出世してますか?


今日は二十四節気の第21番目の「大雪」です。雪が激しく降り始めるころで、熊が冬眠に入り、南天の実が赤く色付くころであり、鰤(ブリ)などの冬の魚の漁が盛んになるころでもあります(と、書いたら一日間違えてました。ホントは7日が大雪です。7日訂正)。

ブリは、スズキ目アジ科に分類される海水魚の一種で、北西太平洋を中心に生息する回遊性の大型肉食魚です。成魚は大きいものでは最大で全長150cm、体重ともなると40kgにもなりますが、普通の大きさのものは全長1m・体重8kg程度です。

南は東シナ海・北はカムチャツカ半島・東はハワイまでの北西太平洋に分布しますが、主な生息域は我々が住んでいる日本近海の九州南部から北海道にかけての太平洋岸です。

通常は群れを作り、やや沖合いの水深100m程度の中層・底層を遊泳しています。季節によって生息海域を変える回遊魚でもあり、春から夏には沿岸域に寄って北上し、初冬から春には逆に太平洋岸の沖合いを南下します。

これを狙って、漁師さんたちは、一本釣り、延縄、定置網、旋網、刺し網、掛け網などのいろんな漁法でこの魚に挑みます。良い値段で取引されることから、冬場の魚市場では欠かせない人気魚ですが、一般の釣り愛好家の間でも人気があり、大物釣りのターゲットとしての評価も高いようです。

船上から竿やリールを使わず道糸を素手で手繰り寄せる、いわゆる「カッタクリ」による強い引きの感触を味わえるとされ、釣り好きにはたまらないようです。また船釣りだけでなく、潮通しの良い港湾内や岸壁近くにも入り込んでくることがあり、陸からでも狙えることも人気がある理由です。

通年を通して需要が高いため、こうした漁による天然物の捕獲だけでなく、主に西日本の沿岸各地で養殖もさかんに行われています。日本国内におけるブリ類の生産量は、漁獲量およそ5万トンに対して、養殖による収穫量はおよそ15万トンと大きく上回ります。

ブリの場合もウナギやマグロのようにまだ完全養殖が一般化しておらず、春先に流れ藻に付いた稚魚(モジャコ)を捕獲して養殖します。しかし、養殖の肥育期間は2年もかかりますから、手間のかかるものであることには間違いありません。

その食べごろは、無論、産卵期前で脂が乗る冬です。日本ではこの時期のブリを特に「寒ブリ」と呼びます。寒ブリは同属種のカンパチやヒラマサよりも脂肪が多く、独特の風味があります。ただし、産卵後の春には脂肪量が減少してパサパサになるので、今のうちにおいしいブリをたくさん食べましょう。

料理法は幅広く、刺身、カルパッチョ、たたき、寿司、しゃぶしゃぶ、味噌漬け、照り焼き、塩焼き、ぶり大根などなんでももってこいです。富山県や石川県では、「かぶら寿司」の材料として使用されることもあり、このほか変わったところでは、高知県では「ぬた」という酢味噌で作ったタレをつけて食べるそうです。

出世魚で縁起が良いこともあり、西日本では御節料理に欠かせない食材でもありますが、東日本ではあまりおせちには使わないようで、こちらはもっぱらサケを使います。福岡県では雑煮の中にも具として入れられるそうです。

「ブリ」という呼称は、江戸時代の本草学者である貝原益軒が「脂多き魚なり、脂の上を略する」と語っていることなどから、「アブラ」が「ブラ」へ、さらに転訛し「ブリ」となったという説があります。ほかにも身が赤くて「ブリブリ」しているからといった説もあるようです。

漢字では「鰤」と書きますが、これは「師走」に脂が乗って旨くなる魚だから、この字が当てられたという説が有力です。また。「師」すなわち先生と言われるような人は大物であり、ブリもかなりの大型魚であるかことから、この字が使われるようになったともいわれています。

大きさによって呼び名が変わる、いわゆる「出世魚」です。日本各地での地方名と併せて様々な呼び方をされますが、その成長過程毎の代表的な呼び名は次のようです。

ワカシ:15 cm くらいまでのもの
イナダ:40 cm くらい(夏に旨い)
ワラサ:60 cm くらい
ブリ:90 cm 以上(夏は味が落ちる)

が、地方によっても異なり、次のようです。

関東:ワカシ → イナダ → ワラサ → ブリ
関西:ツバス → ハマチ → メジロ → ブリ
東北:ツベ → イナダ → アオ → ブリ
下北地方:フクラギ → イナダ → ワラサ → ブリ
北陸:ツバエリ → コズクラ → フクラギ → アオブリ → ハナジロ → ブリ
富山県:ツバイソ → コズクラ → フクラギ → ハマチ → ガンド → ブリ
山陰:ショウジゴ → ワカナ → メジロ → ハマチ → ブリ
四国・広島県:ヤズ → ハマチ → ブリ
九州:ワカナゴ → ヤズ → ハマチ → メジロ → ブリ → オオウオ

80cm 以上のものは関東・関西とも「ブリ」と呼ぶので、これが一番一般的になっています。または80cm以下でも8kg以上と大型のものをブリと呼ぶ場合もあるようです。和歌山は関西圏ですが、関東名で呼ぶことが多く、流通過程では、大きさに関わらず養殖ものをハマチ、天然ものをブリと呼んで区別する場合もあります。

私のように西国育ちで東京や静岡住まいの者にとってはややこしい限りですが、こうした魚の呼称における地域性や、その成長過程において名前を変えて呼ぶというみやびな風習こそ日本的ともいえるものであり、これを理解せずして日本人である、と言えないかもしれません。

ところで、出世といえば、先日、「ゆるきゃら」の全国コンテストがあり、我が静岡県の浜松市のイメージキャラクター、「出世大名家康くん」が2位につけたようです。

市制100周年記念マスコットとして2011年(平成23年)に徳川家康をモチーフとして誕生したキャラクターとして登場したもので、ちょんまげはウナギ、羽織の紋はみかん 、袴はピアノ柄と浜松の特産品をあしらっています。

良く間違えられるようですが、顔の下側の黒い逆三角形は口ではなくあごひげであり、顔の中央にあるのが口です。その口癖は「浜松は日本一良いとこじゃ。」だそうで、出世大名家康くんのセリフの吹き出しにはかならず「〜じゃ」が付けられます。

もともと浜松市のキャラクターとしては、2007年より赤塚不二夫の漫画のキャラクターである「ウナギイヌ」が採用されていたそうですが、2012年度末でマスコットキャラクターとしての契約が終了したため、「出世大名家康くん」と交代しました。

2013年8月には、兜を被ると喋れるようになるという「やらまいかバージョン」の家康君が登場し、「ゆるキャラグランプリ2013」の頂点を目指す「天下統一宣言」を肉声で行いました。このとき、頂点を取れなかったときにはウナギのちょんまげを落として「出家大名家康くん」になると決意表明。

浜松市役所が中心となった活発な選挙活動が行われ、開票直前の10月7日時点の暫定順位は2位に約10万票差となる首位独走状態となり、「組織票」との批判の声も出たのですが、11月24日発表の最終結果では栃木県佐野市の「さのまる」が1位となり、家康くんは2位となってしまいました。

逆転敗北の理由についてこうしたメディアの専門家は、「最初に飛ばしすぎて2位に差をつけたことで組織の気が緩んでしまった」「ネット上で組織票の批判が出て裏目に出た」との分析をしているようです。

グランプリ前に公約していた「出家」については、結果発表後のインタビューで「どうにかせねばならん」と語ったそうですが、公式サイトのトップ画像では「出家なんていやじゃー!」との台詞があり、実行の時期については不明だそうです。かなり往生際が悪いヤツです。

ところでこの「大名」というのは、もともと「大名主」と言っていたものが簡略化されたものだそうです。もともとは「大いに名の轟く者」という意味だったそうで、地方で勢力をふるう者のことを指しましたが、時代を経るにつれて武家社会においては、多くの所領や部下を所有する武士を意味する言葉となっていきました。

室町時代には「守護職」が領国支配を強め、「守護大名」が登場しましたが、戦国時代には、さらに強固な領国支配を確立した大身の領主が現れ、彼等は「大名分の国人」とか「戦国大名」と呼ばれるようになりました。

江戸時代には主に石高1万石以上の所領を幕府から禄として与えられた武家を指す言葉となり、これに対して1万石未満の武士のうち幕府直属の武士を直参と呼ぶようになりました。

江戸時代の大名は、家格・官位・石高・役職・伺候席によって序列が決められており、この序列はまず、徳川将軍家との関係によって、一族の家門大名である親藩、親藩大名が決められます。これに次ぐのが主に関ヶ原の戦い以前に徳川家の家臣だった譜代大名であり、そして関ヶ原の戦い前後から家臣となった外様大名に分類されます。

初代将軍徳川家康は、将軍家が断絶した場合の血脈の維持や、全国の大名統制への監視、および幕府への補佐への意味も込めて、将軍家同様に徳川姓を名乗ることが許された御三家を設置し、9男の義直を尾張藩、10男の頼宣を紀州藩、11男の頼房を水戸藩に封じました。

また、2代将軍徳川秀忠の兄で家康の2男である結城秀康を越前藩に封じたのをはじめ、全国に徳川一門の大名を置いています。

さらには、歴代にわたり徳川将軍家の草創期を築いた譜代の家臣を譜代大名として幕府の軍事力を確保するとともに、幕府の大老はじめ老中を中心とした重要な役職につけ、幕政を補佐させました。

譜代大名は比較的石高は低く、譜代筆頭は、彦根藩の井伊氏でその石高は35万石の大封でした。ほかに同等の石高を得た大名には、鳥居氏や榊原氏、本多氏、小笠原氏などがありますが、江戸時代全期を通して10万石以上を保った譜代大名は少なく、酒井氏、阿部氏、堀田氏、柳沢氏、戸田氏をはじめほんのわずかです。

外様大名は関ヶ原以後に従属した大名であり、関ヶ原では徳川家に対峙した家も多かったことから、これらの大名に対する幕府の警戒は強く、隠密による諜報活動を積極的に行い、不正や謀叛の恐れがある場合は、厳しく改易に処しました。

代表的な外様大名としては、加賀百万石として有名な前田氏の加賀藩のほか、鎌倉時代以来の名家である島津氏の薩摩藩や伊達氏の仙台藩、黒田氏の福岡藩、浅野氏の広島藩、毛利氏の長州藩、鍋島氏の佐賀藩、細川氏の熊本藩、土佐山内氏の土佐藩などなどがあります。

譜代大名より外様大名のほうが石高が高い例が見られるのは、譜代大名は元は豊臣政権下の一大名に過ぎなかった徳川家康のさらに家臣という立場だったのに対し、外様大名は元は豊臣政権下において家康と肩を並べる大名家だったからです。

しかしながら石高の少ない外様大名も珍しくなく、彼らの中には徳川家や譜代大名家から養子や奥方を迎えるなどして縁戚関係を築き、願い譜代として幕政にも参画する例が見られました。一方で大きな石高を持つ外様大名は、幕政からは締め出されることも多く、お取潰しになった藩も多数あります。

また、大名の格式として領地が1国以上またはそれに準ずる石高である者を「国主」、城を持つ者を「城主」、城を持たない者を「無城」と言って区別し、大名が江戸城に参勤した際に詰める部屋も格式に応じて分けられました。

しかし、10万石台の国主に相当するような大大名も、その領土が永久に安堵されるということはむしろ少なく、かなり頻繁に増減が繰り返されました。このため、この対策として、通常は城下一円と藩が所在する国の内外にも多くの飛び地領を持っており、極端な場合には、一つの村を他の領主と分割領有することもあったそうです。

さらにこうした大大名は武家諸法度や参勤交代の制度によって、幕府から厳しい統制を受けており、その他にも、御手伝普請と称する課役や江戸時代末期には海岸防備を命ぜられることもあり、大名は常に経済的にも苦しかったといわれています。

従って、戦国期はともかく、江戸時代には「出世大名」というものはほとんどいなかったと考えて良いでしょう。

しかし、現代社会では無論、「出来る」人はどんどんと出世していきます。逆にできないヤツは淘汰される競争社会であり、良い面もありますが、悲しい世界です。世に言う「サラリーマンの悲哀」は、川柳になども良く歌われるところです。

では、こうした現代においてサラリーマンとして勝ち抜き、出世する人とはどんな人なのでしょうか。

リクルートホールディングスが発行している25才以上の男性ビジネスマン向けのフリーマガジン「R25」では、なぜ出世できるのか、逆に出世できない人には何が足りないのかについて調査すべく、「周囲にいる出世できない人の共通点」として当てはまるものを、20~39歳の男性200名に聞いてみたそうです。

このアンケートでは、編集部があげた12項目の中から上位3つを選んでもらい、1位は3pt、2位は2pt、3位は1ptで集計するという形で行われ、その結果、「出世できない人」の共通点として次のようなものが浮かび上がってきました。

●あなたの周囲にいる「出世できない人」の共通点TOP10

1位 口先だけで行動力がない (230pt)
2位 要領が悪い(175pt)
3位 人望がない(141pt)
4位 ミスが多い(125pt)
5位 意志が弱い(118pt)
6位 人脈が乏しい(108pt)
7位 地アタマが良くない(106pt)
8位 欲がない(51pt)
9位 ストレスに弱い(48pt)
10位 情報感度が悪い(47pt)

上位にランクインした項目はいずれも仕事の成果に直結する「難点」ばかりで、とくに1位の「口先だけで行動力がない」、2位「要領が悪い」、4位「ミスが多い」などは、なんだ、オレのことじゃん、あるいは、あぁアイツのことだ、という人も多いかもしれません。

しかし、こうした能力に起因するものばかりでなく、3位の「人望がない」や6位の「人脈が乏しい」などは、サラリーマンの人間関係に関する項目です。どんなに仕事ができても、周囲の人間からの支持が得られなければ出世はできないと思う人も多いということのようです。

仕事がデキるだけの人が管理職になっても、部下の気持ちが分からなければやはり職場ではうまくたちいかず、またいくら優秀でも、最終的には周りからの評判や信頼が物を言うということなのでしょうか。

では周囲の人の支持を得ながらどうやったら出世できるか、について調べてみていたら、ダイヤモンド社が面白い記事を掲載したのにぶちあたりました。

出世する人とそうでない人、果たしてどこが違うのだろうか?という観点から文筆家・千田琢哉(せんだたくや)という人が、3300人ものエグゼクティブとの対話から生み出したルールだそうです。

本来は全部で70ほどもあるそうですが、この中から私的にもなるほどな、と思う者をいくつか、以下に要約してみましょう。

このブログを読んでいる方には女性も多いと思いますが、私には関係ないわ、と言わず、将来の旦那さんになる人として、どんな人を選べば出世してくれて、一生、左団扇で暮らせるかのヒントになるかもしれませんので、読んでみてください。

ダイヤモンド社記事の受け売りになりますが、わかりにくい部分が多いので、筆者が肉付けして改変しています。

■「出世する人の共通点」

その1 出世する人は、手柄を譲り続けて最後に際立つ。窓際の人は、手柄を奪い続けて最後に干される。

出世する人は、自分の仕事は上司を出世させるために存在するということを理解しています。ここを押さえておかないと、永遠にあなたは出世することができません。自分が出世するためには、まず上司を出世させるのが一番近道です。上司が手柄を寄こせと言ってくる前に、躊躇なく自分の手柄を全部与えてしまいましょう。

自分が出世すればわかると思いますが、「上司の上司」にはすべての実態は丸見えです。あなたが上司に手柄を譲っていることは常に観察されており、謙虚な人間であると評価してくれるでしょう。

その2 出世する人は、丁寧に速くやる。窓際の人は、雑にだらだらやる。

出世コースを歩む人は、雑用を丁寧に速くやります。普通の人なら手を抜きがちな雑用でも進んで手を上げ、丁寧に速く仕上げていくと、その姿は社内で際立ちます。その結果、「こいつに雑用させておくのはもったいない」と雑用を取り上げられて出世していくのです。

窓際コースを歩む人は、雑用を文字通り雑にだらだらとやってしまいます。その結果、「まだこんなこともできないのか」と定年まで雑用をやらされ続けるハメに陥ります。

その3 出世する人は、最初の失敗を活かす。窓際の人は、最初の成功にしがみつく。

成功者は最初に失敗することが多いものです。その失敗を死ぬほど悔しがってバネにし、やがて自らのハードルを上げるようにさえなり、さらにこれを次に活かせるようになるためどんどん成長していきます。

一方、窓際の人は、最初に成功することが多いものです。そしてそのまま過去の栄光にしがみついて努力を怠り、いつまでも周囲に武勇伝を語り続けます。やがて人の背中に隠れて挑戦者の失敗をこっそり横目で見ながら、自分自身はやや低めのハードルにしか挑まなくなり、失敗はしないかもしれませんが、大きく成長はしていきません。

その4 出世する人は、期限切れは極刑に値すると考える。窓際の人は、期限切れは質でカバーできると考える。

仕事というものは、約束の期限までに依頼者の期待を超えるサービスを提供することです。プロの世界では、約束の期限を守れない仕事は問答無用ですべて0点です。時には0点どころか、次から二度と声がかからないこともあり、場合によっては永久追放です。

遅刻に対する考え方の厳しさで、その人の仕事に対する姿勢がわかります。遅れるということはその分、「相手の時間を使った」ということでもあるのです。また、時間というものは、誰にとっても寿命の断片です。つまり、遅刻しないということは、相手の命を重んじるということにも等しいと考えるべきなのです。

その5 出世する人は、退職者を丁寧に見送る。窓際の人は、退職者を裏切り者扱いする。

サラリーマン社会では退職は珍しくないことです。将来出世する人は、たとえそれがどんな相手であろうと退職者を丁寧に見送ります。何か見返りを求めるわけでもなく、同じ釜の飯を食った戦友を敬うようにすればその結果、退職者のうちから成功者が出た時には大きなビジネスに発展したり、間接的に応援してもらえることもあります。

窓際の人は、退職者を裏切り者扱いすることが多いものです。本当は自分も辞めたいのに、勇気がなくて辞められない人も多いでしょう。このため、辞めていく人に悪態をつき、その結果、社内外で「嫌な奴」というレッテルが貼られて孤立無援になるのが関の山です。

その6 出世する人は、経理部からの評価が高い。窓際の人は、経理部からの評価が低い。

あなたの出世は経理部が握っているとわきまえましょう。社の上層部の人事で「この人間は信頼できるか否か」を目利きする場合、経理部のデータをチェックすることが多いものです。チェックは大きく分けて、2つあり、1つ目は書類の提出期限を守っているか否か、2つ目は出張精算で水増し請求しているか否かです。

出張精算で嘘をつくということは、会社のお金を横領しているということであり、経理部のベテランなら、水増し請求など一瞬で見抜くことができます。あなたが社長なら、会社のお金を横領する人間を出世させるでしょうか。

その7 出世する人は、フラット目線の対話を心掛ける。窓際の人は、上下目線の対話しかできない。出世する人と窓際の人は、対話する際の目線が違う。

出世する人は、できるだけ相手と同じラインに立って、フラットな目線で対話しようと努めています。相手と同じ目線で見たり考えたりし、同じ映像を描くように対話するのです。その結果、対話に一体感が生まれてお互いに信頼関係が育まれます。

一方、窓際の人は、すべての相手を上か下かで判断し、フラット目線は存在しません。相手が目上だとわかれば浅ましいほど卑屈になり、また相手が目下だとわかれば見苦しいほど傲慢になるため、結局誰からも嫌われて孤立するようになっていきます。

その8 出世する人は、打ち合わせは25分以内で切り上げることを目標にする。窓際の人は、長居することを目標にする。

大切なお客様と末長くお付き合いしたいなら、打ち合わせで長居しないことです。長居しないためのコツは、25分以内に話を切り上げる訓練をすることです。すると相手は「もう一度会ってみたい」という名残惜しさを感じます。

なぜ30分ではなく25分かというと、30分だともうあと5分くらいいいか、とついつい打ち合わせが長くなってしまうからです。25分ならあともう5分しかない、とフン切りをつけやすくなります。

25分で打ち合わせを終わらせるためには、必ず要件から話すことです。要件は5分で終わらせて、あとは相手の雑談を交えた質疑応答に回答します。また、間違っても、お客様のところで長居したことを自慢のネタにしないことです。

その9 出世する人は、取引先と共に咲いていける方法を考える。窓際の人は、取引先をいかに利用するかを考える。

窓際の人は、取引先を利用することばかり考えています。「いかに自分の利益になるか」が先行し、場合によっては自分の利益が少なければ取引先の利益を奪ってしまいます。こうした人は結果として、取引先を全部失っていきます。

これに対して出世する人は、せっかく関わった取引先であれば共に咲いていけないかを常に考えています。取引先が儲かって、先に出世してもらえば、あの時はお世話になったと、「そろそろ君の番だよ」と多くの手助けをしてくれるようになり、最終的には自分自身も引っ張り上げてもらえるものです。

その10 出世する人は、会議を嫌い、できるだけ立ち話で済ませる。窓際の人は、会議こそが我がアイデンティティと考え、会議を長引かせる。

出世する人は、会議をできるだけ減らすように工夫を凝らしています。できるものなら会議など行わず、コーヒー片手に、立ち話で打ち合わせを終わらせようとさえします。立ち話というのは案外と疲れるもので、長時間話し込むことができませんから、意外と結論は出やすいものです。

窓際の人は、仕事をサボる口実のため、座り込んで話をしやすい会議を開きたがります。仕事でろくな成果を挙げられないから、会議を開くことによってアイデンティティを必死に保とうとし、いったん椅子に座り込むと必ず話は長引きます。こうして何も成果を出せないまま、会議とともに40年が過ぎていきます。

その11 出世する人は、ベストセラーに敬意を示す。窓際の人は、ベストセラーをバカにする。

出世する人は、本にしろ、ファッションにしろ、食ベ物情報にしろ、ベストセラーには必ず自分で実際に手に触れており、自分でレジに並んで買って経験します。そして自分以外の人たちがベストセラーを買う表情や、行動パターンを観察しています。

その結果、インターネットやテレビだけでは永遠に気づくことができない自分だけの一次情報を獲得することができ、この一次情報を加工して自分なりの仮説を構築できるのです。

窓際の人は、ベストセラーをバカにして触れようともしないから一次情報を得ることがありません。従って、自らもベストセラーは生み出せず、そのまま生涯を終えることになります。

その12 出世する人は、課長が部長に報告しやすいように伝える。窓際の人は、自分の思いを一方的にまくし立てる。

コミュニケーションで大切なのは、相手に伝えた話の内容の良し悪しではなく、相手に自分考えたことがきちんと伝わったかどうかです。

例えばあなたが課長に何か報告をしたとき、課長が理解したことがあなたの意図としたことと違えば、その報告はまったく無意味なものとなります。さらにはあなたよりも報告の上手な同僚によって課長がその内容を理解したときには、あなたは無用の存在に成り下がります。

上司とのコミュニケーション不足によって、あとで、「言った、聞いてない」という議論になるケースも多いと思いますが、これは100%部下であるあなたの説明が悪く、そのために相手が理解できなかったとわきまえるぐらいのほうがむしろ良いのです。

コミュニケーションが上手な人は、伝言ゲームを連想します。課長に報告をするとき、さらには課長がその上司である「部長に伝える姿」をイメージしながら課長に伝えるのです。課長が部長に正確に情報を伝えなければ、自分の考えは上へは伝わっていきません。

ひいては自分の考えは常に課長止まりになってしまい、あなたの出世はせいぜい係長止まりということになるのです。

その13 出世する人は、1日に決断した数が年収に比例することを知っている。窓際の人は、決断しないから年収はゼロに近づいていく。

1日に100回決断できる人は、自然に出世して役職も年収も高くなっていきます。1日に1回も決断できない人は、自然に落ちぶれて次第に役職も年収も低くなっていきます。決断した瞬間、そこに初めて仕事が発生し、お金が発生するからです。決断から逃げた瞬間、たちまちそこから仕事が消えて、お金も消えていきます。

会社という場所では、決断できない人は、決断した人が作った仕事に絶対服従するしかないものです。決断できない人は、自分の仕事を作ることができず、一生決断した人に養ってもらうしかないのです。
——————————————————–

いかがでしょうか。会社を辞めて自由業をやっている私が言うのもなんですが、なかなか参考になると思いませんか。

私自身、東京の大手の建設コンサルタントに長年勤めて最後は課長までやりましたから、ここで言っていることはよくわかります。出世しないとわからないこともありますが、平社員のうちに上の人が管理者の立場でどう考えているか、を何につけても常に先読みしていく、というのもまた出世の秘訣のような気がします。

なぜか出世する人と、いつのまにか窓際に追いやられる人がいるのか、両者はいったい何が違うのかを、これを読んで年末年始に考えてみるのもいいかもしれませんね。

一方では、「自由に働こう」、「独立しよう」といった趣旨の本がよく売れているようですが、しかし、会社にすら埋もれて窓際に追いやられているような人が外に出てうまくいくはずがありません。

自由になるためにも、まずは今の職場で成功してみましょう!今いる場所で「出世」する際に得た経験は、会社を辞めたあとの人生においても必ず自分を輝かせる糧として戻ってくるはずです。

さて、今年の二十四節気はあともう冬至だけです。今年は12月22日が冬至で、北半球では太陽の南中高度が最も低く、一年の間で昼が最も短く夜が最も長くなる日です。

ということはこの日を境に逆に来年に向けてだんだんと日が長くなるというわけで、やがて「夜明け」がやってくるわけです。なんだか来年が妙に待ち遠しくなってきました。

 伊東市 一碧湖にて

瞬間移動?


皆さんは、自分の身近にある物が突然消え失せたり、また、ある日ある時、何でこんなものがここにあるの?とそこにあるべきでもない物体が現れたり、という経験をしたことはないでしょうか。

そうそうめったにあることでなく、たいていは何かの思い違いに違いない、と思い返して済ましてしまうのですが、その後時間が経つにつれてふとした拍子に、いったいあれは何だったのだろう、と思い返して、果たして自分は頭がおかしいのだろうか、と真剣に悩んだりすることさえあります。

私の場合もそれほど多いわけではありませんが、過去数度ほどどう考えても理解できない、「事件」があったことを記憶しています。

そのひとつは、ここ伊豆に越してくる前に住んでいた東京のマンションでのこと。真冬のことだったので、息子が学校に出かけたあと、彼の部屋の窓についた露をふき取ろうと、「露取りワイパー」なるものを使っていました。

T字型をしており、先端にはゴムがついていて、このゴムでこそぎ落した窓ガラスの露がプラスチック製の中空の柄の中に落ちて溜まる、というもので、たいていの家にはあるものではないでしょうか。

これを使って公園に面した彼の窓の上から順番に露をふき取っていたのですが、作業をほぼ終えて一番下まできたところ、??? 突然ワイパーの先端のゴムの部分が消えて無くなったのです。

エッ???と思い、すぐ側にあったカーテンの中にでも入ったのかと思い、カーテンをゆすってみましたがそこにはなく、窓のサッシの隙間にでも入ったのかとそこを探してみてもありません。

このとき窓は開いておらず、まさか外に吸い出されるわけはないよな、と思いつつ、消えて無くなるわけがない、と部屋中を探してみたのですが、結局このゴムは見つけることができませんでした。

その後、もしかしたらまたゴムの部分が出てくるかとプラスチックの柄の部分はそれからも長いこと持っていたのですが、やはり出てくることはなく、引越しでこのマンションから荷物を持ち出すときにも気になって探してみたのですが、とうとう発見できませんでした。

飲み物とかの液体や気体がなくなるなら自分が摂取したということも考えられなくはありませんが、こともあろうに露取りワイパーの先端のゴムなどという、ごくありふれた日常品が、しかも目の前で消滅する、などということがあるわけはなく、常識では考えられません。

ちなみに私はお酒をたしなむほうですが、これは朝起き抜けの出来事であり、酔っぱらって記憶がないとか、寝不足で頭が朦朧としていたとかいうこともありません。悩むというほどではありませんでしたが、もしかしたら頭がおかしくなったのか、とその後もしばらく気になっていました。

実は、これとは真逆に、ある日突然不可思議な物体が現れる、という経験をしたこともあります。これはこのマンションに住む前に住んでいた東京の多摩に購入していた一軒家でのことです。この家には二階に洗濯物を干すベランダがしつらえてあり、このころは先妻を亡くして息子と二人暮らしだったので、いつも洗濯物は私が干していました。

いつものように二階に上がり、窓を開けてベランダに出たところ、そこに何かが「置いてある」のに気がつきました。

近づいてみると、14~15センチほどもある丸い石で、もし空から落下してきたのなら、普通はそこにあるべき傷跡のようなものがあるはずですが、木製の床にはそんなキズどこにもありません。また息子君が何かの遊びのつもりで持ち帰ってきたのかと思い、ちょうど学校へ行く直前だった彼に問いただすと、きょとんとした顔で知らない、といいます。

無論、私も自分でこんな石を二階にまで持って上がった覚えはありません。この家は、公園に面しており、ここではボール遊びをする子供たちが時にはいるため、ここから石が投げ込まれたのかと考えました。

しかし、この公園の広場からここまでは30m以上も離れており、この大きさの石を投げて、我が家のベランダまでうまく「着地」させることができるような技術と体力を持った少年がいるとは思えません。しかも床にはキズ一つないので、少なくとも下から投げあげてここに「軟着陸」させたとも考えられません。

誰かが裏木戸をあけて我が家の敷地内に侵入しようとすればできなくはありませんが、ご近所さんとの人間関係もよく、そんなことを誰もやる必要はありませんし、仮に誰かが意図的にそんなことをしたとしても、このベランダに外から直接アクセスできる階段はなく、だとすれば何のために二階のベランダまでよじ登り、石を置くというのでしょうか。

この場所は風の強い場所であり、時には小枝くらいの大きさのものが飛んでくることもあったのですが、まさかいくらなんでもこの大きさの石が飛んでくるということは考えにくく、ましてや隕石のようなものではなく、普通に河原に落ちているような丸い石です。

結局原因もわからずこの件は、その後忘却の彼方にありましたが、今この項を書き始めながら、ふと思い出した出来事です。

ほかにも若いころに何かが紛失したり、ある時部屋の真ん中にわけの分からない物体が出現したり、といったことがあったように思いますが、そういうことを真剣に考え始めると頭がおかしくなりそうなので、意識的に忘れようとしたのか物が何であったのか良く思いだせません。



が、私に関していえば、若いころからたびたび経験する現象です。

このように、物体が瞬間移動する、あるいは遠くにある物体がある日突然現れるという現象はスピリチュアル的には「アポーツ」と呼ばれているようです。

「遠隔瞬間移動現象」ともいい、物体や人間が時間と空間を超越し、物質の壁を通り抜けて瞬間的に移動する現象です。

通常では考えられないことであり、心霊現象のひとつだという人もいますが、なんで霊が物体を動かすのよ、ということで私的にも懐疑的ではあります。

SFの世界では、人間が瞬間的に移動する「テレポーテイション現象」というのがよくとりあげられますが、こちらはあくまでも想像の世界の話であって、現実的にそんなものがあるわけはない、とも思うのですが、驚くなかれこれには実例があるようです。これについては後述します。

こうした「アポーツ」の特色は、あまりにも地上人の常識・科学の常識を超えているため、直接自分の目で見て確認できないかぎり、とうてい信じることはできません。

が、私の場合、上の前者のケースはまがうことなく目の前で物体が消えたので、もしかしたら……と思っています。

マジックでは、何もないところからマジシャンが花や動物・鳥などを取り出します。が、無論のことマジックにはトリックがあるわけですが、遠隔瞬間移動現象は、ある日あるとき、何の意図も感ぜられずに発生することが多いようです。

色々調べてみると、アポーツ現象というのは昔からあるようで、実際に現れた物品が、証拠として写真に収められてもおり、それらの物体はさまざまで、水晶球・骨董品・カップ・アクセサリー・お菓子・矢じり・液体・植物・花・生きている魚や鳥・果物・土など、ありとあらゆるものに及びます。

日常的にあるものばかりであり、それを証拠写真であるといわれても俄かに信じれるはずもありませんが、撮影した御当人たちは、いや、これはアポーツによって現れたものである、と主張してやみません。私と同様、目の前で起きた出来事だからでしょう。

ところが、このアポーツを手品のようなトリックでなく、しかも時折といった偶発性のあるものとしてではなく、頼まれればいつでも実際に体現して見せてくれる人物が日本に実在しました。

長南年恵(おさなみとしえ)という人で、幕末の文久3年(1863年)に現在の山形県鶴岡市に生まれ、亡くなったのは明治40年(1907年)であり、その人生の大半を明治維新以降の時代に過ごした人です。

明治時代屈指の霊能者、超能力者ともいわれる人で、20歳のころからほとんど食事をとらず、口にするものは生水程度であったといい、空気中から神水などの様々な物を取り出すなど、多くの不思議な現象を起こしたことで知られていいます。

江戸時代には羽前国と呼ばれていた山形の庄内藩士の長女として生まれ、20歳のころまでの詳しいおいたちは不明ですが、明治7年に鶴岡で小学校が開校されたころには家が貧しかったためかこれに入学出来ず、子守奉公に出るようになったようです。

このころから、次第に予言めいた言葉を口走る様になったといい、次第にその噂を聞きつけた近所の住民の相談にも乗るようになっていきました。これが評判を呼び、やがて奉公先から巫女として開業することを薦められるようなります。

この長南年恵には弟がおり、長南雄吉といいましたが、その後大阪浦江にあった大日本蓄電池株式会社の専務取締役にまで上り詰め、彼が見た姉の年恵の20歳以後の超常現象などの記録を書き綴って残しています。これをさらに後年、心霊研究家の浅野和三郎という人物がまとめて発表しています

ちなみに、この浅野和三郎のことは、以前書いた芥川龍之介の項などでも少し書いていますので、詳しくはそちらをご覧ください(河童の死)。

東京帝国大学で英文学を専攻し、小泉八雲の教えを受けたあと、海軍に請われて、横須賀にある海軍機関学校の英語教官に赴任しましたが、三男が原因不明の熱病にかかり、医者から見放されたとき、ある霊能者の女性助けられ、これをきっかけに心霊研究に傾倒するようになりました。

そして、海軍機関学校を退官してまで実践的な心霊研究を進め、1923年(大正12年)3月に「心霊科学研究会」を創設した人ですが、この浅野和三郎の後任として海軍機関学校の英語教官に就任したのが、芥川龍之介です。

さらにちなみに、ですが、日露戦争における日本海海戦における連合艦隊の参謀を務めて有名になった秋山真之もまた、この浅野和三郎に触発されてその晩年に心霊研究を行うに至っており、何かと明治時代の海軍というところはこうした霊的なことに興味を持つ軍人さんを輩出しています。

日露戦争などの大きな戦争もあり、戦没者も多かったことから、あるいはそういう霊的なことを尊ぶような雰囲気があるところだったのかもしれません。

さて、この長南年恵の弟の長南雄吉が書き残した姉のエピソードというのは次のような不思議なものです。

まず年恵は、成人してからも肉体的、精神的に少女のようであったといい、また身辺には頻繁に神仏が現れ、彼等と会話をしたり、一緒に舞を舞っていたといいます。

元々小食だったそうですが、25歳頃から、少量の生水と生のさつま芋を摂るだけの食生活を始めるようになり、ある時、家族の一人がこっそりと白湯(さゆ)を飲ませると、吐き出してしまったといいます。

30歳頃からは排泄作用がなくなり、また汗や垢といったものも殆ど出なかったそうで、風呂に入らなくても髪や体はいつも清潔であったといいます。それと同時にさまざまな「霊能力」が発現するようになりました。

空気中から「神水」を取り出すことができるようになり、密封した空の一升瓶の中に人々の目の前で満たし、この神水を万病に効くといっては人に分け与えていたといいます。

しかし、病人でもなんでもなく冷やかし等の目的の人や不治の病人の前では、神水は授からなかったといい、それを知らずに彼女が瓶を満たそうとしてもいつまでたっても空瓶のままだったそうです。

この「神水」もいつも同じ色ではなく、赤、青、黄など様々な色があったそうですが、後年詐欺師としてとらえられ、その後無罪となった裁判所での公判では、茶褐色の水を取り出してみせたといいます。

さすがに信じがたいことではあるのですが、1900年(明治33年)7月9日に全国紙新聞記者がこの彼女の神業に懐疑の目を向け、目の前で霊水引寄せをしろと要求した際にも、その眼前で水を取り出して見せ、これを見たこの記者も瓶の中にひとりでに水が入ったのをみて、これを現実として認めざるを得ないという結論に至ったといいます。

32歳のとき、神水を用いて、医師の資格なしに病気治療と称する行為を行ったとして、詐欺容疑で逮捕され、山形県監獄鶴岡支署に60日間勾留されましたが、この勾留期間中にも様々な現象が起きたといいます。

この勾留期間中も一切の排泄物が無かったといい、入浴は許されていませんでしたが、常に髪は清潔であり、体臭も無く、逆に近づくと良い香りがしたといいます。

また、勾留期間一切食事を取らなかったそうで、完全に外部と遮断された監房内においても「神水」を取り出してみせ、またこのほかにも「お守り」「経文」「散薬」などを空気中から取り出しました。

長期の拘留生活で足腰が弱って当然なのに、一升瓶15本分もある水の入った大樽を軽々と運んだといい、さらには収監者の中で、ただ一人蚊に刺されなかったそうで、こうなるとほとんど人間とは思えません。

もしかしたら「神様」のような存在だったのかもしれず、それを裏付けるように複数の係官が彼女がいる獄の周辺で不思議な笛の音を聞いたともいわれています。

このときは年恵は、結局証拠不十分で釈放されていますが、その翌年には2度目となる逮捕となり、一週間拘置されたあとに釈放、さらに4年後に37歳になったときにも逮捕されるという辛酸をなめています。

この三度目の逮捕は、彼女の神業が新聞記事に掲載されて騒ぎが大きくなったためであり、このため10日間拘置されましたが、1900年(明治33年)にはこの拘置に対して周囲の人間が訴訟を起こし、このため神戸地方裁判所で裁判が行われました。

結局この裁判では、証拠不十分を理由として彼女は無罪判決となりましたが、この際、彼女の業に好奇心を持った弁護士たちが長南年恵に個人的な試験を申し込んだそうで、年恵もこれに応じたために霊水出現の試験が行われる運びとなりました。

弁護士の一人が封をした空きビンを渡し、空きビンに神水を満たせるかと質問したところ、長南年恵はできるといったといい、実験の前に長南年恵は全裸にされ、身体を厳重に調べられ、密閉空間の別室に閉じ込められたといいます。

この別室で精神を集中した長南年恵は、5分ほどの後に部屋から出され、弁護士や裁判官が見守る中、空きビンに濃い茶褐色をした神水を満たしたといいます。このときの裁判長はこれを「証拠品」としてその水が入った瓶を持ち帰ったと記録されています。

年恵は普通の女性と違って初潮もなく、少女のままで生涯を過ごしました。40歳を過ぎても20代の若さを保っていたといい、上にも書いたとおり、このころの彼女の身体からは常によい香りがただよっていたと言われています。

ちなみに何等かの「神性」に巡り合ったときには良い香りがするといわれており、私自身何もない山中や公園で、突然良い香りを感じたり、お線香の臭いを感じたことがあります。景色の良い場所が多かったような記憶があり、こうしたところには神様が降臨しやすいのかもしれません。

長南年恵はしかしその後、1907年(明治40年)に享年44歳で亡くなりました。没後もその神水によって救われた人々によって語り継がれ、2006年11月3日には年恵の生地である山形県鶴岡市の般若寺というお寺で、彼女の没後百年をしのび「長南年恵100年祭」が行われたそうです。このお寺には彼女の墓のあるようです。

インドでヨガを極めた人達の中には何十年もの間、飲食を断ったまま生活している人間が実際に存在するようですが、日本にもこうした人がいたというのは驚きです。

人間が長期にわたって飲食をせずに生き続けるというようなことは医学の常識では考えられませんが、しっかりとした記録も残っているようですから、そうした超人的な人間が我が国にも確かに存在したことはきっと事実なのでしょう。

こうしたことから彼女は、日本を代表する霊媒の一人と目されています。スピリチュアルを信じる人達は、彼女は日本における霊的真理普及の“露払い”の役目を担って霊界から遣わされた高級霊の再生者であったと言っているそうで、このため地上という物質世界にいながらにして霊界人のような歩みをすることになったとしています。

この年恵が多くの患者の病気治癒のために神水を取り出すという業は、まさに“アポーツ”であり、これを私が経験したような偶然とも思えるような物体移動ではなく、人の眼前で実現してみせたところがすごいと思います。

長南年恵以外にも何もないところで、手のひらからお経のようなものを取り出すことができる人というのをその昔テレビで見たことがありましたが、名前を忘れてしまいました。が、こうした人が行う行為はたいていがマジックだろうとか、ペテン師だとかいわれてしまいます。

年恵もこの当時も詐欺師であるとかいろいろ言われていたようですが、官憲の厳重な監視のもと、インチキが一切できない状況下での出来事であったようで、明治という近代になってからのことでもあり、私としてはやはり信じるべきかと思います。

実はこうした遠隔瞬間移動現象は、物体だけでなく、人にも起こったという記録があります。さすがに日本ではなく、イギリスのロンドンで起こった出来事であり、「テレポーテイション現象」の「実例」とされているようです。

物体が物質の壁を通り抜けて運ばれ突如目の前に出現するというアポーツ現象は、これだけでも驚きですが、運ばれてくるのが物体ではなく“生きた人間”ということになると、神秘性はさらに高まります。

この「実例」はこれを目撃した人の証言が信頼に足るとされるテレポーテイション現象のひとつで、「ガッピー夫人の例」として知られているようです。

1871年6月3日と日付まできちんと記録されています。この日、ロンドンのラムズ・コンディット街というと場所のウィリアムズ家という家で交霊実験会が開かれていました。

交霊会というのは、降霊会ともいい、霊媒者を介して、あるいはひとつのテーブルを取り囲むことで死者とのコミュニケーションをはかるセッション(会合)のことです。お化けが大好きなことで知られるイギリス人の間ではその昔から行われ、現在でもさかんに各地で交霊会が行われるといいます。

このとき、ここにはこの家の当主のウィリアムズ以外に、この当時ロンドンで最も有名といわれた有名な霊媒師のヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(旧姓ハーン)、そして8人の参加者がいました。

この時、ガッピー夫人はウィリアムズ家から5キロほど離れた自宅におり、この交霊会には参加していませんでしたが、スピリチュアルというテーマを通じてウィリアムズやこの日のメンバーとは普段から面識があったようです。

この時行われたウィリアムズ家の交霊会でもさまざまな心霊現象が引き起こされたそうですが、これらが一段落したあと、そのうち一人の参加者が「支配霊であるケーティ・キング霊に何か持ってこさせよう」と提案しました。

ケーティ・キング霊というのは、あちらの高いレベルの世界にいるとされる高級霊で、こうした交霊会ではその優れた霊の力を借りて、死去した有名人の霊を呼び出したり、この世では解決できないような難しい問題の回答を得たりすることができるといわれています。

これを受け、この当時の心霊雑誌“スピリチュアリスト”の編集長であったハリソンという人物が、冗談半分に「ガッピー夫人を連れてきたらどうか?」と言い出しました。

ガッピー夫人は非常に体格のいい女性でしたので、一同からは「それは無理な話だ。彼女はロンドンで一番太った女性だから」というジョークが出てみんな大笑いしました。

ところが、このときヘレナ・ブラヴァツキーに乗り移っていたケーティ・キング霊からは即座に、「やってみましょう」との返事がありました。

やがて、ヘレナは目をつむって瞑想をするような状態となり、一同が固唾を飲んで彼女を見つめる中、三分ほど経ったあと、突然、彼らが囲んでいたテーブルの上にドスンと重いものが落ちてきました。

これをみた参加者たちから悲鳴があがりましたが、この落ちてきた物体こそが、何とガッピー夫人だったのです。

夫人はトランス状態に入っているようで、ほとんど身動きしていませんでしたが、かすかに震えていました。

ゆったりとした部屋着姿で、襟元がひどくはだけていたそうで、右腕で両目を覆うような格好をしていましたが、その手には先ほどまで使用していたかのようにペンが握られていました。

左腕は脇の方へだらりと下がり、しかも手には家計簿を持っていました。夫人本人だけでなくペンや家計簿までテレポートされたということになりますが、このペンに付いていたインクと家計簿の最後の文字はまだ濡れていたそうで、これを見た一同は顔を見合わせて青ざめたといいます。

彼等は婦人がテレポートのショックで具合が悪くなったのではないかと心配しましたが、彼女はやがて目をあけました。しかし、いったい自分の身に何が起こったのか、どうしてそこにいるのか、全く分からないといった様子で、彼女はここに現れる直前までは、友人のネイランドという娘さんと一緒に自宅にいたはずだと言いました。

のちに、このネイランドは、この日の午後8~9時の間、ガッピー夫人と2人で部屋の暖炉のそばでテーブルを挟んで座っており、このとき彼女は本を読み、ガッピー夫人は家計簿をつけていたと証言しています。

彼女が本を目にしながら、夫人に話しかけたとき返事がなかったので目を上げると、そのときはもう夫人の姿が見えなくなっていたそうで、ついさっきまでそこにいると思っていた婦人がそこにいないのに驚いた彼女は、自分が本に夢中になっている間に彼女が部屋から出て行ったのかと思ったそうです。

ところが、このとき、部屋の扉は閉まっていたそうで、この扉を開け閉めするような音がしたでもなく、しかも夫人のスリッパは腰掛けていたイスのそばにありました。

ふと上を見上げると、その天井の辺りには何やら「白い靄(もや)」のようなものが漂っていたといい、これを見て不安になった彼女は慌てて他の部屋を探してみましたが、夫人の姿はどこにも見あたりませんでした。

この話を後日聞いた彼等は、この白い靄のようなものは、夫人のエクトプラズムではなかったかと思ったそうです。

エクトプラズムとは、霊の姿を物質化、視覚化させたりする際に関与するとされる半物質、または、ある種のエネルギー状態のもので、スピリチュアリズムの世界では「エネルギー」、もしくは、「活力」に近く、自然科学の単位で定量出来ないものとされています。

通常の人は誰でもエクトプラズムを持っているとされ、これが体外に出る場合、通常は煙のように希薄で、霊能力がないと見えない場合が多いとされていますが、逆に高密度で視覚化する際には、白い、または半透明のスライム状の半物質になるそうです。

だとすると、ネイランドが見たこの白い靄のようなものは、ガッピー夫人テレポートするために現れたのではないかということになります。あるいは、姿形を靄に変えたガッピー夫人そのものだったかもしれません。

当のガッピー夫人は、交霊会が終わってからも狐につままれたような風だったといいますが、4人の参加者にともなわれてやがて車で帰宅しました。

テレポーテイションの事例は、ほかにもあり、「空中浮揚」などの業で名高いブラジルの霊媒師のカルミネ・ミラベッリという人物は、1930年のある日、サンパウロのグルス駅から、90キロも離れたサンヴィンセンティという場所にテレポートしたことが記録に残されているそうです。

同行していた仲間の話ではその面前で突如彼の姿が消え、その15分後に電話がかかってきたといい、これは彼がサンパウロのグルス駅から遠く離れたサンヴィンセンティからかけてきた電話だったそうです。

のちにサンヴィンセンティの地で彼を目撃した人の話からは、彼がこの地に現れたのはグルス駅で消えてから2分後のことが確認されているということです。

1930年といえば昭和5年ですから飛行機はもう既にありましたが、軍事用のものが開発され始めたころのことであり、民間人が簡単に手にできるものではありません。しかもサンパウロの街角に飛行機が離発着できるわけはありません。

こうしたアポーツやテレポーテイションという「遠隔瞬間移動現象」は、地上人の常識では考えられない奇跡的な現象です。

無論、科学的には説明できませんがその発生メカニズムとしてはいくつかの仮説が示されています。

その一つは「四次元空間」が存在するという説で、私たち三次元空間に住む人間には認識できない高次の空間形態があり、物体がいったんこの異次元空間に持ち込まれて移動し、再び三次元空間に引き出されるという形でアポーツ現象が発生するというものです。

異次元空間では三次元空間のような時空の概念を超越しているため、どんなに遠方であっても瞬時に移動できる、というわけで、これと同じような現象がUFOだという人もいます。

時空を超越した異次元空間では、何十万光年の距離も一瞬にして移動が可能なため、他の天体にいる宇宙人は地球に飛来できるのだというわけですが、じゃあ物体が移動するアポーツ現象もまた宇宙人の仕業か、といわれると説得力がありません。

もう一つの仮説は、上の交霊会でのガッピー夫人のテレポーテイションの例のように、こうした現象は、霊界の霊によって引き起こされるというものです。

どういう理由のもとにそうしたことを霊がやるのかというところはよくわかりませんが、こうした説をとる人によれば、物体はいったん何等かの「非物質状態」に分解され、その状態で移動し、目的の場所で再結合される、といいます。

非物質に分解された状態なら、他の物体を通り抜けることがでるといい、霊もまた「霊体」という非物質の身体を持っているため物体を通り抜けられるのと同じだといいます。

そうした能力を持っている霊だからこそ、自らだけでなく、現実にこの世にある物体の分解(非物質化)と再結合を行うことができ、「アポーツ」が成立するといいます。

この非物質化が人間である場合、このプロセスにおいては先述の「エクトプラズム」が重要な役割を担うといいます。

そして霊界にはこうした人のエクトプラズムを作ることに長けた「職人霊」がおり、実世界に霊が見えやすいように、エクトプラズムを発生させ、霊媒などを介してこれを我々に見せることができるのだということです。

一方、非物質化現象のことを彼等は「幽質化」とも呼んでいるようです。かなり高次元の振動を与えることで幽質化した物体をこうして発生させたエクトプラズムが包み込んで目的の場所まで運び、その先で物体の振動を下げることによって元の物体に戻すといいます。

こうしたプロセスを地上サイドから見ると、「物体がいったん消えて別の場所に出現する」ということになります。が、それを行うのにエクトプラズムが使われているのだとすれば、エクトプラズムを扱っている実体は霊ですから、何等かの霊がそれを行ったということになります。

ということは、私が経験したアポーツらしい現象もまた、何等かの霊がやった仕業か?とうことになるのですが、だとしたらどうして何のため?ということになります。

もしかしたら息子の部屋の窓の露をぬぐったり、洗濯物を干すような「主婦」の仕事をお前がやるな、とあちらの方が言っていたのかな、と今にしてみれば別の観点から考えてみたりもしています。

良く覚えていないのですが、私がこれを経験したときには仕事の面とから何かうまくいっていないようなことがあったのかもしれず、守護霊さんが、それを補うためのヒントをくれたのかもしれず、あるいはその日交通事故に遭うとか、何か危険なことを経験していたのかもしれません。

何等かの危険が身に迫っているとき、守護霊などがそれを気づかせようと、いろいろとメッセージを送ってくる、という話も聞いたことがあります。

このときもそうだったのか、今となってはよくわかりませんが、これからもしまたアポーツが起こったら、気を付けてみておこうと思います。

皆さんはいかがでしょうか。ある日突然モノが無くなったり、こんなところにこんなものがあるはずがない、というような経験したことは誰しもあるように思います。が、たいていはそんなことはあるはずはない、と考え、やがては私と同じように古い話は忘れていきます。

こうした現象が起こるメカニズムについては、本当に霊の仕業なのかもしれませんが、あるいは現時点の地上人には理解できないような何かほかの原因があるのかもしれず、遠い将来には詳細な説明がなされるような時代も来るかも知れません。

が、もっともそうした原因を人類が突き止めるころには、私自身が霊界にいるかもしれません……

私自身が自由にエクトプラズムを操れる存在になっていたら、そのときはこのブログを読んでいる方々にアポーツ現象を見せて進ぜましょう。

時よ止まれ


12月になりました。

今年もあと1ヶ月となると、もうあとは何もできないなぁと思う一方、いやいやまだ時間はたくさんある、と思い返したりもします。あげくのはてには、めんどくさいな~と、とか思いつつもついつい年末ぎりぎりまで大掃除などで頑張ってしまったりしてしまう……今年ももうそんな季節になりました……

それにつけても、年齢を増すごとに時間の経過が早くなるような気がします。年齢を重ねれば重ねるほど、一日なり一年が過ぎるのが速くなってきている、という感覚はほとんどの人が感じることのようです。

その原因を探してみると、以下のようなことがいわれているようです。

説1:経験による処理速度向上説
新鮮な経験が少ないと、時間の経過は短く感じるという説。

説2:心拍数の法則
「心拍数」の高さと時間感覚には関係があるという説。

説3:インプットが少ないから説
記憶量=時間 という理論。この理論だと仕事でアウトプットばかり続けていてインプットが少ない大人の時間は短くなるという説。

説4:ジャネーの法則
人が感じる時間の長さは、自らの年齢に反比例するという説。

説2の「心拍数」は「子供のときは心拍数が高いので、時間がゆっくり流れるように感じるが、大人になると心拍数が低くなるので、時間が早く流れるように感じるようになる」ということのようです。心拍数が低くなるということは医学的にも実証されていることなので、あぁもっともかな、という気がします。

が、個人的には説1のように、新しい経験が少なくなるから、という説が正しいかな、という気がします。いろんなことを経験してきたあとでは、新たなチャレンジに要する時間も少なくて済みます。そうした意味では、説3も同じで、新しい経験=インプットが少なくなるわけで、これは同じことのように思います。

年をとって自分の動作や思考の速さ・時間当たりの作業量が低下すると、相対的に時間が速く過ぎるように感じる、ということもよく言われます。若い時に10分で歩けた道を歩くのに20分かかるようになったり、1日で片づけられた仕事に2日かかるようになったりすると、相対的に時間が2倍ほど速く過ぎるように感じることになるわけです。

何かをしようと考えているうちに、あれっ、もう一時間も経っちゃった、というようなことは、我々ぐらいの年齢の人ならだれでもある経験ではないでしょうか。若いころには、ものの10分ほどで決断して行動に移れたのに……です。

説4のジャネーの法則というのは、これを法則化したものです。19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネが発案し、甥の心理学者・ピエール・ジャネが著作で紹介した法則で、これは主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象を心理学的に解明したとされるものです。

簡単に言えば生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例するというもので、言い換えれば時間の経過は年齢に反比例します。

例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどですが、5歳の人間にとっては5分の1に相当します。従って、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになります。

本当に時間の経過がこの計算どおりかは別として、「法則」といわれればなるほどそうかな、という気にもなってきます。

が、なんとなく釈然としないのは、年をとれば時間が流れるのが早いというのは確かにそうかもしれませんが、同じ年齢の人を比べた場合、人によって時間の感じ方は違うからではないでしょうか。私と同年齢の友達の中には、時間なんてそんなに若いころと違いしやしないよ、という人はたくさんいます。

また、だいいちこの法則が人間にだけに適用されるというのはおかしいと思います。ほかの生物も同じなのか、といえば、「ゾウの時間、ネズミの時間」に代表されるように生物の個体の生理学的反応速度が異なれば、主観的な時間の速さは異なると考えられているようです。

この「ゾウの時間、ネズミの時間」というのは、動物生理学を専門とする生物学者の本川達雄の新書のタイトルで、1992年に中公新書から発行されてベストセラーになり、1993年の講談社出版文化賞の科学出版賞をも受賞した本です。

動物のサイズから動物のデザインの論理が数理的に解説されており、動物の大きさや種類によって時間感覚や体感時間が違うということが説明されています。

動物の体重や食事量、生息密度、行動圏の大きさ、歩く速度の関係などから動物の大きさなどが変わってくるというようなことの解説があり、当然感じる時間の長さも寿命も変わってくる、というわけです。

従って、ヒトとネコでは時間の感覚が違うはずですし、また同じ人間であっても、食べるものや住んでいる場所、はたまた体格や性別によっても感じる時間の長さが違っていても不思議ではありません。

実は、ジャネーの法則とは逆の科学的見解もあり、年をとると時間の流れを遅く感じるとことを示す実験結果もあるそうです。

たとえば1分経ったら合図をする条件で統計を取ると、年齢が上の人ほど遅く合図する傾向があるそうで、このことから、年をとると現実の時間より心的時間の方がゆっくりと流れるようになり、実際の時計とは異なる精神的な時間というものがあるのではないかという意見があるようです。
 
これには、いくつかの要因があるとされ、その中の一つとして加齢にともなう身体的な代謝の低下が考えられ、代謝が落ちると、心的時間もゆっくりと流れるようになる、という学者もいます。

この説だと逆に代謝が活発だと、心的時間は早く流れるということになり、代謝は心的な時計の動力源の一つということになります。

確かにが年を取って時間が早く流れるように感じる反面、こうしたお天気の良い秋の日に庭先の陽だまりを眺めていると、昔若かったころよりも妙にゆっくりと時間が流れていくような気がします。実際には1時間もその場にいたような気がするのに、数分しか経っていない、などということもありがちです。

従って年齢を重ねてからの時間の経過というものは、実生活において時間が流れていくのが早いと感じつつも、その刹那刹那では心的にはわりとゆっくり流れているように思える瞬間が多くなるというのが私の実感です。

とはいえ、年齢には全く関係なく、気分によっても変化するような気もしますし、個人差だってあるような気もします

例えば同じ音楽を聴いても、安静にしていたり寝ぼけている時は速く聴こえ、激しい運動や活動の後では遅く聴こえる事があります。おなかがすいているときに、ラーメン屋を探しているとその道のりは長く感じますが、ラーメンを食べておなか一杯になったあとの道のりは妙に短いのは何故なのでしょう。

そもそも時間とは何かと言えば、ヒトが勝手に作り出したもので、原始の時代にもともとは時間などなかったはずです。

時刻の表し方は、歴史的に見て様々な方法があり、古くは太陽の動きでこれが決められました。日の出という時刻があり、日没という時刻があって、また日が南中する時刻が正午とされたわけで、このほかにも月や星の動きによって時間は決められていました。

すなわち時刻は、自然をもとに決められていたのであって、現在のように機械式の時計を基準に定められたりなどしていなかったわけです。

現代の自然科学を習得し、その枠内で思考するようになってから、人はつい、時間は常に一定の速さで過ぎるものでそれに合わせて様々な現象の進行速度や周期の長さが計れる、と考えがちです。

が、実際には周期的な現象、例えば天体の周期運動、振り子の揺れ、水晶子の振動、電磁波の振動などの繰り返しの回数を他の現象と比較して、これを「時間」と思っているだけにすぎず、よーく考えてみると、何か絶対的な時間の歩みそのものを本当に計っているかどうかさえ疑わしくなってきます。

実は「常に一定の速さで過ぎる時間」という概念は、ガリレオ・ガリレイによる「振り子の等時性の発見」とその後の「機械式時計」の発達以降の近代において優勢になってきたものであり、こうした概念が西洋から入ってくる前の日本では、「不定時法」はごく普通に使われていました。

定時法とは言うまでもなく、1日を24時間に等分割し、時間の長さは季節に依らず一定な現代の時間法です。一方、不定時法とは、夜明けから日暮れまでの時間を6等分する時間法で江戸時代以前の日本で普通使われてきた時間概念です。

日出と共に起き日没と共に寝る昔の生活に根ざした時法ですが、季節により昼夜の長さが変わるので時間の長さが変わってしまいます。不便なようですが時計のない人にとっては太陽の高さで大体の時刻がわかるので却って便利です。

これと同様に、その時代時代でそこに住んでいる人達が信じている「信念」のようなもので時間の流れる速さは異なる、ということは古代からの通念であり、例えば仏教の世界観では「下天の1日は人間界の50年に当たる」と言われているとおり、我々が一日と思っている時間も実は別世界では3日かもしれず、100年である場合だったあるのです。

科学的な意味でも一般相対性理論では、重力ポテンシャルが異なる場所では時間の流れる速さは異なることが知られており、こうして考えてくると、現在の我々が定めている時間というものはいったい何なのよ、という気がしてきます。

西欧で中世以降に機械式の時計が登場してからは、人々は機械的意識にもひきずられるようになり、機械の針が零時を示した時が一日の始まりだという認識を持つようになりました。

が、よくよく考えてみればこれは自然と切り離されてしまった時刻観であり、現代の欧米諸国や日本をはじめとする先進国の人々は、こうした自然から離れてしまった機械的時刻を意識しているが故の強いストレスを感じているといわれています。

実は、人工的に作り出された「秒」の長さ・周期というのは、平均的な人間の平常時の脈拍よりも短く設定されてしまっています。

こうした「せせこましい」秒周期の音を日々聞かされることや、あるいはそれを意識することが、人間にとって何らかのストレス源になってしまっているのではないか、ということを指摘する学者もおり、人間は普段意識している「時間の長さ」が我々の心にも影響を与えていることは心理学的にも確かめられています。

また音を聞いている環境には、いろんな「環境音」というものもあり、この環境音の周期・リズムから心理的・生理的に影響を受けることも多くの実験で明らかになっています。

例えば工場地帯に住んでいる人は、近くにある工場の操業が始まったことで今何時ころであるかを意識するでしょうし、何にもない北海道の大草原で寝起きする人は、鳥のさえずりや北キツネの遠吠えで時間をなんとなく「感じて」いるはずです。

医学的には、自分自身のその時々の脈拍をリアルタイムで聞いていると心地よいと感じ、心地よく感じていることを示す脳波が多く出ることなども実験によってわかっています。

もしも仮に一秒の長さが現在の設定よりもいくらか長く設定されていて、人間の脈拍よりももう少し長くなっていたなら、秒針の音は人をもっとゆったりとリラックスさせるものになっただろう、ともいわれています。

確かに、時計の秒針がコチコチ動く音というのは、それを聞いて落ち着くという人もいる反面、多くの人が何か魂を削られているように感じるのではないでしょうか。

このように、現代人は、その騒がしい生活の中で、人工的に作られた時間を常に「短かすぎる」と感じるほうが多く、時間という支配者によって過剰なストレスを与えられていると考えることができます。

このため、そうした喧騒から離れ、一度自然の時間で生きる生活を送るとそのストレスから解放されることも多いものです。

たとえば人工的な時間を表示する時計類は身体から離して一切眼に入らぬようにし、自然の中で暮らし、夜は照明を用いず日没後すみやかに眠るようにし、日の出にあわせて起床し太陽光を浴びるようにすると、やがてストレスから解放され治癒される傾向がある、ということが知られています。

旅行へ出かけて旅館に泊まったとき、その多くの部屋では時計をわざとかけていないことにお気づきの方も多いでしょう。これは、日本人の多くが経験的にこうした旅行のような特別な環境に出向いたときには、時間を気にしないように配慮することこそが「お・も・て・な・し」であることを知っているからです。

さて、時間というものが人工的に作られたものにすぎない、という考え方を更に突き詰めて考えていくと、そもそも、本当に時間は過去から未来へ流れているのか、という疑問さえ出てきます。

「時間の矢(Arrow of time)」ということばがあります。時間の非対称性、言い換えれば「不可逆性」を表す言葉であり、どういうことかというと、空間は前後左右上下とどの方向についても対称的に移動できるのに、時間は過去から未来にむけての一方向にしか進行することがありません。

つまり、「非対称的」ということであり、時間の矢というのは、これを、一度放ってしまえば戻ってくることはない矢で例えたものです。なぜ時間は過去の方向には進まないのかという謎であり、イギリスの物理学者、サー・アーサー・エディントンが提唱した考えです。

例えば、コーヒーとミルクが混ざることはあっても、混ざったものが自然と分離することはありません。このようにある方向に変化することはあっても、逆方向に変化することが無いものを不可逆現象といいます。

このほかにも例えば、アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程も元には戻せませんし、このように自然界において、時間と同じく不可逆な現象は、可逆な現象よりもむしろありふれたものといえます。これを端的に表現したことばが、「覆水盆に返らず」などの諺といえます。

ところが、時間に限っては、実は未来に向かう矢ではなく、「未来からやってきている」ものだという人もいます。

「時間は過去から未来へ流れているのではなく、未来から過去へ流れている」という考え方は、東洋ではアビダルマと呼ばれる仏教哲学でも古くから述べられており、これは現代の分析哲学における結論でもある、と指摘しているのが、東京都出身の認知科学者で計算言語学、離散数理科学、分析哲学などを研究している「苫米地英人」という学者さんです。

1997年に発生したオウム真理教がやったといわれる警察庁長官狙撃事件においては、犯人として逮捕された元巡査長から詳細かつ整合的な記憶の呼び起こしに成功したと報道されて有名なりました。

警視庁公安部の協力要請により、元巡査長の許諾の下、個人的に撮影したものの一部はテレビにも報道されて話題となり、その後も一時期はよくテレビに出ておられたので、顔をみるとあぁこの人かと思う人もいるでしょう。

ちなみにこの巡査長は証拠不十分により釈放され、その後も東京地検により起訴猶予とされた結果、2010年3月、公訴時効が成立し、その後も真犯人はつかまっていません。

「時間は過去から未来へ流れているのではなく、未来から過去へ流れている」という考え方に基づけば、時間は過去からもやってくるし、未来からやってくるということで、対照的であり、この考え方に従えば、「時間が過ぎる」という表現もおかしく、「時間がやってくる」のほうが正しいということになります。

「時間というのは過去から未来に向かって流れている」とする考え方というのは、創造主が世界をつくった、とするユダヤ・キリスト教の伝統に沿った時間観に過ぎない、と苫米地さんは指摘しています。

創造主のいる宗教では、絶対神がビッグバンを起こし宇宙を創造したことからすべてが始まりそれにより玉突き的に因果が起きて現在まで来たと考えたがるものですが、そう考えないと創造主自体の存在を肯定できません。

このために、創造主の存在という過去の出来事が現在の原因である、と解釈されるようになってきたものであると苫米地さんはいい、時間というものを考えるときにはこうしたユダヤ・キリスト教的な時間観の枠を取り払う必要があると主張しています。

この「時間というのは過去から未来に向かって流れている」とする考え方についてもわかりやすく説明されています。

現在は一瞬で過去になります。今、現在だったことはちょっと前の未来です。今現在やっていることが、1時間後には過去になります。つまり現在が過去になります。

当たり前のことではありますが、現在の行為が過去になっていくわけで、我々の位置が現在だとすると、そこに向かって未来がどんどんとやってきては、過去へ消えていっているという考え方もできるわけです。

自分に向かって未来がどんどんとやってきては過去へと消えてゆく、つまり自分が過去から未来へと向かっているのではなく、未来のほうが自分に向かって流れてくる感覚というのはそういわれればわかるような気がします。

だとすれば現在は過去の産物などではなく、未来の産物であり、しかも未来というのは固定されたものではなく、無限の可能性であり、しかもその未来は過去の因果ではなく、さらには未来の因果によって決まる、ということになります。

これを川の流れに喩えるなら、クルーザーに乗って川上に進みつつ、自分は川の一点を見ている、といるということになります。川の上流を未来と考え、下流を過去だとします。

ある時自分が上流から赤いボールが流れてきて、それに続いて青いボールが流れてくるとしましょう。我々は、これを「赤いボールが流れてきたから、青いボールが流れてきた」と解釈しがちですが、実際には「赤いボールが流れてきたことが原因で青いボールが流れてきた」というわけではありません。

未来という上流から、未来における何かの因果によって、赤、青の順番で放たれてそれが現在にまで到達したから、赤、青という順番で流れてきただけです。

このとき、例えば、赤いボールを拾うか拾うまいか迷ったけれども結局拾わなかったとしましょう。その後青いボールが流れてきたのを見た時に、どう考えるか、と想像してみると、「しまった、赤いボールを拾わなかったから、青いボールが流れてきてしまった」と考えるかもしれません。

ところが、よくよく考えてみると赤いボールを拾わなかった、ということと、その後に青いボールが流れてきた、ということは何の因果関係もありません。

つまり「あの時、赤いボールを拾ってさえいれば…」などとくよくよ悩むことは意味がなく、つまり、「赤いボールを拾わなかった」という自責の念と青いボールが流れてきたことは関連がありません。

つまり、青いボールが流れてきたことについては、赤いボールを拾わなかったという過去に縛られる必要はなく、青いボールが流れてくるという「現実」は、過去に縛られない未来からやってくる、ということになります。

みなさん、納得できましたでしょうか。

実はこの苫米地さん、2000年代半ばにオーラの泉などのテレビ番組などのヒットで、スピリチュアル・ブームが起こったとき、これを繰り返し批判していました。

一方で仏教に詳しく、日本仏教やインド密教との関係についての知識も豊富で、気功については情報的存在であると語っており、こうした人がなぜスピリチュアルを否定するのかなと不思議です

輪廻転生に関しても否定されているそうで、とはいいながら、最近では比叡山延暦寺の本坊である滋賀院門跡にて天台宗で修業をなさっているそうで、私からみると、仏教なんて人が作ったルールにすぎず、そういうものに帰依するのか、とついつい思ってしまいます。

プロフィールをみると私とほぼ同年代の方のようで、そう考えるとまだまだその先の人生は長く、その得度の結果、いずれまたこうしたスピリチュアルに対しても違う見解を示してくれるかもしれませんが……

苫米地さんによれば「過去の因果によって現在、そして未来がある」などと考える限り、自分自身で明るい未来を切り開くことなどできない、とも指摘されているそうですが、果たしてそうなのでしょうか。

過去の因果によって現在があることを主とするスピリチュアリズムとは相対する考え方ではありますが、過去の因果があるから未来を切り開けないとうのはちょっと違うように思います。むしろ過去の積み重ねが未来を切り開いて行ける糧となる、と考えるほうが自然だと思います。

ま、考え方はひとさまざまですが……

皆さんはいかがでしょうか。時間は未来からやってくるものでしょうか。それとも過去から未来に向かっていくものでしょうか。