伊那と伊豆

沖縄の梅雨がそろそろ明けそうとのことです。今年もまた、日本列島の南から暑い夏が北上してくるのでしょう。

去年の今頃は何をしていたかな、と自分で書いたブログを見返してみると、このころは、長野の伊那の物件をほぼ決めかけていた時期のようです。その後、霊能者のSさんのアドバイスもあって、物件探しを東京から南西方向に転向。静岡方面を探し始めたのが去年の今ごろだったかと思います。

あれから、一年・・・ 早いものです。あの伊那の家にもし住んでいたらどうなっていたかしら・・・と考えてみるのですが、どうもイメージがよく沸きません。が、こことの違いはなんだろう、と考えてみました。すると、いろいろありそうです。

まず立地。東京からの距離を考えると、クルマを使ったとして、ここは東京まで2時間半ほど。横浜までなら2時間で行けます。三島までなら30分で行け、そこからなら、新幹線が使えます。一方、伊那の場合、中央高速を使ったとしても4時間はかかる。ただし、名古屋や豊橋のほうが近いので、そちらへ出るなら伊豆から東京へ出るのと同じ程度。しかし、新幹線を使おうと思うと、2時間かけて名古屋へ出る必要がある。ただし、在来線はかなり本数が少なく、三島からならかなり本数の多い東海道線が使える伊豆のほうが便利です。

トータルでみると、クルマでの移動と鉄道の利用に関しては、伊豆のほうがかなり有利なようです。伊那は、将来的にはリニア新幹線が通る可能性もありますが、我々が生きているうちに実現するかどうか。伊豆の場合、最近できた第二東名も使えるようになったことも、大きなアドバンテージです。

空港は伊豆の場合、羽田空港までやはい2時間半程度。静岡空港なら2時間で行けます。伊那の場合、中部空港まで2時間半程度。松本空港まで1時間というところでしょうか。これに関してはどっこいどっこいかな。

次いで、利便性。ここ修善寺の隣には大仁という比較的大きな町があり、たいがいのものは手に入ります。30分ほどで沼津、三島へ行くことができ、小さいながらも沼津にはデパートが、三島にはかなり大きなショッピングセンターがある。伊那の場合、飯田まで30分。諏訪まで1時間。両方ともそこそこの町ですし、日常必要なもので手にはいらないものはたぶんないでしょう。が、デパートはなかったかな。

総合的にみると、伊豆も伊那も、利便性ということに関しては、それほど大きな違いはないと思います。強いていえば好みと、選択肢の多さかな。30分から1時間ほどで行ける町のなかでは、沼津の商店街は古くて陰気なかんじがするのであまり好きではありませんが、三島や伊東は古い町ではあるが、風情があります。もう少し足を延ばせば清水や静岡市内へも行けます。

一方の伊那。諏訪は買い物に出かけるには、いつ訪れてもきれいで気持ちのいい町ですが、飯田の町はなんだか古めかしくて暗いかんじがします。新しいお店もたくさんあるようでしたが、古さと新しさのバランスがとれていないかんじ。この二都市以外にはあまり大きな町がなく、お買いものに関してはバリエーションが少ないというのは、マイナス点です。

気候や自然。これはまだ、伊豆に住み始めて数か月で論じるべきではないかもしれませんが、我々が気にしていた涼しさという点では、伊那のほうに軍配が上がるのでしょう。が、逆に冬の厳しさは想像にかたくない。光熱費もかさみそうです。自然の豊かさについては、どちらもそりゃあいいに決まっています。伊豆には富士、伊那にはアルプスがある。

が、海が近い、という点では伊豆は最高です。いつでも好きなときに行ける。伊那の場合、海というと、どこになるのでしょう。知多半島でしょうか、それとも浜松になるのでしょうか。いずれにせよ、海までは遠い道のりになります。

防災上の観点。これは伊豆の負けでしょうか。地震は多そうですし、富士山の噴火の可能性がないわけではない。台風の通り道になることも多いようです。伊那はどうでしょう。地震がまったくないというわけではないようですが、少ないようですね。台風だってめったにこないらしい。

人。これはよくわかりません。が、昔沼津に住んでいた経験からすると、静岡の人はあまりよそ者に対しての偏見がありません。誰とでも分け隔てなく接することができる県民性という気がします。方や長野県民は、多少排他的なところがある、と聞いたことがあります。実際に住んだことがあるわけではないので確かめようがありませんが。

食べ物。これもどっちがどっちとは言えません。長野には長野のおいしいものがあるでしょう。が、長野と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、くだものとそばかな~。酒もおいしそうです。伊豆もそばがおいしいところですが、酒は寒いところのほうがおいしいものができる、と聞いたことがあるので、おそらくは長野のほうに軍配があがるのでしょう。伊豆はみかんなどの柑橘系は強いですね。あちこちでかなり安く、しかも一年中手に入ります。

伊豆にあって長野にないものといえば、やはり魚でしょう。海がある県とない県では、その差は歴然。しかし、わざわざ自分で釣りに行くのでなければ、長野だって名古屋方面からの魚の入荷はあるでしょう。伊那でためしに入ったみたスーパーでも豊富な魚介類がありました。

結論です。やはりどっちがいいとか悪いとかは決められません。交通の便や利便性の面では多少なりとも東京や横浜に近い伊豆のほうに軍配があがると思いますが、震災の心配があることは否めません。気候に関しても、住めば都、といったふうで、住んでいるうちに慣れてくるもの。厳しい寒さも、長年慣れ親しめば、好きになっていくのかもしれません。

人もその地方それぞれの気質の違いというものがあるかもしれませんが、やはり住んでみたところの隣近所の人間関係で決まってくるもの。一概に違いは論じられないと思います。食べ物に関しても同じ。その場所に住めば、その風土にあったものを口にするようになるし、それが長年にわたれば、きらいなものも好きに転じていくものなのでしょう。

伊那と伊豆。今にして思えば、上の一文字が同じというのも、何かのご縁だったのかも。今回はたまたま伊豆になりましたが、遠い将来、もしかしたらまた伊那にもご縁ができるのかもしれません。今日たまたま伊那のことを思い出したのもそのご縁からかも。考えてみると、良いところでした。山がきれいだし、水も豊か。食べ物も私好みのものがありそうでした。いずれまたチャンスがあれば、あそこにもう一軒別荘があってもいいかな・・・

が、まだまだそれまでには時間がかかりそうです。伊豆の暮らしでさえ、まだまだ始まったばかりなのですから。

マンダラ

台風4号の通過でほっとしていたら、今度は台風5号くずれの低気圧が通過していき、伊豆では、昨日の夜から今朝がたまで、強い雨と風に見舞われていました。今、ようやく雨がやみ、少し日が射してきているところをみると、午後からは少しは外出できるような天気になるのでしょう。

先日、なにげなくテレビをみていたら、「南方曼荼羅」なるものが紹介されていました。和歌山県が生んだ大博物学者の南方熊楠が知人への書簡の中で描いたものだそうで、なんでもその当時、熊楠は科学と仏教を融合させる方法を研究していたとのこと。「我が国特有の天然風景は、我が国の曼荼羅ならん」という言葉も残していて、この曼荼羅は、それを現したものだそうです。

このマンダラについては、いろいろな解釈があるようですが、その私が見ていたテレビでは、生物のゲノム研究などの大家で、「生命誌」なる言葉を生み出した、JTの生命誌研究館館長の中村桂子さんがインタビューに応じ、このマンダラを次のように解釈している旨、説明されていました。

「自然は時間とのつながりでできている。宇宙も人間も時間が生み出したものであって、つながりのないものはない。このマンダラは、この世界と時間とのつながりを表現しているものである。」

この世にあるものは、すべて時間の経過とのつながりでできている、ということのようで、うーむ、なかなか奥が深いわい。と、その時は思ったものの、わかったようなわからんような説明なので、この中村さんってどんな研究をされているのかを少し調べてみました。

すると、中村さんたちがやっている研究は、大きく分けて二つあって、一つは、生物や植物のゲノムを解読し、進化の跡を追うことだそうです。例えれば動植物の体に関する大百科事典を編纂していくようなもの。もう一つは、このゲノムを基に、生き物の発生や再生などの過程を観察すること。たとえば、たった一つの細胞である受精卵からチョウができ上がっていく過程や、でき上がったチョウが舞うメカニズムを研究することがそれにあたるようです。

こうした研究をしていくと、生物のゲノムに閉じこめられた「時間」、すなわちその進化の過程が解きほぐされてくるそうで、それをもとにひとつの生物の「系統図」を描くことができる。そして、この世に生きている生命の中に流れた時間と、あらゆる生き物の関係を調べ、その結果を織り込んでいけば、それは、ひとつの曼荼羅になるはずである・・・

ようするに、生命の中に流れた時間とあらゆる生き物の関係を織り込んだ、生き物の曼荼羅が南方曼荼羅そのものだ、という解釈のようです。

なるほど、曼荼羅というと、単にお釈迦様が真ん中にいて、その弟子たちがその周りを囲んでいるごちゃごちゃした絵だ、というふうに思っていましたが、それを自然界の法則に置き換え、時間との関係で論じる・・・この世に存在するものはすべてつながっていて、それが存在するためには時間という要素が欠かせないんだーと理解すると、なるほどそういう考え方も面白い。

でも、それって、ようするにいわゆる四次元空間の話だよなー、と考えていると、なんだか頭がこんがらがってきそうなので、この話はとりあえずやめにします。

ところで、この熊楠先生は、実は大変霊感のある人だったらしく、生前、幽体離脱を経験したり、何度も幽霊をみたりしたことがあるそうです。研究のために那智の山に入ったときに何度も幽霊を見るようになったそうですが、普通の人なら怖がって山を降りるところ、彼は幽霊を観察し、研究・分類するということをやったらしい。本物の幽霊と幻覚の違いの研究までしたそうですが、しまいには、幻覚なのか本当のものなのかがわからなったらしく、死の直前、自分の正気を疑い、「死んだら、脳を調べてほしい」と遺言して亡くなったとのこと。

その死の直前にも、天井に紫色の花がたくさん咲いているのが見えたそうで、そのことを熊楠さんの娘さんが手記で書き残しています。

「こうして目を閉じていると、天井一面に綺麗な紫の花が咲いていて、からだも軽くなり、実にいい気持ちなのに、医師が来て腕がチクリとすると、忽ち折角咲いた花がみんな消え失せてしまう。どうか天井の花を、いつまでも消さないように、医師を呼ばないでおくれ。」(南方熊楠記念館HPブログより抜粋)

と、これを読む限りでは、亡くなる前の幻覚のようにも思えますが、もしかしたら、死後の世界での花畑が天井に見えていたのかもしれません。

熊楠さんは、紫色の花が好きだったそうで、庭の草花も紫色が多かったとのこと。私も実は紫色の花が好きで、あじさいは無論のこと、今度新しくつくる庭には、紫色のバラや桔梗をたくさん植えようと思っています。そういえば、先だって訪れた下田のペリーロード奥にある了仙寺には、紫色のアメリカジャスミンが咲いていましたっけ。

こうした紫の花ばかりを集め、四季折々に紫の花の咲く庭園、というのも面白いかも。そこに集まってくる虫たちや鳥たちを撮影できるのも楽しみです。そこは、きっと我が家の小さな曼荼羅になるはず。しかも紫いろの。

もうじき夏。紫色は涼しげで暑さを忘れさせてくれそうです。あっそうそう、紫色の朝顔も植えなくては。

伊豆へ来てから、空を見上げる機会が増えました。この場所が高台だということもありますが、窓を開けると晴れていても、曇っていてもどこまでも高い空を見ることができます。ときおり、夜になって外に出ると、そこには満天の星が広がり、その空が更に高いことを知ることができます。。

「智恵子は東京に空がないといふ、ほんとの空がみたいといふ。」
これは、彫刻家、高村光太郎の有名な詩集、「智恵子抄」の一節です。現在の福島県の二本松市に生まれ育った智恵子さんは、画家を志ざし東京に出ますが、光太郎さんと結婚したのをきっかけに画家の道に進むのをあきらめます。やがて40代後半から精神をやみ、やがて精神分裂症と診断されて入院。その後8年ほど経った昭和13年に52歳で亡くなっています。

精神病を発する前からの智恵子さんとの生活から始まり、発病、死に至るまでの出来事を哀切にうたったこの詩集にはなぜか惹かれるものがあり、高校時代に文庫版を手に入れてからは、ときおり取り出しては眺める、お気に入りの詩集のひとつでもありました。

大学を出て、就職のため、東京へ初めて出たときに、この「東京に空がないといふ」というフレーズを思い出し、なるほど、確かに東京には空が少ない・・・と思ったものです。私が東京へ出たのは昭和56年のことで、このころはまだ新宿副都心の高層ビル群などもなく、東京の空も今に比べるともう少し広かったのではないかと思います。今は、新宿だけでなく、東京都内のどこへ行っても高層ビルが立ち並び、さらに一層、京の空がせばまったかんじがします。

高層ビルなどほとんどない昭和の初めですら、「空がない」と思ったぐらいですから、智恵子さんが生きていて今の東京の空をみたら、どう思うでしょうか。

しかし、東京もビルの下を歩いていては空は見えませんが、ひとたび高いビルの上に上がると、そこには高く広がる空を見ることができます。最近できたスカイツリーには、予約がいっぱいだし、入場料も高くて、当分上がれそうもありませんが、東京都庁や、新宿の高層ビル群のどれかに登れば、タダでいつも高い空を見ることができる。

いや、高い空だけでなく、ずーっとはるか向こうの富士山や、丹沢と奥多摩、秩父の山々が見える。ときには海を見越して、横浜のランドマークタワーだってみることができるのです。こんなパノラマワールドをほんのちょっとの移動で見ることができる東京の人は幸せだと思います。

とはいえ、高所恐怖症の私は、足がすくんでしまうので、高いビルの上で窓の近くに寄るのが苦手です。どちらかといえばあまり、近づきたいとは思わない場所。それに、地震が来ると、そういう場所は大きく揺れることもあり、それが嫌いで、高所といえば、せいぜい5階くらいが限度。

結局のところ、東京に住んでいたころは、高い空をみたければ行けるところはあるのに、そうした場所へ頻繁に行くことはなく、地面を這う虫のごとく、平地を平地を、ということでひたすら地面に近いところを移動するのでした。

とはいいながら、東京では移動するためには電車に乗らなくてはいけません。ところが、東京で平面移動するためには、たいがい地下鉄に乗らなくてはならず、高台に登るどころか、逆に地下深くにもぐらなければなりません。昔できた銀座線や日比谷線なら、地下1~2階程度地下にもぐればいいのですが、最近できたばかりの南北線などは、あれは、いったいどのくらい深いところを走っているものなのでしょうか。エスカレーターで下っても下ってもホームに着かない。しまいには、もしかしたら入口を間違えたのかもしれない、と思うこともあるくらいです。

地下鉄のホームに着いたら着いたで新たな試練が待ち受けています。私は、高所恐怖症だけではなく、閉所恐怖症でもあるからです。低い天井に囲まれ、電車の進行方向と来た方向にしか視界がきかない地下鉄の狭いホームにいると、いつもなにか閉じ込められているような気がしたものです。もし、今地震なんかきたらどうなるんだろう、などと思うと、心拍数が一気に上がるような気さえします。銀座線のホームって、なんであんなに天井が低いの?

もっとも、東京では地震が来たときには、地上よりも地下鉄のホームなどのほうがより安全なのだそうです。最近は、耐震補強も進んでいるので地下のホームが崩れ落ちるというような心配はほとんどなく、がっしりした壁構造がその中にいる人たちを安全に守ってくれるとか。むしろ地上のほうが、ビルや器物の倒壊、ガラスの散乱などによって危険きわまりない場所になる可能性が高いのだそうです。

しかし、火事になって、地下に煙が充満したらどうなるんかなー。ネズミと一緒に燻製にになるんかしら・・・

・・・と、どんどん話が発散していくのを止めることもできず、今日の話の落としどころはいったいなんだろうと、考えておりました。どうしましょう。ようするに、伊豆の空は東京の空よりも高い、というあたりまえのことなのですが、その空の高さをふつうにありがたい、と思っていてはいかん、ということなのでしょうか。

いえいえ、伊豆には伊豆の空の良さがあり、東京の空には東京の良さがある。それを比較する必要はない、ということなのでしょう。東京の空は確かに狭いけれども、仕事の合間に見える空、地下鉄のホームから地上に上がって見上げたときに見える空、それはそれで都会の中でホッとできる大事な空間。その大事な空間をもっと拡大したい人は、高層ビルやスカイツリーに登ってもっと大きな空を満喫すればいい。私のように高所恐怖症でなければですが・・・

そして、東京を離れ、伊豆へ来る機会があれば、ぜひその高さの違いを見比べてみてください。伊豆の空が東京の空よりも高いのはあたりまえ。そしてそれでいいんです。なぜなら、その空は東京の人がもっとホッとしてもらうために、大事に大事にとってある空なのですから。

龍神 雷神

2008年の今日、私たち二人は、宮島厳島神社で式を挙げ、晴れて夫婦になりました。晴れて・・・なのですが、あいにく当日は朝からの雨模様。宮島からホテルまでの帰りの船からは雨にけぶって淡い色彩の広島の町と海が見えていました。船の中は、式が無事に終わったことによる安堵感があふれていて、我々二人だけでなく、親戚や友人一同もリラックスムード。あちこちで記念写真の撮影大会が始まっていました。

やがて船は、広島プリンスホテル脇の桟橋に到着。船に乗っている間に、少し雨は小降りになってきましたが、あいかわらずの空模様。灰色の雨雲がつぎつぎと足早にホテルの上空を過ぎ去っていきます。やれやれ、せめて披露宴までにはあがらないかな・・・と思いながら、裾をからげてホテルのロビーに入ると、今日これから始まる披露宴への参加客もちらほらと到着されていました。いよいよ宴のスタートか、と新たに気が引き締まる思い。

その日に至るまでのおよそ一年半。あの正月の30年ぶりの同窓会で再会して以降、ふたりの交際は日に日に深まっていきました。再会の翌日には、なんと尾道までクルマで初デート。それまで二人の間にあった溝が一気に埋まった一日でもありました。尾道の海の見えるレストランで食事をし、日がな一日ふたりで話したことが思い出されます。行きも帰りもクルマの中でしゃべりっぱなし。こんなに話が尽きない相手だなんて意外・・・というのは私だけでなく、彼女も同じだったと思います。

そして正月が終わり、私は帰京。私も仕事を持っていましたが、彼女もまた広島のラジオ局の番組原稿を書く仕事をしており、いつまでも遊んでいるわけにはいきません。とはいえ、その初デート以降、仕事が終わった夜になると、ほとんど毎日のように電話をするようになります。たいがいは、夜の9時、10時から始まって、0時か1時には終わるのですが、長いときには明け方まで話していることもありました。最長で、7時間ぐらい話していたこともあったと思います。

一体何をそんなに話すことがあったのか、と今も思うのですがが、お互いの過去30年間にあったことだけでなく、今の仕事のこと、趣味のこと、家族のこと、お互いの過去の恋愛のこと、と話すことはいくらでもありました。そのころオンエアーされていた、オーラの泉をはじめとするスピリチュアル番組の話は二人とも興味深々でみており、こうした番組で紹介される不思議な話は二人が話し合う格好のテーマでもありました。

番組に登場したタレントさんの話に端を発し、自分たち自身のスピリチュアル体験や、自分以外の知り合いのエピソード、これまでに読んだ本のこと、などについても話して意見交換をする、ということを繰り返していましたが、そういう話をするときはまったくといっていいほど時間の流れを感じませんでした。

私の周囲にはそういうことを話せる友人はいませんでしたし、たとえいたとしても、タエさんのように一晩中そのことについて語り合うということはできなかったと思います。そしてそういう会話を通じてまた、数少ない理解者という思いが深くなっていったように思います。

そんなふうにお互いの内面を電話を通じてさらけ出し、お互いの理解を深めあっていった二人ですが、電話ばかりしていたわけではありません。父の四十九日があり、広島に再度帰ったときには、二度目のデートとして広島東部の町、呉へ行きました。かつての軍港である呉の背後には休山(やすみやま)という山があり、頂上までクルマで行くことができます。市内観光をしたあと、夕方近く、そこまで登り、そこからみた瀬戸内海の夕日は絶景で二人にとって忘れられないものになりました。

これを皮切りに、いろんなところへお泊りデートをするようになりましたが、行った先の例をあげると、北海道、岐阜、金沢、新潟、山形・・・・と数えきれないほど。

そして、旅行が終わり、広島と東京それぞれの家に帰るとまた、電話でのデートの繰り返し。そして、そんな電話でのいつもの会話の中、私は多少(かなりだったかな)アルコールが入っていたので、つい軽口のつもりで、「これから二人、どうなるんだろうねー」とつぶやいたのです。それに対して、彼女が間髪入れずに返した言葉は、「そりゃー、結婚しかないでしょ」というもの。「エーッ!? け、結婚~!?」とわたし。

私にすれば、先妻に先立たれたとはいうものの、子持ちでバツイチという感覚でいたので、この何気ない、タエさんのことばにはいっぺんに酔いがさめてしまいました。そして、結局はこの短い会話が、プロポーズなしの結婚へとつながっていくことになりました。

お互い、結婚という目標ができた以上、やることはやらねば、ということで、まずは母に話しました。母は、こころよく賛成してくれましたが、問題は、息子のほうです。どう切り出したもんかなーと思いつつ、ある日の夜、少し酒にも酔った勢いで、「実は、お父さん結婚しようと思うんだけど、どう思う」と思い切って聞いてみました。すると、息子は、たったひとこと、「いいんじゃない」とあっさりOK。えっ、ほんとにいいの?と重ねて聞いたところ、不服はないようです。それじゃー決まった、ということでそのあと、タエさんに報告の電話をしたことは言うまでもありません。

ポーカーフェイスで、承諾してくれた息子ですが、しかし、後日タエさんがその時のことを彼に問いただしたところ、本当はかなり動揺したと白状しました。かなりの衝撃だったらしいのですが、しかし、子供ながらにオヤジにいつまでも家事をやらせておくわけにはいかんなーと思ったとか。ませた小僧です。しかし、タエさんもよく言うのですが、わが子ながら、しっかりした子で、子供のころから自分でこうだ、と決めたことはけっして曲げない性格の子でしたから、いったん自分がOKと言った以上、前言を撤回するということはまずありません。とはいえしかし、彼にとっては義理とはいえ母になる人。ともかくまずは会わせてみて、様子をみる必要がある、と思いました。

そして、そのチャンスは意外に早く訪れます。夏休み中に山口に帰ることを恒例行事としている私は、その年も息子と二人、クルマで帰省しました。途中、広島にも寄って、タエさんに会わせることにしたのですが、これに息子も同意。そして、その日の夕刻、広島の彼女の家につき、玄関から出迎えてくれたタエさんに息子を紹介します。彼はさすがに落ち着かない様子であいさつをしていましたが、彼女に勧められて家の中へ。

その日はタエさんの家に一泊する予定だったので、彼女の手料理なども味わいながら、彼と彼女の様子をそれとなく見ていました。どうなのかな、と観察したところ、彼としてはまんざらでもなさそうなかんじ。タエさん自身はもともとひとあたりのいい人なので、そつなく彼と接していましたが、さすがにまだ母親というよりもどこかのおねえさんというかんじ。

その翌日は、三人でどこかへ出かけようということになりましたが、どこにしようかなーといろいろ候補地をあげていたところ、彼が宮島へは行ったことがないことが分かりました。それじゃあそこにしよう、ということで、朝からクルマで宮島へ行くことに。その日はかなり暑い真夏日の日で、宮島もかんかん照りの状態。

とりあえず厳島神社本殿で参拝し、そのあと別のところへ向かおうとしたのですが、私が道を間違えたことから、山の手の住宅密集地の中を右往左往することに。日頃、運動不足の息子とタエさんは、汗だらだらになりながら、私についてきましたが、ふたりして、私が道を間違えたからだ、と非難を始めました。私は笑いながら「わりーわりー」と言ってかわしましたが、二人はぷんぷん。そのあとも、二人顔を見合わせては、こんなに疲れたのはオヤジのせいだ、と言い続ける始末。

しかし、思えば、この出来事が二人の距離を一気に縮める良いきっかけになったように思います。私を悪者にしながら、あれこれと会話をしている二人は本当の親子のようにも見え、ほほえましく思ったのを覚えています。

そんなこともあり、息子との問題もクリアーできそうだということで、結婚の準備はその後着々と進みます。その当時我々が住んでいた家は、先妻と二人で建てた一軒家でしたが、私がそこへ一緒に住もう、と言ったのに対し、彼女は難色を示しました。それはそうです。亡くなった先妻の思い出が詰まった家に後妻として入るのはいやなもの。それを理解した私は、そこを出て、別途仮住まいをすることを決意。その新居を探し始めました。10月になってようやく、これぞ、というマンションを元住んでいたところからほど近くにみつけ、契約。少しずつ、新居へ荷物を運び始めます。

そして、もう一つの家。広島のタエさんの自宅です。ご両親が残したこの家、かなりの広さがあり、100坪の土地に50坪も広さがあるのです。かつて、ご両親だけでなく、彼女の祖母にあたる方も暮らしていたこともあり、家の中は彼らの遺品だらけ。まずはこれを片付け、必要なものだけにして身軽になる必要がありました。

東京の家と合わせ、広島の家と二軒分のゴミの処理をすることになった私。あー、結婚なんて決めるんじゃなかった~ とは思いませんでしたが、助っ人といえば非力な女性と中学生になったばかりの子供だけ。たいした期待はできません。

そして、それから私の苦闘が始まりました。長い時間をかけ、二軒の家のゴミを捨て、必要なものを選別し、引越しのための荷物整理をするのに、数か月もが過ぎていくことになります。

2008年の1月のころだったでしょうか。ようやく荷物の処分に見切りをつけ、結婚式場をどこにするかを決めはじめた・・・というくだりは、以前のブログ「出航」に書いたとおりです。タエさんとの初デートから一年あまりが過ぎていました。広島の家は、中のものをすべて整理し、捨てられないものは山口の実家に預け、必要なものだけを東京の新居に送ることに。そして、タエさん、息子と一緒に新しいマンションで暮らし始めたのは2月に入ってからだったでしょうか。以後、およそ3年あまりを三人でこのマンションで過ごすことになります。今にして思えば、その生活も楽しいものでしたが。

息子とタエさんはその後、正式に養子縁組をし、法律的にも親子になりました。心配した親子仲ですが、わたしの心配はよそに、ふたりして想像以上に仲がよく、家に帰ってくると、学校のことや友達のことなどは、私よりもタエさんにまっさきに話すほど。タエさんが、母親になってよかったか、などと面と向かって聞いたことは一度もありませんが、その態度が彼の満足を物語っていました。

実の母親の死から5年ほどの歳月が経っていましたが、ようやく日のあたる生活に戻れたようで、私自身の気持ちも日に日に明るくなっていきました。

そして、迎えた6月20日ですが、この日、なんと息子は結婚式に参加できませんでした。実は厳島神社での予約を決めたとき、彼の中学校の修学旅行の日取りをはっきり確認していなかったのですが、その後改めて確認したところ、我々の結婚式と重なってしまっていたのです。

予約を変更しようかなーとか、修学旅行をやめさせようかなとも考えました。しかし、予定のびっしり詰まった宮島での結婚式を延期しようとすると次はいつになるかわかりません。彼にとっても修学旅行は一生に一度のことで、やめさせるのはかわいそうです。

結局息子には申し訳ないが、その日は別々の行動に、ということになったのですが、そのことを当人に話すとさばさばしたもの。むしろ、結婚式なんてめんどうくさいものには出たくなかったので大歓迎、といったご様子。これにはうれしいやらかなしいやらでしたが、まあともかく、両者ハッピーハッピーで事は決着。

・・・そして、結婚式当日のこと。厳島から船で戻り、夕方5時にスタートした披露宴。会場には、親戚や友人、職場の上司のほかに、あの高校時代のクラス担任であった恩師も招きました。その数40人はけっして多くもなく、少なくもなくといったところ。


披露宴の進行役は、タエさんの親友の一人でフリーのアナウンサーなどもしている女性でひろみさんという方。あちこちの結婚式の司会として引っ張り出されることも多いとのことで、軽快なしゃべり口で二人の結婚のお祝いを述べてくれ、華やかに二人の結婚披露パーティがスタートしました。

披露宴のプログラムについては、ホテルの担当の方との打ち合わせ時点から、他の結婚式と変わらないオーソドックスなものにしようと決めていました。が、こだわった点としては、40代後半の熟年夫婦の結婚式として恥じないよう、お呼びした人たちへの気配りが行き届くようにと考えました。

ひとつには、会場のあちこちに配した花などのディスプレイ。派手すぎないよう、シックなものを選ぶとともに、ライムの入ったガラスの花瓶などと組み合わせることで清潔感のあふれるものにしました。また、宴で流れるBGMも二人お気に入りのものを厳選しつつも、会場の雰囲気を壊さないものを選定。

さらに、明るいうちは、できるだけ窓の外の瀬戸内海の景色が楽しめるようカーテンを閉めない、とか、夜になって閉めるカーテンやテーブルクロスは雰囲気を壊さないよう、落ち着いた色を配色。テーブルの種類、配置・・・などなど20代の若いカップルでは決めきれないような細かい部分にも気を配ることができたのは、年の功というべきでしょう。ホテル側の対応もよく、花のアレンジや衣装合わせ、食事の手配、どれをとっても一流ホテルらしいセンスをみせてくれ、宴に色を添えてくれたことには本当に感謝しています。



その効もあってか、宴全体はシックで落ち着いたかんじで進行し、軽快なひろみさんの司会役も子気味よく、用意したプログラムも円滑に進みます。その日の料理をアレンジしてくれたコック長自らが、「鯛の塩釜焼」を解体するというパフォーマンスも見せてくれ、これには会場がおおいに盛り上がりました。


こうした式での定番といえば、宴半ばでのお色直し。それまで宮島から来ていたままの和服をウェディングドレスとモーニングに着替えます。着替えには30分ほどかかるので、この間の間を持たせるために、あらかじめ、私が作っておいたスライドショーを映してもらうことに。このスライドショー、「ムシャとタエコのものがたり」は、これまでこのブログで書いてきたことの集約版のようなもの。仕事のあいまにパワーポイントで作成したものです。あとで、宴に参加した友人に聞いたところでは、かなり評判がよかったらしく、会場の人たちも食い入るようにみていたとのこと。うれしい限りです。

ウェディングとモーニングに着替えたあとの再入場は二人にとって、忘れられないシーン。BGMに平原綾香さんの英語版「ジュピター」をかけるようお願いしてあったのですが、その前奏曲が流れる中、控えの廊下からしずしずと進み会場ゲートの前で立ち止まるふたり。前奏が終わり、曲が本番に入ったところで、一気に会場ゲートが開き、前へと前進。と同時にまばゆいばかりのスポットライトが二人に当たり、きらびやかなウェディングドレスが浮き上がる・・・ それをみた来客からは、一瞬のどよめきがあがり、続いて割れるような拍手が沸き起こりました。

実はこういう演出があることは、ホテル側からはぜんぜん知らされていませんでした。客室係の若い方々が事前に話あって決めてくださったらしく、直前になって事の次第を知らされたのですが、なかなか小粋な演出に二人とも大感動でした。今でも車で外出するときに、平原綾香さんのこの曲がかかると、二人して、あのときは良かったねーと言い合うほど。それほど、心が高鳴る良いシーンでした。

宴の後半は、キャンドルリレーに続いて、来賓によるスピーチ。高校時代の恩師をはじめ、新郎、新婦それぞれの親友や上司、お世話になった方などにお願いしましたが、どれも心のこもった温かいものでした。我々ぐらいの年齢になると、スピーチをお願いする方もそれなりの年齢になっているもの。なので、そのスピーチの内容にも深みがあり、聞いている我々も時に涙し、時に笑わせられで、熟年夫婦の結婚披露宴をさらに深みのあるものにしてくださいました。

スピーチの合間の、私の友人のIさんによるピアノ演奏も宴に色をそえました。外も暗くなり、締め切られたカーテンの内側で宴会場に鳴り響く彼のジャズピアノも心地よく、まさに「大人の宴」というかんじ。

このブログにも再三登場する霊能者のSさんへのインタビューもありました。私は別の人と話をしていたのか、その内容をよく覚えていないのですが、そのあとタエさんに聞いた話によると、その中で、Sさんが思いがけないことをおっしゃったそうです。その日は朝から雨だったわけですが、その理由として、今日は空の上に龍神様・雷神様がいらっしゃっていて、めぐみの雨でもって二人の結婚を祝福してくださったのだというのです。

Sさんには結婚前からいろんなリーディングをしてもらっている二人。その彼女が言ったことはこれまでことごとく、と言っていいほど当たってきています。それだけに、龍神・雷神まで祝福に来てくださったというこのお話もことさら真実味が感じられ、とたんにうれしくなってきました。

最後にタエさんが、読み上げた「新婦の手紙」は、亡くなったお母さんとお父さんへのレクイエムでした。コピーライターである、彼女自身が練り上げたその原稿は、両親への感謝のことばとともに私への切なる思いのメッセージでもありました。見ると、それを読み上げる中、タエさんの目からはツーと涙が・・・ きっと、亡くなったご両親もこれを見て涙されていたことでしょう。

これは霊能者Sさんを宴のあとにお見送りするとき、彼女から直接聞いた話なのですが、このとき、タエさんのご両親は我々二人の隣にいらっしゃっていたとのこと。同じく私の父らしい人も見えていて、お互い、我々二人の横の場所を、いや、そちらがどうぞどうぞ、と譲りあっている姿が見えたというのです。

我々の目にはもちろん、その姿は見えませんでしたが、挙式後に出来上がってきた写真の多くには、たくさんの玉響(たまゆら)が写っていました。無論、どのたまゆらがお母さんかお父さんかわかりませんでしたが、彼女の両親と私の父、それぞれがこの式を祝いにわざわざ来てくれていたのだ、と思うとうれし涙が出ます。

ちなみに玉響は、オーブともいいます。写真ではピンボケしたような白い玉として写ることが多く、その場にやってきた霊魂が写りこんだものと言われています。カメラのレンズについた水滴やゴミなどがピンボケして写りこんだものだ、と説明する人もいますが、長年写真をやってきている経験からみて、私はそれらは水滴やゴミではないと思いました。

さて、こうして最後のプログラムも終わり、最後に私がスピーチをする段になりました。何をしゃべろうかと式の前に考えていましたが、特段変わったことをしゃべる必要もないと考え、素直にそのとき思ったことだけを口にしました。それは、タエさんのご両親に対する感謝であり、亡くなった父への感謝でもあり、会場へ来てくださった方々への感謝のことばです。そして、忘れてはならないのが亡くなった先妻、生代さんへの感謝。それらを口ごもることなくとうとうと述べることができ、会場からは温かい拍手をいただきました。

こうして、我々の結婚披露宴はひとまず終わりましたが、このあとさらに、別室では披露宴に参加できなかった高校時代の同級生たちが集まってくれており、二次会としてのお披露目が始まりました。当初、この会は派手なイベントもなく落ち着いたものにする予定でしたが、同級生の一人が、近くの神社の知り合いの神主さんに交渉して、普段はお正月にしかやらない、獅子舞を披露してくれることになっていました。

二次会が始まって間もなく会場には獅子二頭が乱入。にぎやかな舞いを披露し、みなを楽しませてくれたのです。舞いが終わり、獅子のお面をとって中から出てきたのは、なんとその同級生。ちょっとしたサプライズです。なんでもこうした形でしばしば神社の行事に参加しているとのこと。聞くところによると、その神社の祭神は厳島神社の神様の姉妹だそうです。その朝出向いた厳島神社の姉妹社の奉納舞いで、その日の宴を締めくくることができたのも、厳島神社の神様の粋なはからいだったのかもしれません。

二次会での奉納舞いの後は、同級生同士、昔話にも花をさかせつつ、皆で写真を撮りあい、お互い、またいつの日か会おうね、と約束を交わしつつ別れを告げ、ようやく長かったその日一日の行事すべてが終わりました。

終わったとたん、さすがにどっと疲れ、ホテルが用意してくれた最上階のスイートルームへ帰ったときは、服を脱ぎ捨てるなり、どっとソファーに倒れこみました。二人とも結婚したんだーという感慨のようなものはなく、むしろ一大イベントを無事終了した安堵感のほうが大きかったように思います。

スイートルームを開けると、雨にけぶる広島の町灯りが見えます。かつて私が15年暮らした町、彼女にとっては40年以上を過ごした町です。そのうちの、わずか2年ほどを共に過ごしただけのご縁なのに、今こうして二人が夫婦になったことを思うと、人の運命の不思議さを思わざるをえません。このあと、何歳まで二人でいられるかはわかりませんが、これからもそうした運命ドラマは続いていくのでしょう。終わったのではなく、スタートなんだ。しかも一人でなく二人にとっての・・・とその時しみじみ思ったものです。

・・・我々の結婚ストーリーは、これで終わりです。いかがだったでしょうか。ずいぶんと長い回想文になってしまいましたが、それは、人さまに読んでいただく、というよりはむしろ自分たちの記録のためでもありました。結婚後4年を経た今、結婚に至るまでの経緯を振り返り、ああ、そういえばあんなこともあった、そんなこともあったな、と思い出すにつけ、忘れかけていた出来事がこんなにも多かったかと改めて考えさせられます。

時間が経つにつれ、記憶というものはあいまいになっていくもの。自己満足だと言われればそれまでですが、そうした記憶が風化していく前の、あの頃の気持ちを少しでも取り戻し、文章にしておくことができたことは、結婚記念日の今日にふさわしい作業だったと思います。自画自賛。

明日からはまた通常のブログに戻ります。しかし、ときおりまた、あの時代に舞い戻って、その回想をするかもしれません。が、それはお許しください。それほど二人にとっては素敵な結婚式でしたから・・・

みっつめの奇蹟

私が先妻を亡くして1年半、タエさんもご両親を亡くして1年ほど経った夏のことです。夏・・・といっても、もう9月に入っていたかと思いますが、カナカナゼミが良く鳴いていたのを覚えています。

その頃私は、2年ほど前から始めていた建築関係の仕事に見切りをつけ、東京都内にあるNPO法人の仕事を手伝い始めていました。建築の仕事は面白かったのですが、思うようには収益があがらず、また家内を亡くしてから一人で仕事を続けていくことが苦痛になってきていました。NPO法人の代表者は、前にいた会社を私とほぼ同時に辞めた方で、防災関係の公共事業へのコンサルタント業務を収益源としていろいろな社会活動を始めようとしていました。

防災は仕事として手掛けたことはありませんでしたが、もともとの専門が海洋だったため、津波や高潮といった海事には詳しく、自分の能力を発揮できるかもしれない、という期待もありました。

しかし、その頃まだ息子は母親を亡くしたばかりでしたし、一人残して毎日都内に通うというのは正直抵抗がありました。ですから、基本的には自宅で仕事をし、必要なときには都内へ出る、ということでOKか、と聞いたところ、代表はこころよく承諾してくださいました。

その日は、午前中だけそのNPOへ出所し、午後は自宅で仕事をしていました。仕事が一段落したので、トイレ休憩に立ったときのことです。玄関横のポストをみると、一通のはがきが入っているのに気が付きました。どうせ何かのダイレクトメールか何かだろう、と思いながら裏面を見て、あっ、と驚きました。

そこには、30年前に卒業した高校時代の同級生の名前とともに、30年ぶりの同窓会の案内が書かれていたのです。発起人は男女4人でしたが、そのうち二人は女性。苗字にカッコ書きで旧姓が書かれているところをみると、結婚なさったようです。そりゃあそうだよなー、あれから30年。みんな結婚しているはずだよなー、と自分が結婚したことも忘れ、ハガキの詳しい内容を読み始めました。

それによると、来年の正月、かつて卒業した母校に、卒業する前のクラス担任だった先生も招いて「ホームルーム」をやるというのです。いまどき「ホームルーム」なんて言葉を使うのかどうか知りませんが、まあ言ってみればクラス会議のようなもの。クラスの問題点をみんなで話し合って解決する場であるとともに、クラス全員の親交を深めるための場でもありました。懐かしい~

以前のブログでも書いたように、わがクラスはその当時から結束が強く、何かとみんなで行動したがる連中。卒業して一年後に野外キャンプを兼ねたクラス会を催したこともその表れです。私は参加しませんでしたが、その後も何度かクラス会をしたようです。しかし、いつも全員が集まるということもなく、東京や大阪への就職、転勤や結婚で広島を離れる人も増え、やがて30年の月日が過ぎる間、みんなちりじりばらばらになってしまっていました。

私の最近の東京の住所は高校時代の誰にも教えたことがないはずなのに、なぜわかったのだろう、と不思議でしたが、よくよく考えてみると、数年前に広島在住の一人の同級生から電話をもらったことを思い出しました。高校時代、とりわけ仲のよかった友人の一人で、その電話をもらって話をしたとき、おそらく新住所を伝えてあったのでしょう。

その頃の私は、家内を亡くしたばかりで、新しい仕事にもさほど集中できず、もんもんとした時を過ごしていました。ふたりだけの男所帯は気楽といえば気楽でしたが、掃除洗濯、弁当づくりは当然やらねばならず、仕事を持っている上での家事はわずらわしいかぎり。いっそのこと、東京を引き払って、山口の実家へでも帰ろうか、と考え始めていたちょうどそのころのことです。

そのハガキには、行方しれずになっている同窓生がいると書いてありました。早速、発起人の一人のN君に電話をかけて確認したところ、ハガキに書いてある人たちだけでなく、私以外の東京に出た面々はほとんど連絡がつかない状態だとのこと。そういえば、留学前には、東京に就職した面々とよく遊びに行っていたものですが、帰国し、結婚してから彼らとは連絡はほとんどとったことがありません。

その頃、私はNPO法人の仕事をしているとはいえ、自宅勤務だったため、自由に使える時間はかなりありました。なので、N君に電話したときも、それなら、俺が東京にいる面々の連絡先を調べてとりまとめ、君に送るよ、と言いました。N君は今、広島の地方郵便局の局長をやっているとのことで、かなりお忙しいご様子。私の言葉に対して礼を言ってくれ、その電話を切りました。

・・・そして、それからは怒涛のような行方不明者の捜索が始まります。まず手始めに東京に在住の面々の行先さがしから始めました。これは、比較的簡単でした。なぜなら、みんなそれぞれの就職先を知っていましたから、職場に電話をして事情を話すことで、連絡先を教えてもらえるケースが多かったためです。就職先が変わって行方が分からなくなっている面々も、既に連絡がついた友人が行き先を知っている場合もあり、ほぼ1週間で全員の行先がわかりました。東京在住の私としては、N君との約束を果たしたわけで満足でした。しかし、N君に、ほかにまだどのくらい行方不明者いるのかを聞いたところ、かなりの人数にのぼることがわかりました。

その頃、N君は、自前でクラスの卒業生専用のホームページを開設しており、ここに行方不明者の消息情報などを自由に書き込める掲示板も掲載されていました。30年ぶりの同窓会が開催されることが、かつてのクラスメートに伝わる中、このホームページへの書き込みは異常な盛り上がりを見せ始めていました。はじめは、私を含めて数人の書き込みしかなかったものが、一か月もたつころから、クラスの半数近くが書き込みを行うようになります。

それまでのお互いの暮らしぶりや近況を伝えあい、懐かしさも手伝って書き込みは日に日に増え、書き込み熱はさらにエスカレートしていきます。30年のブランクがあるにもかかわらず、クラス一丸だったかつての結束力がよみがえってきたのです。そして誰が言い出したのかよくわかりませんが、誰ともなく、今度の同窓会は必ず成功させよう!そうだ!全員を必ず集めよう!ということになっていったのです。

やがては、書き込みを行っている人同士が連絡をとりあい、行方不明者の捜索に乗り出すことまで始めました。かつての同級生が住んでいた家にまで行って、その近所の人に引越し先を聞く、ということまでやったようです。行方不明者の中のひとりに現在岡山在住の女性がいますが、この人に至っては、インターネットで似たような苗字の人を探し当て、直接電話をして確認する、という探偵まがいのことまでやりました。電話の結果、なんとその当人に間違いないことがわかったとき、掲示板には全員から絶大なる賛辞が送られました。

このほかにも海外勤務でドイツ在住の男性、愛媛県で医者をやっている男性など次々と行方不明者が見つかっていきます。みんな広島や東京以外の町に住み、連絡が取れなくなっていた人たちばかりでしたが、結婚して苗字が変わっていたので発見できなかったという女性も多かったようです。

そして、タエさんは、というとそれを見つけたのはほかならぬ私でした。私が現在は茨城県に住む男性を探し当てたときのことです。その彼は今、つくば市で、料理店を営んでいますが、数年前に行われた「鯉城(りじょう)同窓会」で購入した同窓会名簿を持っていると私に教えてくれました。鯉城とは、広島城のことで、その昔、鯉の産地であった広島にちなんでつけられた名前で、わが母校もその名前を同窓会名に冠しています。ちなみに広島カープのカープも鯉のこと。ご存知の方も多いでしょうが。

その鯉城同窓会は、卒業生全体の総合同窓会なのですが、毎年幹事を決め、総会が広島で行われています。その総会の数年前の幹事をタエさんがやったことがあるらしく、同窓会名簿に最近の住所が書いてあるらしいというのです。

早速、そのつくばの友達からファックスで名簿を入手した私。見ると、そこには確かに広島五日市区の住所と電話番号が・・・ そして早速電話をしてみることにしたのです。

正直言って、その昔、タエさんに振られたことが頭をよぎりました。しかし、30年も前のこと。彼女もほとんど覚えていないだろうし、私自身、若いころにやった失敗のひとつ、と考えることができるほど「大人」になったつもりでいました。実は名簿には、タエさんだけでなく、ほかにも行方不明になっている人の名前と住所が何件かありました。このため、このとき電話をしたのはタエさんのところだけではありませんでした。しかも、タエさんは不在で留守番電話に切り替わったため、メッセージだけを残してその日の連絡を終えました。

翌日の朝のことです。東京のNPO法人にまた出所する用事ができ、事務所のある四谷のビルの前の坂に差しかかった時のこと。突然携帯電話が鳴りました。かけて来た相手の番号は見知らぬもの。誰だろうな、と不信に思って出たその相手こそ、誰あろうタエさんでした。昨日彼女に電話をしたときは、タエさんだけでなく、あちこちに電話をしていたので、留守番メッセージに自分の携帯電話の番号を伝えていたことをすっかり忘れていたのです。何でこの電話番号知っているの?と聞く私に、笑いながら、だって昨日、メッセージに電話番号残してたでしょう?

「・・・」。こうして、彼女との30年ぶりの「ニアミス」がふたたび始まったのでした。

それにしても・・・まさか、30年ぶりにいきなり電話で話せるとは思っていなかったので、ちょっと動揺したのを覚えています。しかし気を取り直して、同窓会のことを伝え、そしてお互いの近況について、それから数分だけ話をしました。そして彼女から、最近両親を亡くし、ひとりで住んでいる、と聞かされたとき、思わず実は僕も・・・と家内を亡くしたことを話したのです。

もっと話をしたかったのですが、出所前の路上の電話でもあり、長話をするのもなんだし、今日、夕方自宅へ帰ったらまた改めて電話するよ、ということになり、その電話は切りました。

・・・それから自宅へ帰り、タエさんとその後の30年について長い電話をしました。おそらく2時間近く話をしたのではないでしょうか。その時の心境を彼女に聞いたことはありませんが、お互い、近親者を亡くしたばかりの心の穴を埋めたいという気持ちがあったのではないかと思います。今もそうですが、身近な人の死を乗り越えようとしている人の心情はよくわかるもの。お互い、そうだとは口に出して確認などはしませんでしたが、そのことでなにか、ある種の親近感を感じていたのは確かです。

加えて、いろいろ話をしていくうちに、彼女もスピリチュアル的なことには興味を持っていることもわかりました。そのころは、あまりまだそういうことについて深く意見を交わしたりすることはありませんでしたが、その後、彼女との交際が深まる中、スピリチュアルに対する理解は二人の関係をさらに深めていく大きな要素になっていきました。

とはいえ、その後も1度か2度彼女とは電話で話をしたと思いますが、そのころはまだそれほど親しい間柄、という関係でもなく、まして30年もの間、お互いの顔を見ているわけではありません。電話で話すよりもメールで連絡を取り合うほうが、より気楽、というところもあり、もっぱら彼女とはメールでやりとりをするようになります。

しかも、当初の彼女は、恋愛感情というよりも、お互いが近親者を亡くしたことに対しての憐憫の情がそうさせるのだ、と思っていたようなふしがあります。一方の私は、30年前のリベンジ、というつもりはなかったのですが、どこかにあのころの淡い慕情のような感情が残っていて、かつての失敗を取り戻したい、あのころを取り戻したいという気持ちがだんだんと強くなっていったように思います。

気が付いてみると30年前と同じように、私からの彼女への一方的なメールが届くようになっていきます。彼女にすれば、昔そういうことがあったにせよ、今は何の関係もないただの同級生。少々しつこいメールにそろそろうんざりしはじめたのでしょう。突然、私とのメールのやりとりに「待った」をかけてきました。

文面をよく覚えていないのですが、彼女から来たメールには、お互いが近親者を亡くしたことは事実だが、そのこととあなたとのお付き合いは別。近親者を亡くして悲しいという共通の感情を恋愛感情にすり替えていくというような過ちはしたくない、といった内容だったと思います。

そのメールが来る少し前、私は九州方面に仕事で行く予定を立てていましたが、そのついでに、広島に立ち寄り、来年の正月に先駆けて、タエさんとも会おうかと考えていました。タエさんにもそのことを伝えていたのですが、そのメールには、それについては棚上げ。そして、来年の正月に再会するまで、メールのやりとりもしばらくやめましょう・・・とまで書いてありました。そしてその頃を境にタエさんは、それまでは頻繁にしていたN君のHPへの書き込みも全くやらなくなってしまいます。

彼女からのそのメールは強烈でした。かなり落ち込みもしました。ところが、そこへ思わぬ救世主が現れます。同じクラスメートの女性、Sさんです。Sさんは現在東京でデザイナーをやっていて、旦那さんはノンフィクションなどを書いている作家さん。20代のころ、ほかのクラスメートと一二度飲みに行ったことがある程度でしたが、それほど親しい、という間がらでもありませんでした。

が、私が東京在住のクラスメート全員を探し当て、その後、30年ぶりのプチ同窓会をやったころから、親しくメールのやりとりをするようになり、タエさんとのことなども相談するようになっていきました。

ちなみに、そのプチ同窓会とは、正月に予定されていた本番の同窓会に先立ち、関東地方に在住のクラスメートだけで、30年ぶりにやろうということになったもの。丸の内で行われたその会には10人ほどが集まったのですが、なにせ30年ぶりのこと、懐かしいやらお互いの変わりようを揶揄するやら、昔の子供のころに帰って大騒ぎ。会が終わるころには男性陣はほとんど泥酔状態に近く、私もどうやってウチへ帰ったのか覚えていないほどでした。この関東組プチ同窓会は、その後毎年の恒例行事になり、同窓会以外にもときどきみんなで会って、さらに親交を深めています。

その会で久々に出会ったSさんにどうタエさんのことを話したかよく覚えていません。しかし、彼女のほうから、タエさんのことについて相談に乗ってあげられるかもしれない、と伝えてきてくれたのにはわけがありました。というのも、今回の30年ぶりの同窓会の開催にあたり、開催場所や日時、趣旨が書いてある「招待状」を作ろう、という話になり、その装丁デザインを本職のデザイナーである彼女ともうひとりの同級生が、招待状の文面はコピーライターのタエさんが引き受けることになったためです。かつてのクラスメート三人組が、その制作ための相談を電話やメールでやるようになっており、その中でお互いのプライベートのことなども話すようになっていたらしいのです。

Sさんは、そうしたやりとりの中で、タエさんから私のことも聞いたらしく、なんとか二人を結び付けたいと考えたようです。いわば、二人を結びつけるキューピット役を買って出たわけ。今考えると、彼女がいなければ二人は結婚していなかったかもしれません。これも後日談ですが、結婚後は、二人とも彼女のことを生涯の恩人と考えるようになり、今もメールや電話でのやりとりのほか、時には会食もして親しくお付き合いをさせていただいています。

ところで、タエさんとSさんたちが作った招待状ですが、キャッチフレーズは「ふたつめの奇蹟を起こそう!」というものでした。タエさんが考えたコピーです。30年前に初めて母校の教室でみんなが出会ったことが最初の奇蹟。そして、来年行われる同窓会で全員がふたたび同じ教室で再会することを、「ふたつめの奇蹟」とした、なかなかの力作でした。

キャッチフレーズの書いてある面の裏面には、全員参加を呼びかける短文がつづってあり、現職のコピーライターが書いたその文章は、クラス仲間全員の賞賛を浴びました。「ちっぽけなプライドが邪魔をして、肝心なひとことが言えなかった時も・・・わけもわからない感情に流されて、暴走してしまった時も・・・」と昔、我々が若かったころの心情をうまく表現し、昔できなかったこと、言えなかったことを今度の同窓会でぜひ実現しよう、という呼びかけに共鳴した人も多かったようです。もっとも、私自身は何やら私のことを言っているような気もして、ドキッとしたものです。しかし、おそらくそこまでは彼女も考えてはいなかったことでしょう。

Sさんが仲介に入ってくれたとはいえ、それはもう11月の下旬のこと。広島での同窓会までもうあまり時間もありませんでした。しかし、Sさんは私に対してタエさんへの接し方をアドバイスする一方で、タエさんのほうにも熱心に働きかけ、音信不通になっていた私と彼女を結びつけるよう二人の親身になって働いてくれました。

そして・・・お互いの腹の中を探り合うようにして時間だけが過ぎていくようにみえた12月はじめごろのこと。少しタエさんの心境に変化があったように思われました。それまで中断していたN君のホムペへの書き込みを再開したのです。私との直接的なメールのやりとりこそは回復していませんでしたが、私が掲示板に書いた文章に対して、間接的ながらコメントを書いてくるようにまでなっていました。私もようやく彼女との接点が出てきたことを素直に喜びました。が、その直後、とんでもない事件が起こります。

12月の10日のお昼頃のことだったと思います。母からの電話で、突然父が亡くなったとの連絡が入りました。その年の夏には父が入っている病院に母と一緒に見舞い、元気そうな様子を確認していたので、まさか、と耳を疑いましたが、電話で聞こえる母の声は間違いなく父の死を告げています。

その時は、ちょうど連日の出張を終え、前日に重要な委員会が終わったばかりで、仕事は一段落していました。その日もそれほど忙しくなかったため、その晩、息子とふたり、夜通しクルマを飛ばして山口まで帰りました。あまりにも急な父の死でしたが、母の友人の方々が手分けしてお手伝いをしてくださったことから、翌日にはもう葬儀の準備を整えることができ、二日後には無事、葬式を出すことができました。

その葬儀の朝のこと、あのSさんから携帯に電話が入りました。電話の内容は、父の死に対するお悔やみが主でしたが、それに加え、タエさんが掲示板で私に対してメッセージを書いている、と教えてくれたのです。

そのときはネットが使える環境にはなかったので、後日そのメッセージを読んだとき、正直うれしく思いました。あとでSさんに聞いた話では、タエさんはこのころにはもうかなり私に対して変なわだかまりのような感情は捨てていたようです。くれたメッセージにもそうした彼女の心境の変化も見て取れました。

以前のブログにも書きましたが、父の死をきっかけにタエさんとの仲が急速に接近したことについては、Sさんの存在が大きかったことは確かなのですが、それとは別に、もしかしたら父の仕業だったかもしれない・・・そう思えてならないのです。ちょうど仕事の一区切りがついたと思ったとたんに逝った父。案外とそのタイミングを計って昇天し、そのついでにタエさんにメールをするようにささやいて行ったのかも、とさえ思ってしまいます。

しかし、そのときはもう12月も半ば。1月3日に行われるという同窓会まではもうほとんど日にちがありません。あいかわらず掲示板での間接的なコメントのやりとりだけで、日々が過ぎていき、そして年明けを迎えることになります。

そして、迎えた1月3日。午後3時から行われた恩師の特別授業を皮切りに、30年ぶりの同窓会が開催されました。懐かしい面々同士、長い間封印されていた身の上話を披露しあい、にぎやかな宴会が夜遅くまで繰り広げられていきます。集まった総数39名。欠席者はわずか7名でした。すばらしい出席率です。全員参加という目標は達成こそできませんでしたが、「ふたつめの奇蹟」は見事達成されました。

その39名の中に私とタエさんがいたのは言うまでもありません。そして、その後の二人の結婚は、「みっつめの奇蹟」としてクラスメートの記憶にも長く残るものになっていくことになります。

その日、30年ぶりの長い同窓会が歓喜の声とともに終わりを告げようとしていたときのことです。私のところへ、あのSさんがそっと私に近寄ってきて言いました。「タエさん、明日は何も予定ないみたいよ。声をかけてみたら」

これに対して私は即答せず、うーむとうなっただけ。しかし、宴会会場をあとにみんながそれぞれの帰りのタクシーを探し始めたころ、勇気をふりしぼって彼女に声をかけました。
明日のご予定は?もしよかったら・・・と。

・・・そして、その後のことはご存知のとおりです。書くだけヤボという気がしますが、ここで終わるのも中途半端なかんじです。実は、それから結婚まではさらに、一年半という時間が過ぎるのですが、それについてはまた、いずれお話することにしましょう。

明日はいよいよ結婚記念日。4年前のその日も雨でしたが、奇しくも今年も雨。しかも台風の中の記念日になりそうです。4年前のあの日、宮島で結婚式を挙げた二人。降りしきる雨の中、披露宴会場であるホテルへと向かう船の上から見えた広島の町の灯りが思い出されます・・・(続く)