前世の記憶

東京を離れて2か月半が過ぎました。不思議なほど、昔住んでいた町のことは思い出しませんが、意識して町並みを思い出そうとすると、長年住んだ町の映像が次々と脳裏に浮かんできます。同様に、さらにその前に住んでいた町のことや、訪れた海外の風景、子供のころに小学校や中学校に通った道、などなど思い出そうとすれば、そこにはやはり懐かしい風景があり、いくらでも思い出すことができます。

なのになぜ、人は現在生きている世界の前に住んでいたはずの世界、そう、前世のことを簡単に思い出すことができないのでしょうか。そもそも前世などない、と考えるならば、当然のこと、思い出すこともないのでしょう。しかし、スピリチュアル的な観点からみれば、前世はある、とされています。何度も何度も生まれ変わり、その都度、何等かの経験を積み、学び、そして足りないものをもう一度補うために生まれ変わってくる・・・そう信じています。

では、なぜ過去生についての記憶がないのか・・・・・それに対する答えのひとつは、それは、現世においていろいろなことを学ぶ上において、過去生の記憶が邪魔になるから、というものです。たとえば、前世で人を殺したことがある人が、そのことを現世で覚えていたら、現世ではそのことに対する罪悪感から、まともな人生を送れないでしょう。逆に前世では大金持、すべて順風満帆の幸せな人生を送った人はなぜ生まれてくる必要があるのか。それは、前世では学びえなかった人生の苦しみを新しい人生で学ぶ必要があるから。生まれ変わった新しい人生では、前世が豊かであればあったほど、現世での貧しい生活がみじめになるから・・・

現世に生まれてくるときには、そうした、よきにつけ、悪しきにつけ、前世の記憶が現世を生き、学ぶ上で邪魔になるため、それらの記憶はすべて消されて生まれてくるのだ・・・そう聞かされています。

自分では、こうした議論は至極妥当なものと考えていて、最近ではとくに輪廻転生の議論などいまさら、というふうに思っています。時にテレビなどで前世のあるなしの議論を偉い先生方がやっているのをみても、あーあ、またやってるよ、と思うほど。また、心霊現象を扱う番組も夏場などにはよく放送されます。これについても、死後の世界があり、そこから再び生まれ変わってくるならば、世にいう、幽霊もいてあたりまえじゃないか、と思います。以前は、こうした番組を興味半分のみで見ていましたが、現在でも興味をもってそういう番組をみていても、以前とはまた違う観点からこうした番組を見ている自分に気がつきます。

たとえば、いかにも恐ろしげな形相の幽霊の写真などが、バラエティ番組などで放映されると、その番組に居合わせたタレントさんから、一斉にキャーッという悲鳴があがります。確かに手や足、顔などの一部しか写っていなかったり、いかにも苦悶の表情の幽霊さんが写った写真などは、非常にめずらしいものには違いありません。そうした未知のものに対する畏怖のようなものは誰しもが持っていて、そうした気持ちが怖い、と感じさせるから悲鳴を上げるのでしょう。

でも考えてみれば、この世に生きているひとだって、おそろしい形相で何かに取り組んでいる瞬間があるはずだし、重い病気で苦しんでいるひとが苦悶の表情をみせるのもあたりまえです。死後の世界では、多くの場合、そうした苦しみや苦悶はなくなるといいますが、そのなくなる過程の浄化されていない過程の幽霊さんは、現世に限りなく近いところにいて、時に我々の近くで死ぬ前のそうした姿を見せる・・・と聞いたことがあります。

霊にも上級な霊と下級な霊がいるそうで、まだ学びの足りない霊はより上級の霊になるために、あちらの世界でもいろいろ学び、そして必要ならば、現世にまた生まれかわってくるといいます。亡くなったあとにまだ浄化されていなくて、上のほうに登っていけない霊は、ときに「幽霊」さんとして、現世の私たちの前にあらわれ、ときとして何等かのメッセージを送っている場合もあるらしい。

現生においても、崇高な精神を持った人と、下劣な考えしかもてない人、それぞれいるではありませんか。自分の考えに自信が持てない人は、自分以外の人に頼りがちなもの、あちらの世界でも同じ、とすれば、現世で何等かの理由でもがき苦しんだ人が、あの世からこちらの世界にメッセージを送って、何か手助けを求めている。そう考えると、心霊写真のイメージも少し変わってくるように思います。

もっとも、そのメッセージを悪いようにとらえて、すわ、悪霊が自分にとりついている、と考えるのは早計です。無論、悪い念を持った霊もいて、現世にいる人に禍(わざわい)をもたらそうとしている場合もないとはいえないようですが、テレビで放映されているような心霊写真のすべてがそうかというと、そうではないように思います。

要は、幽霊は怖い、というふうに思う固定観念を捨て、どういう霊なんだろう、と冷静に観察できるようになれば、しめたものです。もし、自分が写った写真に何か霊のようなものが写っていたら、単にこわがるだけでなく、最近自分自身に何か変化はないか、もしかしたら、その変化に対しての霊界からの何等かのメッセージではないか、と考えてみるとよいのでは。

幽霊論議になりそうなので、この辺でやめますが、話をもとにもどすと、このように霊の世界、すなわち死後の世界はある、という観点に立つならば、人生で起こることもこれまでとは違った観点からみることができるようになると思います。

前世の記憶は生まれてくるとき、完全に消されているとはいいつつ、何かの拍子に思い出す、ということもあるようです。これまでまったくやったこともないことが、いきなりできてしまったり、あれ、俺、なんでこんなことを知っているんだろう、というような出来事は、すべて前世で学んだことがあるからだ、といいます。

過去世において学んだことを教訓に、今世ではさらに何を学ぶべきなのか、と考えたとき、今まさに自分の身の周りに起こっていることの意味がわかったりすることもあるかもしれません。

以前、このブログでも少し書いた、ワイス博士という方は、「前世療法」という著書で、そうした過去生を思い出すことで、その人が現生でかかえていた悩みや問題点が解決した、という症例をたくさん書かれています。前世がなにで、どういうことが課題だったかを知るということは、大きな意味があるようです。

今日のところは、この辺でやめますが、私自身の前世と今世の意味についても、また今度あらためて書いてみたいと思います。

みなさんも、自分の過去世に思いを馳せ、今の人生の意味をいろいろ考えてみてはいかがでしょうか。

音楽会 ~旧修善寺町(伊豆市)

 虹の郷園内でみかけた、「花のような」木 「ハクロニシキ」というそうです

先日の土曜日、タエさんと二人で、我が家から歩いても行けるほどのところにある娯楽施設、「修善寺虹の郷」に行ってきました。わたしは、これまでに息子をつれて、3度ばかり訪れたことがあるのですが、タエさんにとっては初舞台。わたしとしても、行ったことがある、とはいえ、息子を連れていったのは、かれころ10年ほど前になります。なので、園内の様子もさぞかし変わっているかと・・・心配していましたが、思ったほど変わっておらず、昔懐かしいまんまの姿でした。

イギリス村、カナダ村、日本庭園、などの娯楽施設を核とした一種のテーマパークなのですが、ジェットコースターなどのおおがかりなアトラクションがあるわけではなく、村や庭園といったそれぞれのゾーン毎に四季折々の花木を配し、そのところどころに、おもちゃの館やら万華鏡館、駄菓子屋といった小さな施設とお店がところどころに点在する、といったほのぼのとしたもの。そのレトロな感覚が大好きで、伊豆へ来るたびに亡き妻と息子の三人で訪れたものです。園内のあちこちに、皿回しやフラフープ、シャボン玉といった小道具も置いてあって、小さな子供向への配慮もおこたりがありません。

この公園の一番の目玉は、なんといっても、園内を周遊する蒸気機関車や電気機関車。イギリスでその昔実際に使われていたものを輸入しています。イギリスでは、保存運動がおこっていて、国内のあちこちで、同じものが観光用として稼働しているとか。もともと旅客用の大型のものではなく、木材などを運んでいた狭軌道のものなので、少し小ぶりですが、それでも、乗客を乗せた貨車5台ほどをけん引。時速20kmほどののんびりした速度で、汽笛を鳴らしながら、園内の花々の中をゆったりと走ります。

実はこの公園、伊豆市の息のかかった施設で、虹の郷振興公社という第三セクター形式で経営されています。このため、伊豆市民であれば、身分証明書さえみせれば、タダで入園可能。この日も、タエさんとふたりとも無料で入園できました。その日はゴールデンウイーク後の土曜日ということもあって、それほど人も多くありませんでしたが、園内にいくつかあるレストランは、ほぼ満員御礼の状態。お弁当持参で、遠足感覚で来られる人も多いようで、あちこちの芝生の上ではお弁当を広げて昼食をしている人がいます。

が、我々二人はお弁当を持ってきていなかったので、カナダ村のレストランでランチをとることに。店内に入るまでに20分、食べ始めるまでに10分、ほぼ30分待ちの昼食でしたが、味はというと・・・正直言ってイマイチ。市や町といった公的機関が経営する施設内の食事というのは、これまでも値段の割にあまりおいしいものに巡り合ったことがありませんが、修善寺伊豆の郷よ、お前もか・・・要改良を希望・・・です。おそらくは園内のお店の経営者のほとんどは、伊豆市民であり、長年この公園でお店を営んで暮らしてきた人たち。市としては、こうした「既得権益者」への配慮から、あまりその経営内容には口をはさめないのでは・・・と推察。

最近は入園者数も少々下り坂と聞いていますから、できれば食事処については、リピーターが出るくらいの改善を望みたいところです。

しかし、広くて気持ちのいい園内に、四季折々の花々を配し、大型のアトラクションなどではなく、随所に自然を感じさせる数々の工夫によって人を呼び込む形は、最近はやりのアミューズメント施設になじんだ人たちの目には、新鮮なものとして映るに違いありません。その証拠に、初めてここを訪れたタエさんは、すごいねー を連発で、一気に大ファンになったご様子。暑くも寒くもなく、心地よい風の吹く、上々のお天気の中、鼻唄まじりで散策する姿はとても楽しそうです。

ほぼ公園を一周して、入口に近い広場に差しかかったときのことです。その日に行われていたミニコンサートがほぼ終盤にさしかかったところでした。コンサートというよりも、音楽コンテストらしく、5組ほどの若手のミュージシャンたちがその歌声を競っていたようで、地元の音楽家たちが真剣な顔でそれを聞き入り、審査しています。我々が通りがかったときは、ちょうど最後の組が歌い終えようとしたところで、歌が終わると同時に審査員の講評が始まりました。審査員は、6人ほどで、どうも音楽のプロのほかに、地元の有識者などもいるみたい。

どういった人たちなんだろうなーと思っていたら、こういうことにすぐに反応するタエさんが、すぐそばにいたコンサートの係員の人に、審査員の氏素性を聞いちゃってます。こういうところは、まったく感心するほど行動的なタエさん。でもそのおかげで、審査委員長とそのお隣に座っている審査員が、その方の奥さんがどういう人かわかりました。なんでも、審査委員長は、東京でも活躍しているプロのミュージシャンで、最近はここ修善寺温泉内に、「桂座」という音楽組織をつくり、コンサートの開催をするなどの活動をされているとか。奥様もプロの歌手で、ジャズボーカルなどをされているとのことでした。

すべての審査結果は、最後の歌い手さんの講評が終わった後、30分後に行われましたが、その際、主催者の振興公社の社長さん? によりこのコンサートの趣旨などが離されました。それによると、これまで何度も修禅寺温泉内でコンサートが行われており、この夏、修禅寺の本堂内でもコンサートが行われる予定。今回のコンテストの優勝者は、このコンサートで歌う権利が与えられるそうです。

ここ修禅寺では、コンサートの開催だけでなく、地元の若手ミュージシャンの登竜門として、こういった音楽会(コンテスト)がたびたび開催されているようで、我々が出くわした音楽会は、今回で8回目だそうです。
主催者さんによれば、ここ虹の郷で音楽会を行うのは、初めてだそうで、本当は昨年行う予定だったものの、天候の関係か、震災の関係か何かで、中止になり、今年初めて園内開催が実現したとのことでした。

さて、気になる審査の結果ですが、今回はグランプリはなく、準グランプリとして、二組が選ばれました。一組はソロの女性歌手で、地元修善寺出身の人とか。もう一組は女性二人の歌手さんで、「モモリエ」とうグループ名。こちらは県外の人たちみたい。我々が通りがかったときに、ちょうどジャズボーカルを披露していたグループです。通りがかったときに、曲の最後のほうを聞くことができましたが、透き通ったきれいな声は、周りの緑に染み渡るようで、なかなかのものでした。

歌唱後、審査委員長とその奥様が講評を加えられたのですが、その評価はまずまずといったもののよう。ただ、ご両人が口をそろえておっしゃったことが、少しく印象的でした。その歌は、ジャズなので、モモリエさんもこれを英語で歌われたのですが、それは、その発音に関することでした。昨今、英語などの外国語で歌をうたうミュージシャンが増えており、テレビのバラエティー番組などでも、よく歌に自信のある芸人さんやタレントさんが、英語で歌唱するのを目にします。ただ、私自身、その昔英語に慣れ親しんだことがあるので、気になっていたのですが、日本人が英語の歌をうたうとやはりどこかヘン。

歌っているご本人はそれなりに練習を積んでいらっしゃるようで気持ちよく歌われているのですが、イントネーションとか音の区切りとかが、やはりどう聞いても「英語」でない部分があちこちあって、どうしてもそれが気になり、歌の中に入り込めないのです。

このご夫婦審査員さんは、まさにその点をご指摘。審査委員長の男性は、モモリエさんに、これからプロのミュージシャンとしてやっていく上で、英語の歌で勝負していくのかどうかを問われました。が、モモリエさん曰く、まだそこのところで迷っているとのこと。それに対して、委員長さんは、英語で勝負していくとすれば、発音やイントネーションなどのツメがまだまだ甘い。それは聞く人にとっては失礼ことになる、という意味のことをおっしゃいました。

続く奥様の講評も同じような内容でしたが、奥様曰く、外国語で歌をうたうとき、その外国語を母国語とする人がその歌を聞いて、ちょっとでも発音がおかしかったらその歌の中に入っていけなくなる。日本語の歌だって、外国人の人が歌って、少しでも音を外したら、興が覚めるでしょう? プロとしてやっていくとき、もし外国語の歌で勝負をしようとするなら、その外国語を母国語とする人たちの前でも恥じることがないくらい、徹底的に発音やリズムをチェックして臨むべきだ。自分自身、外国語の歌をうたうときは、ネイティブの人に歌詞をチェックしてもらい、おかしいかどうかを十分に確認したうえで、人前で歌うことにしている、という厳しいものでした。

なるほど、プロとしてやっていく以上その唄う歌については、プロとしての責任を持て、ということのようです。確かに、外国語で歌うとなにやらかっこいい、という風潮が確かにあり、若手のミュージシャンもさることながら、テレビで見るタレントさんや芸人さんも好んで英語などで歌を唄いたがります。

でも、本当の歌手とは、歌に命をかけるもの。その歌の内容にいいかげんさが残るようならば、プロとして失格、という審査委員長ご夫妻の姿勢には、ちょっとした驚きというか、感動さえ覚えました。

結局、今回のコンテストではグランプリの該当者はなく、二組が準グランプリになったのですが、その一組のモモリエさんも準グランプリだったのは、そういうことが原因だったようです。ただ、最後に委員長がモモリエさんに対しておっしゃったことは、ちょっとイキでした。曰く、準グランプリにして「あげた」というのもおこがましいが、もしその気があるならばさらに練習しなおして、できれば来年、この場所でこの賞にもう一度チャレンジしてほしい、というものでした。また、もう一人の地元出身の準グランプリシンガーさんに対しても、地元の振興の意味からも、修善寺での活動を続けていってほしい、とおっしゃいました。

これに対して、お二組とも笑顔で快諾。それをもって、彼女たちの長いコンテストの一日が終わったのでした。

時刻は4時すぎ。10時前に入園した私たちも、半日以上をここで過ごしましたが、歩きつかれて足が棒のよう。ミュージシャンたち同様、長い一日でしたが、思いがけなくコンテストも見れて、大満足の一日。園内はいま、バラがみごろということでしたが、まだ少々早く、つぼみのものがほとんど。少々残念でしたが、これから梅雨に入るまでにはまだ時間があるので、また来園しよう、タダだし・・・とちゃっかり。それにしても、これほど内容の濃い公園を無料で満喫できるなんて、なんて幸せなんでしょう。

次回くるときは、バラもさることながら、そろそろアジサイも咲き始めることでしょう。あ、そうそう、コンサートの準グランプリの二組は、この8月5日に修善寺本堂内で開かれる無料コンサートでも歌唱されるようです。もし、その時期に修善寺に足を運ばれることがあれば、ぜひ、その素晴らしい歌声を聴きに行ってあげてください。われわれもぜひ行ってみたいと思います。

庭づくりことはじめ

21日は、「金冠日食の日」でした。朝からテレビをつけると、その話題でもちきり。わたし自身は、人さまが騒ぎ立てている事柄は、どちらかというと敬遠しがちな、偏屈者。ただ、平安時代以来・・・とかいわれると、さすがに老い先短い身。やっぱ、見ておかなくては死んでも死にきれん・・・と、いうことで、やはり朝早くから庭先に立つことにしました。ただ立っているだけでは、芸がないので、ここはやはり自称「写真家」である以上、一応、写真に収めておくべきか、とも思い、望遠レンズをセットして、刻々と訪れるであろう、「黒星」を待ちました。

しかし、当日の天気予報の「曇り」の予測どおり、空の上は薄い雲に覆われ、どうも世紀の天体ショーは望み薄。それでも、ときおり薄日のさす瞬間もあるので、あきらめずに20分ばかり天を仰いでいたところ、7時25分すぎのことです。少し雲が晴れ、その隙間から、見えました~ 黒い饅頭に食われた太陽がぁ。露出に気をつけながら、7~8枚を愛用のデジカメで撮りましたが、ほんの数分間だけのチャンスだっただけに、まあなんとか、見れるかな、というのは数枚。それでも、そんな短い時間で、よく撮れたなーと自画自賛。と、いうことで、とりあえず本ブログにもアップしてみました。

あとで見たニュースによれば、同じ静岡県内でも完全無欠の「黒星」が見れたところもあったようです。が、ここ修善寺では完全版にはご縁がなかったということなのですが、ま、次もあるさ、ということで、もともとそんなに興味があったわけでもなく、さばさばしたもんです。ただ、ここ伊豆で次に見れるのは、ウン百年後のことらしく、そんときは、さすがに生きておらんだろう。また、生まれ変わって別の世界でみておるんかしら。それとも、別の宇宙、別の次元にいて、まったく違う天体の食をみているのかも・・・などと妄想は膨らんでいくのでした・・・

さて、日食が終わったからといって、今のところ、何かが変わった、なんか起こった、ということは、今のところなさそうです。昨年の東北の地震津波を予言した、知覚障害? 知恵おくれ? の児童が、今度はまた、5.21に何かが起こる、と言ったとか言わないとかいう話も聞きましたが、とりあえず、今日までのところは日本は安泰。世界的にも大きな事件はなさそうです。が、期待している、というわけでもないのですが、まだまだ、1週間内外は何がおこるかもしれません。みなさん気をつけましょう。

さて、我が家でも、先週のSさんご夫婦の来訪以来、とくに大きな出来事もありませんが、Sさんご夫婦が帰られた直後に、この家のリフォームを手掛けてくださったTさんから、久々にお電話がありました。いつも元気で、静岡県内のあちこちの現場を飛びまわっているTさんなのですが、実は先月に突然、脳こうそくで倒れました。幸い発見が早かったのと、脳の血栓が小さかったらしく、左手に少ししびれが残る程度で回復し、10日ほどで退院できたとのこと。先日退院後に、近くの朝市でとりたての野菜とわさびを手土産に、わざわざご報告に来られましたが、ご病気だったとは信じられないほどお元気で、びっくりさせられました。

Tさんには、脳こうそくを発症される前に、最後まで残っていたリフォームのひとつの、門回りの工事の依頼をしていました。我が家にはいまだ、ポストやインターフォンなどがなく、階段を上がった先には門もなく、玄関まで裸の状態。お客さんが見えられても、玄関先で大きな声で呼んでいただくしかなく、ポストも仮のものを置いてしのいでいたのです。なるべく早く工事をやりたかったのですが、Tさんのご病気とともに、のびのびになっており、ようやく元気になったTさんからお声がかかったという次第。

その後、TさんとTさんのお友達で左官屋さんのUさんと打ち合わせも行い、昨日からようやくUさんが工事にとりかかってくださいました。

昨日はあいにくの雨模様でしたが、Uさんは朝早くから来られ、ほぼ一日かけて、門回りのコンクリート基礎の型枠設置などの作業をおこないました。実は、私も先週から東側の庭の整備の作業を始めていて、同じ庭先で、Uさんと日がなもくもくと作業をしていました。Uさんは、同じ別荘地内の住人。目と鼻の先のところに住んでいらっしゃるとのことで、ふもとの大仁のお生まれ。この別荘地に越してかられてからもう8年もなるとのこと。わたしよりも一回り年上ですが、きさくな方で、ときおりお互い手を休めたときに交わす会話もとても楽しいもの。これまで知らなかった伊豆のいろいろな情報も教えていただくこともでき、これからもいいお友達になれそうだな、というかんじです。

庭の整備と門回りの完成形については、またいずれ詳しくアップしたいと思います。そうそう、庭といえば、我が家には竹の子が出ます。うちの庭に竹林があるわけではないのですが、すぐおとなりの庭先には小さいながらも竹藪があって、そこから、地下茎が我が家の庭にまで侵入してくるのです。数はそれほど多くはないのですが、これまですでに、4本ほど竹の子を「収穫」し、それぞれに、おいしくいただいたのは言うまでもありません。

竹の「子」の時期を逸し、大きくなってしまった竹は、驚くほどの速さで成長します。たった一晩で50~100cmほど成長する、といったら、ウソと思われるかもしれませんが、本当です。「雨後の竹の子」という言葉がありまうが、我が家でも先日の夕方には何の変化もなかった地面から、雨上がりの翌朝、50cmほどの竹の子が出ていました。さらに、夜、お隣の竹藪のほうから、ミシッ、ミシッという音がします。これも信じがたいことなのですが、竹の成長する音です。人間でも、成長の早い子供は、自分の体の骨の成長の音を自覚できる、という話を聞いたことがありますが、植物も同じなんだなーと実感。

季節はどんどん梅雨に向かっているようですが、これからも、そんな中の修善寺の季節もの変化をあれこれ楽しめそうです。さて、今日はどんな変化にめぐりあえるでしょうか。

墓 修善寺温泉(伊豆市)

 山口市 瑠璃光寺境内にて

木々の緑が新緑からやや深い緑色にかわってきました。天気予報によれば、関東以西の地方では28度ほどにもなる日も増えてきているようですが、ふもとの修善寺では、最高でも25度くらいでしょうか。山の上にある我が家では、だいたいこれより2~3度低く、朝晩は結構涼しいというか、寒いくらいです。

最近、この別荘地から山麓の修禅寺や大仁(おおひと)に下る間道を何本もみつけ、散歩がてら麓まで下っては、また上って帰ってくるということを繰り返しています。その間道のうちのひとつは、すぐ近くの修善寺梅林という結構大きな公園を抜け、修善寺温泉街まで一直線に下ることのできる道です。

間道といっても、伊豆の観光協会? の方々がきれいに整備されていて、静かな杉木立に囲まれ、ときおり山間から流れ出る小川を横断して麓にいたる、とても気持ちのいい遊歩道。この散策道をほぼ直下の町までおりて、目前に修善寺温泉街がみえようかというところに、ひとつのお墓があります。

お墓の主は、安達盛長というひとで、源頼朝が蛭が小島というところに配流(はいる)されていたときからの家臣だそうです。気になったので、少しネットで調べてみると、このひとは、頼朝が鎌倉で挙兵する以前からの頼朝の重臣で、頼朝ののちの奥さんになる北条政子との恋愛の仲立ちをしたのも彼ということです。頼朝と政子は、相思相愛の仲になり、ある日、お父さんの北条時政の反対を押して頼朝の許に駆け落ちしていますが、もしかしたら、この駆け落ちのお膳立てなども盛長さんがしたのではないでしょうか。この話は面白そうなので、後日またいろいろ調べてブログにアップしてみましょう。

さて、こういうことがあったためか、頼朝からは厚い信頼を得ていただけでなく、盛長ご本人も頼朝さん大好き人間だったようです。頼朝が亡くなるまで仕え、頼朝の死後には出家までしています。政子もこの人に目をかけていたらしく、頼朝の死後、二代将軍の頼家に謀反の疑いをかけられたときには、これを北条政子が助けたのだとか。66歳で亡くなるまで、生涯官職に付く事がなかった、という記事もあり、篤実な性格だったのでしょう。

そういう人のお墓がなんでこんなところにあるんかなー、と少々不思議なのですが、謙虚な性格の人だっただけに、大道に面したところに墓を設けるでもなく、こうしたあまり人目につかないところにひっそりと埋葬されることを望んでいたのかもしれません・・・

たまたま出会ったお墓ですが、それをきっかけに伊豆の歴史を紐解くなかなか面白い事実などもわかり、ますます修善寺に住んでいるのが楽しくなってきました。鎌倉時代ごろの修禅寺がどんなところだったのか、想像してみるのもこれまた趣向があってよきもの。想像力をかきたてられます。

ところで、墓といえば、わが家のご先祖の菩提寺は金沢にあります。そのむかし越中富山から引っ越してきたらしく、屋号を越中屋といいます。呉服屋を営んでいましたが、明治の末期に没落して店をたたんでしまいました。しかし、店がなくなる前には結構繁盛していたようで、その頃の記録によると、金沢市への納税額はトップクラスだったようです。曾祖父は市会議員まで勤め、お店も繁盛してかなりの裕福だったようですが、その後なぜか家は傾いていき、やがては破産し、奥さんとも離婚し、その直後に若くして亡くなっています。そのあたりのストーリーは、このブログの親ページ、サイクロスのトップページにまとめてありますから、ご興味のある方はご覧になってみてください。

http://www.psycross.com/index.html#CHAPTER01

さて、この越中屋のお墓は、今も金沢市内にあります。金沢駅の西、駅からもさほど遠くない場所に知覚寺という浄土真宗のお寺がありますが、その境内の一角にひっそりと建っています。江戸時代に先祖が建てたものですが、実は、私がこのお墓に初めてお参りしたのは、ほんの7年ほど前のことです。このお墓を初めて訪れたとき、ちょっとした不思議なことがありましたので、そのことを書いてみたいと思います。

このお墓のことを知ったのは、まだ私が子供のころのことです。父からそういう古いお墓がある、ということを何度か聞かされていたものの、小さな子供がそんなものに興味を持つわけもなく、お墓参りといえば、どちらかといえば山口の母方のお墓がもっぱらでした。それも、親に促されていやいや行っていたようなところがありましたので、ましてわざわざ金沢まで行こうとは、かなり長じてまで思うことはありませんでした。

父でさえ、そのお墓に行ったのは、たぶん一回限りだと思います。それは、その昔、知覚寺のあった、金沢駅周辺の再開発のため、お寺とその墓所すべてが別の場所に移転したときだったようです。一応長男である父は、祖父に促されてその移転完了の落成式に参加したのです。その式には、檀家の多くが招待され、関西に住んでいる叔父や叔母などの主だった一族も父と一緒に式に参加しました。無論、私はまだ子供だったので連れて行ってもらっていません。知覚寺はその昔、もっと金沢駅すぐ近くの一等地にあり、江戸時代以降400年以上かの地で先祖の墓を守ってきましたが、市の方針による駅前再開発のため、移転を余儀なくされたようです。

その時の移転前と移転したあとのお墓の写真や、一族が一同に会した写真などを、父は生前どこかにしまいこんでいたようですが、母が父の死後それをみつけ、山口の実家に帰ったとき、こういうものを引き継ぐのはお前だから、と私に渡してくれました。しか、渡された私はその中身も詳しく吟味することもせず、しかも帰京する際、その資料を持ち帰るのを忘れ、それは長いこと山口におきっぱなしになっていました。その後も何度か山口の実家へ戻る機会もあり、ときにはそれを思い出すこともありましたが、そのころはまだ、子育てやら仕事のことなどやらでいろいろ多忙な時期でしたので、資料を整理するのももう少し落ち着いてからでいいや、と思い、ずーっとそのままになっていたのです。

8年ほど前のことです。先妻が子宮頸がんで逝ってしまったあと、こんどは父が脳こうそくで倒れ、さらに私も新しく始めた事業がうまくいかないなど、およそ明るい材料のできごとがなく、家の中もなにやら空気がよどんでいるかのような時期でした。

何か打開の糸口はないかなーと思っていましたら、その頃から、ちょうど江原啓之さんや細木数子さんの番組などが放送されるようになり、私のように人生がうまくいかない人をスピリチュアル的な観点から分析されていましたので、わたしも興味半分ながらこうした番組をよく見るようになりました。さらに、番組内では、お二人とも再三にわたってご先祖供養の大事さを説かれており、放送をみるにつけ、私もご先祖供養をしていないから、あまりいいことがないのかなーと思い始めました。

父が脳こうそくで倒れてから二年目の冬だったと思います。年末に息子と山口へ帰郷する際、東京から北陸を回って、クルマで金沢経由で山口まで帰ることを思い立ちました。これまで行ったこともない、先祖のお墓参りをしようと思ったのです。山口までは1000km近くあり、全部高速を使い、ノンストップでも13時間以上かかります。しかし、金沢あたりで一泊すれば、疲れはそれほどでもないだろうし、息子と二人で久々の気晴らしの旅行にもなるし、と思ったのです。

その日は、よく晴れた日でした。前日東京を出て、金沢効外の宿で一泊し、山口へ向かうその前に先祖のお墓へ向かうことにしました。その当時、もうカーナビゲーションが普及していて、私の車にも搭載されていました。しかし、お墓にまつわる資料はすべて、山口におきっぱなしになっていたので、お墓のある場所については、あいまいな町名しかわかりません。カーナビに頼ることもできず、あてずっぽうで寺を探しはじめましたが、わかるのは知覚寺という名前とだいたいの場所のみ。

まあなんとかなるさ、とタカをくくり、寺があるとおぼしきあたりをクルマでグルグル回ってみます。ところが探せど探せど目標のお寺はみつかりません。カーナビの地図にも、知覚寺という名前の該当はなく、同じところを何度も何度も回ってばかりいました。しばらく粘ってみましたが、やはりみあたらないので、とりあえず、お供えの花とお菓子を買おうと思い、今度はスーパーマーケットを探し始めました。ところが、今度はそのスーパーマーケットがみつからないのです。

30分ほど探し回ってようやくひとつの店をみつけましたが、その時はもうどこにいるのやらさっぱりわからなくなっており、ふたたびナビで、さっきまでいた町をナビで探す始末に。そうしていたところ、お花を買ったスーパーのすぐ近くに「卍」のお寺のマークがあるのに気がつきました。まさかなー、とは思ったものの、まあダメもとで行ってみるかぁ、と思い直し、スーパーから車を出しました。

目的地に近づくにつれ、田んぼの向こうのほうに何やら門のようなものが見えます。そして、近づいてみると、なんと、知覚寺!と書いてあるではありませんか。なんという偶然・・・しかし、スーパーで先にお供えを買おうと思わなければお寺は見つからなかったわけで、これはきっとご先祖様のお導きにちがいない、と喜んだものです。

これがこのときおこった最初の奇蹟です。偶然というべきかもしれませんが、このあとおこったことを思うと、私には奇蹟のように思えるので、あえて、奇蹟と呼ばせてもらいます。ところが、奇蹟はそれだけではありませんでした。

境内の中へ入り、お寺に隣接するご住職のお住まいの前に立ち、ごめんください、と声をかけたもののお返事はまったくありません。しばらく待っていましたが、だれも出てくる気配もなく、どうやらご不在のようです。困ったなーと思いましたが、それなら、勝手ながら先にお墓にお参りさせてもらおう、と思い墓地を探すことにしました。幸い墓地はお寺のすぐ裏手にみつかりましたが、今度は別の問題が発覚しました。ようやくたどり着いた墓地には、大小数百のお墓があるのですが、その中のどこにお墓があるのかわからないのです。かなり古いものも多く、文字が読み取れないほど風化したものもあり、もしそうしたものが我が家のものであるとすると見落としてしまう可能性があります。

実はそのころ私はご先祖の越中屋の屋号を、間違って記憶しており、それは「越喜屋」というものでした。亡くなった父が生前、口にしていた屋号で、なんでも彼によると、コシが喜ぶと書いて越喜屋というんだ。喜右衛門という人が建てたお墓らしいと言うのです。喜右衛門の「喜」の文字をとって、越喜屋かぁ。ともっともらしい名前ではあるので、その後もずーっとそれが本当の屋号だとおもっていました。父の記憶違いだったわけなのですが、この父の間違いにより、私の記憶に残ったいたのも、お墓のあるだいたいの場所と、あいまいなご先祖の名前だけとなりました。しかし、それでも墓所に着いたら、お寺の人にそのお墓がどこにあるのか聞けばいいし、なんとかなると思っていたのです。

しかし、実際に来てみると、お寺の方は不在のようですし、手がかりといえば、越喜屋喜右衛門という名前だけ。それでも名前がわかっているのだから・・・と探し始めたのですが、探しても探しても「越喜屋」と刻まれたお墓はありません。喜右衛門という名前は、この当時あまり珍しい名前でもなかったらしく、同じ名が刻まれたお墓はかなりたくさんありました。しかし、どれも屋号が全く違っており、もしかしたら父の記憶違いだったか、と思ったものの、もうあとの祭りです。その後も墓地の中を息子と二人で右往左往してお墓をさがしましたが、やはりみつかりません。ところが、「喜右衛門」の名前があるお墓の中に、ひとつだけ「越中屋喜右衛門建立」と書かれたものがありました。

最初みたときから、なんというか、妙に気になるお墓だったのですが、他のお墓と同様、屋号が違うので、これではないんだろうな、と思っていました。そしてあちらのお墓をさがし、また別の場所のお墓を探し、を繰り返していましたが、いつも最後にはそのお墓の前に帰ってきてしまうのです。

その後もどうしても越喜屋喜右衛門と書かれたお墓はみつからないので、最後には、もういいか、と思うようになりました。同じ喜右衛門さんだし、おやじが屋号を間違えていた可能性もある。万一間違えていたとしても、同じ金沢、同じお寺で同じ名前の喜右衛門さんが建てたお墓なんだから、何等かのご縁があってのこと。このお墓にお参りして帰っても罰はあたらんだろう。また、今度来たときに本当のお墓を探せばいいや、と、そのお墓にお供えをして帰ることにしたのです。

実は、それこそがわがご先祖様が建てたお墓だったのですが、これがこのお墓探しで起こった二番目の奇蹟です。何百とあるものの中から、それとは知らず、たまたま選んだものが、実は目的のものだったなどということは、そうそうないのではないでしょうか。

しかし、さらに奇蹟は続きます。

その日はピーカンの良いお天気でしたが、風が強く、知覚寺の隣には大きな商業ビルが建っていて、そのビル風の影響もあって、お墓の中にも風が吹き荒れています。違うかもしれないご先祖のお墓でも、ともかくお供えしてお線香をあげようと決めたので、手を合わせる前に線香に火をつけようとしたのですが、強い風にあおられてなかなか火がつきません。

あいにくローソクを持ってきておらず、手元には10本ほどしか中身がないマッチ箱だけ。破った新聞紙を焚き付けにしようとマッチをするのですが、その都度、突風が吹き、マッチを次々と吹き消してしまいます。一本、二本とマッチを擦るたびに風が炎を吹き消していき、ついには、最後の一本になってしまいました。周囲のお墓を見渡しましたが、芯が残っているようなローソクなどなく、あー、これに失敗したら、またさっきのスーパーに戻らんといかんなーとおもいました。

と、そのとき、それまでビュービューと電線を震わせるほどに吹いていた風が、急にピタッと止まったではありませんか。これがチャンス!と思い、擦ったマッチで燃え上がった火を新聞紙に移らせたところ、今度はうまくいき、大きな炎が広がります。うまいことに、それを束ねた線香にさらに燃え移らせるまで、風は止んでいてくれ、線香から白い煙が出るようになったとたん、また元の強い風が吹き始めました。

ふーん、不思議なこともあるもんだなーと、その時は思いました。しかし、後日、その墓がご先祖様のお墓であったことを知ったとき、よくよく考えてみれば、きっとあのとき、ご先祖様が子孫をあわれに思い、一時だけ、風を止めてくれたに違いない、と確信するようになりました・・・

これが、三つめの奇蹟です。

お供えのお菓子とお花を添え、お線香のにおいが漂う中、息子と二人でお墓の前で手を合わせ、ご先祖様への供養の念と今後の一族の繁栄を祈る中、今日このお墓に至るまでの出来事を反芻し、心の中ではもしかしたら、このお墓は本当にご先祖様のものかもしれない・・・と思ったものです。

その後、山口に帰り、しまいこんでいた父が残してくれた資料を開いたときは、さすがにあっ!と声を出してしまいました。そこには、まぎれもなく、あの時手を合わせてお祈りしたお墓の写真があったのです。そして親戚一同お墓の前に並び、記念写真を撮る父の姿も・・・

少し長くなりましたが、これが私のご先祖様のお墓へ初めてお参りに行ったときの出来事です。このお参り以降、機会があるたびに、金沢へ行き、お参りをするようになったのはいうまでもありません。その甲斐あってか、その後、タエさんとめぐりあって結婚し、息子も順調に高校、大学へと進み、さらに、ここ伊豆への移住に至るまでに恵まれた数々のラッキー・・・ そのすべてがご先祖様のおかげ・・・とまではいいません。しかし、先祖を敬う心を持ち、供養の念を保ち続けていれば、ご先祖様は必ずそれに答えてくれる、と、最近この出来事を思い出しては、そう思います。

そういえば、最近、お墓参りに行ってないなー。伊豆への移住騒動もあり、なかなか金沢へ行く機会もなく、ここ数年はお墓参りしていないのです。でもきっとご先祖様はおこってなんかいないと思います。その時がくれば、必ず金沢への道を開いてくれると思うのです。

皆さんはいかがですか? 最近、ご先祖供養をされていますか?

メッセージ 2

 父が晩年を過ごした山口 一の坂川の風景

昨夜、テレビを見ていたら、森昌子さんが出演されている番組がありました。出演者のお悩みに、人生相談の経験豊かなお坊さんが答えるという形式のものでしたが、森さんのお悩みとは、亡くなったお父さんが最後に言いたかったことは何か知りたいというものでした。

なんでも、森さんが長年休業していた歌手業に復帰する際、その報道発表のためのインタビューに答え終わったと同時にお父さんが亡くなったとのこと。お父さんは森さんに幼いころから、歌の指導をし、親子以上に仲のよかった方のようです。しかし、亡くなる数年前に脳溢血のために倒れ、意識はなく、ベッドに寝たきりになっていたとのこと。森さんや家族がいくら話かけても反応はなく、おそらく、その状態ではいくら森さんが、歌手復帰のことを話しかけたとしても、そのことは理解していなかっただろうと思われます。ただ、森さんは、もちろん、わかっていなかっただろうが、もし倒れる前だったらなんと言ってくれただろう、もしかしたら意識がない中でもそのことを知っていたかもしれないと思うのだが、本当はどうだったんだろう、教えてほしい、という内容でした。

歌手復帰の報道発表のあと、森さんは、お父さんが亡くなったことを知り、病院にかけつけて、その夜は一晩中霊安室でまるでまだお父さんが生きているかのように、ご遺体に話しかけられていたとのことです。一晩が明け、翌朝も、森さんがお父さんに向かって話しかけていたときのこと。ちょうどその日のスポーツ紙が届き、その表紙には、森さんの歌手復帰の報道インタビュー発表の様子が写真入りで報じられていました。それを見た森さんは、新聞をご遺体に向かって見せながら、ほら、こうして復帰したよ、本当だったでしょう、ちゃんと見て!と話しかけていたそうです。するとなんと突然、お父さんが目を見開いて、新聞のほうをまじまじと見た!というのです。

森さんは、やはりお父さんは生きていた!と思い、急いでお医者さんを呼んだところ、かけつけてきたその主治医は驚きもせず、遺体の目に手をあてて、見開いた目を閉じました。そして、やはり亡くなっています、と静かにおっしゃったそうです。おそらくは死後硬直か何かの反応で目を見開かれ、その瞬間が森さんが新聞を掲げた瞬間と偶然のように一致したのだと思います。しかし、森さんにはやはりお父さんは生きていた、としか信じられなかったようです。死が現実だということがわかったあとも、そのことが気にかかっていて、本当はお父さんは霊的には生きていて、歌手に復活したことを、遺体の目を見開かせることで、「わかっている」と示したかったんだと、思っているご様子でした。

しかし、「わかっていた」として、私に何が言いたかっただろうか、というのがその番組でのお坊さんたちへの問でした。これに対して、それぞれのお坊さんのご意見はいろいろでしたが、やはりわかっていただろう、とおっしゃる方が多く、森さんの歌手復帰を喜んでいただろう、その喜びを口にしただろう、という意見が多かったようです。そのおひとりに、お坊さんでありながら、納棺師もやっていて、多くのご遺体をお納めしてきた、という方がいました。その方が、こういう意味のことをおっしゃいました。曰く、あの世に旅立たれた方で、生前の人生を良い形で全うされた方は、死後も自分の人生が満足で良いものだったということや、残された遺族に望むことなどを何等かの形で示されることが多い・・・と。

そのお坊さんは、ほかにも亡くなられた方が、死後、まるでまだ生きているような、さまざまな様子を見せるのをこの目でみてきた、とおっしゃいます。具体的にはどんなことなのか、お話になりませんでしたが、私が知っているところでは、ご遺体の前に線香がわりに立てていたタバコに火をつけたところ、まるで誰かが吸っているように燃え上がり、みるみる間に灰になっていった、というお話などがあります。

この番組をみていて、私の脳裏を横切ったのは、私の父親のこと。やはり、脳こうそくを発症し、一命をとりとめたものの半身不随になり、山口のリハビリ病院に入院していましたが、4年ほど前に亡くなりました。私の父は、森さんのお父さんとは違い、半身不随でも言葉は出ていましたが、脳こうそくによって知識中枢がやられたのか、正常な会話はできず、見舞いに行っても幼児と話しているのかと思えるような程度の会話しかできませんでした。

その父が亡くなる直前のことです。私が卒業した広島の高校の卒業時のクラス同窓会を30年ぶりにやろう、という声があがりました。私は幹事ではなかったものの、あちこちに散らばった同窓生に声をかけ、参加を呼び掛ける中心的な役割をしていました。30年ぶりの同窓会は、父の亡くなった12月の翌月正月に、母校に一同が参集して行おうということになり、連絡先がわかっている人は、わからない人を手分けして探し始めました。その結果、数人を除いてほとんどの人の消息がわかり、しかも、その当時の恩師もご存命ということがわかりました。30年もの間、音信不通だったにもかかわらず、同窓会の企画は、かつての同窓生の間でおおいに盛り上がり、結果的にいえば、クラス総勢50数人のうちの40数人が集まるという大盛況で終わりました。

それにさかのぼる数か月前のこと、私は、音信不通になっていた同窓生のひとりである、タエさんを探し当て、その後、電話やメールで頻繁に連絡をとるようになっていました。ご両親を亡くし、一人っ子で独身だった彼女と、先妻を亡くして一人身だった私は、それぞれのことを意識していました。しかし、同窓会を前にささいなことでぎくしゃくした関係になっており、同窓会のひと月ほどは全くの音信不通になっていました。

同窓生の間では、30年ぶりの同窓会を盛り上げようということで、クラス専用のホームページまで立ち上がっており、その中でお互いの近況を披露しあったり、それまで連絡がつかなかったクラスメートと掲示板でのやりとりをするなど、こちらもおおいに盛り上がっていました。この中でもタエさんとの交流は途絶えたままでしたが、このときはお互いに意地を張って書き込みを避けていたように思います。

そして・・・同窓会が行われる1月3日に先立つ12月の10日のことです。山口の母親から一本の電話が入りました。突然、父が亡くなったという知らせです。実は、その年の夏、私は息子を連れて山口に帰郷し、病院にも母同伴で父を見舞いに行きました。そのとき、母づてに病院側から聞いた話では、父の容体は何の問題もなく、食事もよくとっていて、まだまだ大丈夫、ということでした。それがにわかに亡くなった、というのは正直驚きでしたが、ともかく驚いているもなにも帰郷、ということになり、その晩、クルマで夜通し高速道路をとばし、山口の実家まで帰ったのです。

父の死因は脳こうそくの再発だったらしいのですが、直前体調を崩していたとか食が細かったとかいうことはなかったそうで、血圧なども正常だったようです。それが突然亡くなったというのはにわかに信じがたいことでしたが、もうすでに80歳を超えており、寝たきりの状態が長く続いていたこともあって覚悟はしていました。再三遠くの病院まで看病のために足を運んでいた母への負担も軽くなるだろうことも考えると、大往生だったのだし、と正直涙も出ませんでした。

しかし、その突然の死がどういう意味だったのか、については、森さんと同様、後日やはり考えさせられることになります。

父の死の直後、盛り上がっていたクラス同窓会のホームページの掲示板に、その後音信不通だったタエさんから私へのメッセージが書かれていたのを知ったのは、私が東京から山口へ帰郷した日の翌日のことです。知らせてくれたのは同じ同窓生で東京在住の女性ですが、かねてより二人のことを気にかけてくれていて、タエさんからメッセージが届いているよ、と電話してくれたのです。

そのタエさんからのメッセージは私の父親へのお悔やみと、夜通し車を運転して帰った私を心配する内容でしたが、後日、私がそれに対するお礼を書いたことは言うまでもありません。そして、これがきっかけで、タエさんとの関係が修復されることになったのです。

父の葬式が終わり、四十九日もまだ迎えていませんでしたが、翌年の正月、母校での30年ぶりの同窓会へはそのまま出席しました。そして、同窓会の翌日にはなんと、タエさんとの初デートが実現し、そしてその後の結婚につながっていくことになったのです・・・

実はこの話には、まだまだ書き足したいところがあるのですが、その後の結婚に至るまでのおろのけ? などはまたおいおい書いていくことにしましょう。

そして、今日書きたかったことは、タエさんとの結婚は、実は父がその死をもって画策したことなのではなかったか・・・ということ。

森さんと同様、父の死に際には会えませんでしたが、最後に何か言いたかったことがあるとすれば、やはりいつまでも一人でいないで、再婚しろ、ということだったように思うのです。脳こうそくで倒れたあと、正常な思考のできない中でもそうした意識があったとすれば、うーん息子のために、そろそろ死んでやらんといかんなー、と思っていたのではないか、と。

脳の機能が停止し、外見からは正常に見えない人でも実は意識そのものは正常なのだという人がいます。スピリチュアル的には、眠っているように見えていても霊界と常に行き来し、正確に彼我の環境を把握しているものだ、という話を以前読んだことがあります。脳こうそくで倒れ、意識が正常でないように見えた父も、そのようにして霊界で私たちのことを知り、二人をくっつけようとしたのではないか、とどうもそのような気がするのです。

森さんの話に端を発し、父の思い出話などを長々と書きましたが、父だけでなく、そういう話はほかにもいろいろあります。そうした話はまたおいおい書いていくとして、その父は今、私の守護霊として私を守ってくれている、ということを後日知りました。このことについても、また書いていこうと思いますが、同じようなことがみなさんにもひとつや二つあるのではないかと思います。

私と父のエピソードをどうお考えになるかは別として、みなさんも故人の亡くなった意味と今何が言いたいかについて、時にはじっくり考えてみる時間をつくってみてはいかがでしょうか。