88

2014-11202875月になりました。

今日は、八十八夜で、これは立春を起算日(第1日目)として88日目(立春の87日後日)にあたる雑設です。

節(ざっせつ)というのは、案外と知らない人が多いと思いますが、二十四節気・五節句などの暦日のほかに、季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた、特別な暦日のことです。

全部で、9つしかなく、これは、節分、彼岸、社日、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二百十日、二百二十日ですが、これに、初午・三元、盂蘭盆、大祓を加える場合もあるようです。

初午(はつうま)とは、2月の最初の午の日で稲荷社の祭があるときで、その年の豊作祈願が原型で、それに稲荷信仰が結びついたものです。また三元は1月中旬、7月中旬、12月中旬などで、いずれの日も15日ごろ、つまりほぼ満月の時期で、死者の罪を赦すことで厄除けとしたりする日のことです・

また、社日(しゃにち)というのも、あまり聞いたことがないと思いますが、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日で春と秋にあります。産土神に参拝し、春には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋にはその年の収獲に感謝するのですが、各地で都会化が進んでいるため、あまり顧みられなくなり、ほとんど名ばかりになっています。

このほか、半夏生(はんげしょう)もあまり知られていませんが、これは半夏(烏柄杓)という薬草が生える頃で、毎年7月2日頃にあたり、この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、大雨になることが多いようです。

一方、八十八夜は、あと3日ほどで立夏になる日ですが、「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」などといわれるように、遅霜が発生する時期でもあります。地方によっては5月半ばごろまで遅霜の被害が発生するところもあり、このため、農家に対して特に注意を喚起するためにこの雑節が作られました

「♪夏も近づく八十八夜…」と文部省唱歌「茶摘み」に歌われているとおり、この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするともいわれています。

ここ静岡で産出されるお茶は、その名も「静岡茶」で通るブランド名であり、牧之原台地とその周辺地域がその最大の生産地であり、生産量は国内第一位です。宇治茶と並び「日本2大茶」と称されますが、これに狭山茶を含めて3大茶とする場合もあるようです。

この牧之原台地というのは、静岡県中西部にある台地で、位置的には静岡と浜松のちょうど中間ぐらいの場所です。島田市、牧之原市、菊川市にまたがっており、古くは大井川の扇状地だったものが隆起したためにできた土地のようです。

標高40-200mで、北側から南側へかけて緩く傾斜しているため、日当たりがよく温暖で、石が多くて水はけが良い赤土で、霜が降りることもありません。

ただ、高地であるために、水を引いてもすぐに流れてしまい、また台地は溜池を造るにも不適だったために、牧之原台地は長いこと不毛の土地でした。

稲作などにはまったく不向きな土地柄であり、江戸時代までは、麓の村々の入会地、つまり草刈り場としてしか使われていませんでしたが、明治期になって、江戸を追われた幕臣などの士族が中心になって、比較的高地に強く商品作物として魅力があるお茶の栽培を始めました。

当初は、基幹技術もなく、なれない農作業で武士たちの開拓は至難を極めましたが、長年の研究の末、栽培に成功し、現在の大茶園が形成されました。

それまでもお茶の栽培に適した土地は静岡以西にもありましたが、牧の原台地は作付面積がより広く、また東京や名古屋、大阪などの大消費地に近いこともあり、次第に他地域を凌駕するようになっていきました。

県内には他にも磐田市の磐田原台地や浜松市の三方原台地などもあり、それぞれ牧之原ほどではないにせよ、茶栽培も盛んに行われており、これらも合わせて、静岡茶は日本一といわれるようになっています。

ちょうど今頃が先月摘んだばかりの一番茶、すなわち新茶が出回るころであり、先月末に病院でのリハビリと我が家での一カ月に及ぶ生活に区切りをつけて山口に帰っていった母も、手土産にと売り出されたばかりのこの新茶を買っていきました。

さて、今日はこのお茶の話を延々としてもいいかなとも思ったのですが、前にも何度かお茶の話題をここでしたので、「二番煎じ」にもなるのでやめにしようと思います。

そこで、八十八夜の88にちなんで、1988年という年はどんな年だったかな?と調べてみたところ、これは昭和63年のことであり、ちょうど昭和時代が最後を迎える年でした。

9月19日には、前年に消化器官手術を受けられた昭和天皇が吐血されて重篤となり、それ以降、日本各地で天皇の健康に配慮し祭事やイベントの中止・自粛が相次ぎました。

年が明けての、1月7日、やはり昭和天皇が崩御され、皇太子明仁親王が即位。小渕恵三内閣官房長官(後の内閣総理大臣)が記者会見を行い、新元号を「平成」と発表されたニュースのことが今でも思い起こされます。この日は、昭和最後の日となり、昭和64年は、昭和元年(12月25~31日)と同じく、7日間のみとなりました。

ちなみに、私はこのときまでハワイ大学在学中で、この日はちょうど短い冬休みの中の一日で、その先週までの試験疲れでぐったりとしていたころでした。小渕官房長官による新元号発表の映像は、後に日本に帰ってから初めてそうだったことを知ったのでした。

朝起きて、住んでいたアパートの入口の外にいつものように投げ出してある(アメリカでは新聞がドアの外に置かれているのが普通)新聞(ホノルルアドバタイザー)を取り上げたところ、第一面にデカデカと昭和天皇の肖像画が掲載されているのを見た衝撃を今でも思い出します。

この新聞には崩御されたばかりのことでもあり、危篤になられてからの状況についてはあまり触れられておらず、日本とも関係の深いハワイという土地柄のこともあり、昭和天皇のそれまでの足跡とともに、真珠湾攻撃との関わりなどが主な記事だったと記憶しています。

この新聞は今でも大切に取ってありますが、肖像画付きということで、いつの日かきっとプレミアムがついて、高値で取引されるに違いない、と踏んでいます。

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この昭和最後の年である1988年というのは、日本にとっても年号が平成に変わって新しい時代に入ったわけですが、世界的にみても、この年の1月に- ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ書記長主導の下、ペレストロイカ開始され、5月にはレーガンアメリカ大統領が訪ソ、首脳会議が開催されるなど、新しい時代を感じさせる年でした。

一方国内では、天皇の崩御以外の事件としては、3月には青函トンネルが開通し、その翌月には瀬戸大橋が開通したということがあり、これで、本州とそれ以外の島すべてが陸続きになるという、記念すべき年でもありました。

このほかあまり大きな事件、事故はない年でしたが、それでも6月にはリクルート事件が発覚しており、7月には、遊漁船「第一富士丸」と海上自衛隊の潜水艦「なだしお」が衝突して、死者30名、負傷者17名を出すという惨事がおこりました。

7月23日、横須賀港北防波堤灯台東約3km沖で、海上自衛隊第2潜水艦群第2潜水隊所属の潜水艦「なだしお」(排水量2250トン、乗員74名)と遊漁船「第一富士丸」(154総トン、全長28.5m、定員44名)が衝突し、第一富士丸が沈没。

この第一富士丸は定員44名だったのにもかかわらず、乗客39・乗員9合わせて48人が乗るという定員超過があったことがわかっており、このことが事故原因につながったかどうかまでは解明されませんでしたが、このうち30名が死亡、17名が重軽傷を負いました。

死者のうち、28名は沈没した船体の中から、1名は現場付近の海中から遺体で発見され、残りの1名は救助後病院で死亡。この事件では、事故発生時の救助・通報の遅れに対する批判やバッシングが相次ぎましたが、これは、つい最近韓国で起こったフェリー沈没事件を想起させます。

その後、艦長らが衝突時の航海日誌を後に書き改めていたことなどがわかり、これを新聞各紙が「改竄」と報じたことなどから、さらに問題は拡大していきました。

このため、この当時はなだしおのような自衛艦では「軍事機密」ということで、その性能を公表することがあまりなされていませんでしたが、機密とされる旋回性能などを検証データとして開示するよう裁判所が求め、これらが公表されたことなどでも話題となりました。

結果として、事件があってから4年後の1992年(平成4年)に、なだしお・第一富士丸双方の責任者に有罪判決が下されましたが、この事件によってこの当時の防衛長官である瓦力(かわらつとむ)氏が引責辞任するという事態にまで発展しました。

この事故発生の経緯を簡単に書くと、「なだしお」は、7月23日早朝に在日米軍横須賀海軍施設を出港。伊豆大島北東沖での自衛艦隊展示訓練を終えて、横須賀基地へ帰投を開始していました。なだしおの乗組員は艦長を含め73名に第2潜水隊司令を加えた計74名が乗艦しており、この航海中は浮上航行でした。

同船の所属していた富士商事有限会社は赤字経営で従業員への給料遅配が続いており、この船の船長は1か月前に船長に就任していましたが、この航海を最後に同船を降りる意向で、不満を抱きつつ操船していたといいます。

午後3時35分、なだしおが右前方に第一富士丸を確認、その2分後には衝突回避のため右転を行いましたが、間に合わず、突直前第一富士丸は咄嗟に左転しましたが、なだしおと衝突。衝突後すぐに「溺者救助」が発令され、なだしおは、付近にいた護衛艦「ちとせ」や潜水艦「せとしお」へ救助要請しましたが、遭難信号は出しませんでした。

なだしおは衝突後、スクリューを後進したため数百メートル後退しましたが、十数分後に現場へ戻ると、第一富士丸の右側に近づきゴムボートや命綱を用いて救助活動を行い3名を救助しました。

しかしこのとき既に第一富士丸は左に転覆しており、あとでわかったことですが、このとき左側の方により多くの遭難者がいました。なだしお以外にも、近隣を航行していた民間のヨットが3名を、民間タンカーが13名、護衛艦「ちとせ」が1名を救助し、救助者は20名に及びました。が、のちにこのうちの一名が死亡しました。

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事故発生から30分も経たない、午後4時頃には、第一富士丸の所有者である、富士商事の穴沢薫社長らが、早くも現場へ急行しましたが、一方、自衛隊側では、午後4時30分頃になってようやく、目黒区の宿舎にいた東山収一郎海上幕僚長に第一報が届きました。

このとき瓦力長官は、石川県に滞在しており、この幕僚長からの事故発生の知らせも比較的早く受けたようですが、この事故を知って東京に戻ろうとしたとき、なぜか航空自衛隊機が準備できず、民間機を待ったため帰京が遅れました。

この海難事故においては、事故発生直後に、当事者のなだしお自らが行った救助活動において、たった「3名しか救助できなかった」という事実に批判が集中し、「潜水艦乗員は甲板に立ったまま見殺しにした」などの「証言」が相次いで報じられ、世間の大きな注目を集めました。

ただし、中には誇張や誤報も存在したことがのちには判明しており、このことも二週間前に発生した韓国のフェリー「セウォル号」の遭難事件と似ており、まったく事実と異なることが報道されて、独り歩きしています。

しかし、なだしお側がすぐに救助活動を行わなかったのは、流線型の特殊形状を持つ潜水艦という艦艇の性質上の問題でもありました。スクリューを止めてもその艇の周辺には渦巻きなどの海水の擾乱があり、救出のためにすぐに海中に飛び込むと、この擾乱や止まりかけているスクリューによる二次被害の可能性があります。

こうした点には、報道はほとんど触れておらず、一方的に自衛隊側が悪い、とされたのはやはり報道側にも問題があったといえるでしょう。

しかし、船舶の航行数が多い横須賀沖のような海域では、大型の艦船である潜水艦が不注意によって起こした事故は大参事になる可能性は高く、その非は自衛隊にあり、との世間からの批判が集中しました。

このため、事故後3日を経た7月26日には久保彰潜水艦隊司令官が横須賀地方総監部に待機する行方不明者家族に謝罪し、翌27日には東山海幕長が総監部の遺体安置所において、遺族らに謝罪しました。が、東山海幕長は、この直前に「潜水艦は無過失」と発言して世論の反発を買っています。

なだしおの乗組員のうち、艦長ら幹部15名を除く乗組員59名については、8月2日夜になってようやく上陸が許可されましたが、艦長は更迭されました。この艦長は8月17日から事故犠牲者遺族のもとを訪問し謝罪しており、翌年7月、防衛庁は東山海幕長とこの艦長ら海上自衛隊幹部13名への行政処分を発表しました。

この事故を巡っては、海で起こった事故をさばく、「海難審判」と自衛隊側を加害者とみなした「刑事事件」としての裁判の2つが行われました。

海難審判庁はその裁決において、なだしおの回避の遅れと、第一富士丸の接近してからの左転、双方に同等の過失があったと判示し、両者に過失があったとしました。

この海難審判で元船長は、「同等の過失」とされたことを不服とし、処分取り消しを求めて行政訴訟を起こしましたが、1994年(平成6年)2月、東京高等裁判所は請求を退けたものの、なだしおに主因があったと認定しました。この結果について、元船長は「100%の勝訴」と発言した上で、改めて犠牲者に謝罪の意を示しました。

一方の刑事事件としての裁判のほうは、1992年(平成4年)12月、横浜地方裁判所での判決では、海難審判と異なり「横切り船航法」を採用したうえで、避航船であるなだしお側に主因があると認定しました。

しかし、なだしお側の回避行動の遅れに加え、第一富士丸側の回避行動にも遅れがあったことを認め、なだしお元艦長に禁錮2年6か月執行猶予4年、第一富士丸元船長に禁錮1年6か月執行猶予4年の判決を下し、この判決に対して両者とも控訴しない方針を固めたため、判決は確定しました。

執行猶予とはいえ、有罪判決であったため、このためこのなだしおの元艦長は、自衛隊法に基づき失職しています。

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この事故が発生した、浦賀水道というのは、昔から船舶の通行が多い場所で、戦後、同水道の往来が活発になると海難事故が多発する傾向にありました。

この海域には、海堡(かいほ)と呼ばれる明治時代に作られた海上要塞のようなものがあり、事故が起こった浦賀水道にもこの当時はまだ「第三海堡」と呼ばれる海堡が残っていました。

日本は明治から大正にかけて、山縣有朋陸軍大将が日本全土を外敵から守るために「要塞化」することを主張。このため、東京湾にも千葉県富津岬沖から、神奈川県横須賀市側にかけて首都防衛のために3ヵ所の人工島、すなわち海堡が造成されました。

完成後は兵舎や砲台が建設され、自然島である猿島とあわせて東京湾口に円弧状に存在する防衛ラインの一環として運用されましたが、戦後この海堡は洋上要塞として機能しないばかりか、東京湾を出入りする船舶の輻輳(ふくそう)から海難事故の原因だと再々指摘されていました。

このため、元東京都知事で、ヨット愛好家でもあった石原慎太郎氏をはじめ、船舶運航関係者が撤去を声高く主張していましたが、明治期に建設されたこれらの人工島はかなり堅牢に設計されていたため撤去が困難でした。

三つある海堡のうち、第一海堡と第二海堡は東京湾要塞の一部として、実際に対空砲などが置かれ、第二次世界大戦の終了時まで運用されていました。

一方、第三海堡は、1892年に起工され、1921年に完成するまでに30年もの歳月がかかっており、これは三つの海堡の中で最も水深が深く、水深39メートルもある場所に造成され難工事となったためでした。

しかし完成から2年後関東大震災により崩壊し4.8メートルも沈下し、全体の三分の一が水没してしまったために復旧は困難と判断されて廃止・除籍され、島自体は無人島のまま戦後まで残されました。

ところが、この海域で船舶を運行する側からみると、この海堡は浦賀水道のど真ん中にあるため実に邪魔な存在であり、このため撤去を望む声が高く出ていました。一方では漁業関係者からはこれらの人工島の周辺は良い漁場であり、撤去したあともその基礎部分などが魚礁代わりとして絶好の漁場となっていたことから、存続が望まれていました。

しかし、この事故の影響で、結局2000年(平成12年)になって撤去が決定し、2007年8月になってようやく撤去が完了しました。撤去の際、取り壊された構造物は第三海堡跡南西2,000m の海域に投棄され魚礁などに再利用されましたが、その一部は陸揚げして綿密に調査されました。

この海堡の造成技術は、当時の土木工事の水準を超えていたとされ、その優れた人工島造成技術が分析するためでした。兵舎や弾薬庫など陸揚げされた構造物は横須賀市浦郷町の国土交通省関東地方整備局追浜展示施設で公開されている。また、構造部のひとつであった大型兵舎は、横須賀市にある「うみかぜ公園」に展示されています。

これは、横須賀市平成町にある横須賀市の海浜公園で、横須賀新港の南東約1.5kmの海沿いに立地しており、猿島や東京湾を間近に見ることができ、園内には、マウンテンバイクコースや各種スポーツ施設もあり、このほかバーベキューができる広場や花壇、子供の遊具などもあって家族で遊べるそうです。

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ところで、この海難事故における、第一富士丸の沈没は、「轟沈」とよばれるほど短時間での沈没であったそうで、この瞬時の沈没のため船内にいた人が脱出の機会を失ったこと、また救命胴衣の着用がなく脱出した者も力つきて溺れたことなどが犠牲者を多くした原因とみなされています。

日本観戦の歴史上のこのほかの轟沈の例としては、日露戦争時、日本海軍の戦艦「初瀬」が、旅順港沖でロシア海軍の機雷に触れ、1分10秒で轟沈した例があります。

戦艦「大和」も傾斜・横転から爆発をともなう水没まで、わずか数分だったそうで、味方残存駆逐艦が発した報告電文でも「ヤマトゴウチン。2ジ23プン」となっています。

また、空母「大鳳」は、マリアナ沖海戦に参加中、潜水艦からの魚雷攻撃が原因で漏れて気化した航空機燃料が充満、これに引火して爆発炎上して瞬時に沈没しており、戦艦陸奥もまた、柱島泊地に停泊中、謎の爆発をおこして短い時間で沈没しています。

私の祖父がかつて乗船したこともあった、戦艦扶桑もまた、スリガオ海峡海戦において被雷により爆発、真っ二つに折れて沈没していますが、これは彼の退役したはるか後年のことです。

このように戦艦や空母のようなど大きな船が瞬時に沈んでしまう様というのは、「壮観」などというと死没者に失礼でしょうが、壮絶なものであるには違いありません。

ましては150トン余りの第一富士丸などの小船がその15倍もの大きさのある潜水艦にぶつかられて起こした沈没は、本当に一瞬だったに違いなく、乗っていた人たちもあっ!という間もなかったに違いありません。

それに比べて今回の韓国のフェリー事故では、沈没までに数時間もの余裕があったのにも関わらず数多くの被害者を出しており、これは単なる災害ではなくもう立派な人災です。

事故後半月以上を経て徐々にその詳細が明らかになってきているようですが、日本としても他人の芝生で起きたこと、などと傍観せずにその原因究明を通じて得られるであろう数多くの教訓を今後に備えてしっかり把握しておくべきでしょう。

韓国のフェリー事故では、日本の海上保安庁に相当する海洋警察や海難救助部隊が強く非難されているようですが、これと海上保安庁を比較して、日本ならあんなふうにはならない、海猿ならばきっともっと多くの人が救えただろう、といったかんじの論調の報道が相次いでいます。

1988年のこのなだしお事件の直後には、翌年の1989年度入学の海上保安大学校の受験者数が5年ぶりに増加に転じたそうで、これはこの事故により、保安庁の存在がクローズアップされて海上保安官への人気が高まったためとと推測されます。

保安庁やには優れたレスキュー部隊があり、これを賞賛すること自体は決して悪いことではないとは思います。東北大震災のときにも数多くの人命救護や被災者の救出に当たった自衛隊が賞賛されたことがあり、この保安庁の件も同じことでしょう。

ただ、こうして何か大きな事件があるたびに「軍事」にもつながる装備を持ったこうした組織がもてはやされるのが少々気になっています。憲法改正にもつながる風潮なのかな、と心配してしまうのは私だけでしょうか。

ところで、「撃沈」というのは、日常生活や仕事での失敗や、色々な試験での不合格、酒に酔いつぶれること、また失恋、勝負の敗北などを意味する俗語としても使われます。

この連休も明日からはいよいよ4連休というクライマックスに入りますが、連休明けには、遊び疲れで力尽き、「轟沈」となる人も多いかもしれません。

くれぐれも連休中の酒の飲みすぎ、遊びすぎには注意しましょう。

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