海峡


先週末から急に天気悪くなってきました。

台風が近づいているのだそうで、今年の梅雨はこの台風の行先いかんによって、だいぶ様相が変わってくる、というようなことをテレビで気象予報士さんが言っていました。

台風がそのまま梅雨前線を押し上げる形になれば空梅雨、梅雨前線と合体する形で日本近辺に居残れば、長梅雨ということのようです。

今週末にかけて太平洋岸に接近する台風の動きが気になるところです。

筋肉痛です。おとといは住人総出で、この別荘地内の公共場の大掃除をするという日になっており、この掃除の主眼は主に雑草の除去と繁茂する樹木の伐採でした。

ウチは、別荘地内の中央公園のすぐそばにあるということで、この公園の境にちょっとした緑化ベルトや公園内の広場、道路脇の雑草処理が担当でした。

この公園脇の緑地には、樹齢が数十年にもなる椿や桜の樹が十数本あります。そして私はこの椿や桜のうっそうと茂った枝を落とす作業を買って出た、というか、ここではお年寄りが多いので、こうした作業を進んでやる人もなさそう、ということで、自主的にこの作業をすることにしたのでした。

最初はあまり本気でやるつもりはなかったのですが、気が付いてみると、下草を刈り、樹にまでよじ登って、うっそうとした枝を切り落とす作業に没頭しており、朝の8時くらいから始めたのですが、気が付くと、お昼前になっていました。

最近あまり体を動かしていないので、こりゃー明日には筋肉痛になるかも、と思ったものですが、大当たり。そして昨日の夜あたりから、すっかり上半身不随状態……というわけです。

ま、張り切ったおかげでグリーンベルトはすっかりきれいになり、いままで我が家から見通せなかった公園がすっかり見えるようにもなり、地域の住民さまからもかなり感謝されました。

すごーい、ナタとのこぎりだけで、こんなにきれいにできるなんて、プロみたい!と大絶賛の嵐。

へへん、どんなもんだい、と多少誇らしくはあるのですが、来年もまた今年のこの成果と同様のものを期待されるのでは……と内心はやや複雑。

歳も年だし、あんまりはりきりすぎるのもたいがいにせんと……と反省しきり。それにしてもあれだけ重労働したのに、その見返りは小さな寿司折とペットボトルのお茶だけ。ビールを出さんかーいビールを!

……というわけで、今日は痛む肩をいといつつ、パソコンを開け、いつものように仕事を始めたわけです。そして、しばしブログのテーマを探してネットサーフィンをやっていたのですが、その中で、今日は関門トンネルの「下り線」の開通した日であることを書いてある記事を見つけました。

下り線?なぜ下りだけ?と少々疑問に思ったので、ちょっと調べてみることに。

すると、驚くべき事実が判明。

そもそも関門トンネルというのは、鉄道と道路が共用のものが一本だけだとばかり思っていたらそうではなく、それぞれ別のトンネルだということがわかったのです。

1942年(昭和17年)の6月11日に開通したというのは、このうちの鉄道トンネルのほうということで、昭和17年といえば戦前です。

えーッ、関門トンネルってそんなに古かったけーとさらに驚き、調べてみたのですが本当みたいです。

構想そのものは明治時代からあったようで、1896年(明治29年)に「全国商業会議所連合会」なる団体さんが関門海峡に鉄道隧道を建設して欲しい旨の嘆願を帝国議会に提出。

しかしすぐには了承されず、10年以上も経ったあとの1911年(明治44年)になって、このころ鉄道院総裁だった後藤新平が、土木技師に命じて関門海峡を挟む北九州と下関間の間にどうやって鉄道を通すかの検討を命じています。

この検討の結果、「海底隧道」による鉄道敷設が可能ということになったようですが、なぜ橋梁にならなかったについては、橋にした場合には、万一外国が侵略してきたときに、橋梁だと艦砲射撃にさらされるおそれがあるから、ということだったようです。

その後、具体的な工法が検討されますが、トンネルを掘る技術がまだ未熟だったためかすぐには実行に移されず、その後20年以上も経ったころになって、ようやく工事開始が決定。このころ明治時代は既に終わり、大正時代も通り越して、時代は昭和に入っていました。

1936年(昭和11年)9月19日起工。2年と7カ月後の1939年(昭和14年)4月19日には、先通導坑(工事促進のため先に掘削された小トンネル)が貫通。この当時既に日本は戦時体制下になっていたため、来たるべき戦争に備え、輸送力増強を図るために工事は突貫作業で行われたといいます。

工法は、当時としては最先端、現代でも主流のシールド工法であり、この当時としては最新鋭のシールド掘削機を駆使しならが作業が進められましたが、多量の湧水に対抗する難工事でした。

日本としては初めての海底トンネルであり、このため海底からのトンネルの深さを十分に取ることを忘れ、土被りが極端に小さかったため、坑内で掘削中には頭上を通過する船舶のスクリュー音が聞こえたといいます。

また、それだけならまだしも海底に坑内の空気が漏れ出したりしたこともあったといい、このチェックのために超小型潜水艇による調査まで行われたそうです。

しかし、工事中は死傷者も出さず、大きな出水などもなく、起工から5年弱を経た1941年(昭和16年)7月に、「下り本線」が貫通。

なぜ下り線だけなのか、が私の疑問だったのですが、どうやらこれはこのトンネルが、「単線並列方式」で建設されたためのようです。

上下線共に上り下り双方向の運行が可能とする方式であり、万一、どちらかのトンネルに障害が発生した場合でも、もうひとつのトンネルが使えるようにすることを想定したもので、こういう方式を「冗長方式」というのだとか。

戦時設計のため、橋梁と同じく敵の攻撃を想定し、二本の路線を確保しておくことにしたというわけです。これで私の疑問は解けました。

この単線並列方式では、日中の閑散時間帯に軌道点検・保守を実施する際は、上下線いずれかを閉鎖し、単線運転を実施することもでき、そう考えるとなるほどなかなかか効率的なシステムです。

そして、1942年(昭和17年)、下り本線で試運転開始したのが今日6月11日だったというわけ。その二日後の6月13日には、この下り線で貨物列車の運行が開始されており、さらに人間後の1944年(昭和19年)9月9日には上り本線も完成、複線化が完成しました。

「山陽本線」としての「開業」はこれに先立つ1942年(昭和17年)7月1日のことであり、上り線はまだ開通していないので、下り本線だけで開業が宣言されました。この年の11月からは、下り線を使っての旅客営業も開始。

このとき、下関駅も開業、門司側でも接続駅の大里駅(だいりえき)が門司駅に改称され、旧門司駅は門司港駅に改名。

世界最初の鉄道海底トンネルとして喧伝され、海底を通るが故に「龍宮の回廊」とも呼ばれましたが、戦時中であったため写真はほとんど残っておらず、数少ない報道写真も軍による検閲を受けて多くを偽装修整されたといいます。

この関門トンネルの開業の日をもって全国的にもダイヤが改正され、日本の鉄道は24時間制に移行しており、11月15日は日本の鉄道史においても記念すべき日となっています。

このとき日本は既に前年(1941年)12月の真珠湾攻撃によってアメリカと海戦しており、アメリカやその他の同盟国からこの関門トンネルも攻撃されるのでないかと心配されました。

実際に太平洋戦争末期の1945年ころ、アメリカ軍では日本側の抗戦が続いて本土決戦となった場合に本州から九州への輸送路を絶つことなどを目的に、関門トンネルを爆破する計画を持っていたといいます。しかし実行前に終戦となったため、中止されたそうです。

アメリカ軍の攻撃をまぬがれた関門トンネルですが、一度だけ陥没しています。

1953年(昭和28年)6月28日北九州地区に大水害をもたらした西日本水害の集中豪雨により、トンネル内に土砂混じりの大水(延べ9万m³)が流入し、1.8kmに渡り水没。

門司駅では直ちに上り特急列車の出発を抑え、トンネル反対側の下関駅へも連絡しましたが、既に1本の下り列車が下関駅を出発していたことが判明。

鉄道関係者をハラハラさせましたが、程なくして下り列車が滝のように大水が流れ込むトンネルからずぶ濡れになりながら現れ、なんとか脱出に間に合いました。門司駅に到着した列車が到着すると、大きな歓声が沸き上がったといいます。

無論、死者はなし。資材不足のため復旧には米軍から借り受けたポンプなどを用い、復旧は7月13日、一般営業は同19日に再開しました。

このころ、並走する「関門国道トンネル」はまだ工事中でした。1937年に試掘導坑の掘削を開始し1939年に完了。同年、本坑掘削に着工し1944年12月に貫通しましたが、太平洋戦争によって工事中断を余儀なくされました。が、1952年に事を再開し、1958年3月9日に開通。

その上を通る「関門橋」もその15年後の1973年(昭和48年)11月14日に開通。現在関門橋にはこうして、「三本の矢」ができ、本土と九州を結ぶ重要な路線として今も活躍しています。

……そんな関門海峡にはもう何年も行っていません。ときおり、ふとしたひょうしに、そのすぐそばにある火の山の頂上から眼下に広がる海峡の姿を思い浮かべることがあります。

キラキラひかる海とそこを行きかう船、これをまたぐ関門橋のとその背後に広がる青い九州の空を思い出すたび、この場所にむしょうに行きたくなります。

梅雨空の下の関門海峡。今日はどんな姿でいることでしょうか。

スタンド・スティル


今日は時の記念日だそうです。

“記念日”であるだけに、当然、お休みではありません。

こういうメモリアル・デイばかり作っておいて、一向に休日が増えないのは政府の怠慢ではないか……と思ったりもするのですが、記念日がすべて休日になってしまったら、ほとんど仕事をする日がなくなってしまうので、私の考えがワーカホリックの日本人の大多数の同意を得る、というのは難しそうです。

なぜ今日が時の記念日なのかというと、「日本書記」に「漏刻(ろうこく)」と呼ばれる水時計を新しい台に置き、鐘や鼓で人々に時刻を知らせたと記述されていることにちなんでいます。

この日は、旧暦の671年の4月25日だったそうですが、現代の暦に置き換えると、6月10日にあたるのだとか。ほかの記念日は旧暦のままだったりすることが多いのに、時の記念日だけわざわざ置き換えたのは、やはり「時」に関する記念日だから、正確を帰そうとしたのかな?と勘ぐったりしています。

この漏刻は、これよりもさらに十年ほどまえの660年には、既に天智天皇(当時は中大兄皇子)が初めて製作させており、その元となるものは遣唐使により中国からもたらされたものだったようです。

サイフォンの原理で複数の水槽をつなぎ、一定速度で水が溜まるように工夫されたものであったそうで、管の詰まり防止や凍結防止などへの配慮までなされていたといいます。

さらには、読み取った時刻の伝達やメインテナンスをする担当者が必要であったため、奈良時代頃までには「漏刻博士」というチーフ2名と、守辰丁(しゅでぃんちょう)という20名のスタッフまで用意されていました。

漏刻博士は、「ときつかさ」ともいい、ようするに時の番人です。それなりに官位があり、従七位下相当が普通だったそうですが、五位・六位に任じられた例もあるそうで、従五位下以上と六位の蔵人は昇殿を許される身分ですから、いわゆる「殿上人」であり、位の高い人達しかなれなかった官職です。

天皇が地方などに行幸する際には、必ず漏刻博士1名と守辰丁12名が漏刻とともに随従する義務があったそうで、こうした史実をみても古代から日本人は時間に厳しい国民だったことがわかります。

この後も日本では長い間、水時計が使われ続け、1595年の羅葡日辞書(らほにちたいやくじしょ。イエズス会宣教師によって刊行されたラテン語・ポルトガル語・日本語の対訳辞書)にも「トケイ、ラウコク」の項があります。

ただし、時代が下って戦乱の世になると、置時計である漏刻はあまり活用されず、日の出から日の入までを6等分した不定期法が使われるようになり、時計を使う習慣はやや廃れました。

17世紀に鎖国が始まってからは、戦国時代に伝わった西洋時計の改良が日本独自で行われ、西洋式の1日を24時間に分ける時計に対して、季節によって「一刻」の長さが変える「和時計」が作られて普及しました。

和時計は正確なものではありませんでしたが、複数を用いることで正確を期し、また、晴れの日には日昇時と日没時に補正ができるため、その運用を厳格に行うことで精度が維持され、和時計は普及していきました。

明治になると鎖国が解かれ、また、時刻もグレゴリオ暦採用に合わせて24時間均等割りに変更されたため、西洋式の時計が再び使われるようになります。国産時計の生産は1892年に服部金太郎が作った精工舎で始められ、3年後には輸出も行われるようになります。

その後世界に冠たるクオーツ時計を作ったのは日本人です。このクオーツによって日本の時計や一躍有名になり、現在では、時計と言えば日本かスイス、いわれるほど高い製造技術を誇っています。

が、その根本技術は無論、西洋が発祥です。現在使われている六十進法の時間単位は紀元前約2000年にシュメールで考えられたものです。1日を12時間2組に分けたのは古代エジプト人で、巨大なオベリスクの影を日時計に見立てたことが起源だそうで、彼らは先般、気球の事故のあったルクソール近郊で水時計も作っていたそうです。

水時計は後にエジプト以外でも用いられるようになり、古代ギリシアではこれを「クレプシドラ」と呼んでいたとか。同じころ、古代中国の殷では、水があふれる仕組みを利用した水時計が開発されていますがこの水時計の技術はメソポタミアから紀元前2000年ごろにもたらされたものではないかといわれています。

従って、時計の原点はエジプト、これが中国を経由して日本に入り、古代の水時計として発展したということになります。

その後、時計としては色々なものが作られます。「火時計」というのもあり、これはなんだろうと思ったら何のことはない、ロウソクを用いた時計でした。ロウソクの炎が燃えることで蝋が融け、この融けたロウの分量によって時を測ります。

「香時計」というのもありました。これも何のことはない、ロウソクによる火時計の応用です。ロウソクの代わりに「お香」が使われており、香からは大きな炎が上がらないので、ロウソクよりも燃え方が安定しており、火災の危険も小さいといえます。

6世紀頃から中国で使われ始めたようで、日本にも伝来し、正倉院には当時のものが残されているそうです。正倉院の香時計には漢字ではなく古代インドの文字が刻まれているそうで、このことから、中国で使われていたものは、中国国内だけでなく、インドで作られたものが輸入され、仏教行事に使われていたと推定されています。

この線香時計に使われた線香は線香時計専用に調整されたものであり、凝った作りのものも多くあったそうで、例えば一定長さごとにおもりが付けられていて、時間が来るとそのおもりが落ちて銅鑼などを鳴らす仕掛けのものもあったといいます。

線香の香りもいろいろなものが使われており、一定時間ごとに香りが変わるものもあったといいますが、これをもし現代の日本で販売したら結構人気が出るのではないでしょうか。私が知らないだけで、もうすでにたくさん売られているのかもしれませんが。

ちなみに、その昔日本の花街で芸妓さんを呼ぶとき、そのサービス時間を線香時計で測って料金を計算していたそうで、このため芸妓さんに支払う代金は「花代」のほかに「線香代」と呼ぶ地方もあったそうです。

無論こうした、火時計や香時計、あるいは水時計のような原始的なものはその後、機械時計に取って代わられるようになります。

一口に機械時計といっても、数多くのものがありますが、その歴史を今ここで語っても面白くもなんともないのでやめておきます。

この時計の中でも最も新しくて精度が高いものが、原子時計です。原子や分子のスペクトル線を用いて正確な時間を計るものであり、高精度のものは10-15(3000万年に1秒)程度、小型化された精度の低いものでも10-11(3000年に1秒)程度の誤差であるといいます。

原子や分子には、それぞれに決まっている周波数の電磁波を吸収あるいは放射する性質があるため、水晶振動子から放射された電波を用いるクオーツ時計よりもさらに高精度な周波数を求めることができます。

原子時計を元に作られた正確な時刻情報は標準電波として放送されており、その電波を受信してクォーツ時計の誤差を修正しているのが電波時計です。よく電波時計というのは「電波」を用いて時を計測しているのだと勘違いしている人がいますが、これは間違いです。

また、原子時計は、GPS技術には不可欠なものです。GPS衛星からの信号には、衛星に搭載された原子時計からの時刻のデータ、衛星の天体暦(軌道)の情報などが含まれています。

GPS受信機にも正確な時刻を知ることができる時計が搭載されているならば、GPS衛星からの電波を受信し、発信~受信の時刻差に電波の伝播速度(光の速度と同じ30万km/秒)を掛けることによって、その衛星からの正確な距離がわかります。3個のGPS衛星からの距離がわかれば、空間上の一点は決定できます。

しかし、衛星に搭載されているのが原子時計のような正確なものでなければ、この求める一点には大きな誤差が出てしまいます。当初、アメリカ軍部でGPS衛星の打ち上げ計画がもちあがったころにはまだ衛星に搭載できるような小型の原子時計が開発されておらず、このためこの計画はほとんど頓挫しかけたそうです。

ところが、ちょうどこのころにドイツで小型の原子時計の開発に成功した会社があり、アメリカ軍の開発者がこの噂を聞きつけ、この会社との提携にこぎつけたため、GPSの開発が成功したというはなしです。

現在、GPS衛星は約20,000kmの高度を一周約12時間で回っています(動いており、静止衛星ではない)。

軌道上に打ち上げられた30個ほどの衛星で地球上の全域をカバーしていますが、いかんせん、アメリカの軍事衛星であるため、いざというときにはGPSが使えなくなってしまう可能性もないではなく(たぶんそんなことはないでしょうが)、あるいはより精度の高い位置精度の追及のため日本独自のGPS衛星の打ち上げ計画も着々と進んでいるところです。

宇宙航空研究開発機構(JAXA)は既に2010年9月11日に技術実証のための準天頂衛星初号機「みちびき」を打ち上げており、2017年から2019年までにはさらに衛星3基が追加で打ち上げられて、4基体制でシステムが運用されることが決定しています。

ところが、このGPS衛星に搭載された正確無比な原子時計によって刻まれる時間と、地球上の時間は、実はほんのわずかですが「ずれ」があるのだそうです。

これは衛星からの信号を受信する地球上の受信機側での信号処理によるものだそうです。高速で運動するGPS衛星はその運動による発振信号の時間の遅れが生じますが、これ以外にも地球の重力場による影響による時間の遅れがあるといいます。

とくに後者は、衛星軌道の擾乱や信号到達距離の湾曲、発振信号の時間の遅れなどを引き起こし、これらの誤差により地上受信機の時計は、GPS衛星の時計よりわずかに遅れることになってしまいます。

このため、GPS衛星の時計は、これを補正するためわざと人為的に遅く進むように設計されているそうです。この時間の遅れは相対論効果を考慮した計算結果と高い精度で一致しているといい、身近な相対性理論効果の実証の一つとして挙げられています。

しかし、世界最高の技術であり、正確無比といわれているGPSシステムにも、こんな原始的な誤差矯正が行われているなんて驚きです。技術が進んだとはいえ、逆にその進んだ技術にもそろそろ限界が見えてきているということなのでしょうか。

というか、そもそもこれ以上時計は正確になりうるのか?というのは誰しもしりたいところです。今よりも時計が正確になるといったい何が起こるのでしょうか。

現在よりもさらに時計の精度が上げていこうとすると、相対性理論によって時計の精度にその時計がある場所の速度、重力、電磁場が精度に大きく関係してくるといいます。

前述のGPS衛星の例でも示したように、地球上にある原子時計と人工衛星軌道上の衛星に搭載されている原子時計の間には、その時の進む速さの微妙な違いが検出されます(違いといっても、我々人間が五感で検知できるようなレベルのものでは当然ありませんが)。

これを逆に考えると、こうした現象を利用して、その時間の誤差を生み出しているとされる電磁場や重力場がいったいどういうものであるのかを突き止めることができる、とされています。

こうした場を「重力波」と呼ぶのか、あるいは「時空のゆがみ」と呼ぶのかそれすらもまだはっきり決まっていないようですが、ともかく、これまで人類が認知していなかった物理世界の検出が、時計の精度を上げることによって測定できる可能性を秘めているのだそうです。

物理学の基本量である、光の速度や、素電荷の重さ、万有引力定数などといったものはいまだに正確な数値が求められていないといい、これらを求めることが、時計の精度を突き詰めることによって実現ができるとともに、これらの数値と数値との関係をもが新たに解明される可能性があるといいます。

私も十分には理解していないのですが、相対性理論と量子力学という二つの物理分野では、根本的にまだ未解明な部分が多く、整合性がとれていない部分も多々あるそうで、もしかしたらどちらかに間違っている部分がある可能性もあるということです。

そのどちらが正しいかについて結論を出し、統合・調整できる可能性も、時計の将来がその鍵を握っているというわけです。

まぁもっとも、日常的な生活を送っている我々にとっては、今以上正確な「時間計測器」ができたところで、急激に生活が変わる、ということはないでしょう。

我々にとってより身近な問題は、短い時間をより有効に使えないか、あるいはもっと早く時間が過ぎてしまわないか、という卑近な問題のほうがより深刻なテーマであったりします。

人工的に作り出された「秒」の長さや周期は、我々の心臓が脈打つことによって生み出される脈拍よりも短く設定されてしまっているわけですが、この秒周期をもとに時計が刻む音を常に聞かされ続ける、あるいはそれを意識するということは、人間にとって何らかのストレス源になってしまっているのではないか、という指摘もあるようです。

人間は普段意識している「時間の長さ」による心理的な影響を受けることが知られており、また聞かされる「環境音」の周期・リズムから心理的・生理的に影響を受けることも多くの実験で明らかになっているそうです。

さらに自分自身のその時々の脈拍をリアルタイムで聞いていると心地よいと感じるそうで、心地よく感じていることを示す脳波が多く出ることも実験によってわかっているといいます。そういえば、赤ちゃんがお母さんにだっこされると泣き止むというのは、母親の脈拍を聞き取るからだという話を聞いたことがあります。

もしも仮に秒の長さが現在の設定よりもいくらか長く設定され、脈拍と同じ程度になったらどうなるのでしょう。

あるいは、人間の脈拍よりも十分に長くなっていたなら、秒針の音は人をもっとゆったりとリラックスさせるものになるかもしれず、もし本当にそうなったら、古来から決められている一定の「時間」に束縛されている今の生活は根本的に変わっていく可能性があります。

そんなことはいまさらできるわけはないのですが、とはいえ、ちょっとした工夫で「時間」によって束縛されているという感覚を和らげることはできるかもしれません。

現代生活の人工的で短かすぎる時間による過剰なストレスに苦しめられている人は、自然の時間で生きる生活を送るといいます。たとえば人工的な時間を表示する時計類は身体から離して一切眼に入らぬようにし、自然の中で暮らすというのも一つの方法です。

夜は照明を用いず日没後すみやかに眠るようにし、日の出にあわせて起床し太陽光を浴びるようにすると、やがてストレスから解放され治癒される傾向がある、ということが知られています。

旅に出て、旅館に泊まると、たいがい時計が置いてありません。これは、日常から離れて普段とは違う自分を感じてもらうという、旅館側の配慮が長年の間に習慣として定着したものでしょう。

かつて日本人は現代のように分秒刻みの時間に追われる生活をしていたわけではなく、室町時代ごろから江戸時代までには、日の出と日の入(または夜明けと日暮れ)の間をそれぞれ6等分する不定時法が用いられていました。当然、日の出と日の入りの間隔は季節とともに移ろうため、この6等分の時間の配分も当然変わります。

「朝一番」は夏には朝の5時ごろですが、冬には7時となり、「夕飯時・宵の口」も夏では午後7時ごろ、冬では5時と逆転します。このため、「今何どきか?」を数字の時間では表現せず、一日を明方・早朝・朝方・昼方・夕・夕方・晩・夜中・深夜・未明などに詳細に区分して、これを意識して生活していたわけです。

また当日を基準とし、一昨日・昨日・昨晩・昨夜早朝・明日未明・明日・明後日・明々後日(しあさって)・弥の明後日(やのあさって)などの日を単位とした時間の区分もでき、1年区分でも「桃の咲く頃・下り鰹の捕れる時期」などといった表現もあります。

時間や日にち、季節や時節による区分表現を曖昧にすることは一見アバウトなようですが、考えようによってはこれは非常に雅で繊細な時間感覚です。

明治維新以降、戦前戦後、高度成長、バブル期の崩壊、失われた20年と現代に至るまで西洋時間に規定されて生きてきた我々が、今また「原点」を見出そうとするとき、その基本となるのは案外とこうした緩やかな「時間感覚」なのかもしれません。

時の記念日である、今日からでもいい、」「時間」によって束縛されているという感覚を和らげる何等かの工夫を初めてみてはどうでしょうか。

さて、今日は最後に、小椋佳さん作詞作曲の「スタンドスティル」という歌の歌詞をご紹介しておきましょう。私は曲もさることながら、このなんともいえない透明感のある詩が、若いころには大好きでした。

私の世代では、知っている人も多いかもしれませんが、30.40代の世代では馴染の薄いミュージシャンかもしれません。

スタンドスティルは「静止」という意味です。一度立ち止まって、時間を感じてみてください。

トロピカルフィッシュの 泡音の
絶え間ないくりかえしの中で
生き残る時間

同じティーバッグが 垂れている
紙コップにぬるい湯そそいで
薄くする時間

君といられることを だれに感謝しようか

弯曲した道の見はるかす
角のない いらだたしさだけ
はねている時間

壁に掛けたままの一枚の
絵に浮かぶ過去だけが
見えてくる時間

君といられることを だれに感謝しようか

まるででっちあげの 大事の
片付いた祝宴の中で
笑い合う時間

トロピカルフィッシュの泡音の
絶え間ないくりかえしの中で
生き残る時間

君といられたことを だれに感謝しようか

お化けのはなし


昨日の夜のこと、「ネプ&イモトの世界番付」というバラエティをみていたところ、「お化けを信じる国」についてのアンケート調査結果なるものを発表していました。

1位はエジプトで、日本は5位、最下位はインドネシアでしたが、2位以下では、マレーシア、シンガポール(3位)と続いていました。

ほかには、アメリカが7位、中国が24位、イギリス27位などでしたが、これ以外の国のことも気になったので調べてみたのですが、この番組の公式ホムペにも情報の記載がなく、とういう調査をしたのかよくわかりません。

そもそもどういう統計を取ってこうした結果が出たのか(対象アンケート者数など)がわからないので、この結果をどれほど信用してよいものかについても少々疑問です。

ただ、エジプト人のほとんどはイスラム教徒であり、イスラム教の原点に近いといわれる聖典「クルアーン」に出てくる、妖霊(ジン)と呼ばれる自然霊のことを信じている人が多いそうです。しかし、それならば同じイスラム圏のイランやイラクでもお化けを信じる人が多そうなもの。

ところが、同じくイスラム教徒の多い、イランでは幽霊を信じない人が多いそうで、これは、そもそもイスラム教には、亡くなった人の魂がこの世をうろついているという概念がないからだそうで、じゃあいったいイスラム教徒はお化けを信じる人が多いのか少ないのかどっちなのよ、と突っ込みたくなってしまいます。

この話に結論はなさそうなのですが、エジプト人は、寝る前にベッドを叩く習慣があるそうなので、エジプト人の言うところのお化けとは、妖怪や物の怪の類なのかもしれません。片やイラン人が信じていないというのは、人霊のことらしいので、そうした違いだとすれば、なんとなく納得はできます。

そもそも「お化け」という概念がいったい何なのかを定義せずにアンケートを取っていること自体が問題なのであって、テレビで放送するならば、ちゃんとお化けとは何を意味するのかをきちんと提示した上で調査せんかーいとまた、文句を言いたくなるのです。

が、まぁたかがバラエティ番組のこと、これが報道番組とかであれば問題ですが、人の興味を引きそうな話題を提供するために、少々根拠の希薄なアンケート結果を引き合いに出したのだろうと考えれば、あまり腹も立ちません。

ちなみに、スイスや、フィンランドなどのヨーロッパ諸国では、お化けも幽霊も信じない国があるそうで、スイスなどでは、お化けを話題にするような人は精神科行きを勧められるほどだといいます。

フィンランドもお化けを信じない国民性だそうで、お化けや幽霊を題材にした映画などを見に行くこと自体が理解できないそうです。そういえば、お墓が怖いという感覚がフィンランド人にはない、という話も聞いたことがあります。

ところが、同じヨーロッパでも、上のアンケート調査結果でランキング27位だったイギリスでは、この順位はともかく、お化け好きで有名です。家やマンションを買う時に幽霊屋敷だと高い価格がつくほどだそうで、国内には心霊スポットが何千ヶ所もありロンドン塔もその1つです。

旅行会社が主催する「ゴーストツアー」も大人気だそうで、こうしてみると、EUとしてひとくくりにされているヨーロッパでも、お化けに関してはかなり国による温度差があるものだとわかります。

じゃあアジアは、どうなのかなと見てみると、中国ではかつて、キョンシー映画が流行ったくらいですから、お化けについての関心はかなり高い国のようです。韓国も実話をもとにした漫画が大人気だそうで、お化けを題材にしたホラー映画などもかなり作られていて、日本にもかなり入ってきています。

アジア諸国の中でも、タイはとくにお化けに関心が高い国のひとつだということで、タイで一番怖いのは「ガスー」というお化けだそうです。昼は普通の女性の姿なのですがが、夜になると頭と内臓だけ体から外して空を飛ぶのだとかで、なるほどおどろおどろしくて不気味です。

……と書いてきたら当然日本についても書くべきなのでしょうが、こうした話題を取り上げつつも、そもそも「お化け」の定義をせずに話を進めるのも問題ありですので、ここでお化けとはいったいなんぞや、というところを書いてみたいと思います。

ウィキペディアでは「お化け」とは、「本来あるべき姿や生るべき姿から、大きく外れて違って変化してしまう、その変化した姿を「お化け」や「変化(へんげ)」という。」と書いてありました。日本では「化け物」や「化生(けしょう)」といった言い方もよくされます。

ご存知のとおり、日本は世界でも稀といわれるほど、四季の移ろいがはっきりしている国です。従って、日本人が「お化け」とする概念にも、かなり自然現象によるものが入り込んできているのは間違いないでしょう。

お天気なのに、雨が降る現象を、「狐の嫁入り」と言ったり、山岳信仰や里山信仰には必ずといっていいほど、自然にまつわる神様が出てきます。その多くは人の形をしていますが、中には、草木や動物、昆虫の季節的変化や成長過程での変容にヒントを得たものも多く、これらに共通する特徴は本来の自然の状態から大きく変化することです。

科学的な考察や説明ができない昔の人にとっては、自然の移ろいは神がかり的な驚異であったに違いなく、これがこの自然に対する畏怖や畏敬になり、観念としての「自然崇拝」につながっていき、やがてはこれが日本独特の化け物や化生になっていったと考えられます。

無論、こうした自然崇拝はヨーロッパやアジアの他国でもあり、これは形こそ違えフェアリー(妖精)や万物霊の考え方につながっていきました。

イギリスなどのヨーロッパでは、アニミズム(animism)という考え方があり、これは生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方です。日本の自然崇拝と似てはいるものの、日本のように限られた自然物・現象を対象として発展したものではありません。

日本における、自然崇拝とは、特定の自然物・自然現象を「神格化」したものです。ヨーロッパのように、すべてのものに「精霊」が宿っているとする考え方ではなく、数ある自然物・現象の中から神として崇め奉るべきものを選んで崇拝対象としたものであり、自然と超自然的存在を区別しない、というかその境界が非常にあいまいなのが特徴です。

自然崇拝の対象としては、

天空
大地、山、海
太陽、月、星(星辰崇拝)
雷、雨、風などの気象
樹木、森林
動物(特に熊、狼などの猛獣)
水、火、岩石

などであり、自然と超自然的存在があいまいな証拠に、これらのうち共通の属性を持つ複数のものを一体として神格化する傾向が強いようです。例えば天空や雷などがそれであり、これを一緒くたにして、風神・雷神様と呼んでいたりします。神道では、巨木、巨石(磐座)を御神体とする神社も多く、これらにより構成される「山」全体をご神体として崇拝するケースも数多くみられます。

このほか、日本では少数になるのでしょうが、太陽崇拝や月、星などの崇拝もないわけではなく、このほか「火」を信仰する宗教もあり、たとえ火をご神体としないまでも、火を色々な宗教儀式に取り入れている宗教団体も多いようです。

現在の日本人が「お化け」と考えているものは、こうしたかつての自然崇拝の名残であるものが多く、いわゆる「妖怪」や「もののけ」や「化生」といわれるもののほとんどは、何等かの自然物が変じたものである場合が多いようです。

これらは、「妖怪」としてひとくくりにされることも多いようですが、妖怪はそもそもが自然への畏怖から生まれたものであり、里山や鎮守の森のように自然と共にある生活が畏敬や感謝になり、これらへの怖れや禍福をもたらす存在として具現化されたものです。

日本では「神さび」という言葉に代表されるように、古いものや老いたものは、それだけで神聖であり神々しいという価値観が古くから形成されています。妖怪のことを「九十九神」と呼ぶ場合もあり、古い物や長く生きた物の憑き物という解釈もあるようです。

九十九神(つくもがみ)とは、長く生きたもの(動植物)や古くなるまで使われた道具(器物)に神が宿り、人が大事に思ったり慈しみを持って接すれば幸(さち)をもたらし、そうでなければ荒ぶる神となって禍をもたらすといわれる神様です。

もともとは自然、あるいは動植物由来であることから、そのほとんどが、「妖怪」といわれるものと重複しており、荒々しいものの代表としては九尾の狐がおり、親しみを込めたものの代表選手はお狐様です。

また、動物としては、九尾の狐のほか、猫又・犬神などがあり、 道具では朧車(おぼろぐるま、牛車の妖怪)・唐傘小僧・鳴釜・硯の魂(硯の精)などがあります。

ちなみに、この中の「硯の魂」というのは、私の郷里の山口にまつわる妖怪です。鳥山石燕という江戸中期の浮世絵師が描いた妖怪画集「今昔百鬼拾遺」に記述されていた奇談からきています。

これは、山口の関門海峡の一角、「赤間ヶ関」で作られた石硯を文具として愛用していた者が、「平家物語』を読みながらまどろんでいると、硯の中に海が現れ、やがて源平の合戦のような様子になったというものです。

赤間ヶ関(山口県下関市)は平家の終焉の地であり、この硯にかつて下関での壇ノ浦の戦いで滅びた平家の怨霊が宿ったもの、という伝承から来たもののようです。硯は赤間ヶ関の名産品であるとともに、その昔平清盛が宋の国王から賜った「松陰」という硯を賜ったという話も残っており、何かと硯は平家一門との関連が深いのです。

昭和・平成以降の妖怪関連の文献には、これをただの硯と思って使用していると、硯の中から海の波音や激しい合戦の音が聞こえてきたり、人の声や「平家物語」の語りが聞こえてくるという話も載っているということであり、付喪神(器物が変化して生まれた妖怪)の一つとする解釈もあります。

こうした物の怪は、やはり自然や動植物への畏怖を背景として、民間信仰の中で育まれてきた存在です。

長い間に人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、あるいはそれらを起こす不可思議な力を持つ非日常的な存在のことを「妖(あやかし)」または「物の怪(もののけ)といい、あるいは「魔物)と呼ぶようになり、近年その総称として「妖怪」という言葉になったものです。

この妖怪については、また一コラム起こせそうなほど深い話題なので、またいつか取り上げてみたいと思います。

ところで、こうしたお化けの話をする上においては、こうした自然崇拝を起源とする神々や妖怪のほかにも、「幽霊」というものを外しては語れません。

これは明らかに自然や土着の古い文物から来ているものではなく、「幽」という文字が著わすように、おそらくは、「驚き」もしくは「恐怖」といった、人間の感情からできた用語でしょう。

死んだ者が「成仏」できず姿をあらわしたもの、という仏教的な思想から生まれ出てきた存在とみなされることもありますが、より一般的には、「死者の霊」が現れたものであり、洋の東西を問わず世界に広く幽霊は存在する、といわれており、欧米や日本だけでなく、中国やインド、また陸上だけでなく、海にもいるといわれています。

ただ、前述のようにイスラム教の世界では、そもそもその信教に幽霊という概念がないことから、死者としての幽霊などはありえない、というのが基本的な考え方のようです。

イスラム世界に限らず、日本においても、見たことがある、という人よりも見たことがない、という人のほうが圧倒的の多いことから、科学的見地からみてもありえないとして否定する人も多いのは確かです。

しかし、実際にいるいないは別として、歴史的な書物にはかなり古くからその存在が取沙汰されてきています。

「日本書紀」の465年の記述には既に幽霊についての記述があり、これは出会った時点では幽霊であるとは気づかず、後になってから、すでに亡くなった人物(=幽霊)であったと気づくという話だそうで、そのあとの室町時代までには、ごく普通に歌謡や歌舞伎のテーマとしても扱われるようになっていきました。

江戸時代になる以前からもう、「怪談」という形で伝承されてきており、江戸時代に入ってからはとくに幽霊話が大流行し、雨月物語、牡丹燈籠、四谷怪談などの名作が作られました。

また講談・落語や草双紙・浮世絵で描かれ花開き、現代では題材として新作から古典の笑話・小説・劇などに用いられ、その他の様々な媒体で登場し紹介されて今に至っています。

ちなみに、1825(文政8年)年7月26日に江戸の中村座という芝居小屋で「東海道四谷怪談」が初公演された事にちなんで、7月26日は「幽霊の日」ということになっているそうです。

こうして、江戸で幽霊話が流行して以降、日本では幽霊は「生前の姿」で現れることになっていきました。納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の額烏帽子(ぬかえぼし)をつけ白衣を着ているとされることが多くなります。

元禄年間(1688~1704)刊行の「お伽はなし」のころには、まだ幽霊はみな二本足があることになっていたそうですが、1732年(享保17年)に出された「『太平百物語』ではもうすでに幽霊の腰から下が細く描かれていたといい、享保年間(1716~36)ころになると、下半身がもうろうとした姿にまで「進化」しました。

さらに時代を経るとひじを曲げ手先を垂れる、現在の我々がよく目にするような姿で描かれるようになり、葛飾北斎、歌川国芳、月岡芳年といった江戸時代の有名浮世絵画家がこうした姿を描き、幕末から明治時代にも歌川国貞、豊原国周といった絵師が多数の「お岩さん」の幽霊画を描くようになったことから、このスタイルが定着しました。

円山応挙(1733~1795)はとくに、幽霊画の名手といわれ、応挙の幽霊画は江戸時代以後もかなり人気が高く、その後多くの画家にも影響を与えたといわれています。

とはいえ、「足のない幽霊」というのはこれ以前からあり、応挙誕生以前の1673年(寛文12年)に描かれた「花山院きさきあらそひ」という浄瑠璃本の挿絵には既に足のない幽霊の絵が描かれており、このことから、江戸時代以前にはすでに「幽霊=足がない」という概念があったことがわかります。

ところが、これらより更に時代が下がってから流行るようになってからの幽霊には「牡丹灯篭」のお露のように、下駄の音を響かせて現れるケースもあり、これは明治期になってから入ってきた中国の怪異譚の影響を受けて創作されたものです。

近年でも幽霊の目撃談は後を絶ちませんが、外見上生きている人間と区別がつかない、つまり足のある幽霊を見たという例の方が多く、江戸時代までのような足のない幽霊というのはむしろまれであり、無論、「白い死装束」を着た幽霊が出現することはほとんどないようです。

墓地や川べりの柳の下などの場所に現れる、というスタイルも江戸時代に定着したものであり、現れる時刻が、丑三つ時(午前2時ごろ)というのもしかりです。

江戸時代よりも前の古い時代には、物の怪のたぐいは真夜中ではなく、日暮れ時(逢魔時、昼と夜の境界)によく現れることになっており、場所も町はずれの辻(町と荒野の境界)など「境界」を意味する領域で現れるとされていたといい、幽霊は夜現れるもの、というのもまた、江戸時代に形成された固定観念です。

こうした江戸時代に形成された固定概念をもとに、最近のスピリチュアリズムの浸透によりよく取り上げられるようになった、守護霊や浮遊霊・地縛霊もまた足のない姿で現れると考える人も多いようですが、そんなわけはありません。

また、幽霊が特定の場所や時間に現れると考える人も多いようですが、これらも明らかに江戸時代に流行った歌舞伎や浄瑠璃の名残であり、特定の時間でないと幽霊が現れないなどというのは迷信です。

ただ、特定の場所、というのはその人達が生きていた時の想念とも関係があるため、あながち否定はできません。そういう意味では、その亡くなり方に時間に関係するような大きなイベントがあるような場合(例えばある時刻に自動車事故や水難でなくなったとか)、亡くなった時刻に由来して現れる霊もあるかもしれません。

いずれにせよ、スピリチュアル的な観点からの「幽霊」の話は、今日の話の趣旨とは少し違いますし、長くなりそうなので、今のところはやめておきましょう。

ところで、欧米では、幽霊のことを英語ではghost(ゴースト)あるいはphantom(ファントム)といいます。フランス語でもファントムは、fantôme(ファントーム)です。

日本と同じく、やはり死者の魂が現世に未練や遺恨があり、現世に残り、生前の姿で可視化したもの、と考えられることが多く、希望を実現しないまま死んだ人、責任を果たしきれないままに死んだ人などが幽霊になって出ると考えられるケースが多いようです。

この点、日本でも欧米でもその昔には戦乱が後を絶たなかったために、数ある戦いの中で無念を残したまま死んだ人の霊が出るという話も多く、また戦乱の中で殺された人、処刑された人の幽霊話もかなりあるようです。

欧米では、その霊を生者が慰め、その願いを代わりに叶えてやることで消え去るものともされていることが多く、この点、亡くなった人にはお経をあげて成仏してもらう、といった日本のスタイルと少し違っています。

幽霊の現れる時の姿も日本とはかなり違います。多くの場合、生前の姿のままや、殺された時の姿、あるいは骸骨、首なし、透明な幻、あるいは白い服を着た姿で現れることが多く、また火の玉や動物の姿などの「変化(へんげ」」としても現れます。

火の弾や動物といった人間の形以外のものへ変化した幽霊などは、日本でいうところのもののけや妖怪に近く、欧米では日本と違って幽霊と妖怪の境があいまいなことがわかります。

さらに現れる場所や時間も違います。場所としては、墓場、殺された場所、刑場、城館の跡、教会堂、街の四つ辻、橋などが多く、時刻は、基本的には真夜中の0時から1時あたりがピークです。日本では、丑三つ時の二時半ぐらいですから、およそ一時間以上も「時差」があります。

しかも、欧米の幽霊は夜明けを告げる鶏が鳴くと姿を消します。日本の幽霊は、朝方まで身近な人と添い寝をするといった話もあり、欧米のように陽の光に弱いという印象はありません。

ただし、欧米では「降霊術」がその昔から盛んであり、待降節、クリスマス、謝肉祭、ヨハネ祭といったお祭りがある場合には、降霊術師や霊媒をわざわざ呼んで、亡くなった人を呼び出す場合がありますが、この儀式は昼間でも行われるといいます。

ヨーロッパでもこうした幽霊話の歴史は古く、古代ローマでは、街の地下に死者の霊が住んでいると信じられ、地下にその住居をつくったり、住居の出入り口をふさぐ「幽霊石」を祭りの日にだけあけて自由に出入りさせる、ということが行われていたそうです。

その後もヨーロッパ人は、生者を守る霊の力を借りようとし、反対に危害を加えるような霊については警戒したり、祈祷文によって遠ざけようとする風潮が定着していき、こうした中で数々の幽霊話が作られていきました。

18世紀後半にはとくに幽霊物語が発達し、その草分けとしてイギリスのホレス・ウォルポールの「オトラント城奇譚」(1764)などが有名です。このウォルポールという人は、国会議員まで勤めた人だそうで、物語は城主の息子がある日、結婚式直前に空から降ってきた巨大な兜(!)の下敷きになって死亡するところから始まります。

その後、冷酷な領主、予言、肖像画、鎧がための騎士、そして亡霊……といいう複雑な話が続いていくらしく面白いらしいのですが、残念ながら私はまだ読んだことはありません。が、怪しさ満載の傑作怪奇小説であるらしく、その出来に刺激され、その後は、エドガー・アラン・ポーなどが同様の作品を数多く書くようになり、ヨーロッパの多くの人々に親しまれるようになりました。

ただ、単なる架空の話として読まれたわけではないようで、これらの作品にはなるほど現実化と思わせるようなリアリティーがあり、人々は幽霊が実在していることを信じこむようになっていきます。

20世紀に入ってからは、前述の交霊術も都会を中心に普通に開かれるようになり、「心霊主義」が蔓延していきます。いわゆる、「ポルターガイスト」現象も頻繁に起こるようになり、というか、そうした心霊主義の広がりにより、噂が多くなっただけですが、これにより、普通の事件すらも心霊のしわざと見なされるような風潮が出てきました。

これらの風潮はとくにイギリスで強く、現在でもイギリス人が幽霊話が大好きだというのもこれが原因です。ただ日本のように幽霊を怖がるのではなく、イギリス人たちは無類の幽霊好きで自分の家に幽霊が出ることを自慢しあう、といわれるほどです。「幽霊ファン」「幽霊オタク」のような層がいて、幽霊見学ツアーなどが現在も頻繁に行われています。

近代の心霊研究もまた、イギリスを中心に発展しましたが、このようにイギリス人が幽霊好きな理由としては、ひとつにはその気質が大航海時代に培われた冒険心が、その後の知的な探究心に結びついていったものだという説があります。

幽霊が現れても、それを怖がったりせず積極的に知的に調べてみたがる癖は、海の向こうに何があるのかもわからない時代に、大胆に船を操って世界中に飛び出して行った時代に培われたものというわけであり、一応なるほどな、と納得できます。

幽霊が出没することを英語では「haunted ホーンテッド」と言い、幽霊が出没する建物は「ホーンテッド・マンション」「ホーンテッド・ハウス」などと言い、確かこうした題名の映画もあったように記憶しています。

日本では、幽霊が出る建物となると、賃貸料が極端に安くなり、悪徳不動産などでは、悪い噂になるなどと考えてひた隠しにする業者もいるようですが、イギリスでは逆みたいです。

幽霊を自分の目で見てみたいと思っているイギリス人も多いそうで、イギリスでは幽霊が出るとの評判が高い住宅・物件は、通常の物件よりもむしろ高価で取引されていることもあるとか。

私自身は幽霊は見たことがありません。霊感はある、と言われるのですが、霊感があることと幽霊を目視することは違う能力のようです。オーラの色が見える、背後霊が見える、という人もいますが、私には見えません。

が、感じることについては非常に敏感なので、よく出ると言われるところへ行くと、ぞくぞくします。

仕事の関係で、本郷の東大へよく行っていた時期があるのですが、私はこの場所が非常に苦手です。

その理由をこれまで調べたことはなかったのですが、調べてみると第二次大戦時の東京大空襲では、この本郷キャンパスはあまり被害を受けなかったといいます。ところが、関東大震災では深刻な被害を受けており、大学関係者の中にも多くの被害者が出たようです。

しかし、頑丈な建物も多かったため倒壊しなかった建造物も多く、このため、周囲の壊滅した町からの避難民がここに続々と押しかけるようになり、東京市はこのため、大学構内に仮設住宅、給水用井戸、仮厠、電灯などを設置し、これらの罹災者の便宜を図りました。

臨時救護班や伝染病部を設置し、内外の患者を収容。この年、9月から12月の間に臨時治療を施した外来患者数は1万4 千余名、医院内に収容した患者数は1万800余名に達したそうですが、この中には当然ながら亡くなった方も多かったようです。

思い過ごしだと言われればそれまでなのですが、このためか、どうしてもここの空気は私には異様に重く、長時間の滞在が苦痛です。なので、時折構内で行われるセミナーへの参加などのご紹介もあるのですが、なるべく理由をつけて近寄らないようにしています……

さて、今日も長くなりました。私の霊感の話や幽霊話はまだまだたくさんありますが、そろそろ終わりにしましょう。

今日は梅雨の晴れ間がこれから出るようですから、ずっと気になっている中伊豆の大見城跡へ行こうかなとも考えています。東大よりももっと古いお城なので、おそらく幽霊が出ることもないでしょう。

が、出たら出たでこれはまた面白いかも。その話でまた一発面白いブログが書けるでしょう。私も最近はイギリス人と同様、幽霊が怖いという感覚はありませんので、ぜひ一度お目にかかりたいもの。

みなさんはいかがでしょう。幽霊見たことありますか?

気球に乗って……


梅雨らしくないお天気が続きます。

行楽にはもってこいのお天気ともいえるのですが、雨が降らないなら降らないで不安になるのは、もともと農耕民族である日本人の悲しいサガでしょうか。

しかし、こういうお天気の日が続くことを喜ぶ人達も多いことは確かです。

3月ころに、「風に乗って」というタイトルで、気球のことについて少し書きましたが、こうしたスカイスポーツをする人達にとっても、有視界飛行がしやすいお天気の日は絶好のコンディションになるようです。

しかし、気球といえば、今年の2月26日、エジプトのルクソールにおいて、飛行中に火災が起こり墜落し、19名が死亡するという痛ましい事件があったばかりです。観光客の日本人4人が亡くなり、ほか香港人9人、イギリス・フランス・ハンガリーなどの5人、そして添乗員のエジプト人1人も命を落としました。

とはいえ、調べてみると、観光やスポーツが目的の気球飛行による死者というのは、極めて稀なようで、航空機や飛行船の事故による死亡率よりもさらに低いようです。

基本的には動力を用いず、かなり単純なしかけであるため、気象条件さえ見誤らなければ、そうそうは事故には至らない、ということなのでしょう。

ご存知の通り、熱気球は、温めた空気によって空中に舞い上がります。空気を入れるバルーンのことは、専門用語では、球皮(エンベロープ)と呼ばれ、下部に取り付けたバーナー等で空気を熱し、球皮内に溜まった暖かい空気と冷たい外気との比重の違いにより発生する浮力により上昇します。

乗員は通常球皮の下に取り付けられたゴンドラ(バスケット)に乗りますが、一部の気球ではハーネス等でパラグライダーのように吊った状態で飛行する物もあるそうです。

古くは、中国、三国時代の軍師、諸葛亮(諸葛孔明)が天灯という、紙で作った熱気球を発明したという話がありますが、無論人は乗っていなかったでしょうし、本当に気球を飛ばしたかどうかを証明する記録は残っていないようです。

有人飛行に限らない気球で最も古い史実としては、ポルトガル人でバルトロメウ・デ・グスマンという人が、1709年(宝永6年、徳川家宣、江戸幕府6代将軍のころ)に、熱気球の実用模型を飛ばしていたという記録があります。

ただ、この実験は教会から異端として告発され、以降実験は中止されることとなったそうで、熱気球の実用化はさらにこれより70年以上もあとのことになります。

熱気球の発明

熱気球による初の有人飛行を成功させたのはフランスのモンゴルフィエ兄弟(ジョセフ・ミシェル、ジャック・エティエンヌ)です。

兄弟は、フランスのリヨンの南方アルデシュ県の町アノネーで製紙業者の息子に生まれました。両親の間には全部で16人もの子供がいたそうで、この製紙会社を後継したのは、長男でした。

人類初の有人飛行を実現したのは、12番目の子のジョセフと15番目のジャックでした。ジョセフは、夢見がちな変わり者だったそうで、どちらかといえば事業には向かないタイプ。一方のジャックは実務的な気質だったといい、この凸凹コンビがその後の世紀の発明をすることになります。

ソニーの創業者の井深大、盛田昭夫コンビとの関係ともよく似ています。歴史的な偉業を成し遂げる人というのは、いつの世も単独では成し遂げられず、これをサポートあるいは、リードする人があってのことも多いようです。

さて、この二人は、かなり末っ子に近かったせいか、兄や姉たちと喧嘩が絶えなかったといい、これを見かねた父親は、二人を建築家にしようと、にパリに修行に出します。

しかし1772年(安永元年)に、後継者だった長男が突然亡くなり、製糸業の後継者とするべく二人はアノネーに呼び戻されました。16人の兄弟姉妹の構成はよくわかりませんが、二人と長男の間には女性ばかりだったか、ほかの兄弟は出来が悪いと父親が見なしたのでしょう。

この二人の兄弟のうち、弟のジャックのほうはやはり実業家としての才能があり、その後の10年間の間に、一家の家業である製紙業において、様々な技術革新を導入し、会社を発展させました。やがては、フランス政府をもその業績に注目するほどになり、モンゴルフィエの製紙工場はフランスの製紙業のモデルとして認められるまでになりました。

ちょうどこのころ、兄のジョセフは、大きな発見をします。洗濯物を乾燥させるために火を焚いたとき、その上の洗濯物が上昇する気流でうねって大きなこぶのような形になることに気付いたのです。

1777年ころのことだったといい、日本では安永5年、杉田玄白が解体新書を執筆したころ、アメリカでは、独立戦争が行われていたころのことです。

この洗濯物のふくらみがきっかけとなり、もともと発明家気質に富んでいたジョセフは、熱気球を作ることを思いつきます。このとき、ジョセフは洗濯物を乾かすための焚火をみながら、ぼんやりとこの当時のフランスの最大の軍事問題だったジブラルタル要塞の攻略法のことを考えていたそうです。

このジブラルタル要塞は、もともとはスペインの所有物でしたが、アメリカでおこった独立戦争の余波によってイギリス軍によって占拠されていました。事の発端は、アメリカの植民地住民がイギリスの支配を拒否し、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形成したことに始まります。

しかし、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領しました。この状況下において、アメリカへ多くの移民を排出していたフランスやスペイン、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)がこの戦争に参入してきました。

こうして、北米大陸だけでなく、ヨーロッパでもイギリス対、フランス・スペイン・オランダという構図ができたのです。

「ジブラルタル包囲戦」はイギリスが占拠していたこの要塞をフランスとスペイン軍が共闘で取り戻そうとした戦いです。しかし、この要塞は洋上からも陸上からも難攻不落の堅城であり、なかなかこれを攻略する突破口が見えず、包囲戦は長い間膠着状態になっていました。

ちなみに、私はこのジブラルタル要塞に行ったことがあります。仕事でスペインのダムを視察に行ったついでに立ち寄ったのですが、半島の大半を占める特徴的な岩山(ザ・ロック)は、海上からも陸上からみても見上げるような巨大なものであり、なるほど、この要塞に立て籠もったら、なかなか簡単には攻め落せないわい、と思えるようなものでした。

このときは、ザ・ロックの中にあるホテルに泊まり、ジブラルタル海峡を眺めながら一夜を過ごしたのですが、若き頃の良き思い出として今もこの海峡からの美しい眺めが脳裏に残っています。

結局この包囲作戦は成功せず、こののちもここはイギリスの海外領土となり続けます。ジブラルタル海峡を望む良港をも合わせ持つため、地中海の出入口を抑える戦略的要衝の地、すなわち「地中海の鍵」として軍事上・海上交通上、重要視されており、現在もなお、イギリス軍が駐屯しています。

焚き火から燃えカスが舞い上がるのを見ていたジョセフは、これを眺めながらふと、この要塞を空から攻めることはできないか、と考えたようです。軍団を空中に浮かび上がらせることができれば難攻不落といわれた要塞をも落せるに違いない、と思いついたのです。

そして軍団を空に浮かび上がらせるためには、巨大な風船のようなものを作ればいい!という考えに行き着いたわけですが、それにしてもなぜ洗濯物が焚火の火によって上に持ち上げられるのかが理解できませんでした。

この当時はまだ、暖められた空気が上昇することがわかっておらず、このためジョセフは物を燃やした煙の中に上昇させる成分が含まれているに違いないと考えました。このため、この煙のことを、「モンゴルフィエのガス」と呼び、それから5年間、寝る間も惜しんでこのアイデアを具現化することに心血を注いでいきます。

ちなみに、気球のことは、いまだにフランス語や英語では「モンゴルフィエ」といい、熱気球を意味する一般名詞となっています。

初フライト

沈思の末、ジョセフは細い木材で1m×1m×1.3mの大きさの枠を作り、側面と上面を軽いタフタ生地(薄い絹織物の一種)で覆い、箱のように形成しました。何枚かの紙を丸めてその下に置き点火したところ、なんとすぐさまにその仕掛けは浮き上がり、天井にぶつかるではありませんか。

もっと大きな仕掛けを作るため、ジョセフは弟にも手伝ってもらうことにし、ジャックに「タフタと綱をすぐに持ってきてくれ。そうしたら世界で最も驚異的な風景を見られるぞ」という内容の手紙を送りました。

やがて兄の要望する布と綱を持って訪れたジャックとジョセフは、長さを3倍(体積にして27倍)で同じ仕掛けを作ります。そして同様の実験を行ったところ、その上昇力はすさまじく、風船をつなぎとめておくための綱が足りなくなり制御を失ってしまいました。

その仕掛けは約2km漂い続け、とある農村に落下したといい、これをみた村人たちの間では「おばけが落ちてきた」と大騒ぎになりました。このため、風船は集まった人達によって粉々に破壊されたそうですが、人が乗っていないとはいえ、熱気球の記念すべき初実験は成功裏に終わったのでした。1782年(天明2年)12月14日のことでした。

この成功に気を良くした兄弟は、この空飛ぶ風船が自分達の発明であることを世間に知らしめるため、公開実験を行うことにします。より大型化するために、風船の生地もタフタからリンネル(亜麻の繊維を原料とした織物。リネン)に変え、その内側を薄い紙3枚で補強し、今度は球形の気球を作りました。

内容量は790m3弱で、総重量は225kg。布は上のドーム形の部分と、下の3つに分割した部分の4つに分けて制作し、1800個のボタンでお互いにを繋ぎ合わせるというものでした。ボタンの間から少しずつ空気が漏れだしてしまいますが、この当時はこうしたものを縫合する技術もなかったのでしょう。

さらに、補強のため漁網で外側を覆いましたが、みなさんの中には、昔の気球の写真などで大きな網をかぶせたものを目にしたことがある人も多いと思います。兄弟が制作した最初の風船にも既にそうした工夫がされていました。

そして、1783年(天明3年)の6月5日、役人を招待した上でアノネーにて最初の公開飛行を行われました。袋は推定で1600~2000mまで上昇し、2.4kmの距離を約10分に渡って滞空。その成功はすぐさまパリに伝えられたといいます。

ちなみに、この日は、世界で初めて熱気球の飛行に成功した日ということで、「熱気球記念日」ということになっています。6月5日とはすなわち、昨日のことです。

こうして公開実験で熱気球を飛ばすことに成功したジョセフとジャックは、同じ紙業界の壁紙業者、ジャン=バティスト・レヴェイヨンと共同で、より進化した熱気球の開発に乗り出します。そして、タフタ生地は丈夫な生地でしたが、これにさらに耐火性を持たせるためにミョウバンを含むニスを塗った1060m3容量の気球を作ります。

気球は空色で、金色の模様(花模様、黄道十二星座の印、太陽)があしらわれていたといいます。公開実験はその年の9月11日、レヴェイヨンの屋敷に近い広場で行われました。

この実験でフランス国王ルイ16世は、実験として2人の犯罪者を乗せてはどうかと提案してきました。上空の大気が生物に与える影響については、まだ誰もが未知の世界の話であり、もしかしたら地上とは大気組成がかなり異なり、生物は死んでしまうかもしれない、と考えられており、犯罪者ならば万一のことがあっても良いと考えたのです。

しかし、さすがにまだ人間を載せるのはまだ時期尚早ということで、人間以外の何等かの生物を載せようということになりました。そしてモンゴルフィエ兄弟はまずヒツジとアヒルとニワトリを乗せることを決めます。こららの動物たちが生きていれば、上空でも酸素がなくならない証拠であると考えたのです。

一方では、人を載せなかったのは、人間が空を飛ぶのは不遜ではないかという聖職者の意見があったためでもあるようです。神職者たちは、神罰が下らないことを証明するためには、まず家畜で実験して、これに天罰が起こらなければ人間も大丈夫と、考えたようです。

兄弟がヒツジを選んだのも、人間と生理学的に近いと考えたためでした。また、アヒルは鳥なので上空でも死なないだろうと考えられたためであり、ニワトリはアヒルよりもさらに飛翔が得意ではないため、さらなる影響を見るために加えられたようです。

このあたり、その後の宇宙開発において、最初に宇宙に行ったのが猿や犬だった事情とよく似ています。宇宙に送られた最初の哺乳類は、1957年に人工衛星スプートニク2号で地球周回軌道を回った犬でした。

当時、宇宙を飛行した犬を回収する技術はなく、当初はカプセルが大気圏に再突入する前にこの犬(「ライカ」という名前だったとか)を薬物で安楽死させる事になっていましたが、後年に明らかになったところでは、この犬はストレスとカプセル内の過熱で軌道到達後すぐに死んでしまったそうです。かわいそう……

その後ソ連は、来るべき有人宇宙飛行に向けて多くの犬を打ち上げ、犬のほかにもラット多数を地球周回軌道に載せ、すべて無事地球に帰還させることに成功しています。一方、アメリカのNASAもアフリカからチンパンジーたちを輸入し、有人宇宙飛行の前に少なくとも二匹を宇宙に送り込んでいます。

いつの時代にも人間より先に実験台にされるのは動物……。かわいそうではあります。が、しかし、宇宙に行ったチンパンジーは、もしかしたらキャッキャキャッキャと喜んでいたかもしれません。

……そして、1783年9月19日、Aérostat Réveillon(レヴェイヨン気球)と名付けられた気球にヒツジとアヒル、そしてニワトリの三匹が入れられた籠が吊り下げられました。このときの公開実験は、ヴェルサイユ宮殿で大勢詰め掛けた群衆とフランス王ルイ16世と、かの有名な王妃マリー・アントワネットの眼前で行われたといいます。

気球は約8分間滞空し、3kmほど移動。高度はおよそ460mに達し、その後、墜落することなく着陸し、この公開実験も無事成功裏に終わりました。無論、三匹の哀れな実験動物も酸欠死することもなく、無事に回収されたようです。めでたしめでたし……

このヴェルサイユ宮殿での大成功を受け、ジャックは今度はレヴェイヨンと共同で有人飛行用のさらに大きな気球の製作に取りかかりました。この気球は高さ約75ft(約23m)、直径約50ft(約9m)という巨大なものであり、容量もこれまでの倍に近い1,700m3もありました。

表面には深い青を背景として、金色の装飾が施され、黄道十二宮、ルイ16世の顔、太陽、イヌワシなどが荘厳に描かれていたそうです。

ヴェルサイユ宮殿での実験が行われてからわずか1か月足らずの10月15日、レヴェイヨンの工場の地所から綱で係留した状態で試験飛行が行われ、このとき初搭乗したのはほかならぬジャック自身であり、人類史上初めて「飛行」を経験した人物となりました。ただし係留した状態だったので、高度はせいぜい24mだったといいます。

さらに約一か月後の11月21日、今度は係留されていない熱気球による史上初の有人飛行が行われました。このときには、王室貴族でフランス軍人でもあった2人の侯爵が搭乗。

パリの西にあるブローニュの森に近い Château de la Muette の庭から発進し、2人を乗せた気球は910mほどまで上昇し、パリ上空の9kmの距離を25分間にわたって飛行しました。

気球はパリを囲んでいた壁を越えてビュット=オー=カイユの丘の風車と風車の間に着陸しました。着陸した時点でも燃料は十分あり、あと4、5回は飛行できうだったといいますが、火の粉が飛んで気球表面を焦がしはじめており、気球が燃えることを心配した侯爵の一人がコートで火を消したため、それ以上のフライトを断念したのでした。

この飛行は一大センセーションを巻き起こし、ヨーロッパ中にその話題がもちきりとなり、やがて多数の版画まで作られるようになりました。背もたれを気球形にした椅子、気球形の置時計、気球の絵が描かれた陶器なども作られるようになります。また、独立戦争を勝ち取ったアメリカにも伝えられ、アメリカ人自身による気球開発も始まりました。

ちなみに、日本人がはじめて気球を見たのは、これから約20年後の、江戸時代後期の1803年(享和3年)のことだといわれています。仙台の漂流民である津太夫ら4人が、ロシアの首都ペテルブルグ(現サンクト・ペテルブルグ)で見たのがはじめてだそうで、彼らはその後帰国し、その見聞録は「環海異聞」として国立公文書館に所蔵されています。

その後、幕末の1860年(万延元年)にも、アメリカに派遣された万延遣米使節団がフィラデルフィアで気球を目撃しおり、一行の歓迎のために飛ばされた気球は、フィラデルフィアからニューヨークまでの約50里(約200km)を飛行し、このゴンドラには日米の旗が取り付けられていたそうです。

ガス気球との競合と衰退

このモンゴルフィエ兄弟による人類初の気球による有人飛行が行われたわずか、10日後には同じフランスの発明家で、物理学者のジャック・シャルルによるガス気球の有人飛行が成功しています。

シャルルは、気球に詰める水素を、0.25トンの硫酸を0.5トンの鉄くずに注いで発生させ、鉛の管を通して気球に詰めました。しかし、水素を気球に充満させるのに手間取りました。気球に入ってからは水素がすぐに冷却されて収縮したため、気球を膨らませるのに苦労し、水素を満タンにするために一昼夜を費やしたといいます。

ジャック・シャルルにはロベールという弟がおり、この二人は、同じく兄弟だったモンゴルフィエ兄弟が熱気球の公開実験を成功させた6月5日から、約3か月後の8月27日、パリのシャン・ド・マルス公園で最初の水素気球の飛行実験を行っています。このときは6千人もの観客が料金を払い、この世紀のショーを観覧したといいます。

また、モンゴルフィエ兄弟が造った熱気球で二人の侯爵が係留なしの初飛行を行った11月21日からわずか10日後の、12月1日にはシャルル兄弟もこの水素ガス気球で有人飛行に成功しており、このときは、2時間5分滞空して36kmの距離を飛び、侯爵たちの9km・25分を大きく上回りました。

シャルルはその後すぐに、単独でも飛行し、このときは高度3,000mまで上昇したそうです。

その後の気球に関する世界初の多くはガス気球によるものであり、例えば1784年9月19日には、シャルルとロベールの兄弟と M. Collin-Hullinが6時間40分の飛行を行い、パリからベテューヌ近郊のバーヴリーまでの186kmの飛行に成功しており、これが世界ではじめて航続距離100kmを越えたフライトといわれています。

また、1785年1月7日には、ジャン=ピエール・ブランシャールとジョン・ジェフリーズが水素気球によるドーヴァー海峡横断に成功しています。

こうして、熱気球とガス気球は競い合うようにして発展していきましたが、飛行中に燃料を燃やし続けなければならない熱気球よりも、一度ガスを詰めればそれで済む水素気球のほうが効率的だったため、その後熱気球はあまり使われなくなり、水素気球に取って代わられるようになります。

しかし、熱気球と水素気球との長所を合わせた複合気球なども試作され、1785年(天明5年)6月15日にピラトール・ド・ロジェという人がこのハイブリッド型気球でドーバー海峡横断に挑みました。

しかし、このチャレンジでは、水素が引火爆発を起こし、気球は墜落してロジェは死亡。史上初の航空事故となりました。水素気球を発明したシャルルは、こうした複合気球での火気の使用は危険であると警告していたそうですが、ロジェはこれを無視したといいます。

こうした事故があったにも関わらず、その後、1852年にフランスのアンリ・ジファールによって世界で初めて蒸気機関をつけた「飛行船」の試験飛行が成功すると、水素ガスを充填したこの新型乗り物は世界中に広まっていきました。

その後ドイツのツェッペリン号に代表されるように、飛行船は第一次世界大戦までは時代の花形であり続けましたが、1937年に大西洋横断航路に就航していたドイツのヒンデンブルク号が、アメリカ合衆国ニュージャージー州のレイクハースト空港に着陸する際に、原因不明の出火事故を起こし爆発炎上。

この事故の後、航空機(固定翼機)の発達もあり、民生用飛行船はほとんど使われなくなっていきました。現在でもご存知のとおり、時代の主流とは言い難く、わが国の上空を飛んでいるものもごく僅かです。

現在飛んでいるものも、昔のような水素気球は水素の引火爆発の危険性があるため、製造はほとんど行われておらず、引火爆発の危険性の無いヘリウム気球に取って代わられています。

再び時代を戻しましょう。1785年ロジェのドーバー海峡での死にもかかわらずその後、気球はブームとなっていきましたが、風まかせであるためその後発達した飛行船のように旅客・物資輸送等には適さず、冒険家による長距離飛行記録など金持ちの趣味の域を超える物ではありませんでした。

やがて、飛行船が登場し、その飛行船も飛行機の発明により衰退していく中、気球は歴史の中に埋もれていいきます。

復活

ところが、第二次世界大戦以後、気球はスカイスポーツとして新たに復活を果たしました。1959年アメリカでNASAなどとアメリカ企業、レイブン・インダストリー社との共同作業により、「近代的熱気球」が作られ、試験飛行が行われました。

この気球はナイロンなどの化学繊維を球皮(エンベロープ)とし、バーナーの燃料にプロパンガスを利用するより安全な気球を実現させたものであり、モンゴルフィエ式の熱気球が見直されるようになったのです。

この飛行の成功から数年後、初のスポーツ用熱気球がレイブン社によって市場に販売開始されると、その後イギリス、フランスなどのヨーロッパにも気球メーカーが出来るようになりました。

スイスの海洋学者、技術者、冒険家で、世界で最も深い海といわれるマリアナ海溝にある、チャレンジャー海淵への潜水探検で知られる、ジャック・ピカールもまた自ら会社を興して一時期熱気球を製造していたそうです。

日本で戦後、最初の有人飛行を熱気球で行なったのは、京都大学、同志社大学を中心とする京都の学生達からなる「イカロス昇天グループ」でした。彼らはまた北海道大学の探検部とも協同して熱気球を作成し、1969年(昭和44年)、その飛行に成功しました。

この気球は取材に来たテレビ会社の記者が名付けた“空坊主”というあだ名で呼ばれていたそうで、その初飛行は北海道の羊蹄山を望む真狩村において行われました。

この熱気球の球皮の形の決定には京大電子計算機が用いられて精密な形状の決定が行われたそうで、仮名の“空坊主”はのちにイカロス昇天グループにより「イカロス」と改められ、その後何機もの後継機が作られています。

ちなみに初飛行も担当したイカロス昇天グループの梅棹エリオという人は、高名な文化人類学者である梅棹忠夫の息子にあたるそうです。彼らの活躍後には、北大探検部を初めとして慶大探検部、広大熱気球部など次々と熱気球活動を行う団体が設立され、国内のいたることろでスカイスポーツとしての熱気球が盛んになっていきました。

その後欧米の気球メーカー製の機体が輸入される様になり、一般の人も熱気球を楽しめるようになっていきます。その後は大学の熱気球クラブは衰退していったため、現在では自作気球はほとんど作られることはなく、ほとんどの熱気球がメーカー製だといいます。

熱気球の飛ばし方

さて、今日はもう、かなりの枚数を書いてきてしまったので、もうそろそろ終わりにしたいと思いますが、最後に近代熱気球と呼ばれる新型気球のそのフライトについて簡単に記述しておきましょう。

まず、気球には当然のことながら動力はありません。風任せであり、風には逆らえないというのが本質ですから、交通安全の黄色い旗がたなびく程度くらいまでの風が、フライトに適しています。これ以上の風がある場合には、離陸も着陸も困難になるので、基本的には飛ばないそうです。

無論、雨や雪が降れば球皮が濡れて重くなり、墜落の恐れもあるため飛べませんし、無理して飛べば気球の劣化が激しくなり、機材の寿命を縮める事にもなります。

視界が悪くても飛べません。見通し距離がある程度確保していない場合のフライトは、衝突、電線に引っかかる危険を伴うので、必ず有視界飛行が可能な時だけを選びます。

通常4人程度の人数で気球に熱を送り込み、膨らませる作業を行います。気球の入り口を持つ人が2人、気球の天頂部に繋がった約15メートルロープを押さえる人が一人おり(これをクラウンといいます)、気球の浮力が付き気球が立ち上がるまでひたすらロープを引っ張っています。

そして、クラウンが安全確認やらクルーへの指示を出しながら、バーナーを点火する人がもう一人、この人がのちの飛行では基本的には「パイロット」となります。

気球の入り口を押さえて広げながら、エンジン付の巨大な送風機で冷風を予め送り、ある程度膨らんだところでバーナーを点火して熱気を球皮に送り込みます。気球が膨らめば、いよいよフライトです。

気球には、舵が有りません。全ての動きは、風任せです。ではどうやって方向をコントロールしているかいうと、これもまた風を利用しています。風は高度によって吹いている方向や早さが異なる特性があり、気球が上昇したり降下したり、あるいは一定の高度を維持する事により、そこに吹いている風によって進行方向をコントロールしているのです。

パイロットは、風を読み、バーナーを炊く間隔やら時間を調整して気球内部の温度を調整しながらうまく高度を調整するとともに、進行方向を決定します。

通常の観光フライト、あるいはスポーツとしての競技が終わったあとは当然降下が必要です。降下する場合には、バーナーを止めて自然に降下する方法と天頂にあるパラシュート状の排気装置を開けて内部の熱気を抜いて降下する方法があり、両方を組み合わせるのと同時にバーナーにより降下速度をコントロールします。

着陸目的地に向けて吹いている風を探し、気球を上下させて風を見つけると、さらにバーナーをコントロールし、風の層から外れないように高度を維持する、ということを繰り返しながら、目的地に近づくのです。

気球のフライトは、ゲームセンターのUFOキャッチャーと非常によく似ているそうで、気の短い私などはとてもそのパイロットは務まりそうもありません。競技などでは、4kmほどもフライトして、目標に10センチ以内に到達できるかどうかを競うなどの高い技術が必要になってくるそうで、かなり熟練の技術が必要そうです。

うまく風を読む事が出来れば、良いフライトができますが、風は目に見えない上に上空では刻々と状況が変化しており、初心者などは中々思うようにはフライト出来ないといいます。

気球のフライトで一番困難なのが着陸だそうで、一番神経を使うといいます。なかなか思う方向に飛んでくれない上に、上空から最も着陸し易い場所を探し出さないわけであり、搭乗者の命がかかっているだけに、安全に生還出来る場所を選定しなければなりません。

また、着陸地点にいる一般の人に迷惑がかからない場所である必要があり、気球の回収の際にも球皮が汚れず、破けないように、凸凹の少ない広い場所が必要です。日本国内では通常、収穫の終わった水田が最もポピュラーな着陸地であり、そうした意味では休耕している冬がベストシーズンになります。

北海道では、酪農地帯が多く、牧草地があるので通年を通して、フライト出来る場所が多いそうです。しかし、真冬の積雪期には仮にそうした場所に着陸したとしても、回収とその後の街中への帰還を考えると、電線の入っていない除雪した道路などのほうがよく、このためこうした場所への着陸を試みることが多いそうです。

最後の着陸は最も難しいそうで、タイミングを見計らってバーナーの種火を消してバルブを閉じ、排気装置を作動させて気球内部の熱気を放出します。

風が無ければゆっくりと排気装置を作動させますが、風が強ければ大胆に思い切って開く必要あり、強風によってもしコンドラが引き摺られた場合でも、決してパイロットの指示が出るまで外に飛び降りないことがあらかじめ申し合わされているとか。

気球から人一人が飛び降りたら、急に軽くなって再び上昇してしまう可能性があるからであり、冒頭で述べたエジプトの事故も、着陸寸前になってパイロットなどが飛び降りたことによって起こった事故でした。

着陸した場所が、民地である場合には、その着陸は事後了承になることも多く、こうした場合には真っ先に、その土地の地主への挨拶に行くなどの配慮も必要だそうです。これを怠ると再びその場所に着陸出来ない事になる可能性があるからです。地域住民と仲良くすることが長く安全なフライトエリアを守る事になるのです。

気になるコストですが、気球の値段はピンからキリまであるものの、だいたい自動車1台分ぐらいだとか。通常は、何人か集まって気球クラブを作って、共同で気球を購入しているため、それほどの負担にはならないようですが、気球そのものにかかる経費以外にも、「地上班」が気球を追いかける、「チェイスカー」なども必要になります。

気球の保管場所も必要であり、その運搬にも大型の商用ワゴンが必要になるなど、何かとお金はかかりそうです。ちなみに、バーナーを燃やすためのプロパンガスは、40分程度のフライトなら、だいたい5000円前後だそうで、仲間で割り勘するならば、スキーへ行くよりも格安かもしれません。

現在、日本全国のあちこちで気球大会が開催されていますが、こうした大会への参加にあたっては、参加費がかかることも多い(2万円前後みたい)ようですが、各自治体での補助がある場合も多く、スポンサーを協賛している場合などには参加費以上の額が参加者に還元されることもあるそうです。

また、その大会が競技である場合、上位に入賞すれば、賞品や賞金、特産品がもらえる場合もあり、こちらも励みになります。グループで参加する場合には、その仲間との集いも楽しく、大会によっては主催者の用意してくれる無料宿舎に、参加者全員が雑魚寝で宿泊し、キャンプ感覚を楽しむ、といったこともあるようです。

気球よりキャンプが目的に成りつつある、というグループもあるようで、楽しそうですね。

さて、今日も今日とて長くなりました。終りにしましょう。ちなみに日本国内で熱気球を「操縦」するためには、日本気球連盟が発行する「熱気球操縦士技能証」が求められています。

しかし、ハンググライダーやパラグライダーと同様に、国内法では熱気球も航空機として分類されておらず、国家資格は存在しないそうです。 欧米では熱気球は通常航空機のカテゴリーに分類されており、各国の国が発行するライセンスが必要になりますが、それに比べれば未だ法律規制は緩い状態です。

また、パイロット以外の搭乗者には特に資格は必要ないそうです。なので、あなたも気球への乗船、いかがでしょうか?

アポーツとオーパーツ

最近……というか、50代に入ってからでしょうか、物忘れが激しくなってきました。来たよきたきた、キターっ!というかんじなのですが、人間誰でも歳をとりますから、体のパーツのあらゆる部分が老化してきており、脳ミソの中の細胞もそれなりに劣化するのはしかたのないことです。

物忘れだけでなく、固有名詞もなかなか思い出せません。人の名前は無論のこと、単純なモノの名前、例えば台所で調理しているとき、隣にいるタエさんに「あれ取ってよ」、「あれって何」と聞かれ、とっさにその名前が出てこなくなってしまう……なんてことがあります。

「あれ」とは実は漏斗(じょうご)だったり、すりこぎのことだったりするのですが、いつも使い慣れない言葉であるとはいえ、咄嗟に出てこないときには、アレっこれってもしかしてアルツ君?……などと思ってしまったりします。

一応右脳も左脳も酷使する仕事をしている関係から、そうそうボケないだろうと思いつつも、テレビのニュース報道などでまだ若い有名人などがそうした病気にかかったという話などを聞くと、明日は我が身かも……と身につまされてしまいます。

そのほかの典型的な老齢化現象としては、普段使いしているモノがなかなか見つけられないこと。メガネを探していたら、自分の頭の上にかけてあったなんて話もありますが、笑い話ではなく、私もボールペンを探していたら耳に挟んでいたなんてことはしょっちゅうです。

しかし、ないないと長い間探していたものが、全く探してもみなかったようなところから出てきた、というような不思議体験は誰にでもひとつや二つはあるのではないでしょうか。必ずしも歳をとって物忘れが激しくなったから、というわけではなく、若いころにもそうしたことはあったような記憶があります。

探し物がある日突然、とんでもない、考えられないような場所から現れる、というのは意外と経験することが多いものですが、ただそうした場合にはたいがい、自分の勘違い、思い違いとして片づけてしまっています。

ところが、実はこれがぜんぜん思い違いではなく、実際にモノのほうが、瞬間移動していたとしていたらどうでしょう。いかにも不気味な話ではありますが、SFやオカルトの世界では、「アポーツ」とか「トランスポーテーション」とかいってよく取り上げられる現象です。

多少科学的なモノの言い方をすれば、「2点間の空間を飛び越えて瞬間的に物体が転送されたり、移動すること」であり、その特徴としては、間に壁などの障害物があった場合でも問題なく移動できる、通常では物理的に不可能だと思われる距離・位置関係の移動を行うことができる、というものです。

「瞬間移動」というと瞬時にモノが移動するというイメージであり、SFでの「転送装置」のように移動に時間がかからないものをすぐに思い浮かべますが、必ずしもそうしたものばかりではありません。移動に要する時間が一瞬かどうかは問題ではなく、多少時間がかかったとしても、気が付いたらモノが移動していたという場合も時にはあります。

作家の「佐藤愛子」さんが、北海道の沙流川に別荘を持ったときから、大変な心霊現象に巻き込まれた、という話があります。

まずは山荘の中で不思議な出来事が頻発するようになり、やがてそれは東京の自宅でも起こり始める、といった一連の現象について語った「私の遺言」という本の中では、その壮絶ともいえるような「ポルターガイスト現象」との戦いが描かれています。

この本の中に、佐藤さんが娘さんと「コードレス電話」が無くなったといって探し回るシーンがあるのですが、出てきたコードレス電話は、ソファーのクッションの下の木製土台の間の非常に狭い隙間から発見されたということです。

ソファーに座っているうちに、知らず知らずに押し込んでしまったんじゃぁないの?と誰しもが思うでしょうが、その場所は、コードレス電話を人為的に押し込むようなことはとうてい無理な場所であったそうです。このお話の結論は無論、「霊」の仕業ということで、この霊はこの地に知らずに別荘を建ててしまった佐藤さんに怒っていたというのが事の顛末です。

この場所は、その昔アイヌのお祭りごとをする重要な儀式場であったらしく、ここに別荘を建てたことにより、その地にいたアイヌの霊たちがさまざまな手を尽くして佐藤さんたちを追い出そうとした、ということのようです。

常識で考えれば、そんなことあるわけないよ~と思う人も多いのでしょうが、私自身はあぁ、そういうこともあるかーと妙に納得してこの本を読み終えました。この手の話は佐藤さんに限らず、古今東西いたるところにゴロゴロころがっていますから、別に驚くに値しない、と私は思っています。

佐藤愛子さんのような有名な小説家が書かれたものであるだけに、このお話は信憑性が高い、と考える人も多いようで、私もしかりです。

単に「オカルト」として片づけるのではなく、こうした心霊現象が実際にはありうる、ということを有名な人の口なり手記なりを借りて多くの人達が理解するような風潮がもう少しあってもいいのではないかと思うぐらいです。

ただ、こういう話が独り歩きし、単に面白おかしいオカルト話として片づけられるのはちょっと問題です。この佐藤さんの場合でも、なぜそうした現象が生じたか、ということを改めて考えると、知らなかったとはいえ、目に見えない「霊」という存在を無視しておきた事象であり、その存在への敬意を払わなかったことが原因です。

我々の日常で、ある日突然モノがなくなる、それはもしかしたら目に見えない霊からの何等かのメッセージかもしれません。すべてのことには意味がある……と考えるならば、単に物忘れとか勘違いとして片づけてしまうだけではなく、何かの警告かもしれない、そう考えてみると新たな気づきがあるかもしれません。

ところで、ちょっと前に「アンティキティラの機械」という話題を取り上げました。ギリシャのアンティキティラ島近海で発見された青銅製の歯車の組み合わせによる差動式の歯車器械のことです。

材質、機構ともに高精度な加工が施されており、発見当初はとてもこれがギリシャ時代に作られたものとは考えられず、すわ、宇宙人の遺物か!?と騒ぎ立てられました。

しかしその後の技術的な検証からは、これははるか古代ギリシャにおける「天文暦」を計算するための機械であることがわかり、最新の技術によって錆びついていた部品などを再現し、レプリカまで作られ、その動作確認もなされました。

結論としてこの「アンティキティラの機械」は宇宙人の遺物でもなんでもなかったわけですが、地球上にはこのほかにも、それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品が発見されています。

これを「オーパーツ」といいます。英語では「OOPARTS」と略記され、「out-of-place artifacts」のことです。つまり「場違いな工芸品」という意味であり、「時代錯誤遺物」と意訳されることもあります。

長い年月を経ているのに、こんなところにこんなものがあるはずがない、といわれるようなものであり、さきほどまでの「アポーツ」と少々似てはいますが、こちらは瞬間とか数日、数か月単位ではなく、1000年、2000年、モノによっては数千年から数万年単位のものもあるようです。

オーパーツとは、考古学上の用語でもあり、その成立や製造法などが不明とされたり、当時の文明の加工技術や知見では製造が困難であるか、あるいは不可能と考えられる「出土品」を指します。ただし、正式な考古学用語ではなく、そういった出土品の存在を強調して考古学上の通説に疑義を唱える場合に使われることが多いようです。

なぜ存在するのか、どのようにして作ったのか、が未だに解明されていないものも多く、現代科学の水準を遥かに超えるような、超古代文明が存在していたのではないか、はたまた古代に宇宙人が地球にやってきた証拠である、と主張する人達の根拠とされることもしばしばです。

「アンティキティラの機械」のように、実際に調べてみたら、その時代の技術で作成可能なものもあり、全てが説明不可能なものばかりではないようですが、中にはさっぱりどうしてこんなものができたのか誰にも説明できないというものもあります。

その頃にはとてもその存在が想像できず、失われていた技術、「ロストテクノロジー」ではないか、というわけですが、これを創造したのが超古代文明だの宇宙文明だのといったSF的な話に仕立てあげたい人はゴマンといます。

しかし、火山活動や海水面の上昇といった地球規模の災害によってただ単に失われたものが再発見され、それがこれを発見した文明人よりもはるかに高度な文明人の手によって作られたものであったという例も多いようです。

また、発見されたものが形ある「モノ」ばかりでなく、長い年月の間に失われていた「情報」であったという場合もあります。

書物に記されていた事象や伝承などが何等かの要因によって散逸してしまっていたものが、たまたま書き写されていたコピーで発見されるということがあります。

その当時の文明の発展のためには非常に重要な情報であったにもかかわらず、これが失われることによって大きく文明が後退した、しかし逆に後年これが再発見されることによって、何千年分もの文明が取り戻せたということもあるようです。

「情報」が散逸してしまったことにより文明を大きく退化させてしまったひとつの例としては「アレクサンドリアの図書館」があります。

紀元前300年頃、エジプトのアレクサンドリアに建てられた図書館であり、世界中の文献を収集することを目的として建設され、古代最大にして最高の図書館とも、最古の学術の殿堂とも言われています。

図書館には多くの思想家や作家の著作、学術書を所蔵してあったといい、綴じ本が一般的でなかった当時、所蔵文献はパピルスの巻物として保存され、蔵書は巻子本にしておよそ70万巻にものぼったといいます。

アルキメデスやエウクレイデスら世界各地から優秀な学者が集まった一大学術機関としても知られていたようですが、その後、虫害や火災によって図書館の莫大な蔵書のほとんどが灰燼に帰しました。そして後世の略奪や侵略による度重なる破壊で、建物自体も失われたようです。

この図書館は、付近を訪れる旅人が本を持っていると、それを没収して写本を作成するというほどの徹底した資料収集方針を持っていたといい、さらには、薬草園が併設されており、今日の植物園のような遺伝資源の収集も行われていました。

つまり、今でいう図書館、公文書館、博物館に相当する機能を併せ持っており、古典古代における最高の学術の殿堂となっていました。これが失われたということは、その後の文明の進展における大きな「退化」であったといわれており、もしこれが残っていたら、今頃我々は自由自在に宇宙を飛び回れるほどの高度の文明技術を持っていたかもしれません。

ちなみに、このアレクサンドリアには、この大図書館のほかにも、「ムセイオン」と呼ばれる学術研究所もあったことがわかっており、かつては「世界の七不思議」にも選ばれていた「ファロス島の大灯台」も実際に建造されていたことが最近の考古学調査で実証されています。

先だってブラジル沖の海底で発見された遺物も「アトランティス大陸」であるかもしれないといわれており、最近こうした発見が相次いでいます。こうした大発見は続いて起こることが多いといいますから、もしかしたらそのうちさらに世界中がアッというようなオーパーツが見つかるかもしれません。

では、これ以外に、これまで実際にどんなオーパーツが見つかっているのでしょうか。

全部をここで取り上げることはできないほどたくさんあるのですが、私自身がこれは!?と思うものを以下に少しだけとりあげてみましょう。

○アフリカの金属球
南アフリカの鉱山で見つかった用途不明の金属球。複数発見されており、内部が空洞のものと繊維状のガラスのような物質が詰まったものの2種類あり、外側には中心に平行に走る3本の溝がある。

この金属球が展示されている博物館の館長によれば、ガラスケースの中にある金属球が、年に1、2回時計回りに自転するという。この球体は葉ろう石(カオリナイトやセリサイトといった雲母などが成分で、柔らかくて「ロウ」のような感触がある)の中から見つかったが、この葉ろう石が形成されたのは約28億年前とされている。

○カンブリア紀の金属ボルト
1997年、ロシアのブリャンスクで発見された、15億年以上前に生成された石の中に埋まっていたボルト。数トンの力を加えても変形せず、X線で石を見たところ、中に同様のボルトが10個ほどあるのが確認できている。

モスクワの航空大学の教授が、「15億年前に地球にやってきた宇宙船が何らかの原因で故障・爆発し、飛び散った部品の一部」であると主張している。

○更新世のスプリング
1991年頃、ウラル山脈東部の川で金採掘をしていた人々が発見したらせん状の極小部品で大きさは0.003ミリから3センチほど。ロシア科学アカデミーの分析によれば、これらの製造年代は推定2万~30万年前だという。

○秦の始皇帝の兵馬俑坑出土のクロムメッキの剣
西欧においてクロムメッキが開発されたのは近代であるが、それより遙か以前の古代中国においてどのような方法でメッキされたかは不明である。

○中国の衛星撮影地図
湖南省の湖南博物館に収蔵されている縮尺18万分の1の地図。2100年前の馬王堆漢墓から発見されたもので、長沙国南部を描いたものとされる。非常に精確な地図であり、遺物を管理する大学教授は、人工衛星が撮影した写真に基づくものだと主張している。

○褐炭の頭蓋骨
19世紀初頭に発見された、褐炭、褐鉄鉱石、磁鉄鉱石で構成される頭蓋骨の工芸品。1500万年前に形成された中央ヨーロッパの褐鉄鉱石の地層から見つかった。当初、何度も分析が行われ、無名の一般人が作った贋作という見解が一般的であった。

しかし、1998年にこの頭蓋骨をCTスキャンで調査したところ、頭蓋骨内部が樹木の年輪のような層をなしていることが判明した。もし人為的に造られた贋作だとすれば、褐炭の融点は110度~360度であるため、こうして精製された褐炭の薄膜を一枚ずつ重ねて作り上げたことになる。

1500万年も前にこのような方法で制作された工芸品は存在しないことから、贋造ではなく本物であるとする主張がある。

○弾丸のようなものが貫通した頭蓋骨
1921年にザンビアで発見された化石。かつてはネアンデルタール人のものだとみられていたが、現在はローデシア人のものだという見方が強い。頭蓋骨の左側に小さな穴が開いており、ベルリンの法医学者が調査したところ、「高速で発射された物体が貫通した痕」だという結論を出した(が、弾丸とまでは言っていない)。

この頭がい骨には問題の穴以外にもいくつか穴があり、穴には治癒した痕がある。穴が開いた原因については不明だが、治癒したということは、弾丸のようなものによる外傷性のものではない、とする意見もある。

○モヘンジョダロ近くのガラスになった町
モヘンジョダロ遺跡の近くで古代史研究家が発見した区域で、辺りにガラス化した石が散乱している。ローマ学科大学の分析では極めて短い時間に高熱で加熱された結果出来たものとされる。また核爆発の痕跡らしき場所が存在し、その場所では今もなおガイガーカウンターが反応するとの主張もある。古代核戦争説の根拠のひとつ。

以上の中には、ネットで検索すると実際の写真映像を見ることができるものもあります。えーっ本物かな~と思わせるものも多く、私が選んだ理由もわかると思うので、ご興味のある方は検索してみてください。

このほかのオーパーツとしては、宇宙船や宇宙人に似ているとされる絵や器物、ロケットの「彫像」、古代エジプトのグライダー人間が恐竜と戦っている壁画や恐竜の土偶、フィラメントの入った電球らしき絵、といった類のものが圧倒的に多いのですが、これらは見る人の主観によってそう見えるだけ、という気がします。

人間の想像力というのは逞しいものであり、毎夜見る「夢」に着想を得たものを絵や像にしたからといって、それを即、宇宙人が造ったものだ、やれその当時はまだ恐竜は生きていた、という結論には直結しないように思います。

上述したもの以外にも、アステカの遺跡で発見されたとされる精巧な水晶の髑髏とか、コスタリカで複数個発見された限りなく真球に近い花崗閃緑岩の石球、神殿の土台としては人力ではとても動かすことができないと考えられる巨石……といった、出土した時代での製造が極めて困難かあるいは製造不能と思われるものがたくさん発見されています。

これらの中にはピラミッドのように、現在の感覚では想像がつかないほどの膨大な時間、人的資源などを費やして造られたものもあり、古い時代に出土したときにはオーパーツとして考えられたものの、近代の科学技術の発展により製造可能と判断されたものも多いようです。

出土の際に、現代人が間違って出土品に混入させてしまった結果、オーパーツとしてみなされるようになったものもあるようであり、オーパーツが一種の見世物としてや好事家の関心を惹く対象でもあるため、売名や詐欺的な動機に絡んで捏造された贋作だったというケースも後を絶ちません。

従って、オーパーツとされる遺物のうち、真に学術的にその価値を認められるものはごく僅かであり、将来的にはアンティキティラの機械のように技術の発達によりその製造過程が明らかにされるものも出てくるのかもしれません。

しかし、いかんせん、この世には不思議なことがたくさんあるもの。人類は宇宙の秘密の数パーセントしか解き明かしていないともいわれ、それは宇宙だけでなく、人間の頭の中もしかりです。脳ミソの9割近くは有効活用されていない、といった医学的な話もあり、そう考えていくと、我々が「実は知らない」ことはいっぱいあると思うのです。

だからといって根拠のない、言いふらしをこのブログで書いていこうとは思いません。出来うる限り、科学的な視点でモノを考え、どうしても説明できないことは、その通りそう書いていく、というのを基本的なスタンスとすべきでしょう。

……とはいえ、人の一生は「説明できないことばかり」のような気もします。今こうして伊豆に住んでいることすら不思議といえば不思議。

そのうち、「不思議の国のオヤジ」なる本でも書いてみましょうか。誰も読んでくれるとは思いませんが……