嵐が過ぎて

台風が近づいているようですね。伊豆へ移住してきてから初めてのことになります。去年の秋に来た台風では、購入前の我が家では屋根のテレビアンテナが吹き飛ばされました。この別荘地は、東西南北からの風の通り道になっているようで、ここを最初に訪れたときから風の強いところだなーという印象でした。前回の台風時にはまだ住んでいなかったのでそのすごさは体感できませんでしたが、今度の台風ではそれを初体験することになります。楽しみ・・・というのも変ですが、ここに住むことの良し悪しを知ることは、けっして無駄ではないように思います。嵐の過ぎたあとには、良いこともある。人生の嵐も同じかも・・・

今月は4周年目の結婚記念日を迎えるブライダル月間ということで、時に、ムシャ&タエのなれそめなどを回想しています。はっと気がつけばその記念日も3日後に迫ってきたので、続きを書いていきたいと思います。そんなの関係ないよ~つまらんお話はやめてもっと面白いことを書け~ とお叱りを受けるかもしれませんが、今少し我慢しておつきあいください。

さて、大学時代にタエさんに果敢なアプローチをして、見事撃沈された私・・・ その後東京に出て就職をし、新たな人生をスタートさせました。タエさんも同じく広島で就職。私は理科系、彼女は文科系とそれぞれ全く別の分野で自分を磨き始めます。今振り返っても20代というのは、実によく働いたなーと思う時代です。

朝も早くから夜遅くまで残業も厭わず働き、時には土日出勤、徹夜が続くこともありました。これはタエさんも同じだったようで、お互い、その仕事柄、締切というものがある職種を選んだという点ではふたりとも同じ。もし、そのころ締切などというものがない自由業に就いていたら二人の人生はまた変わったものになっていたかもしれません。

しかし、そうはならず、お互い会社という組織の歯車として馬車馬のように働いた20代前半・・・そして、その仕事ぶりがある程度認められ、自分自身もそれが面白いと感じるようになってきた20代後半のこと。二人に大きな転機が訪れます。大学を出てすぐに就職した人たちの多くは、就職後3年、5年を節目として、大きな転機に出くわすといいます。そういう人ばかりではないのかもしれませんが、我々二人については、セオリー通り?だったのかも。自分が就いている仕事について、ある疑問が沸いてきたのです。

それは・・・このままでいいのか?という素朴な疑問。私の場合、いつも自分のやった仕事に満足できず、もう少し深い知識が欲しい、とか、もっと別のアプローチをしてみたいとか感じていましたし、彼女は彼女でクライアントの求めに応じるまま、締切に追われながら広告コピーを作り続ける中、自分らしさがアピールできない、という悩みを抱えていたようです。そして・・・時をほぼ同じくして二人ともそれまで働いていた職場を離れる決意をするのです。

まったく別々の場所でまったく異なった仕事を選んで人生を歩んでいた二人が、ほぼ同時期に会社を辞めた・・・というのは偶然の一致なのか、それともやはり似たものどうしだったからなのか、についてはよくわかりません。しかし、自分の現状に常に満足せず、殻を打ち破ろうともがいたところをみると、同じような資質を持っていたのかも。そうしたお互いに似たところをその後の再会で気付き、それが結婚をするためのひとつの条件になっていったのではないか、そんな気がします。

・・・そして私は、留学を決意。彼女はフリーのライターとしてそれぞれ会社を辞め、それぞれの新しい道を歩きだします。そのとき二人は27歳。まだまだ若い・・・でもそれなりの分別もつくようになった年齢です。

ところが、それから二人の人生もまったく同じように過ぎていき・・・というふうにはなりませんでした。私はハワイから帰国後、もといた職場に再就職し結婚。一児を設け、家庭と仕事というふたつの環境を行き来する生活を続けることに。

方や彼女のほうは、結婚せず、フリーのライターとしての自分を見つめ続けることになります。彼女の場合、結婚をしなかった、のではなく、バリバリの結婚したい願望派だったようで、相手を求め数多くの恋愛を経験したようです。詳しくは知りませんが、若いころにもお見合いをしたのではないかな?けれど、結局思うような相手にめぐりあうことなく、その後も独身生活を送っていました。

そして・・・長い月日が過ぎていきます。二人とも落ち着いた・・・と書くべきかどうかはわかりませんが、おしなべていえば割と淡々とした毎日だったといえるのかも。私は会社組織の中において主任から係長、課長へと昇進しつつ仕事もかなりハードになり、子育てにも忙しく、別のことにかまっているような時間はありませんでした。

一方の彼女は、何社もの大手のメーカーの広告のコピーを手掛けるようになり、ラジオの放送原稿も書くようになるなど、フリーのライターとして一定の評価を受けるようになっていました。その実力はなかなかのものだったようです。しかし、あいかわらず恋愛遍歴を繰り返し・・・などと書くと怒られそうなので訂正します。・・・えー、好きな人が何度もできて特攻するものの実らず・・・ということが何度があったようです。

20代の彼女は、大学を卒業したてのころまでのおとなしいお嬢さんというイメージを払拭し、自分らしく生きる!を強烈に意識し、自分を変えていったようです。髪をそれまでのおとなしいロングヘアーからソバージュにし、メガネもその当時流行っていた黒縁で大き目のサングラス風のものに変え、週末にはミニスカートにハイヒールでディスコ、時には友達とスキーへ、気が向けば海外旅行を、と青春を謳歌していたようです。自分でも一番はじけていた、と彼女は述懐しています。しかし、そうした毎日を送りながら20代、30代は無常に?またたくまに?過ぎ、やがて40代に突入します。

私の40代ですが、より責任の重い仕事を任せられるようになり、日々忙しく、その頃やっていた環境調査の仕事で、日本全国を飛び回っていました。週末にはなるべく自宅にいるようにし、息子や家内とのふれあいを大切にしていましたが、その息子も小学校に入り、低学年から高学年になるにつれて、手もあまりかからなくなっていました。

ハワイから帰ってきて十数年。生活は安定していましたが、仕事に対してはある不満がありました。私の仕事は、国土交通省や地方自治体などから発注される公共事業。公費を使って行う環境調査が主でした。もともとは海が好きで海洋工学を学んで、海の仕事をしたいがために海を渡った若きころ。しかし現実には、公共事業として海にまつわる仕事というものは全体としては少なく、会社組織としては受注額も大きい河川や道路、環境といったカテゴリーの仕事に会社の精鋭を重点的に振り分ける方針でした。

自分が精鋭、と思っていたわけではありませんでしたが、会社に利益を出させるためには、時にやりたくない仕事にも手を染めなくてはなりません。環境という不慣れな仕事をやるようになったのは、そうした会社の方針でもあったためですが、これからは海洋では食っていけないだろう、という自分なりの読みもあり自ら志願して就いた仕事でもありました。

しかし、「環境」を仕事にしている、といえば聞こえはいいのですが、この仕事ほど役人のエゴが目に余る、目につく仕事はないと思います。現在、原発の存続が大きな問題として取り上げられていますが、ダムや道路、河川といった公共事業の中には、本当にそれが必要なの?と疑問符がつくものがゴマンとあります。

仕事柄、そのあまりにも「無駄」と思える公共事業に数多くかかわってきましたが、人々の生活を守るためのインフラとは建前だけの、役人の自己満足のためにだけ作られたような公共事業がいかに多いことか。そして、環境調査というものは、多くの場合それを肯定するための材料として使われる・・・という実態をどれだけの人が知っているでしょうか。

この件については、さらに熱くなりそうなので、ここいらでやめますが、ともかくそういう長年自分が携わってきた仕事に対する疑問は次第に大きくなっていきます。

そして、44歳になったときのことです。その頃興味のあった建築関係の仕事をするため、会社を辞め、自宅に仕事場を作り、独立して仕事を始めるようになります。自前の会社を作り、建築材料を仕入れて、その頃はやり始めていた「セルフビルド」をやりたい人向けに材料を売る、という商売を始めたのです。

一方、その頃のタエさんといえば、彼女も40代に突入し、このころからはさすがに、ディスコやスキーはやらなくなったようです。しかし、その分男性との出会いも少なくなった?のか相手にされなくなったせい?もあるのか(タエさんゴメン)、同じく独身の女友達どうしとのお付き合いも増えていったようです。しかし、フリーのライターとしてひとり身の気楽さを味わいながらの日々はいやではなかったのかも。

そんなふうにいつまでたっても嫁に行かない一人娘をみていたご両親も、心配はなさっていたようです。ときにはお母さんが薦めた人とお見合いをしたこともあったのかな? 結婚相手の紹介サークルにも入会し、ともかくかなりの人数とお見合いをしたようです。

しかし、これぞ!と思うような人にはなかなかめぐりあえなかった、とのこと。逆に先方からは、ぜひ、ということもあったそうですが、どうしても踏み込めなかったらしい。今思えば、ここで彼女がお気に入りの相手を見つけていれば、私とのことはなかったはず。彼女によれば、その踏み込めなかった理由は相手それぞれにあったそうですが、案外と彼女の後ろについている守護霊さんが否定されていたのかもしれません。

自宅にこもって新商売を始めようとした私。自前のホームページを作り、そのアクセス数も徐々に増えてきたころの夏の日のことです。例年だと、会社から休みをとり、親子三人で実家のある山口に帰り、あちらの海や山、食べ物を満喫するということを繰り返していました。その年もそうしようと思い、山口へ帰るスケジュールをほぼ決めかけていたところ、先妻、「生代」さんといいますが、彼女の顔色がさえません。

聞くと、先日調子が悪いので行きつけの内科医に診てもらい、レントゲンをとってもらったら何やら異常がみつかったとのこと。精密検査をするために近くの大学病院に行くように勧められたというのです。

その時はたいした病気ではないだろう、と思ったのですが、ともかく大学病院での検査結果をみようということになり、予約をとることに。ところが、とれた予約日は、ちょうど山口へ帰ろうと思っていた日と重なっていることが判明。とにもかくにも彼女の体が心配なので、今回はやめよう、と私は言いましたが、彼女は、息子が楽しみにしている帰省だから、あなたと二人だけで帰って、と言います。いやーそれはちょっと、と少し言い争いにまでなりましたが、結局彼女に押し切られ、我々二人だけが山口に帰ることになりました。

後で彼女から聞いた話ですが、我々が山口へ言っている間、彼女はひとりで歩いて大学病院へ行ったようです。おなかに大きな病気を抱えて。のちにその病名を知ったときに、私の心は大きく痛みました。どうして、彼女をひとりにしてしまったのだろう。最後の夏になるなら、一緒に過ごせばよかった・・・と。

・・・そして帰京後、彼女の病気が最悪のものであることを知ることになります。亡くなるまでのその間、必死の看病もむなしく、彼女は、その後1年を待たずして逝ってしまいました。彼女は自分の病気が何であるかを知っていましたし、彼女の闘病生活は気丈なものでした。しかし、最後の時が近づいたことを医師から告げられたとき、そのことは本人と息子には話しませんでした。

本人はおそらく、自分の死期が近いことを知っていたと思います。しかし、彼女は最後まで、「私、元気になるんだから」、と周囲に漏らし、あいかわらずの気丈ぶりでした。しかし、今思えば、最後の時間が短いことを本人と息子に教えていれば、母と息子の二人だけの最後の時間をもっと別の形で持たせてやれたのではないか、と後悔しています。一人で夏を過ごさせたことと、そのことは、今も思い出しても悔やまれることです。

彼女が亡くなる前、三人で夏になると必ず訪れていた場所があります。山口県の北部にある、豊北町というところです。沖に「角島(つのしま)」という島がありますが、そこに渡るために10数年前に橋が作られました。島の先端には明治時代に作られたというレンガ造りの灯台があり、これを中心に公園整備や海水浴場の整備が行われ、遠くは九州や広島方面からも観光客が来て賑わっています。

この角島に渡る橋、角島大橋の本土側の東側には、小さな海水浴場があるのですが、青い海と白い砂のコントラストが見事で、水質もよく、水の中を泳いでいる魚が遠目にも見えるほど。まるで沖縄の海のような風情のこのビーチが三人のお気に入りでした。冒頭の写真は、このビーチで一日中遊んで帰る間際に私が撮ったもの。思い出に残る一枚です。

ここに写っている彼女がもういない、というのが今も不思議なかんじがします。しかし、まごうことなく彼女は逝き、残された私と息子は、その後長い間二人だけのさみしい生活を続けることになります。

実に複雑な心境としか言いようのないのですが、彼女の死がタエさんとの結婚につながったというのは、間違いないところです。その死は悲しみに満ちたものでしたが、同時にそのあとの静寂をもたらすものでもあった・・・ということになります。冒頭でも書いた通り、人生の嵐・・・です。過ぎたあとには静かで穏やかな日々も来る・・・

生代さんの戒名は、「釈尼蓮生」 ハスの花由来です・・・

ところが、その嵐の後の静けさをもたらしてくれるはずのタエさんの周辺にも、その頃、異変が起こります。一人っ子の彼女は、文字通りご両親の目に入れても痛くない存在だったかと思います。こちらも三人とも仲がよく、彼女が独身であるがゆえ、独立先からご両親の家に何日か戻り、一緒に楽しい時間を過ごす機会も多かったと聞いています。

そんなご両親が、あいついで亡くなるのです。お父さんは喉頭がん、お母さんは肝臓がんでのことでした。兄弟姉妹はなく、一人っ子だった彼女がご両親を亡くし、その二人が残しただだっ広い一軒家に一人で生活するようになったのは、46歳のとき。私も妻を亡くし、失意の中を息子と二人で暮らし始めたころのことでした。

運命とは不思議なものです。若きころ、ニアミスのように出会い、別れて別々の人生を送っていた二人が、ふたたび時を同じくして出会おうとしていました。しかも、それぞれが別の形ながら、同じように肉親の死に直面しながら、というのは何か仕組まれたような気さえします。

そして、運命の2006年、平成18年の夏がやってきました(続く・・・)。

虹の郷アゲイン ~旧修善寺町(伊豆市)

今日は、昨日の上天気からうってかわって、朝からしとしと雨の梅雨空に逆戻り。ここしばらくは、こういう天気が続くようです。しかし、気温の低い今日は快適ですが、明日からは気温が高くなるみたい。「しとしと」だけならいいのですが、それに「ムシムシ」が加わるのでしょうか。「しとしと」が「ジメジメ」に変わらないことを祈りたいものです。

昨日、天気のよいうちに修禅寺虹の郷へ行って来よう、と出かけてきたのは正解だったかも。虹の郷では、ちょうどいま、花菖蒲とバラが満開だというのをタエさんがネットで調べてくれ、じゃあ行ってみようか、ということになったのです。

ランチを食べたあと現地へ。前回はウチから歩いていきましたが、今日はお昼を過ぎているので、時間節約ということもあり、クルマで行くことに。駐車料金の300円がかかりましたが、入園料は例によって、伊豆市民の特権ということでタダ。ありがたいことです。

場内は梅雨のさなかの平日とあって、人出は少なめでしたが、ほどほどにお客さんはいます。この公園は「花」が売り物で、いろいろな花が季節毎に咲くことが売り。さすがに冬場は花がないだろう、と思ったら、紅葉が12月初旬まで楽しめるらしく、1月にはスイセンやロウバイが咲きはじめ、2月からは梅が咲き・・・と年間を通していろいろの花木が楽しめるとのこと。この四季折々の花が目当てのリピーターも多いと聞きます

ただ、我々の別荘地と同様、標高200m超の山の上にあるためか、ふもとの花よりも少し開花が遅れるようです。そういえばここへ3月に越してきたときには、ふもとでは梅がもう終わっているところも多いのに、まだまだこれからが本番、といったかんじでした。無論、今年が例年より寒いからということもあったようですが。

その今年の寒さは、あじさいの開花にも影響しているらしく、先日行った下田公園ではほぼ5分咲きでしたが、虹の郷ではまだ2~3分咲きといったところ。あじさいの群落は、さすがに下田公園の15万株には遠く及ばない3500株とか。それでもこれだけのあじさいを管理しているところは、近くにはそう多くはありません。満開になったらまた見にこようと思います。

あじさいの群落も、今回のお目当ての花しょうぶも、園内の「日本庭園」のゾーン内にあります。虹の郷の園内は、もともとあった山の起伏をじょうずに利用してゾーンづくりがしてあって、日本庭園のほかにもイギリス村、カナダ村、フェアリーガーデンといったゾーン設定がしてあります。もうひとつのお目当てのバラは、フェアリーガーデンにあって、ここではバラ園(ローズガーデン)に加えて西洋風の四季の花々が楽しめるようになっています。


前回来たときはこのローズガーデンのバラは2分咲きほどで、がっかりしたものですが、今回はほぼ満開の状態で、なかなかの見応えがありました。こちらも下田のバガテル公園ほどではありませんが、山の起伏をうまく利用して植栽された100種2300株のバラはなかなかのもの。バラの間に作られた石造りの庭園に配されたメルヘンチックな彫像もバラを引き立てていてなかなかイイかんじです。バガテル公園が大人向けだとすれば、こちらは大人にも子供にも楽しめるバラ園といったところでしょうか。

バラ園の横にある喫茶点で「バラのソフトクリーム」を食べましたが、淡いピンク色のこのソフトクリーム、甘すぎもせず、ほのかなバラの香りがして、なかなかおいしかったです。ほかにもバラのエキスを利用したいろいろなお土産物を売っていましたが、本日のお目当てである花しょうぶが気になっていたので、バラ園はそこそこにして、菖蒲園へ向かいます。

この花しょうぶ園、300種7000株ということで、私がこれまで見た中では一番大きいものでした。日本庭園の北側と南側それぞれに細長く配置された湿地帯に植えられていて、どちらも見応えがあるものですが、とくに北側の菖蒲園は圧巻でした。夕方の閉園間近ということもあって、お客さんも、ぱらぱらというほどしかおらず、二人のための貸切状態といってもいいほど。


菖蒲園の一部はあじさい園にも接していて、あじさいの青と菖蒲の紫が両方楽しめるヶ所もあって、なかなかの絵になります。しかし、あじさいと同様に寒色系の花がほとんどの菖蒲も写真に撮るのはなかなか難しいもの。いい絵を撮ろうとあくせくしているうちに、瞬く間に数百枚を撮影していました。


昔のフィルムカメラと違って、最近のデジタルカメラはメモリーカードの容量が大きければ、ほぼ無尽蔵といっていいほどの写真のストレージができるのが最大の利点。その昔、子供のころに写真を始めたころは、高いフィルム代を気にしながら写真を撮っていましたが、今はそんな心配もする必要はありません。今、新しく写真を始める人は恵まれているなーと思います。

閉園ぎりぎりまで粘り、ゲートを出たのは5時を少々回った刻限。駐車場に止まっているクルマはまばらです。駐車場の脇に、伊豆全体の観光マップがあったので、ちょっと覗いてみました。これまでもいろいろ、あちこち行ってきましたが、まだ行っていないところもたくさんあります。とくに伊豆南西部の堂ヶ島にはまだ一度も行っていない。伊豆最古の小学校やなまこ壁の家といった歴史的な建造物などいろいろ見どころのある場所だそうです。

これまでは花の名所ばかり行ってきましたが、こういう歴史的なものがある場所にもこれからは出かけていきたいと思います。

もっとも伊豆だけでなく、静岡県内にはほかにもたくさんの見どころがあります。久能山東照宮や日本平、浜名湖に大井川鉄道・・・ 伊豆を飛び出し、これらを訪れる日が楽しみです。

考別荘地


梅雨とは思えないような良い天気が二日ほど続いています。窓から富士山も見え、その上に広がる青空はとても雨季のものとは思えないほど。

午前中、リビングにふりそそぐ陽射しの中、テンちゃんが絨毯の上を転げまわって遊んでいます。新聞を広げて読んでいるその横で、しばらく体中をなめまわしていたと思ったら、いつの間にか眠っていました。例によっておなかを上に向けてきもちよさそうです。ネコでなくてもこんな陽気の日には眠くなってしまいます。



先日、といってももう10日ほど前のことになりますが、この別荘地の温泉管理組合の総会があるというので、タエさんと二人して行ってきました。総会に出席することで、この別荘地のなりたちや、問題点などいろいろなことがわかってきたので、この場で書いておこうと思います。

さて、管理組合には、当別荘地に土地を持ち、給湯権を持つ人のみが入ることができます。新規に権利を持つには400~500万円くらいいるらしいですが、現在は別荘地の入居者も減ってきており、組合の収入も落ち込んできていることから、昨年から350万円に値下げをしたそうです。それでもこれまでのところ、新規の入会はゼロとのこと。長引く不況の中、それだけの投資して新規会員権を手に入れようという人は少ないということでしょう。

ちなみに、我々はすでに会員権に入っている方からこの家を譲り受けたため、その譲渡費として50万円のみを組合に納めるだけで済みました。それでも高いと思われる方もいるかもしれませんが、今後半永久的に温泉が使えることを考えれば安いと私は思います。

もっとも温泉にかかる費用はこれだけでなく、二か月で19000円を組合に払っています。ひと月に8500円というお金がかかるわけですが、供給されるお湯は全別荘地で45度以上が保障されていますから、お風呂に入るための水道代と燃料代を温泉に使っている、と考えればある程度元はとれることになります。それでも普通のお風呂を沸かすよりは高め、とお考えでしょうが、温泉の効用ということを合わせて考えると、十分に安い、と重ねて思うのです。

その温泉の効用なのですが、ウチの風呂場の脱衣場の上にかけてある効能書きをみると、
「神経痛、筋肉痛、関節炎、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え症、病後の回復期、疲労回復、健康増進」に対しての適応があるということです。分析は、衛生環境センターという静岡県の機関がやったようなので、間違いなさそうです。

で、実際のところどうなのよ、ということなのですが、これが本当にいいんです。ここ数か月は、引越しの際の重い荷物の上げ下ろしや、家の中の整理、そして庭木の抜根、伐採と重労働が続いてきたわけですが、日によっては腕がいたくて、肩もあがらないようなときもありました。ところが、毎日温泉に入っているせいか、まるでといっていいほど、その痛みは長続きせず、重労働をやめて2日ほどもゆっくり温泉につかるを繰り返しているうちに、痛みはウソのように消えていきます。

東京に住んでいたころは、荷物の上げ下ろしで手を痛めたり、ジョギングのやりすぎで足を痛めたりするたびに、行きつけの鍼灸院に行っては針とマッサージの治療を受けていましたが、最近はもうまったくそれが必要なくなりました。

また、今年は年明けから寒く、4月5月になっても、まだまだ寒い日が続いていましたが、夜、温泉に入ったあとは、まったくといっていいほど湯冷めをすることがなく、体がほこほこのまま、布団に入ることができるのです。東京にいたころ、冷え症のタエさんは、冬場、毎日のように足が冷たくて寝れない、とこぼしていましたが、ここへ来て以来、そういうこともなくなったようです。

別荘地に家を買う場合、温泉がついているかどうかというのはひとつの大きな選択肢になると思います。私の場合、温泉はついていてもいなくてもどうでもいいや、と最初は思っていましたが、今は違います。絶対温泉があったほうがお得だと思います。

ところで、こうした温泉を持つ家、すなわちこの別荘地で給湯権を持っている世帯はおよそ600とのことです。伊東市や函南町にはこれよりもっと大きい別荘地がたくさんありますので、別荘地の規模としては中規模といったところでしょうか。

こうした伊豆の別荘地の多くは、バブル期に開発されたものも多く、バブル崩壊後、管理会社が倒産したところがかなりあります。当別荘地も、もともとは、ある民間の株式会社が経営していましたが、管理運営が立ち行かなり経営から撤退。このため、住民どうしが話し合って温泉管理組合を結成。そしてその運営を行うために、組合員を社員とする株式会社を立ち上げたそうです。

この別荘地の良いところはその管理運営がある程度うまくいっているところ。組合による株式会社が成立した時点で、別荘地内の道路と上水道についてはすべて市に移管することに成功し、道路と上水道の維持管理の経費を軽減。現在下水道については、株式会社が組合員から費用を直接徴収していますが、来年にはこれも市へ移管する予定になっています。つまり、自前の土地内の設備以外のインフラ整備はすべて市がやってくれることになるため、組合株式会社としてはその分を別の環境整備に充てることができるというわけ。

当別荘地では、このように自治体との連携がうまくとれているため、安心して住んでいられます。しかし、伊東市や函南町の別荘地の中には、これがうまくいかず、バブル期に購入した高価な別荘が破格の安値でダンピングされているところがあるようです。どういうことかというと、こうした別荘地が位置する市町村も財政難のため、別荘地内の道路や上下水道の管理を引き受けることを嫌がっているためです。

バブル崩壊後に管理会社が撤退したこれらの別荘地では、住民側がやむなくそのあとを引き継いで管理組合を作ったりしましたが、道路や上下水道の維持管理には多額のお金がかかるもの。バブル期からもう20年以上経過した道路や上下水道はボロボロになっているものもあり、それを補修したり、交換するためには思った以上のお金がかかります。このため、これら別荘地では水道料金が普通の民家より高かったり、組合に納める月謝が異様に高かったりするようです。こうして別荘地としての評判をどんどん落としていき、しまいにはダンピング価格で放出する人が続出・・・ということになるのです。

とはいえ、わが別荘地もよいことばかりではありません。この別荘地には合わせて5つの源泉があり、何百メートルもの地下から温泉をくみ上げ、これをボイラーで加熱して適温にしたあと別荘地内の各戸に供給しているそうです。ところが、この温泉をくみ上げるポンプや各戸に温泉を送るパイプが経年劣化によってかなり傷んでいて、修理したり取り替えたりするための費用が年々嵩んできているというのです。

実際に供給できる温泉の量は、くみ上げた量の数十パーセントだそうで、つまり、源泉からボイラー室へくみ上げた温泉を送る場合にどこかに大きな穴があり、大量の温泉が漏れているらしいのです。そんなに効率が悪くて大丈夫なんかい、と思うのですが、源泉の量はほぼ無尽蔵にあるので、ボイラーであたためて各戸に配るあたたかい温泉そのものが漏れていなければ大丈夫、ということのようです。

とはいえ、大量の源泉をくみ上げるためにポンプを無駄に使っているわけで、いずれはその穴をみつけてふさぐ必要があります。今年になってその調査費用をようやく計上した、というのですが、ずいぶん、のんびりしているなーとは思います。が、そういう現実があるということがわかっているだけでもよしとせねば。そんなことも把握していないような組合に運営は任せられません。

実はこの組合、昨年までの執行部が全員辞職して、新しい選出された幹部で今年度からスタートしたもの。昨年までの幹部の運営にはそういうことすら把握できないような問題点があったようで、よくはわかりませんが、それを住民側から指摘され、売り言葉に買い言葉で執行部が反論。もめにもめた上、えーいそんならやめてやる~ということで、全員が辞職したという経緯があるようです。

先日我々が参加したその管理組合総会。1年に一回、この時期に行われるようで、会場には40人ほどの方が見えていました。しかしそのほとんどが、60台以上の方のようにお見受け。50台の人は我々だけではなかったかと思います。それほど、この別荘地内の住人の高齢化も進んでいるということ。これはまたこれで別の問題点です。

高齢者が多ければ多いほど、住民による環境の維持活動は難しくなってくるわけですから。たとえば側溝の掃除とか公園などの共有スペースの掃除とかは現在、組合員が自前でやっているようですが、高齢化が進む中、組合の管理運営のための財政も悪化しているならば、こうしたことを外部委託したくてもできなくなってくるおそれがあるからです。

別荘地を選ぶ際、高齢化していないところを探す、というのは日本全体が高齢化している現在、不可能に近いと思います。だとすれば将来にわたって、別荘地としてではなく永住する予定があるのならば、その活力が未来に至っても維持されるかどうかという見極めはしておいたほうがよさそうです。自前で維持できるならばそれでもいいですが、できないならば、国や自治体に頼るしかありません。その別荘地の管理会社、もしくは管理組合は将来にわたっても大丈夫か、ということはよく調べてみる必要があります。

さて、今日は昨日までの回想録やら見聞録と違って、少し固い話になってしまいました。が、これから我々のように伊豆へ移住しようと考えている方にとっては少しは参考になるお話だったのではないでしょうか。

現在移住を考えていない方でも、温泉に入れる別荘地が欲しいと考えている方、別荘地にもいろいろあって大きな問題を抱えている場合もあることをよーく調べた上で決断をされることをお勧めします。くれぐれも建物の外観や土地の広さだけにだまされないように。別荘地の管理運営そのものに問題がある場合、将来的にわたってその価値が下がっていくのは当然のこと。それだけでなく、将来住めなくなる可能性だって否定できないのですから。


河津バガテル公園にて

HIROSHIMA

かねがね疑問だと思っていたのですが、出身地の定義ってなんなのでしょうか。子供のころ、親の都合などで住処があちこち変わった人たちって、出身地をどこだと思われているのでしょうか。

ネットで調べてみると同じような疑問を持っている人は多いらしく、その問いに対する模範解答の多くは、「義務教育期間+高校など成長過程を過ごした場所」としているようです。けれど、法律的なしばりがあるわけでもないようなので、出身地はと聞かれたら、単純に生まれた場所でも本籍地でもとくに問題はないようです。

私は、といえば、生まれたのは愛媛県の大洲市というところですが、父の仕事の関係で、3歳のときに広島市に移り住みました。広島に住んでいたのは、18歳で高校を卒業するまでなので、上記の模範解答通りだとすると、出身地は広島ということになります。広島に住んだ通算年数は15年。幼少期から多感な少年期を過ごしたわけであり、その風土の臭いのようなものを身にまとうには十分な時間です。

しかし、だからといって広島出身・・・というのもちょっと違うなーという感じるのは、その風土に対する親近感でしょうか。子供のころから、どちらかというと母方の郷里である山口のほうが好きで、夏休みや冬休みの大部分は母の実家である山口市内の家で過ごしたものです。母も実家にいるほうが食費もかからないし・・・ということで、父を広島に置いて山口に来ることが多かったらしい。

過ごした時間のトータルで言えば広島のほうが当然長いのですが、過ごした時間の密度の濃さという点では山口に軍配が上がると思う。田舎で何もないといえば何もないところなのですが、小京都といわれるぐらい景色や歴史的には見るべきものが多く、子供ながらにその風情を楽しんでいたようです。自然が多く、その自然の中のいたるところに歴史が埋もれているかんじの山口が大好きで、ひとりでもバスや電車に乗り、よくそうした史跡を見に行ったものです。大学卒業後、両親が広島から山口に移住したこともあり、その後も盆正月に限らず何かにつけ山口に帰ることが多く、おそらく山口で行ったことがない場所はないのではないでしょうか。

なので、「出身地」は、と聞かれたときには、広島、といってみたり、山口と言ってみたりで脈略がないのです。しかし、最近では、ようするに両方のハイブリッドだな、と思うようにしています。

とはいえ、子供のころの生活基盤があったのは紛れもなく広島。学校で習う社会科の授業には広島で落とされた原爆の話題が出てきましたし、原爆で町が消滅に近い打撃を被ったにも関わらず、奇跡的な復興をとげ、マツダに代表される工業の町、中四国地方の商業の中心地として高度成長期には著しい変化を遂げた町でもあります。

そんな町、広島で我々夫婦、ムシャ&タエが出会ったのは、高校二年のとき。厳密には高校入学と同時に出会っているはずなのですが、クラスが違っていたので、お互いを認識したのは同じクラスになった二年生というわけです。その学校、広島国泰寺高校は、その昔広島一中と呼ばれていた100年以上の歴史を誇る伝統校。それだけに人気は高く、競争倍率はその当時割と高かったのですが、二人とも中学時代の成績はよく、無事入試をパス。晴れて伝統校の一員になったのです。

私が、愛媛県大洲市生まれであるのに対し、タエさんのほうは、島根の松江の生まれ。お互いの両親が公務員だったというのは偶然でしょうが、転勤の多い公務員のこと。その転勤先が同じ広島だったことが、二人がめぐりあうための下地になったわけです。今思えば、そういう両親を選んで生まれてくることが、二人して広島で出会うために必要な必然だったのでしょう。

国泰寺高校はいわゆる進学校で、卒業生のほとんどは大学へ進学。そのせいもあって、受験に専念させるためか、高校三年のクラス替えはなし。従って、二年から三年の二年間、をタエさんと同じクラスで過ごすことになりました。三年になると大学受験のための課外授業などもあり、正規の授業と課外授業、そして来るべき受験に備えての受験勉強でかなり忙しく、今振り返ってみても楽しかった、といえるような時代ではありませんでした。

そんな中にあっては、恋愛なんてやっている暇なんかねーよ、というわけで私も好きな女の子の一人や二人はいましたが、恋愛関係に発展する間もなく受験体制に突入し、あれよあれよと高校三年間が終了。県外の大学を受験したクラスメートも多く、高校卒業とともに、クラスの面々の半分は広島に居残ったものの、残るは全国にバラバラに散っていきました。

その当時私は写真部に所属しており、いつもカメラを持ち歩いていて、そうした校内の催しやクラス内での様子などを毎日のように写真に撮って記録していました。今もその当時のネガが大量に残っているのですが、その一枚一枚をみると、その当時のクラスメートどうしの親密さがうかがわれます。

我々のクラスはわりと結束力が強く、校内のバレーボール大会でもスクラムを組んで優勝。合唱祭でも賞をもらうなど、なんというか、クラス全員でいつも何かやっているというような一体感がありました。そして、その一体感から生まれたこのクラスの結束こそが、その30年後の我々の結婚につながっていくのです。そのことは、またこのあと書いていきます。

高校時代のわたしとタエさんの接触はどうだったのでしょうか。正直なところあまり覚えていないのですが、クラスには「班」というものがあり、それぞれの班単位で掃除やらクラスの行事などを担当するしくみになっており、同じ班に所属したことが一度あったかと思います。

それが縁で親しく話をする機会もあり、どんな会話だったのか全く覚えていませんが、修学旅行のとき、飴をくれるといったのにくれなかった、と私が愚痴を言ったとか言わなかったとかいう出来事があったようです。そのお詫びを兼ねて、彼女が私に書いて寄こした年賀状が手元に残っています。お詫びといいながら、かなりちゃかした表現で、飴玉の絵が添えてあり、そのとき、なかなか面白いヤツ、と思ったことは覚えています。

しかし、それがその後、恋愛感情に発展するとはそのときまったく思っていませんでした。彼女のほうも、とくに私にそんな感情を抱いているそぶりもなく、それもそのはず、その当時の私といえば、結構小太りで赤ら顔の写真好きオタク少年といったかんじ。おそらくは眼中にはないわよ、といったところだったでしょうが、とはいえ、そんな年賀状が残っているくらいですから、同級生同士としては話は合うほうだったのでしょう。

その程度のご縁しかなく、どちらかというとすれ違い、といってもいい二人でしたが、高校を卒業し、私は静岡の私立大学へ、彼女は広島の公立の女子大学の大学生になり、ますますその距離は遠ざかります。

その二人が再び出会うことになったのは、高校卒業後の最初の夏だったと思います。誰が言い出したかわかりませんが、結束力の高かったクラスでもあり、同窓会をやろうという声があがったのです。しかもただの同窓会では面白くないので、キャンプをしようという話になり、卒業後はじめての野外同窓会が実現します。

同窓会が行われたのは、広島県北にある「県民の森」というところ。野外で炊飯できる施設があり、コテージのほか、テントの貸し出しもあったかと思います。ここで一泊二日のキャンプ同窓会を開くことになったのは遅い夏だったと記憶しています。集まった総勢は、全部で十数人だったでしょうか。男子女子ほぼ半々の割合で久々に集まった面々。男性陣の仲にはすでに麻雀を覚えたりタバコを覚えたヤツもいたかと思う。学生服に変わり、私服で過ごすようになった女性陣はといえば、さすがにまだお化粧している子はいなかったと思いますが、高校時代にくらべてずいぶん変わったなーと思ったのを覚えています。

このキャンプ。息苦しい受験戦争を終え、大学へ入学して自由になった面々のこと、かなり大騒ぎをしたのを覚えています。みんなはしゃいでいましたが、そのときタエさんは少し疲れたようなかんじでした。どうしても出なければいけない同窓会というわけではなく、ちょうどスケジュールが空いていたので来たというところだったでしょうか。妙に物静かで口数が少なかったように思う。

大学入学後、女学生らしく少し髪の毛を伸ばして帽子をかぶり、黒いパンツにベージュのトレーナーといったシンプルな服装のタエさん。ほかの子同様、けっしておしゃれには見えませんでしたが、高校時代に見た学生服のタエさんと違ってずいぶん大人びてみえました。

今にして思えば、その再会が運命のときだったわけです。少しものうげで大人びたそぶりの彼女にビビッと来たのが運のツキ。気恥しいのであまり書きたくはありませんが、いわゆるひとつの恋心なるものを覚えたわけです。その後静岡へ帰り、彼女のことを思い返すにつけ、どうしても我慢ができなくなりました。

私は、恋愛に関してはかなり奥手のほうでしたが、思いつめると自分でもあれっと思うような行動に走ることがあります。その夏のことだったか、その次の冬休みのことだったかもう忘れてしまいましたが、どうしてもタエさんにまた会いたくなり、とうとう彼女がアルバイトをしていた市内の本屋さんに彼女に会いに行くという大胆な行動に出るのです。

ちょうど彼女はレジで会計をしていましたが、私を見ると驚いた様子でした。が、顔をあげ笑顔であいさつをしてくれました。これに対して軽く会釈で応じ、本を見るふりをして書店の中をぐるぐる回ります。そして、さあて、どうしたものか、と考えました。まさか、レジの前で告白するわけにもいかんしなー、誘うにしてもきっかけが思い浮かばんし・・・

といろいろ思案していましたが、ふと一計を思いつきました。そして、大学で必要な本なんだから、と自分で自分を言い聞かし、海洋学関係の本を一冊手にとってレジへ。その本、とくに必要な本でもなかったのですが、タエさんと話をするためのダシに使おうと思ったわけです。結構高価な本だったと思うのですが、そんな難しい本を買いに来たんだ~とタエさんが思うかもしれない、という下心も。そしてレジにいたタエさんに手渡すと、彼女は「まぁ、こんな高い本を」とか言ったかと思います。

それがきっかけで少し会話ができ、その会話の終わりに、今日はちょうどクルマで来ているんだけど、もしバイトが終わるのがもうすぐならば、ウチまで送って行ってあげるよ、と私としてはさらに大胆な発言をしたのです。

断られるかな、と思いきやOKの返事をもらった時には、天にも昇るような気持ちだったのを覚えています。そして、口実とはいいながら、彼女の自宅までの車での初デートが実現。無論、彼女はデートとは思っていなかったでしょうが。クルマの中での会話の内容はよく覚えていませんが、お互いの大学生活のことだったでしょうか。お互い多少意識しつつも会話のキャッチボールは途切れなかったように思う。私としては、しめた!と思ったもんです。

そうしたこともあって、静岡へ帰ったあと、広島にいる彼女との手紙のやりとりが始まりました。実際には「やりとり」というほどではなく、どちらかといえば私からの手紙の数のほうが多い、一方的な文通。彼女から私のほうへ来た手紙は2~3通ほどだったかと思います。私はせっかちな性格なので、彼女の手紙が来ないうちに次を出してしまうのですが、奥手の性格なのでかんじんなことが書けず、くだらないことばかりを書いたような気がします。とはいえ、私なりに趣向を凝らして彼女を楽しませるような内容を書いたと思うのですが、それに対しての彼女の返事は待てども待てどもなかなか来ません。

そして、最後に意を決し、とうとう告白めいたことを書いて送った手紙に対し、彼女から帰ってきた手紙は・・・ やっと返事をもらえたと思ったその内容は・・・ご期待どおり、NOでした。

その当時、お互い19歳。お互い、大人の恋愛をするには少々早すぎました。私自身はかなり奥手のほうなのですが、彼女もかなり奥手のほう。あとで聞いた話ですが、彼女もその後大学を卒業するまで、彼氏はできず、私も同様。今思えば似たものどうし、だったわけですが、私自身まだ精神的に幼すぎたし、タエさんもそれを補えるほどの母性はまだ持ち合わせていなかったのでしょう。お互いその時期ではなかった。今思えばそのとおりなのです。

そして、そのまま大学を卒業・・・彼女は広島にいたまま職業としてコピーライターを選び、私は東京へ出て建設コンサルタント会社に就職。技師のたまごとしての人生をスタートします。お互い全く違った場所で全く違う社会を経験していくことに。お互い、その後の人生は時に過酷なものでもありましたが、しかし、お互いその後の別々の人生の積み重ねがなければ今の二人はなかったのです。

そして、そんな二人が再会するまでに30年の月日が流れていきました。その再会を果たした場所もやはり広島。ふたりにとって実に縁の深い土地です・・・

今月は結婚記念日を間近に控えているので、「ブライダル月間」ということで、二人のなれそめの話を書いていきたい、というのは先日も公表したとおりです。とはいえ、結構、この手のことを書くには、「リキ」がいるので、この続きは、明日以降、気が向いたら、ということにさせてもらえればと思います。

結婚している人も、もうすぐ結婚する方もそれぞれの特別のストーリーがあると思います。わたしたち二人の場合、結婚に至るまでの二人の人生が一度は交わりながらも、それていき、そしてふたたび交じり合って結ばれたという、ありそうでわりとないストーリーです。

そんなお話にご興味があればまた当ページへお越しください。

富士山は親戚? ~富士山

昨日は一日中雨が降り続きました。梅雨らしいといえば梅雨らしいのですが、妙に気温が低く、最高でも21度どまり。典型的な梅雨寒です。わたしはといえば、思わずしまいこんでいた、愛用のどてらを引っ張り出して着るほど。夕べなどは、もう6月だというのに、鍋料理などしてしまいました。

雨は夜半にあがり、そして今朝は快晴、とまではいきませんが、朝から少し日が差す天気。外をながめると、ここのところ厚い雲に覆われてばかりいた富士山が久々にその雄姿を現しました。しかし、それにしても、雪が減ったな~ こんなに少なくなってたんだーとちょっとびっくり。

そこで、先月の5月に撮影した富士山の写真と比べてみると、その違いは一目瞭然。右下の宝永山の噴火口(宝永火口)の雪はすっかり溶けているのがわかります。それもそのはず、来月7月の1日からはもう、富士山の山開きです。今年も大勢のハイカーが富士山のサミットを目指すのでしょう。


 5月16日の富士山 宝永火口にはまだ雪が・・・

かくいう私は、一度も富士山の頂上まで登ったことはありません。学生の頃に、五合目まではクルマで行ったことがあるだけ。しかも、曇天の日だったので下界も全く見えず、ただ登っただけになってしまいましたが。

それだけに一度は登ってみたい山ではあるのですが、テレビなどで紹介されている登山の様子を見ると、登山客だらけでイモ洗いのご様子。ただでさえ人ごみが嫌いな私にはとても向かない環境です。多くの人は七、八合目あたりで一泊してから頂上を目指すようですが、宿泊する山小屋の混雑ぶりが目に浮かぶようで、どうにも気が進みません。

早朝か夜間から登山を始めて日帰りで帰ってくる、ということもできるみたいなので、天候をみはからってそのうちチャレンジしてみようかな、と思ったりもします。が、運動不足のタエさんがついてこれるかどうか。彼女ときたら、ちょっとした神社の階段でも息を切らしながら、私にしがみついてくる始末。いっそのこと、背負子(しょいこ)でも買ってかついで行くか~ とも思ったりするが、ぎっくり腰になったらいかんのでやめときましょう。

その昔、富士山の山頂に気象庁の測候所があったころには、頂上まで観測資材などを引き上げるのに「強力(ごうりき)」と呼ばれる人々がかり出されたようです。一人で50~60kgの荷物を運ぶことができたそうで、中には重さ100kg以上の荷物を運ぶ猛者もいたとか。直木賞作家、新田次郎さんの小説「強力伝」に出てくる強力さんは、白馬岳山頂に50貫目(187.5kg)の方位盤を運んだそうです。富士山でも、山頂に立つ鳥居を担ぎ上げた強力さんがいて、この人は、重さ40貫~50貫(150kg~187.5kg)の鳥居を上げたとか。

こういう強力さんはその昔、富士吉田市や御殿場市にたくさんいたようで、通常は山小屋などに食糧や日用品を運ぶ仕事をしていたようです。今もいらっしゃるのかな、と思って少し調べてみたら、今は山小屋への荷物などは小型のブルドーザーで運べるそうなので、おそらくはもう廃業でしょう。

ところで、富士山といえば現役バリバリの活火山。いつ噴火してもおかしくない、「生きている」火山です。先日NHKの特集番組を見ていたら、この富士山、最近どうもきな臭いらしい。昨年の大震災によって、関東以北の火山の地下にあるマグマにかかっていた周りの岩盤からの力が解き放され、マグマが上昇しやすい状態が続いているとか。ここ数年のうちに噴火するのでは、という見方をしている学者さんもいるようです。

もっとも考えられる噴火シナリオのその1は、南側の宝永火山からの溶岩流の流出だそうで、この場合、麓の富士市や裾野市あたりに流れ出すだけでなく、駿河湾にまで達し、東名高速や新幹線、東海道線などの東西を結ぶ大動脈を分断。東京とそれ以西の物流が止まることによる大きな経済的ダメージが生じる可能性があるとのことでした。

可能性の高い噴火シナリオのその2は、同じく宝永火山付近から噴出した噴煙が、上空数キロメートルの高さにまで噴き上げるパターン。この場合、富士山のすぐ麓への影響というよりも、むしろ大きな被害を受けるのは東京や神奈川、埼玉といった関東地方。偏西風によって東に流された噴煙が関東地方の広範囲に灰や火山岩を降らします。

火山灰は銅や鉄と同じく通電性があるそうで、これが電線に積もるとショートして電気が止まり、首都圏が大停電になる可能性も。降った灰のうち、細かなものはあらゆる電子機器に入りこんで悪影響を及ぼすほか、積もった灰は電車や自動車の通行をも妨げ、人々の移動は困難に。関東地方はその他の地方とは切り離され孤立。そのため食糧事情が悪化し・・・・・

と、何やら空恐ろしくなってきますが、本当に噴火したらそりゃーそういうこともあるだろうな~。去年テレビでみていた大津波の映像はまるで夢でも見ているようでしたが、富士山の噴火も実際におこったらまた夢のように見えるのでしょうか。ふつう、夢はかなってほしいものですが、こればかりは実現しないことを祈るばかりです・・・

ところで、火山ついでなのですが、おととい行った下田のペリーポイントで「火山の根」についての説明書きがありました。なんでも下田にある三角形のおにぎりのような山、「下田富士」というのだそうですが、この下田富士や同じ市内にあって頂上までロープウェイが通っている観光スポット、「寝姿山(ねすがたやま)」は、その昔、やはり火山だったそうです。

ペリーポイントにある「黒船」のいかり

火山の根とは、ようするにマグマそのものなんだそうで、そのまわりの岩や砂が侵食されてマグマ本体が露出したもの。硬い一枚岩になることもあるらしい。そういえば、ウチの近くにある城山(じょうやま)や葛城山もその昔は火山だったらしく、城山などは見るからに、岩一枚でできてまーす、としっかり火山の根っこを主張してます。前にもこのブログで書きましたが、ロッククライミングをする人のメッカだそうで、近くに出かけることがあるときに見上げると、岩肌に張り付いているクライマーを見かけることがあります。

左から富士山、葛城山、城山

ちなみに、下田の下田富士は、伊豆諸島の最高峰で八丈島にある八丈富士、富士山(駿河富士)と合わせて三姉妹であったという民話が残されているそうです。そうすると、城山や葛城山はその親戚かい・・・と突っ込んでもあんまりおもしろくないか。でもまあ、同じ伊豆半島の中でできた火山同士であることには違いなく、お父さんやお母さんではないにせよ、親戚といっても過言ではないわな。

また、その昔、伊豆半島にあちこちにあった火山から噴出し、海底にたまった火山灰や軽石が固まって隆起したものを切り出したものを、「伊豆石」というそうですが、下田の町には伊豆石で作った建物がたくさんあるとのこと。そういえば我が家のお風呂にも伊豆石が使ってあります。ということはウチの風呂も富士山の親戚か。と、わけのわからんことを書いているとお叱りを受けそうなので、今日の火山論議はこれくらいにしましょう。

気がつけば6月ももう中旬。あと半月で今年の前半戦も終了です。今年前半の奮闘は後半戦にどう影響を及ぼしていくのか。本格的な夏が来て暑くなる前の梅雨のあいまにでも、過去に起こった出来事を整理し、今後の展開を見据えることにしましょう。みなさんにとっては、どんな半年でしたか?

ペリーポイントにて