最近、家の中にいるときは、ようやく靴下を履かなくなりました。
日中はともかく、ちょっと前までは朝晩はまだかなり涼しく、履物のお世話にならないと寒くてしかたなかったものですが、それが不必要になったということは、本格的な夏が近づいた証拠です。
しょーもないことを言う、とおっしゃる向きもあるでしょうが、こうした日常の変化に季節の移ろいを見出して、生きていることを実感してみたりしている今日この頃です。
さて、今日5月23日は、ちょうど一年前、プロスキーヤーで登山家の三浦雄一郎さんが世界最高峰・エベレストに史上最高齢となる80歳7カ月で登頂に成功した日です。
2013年5月23日午後0時15分、現地時間では午前9時ごろのことで、三浦さんにとっては3度目のエベレスト登頂成功でした。しかし、下山においてはその途中で体調を崩し、標高6500mのキャンプ2から標高5300mのベースキャンプまではヘリコプターを使って下山したそうなので、そこのところを除けば完全登頂でした。
しかし、とはいえ80歳という高齢で、この富士山の2倍以上の高さを持つ山を登ったということは脅威的です。昨年足の骨を折って入院・リハビリを余儀なくされた母とは比べるべくもないのですが、81歳とほぼ同じ年齢でこの快挙はやはり信じがたいことではあります。
ちなみにウチの母は、若いころには陸上競技で国体にも出たこともあり、母親となってからは、ママさんバレーに没頭し、広島の地区大会で優勝したこともあります。そんなスポーツマンですら、齢を重ねれば足腰が悪くなるのですから、そうした若いころの体力をこの年齢まで維持できるというのはやはり尋常ではないと言えるでしょう。
そんな三浦さんも、幼少期は病弱であったといい、このためか幼稚園は中退し、小学校でも4年生から5年生時には結核で肋膜炎を患い長期入院のため一年の半分近くは学校に通えなかったほどだったといいます。
生まれは青森ですが、農林省営林局に勤めていたお父さんの都合で、岩手などの東北の各地方を転々としました。初めてスキーに接したのは小学校2年時、当時住んでいた青森県弘前市の弘前城公園の坂をスキーで滑ったのがきっかけだったそうです。
その後一家で仙台市郊外の農場に引っ越した際に本格的にスキーを始め、旧制青森中学校在学時に岩木山で開かれたスキー大会で優勝し初タイトルを獲得して以降は、めきめきとその実力を上げ、青森県立弘前高等学校在学時には、全日本スキー選手権大会の滑降競技で入賞、青森県高等学校スキー大会で3年連続個人優勝するなどの実績を重ねました。
大学進学においても、スキーが出来るからという理由で北海道大学を受験先に選び、入学試験直前にもかかわらず「もう来れないかもしれない」と考え、藻岩山でスキー三昧だったといいますが、それでも合格し獣医学部に進学。
この北大学在学中に当時の学長秘書で、かつアルペンスキーの女子選手だった妻・朋子さんと出会い、熱烈な恋愛、そして同棲の末結婚。その後大学院へ進学し、アメリカ留学を目指していたものの、肺の病気を患い、暫く母校の北大獣医学部に助手として勤務。札幌市の月寒にあった当時の北大農事試験場でブタやウシをあつかう獣医師をしていました。
しかし、獣医師の仕事よりもやはりスキーをやっているほうが楽しかったとみえて、26歳でこの助手の職を辞任、スキーに専念するようになります。その後全日本スキー選手権の青森県予選で優勝しましたが、その閉会式で全日本選手権への青森県からの派遣人数をめぐりスキー連盟関係者と大喧嘩。
結局アマチュア資格を剥奪され、アマチュアスキー界永久追放されてしまいます。大好きなスキーを奪われてしまう形となった三浦さんは茫然とし、しばらくは北アルプスの立山でボッカとして働いていたそうです。
しかし、スキーへの夢はぬぐいきれず、30代にもさしかかろうという1960年代始め頃から自らスキー学校を開設するようになり、これで吹っ切れたのか、ちょうど30歳のときには、アメリカでスタートしたばかりの世界プロスキー選手権に参加しました。
この選手権は、トニー・ザイラーら冬季オリンピックの元メダリストも名を連ねる大会であり、ここで世界ランク8位となり、これを足掛かりとしてプロスキーヤーとして本格的に活躍するようになりました。
1964年7月イタリアで開催されたキロメーターランセ(急勾配の斜面を滑り降り時速を競うスピード競技)に日本人で初めて参加し、このとき出した時速172.084キロという記録は、当時世界新記録でした。しかし、この記録を出した前後には、3度転倒しており、これは「世界で最も速い速度で転倒して無傷で生還する」という珍記録としても記録されています。
このころから、高速で山を滑り降りる際のスキーウェアの不備は事故につながりかねないことを痛感するようになり、防衛庁航空研究所の風洞実験室を使用し、空気抵抗の少ないスキーウェア開発も試みるようになりました。
その成果が表れたのが、1966年4月に成功させた、富士山での直滑降です。この偉業においては、ブレーキとしてパラシュート使われましたが、これが現在世界中で広く普及しているパラグライダーが作られるきっかけになったということです。
この富士山の成功からは三浦さんのチャレンジはさらにエスカレートしていきます。1970年5月にエベレストのサウスコル8000m地点からの滑降を成功させ、この記録はギネスブックにも掲載されました。
その映像は“The Man Who Skied Down Everest(エベレストを滑った男)”というタイトルでドキュメンタリー映画化されましたが、この映画はアカデミー賞記録映画部門で賞を獲得しました。
この挑戦に際しては、当時の費用で3億円が必要だったそうですが、三浦さんはこの資金を本田宗一郎、松下幸之助、佐治敬三など財界の大物に直接交渉して獲得しました。
さらにはその寄付金に対して掛かる約50%の税金を免除してもらおうと、当時の大蔵大臣だった福田赳夫氏に直接交渉、同年に開催された日本万国博覧会ネパール館への寄付扱いとすることで課税免除にするという案を引き出しました。
驚くべき行動力ですが、こうした事前行動だけでなく実際に成果を出すところがまたこの人のすごいところで、54歳のときにも同様のロビー活動を行って資金を集め、南アメリカ大陸最高峰アコンカグアからの滑降をも成功させています。
少々割愛しましたが、それまでも三浦さんは各大陸の最高峰の登頂に成功しており、このアコンカグアでの成功により、世界七大陸すべての最高峰全峰からの滑降を成功させたことになりました。
がしかしこの成功によって三浦さんは目標を失ってしまい、やがてその後は不摂生な生活を送るようになってしまいます。
その結果、身長164 cmに対し体重85 kg超にもなり、血圧は200近くまで上がり、不整脈まで出る不健康な状態となってしまいました。
実は、ご存知の方も多いと思いますが、上で少し触れた三浦さんのお父さんの三浦敬三氏も元山岳スキーヤーで、51歳で青森営林局を退職し、この頃から海外の山々で多くのスキー滑降を行うようになりました。
還暦を過ぎてから海外での滑降を始め、70歳の時にヒマラヤ、77歳でキリマンジャロを滑降し、88歳の時には、アルプス・オートルートの完全縦走を果たしています。
また、2004年2月には99歳でモンブラン山系のヴァレブランシュ氷河からのスキー滑降を成し遂げ、同年9月にはスポーツ振興への貢献により内閣総理大臣表彰を受けました。
晩年は郷里の青森を離れ東京で生活しましたが、故郷の八甲田山をこよなく愛し、八甲田山の山スキーシーズンであるゴールデンウィーク期間には必ず酸ヶ湯温泉に訪れ、山スキーを楽しんでいたそうです。しかし、2006年1月5日、多臓器不全のため101歳で死去。
その二年前に、99歳にしてこの父がモンブラン氷河の滑降という挑戦を続けるのを見た三浦さんは、その姿を見て改心するようになります。ちょうどこのころ、次男の豪太さんもオリンピックに出場しており、そうした親と子の両方の活躍もまた三浦さんの発奮を促したようです。
ちなみに、父の敬三さんも山岳スキーヤーでしたが、長男の三浦雄大氏は競技スキーヤー、二男の三浦豪太はリレハンメルオリンピックと長野オリンピックの二つのオリンピックにおいてフリースタイルスキー・モーグル種目で出場しています。
その豪太さんの二人の息子さんたちもまたスキープレーヤーを目指しているということで、敬三さんが100歳のときには、アメリカのスノーバードで、三浦一族の親子孫曾孫が勢揃いし、4世代での滑降を行って話題を呼びました
こうした親や子の活躍を見てあらためて自分の限界に挑戦しようと考えた三浦さんは、65歳の時に、5年後の70歳でエベレスト登頂を果たすという目標を立てます。こうして、外出時には常に両足に重りを付け20 kg近いリュックを常に背負うというトレーニングを自らに課し、同時にダイエットに挑戦し始めます。
当初は標高わずか531mの藻岩山登山ですら息切れするという体たらくだったといいますが、徐々に体力を回復させ、ついに2003年5月22日、世界最高峰のエベレストにこの当時世界最高齢となる70歳7ヶ月での初登頂を果たしました。
この記録はギネスブックにも掲載されましたが、この登頂は同時に日本人発の二男・豪太さんとの親子同時登頂でもあり、こちらはギネスには載りませんでしたが、それ相応の記録でありました。
この五年後の、2008年5月26日、三浦さんは75歳でエベレストに再登頂しました。この登頂は、当初世界最高齢で、と報道されましたが、その後、その前日に76歳で登頂を果たしたとされるネパール人男性ミン・バハドゥール・シェルチャンという人物が現れました。
ところが、このェルチャンの記録については、年齢を実証する書類、また登頂成功を証明する書類が存在しないことから認定されず、ギネスブックには三浦が最高齢登頂者として認定されました。これに対してシェルチャン側が書類を揃え、再度、申請を行い、2009年11月23日にシェルチャンに認定証が授与されています。
惜しくも世界最高齢で、という記録を逃した三浦さんは、そして更には冒頭で述べた80歳での三度目のエベレスト登頂を目指し、その結果、見事成功するわけです。
が、この後、90歳でも再挑戦するのかという質問に対しても三浦さんは肯定的な返事をしているということです。99歳にしてモンブラン氷河の滑降を成功させたお父さんのDNAを持っているこの人ならば、可能性はかなり高いのではないでしょうか。
ところで、このエベレスト(Everest)という山とチョモランマという山は別々の山だと思っている人がいるのではないかと思いますが、これは同じ山です。チョモランマのほうは、チベット語で、ちなみにネパール語ではサガルマータといいます。
チョモランマのほうは、「大地の母神」という意味で、サガルマータは「世界の頂上」という意味です。ネパールと中国のチベット自治区にまたがっているため、中国名もあり、こちらは「珠穆朗玛峰」と書き、これは意訳すると「聖母峰」ということになるようです。
一方の英語の“エベレスト”は、イギリス人で、エベレストの標高を測量したインド測量局長官のジョージ・エベレスト (George Everest)から取り命名されました。
長らくこの名前で国際的にも親しまれてきましたが、2002年ごろ、突然、中国の人民日報が英語名エベレストの使用をやめて、チベット名のチョモランマを採用すべきと主張する記事を掲載しました。
この記事ではチョモランマというチベット名は280年以上前の地図にも記載されており、英語名よりも歴史が長いと主張されていたそうで、中国は海においても最近、フィリピンやベトナムとの境にある海域名を中国名で呼ぶように主張しています。
こうした数々の地理上の改名の主張は、次第に国力をつけてきたことに対する自身の表れでしょうが、旧来から世界中で慣れ親しまれていた名前を今になって変えるいわれはありません。西側諸国に属する我々としては、迷うことなく、エベレストと呼ぶことにしましょう。
ところが、この山の標高についても、最近中国はいちゃもんをつけてきており、2005年5月に中国のエベレスト測量隊がエベレストに登頂し、数ヶ月に渡る測量の結果、同年10月にエベレストの標高は8,844.43 m±0.21 mと公式に発表しています
現在最新の標高は8,848mとされていますが、これは、1955年にイギリスの援助を得てインドが測量して求められたものです。1975年には、中国も測量し同様の結果が得られたと発表していますが、今回これより低くなったのは、どうやら頂上部分の氷雪の厚みを差し引いた高さを発表したためのようです。
中国が発表したこの新しい標高には頂上部分の氷や雪は含まれておらず、その厚みは3.5 mであったことも発表しており、中国側の主張としては、エベレストの正確な高さとしてはこの氷の厚さは差し引いたものを採用すべきだとしました。
実際のところ雪と氷の厚みは気候によって変化するため、確かに正確な標高としては、中国が主張するように雪や氷を除いた純粋な岩石の部分の高さとするべきなのでしょう。がしかし、中国が発表したこの3.5mという数字は、GPSなどによる精密な測量がなければ、その厳密な厚さを求めることはできません。
現在のところ、エベレストの頂上において数ミリの厚さの変化を読み取るような正確なGPSは存在しません。ちょっと登って測量したくらいでは、氷の下の岩盤の本当の高さなんて誰にもわからず、それを正確に計測しようとしたら岩盤を覆っている氷や雪を破砕するか、重い超音波診断装置でも持ち上げて計測するしかありません。
そんな馬鹿げたことまでするくらいなら、今のままの8848mでいいじゃないか、というのがもっぱらの評価のようですが、こうした些細なことにまで自国の主張を押し通そうとする最近の中国の傲慢さばかりが目立つ一事でもありました。
中国がここまで、エベレストの標高にこだわるのは、それが自分の国の一部だからであり、しかもそれが世界の最高峰であるといわれているからでしょう。しかし、この高さも海抜高度にすぎず、地球でいちばん深い海底から高さであるとするならば、エベレストは最高峰ではありません。
実はハワイのマウナケアとエクアドルのチンボラソがエベレストに代わる世界最高峰とする主張もあり、マウナケアの海面からの海抜高度は4,205 mですが、海底からの高さを考慮すればその標高は10,203 mを超えることになります。
またチンボラソ山は、海抜高度6,267 mですが、地球の形状は赤道に近づく程に膨れており、エクアドルはこの赤道に近い場所にあります。このため地球の中心からの高さは6,384.4kmになり、同じく地球の中心位置からのエベレストの高さを求めると6,382.3 kmとなります。
正確には、その差は2,168 mだそうで、つまりチンボラソのほうが2000m以上もエベレストよりも高いということになります。
さらに、世界で最も深い海であるマリアナ海溝のチャレンジャー海淵は、最新の計測では水面下10,911mにあるとされ、エベレストの標高よりも遥かに深く、もし8848mのエベレストをチャレンジャー海淵の深さに沈めたとすれば、その山頂から海面までは2000mもあることになります。
従って、自分のところにある山が最高峰だ、一番高いんだ、とエラそうに威張るのは何だかなーと思う次第ですし、さらに宇宙に目を拡げると、もっと高い山があります。太陽系で一番高い山とされているのは、火星にある「オリンポス山」という火山でだそうで、この山は、高さが約27,000mもあり、エベレストのおよそ3倍です。
裾野の直径が約550kmもあるそうで、これは東京から大阪までがすっぽりハマってしまうほどの大きさであり、静岡と山梨の二県にその裾野の範囲がとどまっている富士山と比べてもいかに大きいかがわかります。
いわんや、太陽系を出ればもっと高い山があるのは間違いなく、そんなこんなで地球にある山が一番高いのがどこだの深い海がどこだのを議論してるのがなんだかばかばかしくなってきそうです。
しかし、そうだとしても、人はなぜか高いところに登りたがります。エベレストにもまたかつて多くの人が登りたがりましたが、初期のころには装備も粗末で、また細かな気象条件の把握もままならず、多くの遭難者を出しました。
エベレストなどを含め、ヒマラヤ山脈での標高8500m以上の山の登山での死亡者数は、こうした山々へのチャレンジが本格化した1950年ごろから1989年までに75名、1990〜2006年までで92名だそうで、近年この数字はさらに急増しており、エベレストだけだと、1990〜2006年の16年間に64人もの死者が出ています。
三浦さんが昨年登山したとき、このエベレスト山頂付近の映像が流れていましたが、テレビの映像では流せない映像もかなりあったそうで、この登山ルートには、随所に120体もの遭難者の遺体が放置され、凍結ないしは乾燥によりミイラ化した遺体がゴロゴロしているといいます。
遺体の中には登山ルートの目印にすらなっているものもあるそうで、こうした遭難死の7割は下山時に発生しているそうです。三浦さんもまた、下山途中に体調を壊し、6500m以下をヘリで下山していますが、こうした装備がない昔だったら、同じく道標になっていたかもしれません。
エベレスト初登頂を成し遂げたのは、ニュージーランド人のエドモンド・ヒラリーと、シェルパのテンジン・ノルゲイで、これは1953年5月29日のことでした。が、エベレストへ挑戦はこれに先立つこと30年以上前の1920年代から始まっており、その挑戦の中でも多くの登山家が命を無くしました。
イギリスのジョージ・マロリーもその一人で、マロリーといえば「なぜ、あなたはエベレストに登りたいのか?」と問われて「そこにエベレストがあるから(Because it’s there.)」と答えたという逸話で有名です。
日本では、「そこに山があるから」と言ったと信じられていますが、実際はニューヨーク・タイムズの記者が「なぜあなたはエベレストに登りたいのでしょうか」との質問に対してマロリーが、”Because it’s there.”と答えたものであり、山というのは明らかに誤訳です
が、そこに山があるから、というのは非常にウンチクのある言い回しであり、であるがゆえに、山好きが高じて私生活まで犠牲にしてまで山にのめり込む人達の一種の言い訳としてよく使われます。
それはともかく、このマロリーという人は、こうした何気ない言葉がもてはやされるほどイギリスやアメリカではかなり人気のあった登山家であったとともに、やはり登山にかけてはかなりの実力者でした。
当時のマロリーの山仲間のひとりは「ジョージの登り方は体力で攻めるというより、柔軟にバランスよく、どんな困難な場所もリズミカルにテンポ良く乗り切ってしまうという感じで、蛇のように滑らかだった」と語っています。
こうした技術が認められ、マロリーは1920年代にイギリスが国威発揚をかけて行った3度のエベレスト遠征隊にも参加しています。
しかし、1924年6月の遠征において、このときマロリーはパートナーのアンドルー・アーヴィンと二人で共に頂上を目指しましたが、北東稜の上部、頂上付近で行方不明となりました。
2人の失踪後も結局遺体は結局発見されませんでしたが、後年、果たして彼らは山頂にたどり着いたのかどうかについての議論が持ち上がり、いくつかの遠征隊が遺体を捜し、彼らが山頂に果たしてたどり着いたのかどうかの決め手を得ようとしました。
イギリスも1933年から1939年にかけてさらに4度の遠征隊を派遣しており、1933年の第4次遠征隊は高度8,460m地点でアーヴィンのものと思われるアイス・アックス(ピッケルの一種)を発見しました。しかし、依然遺体は発見されませんでした。
こうして、初登頂者が出ないまま、第二次世界大戦なども始まり、エベレストへの登山は自粛されるようなりました。しかし戦後、多くの国々がエベレスト初登頂の名誉をかけて争った結果、イギリス隊のメンバーでニュージーランド出身のヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイが初登頂を果たし、イギリスとしてはマロリー以来の悲願を達成しました。
ところが、1979年になって、日本の偵察隊メンバーがこれに協力していた中国人クライマーから1975年に高度8,100m付近でイギリス人の遺体を見たという証言情報を入手しました。
この情報はその後しばらく放置されたままになっていましたが、1999年に入って英国放送協会とアメリカのテレビ局が、改めてこの情報を確認してこの遺体はマロリーではないかと確信し、その位置情報などをもとに共同でマロリーを発見するための捜索隊が組織されました。
この捜索隊には山岳史家でマロリーに詳しいヨッヘン・ヘムレブというメンバーも加わっており、この遠征が始まってまもなくの5月1日に、頂上付近の北壁でうつ伏せになった古い遺体を発見し、この遺体をマロリーであると断定しました。
状況からみてマロリーは滑落して死んだものと推定されましたが、登山上手のマロリーだけに、一行は初め、この遺体をマロリーのパートナーのアーヴィンの遺体ではないかと考えたようです。が、ヘムレブが中心となってその所持品を探っていくうちにマロリーの遺体であることがわかり、皆仰天しました。
そして、遺品の中にマロリーが所持していたというコダック製のカメラがあれば、マロリーが登頂したか否かという歴史的疑問が解かれると考えましたが、残念ながらカメラはみつかりませんでした。一行はマロリーの遺体を囲んで葬儀を行い、露出していた遺体に土をかけて埋葬の形をとりました。
マロリーの遺体は発見されましたが、その後もアーヴィンの遺体と確定できるものは発見されず、二人が初登頂を果たしていたかどうかという議論は、結局結論が出ないままに終わりました。
しかし、2人は2本の酸素ボンベを持っていたといい、このボンベのうち1本が山頂間際の場所で発見されました。このことなどから類推して、2人は残る一本を使って登頂しましたが、それ一本では途中で酸素が切れることが考えられ、それを覚悟の上で登頂したかもしれない、ということなどが考えられました。
そして、その下山途中に極度の疲労、低体温などによって方向を見失い、滑落して命を落としたのではないか、といったことなどが推定され、このほかにも多くの推論や議論が今日までなされてきました。が、いずれにせよ状況証拠が乏しく、二人が登頂したかどうかについても今後もなかなか結論は出ないだろうとみられています。
しかし、たとえ1924年にマロリーとアーヴィンが頂上に到達していたという証拠が見つかったとしても、やはり「初登頂」の栄誉はエドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイに与えられるべきだという意見もあるようです。
ヒラリーは、この初登頂により、登頂の年にイギリス王室より騎士叙勲を受け、42年後の1995年には英国最高勲章であるガーター勲章を授与され、「ヒラリー卿」と言われるほどの栄誉に浴しました。
本来ならばその栄誉を受けるべきはマロリーであり、死してからもそうした勲章を授けてはどうかというわけですが、やはり「登頂」とは生きて帰ってこそ意味がある行為であり、その途中で死んだ者に与えるべきではない、とする意見も出されました。
マロリーには遺児がおり、そのジョン・マロリーは3歳で父親を失うことになりましたが、「僕にとって登頂とは生きて帰って来ることです。もし父さんが帰ってこなければ決してやりとげたとは言えないのです」と、後年語ったそうです。
ヒラリー卿も同じような意見で、「もし山に登っても、下山中に命を落としたら何もならない。登頂とは登ってまた生きて帰ってくることまでを含むのだ」と語っています。
ただ、もし彼らが頂上間際まで行っていたとしたら、たとえ帰路が困難なものになるとしても、そこまで行けばクライマーは皆同じ気持ちになるだろうという意見もあります。例え死しても頂上に行けたなら、登山家としては本望だったろう、とする意見であり、未踏の地を踏むことこそが登山家としての夢なのだ、という人もいます。
山に登るという行為が、人々の心を突き動かすために起こるのであれば、そのために命を落とすこともまたその心に任せた行為の結果であり、事実はどうあれ、マロリーが満足であったならば果たして登頂をなしとげたかどうかは永遠に不可知のままで良いのではないか、という人もいるでしょう。
こうしてみると、80歳にして、エベレストにチャレンジしこれを成功させたとする三浦さんの業績は登山家として高く評価されるべきものでしょうが、多くのサポーターの援助を受けての登山であり、またその帰路にヘリコプターという文明機器を使って下山をなしとげた、という事実を知ると、何やら少し複雑な思いが生じます。
みなさんはいかがでしょうか。人類初めて火星のオリンポス山の登頂を目前にしたとしましょう。しかし、登っている間に地球に帰る便は出発してしまうかもしれない。それでも登りますか?