狩野城 ~伊豆市

先日、蛭ヶ小島へ行った帰り、ふと思い立って、こちらも気になっていた、「狩野城」の城跡へ行ってきました。伊豆市役所から136号線を南下して、3kmほど行った山間にあり、狩野川からは1kmほどのところです。場所としては、本柿木というところにあることから、古くは本柿木城とも呼ばれたとか。この地が、狩野一族の発祥地とされています。

狩野城は、西暦1100年前後の平安時代に狩野氏の始祖、狩野維景により造られたと考えられています。250年の間狩野氏はこの城を本拠地に中伊豆地方に勢力を振いました。維景から数えて5代目の狩野茂光は「保元の乱」に、源頼朝のお父さん、源義朝の助っ人として加勢しており、以後、一族は源氏に重く用いられました。狩野氏は源氏の興隆と共に栄え、執権北条氏の時代とその後の室町時代まで生き続けますが、伊勢新九郎(北条早雲)によって攻撃され、1497年に敗れて狩野城を開城。その後、北条氏に仕えるようになりますが、小田原に移封された後、豊臣家との戦いに敗れ、北条氏とともに滅亡しています。

以下、もう少し詳しく、狩野氏の盛衰について、記述していこうと思います。

藤原鎌足の十代あとの孫、藤原為憲は940年(天慶3年)、平将門の乱に討伐の功があり、賞せられて駿河守に任じられました。その孫の維景は任を辞して、狩野郷日向堀内(現伊豆市日向、市役所より2kmほど南)に来住し、初めて狩野を姓としました。これが、1050年ごろだとされています。

ところが、日向は地勢平坦で要害に乏しいこと場所だったので、その後、現在狩野城史跡のある本柿木城山の地を選んで城砦を築き、堀を廻らし、天嶮の地形を巧みに利用しここに移り住みました。

維景の子、維職の時代には、伊豆押領使に補せられ、勢力は狩野、伊東、宇佐美、河津の各所から、伊豆諸島にまで及びました。

その頃、源為朝という男が、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎と称していました。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦するのですが、敗れてしまい、伊豆大島へ流されます。しかし、そこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配するようになったので、ついに業を煮やした後白河上皇が追討命令を出しました。

これに応じたのが狩野家の5代目、狩野介茂光。茂光は、近隣の武将(伊東、北条、宇佐美、加藤、新田、天野など)を従え、この為朝征伐に出向きます。激戦の末、為朝は破れ、自害します(1177年)が、このときの切腹が、史上最初の例なのだそうです。

この為朝征伐は、狩野介茂光の名前を天下に轟かせ、伊豆における狩野氏の存在を不動のものにしました。全国に八家しかない「介」という称号を用いていたことからも伊豆及び伊豆諸島のことごとくを領地として治めていた狩野氏の権力が絶大であったことがわかります。

それから3年後の、1180年。昨日お話したように、伊豆韮山の蛭ヶ小島に流されていた源義朝の子頼朝が、源氏再興を願い、山木判官兼隆を襲撃、ここに平氏追討の火ぶたが切って落とされます。茂光もこれに加勢し、ともに戦うことに意を決します。それから、六日後、頼朝征伐に平氏の軍勢三千騎が出向き、石橋山(神奈川県小田原市)で戦闘が始まりました。

ところが、この初戦で頼朝は負けてしまいます。自身は船で房州へ逃げ延び、共に戦った狩野茂光は戦死してしまいます。しかし、その後、頼朝は関東の武将を集め軍団を建て直し、富士川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに平氏を破り、奥州の藤原氏を倒して全国を支配、1192年鎌倉幕府を開きました。

頼朝に信頼されていた狩野一族は、その後も源氏に組みしていきます。茂光の子の、狩野宗茂は、一ノ谷戦いで捕虜にした平氏の総大将、平重衡を頼朝に請われて預かっています。頼朝が、いかに狩野氏を信頼していたかという証です。その後も、狩野氏武将は頼朝に従って各地に転戦し、武功をたて重く用いられました。茂光の子、親光は奥州藤原氏攻めの総大将として参戦しているものの戦死しています。しかし、親光の子、親成(狩野家七代にあたる)が引き続き、鎌倉幕府に仕え、以後、狩野城を拡充しつつ、伊豆中部に勢力を張っていくようになります。

以後、鎌倉時代、室町時代と、狩野氏一族は伊豆の領主として君臨し、始祖の維景から数えると、約450年余りにわたり、その繁栄を築くことになりました。しかし、1497年(明応6年)、伊勢新九郎(後の北条早雲)によって本拠である狩野城を明け渡すことになります。1491年(延徳3年)、伊勢新九郎(北条早雲)は伊豆を侵略し、狩野軍は敗れ開城。狩野一族を攻め、伊豆下田の関戸吉信を滅ぼし伊豆を平定した北条は小田原城を本拠地として関東一円に勢力を伸ばすようになるのです。

この、伊勢新九郎こと、北条早雲のことについて、少し詳し書きます。

伊勢新九郎は、駿河の国の今川家に取り入って、姻戚関係となり、徐々に今川家の武将としての地位を向上させた人です。もとはただの素浪人だったといいますが、最後には駿河の室町幕府の将軍家、足利家の内紛に乗じて伊豆で基盤を築き、徐々に伊豆だけでなく、関東一円に足場を築いていった武将です。1495年には大森氏から小田原城を奪って本拠地を移し、1516年には、三浦半島の新井城で三浦義同を滅ぼして、相模国(現在の神奈川県)全土を征服するようになり、戦国時代における関東地方最大の勢力にまでのし上がります。

この伊勢新九郎、のちに北条氏を名乗るようになりますが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢平氏の北条氏には「後」をつけて「後北条氏」と呼ぶようになったといいます。また居城のあった小田原の地名から小田原北条氏とも呼ばれるそうです。

この、北条早雲が、伊豆を領地とするようになったいきさつをもう少し詳しく書くと、以下のようになります。

ことの発端は、1483年に起こった享徳の乱といわれる争いです。室町幕府の8代将軍、足利義政の時に起こったこの内乱は、鎌倉の政府出先機関の長官(鎌倉公方)、足利成氏がその補佐役(関東管領)の上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、両家だけでなく、幕府も巻き込んだ争いが、関東地方一円に拡大します。この騒動が、のちの戦国時代の幕開けの遠因になります。

享徳の乱では、幕府は、関東管領の上杉氏に有利な裁定を下しますが、これに対して足利成氏は反発し、更なる武力行動に出ようとします。しかし、将軍の命を受けた駿河の国の今川氏が成氏の本拠の鎌倉を攻めて占領。成氏はいったん、古河城(現茨城県古河市)まで逃れますが、その後も関東管領上杉氏と激しく戦い、徐々に勢力を盛り返し、鎌倉を奪還。

このころ、北条早雲は、そのお姉さんの北川殿と今川家当主の今川義忠が結婚したことで、今川氏とは姻戚関係になっており、このころから、今川家の武将として活躍するようになっていきます。

将軍義政は成氏に代る鎌倉公方として異母兄の「政知」を送りこむのですがが、成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず、伊豆の北条氏宅を本拠にするようになります。やがてそのまま居座り、事実上伊豆を支配する代官として、韮山に居を構え、堀越公方と呼ばれるようになります。ところが、1483年(文明14年)に、成氏と上杉氏との和睦が成立。政知の存在は宙に浮いてしまい、室町幕府の一介の出先機関、韮山堀越御所の主として、伊豆一国のみを支配する存在となってしまうのです。

この政知には茶々丸という息子がいましたが、正室円の満院との間には、潤童子と清晃という二人の子をもうけていました。清晃は出家して京にいたのですが、政知は勢力挽回のためにこの清晃を将軍に擁立しようと図っていました。

しかし、政知は1491年(延徳3年)に死んでしまいます。すると、その子のひとり、茶々丸がお母さんの円満院と潤童子を殺害して強引に跡目を継ぐという事件をひき起こします。

そして、次の事件がおこります。1493年(明応2年)、このころの関東管領で、事実上の最高実力者、「細川政元」が10代将軍義の材(後に義稙)を追放してしまうのです。世にいう、明応の政変です。細川政元は、政知のもうひとりの息子、清晃を室町将軍に擁立し、清晃は還俗して足利義遐を名乗る(後に義澄)ようになります。

こうして、権力の座についた、義遐にようやく母と兄を殺した茶々丸を討つチャンスが訪れます。そして、その敵討ちを、そのころ、今川家の有力武将になっていた、北条早雲へ命じるのです。伊豆の国への進出を狙っていた早雲は、早速この命を受けます。公に伊豆へ侵攻するとための、大義名分を得たわけです。そして、伊豆韮山の堀越御所の主である、茶々丸への攻撃を開始します。この事件は「伊豆討入り」というのだそうで、ここに、東国における戦国時代が始まったといわれています。

後世の軍記物には、この伊豆討入りに際して、早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたという伝承があるそうです。早雲の手勢200人と今川氏親(義忠と北川殿の息子、早雲の甥にあたる)に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船に乗って清水浦(清水港)を出港。駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸すると、一挙に堀越御所を急襲して火を放ちます。茶々丸は山中に逃げますが、最後には自害に追い込まれてその一生を終えます。

こうして、早雲は伊豆国の韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として、伊豆国の統治を始めます。その統治は、平民には優しいものだったそうで、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施たため、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち早雲に従ったそうです。

しかし、堀越御所を奪還したとはいえ、まだ伊豆には狩野家や、伊東家、宇佐美家、関戸家などの有力武将が君臨していました。

冒頭でも述べたように、狩野家は元をたどれば、藤原家の分流として平安時代から伊豆に土着した貴族出身の武士です。狩野家と伊東家、宇佐美家は同族であり、関東を実質的に支配する上杉氏との関係を強めながら、このころ、早雲・今川連合と激しいつばぜり合いを続けていました。

ところが、堀越御所騒動のあった、明応2年には、早くも宇佐美氏が早雲に滅ぼされ、その2年後の1495年(明応4年)には、伊東家が狩野氏を裏切り、早雲側に降ることを決断します。それでも、伊豆出身の武士のなかでの盟主を自称する狩野一族は、その誇りをかけて頑強に早雲軍に抵抗を続けます。

早雲は、狩野家の本拠地である狩野城(別名柿木城)や修善寺の柏窪城を攻めますが、なかなか狩野氏を降伏させるには至りません。その後も何度か狩野家と早雲との激闘がありますが、現在の伊豆市から伊東にかけて繰り広げられた数多くの戦闘にようやく決着がついたのは1497年(明応6年)の12月ごろだそうです。4年の間、修善寺から伊東辺で繰り広げられた一進一退の攻防戦に力尽き、狩野家当主の狩野道一は自刃して果て、狩野城が陥落してついに長い闘いが終了します。

さらに早雲は、翌年の1498年(明応7年)に、伊豆における最後の抵抗勢力、関戸吉信の深根城(下田市)を落とします。こうして5年がかりの北条早雲の伊豆平定がようやく終わりをつげるのです。

狩野城は落城しましたが、この後、狩野氏は滅亡したのではなく、早雲の温情を受け、一族は小田原へ移封(国替え)されます。このあたりの経緯はよくわからないのですが、伊豆の民からその善政をもって歓迎されていた早雲のことですから、最後まで誇りを捨てずに戦った狩野一族を、敵ながらあっぱれと思ったのではないかと私は推測します。

その後の狩野一族ですが、1534年(天文3年)には狩野左衛門尉という人が、北条氏に仕え、鎌倉の鶴岡八幡宮の「鶴岡惣奉行衆」という大役につき、1550年(天文19年)頃までには、一族郎党全員の小田原城下移住が完了したようです。

そしてその後、40年あまりにわたって、北条氏を支える重要な一派となっていきます。1559年に編集された、「小田原衆所領役帳」という北条氏の記録には、多くの狩野氏一族の名前が記載されているそうです。このほか、1582年に北条氏の北関東への進出にともないはその一族が上野の国の津久田城、長井城の城番に抜擢されるなど、次第に北条氏の中でも重要な役を担うようになっていったことがうかがわれます。

しかし、安土桃山時代の1590年、北条氏が豊臣郡との戦いで敗れ降伏するとともに、狩野家も降伏。戦国武将としての狩野家はここで歴史から消え去っていきます。

ところが、これにさかのぼることおよそ150年ほど前の、1434年(永享6年)。狩野家の一族に狩野景信という人が誕生していました。絵師として名をはせた日本画の主流、狩野派の元祖といわれる人です。狩野景信は、時の将軍、足利義教に見出され京に上り、画壇にさっそうと登場。将軍の前で富士の絵を描いたといいます。その子元信は画界に狩野派と称する流派を打ち立て、その後も日本の画壇において一世を風靡するようになります。

その後も、室町幕府の御用絵師となった狩野正信を祖として、元信・永徳・山楽・探幽・・・など名前を挙げきれないほどの多くの名人を輩出しており、江戸時代まで、約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていきました。近世以降も日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したということで、琳派の尾形光琳、写生派の円山応挙なども初期には狩野派に学んでいるそうです。

武士としての狩野家は途絶えましたが、その一族の血は、その絢爛たる画風と共に、今に輝いているのです。

…… 今日は、今日も、ですが、歴史シリーズになってしまいました。いっそのことですから、今週は全部歴史ものにしようかな、などと考えています。みなさんのご興味が続けばいいのですが……

八重姫 ~旧長岡町(伊豆の国市)


一昨日は九州地方や中国地方で大雨が降ったようですが、ここ伊豆でも結構降りました。造成したばかりの庭はどうかしら、と心配したのですが、表土が少し流れただけで事なきを得ました。

でも、ふもとの狩野川や桂川は結構増水しただろうな、と思ったのでちょっと、見に行ってこようということで、修善寺の駅から歩いて5分ほどのところにある市役所まで行ってきました。狩野川のすぐそばにある、市役所脇の遊歩道からは、いつものように、滔々と流れる狩野川がみえます。確かに少し増流しているようですが、危険を感じるほどではないかんじ。しかし、田方消防署の方々4~5人が、水位を確認に来られていました。古くから水の事故の多い狩野川のこと、やはり増水が心配になられたのでしょう。

狩野川といえば、「狩野川台風」により大きな被害が大きかった場所として有名です。1958年(昭和33年)9月26日夜、関東地方に上陸した台風22号が伊豆半島を襲いおおきな被害を出しました。狩野川流域では、破堤15箇所、欠壊7箇所、氾濫面積3,000ha、死者・行方不明者853名に達したそうです。静岡県全体の死者行方不明者は1046人ですが、そのほとんどが伊豆半島の水害によるものでした。

この狩野川台風による被害状況については、その当時のことを調べるとまたいろいろな史実がでてきそうなので、日をあらためて書いてみることにします。

さて、この狩野川ですが、その豊富な水量と良好な水質により古くから繊維業、製紙業、醸造業などが発達してきたそうです。特に、天城山系の清流を利用したワサビ栽培は、全国一の生産額だそうで、紙も、ふもとの修善寺がそのメッカだったらしく、現在も和紙を作っている工場があります。

地形的には、伊豆半島の最高峰、天城山に端を発し北流、大仁や伊豆長岡、韮山などが位置する田方平野を蛇行しながら、沼津市付近で大きく向きを変えて駿河湾に注いでいる川です。太平洋側の大河川で、このように北流するものは狩野川だけなのだそうで、何事につけ、人とは違ったことをやるのが好きな、変わり者の私としては、妙に親近感を感じたりする……

その長さは、約46kmほどもあるそうですが、標高差が大きく流れが急なことや、下流部で蛇行することもあり、古くから洪水が多発しました。その昔は、洪水のたびに流路が変わったそうで、現在でも伊豆長岡町や韮山では網目状に古い河道が分布しているのがわかるとか。

当時は中州がいくつもできて島のようになり、「土手和田」、「和田島」や「蛭ヶ小島」などと呼ばれていたといいます。「田島」というのは、中州のことなのだそうで、「小島」というのも中州が島のように見えたからつけられた名前なのでしょう。

ところで、蛭ヶ小島といえば、平家によって流罪となった、源頼朝が居留したところとして知られています。伊豆へ引っ越してきたときから、どんなところなのだろう、と気になっていたので、お天気も回復しそうだし、狩野川の様子を見に行ったついで、ということで、午後から現地に行ってみることにしました。

行ってみると、予想どおり、というか、あまり期待していなかったのですが、「小島」などはなく、小さな茶屋と東屋を中心においた、周囲200m程の公園。伊豆の国市が管理しているらしく、なかなかきれいに整備されています。入口付近には、史跡であることを示す碑と、頼朝と政子が寄り添って、遠くを見つめる像があります。頼朝さん31歳。政子さん21歳のころだそうですが、もっと若いときに出会って結婚しているはずですから、結婚後、十何年も経ったころの像ということになります。

頼朝さんは、平家1159年(平治元年)、お父さんの義朝が平治の乱で敗れたため、平家に捕えられますが、清盛の継母の池禅尼(いけのぜんに)の命乞いで、翌1160年、ここ、「蛭ヶ島」へ流罪になったとされています。たった14歳だったそうです。おそらくは流人であったため、付き人なども一人いるかいないか、ぐらいではなかったかと思われます。

蛭ヶ「小島」ではなく、蛭ヶ島なのだそうで、平安時代には、このあたりの水田地帯一帯をそう呼んでいたのだとか。しかし、いろいろ調べてみると、歴史的には「伊豆国に配流」と記録されているだけらしく、「蛭ヶ島」というのも、後世の文書で史実に誰かが勝手につけ加えたという説があるようです。

発掘調査などでも、より古い、弥生・古墳時代の遺構や遺物が出てくるだけで、平安時代末期の遺構は確認されていないのだとか。鎌倉時代につくられたという歴史書、「吾妻鏡」で、頼朝さんの流刑地について「蛭島」と確かに書いてあるようですが、現在蛭ヶ小島と称されているところが、本当にその場所であるのかどうかはわからないのだそうです。

現在、蛭ヶ小島の遺跡として整備されている場所は、江戸時代に学者の秋山富南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定し、江戸中期の1790年に、これを記念する碑を建てたんだとか。これが「蛭島碑記」という石でできた碑文で、確かに公園内にこの古い碑が建てられていました。

現地へ行ってわかったのですが、狩野川からはかなり離れた東側の山寄りに作られているこの公園、地質調査の結果から当時も付近を大きな河川が流れるということはないことが分かっているそうです。なので、頼朝さんが流された場所というのは、狩野川の中の中州ではなく、水田の多い湿地帯のなかに島状にあった「微高地」と考えるべきだという説が有力視されているようで、それならばなるほど、狩野川から離れたところにあるのもわかる気がします。

それにしても、この地が「蛭ヶ小島」じゃないのならば、実際にはどこだったの?という声が聞こえてきそうですが、実は、この近辺には、頼朝さんが後年奥さんにする北条政子さんの実家、北条家の一族の住まいがあちこちにあったようです。おそらくはそのうちの一軒が、頼朝さんを閉じ込めておくには都合がよい場所にあったのではないでしょうか。

頼朝さんはここで父義朝の菩提を弔いながら、約20年を過ごしたそうです。生活費はどうしたのかな~ と余計な心配をしたもんですが、これについては、もともと頼朝さんの乳母だった「比企尼(ひきのあま)」いう人が、旦那さんの比企掃部允(ひきかもんのじょう)とともに暮らしていた、武蔵国比企郡(今の埼玉中部だそうですが)から仕送りを続けていたのだとか。愛情深い乳母だったんですね。頼朝さんがその後挙兵できたのも、この夫婦の援助のおかげということになります。

さて、そういうわけで、流人といわれる身分ながらも、とりあえず食うのにも困らず、「伊豆ライフ」を満喫していた頼朝さんですが、罪人であることにはかわりなく、当然監視役がいました。この監視をしていたのが、在地豪族の伊東祐親(いとうすけちか)という人。ところが、あろうことか、頼朝さん、その娘の八重姫という女性と恋に落ちてしまいます。

八重姫さんは、伊東祐親の三女とも四女ともいわれるお姫様。その八重姫さんに頼朝さんが出会ったのは、頼朝さんがのちの奥さんの政子さんと出会う少し前の事、といいますから、蛭ヶ小島に流されてきてから1~2年後の15才か16才くらいのことだと思います。八重姫さんのお年はよくわかりませんが、同い年ぐらいだったのではないでしょうか。

祐親さんには、娘が4人ほどいたそうですが、八重姫さんの上のお姉さんたちは、みんな嫁いだあと。しかし、八重姫さんは独身だったので、それをいいことに、頼朝さんは八重姫さんのところへ、こっそりと通うようになります。そしてなんと、監視役の祐親さんが大番役で上洛している間に、男の子までもうけ、その子に「千鶴(せんずる)」という名を付けます。

罪人と看守の娘が恋をする?14~5才で結婚?この辺の感覚がよくわからないのですが、この当時まだ、平安時代の末期のこと、男女の営みについては、周囲が見て見ぬふりをするような、かなりおおらかな風習だったのかもしれません。結婚も早かったみたいで、12、3才で夫婦になるというのも普通だったらしい。なので、まあ、許してやろう。ということで、先へ進みます。

二人の息子、千鶴が3歳になった時、ということは、頼朝さんが、17、8のころのことか。大番役を終えて京から戻った祐親は、この事実を知り、激怒します(そりゃーそうだわな)。そして、「源氏の流人を婿」と噂されて平家のお咎めがあった時はどうするのだ」と言い、郎党らに「その子供を伊豆の松河の奥にある白滝の底に沈めてこい」と命じます。郎党たちは、強くためらいますが、主君の命ということで、結局どうすることもできず、泣く泣く千鶴を滝に沈めてしまいます。

八重姫自身はというと、祐親(ひどいヤツなので、このへんから呼び捨てにすることにします)によって伊豆の小豪族で、「江間小四郎」という人のところに、むりやり嫁がされてしまいます。

頼朝さんは、深く嘆き悲しみ、祐親を討とうと思う気持ちも沸くのですが、そのころ既に、「平家打倒」を信念にしていたので、「小怨よりも大怨」と自分をなだめ、忍従の日々を過ごします。

そんな中、祐親がさらに頼朝を討つべく郎党を差し向けるのではないか、と知らせてきた人がいます。乳母の比企尼の三女を妻としていて、祐親の次男である伊東祐清という人です。

これを聞いた頼朝さん。祐清さんが成人のときに烏帽子親をしてくれたという、北条時政の邸に逃れることにします。時政の下で暮らすようになった頼朝は、やがてみなさんもご存知のとおり、時政の長女政子と結ばれることになるのです。

ところで、その後八重姫さんはどうなったか。江間小四郎さんのところへ嫁がされていましたが、頼朝さんへの未練を捨てきれず、とうとう数ヶ月で嫁ぎ先から実家へ出戻ってしまいます。そして、意を決し、侍女と共に頼朝が匿われているという時政の館へやってきます。しかし北条家の家人に、頼朝はもう政子と結婚した、と冷たく門前であしらわれ、追い返されてしまいます。

すでに嫁ぎ先も飛び出し、いまさら実家へ帰ることもできず、しかも頼るよすがの頼朝さんにも会うこともできず、八重姫は悲嘆にくれ、とうとう北条の館のすぐ近くを流れる狩野川の真珠ヶ淵というところから身を投げてしまいます。一緒に同行していた侍女たちもあとを追って自刃したということです……

八重姫は地元の人たちによって、現在、真珠院というお寺が建つあたりに供養されました。今でも真珠院では八重姫の祠があり、6人いたという、侍女の供養碑があるそうです。

と、いうことで、長くなってしまったので、この辺で終わりにしたいと思います。この真珠院は、この蛭ヶ小島の近くの山すそにあるようです。この近辺には、かつての北条氏の館の跡や、ゆかりのお寺、北条政子が産湯をつかった井戸とか、北条氏と頼朝さんゆかりの観光スポットがまとまってあるようです。今回は時間がなくって、蛭ヶ小島だけになりましたが、今度じっくり時間を作ってまた行ってみたいと思います。

今日は一日なんとか天気はもちそうです。庭いじりにはもってこいかも。梅雨が明けるまであとどれくらいでしょうか。だんだんと夏の強い日差しが恋しくなってきました……

日蓮 ~伊東市

 蓮着寺前の海岸

雑木、雑草を抜き、ようやく庭が作れる状態になってきたので、あちこちのホームセンターへ行っては、植木を買い込んできています。先日は、お隣との境界にキンモクセイを植えました。植樹は本当は、まだ寒い時期の2~3月のころがいいと聞きますが、強い日差しもなく、適度な湿度が保たれる梅雨時も、さほど悪くないのだとか。暑い夏が来てしまう前に、主だった庭木を植えてしまいたいところです。

どんな庭にしようかなあ、といろいろ考えてみているところなのですが、どうもイメージがわかん。しかし、手前に向かってやや斜面になっている庭なので、その高低差をうまく使うと良い庭になるのかも。先日行った富戸の四季の花公園も海に向かうなだらかな斜面をうまく使って公園づくりをしていましたっけ。

その四季の花公園をもう少し南に行ったところに、蓮着寺というお寺があります。公園からも遠目には見えたのですが、日蓮宗のお寺ということで、とくに興味もなかったので今回は訪問を見送りました。

ところが、先日、テレビ東京の「なんでも鑑定団」の録画を見ていたら、この中に日蓮上人の「坐像」なるものが登場。その中で伊豆へ流罪された、などと解説しているではありませんか。

こりゃあ、なんかそれについて調べてみい、ということなのかもしれないと思い、さっそく調べてみると、この蓮着寺、その昔、日蓮上人が鎌倉幕府ににらまれて、流罪になった地に建てられたのだそうです。日蓮さんといえば、日蓮宗(法華宗)の宗祖で、同時代の親鸞や法然と並び、現在でも偉人とされる宗教家のひとりです。現在では、330万人もの信徒がいるといわれる大宗教に成長した日蓮宗ですが、これを提唱した日蓮さんは、このとき、49歳。この当時としては結構高齢です。

で、なんでにらまれていたかというと、その当時の鎌倉幕府の執権、北条時頼に提出した、「立正安国論」なるものが、幕府批判ととられたため。

そういえば、中学校か高校のときに、「立正安国論」って出てきたよな~と思いつつさらに調べを進めると、日蓮さんは、この論文の中で、その当時のメジャー宗教であり、法然さんが提唱した浄土宗を非難したのだとか。このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けるとまで言い切り、逆に日蓮さんのとなえる法華経を中心とすれば国家も国民も安泰となる(立正安国)と主張したのです。

この論文は、浄土宗の門徒を怒らせ、僧ら数千人により居宅を焼き討ちされます。このときはなんとか難を逃れたものの、禅宗を信じていた北条時頼からも「政治批判」と見なされ、翌年に伊豆へ流罪となったというわけ。

流罪といえば、かの源頼朝も、伊豆へ流罪になったことがありますが、この時代、伊豆って政治犯を放逐するような場所だったんですね。

その伊豆に流罪となった日蓮さんが置き去りにされたのが、この蓮着寺近くの烏崎というところの海の上、「俎岩(まないたいわ)」というのだそうです。今もその岩は残っているらしく、ネットで見たのですが、人が一人立つのはちょっと無理かな、と思うほど小さく、しかもざんぶざんぶと波をかぶっています。その昔はまだ侵食されておらず、もっと大きかったのかもしれません。

しかし、そこをたまたま通った、漁師?の弥三郎という人の小舟が通りかかって、日蓮さんは助けられます。以後、この地方に拘留されることになりますが、一年九ヶ月後、幕府に許されて赦免となり、鎌倉へ帰っています。

で、この蓮着寺は、後年の室町時代、日蓮さんのお弟子さんが、宗祖の足跡をたどっていたところこの地をみつけ、地元の古老などの話を聞いて確認した上で、ここに寺を建てたのだとか。

お寺の敷地は21万坪もあって、天然の樹木に囲まれ、樹齢千年を超えるやまもも(揚梅木)の大木や樹齢百年の椿の木、薮椿の群生が有名なのだそうで、今度機会があったら行ってみようかどーです。

ところで、日蓮さんが伊豆へ流されたのは1261年ですが、その前年の1960年には、かのフビライ・ハンが即位して、モンゴル帝国を樹立しています。立正安国論で海外からの脅威を説いた日蓮さんですが、奇しくもその予言どおり、1267年には、高麗の使節団がモンゴル帝国、つまり、蒙古の新書を持って来日。その後も68、69、71年と続けざまに使節が来日して親書を日本側に渡しています。来日の目的は、名目上、通商ということだったようですが、実際には領土拡大のための侵攻のための布石でした。

1268年に蒙古の使節団が来たとき、日蓮さんは幕府に元寇の襲来の可能性があることを重ねて進言していますが、時の執権、北条政村はこれを無視。逆に幕府を批判したとして、1971年には今度は佐渡へ飛ばされます。

そして、1274年の秋、10月20日に福岡に大元(蒙古)と高麗の軍隊が進行、いわゆるひとつの「元寇」が勃発します。その後結構、激しい戦闘も行われた場所もあったようですが、蒙古軍はたった一日で撤退。その原因は台風だったのではないか、というのがもっぱらの通説ですが、蒙古軍の中の意見のくいちがいによるものだという説もあります。

実は、この蒙古が襲来したその年の春に日蓮さんは、放免されています。その理由は調べてみたけれどよくわからなかったのですが、時の執権が北条政村から時宗に代わっています。この時宗さん、蒙古からの使節団がたびたびやってくる頃に第8代の鎌倉幕府執権として就任していますが、なかなか優秀な人物だったらしく、使節団の要求も適当にあしらって追い返しています。

もっともそのせいで蒙古を怒らせたのでは、という説もあるようですが、後世の人物評価としては、その後二度にわたる、蒙古襲来を防いだ「英雄」というイメージが定着しているみたい。2001年には、狂言師の和泉元彌さん主演のNHK大河ドラマ「北条時宗」が放映されるなど、この時代のヒーローとみる向きもあるようです。

ちなみに、この大河ドラマで、第7代執権、北条政村役をやったのは、伊藤四郎さん。劇中では、食わせ者であり、のらりくらりとした人物として描かれていたそうです(私はこれを見ていません)。執権となった際には、老年になってからの就任であったために小躍りして喜んだとか、無能だったくせに、執権の座を失ったあとも、ちゃっかり時宗に連署として補佐役として君臨したとか、あまりいいイメージでは扱われていません。

実際にもそんな人物だったのかも。日蓮さんのような優秀な人を流罪にしたのも、なんとなくわかるような気がします。史実では、政村さんの生母は、かつて執権継承に我が子を食い込ませようと策謀した咎(とが)で北条政子によって追放されています。そんな母親を持つ息子ですから、あまり高級とはいえない人物だったのではないでしょうか。

ちなみに、この劇中での日蓮役はというと、奥田瑛二さんがやっています。実際にドラマをみていないので、どんなふうに演じたのかよくわかりませんが、奥田さんなら、新進気鋭の宗教家というイメージをうまく表現されていたのではないでしょうか。

さて、1274年の春に放免されて鎌倉へ帰った日蓮さんですが、その後、最も信頼していた弟子で、甲斐の国の地頭、「波木井実長」さんという人の領地に行きます。そして、その領地のひとつ、身延山を寄進され、ついに日蓮宗の総本山、身延山久遠寺を開山するのです。

この久遠寺のある、現山梨県身延町は、富士山のすぐ西側にあって、伊豆からもそう遠くないところです。私もかつて亡き妻と一緒に訪れたことがあるのですが、標高1153mの山の頂上にあるこのお寺へ行くには、ふもとから登山するか、もしくは、片道7分のロープウェイを利用するのですが、いずれにせよ大変です。ロープウェイを利用したとしても、半分は登山しなくてはならず、また、最後に本堂へ上がるには、急な石段を登らなくてはいけません。この石段、何段あったか覚えていませんが、100段以上はあったと思います。かなりの段数です。

実は、このとき、亡き妻のおなかには息子が宿っており、そのとき二人ともそのことを知りませんでした。そんな体なのに急な階段を上っても大丈夫だったくらいだから、丈夫な子供が生まれたんだ、とあとで二人で笑い合ったものですが、よくよく考えてみると冷や汗ものです。

1277年の9月のこと、この山頂にある久遠寺からの下山中、日蓮さんがお弟子一同に説法をしていたとき、「七面天女」が現れたという伝承が残されています。

七面天女とは、七面大明神が正式名称で、久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになった神さまです。その七面天女が日蓮さんの目の前に現れたことの顛末というのは以下のとおり(ウィキペディアより引用。筆者により若干の編集)。

9月、身延山山頂から下山の道すがら、現在の妙石坊の高座石と呼ばれる大きな石に座り日蓮は、信者方に説法をしていました。その時、一人の妙齢の美しい娘が熱心に聴聞していたそうです。「このあたりでは見かけない人であるが、一体だれであろうか」と、一緒に供をしていた人達はいぶかしく思いました。

日蓮さんは、一同が不審に思っているのに気付いていましたが、読経や法話を拝聴するためにその若い娘が度々現れていたことも知っていました。そして、その娘に向かって、「そなたの姿を見て皆が不思議に思っています。あなたの本当の姿を皆に見せてあげなさい」と言いました。

すると、娘は笑みを湛え「お水を少し賜りとう存じます」と答えたので、日蓮さんは傍らにあった水差しの水を一滴、口に落としたそうです。すると、なんと今まで普通の姿をしていた娘が、たちまち緋色の鮮やかな紅龍の天女の姿に変じていったのです。

そして、「私は七面山に住む七面大明神です。身延山の裏鬼門をおさえて、身延一帯を守っております。末法の時代に、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、その苦しみを除き心の安らぎと満足を与えます」と言い終えるや否や、七面山山頂の方へと天高く飛んで行きました。その場に居合わせた人々は、この光景を目の当たりにし随喜の涙を流して感激したということです。

無論、この出来事が本当かどうかはわかりませんが、それまで苦難の人生を歩んできた日蓮さんに対して、天が最後に与えたご褒美だったのかもしれません。

1982年の9月、日蓮さんは、病を得て、地頭の波木井実長さんの勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山します。10日後には、武蔵国の池上宗仲という人の館(現在の本行寺)へ到着。池上さんの館のある谷の背後の山上にお堂を開き、長栄山本門寺と命名します。

これが、日蓮さんが最後にやった仕事です。10月8日には、死を前に6人の弟子を後継者に定め、この弟子達は、のちに六老僧と呼ばれるようになります。
10月13日、旧暦ですから、現在の11月下旬の午前8時頃、池上邸にて入滅。享年61(満60歳)。

今日は、「歴史をひもとく」シリーズになってしまいましたが、改めて思うに、伊豆はどこへ行っても歴史のエピソードの宝庫です。自分でものめりこむほど面白い出来事に出合うとついつい、時間を忘れてそれを調べてみてしまったりします。それにお付き合いいただくみなさんも大変だと思いますが、お暇があればまた付き合ってやってください。

そうそう、この間ちょっと触れたペリーさんのお話も気になります。また今度改めてアップしましょう。

あの世からのプレゼント ~伊東市

昨日紹介した城ヶ崎海岸の門脇埼には、「星野哲郎」さんの歌碑なるものがありました。うん?銀河鉄道999だっけ?何で? と一瞬思いましたが、こちらの主人公は「星野鉄郎」。文字が違います。

歌碑はふたつあって、そこに書かれている歌詞は、「城ヶ崎ブルース」と「雨の城ヶ崎」なるものでしたが、どんな歌だっけなーとさっぱり思い出せないので、ウチに帰ってから調べてみました。すると、城ヶ崎ブルースのほうが1968年(昭和43年)、雨のほうが、1986年(昭和61年)にリリースされた曲みたい。両方ともロスプリモスというグループが歌っていたようなのですが、その名前にはおぼろげな記憶があるが、歌の内容がどうにも思い出せません。

ところが、ウィキペディアに、「ラブユー東京」という大ヒット曲がある、と書いてあるのを見て、ようやく思い出しました。「ラービュー、らあびゅー、なみだぁぁ~のとぉぉぉぉきょー」というヤツですな。昔、テレビでよく流れていました。しかし、この曲のあとはあまりヒット曲がなかったみたいです。覚えていないはずです。

さて、「城ヶ崎ブルース」と「雨の城ヶ崎」とも作詞をしたのが、星野哲郎さんということなのですが、大変失礼ながら、こちらもどういう方かほとんど記憶にない。が、確か数年前に亡くなったという報道があったと思ったので調べてみたところ、案の定、おととし(2010年)の11月に亡くなっています。

出身地は・・・と思ってみると、おっ!わが心のふるさと、山口県ではありませんか。山口県東部の岩国市にほど近い周防大島(すおうおおしま)というところでお生まれになったようです。

私も仕事やプライベートで行ったことがあるところなのですが、みかんの栽培で有名な温暖な島で、なかなかひなびたいいところです。広島などの大都市にも近いためか、ここに別荘地を求める人もおり、私もその昔、いい別荘ないかな~と調べたことがあります。瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぎ3番目に大きい島だそうで、島とはいいながら、大島大橋という橋で本土と結ばれていてクルマでいけるので、交通の便は良好。しかし、瀬戸内海に浮かぶ島ということで、夏の暑さはたまらんだろう、ということで断念しました。

幕末には、長州と幕府が戦った、いわゆる「四境戦争」の舞台のひとつであり(芸州(広島)口、石州(島根)口、小倉口、そしてここ)、軍艦2隻で押し寄せてきた幕府軍と奇兵隊を核とする長州軍が、9日間もの間、この周防大島沖で激戦を続け、ついに長州軍が勝利した、という歴史があります。

また、明治時代にハワイへの移民が多かったので有名で、1885年(明治18年)~1894年(明治27年)の10年間で山口県からは、10,424人が移民。うち、周防大島のある大島郡からは、3,914人もの方がハワイへ渡っています。都道府県別では、全国で29,084人のうち、広島県(11,122人)、山口県(10,424人)、熊本県(4,247人)、福岡県(2,180人)、新潟県(514人)の順だそうで、周防大島出身の人が13%もいる!これは結構な数字です。

この広島や山口からのハワイへの移民については、私自身もハワイと縁があるので大変興味深いところ。なので、また日を改めて書いてみようかと思っています。

話が飛んでしまいました。星野哲郎さんのことです。実はどういう人かよく知らないということで、先ほどのロスプリモスさん同様、ネットでさらに調べてみました。そうすると、代表曲といわれるものには、まあ、あるわあるわ。昔懐かしい曲がたくさん。私が知っていて、覚えている歌といえば、

北島三郎さん、「函館の女」
水前寺清子さん、「涙を抱いた渡り鳥」「いっぽんどっこの唄」「三百六十五歩のマーチ」
小林旭さん「昔の名前で出ています」
都はるみさん「アンコ椿は恋の花」
村田秀雄さん「柔道一代」
美樹克彦さん「花はおそかった」

などなど。なるほど60年代、70年代を代表するような有名な歌ばかりです。しかし、晩年は演歌での作詞が多かったらしく、それで名前をよく知らなかったらしい。演歌・・・好きな人は好きなのでしょうが、私的にはあまり聞かないジャンルです。

さて、星野哲郎さんは、1925年(大正14年)生まれだそうで、私の父とほぼ同じ年齢(大正15年生)。生まれた周防大島は、瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぎ3番目に大きい島だそうですが、大きさ的には10km四方ぐらいの大きさ。結構高い山があり、最高で600m級の山々が連なります。山以外は狭い丘陵地ばかりなので、人が住めるところといえば、海岸部のごくわずかの平地。しかもそれほど多くありません。とはいえ、現在の人口は2000人弱とのことですが、ハワイへ移民を送り出す前はもっとにぎやかだったに違いありません。

その周防大島で、生まれ育った星野さん。1歳か2歳で両親は離婚、母が教員として中国へ渡ったため、祖母に育てられたそうです。小学校からずっと、海を間近に見渡す教室で学んでいたそうで、大きな商船が沖を過ぎるたびに、「あの船に乗ると、世界へ行けるんか、ええのう、って、いつも思った」。とか。

成人を前にして、真珠湾攻撃から日米開戦、泥沼の戦争に突入していった時代を周防大島で送った星野さん。戦争が終わると、少年のころの夢をかなえるべく、清水高等商船学校に入学します。

この、清水商船高等学校、その時代、東京高等商船学校、神戸高等商船学校と合わせ、船乗りになるための登竜門だったようですが、その後、東京高等商船学校などに併合されて廃校になっています。その後東京商船大学になり、現在は東京海洋大学に名前を変えています。

その学校が清水にあったという頃のことを少し調べてみたところ、チョーびっくり。現清水市の折戸(おりど)という場所に開校していたのですが、現在その跡地には、私の母校が建っていることを知ったからです。前にも書きましたが、私は大学時代の2年間を沼津で過ごしあと、大学3年からの2年間をこの清水で過ごしています。学校組織こそ違えど、星野さんも同じ場所で過ごした一時期があったことを知り、一気に親近感が増しました。

折戸は、清水港を囲うように海に突き出た三保半島という半島のちょうど根元に近いところにありますが、私はさらに半島のさきっぽのほうの三保というところに住んでいました。羽衣の松という観光名所があり、天女がここに下ったという伝説があるところです。

そういえば、折戸にあるこの母校の片隅に、何かの石碑か銅版かが置いてあったような記憶があります。それにもしかしたら、商船高等学校時代のことが書いてあったのかもしれません。それにしても、城ヶ崎海岸でたまたまみつけた歌碑の歌詞を書いた人が、同じ場所で学んでいというのは、どういうご縁なのでしょうか。さらに星野さんのことを知りたくなり、いろいろ調べてみることにしました。

望みどおり、商船学校に入った星野さんですが、それからが苦難の人生のはじまりでした。肺浸潤で学校から休学を告げられ、半年遅れでなんとか卒業。戦後の混乱の中ながら、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ食品)に入社。遠洋漁業の乗組員となります。念願の船乗りになった喜びはひとしおだったでしょう。ところが、それからまもなく、今度は腎臓結核で右の腎臓の摘出……。術後が思わしくなく、船乗りになるのを断念して島に戻るはめになります。

病床で海を眺めながら過ごした、4年の療養生活は苦しかったようです。しかし、その療養生活のおかげで、生涯の妻、朱美さんに出会うことになります。筏(いかだ)八幡宮という古い神社が星野さんの本家だったそうですが、朱実さんは旅順工科大学教授のお父さんとともに戦前、満州へ渡り、戦後帰国。星野さんが島に戻っていたこのころには、ここで暮らしていました。星野さんとは、遠縁で子どもの頃から互いを知っていたのだそうです。

本家の社務所の大広間に手回しの蓄音機があって、娯楽の少ない島では若者のたまり場だったとのこと。その頃から、星野さんは詩や小説を書き始めていたようですが、朱美さんも典型的な文学少女だったらしく、やがてふたりはひかれ合うようになります。

病気で療養中の星野さんですが、詩作の傍ら、かたっぱしから音楽雑誌などの懸賞曲に応募し始めます。生活費を稼ぐためです。そして、昭和28年(1953年)、投稿した「チャイナの波止場」が入選。初めてのレコードが出されることになります。長く暗いトンネルを抜け、ようやく明るい日が射してきたのです。

その頃、星野さんと朱美さんはすでに熱烈なる恋愛関係にあったようです。しかし、朱実さんが東京の文化放送に就職することになったため、星野さんが作詞家として上京するまでの2年間、300通余りの恋文が島と東京を行き交うことになります。

そして、作詞家としての仕事にある程度めどがたってきた、星野さん。上京後、昭和33年(1958年に)ついに朱美さんと結婚。星野さん33歳、朱美さん27歳のときの慶事です。さらに、「思い出さん今日は」(島倉千代子)のヒットで日本コロムビア専属の作詞家になるなど、めでたいことが続きます。

その後の星野さんは、朱美さんの内助の功もあって、大作詞家としての道をひたすら上り詰めていきます。星野さんが作った歌で発売されたものだけで3800曲といいますから、すごい数です。

とはいえ、それからも、心筋梗塞や腹部大動脈瘤と何度も大病に見舞われた星野さん。人生も病気も「一進一退」の繰り返しです。昭和43年(1968年)の水前寺清子さんによる大ヒット曲、「三百六十五歩のマーチ」は、そうした自分の七転び八起き人生を唄ったものだそうで、星野さん自身、自分の信条が一番詰まった歌だったと述懐していらっしゃいます。

「一日一歩。三日で三歩。三歩進んで 二歩さがる」。そういう人生を送る星野さんのそばには、いつも、愛妻、朱実さんがいました。

しかし、平成6年(1994年)。星野さんが69歳のとき、突然朱美さんが逝ってしまいます。くも膜下出血で急逝されたということで、63歳。これから楽しい老後を二人で過ごそうというときです。

69歳とはいえ、まだまだ作家魂を燃え上がらせて活動的に作詞をしていた星野さんですが、最愛の妻の死に、もう二度と作詞はできないだろうというほどの痛手を負います。

実は、ここいらのことは、星野さんの自伝「妻への詫び状(日経BP社)」という本に書かれているそうなのですが、すいません。私はまだこれを読んでいません。ですが、その内容があちこちのサイトに紹介されているので、これらをもとに以下にまとめてみます。

星野さんがそんな失意の中から立ち上がり、再び歌を作り始めるようになったきっかけは、あの結婚前に奥さんと交わした300通を越える手紙なのだそうです。

奥さんがまだ生きていらっしゃたある日のこと。星野さんが「僕らのあの手紙、いつか一冊の本にしたいね」と話したのだそうです。すると、朱美さん、「あれはもうありません。すべて焼きましたから」と答えたそうです。それを聞いてかなり落胆した星野さん。

しかし、実はその手紙が焼かれないでそのまま保管されていることを、朱美さんの死後知らされます。星野さんの子供さんが、「そんなに簡単に物を捨てる人じゃない。きっとどこかにしまってあるはず」と信じ、それを見つけ出したのです。奥さんの死後2年ほどが経っていました。

星野さんは、その手紙を読み返すことで、再び歌を作ろうという気力が蘇ってきたそうで、そして「焼かれることなく我が家に眠っていたこの恋文の束は、彼女が僕にくれた最期のプレゼントになった」と自伝に書かれているそうです。まさにあの世からのプレゼントです。

それからというもの、星野さんは、それを大事に箱に入れ、折に触れて彼女からの手紙を一通ずつ読み返すようになります。鞄に入れて、旅先で読むこともあり、それを読み返すたびに、涙が止まらないことも。そして、「僕よりもずっと“詩人”じゃないか……」とつぶやかれたとか。

スピリチュアル的な観点からみると、もしかしたら、奥さんは死後、落胆する星野さんを見て、立ち直ってもらいたく、子供たちにかつてのラブレターが見つかりやすいように仕向けたのではないか、と思うのです。子供さんたちの枕元に立ち、お父さんが探していた手紙は、家の中のどこかにあるよ…… と啓示したとか。

実際にそんな話があったなんてどこにも書いてありませんが、その手紙類はクローゼットの奥のほうにしまってあったということです。あちらに行ってからも愛する旦那さんを見守り続け、落胆する彼をみてなんとか立ち直らせたい。そう願い、子供たちに手紙のありかをささやいた、としても不思議ではないように思えます。

星野哲郎さんと奥さんの朱美さんにまつわるお話で私が知りえたのはここまでです。なかなか素敵なお話だと思いませんか? 本当はもっと、いろんなドラマがあったのではないかと思うので、今度ぜひ「妻への詫び状」、買って読んでみたいと思います。ちなみに、このお話、2006年に舞台化までされたようです。再演はないのでしょうか……

しかしそれにしても、やはり石碑を残すだけの大業を成し遂げた人だけのことはあるなあ、と改めて思う次第。生涯3800曲というのもすごいことですが、星野さんが生み出した数々の名曲は、あの城ヶ崎海岸の歌碑と同様、ほかにもきっと多くの場所で人目にふれていることでしょう。

奥さんが残した300通の手紙というのも読んでみたいものです。そういえば、私にも亡き妻が残した大量の手帳があることを思い出しました。整理しなければならないと思っているのですが、なかなかその気になれません。でも、星野さんご夫婦にあやかって、いつかは取り出してみたいと思います。そこにはもしかしたら、あの世からのプレゼントがあるかもしれませんから。

城ヶ崎海岸見聞記 ~伊東市

先週の土曜日、以前から気になっていた、「伊豆四季の花公園」へ行ってきました。今、ここでもあじさい祭りが開催中、という広告をタエさんが新聞でみつけてきたのは1週間ほどまえ。その前にも下田公園へあじさいを見に行っていますが、以来、「花見」づいているわが夫婦としては、これを見逃すわけにはいかんだろう、と妙な義務感を共有している今日このごろなのです。

場所は東伊豆、伊東から南へ15kmほど離れた「富戸(ふと)」というところらしい。いわゆる城ヶ崎海岸といわれるところです。

この海岸、すぐ西側にある「大室山」という山が、その昔火山だったころに噴火したときに流れ出た溶岩でできたそうです。山から流れ出た溶岩が海にまで達し、その後長い時間をかけて、波がこれを侵食。そしてそうした自然の淘汰が、絶壁が連なる入り組んだ美しい海岸線を作りあげたもので、伊豆の観光スポットとしても一二をあらそう名所となっている場所。

どこからどこまでが城ヶ崎海岸、という定義はなさそうですが、一番北側では、富戸港といわれる漁港があるあたりから、南側では、伊豆急行線の伊豆高原駅があるあたりの海岸線までを指すみたい。

この富戸港のすぐ南側には門脇埼という岬があり、ここに灯台が設置されていることから、ここを中心に観光地としての整備がなされているようなのですが、クルマのナビで「四季の花公園」をさがしたのですが、みつからず、とりあえず、この灯台をめざして修善寺を出発。午後2時半ころに現地へ到着しました。

富戸港の脇を通りすぎるころから、道路のまわりには低木がびっしり茂ったブッシュが広がりはじめ、その合間あいまに別荘らしいお宅やペンション、土産物屋などなどが散在していて、なるほど観光地だな、というかんじ。

道路の脇に目をやると、大小の黒い石がころがっており、それがかつての溶岩だということに気付かされます。この溶岩が風化してできた大地に、草木が長年の間に生い茂ったものだ、とわかると、このエリアに低い木ばかりが育っているわけもわかります。土地が固いために大きな木が育たず、低木ばかりが広がるブッシュになるのです。

灯台横にある公営駐車場へクルマを止め、すぐそばにあった案内看板に目をやると、四季の森公園というのは、この灯台から1kmほど遊歩道を歩いて行った先にあるようです。その昔、「伊豆海洋公園」という名前だったものを最近改名して「伊豆四季の花公園」としたらしい。どうりでナビにも記名がなかったわけです。

灯台脇には観光用のつり橋などもあるのですが、これは後回しにして、とりあえず先に四季の花公園へ行こう、ということで海岸沿いに作られている「ピクニカルコース」という遊歩道を歩くことに。灯台脇の遊歩道スタート地点でも、林間から断崖絶壁の下の海が見えていましたが、歩き進むにつれ、至るところに絶景ポイントがあり、延々と続く入り組んだ絶壁と、この絶壁が押し寄せる波で食されて崩れ落ちた大小の岩や小島が海岸線沿いの至るところに広がり、波が砕けて散る様子はまさに壮観。



釣りのメッカとしても有名らしく、あちこちの岩場で釣り人が長い竿を垂れていましたが、中には、どうやってあんなところへ行けるんだろう、と思うようなところにいる人も。高所恐怖症の私にはとてもできない曲芸です。

壮観な海岸線に魅せられてバシャバシャと写真を撮っていたので、四季の花公園には20分くらいで着くところを一時間ほどもかかって到着。この日は、さほど暑い、というほどではなかったのですが、アップダウンの激しい遊歩道を通ってきたばかりで少々汗をかいていた二人。冷たい抹茶入りソフトクリームをいただいて一服。時刻は3時半になっていました。

この、四季の花公園、夕方からはお客さんが減るのを見越してか、夕方からの入園者には割引がきく、「トワイライト入園」というのを実施中。入場料が半額になるサービスです。その適用時間がなんと、3時半から、というので、超ラッキー!と喜ぶ二人。さきほどのソフトクリーム代を差し引いてもおつりが出るわい、と、ほくそえむケチな夫婦なのでした。

さて、この公園、海岸線に突き出るように飛び出した小さな半島のようなところに作られており、なだらかに海に向かう斜面をうまく利用して造園がされています。なかでも今回の我々のおめあてのあじさいは、最大の「売り」らしい。入口で貰ったパンフレットによると、230種以上の日本が原種のあじさいがあるそうで、その種類数は日本一とか。

そのあじさい園は最後に見ることにして、まずは入口近くにある西洋花壇やハーブガーデンを見学。規模は大きくないのですが、植栽係の人が10人ほどもいて、あちこちで、せっせせっせとお花の手入れをされているせいか、どの花壇もきれいに整備されています。さすがに「花」を売りにしている公園だけのことはある。

温室の中に入ると、今ブーゲンビリアが真っ盛りの見ごろらしく、人の背丈の二倍ほどある高さの株の上にびっしりとピンク色の花を咲かせていてなかなか見事です。ふだん、ガーデニングショップでみるような観葉植物はほとんど全部あり、しかも、それがみんないつもショップでみているような大きさではなく、巨大に成長しているのにはびっくり。

温室内だけではなく、屋外にもこうした熱帯植物が植えられていて、圧巻なのが、南アメリカ原産だという「オンブー」の木。実は、「木」ではなく、草なのだそうで、成長が速いので、すぐに10mほどの高さにもなるとか。こういう木、いや、草が、野外で普通に育っているのは、あたたかい伊豆ならではのことです。

園の一番奥には、「見晴らしの丘」という広場があり、その先端には展望台もあって、そこに立つと、遠くに伊豆大島や利島?らしいものも見えます。この日はガスが少しかかっていてあまり遠見はきかなかったのですが、晴れた日には伊豆七島すべてが見えるらしい。また、運がよければ沿岸を泳ぐイルカもみることができるそうなのですが、この日は残念ながら見ることはできませんでした。

そして、最後に期待のあじさい園を見学。結構アップダウンの激しい小道の両側を歩くと、我々がいわゆる「がくアジサイ」と称する少しまばらに花をつけるあじさいが展開されていきます。ここ伊豆半島や伊豆近辺の島などが原産のあじさいも多く、その名も「伊豆の華」、「城ヶ崎」「八丈千鳥」など。我々がふだん見慣れている、おまんじゅうのような形のあじさいは少なく、例えるならば、花火のようなかんじの花が多いようです。



そのためか、全体的に下田公園のような華やかさはないものの、薄暗い園内にひっそりとさく花々は、控えめに挨拶をしてくれているようで、なかなかかんじの良いもの。ただ、もうさすがにあじさいの季節は終わりに近づいているようで、枯れているものや茶色くなっているものも多く、もう少し早く来ればもっと楽しめたかな、といったところでしょうか。

とはいえ、二人で500円しか払わず、これだけの花をみせてもらったことに大満足のふたり。帰路は同じピクニカルコースを通って、灯台までを引き返しました。

灯台に到着したのはほぼ5時。日が長くなった昨今は、まだまだ明るい時刻です。灯台の展望台は5時までしか入場できませんでしたが、せっかく来たのだから、ということで、灯台のすぐ脇にある、つり橋へ向かいました。このつり橋、長さ48mとそれほど長くはないものの、海の上の高さ23mだそうで、すぐ真下は、断崖に波しぶきを上げる黒々とした海が見えるスリル満点のしろもの。


この灯台やつり橋のある場所は、「門脇崎」という名称の御崎になっていて、ここは、大室山から流れ出した溶岩の量がとくに多かったらしい。海に流出した溶岩が台地状の地形を作っていて、その風景はといえば、岩・岩・岩、また岩です。ピクニカルコースのあちこちで見えた断崖の景色もなかなかのものでしたが、ここの豪快さには負けるかんじ。灯台の真下の岬の突端までごつごつの岩の上を這うようにして歩いていくと、そこから断崖は真下まで垂直に落ちていて、青黒い海が見えます。高所恐怖症の私にしてはめずらしくそこまで辿りつきましたが、一瞬覗いただけで、すぐに首を引っ込めてしまいました。ドキドキ。やめておけばよかった。

つり橋のほうも、こわいっちゃーこわかったのですが、真下さえ見なければなんとか渡れるほどの幅と安定性があり、とりあえずクリアー。見ると、その先にも断崖絶壁が延々と富戸漁港のほうまで続いて行っているようです。遊歩道もその断崖に沿って作られているらしい。目を沖のほうに向けると、沖のほうには伊豆大島がかなりの大きさで見え、大きなケーソン(注:防波堤を作るための大きなコンクリート製の箱。浮かせて運ぶ。)をけん引するタグボートなども見えます。すぐ目の前には陸地から切り離された大きな岩があり、距離にして、20~30m先なのですが、断崖と海に阻まれてさすがにそこまでは行くことができません。

その岩の上空を無数のツバメ、海ツバメというのでしょうか、キーキーと甲高い声をあげながら飛び回り、空中ショーを繰り広げています。数百羽はいるでしょうか。すごい数です。なんで、こんなに集団で飛び回っているんだろうねーと二人で話していましたが、結論としては、岩の上に群がる昆虫などを飛び回りながら口にしているのでは、ということ。確かに回りには蚊などの小虫が飛び回っているようなので、彼らにとっては、夕方のごはん時のごちそうタイム、ということなのでしょう。


あたりは、だんだん暗くなりつつあり、よくみると、灯台にはもう灯りが点っています。夕方遅いこともあり、今日はここまでにしようということで、帰宅の途につくことに。ショートトリップではありましたが、伊豆の海の豪快さとあじさいの繊細さの両方を満喫したふたり。一路、わが町修善寺へ向けてクルマを走らせたのでした。

この日は、門脇埼から富戸漁港までの残りの遊歩道、ピクニカルコースを踏破できなかったので、次回はぜひ、ここを歩いてみたいと思っています。それにしても、もう7月になります。早いもので今年も前半戦が終わり。波乱万丈だった今年前半と今日の短い旅を振り返りつつ、その晩は夜遅くまで晩酌を続けたのでした。