伊豆の水は甘いか

2014-4871朝晩の空気が冷えてきて、秋近しの感があります。

空気もそうなのですが、水道の蛇口から出る水も、ひところまでは生ぬるかったものが、ひんやりと感じるようになり、このあたりにも秋の気配を感じます。伊豆市の水は渓流などの表流水と地下水の汲み上げでまかなわれており、このため暑い寒いの季節変化は即、水道水の温度にも現れてきます。

また、水道水、といいながら、都会の水道水にありがちなカルキ臭さはまるでなく、そういえば、電気ポットの内部に溜まりがちな、あの白いカルキの結晶も付着しているのをほとんどみたことがありません。

生で飲んでもいつもおいしく、自然の恵みによって生かされている、と感じることができ、改めてこの地に移り住んできてよかったな~と思う次第です。

このカルキですが、正式名称は、「次亜塩素酸カルシウム」といい、消石灰(水酸化カルシウム)に塩素を吸収させて製造します。次亜塩素酸カルシウムを製品化した粉末は、一般にさらし粉(晒し粉)と呼ばれ、これはドイツ語でクロールカルキ(Chlorkalk)なので、略してカルキ、あるいは訳して塩化石灰ともいいます。

次亜塩素酸カルシウムの消毒薬としての効能は吸わせる塩素の量によって変わり、高含有量の製品が「高度さらし粉」と呼ばれます。この高度さらし粉は、吸湿性が小さく、長期の保存に耐えるなどの利点があり、水に可溶で酸化力が強いという特徴があります。

水道水に用いられるのは、濁った水の漂白や水に含まれている細菌を滅するなどの消毒などにも有効であるためであり、これを固形化したものはプールや、プールの付帯施設の足洗い場、腰洗い槽の消毒などにもよく用いられます。

こうした効能は、ひとえにこれに含まれる塩素のおかげです。塩素の漂白作用は1785年にクロード・ルイ・ベルトレーというフランスの医師により発見されました。

化学者でもあり、化学物質の命名法や名前の体系を決めたことでも知られており、それらは現代の化合物の名称の体系の基礎となっています。フランス元老院の副議長もやった政治家という側面もあり、文理両道の人でした。

ベルトレーは塩素漂白を発見したものの、当初、塩素自体の臭い及び毒性の強さから、漂白剤としての実用化は困難と考えました。しかしその後、塩素を石灰水に溶かすと安全かつ漂白作用を維持できることに気づき、1786年にこのことを友人のジェームズ・ワットに教えました。

ジェームズ・ワットといえば、蒸気機関の発明で有名です。この発明によりイギリスのみならず全世界の産業革命の進展に寄与した人物ですが、ワット自身は塩素消毒の技術をさらに深めることはせず、さらにチャールズ・テナント という人物にこれを伝え、彼が1799年に固体で保存できるさらし粉の原型を完成させました。

さらし粉ことこの次亜塩素酸カルシウムにはその後、強い殺菌効果があることも確かめられました。しかし、殺菌効果があるということの裏返しは、実は強い毒性を持つということです。ベルトレーが塩素の漂白を発見したものの、その実用化にこぎつけなかったのもこの毒性の強さゆえです。

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その証拠に、化学兵器としても使われたことがあります。第一次世界大戦中の1915年4月22日、イープル戦線ではこれが使われ、この時にドイツ軍の化学兵器部隊の司令官を務めていたのは後年(1918年)ノーベル化学賞を受賞するフリッツ・ハーバーです。

この戦争では、塩素だけではなく、その他の各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもあります。毒ガスの使用は、毒を施した兵器の使用を禁じているハーグ条約に違反するのではないかと問われたフリッツは、毒ガスを使って戦争を早く終わらせることは、多くの人命を救うことにつながると語っていました。

しかし、ドイツの毒ガス作戦は国際的な非難を浴び、また、彼の周囲でも反対意見があり、とくに妻のクララも夫が毒ガス兵器の開発に携わることに強く反対し続けましたが受け入れられず、彼女は抗議のために自ら命を絶っています。

フリッツはクララの死後も毒ガス作戦を継続するとともに、新たな毒ガスの開発を進め、その後ノーベル化学賞を受賞するに至ります。が、この当時、毒ガス兵器を戦争で使用したドイツの科学界に対する国外からの反感は大きく、この受賞に対しても各国からの批判がありました。しかし、ドイツ国内ではなお一層愛国的科学者として名声を受けました。

ところが、彼はユダヤ人だったため、その後ナチスが台頭する第二次世界大戦では、抹殺こそはされなかったものの不遇の日々を起こることとなりました。戦後はイギリスやスイスに渡り研究をし続けましたが、冠状動脈硬化症により65歳で死去しました。

彼はケンブリッジにいた頃、自分の遺灰はクララと一緒に埋めてほしい、そして墓碑銘には「彼は戦時中も平和時も、許される限り祖国に尽くした」とだけ記してほしいと遺言書に記していたそうで、このため彼の遺体は、妻のクララとともにスイス、バーゼルにある墓地に埋葬され、その墓碑にはその通り記されています。

さて、寄り道が過ぎましたが、このように毒ガスに使われるほど塩素は毒性が強いため、吸引するとまず呼吸器に損傷を与えます。空気中を漂う塩素ガスは、皮膚の粘膜を強く刺激し、目や呼吸器の粘膜を刺激して咳や嘔吐を催し、重大な場合には呼吸不全で死に至る場合もあります。また液体塩素の場合には、塩素に直接触れた部分が炎症を起こします。

塩素を浴びてしまった場合、直ちにその場から離れ、着ていた衣服を脱ぎ、毛布に包まるなどして体を温めなければならず、直ちに医療機関での処置が必要です。塩素を吸い込んで呼吸が停止している場合もあり、一刻も早く人工呼吸による蘇生を行わなければなりません。呼吸が苦しい場合には酸素マスクの着用も必要です。

現在においても、一般家庭にある塩素を含む漂白剤とトイレ用の洗剤のような酸性の物質を混合すると、有毒な単体の塩素ガスが発生することがあります。このため、漂白剤や酸性のトイレ用の洗剤には「混ぜるな危険」との大きく目立つ表示があります。

1986年には徳島県で、また1989年には長野県でも、実際に塩素系漂白剤と酸性洗浄剤を混ぜたことにより、塩素ガスが発生し死亡した事故が起こっています。このように人体にはあまりよろしくない物質ですが、安定で、かつ安価に合成でき、その分量さえ間違えなければ、毒性は低く、逆に殺菌効果のように人のためになる効能を入手できます。

このため、現在の日本では上下水道やプールのみならず、温浴施設の殺菌消毒、リネン・おしぼり業での殺菌・漂白、など広くわれわれの生活に浸透しています。コレラなどの病気が日本も含めてほとんどの国で駆逐されたのは塩素を含んだ水道水のおかげでもあります。

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しかしその一方で、「塩素神話」とも言えるほどのこの薬品への過信と依存が生まれ、その本性への誤解が、新しい問題を引き起こしています。以下、さらにこのことについて書いていこうと思いますが、「次亜塩素酸カルシウム」のままでは書きづらいので、この項ではその主原料である、「塩素」として話を進めます。

そもそも塩素はどうしてこんなにも使われているのでしょうか。これは、そもそも自然界に豊富に存在するため入手がしやすく価格が安いためです。地球上において、92ある天然元素のうち18番目に多く存在し、鉱物やイオン、気体などとしてマントルに99.6 %、地殻に0.3 %、海水に0.1 %が保有されています。

またこれまでの研究結果からは安全性が高いとされ、食品添加物としても認められています。また、日本は雨水や河川水は豊富にあり、こうした豊富な水には大量の細菌や不純物が含まれており、そのまま飲むと健康を害してしまうため、その消毒にも使われています。

大量にあるこの水を低コストで衛生的、かつ安全に使用するために最適な薬剤として選ばれたものこそが塩素であり、現在では、日本人の生活を支える上においては必要不可欠なものになりました。

塩素注入が行われるようになったのは、日本では1890年代になってからです。従ってすでに120年以上経過していますが、世界的にも現在でも水道水の最も重要な消毒剤として君臨し続けています。塩素系の消毒剤としては上述の高度さらし粉(次亜塩素酸カルシウム)以外にも液体塩素、次亜塩素酸ナトリウム、などがあります。

これら塩素消毒薬の長所としては、以下があげられます。

1.塩素は消毒の効果が大きくて確実であること
2.消毒の効果が後々まで残ること(残留効果がある)
3.大量の水でも容易に消毒できること
4.残留塩素の測定が容易で維持管理が容易なこと

残留効果についてですが、水道のように浄水場から末端の給水栓までの距離が長い場合など、その途中で微生物が再増殖してしまう恐れがあります。このような微生物の再増殖現象をアフターグロースと言いますが、これを防ぐためには塩素のようにその効果が持続する残留効果が必要となります。

塩素を含んだ水道水の殺菌効果には高い継続性があるのです。しかし、良いことばかりのように見えるこの塩素消毒にも大きな問題点があります。

そもそも塩素が導入されるようになったのは、我が国では1960年代頃から産業の急速な進展に伴って自然環境の汚染が進み、河川、湖沼などの表流水や地下水も次第に汚濁が進むようになったためです。

その昔は、原水の質が悪くなれば悪くなるほど、加える塩素は多いほど良いと水道関係者は考えていたようです。なぜかと言えば、水道水の摂取による最大のリスクは細菌による感染症にあるという考え方が主流だったためです。

現在でも開発途上国においてはそれが正しい見解で、すべての病気と死亡者の原因の半数以上は、汚染された水の使用が原因だという報告もあります。日本の場合も塩素が用いられる前には水道水が原因となって赤痢が頻繁に発生していましたが、塩素の投下によって1970年代にはほとんどゼロになりました。

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また、現在ではその他の細菌性の病気もまず日本の水道水はどこでも発生することはありえない、とまで言われるようになりました。ところが、近年になって、塩素消毒によって、発ガン性物質が発生する、ということが問題視されるようになってきています。

「トリハロメタン」といい、浄水場での塩素消毒の際に、水中の溶存有機物と反応して生成されます。

有機物は主に動植物の死骸などに由来するものですが、これらは富栄養化した湖沼水やそれを水源とする河川水中に存在し、このほか下水などが混入した河川水中にも含まれます。また自然水中に存在する着色物質であるフミン質などもこの有機物質であり、これらの有機物質と塩素との反応により生成するのが、トリハロメタンです。

トリハロメタンは、一種類だけではなく、代表的なものは7種類ほどありますが、この中には麻酔薬にも使われるクロロホルムなども含まれていて、これらを総称して「総トリハロメタン」と呼びます。

総トリハロメタンは発癌性だけでなく、これの摂取による乳幼児の奇形なども疑われており、最近は、新聞報道などでも水道水中の総トリハロメタンをいわゆる「環境汚染物質」として取り上げることも多くなってきています。このうち、クロロホルムに関してはとくに肝障害や腎障害を引き起こすことが知られています。

とはいえ、日本の厚生労働省の基準は、WHOのガイドラインよりも厳しいものとなっているため、上水道水中のトリハロメタンの数値は、既に厚生労働省基準の数分の1以下もしくは測定レベル以下となっているケースが多く、一般の水道水を飲んですぐに癌になったり、肝臓が悪くなったりといったことはありません。

が、トリハロメタンは、短時間の煮沸でも除去できない、といった間違った報道されたことなどから、最近の環境ばやりにより、逆に短時間の煮沸はトリハロメタンを増加させる、といったデータをあげて危険性を煽り、数十万円の浄水器等を売り込む商法も見受けられます。

このような浄水器の購入を検討する場合には、沸騰直後にはトリハロメタン濃度が一時的に増加するものの、3分以上の沸騰により濃度は半減、10分の沸騰でほとんど消滅するといったことを知っておく必要があります。従って家庭用の電気ポットで除去できないトリハロメタンもガスなどでさらに過熱すれば除去できます。

また、業者が使う検査キットは、厚生労働省の基準をはるかに下回っても危険である可能性もあること、上水道水中のトリハロメタンの数値は、既に厚生労働省基準以下もしくは測定レベル以下となっているケースが多く、煮沸で数倍に増えたところで人体に大きな影響が出るとは考えにくいことなども知っておいたほうが良いでしょう。

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さらに、人間が日常的に摂取、被曝している物質の中には、トリハロメタン以外にも発癌性が確認または疑われるものは多数あり、仮にトリハロメタンによるリスクを除去したとしても、それは全体的な健康リスクの一部が減ったことにすぎません。

化学物質による発ガンリスク分配率としては、水道2%、大気6%、その他2%、食品90%といわれています。つまり、水道由来の発ガンリスクはもともと比較的低いわけであり、水道水に含まれるリスクだけを排除してもあまり意味がありません。

これらに比べれば喫煙のリスクのほうがもっと高いといわれています。すべてのガンによる死亡の30%ぐらいが喫煙が原因であり、水道水や大気汚染などの癌リスクとは桁が違います。

ただ、塩素の入った水道水には、少ないとはいえトリハロメタンのような発癌性物質が含まれているのは確かです。しかしこうした発癌性のリスク以上に最近取沙汰されているのが、塩素の入った水道水で炊飯したり料理をすると、特にビタミン類が破壊されてしまうということです。

日本の水道水に含まれている塩素濃度は、病原生物に著しく汚染される恐れがある場合を想定しているところが多く、だいたい塩素が1.5mg/L(1.5ppm)以上のところが多いようです。

埼玉県にある女子栄養大学では、こうした水道水についての食品への影響を調べるため、いろんな塩素濃度の水道水を使ってご飯を炊いて実験をしました。その結果によればご1.5ppmの濃度の水道水で炊いたご飯の中のビタミンB1の残留量を調べたところ、ビタミン残留量は、14%にまで激減したそうです。

また、水道水で、野菜・米・レバーなどの食品を洗うと、ビタミンの10~30%が損失するともいわれており、これは塩素が食品の細胞に入り込み、ビタミンを壊すことが原因です。キャベツの千切りを氷水などにつけるとシャキッとすることは料理のコツとして知られていますが、水道水でなら、実はどんどんとビタミンが破壊されていることになります。

今の野菜は、農薬漬けですから、ただでさえビタミンやミネラルが不足しているのに、その上に水道水で洗浄、調理すれば塩素によるビタミン破壊もあるということになってしまうのです。

なので、出来るだけ水道水に含まれる塩素は少ない方がいいわけです。ところが、日本の水道水質基準では、蛇口での残留塩素の濃度を0.1mg/L(0.1ppm)以上とだけ決められていて、上限が決められていません。

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一方では原水の汚染も年々ひどくなる一方で、それに伴って塩素の注入量が増やされています。特に、夏場には食中毒の恐れもあるため多量の塩素を入れる自治体も多いようですが、水道水質基準で上限が決められていないため、野放し状態といっても過言ではありません。

そもそもは感染症予防のために導入された塩素消毒ですが、現在ではこれによって水道水中にできてしまう発癌性物質の摂取や栄養素の破壊のリスクの方が、むしろクローズアップされてきているのです。

トリハロメタンは、含有量は少ないとはいえ、発ガン性が確認されている有害物質ですから、当然「ゼロ」であることが望ましいわけです。が、水道水に塩素を投与する限り、どうしても生成されてしまうのは避けられないわけで、原水がかなり汚染されてきた日本の現状では、必要悪ということになり、非常にもどかしいことではあります。

ちなみに、日本におけるトリハロメタンの基準値は、種類にもよりますが、0.03~0.1ppmです。これに対し、ドイツではわずか0.025ppm程度であり、日本よりもかなり小さくなっています。塩素と結合してトリハロメタンを生成する有機物の除去の方法が今後はさらに模索されるべきでしょうし、あるいは塩素に代わる消毒薬の開発が求められています。

このような状況を背景に、最近は塩素に代わる消毒法、すなわち代替消毒法の研究が急がれるようになりました。このため、最近は、「高度浄水処理」という、オゾンで水道水を殺菌する方法を採用する自治体もあるようです。

ただ、オゾンで殺菌するため、塩素消毒より安全なように思われがちですが、送水中にも消毒殺菌が必要なために、どうしても送水の段階で塩素を注入しなければなりません。従って結局、蛇口から出てくる水道水には、やはり塩素が含まれるということになります。

仮に現在の水道水を飲まないという対策を取るとしても、では安全な水を輸入するのかといったら現実的ではなく、またビタミンを壊してしまうからといって、高価なミネラルウォーターで野菜などを洗う、というのももったいない限りです。

このミネラルウォータにしても、実は発がん性はむしろ高いというデータもあります。発ガン性物質といわれているひ素の含有量が、水道水の場合はかなり厳格な水質基準で規制たれていて低いのに対し、ミネラルウォータは基準値の甘い食品基準で管理されているために高いのです。

さらに、山岳地帯で産出するミネラルウォータも、そこが石灰岩地帯であったら、ひ素含有量は多い可能性があります。ひ素量の多いということは癌になる確率も高く、結局ミネラルウォータのほうが危険ということになり、こちらを避けるほうが賢明ということで必然として水道に頼らざるを得なくなります。

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塩素を使わずに、さらに高度処理して安全にする、という方法もなきにしもあらずですが、塩素以上に安価に大量の飲料水を浄化する方法というのは現状ではありえません。またトリハロメタンを除去するために煮沸消毒でもして供給できればいいのですが、エネルギーを相当量消費する高度処理を要求するということは、反持続可能型行為だとも言えます。

とすれば、伊豆のように水のきれいなところから水道をひけばいいのか、となるかもしれませんが、さすがに供給できる水には限りがあり、首都圏はおろか、横浜市だけでも無理です。それにしても、それ以前の問題として、水源が地下水や表層水である伊豆の水道水は100%安全なのでしょうか。

答えは否です。伊豆市が水源としているのは地下水や表流水などの水源にも最近は、有機塩素化合物が混入するようになってきています。

これは、例えば工場などで部品の洗浄につかう溶剤、ドライクリーニングに使用する溶剤なども有機塩素化合物の一種であり、これらが工場排水として排出されて河川水に混入している可能性があるためです。

このほか工業廃水に混入することのあるフェノール類は、極微量でも塩素と反応して強い臭気を持つクロロフェノールとなります。伊豆の水道水にはまったく塩素が入れられていないというわけではないようなので、上述のトリハロメタンの生成の可能性も含めて、こうした有害物質の発生の可能性がゼロ、というわけにはいかないのです。

ただ、伊豆市の表流水の取水の多くは渓流域で行われており、こうした工場はその周辺には少ないため、工場排水に含まれる物質による汚染は少ないと考えられます。が、まったくこうした工場がないわけでもなく、市役所の検査などでも微量なれどもこうした物質が検出されることがあるようです。

このほかではゴルフ場から排出される農薬に汚染された水の渓流域への混入の可能性もあり、ゴルフ場の多いこの周辺ではその可能性は否定できません。従って、伊豆の水道水は都会よりも安全とはいえ、やはりその中に化学物質による脅威が多少なりとも含まれている、と考えるのが妥当です。

さらに、温泉のメッカといわれる伊豆でも最近は、温泉水にも塩素消毒材を入れているところが多いようです。HPなどに掲載されている温泉のレポートやブログなどを拝見すると、「塩素臭い」だとか「カルキ臭がする」などと、塩素を懸念するような記載がされているのを目にすることも多くなりました。

これは近年になってレジオネラ菌などによる温泉の汚染事故が増えているため、温泉旅館などの業者が警戒して、必要以上に塩素を投入していることが原因と考えられます。

ところが、これは意外に知られていないことですが、塩素を温泉や水に入れただけでは通常は塩素臭(カルキ臭)はしません。塩素臭というのは、水中の有機物や病原微生物と塩素が反応して、初めて臭いが発生するのであって、臭いがするというのは、つまりこれらの細菌を塩素が消毒してくれているということにほかなりません。

従って、塩素の臭いがすると言う事は正しく病原微生物などを除去できていると言う事になり、温泉などが塩素臭いと言う事は安全に入浴できると言う事でもあります。

ただ、塩素はアンモニアなどと結合しても塩素臭を出すため、汗のついたタオルや髪の毛に付着しても塩素臭がしますから、必ずしも塩素臭がしたからといって、病原体がいるとは限りません。

また、伊豆は温泉の量が豊富なため、一般にはあまり過剰に温泉の源泉を薄めて使ったりはしません。ところが、不特定多数が入浴する都会の温泉では、「温泉」を称するところは、大なり小なり水道水でこれを薄め、さらには大量の塩素を投入しています。

塩素を使わずに殺菌作用が無い温泉を実現しようとすると、大腸菌や劇症肺炎を引き起こすレジオネラ菌を撃退できないためです。温泉に塩素を使用する、しないは、おおむねその地域を担当する保健所の指導によるものが大半です。都市部ではほとんど塩素投入が義務化されており、当たり前になっています。

塩素が不要なところというのは、湧出量が多く新鮮な湯が大量に注がれている温泉か、近くに民家がなく入浴する人も少ない温泉、殺菌力が強い酸性湯や強塩泉、さもなくば病気になっても責任を負う者がいない、無管理の温泉くらいでしょう。伊豆でもこうした温泉は決して多くはなく、都会ではなおさらでこうした温泉はまずないといっていいでしょう。

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しかし、温泉への塩素の投入は確実に細菌による感染を防いでくれます。ただ、塩素臭が生じるほか、塩素は肌に影響を与えることがあり、塩素によりアトピーが悪化することなども考えられます。

いわゆる「温泉アレルギー」と言われるのは大半が塩素によるものと言われており、アレルギー症状が出たら、温泉の効能によるものよりも塩素を疑ったほうが良いかもしれません。

私自身は経験はありませんが、同じ別荘地にいる人が、皮膚病に効くと思って以前近くの共同温泉に入っていたら塩素のために逆に悪化したという話を聞いたこともあります。効能云々よりも、できるものなら塩素がいったいどのくらい入っているかを確認した方が良いと思います。ただ、温泉提供者は簡単には教えてくれないでしょうが。

なお、純度が高いとされる温泉でも、鉄分が多い地層から出てる温泉では、ごくまれに、金属アレルギーが出る場合があり、また海沿いの温泉の場合には塩化物質を多く含んでいる場合もあります。なんでもかんでも温泉が体にいいと思いこまず、まずは成分を確かめることです。

それにしても温泉水は、最近は100%温泉というところはほとんどなく、都会でそれをうたっているところがあれば、むしろ疑ったほうが良いでしょう。現状では大量に利用者を得たい営業が優先され、湧出量が少ないのに大きな浴槽にして、新鮮なお湯が足らなくなり、循環式を採用して消毒しているところも多いようです。

施設によっては、営業停止や印象悪化を恐れて、レジオネラ菌などを心配する余りに、塩素を必要以上に入れている所もあるようで、塩素の量や消毒方法に関しては、改善できる余地があります。

よく、「天然温泉」といいます。が、日本では99%が単なる水であっても、1%が天然温泉水であればそのお風呂は「温泉」と名乗ることができます。こんな人を騙すことが簡単にできるような現行制度も問題だと思います。

温泉水に加水する理由は主に3つあります。ひとつは、湧出量が少なく、温泉を加えるだけでは排出される量に追いつかないので大きな浴槽を満たす為に加水するためであり、2つ目は湧出する温泉がとても熱いので安易に加水して冷ますため、3つ目は、温泉濃度がかなり濃い場合では浴槽や循環装置を痛めてしまうためです。

温泉に加水する理由としては、そのほとんどがこの一番目の湧出量が少ないためであり、都会では特にこれが目立ちます。ジュースなどでは果汁何%と表示があるように、100%温泉でないのであれば、温泉が何パーセントで、水が何パーセントと言う表示がされるべきでしょうが、現行の法律ではそうした表示義務はありません。

一方では、何百年も前より高温の温泉を加水して冷ますのではなく、「自然冷却」や「湯もみ」して冷ますことにより温泉成分を損なわず提供する努力をしてきた温泉も多く、群馬県の草津温泉などがそれです。このように与えられた温泉資源において安全で良質な泉質を提供しようと言う温泉管理こそが今の温泉施設に問われています。

ところで、我が別荘地の温泉はといえば、これは間違いなく100%温泉水であり、塩素は一切入っていません。ただ、とくに冬季を中心に源泉の温度が下がる場合も多く、また別荘地内が広いために、給湯のための配管を通っているうちに温泉の温度が下がってしまいます。

このため、源泉から各家庭への配管の途中に、基地局が設けられていて、ここのボイラーで再加熱してから温泉水を送り出すようにしています。草津温泉のように源泉の温度が高いために冷ましてから、というのができないのが残念ですが、少なくとも塩素の心配はまったくなく、地下数百メートルからくみ上げているので農薬等の混入の心配もありません。

これまでも述べてきたとおり、水道水にもほとんど塩素成分はなく、ここに住んでいる限りは、東京よりも数倍健康的な生活が送っていけそうです。従って、総じてみれば、こと、「水」の問題に関しては、この地の利はかなりあるということが言えると思います。別荘地としてだけでなく、永住地として伊豆を考えていらっしゃる方は、ぜひこうしたことも参考にしてみてください。

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丙午の空

2014-0453少し前に、「芙蓉の人」こと、野中千代子について書き、このとき、最後のほうで、1966年3月5日に発生した起こった英国海外航空機空中分解事故について少し触れました。

この事故は英国海外航空(BOAC)の世界周航便のボーイング707が富士山付近の上空付近約4500mを飛行中、乱気流に遭遇し、右翼が分断されるなどして機体が空中分解し、御殿場市の富士山麓・太郎坊付近に落下したもので、この事故でアメリカ人観光客を中心とした乗員乗客124名全員が犠牲になる大惨事となりました。

調べてみると、この太郎坊というのは、表富士周遊道路(富士山スカイライン)と御殿場口登山道分岐付近から、さらに御殿場口登山道五合目までの地域で、だいたい標高1300m~1500mくらいのところのようです。

機体は墜落後、その前部が炎上しており、機首付近は本来燃料タンクがないので炎上しないはずでしたが、乱気流遭遇時に主翼付近のタンク隔壁を燃料が突き破り機首付近に溜まっていたのが原因でした。

墜落の瞬間は、この当時の気象庁の富士山測候所職員が目撃しており、この測候所職員以外にも陸上自衛隊東富士演習場の自衛隊員、路線バス運転手など多くの目撃者がいて、その後墜落原因を明らかにするためにその目撃談が役立ったといいます。

彼等の多くが地元の静岡県警察に通報した上に、住宅地からもそれほど遠くなかったために、早いタイミングで警察官や消防隊員が墜落現場に駆けつけ現場の保存や捜索にあたることができました。

この墜落を目撃していた陸上自衛隊員は、直後に事故現場に向かい、現場保存及び捜索にあたっています。また、事故機の墜落時刻に前後して、この日平和台野球場で行われ、NHKラジオ第1放送で中継された、プロ野球オープン戦西鉄ライオンズ対読売ジャイアンツの試合の模様を偶然聴いていました。

そして、この自衛隊員が「1回表の巨人の攻撃で長嶋、森が出て6番打者の吉田の打席のとき、飛行機の主翼の両端あたりから白く尾を引き始めた」と証言したことを基に、本件事故捜査本部が当該中継の録音テープを分析した結果、正確な墜落時刻が判明しました。14時15分です。

これらの目撃証言に加えて、乗客の1人が持っていた8ミリカメラが回収され、この中には、事故直前の機内から山中湖周辺の光景が撮影されており、画面が一瞬(2コマ)飛び、機内と思われるひっくり返った客席と引きちぎられたカーペットが映ったところで映像は終わっていました。

事故機に搭載されていたフライトデータレコーダーは、発見から間もなく回収されましたが、墜落時の火災で破壊されていました。しかし墜落までの光景については、カメラに納められた記録もあり、また自衛隊員や気象著職員はじめ多くの目撃証言とともに事故原因究明に大きく寄与しました。

さらに富士スピードウェイで行われていた自動車レースを取材中の平凡パンチのカメラマンらによって、空中分解し墜落する機体の写真も撮影されており、これらの記録から、この機の墜落原因は中国大陸からの強い季節風のため従来の予想を大幅に上回る強い「山岳波」によるものと判明しました。

上記の8ミリカメラ映像からは、この強い乱気流により、同機のボーイング707の設計荷重を大幅に超える7.5G以上の応力がかかっていたこともわかりました。これにより同機は垂直安定板および右水平安定板が破損、次いで右主翼端やエンジンが脱落、主翼から漏れ出した燃料が白煙のように尾を曳きながらきりもみ状態で墜落に至ったと考えられました。

山岳波は富士山のような孤立した高い山の風下が特に強くなるとされています。またその影響は標高の5割増しの高度まで及ぶといわれており、このため当日の富士山の場合、南側かつ高度5800m以下の飛行は特に危険であり、事故機の飛行ルートはまさにその範囲に該当していました。

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また、事故の原因が、山岳波の中でも特殊な「剥離(はくり)現象」であると気象庁気象研究所が発表したのは、事故から4年たった1970年4月でした。事故当時はロンドン大学の研究者らが発表していた「山体のかなり上部を波状に流れる気流」が原因と見られていました。

しかし、この気流は数十秒から数分の長い周期で流れる方向が変わるのに対し、目撃者の証言や事故の写真撮影などから、気象研究所は「もっと短い周期で方向が変わる未知の空気の流れがあるはず」と研究を進めた結果、山体表面近くの気流が地表から剥がれる時に渦を巻き、それが山体から遠くまで続くことを発見しました。

これが事故原因である事を突き止め、「剥離現象」と名付けて発表したわけですが、しかし、機長がなぜ有視界方式により富士山近傍を飛行しようとしたのかは未だに判然としません。ただ、この機は、ホノルルから福岡へのフライトにおいて濃霧によってその到着がかなり遅れていたことがわかっています。

このため、福岡空港へ着陸後、当日朝に羽田向かう際に、出発が20時間以上遅れており、このことから、飛行距離を短縮させて早く次の目的地に到着したかったために、富士山上空を通過したのではないかと推定されました。

また、同機にはアメリカ人の団体観光客が多かったため、機長が乗客に富士山を見せたいと思ったこともこのルートを通った原因と考えられます。事故以前に同じ911便(別の機長)が何度か富士山上空を経由して飛行したことも確認されています。が、事故機機長が富士経由の飛行を決断したはっきりとした理由は現在に至るまで明確化できていません。

現在も富士山上空を飛行する民間航空ルートは存在しますが、必ず計器飛行方式で飛行し、なおかつ充分な高度をとっているため墜落する危険性は当時よりかなり低いといえます。それでも、富士山周辺での乱気流の発生が予想される際には富士山が見えないくらい大きく迂回するコースを取ります。

特に羽田空港進入のために富士山の南側を飛行する際には八丈島付近まで南下することがあるそうです。

この英国海外航空事故は、この年1966年に起こった航空機事故の3番目の事故です。この当時も今もそうですが、航空機事故というのは、1度発生すると何度も重ねて起こる場合があり、この年もまた再び事故が起こるのではないか、とその可能性が取沙汰されるとともに、一方ではもうこうした大きな事故は起きないだろうと、人々は考えました。

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この年最初に起こったのは、全日空機による羽田沖墜落事故です。同機は、2月4日に午後6時に千歳空港を出発し、目的地である羽田空港へ向かった全日空のボーイング727-100型機であり、東京湾の羽田空港沖での墜落し、合計133人全員が死亡、単独機として当時世界最悪の事故となりました。

導入されてまだ間もない最新鋭機であったことや、日本における初の大型ジェット旅客機の事故で、ほぼ満席の乗客(多くはさっぽろ雪まつり観光客)と乗員の合計133人全員が死亡し、単独機として当時世界最悪の事故となったこともあり、世界中から注目を集めました。

事故後多くの機体の残骸が引き上げられ、これは機体の90%近くに及び、当時の運輸省の事故技術査委員会には、FAA(アメリカ連邦航空局)、ボーイングなどの技術者を主体とした製造国のアメリカ側の事故技術調査団も加わって事故原因についての綿密な調査が行われました。

この結果、同機は、東京湾に差し掛かる際、計器飛行(IFR)による通常の着陸ルートをキャンセルし、有視界飛行(VFR)により東京湾上空でショートカットする形での着陸ルートを選択していたことなどが判明しました。

通常の着陸ルートをキャンセルし、東京湾上空でショートカットする着陸ルートを選択した理由は不明ですが、当時は現在のように計器飛行方式(IFR)が義務付けられておらず、飛行中に機長の判断でIFRで提出したフライトプランをキャンセルし、目視による有視界飛行方式に切り替える判断が容認されていました。

そのため機長の中には、航空路を気にせず、最大巡航速度(マッハ0.88)で巡航し、なかには東京・大阪27分、東京・札幌46分といった”スピード記録”を打ち出す競争を行うような人たちもいたといいます。

羽田空港に向けて着陸進入中の午後7時00分頃の「現在ロングベース」との通信を最後に、突如通信を絶ちました。航空機が着陸する際、空港が混んでいる場合には、後続機との間隔を確保します。この場合、着陸する側の滑走路末端からの飛距離でこの間隔を調整しますが、その時間を短くする方がショートベース、長く飛ぶ場合がロングベースです。

従って、同機はほぼ着陸寸前の状態にあったことがわかり、その後空港管制室が「聞こえるか、着陸灯を点けよ」など繰り返し連絡を取ろうとしたものの、後続機が平行滑走路に次々と降り立っているにもかかわらず着陸灯も見当たらず、また返答もありませんでした。

このとき、付近を飛んでいた別の飛行機の乗員から東京湾で爆発の閃光を目撃したとの通報もあり、どうやら同機は着陸途中に何等かの理由で、羽田沖に猛スピードで激突したことが想像されました。収容された乗客の遺体の検視結果は衝撃による強打での頸骨骨折、脳・臓器損傷によるものも多く、他は溺死によるものでした。

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その後の調査では、「操縦ミスによる高度低下」、「第3エンジンの離脱による高度低下」、「スポイラーの誤作動による高度低下」が主に取りざたされました。

このうちの第3エンジンの脱落説は、この第3エンジンはもともと第1エンジンとして取り付けられていたもので、事故以前からたびたび異常振動などのトラブルを起こしていたことを理由とするものです。

このため、前年に購入したばかりの機体であるにも関わらずオーバーホールを行った後に第3エンジンとして取り付けられ、オーバーホール後もトラブルを起こしていましたが、残骸や遺体の髪の毛に火が走った跡があったため、この説が浮かび上がりました。

また、スポイラーの誤動作説は、「誤ってスポイラーを立てた」、または「機体の不具合、もしくは設計ミスのためにスポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した乱流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」という説です。

スポイラーとは、主翼上面に装備するエアブレーキのことであり、降下時に旅客機がスピードを落とすためのものです。この装置の故障は、地面すれすれに着陸しようとする航空機にとって致命的な事故につながりかねないものです。

しかし、いずれもがはっきりとした根拠となる証拠を見つけることができず、また同機にはコックピットボイスレコーダー、フライトデータレコーダーともに搭載されていなかったこともあり、委員会は高度計の確認ミスや急激な高度低下などの操縦ミスを強く示唆しつつも最終的には原因不明と結論づけました。

この事故をきっかけに、日本国内で運航される全ての旅客機に、コックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダーの装備が義務づけられるようになりました。また、この事故以降はフライトプランに沿って計器飛行方式で飛行するのが原則になりました。

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この年、これに次いで起こったカナダ太平洋航空402便着陸失敗事故は、英国航空機の富士山上空での空中分解事故の前日の3月4日に発生したもので、香港発東京経由バンクーバー行きのカナダ太平洋航空402便が羽田空港への着陸直前に墜落した航空事故です。

一か月前には全日空機の事故が発生したばかりであり、さらに翌日には英国機の空中分解事故が発生したため、これら一連の事故は日本社会に大きな衝撃を与えました。

カナダ太平洋航空402便ダグラスDC-8-43は香港発東京・羽田空港とブリティッシュコロンビア州バンクーバー、メキシコシティを経由してブエノスアイレス行きという環太平洋航空路線として運航していました。

3月2日から日本各地は濃霧に覆われており、陸海空の交通機関が麻痺に陥っており、事故当日の午後4時ごろから羽田空港周辺にも濃霧が広がり、視界不良のため国内線の運航がほぼストップしており、羽田空港へ着陸する国際線到着便も板付飛行場(福岡空港)などへの代替着陸や出発見合わせを余儀なくされていました。

402便は香港啓徳空港を離陸し、羽田への着陸へ向け降下を開始しましたが、悪天候のため空中待機することとなり、15分以内に天候回復しない場合、代替空港として台北松山空港(愛媛県のではなく)に着陸することを決定しました。

ところが、その後、管制から視界が回復したことが伝えられたため、同機は羽田への着陸を再び決め、天候が悪かったため、地上誘導着陸方式により進入しました。この方式は自動着陸や計器飛行ではなく、地上レーダーに基づいた方位・高度の指示を管制官が口頭で伝達する方式で、操縦は乗務員がマニュアルで行わなければなりませんでした。

こうして402便は機長によるマニュアル操作で着陸態勢に入りましたが、着陸直前になって管制官の指示よりも高度が下がり始めたため、管制官はすぐに水平飛行をする旨の警告を与えました。

が、パイロットはこれを無視し、滑走路の灯火を減光するように要求したのみで降下を続けました。このことから、パイロットは着地後の機体制御に関心が向いており、管制官からの呼びかけに耳を貸せるような状態ではなかったことが想像できます。

結局その直後の午後8時15分に、402便は右主脚が進入灯に接触し次々に破壊しながら進行し護岸に衝突、激しく大破し炎上しました。この事故で運航乗務員3名、客室乗務員7名、乗客62名の合わせて72名のうち、乗務員全員と乗客54名の合わせて64名(うち日本人5名)が死亡し、乗客8名が救出されました。

乗客の中にはドイツ人乗客のようにほぼ無傷で脱出した者もおり、事故の衝撃ではなく火災に巻き込まれて犠牲になった者が多数であったようです。

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同機もまたボイスレコーダーやフライトレコーダーは積んでおらず、事故調査委員会は羽田空港のレーダー記録と、無線交信の声紋分析を行うことにより事故原因を分析した結果、乗員がフランス系カナダ人であったための訛りの影響などで、管制官にその意図がはっきり伝わらなかった可能性などが浮かびあがりました。

また、3月2日から日本各地は濃霧に覆われており、陸海空の交通機関が麻痺に陥っていました。事故当日の午後4時ごろから羽田空港周辺にも濃霧が広がり、視界不良のため国内線の運航がほぼストップしていました。このため、調査委員会としては、事故の原因は操縦乗員がこうした悪天候下で強行着陸したことが墜落原因としました。

なお、同機は進入の最終段階になって異常に高度を下げており、これは、パイロットが早く滑走路を視認するために意図的に高度を下げていたことなどが、無線通信の分析結果などからわかりました。同機の高度があと30cm高ければ、進入灯に接触しなかったといわれています。

この翌日、冒頭で述べた3月5日の、国海外航空機空中分解事故が起こったわけですが、しかし、この年の事故ラッシュはこれでも終わりませんでした。8月26日には日本航空羽田空港墜落事故が起き、これでこの年の日本国内における航空機事故は、4件目になりました。

この事故では、事故機のコンベア880-22Mが、羽田空港から離陸直後に墜落炎上し、乗員訓練飛が行につき乗客の搭乗はありませんでしたが、同社員4名と運輸省航空局職員1名の5名全員が犠牲になりました。

事故機JA8030、通称「銀座号」は日本国内航空から日本航空にリース中の機体で、所有権は日本国内航空に残されたままでした。1966年8月26日、銀座号は、午前に羽田から北海道へ往復飛行を行い、午後からは羽田空港で離発着訓練を行うことになりました。

当日羽田空港のA滑走路(旧)が工事により閉鎖されていたため、平行するC滑走路(旧)から離陸しようとしており、これはこの飛行は操縦員の機種限定変更試験のためでした。午後2時35分、試験項目の一つとして、滑走中に第4エンジンが手動停止されました。これは、離陸時にエンジン一発故障の想定で離陸続行を行うというテストです。

ところが、この操作によって風下の外側の推力がゼロとなり、機体は急激に片滑りしはじめました。目撃証言によれば、C滑走路から右へ逸脱しはじめ、左車輪が折れてC滑走路とA滑走路の間で左向きになったうえで、右車輪も折れてしまい、その衝撃で胴体着陸して爆発炎上し、乗員が脱出する時間もないまま全焼しました。

事故原因は、前述の操作が困難な機体に加え、訓練生のミスも誘発されて離陸直後の墜落に至ったためとされています。

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さらに11月13日、今度は全日空機が松山沖で墜落するという事故が起こります。これでこの年における日本国内の事故はついに5つ目になりました。

この事故は、全日本空輸が運航する国産旅客機YS-11による墜落死亡事故で、一回目の着陸でオーバーランの危険が生じたために、着陸をやりなおした際、高度を保つことができずに左旋回の姿勢のまま、松山空港沖2.2kmの伊予灘に墜落し、乗員乗客全員50名全員が犠牲になりました。

この事故において、機体は海面激突時の衝撃で粉砕されましたが、この機の飛行回数は1076回、飛行時間1068時間25分であり、全日空に引き渡されたYS-11としては最も短命でした。また全日本空輸にとってもこの年2回目の墜落事故となりました。

同機は、午後8時28分に一度着陸しましたが、滑走路1200mの半ば、滑走路端から460m地点付近に接地してところ、滑走路が短すぎることに気付き、オーバーランの危険が生じたために、着陸をやりなおす着陸復航を行おうとしました。

ところが、フラップと主脚を格納した同機の上昇は通常より鈍く高度230~330ftまで上昇した後、降下に転じ、左旋回の姿勢のまま、失速して松山空港沖2.2kmの瀬戸内海、伊予灘に墜落しました。

同機もまたボイスレコーダーとフライトデータレコーダーを搭載していなかったこともあり、この失速についても、速度計の誤読あるいは故障等の推測原因が取沙汰されましたが、結局当時の事故調査委員会はとうとう原因を特定することができませんでした。

が、当日は雲が低く垂れ込めていた上に霧雨が降っており、あまり天候がよくなかった上、当該機は当日のダイヤが乱れていたことで同機の松山空港上空への侵入は当時の運用時間である午後8時をすぎていました。

このため、滑走路の照明を再点灯するのに手間どい、これを待つために広島県の呉市上空から向わず山口県の岩国市上空を経由して時間稼ぎをしたため少し遠回りしていたことなどがわかっており、燃料切れも間近だったことから機長以下の乗員の心に余裕がなかったことなどが推測されました。

さらに、当初このフライトでは、機材としてフォッカー社製のF27「フレンドシップ」を使用する予定でしたが、機体のやりくりがつかず予約客も多かったために大型のYS-11へ機体が変更されていました。その結果、事故機の機長は急遽予定にはなかった飛行をこなすことになり、緊張気味であったのではないかとも指摘されています。

これまで述べてきたとおり、これら一連の事故が起きたのは1966年(昭和41年)です。この昭和40年前後のころというのは、関西圏の新婚旅行先として松山の道後温泉が選ばれることが多かったといい、またこの全日空松山便のフライト当日は日曜日で大安吉日でもあり、新婚旅行に向かうカップルが12組(24名)と犠牲者の半数近くにのぼっていました。

このことは世間に深い衝撃を与えました。いずれのカップルも婚姻届の提出を済ませておらず法的には夫婦ではなかったため、その後の航空会社と遺族との損害賠償交渉も少なからず混乱しました。これを受けて法務省は、これ以後、婚姻届を早期に提出するように励行する広報を出したほどでした。

さらには、犠牲者の中には海流に流されて遺体が発見されなかった者が少なくなかったため、付近の海域で取れた海産物が風評被害で売れなくなるといったこともありました。

また、滑走路が仮に2000m程度あればそもそも着陸復航する必要がなく事故も起きなかったと考えられることから、この事故を契機に松山空港を始めとする地方空港の滑走路の拡張工事が進められることになりました。

現在の松山空港も今では2500mまでも滑走路が延長されていますが、こうした事故対策がその後の地方空港のジェット化を促す結果となり、現在のような「空港余り」をもたらす結果となりました。

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この松山空港沖事故では、二重遭難事故も起こっています。事故から2日後の11月15日、各方面のヘリコプターが遺体捜索を行っていましたが、松山空港北方の愛媛県北条市(現在は松山市)粟井沖において大阪府警のヘリコプター”あおぞら一号”と全日空のヘリコプター(JA7012)が正面衝突し、双方の操縦士ら4名が犠牲になりました。

双方とも捜索に夢中になるあまり気付くのが遅れたと見られています。なおこの事故は、警察機関が導入したヘリコプターで初めての事故喪失でした。

この事故を入れると、結局この年には、6件も航空機事故が起きたことになり、その合計では376人もの尊い命が一連の飛行機事故により失われました。

実は、この年、1966年は、丙午(ひのえうま)にあたっていました。出生数は約136万人と前年に比べ大きく落ち込んだ年であり、その前の1960年もはっきりとした記録はないものの、出生数は少なかったようです。

丙午年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる「八百屋お七」に由来します。

八百屋お七が1666年の丙午生まれだとされたことから、丙午の年には火災が多いという噂が広がり、さらにはこの年に生まれた女の子は男を食いつぶす、という迷信になっていったものです。迷信にすぎませんから、このことと1966年の丙午の年に連続した飛行機事故とは何の関係もないことは明らかです。

が、陰陽五行では、丙午の「丙」は十干の「陽の火」、また「午」も十二支の「陽の火」で、つまり、丙午は干・支ともに「火性の年」、ということになります。60年に一度という確率であり、やはりこの年には火災を伴うような事故が多くなる必然があったのではないか、と勘ぐってしまいます。

ちなみに、この年は、1月に水素爆弾を搭載したアメリカのB-52爆撃機がスペインのパロマレス沖で別の空中給油機と衝突、水爆を搭載したまま墜落するというショッキングな出来事があり、また10月には米デトロイト郊外のエンリコ・フェルミ高速増殖炉で史上初の炉心溶融事故おこるなど、火ではないものの原子力がらみの事故が重なっておきています。

また、6月30日には、いわゆる袴田事件が静岡の清水市で起こり、「こがね味噌」専務の自宅が放火され、焼跡から専務自身と、妻、次女、長男の計4人の他殺死体が発見されました。静岡県清水警察署捜索した結果、従業員で元プロボクサーの袴田巖の部屋から血痕が付着したパジャマが発見され、袴田氏はその後の裁判で死刑が確定しました。

しかし、その後も袴田氏は一貫して無罪を主張、今年の3月27日、ついにこれが認められて静岡地裁が再審開始と、死刑及び拘置の執行停止を決定したことは記憶に新しいところです。先の5月、48年ぶりに故郷の浜松市に帰ったことなども新聞報道で大きく取りあげられました。

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それにしても、このように世間を騒がせた放火殺人事件もまた1966年に発生したというのもまた、何ごとかを物語っているような気がします。

ちなみに、この1966年生まれの「丙午の女」とされる有名人にどんな人がいるかを調べてみると、現在47~48歳という油の乗った年齢の彼女たちの顔ぶれは錚々たるものです。

財前直見(1月10日)、三田寛子(1月27日)、川上麻衣子(2月5日)、小泉今日子(2月4日)、大沢逸美(3月23日)、村上里佳子(RIKACO・3月30日)、松本明子(4月8日)、広瀬香美(4月12日)、益子直美(5月20日)、森尾由美(6月8日)、中村あゆみ(6月28日)、渡辺美里(7月12日)、石川秀美(7月13日)、鈴木保奈美(8月14日)、早見優(9月2日)、小谷実可子(8月30日)、斉藤由貴(9月10日)、伊藤かずえ(12月7日)、有森裕子(12月17日)、国生さゆり(12月22日)

ちょうど子育てが終り、女優さん、歌手、スポーツコメンテーターなど色々職業は違いますが、円熟した才能を開花させることのできる年齢のためか、ことさらに有名人がこの年に集中しているように思うのですが、さらに気のせいでしょうか。

無論、このメンツを見る限りは、男を食いつぶす、といったのは迷信であることがわかり、むしろ、いずれもが世の男性陣を楽しませてくれる、一流のエンターテイナーばかりです。従って「丙午の女」は俗信にすぎず、むしろ丙午の年には、航空機事故などの事故が起こる可能性のほうを心配したほうがよさそうです。

ちなみに、次の丙午は、2026年になります。この頃の出生数は既に減少傾向にあり、1846年、1906年、1966年の際とは異なり、仮にこの年に丙午の女の俗信による「産み控え」が起こったとしても、人口動態に大きな影響は与えないと予測されるそうです。

この年には、第25回冬季オリンピックが開催される予定であり、開催都市は2019年に開催予定の第131次IOC総会で決定されます。

日本も立候補する可能性があるといわれており、その最右翼は札幌です。欧米ではスペイン、バルセロナが取沙汰されていますが、もしこの年にも日本で事故が多発するようならば、この立候補は取りやめたほうがよいかもしれません。

1992年の夏季オリンピックを開催したバルセロナ市は、2022年冬季大会への立候補を検討しましたが、このときは市長が準備不足として見送った経緯があり、代わりに2026年大会には全精力を傾けるとしているそうなので、こちらへ譲ったほうが良いのかも。

2026年といえば、わずか12年後。とはいえ、私は60代になっています。まだまだ元気でいると思いますが、果たして1966年のような事故の年になるのでしょうか。そんなことなどないと願いつつ、今日のこの項は終わりにしたいと思います。

2014-1110588

三千世界のカラスとともに……

2014-2773幕末の志士たちの中で、一番好きな人は誰か、と問われて坂本竜馬や西郷隆盛の名を上げる人は多いでしょう。西郷隆盛の双璧にあげられる、勝海舟を好きな人も多いと思いますが、あなたは誰が一番好きでしょうか。

私は、郷里が山口ということもあり、やはり気分的には高杉晋作という人が好みです。幕末の慶應3年(1867年)にわずか27歳で没したこの長州藩士は、異色の志士としてこの時代を駆け回り、奇兵隊というそれまでの身分制を破壊するもととなった部隊を創設するなどして250年続いた徳川幕府を倒す上において重要な役割を果たしました。

その短い生涯の割には、逸話の多い人で、そのひとつひとつがドラマチックかつ、エネルギッシュな行動を伴ったものであり、幕末にあまたの志士がキラ星のごとく現れましたが、短い生涯でこれだけ暴れ回った感がある人は、この人をおいて他にいないでしょう。

坂本竜馬もまた、エネルギッシュにこの騒乱の時期を駆け抜けましたが、晋作と違って下級武士の出であっただけに、とくに初期のころにその行動が制約されたのが玉に傷です。晋作のように藩の名門に生まれていれば、さらにこの時代にもっと大きな影響を与えたのではないでしょうか。

高杉家は、代々藩主毛利氏の直属の家臣で、家格は「大組」であり、これは馬上を許された上級家臣です。父の小杉忠太は、長州藩の支藩である萩藩の御側用人であり、これは藩主の側近であり、その命令を老中らに伝える役目を担っていました。

こうした長州藩の名門の武士の家に生まれた晋作もまた英才教育を受け、藩の名門校である明倫館に入学。卒業後は、柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝されるほどの達人でした。吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれ、藩命で江戸へ遊学して昌平坂学問所などで学びました。

師の松陰は、安政の大獄で捕らえら処刑され、その意思を継ぐことを決意しますが、国を変えるためにはまず諸国の事情や外国を知るべきと考え、松陰の処刑の翌年には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡り、得意だった剣術をさらに磨くべく、神道無念流練兵館道場に入門します。

江戸では開明派といわれた佐久間象山や横井小楠といった巨人に師事するとともに、東北遊学などの地方巡察を行い、文久2年(1862年)には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して大きな影響を受けます。

松陰が処刑されてすぐのころには、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚していますが、その後の動乱の時期には下関の花街で芸妓をしていた「おうの」を見初め、その後半生はほぼこの女性と生活を共にしていました。

文久3年(1863年)、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行いますが、逆に米仏の報復に逢い惨敗した、いわゆる「下関戦争」において、晋作は下関の防衛を任せられ、このときに身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成しました。

この奇兵隊は、その後の晋作らが藩の実権を握る上においても大活躍をし、晋作らが「俗論派」と呼ぶ長州藩の保守派に対してのクーデターを起こした際の主力にもなりました。晋作達は自らを「正義派」と称し、このほかの長州藩諸隊を率いて下関の功山寺で挙兵。

元治2年(1865年)に俗論派を駆逐して藩の実権を握ると、幕府による再度の長州征討に備えて、防衛態勢の強化を進めます。その後、土佐藩の坂本龍馬らの仲介によって薩長盟約が結ばれると、盟友の桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共にさらに討幕の準備を進め、幕府以外の諸藩では初の洋式軍艦といわれる蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入。

6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督としてこの丙寅丸に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還。小倉方面の戦闘指揮でも軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させ、その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させました。

その後さらに幕府軍が籠る小倉城を攻略しましたが、幕府軍総督・小笠原長行の臆病な日和見ぶりに激怒した肥後藩細川家をはじめ、幕府軍諸藩もまた幕府軍の脆弱ぶりに愛想をつかしたためが随時撤兵しはじめました。さらに将軍・徳川家茂の死去の報を受けた小笠原がこれ幸いと小倉城に放火し戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となりました。

この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)の大政奉還への大きな転換点となり、その後の明治維新へとなだれ込んでいくことになります。

しかし、ちょうどこのころから、晋作自身は、肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、慶応3年4月14日(1867年5月17日)、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去りました。

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人生のはかなさを笑い飛ばしていたようなところがある人でした。と、同時にそのはかなさを悲しんでいたようなフシがあります。

辞世の句、「おもしろきこともなき世をおもしろく」はことさらに有名です。「おもしろきこともなき世“に”おもしろく」でななかったかという説もありますが、晋作直筆になる歌が残されていないため、正確なところは不明です。

彼の墓所のある東行庵の句碑には「に」とあり、防府天満宮の歌碑では「を」となっています。古川薫、司馬遼太郎の著書では「を」が採用されている一方、一坂太郎は「に」を採用し、「“を”は後年の改作であろう」としています。

かつては死の床にあった晋作が詠み、彼を看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」という下の句をつけたと言われていましたが、近年の研究によればこの歌は死の前年にすでに詠まれていたことがわかっており、このことから辞世の句ではないという人もいます。ただ、死の直前に詠んだものだけが辞世の句というわけでもないでしょう。

晋作がまだ23歳のころ、長州藩では、当初守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞たちと共に尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流していました。

文久2年(1862年)、晋作は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じており、折りしも、外国公使がしばしば横浜の金澤八景で遊んでいたため、ここで彼等を刺殺しようと同志を集めました。

ところが、その一人であった久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太にこのことを話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、晋作らは謹慎を命ぜられるという事件がありました。

これに反発した晋作は、伊藤博文や井上聞太といった子分を率いて品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行いますが、これらの更なる過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では高杉を野放しにすると危険と判断し、江戸から召還して吉田松陰の生誕地である萩の松本村に晋作を幽閉しました。

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このとき、晋作はこの処遇に不平を漏らし、萩の地で草庵を結び、「東行」と名乗って、十年の隠遁に入ると称しました。しかし、幽閉されたといっても藩の名士の子であった晋作には、萩の町に繰り出して大っぴらに酒を飲むことは許されていたらしく、晋作は萩の町の料亭に繰り出しては芸妓を呼び、三味線を弾いては、歌い明かしていたといいます。

おそらくこのとき詠まれたのがかの有名な、「三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」という都都逸です。

都々逸(どどいつ)は、江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年-1852年)によって大成された口語による定型詩です。七・七・七・五の音数律に従うもので、元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物でした。主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれます。

この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われています。

♪男なら お槍担いで お中間となって 付いて行きたや下関
国の大事と聞くからは 女ながらも武士の妻
まさかの時には締め襷 神功皇后の雄々しき姿が 鑑じゃないかな
オーシャリシャリ

♪女なら 京の祗園か長門の萩よ 目もと千両で鈴をはる
と云うて国に事あらば 島田くずして若衆髷
紋付袴に身をやつし 神功皇后のはちまき姿が 鑑じゃないかな
オーシャリシャリ

♪男なら 三千世界の鳥を殺し 主と朝寝がしてみたい
酔えば美人の膝枕 醒めりゃ天下を手で握り 咲かす長州桜花
高杉晋作は男の男よ 傑いじゃないかな
オーシャリシャリ

2014-3571

最後の「オーシャリシャリ」は、おっしゃるとおり、という意味で、いわゆるお囃子です。

もしも自分が男だったなら、槍を担いで中間(ちゅうげん)として下関について行き、外国との戦争に参加したい。自分も女ではあるが、武士の妻であるから、外国の軍勢が萩に攻めてくるようなことがあっても、神功皇后のようにこの国を守りたい、この1番の歌詞はそんな内容です。

このころ長州藩では尊皇攘夷運動が高まっていましたが、1863年(文久3年)には朝廷からも攘夷令が出され、藩士の多くが外国船攻撃のために下関に集結していました。一方で萩で留守を守る藩士の妻や子供たちも、外国船の報復攻撃に対抗するため、萩の菊ヶ浜沿いの海岸に女台場という土塁を築きましたが、現在でもその遺構の一部が残っています。

「男なら」はその女台場を築く際工事に携わった、長州藩士や奇兵隊をはじめとする諸隊士の妻や子供たちによって謡われた歌です。地元でも一部の伝承者を除いて長らく忘れられていましたが、1936年(昭和11年)に人気女性歌手だった音丸のレコードがヒットして広く知られるようになったもので、炭坑節などと同様に全国的な人気を呼びました。

現在萩市では、古くからある唄や踊りの他に、萩夏まつりなどにおいてはよさこい風にアレンジされた踊りで踊られることもあります。

ところで、この男ならや晋作の都都逸にも出てくる「三千世界」とはいったい何なのでしょうか。

これは、実は仏教用語であり、10億個の「須弥山世界」が集まった空間を表す言葉であり、正確には「三千大千世界」であり、これを略して「三千世界」「三千界」「大千世界」と呼んでいます。

仏教の宇宙論では、須弥山(しゅみせん)と呼ばれる山の周囲に四大洲(4つの大陸)があり、そのまわりに九山八海があるとされます。これが我々の住む1つの世界、つまり1須弥山世界で、この中には上は色界の「梵世」から、下は大地の下の「風輪」にまでが存在します。

この1つの世界が1000個集まって小千世界となり、小千世界が1000個集った空間を中千世界と呼び、中千世界がさらに1000個集ったものを大千世界といいます。大千世界は、大・中・小の3つの千世界から成るので「三千大千世界」と呼ばれます。

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また「三千大千世界」は、1000の3乗個、すなわち10億個の世界が集まった空間であるともいわれます。この広大な三千大千世界を教科できるのは、たった一人の仏様とされていて、このためこれを「一仏国土」ともよびます。

欧米では、限りない星々の集まりが宇宙であるわけですが、こうしたいわば我々の生活に密着した小さな世界の集まりが宇宙である、とする考え方はいかにもアジア的です。この我々が住んでいる世界を包括している一仏国土(三千大千世界)は「娑婆」ともいいます。原語ではサハー“sahā”ですが、俗にシャバとも読みます。

阿弥陀如来が教化している極楽という名前の仏国土は、サハー世界の外側、西の方角にあり、このため西方極楽浄土と呼ばれます。これに対して我々俗人が住まう宇宙を、娑婆と呼び、こうした宇宙観は、明治になって欧米の科学的宇宙観が導入されるまでは普通に信じられていました。

よく刑務所から外の世界を娑婆と呼びますが、塀の中の地獄から見た外界は、この西に住まう慈愛に満ちた仏によって安穏が約束されている国というわけです。

一方の西欧における宇宙観はこれとは全く異なります。19世紀から20世紀初頭の物理学者らも、宇宙は始まりも終わりもない完全に静的なものである、という見解を持っていました。現代的な宇宙論研究は彼等の観測と理論の両輪によって発展してきたという歴史があります。

1915年、アルベルト・アインシュタインは一般相対性理論を構築し、これに基づき、「アインシュタイン宇宙モデル」を提唱しました。しかし、このモデルは不安定なモデルであり、
これによれば宇宙は、最終的には膨張もしくは収縮になるかよくわからん、ということになってしまいます。

ところが、1910年代にヴェスト・スライファーとやや遅れてカール・ウィルヘルム・ヴィルツが、「渦巻星雲」の観測から、天体が地球から遠ざかっているという可能性もあるのではないか、と考えました。

しかし、このことを証明するためには、実際にこの天体までの距離を計測する必要がありました。ところが、これはこの当時の技術では非常に困難でした。天体の直径を測ることができたとしても、その実際の大きさや光度を知ることはできなかったためです。

そのため彼らは、それらの天体が実際には我々の天の川銀河の外にある銀河であることに気づかず、もしかしたら宇宙は遠ざかっているのではないか、という自分達の観測結果から導かれるべき宇宙論の意味についても深く考えることはありませんでした。

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それから10年経った1920、アメリカ国立科学院においてハーロー・シャプレーとヒーバー・ダウスト・カーチスが、「宇宙の大きさ」と題する公開討論会を行い、この中でシャプレーが、「我々の銀河系の大きさは直径約30万光年程度で、ヴィルツらが観測した渦巻星雲は銀河系内にある」との説を展開しました。

対するカーチスは、「銀河系の大きさは直径約2万光年程度で、渦巻星雲は、この銀河系には含まれない独立した別の銀河である」との説を展開しました。この討論は天文学者らにとって影響が大きく、たちまち学者たちの間に大きな論争がおこりました。

ところが、7年後の1927年、ベルギーのカトリック教会の司祭であるジョルジュ・ルメートルが、ヴィルツら渦巻星雲が遠ざかっているという観測結果を理由に、さらにカーチスの理論を発展させ、宇宙は「原始的原子」の「爆発」から始まった、とする説を提唱しました。

これが世にいう、「ビッグバン」です。さらに1929年には、エドウィン・ハッブルがこのルメートルの理論が正しいことを証明する観測結果を出し、この理論に裏付けを与えました。ハッブルは渦巻星雲が銀河であることを証明し、星雲に含まれる「変光星」を観測することでこれらの天体までの距離を測定を可能にしたのです。

彼はこの結果を、銀河が全ての方向に向かってその距離に比例する速度で後退していると解釈しましたが、この事実は現在も「ハッブルの法則」として広く知られています。ただしこの理論は比較的近距離の銀河についてのみ確かめられたものでした。

ハッブルはさらに遠くの銀河についてもこれを証明しようとしましたが、銀河の距離が最初の約10倍にまで達したところでハッブルはこの世を去りました。

宇宙が膨張している、とするこのハッブルの法則には、二つの異なる可能性が考えられました。一つはルメートルが発案したビッグバン理論です。もう一つはフレッド・ホイルが提唱した、銀河が互いに遠ざかるにつれて新しい物質が生み出されるため、膨張しているように見えるという説。

フレッド・ホイルの説では、宇宙はどの時刻においてもほぼ同じ姿となり、いわばみかけ状の膨張が続いているということになります。長年にわたって、この両方のモデルに対しては議論が続きましたが、その支持者の数はほぼ同数に分けられていました。

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しかしその後、宇宙は高温高密度の状態から進化してきたという説を裏付ける観測的証拠が見つかり始め、1965年になって、「背景放射」が発見されて以来、ビッグバン理論が宇宙の起源と進化を説明する上ではもっとも適切な理論と見なされるようになりました。

背景放射というのは、正確には「宇宙マイクロ波背景放射(CMB)」といい、天球上の全方向からほぼ等方的に観測されるマイクロ波です。CMBは、宇宙のスケール長に比例して波長が延び続けており、これが全天球の全方位で観測されたことから、宇宙は拡大し続けているということが裏付けられたのです。

こうしたことよって、現在までに宇宙論研究者の大部分は、宇宙が有限時間の過去から始まったとするビッグバン理論を受け入れるようになりました。最近の研究では、さらにこの広がり続けている宇宙の質量の約25%は目に見えない「ダークマター」で構成されており、目に見える物質はわずか4%程度に過ぎないことも分かってきています。

ただ、このダークマターと我々が見ることができる物質の合計は、29%にすぎず、あと71%足りません。何か別の成分が存在しなければならないわけですが、この正体もまだはっきりとはわかっておらず、学者たちはこの成分をダークエネルギーと呼んでいます。

ダークマターには重力があることは分かっているのですが、光などの放射を出さないので、実験室ではいまだに検出されておらず、その素粒子物理学的性質は全く分かっていません。また、ダークエネルギーの性質についても、そのエネルギー密度や集積しないという性質以外には何も分かっていません。

ダークエネルギーの正体は宇宙論における最も困難な問題の一つですが、その理解が進めば、宇宙の終焉がどうなるかという問題にも答が得られる可能性があります。現時点においてわかっているのはダークエネルギーによって現在の宇宙の膨張が加速しているということだけです。

ただ、この加速膨張もまた将来にわたって続いていくかどうかも分かっていません。ダークエネルギーが時間的に増加して加速膨張の度合が大きくなればやがて宇宙はバラバラになるかもしれません。これを「ビッグリップ」といいますが、逆にこの時点で逆に宇宙は収縮に転じるかもしれません。

20世紀初めまで、宇宙に関する科学的描像の主流は「宇宙は永遠に変化をしないまま存在し続ける」というものでした。が、1920年代にハッブルが宇宙の膨張を発見したことで、宇宙の始まりと終わりがどういう状態なのかという科学的研究に焦点が移り、かくしてこの議論はさらに将来に渡って延々と続いて行くことになるはずです。

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……と、三千世界の話をしていたら、宇宙論についての話にかなり長く寄り道してしまいました。

高杉晋作が都都逸で唄った三千世界という宇宙は、果たして永遠のもののつもりだったのか、限りのあるものだったのかはよくわかりません。が、この三千世界に棲むカラス、というのは、朝寝をともにする愛妾との仲を邪魔する輩、という意味でしょう。

邪魔者はすべて排除して、二人だけになった宇宙でいちゃいちゃしよう、と詠ったものであり、そう考えるとなかなかロマンチックかつしゃれています。

主と朝寝がしてみたい、の「主」とは、一般には、晋作の妾であった、「おうの」だったといわれています。現在下関にある東京第一ホテル裏あたりに、その昔、「稲荷町」といわれる遊里があり、おうのはここの「堺屋」という妓楼にいました。

晋作とはいつ出会ったのか、はっきりわかっていません。が、文久3年(1863年)京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターで長州藩が追放された際、晋作は脱藩して京都へ潜伏しましたが、桂小五郎の説得で帰郷しており、このとき晋作は、脱藩の罪で萩の野山獄に投獄されています。

しかし、身分が高かったため、このときもすぐに謹慎処分となり、この謹慎処分のころもおおっぴらにあちこちで歩いていたようで、このぶらしているときに下関に滞在し、ここでおうのを見初め、身請けしたのではないかと考えられます。

ちなみにおうのは右を向けといえばずっと右をむいているような、ちょっと天然な癒し系の女性だったといわれています。何事にも素直で、聞き分けがよく、晋作に右を向けといったら、いつまでも右を向いているような従順な女性だった、というのは司馬遼太郎さんも書いていました。

晋作にとって正妻は形式だけのもので、ほとんど家に寄り付かなかったといい、命がけの日々の彼の疲れた心を癒してくれたのは、おうののような素直でしおらしい女性だったのでしょう。

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功山寺での旗揚げ以降、晋作は大阪や京都などで常に幕府方から命を狙われるようになりましたが、おうの得意の三味線を片手に晋作に付き添っていたといい、上述の三千世界……の都都逸も、おうのと一緒になってから作られたという説もあるようです。

高杉晋作がいかに彼女を大切にしたか、という話は残された数々の手紙などにも現れていますが、「長崎みやげ」とされるビロードのカバンが下関市の東行記念館に残っており、彼の深い愛情を物語っています。柄物のビロードに、真鍮の金具がついた英国製のバックであり、この当時としては相当高額なものだったでしょう。

高杉晋作は死期を悟った時に、おうののことを白石正一郎に頼んでいます。白石は長州藩など多くの藩から仕事を受けていた廻船問屋で、尊皇攘夷の志に強い影響を受けてその豊富な資金を晋作らの志士に惜しむことなく注ぎ込んでいた人物です。高杉晋作の奇兵隊結成にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊しています。

晋作はこの白石におうのの後のことを託し、また、おうのに対し、「自分が死んだら墓守をして過ごせ。そうしたら、伊藤(博文)や井上(馨)たちが祖末にしないから」と遺言をします。

彼女はこの言葉に従い、晋作の墓所のある「吉田」という場所で山県有朋が所有していた「無鄰菴」という建物を譲り受け、ここで残る一生を終えました。吉田という地は下関市役所の北東部にあり、市内を流れる木屋川にもほど近い場所であり、現在この建物は「東行庵」とよばれています。

晋作は、その生涯で多数の変名を持っており、谷梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助などなどがありましたが、その最後には谷潜蔵と改名していました。おうのはこの谷潜蔵という晋作の最後の名前を使って新たに谷家をおこし、「谷梅処」と呼ばれるようになりました。

しかし、晋作との間に子があったわけではないため、この谷家はその後、2代梅仙、3代玉仙と代々尼になった女性が庵主として継承していきました。この東行庵は晋作の没後100年を前に1966年(昭和41年)に大修理が行われ、同年、その境内に「東行記念館」が建てられて、現在は観光地になっています。

そしておうのは、ここで高杉晋作の遺言どおりに彼の墓守として暮らし、その費用をやはり、伊藤、井上、山県らが出してくれたといいます。明治42年8月7日、68歳で没。墓は、「東行墓」がある所ではなく、そこから少し離れたところから晋作の墓を見守るようにひっそりと建っています。やはり正妻に配慮してのことだったでしょう。

カラスを殺し、というのは都都逸の気分としてはわかりますが、多くの志士に慕われ、親分肌で優しいところのあった晋作の気分としては、あの世でも子分のカラスを殺したりはせず、きっとかしずかせて器用に働かせ、その稼ぎでおうのとの朝寝を毎日楽しんでいることでしょう。

私もあやかりたいところですが、カラスを子分にするどころか、ミミズ一匹弟子にする器量もありません。またタエさんを尻目に愛妾を持つほどの度胸もないので、当面、テンちゃん一匹で我慢することとしましょう。もしかしたら二匹目の妾ができるかもしれませんが……

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陰陽師

2014-11402629月になりました。

例年ならばまだまだ暑い日が続くはずですが、太平洋高気圧の張り出し弱いようで、大陸から寒気が降りてきて、この涼しさをもたらしているようです。もう少し夏らしさを満喫してから夏休みを終えたかった、という若者も多いでしょうが、夏嫌いの私としてはありがたい限りです。

旧暦9月は長月と呼びます。これは「夜長月」の略であるとする説が有力だそうで、9月に入ると途端に日が短くなることに由来するようです。確かに最近朝起きても、まだかなり暗いことが多くなりました。他に、「稲刈月」が「ねかづき」となり「ながつき」に転じたという説もあり、なるほどこのころになると田んぼの稲穂がそろそろ黄色く重くなります。

9月の誕生花としては、リンドウ、芙蓉、桔梗などがあるようです。このうちの、キキョウ(桔梗)はキキョウ科の多年性草で、ある程度日当たりの良い所なら土壌を選ばず、だいたい日本中どこでも育ちます。万葉集のなかで秋の七草と歌われている「朝貌の花」は本桔梗のことだそうです。

実は、絶滅危惧種です。エッ?と思う人も多いかもしれませんが、これは野生のもの、つまり桔梗の原種とされるものが少なくなっているものです。この野生をもとに数々の品種改良が加えられ、多くの園芸品種が生まれているため、減っているという感じはしませんが、それだけ日本の生態系も変わってきているということになります。

改良された園芸品種も原種もつぼみの状態では花びら同士が風船のようにぴたりとつながっているため、英語では”balloon flower”といいます。一般的な品種では、このつぼみが徐々に緑から青紫にかわり裂けて6~9月にかけて星型の花を咲かせます。

が、品種改良したものには、この花が二重咲きになる品種や、つぼみの状態のままでほとんど開かせないようにしたものもあり、他に背長けがあまり伸びないようにした品種もあります。色も原種の白や青以外にも、紫やピンク色などたくさんの色の品種があり、年々多様になっています。

雌雄同花です。最初に雄しべから花粉を出し、この雌しべの柱頭が閉じるまでが雄花期です。一方、これとは別に先行して閉じた柱頭が再び開く花があり、これは他の花の花粉を待ち受ける雌しべになります。この雌花期にある花が雄花からの花粉を受けとり、受粉して秋になると種を作るという仕組みで、知れば知るほど植物の世界はまか不思議です。

キキョウの根は「サポニン」をたくさん含んでいます。これは、石鹸の材料として知られるものです。漢方薬としても使われ、その効用は去痰、鎮咳、鎮痛、鎮静、解熱作用があり、このほか、消炎排膿薬、鎮咳去痰薬などにも使われます。

桔梗の花は、蕾のうちは鐘形ですが、花開くと五つに裂け、5本の花びらになります。この綺麗な五角形は、太古の時代から日本人には親しまれてきました。

花の形から「桔梗紋」が生まれ、これを美濃の山県氏、土岐氏一族などが紋所としており、明智光秀も土岐氏一族であり、桔梗紋を用いていました。また、陰陽師(おんみょうじ)として高名な安倍晴明が使用した五芒星は、桔梗印と呼び、現在の晴明神社では神紋とされています。

この安倍晴明は、921年~1005年の平安時代に実在したとされる人です。のちに鎌倉時代から明治時代初めまで、「陰陽寮」を統括することになる、「土御門家(つちみかどけ)」の始祖とされます。

陰陽寮は、天皇の補佐や、詔勅の宣下や叙位など朝廷に関する職務の全般を担っていた「中務省(なかつかさしょう)」に属する機関で、主に占い・天文・時・暦の編纂を担当していました。

現在の大阪市阿倍野区、当時の摂津国阿倍野に生まれたとされます。また、生地については、その苗字から奈良県桜井市安倍とする伝承もあるようです。幼少の頃については確かな記録はありませんが、先輩の陰陽師「賀茂忠行・保憲父子」に陰陽道を学び、天文道などもこの二人から伝授されたといいます。

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この陰陽道は、古代中国の自然哲学思想をもとに生まれた、「陰陽五行説」を起源とし、これが日本に輸入されて以降、日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系です。

陰陽五行説というのは、この世の中は、木、火、土、金、水、の「五行」に「陰陽」の二つを掛け合わせたものでできているという説であり、5×2=10ですから、これは甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸となります。

現在使われている季節にも五行が配されています。季節に対応する五行は、春が木、夏が火、秋が金、冬は水です。この四季それぞれの最後の約18日が、「土」であり、これは言い換えて「土用」と呼ばれます。つまりウナギを食べるという、「土用の丑の日」は各季節の最後の時期「土用」の丑の日ということになります。

この土用は12分割されていて、それぞれに十二支が割り当てられています。つまり子丑寅……と子の次の丑の日は、土用のうちの、二番目(18日あるので正確には1.6~3.0日目)の日ということになり、それぞれの季節に一回あります。

このように、全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五要素の組み合わせによって成り立っているとする思想は、中国古代の夏(か)、殷(いん)のと呼ばれた王朝時代にはじまりました。以後、これをもとに天文学、暦学、易学などが発達し、時計もこの結果生まれたものです。

日本には、5~6世紀の飛鳥時代のころに、中国大陸から直接、もしくは朝鮮半島経由で伝来したようです。この陰陽五行説とともに、同時に仏教や儒教も伝えられ、以後、いわばこれら中国固有の思想は日本の文化の根幹に関わり続けるようになっていきました。

とくに陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問は、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を「占う技術」として、圧倒的に日本人に支持されました。もともと山川海と自然豊かな国であり、この自然の一つ一つの要素に神が宿ると考えていた日本人にとっても受け入れやすい思想だったのでしょう。

この「占いの技術」は、仏教とともに輸入されたことから、当初はおもに漢文の読み書きに通じた中国人や朝鮮人の僧侶によって担われていました。しかし、やがて日本人の中にも精通する者が現れ、やがて朝廷でも占いが流行ったことから、7世紀後半頃からこれを司る「陰陽師」があらわれ始めました。

さらに時代が進んで、平安時代以降になると、それまで社会秩序を保っていた律令制にも緩みが見えるようになり、形式化が進んだ宮廷社会では、「怨霊」といった超自然的なものに対するものを信奉するようなオカルティックな雰囲気が出てきました。

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こうしたいわゆる「御霊信仰」などを奉じて世の人をたぶらかす者たちに対し、陰陽道では占術と呪術をもって彼等による災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活にも「正しい道」を教える、として影響力を強め、やがて陰陽道の教えこそが彼等の指針とされるようになっていきました。

こうして陰陽道は宮廷社会における法律ともいえるようになり、やがて宮廷から日本社会全体へも広がりつつ一般化し、法師、あるいは陰陽師と呼ばれる陰陽道の導師などの手を通じて民間へと浸透していきました。

10世紀ころ、この陰陽道だけでなく、これから更に発展した天文道や暦道といった、いわば「天文学」に精通する者もあらわれ、その際たる人物が「賀茂忠行」であり、子の「賀茂保憲」とともに、陰陽道占術の達人といわれるようになりました。

この賀茂父子の出自や、生没年などはまるで不明です。が、陰陽の術に優れ、この当時の帝から絶対的な信頼を得ていたといわれ、特に布や箱などで覆ったものの中身を当てる「射覆」を得意とし、帝の前でそれを披露した事もあったといいます。

醍醐天皇からその腕を披露するように命じられたところ、忠行の目の前には八角形の箱が目の前に出され、これを占った結果は「朱の紐でくくられている水晶の数珠」でしたが、これは見事に正解だったといいます。そして、天皇からは「天下に並ぶもの無し」と賞賛された、といった話が「今昔物語」に書かれています。

忠行・保憲はその技を安倍晴明に伝授したといい、二人は安倍清明がまだ子供だったころから既にその卓越した能力を見抜いていたようです。

今昔物語集の中に「安倍晴明忠行に随いて道を習いし語」というくだりがあり、これによれば、ある時忠行が内裏より自邸に帰宅途中、牛車の中でうとうとしていると、外で供をしていた幼い安倍晴明から突然に呼び起こされたといいます。

驚いて簾を上げて外を見ると、そこには百鬼夜行の一団が通りかかろうとしており、これを見た忠行一行はこれを回避してあやうく難を逃れたといい、忠行はそれ以降、弟子の中でもとくに晴明を可愛いがるようになったといいます。

この忠行の息子の保憲もまた、特異な能力の持ち主だったらしく、あるとき忠行がある貴人の家にお祓いに行く機会があったとき、まだ幼かった保憲が供をするというので連れて行ったところ、無事終わって帰宅途中、保憲が、祓事の最中に祭壇の前で供え物を食ったり、それで遊んだりしている異形の者を目撃した、と父に話したといいます。

これによって忠行は自分の子もまた、ただならぬ能力を持っていることに気付き、保憲に陰陽道を教えるきっかけになったといい、この保憲が長じてからは二人して清明を鍛えたようです。この保憲には、さらに光栄という子があり、二人は晴明に天文道、光栄には主に暦道を伝え、この二人は兄弟弟子として育ちました。

こうして、平安末期から中世においては、天文道の安倍清明と暦道の賀茂光栄が二大宗家として、この時代の陰陽道を独占的に支配するようになりましたが、阿部清明は、とくに宮廷社会から非常に篤い信頼を受けました。

安倍清明は平安時代末期の1005年に83歳か84歳で死没したとされていますが、その技は子孫に受け継がれました。安倍家は、本来下級貴族でしたが、室町時代に入るとその嫡流は賀茂家など他の一族を圧倒し、公卿に列することのできるほどの家柄へと昇格していきました。

やがて、中世に入ると安倍氏が陰陽寮の長官である「陰陽頭」を世襲し、賀茂氏は次官の「陰陽助」としてその風下に立つようになりました。さらに戦国時代までには、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移りましたが、安倍氏の宗家である土御門家も戦乱の続くなか衰退していきました。

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ところが、衰退したといっても、これは宮中などにいる位の高い人々の中の話であり、民間では室町時代以降、陰陽道の考え方がより深く浸透し、占い師、祈祷師としての民間陰陽師が活躍するようになっていました。

さらに時代が進み、関ヶ原以降、徳川家による幕藩体制が確立すると、江戸幕府はこうした野放しになっている民間陰陽師におそれをなすようになりました。このため、賀茂氏の分家の幸徳井家に賀茂氏を継がせて復活させ、この賀茂幸徳井家によって土御門家を牽制させつつ、それぞれに諸国陰陽師を支配させるという巧みな操作をしました。

ところが、それでもやはり復活した賀茂氏よりも土御門家のほうが勢力が強かったため、次第に土御門家だけが民間の陰陽師を支配するようになり、諸国の陰陽師たちに免状を与える権利を独占して17世紀末までには全国の陰陽道の支配権を確立しました。

一方、徳川家による幕藩体制が確立したため、江戸時代には陰陽師の宮中の政治に対する影響力はほとんどなくなり、かつて勢力を誇った陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなりました。一方では、土御門家による民間陰陽道の支配権が確立したため、民間ではこれが暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着していきました。

しかし、この民間陰陽道はもはや往時の宮廷陰陽道のような高尚なものとはかなりかけ離れたものとなっており、民間陰陽師たちの活動は、「だましもの」と呼ばれるようなものがほとんどあり、彼等は「声聞師」とよばれて蔑まれ、士農工商にも該当しない、身分の低い賎民として扱われるようになりました。

明治維新後の1872年(明治5年)、新政府はこの陰陽道を迷信として正式に廃止させました。こうして長きに渡って中央政府に影響を及ぼしてきた陰陽道は、政治的には完全に姿を消し、現代においては土御門家の流を汲む「天社土御門神道」と、高知県香美市に伝わる「いざなぎ流」を除いて、すべて消滅しました。

民間に伝承されていた陰陽道もまた江戸時代に「声聞師」などと呼ばれてその格を大きく落としたことから、現在では、暦などにわずかに名残をとどめるのみとなっています。

しかし、長引く不況による日本の国力低下がささやかれる中、こうした不安定な時代にはよくあることで、占いや呪術といったものは流行りやすいものです。このため、安倍清明や陰陽道についても、小説や映画で取り上げられると大人気となり、果てやゲームやコミックの世界にまで浸透して、今やちょっとしたブームになっています。

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一方では、阿部清明は、その当時の最先端の学問であった陰陽道の科学的価値を高め、「天文道」や卜易を体系にまとめあげた人物として再評価する向きもあり、当時の朝廷や貴族たちの信頼を受けたその政治的手腕を研究しようとする向きもあるようです。

しかし、一般にはその足跡の多くは神秘化されたものが多く、数々の伝説的逸話を生んできました。

この安倍清明の最大のライバルといわれた、「蘆屋道満」こと「道摩法師」との対決もそうした伝説のひとつです。道摩法師は、安倍清明と同じく平安時代の呪術師でしたが、安倍清明とは異なり、非官人の陰陽師でした。

江戸時代の地誌「播磨鑑」によると播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とされ、また播磨国の民間陰陽師集団出身ともいわれています。晴明に勝るとも劣らないほどの呪術力を持っていたとされ、安倍晴明が藤原道長お抱えの陰陽師であったのに対し、蘆屋道満は藤原顕光お抱えの陰陽師でした。

藤原道長は、言わずと知れた有名な政治家です。天皇家の姻戚筋にあたるとされ、数ある政争に勝って左大臣にまで上り詰めて政権を掌握した人物ですが、藤原顕光はその政敵のひとりでした。道満は藤原道長に命じられ、道長以前に左大臣の座にあった藤原顕光を呪祖するように命じたとされています。

清明と道満が直接対決をした、という話も残っており、「式神対決」と呼ばれたこの対決で道満は晴明に敗れ、播磨へ追放されたといいます。式神(しきがみ)とは、識神(しきじん)ともいわれ、陰陽師が使役する鬼神のことで、陰陽師自身は自ら闘わず、いわば手下である式神同士を戦わせて雌雄を決する、というわけです。

人心から起こる悪行や善行を見定める能力があるといわれ、文献によっては、式鬼(しき)、式鬼神ともいわれます。「式」とは「用いる」の意味であり、使役することをあらわしますから、これらかも陰陽師の手先の小悪魔であることがわかります。

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陰陽道は中国から伝来したものですが、これには古来からあった神道の思想や儀式も引き継がれて日本独特のものに変化したものであるということを前述しました。

神道では神主や巫女は、神降ろしによって神を呼び出し憑依させることを「神楽」や「祈祷」といいますが、これらは極めて日本的な神霊であるのに対し、陰陽道においてはその役割を中国由来の式神が担うようになりました。

神道においては、古くからの神道にある「和御魂」の神霊、すなわち自然霊だけを用いましたが、陰陽道では、これよりさらに格の低い「荒御魂」の神霊、いわゆる「荒ぶる神」や「妖怪変化」の類が式神であり、こうした位の低い神を呼び出して使役したと考えられています。

陰陽師においては、式札(しきふだ)と呼ばれる和紙のお札に祈祷を与えることで、これを式神へと変化させます。式神の形は様々ですが、使役意図に適った能力を具える鳥獣や異形の者へと自在に変身します。

異形の者というのはいろいろありますが、鬼のような形をしたものもあれば、いわゆる妖怪のような恐ろしい形のものもあります。中国由来であることから、あるいはキョンシーのようなものであったかもしれません。

滋賀県大津市にある園城寺(三井寺)に残っている「不動利益縁起(ふどうりやくえんぎ)」という巻物にある式神は、鶏や牛の妖怪であり、荒ぶる神としての式神として描かれています。最近の陰陽師ブームによってこの式神は更にいろんな姿で描かれるようになっており、ゲームやコミックで擬人化されたこれらを見たことのある人も多いでしょう。

こうした式神の中でも、安倍晴明がとくによく使役した式神は、「十二天将」だったといいます。「十二」という数字からもわかるように、陰陽師にとって必須の占術には十二支を始めとしてこの数字は必須であり、十二天将卜易の象徴体系の一つにもなっています。北極星を中心とする星や星座に起源を持っており、それぞれが陰陽五行説に当てはまります。

安倍晴明が残した「占事略决」という書物にある十二天将は以下のようになっており、それぞれに十二支が割り当てられています。

前一 騰虵(とうだ)火神 「巳」 夏 南東 炎に包まれ羽の生えた蛇の姿
前二 朱雀(すざく)火神 「午」 夏 南
前三 六合(りくごう)木神 「卯」 春 東 平和や調和を司る
前四 勾陳(こうちん)土神 「辰」 土用 南東 金の蛇の姿、京の中心の守護を担う
前五 青竜(せいりゅう)木神 「虎」 春 北東
天一 貴人(きじん)上神 「丑」 土用 北東 十二天将の主神で天乙貴人、天一神
後一 天后(てんこう)水神 「亥」 冬 北西 航海の安全を司る女神
後二 大陰(たいいん)金神 「酉「 秋 西 智恵長けた老婆
後三 玄武(げんぶ) 水神 「子」 冬 北
後四 大裳(たいも) 土神 「未」 土用 南西 四時の善神。天帝に仕える文官
後五 白虎(びゃっこ)金神 「申」 秋 南西
後六 天空(てんくう)土神 「戌」 土用 北西 霧や黄砂を呼ぶとされる

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朱雀や、青竜、玄武や白虎といったものが含まれていることからもわかるように、これらの十二神将は、キトラ古墳のような、古代の墳墓などにも好んでかかれた式神です。安倍清明はこれらの十二天将を駆使して、この時代の魔を退治したわけです。

こんな逸話があります。あるとき、ライバルの道満が上京し、安倍晴明に対して、内裏で争い負けた方が弟子になるということにしよう、と呪術勝負を持ちかけました。この勝負に、帝も興味を示し、帝は大柑子(みかん)を15個入れた長持を占術当事者である両名には見せずに持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題を二人に与えました。

早速、道満は長持の中身を予測し「大柑子が15」と答えましたが、晴明は、じっくりと長持を眺めたあと、冷静に「鼠が15匹」と答えました。観客であった大臣・公卿らは中央所属の陰陽師である晴明に勝たせたいと考えていましたが、彼が中身は「大柑子」であることは明白に承知していたので晴明の負けがはっきりしたと落胆してしまいました。

ところが、いざ長持を開けてみると、中からは鼠が15匹出てきて四方八方に走り回りました。晴明が式神を駆使して鼠に変えてしまったためであり、この後、約束通り道満は晴明の弟子となった、と言われています。

道満はまた、上述のとおり、左大臣藤原顕光に政敵である藤原道長への呪祖を命じられたことがあります。室町時代の播磨の地誌である「峰相記(ほうしょうき)」には、このときのことが書かれており、依頼された蘆谷道満は、道長を呪い殺そうしますが、安倍晴明にこれを見破られ、播磨に流されたと書いてあります。

また、こんな話もあります。

あるとき、安倍清明は、唐に渡り、伯道という上人のもとで修行をしていました。ところが、この修行のため日本を留守にしている間、道満は晴明の妻とねんごろになり不義密通を始めました。しかも、晴明が唐から帰ってきたあと、この妻の手引きによって彼が伯道上人から授かった「書」を盗み見て、そこに書いてあった呪術を習得します。

そして、晴明との命を賭けた対決を申し出た道満は、この呪術を使って清明に勝利し彼を殺害しました。ところが、第六感で晴明の死を悟った師である伯道上人が急遽来日して呪術で晴明を蘇生させます。そして、二人で道満と対決して、ついに彼を斬首しました。

この道満という永遠のライバルとのいさかいに終止符を打った清明は、その後伯道上人から授かったくだんの書をさらに発展させて、こうした呪術の数々を「簠簋内伝金烏玉兎集」という秘伝書にまとめ上げた、という話です。

この伝説は、のちに浄瑠璃、歌舞伎に脚色されましたが、三重県の志摩地方の海女が身につける魔除けである、セーマンドーマンにもまたこの二人の名が残されています。この魔除けには、星形の印(セーマン)と格子状の印(ドーマン)が描かれ海での安全を祈願しますが、星形の印は晴明の五芒星紋、格子状の印は道満の九字紋だといわれています

磯ノミ、磯ジャツ(上着)、磯メガネなど、海女の用具全般に記され、海女達が恐れるトモカヅキ、山椒ビラシ、尻コボシ、ボーシン、引モーレン、龍宮からのおむかえ、などから彼女たちを守ります。これらの妖怪の詳細については、以前のブログ、「セーマンドーマン」を見てください。

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「丑の刻参り」もまたこうした清明や道満が使った陰陽道における呪術の名残といわれています。ご存知の方も多いでしょうが、これは、神木(神体)に五寸釘を打ち付け、自身が鬼となって恨む相手に復讐するというものです。

丑の刻(午前1時から午前3時頃)に神木に釘を打って結界を破り、常夜(夜だけの神の国)から、禍をもたらす神(魔や妖怪)を呼び出し、神懸りとなって恨む相手を祟ると考えられていました。妖怪を呼び出し、祟るために使役する点においては式神と同じです。

こうした数々の伝説を残した清明も、11世紀の最初のころに没しましたが、その後彼の存在は神格化されていきます。歴史物語の「大鏡」「十訓抄」や説話集の「今昔物語集」「宇治拾遺物語」には、とくに晴明に関する神秘的な逸話が多く載っています。清明の墓所は京都嵯峨に現存し、これは観光地として有名な渡月橋のすぐ近くです。

京都嵐山の渡月橋のちょっと下流の左岸に長倉天皇の墓所がありますが、この一角に安倍晴明を祀る神社があり、この境内にひっそりと安倍清明は眠っている、とされます。この地は彼の屋敷跡だったと伝えられており、このほかにも生誕地とされる大阪市阿倍野区に建てられた安倍晴明神社、東京の葛飾区にある熊野神社など全国各地に存在します。

後世の陰陽師が、晴明にあやかろうと信仰したためにこうした神社は日本各地にあり、また晴明塚といわれる塚もあちこちに建立されており、こうした名跡がない県を探すほうが難しいくらいです。

ただ、維新後の1872年(明治5年)、明治新政府は陰陽道を迷信として廃止させたため、前述のとおり、現代では清明の築いた土御門家の陰陽道を扱うのは、正式には福井県の「天社土御門神道」と、高知県の香美市に伝わる「いざなぎ流」のみといわれます。

ただ、このいざなぎ流は、土御門家や賀茂氏との歴史的な関連性は確認されておらず、土佐国で独自発展した民間信仰ではないかともいわれているようです。一方の天社土御門神道は、天文学・暦学を受け継いだ安倍氏の嫡流が賜った「土御門」の称号を残すものです。

福井県おおい町に本庁を置く神道・陰陽道の流派で、正式には日本一社陰陽道宗家「土御門神道本庁」といいます。上述のとおり、江戸時代に土御門家は全国の陰陽師の統括を目的として保護され、陰陽道に神道を取り入れて独自の神道理論が打ち立てられ、「土御門神道」は幕末には全国に広まりました。

しかし、明治3年(1870年)に陰陽寮が廃止され、太政官から土御門に対して、天文学・暦学の事は、以後大学寮の管轄になると言い渡しを受けました。これによって陰陽師の身分もなくなる事になり、陰陽師たちは庇護を失い転職するか、独自の宗教活動をするようになりました。

このため陰陽道は民間の習俗・信仰と習合しつつ生活に溶け込んでいきましたが、溶け込みすぎたために、かえって消滅したように感じられるほどです。このおおい町に残る土御門神道は、そうした状況の中でも、かつての土御門神道の姿をその中に残しつつ、清明の子孫の手によって守られている、というわけです。

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この、おおい町はというのは、福井県南西部の町で、2006年に遠敷郡名田庄村と大飯郡大飯町が合併して誕生した町で、人口9千人、世帯数3千ほどのこじんまりとした町です。

北陸地方の最西端にあって若狭湾に面していることから、若西(じゃくせい)とよばれる地域のひとつであり、行政区域はリアス式海岸の続く若狭湾の一角とその背後に続く丹波高地の北側に位置します。旧名田庄地区には若狭と京都を結ぶルートの一つ周山街道が通り、かつては魚介類や塩がこの道を通り京都に運ばれていました。

室町中期から戦国期にかけての戦乱期には、都から多くの公家が下向したことが知られており、陰陽師の安倍晴明の直系子孫である土御門家もまた、応仁の乱を避け、京都からこの地に移り、乱が収まるまで数代にわたり居住しました。

このため、京都と同名の社寺が残り、かつての屋敷跡一帯には、小京都の風情があります。このような正統な意味での小京都は、全国でも例が非常に限られ、貴重な存在です。土御門家の本家はその後、秀吉や家康によって世の安泰がもたらされると京都に呼び戻されましたが、その庶子の子孫がここに残り、陰陽道の流れがこの地に受け継がれました。

大飯発電所のある町でもあります。関西電力が保有する原子力発電所としては最大規模で、全国的にみても柏崎刈羽原子力発電所に次ぎ、日本で第2位です。2011年3月11日の東日本大震災をきっかけに日本国内の全原発が停止して以降、最初に再稼働した原発として有名になりました。

2012年7月5日、全国に先駆けて3号機が発送電を開始、21日には4号機が発送電を開始しましたが、翌年9月2日には3号機が定期検査のため停止、15日には4号機も定期検査に入り、これをもって再び日本国内において原発の稼働は停止されています。

この発電所はおおい町にある若狭湾に突き出した半島の先端部分に位置していますが、発電所から3㎞ほどの若狭湾内には、北西から南東方向に伸びる断層が存在することがその後判明し、この原発が現在停止しているのもこれが理由です。

施設内にも活断層が存在する、という見方もあり、山がちの半島の先端に位置するため、大地震、津波などが起きた際には、発電所と外部を結ぶ道路が寸断され、発電所が孤立する危険があるとの指摘もあります。

また、若狭湾にはこの大飯発電所の他にも、日本原子力発電の商用原発、日本原子力研究開発機構のもんじゅがあり、これらの原発があった各箇所では天正地震の津波で大きな被害が出たことが明らかになったことも発表されています。

できるだけの調査を行い、わかる範囲の他の時代の津波を含め、これへの対処の方法に関する最終的な報告を10月末頃に行う、と関西電力は言っているようですが、人々を納得させるような結論を導きだすのは結構きびしそうです。

私的には、地元陰陽師の手で、ちちんぷいぷいと、これらの原発を消滅させて欲しいと願っているのですが、はたして現在に至るまでもこうした悪魔を浄化してくれる安倍清明の霊魂は存在してくれているでしょうか。

この美しい日本を守るためにも、ぜがひにでも退治してほしいものです。

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