人事異動の季節に

3月は、人事異動の季節です。

ここ伊豆のような地方でも、地元新聞をみると、どこそこの市町村でどういった人事異動があったか、といった細かい記事が載ります。

際立って大きな産業がない土地柄ゆえ、官公庁のお役人の動向が、地元の産業の行方に影響を与えやすいということがあるからでしょうが、都道府県レベルの新聞でも県職員の移動状況などが新聞に掲載されたりします。また、大手の経済新聞などでは、大企業の管理職のその年の移動状況などが掲載されたりもします。

いわば春の恒例事業のようなかんじであり、もう慣れっこになっている、という人も多いでしょうが、こうした人事異動というのは、いったいいつ頃からあるのでしょうか。

日本企業の人事異動の慣行は、江戸時代の参勤交代制度から来ているのではないか、という人もいるようです。いわずもがなですが、参勤交代とは、各藩の正室と世継ぎを人質として江戸に残し、多くの藩士を引き連れて、大名が一年おきに江戸と自領を行き来することを定めた制度です。

その移動のためには莫大な金がかかるため、当然、遠方の藩ほど不利になります。強大な力を持つ藩ほど外様に置く、というのがこのシステムの巧妙なところで、それによってその強大な勢力を長年にわたってそがせることができたわけです。

無駄な移動を義務付け、長期間家族から離れて住ませることを習慣化する、というこうしたシステムは、徳川250年に渡って続き、確立されました。そうした慣例の一部が明治政府の成立以後も引き継がれたのではないか、という説は、正しいのかもしれません。

もっとも、明治政府の人事異動が参勤交代制度と関係していた、という証拠は何もないわけですが、少なくとも地方の人間と中央の人間を入れ替えることのメリット、というのは新政府も感じていたのではないでしょうか。

ひとつには、地方の情勢がわかるし、逆に中央の人間を地方に派遣することによって、中央の権威を全国に知らしめる、ということができるわけで、成立間もない脆弱な政府にとっての人事異動にはそれなりの効果があったはずです。その成果に味を占め、以後、国家ぐるみで人の異動が現在に至るまで続いている、とうのが私の推測です。

これが当たっている、当たっていないにせよ、そろそろこうした習慣は時代遅れなのではないか、思うわけですが、その理由は、明治維新以後、150年を経た現代の官僚社会、あるいは日本企業における環境は、海外との関わり、という一点においてだけでも著しく変わってきており、諸外国にも例をみないこうした制度がいかにも古臭く見えるためです。

現在における、役所や会社が人事管理戦略の中核的な要素の一つとして人事異動を実施する理由を考えてみたとき、主には以下のようなものがあげられます。

①能力開発や後進の育成、人事面での活性化
本人の能力を伸ばし、ゆくゆくは組織のトップを担ってもらうためには、事業のすべての分野と機能を経験する必要がある、とする考え方です。たとえトップにならなくても、優秀なジェネラリストを育成したいのはどこの企業も希望するところではあります。コスト面を考えれば、一人の人間が多数の仕事をこなせるほうが効率的、というわけです。

②マンネリ化を防ぐため
人事異動することで組織員に新しい刺激を与え、マンネリを防ぐ、というのがもうひとつの理由です。一つの業務に長期間携わることによって発生する慢心の防止、あるいは取引先との不正防止といった側面もあり、人事異動によって常に組織をリフレッシュさせておきたい、という理想はどこの組織にもあるでしょう。

③不平等をなくすため
地方への転勤にあたっては、当然“人気のある都市“や”不人気な僻地“があります。同じ場所に長期間勤務させず、定期的に交代させれば、不平不満をなるべく公平化できる、という考え方があり、多くは2~3年、長期でも5年程度で入れ替えが行われます。

ただ、問題を起こした人物に対する懲戒としたり、会社に不都合な人物を僻地にやる、という場合もあり、この種の転勤はいわゆる「左遷」です。逆に、活躍が認められ、地方の大都市や大きな部署に異動となることがあり、これを「栄転」とも呼びます。




人事異動のデメリット

以上がだいたい人事異動の目的といわれていることですが、では、そのデメリットとは何でしょうか。近年日本も国際化が進み、こうした人事異動を毎年恒例行事のようにやっていては、いずれ先細りになる、大きな改革を、と叫ぶ声が官民ともに高くなってきました。その理由について、上の3つについてそれぞれみていきましょう。

①能力開発や後進の育成、人事面での活性化?
近年、どんな業種においても、ビジネスが専門化する傾向にあります。ひとつの業種を掘り下げることで、より付加価値を見出していく、といった方向に舵を切る業態も多く、従来のように、様々な事業を経験し、幅広い知識を持つ社員を多数育てることがはたして企業にとって重要か、という疑問が出てきています。

同じ分野の部署に継続的に勤務させ、より深いスキルと経験を養わせる、いわば昔からの職人を養成するようなやり方がむしろ必要になのではないか、という声が高まってきているようです。

2~3年おきに職務を転々と異動するだけでは、浅薄な知識と技能しか蓄積できません。専門スキルの欠如は、とくに、今後世界の企業と渡り合っていく上で必要とされる分野においては、効率と技能における大きなネガティブ要素を与えることになります。

②マンネリ化を防ぐため?
マンネリ化を防ぐために人事異動を行う、という現在の体制は、日本固有の社会風土、終身雇用の慣習に基づいていると思われます。新しい職に就いて新たな挑戦に直面し、新たな物事を学べば、チームは新しいアイディアの恩恵を受ける、というわけで、言葉を変えればうまく組織レベルの「気分転換」をやっているわけです。

これによって組織内部における公平性を保ち、不平不満を和らげることで長期雇用を実現してきたわけで、極めて日本的な発想です。業績の上がらない社員は、別の仕事で業績を上げる機会が与えられる、という側面もあり、企業がそのような入れ替わりの機会を提供することで、従来はマンネリ化を防ぐことができる、とされてきました。

しかし、うまくやって行けない社員は隔離されるということが起き、また業績不振の社員をたらい回しにするというこが行われるようになってきており、こうした処遇は逆に、組織の別の部門に負担を与えることになります。

近年、パワハラやセクハラといった、強者による弱者の「いじめ」が社会問題化しており、こうした問題を放置し続ける組織における人事異動は、けっして業績向上につながることはないでしょう。

③不平等をなくすため?
地方転勤を伴う人事異動に関する大きな問題のひとつとしては、 家族を残して単身赴任する、というケースが多くなることです。日本ではそれがあまりにも普通のことですが、英語には「単身赴任」に相当する言葉すら存在しません。

総務省の統計によれば、日本の企業社員人口全体における単身赴任者数は約2%ほどだそうで、年々増加しており、現在では100万人を超えるといいます。単身赴任による家族の分離は、本人と家族の両方のストレスになりますが、また多くの場合、二世帯分の家賃を払わなければならず、収入面でも大きな負担になります。



海外との関わりが増える中で

以上のように、現代日本の人事異動は大きな問題を抱えていると思われますが、このほかにも、人事異動があるたびに、各組織で長年関わってきたプロジェクトや顧客との関係が壊れる、ということがあります。

事業の継続性が失われ、仕事が中断されだけでなく、異動によってこれまでにまったく経験したことのないような分野を担うことになり、大きなストレスを感じながら仕事を継続している、という人も多いでしょう。

日本では企業だけでなく、官公庁でも、同一の人間に多数の職務を経験させることを是としており、一人の人間に豊富な経験と特別な教育を施して、専門家として育てる、といった海外のようなやり方は行われていません。

競争社会に生き残るためだ、と称して、社員に短期間で一から学ぶことを強いている組織も多く、よくあれだけのことを短時間で覚えられるな、という職場をよくみることがあります。

短時間で知識を押し込むということは、非効率であるだけでなく、非常にストレスの溜まることでもあり、やる気の低下にも繋がりかねないわけで、場合によっては学習不消化のまま現場に送りだされることもあります。顧客や同僚にとって、仕事がわかっていないスタッフとやりとりしなければならないことは、大きな弊害といえるでしょう。

以上のような人事異動に関する問題は、異動の際の引継ぎのプロセスのプログラム化で補うことができる、とはよくいわれることですが、前任者から後任者への重要な情報とスキルの引継ぎを行う、といったことは単純に明文化できるようなものではなく、ある種の「フィーリング」に拠るところも多いものです。

引き継ぎがうまくいった場合は、その人事異動は成功しますが、大抵の場合、異動を機にして業務の中断が起き、直後に深刻な効率の低下が起こることも多く、とくに人身を預かるような分野では、重要な事柄が見落とされることで大きな事故がおきる、といったこともあります。

近年、日本の職場風土もかなり国際化が進み、外国人と一緒の職場にいる、という人も増えていると思いますが、そうした同僚のみならず、海外の顧客との取引においても、人事異動によって背景を充分に知らずに出たり入ったりする社員と仕事をしなければならないことは、大きなフラストレーションとなっているようです。





アメリカにおける人事

では、そうした取引の中でも最も多いと思われるアメリカの人事異動、というのはどうなっているのでしょうか。

これについてはまず、アメリカでは日本のような「年功序列」といった風土はなく、伝統的に「職務等級制度」が根付いています。

これはどういうことかといえば、たとえば、ひとつの製品を作る技術部門があったとします。一つの製品を作るためには、基本的なコンセプトの企画・構想から始まって、ラフデザイン、ディティールデザイン、試作、製造、検品、販売、といった風に手順を追って製品化していくわけですが、通常はそれぞれの分野におけるエキスパートが存在します。

また、それぞれの分野においても、新入社員のようなスキルがまだ未熟な人間から、中級クラス、上級クラス、監督クラス、といったレベルがあるわけであり、アメリカではこうした各分野において、職務レベルの分析を行って等級(グレード)を設定するのが普通です。

こうした明確化された職務とそれに紐付けられた等級に最も適合する人材を社内あるいは社外から公募で探し出して、職務に据える、というやり方をとっており、各職務の給与レベルは、会社のある地域や同業他社の給与調査結果を基にしてそのレンジが決められていくというのが最も一般的です。

ということは、日本のような年功序列社会における全社共通の基準というのは、アメリカの会社の中には存在しないということになります。つまり、デザイン部門の課長の給与レベルと製造部門の課長の給与レベルは、決して同じではないのが普通であり、日本のように同じ課長だから、給料は同じ、ということはまずありえない、ということです。

こうした事情があるため、社内での異動というのは現実的ではなく、むしろほぼ不可能に近いといってよく、デザイン部門の課長はデザインで磨き上げてきたスキルや実績があるからこそ、その部門の長になっているであり、もしこれが製造部門に異動になった場合は、そこの課長として必要とされる要件を満たしていないので、不適格ということになります。

従って、アメリカでは、日本のように辞令一枚だけで、一方的に異動・転勤させる、といったやり方をしている民間企業はほとんどなく、人事異動というのは、せいぜい官僚組織や軍隊ぐらいが行っているだけなのではないかと思われます。

ただ、例外がないわけではなく、社員に転勤を伴う異動を打診することもあります。が、そのような場合でも強制ではなく、転勤せずにその地に残り続けることも選択肢に入っており、本人には転勤または現在の場所に居続けるかどうかを判断する権利、また自由が認められていることがほとんどです。

ただし、転勤を選ばずに今の場所に居残る選択をした場合は、転勤によって発生する昇進や昇給といったアドバンテージは、はなから棒に振ることになります。

しかし、それはむしろ当然のこととして、社員も納得済みのことがほとんどです。転勤して昇進したり昇給したりするよりも、自分の家族や友達のいる現在の居場所に暮らし続けたいというのは、大きな変化を望まない、今の生活環境を守りたい、と考える人にとってはあたりまえのことです。

このあたりのことは、最近日本でも増えていて、地方へ転勤させられるのが嫌だから会社を辞めて転職した、というケースが多々あるようです。ただ、アメリカのように職務等級制度が一般化していないため、別の会社に移っても前の会社でのスキルが認められず、給料が下がる、といったケースがあります。

アメリアの民間会社では、日本以上に社員の生活基盤や家族・友人関係に重きを置く傾向が強く、日本のように辞令一本で移動させる、ということは難しくなっています。

また、アメリカは日本のように均一化した国民性を持っているわけではなく、人種のるつぼといわれるほどに多様な人種が住んでいるので、人の思考や論理も非常に多様化していて、それこそ千差万別、十人十色です。このような社会で、日本のように毎年年度末に人事異動を整然と行う、ということはまったく現実的ではありません。

アメリカだけでなく、おそらく多くの欧米諸国も同じような事情であり、人事異動という文化は世界的にみても、かなり珍しい制度ではないでしょうか。

国際化の中での新しい人事交流を

しかし、そうした日本社会に入り込んでくる外国人も増えてきており、とくに海外に支店などを置く日系企業へ入社する人も増えてきているようです。そうした人の中には、せっかく自分は日系企業に勤めているのだから、一度は日本で仕事をしてみたい、日本で暮らしてみたいと思っている外国人も多いようです。

最近はよく日本ブームということがいわれているようで、実は日本人が考えている以上に日本で働いてみたい、と考えている外国人が増えていると思われます。日本に来れば、人事異動があるよ、と押し付けるのではなく、相手の気持ちや希望、境遇を尊重した人事を行うのであれば、日本行きに手を挙げる外国人は多いと思われます。

「グローバル人事」が昨今の流行り言葉となっています。日本行きに手を挙げた外国に強力な戦力として十分な力を発揮してもらうことができ、それにあわせた評価と処遇を行うことこそが、優れたグローバル人事といえます。

一方で、従来からの日本的な人事異動は、専門的な人材を育てず、ビジネスの阻害になること多くなってきており、こうした状況が長く続けば、いずれは日本企業は弱体化していく、という見方をする専門家も増えているようです。

いまこそ旧来の人事異動制度を見直し、グローバル人事へとパラダイムシフトしていくことこそが、日本の生き残る道なのかもしれません。



そうだ、八ヶ岳へ行こう!

先日、八ヶ岳で痛ましい遭難事件がありました。

長野県の八ヶ岳連峰・阿弥陀岳でのことであり、3人が死亡し、4人が重軽傷を負った滑落現場は、過去にも死者が出たことのある「難ルート」として知られていたそうです。

八ヶ岳の最高峰は、赤岳・2,899 mで、これに次ぐのが横岳・2,829 m、そして、先日事故の起こった阿弥陀岳 ・2,805 m、四番目が硫黄岳 ・2,760 mとなります。これらの峰々は、南北に連なる連峰の真ん中よりもやや南側に集中しており、なかでも、横岳・硫黄岳・阿弥陀岳の三つは急峻な地形を持つ、非常に鋭い山峰です。

日本有数のロッククライミングの岩場として知られ、また冬場は氷瀑のアイスクライミングの場とてしても有名です。

それだけに、冬季に素人が入れるような山ではありません。こうした場所への冬登山は、危険を伴ない、従来からも遭難者も多いことから、それなりの熟練した登山家しか立ち入らない、立ち入れない、ということで暗黙の了解があったはずです。

詳しいことはまだわかりませんが、そうしたところへ入ったということは、冬山登山に関してはそれなりの実力を持った人たちだった、と考えていいのでしょう。で、なかったとすれば、かなり無謀な冒険だったのかもしれません。

一歩誤れば即、死が待っている、といってもおかしくない危険個所も多く、夏山ならどうってこともないような場所でも、天候の悪化によって、著しく危険な環境に豹変することもあります。

最悪なのはやはり、今回のような滑落であり、その多くが「即死」を意味します。「滑落遭難」という用語があるほどで、足を踏み外して滑り落ちれば、しばしば死に直結します。滑落の途中、固い岩などにぶつかる可能性が高く、数百m以上落ちれば、さらに死の危険が大きくなり、また落下距離が小さくても頭部を打てば致命傷になります。

ただ、聞くところによると、今回の事故での死亡者の直接の死因は、滑落によって生じた小規模な雪崩に巻き込まれての窒息死だった、といわれているようです。

また、そもそもは複数の人間が滑落しないように、ザイルで互いを結び合って予防していたはずなのに、それが起きてしまった、ということに関しては、ここ数日の暖かさによって雪氷に固定した確保鋲(ハーケン)が効かなかったということなどが考えられているようです。

しかし、それ以外にも、事前の準備不足や、この登山に参加していた方たちの力量の問題もあったのかもしれません。そうした場合の遭難の原因には様々なものが考えられますが、主なものを挙げると、以下のようなものがあるようです。

登山に対するあなどり(「自分だけは遭難しないだろう」という思いこみ)、があった
登山前に当然行うべき、山の綿密な調査の不実行・不足
登山前に用意しておくべき装備の不備
自分の体力以上の山への無謀な挑戦(体力・筋力トレーニングの不実行・不足)
リーダーシップ、及びフォロワーシップの欠如、もしくは不足

過去の多くの事例では、リーダー、もしくはメンバーが、自己や周囲の状態を冷静沈着に把握していなかったために、遭難に巻き込まれたというケースが多いようです。極端な荒天、メンバーの怪我、滑落、落石などなど、何らかの重大な困難に遭遇すると、多くの場合、判断能力を失います。

様々な状況がありえますが、一般的には、こうした困難に直面した場合には前には進まないほうがよい、と言われているようです。今回の遭難においても、はたして先頭を進んでいて滑落した、とされる人物がどのような判断をしていたのかが問われるのかもしれません。

その方が亡くなったのかどうかまだよくわかりませんが、そうだとすれば、あちらの世界で今、この事故のことをどう振り返っているでしょう。

何はともあれ、まずは、亡くなった方々のご冥福をお祈りしたいと思います。また、これからは、いわゆる春山登山の時期ですが、この時期の登山は融雪による重大事故が起こりやすい環境です。くれぐれも気をつけて頂きたいと思います。

八ヶ岳伝説




さて、悲しい話はこれぐらいにしましょう。

この八ヶ岳ですが、山梨県と長野県にまたがる、南北に細長い山体で、元々は火山とみられています。

と、いっても一連の噴火は、人類の有史以前のことであり、確実な噴火記録は残っていません。活動時期は、約130万年前に始まり、数十万年前に明瞭な活動休止期・侵食期を挟んで現在のような形になったと考えられています。

南の編笠山から北の蓼科山まで、南北約21 kmもの長さがあり、その昔は多数の噴出口がある「火山列」だったそうです。活動時期や噴出物の特徴などから、山塊中央部から、やや南に下がった位置にある、「夏沢峠」を境にして北八ヶ岳、南八ヶ岳などと分類して呼ばれます。

八ヶ岳は日本百名山のひとつにも数えられています。ただ、その対象は、南八ヶ岳であり、北八ヶ岳は入っていないようです。八ヶ岳連峰全体の中では、北八ヶ岳に位置する蓼科山も日本百名山に選ばれています。

「八ヶ岳」の「八」の由来ですが、「八百万(やおろず)」などと同じように、山が「たくさんある」という意味で「八」にしたのではないかといわれています。また、幾重もの谷筋が見える姿を「谷戸(やと)」といいますから、これから八が導かれたという説もあるようです。

八つの頂きがある、ということなのですが、実際には、山、岳、峠といった呼称の峰々を合わせれば15もの峰があり、ある意味では小さな山脈といってもいいほどの規模です。

このようなバラバラな形になったのは、そもそも富士山と背比べをした結果だ、という神話があります。

あるとき、すぐ近くにあり、お互い意識し合っていた富士山と八ヶ岳が、どちらが日本一背が高いか優劣を決めよう、背比べをしよう、ということになりました。

その方法として、両者の頂上に筒を置いて水を流し、どちらに流れるかを試せばいい、ということになりました。その調停役を買った神様は、さっそく、近くにあった竹藪から最も太くて長い竹を切りだし、両者の頂のあいだにかけ、水を流してみることにしました。

実はこのころはまだ両者の高さは、ほぼ同じであり、どちらが高いとは、はっきりとはわかりませんでした。しかし、神様が筒を掛け、水を流してみると、するすると富士山のほうに流れていくではありませんか。

目の上の水が自分の方に流れてくるのを見た富士山は、その瞬間、負けた!と思い、すぐさま立ち上がって、筒を手に持ち、おもいっきり八ヶ岳をひっぱたたきました。

殴ったのではなく、「蹴り飛ばした」という話もあるようですが、いずれにせよ、富士山のバカ力で叩かれた八ヶ岳の頭は、こなごなになって砕け散り、今のような八つの峰々になってしまいました。

神様がちょっと目を離したすきに起きたことであり、それを神様が見ていなかったことをいいことに、富士山はそしらぬ顔をして、神様にもう一度、高さを試してみてください、と言いました。何も知らない神様は、筒の中の水が、今度は八ヶ岳のほうに流れていくのをみて、日本一の山は富士山だ、と宣言しました。

こうして、現在に至るまで、日本一の山は富士山、ということになりました。

この話にはさらに続きがあります。この叩かれた八ヶ岳には妹がいました。北側に位置する蓼科山であり、富士山にぶちのめされて粉々の八つの峰になってしまった兄を見て、蓼科山は悲しくて悲しくて「えんえん」と泣きました。その妹の流した涙が川になり、やがて麓の平な場所に貯まって大きな湖になりました。

その湖こそが、今の諏訪湖であり、なるほど現在の地図をみると、八ヶ岳のすぐ西側には、妹の蓼科が流した涙によって満々と水をたたえた湖水が広がります。

このように、八ヶ岳は昔からよく神話に登場します。前述のとおり、八ヶ岳の最高峰の赤岳ですが、これは国常立尊(くにのとこたちのみこと)とされ、「日本書紀」では天地開闢の際に出現した神であり、「純男」の神であると記しています。

その意味は、「陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性」であり、なるほど、その山容は南麓の長坂方面から仰ぐと、ヨーロッパ・アルプスのアイガーに似て、勇壮そのものです。

山体そのものが赤岳神社とされていますが、山麓の長野県茅野市には、「赤岳神社里宮」が建てられ、「赤岳講」と呼ばれる講も組織されて、昔から現在に至るまで信者による信仰も根強いといいます。こうしたこともあり、八ヶ岳周辺には神話や修験等に由来する石祠や石碑などが多いようです。



初心者がいくなら

八ヶ岳は南北両方のほとんどのエリアが、八ヶ岳中信高原国定公園に指定されています。

広大な裾野には、東側の清里高原や野辺山高原、西側の富士見高原や、北方の蓼科高原などが広がっており、夏の冷涼な気候を利用してレタスやキャベツなどの高原野菜の栽培が行われています。

山麓には伏流水が湧くためでしょうか、特に西南側の裾野一帯にかけて縄文時代の遺跡が濃密に分布しており、長野県側では井戸尻遺跡や尖石遺跡、山梨県側では金生遺跡や青木遺跡、天神遺跡といった多数の遺跡があります。

山梨県側では、大泉歴史民俗資料館、長野県側では井戸尻考古館といった、これらの遺跡を紹介している博物館、資料館も複数存在するので、こうしたところを訪ねて、太古を偲んでみるのも楽しいかもしれません。四季折々に各遺跡を巡るツアーなども開催されているようです。

八ヶ岳の登山ルートとしては、これだけたくさんの山塊があるため、数限りないものがあるようですが、やはり最高峰の赤岳は人気があるようです。ただ、赤岳のある南八ヶ岳はいわゆる「岩稜の世界」であり、夏山でもマニアや体力に自信のある人でないと難しい山といわれているようです。

それにひきかえ北八ヶ岳は登山道も比較的歩き易く、クサリ場や鉄はしご等も少なくのんびり山旅を楽しむことができるようです。なので、初心者の方は北八ヶ岳を中心に登山ルートを検討してみてはどうでしょうか。

とくに、北八ヶ岳の一番一番南側に位置する天狗岳はし、北八ヶ岳の最高峰でありながら、比較的初心者にもアプローチしやすい山のようです。北八ヶ岳にあっては、急峻な山容を呈しているとは言え、南八ヶ岳のそれと比べると、はるかに穏やかな山だということです。天狗岳へ登り上げる数多くのルートすべてにおいて危険個所はほぼ無いそうです。

北八ヶ岳ロープウェイ

しかしそれでも、歩いて登るのはな~という人は、蓼科方面に出かけてみてはどうでしょうか。蓼科山は、北八ヶ岳の最北端に位置する山ですが、その南西側には、蓼科高原と呼ばれる高原が広がっており、ここからは北に蓼科山、東に八ヶ岳を望むことができます。

レジャー施設が多いほか、国道152号、国道299号、ビーナスライン(旧蓼科有料道路)が高原を縦横に貫き、ドライブコースとしても好眺望を楽しめますが、筆者のおすすめは、「北八ヶ岳ロープウェイ」です。

100人乗りの大型ロープウェイで、標高1,771mの山麓(さんろく)駅は、北八ヶ岳の峰のひとつ、標高2,403 mの縞枯山(しまがれやま)の南西に位置します。ここから標高2,237mの坪庭(つぼにわ)駅まで約7分間で行く空中散歩はすばらしく、また、山頂駅には自然が造り出した芸術「坪庭」が広がります。

苔や高山植物などが長い年月をかけて生い茂り、自然に出来た植生帯で、「坪庭」とはもともとは、盆栽などを飾ったこじんまりとした日本庭園のことを指しますが、決してそんなに小さなものではありません。1周30分~40分ほどの散策路には、自然そのままの高山植物が季節毎に咲き、訪れる人々を魅了します。

また、ロープウェイを利用することによって、北八ヶ岳周辺の登山が容易になります。特にロープウェイ山頂駅からの「北横岳」登山ルートは、老若を問わずに人気があるようです。

無論、坪庭駅に併設されている展望台から、日本アルプスの絶景が楽しめます。うれしいことに展望台までは車いすでご移動可能(夏季のみ)だそうで、足の悪いご家族と一緒に行くこともできそうです。

さらに、ロープウエイから右上に見える「縞枯山」は、その名の通り山の斜面が「縞枯れ現象」で覆われている山です。この縞枯れ現象は本州中部のあちこちで見ることできるようですが、この北八ヶ岳が最も有名で、学術的にも大変貴重なものとして注目されています。

複数の研究機関が現在も継続研究中とのことですが、何故このような縞枯れが起こるのかハッキリとした原因の特定は出来ていないといいます。

ロープウェイの利用は、中学生以上の往復が¥1,900、片道が¥1,000(同、子供 ¥950 ¥500)(2018年3月現在)。

近くには、白樺湖や蓼科湖、白樺リゾート池の平ファミリーランドといった施設もあり、春スキーができるスキー場もたくさんあるようです。今年は寒かったので、5月の連休あたりまでもスキーができるところがあるのではないでしょうか。

サクラが終わったら、もうすぐ大型連休。今年は八ヶ岳へお出かけしてみてはいかがでしょうか。




太陽の塔へ

大阪の万博会場に残されていた「太陽の塔」の修復が終わり、公開された、というニュースが入って来ました。

1970年に大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会(EXPO’70・大阪万博)の会場に、芸術家の岡本太郎が制作した建造物で、岡本太郎の代表作の1つであり、また最大級の遺品でもあります。大阪万博のテーマ館のシンボルとして建造され、万博終了後、千里万博記念公園と名を変えた、同会場に残されています。

塔の高さ約70m、基底部の直径約20m、腕の長さ約25m。未来を表す上部の黄金の顔(直径10.6m、目の直径2m)、現在を表す正面胴体部の太陽の顔(直径約12m)、過去を表す背面に描かれた黒い太陽(直径約8m)の3つの顔を持っています。

万博終了後に取り壊される予定でしたが、地元から撤去反対の署名運動があり、施設処理委員会が1975年に永久保存を決めました。しかしその後は老朽化の進行による維持費が増大し、存続が危ぶまれていました。

とはいえ、残された太陽の塔はもはや大阪城や通天閣に並ぶ大阪のシンボルとなっており、「永久保存」が決められた以上、取り壊すわけにもいきません。

内部の保存状態は日増しに悪くなっていましたが、せめて外観だけでもきれいにしようと、
1994年には、万博開催25周年記念の目玉として、表面の汚れを落とすなどの大規模改修が行われました。

2007年になり、ようやく保存のための予算がつきました。2010年の40周年事業へ向けて、内部・外部の改修・補強が行われ、40周年記念式典のあと、さらに内部公開に向けた動きが加速。2016年10月からは、公開に向けた耐震補強・内部復元工事が実施されました。そして、つい先だっての3月はじめに竣工。19日よりの再公開に漕ぎ着けました。

太陽の塔は、丹下健三が設計した「お祭り広場」中央に、広場を覆う銀色のトラスで構築された大屋根から塔の上半分がつき出す形で建てられました。岡本は大屋根の下に万博のテーマを紹介する展示プロデューサーに就任していましたが、なぜか就任以前からテーマである「人類の進歩と調和」に反発。

そして、先に設計が完成していた大屋根の模型を見るなり「70mだな」と呟き、穴の空いた大屋根から顔を出すという、まるで主テーマの「調和」の言葉をあざわらうかのような、奇抜な塔を設計しました。

太陽の塔が建つ「お祭り広場」を設計した丹下健三は当然反発しましたが、岡本は「頭を下げあって馴れ合うだけの調和なんて卑しい」と反論。大喧嘩した末に大屋根に穴を開けさせ太陽の塔を建てることを認めさせた、というような話も残っているようです。

丹下健三は、この当時から建築界の重鎮であり、彼の権力を考えれば太陽の塔を白紙にすることは簡単でした。しかし、万博全体として見れば目玉である太陽の塔はあったほうが良いのでは、と考えなおしたのでしょう。結局、白紙にはしなかったようです。

万博が開催されていた当時、観客は太陽の塔の「過去」の展示部分であるテーマ館の地下部分から、透明のトンネル状の通路を通って太陽の塔内に進入しました。しかし、万博終了後この通路は撤去され、通路跡はコンクリートでふさがれています。

実はこの空間にも、太陽の塔の外側にある三つの顔に続く「第4の顔」といわれる太陽が設置されていました。「地底の太陽(太古の太陽)」という呼称で、岡本のコンセプトでは「人間の祈りや心の源を表す」ものでした。

直径3m、全長11mという巨大なものでしたが、万博終了後に行方が分からなくなりました。内部の生命の樹同様、万博終了後この地下空間も閉鎖されましたが、1993年に最後にその姿が確認されて以来、さまざまな処理のドサクサで行方不明となってしまった、とされます。

現在も手がかりとなる情報はなく、引き続き情報提供が呼びかけられていますが、こんな大きなものを誰が盗むのでしょう。森友問題ではありませんが、そのうち記録文書などが出てきて、ありかがわかるに違いありません。

大阪府としては、今年の太陽の塔の内部を常時公開に先立ち、この「第4の顔」も目玉にしたいと考えました。生命の樹の復元もさることながら、この復元も試みますが、やはり予算の関係から実物大の復元は困難と考え、縮小10分の1の模型を製作することにしました。

発泡スチロールを強化プラスチックでコーティングし、現物と同様に金色に塗装する、というもので、復元には生命の樹の縮尺模型や太陽の塔などのフィギュア制作を担当した海洋堂が協力。元の図面は残っていないので、写真や関係者の聞き込みを元に制作した原型を3Dスキャンし拡大、美術評論家の意見を交え微調整して制作されました。

ちなみにこの模型は、さらに小さくした1/43スケールの大きさで、海洋堂から1万円ほどで売りに出されているようです。ご興味のある方は、「海洋堂」「地底の太陽」で検索して見てください。




耐震は大丈夫?

さて、太陽の塔は、岡本太郎芸術の集大成ともいえるものでしたが、その複雑かつ独特な形から、当初は70mの建築にした時に耐震基準を満たせるのか、そもそも立つのかも分からない、とその実現が疑問視されたようです。このため、建築士のプロジェクトチームが立ち上げられ、彼の制作した雛形を厚さ1cmの輪切りにして詳細計算をしたといいます。

ところが、その後1995年の阪神淡路大震災などの大地震を経験したわが国では建築基準法が見直されました。2010年の40周年事業のときも、太陽の塔はその内部が再公開される予定となっていましたが、このときの耐震診断の結果、改定された建築基準法上の耐震基準を満たしていないことがわかりました。

とくに、上半身や腕が特に危険という結果が出たため、結局2010年の再公開は見送られました。翌2011年度に、改めて耐震補強工事の設計が行われるところとなり、早ければ2012年度に着工して再公開を実施する方針と報じられました。ところが、今度は太陽の塔を管理していた日本万国博覧会記念機構が、2013年度に解散してしまいました。

その管理はその後大阪府に移行されますが、そのための事務手続きや多額になる耐震改修費用などの確保のために時間がかかり、さらにその後構造上の理由で工事費が高騰したことから、工事業者の入札が不調に終わるなどしてたびたびの延期を見ました。

ようやく、2016年になって、大阪府は内部公開に向けての耐震化工事の予算を確保。2016年度分と2017年度分で合わせて約17億円を計上。2016年10月末より始まった耐震・内部修復工事の末、2018年初頭に公開のめどがたちました。



太陽の塔の内部にある「生命の樹」はその当時、内部はエスカレーター、もしくは展望エレベーター(国賓専用)で一階から上層部まで、登りながら見学することができました。

この修復工事では耐震性を上げるため壁を20cm厚くし、重量のあるこのエスカレーターを階段に付け替えるなどしました。万博当時は強制的に5分で最上部まで登ることができたエスカレーターでしたが、逆に階段にした事によりゆっくりと鑑賞する事ができるようになりました。

ただ、その関係で、内部が少し狭くなり、その他の安全性を考慮し、当時292体あった生物模型は183体になったそうです。うち、153体は新規に制作し、29体を修復したといい、新規制作された模型の一部はディテールが向上しているといいます。

ただ、生命の樹上部のゴリラのみは経年を表すため頭がもげ、内部機構が出た状態で展示されているほか、展示されている生物を紹介するパネルは当時のものを使用しているそうです。

単細胞生物から人類が誕生するまでを、下から順に「原生類時代」、「三葉虫時代」、「魚類時代」、「両生類時代」、「爬虫類時代」、「哺乳類時代」にわけて、その年代ごとに代表的な生物の模型によって表しています。

当時「生命の樹」の枝に取り付けられていた、292体の模型のうちの一部は電子制御装置により動いていたそうで、そのデザインはウルトラマンの造形で知られる成田亨が岡本太郎の原案を元に制作した。また、これらの模型は円谷プロが製作を行いました。

サーバーダウン

「太陽の塔」(大阪府吹田市)の内部が3月19日から公開されるのを前に、入館予約の一般受け付けがインターネットで始まりました。ところが、先日、受け付け用オフィシャルサイトのサーバーがダウンし、アクセスできない状況となりました。

府によると、原因は専用ホームページへのアクセス集中によるもので、復旧のめどはたっていないといいます。私もさきほどアクセスしてみましたが、まったくページを見ることができない状態です。

もしページを見ることができれば、「太陽の塔オフィシャルサイト」というページから申し込み、先着順で4カ月先まで予約できるはずだそうです。入館時間は午前10時~午後5時で、30分ごとに80人ずつ、一日最大1120人の予定だとか。内部の見学料は高校生以上700円、小中学生300円。

太陽の塔オフィシャルサイトのアドレスは、http://taiyounotou-expo70.jp/

ただ、こうしたことを書くと、さらにアクセスが集中するかもしれません。しばらく待っていただいたほうが良いでしょう。

ニフレル

上のとおり、太陽の塔の入場予約はめどが立っていないようです。しかし、太陽の塔に入れなくても、そのすぐそばに新しい施設が開園しているので、こちらを楽しんでみてはどうでしょう。

NIFREL(ニフレル)といい、同じ千里万博公園内に2015年に11月に開園した博物館です。水族館を主体として動物園や美術館を融合させた博物館であり、複合商業施設「EXPOCITY」に属する施設の一つです。大阪府大阪市港区天保山にある水族館、「海遊館」が展示内容のプロデュースをしています。

「生きているミュージアム」との呼び名を持つ施設であり、「感性にふれる」をコンセプトに、従来の水族館、動物園、美術館を合体させた施設のようです。

従来のこれらジャンルの枠を超えて、アートの要素もふんだんに取り入れたアトラクションで、子どもから大人まで楽しめるように数々の工夫が凝らされています。水族館でよく飼育されている魚類や水辺の生物に限らず、哺乳類や鳥類も飼育している点などが斬新で、名称のNIFRELは、コンセプトの「感性にふれる」から採用したといいます。

館内は7つのゾーンで構成され、いずれのゾーンにも、生き物たちの特徴や特性を知るための「謎かけ」があるのだとか。飼育する生物の特徴や性格を俳句で表現した「生きもの五七五」といった細工もあるそうで、こうした工夫はこれまではなく、斬新です。

オープン1周年直前の2016年11月には、入場者数200万人を記録したといいますから、年間入場者数1000万人のユニバーサル・スタジオ・ジャパンには及ばないものの、その他の施設も含めて考えると、万博記念公園全体としてはかなり集客力が高いのではないでしょうか。

そのうち、太陽の塔も予約なしで入れるようになるに違いありません。

ゴールデンウィークは千里万博記念公園で決まり!ですね。




「ひえい」で比叡に行こう!

京都市の叡山電鉄は、観光用にリニューアルした電車を「ひえい」と名付け、本日、21日から運行を始めました。

1925年(大正14年)に比叡山延暦寺への参詣ルートとして開業した「叡山本線(出町柳駅~八瀬比叡山口駅間)」を走る電車で、京都中心部から八瀬、比叡山を経由し、 坂本、びわ湖に至る観光ルートを走ります。

着目すべきはその車両デザイン。車両正面にあしらった金の楕円のデザインが特徴です。

叡山電車の2つの終着点にある「比叡山」と「鞍馬山」の持つ荘厳で神聖な空気感や深淵な歴史、木漏れ日や静寂な空間から感じる大地の気やパワーなど、「神秘的な雰囲気」や 「時空を超えたダイナミズム」といったイメージを大胆に表現したものだとか。

イメージイラストが発表された際には、「なんだこれ」「深海魚みたいで、ブッキー」といった声がSNS上を飛び交ったそうです。

しかし、筆者がテレビなどで放映された実際に登場した車両を見たところ、光沢のある深い緑色の車体に金色の楕円形が調和し、インパクトのあるデザインながら落ち着いた雰囲気が漂い、なかなかの出来栄えです。

ベースとなる車両は、1988年製造の「700系」。その発展系である732号車を大改造して誕生しました。側面に配されたストライプはまた、比叡山の山霧をイメージしているそうです。ロゴマークもしゃれており、Spiritual Energy(スピリチュアル・エナジー)を示しており、大地から放出される気のパワーと灯火を抽象化しています。

外観と同様、車内のデザインも大胆ながら落ち着いた印象で、窓の形も楕円です。一般車両に比べゆったりとした座席や発光ダイオード(LED)照明を採用し、高級感のある内装にしました。増加する訪日外国人向けに英語や中国語などの案内表示も充実させたといいます。

楕円形の窓沿いに従来車両より広めの幅と奥行きを確保したシートが並び、壁面は継ぎ目や機器類の出っ張りなどが目立たないフラットな仕上げとしなっています。このため、壁は従来車両より片側で3cm厚くなってしまったそうですが、若干狭くなる分、シートの座面の角度を調整して、座っている人が通路に足を投げ出しにくいよう工夫したといいます。

デザインは、京阪電鉄の車両カラーリングなども手掛けたGKデザイン総研広島が担当。車両の改造は川崎重工業が行いました。改造費用は非公表とのこと。

新たな観光用車両の導入に向けた検討が始まったのは4年ほど前。京阪グループ全体で比叡山・琵琶湖周辺の観光活性化に取り組む中、700系車両が製造から約30年を経て改修の必要性が高まってきたこともあり、「これに乗って比叡山方面に行ってみたい」という人を増やすための魅力あるコンテンツづくりとして観光車両の導入を決めたといいます。

車両のデザインについてはさまざまな意見があったといいます。緑深い山や秋の紅葉など、沿線風景の魅力で知られる路線だけに、当初は「やっぱりパノラマ車両じゃないか」という意見もあったそうです。楕円形をモチーフとしたデザインに対して「なんやねんこれ」という声もなかったわけではないそうです。

しかし、展望電車としては同様の観光列車「きらら」が既にあるため、最終的には同じテイストの者を作るより、ほかにはない特徴あるデザインのほうが乗りたくなるのでは、と大胆な楕円形デザインが採用されることになったそうです。

火曜日を除き約40分間隔で運行し、通常運賃で乗車できます。通常は1両で走りますが、ほかの車両と連結する場合は連結器回りの部分だけ楕円形の飾りを取り外せる構造だとか。

訪日外国人観光客が増え、にぎわいの続く京都。近年は観光客による交通機関の混雑が問題となっていますが、叡電の場合は紅葉シーズンの11月と、川の上の座敷で食事などを楽しむ「川床」が人気の7~8月に観光客が集中し、繁閑の差が大きいのが課題のようです。

また、叡電の観光利用者数は叡山本線よりも鞍馬山へ向かう鞍馬線のほうが多いといい、叡山本線の観光活性化は京阪グループ全体にとっても重要です。「ひえい」は新たな目玉として、この観光ルートの一翼を担うことになりますが、はたして観光客増加につながるでしょうか。



比叡山とは

この比叡山とは、滋賀県大津市の西南、滋賀・京都県境に位置する、標高848mの山です。古事記には淡海(おうみ)の日枝(ひえ)の山として記されており、古くから山岳信仰の対象とされてきました。

「延暦寺」と称されるのは、実は、比叡山全域です。山全体を境内とする寺院という位置づけであり、地元では延暦寺という呼称よりも、比叡山、または叡山という呼称で親しまれているようです。その昔は、平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも呼ばれました。

平安時代初期の僧・最澄(767年 – 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院です。平安遷都後、最澄が堂塔を建て天台宗を開いて以来、王城の鬼門を抑える国家鎮護の寺地となりました。京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされました。

最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれました。15歳の宝亀11年(780年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗るようになります。

青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れました。20歳の延暦4年(785年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となりました。

このころすでに京では高層とみなされており、788年、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなり、薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を建立しました。

時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けたこの寺は、延暦寺と名を改め、京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになっていきました。

延暦21年(802年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、唐に渡航することが認められ、延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡りました。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智顗直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学びました。

また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学び、延暦24年(805年)、帰国した最澄は比叡山に戻り、ここで天台宗を開きました。法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていました。

大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出しました。円仁(慈覚大師、794 – 864)と円珍(智証大師、814 – 891)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くしました。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがりました。




僧兵の台頭

ところが、比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになっていきます。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもります。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきました。

延暦寺の僧兵の持つ武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っています。山法師の山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことです。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたものです。

延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(みこし)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していました。この当時は、神仏混交であり、神輿は神と仏は同一でした。

延暦寺の勢力は、やがて貴族に取って代わる力をつけるようにすらなり、のちには武家政権をも脅かすようになります。このころの時の権力者は初め平氏、のちに源氏です。平清盛や源頼朝もともに延暦寺と対立しましたが、その都度攻略に失敗し、さらに延暦寺の力は増大していきます。

初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教です。永享7年(1435年)、足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首しました。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難。

しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺しました。このとき、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したとされます。

義教は武家としてはじめて延暦寺の制圧に成功しましたが、のちに敵対する赤松氏によって暗殺されてしまいます。すると、延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻りました。

戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していましたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰します。

戦国末期になると、織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立するようになりました。これをみた延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こします。

このころの延暦寺の僧兵の数は4千人ともいわれ、強大な武力と権力を持つ僧による仏教勢力の増長が戦国統一の障害になるとみた信長は、元亀2年(1571年)9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちしました。

これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されました。僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われており、この戦いでの死者は、「信長公記」には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、「言継卿記」には3,000-4,000名と記されています。

信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建されました。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建しています。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されると、天台宗の宗務の実権は江戸に移りました。

現在、その中枢は比叡山に戻っており、1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録されました。

世界遺産として

これに先立つ1987年(昭和62年)には、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催されており、その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれています。

世界文化遺産への登録はそうしたことも評価されたためと思われ、と同時に世界中から観光客がここを訪れる契機にもなりました。

現在の根本中堂は、1571年(元亀2年)9月、織田信長による焼き討ちの後、慈眼大師天海の進言により徳川三代将軍家光の命によって、1634年(寛永11年)から8年もの歳月をかけて再建されたものです。1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。

本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられており(秘仏)、その宝前に灯明をかかげて以来最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝き続けており、不滅の法灯と呼ばれます。この火は、焼き討ち後の再建時には立石寺から分灯を受けたと伝えられます。

拝むと長生きするといわれています。新型列車「ひえい」に乗って比叡山に行き、ぜひスピリチュアル・エネジーを感じ取ってきてください。



西郷どんはボーイズラバー?

今年は維新からちょうど150周年ということで、NHKでは、西郷隆盛を題材にした「西郷どん!」が放映されています。

一昨年の2016年9月8日に制作発表が行われ、林真理子の小説を原作に、脚本を連続テレビ小説「花子とアン」などを手がけた中園ミホが担当することが発表されました。

「大河ドラマ」は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズです。

第一作とされている「花の生涯」放送開始時には、「大型時代劇」という名称で呼ばれていましたが、年を重ねるごとに歴史ドラマとして注目されるようになると「大型歴史ドラマ」の名称が用いられるようになりました。

あるとき、読売新聞が「大河小説」になぞらえて「大河ドラマ」と表現したところ受けがよく、その後一般的にも「大河ドラマ」の名前で親しまれるようになりました。NHKは「大型歴史ドラマ」にこだわっていたようですが、1977年(昭和52年)の「花神」からは、公式に「大河ドラマ」の名称を用いるようになります。

以後、「大河」の名で定着し、毎年嗜好を変えて制作が続けられていますが、今年の「西郷どん!」はその57作目になります。

大河ドラマは、NHKとしても看板番組であるため、年明けの放送開始から1年間は、関連する番組を随所で放送します。とくに、「その時歴史が動いた」、「歴史秘話ヒストリア」といった、歴史教養番組、娯楽番組で取り上げられ、その年の大河ドラマの主人公にまつわる話が紹介されます。

また、NHKでは近年、「大河ドラマ館」なるものを提供するようになりました。自治体や地元経済団体等の協力で作られる展示施設で、ドラマで使用された衣装や小道具や出演者・ストーリー・歴史背景などを紹介するパネルの展示や番組出演者を招いたイベントなどが実施されます。

大河ドラマの舞台となる地域における観光に寄与するだけでなく、ここでの集客力はドラマ本体の評価に左右される面もあり、NHKとしても最大限にこの「大河ドラマ館」のPRに力を注いでいます。

今年の「西郷どん!」でも、西郷隆盛の出身地である鹿児島市内の加治屋町の旧鹿児島市立病院跡地において約1年間、「大河ドラマ館」が開館されるそうです。

このように天下の国営放送が力を注いでいるだけに、世間の注目度も高く、毎年のように、今年の大河ドラマの視聴率はどのくらいだった?といった報道が流れます。

筆者が調べたところ、過去における視聴率のベスト5は、次の通りです。

1位 39.7% 独眼竜政宗  主演:渡辺謙 題材:伊達政宗 1987年
2位 39.2% 武田信玄 主演:中井貴一 題材:武田信玄 1988年
3位 32.4% 春日局 主演:大原麗子 題材:春日局 1989年
4位 31.9% 赤穂浪士 主演:長谷川一夫 題材:大石内蔵助 1964年
5位 31.8% おんな太閤記 主演:佐久間良子 題材:ねね 1981年

一方、ワースト5はというと、

1位 14.5% 竜馬がゆく 主演:北大路欣也 題材:坂本龍馬 1968年
2位 14.1% 花の乱 主演:三田佳子 題材:日野富子 1994年
3位 12.77% おんな城主 直虎 主演:柴咲コウ 題材:井伊直虎 2017年
4位 12.0% 花燃ゆ 主演:井上真央 題材:杉文 2015年
5位 12.0% 平清盛 主演:松山ケンイチ 題材:平清盛 2012年

となっており、ワースト5のうち、2本がここ5年以内に放映された中に入っている点が気になるところです。ただ、視聴率30%越えというのは、現在ほどインターネットの普及やレンタルビデオなどによるメディア供給が進んでいいない昔の話であって、最近のドラマだと、10~15%というのも普通です。

16~20%だとまぁまぁ、20%を越えるとヒットといわれますから、これまでのところ、15~16%で推移しているといわれる「西郷どん」は、そこそこ健闘しているといえるでしょう。

ボーイズラブ?

「西郷どん!」の放送が決まったころのNHKの発表によれば、この物語では、明治維新の立役者・西郷隆盛を勇気と実行力で時代を切り開いた「愛に溢れたリーダー」として描く、とされました。

ところが、この「愛」というのがかなり話題となりました。というのも、制作発表の会見の中で、脚本を担当する中園さんが、「原作には師弟愛や家族愛、男女の愛、BL(ボーイズラブ)までの色々な愛がある」と述べたためです。

ボーイズラブとは、日本における男性(主として少年)同士の同性愛を題材とした小説や漫画などのジャンルのことです。英語にはそうした言葉はなく、和製英語です。1990年代中盤~後半に使われるようになったもので、中園さんがこれを要素として加えると明言したことが波紋を呼びました。

BLは元々、女性向けの男性同性愛をテーマとした漫画小説混合雑誌「JUNE」の言い換え語だったようです。

この雑誌「JUNE」は、「耽美(たんび)」と呼ばれるような男性同性愛を主題にしており、その後雑誌名である「JUNE」そのものが男性同性愛を示すようになっていきましたが、これをきっかけに同様の題材の作品を掲載する雑誌も増えました。

しかし一方では、「JUNE」という言葉がわかりにくい、といった風潮も出てきたため、やがて、「ボーイズラブ」と呼ばれるようになり、のちにBL(ビーエル)と略されるようになり、現在に至るまでにはこちらで定着するようになりました。

現在、BL作家、編集者のほとんどは女性、また読者の大多数も女性といわれます。ゲイの男性向けの作品とは一線を画しており、独自の世界を築いているといえますが、一方ではそれほど確固とした概念ではなく、ボーイズラブとそれ以外のジャンルを明確に分けることはむずかしいとよく言われます。

たとえば「やおい」といわれる別のジャンルがあり、こちらと混同されることも多いようです。

「やおい」ってなんだ?どうもこの手の話題にはついていけない、という方も多いと思いますが、こちらも、男性同性愛を題材にした女性向けの漫画や小説などの俗称です。ただ、ボーイズラブの作品に正統派?が多いのに対し、こちらは、こうした主流派作品をパロディ化したものが多いようです。

漫画家を目指す「卵」の作品が多く、漫画を雑誌の専門家からは「ヤマがない」「オチがない」などと批評されています。「ヤマもオチも意味もない」を略して「ヤオイ」、または、ひらがなにして「やおい」という呼称で広まりました。ストーリー構成に必要な「ヤマ(山、山場)無し」「オチ(落ち)無し」「イミ(意味)無し」の3つが無いという意味です。

ようするに中身のない、ペラペラな内容の同性愛ストーリーということであり、このため、BLは基本的に商業的に正当な出版筋を通して世に出るのに対し、「やおい」の場合は、二次創作の多い同人誌やウェブ上の作品で発表されることが多いようです。

とはいえ、BLとは同じテイストの作品群であることは間違いなく、現在では、このヤオイを含めて、BLというジャンルが成立しつつあります。漫画、小説、ドラマCD、アニメ、ゲームといった異なるメディアで広く浸透しつつあります。

なんでこんなもんが流行るんかな~と、世のオジサンたちには少々理解しがたいと思うのですが、かくある私もその一人です。しかし、一方では、男役も女役もすべて女性が演じる「宝塚歌劇団」があれほど熱狂的に受け入れられているのをみると、男性愛に特化したジャンルもまた、ありなのかな、と思ったりもします。

インターネットを通じた新しいメディア分野は次々と登場してはその拡散が加速しており、娯楽もまた多様化している、と考えれば不思議なことではありません。




BLの広がりと反発

それにしてもなぜそれほどの広がりを見せているか、ですが、BLの場合、男女の組み合わせでは表現できなかったり、受け入れられにくい、また男同士でしか表現できない関係性を描くことができ、その点が魅力であるといわれているようです。

少々エッチな表現を含む作品も多くあり、そのあたりの「きわどい」駆け引きが魅力、という支持者が多いといいます。その一方で、単なる仲のいい男同士で性的な要素はない作品が好きだという人もおり、「二人がエロい関係にならない状態で想い合ってる程度のほうが萌える」という人も多いようです。

2000年代には、こうしたBL作品が電子書籍で出版されるようになり、携帯電話で読めるようになりました。このため、店頭で購入するのが恥ずかしい、といった人も気軽に買えるようになり、どこでも読めるようになったこともブームの背景にあるようです。

さらに、スマホや携帯電話の進化に伴い、BLゲームのアプリも作られるようになったことで間口が広がったことなども関係しているようです。

ブームに伴い「BL」の意味もさらに拡散し、現在では、上述の「やおい」も含めて、男性同性愛作品は、広く浸透するようになりましたが、やはり「同性愛作品」という色眼鏡で見る人も多く、軋轢も生まれました。

2008年には、大阪府の堺では、ボーイズラブ小説が収蔵・貸出されていることを非難する「市民の声」が高まり、これによって、同市の市立図書館に所蔵されていたBL作品の廃棄が要求される、といった「事件」も起きました。

結果として、ボーイズラブとされた5500冊の本が開架から除去されましたが、この事件以前に福井市立図書館でも、「ジェンダー図書」が、「市民の声」によって図書館から排除される、といった事件も起きています。

福井市のケースでは、逆にこうし排除に対して、「表現の自由」の侵害だ、とする声が高まり、一部市民によって住民監査請求が出され、その結果、図書は間もなく戻されました。

こうした堺市や福井市における特定図書の排斥をきっかけに、その後報道やネットで賛成反対様々な意見があがるようになります。BLが図書館にあることへの批判や、BL読者を嫌悪するような意見もあった一方で、「図書館の自由」や「表現の自由」を守りたい、として多数の市民団体や市民が反対の声をあげるようになりました。

反対派の主な意見としては、図書館員が共有する基準を持たず各々の判断で選んだかのように一貫性がない、といったもので、暗黙の差別があらわになる除去リストによって、排除行われた点が問題である、と主張しました。

実際、堺市の例では、市が示した排除理由が「過激な性描写」でしたが、性描写のない本、ほとんどない本も含まれていました。また、「挿絵」も理由として挙げられましたが、挿絵に裸や性表現のない本や、そもそも挿絵のない本も含まれていたといいます。

その結果、堺市立図書館は「青少年への提供は行なわない」と発表。方針を撤回し、請求があれば18歳未満にも貸し出す方針を決め、発表当日から提供を再開しました。この発表で市側はまた、「拙速で、判断を誤った」と開陳しましたが、その後も「BL図書は収集・保存しない」という措置は継続されているようです。

「西郷どん!」の制作発表においても、こうした事件が過去にあったにもかかわらず、脚本家さんがBL要素を加えると明言したことで、物議を醸したわけですが、民放ならまだしも、国営放送で放映される番組、しかも看板番組ではちょっとまずいよな、と私なども思うわけです。

ただ、NHKにおける性表現というのは、一昔前に比べると格段に変化しており、ちょっと前だと、キスシーンなどというものはまったく考えられないものでしたが、最近では、朝ドラでも普通にそうしたシーンがあります。性表現だけでなく、暴力シーンなどについても、「憲法で保障された表現の自由」の範囲内として許容する傾向は強まっているようです。

BLと暴力を一緒くたに論じるのは、これまた乱暴ですが、特定秘密保護法などによって、国民の表現の自由が束縛される傾向が強まっている現代だからこそ、逆にそうしたまだ「手がつけらていない」ジャンルにおける自由を守ろうとする動きも強くなるのでしょう。NHK内部においてもそう考える人が多いに違いありません。

2014年の「美術手帖」の特集では、こう述べられています。

「BLのどこに魅力を感じるかは十人十色だが、 特筆すべきは”関係性”の表現にあると言えるだろう。」「描き手/読み手の心を時に癒し、時に興奮させ、 ジェンダーやセクシュアリティーに対する固定概念を揺さぶり、 愛することや欲望の発露について思考をめぐらせるきっかけとなる。」

エッチでふしだら、いやらしい、というふうにストレートに反応するのではなく、「人間愛」という観点からみてどうなのか、について思考をめぐらすことのほうが重要だ、というわけです。人間は他の動物のように本能に反応するだけの動物ではありません。そうした行為の意味を、人だけが持つ特性、「考える」ことで読み解くことが大事だと思います。




日本独特の「衆道」

ところで、BLと同じ、とひとくくりにすると、なお叱られそうですが、「ゲイ(gay)」と呼ばれる概念についても、何かと物議を醸しだすことが多いようです。男性の同性愛者一般をさす用語ですが、その原義は「お気楽」「しあわせ」「明るく楽しく」「いい気分」「目立ちたい」といった感情を表すものだといい、そもそもは人間愛から出てきたものです。

「不品行」「不道徳」といった含意を担わされていた時代もありましたが、現代では、主にホモセクシュアリティーに関わる人や行動、或いは文化を表現するためのものとされるのが一般的です。

この「ゲイ」について論じ始めるとまたまた長くなるのでやめますが、もともとは欧米から入ってきた概念であり、日本に根付くようになったのは、ごくごく最近のことです。

一方、日本では、もとから、「衆道」と呼ばれる文化がありました。いわゆる「男色」ですが、庶民一般を対象にしたものではなく、武士同士のものをルーツとしており、欧米の「ゲイ」とは明らかに異なる風習といえます。「衆道」とは、「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、別名に「若道(じゃくどう/にゃくどう)」、「若色(じゃくしょく)」ともいいます。

そもそもは、平安時代に女人禁制の場にいることの多い僧侶や公家の間で発生した習慣です。この時代、「主従関係」だけでなく、「売買関係」としても性欲処理目的の男色が行われるようになり、その後、中世室町時代以降の戦乱の世では、戦地に赴き、「男環境」になることの多い武士の間で広まりました。

「衆道」の原義は、そもそも部下・小姓などが、主君に忠義を果たして命を捧げて死ぬことというものでしたが、時代が進むにつれ、男色を好む上司・主君への「出世の手段」にも利用されるようになっていきました。

にもかかわらず公の場でもはばかれるようなものではなく、江戸幕府の公式令條にも「衆道」の呼称が使われており、幕府も公認の行為として認められていました。

江戸時代中期(1716年ごろ)に、「武士の心得」として書かれ、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」で有名な「葉隠」にも記述があり、兄分である「念者」と弟分の「若衆」という義兄弟的男色の心得が説かれています。

「互いに想う相手は一生にただひとりだけ」「相手を何度も取り替えるなどは言語道断」「そのためには5年は付き合ってみて、よく相手の人間性を見極めるべき」としており、まるで結婚相談所のアドバイスのようです。ただし、この当時、弟分は誰でもいい、というわけではなく、若衆の多くは美貌を持つ少年でなければならなかったようです。

このほか、相手が人間として信用できないような浮気者だったら、付き合う価値がないので断固として別れるべき、といった記述もありますが、一方では「怒鳴りつけてもまとわりついてくるようであれば、切り捨つべし」といった武士らしい「命懸けの恋」についての心掛けも書かれています。

江戸の時代の武家社会においては、それまでの「主従関係」に加え、こうした「同輩関係」の男色も見られるようになったのが特徴であり、元々は武士の世界だけでのものでしたが、やがては、庶民の間にも広がりを見せるようになりました

江戸の町は女性よりも男性が多く、男余りだったことで知られています。江戸末期の統計では、1721年(享保6年)の江戸の武家を除いた町人人口は約50万人で男性32万人に対して、女性18万人と2倍近く圧倒的に男性人口が多かったそうです。

これは、地方から出稼ぎに来る男性が多く、その一方で江戸入りを許される女性は少なく、これは「入り鉄砲に出女」の縛りもあったためでしょう。街中で女性をみかけることは稀でした。結婚しようにも相手がいなかったため、独身男性で溢れていたといい、時代劇では巷に女性がわんさかいたようによく描かれますが、それほどには女性はいませんでした。

江戸の天下太平が進んだことで、武士を筆頭に人々が戦場に出ることはほとんどなくなり、戦地で小姓を相手に性欲処理する、といったケースも激減したことから、衆道は江戸で普及しました。そして、元々江戸でだけでの風習だったものが、やがては「江戸の流行」として地方にも伝わるようになっていきます。

これに対して、諸藩においては衆道を厳しく取り締まる動きも現れるようになり、江戸初期には既に各藩で衆道を制限するようになりました。特に姫路藩主の池田光政は家中での衆道を厳しく禁じ、違反した家臣を追放に処しています。

さらに、江戸時代中頃になると、君主への忠誠よりも男色相手との関係を大切にしたり、美少年をめぐる刃傷事件などの諍いが発生するようになります。次第に江戸だけでなく、全国的な問題にまで発展するようになっていったため、江戸時代後半になると幕府も規制に乗り出し、各藩もこれに同調したため、衆道は余り目立たなくなりました。

加えて、江戸や地方の大都市の悩みであった「女性不足」は、娼婦の売春によって賄われるようになりました。こうした、いわゆる「妓楼」が普及したため、地方の主要都市では女性人口自体が増加し、男性が男色をする必要がなくなると衆道は急激に衰退していきました。

さらに、維新が成立し、明治の時代になって、これにとどめを刺したのが、明治5年(1872年)に発令された「鶏姦条例」です。

「鶏姦」とは、アナルセックスのことであり、この時代は?男性同士の性交渉を意味しましたが、法を破って、男性同士の行為に及んだ者は「鶏姦罪」に問われ、平民が鶏姦を犯した場合は懲役90日が課されるようになりました。

ただ、華族または士族が鶏姦を犯した場合は本人の名誉の問題も絡んでくることから、懲役期間の縮小が考慮され、また、鶏姦「された」側にある者が15歳以下であった場合は処罰の対象にはなりませんでした。

とはいえ、「加害者」となる成人男子が男色をすることが著しく制限されるようになったことは間違いなく、これによって、以後、昭和・大正の時代を経て、現在に至るまで、男性同士の性愛はタブーとなり、地下深くに潜伏する行為となりました。

ただ、鶏姦罪の規定は、明治15年(1882年)1月1日をもって消滅しています。従って、明治5年以後の9年間は日本で唯一、男色行為が刑事罰の対象とされた時期となっています。

ちなみに、鶏姦罪が廃止されたのは、旧刑法草案に関わった、お雇い外国人で、フランス法学者のボアソナードが「ナポレオン法典」に男性間の姦淫の規定がない、と主張したことや、合意に基づくものは違法ではない、といったことを助言したことが背景にあり、司法省もこれに同意したためでした。

薩摩における衆道

ところで、この鶏姦条例ができたきっかけは、明治5年白川県(現熊本県)より司法省に「県内の学生が男色をするが勉学の妨げなどになり、どのように処罰すればよいか」との問い合わせがあったことだったといわれ、南九州で盛んに行われていた学生間の男色行為を抑えるためでした。

法律では規制されていましたが、薩摩藩など南九州では男色は引き続き行われており、事実上はザル法化していたといいます。

しかも、これらの地方では、法に定められたのとは異なり、万一発覚した場合でも、鶏姦された側、即ち「女」として男根を受け入れた側が罰せられることが多く、姦通する側はほとんどとがめられることはなく、社会的にも許容されていたといいます。

こうした悪しき風習がはびこっていた理由として、とくに薩摩においては、「郷中(ごじゅう)」というものがあり、ここが男色文化の温床となっていたという指摘があります。

郷中教育は、薩摩における独特の青少年の教育制度であり、薩摩では、領内を100以上の「外城」に分けて、屯田制度をとっていました。この「外城」は一般に「郷」といわれ、各郷ごとに「郷中」という青少年団体が構成され、年齢に応じて、大きく「稚児(ちご)」、「二才(にせ)」に分けられました。

さらに「稚児」は、6~7歳から14~15歳までの元服前の少年で、10歳までを「小稚児」、それ以上を「長稚児」といいました。「二才」は、元服してから妻帯するまでの青年たちで、年齢的には、14歳くらいから25歳くらいまでの青年になります。

二才は、稚児に剣術を教えたり、薩摩武士としての人間形成を担いましたが、マンツーマンの指導を重視したため、両者は当然、親密な関係になります。稚児が他郷の二才と交際することは禁じられていたといい、こうしたことから、男色の風習が深まっていったと考えられます。

中には、美しい稚児を「さま付け」で呼ぶこともあったといい、他の郷の二才たちに奪われないように寝ずの番をつける二才がいた、といった話も残っています。

ここで衆道を経験した青年たちが、地方における社会進出を果たし、ひいては中央進出していった結果、江戸で男色が流行した、とする説すらあるようです。

薩摩などの九州南部の旧藩の青年が、江戸に出稼ぎなどで出たことが、そもそも江戸時代の衆道の普及の発端だ、とする説であり、鹿児島出身の方は、えーっと思われるかもしれませんが、薩摩において、男色が普通に行われていたことをうかがわせる記録も残っています。

そのひとつが、明治 5 年(1872)に出された新聞であり、「鹿児島県の男色衰ふ」というタイトルのこの記事には、「もともと鹿児島では男色の悪弊があったけれども、最近はだいぶ衰えてきており、その代りに妓楼(遊郭)を設けようと考える輩が増えてきた」といったことが書かれていました。これ以前から男色の習慣があったことをうかがわせます。

「西郷どん!」においてもそうした郷中における、西郷とその兄弟、郷中仲間たちとの生活が描かれていますが、西郷隆盛や大久保利通といった幕末維新の偉人たちもまた、そうした風習の残る中で成長したことは間違いありません。

だからといって、「西郷どん」に男色の趣味があったかといえば、そういう史実はないようで、大久保についてもまたしかりです。また、郷中制度そのものも「同胞愛」を育むために根付いた風習であり、必ずしも性的な行為を誰しもがしていたというわけではないわけであり、そこのところは、「忖度」して考えるべきでしょう。

現在放映されているドラマのほうでも、筆者がこれまで見てきたところでは、当初心配?されたような、描写はないようです。

もとより、そんなものを期待しているわけでもありませんが、ときに濃厚に描かれる男同士の泥臭い関係についても、それを匂わせるようなところはありません。

むしろ北川景子さん演じる篤姫や松坂慶子さん演じる幾島と西郷どんとのやりとりなど、男女関係の描き方が巧妙で、かつ西郷隆盛役の鈴木亮平と島津斉彬役の渡辺謙さんとの関係も面白く、毎回目が離せません。

「ヤマ無し」「オチ無し」「イミ無し」とはほど遠い出来であると思うのですが、このあとさらに激動の幕末になっていく中、どのようなストーリー展開が期待できるのでしょうか。

「愛に溢れたリーダー」がどういうふうに描かれていくのか、着目したいと思います。