香取の海と坂東太郎


先週末、つくば市で居酒屋を営む高校時代の同級生のところで同窓会があり、伊豆からはるばる車を飛ばして、行ってきました。さすがに道のりは遠かったのですが、久々に会った友人たちはみんな元気そうで、楽しい時間を過ごすことができました。

しかし、そこに来るはずだった友人の一人が、昨年10月に突然亡くなり、来れなかったのが残念でした。接待ゴルフで前日に酒をかなり飲み、翌日のゴルフのあと、ひとりでサウナ風呂に入ったところ、熱中症を発したらしく、あっさりと逝ってしまったのです。

同じクラスの同級生としては初めてのことだったので、結構ショックで、そのあとかなり引きずりましたが、この日集まった他の連中の明るい顔をみているとそうした悲しい気持ちも薄れてきました。

酒好きの人だったので、きっとあの世からこの同窓会にも遊びに来ていたのではないかと思います。気のせいか、この日別の友人がくゆらせていたタバコの煙の影の中に、彼の顔が見えたような気がします。

多少逝くのが早かったけれども、その死自体も彼自身がスケジュールして生まれてきたこととすれば、きっと何等かの意味を持っていたのでしょう。

それが何であるか、といったスピリチュアル的な話ができる面々ばかりでもなかったので、同窓会でそんな話もあまりしませんでしたが、帰りの車の中ではタエさんとは自然とそんな話になりました。

この友人には奥さんと大学生と社会人の二人の子供がいたのですが、かなり不和のあるご家庭であり、以前飲んだときから、さかんにそのことをぼやいておりました。

おそらくはその死をもって、その遺族たちに何かを知らしめんとしようとしたのでは云々という話が夫婦二人の車の中での結論でしたが、では我々友人たちにも何かを伝えたかったとしたら何か?を考えたとき、いろいろ思い当たることなどもあり、そうしたことをいろいろ考えながらハンドルを握っていた帰りの道でした。

さて、この帰路の行程なのですが、行きは修善寺から沼津へ出て、ここから東名高速道路を通り、都内を通過後、常磐道を北上してつくばへ到達するというルートを通ったのですが、帰りには千葉方面へ出て、東京湾アクアラインを通って帰ろう、ということになりました。

つくばからは、未完成の「圏央道」が牛久(うしく)まで通っているため、ここを通り、さらに一般道および南関東道で千葉まで出たあと、館山自動車道で木更津へ行きました。

アクアラインはここから川崎までの約15kmの大部分が海底を通る「海底トンネル」路線です。私は、これが開通した翌年の1998年(平成8年)に初めてここを通り、途中のパーキングエリア(PA)である、通称「海ほたる」に行ったことがあったのですが、タエさんにとっては初めての体験。

この日は天気もよく、残念ながら富士山は見えなかったのですが、海ほたるからは東京スカイツリーや、東京タワーほか横浜のランドマークタワーほか東京の町も良く見え、非常に気持ちのよいひとときを過ごすことができました。

羽田空港を利発着する飛行機の飛び交うなか、海鳥たちや行きかう船などを時間も気にせず、飽きずに眺めていられるというのは幸せなもので、普段あまり経験することのない「非日常」をすっかり堪能して帰ってきました。

ところで、このアクアラインの入口のある木更津から北の房総半島の大部分はその昔、海だったというのはご存知でしょうか。私もよくは知らなかったのですが、今朝そのことについていろいろ調べてみている中、そうだと知りました。

つくばから成田を通り、千葉へ抜ける間の道路の周辺は、見渡す限りの広々とした田園地帯がひろがり、はるか向こうまで遮るものが何一つない大地が広がっている場所というのも多く、そのほとんどすべてが昔は海だったというのは少々驚きです。

古くは、この一帯は「香取海(かとりのうみ)」と呼ばれていたということで、それがいつの時代かというと、1000年以上昔のことだそうです。その当時、霞ヶ浦や印旛沼・手賀沼といった水域はすべてひと続きになった広大な規模の内海だったそうで、また様々な河川が流れ込み、面積は東京湾に匹敵するほどだったといいます。

縄文時代以前のこの地には、「海面後退」が起き、ここには「侵食低地」が作られていましたが、縄文時代になってからは逆に「海進」が進み、大量の海水が流入することで海になりました。ただし、海とはいいながら鹿島灘に湾口を開く「湾」のような状態であり、ここに鬼怒川などの河川が流れ込んでいたことから、これを「古鬼怒湾」とも呼ぶようです。

縄文時代の人たちは、この香取海の周囲のいたるところに集落を造って住んでいたようで、、そうした場所の多くには貝塚が分布しており、また房総半島北東部を今も流れる「栗山川」などの水系の各所では、実に日本全体で出土したうちの約40パーセントに相当する、80例もの丸木舟の出土があるそうです。

このほか、近隣の埼玉県や茨城県でも多くの丸木舟の出土例があり、古くから水上交通を通した独自の文化圏が形成されていたのではないかと考えられています。

これより少し時代が下った古墳時代になると、多くの古墳が造られるようになりますが、これらの中にはその後水害によって消滅したものも多いものの、今なお形をとどめているものも現存しており、これらの発掘調査などから、香取海は近畿地方から東北や北海道へ向かうための中継地としての要衝の地でもあったことがわかっているようです。

「日本書紀」には、「日本武尊、即ち上総より転じて陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷の境に至る」とあるそうで、日本武尊(やまとたけるのみこと)というのは神様ではなく、天皇のような人のことをさしていると思われますが、そういった権力者がこの時代既に香取海を経由して北海道にまで渡っていることがわかります。

その後さらに奈良時代ころになると、今も下総国で第一の神社といわれる香取神社が創建されており、この香取神社の神主(大宮司職)は、中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫の大中臣(おおなかとみ)氏が務めており、平城京の摂関家藤原氏との関係も深かったようです。

なお、このころに書かれた「常陸国風土記」という歴史書には、「四面絶海にして、山と野交錯れり。居める百姓、塩を火きて業と為す」云々という記述があり、これから、この当時この地一帯の内水はすべて海水であったこともわかっています。

その後、平安時代の後半になって武士が台頭してくると、香取海は陸奥国を経て蝦夷までの北の地方を平定しようとする大和朝廷の重要軍事拠点となり、坂上田村麻呂や文室綿麻呂による蝦夷征討後は、ここを根拠地とした物部匝瑳(もののべそうさ)氏が3代に亘ってこの地の鎮守将軍に任ぜられました。

その後、この地は、「坂東武士」の始祖、平将門などの坂東平氏の根拠地となるなど歴史上の重要な舞台となりました。とくに将門は香取海を基盤に独立国家を作ろうとし、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、朝敵となりましたが、即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されました(承平天慶の乱)。

その後、平安時代末期になると、前述の「香取神宮」がこの地における権益を手中にするようになり、その社領は、香取海の周辺にまで広がっていきました。

ついには国衙が持っていた権力までも香取神宮が所有するようになり、本来は神社であるがゆえに供祭料・神役の徴収するだけだったものが、これを遥かに超える「浦・海夫・関」などの権益を手にいれるようになります。つまり、香取海の港や漁民を支配し、漁撈や船の航行の権利を保障するとともに、東京湾に通じる古利根川水系に河関を設けて、通行料を徴収するようになりました。

その後の鎌倉時代には、水上交通は更に活発となり、沿岸には多くの港が作られた。香取神宮の権力はあいかわらず絶大で、常陸太平洋側から、利根川・鬼怒川・小貝川・霞ヶ浦・北浦などの内陸部、北総及び両総の太平洋側にかけてのほとんどの港は香取神宮が支配していたといいます。

香取海に流れ込む河川を通じて北関東や東京湾とも活発な交流も行い、房総沖の太平洋にまで出て海運を行っていたのではないかという説もあるようです。

続く南北朝時代には、下総津国宮津以下24津(港)、常陸国大枝津・高津津以下53津の計77の津を香取神宮が支配していたという記録もあり、河関もさらに広範囲に設けられ、これらの河関は現在の東京都内にまで及び、江戸川区東葛西や市川市の行徳など東京湾の沿岸にも河関があったといいます。

しかし、このように長く栄華を誇った香取神宮によるこの地域一帯の支配も、江戸時代になり、徳川幕府がこの世を支配するようになると、次第にその権益を失っていきました。

香取海を通じての貿易などの収入のほとんどは幕府にはいるようになり、こうしてできた金で幕府は、それまで、江戸に流れ込み、毎年のように氾濫を招いていた利根川の流路を東に向けるためのいわゆる「利根川東遷事業」を開始します。

これによりを江戸を水害から守り、流域の沼や湿地帯から新田を新たに創出し、水上交通網の確立、利根川を北関東の外堀とし、東北諸藩に対する備えとすることにしたのです。

江戸時代以前の利根川は、下総国の栗橋(現・茨城県最西部の猿島郡(さしまぐん)付近)より下流は、埼玉県内を通って、葛飾から両国あたりを流れており、途中で現在の綾瀬川流路を流れていた荒川や入間川(現在の荒川流路)と合流して江戸の内海(東京湾)へと注いでいました。

このため、江戸市中には度重なる利根川の氾濫が起こっていましたが、幕府はこの利根川を途中からその東に流れる鬼怒川方向に転じてこれに合流させ、現在の千葉県銚子市より太平洋へと流れる川とするための工事に着手しました。

この結果として、それまでの香取海の水もこの利根川に流せるようになり、このため海が干上がってこれが手賀沼や印旛沼、牛久沼となり、江戸への利根川の水の流入を少なくすることに成功しました。

また、これにより香取海と呼ばれていた一帯の淡水化が進み、当時人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって、干拓と新田開発が盛んになりました。また、銚子・香取海から関宿・江戸川を経由し、江戸へといたる水運の大動脈が完成しました1665年(寛文5年)。

ところが、この付け替え工事により、逆に利根川中流部の集落はひん水害に襲われるようになり、1783年(天明3年)には浅間山が噴火し、利根川を通じて火山灰が中流域に大量に流入、河水があふれ出て、周辺地域の更なる水害の激化を招く事となりました

当時の土木技術では大規模な浚渫などの抜本的な対策を取ることはできず、浅瀬の被害も深刻化し、前述の艀下船を用いても通行が困難になる場合もありました。パナマ運河工事の土量を越える大規模な浚渫が実施されましたが、結局、この浅間山噴火の影響が利根川全域から取り除かれたのは明治後期になってのことでした。

1899年(明治32年(1899年)になり、ようやく国と千葉・茨城両県による改修工事計画が検討されることとなり、こうして実施された大規模な利根川改修工事により、ようやく現在のような利根川の形がほぼ確定していくこととなります。

これらの一連の河川改修により、東北から江戸への水運には、利根川を使うことで危険な犬吠埼沖の通過や房総半島の迂回をする必要が無くなり、利根川は、大消費地江戸と北関東や東北とを結ぶ物流路として発展していきました。この水運路は鉄道網が整備される明治前半までは流通幹線として機能していきます。

また、この河川改修によって江戸周辺や武蔵国、常陸国、下総国などを中心として新田開発が進み、耕地面積が大幅に増加しました。こうして、かつてここにあった広大な香取海は次第に姿を消していき、今回我々が目にしたような広大な田園地帯が誕生したわけです。

今ではそこがかつては海であったとは思えないほどの広々とした大地が広がっていますが、これが人為によって造られた風景だとわかると、人間の力というのはすごい物だと改めて感じさせられます。

ところで、昨日の朝、この大地を車で通過して木更津へ向かうとき、この途中に通った圏央道からは巨大な仏像が見えました。牛久の大仏です。

ブロンズ製の大仏立像で、全高120mもあり、立像の高さは世界で3番目ですが、ブロンズ立像としては世界最大だそうで、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺によって造られました。

1989年に着工し、あしかけ4年もかかって1993年に完成しました。霊園である牛久浄苑のエリア内に造られたもので、その姿は同派の本尊である阿弥陀如来像の形状を拡大したものだそうです。

高さやく15mの奈良の大仏が掌に乗り、アメリカ合衆国ニューヨーク州にある自由の女神像の3倍近くの大きさがある、地上高世界最大のブロンズ製人型建造物であり、ギネスブックにも「世界一の大きさのブロンズ製仏像」として登録されています。

残念ながら、我々はそばを通過しただけで、その足元まで行くことはできませんでした。が、ここへもし行けたら、大仏の胸部にあたる地上85mまではエレベーターでのぼる事ができるそうで、ここから周囲の景色を展望することができるようです。

おそらくここへ登れば、かつて香取海と呼ばれた地域一帯と、坂東太郎と呼ばれここを流れる雄大な利根川の姿を一望のもとにみることができたでしょうが、その景色をみることができなかったのは少々残念です。

かつて東京湾アクアラインを初めて通ったのは15年前。すると、この次にここを訪れることになるのは、2031年か…… と、そうはならないかもしれませんが、いずれにせよ、伊豆から房総半島まで行く機会もなかなかありませんから、案外とそうなのかもしれません。

さて、今日はもう立春です。2月になったことでもあり、そろそろ梅のつぼみも膨らんできました。あまり遠出ばかりせず、近場の名所も訪れてみましょう。修善寺梅林の梅が気になります。明日はお天気がよさそうなので、開花状況をちょっと見てきましょう。みなさんの町の梅はもう咲いたでしょうか

爪木崎にて ~下田市


先週、お天気が良い日を選んで、下田の「爪木崎」へ、今まっさかりという水仙を見に行ってきました。

場所は、下田の市街地から東南東へ5kmほど離れたところで、修善寺からは国道414号を通って天城峠越えで行くのが一番近いようなので、我々もこのルートで行きました。が、熱海や伊東方面からアクセスする場合には、国道135号のほうが便利です。

414号から来るルートも最終的には河津町でこの国道135号と合流し、ここから少し南下したところにある「須崎」「爪木崎」の道路標識を左折。1つ目の信号を左折し、その後、周囲を低いブッシュに囲まれた道がだらだらと続きます。

しばらく眺めはよくありませんが、これを我慢して運転しているとやがて視界が開け、駐車場とゲストハウスが見えてきます。駐車場に乗り入れると、係の人が近づいてきますので、ここで駐車料金500円を払います。終日止めていても同じ料金なので、ほかに爪木崎周辺のハイキングコースに向かう人もここにクルマを止めると便利でしょう。

ちなみに、伊豆急下田駅からはバスも出ていて、乗り場は10番、「爪木崎行き」だそうです。所要約15分で着くようですので、この週末ちょっと行ってみようかなという人で車をお持ちでない方は伊豆急+バスのコースにぜひチャレンジしてみてください。

昨年、我々も初めてここに行ったのですが、このときは少し天気が悪く曇りがちで、海もどんよりしていました。が、この日は上天気で視界もよく、陽射しがあったせいもあるのですが、さすがに下田!と思えるほどの陽気で、海岸を散歩しながら満開の水仙を鑑賞するには絶好の日よりでした。

海岸沿いの遊歩道沿いには180度の大海原が臨め、北側を見ると伊豆半島の東海岸の入り組んだ雄大な海岸線が、南に目を転じると、そこには太平洋の青い青い海原と、そこにポツポツと見えるのは、利島や新島、式根島といった伊豆七島です。

これらの島々よりもひときわ目を引くのが、神子元島(みこもとじま)という無人島で、ここ、爪木崎からは、さんさんと降り注ぐ太陽のもと、逆光になってシルエットでうかびあがっています。ほぼ中央に灯台らしいものがそびえ立っていて、これが目を引く理由のひとつでもあります。

この神子元島は、ここ爪木崎から西南西約9kmの位置に浮かぶ小島で、「静岡県」に所属する島としては、最南端の島だそうです。

ちなみに伊豆七島も静岡県に所属していると思っている人が多いようですが、その最大の島である大島も含め、すべてが東京都に属しています。

このため、言葉も静岡というよりも東京なまりでしゃべる人が多く、その風習も古き良き時代の東京のものが受け継がれているという話も聞いたことがあります。地理的には静岡のほうが断然近いのに不思議なことですが、このあたりの歴史談義はまたいずれ別の機会にしましょう。

爪木崎から南に広がる太平洋は、見るからに黒々としていて、これはいわゆる「黒潮」によるものです。ふだんは駿河湾や相模湾の比較的青々とした海の色に見慣れているので、ここにくるとその色は本当に黒く見えます。

この黒潮に洗われている神子元島には、遠目では良く確認できませんが、樹木はまったく無いそうで、その中央の岩山の頂上に立っている灯台も、白黒ストライプに着色されているのだそうです。

この灯台は、イギリス人のリチャード・ヘンリー・ブラントンという人の設計によるもので、この人は明治時代に政府が招いて来日したいわゆる「お雇い外国人」のひとりです。母国のイギリス(生まれはスコットランド)では「工兵技監」というお役人であり、建築家でした。

日本に来てからは、数多くの灯台設置を手がけ、技師として勤務していた7年6ヶ月の間に灯台26と、灯竿(航路標識のようなもの)を5、灯船2(横浜港、函館港)などを設計しており、これらの功績により「日本の灯台の父」とまで言われています。

その灯台26をリストアップしてみました。以下のとおりです。

納沙布岬灯台(北海道根室市)当初は木造、1872年8月15日
尻屋埼灯台(青森県下北郡東通村)煉瓦造、1876年10月20日
金華山灯台(宮城県石巻市)石造、1876年11月1日
犬吠埼燈台(千葉県銚子市)煉瓦造、1874年11月15日
羽田灯台(東京都大田区)鉄造、1875年3月15日、現在は廃灯
剱埼灯台(神奈川県三浦市)当初は石造、1871年3月1日
神子元島灯台(静岡県下田市)石造、1871年1月1日
石廊埼灯台(静岡県賀茂郡南伊豆町)当初は木造、1871年10月5日
御前埼灯台(静岡県御前崎市)煉瓦造、1874年5月1日
菅島灯台(三重県鳥羽市)1873年7月1日、煉瓦造灯台としては現役では最古
安乗埼灯台(三重県志摩市)当初は木造、1873年4月1日
天保山灯台(大阪市港区)木造、1872年10月1日、現在は廃灯
和田岬灯台(神戸市須磨区)鉄造、初点灯は1872年10月1日、1963年に廃灯。須磨海浜公園に移設保存(登録有形文化財)。
江埼燈台(兵庫県淡路市)石造、1871年6月14日、退息所は四国村に移築
樫野埼灯台(和歌山県東牟婁郡串本町)1870年7月8日、ブラントンの日本での初設計。日本最古。
潮岬灯台(和歌山県東牟婁郡串本町)木造、1870年7月8日 仮点灯、1873年9月15日 初点灯
友ヶ島灯台(和歌山県和歌山市)石造、1872年8月1日
六連島灯台(山口県下関市)石造、1872年1月1日
角島灯台(山口県下関市)石造、1876年3月1日、日本での最後の仕事
釣島灯台(愛媛県松山市)石造、1873年6月15日
鍋島灯台(香川県坂出市)石造、1872年12月15日、退息所は四国村に移築
部埼灯台(福岡県北九州市)石造、1872年3月1日
白州灯台(福岡県北九州市)当初は石造、1873年9月1日
烏帽子島灯台(福岡県糸島市)鉄造、1875年8月1日
伊王島灯台(長崎県長崎市伊王島)当初は鉄造、1871年9月14日
佐多岬灯台(鹿児島県肝属郡南大隅町)鉄造、1871年11月30日

どうでしょうか。ご存知の灯台も多いのではないでしょうか。私もこのうちのいくつかに実際に行ったことがあり、とくにブラントンの日本での最後の最後の作品である、山口県の角島灯台には、海水浴ついでに3回ほど行ったでしょうか。

しっかりとした石造りで、西洋の砦を思わせるような重厚なその姿は130年以上も経った古い灯台とは思えないほどのものす。

水仙の話から少し逸れてしまうのですが、このブラントンという人の経歴について少し書いておきましょう。

この人は、1841年のスコットランド生まれで、この年は日本では天保12年にあたり、同じ年に伊藤博文が生まれています。英国海軍の艦長の息子としてアバディーンシャー州キンカーデン郡に生を受け、当初は鉄道会社の土木首席助手として鉄道工事に関わっていました。

このころ日本では幕末から明治を迎える時代であり、富国強兵のためのさまざまなインフラ整備が必要となったため、諸外国からお雇い外国人を招き、先進国の技術の導入を図ろうとしていました。

陸海の交通網の整備もその重要分野のひとつであり、とくに海路の拡充は外国との貿易を勧める上においては最重要課題でした。

しかし、諸外国から来日する船の多くは、満足な測量も行われていない日本の港湾に入港することを不安に感じており、また、沿岸に近づく際に浅瀬に乗り上げて座礁する船も相次いだことから、日本の各地の沿岸に灯台を設置することをそのころの江戸幕府に強く求めました。

このころの日本には、まだ光達距離の短い灯明台や常夜灯ぐらいしか設置されておらず、しかも航路標識の体系的な整備が行われていなかったため、諸外国から「ダークシー」と呼ばれて恐れられていました。

このため、1866年(慶応元年)にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ改税約書、いわゆる「江戸条約」では8ヶ所、その翌年の1867年(慶応2年)にイギリスと結んだ「大坂条約」で5ヶ所の灯台を整備することが定められ、これら13の灯台は「条約灯台」とも呼ばれており、現存するものも多くあります。

この条約は維新後にも受け継がれ、明治政府はこのため、この分野を得意とする技術者の紹介をイギリスに打診したところ、スコットランド地方に灯台の設計では有名なスティーブンソン社という会社を経営している兄弟がおり、イギリス政府は彼らが灯台の設計を請け負っているという回答を送ってきました。

この兄弟は多忙だったためか、結局その来日は実現しませんでしたが、このスティーブン兄弟を介し、日本の明治政府への派遣が推薦され、灯台技師として採用されたのが、チャールズ・ブラントンでした。

1868年(明治元年、慶応4年)2月、正式に明治政府から採用されたブラントンは、お雇い外国人としては第1号でした。そもそもは鉄道技師であったため、訪日にあたって灯台建設や光学、その他機械技術を、短期間の内に英国内で実地に体得したといいます。

妻子及び助手2人を伴って来日したのはブラントがまだ26歳のときであり、戊辰戦争が終わった直後のことであり、江戸はまだまだ混乱の最中にあったであろうと想像されます。

しかし、ブラントンはこの時から1876年(明治9年)までの8年間の日本滞在中、明治政府の期待に答えて精力的にその任務をこなしつづけ、和歌山県串本町の樫野崎灯台を皮切りに上述の多くの灯台や灯竿、灯船などを建設し、日本における灯台体系の基礎を築き上げました。

さらには、灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いだといい、灯台以外でも、ブラントンは多くの功績を草創期の近代日本にもたらしました。

その中には、日本初の電信架設(1869年(明治2年)、東京・築地~横浜間)のほか、幕府が設計した横浜居留地の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し、街路を整備したのも彼でした。

また、ブラントン自身がもともとは鉄道技師であったことから、日本最初の鉄道建設についての意見書も提出しており、同じくお雇い外国人だったオランダの土木技師のローウェンホルスト・ムルデルらとともに大阪港や新潟港の築港計画に関しても意見書を出しています。

このほか、現在の横浜スタジアムのある横浜公園もブラントンが設計したものだそうで、この公園の中の日本大通に続く入口近くには、台座に「リチャード・ヘンリー・ブラントン Richard Henry Brunton 1841-1901」の銘板のある胸像も置かれており、横浜市民に親しまれています。

ブラントンは1876年(明治9年)、35歳のとき、明治政府から任を解かれ帰国しましたが、英国で彼は、論文「日本の灯台 (Japan Lights) 」を英国土木学会に発表、賞賛を受けています。

その後は建築家として、建物の設計及び建築に携わり、その晩年には、「ある国家の目覚め―日本の国際社会加入についての叙述とその国民性についての個人的体験記」を記しておおり、これは仕事の合間に書きためた原稿だそうで、これをまとめ終えて程なく世を去っています。1901年(明治34年)、59歳没。

10年に渡る日本の状況や日本人の生活がどんなものだったかはこれを読むと詳しくわかるのでしょうが、それを転載する暇も元気も今日はないのでブラントンに関する記述はこれくらいにしておきましょう。

そのブラントンが造った神子元島灯台は、1871年1月の初点灯以来、伊豆半島沖を往来する船舶に光を放ち続け、今なお当時の姿を残す石造り様式灯台として国の史跡に指定されています。

その着工は1869(明治2)年のことであり、それから1年9ヶ月の歳月と多額の経費がかけられて掛けられて1871年(明治4年)の1月1日完成。今年でなんと142歳のおじいちゃん(おばあちゃん?)灯台になります。

点灯式には当時の太政大臣三条実美をはじめ、大隈重信、大久保利通などの顔ぶれが並んだといい、神子元島は現在人も住めないような岩島ですが、灯台が出来てからは昭和7年までは灯台守が常駐していたそうです。

歌人・若山牧水は大正2年にこの島で灯台守をする友人を訪ね、その時のことを歌集「秋風の歌」に収めているといい、現在もそうですがこの当時からその姿は下田を訪れる人々にとっては耳目を集めるものだったに違いありません。

その後灯台守は10日交替制になり、昭和51年からは巡回保守の無人島となっているということですが、下田の沿岸から近いこともあり、島の周辺は磯釣りやダイビングのスポットになっていて、島に上陸する人も割と多いようです。

灯台の近くには官舎や倉庫が残されているそうで、ここへ行けばこの島で生活をしていた灯台守の生活を垣間見ることができるかもしれません。

そんな神子元島を遠目に眺めつつ、潮風を感じて歩いた爪木崎でしたが、その大自然を感じさせる景色はやはり素晴らしいものでした。

ここの水仙は、実は昨年の暮れからもう咲き始めているそうで、昨年の12月20日から、昨日の1月31日までが「爪木崎水仙祭り」の期間だったようです。

期間中、爪木崎名物の鍋「いけんだ煮みそ鍋」を無料で振る舞うサービスや、下田海中水族館からやってきたペンギンのパレード、地元の有志による演舞、下田太鼓の実演などの催しもあったようですが、それも昨日で終わってしまったようです。

しかし、今年は例年よりも約2週間も開花が遅れているそうで、むしろ今のほうが見頃のようです。下田市の観光協会さんのホムペにも2月上旬まで十分楽しめるのではないかと書いてありました。なので、この週末でもまだ間に合うと思います。少し早い春を感じたい方、梅はまだまだこれからのようですから、伊豆まで行ってみましょう。

ちょっと前にアナウンスした、この付近一帯のあちこち咲く「アロエ」の花も今年はやはり遅れているようで、この爪木崎公園にたくさんの植えてあるアロエの花壇にもまだ多くの花が残っていました。

そのアロエの花には甘い蜜が出るようで、これを目当てにしたメジロやヒヨドリがその花々の間を飛び交っていましたが、これをまた写真に収めようとする観光客がメジロの周りを飛び回っていました。

私もその一人となり、パチリと撮ったものを最後にひとつ添えましょう。園内を歩くとほのかに水仙の甘い香りが楽しめ、飛び交うメジロの姿を見ているとまるで春が来たかのような気分になれます。

水仙やアロエ、メジロだけでなく、暖かく風もない日を選んで、のんびりと静かな下田の海を眺めるのもまた良いものです。明日土曜日は少し天気が崩れるようですが、日曜日には回復するようです。みなさん、ぜひ下田へいきましょう!