オリハルコン


日々の気温がだんだんと高くなっていく中、昨日庭いじりをしていたら、今年になって初めて藪蚊にほっぺたを刺されました。

あぁそうか、今年もとうとうそんな季節になったかと、季節の移ろいの速さを思う反面、これから訪れる雨の季節とその後の暑い日々のことが頭に浮かび、少々気が重くもなったりします。

いっそのこと、夏のないところへ引っ越せばよかったなどとも思い、北海道という手もあったなとは思うのですが、さすがに北のはてまで行って住もうという気になれず、関東地方から近い利便さの魅力にも負け、ここ静岡へやってきたわけです。

ただ、これから残りの人生をすべてここで過ごすのかな、と考えてみると、どうもここが終の住処というかんじはなく、この点、タエさんも同じらしく、どうもまた別のところへ移り住むような気がする……とよく言います。

じゃぁそれがどこか、ということは今はさっぱり見当もつきませんが、二人にとっては郷里である地である広島や山口という可能性もなくはない。

郷里に近い場所というのは、親戚やかつての友人たちも多いわけでもあり、老後を過ごす場合、そうした知人が多いというのはやはり心強いもの。そうした人達に囲まれて過ごす残りの人生を考えると安心感がある……

……というようなことを最近よく思ったりするのは、やはり歳をとったからかな~と思ったりもします。

5×才はまだまだ若く、そこいらの運動不足のお兄ちゃんたちとは比べものものもないほど体力はあると思っているのですが、いかんせん、早晩老いさらばえていくことだけは確かなこと。魂は永遠ですが、いつかはこの肉体も滅びていくわけです。

ところで、「永遠」と書いていて、先日書いたブログ「アトランティス」との関連から、その昔読んだ手塚治虫さんの漫画、「青いトリトン」という作品を思い出しました。

主人公のトリトンは、「人魚族」の最後の生き残りであるという設定で、その一族を滅ぼそうとしている海の支配者ポセイドン一族と闘うという、海洋冒険SFマンガです。

トリトンは、最後の人魚族の子供でしたが、その父母もまたポセイドン族の一族の迫害に遭います。そして追い詰められて死に瀕したところで、トリトンをある人間(漁師だったかな?)に託します。人間に育てられて逞しく育ったトリトンはやがて海へ帰りますが、そこで、もう一人の生き残りの女の子「ピピ」と出会います。しかし、ポセイドンのワナにはめられ、二人は人間の敵に仕立てられてしまいます。

そして、ついにトリトンとピピは立ち上がり、人魚族の仇を打つためにポセイドンとの決戦を決意する……という話だったと思うのですが、なぜこれが「永遠」と関係があるのかというと、このトリトンの大敵である、ポセイドン一族の親分、王様が永遠の命を持っていたからです。

ポセイドン王は代々不死身の体を持っており、歴代の149人のポセイドン王が砦に眠っていて、一人がその「一生」を終えると、それで死ぬわけではなく、別の眠っていたポセイドン王に政権をバトンタッチ。自らはまた眠りに入ることでパワーを蓄える……みたいな荒唐無稽な話でした。

手塚治虫さんの原作も結構破天荒なストーリーでしたが、これがアニメ化されてテレビ放送になったほうもまた、かなり跳躍したお話であり、これが「海洋冒険SF活劇」と呼ばれる所以なわけでもあるのですが、実はこのテレビアニメを私は大好きで、毎回のように欠かさずみておりました。

手塚さんの漫画のほうは、「サンケイ新聞(現産経新聞)」に1969年から二年に渡って連載されたものでしたが、アニメのほうは、その連載が終わった翌年の1972年4月から9月末まで放送されたものです。

テレビアニメのほうのタイトルは「海のトリトン」に改題されていますが、手塚版のほうもアニメ版のほうにも使われている「トリトン」とは、ギリシャ神話に出てくる海の神様の一人の名前です。

が、いずれも内容そのものはギリシャ神話とは何ら関連を持っておらず、強いて関連といえばポセイドンもトリトンも海にまつわる神様の名前であり、漫画アニメのほうも海をテーマにしているという点でしょうか。

ちなみに、ギリシャ神話のほうでは、トリトンとポセイドンは親子ということになっています。トリトンは、父親のポセイドンと同じく、三叉の矛(トライデント)を持っており、波を立てたり鎮めたりするためにラッパのように吹く法螺貝もまた、彼のシンボルです。

高らかにこのほら貝を吹き鳴らすその音たるや、「強健な野獣のうなり声」のようだったといい、ギリシャ神話に居並ぶ巨人たちが、猛獣と勘違いして逃げ出すほど恐ろしいものであったそうです。

現代版のギリシャ神話、アニメ漫画のほうではその放映当初、トリトン族の赤ん坊をたまたま拾ってしまったある漁村の人間の少年を主人公とし、この少年が、ポセイドン族とトリトン族との抗争に巻き込まれるという、ど根性ものとして展開していく予定だったそうです。

ところが、プロデューサーさんがその途中で、純然たる冒険活劇とした方が作品として面白くなると考え直し、人間の子供を主人公にするのをやめ、海人の子、トリトンにこれを交代させたそうです。

我々と同世代の人の中には、このアニメをご覧になり、私同様にファンになった方も多いと思います。が、ご存知のない世代の方も多いであろうことから、そのストーリーの最後のほうをざっと、書いておきましょう。

トリトンは、失われたアトランティス大陸の遺跡の中、そこはポセイドン一族のアジトでしたが、ここに入ってポセイドン族と最後の対決をします。

ここで、トリトンは、父母の形見としてそれまでの戦いの中でも使ってきた「オリハルコンの短剣」の秘密を知ることになります。ポセイドン族が一族の守り神、象徴であり、かつパワーの源である「ポセイドン像」というものがあるのですが、これは「プラスエネルギー」を持つオリハルコンでできていました。

一方、トリトンが持つ短剣のほうは、マイナスエネルギーのオリハルコンで作られており、実はこの短剣は、ポセイドン族によって滅ぼされた古代のアトランティス人から受け継がれてきたものでした。

マイナスエネルギーのオリハルコンの短剣をもってポセイドン族を滅ぼすようにという願いを込めてトリトン族に託されたものであり、この短剣には、ポセイドン族の生命の源であるポセイドン像を破壊してしまうだけの力がありました。

このため、ポセイドン族は自らの安泰のためにも、トリトンを捕まえ、オリハルコンの短剣を始末しなければならなかったわけです。

そして、この海の中の古代アトランティス大陸のポセイドン宮殿の中で、ポセイドン一族とトリトン族の末裔である海のトリトンとの最終決戦が行われます。

最終的にはトリトンが勝ち、ポセイドン像を破壊、その爆発のためポセイドンの基地も宮殿とともに破壊されます。その後トリトンとピピは、イルカたちと共にいずこかへ立ち去っていくのであった……めでたしめでたし。

原作の手塚治虫さんの漫画のほうは、トリトンが不死身のポセイドンを追放するため、その歴代の王たちを全員引き連れて宇宙へ飛び立ちます。その後、ピピとの間に生まれた7つ子の息子のひとりが、地球に帰ってくる……という結末だったと思いますが、ストーリー的には断然アニメ版のほうが面白かったように記憶しています。

このため、これが放送されたころに小中高生だった子供たちには結構人気があり、この作品のために、テレビアニメとしては日本で初めてファンクラブが作られたそうで、中でもとりわけ女性ファンの人気が高かったといいます。

番組制作の録音スタジオには、トリトン役の声優さんを目当てに女子中学生や女子高校生が殺到するという、後のアニメ声優ブームの先駆けとなる現象も見られたといいます。

このアニメは、後年の「宇宙戦艦ヤマト」を生むきっかけにもなったといい、アニメブームの先駆としてその筋の方々からは重要なものであると位置づけられているとか。

そのプロデューサーは、手塚治虫の「虫プロ」のマネージャーであった「西崎義展」という人で、手塚から自らその放映権を取得。テレビ局へ売り込んだところ採用され、テレビアニメ初プロデュース作品となったものであり、この成功がこの人の後の大ヒット作品「宇宙戦艦ヤマト」にもつながりました。

ほかにも「ワンサくん」「宇宙空母ブルーノア」などの作品があるようですが、やはり「宇宙戦艦ヤマト」の評価が最も高く、その後の活動も、一連の「宇宙戦艦ヤマト」の姉妹作品を中心としたものであり、現在も「YAMATO2520(ヤマトニーゴーニーゼロ)」といった関連作品手がけられているようです。

ちなみに、この海のトリトンには、テレビ版を再編集した劇場版があるそうですが、私は見ていません。日本コロムビアのコロムビアビデオと、パイオニアLDC(現・ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン)などからその前後編を合わせて収録したDVDも発売されているそうなので、この作品をもう一度見たい方は、探してみてください。

ところで、この海のトリトンに出てくる「オリハルコン」とはいったい何ナノでしょうか。実は先日のブログ、「アトランティス」にも出てきたのですが、紙面の関係から説明を割愛しました。

プラトン が「クリティアス」の中で記述した、アトランティスに存在したという幻の金属のことであり、語源は「山の銅」という意味で、プラトンの著述作品以外にも、古代ギリシャの色々な詩作品に登場します(「へラクレスの盾」や「ホメロス賛歌」など)。

これらの作品からは、オリハルコンとは、真鍮(黄銅、銅と亜鉛の合金)、青銅(銅と錫の合金)、赤銅(銅と金の合金)、天然に産出する黄銅鉱(銅と鉄の混合硫化物)や青銅鉱、あるいは銅そのものと解釈されるようです。またラテン語では「金の銅」を意味するといいます。

これに対してプラトンの「クリティアス」は、その性質は明らかにされておらず、名前のみが伝わっていた幻の金属として登場してきます。その作中4箇所5度にもわたってオリハルコンを意味する「オレイカルコス」という単語が登場するとのことで、例えば、

「アトランティス島ではありとあらゆる必需品が産出し、今では名前を残すのみだが、当時は名前以上の存在であったものが、島のいたるところで採掘することができた。即ちオレイカルコスで、その頃知られていた金属の中では、金を除けば最も価値のあるものであった」

とか、

「アトランティス島の)一番外側の環状帯を囲んでいる城壁は、まるで塗りつぶしたかのように銅(カルコス)で覆われており、城壁の内側は錫で、アクロポリスを直接取り囲む城壁は炎のように輝くオレイカルコスで覆われていた」

などの具体的な記述がみられます。このほかにも、ポセイドン神殿の天上や壁、柱、床などにオレイカルコスが使われていたこと、アトランティスを支配する10人の王たちの戒律がオレイカルコスの柱に刻まれいたことなどが、記されています。

このようにプラトンのアトランティス伝説におけるオリハルコンは、武器としては使われていたのではなく、硬さ・丈夫さよりも、その希少価値が謳われていたようです。

このため、オリハルコンは、真鍮、青銅、赤銅などの銅系合金、黄銅鉱や青銅鉱などの天然の鉱石、あるいは銅そのものと解釈する説を支持する学者が多いようですが、このほかにも鉄、琥珀、石英、ダイヤモンド、白金、フレスコ画用の顔料、アルミニウム、絹など、種々の解釈があります。

現代人ばかりかと思ったら、プラトンの生きたギリシア時代よりも少し下がった時代の学者たちの間でもこのオリハルコンが何であったかという議論がなされたようで、BC350年頃に、アリストテレス (BC384–322)が、このオリハルコンの定義について議論しているといいます。

以後、この議論は近代まで続けられており、シアン色の青銅であるという解釈や、王金(亜鉛25%含有の黄銅)、亜鉛の化合物、銅系鉱石や真鍮の一種、透明な銅のようなもの、などなど様々な解釈がなされてきています。

比較的最近では、英国の神智学者ウィリアム・スコットという人が、「アトランティス物語」という本を1896年(明治29年)に書いており、この中で、アトランティスには「二種の白色の金属と一種の赤色の金属からなる、アルミニウムよりも軽い合金」で作られた戦闘用飛行船が存在する」と書いています。

これがオリハルコンであるとははっきり書かれていないようですが、アトランティスで使われていた軽合金といえば誰でもこれを思い浮かべます。その動力源には、「ヴリル」と呼ばれるSF小説にも出てくるようなものが使われていたとまで書かれています。

ここで、「神智学」というのは、現在世界中にあるいろんな宗教や神秘思想、オカルトを1つの真理の下で統合することを目指している学問というか、一種の「思想」です。

神智学の主張によると、宗教、神秘主義、オカルトの奥義は、それが支配する力の大きさや危険性から、どの時代においても一部の選ばれた少数の人間にのみ伝授され守られてきたとしています。

オカルトをも統合するといいますが、「一部の選ばれた少数の人間にのみ」といった考え方自体がオカルト的な雰囲気であるため、現在ではやはり異端の学問とみなす人も多いようです。

神智学では、宗教、神秘主義、オカルトに関する知識は、自分自身の内的な認識、超能力、神秘体験、霊覚、直接的な観察などによって得られるとされています。

このため、宗教、神秘主義、オカルトなどそれぞれの分野でかつて活躍してきた思想家たちは、古代のエジプトやインドの賢者たちも含め、客観性や合理性を重視する実証主義的な現代の科学者達よりも、ある意味では優れた認識や理解を持っていると神智学の学者たちは考えています。

そうした宗教、神秘主義、オカルトの教義に精通し、神秘の奥義を伝授されている人間を「秘教の秘伝への参入者」と呼び、その中でも特に奥義を体得している者達は、様々な超常的な力(物質化、テレパシーなど)を持っていたり、肉体を通常よりもかなり長い期間に渡って維持することができると主張しています。

さらには、こうした人達は宇宙の諸現象を理解する能力を持ち、人類への愛の面で卓越しているとも考えており、これらのことが、神智学が学問ではなく、どちらかといえば「思想」に近いものであると人々が異端視するゆえんでもあります。

しかし、「神智学協会」という非常にまじめな団体もあり、具体的な思想として、万物の一元性、宇宙や文明や人種の周期的な発生と衰退、三位一体の顕現、太陽系や人間の七重構造、厳正な因果律、輪廻転生、太古の文明、超能力、高次の意識、原子や鉱物や惑星の進化、生命体の進化に伴う天体間の移動、などなどについて研究しています。

イギリスの神智学者ウィリアム・スコットが、「アトランティス物語」の中で披露したる飛行体の記述も、こうした神智学的な見地によって「秘教の秘伝への参入者」から得た情報ということのようです。

スコットはこの飛行隊体や動力源をオリハルコンと特に結び付けた言及はしていませんが、 アトランティス人の生まれ変わりを称するかの有名な予言者「エドガー・ケイシー」は、そのリーディングでオリハルコンが未知の新素材や動力源と関連付けられると語ったということです。

無論、現代の科学では何の証明もされていないどころか、存在すらもしていない物質ですが、昨年の「ヒッグス素粒子発見!」以降、これまで幻であった物質の実在が次々と証明されようとしており、オリハルコンもまたいつかは、実際に存在する物質であった!という報道が突然なされる日がくるのかもしれません。

とはいえ、「永遠の肉体」を持たないわが身はその発見の報に接する可能性は少なそうです。が、現世では無理としても、来世では可能かも。その来世があれば……のはなしですが……

せいぜい生きている間できるだけ精進し、「秘教の秘伝への参入者」となれるように努力しましょう。それがオリハルコンや素粒子の秘密を知る最も近道のようですから……

アトランティス


日に日に緑が深まっていきます。去年、ここへ引っ越してきたあと、荒れ果てていた庭をあらためて整備し、きれいに仕上がったのは、5月の終わりごろのこと。

それから花づくりをするのは少々遅いとは思ったものの、ケイトウやらオシロイバナ、アサガオといった色々の花の種を撒きましたが、時期が遅かったのにも関わらず、みんな立派に育って、きれいな花を咲かせてくれました。

その花が終り、秋になってから取り置いておいていた種を先日までに撒いておいたら、先週くらいから、その芽がたくさん出ました。今年もまたきれいな花を咲かせてくれることでしょう。これから梅雨にかけての成長が楽しみです。

さて、今月の初めのこと、ブラジルの東方沖で、伝説のアトランティス大陸ではないかといわれる発見があったとの報道がありましたが、これを覚えている方も多いのではないでしょうか。

ブラジルのリオデジャネイロの南東1500キロメートル沖にある海面下1キロメートルの海底台地調査において陸地でしか形成されない花崗岩が大量に見つかったというものであり、
「この海底台地はかつて大西洋上に浮かぶ最大幅1000キロメートルの小大陸であったことが判明した」と、日本の海洋研究開発機構とブラジル政府が共同発表しました。

ブラジル政府は今回の調査結果について「伝説のアトランティス大陸かもしれない陸地がブラジル沖に存在していた重要な証拠」と強調しており、今後とも日本とブラジルは、この海底台地の調査を継続していくようです。

このアトランティス大陸ですが、古代ギリシアの哲学者プラトンが書き残した書物に出てくる記述がそもそもの出所のようです。

プラトンは、紀元前427年から紀元前347年に生きていた人ですから、それよりもさらに古い時代にこの大陸はあったことになり、日本では無論有史以前のお話であり、はるか遥か遠い昔のお話です。

プラトンの叙述をそのまま適用すると、このアトランティス大陸は大西洋にあることになるという解釈になるようです。

しかし実際には、大陸と呼べるような巨大な島が存在した証拠はこれまでには発見されておらず、南米沖のアゾレス諸島やカナリア諸島などの実在する島や、氷河期の終了に伴う海水面の上昇によって消えた陸地部分がアトランティスではなかったかと推定されてきました。

この「アトランティス」という言葉ですが、プラトンが生きていた時代のギリシア神話に出てくる「ティーターン族」の神である「アトラス」の女性形が「アトランティス」であり、このため、そのもともとの意味としては、「アトラスの娘」ということになるようです。

また、古代ギリシアではこの失われた大陸のことと、「アトラスの海」、「アトラスの島」という言い方もしていたそうで、古代ギリシア語の「海」を表す「タラッサ」や「島」=「ネーソス」もまた女性名詞だということなので、いずれにせよ、このアトランティス大陸は「女性の象徴」ということになるようです。

古代ギリシア人は、この大陸こそが自分たちの発祥の地だと考え、これを母になぞらえ、母なる海、母なる大地、といった印象を持っていたのでしょう。

プラトンがこのアトランティスに言及したのは、その著著である、「ティマイオス」と「クリティアス」という二冊の本です。この中に、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことを書いており、強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、最終的にはゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとも綴っています。

近年では、1882年(明治15年)、アメリカの政治家で、イグネイシャス・ロヨーラ・ドネリーという人が、このプラトンの記述を引用し、「アトランティス―大洪水前の世界(Atlantis, the Antediluvian World)」という本を発表したことにより、その当時の欧米では謎の大陸伝説として一大ブームが巻き起こったといいます。

その後、この大陸が本当にあったかどうかについては、100年以上にもわたって論争が続けられてきましたが、近年の研究の中で、地中海にあるサントリーニ島という火山噴火によって、紀元前1400年ごろに突然滅んだミノア王国がアトランティス伝説のもとになったのではないかという説が浮上し、一躍脚光を浴びました。

また、地中海東部のエーゲ海と黒海につながるマルマラ海を結ぶ狭隘な海峡、ダーダネルス海峡にあったのではないかという説もあり、この地に昔繁栄したトロイア文明と重ねる人も出るなど、実はアトランティスは大西洋にはなく、地中海のどこかに存在した島なのではないか、という説も有力視されてきています。

しかし、プラトンの記述を信じ、大西洋のどこかにアトランティスがあるのではないかといまだに信じる研究者もたくさんいます。しかし構造地質学的にみると、大陸規模の土地が短時間で消失することはあり得ないため、実在したとしても、それは「島」の域を出ない規模のものではなかったか、というのが定説になっていました。

その「大陸」が果たして「島」程度のものであったのか、などの規模の問題はともかく、どんなところであったのかについては、プラトンの著述以外にはあまり詳しく書かれた書物はなく、このことがアトランティスの存在を疑問視する人の根拠になっています。

このプラトンがアトランティス大陸のことを書いた「ティマイオス」「クリティアス」は、プラトンがその晩年にアテナイ、すなわち、現在のギリシャ共和国の首都アテネで執筆した作品と考えられています。

この二つの書物は、プラトンの師匠である哲学者「ソクラテス」、プラトンの数学の教師とも伝えられている政治家で哲学者の「ティマイオス」、プラトンの曾祖父である「クリティアス」、そして、政治家で軍人の「ヘルモクラテス」の4人とプラトンとの対談の形式で執筆されているそうです。

「ティマイオス」は主にティマイオスが考えていた「宇宙論」について語られた本ということですが、ほかにもソクラテスが考えていた「理想的な国家」論が要約されて書かれています。

そして、そのような理想国家がかつてアテナイ(アテネ)に存在し、その敵対国家としてアトランティス大陸にあった国についての記述がプラトン自らが知り得た「伝説」として語られています。

一方、二冊目の「クリティアス」のほうも、クリティアスが実家に「伝わった」とされているアトランティス伝説についての詳しくが語られているといいますが、こちらはプラトン自らが知り得た伝説ではないため、「又聞き」という形式がとられているようです。

「ティマイオス」と「クリティアス」に書かれているアトランティスの物語を要約ると次のようになります(以下、ウィキペディアからの引用(一部読みやすいよう改編))。

概要

その昔、ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡?後述)の入り口の手前の外洋であるアトラスの海(大西洋)にリビアとアジアを合わせたよりも広い、アトランティスという1個の巨大な島が存在していた。

この島の存在により、大洋を取り巻く彼方の大陸(ヨーロッパやアフリカ)との往来も、彼方の大陸とアトランティス島との間に存在するその他の島々を介して可能であった。

アトランティス島に成立した恐るべき国家は、ヘラクレスの境界内(地中海世界)を侵略し、エジプトよりも西のリビア全域と、テュレニアに至るまでのヨーロッパを支配した。

その中でギリシア人の諸都市国家はアテナイを総指揮として団結してアトランティスと戦い、既にアトランティスに支配された地域を開放し、エジプトを含めた諸国をアトランティスの脅威から未然に防いだ。

アトランティスの建国神話

アトランティス島の南の海岸線から50スタディオン (約9.25 km)の位置に小高い山があり、アトランティスという国はここから発祥した。

ここで大地から生まれた原住民「エウエノル」と妻「レウキッペ」の間にはクレイトという娘ができた。このころ、アトランティスの支配権を得ていた海神「ポセイドーン」はこのクレイトと結ばれ、5組の双子の合計10人の子供が生まれた。

ポセイドーンは、アトランティス島をに10の地域に分割し、これをこの我が子10人を支配させるようにしたため、この子らが各10の地域の家の先祖となった。そして何代にも渡り長子相続により王権が維持された。

ポセイドーンは人間からこの島を隔離するため、妻のクレイトの住む小高い山を取り囲む三重の堀を造ったが、やがてこの地をアクロポリス(「高いところ、城市」を意味し、防壁で固められた自然の丘。神殿や砦が築かれる)とするアトランティスの都、「メトロポリス」が人間の手で形作られていった。

メトロポリス

アクロポリスのあったのは、アトランティス中央に位置する島であった(この記述からアトランティスはいくつかの島からなる大陸だったと推定される)。

この島は直径5スタディオン(約925m)で、その外側を幅1スタディオン(約185m)の環状海水路が取り囲み、その外側をそれぞれ幅2スタディオン(約370m)の内側の環状島と第2の環状海水路、それぞれ幅3スタディオン(約555m)の外側の環状島と第3の環状海水路が取り囲んでいた。

一番外側の海水路と外海は、幅3プレトロン(約92.5m)、深さ100プース(約30.8m)、長さ50スタディオン(約9.25km)の運河で結ばれており、どんな大きさの船も泊まれる3つの港が外側の環状海水路に面した外側の陸地に設けられた。

3つの環状水路には幅1プレトロン(約30.8 m)の橋が架けられ、それぞれの橋の下を出入り口とする、三段櫂船が一艘航行できるほどのトンネル状の水路によって互いに連結していた。

環状水路や運河はすべて石塀で取り囲まれ、各連絡橋の両側、即ちトンネル状の水路の出入り口には櫓と門が建てられた。これらの石の塀は様々な石材で飾られ、中央の島、内側の環状島、外側の環状島の石塀は、それぞれオレイカルコス(オリハルコン)、錫、銅の板で飾られた。

内外の環状水路には石を切り出した跡の岩石を天井とする二つのドックが作られ、三段櫂の軍船が満ちていた。

中央島のアクロポリスには王宮が置かれていた。王宮の中央には王家の始祖10人が生まれた場所とされる、クレイトとポセイドーン両神を祀る神殿があり、黄金の柵で囲まれていた。これとは別に縦1 スタディオン(約185m)、横3プレトロン(約92.5m)の大きさの異国風の神殿があり、ポセイドーンに貢物が捧げられていた。

ポセイドーンの神殿は金、銀、オレイカルコス、象牙で飾られ、中央には6頭の空飛ぶ馬に引かせた戦車にまたがったポセイドーンの黄金神像が安置され、その周りにはイルカに跨った100体のネレイデス像や、奉納された神像が配置されていた。

更に10の王家の歴代の王と王妃の黄金像、海外諸国などから奉納された巨大な神像が神殿の外側を囲んでいた。神殿の横には10人の王の相互関係を定めたポセイドーンの戒律を刻んだオレイカルコスの柱が安置され、牡牛が放牧されていた。

5年または6年毎に10人の王はポセイドンの神殿に集まって会合を開き、オレイカルコスの柱の前で祭事を執り行った。

即ち10人の王達の手によって捕えられた生贄の牡牛の血で柱の文字を染め、生贄を火に投じ、クラテル(葡萄酒を薄めるための甕)に満たした血の混じった酒を黄金の盃を用いて火に注ぎながら誓願を行ったのち、血酒を飲み、盃をポセイドーンに献じた。

この儀式では、その後礼服に着替えて生贄の灰の横で夜を過ごしながら裁きが行われ、翌朝判決事項を黄金の板に記し、礼服を奉納するというものであり、裁判所の役割も担っていた。

また、アクロポリスにはポセイドーンが涌かせた冷泉と温泉があり、その泉から出た水をもとに「ポセイドーンの果樹園」とよばれる庭園、屋外プールや屋内浴場が作られていた。

また、橋沿いに設けられた水道を通して内側と外側の環状島へ水が供給され、これらの内外の環状島にも神殿、庭園や運動場が作られた。さらに外側の環状島には島をぐるりと一回りする幅1スタディオン(約185m)の戦車競技場が設けられ、その両側に護衛兵の住居が建てられた。

より身分の高い護衛兵の居住は内側の環状島におかれ、王の親衛隊は中央島の王宮周辺に住むことを許された。 内側の3つの島々に王族や神官、軍人などが暮らしていたのに対し、港が設けられた外側の陸地には一般市民の暮らす住宅地が密集していた。

更にこれらの市街地の外側を半径50 スタディオン(約9.25km)の環状城壁が取り囲み、島の海岸線と内接円をなしていた。港と市街地は世界各地からやって来た船舶と商人で満ち溢れ、昼夜を問わず賑わっていた。

アクロポリスの周辺と軍制について

アトランティス島は生活に必要な諸物資のほとんどを産する豊かな島で、オレイカルコスなどの地下鉱物資源、象などの野生動物や家畜、家畜の餌や木材となる草木、 ハーブなどの香料植物、葡萄、穀物、野菜、果実など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていた。

島の南側の中央には一辺が3000スタディオン(約555km)、中央において海側からの幅が2000スタディオン(約370km)の広大な長方形の大平原が広がり、その外側を海面から聳える高い山々が取り囲んでいた。

山地には原住民の村が沢山あり、樹木や放牧に適した草原が豊かにあった。この広大な平原と周辺の山地を支配したのはアトラス王の血統の王国で、平原を土木工事により長方形に整形した。

平原は深さ1プレトロン(約31m)、幅1スタディオン(約185m)の総長10000スタディオン(約1850km)の大運河に取り囲まれ、山地から流れる谷川がこの大運河に流れ込むが、この水は東西からポリスに集まり、そこから海へ注いだ。

大運河の中の平原は100スタディオン(約18.5km)の間隔で南北に100プース(約31m)の幅の運河が引かれていたが、更に碁盤目状に横断水路も掘られていた。運河のおかげで年に二度の収穫を上げたほか、これらの運河を材木や季節の産物の輸送に使った。

平原は10スタディオン平方(約3.42km2)を単位とする6万の地区に分割されていた。

平原全体で1万台の戦車と戦車用の馬12万頭と騎手12万人、戦車の無い馬12万頭とそれに騎乗する兵士6万人と御者6万人、重装歩兵12万人、弓兵12万人、投石兵12万人、軽装歩兵18万人、投槍兵18万人、1200艘の軍船のための24万人の水夫が招集できるように定められた。

山岳部もまたそれぞれの地区に分割され、軍役を負った。アトラス王の血統以外の他の9つの王家の支配する王国ではこれとは異なる軍備体制が敷かれた。

アトランティスの最後

アトランティスは、長きの間繁栄を続けていたが、あるときからアトランティスの支配者達は、原住民との交配を繰り返す内に神性が薄まり、堕落するようになった。これを目にしたゼウスはアトランティスに天罰を下そうと考えた。

そしてゼウスは総ての神々を、自分達が最も尊敬する住まい、即ち全宇宙の中心に位置し、生成に関わる総てのものを見下ろす所(= オリュンポス山)に召集し、集まるとこう仰った……

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実は、プラトンのアトランティスに関する二冊目の著書である「クリティアス」の文章はここで終わってしまっているそうです。

以降では、ティマイオスによる宇宙論へ対談の話題が移ってしまっていますが、しかし、この本の冒頭のほうでプラトンがその最後について触れており、そこにはこう書いてありました。

「やがて異常な地震と大洪水が起こり、過酷な一昼夜が訪れ、あなた方(=アテナイ勢)の戦士全員が大地に呑み込まれ、アトランティス島も同様にして海に呑み込まれて消えてしまった。それ故その場所の海は、島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっている」

このプラトンの記述をもとに、「アトランティス―大洪水前の世界」を書いたのが、前述のアメリカの政治家ドネリーです。

ドネリーは、このプラトンの記述のほかにも、1869年、スペインの碑文学者の所有だった「トロアノ絵文書」という古代の文書を苦心して解読した結果、マヤ文明の絵文書と確認。

実は、これに先立つ、1862年頃、フランスの聖職者で考古学者のブラッスールという人が、「トロアノ絵文書」を解読していました。そして、そこに「ムー」(Mu)と呼ばれる王国が大災害によって陥没した伝説が描かれていることを知り、アトランティス伝説と類似性があると1863年の論文で発表しています。

従って、ドネリーの発表以前から既にこの論文により「ムー」という大陸のことが世間一般には取沙汰とされていたおうです。

ドネリーのトロノア文書の解読はこの内容裏付けるものでしたが、彼はそれだけにとどまらず、さらにこの「ムー」と呼ばれる大陸について2年半もの歳月をかけて詳しく分析を進めてその内容を公表しました。

そしてドネリーは、トロアノ絵文書に書かれていた「ムー」と呼ばれる大陸の文明が、メキシコ南東部のマヤ文明に受け継がれたと考え、この「ムー大陸」こそが、大洪水以前に大西洋に存在したアトランティス大陸であると主張したのが「アトランティス―大洪水前の世界」という本でした。

そして、この書によりアトランティス伝説の大衆化が欧米で進んだのは前述のとおりです。

またジャージー島(イギリス海峡のチャンネル諸島のひとつ)の出身の遺跡写真家であり考古学者としても知られるオーギュスト・ル・プロンジョン(1825-1908)もまた、ドネリーとは別のやり方でトロアノ絵文書を翻訳しました。

そして、プロンジョンは、アトランティス大陸崩壊後にムーの女王モーがエジプトに渡り、女神イシスとしてエジプト文明を作ったと解釈した内容を公表しました。

さらに、1930年代のアメリカ在住の英国人作家ジェームズ・チャーチワード(1852-1936)も太平洋に存在したというムー大陸についての主張を行っています。

このように、考古学者の発表以降、アトランティスの繁栄と滅亡について、それらの直接的なモデルが実在したとする考えを持つ作家や学者が多く現れ、以来プラトンの記述内容の解釈をめぐって多くの説が唱えられるようになりました。

その主たる論点は、「ヘラクレスの柱」解釈をめぐる位置問題であり、これが果たしてジブラルタル海峡であるかどうかという点と、アトランティスを滅ぼしたとされる「洪水」の年代問題の考証でした。

プラトンの著述以外にアトランティスについて書かれた学術的な書物はなく、このことがアトランティスについては多くの後世の学者が、直接的モデルとなった歴史的事実は存在するとは考えがたい、つまりは単なる伝承か、プラトンによる創作だと考えた理由です。

しかし、アトランティス大陸の存在を信じる学者も多く、これを信じる学者たちは、専門家であるだけに、その説にはなかなか説得力のあるものも多いのは確かです。

「プレートテクトニクス理論」に基づいて大西洋説を主張する学者がおり、彼らは、「大陸移動説」に従って、大西洋で隔てられたアフリカとアメリカの両大陸の両岸の海岸線をくっつけようとしても、キューバのあたりに大きな空白ができることを指摘しています。

これを「何かが沈んだ空白地帯」と主張するものであり、同説によれば、この「空白地帯」は大陸よりずっと小さいが日本列島ぐらいの規模はあり、ここにアトランティスがあったと考えてもおかしくはないといいます。

このほかには、紀元前9560年頃に氷河期の終焉による海面の上昇によってアトランティスが海中に沈んだとするの「大海進説」があり、ここまでは、大西洋にアトランティス大陸があったとする説です。

アトランティス大陸の正体はインド亜大陸ではなかったかという「インド説」もあります。

沈んだのではなくて、そこにあった運河が浚渫工事を行わなかったために放置され、このため運河が通航できなくなったがために通交が不能になったという説です。同様に、南極大陸こそがアトランティスであるとい「南極説」もあり、これらはいずれもが、アトランティスが大西洋に沈んだという説を否定するものです。

これらの説の特徴は「アトランティスは沈んでいない」ので構造地質学的な問題が全く発生しないとされている点です。

しかし、インドやエジプトで運河が作られたのはプラトンのギリシア時代以降の話であり、また、南極説も、そもそも大陸の気候帯が急激に変動するような自転軸移動自体が過去におこったとは考えにくく、現在では信憑性に乏しいとみなされています。

この他、イギリス説もしばしば指摘されており、ブリテン島やアイルランド、アイリッシュ海に沈んだ島など様々な候補があります。アイルランドにはケルト人の伝承として、イスの海没の伝説があることなどが根拠のようですが、インド説や南極説同様、地質学的な説明や考古学的な物象もないことから、否定する研究者も多いようです。

こうした中で浮上してきたのが、地中海説です。これは、1939年、ギリシアの考古学者マリナトスが、クレタ島の北岸に位置するアムニソスにある宮殿を調査。宮殿の崩壊が津波によるものであることを発見し、同時に火山灰が厚く堆積していることも確認したため、これがアトランティスではなかったかと主張したものです。

このほかにもアテネ大学の地震学者1956年に、ギリシャ南部のサントリーニ島を調査し、炭素14法で、島の噴火が紀元前1400年ごろであることを発見し、時期的にもプラトン以前の時代であることから、アトランティスとの関連を主張しました。

サントリーニ島では、1967年、島の南端に位置するアクロテリで火山灰の中から宮殿が発見されており、クレタ島とサントリーニ島が、あわせてミノア王国であったことを証明するものだとされるフレスコ画も発見されており、これらの発見はサントリーニ島こそがアトランティスだと主張する学者の意見を裏付ける証拠であると長い間考えられてきました。

しかし、大西洋沈没説も完全に否定されたわけではなく、スペイン南西部、アフリカ北西部に位置するカナリア諸島は、多くの古代史家の著作に記載され、グイマーのピラミッドなどの遺跡が発見されていることや、ここには「10人の王」の伝説があるといわれ、プラトンの記述とも一致することから支持されることも多いようです。

また、大西洋のど真ん中よりもややスペイン寄りには、「アゾレス海台」と呼ばれる海底台地があり、ここには「アゾレス諸島」と呼ばれる島々があり、これらはすべて火山島です。

このため、アゾレス海台自体がひとつの大きな陸地であったものが、火山の大噴火によって、火山内部に空洞が発生し、その後この空洞が陥没したために海底沈んだという説も出されており、アゾレス諸島は当時の陸地の高山部分であるという説も出されています。

一方では、アメリカ大陸がアトランティス島であるという説も根強い人気があり、マヤ文明や、近年ではアマゾン文明の発見がなされる中で、その文明がアトランティスに当たるのではないか、という説もあります。

しかし、いずれの説も長い間、その論戦に決着をつける証拠は出ず、長い時間が過ぎてきました。

そこへきて今年5月6日の日本の海洋研究開発機構とブラジル政府の発表です。

日本が誇る深海探査船「しんかい6500」がリオデジャネイロ沖の大西洋で、陸地でしか見られない花崗岩が大量に見つかったと発表したこの発表は世界中を驚かせました。ブラジル政府は、「伝説のアトランティス大陸のような陸地が存在した極めて強い証拠」とまで言っているそうで、今後継続されるであろう、調査の結果が待たれます。

もしもこれが謎のアトランティス大陸であると確認されたならば、これこそは世紀の大発見であり、紀元前の歴史を塗り替えるような一大事件になることは間違いありません。

先史時代に存在したとされる、「超古代文明」と呼ばれる高度に発達した文明のことが解明されるに違いないと、早くもオカルト好きの人達の間では情報が飛び交っているようです。

ムーやアトランティスでかつて形成された文明は、現代文明をしのぐほど卓越した技術によって繁栄し、それはもしかしたら宇宙人によって作られたものであったかもしれない、と本気で考えている人も多いようです。

これらの話には、それらの文明が滅亡したのは、自らの超技術に溺れて自滅したり、驚異的な天変地異によって消滅したというロマンチックな物語がたいてい付随してついてきます。これらはしばしばファンタジーや創作の世界におけるテーマとされ、その根源を現代の人智を超越する心霊や宇宙人に基づく神秘主義に求めることもあるようです。

これらを裏付けるように、いわゆる「オーパーツ」と呼ばれる、それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品が世界中で発見されていますが、もしかしたら、そうしたものが、今後のブラジル沖の調査で出てくるようなことがあれば、これはこれで面白いことになりそうです。

これまではこうした遺物は、科学的に論証する事象や物的遺物であると認められず、そのほとんどが論拠が無かったり信憑性の浅薄であったり捏造であったりして検証の対象にさえなり得てきませんでした。オカルトの類と認識されていたものも多く、これらが改めて脚光を浴びるようになる可能性もあるからです。

さらには、かつてアトランティス大陸に存在し、その水没によって失われた超技術が今後の調査で復活する、なんてことももしかしたらあったりもして、そういうふうに考えていくと夢は膨らむばかりです。

……とバカなことを書いているうちに、かなりの量を書いてしまっているようなので、そろそろ終わりにしましょう。

ところで、このブラジル沖の今後の調査、日本政府からお金が出ているのでしょうか。政府機関が行っているということは、税金が投入されている調査ということになります。

ならばぜひ、大きな成果をあげ、ぜひともそれで発見された超古代文明技術でもってこれからの日本を繁栄させて欲しいもの。今後の調査結果に大いに期待しましょう。

空海のいない風景 ~修善寺温泉(伊豆市)


沖縄が梅雨に入ったそうです。関東甲信越地方が梅雨に入るのはだいたい毎年約一カ月後。もうすぐまたあの雨の季節か~とも思いますが、この自然豊かな修善寺にいれば、雨音を聞いて過ごす日々もまた楽しかな……です。去年の今ごろにも同じことを書いたような気がします。

さて、先日、奥の院へ行こうとタエさんと散歩がてら出かけたものの、その道のりのあまりの遠さに断念したことを書きました。悔しかったので、そのリベンジにと今度はクルマで出かけてきました。

修禅寺の奥の院(正覚院)は、791年(延暦10年)に弘法大師こと空海が修行をしたという山奥にあるお寺で、「奥の院」の名の通り、ふもとの修禅寺からは5kmほど東へ離れた山の中にあります。

修禅寺の温泉街からのその導路は、湯船川沿いにあって別名「いろは道」といい、周囲をひなびた田園風景が広がる小道を春ならば新緑、秋ならば彼岸花やコスモスを眺めながら歩くことができます。

先日は、これをタエさんと途中までのんびりと40分以上もかけて歩きましたが、今回はクルマなので、温泉街から10分ほどで「奥の院」の看板を見つけることができました。

入口には山門などは特になく、お寺なのに、なぜか石鳥居があります。ただ、通常の鳥居ではなく、一番上の梁がない独特のものです。その昔の修禅寺の宗派は真言宗(現在は曹洞宗)なので、密教ではこうした聖地で普通に架ける形式なのかもしれません。

鳥居越しには、その向こうにかなり急な石段見えます。50段ほど登ると、そこには真正面に小さな滝のある広場があり、右手には、大師が修行したといわれる修行石があります。傍らに「弘法大師降魔壇」(こうまだん)という石標とたくさんの石仏が建てられています。

この滝を囲む岩壁の辺り一帯が「奥の院」と呼ばれている場所であり、「奥の院」とは、そもそも寺社の本殿より奥にあって、開山祖師の霊像や神霊などを祭られている場所です。その通り、その昔この場所には、江戸末期に建てられた護摩堂があったとうことですが、昭和36年に台風で倒壊し今では礎石のみになっています。

空海がここで修業をしたときには、まだ18歳だったといい、ここには「馳籠の窟(かりごめのいわや)」という岩洞があったそうです。今はもう岩孔は埋まってしまっているようです。

この洞窟があったとされる岩壁に上から流れ落ちる滝は「阿吽の滝」と呼ばれています。現在は滝に打たれて修業をする、というほどの水量はありませんが、空海が修業したという1300年ほど昔はもっと水量があったのかもしれません。

水の量が今よりも多かったころにはおそらく、修験道の場所としてにぎわったのでしょうが、現在は修験者もあまり入っていないようで、観光客もあまり訪れるところではありません。我々が行ったときにも、老夫婦が二人とハイカーらしい年配の女性が一人いらっしゃるだけでした。

さらにこの場所から、山奥へ分け入ったところには、空海が別の修験場所として良く使っていたという場所があり、空海がこの土地を去るときに「手植え」したという桂の大木があるそうです。

事実だとすると、空海の時代より既に1000年以上経っていることから、それだけの樹齢になるはずで、実際にもかなり大きな木のようです。が、この日の気分は「楽して見物」だったので、我々二人は無論、ここまでは行っていません。また、お天気の良い日に、ハイキングがてら行ってみたいと思います。

空海はこの山奥に分け入った奥の院を気に入り、修行の適地と考えて選んだということですが、実際に座禅を組んでみると、この地にあったたくさんの天魔やら地の妖怪が現れ、修行の邪魔をしたそうです。また、この妖怪たちは、空海だけでなく、地元の住民の前にもたびたび現れて悪さをしたということです。

このため、これを退治しようと空海が「大般若波羅蜜多経」という仏教の基礎的教義が書かれている経典を空中に向かって指でシャシャシャーッと書いたところ、金色の経文が突如中空に現れ、そこら中にいた魔物たちは、たちまちその功徳に魔力を押し込められ、馳籠の窟に向かって吸い込まれていったとか……。

……無論言い伝えにすぎず、本当にそんなことがあったのかどうかはわかりません。ただ、私は霊感のあるほうなので、タエさんに聞かれるまま、周囲の「気」をそれとなく感じてみました。

すると……とくに悪い気はないようであり、とはいえ、特段良い気が流れているわけでもなく、むしろまるで「気が感じられない」という不思議な空間でした。

普通は森のにおいやら水の臭いなどのその場特有の環境がその空間を形造っているものなのですが、まるでそういう五感を刺激するようなものがなく、ただ単に景色が見えるだけ……というのでしょうか、今まで経験のしたことのないかんじです。

以前、京都の鞍馬寺に行ったときには、境内一帯に紛れもないパワーを感じたのですが、ここはそういうかんじでもなく、なにやら異次元空間のようなかんじ。これをパワーというのかどうか、また空海が実際にここで修業したためにそういう気ができたのかどうかはわかりませんが、何等かの不思議な力を持っている場所のようです。

ただ、史料によれば791年(延暦10年)にこの地で修業を始めたという18歳の空海(この当時の幼名は佐伯真魚(まな)でしたが)は、実際にはその2年ほど前から3年間にわたって、空海の母方のおじにあたる阿刀大足(あとのおおたり)の弟子として京で学んでいるはずです。そして、この年には官僚候補生を育成する大学寮に入っています。

この大学寮では勉学に限界を感じ、その後、吉野の金峯山や郷里の四国の石鎚山など修験道の聖地で修行をするなどしていますが、それ以外に畿内を離れてどこかにいたという記録はなく、従って18歳のときに、京都からも遠く離れた伊豆で修行をしているというのは、いかにも無理があります。

麓にある、修禅寺もまた、空海が2年間の唐での留学を終えて帰国したとされる806年(大同元年)の翌年にあたる807年(大同2年)に創建したと伝えられています。

しかし、福岡の大宰府に帰着した空海は、20年の予定留学期間をたった2年で切り上げ帰国したため、当時の規定により闕期(けつご)という罪を与えられています。

「闕」とは「欠ける」という意味であり、朝廷の命をもって20年間の勉学機関を与えたのに、勝手にそれを破って帰国したのは許しがたい、というわけですが、重罪というわけではなく、単に謹慎という程度の罪だったでしょう。

とはいえ、帰国した空海にはすぐには入京の許しが出ず、このため数年間大宰府に滞在することを余儀なくされたといい、大同2年より2年ほどの間、つまり809年までは大宰府にある観世音寺に止住させられています。

この間、空海は唐から持ち帰った経典や曼荼羅などの整理に追われていたはずであり、また個人の法要も引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていたといいますから、そんな多忙な合間を縫って、伊豆くんだりまでやってきてお寺を創建できるはずがありません。

ここ修善寺にはこのほかにも空海ゆかりとされるお寺があります。修禅寺から5kmほど行った発端丈山という山の中腹にある、高野山真言宗の「益山寺(ますやまでら)」というのがそれです。このお寺もまた、806年(延暦25年)の創建とされ、空海が創建し、本尊の千手千眼観音菩薩を刻んだとされています。

しかし、806年は空海が唐から帰って大宰府に帰着した年であり、これもまたありえない話です。ただ、益山寺にも伊豆でも屈指の巨樹(樹齢約860年の楓と400年の銀杏)があるということであり、修善寺同様、この地に古くからある由緒正しい?お寺であることには間違いありません。

空海はその後許され、809年(大同4年)に入京。京都市右京区にあった高雄山寺(後の神護寺)に入りました。その後、嵯峨天皇の命などにより鎮護国家のための大祈祷などを行い、現長岡京市にある乙訓寺の別当などを務めながら、新教団設立の準備を進め、812年(弘仁3年)、高雄山寺にて「金剛界結縁灌頂」を開壇。

この儀式は仏の世界を表す曼荼羅に向かってお経をあげるものだそうで、仏と縁を結ぶ、すなわち「結縁」することで信者の心の中の仏心と智慧を導き開くというものらしいです。

このときの入壇者には、空海と並ぶ高僧として名高い最澄も含まれており、その弟子の円澄、光定、泰範のほか190名にものぼったといい、この時点で空海は日本の仏教界の頂点に上り詰めまたといってよいでしょう。

その6年後の、815年(弘仁6年)には、現福島県の会津や現栃木県の下野(しもつけ)などに在住の東国の有力僧侶の元へ弟子を派遣し、密教経典の書写を依頼したという記録が残っており、もしかするとこのころ、伊豆などの東方在住の僧侶などにも写経依頼を行っていたかもしれません。

ただ、いずれにせよ、修善寺や奥の院、益山寺の創建年とはかなりのずれがあり、しかも空海自らがこの地に足を運んだという記録はありません。

その後、空海は816年(弘仁7年)に、現在までの高野山真言宗のメッカとなっている高野山を修禅の道場として下賜してもらうことを朝廷に依頼し、同年この下賜の旨の勅許をえています。翌817年、弟子の泰範や実恵らを派遣して高野山の開創に着手し、818年(弘仁9年)には、空海自らが勅許後はじめて高野山に登りました。

819年(弘仁10年)には七里四方に結界を結び、この高野山の地に伽藍建立に着手。完成した伽藍の中で、その後の日本における仏教界のバイブルともいうべき「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「文鏡秘府論」「篆隷万象名義」などの有名仏典を立て続けに執筆しています。

その二年後の821年(弘仁12年)ころには生国である讃岐の国(現香川県)に帰り、かの有名な、満濃池(まんのういけ)の改修を指揮しています。空海の日本国内での修業地は畿内のほかには、四国内が多かったようであり、とくに生地の讃岐には頻繁に帰っており、「地元」の名士として人々のために色々尽したようです。

この満濃池の堤防も、水不足に悩む地元の農民のために空海が指導して造られたものといわれています。アーチ型の堤防はこの当時の最新工法であり、現在でも通用する技術です。

日本最大の農業用ため池であり、今でも現役の農業用灌漑池として使われています。周囲約20km、貯水量1,540万tを誇り、2000年(平成12年)にはその一部構造の「満濃池樋門」が国の登録有形文化財(建造物)に登録され、2005年には、ダム湖百選にも選定されています。

823年(弘仁14年)に空海は朝廷から東寺を賜って真言密教の道場とし、ここに現在に至るまでの真言宗の系譜の礎がほぼ確立されました。そしてこれよりのちは、それまでにあった天台宗の密教を「台密」、対してこの新しい東寺の密教を「東密」と呼ぶようになりました。

「密教」というのは、その名の通り、もともとは「秘密の教え」を意味する用語です。インドを発祥の地とし、伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部の中国などにかけて信仰されてきた仏教の分派、これを「大乗仏教」といいますが、その中の「秘密教」のひとつとして布教されてきました。

現在、日本の伝統的な密教の宗派としては、空海が唐で学んで持ち帰り、「真言密教」として体系付けた「真言宗」と、同じく唐で学んで帰ってきた最澄によって創始され、その弟子の円仁、円珍、安然らによって完成された「日本密教(日本天台宗)」のふたつがあります。

真言宗のほうは、即身成仏と鎮護国家を二大テーゼとしており、「密教専修」つまり、唐から持ち帰ったオリジナルの秘密教に忠実であるのに対し、天台宗ではこれに日本の古来からの仏教テーマを加えた、天台・密教・戒律・禅の四つのテーマを根本としている点などが異なっています。

この密教を日本の公の場において初めて紹介したのは、空海よりも先に唐へ留学して帰国した最澄でした。

しかし、最澄は、密教についてはあまり深い勉強を積むことができず、このため、唐から持ち帰った密教を天台教学とうまく融合させて完成度の高いものにすることができませんでした。これがこうした教義には目の肥えていたこの当時の皇族や貴族の興味を惹きつけることができなかった理由のひとつです。

彼らはあの世での浄化を説く天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教や、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教(念仏)に関心を寄せており、こうしたところに、唐における密教の拠点であった青龍寺で本格的に密教を修業した空海が帰国したのです。

前述のとおり、空海は20年の留学の予定をかなり早めて帰国したため朝廷の不興を買って大宰府に留め置かれました。ところが、その後入京が実現したのは、空海が登場するまでは仏教界における最大の実力者であったこの最澄の尽力や支援があったからだといわれています。

その後、2人は10年程交流関係を持ち、密教の分野に限っては、その最新かつ深い知識を持ち帰った空海のほうを最澄が敬い、本来は自らが先輩ながら空海に対しては弟子としての礼を取っていました。

しかし、やがてその教義の違いもあり、その仲は壊れていきました。

本場中国の密教を持ち帰り、そのきらびやかな世界に魅了された皇族や貴族の人気は空海に集中したため、これを最澄が嫉妬したともいわれ、また、最澄の愛弟子の泰範が師匠を捨てて空海の下へ走ったことなどから、二人は徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には完全に訣別しています。

この訣別に関しては、空海が唐から持ち帰って経典を借覧させてくれと要請したのに対し、空海が秘密だからと、これを拒絶した、というまことしやかな話も残っているようです。

空海が朝廷から東寺を下賜され、ここを真言密教の道場として真言宗が確立されたのちは、最澄の主唱する天台密教を台密、空海の東寺の密教を東密と呼ぶようになったのは前述のとおりです。

これらの日本の密教は、その後霊山を神として神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなりました。現在神の山として崇められている富士山もその昔は仏の山であったことを以前このブログでも書きましたが、これもまた空海らが持ち込んだ密教の影響といえます。

現在でも富士山周辺にある寺院・権現に伝わる山岳曼荼羅には、この台密と東密の両方の要素や浄土信仰の影響が認められるということです。

真言密教を確立した空海は、その後、828年(天長5年)には、東寺の東にあった藤原三守(ただのり)というお公家さんの私邸を譲り受け、私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設しています。

この当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったにも関わらず、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であったといい、空海という人は教育の分野においても開明的な人だったことがわかります。

しかし、831年(天長8年)には、病(悪瘡)を得たといわれ、その後は一線から退いて高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられています。が、ときおり宮中の重要な儀式には参加していました。

そのひとつに、後七日御修法(ごしちにちみしほ)と呼ばれるものがあり、これは国家安泰・玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・五穀豊穣・万民豊楽(ばんみんぶらく)などを祈る行事です。

835年(承和2年)に空海がこの行事を行って以降、毎年宮中の恒例行事として正月に行われるようになり、この御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、場所を宮中から東寺に移して、現在でも毎年行われているということです。

しかし、この行事が正月に行われたあとおよそ二か月後の3月には高野山で弟子達に遺告を与えており、そしてこの月21日に入滅。享年は60歳だったと記録されています。

空海の十大弟子の一人だった真済(しんぜい)が書き記した「空海僧都伝」によると、死因は「病死」とだけ書かれており、「続日本後紀」によれば遺体は火葬された(荼毘に付された)と書かれています。

その死の4年前には既に病を得ていた空海ですが、その晩年は文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化することに傾力していたようです。

とくに834年(承和元年)の12月から入滅までの3ヶ月間は、後七日御修法の準備に心血を注ぎ、その修法を書き残すとともに、また自らが開いた金剛峯寺を定額寺(官大寺・国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺院)にするための運動も行うなどの密度の濃い活動を行っていました。

死後、荼毘に付されたということなのですが、すべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入り、即身仏になったという話もあり、その死のあたりから、色々な伝説が残されるようになります。

修禅寺のような古寺の開基や、奥の院での若きころの修業といった伝承などもそのひとつですが、このほかにも、その修業の際にいろんな「奇跡」を各地で起こしたことになっていき、手にもった鉾で地面を叩いたところ湯が湧き出したという類のいわゆる、「開湯伝説」などもそうしたものです。

その内容は温泉地により異なり、また温泉によっては複数の伝説が存在する温泉もあり、歴史が古い温泉では、必ずしも空海がその開祖というわけではありませんが、たいていは、こうした開湯伝説が存在します。

修禅寺温泉も空海が開祖となっている温泉のひとつなのですが、これ以外にも「弘法大師作」なる温泉は日本各地にあり、最北の山形県のあつみ温泉から一番南では熊本県に杖立温泉があり、その総数は二十有余にもなります。

空海と同じように温泉を発見したとされる数で多いのが「行基」です。空海よりも85年ほども前の749年(天平21年)に亡くなっており、彼が活躍した時代はまだ奈良時代といわれる時代です。

このころはまだ僧侶は国家機関のエージェントであると朝廷が定め、仏教の民衆への布教活動を禁じた時代であり、この禁を破って畿内を中心に民衆や豪族層など問わず広く仏法の教えを説き、このことにより人々より篤く崇敬されました。

また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等を設立したといわれ、数々の社会事業を各地で成し遂げています。

この点、満濃池などを民衆のために造り、教育機関や多くの寺を建立するなどの数多くの公共事業を手掛け、その徳によって民衆に愛された空海とよく似ています。

東大寺大仏造立にも関わったともいわれ、この他、行基は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされており、その作成のために日本全国を歩き回り、その際に橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったようです。全国に行基が開基したとされる寺院なども多く存在しており、彼によって開かれたとされる温泉が多いのもうなずけます。

空海が開祖であるとされるものほど多くはありませんが、それでも全国で18ほど行基が見つけたとされる温泉場があり、その中にはかの有名な草津温泉(群馬県)や、石川県の山代温泉、山中温泉なども含まれます。

おそらくは生涯、畿内から東へはほとんど行ったことがないと考えられる空海に比べると、全国を歩き回っているだけにずっと信憑性が高く、だからといってその価値がより高いというわけでもないのですが、我が修善寺温泉のように、「ありっこない」伝承をもとに弘法大師が見つけた、と開き直っているよりは少しマシな感じがします。

ただ、空海(弘法大師)による開湯伝説の場合、彼が開いた高野山からやがて「高野聖」と呼ばれた修行僧が諸地方に出向いており、勧進と呼ばれる募金活動のために勧化、唱導、納骨などを行ったこれらの僧侶たちが、それぞれの地で温泉を開いたのではないかとも考えられています。

僧侶とはいいながら、いわゆる山師的な坊主たちが、温泉を探り当てて儲けようとした際に教祖たる空海の名を借用したと思われ、このため、まるっきり空海とは関係ないとばかりもいえません。

また、仏教の教えの中には人身の健康にも通じている部分もあり、このため高野聖などの僧侶の中には、医薬にも精通していた者が多く、湯治の場として温泉を勧めた僧もいたといいます。

そして、温泉により傷や病が癒えたことで、御利益があったとみなされるようになり、温泉信仰と仏教信仰が直結するようになった、つまりは信仰色が強い湯治場などでは、これをみつけた僧侶がここでその効用を勧めて檀家を多く持つようになり、彼らによってお寺が勧進されたところも多かったのだと思われます。

修善寺温泉にも修禅寺があり、温泉とこのお寺さんの関係が密接であることからその典型例といっても良いでしょう。

温泉の効能や効果を世に広く謳うためには、温泉療養に関連性の強い、著名な僧侶を引き合いに出すと良い宣伝になります。とりわけその中でも高名な空海や行基のような庶民に人気のあった人物を引き合いに出せば、その宣伝効果もより高くなるというわけです。

僧侶ばかりではなく、ほかにも平安時代の武将、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が発見したという温泉も多く、これも全国に10湯ほどのものがあります。

さらには、鳥や獣によって温泉が見つかったというのも多いようです。調べてみると、下呂温泉や、山中温泉、道後温泉などのシラサギ、城崎温泉(きのさきおんせん)のコウノトリや、山口の湯田温泉の白キツネなどがあります。

このほかにも、三朝温泉(みささおんせん)の白狼などといったものもあり、鹿(山鹿温泉など)と猿(俵山温泉など)は全国どこにもいる動物のためか、至るところにこれらの動物がみつけたという温泉があります。

動物が湯に浸かっているのを見た古人が温泉であることを発見したものとしては、「白い」動物にちなむものが多いようで、中には、「お告げ」に近い伝説もあり、白い動物が多いのも温泉信仰と直結させやすいためである場合が多いようです。

しかし、動物が発見したという部分自体がまったくのフィクションの場合も数多くあるようで、実際は鳥獣たちが発見したのではなく、それが温泉だと発見したのはそれを目撃した猟師や樵夫(きこり)などである場合のほうが多いのではないでしょうか。

ただ、こうした動物の中には、本能的に水浴びなどをすることで、体の汚れを落とし、疲れを癒す習性をもつものがあり、鳥などはその代表例です。自然に湧出したいで湯もまた、その一環として利用されていたに過ぎず、実際に浸かってみて、あぁ~いい塩梅だ~と鳥が思うわけはありません。

が、あえてシラサギが入っていたよ!きっと効能があるに違いないよ!とそれを敢えて喧伝することで、温泉の効能は説得しやすくなり、また親しみやすさもより増していきます。

その証拠に、こうした鳥や獣が発見したという伝説では、決まって「外傷を癒した」という文句だけが印象づけられています。

鹿や猿が胃腸病や関節痛を治した、なんてのは、目で見て実際に確認できるわけはなく、本当に動物がそれを癒しているかも分かりませんが、外傷が治ったというのであれば、これはもしかしたらホントかもしれない、と誰もが思い、治療に効くと説得しやすいというわけです。

もしも本当に鳥や獣がいで湯に浸かっていたとしても、それは必ずしも外傷の治療とは限らず、前述のように単に体の汚れを落としたいという本能だったのかもしれません。たまたま水場としていたのが温泉水だったにすぎないなどというのも多いと考えられます……

……さてさて、何を書いているのかよくわからなくなってきました。「開湯伝説」というものには根拠がないものが多い、ということを書きたかったのかもしれませんが、それを否定したところで、私には一文の得にもなりませんので、奥の院や修禅寺温泉を空海が開いたかどうかについての議論はここらでやめるとしましょう。

ただ、最後に一つだけ観光情報を付け加えておきましょう。

この奥の院では毎年12月の冬至のころ、22日前後に、一年の厄を払い新年の幸せを祈る「星まつり」が行われるそうです。

修禅寺からお坊さんがやってきて、護摩を焚き、この煙に当ると家内安全の願いが叶うとされており、この「星まつり」もまた、本来は真言密教に伝わる行事だそうです。奥の院、すなわち正覚院は500年前に修禅寺とともに曹洞宗に改宗されていますが、弘法大師の偉業を伝える儀式として宗派を越え、現在に受け継がれているということです。

ちなみに益山寺では修善寺奥の院より少し遅れて1月の第3土・日曜に「星祭」と名前は少し違いますが、やはり星のお祭りをやるようです。

弘法大師が開祖したかどうかはどうでもよいこと。家内安全の願いがかなうなら、こうしたお祭りにもまた出かけてみようかという気にもなります。年末年始のころ、また奥の院に行くことがあれば、またその様子をレポートしてみましょう。

魚→鳥→人


急に暖かく……というか、日中は汗ばむこともあるほど気温が高くなってきました。

新聞やらテレビのニュースでは、長良川の鵜飼いが始まったと報じられており、そういう話を聞くと、あぁ今年もアユが川を遡る時期になったんだなアと思わず季節感を感じてしまったりします。

我が家のある山の麓を流れる狩野川にもアユが遡ってきます。この狩野川は、アユの「友釣り」の発祥の地なのだそうで、今でも友釣りが盛んで、「狩野川を制すれば全国を制す」と評されているとか。

えらい大げさな言いようだなと思うのですが、どういう意味なのでしょう。アユ釣りをやったことがないのでよくわかりませんが、友釣りをするには結構難しい条件があるのかもしれません。

確かに川幅が広く、どこにアユがいるのかよくわかりにくそうだし、流れも場所によっては結構急にみえます。アユは縄張りを持っていて、自分のテリトリーに他のアユが入ってくるのを嫌いますから、その縄張りを見極めて、「友」を投入する場所やタイミングを見つけるのが大変なのかもしれません。

友釣りは釣ろうとしている「野アユ」の縄張り内に、釣り人が用意した「囮(おとり)」のアユ、これが「友釣り」といわれるゆえんですが、掛針をつけた状態で投入し、これを嫌がった野アユがこれを追い払おうとして体当たりしてきたところをうまく針で引っ掛けて釣る、という漁法のようです。

調べてみると、「川読み」という技術が必要なようで、これは、野アユがどこに縄張りを作っているか、アユの習性を考えて予測することらしいです。この的確な予測が釣果をあげるポイントだそうで、かつ友釣りの醍醐味なのだとか。

アユは石についた藻類を主食としますが、これを削ぐように、その鋭い歯でがりがりと石の表面を食べるため、石には「ハミ」跡と呼ばれる跡が残ります。私も狩野川やほかの川に下りたことが何度かありますが、確かにアユのいる川には、バーコードのようなハミ跡がついた岩があちこちにあります。

これがアユの大小や多寡を知る目安となるというのですが、素人目には、どのハミ跡が大きいアユが食べた跡なのかさっぱりわかりません。しかし、ハミ跡が多いか少ないかぐらいはわかります。

昨年も狩野川には多くのアユ釣りを楽しむ人達が入漁してきていましたが、色々ある釣場の中でも、やけに釣り人達がやけに集中しているなという場所が、2~3カ所はたいがいあり、こうした場所がポイントです。

ところが、このポイントはまた時間によって変化し、アユの好む場所も変わっていくのだそうで、これを察するのもひとつの技術なのだとか。

さらには、アユの習性だけでなく、ほかの釣り人がどこをポイントとしているかを見定めることも技術も必要なのだそうで、これは釣り人がいた場所は当然アユが減るため、アユの量が均一化するまで時間がかかります。このタイミングを見極めるのも結構難しいのだそうです。

こうしてみると、友釣りの技術というのは結構奥深いんだなーと感心してしまいますが、私自身としては、釣りといえども、動物を「殺める」という感覚がそもそも性分にあわないのであまりやりません。

海が好きなので、若いころには海釣りにはよく行きましたが、歳をとってくると、長時間紫外線を浴びるのもなんだかなーと、ずいぶんひ弱になっていることも関係しています。

とまれ、「狩野川を制すれば全国を制す」というのは、アユを捕える場所としては、かなり高度な技術が必要とされる場である、ということのようで、その道を極めた人達だけがこの川に入る資格がある……まではいわないにせよ、どうやらかなりの上級者が入るアユ釣り現場ということなのでしょう。

狩野川が友釣りの発祥の地とされている理由としては、伊豆国の代官として世襲してきた江川家に伝わる史料群「江川文庫」に、狩野川でアユの友釣りが盛んになったことを伝える記述があることが根拠になっているようです。

「頼書一礼之事」と題した1832年(天保3年)に書かれた文書が残っているそうで、これは伊豆大仁村の名主だった杉浦家の当主が、韮山の代官所に提出した書状の控え集のようです。

これには「梁漁を請け負っているが、”友釣り”が流行って収入が上がらなくなり、梁漁に伴う税金も納められなくなるため、友釣りを禁止してほしい」と書かれており、地元の村々の役人が友釣りによるアユの乱獲をやめさせてほしいと韮山代官所に訴える内容です。

つまりはそれだけ従来の漁法よりもたくさんアユが釣れたということなのでしょう。またこの文書には、友釣りが「新規の漁事」として、「天野堰所」で2年ほど前に始まった、とも記述されているそうで、この堰はどうやら現在の大仁神社のすぐ下を流れる狩野川付近にあったようです。

このため、大仁神社の境内には、「友釣りの発祥の地」と書かれた伊豆の国市の説明板も掲げられていて、同神社の手水のオブジェは、なんと鮎の形をしています(冒頭の写真)。

この文献以外にも狩野川における友釣りの始まりが天野堰所だったと複数の記録に残っているそうで、他にも、修善寺から下田方面に2kmほど下った「大平」という場所にあったという瀧源寺(ろうげんじ)の虚無僧で、尺八の名手であった法山志定(1780年(安政9年)没)が発案したという記録もあるそうです。

これによれば、この法山坊主が、狩野川の大岩の上で尺八の練習をしている時、水中のあちこちで餌場争いをしているらしいアユたちをみかけ、これをよくよく観察してみると、どうやら尻ビレめがけ口を開けて攻撃しているらしいことに気がつきます。

そしておとり鮎に掛け針を付けて釣る方法を考えつき、自分でやってみたところ、結構釣れたので、その釣り方を地元の漁師たちにも教えるようになったのだとか。

この瀧源寺そのものは、昭和36年ごろに土砂崩れで潰れてしまい、そのとき寺の建物やこの古文書も失われてしまったということで、この伝承も地元の古老達により語り伝えられてきたことだそうです。ちなみに、現在大平には、「金龍院」という寺があるようなので、同じ「龍」の字が使ってあることから、この瀧源寺を再建したものなのかもしれません。

友釣りの発祥についてはこのほか、京都説や茨城県説もあるようであり、本当に狩野川が発祥の地なのかや、はっきりした年代は定かになっていません。しかし、各地で行われるようになったのは、明治から大正にかけてです。

とはいえ、昭和初期までは友釣りをする釣り人はさほど多くなかったようです。が、戦後しだいに多くなり、昭和中期以降、友釣りをする人が増え釣り場も友釣り専用区が作られるようになりました。

さらには、カーボンファイバーやグラスファイバーの出現によって竿の軽量化が進み、長竿が作られるようになったり、糸の張力増加による細糸・ウエットスーツなども色々開発・発売される中で、友釣りは全国的に広まっていきました。

近年はさらに軽量化できるチタン製のものまで使われているそうで、友釣り用の竿は、長さと軽さが求められるため、このチタン製のものなどは、もともと成形しにくい物質であることもあり、その製造にはかなり高度な技術が必要になるみたいです。

軽くなればなるほど高価になり、9.5m(!この長さだけで驚きですが)の竿で300g未満になると価格は概ね10万円を超え、250g未満のものは30万円以上になるということです。

とはいえ、友釣りの技術そのものは、多少形は変わったとはいえ、江戸時代の昔からそのスタイルは変わっておらず、釣り上げたアユを捕獲するタモ(網)や、おとりアユを生きたまま入れておく「オトリ缶」、「引き舟」とよばれる川中でオトリのアユや釣ったアユを入れておくための道具などは、昔ながらのものです。

おとり缶や引き舟も合成樹脂などの新しいものも出ているようですが、昔ながらの木製のほうがアユの粋がいいということで、人気があるようです。

ところで、昔ながらといえば、この項の冒頭でも話題にした鵜飼いもまた、昔からある伝統的なアユ漁法です。

日本でしかやられていないのかなと思ったら、この鵜飼、中国でもさかんに行われているということであり、ヨーロッパでもその昔16世紀から17世紀の間、スポーツとして流行った時期があったのだとか。

鵜飼いそのものの歴史は、日本が最も古く、6世紀ごろには既に行われていましたが、中国ではこれを日本で目撃した中国人が母国にこの漁法を持ち帰り、その後流行するようになったようです。

紀元600年ころに書かれた、中国の史書「隋書」には、日本を訪れた「隋使」が「変わった漁法を見た」という記述がみられるそうで、そこには、「小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る」と書かれているそうです。

しかし、その後中国に伝わって広まった鵜飼いは、日本のそれとは少し違うようです。まず、使用される鵜の種類が、日本ではウミウであるのに対し、中国ではカワウを使用します。また、日本では漁のための鵜は成鳥を捕獲してこれを訓練して鵜飼いに使いますが、中国では完全に家畜化されている鵜を使うのだとか。

また、魚を飲み込めないように鵜の喉に輪を装着するのは日本も中国も同じですが、中国では日本のように鵜を綱に繋がず、魚を捕らえた鵜は自発的に鵜匠の元に戻ってくるよう訓練されているそうです。賢いですよね。

このほか、日本では鵜飼いは様式化して伝統漁法として残るようになり、捕る魚もアユのみですが、中国では一般漁法として現在も普及しているとのことで、鵜が捕る魚も喉を通過する大きさのありとあらゆる魚を捕ることができるということです。

一方、ヨーロッパでの鵜飼いは、16世紀末から17世紀初めにかけての一時期、スポーツとして広まりました。

主には、イギリスとフランスの宮廷行事として広まったようで、1609年、皇太子だったルイ13世の前で鵜飼いが実演されたという記録があります。また、1618年にもジェームズ1世が漁用に飼っていたウ・ミサゴ・カワウソのための飼育小屋と池をウェストミンスターに作ろうとした記録が残っているそうです。

イギリスの動物学者たちは、ヨーロッパに鵜飼いを持ち込んだのはオランダ人であろうと推測しており、この技術が東アジアからオランダ人によってもたらされたものである可能性があるそうです。

1600年代初頭といえば、江戸幕府による鎖国が実施される前であり、このころ頻繁に日本に入国していた外国人の中にはオランダ人宣教師も多く、彼らから鵜飼いの技術がヨーロッパへ伝えられたのでしょう。

しかし、ヨーロッパで行われた鵜飼いは日本や中国で行われていたものとは少し違うものだったようです。「鷹狩り」の手法の延長で行われたそうで、鵜は目隠しをされたまま漁場に連れてこられ、漁の時だけ目隠しを外されたといいます。

鵜の運搬も革手袋をつけた飼い主の手の上に大事に乗せられて行われたということで、日本のように縄で引っ張って強引にアユを捕らせるという形ではなく、アユを捕ってくるとナデナデと褒めてやる、というようなものだったのでしょう。ヨーロッパの鵜飼いはあくまで貴族のものであり、スポーツだったことがこのことからもわかります。

このほか、南米ペルーでも鵜飼いが行われたらしく、5世紀ごろ行われたと思われる鵜飼いの様子を記した土器がペルーのチャンカイ谷という場所から出土しており、リマ市にある博物館に収蔵品されているそうです。

これが本当だとすると、鵜飼は、日本とペルーでほぼ同時期に発生したということになります。しかし、ペルーは日本の裏側であり、このころにペルーからその技術が輸入されたということは考えにくく、おそらくは地球の表裏でほぼ同じ時期に鵜飼いによる漁法が発明されたということになるのでしょう。

さて、日本の鵜飼の方ですが、現在は、岐阜県、愛知県、京都府、愛媛県、大分県、福岡県など11府県、13箇所でしか行われていません。

さきほど600年ころに書かれた中国の書物に日本の鵜飼いのことが書かれていたと書きましたが、日本の文書で鵜飼いについて書かれたもっとも古いものは720年ごろに成立したとされる「日本書紀」です。

この神武天皇の条には「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、宮廷で、鵜を養っていた部門のことが書いてあるそうです。

日本書記とほぼ同じ時期にかかれた「古事記」にもこの「鵜養」のことを歌った歌謡が載っているそうで、このころから既に宮中行事として鵜飼いが成立していたことがわかります。

その後も、延喜年間(901~923年)には、時の天皇が長良川河畔の鵜飼たちにアユを献上させた記録があります。

源頼朝も平治の乱で敗走し、長良川河畔をさまよっていたとき、鵜飼の長の家で食べた鮎すしに感激し、その後1192年(建久3年)右大将として上洛したときにはこの長をわざわざよびだして恩に報い、また毎年鮎すしを鎌倉に送るよう命じたといいます。

織田信長もまた1564年(永禄7年)に長良川の鵜飼を見物してこれを賞賛し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称をさずけ鷹匠と同様に遇したといい、徳川家康も1615年(元和元年)、鵜飼を見物し、石焼きのアユに感賞したそうです。

家康に至っては、以来、江戸城に毎年アユを献上させるほどアユ好きになり、このころの鵜匠によるアユの献上の際には、老中の三判証文をもって継立て江戸まで2昼夜で送致させるほど珍重しました。

その後、江戸時代に入ると鵜飼はおとろえ、1805年(文化2年)には鵜匠の家は12戸にまで減少したそうです。が、その12戸に毎年120石、532両2分を給与するなどして厚遇したため、江戸末期までには鵜匠の家の数もかなり回復しました。

明治維新によって、鵜飼いは衰退するかにみえましたが、明治天皇の代によって待ったがかけられ、その後は鵜匠は「大膳職」に任命された上、明治23年(1890年)からは、岐阜県内の長良村古津やその他のアユの漁場で総延長1471間(約2.7km)が宮内省の鮎漁の「御猟場」に編入されています。

鵜飼漁がこれほど昔から珍重される理由、それはこの漁法で獲れる魚には傷がつかないためです。

ウがアユを「ウッ」といって飲み込むのか、「ウー」と飲み込むのか、実際にじっくり観察したことがないのでよくわかりませんが、いずれにせよ、その食道をアユが通過するとき、ギュッと体全体が締め付けられ、これによって、一瞬にして気絶してしまいます。

これがアユに傷をつけずに、鮮度を保つことができる理由であり、このため、鵜飼鮎は献上品として殊のほか珍重され、安土桃山時代に前述のように信長に珍重されて以降は、以後の幕府および各地の大名によってそれ以前よりもさらに鵜飼は手厚く保護されていったようです。

鵜飼いをやること自体が宮廷との関わりを保ち、中央政府である幕府との関係を保つ儀式となっていったため、鵜匠と漁場の確保は、大名達にとっても面子に関わる非常に重大なものでした。

しかし、一匹の鵜が咥えられるアユの数は知れています。このため鵜飼はとても漁獲効率のよい漁法とはいえず、明治維新後にはそれまで鵜飼いを保護していた大名がいなくなってしまったため、だんだんと減少していき、現在では、宮中行事として実施される以外で鵜匠をやる家はかなり減り、規模を縮小しています。

その昔は、鵜匠も多く、この漁法によるアユの収穫量も全国的にはそれなりにあったでしょうが、現在の鵜飼は、漁による直接的な生計の維持というよりはもっぱら、観光事業として行われています。

その多くが客が屋形船に対価を払い、船の上からその様子を見て楽しませるということで成り立っており、こうした観光事業としての鵜飼いは、愛媛県大洲市の肱川で、戦後の昭和32年(1957年)に「大洲観光うかい」として始まったものが発祥のようです。

実は、私はこの大洲市の生まれです。父がダム屋だった関係で、この地に赴任してきたときに生まれた子であり、その後すぐに父が広島に呼び返されたことから、私も生後一年半ほどここにいただけのことであり、全く記憶にはありません。

が、自分が生まれた場所ということで子供のころからそれなりの関心はあり、テレビなどで肱川の鵜飼いの様子が映し出されたりすると、自分の生まれたところの住民はこんなことで生計を立てているのか、なさけなや……などと勘違いしていたものです。

鵜匠たちのいでたちも独特であり、風折烏帽子に古風な漁服、胸あて、腰蓑を身に着けたその様子は、やはり何度見ても時代錯誤の感があります。しかし、これが宮中行事として行われる際にもこれが正装なのだといわれると、ははぁ~っという気になるから不思議です。

もっとも、宮中行事のほうは、岐阜県の長良川で行われている鵜飼いだけです。岐阜市と関市の長良川河畔において行われているのがそれであり、このための「宮中職員」としての鵜匠は岐阜市長良に6人、関市小瀬に3人いるそう、これらは全て世襲制です。

もともと長良川の鵜飼は1300年ほど前の江戸時代において、徳川幕府および尾張家の庇護のもとに行われていたものを現在まで踏襲してきたものです。

前述のとおり、明治維新後は明治天皇の命令により、一時有栖川宮家(江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家で伏見宮、桂宮、閑院宮とならぶ世襲親王家の一つ。第2代良仁親王は皇統を継ぎ、後西天皇となった)の御用となりました。

しかし、1890年(明治23年)には、宮内省にその管轄が移され、「主猟寮」という部門の所属となり、長良川鵜飼は正式に、宮内省(現宮内庁)の「御料鵜飼」となりました。ということはつまり、皇室御用の鵜飼であり、毎年5月11日から10月15日まで行われる漁のうち特に宮内庁の御料場で行われる8回の漁すべてが皇室行事ということになります。

おそらく毎年のようにこのころになるとテレビのニュース映像で流れるのは、この長良川での御料鵜飼の様子でしょう。ここで獲れた鮎は皇居へ献上されるほか、明治神宮や伊勢神宮へも奉納されるといいますが、どんな味がするのでしょう。体に傷をつけないように捕獲する特別なものということですから、きっと格別においしいに違いありません。

現在、長良川以外で鵜飼いが行われているのは、以下の川です。

山梨県笛吹市(笛吹川)
小瀬鵜飼 愛知県犬山市(木曽川)
京都府宇治市(宇治川)
京都府京都市(大堰川)
和歌山県有田市(有田川)
広島県三次市(馬洗川)
島根県益田市(高津川)
山口県岩国市(錦川)
愛媛県大洲市(肱川)
大分県日田市(三隈川)
福岡県朝倉市(筑後川)

中部地方以西ばかりですが、これはこれらの多くが琵琶湖産の稚鮎が遡上したものを目当てにしたものであり、その地方の環境が生まれた場所の気候に比較的近いためです。アユの養殖時の飼育適温は15~25℃であり、このほかの生産地も、滋賀県、徳島県、和歌山県、愛知県、静岡県など、中部以西の地方ばかりです。

このアユの生態の話は、昨年10/27の「アユのお話」に詳しく書いてあるので、ご興味のある方はこちらをどうぞ。

さて、今日はアユの話に始まり、鵜飼いの話に至りました。この「鵜」についての生態も書き足りない気もするのですが、今日はもうやめておきましょう。ただ、鵜は、中国ではペリカンを意味し、その通り、ペリカンの仲間です。

どおりで魚を飲み込むのが得意なわけですが、日本の鵜はアフリカやアメリカ大陸にいるように魚が蓄えられるほど嘴(くちばし)は発達してません。日本ではカワウ(川鵜)とウミウ(海鵜)がいますが、鵜飼いに使われるのはウミウのほうで、中国ではカワウを使うというのは前述しました。

日本でウミウがよく使われるのは、カワウよりやや大きく、また日本ではどこへ行っても海岸からはあまりそれほど距離はありませんから、カワウは入手しやすい環境です。しかし、中国では内陸に行けばいくほどウミウが入手しづらく、カワウのほうが手に入りやすくなります。

我が家の近くの狩野川にもたくさんのカワウがいて、ときおり集団でいるのを水辺でみかけることもあり、まるで会議でもやっているようです。そのうち、一匹つかまえてきて調教し、鵜飼いをさせてみようかとも思うのですが、我が家のテンちゃんが嫌がるかもしれないのでやめておきましょう。

鵜飼いはやはり見て楽しむもの。静岡では残念ながら見れないようですが、岐阜まではそれほど遠くないので、そのうち、機会あれば見物に行ってみたいものです。そして、もし可能ならば傷がついていないという絶品の「鵜飼いアユ」も食してみたいもの。

近いうちに実現するでしょうか。ま、無理かもしれませんので、今年も釣り人が捕ったアユで我慢しましょう。……などと書いていたら、急にアユが食べたくなりました。もう売っているでしょうか…… お昼ご飯にアユ飯。いいかもしれません。

北の国から ~松崎町


今年も母の日が近づいてきました。

我が家でも毎年、山口にいる母に、たいてい花やら何やらをプレゼントするようにしています。

今年は、何にしようかな~と思っていましたが、先日母が「来豆」してきたとき、前にあげたバラを枯らしてしまったと言っていたのをタエさんが覚えており、じゃぁ、その代りのバラにしようか、ということになり、昨日、長泉町のサントムーンで、薄いオレンジ色のバラをみつけ、これを贈ることにしました。

花好きの母のことですから、きっと喜んでくれることでしょう。

ところで、花といえば、先日松崎町の花畑のお話を少し書きかけました。町の有志達が、毎年のように休耕田を利用して、ここに色とりどりの花を植えて観光客に開放しています。

春先に那賀川のサクラを見に行ったときにも、咲き誇っていましたが、今はまた季節が進んで、矢車草やひなげしといったまた別の花々がたくさん咲いていました。

休耕田は、連休明けから本来の目的である田んぼとして使われるため、この美しい花々は連休までの命ということで、我々が行ったその日が、その雄姿をみれる最後の日。どうせ翌日からは刈ってしまうから、ということで、観光客が自由に摘んでもかまわない、と自由な立ち入りが許されており、このため花目当ての多くの人たちで賑わっていました。

このとき持ち帰った花々は、両手で持ち抱えるほどあり、これをタエさんがほとんど半日かけて剪定。今、我が家のあちこちで、その蕾が開き、実に華やかです。いつまでももってくれればいいのですが、花の命は短くて……であり、今月一杯もたせるのはさすがに難しいでしょう。とはいえ、精一杯咲いてくれている花たちに感謝感謝です。

この松崎での「花狩り」の際には、そのすぐ近くにある道の駅、「花の三聖園」で昼食をとりました。タエさんの頼んだざるそばには、松崎の海岸で採れる岩のりを使った小丼と、本物のワサビまでついてきて1000円弱という安さ!しかも味も上等で、私は暖かい山菜そばを頂いたのですが、こちらも大変よかったです。

道の駅の食事には嗜好をこらしたものを出すところも多く、この「道の駅三聖園」もそのひとつであり正解だったと思います。みなさんもごひいきにしてあげてください。

依田勉三のこと

さて、以前このブログでは、この「花の三聖苑」の名前の由来になった「松崎三聖人」について触れました(3/27「松崎にて」)。

この道の駅の敷地内には、「大沢学舎」という古い建物がありますが、これはその松崎三聖人の一人である「依田佐二平(さださじべい)」が私財を投じて開校した公立小学校です。

依田家の先祖はもともと信州におり、武田信玄の子の武田勝頼に仕えていた重臣でしたが、武田家の滅亡後、一族がこの地に落ちのび、その後この地で商家として栄えるようになりました。

明治初頭にこの依田佐二平の代になってからは、群馬県の富岡製糸工場に習って製糸産業を振興したところこれが成功し、依田家は更に発展するとともに、これによってその当時の松崎は日本三大製糸の町とまで言われるほどになったことなどを先般のブログで書きました。

この三聖人の残り二人ですが、一人は、幕末松崎の漢学者で「土屋三余(つちやさんよ)」という人物。松崎のこの地の名門の武士の家に生まれ、江戸で漢学を学び帰郷し、「三余塾」を開き、この当時としては「士農の差別をなくす」という革新的な思想をもって、農家の子弟をも教育しました。

この結果、門下生に数多くの逸材が育つようになり、依田佐二平はその一人です。そして、この佐二平の弟が、三聖人のもう一人、「依田勉三(よだべんぞう)」になります。今日は、この依田勉三について、書いていきたいと思います。

本州ではあまり馴染のない人物です。北海道では札幌にある「北海道神宮」の末社である「開拓神社」の祭神にまで祭りあげられていますが、だからといってそれほど知名度の高い人物ではありません。

ちなみに、この北海道神宮というのは、北海道では一番大きな神社のひとつです。が、その歴史はそれほど古くはなく、明治時代に創建されたものです。この当時、北海道の開拓当時樺太・千島に進出を進めていたロシアに対する守りのために建てられたということで、その大鳥居が北東を向いています。

明治4年(1871年)6月14日に勅旨によって「札幌神社」と命名され、国幣小社に列せられました。国幣小社というのは、式内社(10世紀初頭には朝廷から「官社」として認識されていた由緒ある神社)としては、官幣大社、国幣大社、官幣小社に次ぐ一番下の社格でしたが、翌明治5年(1872年)には一つ上の官幣小社に昇格しています。

北海道の開拓にあたって、明治天皇は北海道鎮護の神を祭祀するように明治2年にわざわざ勅を発しており、これによって、北海道開拓の守護神として、大国魂神・大那牟遅神・少彦名神の三神が「開拓三神」として奉ぜられるようになりました。

これ以前にも北海道の各地に神社はありましたが、各地方の人々の個々の信仰に拠って建立されたものにすぎなかったため、この札幌神社ができて以降は、北海道で公式に認可される神社は日本の祭政制度にのっとって建てられるようになりました。

また、その後二次大戦前までには北海道だけでなく、全国的に国民統制のための国家神道が行われるようになりましたが、北海道においてもこの札幌神社がその中心地となり、札幌神社内には皇典講究所の分所が設けられ、北海道内の神職の養成や教布が行われるようになりました。

戦後の昭和39年(1964年)、明治天皇を合祀し、社名を現在の「北海道神宮」へと改めました。現在北海道では一番大きな神社として、多くの参拝客を集めています。祭神には、前述のように北海道開拓の守護神として三神が選ばれていますが、境内には数々の「末社」があり、ここには、北海道開拓で功績のあった人達も祀られてます。

その一つが「開拓神社」であり、ここには依田勉三だけでなく、間宮林蔵ほかの北海道開拓の功労者が数多く祀られているのです。

北海道開拓に至るまで

さて、伊豆で生まれた依田勉三が、なぜこの北海道で開拓をするように至ったのかについてみていきましょう。

依田家は、前述のように甲州武田氏の流れを汲む伊豆国那賀郡大沢村(現松崎町)の豪農で、1853年(嘉永6年)、勉三はこの家の三男として生まれました。長兄は依田佐二平です。次男は幼くして亡くなったため、勉三が戸籍上は次男となりました。

幼名を久良之助といい、三聖人の一人、土屋三余や、西郷頼母(保科酔月)などから漢籍を教わっています。西郷頼母というのは、今NHK大河ドラマで放映されている八重の桜にも登場する会津藩の元家老のことです。

幕末の動乱のあと、依田佐二平に請われて伊豆へやってきて、多くの師弟を育てたことは、3/28のブログ「頼母のこと」でも書きましたので、詳しくはそちらを読んでみてください。

佐二平と勉三の兄弟は7つ離れています。兄弟は、勉三が12歳のときに母を亡くしていまが、さらにその母の後を追うように2年後には父が死去したため、依田家は、兄の佐二平が後を継ぐことになりました。勉三が14歳ですから、兄の佐二平は21歳になっており、当主としては若いながらも申し分のない年齢でした。

しかし、若くして当主となったため、主としてはもっと学をつけさせるべきと周囲が見なしたためか、弟の勉三とともに、那賀村から3kmほど離れた松崎町にある土屋三余の私塾であった「三余塾」で学ぶようになります。

「三余」とは、塾頭の土屋が「士農の差別をなくすためには、業間の三余をもって農家の子弟を教育することが必要だ」と彼が子弟に説いたことにより、この三余を土屋は自らの名前としても使っています。ちなみに、「三余」とは、一年のうちでは冬、一日のうちでは夜、時のうちでは雨降りのことです。

ここで、国学や儒教などの基本的な学問を習得した勉三は、19歳の時に上京します。1872年(明治4年)のことであり、維新の動乱も終わり、ようやく世の中が開明に向かって動き出そうとしていた時代でした。

この上京で、勉三は、はスコットランド出身の宣教師・医師ヒュー・ワデル(1840~1901)という人物が営んでいた英学塾に学ぶようになります。

勉三がこのワデルをどうやって知り得たのかについては詳しくはよくわかりませんが、兄の佐二平はこのころ、地元のリーダーとして殖産興業に励むようになっており、欧米諸国への輸出品を研究しており、その関係から兄を通じて在日外国人の情報を得たのかもしれません。

兄の佐二平はその後製糸業に注目し、これを地域の産業基盤にすべく、この当時官営だった上州(現群馬県)の富岡製糸工場に6人の子女を派遣したりしています。

彼女達が2年間の技術習得を終えて帰郷したあと、明治8年に松崎に設立された製糸工場はその後大きな繁栄をしていくことになりますが、こうした欧米の技術を導入する関係から、多くの外国通や欧米人とも知り合ったと想像され、弟の勉三が上京するにあたっては、その人脈を活用したと考えられます。

とまれ、こうして勉三は、維新後まもない東京で勉学に励むようになり、このワデルの英学塾では、後に開拓の同志となる鈴木銃太郎や渡辺勝とも知り合っています。

こうして勉強に励んだ甲斐あって、その後慶應義塾に進むことができ、さらに当時の新知識を吸収。慶応義塾の創設者、福澤諭吉らの影響もあり、北海道開拓の志を立てるようになります。

ところが、慶応義塾に在学して2年が経ったころ、胃病を患うようになり、しかも脚気にかかってしまったことから、義塾を中退して郷里の伊豆に帰ってきてしまいます。

そして、しばらくは療養に専念していましたが、兄の佐二平が洋学校を設立したいと言いだしたためこれに協力することにし、自らもこの学校で教師として働くことを決めます。そして、ワデルの英語塾時代に知り合ったに渡辺勝に働きかけ、彼を伊豆に招致することにも成功します。

明治12年(1879年)、渡辺を教頭として下田の北側にあった蓮薹寺村に私立「豆陽学校」を開校。この学校は後に郡立中学豆陽学校と名称を変更したのち、昭和24年(1949年)4月に静岡県立下田北高等学校となります。同校の同窓会は現在でも豆陽会を名乗っています。

そもそも依田佐二平は、製糸業で成功する前から地元の青年の教育に熱心であり、明治維新直前の1864年(元治元年)には、自邸内に塾をひらき村民への新しい時代へ対応するための啓蒙運動をはじめています。これが、三聖園に現在移築されている「大沢学舎」(大沢塾)です。

大沢塾では地元の識者を招いて、主として儒学を教えていましたが、やがて明治維新が起こるとその内容も古くさくなっていたため、明治5年(1872年)にはこの大沢学舎をさらにグレードアップさせた、「謹申学舎」を設立しています。

ちなみに、松崎にはこのほかにも、1880年(明治13年)に竣工し、伊豆地域では最古の小学校として知られる岩科学校(いわしながっこう)があり、この学校は1975年(昭和50年)には国の重要文化財に指定され、現在では有名な観光地になっています。

実は、先日の「花狩り」に行った際に我々もここへ行きました。木造の寄棟造で二階建瓦葺の立派な建物であり、その外観の大きな特徴としてはなまこ壁が挙げられます。室内には「千羽鶴」の「鏝絵(こてえ)」などがあり、この鏝絵の作者は左官の名工として名高い工芸家で、松崎町出身の「入江長八」です。

正面玄関の「岩科学校」扁額は、最後の太政大臣、内大臣正一位大勲位公爵、三条実美の書ということであり、学校を作るにあたっては、東京の有名人などからも寄付やこうした協力が寄せられました。総工費の4割余りを住民の寄付でまかなうという地元の厚い熱意にも支えられて、1880年(明治13年)竣工。

この寄付をした住民の中には、当然のことながら依田佐二平も含まれていたはずです。これによって佐二平はその生涯において、「大沢学舎」「謹申学舎」「豆陽学校」「岩科学校」の四つもの学校の創設に関わっていたことになり、このことからも彼がいかに教育というものに関心が深かったのかがわかります。

この岩科学校は、国の重要文化財に指定されるまでは、学校としても使われた時期もあったようですが、その後すぐ隣に新校舎の松崎町立岩科小学校が建てられたため、学校施設としてはもはや使われることはなくなりました。

ちなみにこの隣接する岩科小学校も少子化によって2007年3月に廃校しており、我々が行ったときもガランとした広い校庭に遊ぶ子供たちの姿はありませんでした。

その後、岩科学校は老朽化も進んでいたことから、2年かけていったん解体され、1992年(平成4年)までに元の形に復元され、復元工事の終了とともに博物館として公開されています(有料)。

1875年(明治8年)、松崎町内に岩科商社として建設され、その後、岩科村役場として使用されていた建物も校庭内に移築されており、現在は「開花亭」という名前の休憩所兼お土産物屋さんとして利用されています。

さらにちなみにですが、この岩科学校の教員に「山口磐山」という人物がいたらしく、この人は会津藩の九代藩主松平容保のもとで働いていたそうです。どういう身分の人だったのかはよくわかりませんが、1877年(明治10年)、岩科学校の創案者であり岩科村戸長でもあった佐藤源吉の招きによって岩科学校の教員となったようです。

山口は岩科学校に隣接する天然寺で慎独塾も開いていたそうですが、病に倒れたため慎独塾は他人の手に渡り、1881年(明治14年)に明道義塾と改称されています。1883年(明治16年)死去。門下生によってほど近くの天然寺に墓が建てられているといいます。

このように、西郷頼母もこの山口磐山も会津の殿様に近い人だったというあまり知られていない事実があり、これらのことから伊豆と会津というのは、その昔からかなりの人物交流があったことがうかがわれます。確かほかにも会津から来た人がいたという記録を読んだことがあります。

が、今日のところはまた話が脱線中のことでもあり、そのことに触れるのはやめておきましょう。また調べてみて面白いことがわかったら、アップしたいと思います。

北海道へ

さて、ずいぶん話が飛んでしましました。こうして、東京から郷里の伊豆に戻り、病を治しながらも兄の佐二平の学校づくりに協力していた勉三ですが、その後病気もようやく癒えたのか、明治12年(1879年)、26歳のとき、同じ村出身の従妹のリクと結婚しています。

北海道開拓の志を固めたのはどうやらこのころのことのようです。なぜ、北海道だったのか、という点についていえば突拍子もない感じもするのですが、幕末から明治のはじめにかけての伊豆では、二宮尊徳の影響が色濃く、農本思想(報徳思想)と呼ばれる思想が学校でも子供たちに強く植え付けられていたようです。

土屋三余の塾でも繰り返しこの思想が教えらえていたようで、この報徳思想では、二経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説いています。

二宮尊徳が独学で学んだ神道・仏教・儒教などの学問と、農業の実践とを組み合わせた思想であり、「豊かに生きるための知恵」として、「至誠・勤労・分度・推譲」を行うことが大事と説いており、これによって物質的にも精神的にも豊かに暮らすことができるということを思想の根本に置いています。

要するに社会のために、私利私欲を捨てて生きろ、ということであり、このころまだ未開拓であった北海道の大地を切り開き、国民の利益のために供することこそが、勉三にとっての報徳思想の実践と考えられたのでしょう。

色々な史料にざっと目を通しところ、どうやらこうした開拓精神は既に幼少時代から勉三に植えつけられていたらしく、東京で学び、伊豆へ帰ってきて子弟に教育をしている間にもその理想は熟成されていき、やがては未知の北海道の荒野へ自らを投入することに憧れを抱いていくようになっていったのではないでしょうか。

また、勉三は慶応義塾で福沢諭吉の薫陶を受けています。福沢諭吉は独立自尊を説き、人口激増・食料不足を補うために北海道を大いに開拓すべきであるということを、その門人たちに語っていたようです。

これによって勉三はしだいに開拓報国の念を強くしていったとも考えられ、とくに明治8年(1875)に発表された北海道開拓の全体構想を示した「ケプロン報文」に出会い、北海道開拓に生涯を賭ける決意を固めたともいわれています。

ケプロンというのは、アメリカのマサチューセッツ州出身の元米国農務省長官(農務局長)であった、ホーレス・ケプロン(1804~1885)のことであり、1870 年(明治3 年)に開拓次官となった黒田清隆らが、北海道の開拓や農業経営の模範を米国に求め、開拓使顧問として招聘した人物です。

1869 年(明治2 年)、明治政府の開拓使設置により、北海道の本格的な開拓がスタートしますが、その2年後の1871 年(明治4 年)に来日し、開拓使顧問に就任。当時67歳でした。同年、このケプロンの指導で、東京の青山・麻布に官園が設けられ、北海道に導入する作物の試作、家畜の飼育や農業技術者の養成などが行われています。

その後ケプロンは3年10ヵ月もの間日本に滞在し、この間3回にわたり、北海道内各地の視察・調査しており、このときに作成したのが「ケプロン報文」です。

「報文」は、北海道の基本的な開発計画を提案したものであり、札幌を首都とすること、農業開発のために高等教育機関を設置することなどを明治政府に進言しています。このケプロンの進言により、マサチューセッツ農科大学長ウィリアム・S・クラークが学長に迎えられ、明治9年に札幌農学校が開校しています。

ケプロンの提言は、すべて、北海道開拓の基礎事業、開発すべき諸産業の振興に関するものであり、その後の北海道の開拓・開発の重要な指針となるものであったといわれています。

若き日の依田勉三もまた、その報文を目にし、幼いころから身についていた開拓精神にこれが火をつけたに違いありません。

開拓の開始

こうして、結婚してわずか二年後の明治14年(1881年)、とりあえずは妻をも連れず単身で現地へ渡ることを決め、北海道の中でもとくに人跡未踏といわれるほど険しい原野ばかりであった「十勝」へ向かうことになります。

明治14年(1881年)8月17日に北海道に渡った勉三は函館から胆振、函館に戻り根室に向かい釧路国・十勝国・日高国の沿岸部を調査し、苫小牧・札幌を経て帰途につきます。

さらに翌15年(1883年)、かつて英学塾で同学だった旧上田藩士族・鈴木銃太郎に声をかけ、賛同を得ると彼を連れて再び北海道に渡った勉三は、開拓の目標をいよいよ十勝に定め、当時札幌県に属することになっていた現地で、土地貸し下げの申請まで行っています。

そしていったんは伊豆へ帰郷して、兄の佐二平に十勝の将来性を力説します。このころには製糸業で成功を収めていた佐二平もまたこの弟の熱意に心を打たれ、農場建設のため、自らを社長とする「晩成社」を設立して彼に協力することにします。

社名は「大器晩成」にちなんだもので、たとえ長い年月がかかろうとも、かならず成功させたいという、兄弟の意気込みがうかがわれます。

こうして晩成社を設立した勉三らは、まずは政府から未開地一万町歩を無償で払い下げを受け開墾しようと考え、渡辺と鈴木、そして鈴木の父らとともに横浜港から北海道に向かい札幌県庁にて開墾の許可を願い出ます。

この鈴木銃太郎の父は親長といい、英学塾でも親しかった渡辺勝とその妻のカネも含めて全員が洗礼を受けた熱心なクリスチャンだったそうです。勉三だけはクリスチャンではなかったようですが、生涯にわたって勉三の盟友となった彼らの篤い信仰心は、その後の未開地入植において大きな精神的支柱になったようです。

勝と結婚したカネは横浜の共立女学校(ミッションスクール)の英学部を出た才媛で、入植後は、熱心に社員とアイヌの子供たちにも読み書きを教え、「十勝開拓の母」と称されているそうです。

こうして十勝へ向かった彼らは、十勝国河西郡下帯広村(現帯広市)を開墾予定地と定めましたが、この頃の帯広にはアイヌが10戸程と和人が1戸あるのみだったといいます。

この地に鈴木銃太郎と鈴木親長を残し、勉三は今度はここで働く人材を集めるため、いったん渡辺勝とともに伊豆へ帰り、移民の募集を開始します。その呼びかけによって、13戸27人を集めることができた勉三らは、明治16年(1883年)4月に彼らとともに横浜港を出港しました。

函館に着いた一行は海陸二手に分かれ帯広に向かい、1ヶ月後の5月に帯広に到着。かねてよりの念願であった帯広の開拓を開始しました。

しかし、その開拓への道のりはなまやさしいものではありませんでした。帯広に入った一行をまず鹿猟の野火が襲い、次にはイナゴの大群が襲います。食糧としてアワを蒔き付けますが、天候の不順に見舞われ、ウサギ・ネズミ・鳥の被害に遭い殆ど収穫はできません。

明治17年(1884年)になっても、天候が優れず開墾は遅々として進まず、開拓団の間には次第に絶望が広まっていきます。勉三は内地から取り寄せた米一年分を帯広南部の海岸沿いにある街、大津(現在の豊頃町)に貯蔵しましたが、内陸部にある帯広への輸送が困難な状況でした。

このため食糧不足を打開するため、大津のすぐ近くにあった当縁村生花苗(おいかまない、現在の広尾郡大樹町)で今度は、牧畜を主とした主畜農業を始めます。明治18年(1885年)には農馬を導入し羊・豚を飼育しハム製造を目指しました。

また、馬鈴薯澱粉などの栽培の研究も始め、農耕の機械化を試みました。しかし始めた事業はどれもうまくいかず、当初13戸あった移民住宅はついには3戸にまで減少してしまいました。

しかし、その後も努力を続けた結果、明治25年(1892年)頃までには、ようやく色々手がけた試みが効を奏するようになり、食糧事情は徐々に好変し、とくに小豆・大豆などの収穫が少しずつ多くなってきました。

とはいえ、当初晩成社の設立に当たっては15年で1万町歩の土地を開墾しようとの目標を掲げていましたが、9年を経たこの時点では目標には遠く及ばず、わずか30町歩を開墾するのにとどまっていました。

兄の佐二平はそんな弟を責めることなく援助を続け、自らの製糸業は好調であったことから、叙勲を受けたのを機会にさらに強気に晩成社の事業を拡大しようとします。そして、会社組織を合資会社とし、社名も「晩成合資会社」と改めました。

函館に牛肉店を開業し、札幌北部の石狩にある当別村に畜産会社を新たに創設。帯広にも木工場を作るとともに、帯広に近い然別村(現在の音更町)には新たな牧場も開くなど、むしろ事業をどんどんと拡大していきました。

明治30年(1897年)に社有地の一部を宅地として開放すると、思いがけなく多くの移民が殺到しました。これを追い風として、明治35年(1902年)にはバター工場を創業。他にも缶詰工場・練乳工場等も造るなど、内地での佐二平の財にモノを言わせて、考えられる限りのありとあらゆる事業に進出していきました。

しかし、結局のところ、晩成社が手掛けたこれらの事業は何れも成功することはありませんでした。彼らが手を着けたこれらの事業は、現在の十勝・帯広地方を育む重要な地場産業に成長しましたが、佐二平、勉三が育てた晩成社の経営は、その多角化が裏目に出、やがていずれもが芽を出すこともなく、じり貧に追い込まれていきました。

大正5年(1916年)には、とうとう主な収益源であった売買(うりかり、今の帯広市南東部)等の農場を売却せざるを得ないほど業績は悪化し、これを皮切りに他の事業も次々と閉鎖に追い込まれ、晩成社の活動は事実上休止することになります。

それから4年の歳月が過ぎました。この間、なおも勉三は細々ながら帯広開拓を続けていたと思われます。農場経営等の事業は相変わらずも厳しいながら、大正9 年には、現帯広市南部に新たに開いた「途別農場」ではそこそこの収益を上げることができ、その一応の成功を記念して関係者を集めた祝宴を開いています。

久しぶりに鈴木銃太郎や渡辺勝など晩成社同志12人が顔を合わせて、勉三の成功を心から祝ったといわれ、この時、勉三は68 歳になっていました。苦難つづきの晩成社の開拓の歴史の中で、この日だけは最良の日であったと勉三は後年述懐しています。

しかし、その後も経営難をかかえたまま事業を継続せざるを得ず、晩成社の所有地売却などを行いながら、なんとかしのぎを削って生活を続けていました。

そんな中、大正14年(1925年)、勉三は中風症に倒れます。その勉三を献身的に看病をしたのは、二番目の妻のサヨでした。

最初の妻のリクは、勉三とともに当初から帯広で開拓の手伝いをしていましたが、無理が祟って体を壊したため、伊豆へいったん帰国させました。そして明治22 年(1889)に4年間の伊豆療養から帯広に戻りますが、やがて病気が再発。

このため、明治27 年(1894)、勉三はリクと「愛ある離婚」を決意。その療養のため泣く泣く伊豆へ帰しています。その後世話する人があって、再婚したのが翌年函館生まれで、二人の娘を持つ馬場サヨでした。

勉三・サヨの間に千世という男子が生まれますが、わずか二ヶ月で病死。リクと間にも子供を設けなかった勉三は、結局実子には恵まれていません。

しかし、このサヨもまた、勉三への献身的な看病が祟り、大正14年(1925年)の9月に死去。この年の10月には、兄の佐二平も亡くなりました。

そして、その2か月後の12月、勉三もまた、彼らの後を追うように、帯広町西2条10丁目の自宅で息を引き取りました。享年73。

勉三は、その死の間際「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」といいながらこと切れたといいます。

勉三の死後、昭和7年(1932年)には晩成合資会社は解散し、まるでこれと入れ違いのように、翌年の昭和8年(1933年)帯広が北海道で7番目の市制を施行しました。

晩成社設立当初の15 年間の償還期間はその後25 年に延期されましたが、事業が順調に推移しなかったことから、借金も雪ダルマ式に増えていきました。

佐二平の配慮によってさらにこの開拓目標期間は50 年に引き延ばされましたが、それでも成功せず、昭和7年、創業50年満期となったため、莫大な負債をかかえたまま倒産同様に解散したのです。

晩成社員に残された土地も、出資者への配当もなく、勉三所有の土地も一坪もなかったそうで、すべて借財の返済にあてられました。

しかし、勉三が若き日、慶応義塾の福沢諭吉の薫陶を受け・ケプロン報文に出会って北海道開拓の決意を固めた決意は、入植以後約半世紀すこしも揺るがず、十勝開拓の先駆者としてその名をこの地に残しました。

開拓済民の使命感をもって困難な開墾作業にあたり、さらに役所の手続き、農作物の種子肥料・牛馬豚の買い付け、小作人集めなどに東奔西走した苦闘の生涯は、現在でもあらゆる十勝産業の基盤整備の「礎」として高く評価されています。

「ますらをが心定めし 北の海 風吹かば吹け 浪立たば立て」という歌は、依田勉三が若き頃詠った歌とされています。「ますらを」とは、「益荒男」と書き、りっぱな男、勇気のある強い男を意味します。

勉三が北海道入植を決意した際、その強い志を周囲に示すために歌ったものであり、現在でもこの歌だけは、入植者の心意気を示した歌として帯広市民だけでなく、道内では広く知られているようです。

勉三の死後から、16年後の昭和16年(1941年)帯広神社前に銅像が建立され、この銅像は戦時中に金属応召によって供されましたが、昭和26年(1951年)7月に銅像が再建されています。

昭和29年(1954年)9月には北海道開拓神社(現北海道神宮)に勉三は合祀されました。

帯広市の菓子メーカー六花亭が作るお土産物として有名なお菓子、「マルセイバターサンド」は勉三等の晩成社を記念したものだそうです。

このように、帯広開拓を通じての勉三の生涯はけっして平坦なものではなく、その結果も本人に報いるようなものではありませんでしたが、彼の苦闘の生涯は多くの開拓民の中にあっても代表的なものとして数多く記録に残され、その後の北海道を形成した開拓精神を培った人物として高く評価する人も多いようです。

その出身地である伊豆においても、昭和60年(1985年)の4月、出身地である松崎町では勉三と兄の佐二平、土屋三余の3人の偉業を讃え、第1回中川三聖まつりが開催されました。以後毎年4月第1日曜日に開催され、現在に至っています。

北海道でも、平成元年(1989年)に、明治26年(1893年)から大正4年(1915年)頃まで勉三が当縁村生花苗で住んだ住居が復元され「依田勉三翁住居」として大樹町の史跡の一つになるなど、もうすぐ死後100年になろうとしている昨今、その業績を再評価する動きも高まっているようです。

10年ほど前の平成14年(2002年)には、勉三が十勝の開拓を始めた開基120年を記念して、勉三の生涯を綴る映画「新しい風 – 若き日の依田勉三」が製作され、この作品は第38回ヒューストン国際映画祭でグランプリに輝いたそうです。

勉三役は北村一輝さんだそうで、無論私もこの映画はみたことがありませんが、今度TSUTAYAででも探してみようかと思っています。みなさんもビデオ屋さんでみかけるかもしれませんので、気に留めておいてください。

さて、今日も今日とて長くなりました。この項は終わりにします。

明日はひさびさの雨模様のようです。せっかくの週末なのに……ですが、あさってには回復するとのこと。このあいだ行けなかった、奥の院にも行かなくてはいけません。新緑は始まったばかりかと思っていましたが、日に日にその緑も深くなりつつあります。

手遅れにならないうちに、思う存分、新緑狩りに出かけることにしましょう。