしいわゆる「差別主義者」ではなく、他の生物と同様に、人種間の生物学的な差異は非常に小さく、異なる人種を異なる生物種と考えるべきではないと主張していました。いかにも彼らしい論理です。

ビーグル号での航海中にも、ここに乗船していた奴隷に関して艦長のフィッツロイと衝突することがしばしばだったといい、これは奴隷制度に対する意見の相違からでした。

ダーウィンは、フィッツロイが「奴隷たちは、現在の状態に満足しており、だから彼らは奴隷でいて幸せなのだ」と言ったのに対し、「主人の前だからそう言っただけで、本心かどうか分からない」と答えフィッツロイの怒りを買いました。

また、ビーグル号がブラジルに寄港したときにも、この地で多くの奴隷虐待の場面に遭遇しており、ブラジルを出航するときに、この虐待を二度と見ることが心底うれしかったらしく、この国は二度と訪れることはないだろうと書き残しています。

帰国後には、さらに奴隷解放運動を支援する行動にも乗り出し、「人種のランク付け」に反対し、被支配国の奴隷たちを虐待することに反対しました。

ダーウィンの主張した人種間の生物学的な差異は基本的にはない、という考え方は、こうした人種差別反対運動にも寄与しましたが、自由放任主義で弱肉強食の資本主義、戦争、植民地主義と帝国主義などに反対する人々もまたこうした考え方を利用し、自分たちのイデオロギーを構築するために、ダーウィンの説を役立てました。

2014-1016

しかし、一方では、ダーウィニズムという用語は自由市場の発展に関する「適者生存」と言う概念に使われることもあり、「強い者が生き延びたのではない。変化に適応したものが生き延びたのだ」「恐竜が滅びたのは改革を怠った怠け者だったから」といったふうに使われることもあり、必ずしも良い影響ばかりを世に与えたわけではありませんでした。

ところで、ダーウィンが亡くなったとき、誰もが彼はその晩年を過ごし、愛してやまなかったダウン村のセントメアリー教会に葬られると誰もが考えていました。

が、同僚たちは彼の死を科学の優位性を一般の人々に印象づける好機と見なし、極力大々的に行おうと計画しました。このため、ハクスリーなどの友人たちや王立協会会長らは家族を説得し、報道機関に記事を書き、教会と王室、議会に働きかけました。

その結果、ダーウィンの葬儀は同年4月26日に国葬として執り行われた上、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。ウェストミンスター寺院は歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されており、彼の墓の隣にも、天文学者のジョン・ハーシェルと物理学者アイザック・ニュートンが眠っています。

現在では墓地としては既に満杯状態ですが、国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)に隣接しているいわば国立墓地で、ユネスコの世界遺産にも登録されています。英国国教会の教会でもあり、ダーウィン自身もかつて聖職者を目指したこともあり、その墓所としてはふさわしい場所といえるかもしれません。

典型的な手紙魔だったダーウィンは生涯で2000人と手紙による意見交換をしましたが、そのうち約200人が聖職者であり、彼自身も生前、決して生物に対する神学的な見解を否定したわけではありませんでした。

若いころのダーウィンは聖書の無誤性を疑いませんでした。英国国教会系の学校に通い、聖職者になるためにケンブリッジで神学を学んだことは、前回の項で述べたとおりです。「自然のデザイン」は神の存在の証明であるという自然神学を確信し、神が究極的な法則の決定者であると考えていました。

ところが、ビーグル号航海の間に、その信念に疑いを持ち始めました。例えば、なぜ深海プランクトンは誰もそれらを目にすることがないのに創造されたのか?イモムシをマヒさせ、生きたまま子どもに食べさせる寄生バチのような存在が慈悲深いはずの自然神学といったいどのように調和するのか?といった疑念が次々と沸いてきました。

極め付けは、42歳のとき、もっとも愛した長女アニーが献身的な介護の甲斐無く亡くなったことで、この時ダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信しました。彼女の死はキリスト教信仰にピリオドを打つ選択を彼に与えたのでした。

ただ、晩年のダーウィンは、敵対者からの批判に疲れ、信仰と科学の間で揺れ続けていたといいます。しかし、60代になると一変し、このころ親族に向けて書かれた「自伝」においては、ダーウィンは宗教と信仰を痛烈に批判するまでになっています。

2014-1243

が、最晩年に70歳で書いた書簡では、自分は神の存在を否定する無神論者ではなく、「不可知論が私の心をもっともよく表す」と述べています。不可知論というのは、事物の本質は認識することができない、とし、人が経験することを越えることを問題として扱うことを拒否しようとする立場であり、本質的な存在については認識不可能だとする論理です。

宗教的には「神は「いる」とも、「いない」とも言えない」とする中立的不可知論な立場をとり、人間は有限な存在で知力が限られていて、世界自体が何であるか知ることができない、と考えます。人間の知識というのは、印象と観念に限られて、それらを越えたことは知識の対象にならない、というわけです。

ダーウィンの死後しばらくして、イギリス北部エディンバラにもほど近い、ノースフィールドの福音伝道者、ムーディ何某という人物が創設した学校で若者たちの集会があり、ここで「ホープ夫人」なる人物が講演したという記録が残っています。

この夫人は、死の床にあるダーウィンを自分は見舞ったと主張し、この時彼は地元の日曜学校の生徒たちに後日讃美歌を歌ってくれるよう頼み、同時にこのとき「進化論なんか発表しなければ良かったと、どれほど思っていることか」と告白したと語りました。

夫人によれば、このとき彼はさらに言葉を続け、「自分は至福の神々しい予期を熱心に味わっている状態であって、イエス・キリストと御救いのことを人々に語りたいから」聴衆を集めてほしいと夫人に依頼したといいます。

そして、ムーディ牧師の激励のもとで、ホープ夫人のこの話は1915年に出版され、この中には、ダーウィンが最後の死の床で信仰を取り戻したと書かれていました。

しかし、ダーウィンの最期の日々をともに送った娘ヘンリエッタは、そのような人は見舞いに来ていないし会ったこともないと述べており、彼の最期の言葉は妻に向けられたものだと語っています。そして、それは「お前がずっとよい妻だったと覚えていなさい」だったといいます。

不可知論者だったダーウィンは、あの世において、神が存在するか否か、もう既に知っていることでしょう。

2014-4617