縁日と的屋

毎月25日は、天神様の縁日だそうです。今日は24日ですが、明日がその日です。

天神様とは本来、国津神(地上の神様)に対する天津神(天上の神様)のことであり、特定の神の名ではありません。しかし、平安時代に藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された菅原道真公のことを雷神信仰と結びつけ、以後「天神様」として畏怖・祈願の対象とするようになりました。

道真が亡くなったあと、天変地異が引き続いて起こったことから、道真公は火雷天神と呼ばれようになり、その神霊に対する信仰は「天神信仰」と呼ばれ、学問に造詣の深かった道真を祀り、「学問の神様」とした神社が各地に造られるようになりました。

この、菅原の道真が亡くなった日が、旧暦の2月25日だったことから、毎月この日が天神様の縁日になりました。縁日というと、「祭り」というイメージをお持ちの方が多いと思いますが、とくに天神様に限らず大きな神社やお寺では縁日になると屋台の出店が並び、大勢の人が集まってにぎやかな雰囲気になります。

しかしそれにしてもそもそも「縁日」とはなんだろう、と調べてみたところ、縁日とは神社や寺の創建やその寺社に祭られる神仏の降誕などの特別な日に行われる祭典、供養の日のようです。

元々は「会日(えにち)」と言ったようですが、それが訛って「縁日(えんにち)」になったようです。そもそも「縁日」は、寺社に祀られた神仏と人間の間の「縁」が結ばれた日と言う意味で使われるようになったものです。

この日は、祀られた神様や仏様にとっても特別な日なので、この日参拝した人には、特別なご利益があると考えられ、この「特別なご利益」を授かろうと、この日に参拝する人が増え、多くの人が集まるところに目をつけた寺社が商売人に屋台の出店を許し、そのテナント料を徴収するようになりました。

なので、天神様の縁日に行くと、とくに学問の神様ということですから、受験生や何等かの資格を取ろうとしている人にとっては合格の可能性が高くなるに違いありません。

ところで、この縁日に出回る「屋台」なのですが、これはいったいどういう人たちが運営しているのだろう、とかなり前から気になっていました。

調べてみたところ、近年のこうした屋台は第二次世界大戦後、闇市の屋台が広がっていったのと同時に日本中に広まっていったようです。正月の寺社や縁日など大きな行事の場所にはたこ焼き、焼きそば、綿菓子、磯辺焼、おもちゃなどを売るいろんな屋台が出店しますが、こうした祭りの縁日等大きなイベントに出店する屋台はたいがいが「的屋(てきや)」と呼ばれる人たちによって営まれている場合が多いとのことです。

現代の屋台の形式そのものは第二次大戦後の闇市の名残りのようですが、この的屋そのものはかなり古い歴史があるようです。「的屋」とは、思いもかけずに儲かることや、一山、当てようと目論んだことが大当たりすることを指し、「的矢」になぞらえて使われるようになった言葉だそうです。

祭りや市や縁日などが催される、境内や参道、門前町において屋台や露店で出店して食品や玩具などを売る小売商や、射的やくじ引などを提供する街商、大道芸をやって客寄せをし商品を売ったり、芸そのものを生業にする大道商人らのことを総称して「的屋」といいます。

的屋の人たちは、祭りや市、縁日などが催される、境内、参道や門前町のことを「庭場」と呼んでいるそうで、的屋の人たちの中には、この庭場において御利益品や縁起物を売る商売人もいます。

商売人といっても、こうした商売はいわゆる「寺社普請」と呼ばれる相互扶助の一環でもあり、古くは町鳶、町大工といった町人たちが行った冠婚葬祭の互助活動と同じです。

この商売によって彼らが手にするお金も「現金」を手にする感覚ではなく、「ご祝儀」をいただく、という感覚のようで、お寺や神社からの依頼によって御利益品や縁起物を売る行為自体が、神仏の託宣を請けている、という意味を持つのだそうです。

的屋は「露天商や行商人」の一種であり、日本の「伝統文化」を地域と共有している存在でもあります。このため、的屋の人たちは価格に見合った品質の商品を提供するというよりも、祭りの非日常(ハレ)を演出し、それを附加価値として商売にしているという自負があります。

「ハレ」の反対は「ケ」であり、「ハレとケ」は、日本人の伝統的な世界観のひとつです。ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表していますが、「ケ」のほうは「穢れ(けがれ)」のケだという説もありますす。

もともとハレとは、折り目・節目を指す概念であり、その語源は「晴れ」であり、「晴れの舞台」、「晴れ着」などの「ハレ」はこれをさします。これ対し普段着は江戸時代までは「ケ着」といったそうですが明治以降から言葉として使用されなくなりました。

また、現代では単に天気が良いことを「晴れ」といいますが、江戸時代までさかのぼると、長雨が続いた後に天気が回復し、晴れ間がさしたような節目に当たる日についてのみ「晴れ」と日記などに記す風習がありました。

ハレの日はめでたい日ということで、餅、赤飯、白米、尾頭つきの魚、酒などが飲食されますが、江戸時代よりも前は当然これらは高級食材であり日常的に飲食されたものではありませんでした。また、このための器もハレの日用であり、日常的には用いられませんでした。

つまり的屋の人たちが売りに出しているものも「ハレ」を演出する商品というわけで、このためハレの日に屋台で売り出すものは、多少高くても「縁起物」だという感覚が彼らにはあります。それを買う側の我々も高いなーと思いつつも、「まっ、お祭りだし」とたとえ高くてもなんとなくそれを買うこと自体が縁起が良いこと、と感じている、というわけです。

この的屋と呼ばれる人たちの起源ですが、これは思ったよりかなり古くからある商売のようです。そもそも日本では、古くからいろいろな生業において「組」と言う徒弟制度や雇用関係があり、的屋ももともとは、親分子分の関係を基盤にしてできた企業や互助団体であったりします。

零細資本の小売商や、ちょっとやばい人たちに雇われている下働きの人々の団体というイメージもありますが、これに該当しない地域に密着した形や、個人経営や兼業の的屋も多くあるといいます。

地勢的な違いや、歴史的な成り立ちの違いに人と資本の要素が複雑に絡み合って発生し成り立ってきた商売のようで、単に「的屋」としてひとくくりにすることにこそ無理があるとも言われます。が、一般的に的屋の源流とされているものは、だいたい以下の五つだそうです。

猿楽師(奇術・手品・曲芸・軽業・祈祷・占いなどを大道芸として行いながら、旅回りをしていた人たち。太刀まわりや一人相撲など日本古来の芸も含む)

香具師(芸や見世物を用いて客寄せをし、薬や香の製造販売・歯の医療行為をする人たち。野士・野師・弥四と書いて「やし」と呼ぶ場合も。

的屋(「まとや」。これも、「矢師(やし)」と呼ばれ、「ハジキ」ともいわれる。弓矢を使った射的場を営む人たちのことで、射的だけでなく、くじ引きなどの景品交換式遊技を生業にする人たちのことも的屋という。ヤクザの持つハジキ(拳銃)はこれが語源。)

蓮の葉商い(時節や年中行事に必要な縁起物の木の実や葉、野菜や魚、地域によっては獣肉などの季節物や消え物(きえもの)を市や縁日で販売する人たち。)

鳶職・植木職(鳶職や植木職が町場の相互関係の中で、「町火消し」などの特別な義務と権限を持つようになり、「熊手や朝顔」などの縁起物や、「注連縄(しめなわ)やお飾り」などの販売権を持つようになった人たち。現在でもその権利は不文律といわれる。)

ちなみに、上述のうちの的屋では、客が弓矢を楽しむ横で矢を回収することは危険な行為であるということで、関東の的屋の間では危ない場所を矢場(やば)と言うようになり、これが変じて危ない事を「矢場い・やばい」と表現するようになりました。

こうした古来からの営みを行う人たちを総称して「的屋」と呼ぶようになったのがいつのころのことからなのかは、定かではないようですが、平安時代のころには既に上記のような商売は成立していたようであり、この五つの中に「的屋(まとや)」があることから、いつのころからか、これらの商売を総称して「的屋(てきや)」と呼ぶようになったのでしょう。

しかし、その商売の形態が確立したのは明治時代以前の江戸時代のころのようで、こうした人たちはお寺や神社などからの依頼、つまり「託宣」としてこれらの商売を行うようになりました。

この商売の形態を「寺社普請」といいます。江戸時代より古い時代には、人々の暮らしの中心に寺や神社がありました。その定期的な修繕や新設、基盤の拡張をする場合、そのためには多額の費用がかかりますが、これを地域の人々から直接寄付によって募集するのには無理があります。

そこで「祭り」と称して縁日や市を開催し、そこに的屋を招いて、非日常(ハレ)を演出してもらう、つまり的屋に上述のような商売をしてもらうことで儲けてもらうことにしたわけです。

そして、それによって儲けたお金の一部を神社仏閣が場所代として的屋から貰い受け、これによって寺社の修繕や新設を行いました。家を造ったり修繕することを「普請」といいますが、「寺社普請」とは、本来このように的屋に頼んで境内で商売を行ってもらうことをさしたのです。

この方法は、単に地域の人たちから直接寄付を募るよりも効果的で、庶民も「お祭り」と称して夜店や出店の「非日常」を楽しむことができることから、日本全国で大いに流行るようになりました。いわゆる日本の「祭り文化」が生まれ、これが人々の生活を豊かにすると同時に技術を持った商売人としての的屋の人たちもその生活がなりたっていきました。

ちなみに宝くじの起源である「富くじ」も、寺社普請のために設けられた、非日常を演出する資金収集の手段だったといいます。

こうした「ハレ」の場で持たれた「有縁」が「会日」となり、やがて「縁日」という呼称に変化していき、庶民の生活習慣に深く根ざすようになるにつれ、これがもとで各地域での経済が活性化され、定期的な「市」が持たれるようになります。そして的屋を中心とする露天商はますます発展していきました。

神事や、お祓い、縁起といった価値観は、商売する的屋側としても商品に高い付加価値をつけることができる手法として高く評価され、江戸時代の「祭りブーム」と相まって的屋はますます栄えるようになっていきます。その勢いは昭和初期まで続き、第二次世界大戦前の東京都内では、年間に600を超える縁日が催されるまでになり、忌日をのぞき、日に2・3ヶ所で縁日が行われていたといいます。

しかしその後の戦争による疲弊により縁日はあまり開かれなくなりました。お祭り自体は復活するものも多かったにかかわらず、縁日は職業人としての的屋がいなければ成り立たないものであり、これらの的屋の多くが、戦後の貧困によって廃業や転職を余儀なくされたためです。

縁日などという商売はもう古い、というよう戦後世間の風潮もあり、的屋に成る人も少なく、その総数は減少の一途をたどりました。

ただ、かつての的屋(てきや)のひとつであった的屋(まとや)は、現在も温泉場や宿場町に残る射的場として残っているところも多く、こうした「景品交換式遊技場」は、スマートボール(ピンボール)やパチンコの源流ともいわれます。前述したとおり、宝くじの源流は的屋がやっていた「富くじ」屋です。

戦前ほど多くの的屋がいなくなってしまった現代ですが、全くいなくなったかといえばそうではなく、その生き残った後継者たちはいろいろな形態で全国各地で商売をしています。

例えば、「転び(ころび)」というのがあり、これは地面引いた茣蓙(ござ)などの上に直に商品を転ばして売っていたためにこう呼ばれています。新案品と呼ばれる目新しい商品を売る事が多く、その身軽さから、近年では庭場にとらわれず、小学校の下校時にあわせて、子供向けに売り場を開く事もあります。

私も子供のころに下校しようすると学校の入口にたくさんの色をつけた「ひよこ」を売っている行商人さんがいましたが、これがそうです。最近では消えるカラーインクセットやカラー砂絵セット(色別に着色した硅砂と木工用ボンド)、カラー油土の型枠セットなどを販売する的屋さんがいるようです。

また、縁日に良く出ているのが、「小店(こみせ)」といわれるもの。これは売り台が小さく、ほとんど間口がない店で、飴などの「小間物」を扱っており、もともとは市や縁日で前述の「蓮の葉商い」などをやっていた人たちの名残です。

伝統的な的屋で地域密着型の商売なので、地元の人々が既得権をもって商売している例が多く、外から来た的屋さんよりその地域においてはいろいろな条件面で優先されていことが多いそうです。

さらに、縁日などでは、「三寸(さんずん)」と呼ばれ、小店よりももう少し大きいお店があります。売り台の高さが、一尺三寸(約40cm)になっているからといわれ、その昔、渡世人として各地方を渡り歩く的屋家業の人が顔役に世話になる時、「軒先三寸借り受けまして……」と口上をしたからといわれています。

この三寸を運営しているのは、縁日や市や祭りが催される場所を求めて全国を渡り歩き、床店(とこみせ)と呼ばれる組み立て式の移動店舗で商売をする、いわゆる露天商です。個人や個人経営の人たちが集まった「組」もありますが、「神農商業協同組合」の組合員も多いといいます。

「神農商業協同組合」とは、旅回りの的屋の世話や、庭場の場所決めの割り振りや場所代の取り決めや徴収をするための仕組みを組織化したもので、相互扶助を目的とした露天商の連絡親睦団体として全国にいろんな名前の組織が存在するようです。

江戸時代、的屋は「神農」とも呼ばれることがあり、的屋のことを「稼業人」、博徒のことを「渡世人」と呼んで区別していました。「無宿渡世・渡世人」とは、本来は生業を持たない、流浪する博徒を指し蔑まれましたが、的屋については商売を持っているため、渡世人ほど嫌われることはありませんでした。

生業とする縄張りも、的屋では「庭場」といいますが、博徒では「島」と表現するなどの違いがあります。また的屋たちは、個々が持っている信仰は別として、その商売の神様として「神農」という神様を信じ、これを祀っていましたが、これに対して博徒は職業神として「天照大神」を祀っていました。

こうした共通で奉ずる神様を持った的屋たちは、組織として「組」を形成し互助活動を行うようになり、こうした組が各地にある「神農商業協同組合」の前身です。

大工、鳶、土方(つちかた)などの建設業団体や河岸、沖仲仕、舟方(ふなかた)などの港湾労働団体、籠屋、渡し、馬方(うまかた)などの運輸荷役団体と同じであり、そういう意味では、現代の各業界の代表会社で組織する「社団法人」に似ているかもしれません。

しかし、互助活動に対しての「謝礼」を授受する風習があり、こうした表向きは謝礼とされる金銭の授受の中には、いわゆる「民事介入」、すなわち民事紛争に介入し、暴力や集団の威力を背景に不当に金品を得ようとする行為である「ミンボー」にあたるケースも多いのではないかと指摘されています。

的屋の人たちすべてがそういう人たちではありませんが、その一部がやくざと同一視されているのはこれが理由です。現在の暴力団といわれる組織の中でも老舗といわれる組の中には、元をたどればこれらの神農を信奉する的屋業を営んでいたものがあることも事実のようです。

各地の神農会を運営していた世話主のことを「庭主」といいますが、本来、行商人や旅人の場所の確保や世話をする世話人が、集まって組織となり、神農会と呼ばれる庭主の組合がつくりました。が、戦後の貧乏期には円滑な運営をなしえない状態になる者も多く、これらが転じて各地の暴力団の傘下組織となったものも少なくないといいます。

一部には肝心な世話することを怠って何もしない「庭主」や、競合する出店を脅迫し排除したり、挨拶に来るよう呼びつけたり、行商人などから「所場代」名目で金品をたかるものも存在するそうで、こうした行為は博徒と変わりありません。

これらの中には、県などの公認を受けた協同組合として活動している組織もありますが、実際にはヤクザ組織の親分が協同組合理事長を兼任している場合もあり、こうしたケースの場合は協同組合というより親分の私物の組合といった趣きが強いのも事実です。極端な場合には、理事長そのものが替え玉という場合もあるようです。

だからといって、今縁日などで出店をされている方々がすべて暴力団がらみとみるのは早計で、その多くは、その寺社や近くの商店街の了承を得て正規に運営されているものがほとんどです。

こうした縁日で買ったり、飲み食いして支払われたお金の一部はその寺社への寄付金の一部にもなるわけであり、そう考えると、おみくじやお賽銭と同じということになります。

無論、暴力団のような非情な組織の存在を許してはいけません。暴力団組織の排除の機運を高める一方で、こうした「ハレ」の場を演出する場が戦前のようにもっと多くなるよう、
正直な的屋さんがもっと増えるよう、行政なども積極的に関与して、そのしくみを変えていかなくてはなりません。

日本経済の再生は、案外とこうした縁日や市といった日本の伝統的な行事に関わる組織や人々の見直しから始めるべきなのかもしれません

人車鉄道の夜 ~焼津市・藤枝市

大仁まで来ていた豆相線の軽便を牽引した蒸気機関車

今日は二十四節気の「小雪」だそうで、その名のとおり、少し雪が降りはじめるころ、ということのようです。伊豆ではさすがに雪はまだまだ降りそうもありませんが、先日朝ジョギングをしていると霜が降りているのを発見しました。朝晩はもう完全に冬です。

さて、今朝がた、先々週放送されたNHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組の録画をみていました。「知られざる鉄道の歴史」がテーマでしたが、この中で、熱海~小田原間に明治時代に「人車鉄道」というものがあったことを紹介していました。

たしか以前のブログで、その昔東京から名古屋方面へ向かって東海道線を延伸していくとき、小田原から先は熱海方面には丹那山があったためにこちらには延伸できず、御殿場のほうに東海道線を伸ばしていった、という話を書いたように思います。

このとき、小田原から鉄道がやってくるものとばかりに思っていた熱海の旅館街の主たちはがっかり。鉄道が通れば二時間足らずで東京から客が呼び込めるようになり、商売繁盛になると期待していたところ、そのもくろみは足元から崩れてしまいました。

そこで、主たちが寄り合って何か良い知恵はないかと考えたところ、ある旅館の主が自分たちの手で鉄道を作ろう!と言いだしました。しかし、何分素人連中ばかりの集まりのため、誰かに相談したほうがよかろう、ということで、ちょうどそのころ、療養のために熱海に滞在していた「雨宮啓次郎」という人物に相談することにしました。

この雨宮敬次郎という人ですが、明治時代の実業家・投資家で、甲州山梨県の出身。結束して商売をすることで有名ないわゆる「甲州商人」の一人で、この当時「甲州財閥」とよばれる実力者集団のリーダー的存在でした。

その後「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれるほどこの当時の経済界で大物視されるようになる人ですが、まず明治のはじめのころ(1879年(明治12年)に東京深川で設立した蒸気力による製粉工場で成功をおさめました。

その後この事業を発展させ、1887年(明治20年)には主に軍用小麦粉製造を目的とする有限責任日本製粉会社を設立しました。この会社が、1896年(明治29年)に名前を改めて発足した「日本製粉株式会社」であり、現在も日本の代表的な製粉会社であることはご存知のとおりです。

さらに1888年(明治21年)に中央本線の前身となる甲武鉄道への投機で大きな利益を出し、同社の社長にも就任すると、1891年(明治24年)には川越鉄道(現在の西武国分寺線)の取締役となります。さらに翌年の1892年(明治25年)に日本鋳鉄会社を興したほか、1893年(明治26年)には北海道の炭礦鉄道の取締役に就任し、大師電気鉄道の発起人になりました。

その後も、岩手県の仙人鉄山(現在の北上市和賀町)や東京市街鉄道、江ノ島電鉄社長などの数々の鉄道会社の経営を手掛け、1908年(明治41年)には大日本軌道を設立。その他、海運・石油・貿易など様々な事業において活躍した、明治時代の大実業家です。

そんな大実業家の雨宮を頼って、熱海の旅館の主たちは、おそるおそる協力の申し出をしました。無論、断られると思っての思い切っての決断でしたが、おもいのほか、雨宮はその申し出を了承します。

実は、雨宮自身が小田原から熱海へ療養に通っており、この際にいつも使う人力車の乗り心地が悪く、途中しばしば気分が悪くなることも多かったため、自分としても何等かの交通の改良が必要だと考えていた矢先のことでした。

しかし、後年数々の鉄道会社の経営を手掛けて成功しているところをみると、このころにはもう「鉄道は金になる」ということを見抜き、旅館の主たちの申し出を渡りに船と考え、事業に乗り出そうと考えたのかもしれません。

ともかくも熱海の主らの申し出を快諾し、国の力を得ずに自分たちの手で鉄道を作るために奔走を始めます。これが1880年(明治13年ころ)のことだった思われ、まだこのころは雨宮も後年の大実業家ではなく、一介の製粉工場の社長にすぎませんでした。

とはいえ、このころから「大物相場師」といわれるほど投機がうまかったらしく、熱海の片田舎の旅館の主たちの間にさえ知れ渡るほどの実力者だったことは確かです。

こうして、雨宮は小田原熱海間に鉄道を敷設すべく、東京で出資者を探して奔走し始めます。しかし、たかだか20kmほどの区間とはいえ、このころ本格的な鉄道を敷設するためには莫大な費用がかかり、かつ蒸気機関車の値段は一民間会社が購入できるような金額ではありませんでした。

このため、なかなか有力な出資者があらわれず、この鉄道計画が持ち上がってからまたたくまに10年ほどが過ぎてしまい、計画はいよいよとん挫しそうになります。

ところが、ちょうどこのころ、雨宮はある情報を入手します。それは、熱海と同じ静岡の藤枝と焼津の間を「人力」で貨車を動かす、「人車軌道」なるものができたというものでした。

ルートは東海道本線から外れた藤枝の町の中心と官営鉄道の焼津駅を直結するもので、これは元来東海道本線建設時に瀬戸川から焼津まで砂利採取に用いられたトロッコの軌道跡地を流用したものでした。

停留所は焼津、瀬戸川、藤枝のたった三つだけで、全線の所要時間は勾配の関係からか藤枝~焼津が25分、焼津~藤枝は30分と異なっていました。しかし、正規の鉄道さながらきちんとした時刻表があり、毎日7往復に加えて臨時増発便まであり、貨物は毎日数回運営されました。

1891年(明治24年)5月に正式に内務省の許可を得、同年7月から営業を始めましたが、この鉄道の評判を聞いた雨宮は、「これだ!」と思ったのでしょう。

さっそく、熱海の旅館の主たちを集め、人力鉄道の運営を提案します。自分たちの悲願であった鉄道建設が思いがけない形式だったとはいえ、実現しそうなことを知った主たちは、無論、この計画に賛同しました。

実は「人車軌道」は、藤枝焼津間軌道が日本最初のものではなく、これに先立つ、1882年(明治15年)から1888年(明治21年)まで営業された、「宮城木道」と呼ばれるものがありました。

宮城県仙台区東六番丁(現・JR仙台駅東口)と同県宮城郡蒲生村(現・仙台港の南側)とを結んだ軌道で、開業当初の約9ヶ月間は人車軌道として、その後は馬車軌道として営業されました。

明治初期の仙台港(蒲生)は東京と仙台を結ぶ海路の重要な拠点でしたが、仙台港から仙台駅までの陸路は非常に劣悪であり、荷物が滞ることもしばしばだったため、この当時の実業家で政治家だった由利公正の息子の光岡丈夫という人物が、ここに馬車軌道を敷設する計画をたてました。

この鉄道を敷設するために明治14年に「木道社」という会社を設立し、鉄道が敷設されると、この当時「郵便報知新聞」という新聞社の記者だった原敬(のちの総理大臣)が宮城県までやって来て、有力政治家だった由利公正をたずね、この鉄道の記事を書いて、事業を宣伝したという逸話が残っています。

敷設された鉄道の軌条は、「木道」の名のとおり、角材の上に鉄板をかぶせただけのものでした。鉄製より耐久性や強度は格段におちましたが、輸入品の鉄製よりはるかに廉価であるというメリットがありました。

藤枝焼津間軌道で用いられたのも、この「木道」であり、そういう意味では、このあとに純粋の鉄を使って敷設された熱海小田原間の鉄道こそが、日本発の人力「鉄道」になります。

この東北の木道の運営距離は、2.5里ないし3里(10~12km)であったといわれ、貨物専用で1日2往復でした。使われた車両の形などの詳細不明ですが、由利公正に関する史料には、馬車5両を馬5頭で引き、貨車は25台であったと記載されているということです。

こうした先例を参考にしつつ、雨宮と地元旅館たちの有志が共同で開発した鉄道の軌道は前述のとおり、純粋な鉄製でした。しかし、蒸気機関車のような本格的な車両が通る鉄道ほど頑丈なレールは必要なく、1ユニットあたりのレールは大人二人で運ぶには十分に軽量でした。

ただ、敷設にあたって用意された資金には限りがあったため、実際の鉄道のようなトンネルを掘るといったことはできず、従来あった道路の上にそのまま敷設していくという方法がとられました。延長距離が長くなるという難点がありましたが、レール自体が安価であったため、さほど費用もかさみせん。

ただ、トンネル区間や橋梁は少なく普通の山道を通る軌道だけに、急な上り坂や下り坂も存在し、これらの坂を数人の車夫が人力で押しあげたり、抑えたりといった運行方法がとられました。

ちなみに、NHKで放映された内容によると、この人力鉄道には上等、中等、下等の三種類の切符があり、上等の切符を持つ客は、小田原から熱海まで車両に乗りっぱなしでいられますが、中等客は、上り坂になると、車両から下りて自分の足で山を上らなくてはなりませんでした。

下等の客に至っては、車両が昇る際には、車夫と一緒に車両を押すのを手伝うことが条件だったといい、なんとものどかな運行形態でした。

こうして、小田原熱海間の人車軌道の建設が開始され、組織としては「豆相人車鉄道」という会社が設立され、1895年(明治28年)から1900年(明治33年)にかけて漸次開通されていきました。

この人力鉄道は、大成功しました。全線の運賃は工夫の賃金1日分だったといわれるほど高価だったそうですが、東京から熱海まで楽して療養に出かけたいという人々の需要は雨宮たちの想像を超えており、連日超満員になるほどの盛況をもたらしました。

しかし、やはり原始的な運行方法であり、押し手の車夫へ払う手間賃も高額となることから、その後豆相人車鉄道は社名を「熱海鉄道」と改め、1907年(明治40年)からは蒸気機関車牽引の「軽便鉄道」へ切り替えられました。軽便と呼ばれたのは国営の正規の鉄道よりも軌道幅が狭く、使用する蒸気機関車もより軽量で小型だったためです。

しかし、新車両の導入などが経営を圧迫したことから、熱海鉄道はその後雨宮が設立した大日本軌道に買収され、同社の小田原支社管轄という事業形態に改められます。

その後、東海道本線のルートを現行のように熱海経由で沼津方面に付け替えられるために、丹那トンネルの開削することが発表されると、雨宮はこれでは勝負にならないと判断し、補償付きで一切の設備車両を1920年(大正9年)に国へ売却しました。

国が買収した施設は、いったん「熱海軌道組合」という新たに設立された組合に貸し付けるという形がとられ、主にこの組合員が丹那トンネル建設作業員となり、旧熱海鉄道は通常の観光列車の運行に加え、丹那トンネル掘削の資材を運搬する送手段として活用されました。

丹那トンネルはその後1934年(昭和9年)まで開通しませんでしたが、1922年(大正11年)に小田原から熱海方面へ向けての「新東海道本線」のうちの小田原駅~真鶴駅間が開通し、これが「熱海線」の名で先に開業しました。このためこれと並行していた旧熱海鉄道の区間は廃止され、残る真鶴~熱海区間だけで営業を継続することにしました。

ところが、この翌年(1923年)に発生した関東大震災でこの真鶴~熱海間の旧熱海鉄道路線は壊滅的な打撃を受け、結局そのまま廃止となりました。

しかし、その翌年の1924年(大正13年)には、延伸を続けていた東海道線が真鶴から熱海駅までの区間で開業を果たし、さらにその10年後の1934年には丹那トンネルが開通したことで、現在のようなルートの「東海道本線」となりました。

かつて東海道線であった、小田原~御殿場~三島間の路線は「御殿場線」と呼ばれるようになり、東海道線の名を失いました。

この「人車鉄道」が運営されていた1907年(明治40年)までは、小田原から熱海のあいだで25.3kmの軌道が敷かれ、この間に駅が14あったそうです。以下がその駅ですが、現在の東海道線にはない地名もたくさんあって、どこだこれ?というものもあります。

小田原~早川~石橋~米神~根府川~江ノ浦~長坂~大丁場~岩村~真鶴(旧:城口)~吉浜~湯ケ原(旧:門川)~稲村~伊豆山~熱海

この路線、すべて単線区間であったことから、上りと下りの電車がかちあうと、どちらかの車夫がよっこらしょと車両を線路の脇におろし、対向車を先に通したそうです。また、走行中の客車が転倒することもしばしばあったとそうで、滑稽な乗り物として新聞雑誌などに紹介されることも多かったといわれています。

運営が開始された1900年(明治33年)の運行本数6往復で、小田原熱海間の所要時間は3時間40分だったそうです。

客が多いときには、これ以上の増便がなされたそうで、急行運転も実施されたということなのですが、この場合、車夫は駆け足で車両を押したということでしょうか。すごい体力です。

この人力鉄道の名残は現在ほとんど残っていません。その後の軽便鉄道に切り替える際の工事で使われなくなった軌道のうち、現在の湯河原町門川に敷かれていたと思われる軌道レールの一部が熱海市内のお寺に現在も保管されており、NHKでもこれを放映していました。

が、まあなんとちゃちいというか、ほほえましいといえるようなレールでした。なるほど、これが乗っていた車両もよっこらしょと持ち上げられるわけです。

国木田独歩もこの人車鉄道に乗車したことがあるそうで、そのときの体験談を元に「湯河原ゆき」・短編「湯河原より」という自著の中にこの鉄道のユーモラスな様子を書いているそうです。知人への書簡にも「実に乙なものであり、変なものである」という感想を記しているそうで、こういう先人の文章を読むと、もし今でもあるなら乗ってみたいと思ってしまいます。

ところが、この人車鉄道のレプリカを作って公開している人がいて、これもNHKの放映の中で紹介していました。この人は「根府川」でロッジを経営されている方で、近所の大工さんに手伝ってもらって二か月がかりで仕上げたものをこのロッジの敷地内で公開しているみたいです。このほかにも、湯河原で和菓子屋さんを経営している人の試作品などもあり、この方は「豆相人者鉄道の会」の会長さんだとか。

前述した焼津藤枝間軌道の復元を目指しているグループもあるようで、この人者鉄道は、静岡県ではひとつのブームになりつつあるようです。その「発祥の地」の二つが県内にあることから、近い将来復元軌道なども完成するかもしれず、そうなると、我々が「人力鉄道」に乗れる日もそう遠くないかもしれません。その日を楽しみに待つことにしましょう。

伊豆大島のこと ~伊豆大島(東京都)


上天気が続きます。先日降った雨は富士山には雪をもたらし、今はもうここから見える富士は五合目あたりから上はもうすべて真っ白です。冬至はまだひと月さきですが、ここ静岡だけでなく、全国的に冬モードに入っているようで、北海道では積雪があちこちで見られるようです。

伊豆での積雪は比較的少ないようで、昨年もここ修善寺では積雪があったという話は聞きません。が、標高の高い天城山(標高1500m程度)では毎年のように積雪があるそうなので、今度雪景色がみたくなったら行ってみようと思います。

このほか伊豆大島の三原山でも時折、積雪が見られるということです。が、こちらの標高は800mにも満たないので、降ったとしても大した量ではないでしょう。

この三原山ですが、先日大室山に登った時、もかなり間近に見えるのをみてビックリしました。双眼鏡でみると三原山の頂上の火口付近の様子まではっきり見えるほどです。

そういえば、それほど昔ではない時代に噴火したことがあったよな~と記憶に残っていたので調べてみると、最後に噴火したのは1990年だそうです。それでも20年以上も昔の話です。

しかし、これに先立つ1986年の噴火はかなり大きかったようで、溶岩流が麓の町に向かった流下しはじめ、地震活動が活発化するとともに、住民の多い波浮地区周辺で火山活動による割れ目が発見されるなどしたため、最終的に住民全員の島外避難が行われました。

帰島は約1ヶ月後になりましたが、幸い人的な被害はなく、農作物に被害が少し出た程度で、この噴火においても著しいダメージはありませんでした。

こういう話を書いていると、つくづく伊豆という土地は、火山と切っても切り離せない環境にあるなと感じてしまいます。先日来登山している山々のほとんどはその昔火山であったり、また大室山のように今は静かではあるものの、現役の活火山であったりします。

それだけパワーにあふれている土地柄だということなのでしょうが、我が家でもこんこんと湧き出る温泉の恩恵を受けています。ここに住んでいることだけでもなんだか元気にしてくれるような何か「気」のようなものを感じるのは気のせいでしょうか。いわゆるパワースポットということなのかもしれません。

そんなパワーにあふれた土地柄なのですが、伊豆半島も伊豆大島もその昔は、京都や奈良などの中央からみるととんでもない僻地であり、それゆえに「流刑の地」でもありました。伊豆に流された人で最も有名なのは源頼朝ですが、その子の頼家も修善寺に幽閉されており、日蓮も鎌倉幕府に嫌われて伊豆へ流されています。

では、伊豆大島にはどんな人が流されていたのかなと調べてみました。すると、一番古い
ところでは、天皇家の皇子の麻績王が675年にここに流されており、また中世では、699年には修験道の開祖といわれる役小角(えんのおず)が、更に平安時代末期には大物僧侶で立川流という密教の開祖である仁寛(にんかん)が1113年に流されています。

そして中世に流された人で有名なのが、源為朝(みなもとのためとも)。平安時代末期の武将で、弓の名手といわれ、鎮西を名目に九州地方で大暴れしたため「鎮西八郎」ともいわれます。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方について後白河法皇側と戦いましたが、負けてしまい、このため、1156年(保元元年)に伊豆大島へ流されました。

ところが、ここでも大暴れして国司に従わず、伊豆諸島の海賊を味方につけて伊豆大島だけでなく伊豆諸島を事実上支配したため、朝廷の追討を受け自害。ところが、ここでは実は為朝は死なず、琉球まで逃れて生き残り、その子が琉球王家の始祖といわれる「舜天」になったという伝説も残っています。

この為朝さんという人は非常に面白い人物なので、また機会あればじっくり取り上げてみたいと思います。

その後戦国時代に入るころには伊豆大島は後北条氏の北条早雲の子孫の支配下になったため、あまり公の流人は流されていませんが、江戸時代に入ってからは引き続き流刑地としての役割を担うようになり、主として政治犯が流されました。

有名どころでは、「越後騒動」という越後国高田藩で起こったお家騒動で、藩政を執っていた首席家老小栗美作と、これに敵対する一派重臣とが争い、幕府の裁定は争った者たち同士両成敗という結果でしたが、その処罰の一環として、小栗美作の弟の小栗兵庫という人物が1682年(天和2年)に伊豆大島に流されています。

また、1702年(元禄15年)には有名な赤穂浪士の討ち入り事件があり、四十七士のひとりであった「間瀬正明(ませまさあき)」とその長男の「間瀬正辰(ませまさとき)が、吉良上野介の首をあげたあと、間瀬正明は熊本藩主細川綱利の屋敷へ預けられ、翌年切腹。息子の正辰も水野忠之の屋敷に預けられたあと、切腹しました。

間瀬正明には、次男がおり、間瀬正岑(まさみね)といいましたが、幼かったため討ち入りには加わらず、しかしお咎めを受け、1703年(元禄16年)に伊豆大島へ流されました。

伊豆大島へはこのほかにも、吉田兼直・中村忠三郎・村松政右衛門といった、赤穂浪士の遺児が流されましたが、本家浅野家の瑤泉院(松の廊下で吉良を切りつけた浅野長矩(ながのり)の正室)の運動などが功を奏して、三年後の1706年(宝永3年)に赦免されました。

しかし、間瀬正岑だけはそれを目前にして大島で病死しており、大島の元町というところにそのお墓があります。その命日は4月24日だったそうで、300年目にあたる2005年のこの日には、その墓前で「300遠忌慰霊祭」が行われたそうです。

このほか、1612年(慶長17年))にはキリシタンの「ジュリアおたあ」という女性も伊豆大島に流されています。

この人物、私的には全くノーマークだったのですが、知れば知るほど興味深い人生を送っています。

その出自は秀吉が行った朝鮮出兵、いわゆる文禄の役(1592年(文禄元年))の際、秀吉の配下にあったキリシタン大名の小西行長が、戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘を捕虜として日本に連れ帰ったのだと言われています。

朝鮮の最後の王朝である李氏朝鮮の上級官僚「両班」の娘ともいわれていますが、生没年や実名、家系などの仔細は不明です。

文禄の役では、日本軍に平壌近郊で捕縛・連行されてのち、キリシタン大名の小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで「おたあ」と名付けられ実子のように育てられました。

やがて両親もそうであったように洗礼を受け、ジュリアと名付けられます。そしてクリスチャン名でカタリナと呼ばれていた夫人の教育のもと大名の子としての英才教育を受けるようになります。とりわけ小西家に伝わっていた「薬草」の知識においてとくに造詣を深めたといわれ、聡明で気品のある女性であったと伝えられています。

その後の1600年(慶長5年)に起こった関ヶ原の戦いでは、小西行長は石田三成に呼応し西軍の将として参戦し、奮戦するも敗退。この年の10月に市中引き回しの後、京都の六条河原において石田三成や安国寺恵瓊と共に斬首されました。

カタリナ夫人は、その後薩摩の大名家に嫁いだといわれています。が、カタリナは実は行長の夫人ではなく娘だという説もあり、この人物の生涯は不明な点が多いようです。

育ての親を失い、またしても天涯孤独の身なってしまった、おたあでしたが、その才気と美貌を見初めた徳川家康によって駿府城の大奥に召し上げられ、家康付きの侍女として暮らすことになりました。

やがて長じると家康の側近く仕えるようになり寵愛を受けるようになりますが、クリスチャンとしての気概は忘れてはおらず、昼間は家康の側妾としての仕事を行い、それを終えた夜には祈祷を行い、他の侍女や家臣たちに聖書を読んでその内容を聞かせ、キリスト教信仰に導いたといわれています。

しかし家康は、天下をとったあとキリシタン棄教の方針を諸大名に伝え、おたあにもこれを要求するようになります。おたあはこれを拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示したため、1612年(慶長17年)に禁教令を犯したとして駿府より追放され、伊豆大島へ流罪となりました。

伊豆大島に流罪になったあとも、八丈島(もしくは新島)、神津島へと次々と島を変えて流罪となったといわれますが、どの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされます。

3度も遠島処分にされたのは、他の流人の赦免との引換えを望んだからだとも、また再三の家康への恭順の求めを断り続けたためとも言われていますが、このほかにも駿府時代の侍女でクリスチャンだった仲間と再会したため、この仲間とともに八丈島、または新島などで修道生活に入ることを希望したのではないか、という説もあるようです。

おたあは、島民にもキリスト教を教え、その教化によって多くの島民も洗礼を受けたといわれていますが、現状において伊豆大島には教会はひとつしかなく、この教会にもおたあにまつわる話は残っていないようであり、おたあの布教によって大島の人にキリスト教が深く根付いたという事実はないようです。

おたあはその後、神津島で亡くなったと伝えられています。しかし、1622年にイエズス会のフランシスコ・パチェコという神父が書いた「日本発信」という書簡には、おたあは神津島を出て大坂に移住してこの神父の援助を受け、のちに長崎に移った旨の記述があるそうです。

このことから、神津島での刑期を終えた後許され、大阪から長崎に移ってそこで亡くなったという説もあるようです。しかし、神津島以降の実際の消息および最期についての本当のことはわかっていないようです。

しかし、1950年代に神津島のある郷土史家が島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張したことから、おたあは神津島で死んだという定説が生まれ、このためこれ以降神津島では毎年5月に、おたあの祖国と考えられる韓国のクリスチャンも加え、日韓のクリスチャン合同での慰霊祭が行なわれているそうです。

伊豆大島への罪人の配流は、島民による流人の受入れや三宅島までの流人船の御用が大きな負担となっていました。このため、1766年(明和3年)には、島民への年貢の上乗せを条件に流人船御用が免除されるようになり、これ以降は大島への流人は途絶えるようになります。

そして、1796年(寛政8年)には、御蔵島・利島とともに正式に流刑地から除外されるようになり、これ以降、伊豆大島は流人の島ではなくなりました。

その後、明治に入り、伊豆大島と伊東の間には定期航路も開かれるようになり、1928年(昭和3年)に東京との間に日本航空による航空便も就航するようになって、伊豆大島はもはや孤島ではなくなりました。

この同じ年に、は野口雨情作詞・中山晋平作曲の「波浮の港」という歌がヒットしたため、訪れる観光客が増加し、これ以降、現在でも伊豆大島では観光は重要な産業のひとつです。

1931年(昭和6年)には三原山の砂漠(溶岩原の通称)にロバやラクダが導入され、1935年(昭和10年)に大島自然動物公園(現・都立大島公園)が開園しています。

明治30年代ころから、乳牛・酪農が行われるようになり、現在でもさかんに行われています。伊豆大島牛は味の良いブランド牛として有名であり、酪農製品も数多く本土に出荷されるようになりました。

この他、島内では古くから灯・整髪・食用に用いられた椿油は「大島産椿油」として高級品として取引されました。現在では整髪用にはほとんど使われないようですが、食用の高級品油などが取引されているようです。このほか、海洋性の温暖な気候を利用し、切花等の栽培も盛んです。

また、漁業においても日本でも有数の好漁場を近海に持ち、恵まれた漁業環境にあることから、採貝や伊勢えび漁に従事する漁業者が多いようですが、最近は漁獲量も減っているということで販売対象も観光客目当てのことも多くなってきているようです。

伊豆大島の人口は、昭和27年には13,000人を数えたこともあるそうですが、平成24年10月末現在の島の人口は8459人となり、年々減少気味。昭和40年代に入り起こった離島ブームによる観光の活発化や、オイルショック等によるUターン現象で、人口の増加がやや上向いたこともありましたが、不況による観光の停滞などで昭和50年頃からは微減を続けているようです。

温暖な気候で、住みやすそうですが、実際に住むとなるとやはり気になるのは三原山の噴火でしょうか。

やはり、行くとしても観光目的の短期滞在でしょう。東京の竹芝ターミナルからは高速船で1時間45分で着くようで、この便は一日に2~3便ほどあるようです。このほか夜発朝着ののんびりした船便もあるようで、これは横浜からも出ているようです。

伊豆半島からは熱海~大島間を45分で結ぶ定期便があるようです。なので、一度も行ったことのない伊豆大島へは今度ぜひ訪れてみたい場所のひとつです。

なお、空路は羽田から一日一往復の便(片道30分)が全日空により運航されているほか、調布飛行場からはコミューター機が飛んでおり、こちらは一日三往復だとか(片道35分)。東京以西の山奥?に住んでいる方々には、「ちょっと海を見に」行くためには良い場所に飛行場があるものです。

伊豆大島では年明けの1月ころから椿の花が咲くようで、300万本ともいわれる椿の木の群生はなかなか見応えあるようです。年が明け、まだまだ桜や梅の咲かぬこの時期、伊豆大島へ行って椿でも鑑賞しながら伊豆大島牛を食す。なかなか良いと思います。あなたも行ってみませんか?

三角点から見える風景 ~旧修善寺町(伊豆市)

城山(じょうやま)からみた富士山

秋が深まるにつけ、朝夕は厳しい寒さがあるものの、日中は快適な気温となり、晴天の日も多いことから外出する機会がぐんと増えました。

11月に入ってから何度もあちこちの山に登るようになり、先日ブログでも記した城山や葛城山、大室山のほか、先週末には達磨山にも登ってきました。

風光明媚な伊豆のことですから、どこの山に登っても絶景が楽しめますが、頂上に登って360度の視界が開けるという山はなかなかないもの。城山は東側の眺めの良い山でしたが、北側の眺望はいまひとつで、ここからじっくり富士山を眺めたいという人にはちょっと物足りない山でした。

また、葛城山は頂上が台地状になっているため、場所を変えれば東西南北の景色が楽しめますが、一カ所から周囲すべてを見渡せるという場所はありません。

そこへいくと、先日登った達磨山は、その頂上から文字通り360度の視界が開け、北にある富士山や西の駿河湾、東側はその南側にある天城山塊に続くなだらかな伊豆半島の山々を見通すことができ、文字通り視界を遮るものはありません。

しかも山頂の一カ所からこの風景が楽しめることができ、クルマでのアクセスも容易なことから、かなり人気のある山のようです。この達磨山のことについては、また後日詳しく書きたいと思います。

ところで、こういう眺めの良い山にはたいてい、「三角点」が設置してあります。地図を作るための緯度、経度、標高の基準になる点であり、明治時代にこの点が定められました。

日本の近代測量の基本となった三角測量は、工部省測量司が1871年(明治4年)にイギリス人 マクヴインの指導のもとで、東京府下に13点の三角点を設置したことに始まります。

その後、1882年(明治15年)には、全国でおよそ100点ほどのおおまかな三角点の選点が終了し、1884年(明治17年)からは陸軍省参謀本部測量局(明治21年陸軍参謀本部陸地測量部)がこの測量を引き継ぎ、いよいよ全国的な三角測量が始まりました。

参謀本部では、8年間のドイツ留学から帰朝した田坂虎之助が現在の測量作業規程に当たる「三角測量説約」を完成させ、本格的な一等三角測量に着手し、この時点から当初幕府が導入したフランス式測量法からドイツ式測量法に変更されました。

全国の地図を作るにあたっては、まず一番最初に選点された三角点をもとに日本全国に「基線」と呼ばれる大まかな線が引かれました。

この基線は、例えば青森から山口まで一本の線で引くこともできますが、こうした単一の基線から測量箇所を拡大していくと末端での誤差が大きくなるため、これよりもやや多い基線から始めることにし、本州だけでなく、北海道、九州、四国などに合わせて14の基線が設置されました。これらの各基線から徐々に三角網を拡大してゆくこととし、隣接する境界で誤差ができるだけ少ないようにしたのです。

まず最初に選点された三角点を中心として、45km間隔で測量を行うための観測点候補地が定められました。そしてこの候補地でまず最初に三角測量を実施し、だいたいの間隔を定め、ついでその補点として、この点を含め今度は約25km間隔の測量をするということを繰り返していきました。

こうして全国で次々と25km範囲の三角点網が完成されていきましたが、これがいわゆる「一等三角点」とよばれるものです。ただし、一等三角点には最初に45km間隔で定められた「本点」とその後25km間隔で定められた「補点」の二つがありました。

地図上や現場の標識にこれが明示されているわけではありませんが、最初に定めれらた本点とあとから定められた補填は別物ということで現在でも一等三角点というときには、資料上は本点と補点は区別してあります。

こうして選ばれた一等三角点は、無論、他の一等三角点が見通せる位置関係になければならないわけであり、当然眺めが良い場所でしたが、その地点は恒久的に一等三角地点として永続が可能である必要がありました。

なぜなら大雨によるがけ崩れや地震によって崩壊してしまうような脆弱な地盤の場所に一等三角点を設けると、そうした災害が起こったあとは二度と測量ができなくなってしまい、「国土を守る」という目的の地図を作る場合、それを修正する場合の基点がなくなってしまうからです。

このため、いくら眺めがよくてもその場が無くなってしまうような危険性がある場所は一等三角点には選ばれていません。眺めがいいからそこは一等三角点だろうというと、必ずしもそれは正しくありません。

眺めがよくても、噴火のおそれがあったり、崩れやすい地質の山は選ばれていません。明治時代の人は、後世のことも考えてこの一等三角点の選定には相当注意を払ったと思われます。

こうして一等三角点が決まると、この次にはこの一等三角点を含めて約8km間隔に二等三角点を設定します。以下二等三角点を含めて約4km間隔に三等三角点を設け、次いで以上を含めて約2km間隔に設けられたのが四等三角点です。

そして、これらの一等から四等までの三角点を基準とし、20mの等高線幅で地形を描写して一番最初に造られたのは、五万分の一地形図でした。

ちなみに、明治時代には、「五等三角点」というものが存在しました。1899年(明治22年)に国土地理院の前身である陸地測量部が定めたもので、その内部文書に「海中の小岩礁の最高頂を観測し、其の概略位置及高程を算定し、之を五等三角点と称すること、尋て市街地の高塔等亦之に準することに定めたり」という記述が残っています。

三角点の標石を設置するのが困難な小岩礁はその最高点を五等三角点とし、「市街地の高塔等」に該当する火の見櫓や煙突などの構造物などがこれに準じるものとして五等三角点になりました。

しかし、明治時代以降、長らく五等三角点の新設は行われることはなく、四等三角点以上への切り替えや廃止が行われたため、現在は沖縄県の小島の3か所が残存しているのみだそうです。

これらの三角点は、一等三角点だけでなくほかの三角点も地殻変動その他を知る重要な点になります。このため、一等三角点では、18cm角、二等と三等は15cm角、四等は12cm角の丈夫な御影石(花崗岩)もしくは硬質の岩石の標石がその三角点地点に埋設してあります。

これら三角点の約半数は明治・大正時代に設置されており、一等三角点の重さは90kg(24貫)もあって、明治・大正時代には人夫がその石を背負って山頂まで運んだそうです。

ただし、三角点が置かれる場所は山のような場所ばかりではなく、場所によっては街中に設置されることもあり、こうした場合、公立学校などの公的建造物の屋上に設置されていることもあります。

また、見たことのある人も多いと思いますが、上面の中央に+が刻まれてあって、その中心が三角点の位置であり、十字の真ん中がその地点の高さ(標高)になっています。ただし、三角点の高さは、三角点の置かれた位置の高さであって、これがその三角点の置かれた山の最高地点の高さを示すものではありません。

意外とみなさんが知らないのは、この刻まれている十字が、実は方位を示しているということ。さすがに「東西南北」の文字は刻まれていませんが、もし山で道に迷ったとき、この三角点をみつけ、その十字が確認できればその地点の方位がわかります。

三角点は現在、全国に103284点あって、このうち一等三角点は、たったの972点しかありません(二等5056、三等32699、四等64557)。

通常、360度の範囲の他の一等三角点を見通せる場所に設置されていることから、当然見晴らしの良い場所に設置されており、冒頭で述べた達磨山もそのひとつです。

こうした、一等三角点を山頂に持つ山の踏破を目標とする登山愛好者も多いようで、「一等三角点百名山」なるものを定めて、これを踏破することを目標としたサークルもあるようです。

一般の百名山の中には、名山には違いないものの、そこからの眺めがイマイチというものもあります。しかし、一等三角点がある山ならば、見通しが良いことはまず間違いありませんから、同じ目標として登るならば、こちらを目安とするほうが間違いないと考えるファンが多いのもうなずけます。

初期の一等三角測量は大正2年にはひととおりの観測が終了し、一応の完成をしたそうです。その後は、千島や、樺太、台湾といったいわゆる外地の測量が実施されましたが、その多くは現在日本の国土ではなくなってしまいました。

以後残った三角点では、地殻変動をとらえる目的も併せ持って、繰り返し現地測量が実施されて現在に至っていますが、近年はGPSなどの測量技術が進歩したため、現地での測量はほとんどされなくなっているそうです。

平成21年度には、全国約2万の三角点に、ICタグを付加した「インテリジェント基準点」なるものが整備されました。

このICタグには、場所情報コード(番号のようなもの)や、緯度・経度・標高が記録されているそうで、例えば専用の携帯端末をこのタグに近づけると、その場の位置情報をすぐに見ることができる、というもの。

設置した国土地理院によれば、ICタグに対応した測量機器の開発により、簡便な位置決定作業が可能となり、これを利用した位置情報の提供サービスなどの分野での応用が期待される……というのですが、ほかにどんな使い道があるんかしらん。

たぶん、ほかにも測量がやりやすくなるとかのメリットもあるのでしょうが、いまひとつ何に使えるのかピンときません。事業仕分けの対象にしてもよかったのかも。

もっとも、GPSシステムだって、出たころにはこんな精度の悪いもの何に使えるの?とさんざん批判を浴びていたのを思い出します。

今は、かなりの精度をもって位置情報を得ることができるシステムとして、インターネット同様に我々の生活になくてはならないものになっています。なので、インテリジェント基準点もいずれ日の目を見る日がくるのかもしれません。

このように明治や大正に作られた三角点を新しい技術で有効利用しようという動きはあるものの、かつて地図作成や道路建設、都市開発などの公共事業に多大な貢献をしたような役割はあまり期待されていません。

そのためか、ときおり、山に登った時に三角点標石の頭部などが削られているのを目にすることもあります。登頂の記念?に削っていくのかな、とも思うのですが、もしそうだとしたらそんな馬鹿なことをしなければよいのに、と思ってしまいます。

登山の目印のためか、赤や青のスプレーで塗られた三角点もみたことがありますが、こうした先人が作った遺物をぞんざいに扱うのはどうかと思います。

「柱石の破壊など機能を損ねる行為をした者は、測量法の規定により2年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられる」そうです。

このブログを読まれている方々の中にはけっしてそんな不埒な人はいないと思いますが、もしそういう人を見かけたら、ぜひご注意を。逆切れされるのが怖い場合はぜひ通報を。

自衛官たちの伊東 ~伊東市


先日、大室山に登った時、伊東港の沖合から一隻の自衛艦らしい船が入港してくるのが見えました。艦上部に大きな箱がのっかっているような奇妙な形の船なので、いったいどういった種類の船だろう……と疑問に思ったので家に帰って調べてみました。

するとどうやらこれは、海上自衛隊の潜水艦救難母艦の「ちよだ」という船だということがわかりました。横須賀にある、「第2潜水隊群」という潜水艦部隊の旗艦だそうです。艦名は江戸城の別名千代田城に由来し、この名を受け継いだ日本の艦艇としては4代目なのだとか。

海上自衛隊初の「潜水艦救難母艦」として建造され、「うずしお型」と呼ばれるちょっと古いタイプの潜水艦が万一沈んだときに、これの救難にあたる「深海救難艇」と「深海潜水装置」を装備しており、艦の後部にはヘリコプターも発着できる甲板があります。

艦の真ん中に穴があいたようにみえ、そこにオレンジ色の物体がみえますが、これが深海救難艇(Deep Submergence Rescue Vehicle、DSRV)のようです。

深海救難艇は海中で遭難艦を捜索し、発見すると艇体下部の「スカート」と呼ばれるハッチと遭難艦の専用ハッチを接合し、スカート内部を減圧・排水した後に深海救難艇と遭難艦のハッチを開いて、遭難艦に残された人を深海救難艇に移します。

一度に全員が救助できない場合は、深海救難艇が支援艦と遭難艦の間を何度も往復して遭難艦の乗員を救助します。深海救難艇は各国の海軍が持っていますが、その接合方法は共通になっているそうで、これは救助を行うのが必ずしも自国艦とは限らないためだそうです。

なので、深海救難艇の上部甲板には他国の艦船がみてもすぐわかるように救難ハッチの位置を明示する塗装がなされており、これがこのオレンジ色です。こういう色に艦艇を塗るのは、隠密行動を主とし一般には黒っぽい色を塗る潜水艦における塗装では唯一の例外なのだそうです。

潜水艦救難母艦の「ちよだ」のほうは、潜水艦救難艦としての機能のみならず、「潜水母艦」としての機能も付加されていて、潜水艦1隻分80名分の宿泊施設、ミサイル、魚雷、糧食、真水の補給物資、潜水艦への給電と充電を可能なのだとか。

大きな箱のようにみえたものは、この潜水艦の乗員のための宿泊施設、つまりホテルのようです。

艦首付近の喫水線下には「サイドスラスタ」と呼ばれる船を進行方向とは90度をなす横方向に動かすスクリューもついていて、これによって、波の高い海の上でも安全に潜水艦に静かに接舷することができます。

と、いうことがわかったのですが、それにしても何で伊東沖に?という新たな疑問が。そういえば前から伊東沖に来るたびにしばしばこうした護衛艦をみかけることがあり、伊豆へ新居探しに来た昨年には、潜水艦が停泊しているのを目撃したこともありました。

その理由をネットで探ってみたところ、どうやらこうした横須賀の艦隊基地に所属する自衛艦は、相模湾沖などで訓練をおこなったあと、訓練に励んだ乗員をねぎらうために、こうした伊東のような温泉のある港町に仮停泊することが多いようです。

横須賀基地だけでなく、舞鶴や佐世保、呉といった他の基地からの艦船も横須賀基地の艦船と合同で訓練を行うこともあるようで、そうした折に、伊東のような港に停泊することも多いのだとか。

伊東沖は、海岸から数十メートルで急に水深が深くなるうえ、海上が非常に静かなため、護衛艦の停泊地にとても適しているのだそうです。すぐ近くには、熱海もありますが、ここは海底に初島と本土を結ぶライフラインのための海底ケーブルやパイプなどが張ってあるため、停泊できるポイントが限られ、大型艦艇の停泊には不向きです。

このため海底地形をよく理解した熟練艦長以外の艦長は、熱海を嫌ってあまり行かないそうです。停泊の候補地としてはこのほかにも、東京湾の入口である館山等がありますが、ここは大型艦船の出入りが多く、事故のリスクが高い上、町には何もないということで、停泊地としても上陸地としても余り好まれないのだとか。

伊東市のある市議会議員さんが海上自衛隊の護衛艦の艦長に招かれて飲食を共にしたときのことを綴ったあるブログ情報によれば、海上自衛隊というところは、海軍の伝統が今なお生きているところで、優秀な司令、艦長ほど、独断専行が許されるのだそうです。

なので、特殊な錬成訓練や海上訓練以外の通常の訓練のときには、艦隊秩序さえ保たれていれば司令や艦長の単独の判断で航路や寄港地が決定できるそうで、多くの自衛艦の艦長さんは危険な港よりも停泊のしやすい伊東沖を好むということのようです。



この日本の「護衛艦」ですが、海上自衛隊が現在保有する艦艇隻数は2011年現在で148隻です。アメリカの海軍は原子力空母を中心とした「空母打撃群」によって構成されていますが、航空母艦を持たない日本の海上自衛隊では、ヘリコプター搭載護衛艦を中心とした「DDHグループ」と、ミサイル護衛艦(イージス艦)を中心とした「DDGグループ」それぞれ4つで構成されていて、横須賀、舞鶴、呉、佐世保のそれぞれにこれらの基地があります。

これらの艦艇には、4年周期で半年程度を要する大規模なドック修理があります。ドック修理終了から約1年間は、低練度艦として基礎的な訓練を繰り返し、その後1年間は、高練度艦として実戦的な訓練を消化します。

そしてドック修理から約2年経過後、約1年間を即応艦として実任務に対応し、残りの一年は次のドック修理までの予備の期間として準即応艦扱いで活動するみたいです。護衛艦の一般的な寿命は、約30年程度だということですから、一隻について、こういうサイクルをその生涯で7~8回繰り返したあと廃役になっていく計算になります。

この運用体制下では、即時実戦配備可能な護衛艦は全体の4分の1程度で、全護衛艦のおよそ3分の1は出港して訓練中、3分の1は移動中または帰投中、残り3分の1が入港して休養中または整備中となります。

最近の新造の艦艇にはステルス性能のアップも図られているそうで、形状を工夫してレーダー反射面積を低減させる設計や、対潜水艦戦に影響を及ぼす騒音の低減、船体磁気の消磁による磁気感応機雷対策、船体外観や排煙による被探知を避けるための設計などが行われており、その技術は世界でもトップクラスだとか。

自衛艦の平均的な年間出港日数は約120日程度で、出港中は24時間体制でレーダー、逆探知機、ソナー、目視などによって、海上輸送路(シーレーン)への脅威となり得る国籍不明艦船や潜水艦に対する哨戒を行なっており、護衛艦に搭載している哨戒ヘリコプターは、スクランブル発進に備えて、常時、哨戒待機(アラート)状態にあります。

こうした自衛艦の訓練中に一番警戒されるのが火災で、出港中の艦内で行われる各種訓練のうち、重大な被害をもたらす危険のある火災対しての消火訓練の回数が一番多いそうです。

船内での大量の放水は、船体の姿勢変化や沈没にもつながるため、放水が少なくても行える消火作業に重点が置かれ、消火器を用いた初期消火から、各種消火装置を使用した本格的な消火までの訓練が実施されます。そして油火災、電気火災なども想定しつつ、排煙通路の設定、応急電路の設定、隣接区画の冷却などの訓練を行いまた、被害が局部限定の場合の訓練なども行います。

自衛隊といえばやはり射撃とかミサイル発射訓練を想像しますが、こうした訓練はむしろ少なく、年に数回程度だそうで、しかもそのほとんどがシミュレーションで行うようです。ただ、ヘリコプター搭載護衛艦では、ヘリコプターの発着における制度が求められるため、実地において高練度の発着艦訓練が頻繁に行われます。

これらの訓練は、それぞれの艦で個別に行われます。しかし、こうした個艦での基礎的な訓練を終えて錬度が上がったあとは、同じ部隊の僚艦との共同訓練をおこなったり、実際の潜水艦を使用した実艦的対潜訓練、航空機との空水共同訓練、補給艦との洋上補給を行います。

時々テレビなどでアメリカ軍との合同訓練の模様が放映されたりしますが、こうした派米訓練やアメリカ海軍以外の同盟国との環太平洋合同演習なども時々行い、こういう演習のときにはかなり実戦に近い訓練を行うようです。

自衛艦ではこれらの洋上での訓練のほか、入港中にも訓練が行われます。その内容は主に、「整備」、「補給」、「広報」の三つであり、これに加えて各種教育なども行われます。入港時には、その地域の人々のレセプションや見学会なども催されることも多いため、停泊中の船体の塗装などの整備作業も重要な作業といわれます。

停泊中であっても、緊急の事態や災害派遣の必要性などが生じた場合に船は緊急出航をする必要があるため、自衛官は警急呼集を受けた場合、2時間以内に帰艦できるよう定められています。

このため、行動範囲外に出る場合などには別途に申請をして許可を受けるなど、上陸した乗員の行動にはある程度の制限が課せられており、また乗員は常時、携帯電話を携行することを義務付けられています。入港中の艦内では、艦長さえいればいつでも出港できるように当直員が確保されており、完全に無人になることはないそうです。

東日本大震災に関する緊急出航では、こうした当直制度のおかげで発災から1時間以内に複数の護衛艦が緊急出航を実施することができ、追って数時間以内に全国の基地から20隻を超える護衛艦・補助艦艇が被災地に向かうことができたそうです。特に、横須賀地方隊では発災当日のうちに稼働する全艦艇を緊急出航させることができたとか。

こうした厳しい艦内勤務をこなす隊員の生活ですが、航海中は3時間3交代、6時間2交代、または交代なしの総員配置による哨戒配備を行います。また、停泊中は、昼間の8時間勤務が標準となります。

艦内飲酒は一切許可されないそうです。その昔の明治時代の海軍はイギリスの海軍を手本としてため、酒は「紳士の嗜み」として許されていましたが、戦後の海上自衛隊はアメリカ海軍を手本としたため一切許可されず、艦内で飲酒した隊員には厳重な罰則が与えられます。

その日常ですが、4月1日から9月30日までの夏季の平日は、「総員起こし」と呼ばれる午前6時起床ではじまり、体操後に朝食、午前8時から11時45分と午後1時から午後4時30分までが基本的な勤務時間です。停泊中などの通常時には午後7時30分には巡検が行われ、午後10時消灯となり、哨戒担当以外の人員は床につきます。

しかし、実際には交代で哨戒にあたったりするため、この間の食事や入浴などの時間帯も特に洋上にある場合にはそれぞれの任務の状況に応じて変わります。航行中、停泊中それぞれのシチュエーションにおいてこれらの生活パターンが変化するわけで、かなりのストレスの溜まる任務といえます。

食事は、1日3回でます。かつては夜食もあり1日4回だったそうですが、現在は、行事訓練等の所要に応じ不定期に夜食が供されるそうです。長期にわたる遠洋航海途上等において、乗員の曜日感覚を維持する目的で、毎週金曜日には海軍カレーが出されるというのは有名なお話です。

艦にもよるようですが、各艦には結構料理上手なコックさんが乗船しており、この海軍カレーは「かなり」うまいそうです。かつては土曜日に提供されていた時代もあったそうですが、公務員の週休2日制が一般的になってからは休みの前日を知らせる昼食という意味も込められ、金曜日になったそうです。

食事の調理に使う熱源はすべて電気か蒸気で、ガスは使用されません。火災を引き起こす可能性があるからです。従来は米を研ぐ際は海水を使用し、炊くときに真水を使用していましたが、最近の船では最新の海水淡水化装置が積まれていて、豊富な真水が使えるため、現在はほとんどの艦で真水を用いる洗米機を使用しているそうです。

しかし、造水能力が向上したとはいえ、やはり洋上では真水は貴重品であるため、航海中の入浴は海水を使用しているそうで、艦にもよりますが、風呂上がりのシャワーのみ真水の湯の使用が許されていることが多いようです。しかし、この海水風呂も慣れるとなかなか良いものらしく、海水風呂でないと風呂に入った気がしない、という自衛官も多いとか。

艦内の娯楽はそれほど多いとはいえません、乗員居住区や食堂に、テレビが1台以上置かれている場合が多いようですが、陸岸から離れるとテレビの地上波は届かない上、衛星放送のセッティングも日本列島本土に合わせてあるため、海上遠くになると映りません。

乗員は私物や官給の本や雑誌を読んだり、ビデオ、トランプゲームなどで自由時間を過ごすことが多いそうですが、飽きるでしょうね~。

しかし、個々の居住空間は、新鋭艦になるほど大型化されて広くなり、生活環境は改善されており、電気も自由に使えるようなので、こうした個室ではパソコンなども使えるようです。ただ、金属で覆われた艦内では携帯電話の電波が届く箇所は限られているため、無線LANなどでインターネットを使えるケースは少ないようです。

家族との通信は、カード式公衆電話が設置されており、衛星通信による通話が可能ですが、訓練の状況などによってはこの使用も制限されます。携帯電話も金属で覆われた艦内では電波が届かず、電話できる場所は限られておりまた、秘密保全の関係で持ち込むことができない区画もあります。

陸上の施設と違い、空間の利用に制限がある護衛艦では、女性用トイレや風呂の設備を作る余裕がなかったことから、女性自衛官の配置制限が行われてきたそうですが、2009年に就役した「ひゅうが」からは女性自衛官の配置が開始されたそうです。今後は自衛艦に乗る「護衛艦ガール」も増えてくるに違いありません

こうした厳しい艦内生活を送る自衛艦にとって、伊東沖での停泊時の外出許可はなくてはならない息抜きになっているといいます。だいたい4~5000トンクラスの護衛艦の場合、
通常の乗員は170~200名程度ということで、これらの人員が上陸する場合には、交代で上陸します。

1回につきだいたい3分の2くらいの隊員が上陸するそうで、こうした船が二日間停泊すると町に繰り出す人数は二日間で200人以上となります。最近は伊東沖に停泊する護衛艦や掃海艇が増えているそうで、こうした上陸人数を考えると自衛隊員が伊東市の飲食費や娯楽施設に落とすお金も馬鹿になりません。

前述した、伊東市のある市議会議員さんの試算によると年間52週、一週間に一隻として、同じクラスの艦艇が平均してやってくると仮定すると、年間12000人程度の誘客効果を生むそうで、一人一万円程度とすると1億2000万円の経済効果になります。

実際にはもっと小さな船も多いようですから、これほどのお金が実際に伊東市に落ちているかどうかはわかりませんが、それでも町にとっては自衛隊さまさまです。だからといって昨今の沖縄のように無礼者の兵士ばかりの軍隊とは違って規律正しい自衛隊員のことです。きっと町の救世主になっているに違いありません。

普段目にすることのない変わった艦船を見ることができるのは、船好きの私にとってもありがたいこと。これからもどしどし来て欲しいものです。

もっともあまりたくさんの自衛艦がやってきすぎて、前にあったような一般漁船との衝突などというのがあっては困ります。せいぜい今と同じくらいのペースで一週間に一隻ほどでいいのかも。そしてそういう船がやってきたら、ぜひ艦内の公開などの広報活動もやっていただきたいもの。それが評判になればそれだけでも十分な町興しになります。

伊東市も観光が落ち込み地盤沈下が著しいといいます。市議会議員さんたちもぜひ頑張ってこうした形での自衛隊の平和利用を実現してみて欲しいと思います。