カキ喰えば……

先週末、広島に在住の姉夫婦から「カキ」が大量に送られてきました。

言うまでもなく、広島は全国でも有数のカキの名産地で、そのシェアは約50%をも占めます。これに次ぐのが、宮城県の約23%ですが、ご存知のように東北の津波の関係でここ数年少しく減産しているようです。

広島県は大規模業者が多いのに対し、宮城県は個人での生産が多く、牡蠣生産に携わる漁業関係者数は全国で一番多いそうで、こうした個人漁業者の被害は相当なものだったようです。が、ニュースなどでも伝えられている通り、この冬からはかなり持ち直してきて、今シーズンようやく出荷にこぎつけた生産者さんも多いとのことです。

カキは、いろんな書き方があります。牡蛎、牡蠣、硴などがそれで、日本では古くから、沿岸地域で食用のマガキやイワガキが採取されてきたほか、薬品や化粧品、建材(貝殻)としても利用されてきました。

が、食用にされない中型から小型の種も多く、どの種類も岩や他の貝の殻など硬質の基盤に着生するのが普通です。

英名では”oyster”です。こちらのほうは、日本語の「カキ」よりも広義に使われ、岩に着生する二枚貝のうち、形がやや不定形で表面が滑らかでないもの一般を指し、真珠の養殖に使われるアコヤガイ類やかなり縁遠い種類などもoysterと呼ばれることがあるようです。

このカキですが、一般に我々が知るカキというのは、かなりゴツゴツとした貝殻を持っていますが、この形というのは、波の当たり具合などの環境によっても形が変化します。このため、カキが定着する岩などの基盤に従って成長するため殻の形が一定せず、外見による分類が難しく、野外では属さえも判別できないこともあるそうです。

従って、学術上未だに分類が混乱しているものも少なからずあり、外見に惑わされない分子系統などを使った分類がなされつつあるそうですが、まだまだ完全なる生物学的な仕分けは終わっていないそうです。なので、生物学に興味のある方、その完成にチャレンジしてみてはどうでしょうか。

しかし、我々が食するカキは、たいていはこうした天然物ではなく、養殖です。その一般的な方法は、カキの幼生が浮遊し始める夏の初めに海中に吊るした「ホタテ」の貝殻に幼生を付着させるというものです。

後は餌が豊富な場所に放っておくだけで大きくなり、総じて天然物に比べて中身も大きくて味も良いものができあがります。

天然物のほうは、養殖ものと違って一旦岩などに付着すると、一生ほとんど動かないため、筋肉が退化し内臓がほとんどを占めています。日本テレビの科学番組「所さんの目がテン!」でハマグリの内臓を寄せ集めてカキフライもどきを作ったところ、20人中18人が騙されたという結果が出たそうです。

干潮時には水が無い場所に住む場合が多く、グリコーゲンを多く蓄えています。これにより、他の貝と違って水が無い所でも1週間は生きていられるといいます。グリコーゲンというのは、動物の体の中で、糖類などの成分を一時的に栄養として貯蔵しておくために形を変えたもので、動物デンプンとも呼ばれる栄養素です。

が、養殖のものはこうした内臓部分よりも筋肉のほうが大きく、プリッとしたふくらみの中に入った内臓とこの筋肉の取り合わせが、あの独特の食感を生み出します。

一番よく食べられるのが、マガキ(真牡蠣)で、日本でカキといえばこれを指します。本来は冬が旬ですが、最近では大型で夏でも生殖巣が発達しない「3倍体牡蠣」も開発され、市場に出ています。流通しているものの中には韓国からの輸入品も相当量あるようです。

このほか、イワガキ(岩牡蠣)が良く食べられますが、こちらはマガキと対照的に夏が旬であり、「夏ガキ」とも言われます。殻の色が茶色っぽく、マガキに比べて大きいものが流通します。天然物しかないと思っている人も多いようですが、こちらも養殖物が存在します。

このほか、有明海ではスミノエガキ(住之江牡蠣)というのがあるそうですが、他所へはほとんど出回らないようです。有明海ではこのほかにもシカメガキというのが産出されるそうで、これはほかにも熊本の八代海や福井県の久々子湖に分布します。

現在、アメリカの多くで食されているカキは、1946年頃に熊本県八代市の鏡町からアメリカに種ガキとして輸出されたものが広まったものだそうで、ワシントン州沿岸を中心に養殖されていて、その名も「クマモト」というそうです。

小振りながらクリーミーで濃い味が特徴です。昔フロリダの北部に住んでいたころ、オーランドやニューオリンズにも出かけましたが、ここで食べたのがこれだと思います。日本のマガキのような臭みがなく、レモン汁をかければ生でいくらでも食べれる、といったかんじで、大変おいしかったのを覚えています。

一方、欧州では、ヨーロッパヒラガキというヨーロッパ原産種があります。別名、ヨーロッパガキ、フランスガキともいい、その外観は輪郭が丸く平たいかんじで、ブロン、フラットとも呼ばれる高級食材です。

かつてのヨーロッパ、特にフランスでカキと言えばこのカキのことを指しましたが、1970年代以降、寄生虫などにより激減。このため需要をまかなうために日本産のマガキを輸入して養殖するようになり、それ以来フランスなどで流通するカキの相当部分は日本由来のマガキになりました。

日本ではかつて、宮城県気仙沼市の舞根(もうね)などでこのヨーロッパガキが僅かに養殖されていて、国内のフランス料理店に卸されていたようですが、こちらも先の大津波でカキ養殖施設が壊滅状態に陥りました。

この災害時には、フランスのカキ養殖業者達がかつて日本に助けてもらった恩返しとして、養殖施設の復旧に協力したそうですが、オリジナルのヨーロッパガキの生産が復旧したのかどうか心配です。

カキは、グリコーゲンのほか、必須アミノ酸をすべて含むタンパク質やカルシウム、亜鉛などのミネラル類をはじめ、さまざまな栄養素が多量に含まれるため、「海のミルク」とも呼ばれることはみなさんもよくご存知でしょう。

世界中で食され、長い歴史の中で人類が親しんできた貝の一つです。一般的に肉や魚介の生食を嫌う欧米食文化圏において、カキは例外的に生食文化が発達した食材であり、古代ローマ時代から珍重され、養殖も行われていました。

フランスでは、生ガキはオードブルとなっているほか、生ガキをメニューの中心に据える「オイスターバー」と呼ばれるレストランも多数存在します。ナポレオン、バルザック、ビスマルクといった歴史上の人物がカキの愛好家であったことはよく知られています。

日本では縄文時代ごろから食用されており、多くの貝塚からカキ殻が発見されています。その昔は日本ではカキよりもハマグリのほうがたくさん獲れたようですが、ハマグリは養殖ができないため現在は逆になってしまいました。

古来からの和名は「おかきのかい」あるいは「かき」であり、密集している貝を掻き取ることが語源と考えられているようです。

養殖の技術は、室町時代ごろに開発されたようで、大坂では明治時代まで広島から来る「牡蠣船」が土佐堀、堂島、道頓堀などで船上での行商を行い、晩秋の風物詩となっていたそうです。

かつては広島や東北などの産地から消費地まで輸送するのに時間がかかったため、日本ではカキの生食は産地以外では一般化せず、もっぱら酢締めや加熱調理で食されました。日本人では武田信玄や頼山陽などがカキの愛好家であったことが知られています。

ただし、現在我々は生ガキを普通に食しますが、昔の人は生でこれを食べることはしなかったようで、日本人がカキを生で食べるようになったのは、欧米の食文化が流入した明治時代以降のことです。

しかし、カキの食べ方は生食以外にも様々です。カキフライのような揚げものや、鍋物の具にして食べるほか、網焼きにしたりしてもおいしくいただけます。

網焼きや生食では身だけでなく汁もともに吸うのがツウです。

我々がスーパーなどで目にするものはき身のものが多いでしょうが、殻つきのカキでは、身が浸されている殻の中の海水を含む汁にも多くの栄養素やうまみがたっぷりと含まれていますから、殻つきが手にはいったら、その汁を余すことなく飲み干しましょう。

このほか、カキの貝殻は粉砕して薬にも使われます。これは牡蠣(ボレイ)といい、焼成し、「ボレイ」または「ボレイ末」とし漢方薬局などで売られています。「日本薬局方」にも記載されているれっきとした生薬であり、薬理作用として、血糖低下、免疫増強作用などの作用があるようです。

薬用以外にも天然炭酸カルシウムとして使われ、あるいは1000℃程度に焼成すると「牡蠣灰」というものができ、これは、消しゴムの添加剤などの工業用や食品添加物、砂糖精製用助剤などに利用されています。

このほか、カキは水中の懸濁態物質やプランクトンを取り込むため、カキを収穫することで、水中の栄養塩の回収につながります。特にカキは濾過量が他の2枚貝に比べて極めて多く、1時間に約10リットルの海水を濾過するといいます。 アサリは1時間に1リットルの海水を濾過するそうですから、その10倍です、

アメリカの首都ワシントンD.C.の東にあるチェサピーク湾では、カキを使ってオイスターガーデニングと呼ばれる水質浄化活動も行われているそうで、カキの擬糞はゴカイなどの底生生物の餌となり、底生生物は魚類の餌ともなり、豊かな生態系を作ります。

我々は、広島から送られてきたこのカキを、一昨日は生ガキで、昨日の夜はカキフライにしておいしくいただきました。

ところが、3日目の今日ともなると、そろそろ「あたる」のが気になってくるところです。

送ってくれた姉によれば、昨年の正月に彼女はカキにあたってしまい、上も下も大変だった(ここのところ表現が難しい)とのことで、我々も注意したいところです。

古来より食べられてきたカキですが、その一方で「あたる」食品としてもよく知られています。現代の日本国内で流通している生食用のカキは、極力食中毒を回避するために、一応生産・流通段階で対策がとられています。

とくに生食用として販売されるカキには加工基準が設けられており、カキそのものを対象として規格基準が設けられていて、さらには、保存基準、表示基準も規定されています。

具体的には、加工基準としては、食品衛生法により、大腸菌群最確数が一定以下の海域で採取されたもの、それ以外の海域で採取されたものであって、大腸菌群最確数が一定以下の海水、または塩分濃度3%の人工塩水を用い、かつ、当該海水若しくは人工塩水を随時換え、又は殺菌しながら浄化したもののどちらかであること、などが規定されています。

また、規格基準としては、細菌数(大腸菌)の数や腸炎ビブリオ菌などの数の制限値も決められていて、これらに加え地方によってはさらに厳しい指導基準を条例などで設けている場合もあるようです。

とくに生食用カキではこうした加工基準を満たすために、紫外線殺菌された海水中や人工海水などを充分に循環させた環境下にて絶食状態として数日間飼育されることも多いようです。

しかし、生食用のカキにこうした処理を施す場合、貝表面や貝内部に取り込まれた細菌の大部分は貝内から排出されてほぼ無菌状態にはなりますが、これとは引き替えに、カキの身が痩せてしまったり風味が損なわれたりする場合もあり、加熱処理用のものよりも味が劣ることも多いようです。

また、こうした処理をして出荷されても、生カキを買う側の保存状態がよくなく、このため微量に残っていた細菌やウィルスが繁殖して中毒に至る例もあるようです。

なので、「生食用」と書いてあるから安心せず、こうしたカキを買ってきた場合は、浸かっている塩水を交換する、日にちが経ったら加熱して使うなどして、できるだけ安全策をとられることをお勧めします。

このカキの食中毒症状を引き起こす原因としては貝毒、細菌(腸炎ビブリオ、大腸菌)とウィルスが良く知られており、とくにウィルスとしてはノロウィルスがよく知られています。どの原因も生育環境(海水)に由来するものであり、二枚貝特有の摂餌行動などによって貝内部、特に消化器官(中腸腺など)に取り込まれ濃縮されるものです。

従って、殺菌処理をしているからといって100%安全とは限りません。

「貝毒」というのは、あまり聞き慣れないかもしれませんが、貝が捕食する海水中の有毒プランクトンを蓄積したものです。

これにあたるというのは稀なケースのようですが、その対策としては一応、出荷の段階では、生育海水中の植物プランクトンの種類および貝に含まれる毒が定期的に検査されています。

有毒プランクトンの発生し易い時期は3月から5月なので、とくにこの時期には重点的に検査を行うとともに、濾過海水中で一定期間飼育することで、毒の量を規制値以下に減毒できるそうです。

残るは、細菌とウィルスですが、そもそもこのふたつはいったい何が違うのでしょうか。

細菌というのは、よく「ばい菌」とも言いますが、自分で細胞を持っています。人間に病気を引き起こす細菌は、人間の体の中に入ると、人間の細胞に取り付きます。細菌は、この細胞に取り付き、細胞の栄養を吸い取って、代わりに毒を出して細胞を殺してしまいます。栄養を吸い取った細菌は、自分が分裂して、仲間を増やしていきます。

一方、ウィルスは細菌よりずっと小さく、自分で細胞を持っていません。ほかの細胞に入り込まなければ生きていけないのです。ウィルスが人間の体に入ると、細胞の中に入り込み、その細胞に、自分のコピーを作らせます。

細胞の中で自分のコピーが大量に作られると、やがて細胞は破裂して死んでしまいます。破裂したとき、細胞の中から大量のウィルスが飛び出し、ほかの細胞に入り込みます。こうしてウィルスが大量に増えていくのです。

細菌の場合は自分の細胞を持っているので、細菌をやっつける薬を造ることができます。抗生物質といって、細菌の細胞を攻撃することができる薬です。ところがウィルスには細胞がありませんから、ウィルスをやっつけることは困難です。ウィルスを攻撃しようとすると、ウィルスが入り込んでいる人間の細胞を壊してしまう恐れがあるからです

カキにつく大腸菌のような一般的な細菌は海水中に常時一定数存在するものであり、ごく少量であれば食中毒症状を引き起こすことはありません。しかし、気候や水質、保存方法などによっては細菌が大量に増殖することもあり、生食する際には注意が必要です。

現代の日本国内の生食用カキの場合は、上述のように流通段階では十分な対策が取られているのでまず心配はいりませんが、問題なのはやはり購入者が間違った方法で保存することで、残った少量の細菌を増殖させてしまうような環境に放置することはやはり危険です。

腸炎ビブリオ菌のほうは、20℃付近でおよそ10分間に1回と活発に分裂・増殖しますが、15℃以下では増殖は抑制されます。また、経口摂取によって感染症状を引き起こす際には生菌100万個程度が必要であるとされています。

このことから、腸炎ビブリオ菌対策としては20℃以上の環境に数時間置かないようにすることが、食中毒対策として重要です。とくに夏場が旬のイワガキなどを、家庭で調理する際には十分に注意すべきでしょう。

70度以上1分間の加熱でほぼ死滅するとされているので、加熱処理すればこちらのほうは大丈夫です。ちなみに、大腸菌のほうも75度以上1分間の加熱でほぼ死滅するとされています。

このほか、カキに赤痢菌がついているというレアケースもあるようですが、日本国内産についてはまず問題になることはないそうです。ただし、韓国では2001年にカキが原因で1,000人規模の罹患者を出したことがあるそうなので、スーパーで見かけてカキが韓国産であるかどうかは一応確認してから購入しましょう。

ただ、以前、韓国産のカキが日本国内において、国内産として産地偽装され流通されていることが発覚したこともあり、こうした場合の対処のしようはありません。が、一般にこうしたカキは安価であるはずなので、安すぎる生ガキを見たら注意しましょう。

一方、カキのウィルスと言えば、やはりノロウィルスです。2000年頃より急に増えてきており、こちらにかかった時の病状は細菌よりもはるかに過激です。

その感染力は85℃以上で1分間以上加熱されることにより破壊されると考えられていることから、ノロウィルスにかかりたくなかったら、中心部まで十分に加熱することがまず重要です。

2001~2003年の調査では、生食用カキの12.9%、加熱加工用カキの24.4%がノロウィルスで汚染されていたという統計もありますが、最近はかなり汚染防止対策が進んだことから少なくなっているようです。が、対策をとるに越したことはありません。

ところで、このウィルスというのはそもそも何者なのでしょうか。細菌との違いは上述の通りですが、改めてどういうものかと聞かれるてすぐ答えられる人は少ないのではないでしょうか。

そこで調べてみると、ウィルスというのは、「細胞を構成単位としないが、遺伝子を有し、他の生物の細胞を利用して増殖できる」という性質を持ち、一応、生物としての特徴を持っているものなのだそうです。

現在でも自然科学は生物・生命の定義を行うことができておらず、便宜的に、細胞を構成単位とし、代謝、増殖できるものを生物と呼んでおり、細胞をもたないウィルスは、非細胞性生物として位置づけられています。

生物であるようで生物でないので、生物というよりむしろ「生物学的存在」といわれることのほうが多いようで、とはいいながら、遺伝物質を持ち、生物の代謝系を利用して増殖するウィルスは生物と関連があることは明らかです。

感染することで宿主の恒常性に影響を及ぼし、病原体としてふるまうことも多く、ウィルスを対象として研究する分野はウィルス学と呼ばれる専門分野が確立されているほどです。

ウィルスが一般的な生物と大きく異なる点は、まず我々生物の体は細胞が構成されていますが、ウィルスは非細胞性で細胞質などは持たないことです。また、基本的にはタンパク質と核酸からなる粒子にすぎないというところも違います。

さらに大部分の生物は細胞内部にDNAとRNAの両方の核酸が存在しますが、ウィルス粒子内には基本的にどちらか片方だけしかありません。さらに他のほとんどの生物の細胞は2n乗で指数関数的に増殖していくのに対し、ウィルスは一段階づつしか増殖しません。またウィルス粒子が見かけ上消えてしまう暗黒期が存在する点も細胞と異なります。

このほか、ウィルスは単独では増殖できず、他の生物の細胞に寄生したときのみ増殖できるという特性があり、しかも自分自身でエネルギーを産生せず、宿主細胞の作るエネルギーを利用する非常にいやらしいヤツです。

その詳しい生物学的な説明は、専門家でもないのでこれ以上差し控えますが、ウィルスの増殖は以下のようなステップで行われます。

細胞表面への吸着 → 細胞内への侵入 → 脱殻(だっかく) → 部品の合成 → 部品の集合 → 感染細胞からの放出

感染細胞から放出されたらまた別の細胞を探して吸着・侵入・合成・集合・放出を繰り返して増えていきますが、その過程は一段階づつなので、細胞のように増殖し始めると止まらない、といった急激な変化はありません。

ただし、ウィルスによる感染は、宿主となった生物に細胞レベルや個体レベルでさまざまな影響を与えます。その多くの場合、ウィルスが病原体として作用し、宿主にダメージを与えるという非常にやっかいなものです。

しかも、ウィルスが感染して増殖すると、宿主細胞が本来自分自身のために産生・利用していたエネルギーや、アミノ酸などの栄養源がウィルスの粒子複製のために奪われ、いわば「ウィルスに乗っ取られた」状態になります。

これに対して宿主細胞はタンパク質や遺伝子の合成を全体的に抑制することで抵抗しようとしますが、一方でウィルスは自分の複製をより効率的に行うために、さまざまなウィルス遺伝子産物を利用して、宿主細胞の生理機能を制御しようとします。

またウィルスが自分自身のタンパク質を一時に大量合成することは細胞にとって生理的なストレスになり、また完成した粒子を放出するときには宿主の細胞膜や細胞壁を破壊する場合もあります。このような原因から、ウィルスが感染した細胞ではさまざまな生理的・形態的な変化が現れます。

その生理機能の変化によって、ウィルスが感染した細胞は色々な方向で変化していきますが、まず典型的なものとしてあげられるのは、ウィルス感染によって細胞が死んでしまうことです。

ウィルスが細胞内で大量に増殖すると、細胞本来の生理機能が破綻したり細胞膜や細胞壁の破壊が起きる結果として、多くの場合、宿主細胞は死を迎えます。これは生物にとっては致命的なことではありますが、一方では感染した細胞が自ら死ぬことで周囲の細胞にウィルスが広まることを防いでいると考えられています。

このほか、ウィルスがもたらす生物の生理的な機能の変化としては持続感染というのがあります。

これは、ウィルスによっては、短期間で大量のウィルスを作って直ちに宿主を殺すのではなく、むしろ宿主へのダメージが少なくなるよう少量のウィルスを長期間に亘って持続的に産生(持続感染)するものです。持続感染の中でも、特にウィルス複製が遅くて、ほとんど粒子の複製が起こっていない状態を潜伏感染と呼びます。

もうひとつが、細胞の不死化(細胞の老化)と「がん化」です。こうした生理変化をもたらすウイルスを腫瘍ウイルスあるいはがんウイルスと呼びます。

ウイルスが宿主細胞を不死化あるいはがん化させるメカニズムはまちまちです。が、ウィルスの種類によっては宿主のゲノムにウイルス遺伝子を組み込むものもあり、この場合にはがん抑制遺伝子が潰された結果、がん化する、つまり細胞は癌細胞に変化します。

ノロウィルスは、上記三つのうちの、一番最初の型のウィルスです。ヒトに経口感染して十二指腸から小腸上部で増殖します。このとき、毒素は分泌せずに十二指腸付近の小腸上皮細胞を脱落させ、伝染性の消化器感染症(感染性胃腸炎)を引き起こします。

死に至る重篤な例は稀ですが、苦痛が極めて大きく、稀に十二指腸潰瘍を併発することもあります。

我々の子供のころにはそんなものはなかったよな~と思ったら、それもそのはず、発見されたのは、1968年のことで、アメリカ合衆国オハイオ州ノーウォークの小学校において集団発生した急性胃腸炎患者の糞便から検出されたのが始めてだそうです。

この地名にちなみ、当初「ノーウォークウィルス (Norwalk virus)」と命名され、その後このウィルスによる胃腸炎・食中毒が世界各地で報告されようになりました。

その後、1977年になって、札幌で幼児に集団発生した胃腸炎からノーウォークウィルスとよく似た小型球形ウィルスが 病原体として発見され、これが「サッポロウィルス (Sapporo virus)」と名付けられました。

2002年にパリで行われた、第12回国際ウィルス学会では、それまで「ノーウォーク様ウィルス属」と呼ばれていたものを「ノロウィルス属 (Norovirus)」、「サッポロ様ウイルス属」と呼ばれたものを「サポウイルス属 (Sapovirus)」と区別して呼ばれるようになりました。

しかし、その後日本では後者よりも、前者のほうの発症率が高く、「ノロウィルス」がこの感染症の標準語のようになっていきました。

ところが、2011年に札幌で行われた、国際微生物学連合会議では、「ノロ(NORO)」姓の子供、つまり「野呂」などの子供たちがいじめやからかいを受けるおそれがある、という指摘があり、「ノロウイルス」名称について各国の専門家たちと深く議論を行いました。

その結果、「ノロウイルス」というのは属名であって、そのようなウイルス種名は存在しない、ゆえに正しい呼称(種名であるノーウォークウイルス)を使用すべきであるという声が多くあがりました。

こため、この会議ではノーウォークウイルスに起因する病気の発生に対して「ノロウイルス」という用語を使用しないよう、メディア、医療・保健の各機関、科学者団体に強く求める」という趣旨のプレスリリースを発表したのですが、それまでの慣行からか日本ではあいかわらずノロウィルスと呼ばれています。

日本ではかつて「お腹の風邪」と呼ばれていましたが、その症状は単なる風邪というよりかなり激烈であり、主な症状は突発的な激しい吐き気や嘔吐、下痢、腹痛、悪寒、38℃程度の発熱で、嘔吐の数時間前から胃に膨満感やもたれを感じる場合もあります。

1年以内に感染していない人や、先天的に免疫ができない人、抵抗力が弱い老人や子供などはウィルス感染を起こしやすく、激しい感染性胃腸炎を引き起します。

通常1~2日で治癒するようで、後遺症が残ることもありませんが、免疫力の低下した老人や乳幼児では長引くことがあり、死亡した例も報告されています。お年寄りなどではとくに、吐瀉物を喉に詰まらせることによる窒息などが多いようです。

ただし、感染しても発症しないまま終わる場合もあり、これを「不顕性感染」といい、その症状は普通の風邪とも似ています。吐き気や下痢などはなく、普通の風邪と同様の症状しか現れないのです。

このため、一般にノロウィルスの症状は「嘔吐、下痢、腹痛を伴う風邪」というふうに表現されることも多いようですが、これら普通のように見える風邪が実はノロウイルスによる感染症によるものである可能性も低くはないそうです。

従って、これらの人でもウイルスによる感染は成立しており、こうした風邪引きさんの吐しゃ物やくしゃみ、鼻水に触ったりするのは厳禁ですし、とくに糞便中にはかなり大量のウイルス粒子が排出されているため、その処理には厳重な注意が必要です。

このノロウィルスの治療ですが、特別な治療法は確立されていないそうで、かかってしまったら、仕方がない、というかんじのようです。ただし、激烈な症状はせいぜい数日、この間、苦しいけれども我慢しさえすれば回復は早いようです。

ただし、感染から発病までの潜伏期間は12時間~72時間(平均1~2日)だそうで、症状が収まった後も便からのウイルスの排出は1~3週間程度だとすると、一カ月間をこのウィルスとお友達にならなければならなくるわけです。しかもこの間、自分が感染源になることを考えれば、極力これにはかかりたくないものです。

場合によっては、7週間を越えての排出も報告されており、しかも11~3月の発症が多く報告されてはいるものの、年間を通じて発症もありうるということです。

2007年に報告された厚生労働省食中毒統計による食中毒報告患者数は、71%がノロウイルス属感染症ということで、かなりの高率です。

血液型で感染率に差があるそうで、当初、O型は罹患しやすくB型は罹患しにくいことなども報告されていたようですが、最近はウイルス株の各遺伝子型によって様々な血液型でのノロ感染が増えつつあるそうなので、A型だから大丈夫といったことはないようです。

ただし、ヒト以外では発症しないとされており、ノロにかかったからといって、愛猫や愛犬と離れて暮らさなければならない、というような悲哀はないようです。とはいっても、感染したからといって、腹いせにイヌネコの上にゲロしたりしないようにしましょう。

厚生労働省や保健所では、カキなどに代表される二枚貝は、食す際には内部まで十分に加熱調理するように、また調理の際に使用した器具の十分な洗浄を呼びかけていますが、生ものを食べることが大好きな日本人は、冬場のカキを何かにつけ食べたがります。

最近、ノロウィルスが流行している原因としては、感染者の排泄物に含まれるウィルスを下水処理場では十分に除去できないことから、排水が流入する養殖海域で養殖される貝類にノロウィルスが付着することなどが指摘されています。

こうしたことから、日本では報道のせいもありますが、「ノロウィルスと言えばカキ」という印象が広まり、特に2006年から2007年にかけてノロウィルス感染報道があるごとにカキの売上が減少しました。

一方、韓国などでは、下水汚泥や糞尿の海洋投棄が行われている例があるそうで、水域全体がウィルスにより汚染されている場合があり、2012年6月にはアメリカ合衆国の食品医薬品局が韓国から輸出するカキ、二枚貝、ムール貝の衛生基準が不十分であるとして市場からの回収要請を出しているほどです。

従って、日本でのノロウィルスの蔓延には、韓国から入ってきているカキによる感染の拡大もあるのかもしれません。

とまれ、生で食べる場合には日本産であれ韓国産であれ、ノロにかかる可能性は否定できません。塩水でのすすぎを欠かさないなど、十分な対策に気を付けましょう。

カキは、英名に「R」のつかない月、すなわちMay, June, July, Augustの5、6、7、8月は産卵期であり食用には適さないとされています。まだ今の時期は、そのグリコーゲン含量がどんどん増えている時期であり、まだまだカキのおいしい時が続きます。

冷蔵庫に残ったカキを今日は何にして食べようか、今考え中です。みなさんの今晩のお献立はなんでしょうか?もしかしたらカキなべ?それともカキの釜飯でしょうか。

美味しいカキの食べ方があったら、ぜひご一報ください。

病気とはなにか


最近、右目が妙に痛いなと思って鏡をみると、まぶたの内側になにやら黄色い粒のようなものが見えます。何かなと思っていたのですが、はじめは軽微だったものがだんだんひどくなってきて、赤く腫れるようになってきたのをみて、どうやらこれは「ものもらい」だと気が付きました。

私の郷里の山口や広島では、ものもらいのことを「めぼ」というのですが、関東やその他の地域では馴染みのない方言なので、ここでも「ものもらい」としておきましょう。

ここのところご無沙汰していた症状なのですが、こうした体の異変は、何等かのスピリチュアル的な意味を持つ、とよくいわれるので、これにもどういう意味があるのだろう、と調べてみることにしました。

そこで、タエさんの我が家のスピリチュアル文庫である、「なっちゃん文庫」を漁っていたら、「病気が教えてくれる病気の治し方(柏書房)」、という本が見つかりました。

「なっちゃん文庫」というのは、タエさんの亡きお母さんの残したスピリチュアル関係の書物で、我が家のリビングの壁一面に据えた本棚にある千数百冊にも及ぶ書庫です。

が、あとでタエさんに聞くと、この本は彼女が数年前に買い求めたもののようです。その当時彼女もまた何か体に異変があったのでしょう。我が家では夫婦して何かとこういうものに興味を持ちます。

トアヴァルト・デトレフゼンと、リューディガー・ダールケという二人のドイツ人の共著で、デトレフゼンのほうは、精神医学を学んだあとにリーインカーネーション・セラピーなるものを開発し、これをもとに特殊心理学研究所を設立した、と巻末のプロフィール紹介にありました。

また、ダールケのほうは、ミュンヘン大学で医学を学んだのち、精神療法士及び自然医学医師の資格を取得したお医者さんで、デトレフゼンと12年間共同研究を行った結果、この本を書いています。精神医学に関する医療センターを設立し、講演やセミナーを行うとともにこうした精神医学関連の多数の著書があるようです。

私のものもらいが、どういう意味かをこの本で読んだところ、腑に落ちるところがありましたが、それは後で披露するとして、この本を斜め読みしていったところ、非常に興味深いことが書いてあったので、今日はその中から抜粋しておおまかな内容を皆さんにもお伝えしようと思います。

原本をそのまま引用すると盗用になるのと、わかりにくい部分があるので、多少手を加えていますが、基本的には原文に忠実です。

まず、我々は、病気といえば「さまざまな病気」と病気を複数形で使うことが多いものです。しかし、これは病気という概念に対する誤解のもとになっています。病気とは本来単数形で使うべき言葉です。健康を複数で言わないのと同じです。

健康も病気も、人の心身状態をあらわす概念であり、体の部分や器官をさすものではありません。つまり、体は意識からの情報を受け取り、これを動かすだけであって、体自体が自分だけで病気だとか健康だとかを主張するといったことはありません。

体が主体として行為をすることがないのは、死体を考えればすぐにわかることです。生きた人間の体は、非物質的なもの、つまり意識(魂)と命(精神)のはたらきによって機能します。意識の出す情報が、体に伝えられて動かされ可視化されるわけです。

言い換えれば、意識が示す情報は、非物質的な独立した特性を持っており、体から生じるものに左右されません。体が存在しようがしまいが同じです。

生物の体に生じるできごとは、それに対応する情報が表出されたものです。人の体は限定された存在であるのに対して、意識は無限大です。従って、意識に対応する体の反応は、圧縮された「絵」といってもいいでしょう。

「絵」とは、ギリシャ語のeidolonに相当します。同じくギリシャ語の観念Idoleはさらにこれに近いかもしれません。鼓動と脈拍が一定のリズムに従う、体温が一定に保たれる、ホルモンが分泌される、抗原がつくられる、などの現象は、観念とはいえないものですが、いずれも物質レベルでは説明しがたいものです。

こうした現象(言いかえれば機能)は、意識から発する特定の情報に従って発現されています。そして、こうしたさまざまな体機能がいっしょにはたらいて「調和」していると感じられる状態が、「健康」です。

ある機能がうまくはたらかなくなると、全体の調和がくずれます。この状態を「病気」と呼んでいます。つまり、病気とは調和が乱れることです。それまで保たれていた秩序が崩れることと言ってもよいでしょう。

視点をさらに変えれば、健康とはバランスを生み出すことでもあります。調和の乱れは意識の情報レベルで起こるもので、これが体に現れるのです。言い換えれば、体は意識内の変化や動きを描写し、実現する場所であるともいえます。そのため、意識内でバランスがくずれると、それが症状となってからだにあらわれるのです。

体が病気である、というのは誤解を招きやすい表現です。病気なのは意識と体が一緒になった一個の人間全体です。悲劇が上演される場合、悲惨なのは、舞台ではなく、劇そのものである、というのと同じです。

ただし、病気は症状となって体に出ます。症状はさまざまですが、どれも病気が表出されたものです。病気はかならず人の意識の中で起こります。つまり、意識がなければ体が存在しないように、意識がなければ病気になることもありません。

従って、病気=「意識レベル」と症状=「体レベル」は別々の概念として区別すべきです。ここが今日のブログで述べたいことの最も大事な点であり、ひとつのポイントです。

これを理解することによって、体に起こるできごとを分析するという従来の馴染のある方法から、精神レベルを観察することで病気を治していくという新しい方法に移行することができます。

演劇批評家に例えるなら、舞台装置、小道具、俳優などを分析したり、替えたりすることによって改善するのではなく、劇そのものを対象とするわけです。

人は、ある症状が体にあらわれると、多少の差はあれ、注意がそちらに向けられ、それまでの生の営みが中断されます。症状は、注意やエネルギーを引き寄せ、それまでの状態に疑問を投げかけるシグナルです。生の営みを中断されるのはわずらわしいので、邪魔者を追い払おうという願いが最優先になります。

邪魔されるのはいやなので、症状と闘います。この闘うということは、症状に取り組み、症状に気持ちを向けることです。つまり、このようにして症状はそれが存在する目的を達するわけです。

病気と症状のちがいをひとたび理解すれば、病気とつきあう基本的態度が変わっていくでしょう。症状を仇敵とみなしてやっつけるのはやめ、逆にパートナーとして、病気の状態から脱する手伝いをしてもらえばいいのです。

そうすれば症状は先生となって、自己を認識し、開発するのを助けてくれるようになります。ただし、この規則を軽視すると、症状は容赦なくあなたに襲いかかります。病気の目標はただひとつ、人を健康にすることです。

健康になるために欠けているものを示してくれるのが症状です。それを理解するためには「症状の言語」を知っていなければなりません。この言語は、「精神身体学」ともいえるもので、心と体の関係を熟知しています。これは、実は大昔からあるものですが、残念ながら時とともに我々の記憶からは忘れられてしまっています。

われわれは、この症状の言語を再習得しなければなりません。言語の深い意味に耳を傾ければ、症状の語ることが理解できるようになるでしょう。症状は緊密なパートナーであり、また自分の一部であるので、重要なことをたくさん教えてくれるのです。

しかし、その教えてくれた内容は、正直すぎて耐えがたいこともあるかもしれません。親友ならば言わないようなことも、症状はストレートに伝えるからです。症状の言語が忘れ去られてしまったのも、おそらくは率直すぎて疎まれたからに違いありません。

しかし、耳をふさいでも症状が消えるわけではありません。なんらかの形でわずらわされ続けることになります。逆に症状に耳を傾けてコミュニケーションをとれば、またとない先生になって健康に導いてくれ、自分に欠けているものは何か、知らせてくれるのです。

健康と病気の関係を理解する上で、もうひとつ重要なポイントがあります。

それは、「両極性」ということです。これは両極として対立し合いつつも、他を自己のあり方の条件とし合っている性質です。人間にとっては病気と健康は対極的なものであり、この二つの両極性は、人間存在の中心的テーマともいえます。

ところが、現代医学は病気を、「健康な状態」を乱す嫌なものとみなし、なるべく早く退治しようとするばかりか、病気をできるだけ予防して根絶しようと試みます。しかし、病気とは、ただ単に自然の機能が乱されたものではありません。

病気は、改革のための統合防御システムの一部であり、人間は病気をしめ出すことはできません。なぜなら、健康は対極にある病気を必要としているからです。

人は健康と病気という両極性の一部です。その限りにおいて、罪や病気や死にかかわりつづけることになります。大事なのは、ここでの罪というのは、罰という意味ではありません。この世に生まれてきたこと自体が罪であり、これは言い換えればカルマです。

カルマは「宿命」です。過去(世)での行為は、良い行為にせよ、悪い行為にせよ、いずれ必ず自分に返ってくるのです。人はその一生をこれと向き合って生きていかなくてはならないのです。

この基本的な事実を認めれば、マイナスなイメージはなくなります。が、その反対に、真実を知ろうとせずに、悪いと決めつけてやっつけようとすれば、病気は怖い敵となります。

自分に欠けているものを意識に取り込めば、症状はなくなります。治癒は、意識の拡張・成熟と結びついているため、症状の性質を知ることで、痛みやキズといった物質的存在のしがらみから自由になることができます。

また、必ずしも病気とは限らず、人は自分が嫌なモノ、拒んだものとは結局、最も深くかかわることになります。自分のなかに統合しなかった本質を外部に見いだすと、気になるものです。

そして選択された性質、つまり自分が好んだモノは、反対のものを外に追い払ってしまいます。追い出されたもの、つまり、自分の性質と認めたくないものは、「影」となります。そしてこの影こそが人を病気にするのです。




しかし、一方では影と出会わない限りは、健康になることができません。これが、病気と健康を理解する二番目の重要なポイントです。

病気の症状はすべて、物質化した影です。つまり、意識のなかで体験したくないものを症状で体験するわけです。意識のなかで特定の性質を拒むと、その性質は体におりて症状として出てきます。そのため、結局その性質を体験して実現することになります。

このようにして病気の症状が現れ、これを治癒していくことで人は健康になっていくのです。

つまりは、人は両極性を見極めながら生きている、ということなります。それらは実は対極にあるのではなく、一つのものの別のあらわれ方です。病気と健康はもともとは同じものですが、病気を知らせるために健康があり、このふたつが両極性として存在しているのです。

つまり病気から回復して健康になる「治癒」とは両極性の克服ともいえます。

この健康と病気は互いに依存しあっています。対極がたがいに依存しあっているということは、両極性には、ふたつの単一性が存在するということを意味します。しかし、片方の極、すなわち片方の単一性取り去れば、両極性というものは無くなってしまいます。

また、この二つの極は同時にひとつのものとして知覚することができません。病気と健康を同時に享受することには矛盾があります。このため、ふたつの極に分けて交互に知覚するほかなく、健康でいるか、病気でいるか、どちらかでいるという状態が普通です。

ここの議論は非常にわかりにくいでしょう。しかし、両極性の問題は人間存在の中心的なテーマなので、これを正しく理解することで、病気と健康という二極性も理解できてきます。

もっとわかりやすく説明しましょう。

人は、「自分」と言うことによって、自分でないものと自分のあいだに線を引いています。このために、両極性に縛られます。なぜなら、自我は人を、自我と他我、内と外、男と女、善と悪、正と誤、などに分裂した世界に結びつけているからです。

このため、単一性や完全性を感じたり想像したりすることができません。両極性に縛られた意識は、すべてをふたつの相反するものに分けます。ところが、反対の者同士は両立しないので、片方を肯定して、もう一つを否定することになります。

片方を否定するということは、片方を除外することを意味します。こうして人は確実に不健康になっていきます。なぜならこうしたものを退けて両極性に欠けた状態こそが病気だからです。欠けたもののない状態、つまり両極性が常に両立し、その両極をうまくコントロールしている状態が健康です。

病気とは何かを知りたいと思った時、新しい見地でこの問題にアプローチするためには、世界をこのように両極的に見ることがポイントになります。反対側の極も同時に見ることを学ぶのです。こうした二極性の観点から、病気と症状を解釈し、紐解いていけるわけです。

さて、ここで具体的な例をあげてみましょう。

例えば、感染症をとりあげてみましょう。感染症は、人体に最も頻繁にあらわれる病気です。急性の症状はだいたいが「炎症」で、風邪、肺炎、コレラ、天然痘などがあります。この「炎症」という言葉には、「燃え上がる火花」という意味が含まれており、英語では“inframmation“といいます。

この言葉は、かつてヨーロッパの歴史の中で起こった数多くの戦争を連想させます。未解決の紛争が燃え上がる、導火線に火がつけられ、燃え上がる松明が家々に投げ込まれる、などなど火種には事欠かないので、あちこちで暴発・爆発が起こります。

群衆が押し寄せ、堰き止められてたまったものが一挙に吐き出される……といった情景が目に浮かぶのではないでしょうか。

これは、戦争ばかりではなく、体にもみられることです。感染症にかかってできた小さな吹き出物や膿瘍から膿が出るのがそれです。これを精神レベルに置き換えると、人が爆発するという場合、これは膿瘍などでなく、心の中の葛藤から自由になろうとする、感情的な反応です。

葛藤に対して目を閉じて感じないようにすれば、葛藤は存在しないと思い込む傾向にある人が圧倒的に多いようです。子供が目を閉じれば怖いものはなくなると信じているのとなんら変わりありません。

ところが、見ようが見まいが葛藤は存在します。意識内の葛藤を認められず、少しずつ消化して解決していこうとしない場合、葛藤は体に降りて炎症となるのです。

感染症にかかったら、人生の葛藤で見落としたものがないか、避けている葛藤はないか、葛藤があるのに認めようとしない、それは何か、を自問してみましょう。

次の例としてアレルギーを考えてみることにしましょう。これは「抵抗」です。抵抗とはなかに入れないことであり、抵抗の対極は愛です。愛はさまざまな角度、さまざまなレベルで定義できますが、愛のあらゆる形はなかへ入れるという行為になります。受け入れるということです。

他方、アレルギーとは、異物に対する過剰反応のことです。体の免疫機構はアレルギー抗原に対して抗体を形成します。体内に侵入した危険な異物から体を守る大事なはたらきが、アレルギーの人の体はこれをやりすぎてしまいます。

アレルギーを持つ人は、武装を固めて、敵のイメージを新しい領域へと次第に広げていきます。ひとつ、またひとつと敵を増やしていき、敵に対抗するためには、まずます武装を強化します。武装を許可すれば、もちろん攻撃性が高くなります。

つまり、アレルギーとは、心から抑圧されて体におりてきた抵抗と攻撃性の高まりです。アレルギー体質の人は、自分のなかにある攻撃性に気付かないため、これを抑えることができないのです。

アレルギーが治るのは、敵に回した領域と意識的に取り組み、これを意識の中に取り入れて同化したときです。アレルギー患者は、敵と和解して愛することを学ぶべきなのです。

さて、今のような寒い時期は風邪をひきやすいので、次にこの風邪についても考えてみましょう。

風邪は呼吸器官を激しく消耗させます。風邪もインフルエンザも急性の炎症なので、体内で葛藤を消化しているわけです。従って、風邪をひいた場合は、精神レベルでこの炎症の起こっている場所や領域を調べればよいということになります。

風邪をひくのは、なにかが鼻もちならない危機的状況のときです。危機的状況といっても、命が危険にさらされるようなものではなく、日ごろよくある状況で、大騒ぎするほどではないけれど心の重荷になってしばらくそこから逃げたくなる、そんな状況をさします。

ただし、それを自分に認める心の準備がまだないので、体に症状として現れます。そして風邪をひくことによって意識せずにその隠された願いを実現することができます。

例えば風邪をひいて休むことができれば、誰もが状況を理解してくれます。風邪さえひきさえすえば、やっかいな状況から距離を置いて自分をいたわることができます。そして繊細な心を体レベルの症状で展開することができるのです。

頭が痛い、目に涙がたまる、体の節々が痛む、いらいらする。全般的に感じやすくなります。人から近寄られたり触れられたりするのを極端にいやがり、鼻がつまってコミュニケーションができなくなります。くしゃみによってさらに守りを固め。やがては喉が荒れて、コミュニケーションンの媒介としての言葉も制限されていく……

こうした風邪の症状に対応するためには、背負った問題を化膿した粘液として体外に出そうと試みればうまくいきます。これが功を奏してたくさんの問題から解放されれば、まず気が楽になります。あらゆる通り道をふさいでいるねばっこい粘液が再びさらさらと流し出す。こうして風邪は流動的になって、小さな進歩の訪れを告げます。

ある自然療法では、風邪は体から毒を洗い流す健康な洗浄作用とみなされています。精神レベルでも毒は問題であり、これが排出されることで、体も心も元気になって危機を脱するのです。

ただし風邪は誰でも何度もひきます。風邪をひかないでいられるのは次に何かが鼻持ちならなくなることが起きるまでのひとときです……

最後の例として、現在の私のテーマである、ものもらいについて考えてみましょう。これは、感覚器官である「目」の病気です。目や耳、口といった感覚器官は外と中をつなぐいわば入口です。この心の窓を通して結局は自分自身を見ることになります。私たちは感覚器官を通して外界を体験し、それが実際に存在すると信じています。

しかし、実はそんなものは存在しません。外界と自己は一体、ひとつのものです。と、一言でいってもわかりにくいので少しづつ説明していくことにしましょう。

例として鉄の棒をイメージしてみてください。黒い色を見、金属の冷たさを感じ、独特の臭いを嗅ぎ、触ると固いものです。

熱すると色が変わって赤く焼け、熱を発します。このとき叩けば変形します。これは何が起こったかといえば、鉄にエネルギーを加えたために、素粒子の動きが早まったためです。このために我々の感覚が変わり、「赤い」「熱い」「柔軟」と感じられるようになったのです。

つまり、素粒子の相互作用と振動数の変化を我々は感覚器官で感じ取っているわけです。素粒子は感覚器官の特定レセプターに届いて刺激を与えます。刺激は化学電気のインパルスを介して神経組織から脳へと伝わり、「赤い」「熱い」「においがある」などと表現され、脳の中で複雑な絵となります。

素粒子を感じ取ることで、複雑な感覚モデルがアウトプットされるわけです。ところが、こうした素粒子の情報が処理され、意識が複雑な絵が外界に存在することを認識すること自体が実は錯覚です

外にあるのは実は素粒子だけなのですが、悲しいかなこの素粒子というものを私たちは直接見ることができません。「感覚」は素粒子あってのものなのですが、これを直接感じ取ることはできないのです。つまり、まわりにあるのは我々が絵と思っている主観的な「像」でしかないわけです。

また、あなたの隣人(実はこれも本来は素粒子の塊ですが)が鉄の塊の状態を同じ言葉で形容すれば、自分と同じものを見ていると思ってしまいます。が、実際には二人の人間が同じものを見ているかどうかは判断できません。実は別々のものを見てそれぞれが鉄のようなものと認識しているだけかもしれないのです。

今見えている像は、確かに夢のように鮮やかですが、それも夢見ているだけで、ひとたび白昼夢から目覚めると、真実だと信じて疑わなかった世界ががらがらと崩れてなくなってしまうかもしれません。そして人はすべては真実を覆い隠す幻想だと知っておののきます……




この考え方に反論する人も多いでしょう。周囲の世界は、素粒子なるものとして現実に存在するではないか、という反論はあってしかりです。

しかし、よくよく考えればこの考え方もまたまやかしに過ぎません。素粒子レベルでは自我と他我、内と外の境というものは存在しないからです。ある素粒子が自分に属しているのか、それとも外界の一部かを知ることはできません。素粒子レベルではすべてがひとつで境界というものは存在しないのです。

つまり、我々が「自我」として認識しているものは、人(自分)が勝手につくった境界であり、意識内にしか存在しません。この自我を手放して、実はすべてがひとつという状態しかないことを認識すれば、この境界はなくなります。すなわち、「孤独」というものも存在しなくなります。

感覚器官は、心の窓です。この窓を通して自分自身を見るためのものであり、周囲の世界とか外界とか呼ぶものは、例えていえば自分の心を写す「鏡」です。この鏡のおかげで、自分自身を見つめ、認識することができます。映し出される像がない場合は、それを見せてくれます。見たいと思った自分を見せてくれるのです。

こう考えると、一見自己とは切り離された存在である「周囲の世界」は、自己認識を助けてくれるすぐれた補助材であることがわかります。そして、その補助材を見せてくれるものこそが、「感覚器官」なのです。

ところが、この鏡には自分の嫌な影の部分も映し出されるため、こうした像を見るのはからならずしも心地よいとはいえません。このため、時に外界を自分から切り離して、「これは自分とはまったく関係がないんだ」と言い切ろうとします。

これは大変危険なことです。自分の姿を外界に投影させておきながら、その映像は独立したものだと信じてしまう。このため、映像をふたたび受け止めようとしません。つまりは、自分のことを顧みなくなり、例えば他人の世話ばかりやこうとするようになります。自己というものの喪失です。この状態は病気であるといえます。

自己を認識するためには外界の投影が必要なはずですが、健康になるためには投影をふたたび自分の中に採りいれなくてはなりません。そしてこの行為こそが「感じ取る」ということです。

「感じ取る」ということは、真実を認識するということでもあります。感じ取ったもののなかに自分自身を見出せばいいのです。これを忘れると、心の窓、つまり感覚器官が徐々ににぶるので、感覚を内部に向けるほかなくなります。

感覚がきちんと機能しなくなると、内部に目を向け耳を傾けるようになります。いやでも自分自身を省みることになるのです。

自分と外界との境がわからなくなったら、感覚器官のチューンナップをしましょう。

自分を常にみつめ、内省がいつでもできるようにするためには瞑想法を試すという手もあります。手や目や耳や口を閉じ、相当する内部の感覚について沈思します。何度か練習しているうちに味覚や色や音となってあらわれます。そして「感じ取る」という感覚が戻ってくるでしょう。

さて、目です。目は感覚器官の代表ともいえるでしょう。印象を取り入れるとともに、感情や気分を伝える役割もはたします。そのため、私たちは相手の目から心を読み取ろうとします。目は心の鏡です。涙を出して心の状態を外に知らせることもあります。

目からその人の性格や個性を読み取ることもできます。目が内部のものを外に出す器官であることは、危険な目つき、人を惹きつける目つき、などからわかります。

視線を投げる、これは目が能動的になることも示します。目がないといえば、大好きという意味です。すなわち、夢中になると現実が見えなくなります。恋は盲目と言いますが、恋していると自分の姿が見えないものです。愛するものは目に入れてもいたくありません。

目の障害で多いのが近視と遠視です。近視は主観性を示します。何もかも自分のメガネを通してみる、つまり主観的に観るので、なにかが話題になるたびに自分のことを指摘されていると思ってしまいます。自分の鼻先しか見えず、自己を認識することができない状態に陥ります。

私たちは見たものを自分に結びつけて、そこから自分を知るように努めるべきですが、自分を見つめすぎ、主観性から脱却することができなければ逆効果になってしまいます。従って近視になった人は、客観性を養うことで再び視力が養われてくる……かもしれません。

しかし多くの人は、一生自分を客観視できず自分しか顧みないで過ごすため、視力が回復することはありません。

熟年の人は、たいてい遠視になります。この年齢になると人生経験に基づいて見識や遠望を磨いてきているはずです。が、それができていないから遠視になります。意固地になり、遠い将来を見据えることができなくなります。遠望を遠視という体レベルだけでしか体現できていないわけです。

このほか目の病気を持っている人は、次の質問に答えてみましょう。

見たくないものは何か?
主観性が強くて自己認識ができないのではないか?
できごとのなかに自分自身をみているか?
見たものを見解の形成に利用しているか?
ものごとの輪郭をはっきり見ることに不安を感じていないか?
ものごとをありのままに見ているか?
目を背けたいのは自分の姿のどの部分か?

さて、私のものもらいは、どれに該当するのでしょうか。よくよく考えてみれば、ものもらいは、炎症のひとつでもあります、従って目の病気というよりも上述のように心に何等かの葛藤があるのかもしれない……と思ったらはっとするものがありました。

ただ、目にできた炎症ということで、上の中にも答えがあるのに違いありません。沈思してみると、この中にも該当がありそうです。がここではそれが何かは披露しません。私自身の問題ですから、自分でしか解決できないからです。

それでも知りたい?ご想像におまかせします。



さて、ここまで述べてきたように、あなたの病気の症状は、あなたが意識化していないことを意識化できるようにいつもさまざまなメッセージを送ってくれているものです。

現在、神経痛やアレルギー、皮膚等の各症状はほとんどといっていいほど原因がよくわかっていません。わたしたちが何より知りたいのは、こうした医学だけでは解明できていない病気の原因であり、なぜそうなったかではないでしょうか。

上であげた風邪の例でも実感できることです。なぜ、風邪をひいたのか、いつのまにやら咳き込んでいるが、どこでもらったかわからない。しかしよくよく考えてみると、風邪を引いた理由が分かるような気がする。何かの現実逃避をしたかったのかもしれない……

こうして考えてくると、からだのどこかに不調を感じているその時にはあまりにも自分自身の本当の声や感情を押し込んでいるため、自分でもわからなくなっていることが多いものです。が、その原因を精神レベルでよくよく考えて紐解いてみると、案外とその症状の改善につながっていく道筋が見つかるのではないでしょうか。

「もしあなたが健康を望むのなら、あなたは病気の原因を取り除くための心の準備ができていなくてはならない。その時、はじめて、私はあなたを助けることができる」というのはピポクラテスの言葉です。

古来、多くの賢人が、自身の顕在意識より体の方が正直であり、これが実は心の病いをも表しているという意味のことを述べています。

「心の準備ができていなくてはならない」というのも、深い意味がそこにはあるように思います。病気というのは、自分たちの心から来ているものだと気づくことで、それを治すための準備を行い、その上でじっくりとこれに取り組むことで、自分自身を助けることができるのです。

自己犠牲とてんでんこ


最近、テレビでは、頻繁に野党の再編に関するニュースが流れています。

中でも、みんなの党の分裂問題がよく取り上げられ、江田憲司前幹事長らと渡辺代表の不仲が報道され、ワイドショーなどではこの話題の裏面を面白おかしく流しています。

江田氏らは、離党届を提出し、年内に新党を結成する考えのようで、民主党、日本維新の会の一部議員とも連携を強めており、今回の新党結成が将来の野党再編につながる可能性もあるようです。

みんなの党を去るにあたって、江田氏は「みんなの党は結党の原点を忘れて変わり果てた。自民党にすり寄る動きも見られる。もはや将来はない」と渡辺喜美代表の党運営を痛烈に批判。

これに対して渡辺代表は都内で記者団に対し「江田氏の新党準備行為は反党行為だ。党を出ていっていただく」と強調。しかも江田氏の離党届を受理せず除籍とし、江田氏に同調する比例代表選出議員には議員辞職による議席返上を求める考えを示しました。

「みんな」というからには強い友情で結ばれ、固い結束を持って作られた党かと思っていましたが、これではみんなの党どころか、「オレオレの党」です。

ま、政党なんてものは昔から分裂と合体を繰り返して形を変える歴史を繰り返してきたわけなので、主義主張が異なれば袂を分かつこともあるでしょう。

ただ、それぞれ自分たちは正しいと思っているかもしれませんが、我々からみれば仲間割ればかりを繰り返しているだけに見え、肝心の政治が見えません。いつまでたっても自民党と対等に渡り合える安定した野党というものができないことに、国民が苛立ち、呆れかえっていることぐらいは気が付いて欲しいものです。

ところで、この「友情」とはどういう定義になっているのかな、とウィキペディアで調べてみたところ、これは「共感や信頼の情を抱き合って互いを肯定し合う人間関係、もしくはそういった感情のこと」と書いてありました。

友達同士の間に生まれる情愛のことで、しかしそれはすべての友達にあるものではなく、「自己犠牲」ができるほどの友達関係の中に存在する、とも書いてあります。

友情で結ばれた「友達」は互いの価値を認め合い、相手のために出来ることをしようとするものでしょう。友情は、互いの好感、信頼、価値評価に基づいて成り立っているもの、という定義は誰でも納得できるものはないでしょうか。

しかし、真の友情を育むことができる友達というのは、友達の中でも特に親しい人間でしかなく、しかも自分を犠牲にしてまでその友情を維持できるか、と考えると、なかなかそういう友達を得るのは容易ではありません。私にもそういう友達は数えるほどしかいません。いや、ひとりもいないかも。

じゃあ自己犠牲とはいったい何なのよ、ということなのですが、辞書を引いてみたところ、これは「目的達成のために自己の利益や時に生命までも捨てて挑んだり行動したりすること」だそうです。

一般に、何かを自分よりも優先させるという行為をする場合には、自分を捨て去る必要があります。しかし、それが簡単でないからこそ、自分を捨ててまで相手を助けるというその行動は感動され、時には賞賛されます。

こうした行為は人間だけでなく動物にもみることができるでしょう。動物の場合は特に親子愛が強いものが多く、子供が危機に瀕したとき、身を捨ててまでこれを助けようとします。

とくにゾウは仲間意識が強いことで有名で、たとえ親子でなくても助け合います。今年インドで群れの1頭が列車に轢かれて命を落とす事故が起きたとき、仲間のゾウ15頭が現場付近に居座り出し、身を挺して人間に怒りを見せる集団行動を見せたそうで、これにより鉄道や周辺の家に被害も出たそうです。

無論、こうした行為は古くから人間にもみられ、これによって人類の歴史の一部が形成されてきたと言っても過言でもなく、自己犠牲は宗教によっても高貴なものだと位置づけられてきました。

般若心経では自己犠牲とは自己を放棄することで、「自我を捨て、無我になる」すなわち自分以外のもの、普遍的世界だとしています。法華経でも自分の利益を犠牲にして他人の利益を図る「利他心」は当然の真理とし、これほど尊いものはないと教えられています。

また、ご存知キリスト教では、約2000年前、イエス・キリストが人類の罪を身代わりに受けるために十字架に架かったことから自己犠牲は愛だとされています。ヨハネ福音書にも「友の為に命を捨てる以上に大きな愛はない」と書いてあるとおりです。

ただ一方で自己犠牲は、「自分さえ我慢すれば良い」と同義だとも考えられ、これが過ぎると自己を壊してしまうといった面もあるでしょう。

自分を潰してしまってまで人に恩義を与えることができるか、と問われるとうーんと唸ってしまいますし、何やら自虐的な行為にも思えます。

人間だけでなく、動物は一般に、まず自己の生命が大事ですから、基本的に利己的なものであり、自己犠牲は誰しもができることではありません。それゆえに、一見、自己犠牲は、貴い行動であるように見えます。

しかし、貴いものであるとされる一方で、必ずしも他者のためにのみ行われる行為ではないという見方もあり、むしろ自分のために行う行為なのではないかという人もいます。

自己犠牲という行為に及ぶ場合、実は他人のために犠牲になっている自分が愛おしいというナルシスティックな自己満足、言い換えれば自己陶酔に浸っているという側面があるのではないでしょうか。

自己犠牲することは実は自分が愛しいという現れでもあり、それゆえに、普段は自己の利益ばかりを追求しているのに、一転そうした本能に反する行動にも踏み切ることで、むしろその行動に陶酔し、自分はエライ!と褒めてやることができるというわけです。

非常に矛盾しているというか、繊細なというか、解釈の難しい問題です。

それゆえか、この自己犠牲というテーマは芸術作品の対象として良くとりあげられ、古今多くの小説や戯曲、映像などが造られてきました。

文芸作品としては、これをテーマにした作品として、私的には山本周五郎、三浦綾子といった作家の作品がすぐに思い浮かびます。

山本周五郎では「樅の木は残った」が有名であり、三浦作品では、「塩狩峠」などがあります。ほかにも宮沢賢治の作品に、「よだかの星」「グスコーブドリの伝記」などがあります。

よだかの星というのは、「よだか(ヨタカ・夜鷹)」という種類の鳥が、自分が生きるためにたくさんの虫の命を食べるために奪っていることを嫌悪して、生きることに絶望する、という話です。

太陽へ向かって飛びながら、焼け死んでもいいからあなたの所へ行かせて下さいと願いますが、太陽には、お前は夜の鳥だから星に頼んでごらんと言われ、星々にその願いを叶えてもらおうとします。しかし、相手にされず、居場所を失い、命をかけて夜空を飛び続けたよだかは、いつしか青白く燃え上がる「よだかの星」となる……というストーリーです。

自分が死ぬことで多くの虫の命が救われるというところが、自己犠牲の象徴ということのようで、宮沢賢治が25歳のころに執筆し、賢治が37歳で亡くなった翌年の1934年(昭和9年)に発表されています。

また「グスコーブドリの伝記」というのも、イーハトーブ(宮沢の言う理想郷)の森に暮らす樵(きこり)の息子が、身を挺して火山噴火を食い止め、イーハトーブを飢饉から救う、というお話です。こちらは賢治の代表的な童話の一つであり、生前発表された数少ない童話の一つでもあります。

山本周五郎の「樅の木は残った」は、江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にしています。この騒動によって徳川幕府から伊達藩をお取り潰しの憂き目になりそうになるところを、家老の一人が自らが悪人の汚名を着てこれを食い止める、という話です。

史実に基づいてはいるものの、現実にはなかった話も交えて山本周五郎がフィクションとして完成させた小説ですが、歴史物としては大ヒットし、1959年には毎日出版文化賞をも受賞しました。周五郎作品の中でも最も多く映像・舞台化されているひとつです。

一方の三浦綾子の塩狩峠もまた、多少の脚色をしていますが、こちらはほぼ史実を踏襲しています。小説の主人公の永野信夫は実在の人物でクリスチャンであり、本名は長野政雄といいました。国鉄の前身である鉄道院の職員だった人で、1909年(明治42年)2月28日、ここ塩狩峠に差し掛かった旅客列車にたまたま乗り合わせていました。

小説のほうでは、主人公がある女性と結納を交わす予定だった当日、名寄駅から鉄道で札幌へ向かう途中、塩狩峠の頂上にさしかかろうという時にこの事故が起こったことになっています。

おそらくは結納というのは話を盛り上げるための脚色で実際にはそうした事実はなく、しかしこのとき長野政雄がこの列車に乗っていたというのは事実で、この日、彼が乗る最後尾の車両の連結部が外れるという事故が起きました。

長野は乗客を守るため、咄嗟に列車を飛び下り、暴走する客車の前に身を挺して暴走を食い止め、彼の身を挺したこの行為によりこの列車に乗っていた他の乗客全員の命が救われました。

鉄道院職員だった彼のこの行為は、この当時大きな反響を呼び、事故死ではありましたが、長野はこれにより殉職扱いになりました。現在、塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅近くには、顕彰碑が建てられており、また塩狩峠記念館、文学碑なども建てられています。

この小説は、1973年に松竹によって映画化もされています。さらには小説版の話を元に埼玉県が、これを簡約し、小学校の道徳の教科書に「かけがえのないきみだから」として掲載しており、美談として全国的にも著名になりました。

ちなみに、この塩狩峠は、当初は全国でも有数の難所の一つでしたが、後年改良され、現在では曲線、勾配とも緩やかな峠となっています。

こうした自己犠牲についての小説を書いた三人はそれぞれ、宗教活動に熱心でした。

宮沢賢治は法華経の信奉者であり、山本はキリスト教信者でしたし、三浦綾子もキリスト教信者であったことは有名です。夫の三浦光世も洗礼を受けており、アララギ派の歌人でした。

1999年(平成11年)に三浦綾子が亡くなったあと、その夫婦愛を綴った著作を出版しています(「妻と共に生きる(2000年)」「妻 三浦綾子と生きた四十年(2002年)」など)。

ちなみに、三浦綾子にとってはこの光世との結婚は二度目であり、先夫は肺結核で亡くなっています。ところが、この光世は先夫その容貌が非常に似ていたそうで、彼女が初めて光世と出会った時、死んだはずの前夫が生き返って目の前に現れたかと思うほど驚いたというエピソードが残っています。魂の上での出会いだったのでしょうか。

この塩狩峠と似たような話は、のちの昭和時代にも起こっています。長崎県西彼杵郡時津町(旧時津村)に地蔵菩薩が安置された「打坂地蔵尊」という場所がありました。ここでもやはり乗客・運転士の命を救い、殉職したバス車掌がいました。

1947年(昭和22年)年当時の打坂は現在より勾配がきつく、しかも片側が深い崖になっており、運転手からは「地獄坂」と恐れられた難所でした。

戦後すぐの当時のバスは現在のようなディーゼルエンジンではなく、木炭バスとよばれる木炭を代替燃料に使用したバスでした。走行中にエンジンが停止することも多かったので、坂道では乗客が降りてバスを押すこともあったといいます。

1947年(昭和22年)9月1日、大瀬戸(旧大瀬戸町)発長崎行きの路線バスのエンジンがこの場所で停止しました。運転手はブレーキをかけようとしましたが故障しており、そのままバスは坂を後退していきました。

バスを降りて止めるように指示された車掌は「鬼塚道男」といい、石を車止めにしようと試みたものの、加速がついており、多くの客がバスに乗っていたため、バスは石を乗り越えてしまい、崖まであとわずかというころまで迫りました。

その時、鬼塚車掌が自らバスと車輪の間に潜り込み、崖まであと数メートルというところで自分の体を輪止めにしてバスを止めました。乗客・運転士は全員無事でしたが、鬼塚車掌は搬送先の病院でわずか21歳というあまりに短い生涯を終えました。

現「さいかい交通」となった、長崎バスはこのときの鬼塚道男車掌を称え、27年後の74年(昭和49年)には事故現場付近に記念碑を建立しています。

さらに我々の記憶に新しいところでは、2000年(平成12年)に起こった鉄道事故でも運転手の自己犠牲が話題になりました。

12月17日13時ごろ、京福電気鉄道永平寺線の永平寺発東古市(現在の永平寺口駅)行き上り列車がブレーキ破損により分岐駅である終点の東古市駅に停車できず冒進し、越前本線の福井方面に分岐器を割り込んで進入しました。

この結果、越前本線の福井発勝山行き下り列車と正面衝突し、上り列車の運転士1名が死亡、両列車の乗客ら24名が重軽傷を負いました。

ブレーキ故障後、当該列車の佐々木忠夫運転士(当時57歳)は、無線でブレーキ故障・停止不能を連絡しつつ、乗客に車両後部へ避難し、空気抵抗を増して減速させるために出来るだけ多くの窓を開けるように指示しました。

このため、列車は減速には成功したものの、衝突は免れず、下り列車に激突して先頭車両は大破しました。しかし、ある程度スピードを落とすことができたため、客車への被害は軽微で済み、乗客には1人の死者も出ませんでした。しかし、佐々木運転士は退避可能であったにも関わらず、衝突する最後の瞬間まで運転席に留まり、殉職しました。

ごくごく最近でも、今年の10月、横浜市緑区のJR横浜線の踏切で、倒れていた男性74を助けようとした会社員の村田奈津恵さん40歳が電車にひかれて亡くなったことは記憶に新しいところです。

この献身的な行動は多くの反響を呼び、その勇気を称える声が日本中に湧き上がり、先月、安倍晋三首相は「勇気をたたえる」とした内容の書状を遺族に贈っており、これに先立ち県と横浜市も知事と市長の名で「感謝状」を贈っています。

このように自己犠牲の話となると、やたらに鉄道が目立つのですが、無論、鉄道だけのことではありません。

今年の9月には、台風で増水した淀川に転落した9歳の男児を救助した中国人留学生が警察から感謝状を贈られ、先月には首相官邸に招待されて総理から感謝状をもらっています。このように鉄道事故だけでなく、水の事故では、溺れようとする相手を助けるために、自らも海川に飛び込み、自らの命を落とすというケースが毎年のように起こります。

水難の話としては、有名な話で「稲むらの火」というのもあります。1854年(安政元年)の安政南海地震津波に際しての出来事をもとにした物語で、地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説いたものです。

小泉八雲の英語による作品を、翻訳・再話したものが1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載され、防災教材として知られるようになったもので、現在もリメイクされ教育界や防災関係者から高く評価されています。

もとになったのは紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)での出来事で、主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)という実在の人物です。

濱口梧陵は、幕末の文政3年(1820年)に、紀伊国広村(現・和歌山県有田郡広川町)で紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男として生まれました。のちの実業家・社会事業家・政治家であり、雅号として「梧陵」を名乗りました。

12歳で本家(濱口儀兵衛家)の養子となって、銚子に移り、その後、若くして江戸に上って見聞を広め、開国論者となっています。海外留学を志願していましたが、開国直前の江戸幕府の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して数々の事業を営んで成功させました。

家業で醤油醸造業を営む「濱口儀兵衛家」においてもここの当主となり、七代目濱口儀兵衛を名乗りました。この濱口儀兵衛家は、現「ヤマサ醤油」であり、濱口儀兵衛はこの大会社の礎を築いた人でもあります。

成功後には、地元の子女の教育にも尽力しており、広川町では現在でも偉人として称えられています。嘉永5年(1852年)には、同業の濱口吉右衛門・岩崎重次郎とともに広村に稽古場「耐久舎」を立てており、これは現在の和歌山県立耐久高等学校となっています。

この濱口梧陵をモデルとして小泉八雲によって創作された物語、「稲むらの火」のほうは、実際の話を加工し、多少脚色してあります。

原作のストーリーとしては、村の高台に住む庄屋の「浜口五兵衛」が、地震の揺れを感じたあと、海水が沖合へ退いていくのを見て津波の来襲に気付きます。祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明で火をつけました。

火事と見て、消火のために高台に集まった村人たちの眼下で、津波は猛威を振るいますが、五兵衛の機転と犠牲的精神によって村人たちはみな津波から守られた、というものです。

小泉八雲は、この小説の英語表題を “A Living God ” としており、彼としての原題の意味は「西洋と日本との神の考え方の違いについて」であり、必ずしも自己犠牲がテーマではありません。人並はずれた偉業を行ったことによって「生き神様」として慕われている濱口梧陵を通して日本人の神に対する考え方を表現したかったようです。

この小説を書こうとした小泉八雲は、作中にも触れられている明治三陸地震津波における紀伊国広村(広川町)の惨状をたまたま聞き、この作品を執筆したと推測されています。

津波の描写に関する部分は、又聞きによって書かれたためか、地震の揺れ方や津波の襲来回数など、史実と異なる部分も多いそうで、また小泉作品では「地震から復興を遂げたのち、五兵衛が存命中にもかかわらず神社が建てられた」とされていますが、これも誤りのようです。

このように「稲むらの火」は濱口儀兵衛(梧陵)の史実に基づいてはいるものの、実際とは異なる部分が多いようで、その後これをもとに翻訳した小学校向けの教本本(国定教科書)もこうした間違いをあえて踏襲したようです。

史実と物語の違いは教本としての採用時にも認識されていたようですが、五兵衛の犠牲的精神という主題と、小泉・中井による文章表現の美しさから、安政南海地震津波の記録としての正確性よりも教材としての感銘が優先されたようです。

英語で書かれた小泉八雲の原本をこうした小学生向けに最初に再話・編集したのは、地元広川長の小学校の先生だった、「中井常蔵」という人です。

昭和の初めに文部省が、小学校の国語の教科書に載せる文章を初めて民間から公募した際、この募集を知った中井は、郷土の偉人、浜口儀兵衛の事績を八雲の作品をもとにして、短く、小学生でも分かるように再話したものを書き上げました。

そして、文部省応募したところ、採用され国語読本として長い間読まれるようになったもので、現在は学校だけでなく、地方行政においても防災教材として配布されています。市町村の役場に置かれているパンフレットに漫画入りで掲載されているこの物語を手に取って見たことがある方も多いのではないでしょうか。

小泉八雲の原作を忠実に踏襲したこの作品はまた、実在の人物だった濱口儀兵衛(梧陵)の人物像や実際に取った行動とも異なる部分も多く、そうした相違点は、ストーリーの根本に関わる部分にも存在します。

例えば農村の高台に住む年老いた村長とされている五兵衛に対して、史実の儀兵衛はこの当時既に地元では指導的な商人と目されてはいましたが、まだ若干35歳に過ぎず、住んでいた家は海岸近くではなく、町中にありました。また、儀兵衛が燃やしたのは稲穂のついた稲の束ではなく、脱穀を終えた藁の山でした。

こうした、藁山のことを紀伊地方では「稲むら」と呼ぶことがあるといい、これが「稲むらの火」のネーミングの由来ですが、実際には脱穀処理済の藁にすぎず、これに火をつけたというのが事実のようです。

また、儀兵衛が火を付けたのは津波を予知してではなく、津波が来襲してからであり、暗闇の中で村人に安全な避難路を示すためだったそうです。従って、刈りいれたばかりの稲穂に火をつけてまで村人を救ったというのは、多分に脚色された美談といえ、実際に自分の利益を失ってまでみせた犠牲的行為だったとはいいきれません。

にもかかわらず、濱口梧陵が地元の人に「生き神様」として慕われているのは、被災後も将来再び同様の災害が起こることを慮り、私財を投じてここに防潮堤を築造した点です。これにより広川町の中心部では、昭和の東南海地震・南海地震による津波に際しても被害を免れました。このことは「稲むらの火」には描かれていません。

この広村堤防と呼ばれる堤防は和歌山県有田郡広川町に現存し、国の史跡に指定されるとともに防潮堤としても機能しています。

広川町は、紀伊半島南西部に位置し、太平洋に面しているばかりではなく、湯浅湾の最奥部に位置するため、古くから津波で甚大な被害を何度も受けてきた場所です。

この対策として、室町時代に、ここを治める豪族の畠山氏が堤防を築きいたりもしましたが、その後、安政元年11月5日(1854年12月24日)には、いわゆる「安政の大地震(安政南海地震)」が勃発し、広村(現広川町)の339戸に大きな被害をもたらしました。

津波襲来後、村内は大混乱に陥ったようですが、このとき濱口梧陵は大量の藁の山に火をつけ、これを目印として避難路を住民に示し、襲来する津波二波、三波から村人を救いました。

これにより、このときの村の被害は、流出家屋125戸、半壊家屋56戸でしたが、死者に関しては、安政の大地震時の被害を大きく下回る30人に抑えることができました。

その後、地震から教訓を得た梧陵は、同志と大堤防の築造を計画し、安政5年(1858年)に約3年10か月もの歳月を費やした大堤防広村堤防を完成させました。堤防の完成と同時に植えた黒松とハゼノキの防潮林は、昭和21年(1946年)の昭和南海地震の際には、津波を食い止め、集落を守るという重要な役割を果たしました。

こうした功績を称え、昭和8年(1933年)には、広村堤防の傍に濱口梧陵の偉業と徳を讃える「感恩碑」が立てられ、以後、毎年11月に碑の前で津浪祭が行われているそうです。畠山氏の築いた古い堤防もまた広村堤防とともに保存され、コンクリートで補強されて現在も津波防災対策に活用されています。

このように、脚色されたストーリーではありますが「稲むらの火」においてもまた、自己犠牲が、多くの人を救ったとされています。しかし、一昨年に起こった東日本大震災に伴う津波災害のような、1000年に一度と言われるような大規模な天災においては、必ずしもこうした自己犠牲だけでは多くの命を救えませんでした。

「津波てんでんこ」ということばがあります。1990年(平成2年)に岩手県下閉伊郡田老町(現・宮古市)にて開催された第1回「全国沿岸市町村津波サミット」において、津波災害史研究家である山下文男らによるパネルディスカッションにおいて生まれた標語で、「命てんでんこ」という呼び方もあるようです。

山下文男(二年前の2011年に死去)は、日本の津波災害史研究家として知られていた人ですが、もともとは、日本共産党の中央委員会の文化部長も務めた人です。

晩年になってからは政党活動を引退して防災対策の活動などに身を投じるようになり、著書の「津波ものがたり」では「日本自然災害学会賞」功績賞を受賞し、このほか「平成15年度防災功労者表彰」なども受けています。

岩手県気仙郡綾里村(現大船渡市三陸町綾里)出身で、1896年の明治三陸津波では祖母ら親族3人を含む一族9人が溺死。彼が9歳のときの1933年にも昭和三陸津波に遭い、高台に登って難を逃れた経験を持ち、この時期の昭和東北大飢饉も体験している人です。

「てんでんこ」は、この地方で「各自」「めいめい」を意味する名詞「てんでん」に、東北方言などで見られる縮小辞「こ」が付いた言葉で、すなわち、「津波てんでんこ」「命てんでんこ」を直訳すると、それぞれ「津波はめいめい」「命は各自」という意味になります。

このため、「津波てんでんこ」「命てんでんこ」を防災教訓の用語として解釈すると、それぞれ「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」「自分の命は自分で守れ」ということにもなります。

津波などの災害の多いこの地方では、古くから「自分自身は助かり他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない」という不文律があったといい、この「てんでんこ」には災害後のサバイバーズ・ギルトをケアする効果や人間関係の修復の意味をも言外に含まれれていると考えられます。

サバイバーズ・ギルト(Survivor’s guilt)というのは、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のことです。

津波などの突然の災害では、自分が逃げるのが精いっぱいで、他人を助けることができず、このため事後深い罪悪感を感じる人が多いものです。

この「てんでんこ」という言葉は、非常に語呂よい響きを伴うこともあり、人によってはその意味を誤解し、他人にかまわず逃げろという、やや利己主義的な用語と受け取られてしまうという危惧もあります。

しかし、元々この言葉を防災の標語として提唱した山下文男氏は、この言葉には「自分の命は自分で守る」ことだけでなく、「自分たちの地域は自分たちで守る」という意味が込められていると主張しました。

緊急時に災害弱者(子ども・老人)を手助けする方法などは、地域であらかじめの話し合って決めておくよう提案し、そうした事前の準備の励行も含めて「てんでんこ」という言葉を流行らせようとしたのです。

つまり、この標語の意味は「他人を置き去りにしてでも逃げよう」ということではなく、あらかじめ互いの行動をきちんと話し合っておくことで、離れ離れになった家族を探したり、とっさの判断に迷ったりして逃げ遅れるのを防ぐことを第一に考えよう、ということになります。

山下がこの言葉の理解を広めようとしたきっかけとしては、1993年の奥尻島での津波における近藤家母子の悲劇があり、これを自身による公演やその著作でしばしばとりあげ、津波被害の象徴的な例として挙げています。

この事例は、手をつないで避難していた母子3名が、途中で祖母の家に立ち寄ったため、わずかな時間差で命を落としたというものです。しかも、このときこの祖母がすでに避難していたのにも関わらず、それを知らずに3人は尊い命を落としたのでした。

山下は、母がわが子を連れ立って逃げたにもかかわらず、その際に祖母を救おうとして命を失ったという痛ましいこの話から、人の命を救うということの意味の重要性、むずかしさをつくづく考えさせられたと述懐しています。

こうして生まれた「津波てんでんこ」は、災害時の行動スキームを事前に地域で共有することを唱えた防災思想です。

「ばらばらに自分だけでも逃げる」という行為は、その意志を共有することで互いを探して共倒れすることを防ぐための約束事でもあります。これは、自分が助かれば他人はどうなっても良いとする利己主義とはまったく異なる発想です。

自己犠牲のもとに人を救うことはできる。しかし、それで自分が死んでしまっては意味がない。こうした大災害時には、人には構わず、まず逃げる。そうした考えをあらかじめ共有しておくことによって、自己犠牲によるよりももっと多くの人を救うことができる、という呼びかけでもありました。

やがてこの山下が提唱したこの標語は、防災の意識を高めるものとして使われるようになり、1990年以降は、東北地方では多くの人が意識するようになっていきました。

1990年に岩手県田老町で開催された「全国沿岸市町村津波サミット(第一回)」において山下氏はこの用語に関連して、さらに次のような自分の家族に関するエピソードを語っています。

山下が9歳のころ(1933年)の昭和三陸津波で発生しましたが、このとき彼の父や兄弟は末っ子の彼をひとり置き去りにして逃げたそうです。山下の母は、後年、このときの父親の非情さを度々なじり、これに対して山下の父はその度ごとに、「なに!てんでんこだ」と反論したといいます。

彼によれば、この当時はまだ皆々が自分で逃げるという意味での「てんでんこ」という言葉は広くは浸透していませんでしたが、このころ既に山下家では、有事の際にはそれぞれが勝手に逃げる、という行為を表すことばとしてこれを合言葉にしていたそうです。

この三陸津波の際、山下の友人の多くもまた同じように置き去りにされたそうで、このころ山下家だけでなく、彼らが住まう集落内でも「てんでんこ」ということばはありませんでしたが、「津波のときにはまず各々が逃げることが大切」という行動規範は浸透していたといいます。

このため、山下の父もまた「こういうときは、みんなバラバラに逃げるものだ」ということを「てんでんこ」と表現したのですが、さすがに奥さんには幼い子供を置いて逃げた父親のこの行為を受け入れがたかったのでしょう。

あるいは、山下の母は他の場所から嫁いできたため、こうした考え方を受けいれることができるには、少々日が浅かったのかもしれません。

その後、このように山下が各種の公演やサミットで語ったエピソードが徐々に注目されるようになり、彼の講演への参加者や地震・津波災害に関する有識者らとのやりとりのなかで、「津波てんでんこ」は人々の間に次第に浸透していきました。

ちなみにこの頃の有識者とは、広井脩、阿部勝征、津村建四朗、伊藤和明、渡部偉夫といった地震や津波などの災害対策に造詣の深い専門家たちです。

広井脩元東大教授は既に亡くなっていますが、阿部勝征さんは大規模な地震災害が起こるたびにNHKなどに引っ張り出されており、私がかつて所属していたことのあるNPO法人の副理事長でもあります。広井教授は、生前ここの理事長でもあり、災害情報学においてはこの道の権威でもありました。

こうしてその後は、北海道南西沖地震(1993年)や北海道十勝沖地震(2003年)などで津波の被害が出るたびに、「津波てんでんこの話が被災地にもっと普及していれば……」とマスメディアに標語が取り上げられることも多くなっていきました。

2003年9月27日の朝日新聞の社説には、「三陸沖やチリの地震で津波の被害に何度もあっている三陸地方には、津波てんでんこという言い伝えがある」書かれ、このためその後、この言葉はいかにも古い言い伝えであるというふうに人々が印象を持つようになってしまいました。が、無論これは誤解です。

とまれ、これが幸いし、朝日新聞のような全国紙でも取り上げられるようになったことから、その後この言葉は、東北地方を中心とした各地の小中学校などで、「古くから伝わる標語」として使われるようになっていきました。

2011年の東日本大震災で「釜石の奇跡」と呼ばれる事例では、この「津波てんでんこ」を標語に防災訓練を受けていた岩手県釜石市内の小中学生らのうち、当日学校に登校していた生徒全員が生存し、話題となりました。

このときこの学校のサッカー部に所属していた小中学生を中心としたグループは、地震の直後から教師の指示を待たずに避難を開始し、「津波が来るぞ、逃げるぞ」と周囲に知らせながら、保育園児のベビーカーを押し、お年寄りの手を引いて高台に向かって走り続け、全員無事に避難することができたといいます。

この市内における小中学校の防災教育を指導し、「釜石の奇跡」の立役者となったのが、群馬大学の工学部社会環境デザイン工学専攻の片田敏孝教授です。

その後のインタビューなどで片田教授自身もまた「津波てんでんこ」が古い伝承だと述べており、勘違いしていたようですが、これはおそらく山下氏の著作は読んでいなかったためと思われます。

が、「てんでんこ」が古い標語であるかどうかはあまり問題ではなく、この「津波てんでんこ」の考え方と片田教授の考え方が一致していたという点のほうが重要です。

片田教授は、小中学校の生徒を指導する際、具体的には、みずから状況判断して逃げること、災害弱者を助ける立場の者はあらかじめ明らかにしておくこと、家族はそれぞれ逃げると信じて行動することなどを指導しており、「てんでんこ」が持つ本来の意図とかなり近い考え方をもって防災教育を実践していました。

この片田敏孝教授は、防災研究者として関係者の中で最近めきめきと頭角を現してきている学者さんです。群馬大学工学教授として、主には自然災害に対する防災研究、とりわけ、津波災害におけるハザードマップの作成など自然災害のシミュレーションや、災害時の情報伝達などの研究を専門とされています。

特に、最近は「避難勧告を出しても避難しない人たち」に対する対策の立案研究にも取り組んでおり、岩手県釜石市の防災・危機管理アドバイザーでもあります。

私も防災関係の仕事をときたまやっていることから、論文をいくつか読ませていただいているのですが、その内容は機知・示唆に富み、行政の間違いもビシビシと指摘し、民間の災害防災に対する甘さについても苦言を呈するなど、両方からも定評があります。私のような凡才が言うのもなんですが、優れた学者さんだとだと思います。

ただ、「てんでんこ」を提唱した山下氏と片田教授の両者の考え方には、若干の相違点があります。それは、率先して逃げる行為の捉え方です。

山下は、率先して逃げる者が避難を促すというポジティブな面を捉えてはいますが、まず一人逃げるという行為は、最善の災害対策を考えた際にはやむをえない部分もあるものの「哀しい教え」であると評価していたようです。

しかし、片田教授はこの点については容赦なく、何が何でも避難が優先というポジティブな捉え方を徹底しています。

現実にはほとんどの津波警報が杞憂に終わる中、率先して逃げた者が「臆病者」というレッテルを受けやすいことを踏まえ、「それでも最初に誰かが逃げることで他者も続き、救われる命があるので、後ろ指さされる可能性を知りながら率先して逃げる者こそ本当に勇気がある者だ」という立場で生徒たちを指導しています。

釜石の奇跡においても、最初に率先して逃げ出したサッカー部の生徒を大きく評価しており、片田教授から「津波てんでんこ」学んでいたがゆえに、即座に避難行動に移る上での心理的ハードルが低かったのではないかとし、今後ともこうしたハードルを日常的に取り除いていく工夫が必要だと述べています。

この点が、一人で逃げることは「哀しい行為」と評価した山下とは異なる点です。しかし、山下氏もかつて父親に先に逃げられて取り残された悲しい経験をしており、てんでんこ自体もその経験をもとに編み出した標語です。「哀しい」とはあくまで感想であり、そうした感情は抑えても、やはりまずは逃げ出すことが第一、と考えていたに違いありません。

いずれにせよ、こうして2011年の東日本大震災の「釜石の奇跡」をきっかけに再びこの「津波てんでんこ」という言葉がマスメディアに評価されるようになってきており、防災教育の標語として全国的に普及していこうとしています。

ただ、その道のりは、まだ過渡的であり、当事者の三陸地域の人々においてすら本来の意味とは違った「利己主義的な発想」との誤解が蔓延している状況があるようです。いずれはこうした考えを払しょくし、全国的な広がりを持った標語として定着させていくべきでしょう。

多くの命を救いたいと考えるのは皆同じです。が、自分の命もまたその大勢の命の中のひとつであるということを忘れてはいけません。大声で叫びながら自らが率先して逃げる。そのことで自分も救われ、他も救われるという考え方が標準となれば、自らも楽だし、サバイバーズ・ギルトもなくなっていくのではないでしょうか。

さて、皆さんは、どうお考えでしょうか。

旅にしあれば


今年もあと20日あまりとなりました。

毎年のことながら、この時期になるとせわしいながらも何かワクワクしたかんじがあり、妙に心豊かな気分になるのは、今年一年間を無事にすごせた安堵感からくるものなのでしょう。

加えて来年からの新しい一年への期待感もあるでしょうし、年末年始の比較的長い休みを家族と過ごせる幸せ、またこうした機会に普段はあまり会うこともない親戚や友達に会える喜びもあるからでしょう。

私たち夫婦の場合、去年は引っ越して最初の年末だっただけに、家の中も何かと片付いておらず、落ち着かないかんじでしたが、今はほぼ片づけも終わり、お気に入りのインテリアの整備も終わって、ようやく「我が家」になったな、と感じながら迎える年末でもあります。

来年のことを言うと鬼が笑うといいますから、来たる年に何をやろうとか抱負はまだ何も考えていませんが、ここ数年の家の売り買いにまつわる騒動やら引っ越し騒動から解放された今、来年は少しまとまった時間をとってゆったりと旅行にでも出たいなと思ったりしています。

旅にも色々あって、一人旅、家族旅行、などの単数で行くか複数かだけでも旅の目的は変わってきますし、修学旅行、商用旅行、研修旅行、取材旅行、慰安旅行、帰省旅行などなどの目的によっても旅の主旨は変わってきます。

無賃旅行、ヒッチハイクも旅に違いはなく、こうした自分ではお金をかけず、行く先々での人々の行為に甘える形の旅は、昔の修験道者の旅に代表されるように日本の文化のひとつと考えてもよいかもしれません。

最近では「マイル修行」などというものが流行っているようです。

これは、1990年代中頃、当時の円高を反映して航空券が割安になって気軽に海外旅行に行く人が増えてきたことを背景に、米国系の航空会社が始めたサービスに起因してはやりはじめたものです。

例えば、日本~ニューヨークなどのエコノミークラスで2往復すれば、東京~バンコクなどで自社の運航するアジア都市間をビジネスクラスで飛ぶことができる特典が与えられることなどを利用します。マイレージ数によってはエコノミークラスでの運賃がほぼ無料になる区間もあるようです。

この点に着目した旅行者達の間で、近距離特典旅行の獲得を目的として長距離の太平洋路線を閑散期の格安運賃で利用することが流行しはじめましたが、エコノミークラスでの長距離旅行は時間的・身体的に負担がかかります。短期間に多回数飛行機に乗り続ける上、体力と時間を消耗するなど心身の苦痛も伴う上、当然初期投資のお金もかかります。

しかし、その旅行の目的地での観光や用事には大きく執着せず、その過程で得られたマイルや上級会員資格に大きな価値を見出す、というこれまでにない旅行のスタイルであり、お金や時間は二の次というこうした旅行をする人を修行僧に例えて「マイル修行」と呼ぶようになったようです。

1997年に日本航空や全日本空輸がそれまでのポイントプログラムを改良してマイレージサービスを始めると、日本国内線でも同様の行為が見られるようになり、現在、ネット上には「修行僧」が情報交換する掲示板が幾つもあり、かなりの人数がいるようです。

私自身、その昔はビジネスマンとして日本中を駆け回っていたので、飛行機の利用は多く、とくに東京から北海道への出張が多かったので、マイレージはよく貯まりました。それを使っての家族旅行なども何度かしたことがあります。

同様に、こうしたマイル修行をする人は、一般人ばかりではなく、遠距離の往復搭乗をすることの多いビジネスマンの間でも結構流行っているのではないかと思います。

マイレージを増やすために、例えば行き帰りとも同じ航空会社を使う、経由地点を増やして搭乗回数を増やす、搭乗時間が短い路線を数往復して搭乗回数を増やす、などのテクニックを駆使してマイレージを貯めるひともいるようです。私は忙しかったのでさすがにそこまではやりませんでしたが……

それにしても、旅とは一体何か、と考えたとき、その定義は、住む土地を離れて、一時的に他の場所へゆくことでしょう。このため、買い物、通勤などのために連日同じ場所へ往復する移動は当然ながら含まれません。

有名な民俗学者の柳田國男によれば、旅の原型は奈良飛鳥時代ころに中国から導入された租税制度である租庸調を京に納めに行く道のりのことだったそうです。

食料や寝床は毎日その場で調達しなければならないものであり、道沿いの民家に交易を求める(物乞いをする)際に、「給べ(たべ)」「給ふ(たまう)」といっていたらしく、この「たべ」が「旅」に変わっていったといいます。

しかし、無論、旅そのものはもっと古くからあり、人類は狩猟採集時代から食糧を得るために旅をしていました。ただ、農耕が行われる時代になった後は一定の場所に定住することも多くなったことから、旅をすることは少なくなっていったようです。が、猟人、山人、漁師などは依然、食糧採集のための旅を行っていたようです。

またこうした人たち以外にも行商人や歩き職人もいました。当時は人口が少なく、一つの場所で商いをしていても仕事にならず、旅をして新しい客をつねに開拓するほうが効率的だったからです。

中世から近世にかけては店をかまえる居商人がしだいに増えてきたものの、慣習として相変わらず旅をする商人・職人も多かったようです。

例えば、旅の行商人としては富山の薬売りが有名であり、このほか、芸能民、琵琶法師、瞽女なども行商人とみることができるでしょう。

一方では、行政によって強制された旅も多く、前述のように古代では租庸調などの貢納品が運ぶための旅が計画されたほか、国防のために東国の民衆がはるばる九州まで防人として赴いたりしていました。こうした旅では、重い荷物を背負って長距離を歩かねばならず、途中で食糧もつき命を落とす者が絶えなかったといいます。

近世に入り、運送の専門業者が出現したことで、こうした貢納や国防のための強制された旅は激減し、やがて自由に自発的に行う旅が生まれ発展していきました。

しかし、平安時代末期までは道路の整備も進んでおらず、交通の環境は苛酷なまでに厳しかったので旅は苦しく、かつ危険でしたが、このように商売や国による強制以外にも苦難な旅をする人が出てくるようになり、それはほかならぬ信仰による旅をする人たちでした。

僧侶などは宗教上の強い動機により、修行や伝道のための旅をしましたが、これは公認されていた旅でした。が、一般人は理由もなく旅をすることは禁止されていました。このため、一般の人が旅行したいと思った場合には、宗教的な巡礼、神社仏閣への参拝であることを理由とすれば、そうした旅行は黙認されるようになりました。

こうして平安末から鎌倉時代は特に「熊野詣」などが盛んとなり、さらに室町時代以降は「お伊勢参り」が盛んになり、また西国三十三所や四国のお遍路さんなど、こうした宗教活動を理由とする旅のバリエーションはどんどん増えていき、ひとつの文化のようにさえなっていきました。

江戸時代に入るとそれまで徐々に発達してきた道路整備や、これに伴う交通施設・交通手段が飛躍的に整備されていきます。徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いに勝つと、翌年には五街道や宿場を整備する方針を打ち出し、20年あまりのうちにこれを実現しています。

移動手段としては、徒歩以外に駕籠や馬も広く使われてはいたのですが、足代(料金)が高いことから長距離においてこうした交通手段を使えるのは大名や一部の役人などに限られており、一般人でこれらを使えるものは少なく、使うとしてもほんの短い区間だけのことが多かったようです。

とはいえ、身分の上下を問わず旅行者はどんどん増えていったため、「宿場町」は次第に大きな集落になっていきました。宿泊施設である旅籠や木賃宿が置かれ、飲食や休息をとるための茶屋が作られました。身分の高い人達に馬や駕籠を提供する店や一般市民向けの商店なども立ち並ぶようになっていきます。

またこれに伴い、旅をしやすいように、貨幣も数十分の一~数百分の一の軽さのものに変わっていき、こうした銭を交換する「為替」も行われるようになり、より身軽に旅ができるようになっていきました。

また江戸時代以前に横行していた山賊や海賊も、徳川幕府の取り締まりにより影をひそめ、江戸300年の太平の間の旅行は、それまでと比較にならないほど安心で安全なものになっていきました。

航海技術も進歩し、北前船のような大量の物資が運べる大型の船も建造されるようになったことから、これに便乗する船旅もさかんに行われるようになり、瀬戸内海や琵琶湖・淀川水系、利根川水系などの波の穏やかな内海ルートが旅行用によく使われました。

しかし、旅行がさかんになったといっても、旅ができるのは武士や商人がほとんどであり、多くの農民は定住を強いられ、またその生活は単調で窮屈しかも暗いものでした。彼等もまた旅にあこがれましたが、各藩では稼ぎ頭が散逸することを恐れ、民衆が領内から外へ出ることを嫌い、おおむね旅行は禁止でした。

当時、幕府もまた、法律によって庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限を課していました。ところが、室町時代から流行するようになっていた「お伊勢参り」、すなわち、伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許される風潮がありました。

特に商家の間では、伊勢神宮に祭られている天照大神は商売繁盛の守り神でもあったため、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていました。

また、たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣をしてきた証拠の品物であるお守りやお札などを持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていました。

農民に関してもまた移動には厳しい制限があったといっても、伊勢神宮参詣の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしても黙認されるという風潮がありました。

とはいえ、こうした農民が長旅できるのは、「お伊勢講」などの仕組みがあってのことであり、しかもその機会は、一生に1度かせいぜい2度でした。このことは前に書いたブログ、
お伊勢講と無尽蔵に詳しく書いてあります。

このため、せっかく一生一度の旅に出たのだからということで、できるだけ多くの場所を見て回ろうとし、参詣をすませた後には京・奈良などで社寺の広大さに感嘆し、大阪では芸能浄瑠璃や芝居に酔った上で郷里に帰る人が多く、その際にもお伊勢さんのお札を持ち帰ればそれで許されたのです。

若者の中には宿場の遊女と遊ぶなどのハメを外すものまでいたそうです。ただ、お伊勢講などのシステムを利用しない限りはこうした旅行はできないわけで、神社参拝を理由とせずに長旅ができたのはかなり裕福な庄屋クラスの農民くらいでした。

農民に限らず貧しい人々の多くは領内を出ることを許されず、近場で我慢するのが普通でしたが、ともあれ、旅はそれ以前のように貴族や武士だけでなく、一般民衆によっても行われるようになったという点では、江戸時代は日本独特の「旅行文化」を育む上で貴重な時代となりました。

現代と比べて娯楽が少ない当時、旅の持つ意味ははるかに大きく、団体旅行と温泉好き、盛りだくさんの食事、大量のみやげ買いなど、今日にも伝わる日本人の旅の習慣も、ほとんどはこうした江戸期の庶民社会で発達したのです。

幕末から明治期の駐日イギリス外交官アーネスト・サトウはその著書「一外交官の見た明治維新」のなかで「日本人は大の旅行好きである」と述べています。

そしてその理由として、「本屋の店頭にはくわしい旅行案内の書物、地図がたくさん置いてある」ことなどを挙げています。これらの書物には、宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物などが詳しく記載されており、現在の旅行本と比べてもけっして引けをとるものではありませんでした。

近代になり、鉄道と汽船が利用できるようになると、一般人でも長距離の移動が楽にできるようになり、ますます旅はさかんになっていきました。

ちょうどこのころ、イギリスでは裕福な市民層の師弟の学業の仕上げとしての「グランドツアー」、すなわち家庭教師同伴の長期にわたる海外遊学が広く行われるようになり、それを世話する業者である旅行代理店が登場しました。

こうした流行が明治以降の日本に輸入され、現在もほぼ全国で実施されている小中高校の修学旅行になっていきました。1886年(明治19年)、修学旅行の嚆矢とも言われる東京師範学校の「長途遠足」が実施されましたが、これは東京から銚子方面へ11日間軍装で行軍するという、軍事演習色の強いものでした。

太平洋戦争後の日本では、1960年代の高度経済成長頃から企業の従業員による団体旅行、いわゆる「慰安旅行」が盛んになりはじめます。

目的地は大都会から数時間で行ける温泉地が多く、鬼怒川温泉、熱海温泉、白浜温泉などには「巨大」ともいえるような大きすぎる温泉旅館が立ち並び、それでもこれらの旅館は通年を通して満室になるほど繁栄して、観光客が町に落としたお金で、「温泉街」なるものが形成されていきました。

1970年代になると、各家庭はさらに豊かになり、このため息子娘にも自由に旅行をさせてあげられるほどの余裕が出てきました。

このため、若者の個人旅行が活発になり、長期間旅行をするための大きなリュックサックを背負った旅行者が日本各地に現れるようになり、この横幅の大きなリュックをカニに見立てて、彼等は「カニ族」と呼ばれるようになりました。

加えてオートバイに乗る若い男性も増え、ツーリングを行うようになり、こちらは「ミツバチ族」と呼ばれ、とくに北海道の大地は彼らの憧れでした。一方の若い女性たちの中には、雑誌を見て旅にあこがれる「アンノン族」が現れ、京都や軽井沢や中山道の妻籠宿などのおしゃれな旅先に大挙して押しかけました。

さらに1970年代後半以降は飛行機の料金がぐんと下がり、このため飛行機による旅行も大衆化し、北海道や沖縄県といった遠隔地へも気軽に行けるようになりました。また1969年の東名高速道路の全線開通以降、各地の高速道路の開通・延伸も相次ぎ、このころから自動車は一家に一台、といういわゆる「マイカー」を持つ人が増えました。

人々は普段の生活だけでなく、旅行にも自家用車を利用するようになり、「車社会」を意味する「モータリゼーション」ということばが使われるようになったのもこのころからのことです。

1970年代頃からは、円高のせいもあり、国際航空運賃も庶民が手を出せるほどまで下がったため、海外旅行も手軽に行けるようになっていきました。中高年男性の「売春旅行」が社会問題化したのもこのころのことです。1980年代後半にはバブル景気および円高を背景に海外旅行者が激増したことで、旅行産業も急成長をとげ、絶頂期を迎えました。

90年代前半まで海外旅行者数は前年度の記録を更新し続けていましたが、その後バブルがはじけたのを機会に日本の海外渡航者は減少を続け、渡航する場合でも韓国や東南アジア、台湾、中国などの近隣諸国が中心となりました。

各地で開発が進められていた観光リゾート開発はなりをひそめ、こうした開発にお金を出資していた旅行会社や不動産業者は大打撃を受け、旅行産業界は大不況に陥っていきました。

その後長らく不況によって、海外旅行者数は伸び悩み、平成8年(1996年)ごろから一昨年くらいまではだいたい1600~1700万人くらいの水準で推移していました。ところが、おととしくらいから円高のためもあり、海外旅行客が増え始め、昨年はついに1800万人を超え、1900万人に限りなく近づいています。

国内旅行のほうも、こうした好調な海外旅行に牽引されてか、今年2013年夏の国内旅行者数は7600万人と、前年比+2.2%となり、この時期の調査結果では過去最高だったようです。東日本大震災の影響もここにきて、ようやくなくなりつつあるようです。

これは、2010年に、東北新幹線の八戸~新青森・2010年間が開業、2011年にも九州新幹線鹿児島ルート(博多~新八代)が全線開業、北陸新幹線も部分開業し、残った区間や未開業の北海道新幹線なども工事が次第に進みつつあることなどとも無関係ではないでしょう。

最近は長引いた不況にもようやく陽射しが当たるようになってきた感があり、このような日本人による国内外の旅行者数の増加はさらに続いていく、という分析もあるようです。

こうした最近の旅行ブームの再臨は、鉄道や航空機利用の旅行と自家用車による旅行に二分化している傾向にあります。

ただ、旅行の形態は多様化しており、スピードを重視する新幹線や飛行機はむしろ敬遠される傾向も出てきています。先ごろJR九州が提供を開始した高級寝台列車「ななつ星」や、飛鳥やにっぽん丸といった豪華客船の予約者はかなり先まで一杯だといいます。

各観光地でもまた独自の特徴を打ち出して集客に努めはじめており、最近のテーマはやはりなんといっても「癒し」のようです。

この「癒し」という言葉はバブル崩壊後、1997年に消費税5%の増税とアジア通貨危機の発生で大不況が更に深刻化した事がきっかけで一般人の心が完全に荒れたり病み始めた頃から現れてきた言葉です。

なかば恒久化した不況の影響により、日本人の金銭的な余裕の減少や不安から出費を抑える傾向になっている中で、お金を使わずに豊かな心を得たいと願う日本人が増えているということは、しばしば指摘されているところです。

旅行に行きたい、でもお金あまりない、という人に対して、旅行業者たちもそれまでの自分たちが提供していたサービス内容を変え、少ない金額でいかに多くの人を癒せるか、という方向に動いてきているのは大変喜ばしいことです。

例えば日本の旅館は高すぎる、という指摘があります。従来のように宿に到着してから去るまで常に仲居さんがついてくれている、といった時には過剰ともいえるようなサービスを改め、より安く、しかもより癒せる空間を提供しようとする旅館が最近は増えているといいます。

ところが、外国人にとっての日本旅行はどうかというと、「世界各国、地域への外国人訪問者数」という平成24年(2012年)の統計データをのぞいてみると、外国人がよく訪れる国の上位には、フランス、スペイン、トルコ、イタリア、ドイツ、イギリスなどのヨーロッパ諸国がずらりと並んでいます。

最近は中国への訪問者数も増えているようですが、日本はこの統計においては40か国中33位であり、2012年の外国人訪問者数は836万人にすぎません。一位のフランスは、その約10倍の8300万人もの外国人旅行者を迎えており、歴然とした差があります。

一方、日本を訪れた外国人の内訳はどうかというと、平成22年(2010年)に政府が統計した結果からみると、一位から3位までを韓国、中国、台湾からの訪問者が占めていて、これは全体の約60%です。4位がアメリカの8.4%であり、このほか、ヨーロッパ諸国ではイギリスは2.1%、カナダが1.8%にすぎません。

遠いヨーロッパから極東まで足を延ばすのは金銭的にも大変ということもあるのでしょうが、統計を見る限りでは来日欧米人は極端に少ないようです。

外国人旅行者が増えれば当然、お金を落としていってくれるので日本は潤います。しかし現状のように、日本を訪れる外国人はどちらかといえばあまりお金持ちでないアジア諸国からの人達ばかりであって、外貨獲得という意味でも欧米の人が来てくれないというのは問題があります。

このため外国人、とくに欧米人を呼び込む目的で、日本政府は、訪日外国人旅行者の増加を意図して1995年に「ウェルカムプラン21(訪日観光交流倍増計画)」を策定し、2005年頃を目途に旅行者数700万人を目指す計画をたてました。

その結果、1995年当時400万に満たなかった外国人の日本訪問者数、2005年の平成17年に、目標数のほぼ700万人に達しました。

さらに国土交通省は、2003年からは「ビジット・ジャパン・キャンペーン(VJC)」を開始しており、また、同年には「観光立国行動計画」を策定しました。

この計画は、2020年までに訪日外国人数2000万人をめざす従来の目標からさらに踏み込み、2016年までにこの2000万人を達成し、2019年には2500万人、将来的には3000万人をめざすというものです。

2008年には「観光庁」が新設されており、この新官庁の主導により、日本は「観光立国」として訪日外国人を2030年に4000万人にまで増やす計画でいるようです。

しかし、近年経済が好調な中国人観光客の誘致にも積極的です。中国旅行社青島支社によると、旅行経費は飛行機往復6日間の日本列島遊覧コースが6000元(約7万8000円)から7000元(約9万1000円)前後だといいますから、最近金満な彼等にとってもこれは決して高い額ではないはずで、日本は比較的旅行に来やすい国です。

しかし、こうした外国人観光客増えるのはいいのですが、実際に受け入れる旅行業者側はどうかというと、必ずしもこの政府側の目論見と通りというわけにはいかない状況のようです。

総務省が2008年全国のホテルや旅館1万6113の宿泊施設を対象にアンケートを実施した結果、この時点では、およそ4割弱(37.8%)の宿泊施設が「外国人の宿泊がなかった」もしくは「外国人旅行者を受け入れていない」と回答しており、あまり積極的に外国人を受け入れていない、というのが現状のようです。

とくに小さな宿泊施設に受け入れていないと回答したところが多く、客室30室未満の小規模施設の72.3%、客室100室以上の大規模施設の44.2%が、「受け入れない」ではなく、今後も「受け入れたくない」と回答しています。

受け入れたくない理由は、「外国語対応ができない」が75.7%で最多で、その他、「施設が外国人旅行者向きでない」の71.8%、「問題が発生したときの対応に不安がある」の63.4%、「精算方法に不安」の22.2%などが続いています。

ようするに、外国語はできないし、これまでもあまり受け入れてこなかったので、受け入れ態勢にも自分自身にも不安がある、ということなのでしょう。

日本人の外国人嫌い、外国人恐怖症ということは、昔からよく言われることです。日本では、江戸時代において鎖国が約250年も続いた為、外国人や異民族との係わり合いを経験することは極めて少なく、極端な場合には会話さえ難しいこともあり、「外国人恐怖症」の原因となっているとする主張もあります。

また、日本は、人口の98.5%を日本人が占めるため、しばしば「国民の大部分が日本民族により構成される単一民族国家である」と主張され、また居住者の99%以上が日本語を母語としています。このような社会的均一性が、日本における外国人恐怖症の背景となっているのでしょう。

現在、日本に外国人居住者の多くは、肌の色がほぼ同じで同系のモンゴロイドたる朝鮮人、中国人などであり、彼等の祖国は地理的距離が日本に近いこともあり、欧米人よりも安心感があるという側面もあり、このためこうした隣人ばかり受け入れているという現状もあるでしょう。

さらに日本は難民条約を批准しているものの、難民認定数は年間数十人程度であり、こうした面でも外国人慣れしていません。

難民が必ずしも悪いことをするというわけではないでしょうが、就労ビザではなく観光ビザで入国し、期限切れを無視して日本に不法残留し、そのまま不法就労する者、また彼らを扱うブローカー、闇ビジネスが存在している、ということも確かのようで、こうした点も外国人を嫌う原因でしょう。

外国人難民の受け入れについて日本人にアンケートを行った結果、犯罪の増加に繋がるから嫌だと答えた人がおよそ9割にも及んだという結果なども出ているようです。アンケートの取り方にも問題があったのかもしれませんが、多くの日本人が心情としてはどちらかといえば敬遠したいと考えているのではないでしょうか。

日本人が外国人嫌いになる理由としては、ほかにもマナーが悪い、ということなどもあるでしょう。最近よく話題にあがるのが、中国人の海外旅行者のマナーの悪さです。国内だけに止まらず、世界各地の観光地でひんしゅくを買っているといいます。

日本の例では、今年世界遺産登録された霊峰・富士山を訪れた中国人がポイ捨てしたタバコの吸い殻やペットボトルや空き缶の凄さは 、清掃に当たった山梨県や静岡県の職員やボランティアをあきれさせています。

5合目にある簡易郵便局の壁に貼られたポスターに、中国人観光客がボールペンの試し書きをしたために真っ黒になり、貼り替えてもすぐに数日すると元の木阿弥だとかで、またこのほかの中国人観光客の人気スポット、例えば東京・浅草では公衆トイレが大変だといい、観光客が帰るとトイレの中は使ったままの紙が山済みになっているそうです。

日本だけではく、外国でも評判が悪く、その評判を整理すると、まず外国文化を知ろうという意欲がないそうです。大英博物館やルーブル美術館では自国の中国人芸術家の作品しか見ようとせず、中国の陶磁器を見ながら「あれはいくらだ?」「これはいくらだ?」と大声で言い合い、何を見てもすぐに「金」と結び付けて考えるといいます。

欧米観光客のようにガイドブックを見ながら現地の歴史や文化を学ぶという姿勢がないばかりでなく、やみくもに写真を撮りまくり、写真撮影禁止、作品にさわらない、といった細かい注意にも、「金を払ったんだから!」と言って聞きません。

相手の同意などお構いなしに写真を撮りまくり、プライバシーという概念が欠落しているのではないかという人も多いようです。現地のルールを守らず、注意されると逆切れすることも多く、飛行機が遅延しただけでもここぞとばかりに大暴れします。

最近は国の指導により減ったようですが、痰を吐く行為はいまだ後を絶たず、食事の際に靴下を脱いで、椅子の上に片膝を立てる行為は直っていません。

くしゃみをする時も口に手を当てず、子どもにところ構わず排尿させる。ぜいたく品に出費を惜しまないくせに、チップはケチる、トイレを流さない、プールでの子供の排便などが頻発している、などなど……枚挙のいとまもありません。

こうした中国人旅行者の「癖」ですが、中国人といっても、香港系の人もおり、日本人には台湾人も中国人も見分けがつかないので、本当にすべての中華系の人達にあてはまるのか、といった実体はよく私にもわかりません。

が、概して中国本土の人のマナーは悪いと聞きます。「旅先での恥はかき捨て」という感覚なのかな、と思ったので色々調べてみたら、日本語が得意な中国人のブログがいくつかみつかり、これらに目を通したところ、「旅の恥はかきすて」という感覚はあるものの、必ずしもそうとばかりもいえないようです。

中国本土の人のマナーは、国内でも評判が悪く、一例をあげると、北京の天安門広場で国旗掲揚式が行われた際には11万人の見物客が集まりましたが、彼らが立ち去った後に、ペットボトルや空き缶、新聞紙や煙草の吸殻など5トンのゴミが残されていたそうです。

年間100万人の観光客が訪れる西湖周辺でも1日に40トンのゴミが回収されるといい、ボランティアがたった1.5キロの道のりで7000個あまりの吸殻を拾ったというから驚きです。重慶市でも観光客が捨てる竹串が広場に散乱して問題になっており、これらのことからどうやら中国では、旅先でのごみの投げ捨てポンは当たり前の習慣となっているようです。

ゴミだけでなく、北部の沈阻市(しんようし)などのように古い建物や寺の門柱など国の文化財に落書きが絶えないといい、中国人のマナーの悪さは海外だけかと思っていたら国内でもそのようです。

無論、昔からそうだったかといえばそうではなく、その昔の中国はその礼節のある国民性が広く諸外国に知られていたようです。

しかし、新中国成立以後は、文化大革命で徹底的に過去の文物を破壊し、儒教などの教えも否定するというかなり思い切った改革が行われました。その後も中国共産党主導で政治に重点を置きすぎた政策が続けられた結果、経済が疎かになり、発展途上国としての悲哀を長期間味わうこととなってしまいました。

現在でこそ、中国は「世界の工場」としてその繁栄を築き、オリンピックや有人宇宙飛行も成功させて、「大国」への道を歩み続けていますが、こうした繁栄を享受するちょっと前までは、こうした発展途上国としての長い時代が続いていたのです。

その結果、最低限の衣食住を満たす生活ができない者を大量に生み出しました。「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、人間生きていくのに必死になれば、文化や礼節など腹のたしにならないものなど何の価値もない、といことにもなります。そして、この貧困の時代が現在のような中国人旅行者たちの悪しきマナーを育むことになったようです。

こうした世の中では拝金主義者が増えるのはある意味仕方がないことでないことです。芸術を「金」と結びつけるのは、こうした延長戦上にあるもので、大事な「金」という「装置」を通してしか物事が見られなくなっている典型です。

それゆえ、せっかく大事なお金を使って外国旅行に行くときは、それ相当の対価(証)をほしがり、お殿様気分になりたがり、傍若無人に写真をとったり、土産物を買いあさるという話になるのかと思います。

飛行機も同じで、高い金を出した以上はそれ相応のサービスの提供を要求するわけで、それが遅れたとなれば彼等にとっては時間も大事な「金」ということで、これを返せといわんばかりの「大暴れ」という話になります。

発展途上国であったその昔は外国に行くこともできなかったものが、最近急にお金ができてようやく他国に行くことができるようになりましたが、ところが、よくよく考えてみるとそれまでの長い歴史において、中国の人達の多くは他国の文化そのものに触れる機会がなかったわけです。

ようやく外国へ行けるようになっても、学校では共産思想の保持のために外国の文化を教えることはご法度になっているため、文化といえば、かろうじて知っている自国の「中国文化」にしか関心が向かわないという風潮になるのもこのためであり、外国文化を知ろうとしないのも、ここに原因があると思われます。

ただ、振り返ってみれば、高度成長期時代の日本人もどれだけ海外へ行って恥をさらしていたかを忘れてはいけません。バブル期には欧米の不動産を買いまくり、世界中からヒンシュクを買ったのは記憶に新しいところです。

英語がわからないのをいいことに、旅先でも外国人に対して「お仕着せの親切」をごり押ししていたというところもあるのではないでしょうか。私はアメリカに都合4年ほどもいましたが、無知な日本人観光客がアメリカ人のひんしゅくを買っているのに、まったく気が付かない、といった場面を何度も目にしました。

ただ、日本人には「恥の文化」があると言われ、その後のバブル崩壊とともにその恥をじっくり思い返して反省し、現在に至っているという面があります。反省しすぎて、デフレ経済に陥り、逆にその中から抜け出せなくなってはいますが、そうした謙虚さは日本人としての誇りです。

日本もまた中国と同じく江戸期を通じて長い間外国人との関わりを絶っていましたが、明治維新によって深く外国人と交わるようになってからは一転して、彼等から学び、追い越そうとし、そのための努力を惜しみませんでした。そういう「努力家」ともいえるような国民性が心底にはあるようです。

今の中国人の人達がそうした努力をしていないとはいいません。が、少なくとも相手やその文化を尊重して「学ぶ」という姿勢が感じられないのが残念で仕方がありません。

しかし、中国のひとたちもまた、今のような豊かな時代が続けば、さらに心の中も豊かになっていくのかもしれません。こうして欧米や日本の人たちに批判される中、やはり彼等も学びを覚え、状況は少しずつ改善されていくのかもしれません。

これから、彼らにとっては黄金時代かもしれない時代を経て中国の旅行者のマナーがどのように変わっていくのか、長い目でみていきたいと思います。

そうそう、書き忘れていました。私の亡き父は、旧満州生まれで大陸育ちです。そして彼が帰りたがっていたその「祖国」を一度は訪れたいとかねてから思ってきました。その日がくるまで、中国の方のマナーが大きく改善されることを願ってやみません。


熱海 伊豆山神社にて

陽射しを浴びて


12月の日々が一日、また一日と過ぎていきます。

この時期の日本は広く太平洋高気圧に恵まれ、青く晴れ渡った空の下、ぽかぽかとした陽射しに恵まれて、なんとなく幸せな気分になります。

自然の太陽光や風や自然に触れてリラックスすることを目的として日向ぼっこをする人も多いと思います。例えばテラスやバルコニー、縁側などの陽のよく当たる場所に腰かけて、庭木を見たり、音楽を聴いたり、軽食を楽しむのは、秋から冬にかけてのこの時期のとびっきりの贅沢という気もします。

医学的にみてもひなたぼっこは意味があるようです。日光を浴びることで紫外線の働きで血中のコレステロールがビタミンDに変わります。ビタミンDは骨や歯の形成に不可欠であり、欠乏すると「くる病」などの障害をもたらします。

ビタミンD不足は日照量が少ない地域の風土病といえ、欧州人が白い肌をもつに至った原因です。このため、ヨーロッパでは日光浴が推奨され、習慣となっています。

動物にもひなたぼっこを好むものが多いようです。例えば鳩は冬場に集団で固まってひなたぼっこする傾向があり、またカメやワニも甲羅干しをします。

こうした爬虫類は変温動物であるためにひなたぼっこをしないで体温が下がると動けなくなってしまうためです。また、水中より体力を温存出来るのでえさが多くなる時間帯まで陸上で待つことや、カメの場合、甲羅についた寄生虫やカビや細菌を死滅させることも目的としているようです。

一方、多くの哺乳類や鳥類では、毛皮や羽根が紫外線の皮膚への到達を妨げています。ただし、皮膚から毛皮や羽根に皮脂を分泌し毛繕いすることによって口からビタミンDを摂取していることはよく知られています。

猫もまた、皮膚から毛皮や羽根に皮脂を分泌し毛づくろいすることによって口からビタミンDを摂取しているとの説があります。我が家のテンちゃんを見ていると、晴れた日には陽射しを浴びながら、まぁなんともきれいに体の隅から隅までていねいに舐めています。

この猫の目の色も日光に影響されてその色が決まってきたそうです。

ネコの虹彩は、目の大きさの中でかなり大きな割合を占めており、人間でいう「白目」(球結膜)は通常見られません。ネコの眼の色、といった場合、普通は虹彩の色を指します。この虹彩の色は、色の濃淡などの違いがあるものの、おおむね、カッパー(銅)、ヘーゼル(薄茶)、緑、青4種類に分けられます。

青い眼は白猫とシャム系のネコに多いようです。白猫の場合はオッドアイと言われ、高い割合で聴覚障害を持っているそうです。左右の眼の色が違う場合も多く、この場合、青い眼の側の耳に聴覚障害を抱えることがあるといいます。

一方が黄色で、もう一方が黄味のない淡銀灰色、あるいは淡青色というオッドアイの白ニャんは、日本では「金目銀目」と呼ばれ、縁起が良いものとして珍重されてきました。

これらの眼の色の違いは、虹彩におけるメラニン色素の量で決まり、色素が多い順にカッパー、ヘーゼル、緑、青となるようです。人間など他の哺乳類の眼もこの傾向は同様だといいます。メラニンの少ない欧米人は青や緑色の目をしています。

この色素の量の違いは、元々生息していた地域の日光量の違いに由来すると言われ、日光量が多い地域では色素が多くなります。が、長い間の交雑の結果、現在では地域による違いはほとんどなくなっています。ただ、シャムネコの青い眼は北アジア由来と言われ、熱帯のタイが原産らしく、それが現在まで受け継がれている稀なケースです。

生まれて間もない仔猫の場合、品種に関わらず、虹彩に色素が沈着していない場合が多く、青目に見えることが多いものですが、これは「キトゥン・ブルー(Kitten Blue)」といい、その意味は「仔猫の青」です。生後7週間くらいから虹彩に色素がつき始め、徐々に本来の眼の色になっていきます。

ちなみにウチのテンチャンは、子供のころから薄い緑色の目をしています。目が青かったような記憶はありません。が、気が付かなかっただけかも。今、脇のイスの上で気持ちよさそうに日向ぼっこをしていますが、そのつぶらな目を閉じて気持ちよさそうです。

このように、太陽光は動物とっては身体の成長や代謝に必要な物質の合成を行うとともに、身体的な特徴を形作る上で大切なものです。また、植物にとってもそれ以上に光合成の上などでも非常に重要な意味を持ちます。

しかし、太陽光を浴びるのは紫外線を照射されるので夏場はやめておいたほうが良いということもよくいわれます。ただ、夏場に日光を浴びて汗をかくことで、新陳代謝や体温調節といった機能を活発にさせるという良い面もあるようです。前述のようにビタミンDの生成といった重要な意味もあります。

日焼けしないようにうまく太陽光を浴びるには、午前10時から午後3時の日光で、週に2回程度、時間も5分から30分の間だけ浴びるようにします。この程度なら日焼け止めクリームは必要ないそうで、顔、手足、背中への日光浴で十分な量のビタミンDが体内で生合成され、紫外線の影響は少ないそうです。

さらには、日光を受ける事は、体内時計の調整を行う働きもあり、リラックス以上に体内機能の保持に必要な面もあります。自律神経の失調症などでも、適度な日光浴が勧められており、病院での不眠症治療では戸外活動で定期的に日光浴を勧められる場合もあるようです。

適度な日光浴は健康維持の上で有効であり、精神衛生上も好ましい影響も見られるため、健康法の中にも適度な日光浴を勧める専門家も多いとのことです。

とはいえ、冬の間は雪に閉ざされてしまう日本海側ではそういうわけにもいかず、また梅雨時には太陽光が不足がちです。こうしたことから、人工的に日光浴をするための方法も開発され、最近は日焼けサロンなどのように特別な紫外線照射装置によって発生した人工日光を浴びる施設も存在します。

こと緯度の高い地域では長い冬の期間という気候条件の関係もあり、北欧などでは極めて積極的に日光浴を行う文化・習慣・風俗も見られるほか、日焼けマシンの売り上げなども上々のようです。

しかし、機械によるものだけでなく、太陽光も含めて過度の日照を受けることはやはり危険です。体温の過剰な上昇から熱中症を引き起こし、また日焼けも度を過ぎれば熱傷となり皮膚炎を引き起こすほか、紫外線の過剰照射は皮膚ガンを引き起こし、そこまで行かなくてもシミや皺など肌の加齢に伴う劣化と同様のトラブルを招きます。

紫外線は破壊力が強く人体の細胞を破壊したり変質させたりするためであり、これを避けるためには上述のように時間を決めて急激な日焼けを避ける事や、日差しの強い日は日光浴を避けることなどが肝要です。

直射日光を目に受けると、視力が低下する場合もあるといいます。特に目の色素が少ない青い目の白人などは、日本の5月頃の日差しでも目を傷める場合もあるそうです。このため、サングラスなどで目を保護する必要があり、これが欧米人がサングラスをよくしている理由です。

日本人でも夏場には直射日光を避けるためにはサングラスをすることには意味があります。子供たちが我慢くらべで太陽を凝視したりすることなどもあろうかと思いますが、危険ですから絶対にやらせないようにしましょう。

さて、この太陽光は地球における生物の営みや自然に多大な影響を与えてきており、とくに人類は、太陽の恵みとも言われる日の光の恩恵を享受してきました。

太陽光の発生のメカニズムはこうです。まず、太陽中心部における水素の核融合により、ガンマ線が発生します。ガンマ線は、1500万Kという高温のために固定されずに飛び交っている電子や陽子により直進を阻害されます。直進を阻害されたガンマ線は、近くのガスに吸収され、このときガス雲からはエックス線が放出されます。

このエックス線もまた、ガスへの吸収と放出を繰り返しながら太陽中心部から表面に向かい、そして太陽外縁部に到達した頃には、周波数が下がり可視光線や赤外線、紫外線となります。そして太陽の外側部からは可視光線とともに赤外線、紫外線などが太陽光として放射されるのです。

太陽光が太陽から放たれて地上に到達するまでの時間は、およそ8分17~19秒だそうで、これは太陽と地球の半径、光速から計算できるそうです。

地球に到達した太陽光線の1時間あたりの総エネルギー量は20世紀後半の世界の1年間で消費されるエネルギーに匹敵するほど膨大なもので、そのエネルギーの地上での内訳は、地上で熱に変わってしまうエネルギーが約45%、海中に蓄えられるエネルギーが20数%であり、その大半を占めます。

このほか風や波を動かす原動力へ変わるエネルギーは0.2%程度と少なく、さらには光合成に使われるエネルギーは0.02%程度にすぎません。これ以外の30%ほどは、地球に届いても宇宙へ反射してしまうそうで、可視光や赤外線などの電磁波として宇宙へ再放射されていきます。

こうした太陽光からもたらされ変換された熱エネルギーは、気象現象の駆動力として働き、地球上のさまざまな場所に雨や風をもたらすことに寄与しています。また、植物や植物プランクトンは光合成によって必要な酸素やエネルギーを産生し、この青い地球の維持に努めています。

上で書いたように動物もまたその様々な恩恵を受け、太陽光を浴びることによって直接的に体温維持を行っているものもいます。また、日射量の変化つまり昼夜の移り変わりは、生物の活動に多大な影響を与えています。

とくに人間は太陽光によって地上に到達したエネルギーを活用しており、直接的、間接的を問わずその生活には欠かせないものです。古代における利用法としては、物を乾かす、干す、濡れた衣類を乾かす事や、土器を乾かして作る、乾かして殺菌する、食物を干してつくる乾物への利用などでした。

また、太陽光は長い間農耕と牧畜に寄与してきており、穀物を乾かすためにも使われてきました。人類は、その初期のころに太陽光を使って火を起ことを発見し、これは現在におけるオリンピックの聖火の点火にも受け継がれています。

人類における数々の発明にも寄与してきました。日時計は、太陽の傾きを太陽光を利用して時刻として利用したものであり、これが現在我々が使っている時間という観念を生み出しました。鏡もまた、身体を映し出すだけでなく、太陽光を採光することで合図、伝言目的で使用され、これが色々な信号に変わっていきました。

さらには、カメラやレンズ、望遠鏡、顕微鏡など光学機械を産みだしたのも太陽光であり、近代において忘れてはならないのが「発電」への寄与です。

最近クリーンなエネルギーとして見直されてきている、太陽光発電・太陽熱発電は、太陽光のエネルギーを、太陽電池やタービンを用いて電力に変えるものです。

古くから使われてきた水力発電もまた、河川の流れは太陽光によって温められた雨雲が降らせた雨によってもたらされと考えれば太陽からの恩恵を受けたものです。太陽光が暖めた空気の流れである風によって羽根を動かして発電する風力発電もまたしかりです。

現段階では実用化にはまだ遠いようですが、波力発電もまた海面の上下は太陽によって引き起こされた風に煽られた波のうねりを利用しています。海流発電もまた、太陽に温められた海水の循環を利用しているわけです。ちなみに、潮力発電だけは太陽ではなく月の引力を利用しているので太陽光とは無関係です。

近年着目されているのが、バイオマス発電です。植物は、太陽光のエネルギーを用いて光合成を行い成長しますが、この植物由来の生産物である穀物や木材などを利用した発電法です。

旧来の薪や炭などの利用に加え、バイオマスエタノール、バイオディーゼルなど各種のバイオマス燃料の利用も拡大しています。バイオマスエタノールとは、サトウキビやトウモロコシなどのバイオマスを発酵させ、蒸留して生産されるエタノールを指します。

また、バイオディーゼルとは、バイオディーゼルフューエルの略で、植物・生物由来の油から作られるディーゼルエンジン用燃料(BDF、Bio Diesel Fuel)の総称です。

ディーゼルエンジンは、元々は落花生油を燃料とし、圧縮熱で燃料に点火するエンジンとして19世紀末に発明されたものであり、バイオディーゼルを燃料として使用することを想定していたということは意外と知られていません。

しかし落花生の生産は天候に左右され供給が不安定であったこと、当時ルーマニアなどで油田が発見され軽油や重油などの鉱物油が本格的に入手できるようになったことなどから、ディーゼルエンジンの燃料はバイオディーゼルから化石燃料へシフトしていきました。

近年、地球温暖化対策として再びこのバイオディーゼル燃料が注目されています。

原料としては、菜種油、パーム油、オリーブ油、ひまわり油、大豆油、コメ油、ヘンプ・オイル(大麻油)などの植物油に加え、魚油や豚脂、牛脂などの獣脂及び廃食用油(いわゆる天ぷら油等)など、様々な油脂がバイオディーゼル燃料の原料となりえます。

欧州では菜種油、中国ではオウレンボク等、北米及び中南米では大豆油、東南アジアではアブラヤシやココヤシ、ナンヨウアブラギリから得られる油が利用されており、軽油に混合しない状態での性状を欧州規格として規定しています。

日本においては、従前、バイオディーゼル燃料についての規格が存在していませんでしたが、近年これを一般自動車用の燃料として使用する動きがあることから、欧州規格を参考としつつ規格化が検討され、BDF混合軽油を一般のディーゼル車に用いる場合の法律が改正され平成19年から施行されています(揮発油等の品質の確保等に関する法律施行規則)。

しかし、バイオディーゼルは、確かに化石燃料に代わるものとして着目はされてはいますが、これを純度100%か、または軽油と一定割合で混合して使用すると、低温では粘度が高くなり、特に冬季にバイオディーゼル100%で使用すると、燃料経路内で固まってしまうなどの問題があります。

このほか、原料となる油脂はそれぞれ性状が異なり、菜種油、ひまわり油などは酸化しやすいなどの性状があります。このほか廃食用油は様々な油脂が含まれうるものであることから、小規模での製造では製品の品質が極めて不安定なものになりやすく、品質を安定させるためには一定程度大規模なプラントで製造を行う必要があります。

このため、上記法律ではこうして精製販売される混合軽油について満たすべき基準が設けられており、軽油販売業者はこの基準を満たさないものを自動車の燃料用として消費者に販売してはならないことになっています。

また、バイオディーゼル燃料を軽油等と混和して販売したり、自動車の使用者自らがバイオディーゼル燃料を購入又は製造して軽油等と混和して使用する場合、「軽油引取税」の課税対象となります。

しかし、そんなものにまで税金をかけていたのでは、化石燃料に代わる植物由来の燃料の普及を妨げてしまいます。

現行の日本の税法に抵触することなく、非課税でバイオディーゼル燃料を自動車に使用するためには、軽油等を混和させずに100%バイオディーゼル燃料でエンジンを作動させる必要があります。

ただこの場合、軽油とバイオディーゼル燃料の両方を使用可能な車両では、燃料タンクを分離させ、エンジンへの配管途中で弁による切り替えを可能として、燃料の混合を防止させなければなりません。

そんな七面倒くさいことをすれば自動車製造のコスト高になるというわけで、日本の自動車メーカーがこれを後押ししないのはこのためです。

せっかくいい燃料があるのに、冬場にBDFを使った自動車の故障による渋滞が増えることを恐れるお役人が課した制限が、自動車メーカーにその開発にあたっての二の足を踏ませているのは馬鹿げています。

さらに法律を改正してこうしたバイオ燃料には一切税金がかからなくするとともに、化学メーカーには安定したバイオ燃料を開発できるよう政府資金援助を与え、さらには冬でもスタックしない優れた植物燃料車の開発を自動車メーカーにさせるべきだと私は思います。

一方では、気候変動枠組条約に基づき地球温暖化防止のため策定された京都議定書では、生物・植物由来となる燃料については二酸化炭素の排出量が計上されないこととなっています。

すなわち、化石燃料を燃焼させることは、それに含まれる炭素を二酸化炭素として大気中に新たに追加させることになりますが、バイオディーゼルはその原料となる動植物、とくに植物が光合成により大気中の二酸化炭素を吸収していることから、これらから作られる燃料を燃焼させても元来大気内に存在した以上の二酸化炭素を発生させることはありません。

こうした考え方を「カーボンニュートラル」といい、これによれば、バイオディーゼル燃料は太陽光や風力などと同じく、再生可能エネルギーに位置づけられることになります。

が、通商産業省などは、原料として日本が大量に輸入することになるパーム椰子の原産国であるマレーシアやインドネシアにおいて、ヤシ畑開発のために森林破壊が進行してしまい、引いてはこれが環境破壊を進行させてしまう、と言っているようです。

確かに、ブラジルなどではより収益率の高いバイオ燃料生産のためオレンジ生産などが転換され、それによる果実、穀物の供給不足、高騰が起こっており、食料を燃料として消費する事に対する疑念、批判も起こっているのは確かです。

しかし、そこはなんとか解決するのが世界最先端の環境技術を持っているといわれる日本の技術力と外交力です。新たな環境破壊を起こさないような別の植物資源の開発によるバイオ燃料生産の推進と、よりクリーンな自動車の創造を両立させてみせることによって、日本の底力を世界にみせていくべきでしょう。

ただ、こうした規制はあるものの、近年バイオディーゼルの利用は拡大しつつあります。京都市など一部の自治体では既に、車両改造や定期的なメンテナンスを行うなどの対策を講じた上で、ゴミ収集車や市営バスなどの燃料としてバイオディーゼル燃料を使用しています。

ほかにも愛知県東栄町で、町内で発生した廃食用油から作ったバイオディーゼルを2004年から公用車に使用しており、各地でバイオディーゼル燃料を使った路線バスが運用されています。近江鉄道バスや、京都市交通局の京都市営バス、東京都交通局の都営バスなどがそれです。ほかにも北海道、大阪、山梨、山口などでも事例があるようです。

さて、日本はこの太陽光の利用を世界に先駆けて宇宙開発にも向けています。日本の宇宙開発機関JAXAが、2010年7月に小型ソーラー電力セイル実証機「IKAROS」において、史上初の「太陽帆航行」を成功させたというニュースはご存知の方も多いでしょう。

太陽帆はソーラー帆、ソーラーセイルとも呼ばれ、薄膜鏡を巨大な帆として、太陽などの恒星から発せられる光やイオンなどを反射することで宇宙船の推力に変える器具のことです。これを主な推進装置として用いる宇宙機は太陽帆船、宇宙ヨットなどと呼ばれます。

化学ロケットや電気推進と比べ発生する推力は小さいものの、燃料を消費せずに加速が得られるという利点があります。将来的には惑星間などの超長距離の移動が容易になると期待されており、また、将来的な構想として、出発地から照射された強力なレーザーを帆に当てて推進力とする宇宙船も考案されています。

その原理は、太陽からの「太陽風」なるものによって推進しているといった報道がなされ、太陽から何やら風のようなものが吹いていると誤解している人も多いようです。が、この説明は正確には正しくなく、実は光子の反射によって生じる反作用によるものです。

光の粒子が太陽帆を形成する薄膜に当たり反射すると、宇宙空間では薄膜には光の入射方向と逆向きの力が発生します。この力は、セイルの面積と光圧力に比例します。船舶で使用される帆とは異なり、宇宙空間では流体力学的に発する揚力は発生しないため、帆に発する力は帆に反射する光の圧力のみとなります。

空気のある地球ではこうした作用反作用は風を引き起こす要因となりますが、大きな物理粒子がなくほぼ真空の宇宙空間では太陽光からの光粒子の力は、セイルでの反射によって単に宇宙船を動かす力に置き換わるのです。宇宙船を動かす力としては非常に微小ではありますが、受けた光をほぼ100%推進力に利用できるので非常に効率の良い方法といえます。

しかも、最初はほんの少しのスピードしか出なくても、宇宙空間にはその進行を妨げる空気がないので、宇宙船は太陽光を受けてどんどん加速していきます。これを「光子加速」といいます。加速をさらにどんどん増やしていけば、理論的には最後には光の速度と同じ速度で宇宙を旅することができます。

従って、遠い将来には惑星間の宇宙旅行や太陽系外への宇宙への飛行などにも使えるようになるのではないかといわれています。

ただ、実際に宇宙船の推力源として太陽帆を利用するためには、極めて軽量かつ極めて広い面積を保持できる薄膜鏡が必要であり、長らくは夢物語に過ぎませんでした。

初期にはアルミニウムの薄膜などが太陽帆の素材として候補になっていましたが、あまりにも強度が不足しており、特に巨大な帆を宇宙空間で広げる際に帆を壊さずに広げる技術の開発が難しかったようです。

しかし21世紀になって炭素繊維など素材の研究開発が進み、太陽帆に使用可能な薄膜の生成に実現性が帯びてきました。

JAXAは、2004年には太陽帆実現を目的とした、直径10m、厚さ7.5μmのポリイミドフィルム製の大型薄膜の宇宙空間での展開実験に成功しました。また、太陽光圧の力だけでの推進・姿勢制御は難しいので、セイルに薄膜太陽電池をつけ、イオンエンジンとソーラーセイルの併用する「ソーラー電力セイル」を開発しました。

こうして完成した「IKAROS(イカロス)」の帆は一辺約14mの正方形で、厚さ7.5μmのポリイミド樹脂膜にアルミを蒸着したもので、これに約200m2の10%に薄膜太陽電池が貼られています。

直径1.6m、長さ1m、重さ300kgの本体を中心にX字形に畳んでおき、打ち上げ後、船体を一時的に高速回転させ、帆を遠心力で展開させ、その後ゆっくり回転させて帆の形を維持させるというものです。

このイカロスは、2010年5月21日、JH-IIAロケット17号機により、金星探査機「あかつき」との相乗りで打ち上げられました。6月3日からセイルの展開を開始し、10日に地球からの距離約770万kmにおいて、セイルの展張、及びセイルに配置されている薄膜太陽電池からの発電を確認しました。

7月初頭からは光子加速実証フェーズへと移行し、7月9日、ついにイカロスが光子加速を行っていることを確認。12月8日には、以下ロスは金星から80800kmの地点を通過し、金星スイングバイを成功させています。スイングバイとは、天体の万有引力を利用して宇宙機の運動方向を変更する技術で、宇宙船を増速あるいは減速することができます。

ソーラーセイルによる光子加速を実証し、ソーラーセイルで他の惑星まで飛行したのは、いずれも世界初の快挙でした。

現在までに当初予定していたミッションはすべて完了しており、イカロスは2012年の11月22日に、発生電力低下による搭載機器シャットダウン状態のいわゆる「冬眠状態」に陥り、その後の復旧のめどもたたないことから、翌2013年3月28日にプロジェクトチームの解散が発表されました。

ただ、JAXAでは今後も飛行中光子加速やセイル運用、薄型太陽電池の実証・研究が行っていくようです。

ソーラーセイルは、SF作家のアーサー・C・クラークや、小松左京の作品などにも登場しました。そのころには、まだまだ夢の世界の話とおもっていたら、ここへきてその夢が実現した格好です。海と帆船の伝統が長かった欧米のSF作品にも過去、太陽帆船が多く登場していますが、誰もがその実現は遠い先のことだと思っていたでしょう。

このほか、太陽からの光は数百万の陽子や電子を含んでおり、陽子や電子などの荷電粒子が、磁場を磁力線に垂直に通過して移動することがわかっており(電磁誘導、フレミングの法則)、これを利用したマグネティックセイル (magnetic sail) というものも技術的には開発可能だといわれているようです。

マグセイル (magsail)、磁気帆や磁気セイルとも呼ばれ、この宇宙船は質量に対する推力の効率的な運用がソーラーセイルよりもさらに高いため、未来の宇宙船としてもより魅力的な推進技術だと考えられているそうです。

将来的にはこうした装置を使い、太陽光を浴びて、我々も悠々と宇宙旅行をする、そんな時代が来るかもしれません。

それまで私は生きているでしょうか。生きてはいないかもしれませんが、もし死んでいたら、「幽霊粒子」になって、宇宙を旅していたいものです。