ブラズィル

2014-0993巷では、来月開催される、2014 FIFAワールドカップの話題で持ちきりのようです。

6月12日から7月13日にかけて、ブラジル各地で開催される予定のサッカーの世界大会のことであり、同大会としては節目の20回目となる記念大会となります。

開催国のブラジルは、当初から南米サッカー連盟が加盟各国の総意としてブラジルでの開催を希望しており、2006年12月18日に立候補国の応募が締め切られた際には、1986年W杯の開催国に決まりながら財政上の問題で開催できなかったコロンビアが最後まで残り、両国による一騎打ちとなりました。

このほかにも、アルゼンチンとチリが両国の共催を前提に立候補していたのですが、FIFAは2ヶ国共催に賛同を示さず、また開催条件に適う質のスタジアムをと、希望したこともあり、これらを準備できない両国は早々に開催国競争から撤退しました。

ブラジルの開催が決まったのは、2007年4月11日のことでした。コロンビアのサッカー協会がFIFAワールドカップの招致を断念したと発表したためであり、これにより、ブラジルが南米からの唯一の立候補国となり、同年10月30日、開催が正式に決定しました。

同国での開催は、決勝戦が「マラカナンの悲劇」と呼ばれた1950年の大会以来64年ぶりです。このマラカナンの悲劇というのは、1950年7月16日にリオデジャネイロのエスタジオ・ド・マラカナンで行われた、FIFAワールドカップ・ブラジル大会の決勝リーグ第3戦のことで、対ウルグアイのこの試合でブラジルは優勝を逃しました。

開催国として悲願の初優勝を目指すブラジルは、1次リーグを2勝1分で突破し、決勝リーグにはブラジルの他、ウルグアイ、スウェーデン、スペインが進出しました。

ブラジルは同リーグでスウェーデンを7-1、スペインを6-1の大差で退け、これに対し、ウルグアイはスウェーデンには勝ったもののスペインには引き分け、1勝1分となっていました。つまり、ブラジルはウルグアイに対し引き分け以上であれば優勝が決まるという有利な状況にありました。

1950年7月16日の15:00。ブラジル対ウルグアイの会場エスタジオ・ド・マラカナンには199,854人の観客が集まり、この試合でブラジル代表は初めて白のホームユニフォームを着て挑みました。

後半開始2分にフリアカのゴールでブラジルが先制しブラジルの優勝が決まったかと思われました。ところがウルグアイは後半21分にスキアフィーノが同点ゴール、後半34分にギジャが逆転ゴールを決めます。

ブラジルはその後反撃を試みますが、ウルグアイを攻めきれず、試合はそのまま終了。この結果、ウルグアイが3大会ぶり2回目の優勝を達成しました。

敗戦が決まったとき、会場は水を打ったように静まり返り、やがてすすり泣きが聞こえるようになりましたが、そんな中、この敗戦に絶望して自殺を図る者まで現れました。結局2人がその場で自殺し、2人がショック死、20人以上が失神し、ブラジルサッカー史上最大・最悪の事件となりました。

この事件を忘れるため、ブラジル代表はその後ユニフォームを黄色(カナリア色)に変更し、以後、白いユニフォームの着用を避け続けることになります。

当時は人種差別がまだ激しい時代だったため、敗戦による観客の怒りは出場していた3人の黒人選手に向けられ、特にGKのモアシール・バルボーザは、その後死ぬまで疫病神扱いされてしまったといいます。

当時9歳だったペレは、この試合後落ち込んでいた父親を「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と励ましたというエピソードは広く知られています。

その言葉通り、ペレは8年後のFIFAワールドカップ・スウェーデン大会にて17歳ながら代表となり、6得点を挙げてブラジルのワールドカップ初優勝に大きく貢献しました。

そして、64年ぶりの母国開催。ブラジル国民にとっては「マラカナンの悲劇」以来の母国開催優勝を狙うリベンジ大会ということになります。

2009年5月には、バハマの首都ナッソーで開かれたFIFA執行委員会で、ブラジル国内で試合が行われる12都市が公表されました。

ベロオリゾンテ、ブラジリア、クイアバ、クリチバ、フォルタレザ、マナウス、ナタール、ポルトアレグレ、レシフェ、リオデジャネイロ、サルバドル、サンパウロがそれであり、これらは、ブラジルの北から南までほぼ全部の主要都市を網羅していることになります。

大会開催時期の6月から7月は国土の大部分が南半球であるブラジルは冬期であり、結果的に2大会続けての冬季開催となります。しかしながら、ブラジルは国土の93%が熱帯地域に属しているため、冬季ながらも全体的に温暖です。

但し、開催都市の気候差はかつてないほど大きく、真夏から真冬までと様々です。標高差も大きく、ブラジリア、サンパウロ、ベロオリゾンテ、クリチバの標高は約800~1,200m前後となりますが、他は200m以下の低地となります。

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このブラジルという国ですが、国土面積は日本の約22.5倍で、アメリカ合衆国よりは約110万km2ほど小さく、一方ではロシアを除いたヨーロッパ全土より大きくなり、この面積は世界第5位です。

首都はブラジリア。南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であるととともに世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもあります。

現在ポルトガル語を話す国は、アンゴラなどのアフリカ諸国のあちこちに見られますが、住民のほぼ100%がポルトガル語を話すのは、ポルトガル本国を除けばこのブラジルだけです。

公式の英語表記は Federative Republic of Brazil であり、カナ表記すると、フェデラティヴ・リパブリク・オヴ・ブラズィルとなり、舌をかみそうなほど長くなりますが、通称Brazilブラジル、で通っています。なおポルトガル語では “Brasil” と綴られますが、英語では “Brazil” となります。

この「ブラジル」という言葉が何を意味しているかを知っている日本人は少ないでしょう。

これは、「パウ・ブラジル」という樹木に由来しており、別名ブラジルボク(伯剌西爾木)ともいいます。マメ科の常緑高木で、心材から紅色色素(ブラジリン)が得られることから、かつてはこれを染料として用いた時代もあり、その昔はブラジルの主要輸出品でしたが、化学染料の登場によって染料材としての採取は廃れました。

しかし18世紀にフランス人がこの木の心材が持つ「振動減衰性」の低さに着目し、弦楽器の弓に最良の材料であることに気付きます。

そして、主にバイオリンの絃材などで使用すると爆発的に世界各国で採用されるようになりました。しかし、その後乱獲によって絶滅の恐れが出てきたため、現在は絶滅危惧種として登録されており、このためブラジルボクの供給は止まり、これを原料とする絃の値段は年々高騰しているということです。

しかし、最近は、代替材料として同じブラジル産の熱帯雨林材であるマサランデュバという材のほか、繊維強化プラスチック(FRP)、カーボンファイバー、グラスファイバーなど人工繊維製弓の改良も進んでいるということです。

この地をブラジルと呼ぶようになったのは、ポルトガルの統治下で、ブラジルボクがヨーロッパへさかんに輸出されるようになった16世紀ころのことで、それ以前の1500年にポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルが来航した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために「ヴェラ・クルス(真の十字架)島」と呼ばれていました。

その後、「サンタ・クルス(聖十字架)の地」と改名されましたが、このあまりにもキリスト教的すぎる名前への地元民の反発もあり、ブラジルボクが発見されると、ポルトガル語で「赤い木」を意味するこの「ブラジル」の名でこの土地を呼ぶようになりました。

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ブラジルの元々の原住民は、紀元前11,000年ころにベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た狩人だったと考えられており、この地にまではインカ帝国の権威は及ばず、後にヨーロッパ人によって「インディオ」と名づけられる、原始的な農耕を営むトゥピ族の人々が暮らしていました。

16世紀前半の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されていますが、ヨーロッパ人が渡来してくるまでは、ブラジルに住んでいたこれらの人々の生活ぶりについては何の記録も残っていないため、その詳細は明らかではありません。

1492年にクリストーバル・コロンがヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸に到達した後、このとき発見されたアメリカ大陸の他の部分と同様に、やがてブラジルも植民地化の脅威に晒されることになっていきます。

1500年にポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「再発見」すると、以降ブラジルはポルトガルだけの植民地として他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになりました。

初期のブラジルにおいては、ポルトガル人の新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)によるパウ・ブラジルの輸出が主な産業でしたが、パウ・ブラジルの枯渇後、新たな産業として北東部にマデイラ諸島からサトウキビが導入されました。

砂糖プランテーションで働く労働力としては、まずインディオが奴隷化された後、インディオの数が足りなくなると西アフリカやアンゴラ、モザンビークから黒人奴隷が大量に連行され、ポルトガル人農場主に酷使されました。

その後、18世紀にはミナス・ジェライスで金鉱山が発見されたためにゴールドラッシュが起こり、ブラジルの中心が北東部から南西部に移動し、1763年にはリオデジャネイロが植民地の首都となります。

ゴールドラッシュにより、18世紀の間に実に30万人のポルトガル人がブラジルに移住し、金採掘のためにさらに多くの黒人奴隷が導入されました。

18世紀末には啓蒙思想がヨーロッパから伝わり、フランス革命やアメリカ合衆国の独立の影響もあり、ブラジルでも1789年にはポルトガルからの独立を画策したクーデター未遂事件も起きましたが、密告によって発覚。

首謀者は処刑されましたが、その後も隣国のハイチ革命の影響もあって独立運動が次第に進みます。しかし、植民地時代には大学などの知的機関が設立されなかったなど知的環境が整わず、ブラジルの独立運動は一部の知識人の「陰謀」に留まり続けました。

ところが、その後ヨーロッパではナポレオン戦争が勃発し、1807年にジャン=アンドシュ・ジュノーに率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻しました。このとき、ポルトガル宮廷はなんと、母国のリスボンからブラジルのリオデジャネイロに遷都をするという大胆な政策をとります。

これによって、ブラジルではリオの開発が急速に進み、1815年にリオデジャネイロはポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都に定められました。「アルガルヴェ」というのは、ポルトガル本土の最南端の地方で、この当時はポルトガルとは一線を引いた王国でしたが、その後はポルトガル国王がこの地の国王をも兼ねるようになりました。

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こうしてリオに首都を置くようになったポルトガル政府は、元々この地を治めていたポルトガル人の連邦同盟との戦いを進めて、自国支配を進めました。しかし、ヨーロッパの母国でも1820年にポルトガルを自由主義的な立憲君主制国家に変革しようとする革命が起こり、このためリオで即位していた国王のジョアン6世に帰国要請が出ました。

こうして、わずか6年の間リオデジャネイロを首都としていたポルトガル宮廷は、翌1821年に正式にポルトガルに帰還しました。一方、摂政として残留した王家の王太子は、ブラジル人ブルジョワジー勢力に支持され、1822年にブラジル独立戦争を起こします。

そして、ついに1822年9月7日、「イピランガの叫び」と呼ばれる独立宣言が行なわれ、ブラジル初代の皇帝ペードロ1世が即位し、ブラジル帝国はポルトガルから独立しました。

この帝国は、独立後も大農園主の意向によって奴隷制を維持し続けましたが、その後アメリカ合衆国では奴隷制度を火種とする南北戦争が勃発し、奴隷制度の存続を主張する南軍が負けたことにより、西半球で奴隷制を採用する独立国はブラジル帝国のみとなりました。

このため、国内においても知識人を中心として奴隷制批判がなさるようになり、次第に奴隷制の廃止と帝政の廃止をも含めた国民運動が生まれました。この結果、1888年5月に「黄金法」と呼ばれる法律が公布され、西半球で最後まで維持されていた奴隷制がブラジルでも廃止されました。

このときの国王、ペードロ2世は奴隷制廃止によって大農園主からの支持をも失い、翌1889年の軍部のクーデターによって帝政は崩壊しました。この革命により、ブラジルは帝政から共和制に移行しましたが、新しく政権を握った「カフェ・コン・レイテ」と呼ばれる大農園主グループによる政治主導に対して各地で反乱が勃発。

これを機に、大蔵大臣を務めたこともあるジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが当時の政治腐敗などの不満を背景に1930年革命と呼ばれる軍事クーデターを成功させて政権を掌握しました。

ヴァルガス時代には大学の整備、国家主導の工業化、ナショナリズムの称揚と移民の同化政策、中央集権体制の確立が進み、1942年にヴァルガ政権は第二次世界大戦に連合国の一員としてイタリア戦線にも参戦しました。

しかし、やがて独裁体制に対する不満が国民と軍内部で強まり、第二次世界大戦終結後の1945年10月13日におきた軍事クーデターによってヴァルガスは失脚。

ところが、この軍事政権は長続きせず、翌1946年に新憲法が制定された後、1950年にブラジル史上初の民主的選挙によってヴァルガスが再度大統領に選出され、復活しました。

ヴァルガスはファシズム色よりも左派ポプリズモ色を打ち出し、ブラジル経済の国民化が進めようとしましたが、その後またも軍の抵抗に遭い、1954年に自殺に追い込まれてしまいました。

その二年後の1956年に就任したジュセリーノ・クビシェッキ大統領は「50年の進歩を5年で」を掲げて開発政策を進め、内陸部のゴイアス州に新首都ブラジリアを建設し、1960年にリオデジャネイロから遷都しました。

しかし、この開発政策によって生まれた債務が財政を圧迫し、インフレが加速し、その後の大統領もこの困難な状況を乗り切ることが出来ませんでした。

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これがまた軍部の台頭を招くこととなり、1964年にアメリカ合衆国の支援するカステロ・ブランコ将軍は、クーデターによって民主政権を失脚させ、軍事独裁体制を確立すると、親米反共政策と、外国資本の導入を柱にした工業化政策を推進しました。

この軍政の時代には、「ブラジルの奇跡」と呼ばれたほどの高度経済成長が実現しましたが、1950年代以降、高度経済成長を続けていた日本は、ちょうどこのころブラジルに多数の企業を進出させています。

それらは例えば、東芝やトヨタ自動車、東京海上日動、コマツ、ヤクルト、日本航空などであり、重工業から金融、サービス業や運送業にいたるまでの実に様々な業種に渡り、これらの企業は主にサンパウロを中心に進出しました。

ところが、1973年のオイルショック後にブラジル経済の成長は失速し、さらに所得格差の増大により犯罪発生率が飛躍的に上昇しました。また、軍事政権による人権侵害も大きな問題となっていきました。

このため、1974年に将軍から大統領に就任したエルネスト・ガイゼウは国民的な不満を受けて軍政の路線転換を行い、1979年に就任したジョアン・フィゲイレード大統領がその後の民政移管を公約したことから、1985年に行われた大統領選挙ではタンクレード・ネーヴェスが勝利し、ここにブラジルにおける軍から民政への移管は完了しました。

これによって文民政権が復活するところとなりましたが、ブラジルではそれまで20年以上もの長い間軍政下にあった事もあり、民政移管を果たした以後も軍は「ブラジル最大の野党」と呼ばれていました。

また、ブラジルは第一次世界大戦、第二次世界大戦共に連合国側で参戦し、第二次世界大戦に連合国として参戦した際には、ラテンアメリカで唯一陸軍をヨーロッパ戦線(イタリア戦線)に派遣した実績があり、アメリカ合衆国主導による軍拡が続けられてきました。

しかし、1982年のフォークランド紛争の敗北によって、それまでの仮想敵国であったアルゼンチンの軍事政権が崩壊したため、アルゼンチンとの融和政策が実現し、周辺諸国との軍事的緊張関係は無くなりました。

ただし、国土が広大なためにこれを守るためには強大な軍事力を必要とし、このためブラジルは依然として南アメリカで最大規模の軍事力をもち、かつそれに見合うだけの経済規模もあり、これはラテンアメリカでは最大です。

2013年のGDPは2兆2428億ドルであり、世界7位、南米では無論首位ですが、その一方で、一人当たりのGDPは1万1310ドルであり、先進国と比較すると依然大幅に低い水準にあります。

また、GDPに於ける税の割合は30%を超えており、ブラジルを含めBRICsと呼ばれるロシア、中華人民共和国、インド、南アフリカ共和国などの諸国と比べても突出しています。

これは、貧困層への援助のために課税が行われているためであり、高い税率に嫌気がさしている富裕層からは現政権に対して不満の声があがり始めているといいます。

しかし、医療や福祉・教育水準の改善、地方への生活インフラの整備が着実に進んでおり、現政権への支持率は高く、また安価な労働力と豊富な天然資源により、ブラジルの工業力は国際的にみても高い水準にあります。

長い間国民を苦しめていたハイパーインフレも、1994年になって、新通貨レアルの導入とともに「レアル・プラン」と呼ばれるデノミ政策をとることによって、ようやくハイパーインフレを抑えることに成功。

その後、1999年に起こったブラジル通貨危機により、一時は国家破綻寸前まで陥りましたが、IMFと米国の緊急融資により、何とか破綻は回避され、現在に至っています。

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金融危機を乗り越えると、カルドーゾ政権下で成長を遂げるようになり、その後継のルーラ政権では発展途上国向けの貿易拡大が行われ、ブラジルは長く続いた累積債務問題の解消へ向かいました。その後の経済の回復とともに2007年には国際通貨基金への債務を完済し、ついに債務国から債権国に転じました。

BRICsの一角に挙げられるまでに経済状態が復活し、地場資本による工業投資も活発に行われており、今年のFIFAワールドカップに続いて、二年後のオリンピックの誘致成功もその経済活動の好調が後押しをしたと考えていいでしょう。

日本との国交関係は、1895年の修好通商航海条約調印から始まり、1897年に両国内に公使館を開設。1908年には日本からの本格的移民が開始され、その後第二次世界大戦中の断交などがあったものの、1950年代初頭の国交回復を経て、常に活発な人的、経済的交流が行われています。

ちょうど地球の裏側にある国、として認識している日本人も多く、一方ではその距離の遠さにも関わらず世界各国の中でも特に日本との縁が非常に深い国です。

1908年に最初の本格的な集団移民、いわゆる「笠戸丸移民」が到着して以降、第一次世界大戦期や第二次世界大戦を経て、1950年代に日本政府の後援による移民が停止されるまでにブラジルに渡った日本人移民の子孫は5世、6世の世代になり、サンパウロの日本人街「リベルダージ」は世界最大級のものです。

ブラジル在住の日系人は約150万人ともいわれ、海外では最大の日系社会であり、いまや日本人は完全にブラジル社会に完全に溶け込んでいます。政治や経済などで、高い地位につくものも多く、このほか長年の農業における高い貢献は非常に高い評価を得ているといいます。

2007年には、Ⅱ世のジュンイチ・サイトウ空軍大将が空軍総司令官に任命され、ブラジル軍の最高位ポストに就いた初の日系人となりました。数百社ともいわれる日本企業がサンパウロを中心に進出しており、世界でも有数の規模の日本人学校、サンパウロ日本人学校など、ブラジル国内に複数の日本人学校があります。

日本においてもブラジルの音楽やスポーツ、料理などの文化が広く親しまれるようになっており、両国間の人的交流が非常に活発で、ブラジル在留の日本人は約6万人といわれる一方で、在日ブラジル人は約23万人もいるそうです。無論、これは日系人だけではなく、
ネイティブのブラジル人を含んでの数です。

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さて、来月から始まる、2014 FIFAワールドカップでは、日本はCグループに入っており、ここにはほかにコロンビア、ギリシャ、コートジボワールが入っています。下馬評断トツのスペインやドイツ、そしてブラジルやポルトガルがこのグループに入っていないのが幸いですが、コロンビアやギリシャもなかなか強いようで、油断はできません。

とくにコロンビアは世界ランキング5位だそうで、同47位の日本とは格が違うというかんじです。コートジボワールだって21位ですから、このグループから抜け出すのはかなり厳しそうです。

どこまでガンバってくれるか見守るしかありませんが、ダークホースとして大会をかき回してくれることに期待しましょう。

ちなみに、ワールドカップが行われる彼の地では、日経ブラジル人たちが中心になって、「ブラジルワールドカップ日本人訪問者サンパウロ支援委員会」なるものが組織され、日本代表応援に駆けつけた日本人たちのサポートもしてくれるそうです。

緊急医療支援や宿泊情報の提供、安全治安情報の提供なども行っているそうなので、日本人のサポーターさんたちも地球の裏側で心細い思いをせずに済みそうです。あちらに行かれるかたは、一度HPをのぞいてみてはいかがでしょうか。

ちなみに、日本とブラジルの時差は-12時間です。日本がお昼の12時になるとブラジルは同じ日付の0時となります。昼夜逆転となりますから、テレビ観戦の方はどうやら今回も寝不足になりそうです。体調管理にはくれぐれも気を付けましょう。

2014-0985函南町 酪農王国オラッチェにて