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ポストを愛すと…

2014-1100892今週から、一週間は「ポスト愛護週間」だそうです。

今週末の4月20日は、日本で初めて郵便制度が始まった日ということで、逓信記念日=郵政記念日となっているようで、このため郵政省と全国郵便切手販売協会が、郵便ポストを大切にし、お客様とポストの親近感を深めようとこの一週間をそれに充てることに決めたということのようです。

ポストを愛護するってどうするんだろーなー、雑巾がけでもしてやるんかい、と突っ込もうと思ったら、本当にこの一週間のあいだは全国でポストの清掃活動などをやるようです。ただし、これは必ずしも郵便局員がということではなく、地元の小学校の児童などがボランティアでやるのだとか。

また、「ポスト感謝祭」なるものを開催する地域もあるそうで、こちらはもっと小さな幼稚園や保育園の子どもたちが郵便局へ行くか、逆に郵便局員さんがこうした施設にやってきて、いろいろな交流行事をやるのだそうです。

郵便局員が持ってきた臨時のポストに園児たちが、自分で書いたハガキを投函したり、その「ポストさん」へ手作りの帽子を作ってあげたりし、「真っ赤なお顔のポストさん、雨の日も雪の日も頑張ってくれてありがとう。これからもよろしくね」という子ども達の言葉に対して、ポストさんもさらに顔を真っ赤にして喜ぶのだといいます。

近代日本の郵便制度改革は、明治維新で開催されるようになった議会において、それまでは東京~京都~大阪間の政府の手紙等の配達に毎年1500両が幕府から支出されていたのを改め、政府の公的な手紙配達に併せて民間の手紙配達も行い、これによって利益を出そうという提案が前島密から出されたことに始まります。

この前島密(ひそか)という人は、日本の近代郵便制度の創設者といわれる人で、今も現役で使われている1円切手の肖像でその顔が知られています。「郵便」や「切手」、「葉書」という名称を定めたのもこの人で、その功績から「郵便制度の父」と呼ばれています。

天保6年(1835年)に越後国(現在の新潟県上越市)の豪農の子として生まれましたが、父が間もなく亡くなり、母方の叔父の糸魚川藩医に養われるようになったことで、この医家でその後の教養の基礎を身につけることになりました。

結構な神童だったらしく、わずか12歳で江戸に出て医学を修め、蘭学・英語を学んでおり、23歳のときには航海術を学ぶため箱館へ行くなど、このころの最新の知識をふんだんに摂取しながら成長しました。

30歳のときには既に蘭学者として著名となっており、薩摩藩の洋学校(開成所)の蘭学講師となりましたが、ちょうどそのころ、幕臣前島家の養子となり、家督を継ぐようになりました。この前島家は結構格の高い家だったようで、そのため前島も幕政にも口をさし挟めるほどの立場になりました。

このころ、教育の普及のためと称して、漢字を廃止し平仮名を国字とすることを主張した「漢字御廃止之議」を将軍・徳川慶喜に提出していることなどもそのひとつの表れです。

漢字を廃止するなんて無茶苦茶な、と思われるかもしれませんが、現在において漢民族を主な住民としない国で漢字を使っているアジアの国は日本だけであり、朝鮮半島およびベトナムなどでもすでに漢字の使用は事実上消滅しています。

その理由としては自国の独自文化を重んずる外来文化の排他運動の一面もありますが、もっと実用的な側面として、漢字が活字印刷の活用、とりわけ活版印刷において決定的な障害となっていたことなどが挙げられます。

確かにワープロの変換作業などにおいて漢字を使いながら文章を綴っていくという作業は、かなりしんどいものがあり、ましてはや手書きともなると、これはかなり高度な技術活動です。かつて私も英語を使って生活をしていた時代には、あー26文字しかない英語ってなんて楽なんだろう、と実感したこともありました。

が、これだけ複雑な文字と仮名を合わせて繊細な表現をすることのできる日本語というのは世界に類をみないほど美しい言語であり、かつそれを自由自在に操ることができるからこそ日本人は頭がいいのだ、と主張する人もいることは確かです。

前島が漢字撤廃を提唱したのは、漢字を書いたり印刷する手間を省き、国政を効率化させたい、ということが理由だったようですが、最近はコンピュータ等による漢字変換技術も進んでいることから、手書き原稿を前提とした漢字制限・字体簡略化論はその有効性を失っており、こうした漢字廃止論もあまり議論されることがなくなりました。

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とまれ、そうしたワープロやタイプライターもない時代に、この前島密という人は、漢字の有効性についての議論を世に問うたという点などをみても、非常に先進的な頭脳を持った人とであった、ということは想像できます。

幕臣の立場であったために、明治維新が起こった直後には政府に登用されませんでしたが、そうした先進性が認められ、明治2年(1869年)には明治政府の招聘により、民部省・大蔵省に出仕することになり、これを機会それまで前島来輔と名乗っていた名前を、密に改名しました。

なぜ、密という名前にしたかについては、よくわかりませんが、この漢字の持つ意味としては、「秘密」という言葉があるように、ぴたりと閉じて外から見えない、あるいは人にわからぬように隠しているさまを指します。

が、これとは別に「深く閉じて人の近づけない山」といった意味もあるようなので、そうした奥深い人物になることを願っていたのでしょう。

翌年の明治3年(1870年)には、「駅逓権正」となりますが、これは翌年郵便事業が発足した際に設定された「駅逓頭」すなわち、のちの郵政大臣に次ぐ、ナンバー2の地位です。前島はこの立場において太政官に郵便制度創設を建議し、この年にはまた郵便制度視察のために渡英しています。

こうして1871年(明治4年)4月20日に我が国の郵便事業はスタートしましたが、この郵便事業は宿駅制度をつかさどる「駅逓司」という省庁の所管でした。その初代駅逓頭には浜口梧陵という人がなり、こちらはヤマサ醤油の創業者としても知られています。

津波から村人を救った物語「稲むらの火」のモデルとしても知られ、以前このブログでも取り上げたことがあります(自己犠牲とてんでんこ)。

この初代駅逓頭への就任は、大久保利通の要請によるものでしたが、次官になった前島密との確執もあって、浜口は半年足らずで辞職し、その後継指名を前島が受けました。

近代郵便事業の展開が本格的になされるようになったのは、この第2代駅逓頭となった前島密の代からです。当初駅逓司は民部省に所属していましたが、その後大蔵省・内務省・農商務省と転々と所属が変わる度に組織が大きくなり、この間に「駅逓寮」「駅逓局」と昇格していきました。

そして、1885年(明治18年)に逓信省が設立されると「駅逓局」、すなわち現在の郵便局はその所属となりました。つまり、この逓信省は、2001年に廃止されることになった郵政省の前身ということになります。

明治4年(1871年)には駅逓頭になった前島は、その後の日本の近代的郵便制度の基礎を確立していきましたが、このほかにも数々の民間企業の設立にも関与しており、現在の日本通運株式会社の元となる「陸海元会社」を設立するとともに、郵便報知新聞、すなわち現在の「スポーツ報知」の設立にも関わっています。

明治11年(1878年)には、元老院議官となり、その翌年には内務省駅逓総監に任じられるなど、文字通り郵政一筋の人生を歩みましたが、明治14年(1881年)憲法制定・議会開催が争点となった、いわゆる「明治十四年の政変」においてはイギリス流の議会体制を推し進めようとしていた政府主筋と対立して辞職。

大隈重信らとともに立憲改進党を創立するとともに、大隈が設立した東京専門学校、すなわち現在の早稲田大学の、二代目校長に就任(初代は大隈)。また関西鉄道会社社長するなど、官を辞したのをこれ幸いと、現在までも続く数多くの民間機関の創設に関わりました。

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しかし、明治21年(1888年)には政府に請われて逓信次官に復職。明治24年(1891年)に退職するまでの間に官営電話交換制度にも着手し、これはのちの電電公社、現在のNTTの発展にもつながっていきました。

こうした功績に対して明治35年(1902年)には、男爵の称号が授与され、明治38年(1905年)には、貴族院議員にも選任されましたが、大正8年(1919年)、神奈川県の三浦半島にあった別荘にて没。84歳の大往生でした。

この前島密が1871年(明治4年)に導入した郵便制度はイギリスのものを手本としており、東京~大阪間62箇所の郵便取扱所に集積された郵便物を官吏が引き受けるというものでした。

管理・配送時間は厳しく守られ、従来の飛脚は丸笠をかぶった郵便配達員に取って代わられ、東京~大阪間144時間だったのを78時間に短縮しました。翌1872年には全国展開が図られ、江戸時代に地域のまとめ役だった名主をほとんど無報酬で要請・任命し、彼らの自宅を郵便取扱所として開放させました。

1873年(明治6年)には全国約1100箇所の名主が新たな国の役割を担える郵便取扱所として自宅を使うことを快諾し、それまでの主流であった飛脚やかごはやがて姿を消していきました。

しかし明治4年4月に日本の郵便事業が始まった当初は特に定められた徽章はなく、「郵便」の文字だけでした。このため明治10年(1877年)からは、「日の丸」をイメージした大きな赤丸に太い横線を重ねた赤い「丸に一引き」が郵便マークとして用いられ始め、「丸に一引き」は郵便配達員の制帽・制服・郵便旗などに記されるようになりました。

明治17年(1884年)6月23日太政官布達第15号により、この「丸に一引き」は正式に「郵便徽章」と定められましたが、その翌年の明治18年(1885年)には郵便等の所管官庁として正式に「逓信省」が創設されました。

これを契機に、この徽章も国際的にも認められるようなよりセンスのいいものに改めようという意見が出されたため、その二年後の明治20年(1887年)2月8日には、当時の逓信省が「今より「T」字形を以って本省全般の徽章とす」と告示し、このTの字が正式な郵便マークのさきがけとなるはずでした。

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ところが、2月14日に逓信省はTの字を「〒」に変更し、2月19日の官報でも「実は「〒」の誤りだった」という内容を正式な発表として公表しました。

このTが〒になった経緯に関しては、諸説あるようですが、そのひとつは、「T」にすることで最初から決まっていたものの、後日調べてみると「T」は国際郵便の取扱いでは、郵便料金不足の印として万国共通に使用されていたというものです。

このため、これによく似たマークは適当ではないということで、「〒」に訂正した、という説がよく言われている説で、この訂正にあたっても、「テイシンショウ」の片仮名の「テ」を取ってそうしたのだという説と、単純に「T」の上に一本足して「〒」とした、という二つの説があるようです。

この「Tの上に棒を一本加える」というアイディアは、初代逓信大臣であった榎本武揚が出したとも言われているようです。

それにしてもなぜ「T」だったのかについても、漢字の「丁」が逓信の「逓」の略字としてみなせるからだという説と、「逓信」をローマ字で表した「Teishin」の頭文字だという説のふたつがあるようです。

いずれにせよ、これ以降は「〒」の徽章が、郵便配達員が身につける帽子の正面や制服上着の袖口、郵便旗、あるいは書状集め箱(現在の郵便ポスト)につけられるようになりました。また、徽章はこれ以前の「丸に一引き」を引き継ぎ、「〒」を丸で囲んだものと定められました。

ちなみに、この〒マークの縦棒と横棒の比率は、昭和25年(1950年)の郵政省告示第35号により横棒のほうが縦棒より広い(長い)のが正しい記号だそうです。

こうして郵便事業が発足してから、30年ほどを経た1900年(明治33年)にはそれまでの郵便規則・郵便条例・小包郵便法などが統合され、郵便法(旧)が制定されました。1920年(大正9年)には、さらに貯金局と簡易保険局が設けられ、その後郵便事業は通信院・逓信院・復活した逓信省を経て、郵政省に受け継がれることになっていきます。

ところで、この「逓信」という文字の由来ですが、これは、駅逓の「逓」と電信の「信」を合わせたもので、ともに逓信省の母体となった組織である、「駅逓局」、「電信局」の名前から1字ずつ取ったものだと言われています。また「逓」という漢字には“かわるがわる伝え送る”という意味があるそうです。

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電信のほうは明治以後に欧米から導入された技術であり、江戸時代以前には存在しませんが、駅制度のほうは、江戸時代よりはるか昔の飛鳥時代から存在します。「駅」とは古代の律令制で設けられた“駅家”を指し、これは「駅」とも略して使われ、いずれもが「うまや」と訓読みされます。

京を中心に街道に駅(うまや)が設けられ、駅に備えられた駅馬を乗り継いで通信が行われ、重大な通信には「飛駅(ひえき)」と呼ばれる至急便が用いられました。

「飛駅」には「駅鈴」が授けられました。これは官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴であり、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬を集めました。また、古くは馬だけでなく、船も運搬に使われたため、「駅舟」ということばもあったようです。

それぞれの駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をしました。

現在残っているこの駅鈴の実物はわずかです。国の重要文化財に指定されている「隠岐国駅鈴」の二つだけで、これは、幅が約5 cm、高さ約6.5 cmほどの青銅製で、島根県隠岐の島町の玉若酢命神社に隣接する億岐家宝物館に保管・展示されています。

1976年(昭和51年)に発売された20円はがきの料額印面の意匠にもなったため、覚えている人も多いかもしれません。

その後、8世紀末頃になると、律令制は実効性が薄れ、実際には運用されなくなるなどほころびが目立つようになり、桓武天皇の時代に行われた長岡京・平安京への遷都などを機に完全にその制度が崩壊したため、この駅制もまた廃れていきました。

しかし鎌倉時代に復活し、公用便として鎌倉飛脚・六波羅飛脚などが整備されました。これは馬を用いた飛脚で、京都の六波羅から鎌倉まで、最短72時間程度で結んだといわれています。

鎌倉時代には、それまでに廃絶してしまっていた「駅」に代わり、「宿」がその代りをするようになり、宿はまた商業の発達に伴い各地で作られ、多くの人に利用されるようになっていきました。

しかし、戦国時代には、戦国大名をはじめとする各地の諸勢力が領国の要所に関所を設けたため、領国間にまたがる通信は困難になりました。とはいえ、戦国大名が書状を他の大名に送るためには飛脚が必要であり、このため家臣や寺僧、山伏が飛脚として派遣されました。

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江戸時代に入ると、幕府は飛脚制度を重視し、五街道や宿場などの交通基盤が整備して、飛脚による輸送・通信制度を整えていきました。

とはいえ、江戸時代の飛脚もまだ馬と、人の駆け足だけが主要な交通手段でした。しかし飛脚の種類としては、公儀の継飛脚の他、諸藩の大名飛脚、また大名・武家も町人も利用した飛脚屋・飛脚問屋と呼ばれた町飛脚などへの分化が進み、いずれもがこの当時の主要な通信手段として重要な役割を担いました。

とはいえ、これらの飛脚の利用は明治以降の郵便制度に比較すると費用的にも非常に高価であり、町飛脚なども庶民にはあまり利用されませんでした。天候にも左右されやすく、また江戸大阪間は一業者で届けられますが、江戸以東や大阪以西となると、今度は別業者を雇わなければなりません。

その連携は必ずしも円滑ではなく、このため書状などが期待した期日に届かないしこともしばしばだったようであり、また毎日配達しないため、別々の日に出された書簡をひとつにまとめて配達されるということも多く、そのための時間ロスも多かったようです。

この当時の書状は「親書(信書)」であることも多く、しばしば儀礼のために出されるものでもあったため、身分の高い武士や豊かな商家などでは、このように時間のかかる飛脚業者に頼まず、わざわざ自分の使用人を使って書状を運ぶことも多かったといいます。

とはいえ、江戸期を通じて、「システム」としての飛脚制度は、一応完成の息に達し、江戸時代中期〜明治初年における民間の飛脚問屋は、基本的には決められた「定日」に荷物を届けることを目標として運営されました。

決められた日に荷物を集荷すると、荷物監督者である「宰領」が主要街道の各宿場の伝馬制度を利用して人馬を変えながらリレー輸送し、荷物を付けた馬と馬方を引き連れた宰領は乗馬し、防犯のため長脇差を帯刀しました。

宿泊は指定の「飛脚宿」に泊り、盗賊の攻撃などにも気を配りました。しかし、人馬が疲労・病気などによって継立(馬方や馬の交換)がうまくいかなかったり、河川増水(川止め)、地震遭遇など不慮の人災・天災もあり、延着・不着・紛失もかなりありました。

このため、高額の金を支払い、一件のために発したのを「仕立飛脚」といい、また早便として「六日限」「七日限」などの種類がありましたが、やはり不測の事態は常にあり、遅れがちであったといいます。

このため飛脚を扱う飛脚問屋もまた、こうした事態に対処するため常にその賃銭を高めに設定したがり、これが飛脚を仕立てる費用をより高額にしていきました。

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こうした一般の武士や庶民も利用できる飛脚は「町飛脚」と呼ばれ、「継飛脚」「大名飛脚」と呼ばれるような公用のための飛脚とは区別されていました。

継飛脚(つぎびきゃく)は、幕府の公用便で、老中、京都所司代、大坂城代、駿府城代、勘定奉行、道中奉行だけが使うことを許されていた飛脚です。書状・荷物を入れた「御状箱」を担ぎ、「御用」と書かれた札を持った二人一組で宿駅ごとに引き継ぎながら運び、その費用として幕府から宿駅に「継飛脚給米」が支給されていました。

また、大名飛脚は、各藩が主に国許と江戸藩邸を結んで走らせた飛脚で、飛脚はその藩の足軽もしくは中間から選ばれることが多く、多くの藩では独自の飛脚を持っていましたが、維持費が嵩むことなどから、民間の町飛脚に委託する藩も多かったようです。

一方の町飛脚のほうは、1663年(寛文3年)幕府許可が出たために開業が始まり、大坂・京都・江戸の三都を中心に発達しました。1698年(元禄11年)に京都では町奉行が飛脚問屋16軒を「順番仲間」として認め、毎夕順番に発信するようにしたため、これ以後、「定期便」としての飛脚システムが確立しました。

ところが、宿駅の交通量が増え、人馬継立が混み合うようになると、次第に飛脚の延着が目立つようになりました。このため、江戸の飛脚問屋9軒の願いにより、幕府は1782年(天明2年)、宿駅での人馬継立をこれらの飛脚問屋に優先的に管理させる特権を認めました。

この優先利用にあたっては、その権利料が「御定賃銭」として幕府に支払われるしくみで、これにより、飛脚問屋による継立をコントロールしやすくし、遅延を減らすことが狙いでした。

しかし、この取り立て料金がかなり高めであったため、町飛脚にかかる費用はかなり高額になるとともに、飛脚問屋への特権集中は所得格差や労働環境の差別化などの問題も生み出しました。

こうした特権を行使した飛脚問屋を「定飛脚問屋」といい、この制度の導入により地方の城下町などでも高利をむさぼる飛脚問屋が増えていきました。

しかし、このことにより飛脚制度そのものはある程度安定し、延着は比較的少なくなりました。とはいえ、人馬を利用するものであり、江戸~京坂を結ぶ飛脚のうちの最低料金の「並便り」などでは、日数の保証はありませんでした。また、昼間のみの運行であり、また駅馬の閑暇を利用して運行する関係上、片道概ね30日を要しました。

これより急を要する場合はやはり金がモノをいいました。所要10日の「十日限」(とおかぎり)、6日の「六日限」あるいは「早便り」の利用が可能であり、更に火急の書状では「四日限仕立飛脚」が組まれることもあり、料金4両を要したといいます。一両は今の価値の
12~13万円ですから、軽自動車一台分の購入費用に相当します。

こうして「定飛脚問屋」の導入によって飛脚の遅延は軽減され、飛脚制度は定着したかのように見えましたが、しかし、その後江戸・京阪の人口はさらに増えていったことから、東海道の通信量は目立って増加するようになっていきます。

増加と共に各宿での滞貨もまた増大するようになったため、江戸末期ころには2〜3日の延着が通例になったといいます。このため江戸~上方を6日間で走ることを約した定飛脚が登場し、これは「定六」または「正六」と呼ばれました。

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このように早く正確に書状を運ぶため、飛脚の「走法」にも次第に工夫が重ねられていきました。「飛脚走り」と呼ばれる独特の走法がそれで、これは一説には「ナンバ走り」とも呼ばれていたそうです。ナンバとは大阪の難波のことと思われ、その発祥は大阪と推定されます。

これは「体をひねらずに走る」というものだったらしいのですが、より具体的にはどういった体勢で走っていたのかはよくわかっていないようです。

まさか「金チャン走り」のようなヘンテコなものだったとは思えませんが、ともかく、体力の消耗が抑えられるような走り方だったということだけ伝えられており、詳しいことを記した文献や口伝も存在しないことから真偽のほどすらも不明だそうです。

が、これをもし復活させることができたら、もしかしたら日本の陸上界にはセンセーショナルな革命がおきるかもしれません。来たる東京オリンピックまでにはその秘密を探し当てて復活させ、「ナンバ走り」を日本陸上界の切り札にしてはどうでしょうか。

このように、飛脚はこの時代、中央と地方を結ぶ唯一の公的な交通手段だったことから、重要な情報伝達手段でもあり、災害情報などについても得意先へ伝える機能がありました。地震、火災、洪水などのほか、戦争情報も伝えましたが、また同時に文化も伝える役割を担いました。

そのためもあって、飛脚は浄瑠璃や古典落語川柳狂歌などに登場し、庶民によく親しまれていた職業で、川柳や狂歌にもよく詠われました。

このころの川柳に、「十七屋日本の内はあいと言う」とか、「はやり風十七屋からひきはじめ」というのがありますが、この「十七屋」というのは飛脚問屋の「十七屋孫兵衛」のことで、京都に本拠を置いて日本各地にも出店を置き、広域的に書状や金銀荷物を輸送しました。

現在の佐川急便やヤマト運輸のように流行った飛脚問屋だったようで、このように川柳に詠まれるほどの人気業者でしたが、1785年(天明5年)に幕府御用金の不正使用が発覚し、闕所(営業停止)となっています。

近年でも飛脚は時代小説の題材にも取り上げられ、人気作家、出久根達郎作の「おんな飛脚人」は江戸の飛脚問屋「十六屋」を舞台にヒロイン「まどか」が繰り広げる人情話で、NHKではドラマ化もなされました。

また、同じく小説家の山本一力の作には、「かんじき飛脚」というのがあり、これは寛政年間に、金沢藩の御用飛脚問屋「浅田屋」の飛脚人たちが雪の金沢―江戸間を走り、幾多の障害を越えて漢方薬「密丸」を江戸藩邸へ届ける、という話です。私もまだ読んだことがないのですが、面白そうです。

現代の飛脚といえば、宅配便、軽貨物便、バイク便などがすぐに思いうかびますが、前述の佐川急便などは、まさに飛脚の絵をトレードマークにしています。

上で前島密が、日本通運の創業に関わったと書きましたが、この日本通運もまたその前身は江戸の定飛脚問屋でした。これを明治期になって「陸運元会社」としたのが始まりで、同会社は1875年(明治8年)2月に内国通運に社名変更、その後1937年(昭和12年)に現在の日本通運に改名しています。

江戸の時代の飛脚はもう残っていないかと思いきや、こうした運送会社といい、それが形を変えた郵便制度といい、今もまだ我々の身近なものとして存在しています。

なので、ポスト愛護週間であるという今週は、あの赤いポストを飛脚の名残と思い、愛おしんであげましょう。

ちなみに、日本で郵便制度が始まった初期のポストの色は、飛脚の衣装をイメージしてか、赤色ではなく黒色だったそうです。しかし、当時公衆便所が普及し始めた頃でもあったことから、黒い郵便箱の「便」を見た通行人が郵便箱を垂便箱(たれべんばこ)と勘違いして、これをトイレ替わりに使ったという話は有名です。

また、当時はまだ街灯などが十分に整備されていなかったため、夜間は見えづらくなるなどの問題が起こり、このため1901年(明治34年)に鉄製のポストを試験導入した際に「目立つ色」として赤色に変えられました。

ポストの設置数は郵便制度が始まった1871年(明治4年)には62カ所に過ぎなかったものが、現時点では全国でおよそ20万もあるそうで、その差出箱は、街頭のみならず、工場などの私有地内を含めいろいろな場所にあります。

特殊なケースでは自衛隊の基地内、自動車道やロープウェイなどの通じていない高山の山頂近くや和歌山県すさみ町などにある海底ポストのように海底にあるものも存在します。海底であろうと収集時間になれば収集し、配達先へ投函されるそうで、この収集を行う郵便屋さんはダイビングの資格を持っているらしいです。

ちなみに、私が住んでいるこの別荘地内には都合3か所ほどポストがあるようですが、山の上にあるため、1日に一回しか収集に来ません。しかも午前中なので、今日の便はもう終わりです。

が、ポストさんは今日もそこで雨風に打たれながらも頑張ってくれているので、ポスト週間であるという今週、感謝の気持ちを込めて何等かのエールを送ってあげたいと思います。

が、園児のように手作りの帽子を作ってあげることも、歌を歌ってあげることも気恥ずかしいので、せめて一緒に酒でも飲めればと思います。

きっと、「真っ赤なお顔のポストさん」はもっと顔を赤らめて喜んでくれることでしょう。

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たかが竹、されどタケノコ

2014-1110567伊豆では平地のサクラはほとんどが散り始めましたが、標高の高いところはまだ満開のようです。

が、この週末にはそれも散ってしまい、これに変わって新緑の季節がやってきます。既にウチの庭先の木々は緑色に染まりかかけており、先日は玄関先にお隣から忍び寄ってきた竹の根から伸びたタケノコが顔を出しました。

早速スコップで掘り出してみたところ、大きさは20cmほどもあり、茹でてアクを取ったあと、醤油で煮込んで食して見ましたが、春の香りと風味が口いっぱいに広がり、幸せな気分になりました。

タケノコは、ツル性を除く被子植物のうち最も成長が速く、日に数十センチから時には1メートルを超え、この時期にタケノコにうっかり帽子を掛けたまま1日たつと、取ることができなくなるほど成長している場合さえあるともいわれています。

昼夜を問わず伸びるのがとても速いことから、漢字の「筍(たけのこ)」は10日間を意味する「旬」から来ている、などと言われることもあるようです。

根から切り出した直後から、えぐみが急激に増加するといい、掘り採ってから時間が経つほど固くなるとともにこのえぐみは更に強くなっていくので、できるだけ早いうちに調理や下ごしらえを行うほうがいいそうです。

なので、店頭で売っているタケノコで、日にちが経っていそうなものは買わないほうがいいかもしれません。なかなかそれを見分けるのは難しいことではありますが。

このタケノコの親の「竹」ですが、旺盛な繁殖力を持つため、筍から2~3か月で成竹になってしまい、あっという間にその土地を覆い尽くします。「竹は切ることが植えること」ともいわれるほど生育能力が高く、地下茎は浅く、地表付近を横に這うように広がります。

とくに近世に日本に移入された外来植物である孟宗竹(モウソウチク)は、日本のタケ類の中で最大で、高さ25mに達するものもあり、1950年代頃までは食用としてだけでなく木材として使うために管理された竹林で栽培されていました。

古来、竹林を背にした家が多いのも、日本人はこの孟宗竹が生活材料として有用なものであることを経験的に知っていたからにほかなりません。

その昔は、竹林の周囲は深さ1メートル程度の空堀を掘り巡らすなど、伸びやすいだけに周囲に広がりすぎないように対策がなされていましたが、その後中国などからの輸入品のタケノコが出回り、また木材としても漆喰壁などがなくなりその骨材としての竹の需要がなくなったため、タケノコ栽培が経済的に成立しなくなりました。

竹林の経済性が薄れることで見向ききされなくなり、地主の高齢化に伴い放置される竹林が増え問題になっているといい、各地で管理されなくなった竹林が増え、元来繁殖力が異常に強い樹種であるため竹林の周囲に無秩序に根が広がり、既存の植生を破壊しています。

とくに孟宗竹が進出するとアカマツやクヌギ、コナラなどかつて里山で優勢であった樹種が置換され、生態系が単純化してしまいます。また孟宗竹は土壌保持力が低いため、これが広がりすぎると崖崩れが起きやすくなるなど、各種の害が発生することなども問題視されるようになっています。

竹は根を地中深く潜らせないためで、このため大雨の際などには斜面の竹林はそれ全体が滑り落ちるような崩れ方をする例があります。

また、ウチの玄関先に顔を出したタケノコのように、一般家庭を悩ますものもあります。ウチのものはお隣さんが観賞用に植えた孟宗竹の根っこが越境して進入してきたものであり、花壇の中にまで根を生やすため、いったん植えた花木をダメにしてしまうこともあり、その駆除に困っています。

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このように管理されなくなった竹藪が隣家の庭に侵入して悪さをするというケースは近年かなり多いようです。特に竹害が激しいのは京都府、静岡県、山口県、鹿児島県、高知県、愛媛県などです。このうち静岡県を例に取ると、1989年から2000年までの間に県内の竹林は1.3倍に拡大したとされています。

しかし、地表付近を広がる地下茎には「ヒゲ根」がびっしりと生えており、この「ヒゲ根」が地面をしっかりと保持するため、よく管理された竹林はある程度の防災効果を上げてきた、という側面もあります。

ただ、この防災機能は主として地震などのことで、地表をしっかりと覆う根茎が地面を押さえますが、上述のとおり洪水や地滑りに関してはあまり効果がありません。また、竹は防風林や防潮林としては役に立ちません。葉っぱが細く、枝もか弱いため、風や潮を簡単に通してしまうためです。

防風林や防潮林としては、とくに海岸付近では塩害に強く薄い土壌でも生育できる樹種が多く用いられ、また寒冷地では、寒さに強く枝が柔らかく雪が積もりにくい樹種が多く用いられます。

一般には、高低・多種多様な樹種を組み合わせて雑木林のような形をとるものが多く、それらは、海岸近くではスギ、クロマツ、カシワ、ニセアカシアなどであり、寒冷地ではカラマツやイヌグス、ポプラなどが多用されます。

日本の場合、防風林は公益性の高いものとみなされていて、「保安林」として地方自治体が管理し、多くの場合は幅の狭い帯状のものが防風保安林として整備され、落葉の採取や伐採等が制限されています。

防潮林のほうも、森林法に基づく保安林に指定されており、治山事業等により持続的な管理がなされています。

神奈川県の藤沢市から平塚市にかけた湘南海岸などの海岸に延々と松林があるのをご存知の方も多いと思いますが、これは砂防法に基づいて、海岸の砂浜が背後の住宅街に侵入するのを防ぐために造られた「砂防林」であると同時に、「防潮林」としての機能が期待されているものです。

ここでいう「潮」とは、高潮や津波の被害のことであり、かつて1983年に秋田沖で生じた日本海中部地震において発生した津波は、秋田や山形、新潟などの各県の防潮林によってかなり低減されたといわれています。

また、三年前の東日本大震災の津波でも、新日本製鉄釜石製鉄所のイヌグスの防潮林周辺などで被害が小さかったことなどが報告されていますが、このときの津波はあまりにも巨大すぎたため、陸前高田市や仙台市沿岸の例のように、根こそぎ防潮林が持って行かれる、というケースが続出しました。

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このように防災目的の林の多くは人工的に植林・造成されるものですが、富山県西部に広がる砺波平野などにある屋敷林のように、元からその地にあった原生林の一部を残して利用するという形で設けられたものもあります。

この地方ではこうした屋敷林のことを「垣入(かいにょ)」といい、こうした地域特有の広大な耕地の中にポツンポツンと孤立した民家(孤立荘宅)の周りに張り巡らされます。この点在する集落形態を散居村(さんきょそん)ともいい、栃波平野の風物詩でもあります。

この景観が成立したのは、16世紀末から17世紀にかけてであると考えられています。砺波平野を流れる庄川は江戸時代以前にはしばしば氾濫したため、この地域に住みついた人々は平野の中でも若干周囲より高い部分を選んで家屋を建て、周囲を水田としました。

このような住居と水田の配置は農業をする上においても便利であったため、この地を治めていた前田家による田地割政策下でもこの地域の農民たちは引地、替田(他の土地との交換、他の田んぼとの交換)を行って自宅周辺に耕作地を集めようとしました。

しかし、このため家屋が1か所に集まって集落を形成するということが無くなり、冬にはそれぞれの家屋が厳しい風雪に直接晒されることとなりました。家屋の周囲にカイニョを形成してこれに対処するようになったのはその風雪対策のためです。

このカイニョは、とくに季節風が強い季節には大きな効果をあげましたが、そうした防災用途だけではなく、長い間にはこの地域におけるある種の風格をもつステイタスシンボルにもなっていきました。

同様のモノは、仙台平野にもあり、こちらは「居久根(いぐね)」といわれ、このほか島根県の出雲平野の「築地松(ついじまつ)」などが有名です。

日本では、ここ以外にも同じ島根県の斐川平野、香川県の讃岐平野、静岡県の大井川扇状地、長崎県の壱岐島、北海道の十勝平野、岩手県の胆沢川扇状地、富山県の黒部川扇状地などでもみることができます。

ただ、砺波平野のものはこれらと比べても格段に大きく日本国内最大とされ、現在およそ220平方キロメートルに7,000戸程度が散らばっています。

私も仕事でこの地へ行ったことがあるのですが、実に美しいもので、とくにこれからの季節にはるかかなたまで広がる水田地帯の中に、あっちにぽつん、こっちにポツンと点在する小集落とこれを囲むカイニョは本当に絵になります。

こうした風景が広がる、砺波市や南砺市などでは、「となみ野田園空間博物館」と称し「砺波平野全体が博物館」という構想に基づいて、こうした風景の維持保全を図っています。無論、観光客誘致の目的もあり、「となみ散居村ミュージアム」などの箱モノも建設し、これを中心に8カ所の地域拠点施設なども設けているようです。

どのくらいの観光客が訪れているのかよくわかりませんが、これからは富山県はチューリップの見ごろの季節を迎えるため、ゴールデンウィークなどには相当な人がここを訪れるのではないでしょうか。

このカイニョとはまたちょっと趣が違いますが、北海道東部の根釧台地には日本最大規模の防風林が広がり、これは最長直線距離約27km、総延長距離約648km、幅約180mにわたって格子状に造成されているという大規模なものです。

「根釧台地の格子状防風林」と呼ばれ、北海道遺産に指定されているほどで、ここも私は行ったことがあるのですが、実に壮大な風景です。別海町、標津町、標茶町などに広がる防風林で、これはこの地の開拓期にアメリカ人顧問ホーレス・ケプロンの提唱で作られたといいます。

このケプロンは、元アメリカ合衆国の軍人で、南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府で農務局長となりました。1871年(明治3年)、渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年に訪日して開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となりました。

1875年(明治7年)に帰国するまで、積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進しましたが、札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンです。また、1872年(明治8年)、開拓使東京事務所で、ケプロン用の食事にライスカレーが提供されていることが分かっており、これはライスカレーという単語が使われた最初期の例です。

ちなみに、この当時はライスカレーとは呼んでおらず、表記はタイスカリイだったといいます。

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ところで、防潮林といえば、ここ静岡にも、ユネスコの世界文化遺産登録で有名になった三保の松原があります。静岡市清水区の三保半島にある景勝地で、日本新三景、日本三大松原のひとつとされ、国の名勝にも指定されています。

その景勝地としての歴史は古く、平安時代から親しまれているといい、日本最古の和歌集である「万葉集」に「廬原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし」と詠われて以降、多くの和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台にもなりました。また歌川広重の浮世絵にも描かれています。

三保半島の東側に総延長7kmに渡って連なり、ここにある松の合計は3万699本にもなり、その背景には駿河湾を挟んで富士山や伊豆半島が望めます。

三保半島は、安倍川から海へと流された土砂が太平洋の荒波に運ばれ、日本平を擁する有度山を削りながら出来た砂嘴です。何百年にわたり流された漂砂が静岡海岸、さらには清水海岸に幅百mを超える砂浜を作り、現在の清水港を囲む三保半島、および三保の松原の砂浜を形成しました。

羽衣伝説の舞台でもあり、浜には天女が舞い降りて羽衣をかけたとされる「羽衣の松」があり、付近の御穂神社(みほじんじゃ)にはこの伝説の羽衣の切れ端が保存されています。

無論、伝説にすぎず、この切れ端も江戸時代か何がしかの時代にこの周辺に住む住人によって造作されたものでしょう。

この羽衣伝説というのは、いまさらの気がしますが一応説明しておくと、昔々、三保の村に伯梁という漁師がおりました。ある日のこと、伯梁が松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、天女が現れて言いました。「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」ところが伯梁は大喜びして返す気配を見せません。

すると天女は「その羽衣がないと天に帰ることができません」と言って泣き出しました。伯梁は天上の舞を見ることを条件に羽衣を返しました。天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞を披露。やがて空高く天に昇っていきました……

実は、竹取物語の中にもこの天女の羽衣が「天の羽衣」として登場します。かぐや姫が「羽衣を着てしまうと、人の心が消えてしまう」と語るシーンで登場し、これをまとうことで天女に戻ることができる力を持つものとして描かれています。

かぐや姫もまた天女であるわけであるわけで、ここでも竹とつながるわけでありますが、それにしてもこの天女のテーマがなぜ竹だったのでしょうか。

これについては、竹はほかの植物とは異なり、茎の中が空洞であることや、その成長の速さにより神聖視されたのではないか、ということが言われているようです。

皇室にも天皇の即位後に行う大嘗祭で、沐浴時に「天の羽衣」を着る儀礼習慣があるそうで、天皇もこれを着ると、人ではなく、神様になる、ということなのでしょうか。

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日本の文化の面から竹をみてみると、竹は昔から庭園を構成する要素の一つとしても重宝され、竹林の織り成す景観は日本の風土を象徴するもののひとつとなってきました。

特に京都の寺院や郊外の景観を形づくる要素として重視され、また、日本画、水墨画のモチーフとしてもしばしば用いられ、多くの文人墨客が竹林の持つ独自の繊細なイメージを芸術作品に仕上げてきました。

また、視覚のみならず、風が竹林を通り抜ける際のざわめきは日本人の耳には心地よく響くものらしく、風情を感じさせるものとして俳句や和歌などに歌われ、多くの文学者、画家などの想像力を刺激してきました。

その真っ直ぐでしなやかな特性を生かして竹細工、建材、家具、釣竿などにも多く利用されており、大分県のマダケは面積、生産量とも全国一のシェアを占めています。別府市周辺の別府竹細工や日田市の竹箸など、大分県では豊富な竹材を利用した竹工芸が歴史的に盛んです。

ここ伊豆でも竹細工はさかんなようで、麓の修禅寺温泉街にも竹細工の店があるほか、伊豆から天城に向けての一帯には竹製品を専門に扱っているお店が点在しますし、同じように竹を町おこしの材料として生かそうとしているところは全国でも案外と多いものです。

このように竹は、我々の生活と密接なところに常に存在しています。

ところが、同じ竹でもタケノコに関しては、ことわざや比喩となると、あまりかんばしい印象のものは多くなく、「雨後のタケノコ」は、雨が降った後はタケノコが生えやすいことから、何かをきっかけとしてある問題が続々と発生することや、余計な問題に首を突っ込む人間が増えることをさします。

「タケノコ生活」はたけのこの皮を1枚ずつはぐように、身の回りの衣類・家財などを少しずつ売って食いつないでいく生活であり、最近はあまり使われませんが、その昔「タケノコ剥ぎ」という言葉が性風俗店で用いられましたが、これは、ボッタクリ商法のひとつです。

タケノコの皮をはがす行為に由来し、初期料金を安く見せかけ、女の子の脱衣や接触行為などのオプション料金を積み上げていった結果、法外な高額の料金になってしまうことです。

さらにはタケノコ医者というのがあり、これはタケノコがやがて竹になり藪になることから、技術が下手で未熟な藪医者にも至らぬ医者のことをさします。

そういえば、その昔、竹の子族というのがあり、これは野外で独特の派手な衣装でディスコサウンドにあわせて「ステップダンス」を踊る若者たちの総称でした。

1980年代前半東京都・原宿の代々木公園横に設けられた歩行者天国でラジカセを囲み路上で踊り始めたのがきっかけで、その後表参道などでも踊りだし、東京ではこのほか吉祥寺や池袋、地方でも名古屋等地方都市の公園でも小規模ながら竹の子族が踊っていたようです。

改めて調べてみるとブーム最盛期は1980年(昭和55年)ころといいますから、これはちょうど私が大学を卒業して、千駄ヶ谷の建設コンサルタント会社に勤め始めたころのことです。そういえば、このころ隣の部署でタケノコ族らしい若者がアルバイトに来ていたことなどを思い出しました。

それにしてもなぜ「竹の子」だったのかといえば、これは「大竹竹則」という人がオーナーを務める「ブティック竹の子」で売られていた衣装が受けたことから徐々にこの特色のある衣装を着る若者が増えていったことに起因するようです。

主に原色と大きな柄物の生地を多用したファッションで、アラビアンナイトの世界のような奇想天外なシルエットが注目を集め、化粧についても男女問わず多くの注目を引こうと鮮やかなメイクをするようになりました。

この「ブティック竹の子」では竹の子族ブーム全盛期には、竹の子族向けの衣装が年間10万着も販売されたといいます。

街頭や路上で若者グループが音楽に合わせてパフォーマンスを表現するブームの先駆けともいえ、若者集団の文化、ファッションとしても、1980年代前半で注目され、この竹の子族の中からスカウトされ、清水宏次朗や沖田浩之といった後のアイドルスターが芸能界にデビューしています。

が、1980年後半、ローラーや、バンド、ブレイクダンス等、多様なパフォーマンス集団に押され、竹の子族ブームは下火になっていきました。1997年ころには代々木公園前歩行者天国試験廃止され、1998年に完全廃止になってからは原宿から撤退、東京新宿のディスコなどに活動の場を移していきました。

さすがに現在はもうないのだろうと思ったらそうではないようで、現在も当時のメンバーが中心となり、新メンバーを募って「平成竹の子族」なるものが存在し、原宿や上野を中心に活動を続けているそうです。

今にして思えば戦後昭和を代表する文化のひとつであり、いかがわしさはあるものの、私が就職したてのころの街の風物詩でもあり、妙に懐かしさを覚えます。

もしもあのころに戻れるものならば戻ってみたい気もしますが、だからといって竹の子族をやりたいかといえばそんな気はさらさらありません。

竹の子はやはり食べるもの。旬である今は新鮮なものなら生で刺身としていただくこともでき、軽く湯がいたり、焼き物としてもその風味を最大限味わうことができます。

今日もお天気がよさそうなので、タケノコ掘りに出かける人も多いと思いますが、くれぐれも盗掘などされないように。人の敷地に勝手に入ってタケノコ堀りをするのは家宅侵入罪以外にも窃盗罪に問われます。

その点、ウチのタケノコは我が家の庭に生えてくるので大丈夫。さて、今年は何本生えてくるでしょうか。

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探せ、わだつみの音

2014-1150459マレーシア航空機が行方不明になって、昨日でちょうど一カ月になります。

報道によれば、ブラックボックスからの信号音を長時間にわたってオーストラリアの艦船がキャッチしたとのことで、これが行方不明機のものだとすれば、その発見も間近に迫っていることになります。

もしこの信号が深海に沈んだ行方不明機からのものだとすると、今後はその発信源であるフライトレコーダーやボイスレコーダーなどの引き揚げが焦点になってきますが、この際に問題になるのがこの海域の水深です。

インド洋南部のこの海の深さは4500mもあるとされており、もしここにくだんのブラックボックスが沈んでいるとすれば、その回収にはの投入が必要になってきます。

この深さを潜れる潜水艦は世界でも指折りしかなく、日本のしんかい6500のほか、フランス、ロシア、中国ぐらいしか持っていません。

アメリカは意外とこの分野では出遅れていて、1964年の就役したアルビンという潜水艇を持ってはいるのですが、潜水深は2,400mまで潜れるにずぎず、とても4000m以上には対応できません。

一番可能性があるのは、この飛行機にも多くの乗客が乗っていた中国の潜水艇でしょう。

「シーポール級潜水艇」というのを持っていて、水深7000m未満の海域まで潜れるといい、その最新型の「蛟竜号」は3人乗りで、2012年6月24日には7,020mに到達し、1989年に6,527mを達成した日本のしんかい6500の記録を抜いています。

しかし、聞くところによるとかなり視界の悪い潜水艇のようで、乗組員の生命維持装置なども、有人宇宙船の神舟号のものを流用しているということであり、どうも実験船というかんじがします。

ただ単に深くまで潜れればいいということではなく、不明機の探査ということになると、深海での操縦性などの機動力も問題になってくると考えられ、本当にこれが使える船なのかどうかは未知数です。

また、マレーシアと中国は、伝統的な友好国ですが、中国は近年、東南アジア各国が自国領としている南シナ海の島などを中国領土と主張しており、マレーシアなどの東南アジア各国と軋轢を強めています。

マレーシアも例外ではなく、中国はマレーシアの排他的経済水域にあるジェームズ礁を「最南端の領土」と主張しており、2013年3月には中国軍艦がジェームズ礁近海に入り、マレーシア側に威嚇発砲を実施したことがあります。

2014年1月には中国の揚陸艦1隻と駆逐艦2隻がジェームズ礁近辺で主権宣誓式を実施するなど、中国側は動きを強めており、マレーシア側も中国に対する反発を強めつつあるようです。今回のマレーシア機の捜索にあたっても、マレーシア側の捜索の初動体制の不備をめぐってかなり両国関係はぎくしゃくしているようです。

ただ、飛行機が不明になったのは公海域と思われることから、中国は独自ででも探査に乗り出すかもしれず、この場合、マレーシアが中国以外の別の国に依頼して、それぞれが別々に不明機の探査を行う、ということも考えられます。

日本は、上述のしんかい6500を保有しているほか、最大潜航深度7,000mまで潜航、調査することができる無人探査機「かいこう」などを保有しており、「かいこう7000II」は、1999年11月に小笠原沖水深2,900mの海底に沈んだH-2ロケット8号機の捜索に出動し、エンジン部品を発見した実績があります。

今回の行方不明機の捜索にあたっては、日本からも自衛隊機などが出動しており、マレーシアとも友好関係がある我が国がこのを出す可能性は結構あるのではないかと思われます。

しかし、しんかい6500の運用には、その支援母船の「よこすか」などの航行が同時に必要であり、しんかい6500はこれに搭載されて調査海域まで運ばれます。これらワンセットの運用による一度の潜水に数千万円の費用が必要となることから、日本政府がその多額の出費を伴う要請をはたして飲むかどうかは少々疑問です。

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もっともマレーシア側が金を出す、というのなら話は別です。こうなると、日本だけでなく、ロシアやフランスの探査船の可能性もなくはなく、とくにフランスの保有しているノティールというは、2009年6月のエールフランス447便墜落事故に際しては墜落機のブラックボックス捜索に従事し、これを見事に見つけています。

フランスは昔からこうした潜水艇の優れた建造技術を持っていて、その中でもオーギュスト・ピカールによって発明されたバチスカーフが有名です。推進力をもち深海を自由に動き回ることが可能というこの深海潜水艇の登場は世界を驚かせました。

バチスカーフとはフランス語ではなく、ギリシア語の単語”bathys”(深)と”skaphos”(船)を組み合わせて”bathyscaphe”と命名されたものです。

1960年、このバチスカーフの第二号艇のトリエステ号は、ピカールの息子ジャック・ピカールとドン・ウォルシュ大尉の操縦によって地球表面で最も深い地点、すなわちマリアナ海溝のチャレンジャー海淵の35,798フィート(10,911メートル)の地点に到達しました。

こうした技術を用い、フランス国立海洋開発研究所によって作られたノティールは1984年に就役。深さ6000メートルまで潜水可能です。

正副パイロットと科学研究スタッフの3名が乗り込むことができ、長さ8メートル、幅2.7メートル、高さ3.81メートルで、耐圧殻はチタン合金で作られています。

船尾のメインプロペラのほかに船体の前後左右に4つのスラスターを装備することで高い運動性を実現し、3つの観測窓の他に、静止画像カメラ2基、カラービデオカメラ2基のほか、深海を明るく照らす投光機も装備しています。

さらにリモート操作によるロボット・アーム2本により海底の標本採取や各種水中作業をこなすことができ、エールフランス機のブラックボックスもこれによって回収されました。

初めての本格的な調査任務は1985年に行われた日本とフランスの共同調査「KAIKO計画」であり、日本海溝などに27回の潜航を行って地震の元となる海底の断層調査などに大きな成果を挙げました。

銚子沖の海底で沈み込みプレート境界をはじめて直接視認し撮影することにも成功しており、襟裳海山に海底地震計・海底傾斜計を設置するなど、日本のプレートテクトニクス研究にもお大きく貢献しました。その潜航能力を活かしてノティールは科学調査以外の様々な任務に携わっており、ほかにも1987年のタイタニック号の残骸調査などが有名です。

このノティール号が発見したブラックボックスを搭載していたエールフランス447便は、乗客216人、乗員12人を乗せ、2009年の5月31日にブラジル・リオデジャネイロのアントニオ・カルロス・ジョビン国際空港を出発しました。定刻では、フランス・パリのシャルル・ド・ゴール国際空港に現地時間の6月1日の午前中に到着する予定でした。

ところが、6月1日の午前零時を2時間ほど回った午前2時ごろに最後の交信が行われた後、消息を絶ちました。この最後の交信では機内の与圧が低下したとの交信があったとのことで、その後、電気系統の異常を知らせる自動メッセージが同機から発せられていました。

当時の航路上では落雷を伴う乱気流が発生していたといい、また、同時間帯に現場付近を飛行していたTAM航空やエア・コメットの乗客・乗務員が「炎に包まれたもの」・「強烈な閃光」を機内から目撃しています。

この失踪を受け、ブラジルやフランス、スペインなどの各軍隊が、消息を絶ったブラジル沿岸から北東約365kmのフェルナンド・デ・ノローニャ周辺で捜索を行いました。

その結果、6月2日にブラジル空軍がセントピーター・セントポール群島付近の大西洋上で座席やジェット燃料など航空機のものと思われる残骸を発見。その後、ブラジルのネルソン・ジョビン国防相はこれらの残骸がエールフランス447便のものであると断定し、この海域に墜落したと発表されました。

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その後、ブラジル軍が現場海域で乗客と見られる遺体やエールフランスの社名が入った座席や機体の残骸、447便の搭乗チケットなどの遺品を相次いで発見し、6月8日には機体の垂直尾翼が回収されました。

この捜索で、フランス海軍は観測艦に搭載している水中探査機や原子力潜水艦を動員して機体の残骸やフライトデータレコーダーの捜索を行いました。その結果、最終的には、600点近い機体の残骸と51人の遺体が回収されましたが、ブラックボックスは発見できないまま、いったん6月26日に機体の残骸と遺体の捜索を打ち切られました。

その後もなお、ブラックボックスの捜索及び回収はフランス軍主導で続けられ、7月2日にはいったん打ち切られましたが、翌年の2010年2月より再び捜索を再開。2011年4月3日にエンジン及び主翼の一部を発見したことをフランス運輸相が発表し、続いて5月1日にブラックボックスの回収成功が発表されました。

事故機となったこのエールフランスのエアバスA330は、双発ワイドボディ機で、447便の事故が発生するまで全損した死亡事故は1機だけで、しかもこれは1994年6月にエアバス社で試験飛行中の機体で発生したものでした。

その後各国の航空会社に提供されるようになり、有償飛行中の機体には何らトラブルが発生したことはなく、またパイロットのイスなどによる員損失事故はまったく発生していないなど、高い性能が評価されかけていました。それだけに、その製造開発を手掛けたエアバス社を事実上保有しているフランス政府にとっては大きな衝撃でした。

また、生存者はその後も発見されなかったことから、全員が犠牲になったとされ、エールフランスの75年の歴史においてもこの事故は最悪のものとなりました。

それだけに、事故の原因究明にあたってフランス政府は国威をかけてあたったようで、もう回収は不可能といわれる中、年を越したあとも運用に多額の金のかかる潜水艇を使ってまでブラックボックスの回収にあたったことも、その必死さの表れでした。

事故機には、3人の操縦士と客室乗務員9人、計12人が乗務しており、乗客は、126人の成人男性、82人の成人女性のほか、7人の子ども、1人の乳児でした。その国籍はブラジル人58人、ドイツ人26人などでしたが、フランス人は61人と最も多く、このこともその捜索活動を熱心にさせた要因でしょう。

乗客のブラジル人の中には、旧ブラジル皇帝家の子孫の1人で、将来的にブラジルの帝位請求者となることが確実視されていたペドロ・ルイス・デ・オルレアンス・イ・ブラガンサ氏の搭乗も確認され、話題となりました。

このほか、ミシュラングループのフランス人の幹部社員1人と、ラテンアメリカの最高経営責任者を含むブラジル人の幹部社員2人、ドイツの鉄鋼会社ティッセン・クルップのブラジルの関連企業のCSAの社長、そして中華人民共和国の国営報道メディアの8人なども乗っていたといいます。

ブラックボックスが回収されるまでは、その事故原因について、現場付近を飛行していた航空機の乗客・乗務員などから「炎」や「閃光」が目撃されたという情報があったことから、落雷が発生し電気系統が故障したのではないかという説や乱気流に入る際の速度を誤ったのではないかという説がありました。

また、消息を断つ直前に事故機の速度計に異常が発生していた説、エールフランス社がエアバス社に勧告されていた速度計の交換を行わなかったためではないかという説などが浮上しましたが、確固たる物象がないためそのいずれもが決め手に欠けました。

しかし、ノティールの活躍によってブラックボックスが回収され、ここから取り出されたフライトレコーダーは、仏航空機事故調査局(BEA)によって解析され、その結果、墜落の詳細が次第に明らかになっていきました。そしてまず最初に発表されたのは、このエールフランス機の片方のピトー管が着氷したという事実でした。

ピトー管というのは、航空機の速度を計測する装置で、その構造は二重になった管からなり、内側の管は先端部分に、外側の管は側面にそれぞれ穴が空いていて、二つの管は奥で圧力計を挟んで繋がっており、その圧力差を計ることができるようになっているものです。

言ってしまえばただの管にすぎない単純構造であり、このピトー管の一方に氷が付着することにより、飛行機の左右の翼に合わせて2つ付いている速度計が異なる値を示すことになりました。

このため、機体のコンピュータはこの異常を感知し、異常をパイロットに知らせ、自動操縦を解除してマニュアルにするようと警告音を発し始めました。ところが、このときたまたま機長は休憩中であり、機長席に座っていたのは3人の操縦士のうちの最も経験の浅い副操縦士でした。

この副操縦士は、指示に従ってマニュアルに切り替えましたが、この時点でさらに失速警報が鳴り始めました。失速した際は通常機首を下げるべきでしたが、このときこの副操縦士はなぜか操縦桿を引き、フルスロットルとしたため仰角が増し続けました。

機長が戻った時には、時すでに遅く、3度目の警報が鳴って完全な失速状態にあり、エールフランス447便は、失速状態のまま海面に激突し、バラバラになったことなどが、このフライトレコーダーの解析からわかりました。

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一方、ボイスレコーダーには、墜落の3秒前、乗務員の1人が「なんてことだ、墜落するぞ、ありえない」と叫んでいた音声が記録されていました。また副操縦席のもう1人のパイロットが「上昇しろ」と叫んだのに対し、もう一人が「さっきからずっと操縦桿を引いている」と言っていたことも判明しています。

エアバスA330-200は、操縦輪式のボーイング機とは異なり、正福のパイロットがそれぞれ握る操縦桿が連結していない形式でした。このことから、お互いがこのとき行っていた操作をそれぞれが理解していなかったことが想像されました。

また、この二人は、失速の際の警報についてまったく話し合っていた様子はなかったそうです。そしてこれは、失速して落下するとき、迎角が瞬間的に0になることでこの機体が一瞬失速警報が鳴りやむしくみになっており、このため二人は失速という重大な事態に至ってないと判断していたのではないかということも考えられました。

失速警報がたびたび鳴っているにもかかわらず適切な操作が行われておらず、「失速状態にあることをしっかり認知していなかった」と指摘されており、また副操縦士は高高度における”計器速度の誤表示”への対応と、マニュアルでの機体操作訓練を受けていなかったことも後に判明しました。

2012年7月5日、仏航空事故調査局(BEA)は、事故原因を速度計(ピトー管)の故障と操縦士の不手際が重なったこととする最終報告書を発表し、フライトレコーダーとボイスレコーダーの二つの回収という成果によってこの事件は決着を見ました。

こうしてエアーフランス機の事故の原因は明らかになりましたが、今回のマレーシア航空の失踪と比較して異常なのは、エアーフランス機のときには比較的早期に機体の一部や遺体などが発見されたのに、今回はまったくこれらが回収されていないということです。

中国政府などが、漂流物らしき物が写っているとして公表した衛星画像なども、異様に大きいことなどについて疑問視され、その後中国からマレーシアに対して「誤って公表されたもの」との連絡があったといいます。

中国が新型艦船や、高解像度の衛星画像を提供する目的の一つは、軍事力の誇示であることなども指摘されており、この衛星画像もただのパフォーマンスだったのかと思わせます。

が、私の記憶が正しければオーストリアからも同様に衛星画像が得られたとの発表があったはずであり、もしかしたら、難破した船の残骸などが誤認されたのかもしれません。

いずれにせよ、このマレーシア航空機が本当に墜落したかどうかについての確証は何一つ得られていないわけであり、それだけに、オーストラリアの艦船がキャッチしたという今回の信号音に期待が集まっています。

いずれその音源の位置が確定されれば、深海潜水艇を持つ日本やフランスへの要請も現実のものとして浮上してきるでしょうが、それが実際のものとなるかどうかは、ここ数日のうちに明らかになってくることでしょう。

日本は1989年に運用を開始した、しんかい6500以降の有人の新たな開発を凍結しており、新しい船を建造する予定は今のところまったくないようです。

不況により財政が厳しいことが原因のようですが、このマレーシア航空機調査にはぜひ参加して成果を上げてもらい、そのことで国際的にも高い評価が得られればまた政府も考えなおすのではないでしょうか。

海好き・船好きの私としては、行方不明機の発見もさることながら、この事件をきっかけとした新しい潜水艇の登場が楽しみです。

2014-1150344大室山 さくらの里にて

ナンバー2

2014-1150025この4月から、日経新聞朝刊の「私の履歴書」の執筆連載をトヨタ自動車の名誉会長、豊田章一郎さんがされています。

トヨタ自動車創業者の豊田喜一郎の息子で、父の命で建設業や食品業を経験した後1952年にトヨタ自動車工業株式会社に取締役として入社。トヨタ自動車工業の常務や専務、副社長を経て、1981年にトヨタ自動車販売代表取締役社長に就任し、豊田本家出身者への社長職「大政奉還」の旗印となりました。

また、1982年、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併に誕生したトヨタ自動車の初代社長に就任。以後、1992年に代表取締役会長就任、1999年に取締役名誉会長等を歴任し、1994年から1998年まで第8代日本経済団体連合会の会長を務めるなど、現在でも経済界の重鎮です。

このトヨタの偉いところは、創業者一族に経営を任せず、常に外からの血を入れて組織の活性化を図ってきたところで、このため大組織によくありがちな、血管閉塞を起こすことなく、ほどよい内部の活性化が図られ続け、その結果として、日本はもちろん、世界でもナンバーワンといわれるような大企業となりました。

そのトヨタの車を見ると、確かによくできていて、デザインもさることながら動力性能も優れたモノが多く、トヨタファンならずとも、なかなかいいな、と思わせるものがあります。

しかし、私はトヨタ党ではなく、ホンダのほうが好きです。昔はスバルやいすゞに乗っていたこともありますが、トヨタの車は一度も自分では購入したことがありません。

なぜか、といわれるとはっきりとしたことは言えないのですが、なんというか、ワクワク感がないとでもいうのでしょうか、例えばエンジンひとつにしても、ホンダやスバルのエンジンのような、あのブワッと吹け上がるときの高揚感がないのです。

デザインも優れていて、大衆車であるカローラなどをレンタカーで借りて乗ったりすると、あぁよくできているなーと感心するのですが、いざ運転してみると、可もなく不可もなく、優等生的なその出来具合に、しばらくすると飽きてしまいます。

業務用で使う分には非常によく出来た車だと思うのですが、普段自分が乗り回すクルマとしては少々どこか物足りなく感じてしまうのです。

無論、トヨタやたくさんの車を作っていて、それすべてに試乗したわけではありませんから、こうした批評をする立場にはありませんが、かつて乗ったことのあるトヨタの高級車にもやはり同じような感触を持ったことから、総じてこの会社の車はそうなのかもしれません。

なぜなのかはわかりませんが、私は昔からナンバーワンよりもナンバー2のほうが好きなようで、このほかにも例えば、カメラではニコンよりもキャノン、オリンパスといったメーカーのものが好きでしたし、パソコンでもSONYやNECよりも、東芝やエプソンといったどちらかといえばマイナーなメーカーをいつも選んでいました。

野球では巨人や阪神よりもカープが好きですが、これは育った町が広島だったからにほかなりません。が、巨人戦のカードのときには、がぜん燃える思いがあるのは、やはりナンバーワンに対しての対抗意識があるからなのでしょう。

それにしても、古来から日本では、ナンバー2といわれる人達があまた輩出され、彼らが歴史を作ってきたと言っても過言ではなく、有名なナンバー2としては、例えば主君上杉景勝のナンバー2であった、直江兼続がいます。

景勝と兼続は、幼い頃から兄弟のように固い絆で結ばれていましたが、主従の関係にありました。上杉謙信が倒れた時、景勝を跡取りとすべく画策したのが兼続であり、この時のもう一人の跡継ぎ候補は北条家からナンバーワンとして送り込まれた上杉景虎でしたが、兼続はこれを除いて自分の主君である景勝に家督を継がせ上杉家を守ることに成功します。

ここから兼続のナンバー2としての人生が始まり、口数が少なく不器用な景勝、対して容姿が美しく、言語晴朗、頭脳明晰な兼続はこの主君の良きサポーターとなり、その後の乱世を生き延び、上杉の名を幕末まで残しました。

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このほかの歴史上有名なナンバー2としては、若き将軍家綱を支え強力なリーダーシップを発揮した保科正之や、江戸城内で刃傷事件が起こした主君の遺恨を晴らした家老の大石内蔵助などが思い浮かびますが、千利休や真田幸村のように最終的には自らのその優れた能力のために身を滅ぼしたナンバー2もいました。

こうした彼等の立場は、終世ナンバー1ではなく、あくまでナンバー2でした。

人間という存在が組織的な活動をするためには、どうしても序列が必要になり、大きな組織になればなるほど、ナンバー1になるということ自体が並大抵のことではなくなります。

このナンバー1になるということが大組織ではどういうことかというと、そのためにはある種の正当性が問われることになります。特に組織が大きいだけでなく、機構が複雑になればなるほど、組織のトップは実力のみではなく、この正当性が重大な問題となってきます。

その正当性をどう決めるかについては、その時代の特性や帰属する組織の性格にもよりますが、多くの場合が血統であり、あるいは多数の者たちの同意によるものでしょう。が、時には神の意志といったこともあるでしょう。

このように時代、文化によりその正当性は異なりますが、どうしても一部の人間にしか越えられないハードルがナンバー1とそれ以下には存在します。

しかし、人間はその出自や社会状況に関係なく、野心を抱き、向上することを夢みるものであり、自らの能力の有無を世間に問いかけたいと願うものです。それこそが人間性を形成する一部であり、こうして神の恩寵を受けたナンバー1へのハードルをどうしても越えることのできない多くの男たちは、組織のナンバー2を目指すことになります。

つまり、ナンバー2を目指す人は、歴史の神の恩寵を最大限に引き出すことの出来なかった、「優れた凡人」といえ、時には人には真似できないほどの愚直な努力によってその座を獲得するのです。

では、トヨタやニコンといったナンバーワン企業が神の恩恵を受けて誕生したメーカーかといえば必ずしもそうではないかもしれません。が、やはりどこか優等生的な雰囲気はぬぐえません。

これはトヨタがその後日本が太平洋戦争に突入していく中、国策企業として優遇されたといういきさつや、ニコンにしても「光学兵器」の国産化を目的として設立されたという経歴があることと無関係ではないでしょう。

これに対して、ホンダやキャノンといったナンバー2はこうした国の方針とは関係なく、戦後の混乱期に独自の努力で今の地位をなしえた企業であり、広島カープもまた、巨人のような老舗球団ではなく、原爆の焼け跡から市民団体が立ち上げた球団です。

多くの人間はリーダーにはなれません。その素質も、その正当性も、そして幸運をも持ち合わせていないからです。しかし、巨大な権力や組織の間をうまく泳ぎ抜き、その中で実務能力を身につけ、現実的な思考を生かしつつ未来に対する先見性を持ち、社会や歴史に大きな足跡を残すことは可能です。

ナンバー2であることは強権な権力や巨大組織と常に対峙して生きていくということでもあり、それらはいつの時代にも残酷で、冷酷な魔物でもあるため、ときに利休や幸村のように時代に埋没していきます。

いかにしてその魔物と対峙し、これをコントロールしていくのかこそが一生の課題なわけで、そこを必死に頑張っていく姿は泥臭くもありますがしかし、多くの人の共感を呼びます。私がナンバー2を好きなのはそのためかもしれません。

過去において、成功したナンバー2、失敗したナンバー2は数多くみられますが、それぞれの事例を見れば、どのように生きるのか、そのヒントが見えてくるのではないでしょうか。

優秀なナンバー2がいなければ、ナンバー1もありえません。今のトヨタがナンバー1でいられるのは、ホンダなどあまたのナンバー2が控えているからです。

しかし、そのトヨタにもまたナンバー2がいるはずです。この大企業にあって、そのナンバー2がナンバー1をどう支えているか、その生き様がどうであるかを観察することもまた勉強になるかもしれません。

さて、あなたの周りのナンバー2は誰でしょう。あるいはあなた自身が優秀なナンバー2であるかもしれませんが。

2014-1140999黄金崎にて

北条家のこと

2014-1140923今日は、北条時宗が亡くなった日だそうで、その死は弘安7年(1284年)のことでした。といっても、旧暦の話なので、現在では4月20日ころになるようです。

鎌倉幕府の第8代執権で、内政にあっては北条一族の幕府内の権力の強化を図る一方で、モンゴル帝国の2度にわたる侵攻、つまり元寇を退け、このことにより日本の国難を救った英雄とも評される人物です。

しかし、二度目の元寇である弘安4年(1281年)の弘安の役後のわずか3年後の弘安7年(1284年)に34歳で病死しており、その亡骸は自らが開いた鎌倉山ノ内の円覚寺に葬られました。死因は結核とも心臓病とも云われています。

先日、この北条時宗の先祖である北条家の発祥の地、伊豆長岡に行く機会があったので、今日はこの北条家の一族のことを少し書いてみようと思います。

はっきりとしたことはわかっていないようですが、この時宗の死より40年ほど前には既に伊豆では現在の三島市の三嶋大社の近くに国府が造られたようです。仁治3年(1242年)ころに書かれた「東関紀行」には、「伊豆の國府に到りぬれば、三島の社の…」云々の記述がみられるそうです。

伊豆はそれ以前は流刑地であり、鎌倉幕府の祖である源頼朝が伊豆韮山の蛭ヶ小島に流されていたことは有名です。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられて以降頼朝は本拠を鎌倉におきつつも、まだこの地に残る反源氏の豪族の討伐を続け、かつて自分が流されていた伊豆の平定を続けていたことは想像に難くありません。

伊豆は、頼朝をサポートしてくれた北条氏の本拠地でもあり、国府の建設に至ったのはこの北条氏の意向でもあったことでしょう。頼朝は建久10年(1199)に53歳で亡くなっていますが、ちょうどこのころに書かれた「吾妻鏡」の文治5年(1189年)の記述には、田方郡内には南条・北条・上条・中条と呼ばれる地域が並んでいたとあるそうです。

田方郡というのは、現在は函南町の一町だけを有する郡部ですが、かつては、現在の伊豆市の大部分や三島市の一部、伊豆の国市の一部をも含む広いエリアであり、そのほとんどが北条氏が拠点としていた区域です。

北条氏は、「得宗」と呼ばれる嫡流を中心に名越、赤橋、常葉、塩田、金沢、大仏などの諸家に分かれ、一門で鎌倉幕府の執権、連署、六波羅探題などの要職を独占し、評定衆や諸国の守護の多くも北条一族から送り出しました。

その権勢を確立したのは、頼朝の舅である北条時政であり、娘北条政子が源頼朝の妻となったことから頼朝の挙兵に協力し、鎌倉幕府の創立に尽力したことはよく知られている史実です。

頼朝が征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得、頼朝亡き後もその子源頼家・源実朝の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となりました。そして2代将軍頼家を追放し、修善寺に幽閉した上で謀殺。

さらに、3代将軍実朝をも暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしましたが、あまりにも自分に権力を集中させようとしたため、娘の政子や息子の義時の反発を招き、出家させられました。

そして、2代執権義時から数代にわたって北条家は、鎌倉幕府などの他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立していきます。実朝を暗殺したあと、義時は京都から九条頼経を4代将軍に迎え、将軍の地位を名目的なものとし、後鳥羽上皇の討幕運動である承久の乱に勝利し、幕府を安定させることに成功しました。

こうして3代執権北条泰時の時代には、かの有名な「御成敗式目」が制定され、北条家は幕府の御家人としてその支配をゆるぎないものにしました。

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以後、鎌倉幕府における権力の中枢は北条家に集まるようになり、得宗家の家臣は「御内人」と呼ばれ、しばしば得宗家の代官として各地の所領や守護所などに派遣され、権力をさらに強化しました。

上述の8代執権北条時宗のときに勃発した元寇もまた、結果としては北条氏にプラスになりました。これを機に軍事指揮権も獲得できるようになっためで、これによって西国での支配権をも強化することができるようになり、北条一門から鎮西探題、長門探題なども派遣されるようになりました。

これと同時に北条一門の諸国守護職の独占も進み、時宗の息子・9代執権北条貞時は平禅門の乱で内管領の平頼綱を滅ぼして得宗専制を確立しました。これらにより、北条系以外の御家人層の没落はますます進行していきます。

ところが、貞時の子・14代執権北条高時のころになると、そろそろその権力は末期を迎えるようになります。

京都では後醍醐天皇が、「正中の変」を引き起こそうとしますが、これはからくも未然に防ぐことができました。ところが後醍醐天皇は、引き続いて元弘の乱を1333年(元弘3年/正慶2年)に起こし、再度挙兵すると、御家人筆頭の足利高氏(尊氏)がこれに呼応しました。

尊氏は京都の執権北条家の拠点たる六波羅探題を滅ぼしましたが、これに上野国(現東京)の新田義貞も呼応し、高氏の嫡子千寿王(足利義詮)が合流すると関東の御家人が雪崩を打って倒幕軍に寝返りました。

こうして、反北条・反鎌倉幕府の勢力は増大しつづけ、ついに鎌倉が陥落。この結果、北条一族のほとんどが討死または自害し、鎌倉市域において行われた東勝寺合戦において、ほぼ北条氏は滅亡しました。

最後の執権は、第16代の北条守時でしたが、39歳であった彼は、新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つべく先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂という場所を拠点として、敵方と激戦を繰り広げ、伝説では一昼夜の間に65合も斬りあったとされます。

しかし、衆寡敵せず現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺で自刃したと伝えられており、このとき、子の益時も父に殉じて自害しました。

そのほか、地方に守護職などで派遣されていた北条一族ものきなみ攻め滅ぼされており、第13代執権である北条基時の子であり、京都の北方六波羅探題(探題は北と南ふたつあった)であった北条仲時なども、後醍醐の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められています。

このとき仲時は、親鎌倉幕府派であった光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたそうですが、近江国(滋賀県)の番場峠(現米原市)で野伏に襲われ、軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺というお寺の本堂前で一族432人と共に自刃しています(享年28)。

かつて権勢をふるった北条得宗家は、彼等の復権を恐れる尊氏ら一派によってほぼ完全に根絶やしにされており、その中でも一番最後に葬られたのは北条時行だといわれています。

第14代執権北条高時の次男であり、文和元年(1352年)に、上野国で挙兵しようとしますが、武蔵国で尊氏とその子基氏に敗れて捕らえられ、翌年5月に鎌倉で処刑されました。

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こうして葬られた北条一族の面々の墓の多くは、関東地方のあちこち、あるいは鎌倉に集中しているようですが、一族のもともとの出自である伊豆には、本家である得宗家を初めとしてその他の連家についても新しい墓はないようです。

おそらくは、伊豆長岡にある第2代執権の北条義時のものが一番古いものだと思われ、これは、伊豆の国市南江間にある臨済宗建長寺派の北條寺にあるものがそれだと言われています。

しかし、「吾妻鏡」には「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」という記述があり、この頼朝の法華堂というのは、鎌倉市内にあるものです。

従って伊豆にある、北条得宗家の墓所というのは、伊豆の国市寺家の願成就院にある初代執権の時政のものと、その息子で義時の弟である北条宗時のものだけということになるようです。

函南町の函南駅周辺にその宗時の墓があるのですが、なぜ得宗家の本拠地であった伊豆の国市にないかといえば、頼朝が挙兵したとき、宗時は平氏方の伊東祐親軍に包囲され、この地で敵方の小平井久重に射られて死んだためです。

つまり、北条氏の発祥の地といわれる現伊豆の国市における一族の名残というのは、時政の墓のある願成就院とその関連寺院のいくつかと、あとその背後にあって、古北条氏の館跡があったといわれる「守山」という小高い山だけということになります。

山の中腹に古い砦跡があり、これに隣接して北条氏の館があったと伝えられているようですが、わずかばかりの遺構が発掘されているばかりのため、具体的な規模などはわかっておらず、これを復元しようとする動きなども今のところないようです。

この守山のすぐ側には狩野川が流れており、そのほとりにはソメイヨシノが30~40本ほども植えられていて、このあたりではこれでも有名なお花見スポットです。

先日退院してきたばかりの母を連れて、そのあたりを散策したのですが、少々お天気が悪く、曇りがちなのが残念でした。

お天気の良い日には、見張り番があったというこの守山の山頂から富士山も眺められ、遠くには鎌倉へと続く箱根山も望むことができるとともに、眼下には頼朝が居住していたという蛭ヶ小島や、北条早雲の居城であった韮山城跡のある小山もみることができます。

今日この北条氏の栄枯盛衰の話を書きながらこの景色を思い出し、この範囲なら自転車で巡るにはちょうどいいな、と思い始めているところです。

またもう少し季節が進んだら、これらの史跡をまとめて巡り、また新しい発見などがあったら、また今日のこのブログの続きを書くこととしましょう。

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