おみくじ 福引 あみだくじ……

参議院選挙が終わりました。

自民党の圧勝という大方の予想通りの結果でしたが、もう少し民主党が頑張るかと思いきや、惨敗ということで、改めて前回担った政権でのふがいなさへの国民の怒りが反映されたかたちです。

しかし、投票率は戦後三番目の低さということで、このことから、投票場へ行かなかった人たちの中には、自民党へ投票したくないけれども、かといって民主党へは入れる気にもなれず、他には後押ししたい政党もなく、仕方なく棄権……という人も多かったのではないでしょうか。

とはいえ、投票した人の中で自民党が多かったのは確かであり、これは、これまでそれなりに成果をあげてきたアベノミクスへの評価とも見るべきかもしれません。

が、勝った自民党も、この投票率の低さを真摯にみて、けっしてすべての国民に肯定されたなどと奢らず、また、かつて自らが民主党政権に打倒されて凋落したときの理由は何だったかを思い出して、今後の政権運営に当たってほしいと思います。

……と、珍しく政治に関しての感想など書いてしまいましたが、このコラムではなるべく政治がらみのことは意識して書かないようにしています。右でも左でも上でも下でもなく、常に中立な立ち位置で物事を考えたいと思っているためでもあります。

などと書くと、なーんだ、ちゅうぶらりんなだけで、自分の意見が言えないのだろう、と言われてもしかたがないので、時には真面目なことも書こうかとも思いますが、今日はやめておきましょう。天気もぱっとせず、気分も乗らないので(結局書く気がない……)。

さて、選挙のことについて書き始めてしまったので、改めて、この選挙とは何ぞやと調べてみました。

言うまでもなく、選挙とは公職に就任する者を選定する行為であり、現代の選挙は投票によって行われることが多いのですが、古くは地方の議員選出などで挙手や起立、喝采などの方法で採決が行われたこともあったようです。

しかし、現在ではやはり投票所に行って票を投じる、という形式が主流となっています。その理由はなんといっても記名投票であれば、ごまかしがきかず、公平性が保てるからでしょう。挙手や喝采では、人数の把握が正確ではなく、多数の有権者を対象とする場合にはさらに不確実性が増します。

こうして1890年(明治23年)に第一回の衆議院議員総選挙が投票で行われて以来、国政選挙などの重要選挙は投票によって行われるというのが普通になっていきました。

それでは、どんな選挙があるかといえば、投票者を誰に置くか、という観点からその分類をみると、選挙には、公選、官選、互選などがあります。

公選とは、今回の参議院選挙などの国会議員などの選挙に見られるように、一般の有権者の投票によって選出する方式で、民選とも言うようです。また、官選とは、日本の政令指定都市の区長に見られるように、国家などの行政機関の指名によって選出する方式です。必ずしも投票で行われるわけではなく、挙手や起立だけで決められる場合もあります。

互選というのは、内閣総理大臣の指名投票がもっともわかりやすい例です。国会議員などの国民の代表者だけで行う投票によって選出する方式で、バチカン市国におけるコンクラーベもカトリック信者のうちの偉い人だけが集まって教皇を選出します。

ところで、投票者による選挙の分類ということになると、もうひとつ、「くじ引き」という方法があります。

くじなどを利用して、立候補者毎に等しい確率で当選者を選出する方式であり、定数が何人であろうと当選者の勢力比の期待値は被選挙権行使者の人口比と完全に等しくなり、よくよく考えてみれば、非常に公平な方式です。

古代ギリシアや室町幕府の将軍の選出などに例があり、室町幕府の場合には、このくじ引きによって、足利義教が第6代目の将軍に選ばれました。

そんなもの現在の日本で行われているわけないよ、と思う人もいるかもしれませんが、日本の公職選挙法にはきちんとくじ引きによる規定が書いてあります。例えば地方自治体の議会では、選挙終了後初めて行う本会議では議長選出選挙を行いますが、その際、最多得票者が複数いて同数の場合はくじ引きとなります。

くじによって「当たる」裁判員制度

このほか、日本だけでなくほかの国でも「陪審員」を選ぶ際などには、得票数が全く同じ場合などには決選投票を行わず、くじ引きで当選人を決定することになっているそうです。

陪審員は、日本の場合では、検察審査員や裁判員のことをさします。検察審査員というのは、検察官が不正をやっていないかを判断するための審査員で、くじによって無作為に選出された国民がこの役割を担います。裁判員のほうは、検察官ではなく、一般人を裁く裁判における審査員を同じく一般国民から選ぶもので、こちらもくじによって選ばれます。

では、よく耳にするこの陪審員と裁判員は何が違うのでしょうか。これは、その昔「陪審員制度」という、アメリカなどで採用されている裁判制度を日本も採りいれていた時代があり、裁判員のことも陪審員と呼んでいたためであり、その名残で現在でもよく混同されて使われるのです。

日本では1923年(大正12年)に陪審法が制定され、1928年(昭和3年)から陪審制度による刑事裁判が行なわれていました。しかし、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、陪審法は施行が停止され、今日に至っています。

アメリカでの陪審員制度での陪審員に課された責務は、被告が有罪か無罪かという事を、検察や弁護側などが集めた証拠と情報をもとに判断して決めることだけです。陪審員は、「①事実認定」を行うだけで、「②量刑」と「③法律的な評価」を決定するのは、裁判官です。

陪審員制度の場合には、一般市民でも十分に判断できるような材料が事前に揃えられていて、これらの証拠をもとにして裁判官から独立して有罪無罪を判断することが多いようです。

ただ、アメリカの場合は、陪審員制度を採用しているとはいえ、裁判官がすべてを裁量する裁判官裁判も併用されていて、被告が陪審員裁判か裁判官裁判のどちらかを選ぶ権利が与えられています。

日本では、陪審員制度が1943年(昭和18年)に停止されて以来、裁判官裁判だけでした。ところが、2009年(平成21年)に66年ぶりに、刑事裁判制度への市民参加制度が復活することとなり、新たに陪審員制度に代わって導入されたのが「裁判員制度」です。

この日本の裁判員制度では、アメリカのように被告が裁判手法を選ぶことはできず、裁判員裁判しか選べません。ただし、今のところ民事裁判や行政裁判などには適用されておらず、刑事事件を扱う裁判だけで採用されています。

また、裁判員に課されている責務としては、有罪か無罪かを決めることだけではなくて、被告の量刑まで判断する必要があり、このため、その判断基準となる証拠の吟味から始めなくてはなりません。

しかし、日本の裁判員制度は、裁判官が一緒になって、量刑を確定するまでの「①事実認定」をする裁判員を補佐してくれることになっています。

この点が陪審員だけで事実認定をするアメリカと違うところです。その分「らくちん」とはいえますが、ただし、日本では裁判員が②の量刑決定をも行なわなければなりません。裁判官が単独で行うのは③の法律評価だけになっています。

この裁判員制度は、法律的知識と経験のない一般市民には非常に大きな負担にもなりかねないともいわれますが、他国にもあまり例をみない、日本独自の制度だそうで、政府筋を中心としてこれを世界に誇れるものだ、と自慢する人も多いようです。

しかし、これを真に受け、この導入によって、日本もようやくアメリカと同じように陪審員制度が取り入れられていて先進的になった、と考えている人も多いかと思いますが、そこのところはちょっと違います。

今のところ、一般国民からの参加が求められた裁判員が扱うのは刑事事件だけであり、アメリカのように民事裁判での陪審員制度が認められていませんし、欧米の陪審員制度のように事前に集められた詳細な資料をもとに詳しい説明等を受けることもできない点は、むしろ遅れているといえます。

証拠を人に揃えてもらえる陪審員制度に比べて、「量刑」を下さなければならない点でも裁判員にとっては大きな負担であり、裁判員制度によって裁判員になった民間人は、陪審員制度での陪審員よりさらに高度な判断が必要とされるわけです。ただ、その分、裁判所の人がサポートしてくれるというのは心強いことではありますが。

それにしても、裁判については全くの素人である一般人が高度な判断をする裁判員となるわけであり、検察や裁判官の意見や心象に傾いてしまう危険も指摘されています。

普段の生活とはうってかわったこういう公的な場所に引き出され、重い判断をしなくてはならない裁判員制度には、やや否定的な声もあり、導入された現在もいまだに賛否両論こもごもです。

ただ、いずれの制度に一長一短はあるようです。陪審員制度との相違点という観点から現行の裁判員制度を見ていくと悪い面も目につきますが、良い点もいろいろあるようです。

なので、新しい裁判員制度を否定するばかりではなく、もしかしたら、「くじ」に当たって自分が裁判員になる日も来るかもしれない場合に備え、その仕組みについてはこうした違いなども知った上で、よく理解しておけば、「貧乏くじ」に当たったとがっかりすることもないでしょう。

くじの歴史

ところで、この「くじ」というのも、考えてみれば不思議なしくみです。

いったい誰が考えたのだろう、と調べてみたのですが、無論わかるわけはありません。が、古くは古代アテネで、公職者選出のためにすでにくじが利用されていたそうで、リーダー的な人などは除いて、人気のある一部の公職は、希望する市民の中からくじで選ばれていたようです。

日本では、文献に出てくる限りでは、前述のように鎌倉幕府の将軍選びに使われたものが一番古いようです。

このころ、室町幕府4代将軍の足利義持がその在職中に、将軍の座を実子の義量(よしかず)に譲り、5代将軍が誕生しました。しかし、この義量は子供のころから疱瘡を患うなどかなり病弱だったようで、将軍職を継いでからすぐにわずか17歳の若さで死去してしまいました。

酒の飲みすぎで死んだのではないかと言われておおり、15歳の時、父の義持に大酒を戒められ、近臣は義量に酒を勧めないよう起請文をとられたという話なども伝えられています。

こうして将軍義量に先立たれてしまったあと、前将軍の義持が実権を持ち続けていましたが、自らが再度将軍職に就こうとはせず、そうこうしているうちに、息子の死から3年ほど経った42歳のとき、浴室で尻の傷を掻きむしって感染症にかかり、これが原因で重態に陥りました。

臣下の武将たちが後継者を定めるよう、改めて義持に懇願したのですが、義持はこれを拒否し、部下たちがこれを評議して定めるように命じます。群臣たちの評議の結果、義持の下にいた4人の弟のうちの一人を籤引きで定めることが決まり、義持もこれを了承しました

義持が後継を指名しなかった理由としては、息子の義量が死んだあとに、一度石清水八幡宮で籤(みくじ)を引き、その際に男児誕生の結果が出、さらにその日には男児誕生の夢を見たのが理由だったそうです。

このため「もう一度籤を引くことは神慮に背くことになる」と語り、義持自らがくじをひくことを渋ったといいます。

これはどういうことかというと、自分は石清水八幡宮で一度くじを引いており、そのご宣託によって男児が誕生すると信じており、臣下らが作ったくじを自らが引いて新しい将軍を決めるということは、最初のご宣託で示された神の意思を邪険にすることになり、これをやってしまうと世継ぎを新たに得ることはできなくなる可能性もある、と考えたのです。

こうして説明書きを書いていてもわけのわからない論理であり、律儀というか、バカというか、つまりはそういう政治的決断をする能力のない人物だったのでしょう。

このため、結局はこのくじは、部下たちに引かせることになったわけですが、それにしても国政の場で選ぶリーダーをくじによって、しかも部下にそれを選ばせることで決めるとは、将軍も舐められたものです。

しかも、義持は自分が生きているうちは、くじを引くな、と指示したため、将軍職の決定はこうして義持の死後にまで持ち越されることになりました。ただ、幕閣の家臣たちはこれに逆らって彼の死の前にその面前で籤を引いており、義持の死後にこれを開封しています。

こうして、義持の死後、石清水八幡宮において神籤会が催され、義持の弟の中から3男として生まれたために門跡に入ることを強いられ、このため京都東山の青蓮院に入り「義円」と名乗っていた人物が選ばれ、のちの6代将軍、足利義教となりました。

しかし、そんな天下のリーダーをくじで決めているような政権が長続きするわけはなく、この義教から二代あとの、8代将軍足利義政の代には継嗣争いが起こるようになり、これが発端となって室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの有力守護大名が争う、かの有名な応仁の乱が勃発しました。

やがてこの乱は九州など一部の地方を除く全国に拡大していくことで、室町幕府はどんどん衰退していきました。そして、将軍の権威が失墜すると、その配下の守護大名同士も反目しあうようになってお互いを食いつぶし、その間、国人と呼ばれる在地支配層が台頭していきました。

これらの国人勢力も互いに整理統合されながら、新たに強力な戦国大名が成長し、これが群雄割拠して幕府支配に取って代わるようになり、以後の戦国時代への流れを作っていく事になるのです。

さすがにその後の日本の歴史では、これほど国勢を左右するような場でくじが使われるようなことはなくなりました。そのかわり血で血を洗う凄惨な戦いが長く続き、徳川幕府が成立するまでの中世にこの国は大きく荒廃しました。そう考えると、くじによるリーダー選びのほうがまだましだったかもしれません。

その後の徳川幕府はさすがにくじで将軍を選ぶほど馬鹿ではなく、国を外に向かって閉ざすという暴挙は行ったものの、かえってこれが世界にも類をみないほどの独特の文化をつくることになり、その後265年もの長き間の安泰が続きました。この間、くじによる政治判断というのはほとんど行われることはなかったようです。

が、明治になって西洋の選挙制度が導入されるようになると、くじは再び政治の中でもしばしば使われるようになってきました。以来、現在に至るまで、政治の世界ではごくたまにくじによってリーダーを決められるというシーンがみられます。

例えば、衆議院と参議院の両院協議会の初会の議長の決定でもくじが使われるそうです。各議院の協議委員において、それぞれ互選された両院協議会の議長の初会の議長はくじによって決定すると「国会法」で決められており、実際にそうやって議長が決められています。

このほかにも内閣総理大臣指名選挙というものがあります。

内閣総理大臣は、前述のように議員同士の互選による指名選挙で決められますが、上位2名による決選投票でも獲得数が同数の場合はくじ引きとなります。その方法は、黒玉と白玉を銀紙に包み、それを抽選箱に入れ引いてもらい、黒玉を引いたものがその院における内閣総理大臣指名となると決められているといいます。

ただし、これまで内閣総理大臣指名選挙において、抽選で総理大臣の指名が決まった例は1度もないそうです。が、一度はこういう選挙をみてみたいかも。

また、地方公共団体の長に事故があるとき又は欠けたときの職務代理者、つまり副知事あるいは副市町村長の決定にくじが使われるそうです。ただし、これはその長が代理の順序をあらかじめ定めておらず、また、職務代理者の間での席次の上下が明らかでなく、さらに年齢が同じである場合に限るそうです。

地方自治体の長がくじによって選ばれたというのはあまり頻繁にあることではないでしょうが、過去にはおそらく、長が事故や病気で急死したために後継がくじによって決められた事例もあったかと思われます。詳細には調べていませんが。

宝くじ

さて、現代ではこのくじは、政治の世界以外でも良く使われます。プロ野球のドラフト会議が最も有名なものですし、東京大学の総長選挙でもかつてくじが使われたことがあるそうです。

これは、1989年(平成元年)に行われた総長選挙でのことであり、この選挙は激戦となり、理学部有馬朗人教授と教養学部本間長世教授との間で行われた決選投票で、ともに586票の同数を得て勝負がきませんでした。

しかし、大学の選考内規には、こうした場合にはくじ引きによると明記されており、その結果、有馬教授が第24代東京大学総長に決定したそうです。

このほか、一般大衆に浸透しているくじといえば、おみくじ、あみだくじ、福引などがありますが、やはり、人気一番は宝くじでしょう。

古くは「富籤(とみくじ)」と呼ばれ、950年ほど前の鎌倉時代の文書には既に、大阪府の箕面市にある瀧安寺の「箕面富」というものに関する記述があるそうで、これは金銭の当たる籤ではなく、弁財天の御守「本尊弁財天御守」が当たるといったものだったようです。

富籤は「頼母子(たのもし)」または、「無尽」とよばれる、一種の金融の形態が変化したものだともいわれています。無尽とは、複数の個人や法人等が「講」等の組織に加盟して、金品を定期又は不定期にこれらの講に払い込み、その利息額としての金品を、競り合いや抽選で受け取っていたものです。

しかし、出資者数が少ない場合には獲得額に限度があり、射幸心を充分には満足させられないなどの問題がありました。このため債権金額を大きくし、しかも債務関係が1回限りとすることなどで、より大きな配分額が得られる「富籤」という方法が案出されるようになりました。

ようするに今の宝くじと同じで、人気が出ればたくさんの人が出資してくれ、さらに抽選回数を少なくすれば、当てられてしまったときの出資金額は少なくて済みます。くじを引く人にとっては、回数は少なくなるものの、当たれば金額も大きいためワクワク感満載、というわけで、今の時代のものとその本質は全く変わりません。

しかし、富籤そのものは、これとは別に発達したものです。「富会」といわれ新年の縁起物としての行事として行われていたもので、自身の名前を書いた木札を納めその中から「きり」で突いて抽選したのが始まりと言われています。

当選者はお守りが貰えただけでしたが、やがて前述の無尽とも結びつき、次第に金銭が副賞となり、やがては賭博としての資金収集の手段となっていきました。

江戸時代には、公儀の許可を得た寺社が勧進のためという理由で富籤を発売していましたが、明治になり刑法が制定されて、一律禁止となりました。

しかし、第二次世界大戦中の1945年7月には、国が「戦費調達」という理由で「福券」や「勝札」という名前で発売し、復活しています。 物資不足のため、副賞の賞品は、タバコやカナキン(キャラコともいわれる純綿の綿織布)などだったそうですが、その後敗戦してしまったため、とうとう抽選は行われることはありませんでした。

しかし、戦後、1948年(昭和23年)に「当選金付証票法」によって地方公共団体が宝くじを発売することが許可され、「宝くじ」の名前を得て復活。このときの副賞の賞品は住宅一棟だったそうです。

この段階ではまだ政府が宝くじを発行していましたが、1954年(昭和29年)には政府がくじを発行する制度を廃止。その後、1964年(昭和39年)に財団法人日本宝くじ協会を発足させ、ご存知のとおり、以後は宝くじの発行手続きはここが一手に担っています。

その後、当選金は徐々にエスカレートし、1968年(昭和43年)には一等の当せん金が1000万円だったものが、1987年(昭和62年)には6000万円になり、1996年(平成8年)にはついに、1等の当選金が1億円に達しました。

昨年の2012年に発売された「東日本大震災復興宝くじ」では、1等の当選金はついに3億円になり、4月には、「当選金付証票法」が更に改正されました。

これにより、当選金の最高額がそれまでは額面の100万倍だったものが、250万倍にまではねあがり、その適用第1号となった「サマージャンボ宝くじ」で1等の当せん金はなんと、4億円に達しています。

今年から新たに発売された「ロト7」では、1等当選金はついに、史上最高の8億円に達し、5月17日に行われた抽選では3口の当選者が出て、このうちの2口は香川県観音寺市の宝くじ売り場から出たということが新聞にも報道されて、この売場は一躍有名になりました。

私自身は、ギャンブルはやらない主義であり、パチンコはもとより、賭け麻雀、ポーカーの類も一切やりません。宝くじも自ら買ったことはなく、何かのパーティーで、ビンゴで当たり、貰ったことがあるくらいで、無論、このくじは当たりませんでしたが、自分の運なんてそんなもんだろう、と思っています。

ケチ臭いやつだ、と思われるかもしれませんが、人間には性というものがあります。私の場合、前世でさんざんギャンブルをやって、相当にひどい目にあったので、現生ではそちら方面には興味が行かないようになっているのだと信じています。

が、我が奥様はどちらかといえばお好きなようで、といっても発売されるたびに買うというほどのマニアでもないようですが、時折買っていらっしゃいます。が、ご自分の小遣いで買われているようなので、こちらも文句を言う筋合いはありません。

前に確か、一万円だか何がしかの額があたったことがあり、その収益の一部でご馳走していただいたような記憶もあるので、これに味を占め、いまさらやめろという気もありません。

が、自分ではやろうとは思いません。というのも、生来の性癖もありますが、その収益金の一部は無駄に使われているという感覚がどうしてもあるからです。

この宝くじの購買による収益金ですが、その発券事務などは前述の財団法人宝くじ協会がやっているものの、「発売元」は都道府県などの自治体と政令指定都市だけということになっており、当せん金支払い分と財団への事務経費を差し引いた残りである宝くじの収益金は、すべて発売元の自治体の収入になります。

サマージャンボ宝くじなどの一部の例外はあるものの、政令指定都市で販売された分についてはその全額がその政令指定都市の収益となり、それ以外の市区町村で販売された分についてもこの市区町村が属する都道府県に、それぞれ納められます。

ということは、例えば仙台市内の発売所で発売したロト6の収益金は政令指定都市である仙台市のものとなり、仙台市周辺のこれ以外の市町村の発売したものは、宮城県の収益になります。

収益金の使い道は法律で決められており、主にいわゆる「箱もの」整備の財源に税金の代わりとして使われていますが、最近では、高齢者福祉などいわゆる「中身」事業の財源に充てられるケースもあります。

じゃあ、政令指定都市ではない一般市町村にはまったくお金が行きわたらないかといえばそうでもなく、都道府県から、各市区町村における売上げ実績や財政状態などに応じて、各市区町村に「市町村振興補助金」として分配されるそうです。

したがって、市区町村の中には、日常から広報誌で宝くじの宣伝を行うところも多く、ジャンボ宝くじの時期になると、「○○ジャンボ宝くじは○○市内の売り場で買いましょう」と、非常にうるさくそのキャッチフレーズを広報に載せるケースも多いようです。

宝くじの収益金が黙っていても入る政令指定都市に比べ、そのすぐ側にあっても、県からのお情けがなければ、そのおこぼれをいただけない一般市町村にとっては死活問題化であるためです。

が、必死になるのはわかるのですが、いやしくも公務員たるものが、おおっぴらにギャンブルを広めている姿というのは、あまり印象が良いものではありません。

加えて最近の宝くじのコマーシャルは限度を超えているようにも思います。

繰り返し繰り返し同じコマーシャルを流せるのはそれだけ人気があり、それなりの収入があるからでしょうが、この不況下で頑張っても収益があがらない企業がいっぱいあるというのに、それを尻目に有名俳優やミュージシャンを使って大々的なコマーシャルを打つ神経には呆れてしまいます。

とはいえ、2008年度の宝くじ売り上げは1兆419億円にも上ったそうで、その内訳は当選金45.7%、経費14.2%であり、残りの40.1%が収益金として自治体に配布されたそうです。自治体へ570億円近い収益金が流れたことになり、無視できない数字です。

この不況下に税金収入の少ない地方自治体にとってはなくてはならない財源でしょう。ここのところは黙って目をつぶってあげてもしかたないかな、とは思います。

しかし、さらにこのうちの「経費」は、日本宝くじ協会、自治総合センターの2公益法人へ流れており、自治体の収益金からはさらに、全国市町村振興協会、自治体国際化協会、地域創造、自治体衛星通信機構などの4公益法人へ事業資金が拠出されているそうです。

これら6公益法人の歴代理事長43人全員が所管の旧自治省、総務省からの天下りであることが明らかになっているそうで、その収益を上げたのが地方の市町村であるとすれば、こうした官公庁総ぐるみで彼らの豊かな生活を支援してさしあげているにほかなりません。

しかも全国各地に作られていて、無駄であると指摘のある「箱もの」の建設費の多くは、これらの法人へ経費として払われたものの中から支出されたものも多く、さらに我々がよく公園でみる遊具などでもときおり、これらの法人の名前を目にすることがあります。

必要なものなら文句はいいません。が、誰も訪れることのないような寂びれた公園に泥にまみれて誰にも見向きもされない、誰も掃除をしないベンチや遊具がどれだけたくさんあるでしょうか。

私が宝くじを買わないのはそうしたことが理由でもあります。

さて、政治がらみの話はあまりしたくない、といいながら、最後のほうはそんな話になってしまいました。

選挙の話などをすればおのずからそうならざるを得ないのは予感していましたが、ま、仕方がないといえば仕方がないか。時にはこうした政治向きの話も良いかもしれません。

が、そうした話をできるだけしなくて済むよう、自民党さんには頑張って欲しいもの。先行き不安ではありますが、いまは信頼していくしか仕方がなさそうです。

ちなみに私は……○○党に入れました。自民党でないのだけは確かです。みなさんはどちらに投票されたでしょうか。それ以前の問題として、投票場に行きましたか?

細胞の記憶


先日、お気に入りの番組のひとつである、NHKの「コズミック・フロント」をみていました。この日の内容は、今年6月、世界最古の天文盤としてユネスコの世界記憶遺産に登録された「ネブラ・スカイディスク」に関してのもの。

10年ほど前に、ドイツのネブラという町の郊外、ミッテルベルク山の頂上付近で、ある二人組が第二次世界大戦中の遺物を探そうと、金属探知機を使って周囲を探していたところ、土の中から偶然に見つけました。

見つけたのは直径30cmほどの青銅盤で、表には金でかたどった満月と三日月、そして32個の星が描かれていました。ドイツのこうした山奥には古い時代の遺跡も良く埋まっており、こうした行為は「盗掘」とみなされます。このため、この二人も見つけたこのディスクを闇ルートで流して換金しようとします。

しかし、なかなか売れず、そのうちこのディスクが売りに出されているという噂を聞きつけたある考古学者が犯人と接触。購入交渉にまでこぎつけますが、実はこの取引は彼が警察に通報したのち、警察からのアドバイスで仕組まれた「おとり捜査」でした。

この結果、犯人は見事御用となり、この天文盤は、ドイツ政府の所有物となったため、のちに天文学者や考古学者、歴史学者までも加わって分析が行われることになりました。その結果、天文盤は、今から3600年も前の紀元前1600年ころに制作され、これまでの常識を超える高度な天文知識が刻まれていることがわかりました。

夏至や冬至の太陽の位置、そして暦を修正するために、3年に1度、うるう月を入れる方法までも記されており、ディスクに描かれていた星々の一部は、プレアデス星団であるらしいことなども解明されました。しかし、他の星については、どういう意味があるのかについてはまだ研究中だそうで、番組もここで終わってしまいました。

未だ多くの謎が含まれているこの天文盤ですが、詳細は未解明なまま世界記憶遺産に登録されることになり、現在も解析が続けられているため未だ非公開のようです。

世界遺産といえば、ついこの間富士山が世界文化遺産になったばかりですが、「記憶遺産」?というのはあまり耳慣れないものだったので、どういうものかを調べてみました。

すると、記憶遺産というのは、劣化や崩壊などの危機に瀕した書物や文書などの歴史的記録遺産を、最新の科学技術を駆使して保全し、研究者や一般人に広く公開することを目的としてユネスコが始めた事業のようです。ユネスコ事務局長の任命する委員によって構成された国際諮問委員会を通じて1997年から2年ごとに登録が行われているとか。

後世に伝える価値があるとされる歴史的文書などの記録物は、毀損(きそん)されたり、永遠に消滅する危機に瀕している場合が多いため、適切な保存手段を講じることによってこうした重要な記録遺産の保存を奨励する、というのが事業の趣旨であり、この「適切な保存手段」というのは、近年急速に発達したデジタル化技術などを指すようです。

申請者はユネスコ本部内の一般情報事業局に申込書を提出して1次検討を受け、最終決定は2年ごとに開かれる国際査問委員会定期総会で下されるという点は、富士山などの文化遺産と同じですが、その数はまだまだ多くないようで2013年6月現在では、全世界で299点しか登録されていません。

日本からは、藤原道長の自筆日記「御堂関白記(みどうかんぱくき)」(国宝)、1984年没の福岡県出身の炭鉱記録画家・山本作兵衛の作品群、スペインと共同推薦した「慶長遣欧使節関係資料」など3件だけになっています。

登録は、やはりヨーロッパおよび北アメリカ地域が多いようです。どんなものが登録されているかというと、代表的なものとしては以下のようなものがあります。

子供と家庭の物語(グリム童話。2005年登録)
バイユーのタペストリー(バイユー・タペストリー美術館所蔵。2007年登録)
ニーベルンゲンの歌(2009年登録)、マグナ・カルタ(イギリス、2009年登録)
アンネの日記(アンネ・フランクによる文学作品)(2009年登録)
グーテンベルク聖書(2001年登録)
ベートーヴェンの交響曲第9番の自筆楽譜(ベルリン国立図書館所蔵。2001年登録)
共産党宣言及び資本論、初版第1部(2013年登録)

ここに挙げた例からみてもわかるようにドイツの登録数が多いようです。日本としては、過去にも候補にあがっていた「鳥獣戯画」や「源氏物語絵巻」などを今後推薦していく予定のようですが、前述のネブラ・スカイディスクのようなミステリー満載のものはあまりないようで、また富士山の世界遺産登録のようなワクワク感もないのは確か。

が、まあ世界遺産とまで言われるものが多いということは世界的にみても文化レベルが高い国とみなされることでもあり、今後を期待しましょう。

記憶とは何か

ところで、「記憶とは何か」というのを改めて考えてみると、かなり奥深そうなテーマではあります。

科学的にみた記憶の定義としては、心理学的にみれば、「過去の経験の内容を保持し、後でそれを思い出すこと」、「将来に必要な情報をその時まで保持すること」ですが、生物学的な見地からみれば、人間を含んだその生物に「過去の影響が何らかの形で残ること」になります。

コンピュータが発達した現在では、「必要な情報を保持しておくこと」でもあり、コンピュータに使われるメモリ(memory)は、情報の記憶を行う記憶装置であり、機械の記憶です。

が、やはりここで考えていくべきは我々人間の記憶でしょう。

あまり、細かいことをここで書きたくないので、さっと調べたところだけを書きだしましょう。人間の記憶の分類法はさまざまですが、記憶には大きく分けて「感覚記憶」、「短期記憶」、「長期記憶」の3つがあるようです。

感覚記憶というのは、映像や音などを最大1~2秒ほど、忘れないでいるようにする記憶であり、意識には上らないけれども、感覚器官で瞬間的に保持された記憶になります。

情報処理の程度に応じては、短期記憶、長期記憶へ変換されることもありますが、多くの場合、受け取った刺激の情報をほぼそのまま記憶するものの、短期記憶、長期記憶への変換処理が行わなければすぐに失われてしまいます。

刺激の形式に応じて、聴覚に刺激を受ければ音声、視覚に刺激を受ければ視像として保持されます。これによって数分の1秒から数秒の間はその刺激が保持されます。短期記憶・長期記憶としてもう少し長く保っておきたい場合には、「そうしたい」、と意識を向けることでこれが可能となり、このプロセスを「注意過程」といいます。

次いで、短期記憶です。これは文字通り、感覚記憶よりはもう少し長い間保持されるものの、やはり記憶時間は短いものです。だいたい20秒間の保持が限度であり、しかも7つプラスマイナス2つ程度のことしか記憶できません。

つまり、せいぜい5つから9つまでの情報しか保持できないわけであり、このため7±2という数は「マジカルナンバー」と呼ばれます。

マジカルナンバーは、マジックナンバーと同じ意味であり、「魔法の番号」ということになります。スポーツやギャンブルでは良く使われることばですが、ここではあくまで認知心理学上の用語です。

長期記憶

この短期記憶の情報は、感覚記憶を「意識して」覚えたものです。しかしこの記憶もまた、時間の経過とともに忘れされてしまいます。しかし、これを維持して長い間記憶する「長期記憶」にする方法もあり、そのひとつを「維持的リハーサル」といいます。

維持的リハーサルは、単純リハーサル・機械的リハーサルとも呼ばれ、短期記憶で保持している情報が失われないよう、同じ内容を単純に反復することです。たとえば、電話番号を一時的に覚えるため何度も口に出して唱えたり、漢字を覚えるために繰り返し書くことなどこれにあたります。

維持的リハーサルによって留められた記憶は、これをやめてしまうとそのまま忘却してしまうことが多いようです。これでは「長期記憶」にはなりません。このため、短期記憶内の情報を安定させるには、「維持的リハーサル」を頻繁に行うか、「精緻化リハーサル」というプロセスを踏む必要があります。

この「精緻化リハーサル」は、「統合的リハーサル」とも呼ばれ、短期記憶で一時的に保持している情報を、他の知識と結びつけたり構造を理解しながら反復する方法です。

具体的には、いくつかの単語を1つのイメージとして組み合わせたり、記憶したいのが漢字ならば、その漢字を構成する要素(辺や画など)にいったん分解してから書き方を覚える方法です。

このように情報を整理することで、長期記憶のネットワークに短期記憶内の情報が組み込まれます。そのため、精緻化リハーサルを行うと、維持的リハーサルの場合とは異なり、覚えようとする事柄への理解が深まって記憶が安定し、つまり「忘れにくくなる」という状態が生まれます。

こうした、維持リハーサルや精緻化リハーサルは、聴覚的なものと考えがちですが、こうした短期記憶を長期記憶に変換する方法としては「視覚的」に行うことも考えられます。記憶するべき項目を視覚的に思い浮かべる方法で、こうした視覚による維持リハーサルや精緻化リハーサルを総称して、「視覚化リハーサル」と呼ぶこともあります。

長期記憶の二つの倉庫

さて、こうして苦労して?長期記憶となった記憶は、意識して忘れさろうとしても忘れられません。死ぬまで保持されます。なので、覚えていたくもない嫌な野郎の顔を忘れ去るためには、なるべく意識しないことです。

が、逆にどうしても忘れたくない恋人の顔などは意識して覚えておくことができます。この記憶を蓄える脳の中の貯蔵庫は、その名も「長期記憶貯蔵」と呼ばれますが、この貯蔵庫にはさらに二つの倉庫があります。

ひとつは「陳述記憶」、もうひとつは「非陳述記憶」です。陳述記憶というのは、読んで字のごとし、言葉で表現できる記憶です。時間的には即時、近時、遠隔といった区分があり、またもっとおおまかに短期・長期の陳述記憶に分けられる場合もあります。

個人的に体験された出来事については長く記憶にとどまることの多いものが多く、たとえば「みかん」という言葉から想起される記憶としては、「小さい頃、おばあちゃんの家のこたつで一緒にみかんを食べた」という思い出などがあります。

さらに情景だけでなく、そこから連想されるおばあちゃんと楽しく遊んだといった経験、「一緒に食べた子と、その後仲良くなった」といった時間軸を持つストーリーや、それに付随する感情もこの記憶に含まれます。

こうした記憶は自らの「エピソード」に関連するものであるため「エピソード記憶」といいます。ただ、自らのエピソードだけでなく、「みかん」といえば、「給食の冷凍みかん」や「一面のみかん畑」など様々な自分に関連しないものの記憶も回想できることから、エピソード記憶は、その人の置かれた状況に応じて変形しやすい恣意的な記憶ともいえます。

エピソード記憶は「一回限り」の学習機構であると考えられています。つまり、あるエピソードを一回体験しただけで、それを記憶するものです。しかし、陳述記憶の中には、繰り返し同じ事物を記憶することで形づくられていく記憶があり、その事物に触れるたびに脳内の意味表現は変化していくものがあります。

これを「意味記憶」といいます。例えば、あなたがネコを飼っていたとして、その外見や鳴き声を記憶しているとしましょう。あなたの「猫」に関するエピソード記憶はこの飼いネコの記憶をもって、その意味を参照するようになっています。ところが、この猫に関して、外で別の野良猫をみたとしましょう。

そうすると、これは「猫」に関するあなたの新たな体験ということになり、あなたの「猫」に関する意味表現は更新されていくことになります。さらに街角の商店の店先で、「猫招き」が置いてあるのをみかければ、更に「猫」に関する記憶が追加されます。

こうして猫にまつわるエピソードが増えていくことで、あなたの頭の中の「猫」に関するエピソード記憶群はどんどん増えていくことになり、「意味記憶」の中身もだんだん濃く成っていきます。

つまり、意味記憶とは言葉の「意味」についての記憶であり、「猫」というキーワードをもって、いろんな記憶が蓄積されるものです。意味記憶の構造は、「意味ネットワーク」という形でモデル化できるそうで、他にも、意味記憶を表す多くのモデルがあるといいます。

非陳述記憶

さて、長期記憶には、このような陳述記憶のほか、言葉で表現できないような記憶もあります。これを「非陳述記憶」といい、これはさらに「手続き記憶」「プライミング記憶」の2つに大別されます。

いずれも言葉で表現できない記憶ですが、手続き記憶のほうは、物事を行うときの手続きについての記憶であり、いわゆる「体で覚える」記憶がこれにあたります。

自転車に乗れる、というのは言葉に表現できますが、じゃぁいつ乗るの?「今でしょ」とは即座にいえますが、どうやって乗れるのか、と聞かれると言葉ではなかなかうまく表現できません。これが手続き記憶です。

また、プライミング記憶というのは、例えば、「医者」という言葉を聞くと、その後「看護師」、「あかひげ」などといった医者に関連する言葉の読みがすぐに出てくるような内容の記憶です。

先行する事柄が後続する事柄に影響を与える状況を指して「プライミングの効果があった」と時々言いますが、このように「プライム」とは「先行する事柄」を表します。

先行する事柄としては「医者」のような単語の場合もありますが、絵や音といった、視覚や聴覚による場合もあり、ピカソの絵を見るとキュービズムで描かれた別の画家の絵をすぐに思い出したり、赤とんぼの歌を聞いて、幼かった子供のころのことを思い出す、といった具合です。

こうした記憶は咄嗟に出てくることが多く、プライミング効果による記憶が無意識的に呼び起こされたものです。

また、プライミング記憶は、例えば一年以上もの長い間の時間を置いても、突然に蘇ります。数年の間、ベートーベンの第九を聞いていなくても、ふとした瞬間にそれを聞くと、突然クリスマスの情景が浮かんでくると言った具合に、常にプライミング効果は損なわれずに、意識せずとも常に頭の中に常駐し続けているのが特徴的です。

無論、それがなぜなのか、は自覚しておらず、その理由をやはり言葉では表現はできません。「非陳述記憶」ということになります。

以上のように、記憶には、感覚記憶、短期記憶、長期記憶という大きく分けて3つの記憶がありますが、このほかにも学者によっては「自伝的記憶」や「展望的記憶」という概念を提唱する人もいます。

自伝的記憶というのは、自分自身に関する事柄についてだけの記憶です。

例えばあなたにも、あなたなりの「自分史」があると思います。その中にはいろんな記憶が詰まっているはずであり、このように自分に関する記憶を体系的に説明できるよう、自分だけが記憶できるよう整理した一種の記憶モデルです。これらはエピソード記憶と意味記憶によって構成されており、分類としては長期記憶にカテゴライズされます。

これに対して、展望的記憶というのは、将来行う行動についての記憶です。過去の出来事についての記憶は「回想的記憶」と表現される場合がありますが、こちらは未来に起こることに関しての記憶です。

???とお思いでしょう。記憶とは「過去」の事柄を指すと誰もが思っていることでしょう。しかし、考えてみてください。日常生活において我々は時々、「明日、友人と会う約束がある」 というような、将来の行動に関してのことを「記憶している」場合があるはずです。

これが「展望的記憶」です。展望的記憶がうまく思い出されなかったときには、行なうべき行動がなされません。つまり、「し忘れ」という現象が生じることになります。

一般に、「し忘れ」が起きやすいケースというのは色々あり、普段あまりやりつけない非習慣的な行為である場合もありますが、一方では記憶に残りやすいような特別な行為ではない場合にも起こり得ます。

例えば、普段はやらない寝る前のストレッチなどを人に勧められた場合、こうした非習慣的な行為は、意識しないとすぐその翌日には忘れてしまいます。ところが、数年ぶりに会う友達との再会などはめったにないことなので、その予定日を良く覚えていたりしますが、いつもの退屈なミーティングタイムはすぐに忘れてしまう、というのはよくあることです。

しかし、いずれの場合であったにせよ、こうした「し忘れ」を思い出すのは、その将来行動と直結した何かを見た場合や、関連事象を見て咄嗟に連想的に思い出す、といった場合が多いでしょう。

「展望的記憶」という概念は、こうした「し忘れ」を無くすために心理学者たちが考え出した概念です。その後、研究の裾野が広がり、最近はこうした研究結果を用いてスケジュール帳や、PDA(携帯情報端末)などの予定を管理する機器類の使用方法などが、使用行動と絡めて研究されることも多くなってきているということです。

細胞の記憶

さて、ここまで述べてきたことは、あくまで人間の脳細胞の中に蓄積される記憶のことです。ところが、最近、脳細胞だけでなく、皮膚や筋肉、内臓といった、脳以外の部分を形造っている「細胞」そのものにも記憶があるのではないか、ということが議論されています。

高等生物では、各器官・組織へと分化した細胞が、それぞれの役割に応じて正常に機能する必要があります。各組織構成の基盤となっている細胞ひとつひとつは、自己の遺伝子発現プロファイルの変化を「記憶」しながら、次第にその終末的姿へと分化していっているのではないか、というのがこの「細胞記憶」の考え方です。

多細胞生物の各細胞における個々の遺伝子発現パターンの差異は細胞分裂を経ても維持され、細胞分裂停止後もその記憶は長期に渡り維持される必要があります。

この細胞の「記憶」が何らかの原因で破綻すれば生物体は甚大な障害に直面するので、生物はその進化の過程において、この「記憶」を整理し、維持してゆくための何等かのシステムを獲得しているはずだと考えられています。

ただし、その「記憶」については、従来は「遺伝子発現プロファイル」そのものの研究ばかりが行われてきており、一体どのようなメカニズムで細胞の「記憶」として整理しているのかは、未だ解明されていません。

最近になって、細胞が「遺伝子発現プロファイル」の「変化」をどのように「記憶」するのかということを明らかにしようとする研究が国立遺伝学研究所などで始まったといいます。

こうした研究者は、細胞の記憶メカニズムを理解し、誤った細胞記憶の修正や操作の方法を確立することで、将来的にはそれを医学・医療に応用することを目標としているそうです。

最近ではこうした細胞による記憶のメカニズムを「エピジェネティクス」「エピジェネティクス制御システム」などと総称するようになってきています。英語では“epigenetics”と書き、遺伝子発現あるいは細胞表現型の変化を研究する学問領域になります。

私も難しいことはわかりませんが、最近流行の多能性幹細胞(iPS細胞)の技術なども駆使され、哺乳類のクローンの成否の可能性や癌などの遺伝子疾患の発生のメカニズム、脳機能の解明などにも発展する可能性のある学問ということであり、「細胞の記憶」に関する研究はまさに22世紀へ向けてのプロローグともいえるもののようです。

記憶転移

細胞記憶の研究は、まだまだわからないことが多い分野のようですが、わからないといえばもうひとつ、記憶現象の中には、「記憶転移」という現象があり、その真否が良く取沙汰されています。

記憶転移とは、臓器移植などに伴って提供者(ドナー)の記憶の一部が受給者(レシピエント)に移る現象です。臓器移植の結果、ドナーの趣味嗜好や習慣、性癖、性格などまでもが「移植」され、同じ行動とったり、亡くなったドナーの記憶がレシピエントの中に蘇ったりするといいます。

ドナーの経験の断片が自分に移ったと感じているレシピエントの存在が多数報告されており、特に心臓移植や腎臓移植のあと自分の趣味嗜好が変化したと感じている例が多いようです。

しかし、通常、レシピエントがドナーの家族と直接の接触をもつことは移植コーディネーターや病院から固く禁じられているため、実際にドナーの趣味嗜好や性格などを確認し得た例は極めて少なく、その真偽に関して科学的なメスが入った例もまた少ないようです。

とはいえ、こうした現象が本当に存在するか否かを含め、テレビのドキュメンタリー番組で取り上げられることも多くなり、この現象を題材にした小説や映画なども作られ、専門家以外にも知る人が多くなりました。

こうした例の中でも特に有名なのは、アメリカのコネティカット州で現在も存命中のクレア・シルヴィアという人の事例で、シルヴィアが1997年、この自身の体験を出版したために世界的にも知られるようになりました。

クレアは「原発性肺高血圧症(PPH)」というかなり重症の病気にかかり、1988年、コネティカット州のイエール大学付属ニューヘイヴン病院で心肺同時移植手術を受け、成功しました。

しかし、この手術でも規定により病院側からはドナーについての詳しい情報は伝えられず、クレアにはバイク事故で死亡したメイン州の18歳の少年だということだけが伝えられていました。

ところが、手術が終わったその数日後から、彼女は自分の嗜好・性格が手術前と違っていることに気づきます。苦手だったピーマンが好物に、またファーストフードが嫌いだったのにケンタッキーフライドチキンのチキンナゲットを好むようになったのです。

またそれだけでなく、歩き方が男の様になり、以前は静かな性格だったのが、非常に活動的な性格に変わりました。しかも、ある日夢の中に出てきた少年のファーストネームをなぜか彼女は知っており、これらのことから、彼女は彼がドナーだと確信したのでした。

彼女はそのことを家族に話したところ、家族もびっくりしたようですが、彼女の変貌ぶりをみてやがて信じるようになり、やがては共に自分を救ってくれた恩人を探し出そうということになりました。

しかし、ドナーの家族と接触することは移植コーディネーターから拒絶され、病院からも情報の提供を受けることができませんでした。このため、メイン州の新聞の中から、移植手術日と同じ日に亡くなった人の死亡事故記事を探し始めたところ、運よく少年の事故に関する記事をみつけます。

そして、彼の家族と連絡を取ることに成功し、対面が実現したのですが、驚いたことに、この少年のファーストネームは彼女が夢で見たものと同じだったそうです。しかも、彼はピーマンとチキンナゲットを好み、また、高校に通うかたわら3つのアルバイトをかけもちするなど活発な性格だったこともわかりました。

このほかにも、類似の話はたくさんあります。同じアメリカでは、別の28歳の女性が心臓手術を受けて以来趣味が一変し、それまで苦手だったサッカーやバスケットボールが大好きになり、それだけでなく、大嫌いであったメキシコ料理もお気に入りになるなど、手術前と比べてその性格が激変したといいます。

そして、同様にドナーが誰かを調べたところ、彼女の現在のこの性癖は心臓を託してこの世を去った提供者のそれとピタリと一致していたそうで、それはあたかも、生前のドナーがレシピエントの新たな肉体を得て蘇ったかにさえ思えるほどだったといいます。

このほか、アリゾナ州立大学で心臓移植を受けたある男性は、かつて自家用ジェットで各地を飛び回り、仕事に追われる毎日は多忙を極め、お金を得ることのみにその人生を費やしていたかのような生活を送っていいました。

ところが、心臓移植後、彼はある不思議な体験をしました。それは移植を終えて間もない日、それまで聞いたことさえなかったイギリスのバンド、シャーディーというミュージシャンの歌をたまたま聞く機会があり、これを聴いたとき、理由も分からず突然に眼から涙があふれ出たのです。

「そんな感覚はそれまで想像もつかなかった」とこの男性はその時を回想しており、その後、それまではお金だけに固執していたエネルギーを競泳や自転車競技などのスポーツに費やすようになり、さらには慈善事業に専念し始めるなど、手術前とは生活が一変していったのです。

移植後間もなく彼が聞いた話では、譲り受けた心臓は、交通事故で死亡した、ある貧しい少年のものだったと伝えられていました。ところが、移植から6ヶ月が経った頃に、突然、ドナーの遺族から手紙が届きました。

そこには、「息子は信心深く、常に周囲を気にかける優しい子で、生前、何らボランティア活動に参加できなかったことを悔いていたのを知っていたので、臓器提供することに同意した」と事実が綴られていました。

しかも、彼はハリウッドの一線で活躍するスタントマンであり、生前は特に空中でのスタントを得意とするプロフェッショナルで、様々な有名な映画やTVコマーシャルに登場していたことなども書いてありました。

しかしあるテレビ番組の撮影準備中、走行中の電車の上にパラシュートで飛び降りるスタントを行っていたところ、誤って足を踏み外し、頭部を打って即死したのでした。

男性は、手紙を読むなりすぐにこの手紙の差出人の家族に返信し、こうして両者の面会が実現したそうですが、その時、面会できたドナーの弟は、兄の鼓動を確かめたいからとわざわざ聴診器を持参してきており、男性の胸にそれを当てて涙したといいます。

そしてその後、彼が何気なく口にした言葉に男性は驚愕しました。彼は生前の兄が音楽、特にシャーディーの歌が大好きだったことを彼に告げたのでした……

現在、こうした逸話を裏付ける科学的な説明は存在しません。しかしこれらの事実は、移植された臓器やその細胞が、本来脳に記録されているべき様々な情報をあたかも記憶していたのではないかと思わせます。

しかし、こうした記憶転移説に反論する科学者らは、その原因を移植手術という、強い精神的ストレスを伴う経験がレシピエントの心理に影響したとか、手術により健康面での制約が無くなったことに起因する大きな心境・行動の変化を、人格が移ったとように錯覚したのだと説明しています。

あげくは、麻酔状態下で無意識に聞いた、ドナーに関する医師や看護師の会話が暗示になって、術後の思考や行動に影響を及ぼしたのではという人もおり、ドナーへの感謝の気持ちが「故人の分まで生きる」、「命を引き継ぐ」という意識を生み、ドナーとの類似行動を取りやすくなった、などの説得力のない意見もあります。

しかし、それらの懐疑論者達もこの心臓移植患者の一部に発生する記憶転移現象が、これら仮説では説明しきれない何かがあることを認めている医者も多くなっているようです。

過去25年間で700件以上の心臓移植手術を行っているベテランである、アリゾナ州立大学医学部心胸科チーフのジャック・G・コープランド博士も次のように述べています。

「これは非常に難しい問題ですが、私自身、臓器を通じて記憶転移が行われている可能性を完全に否定することは出来ません。」

さて、今日のこの項に結論はありません。ただ、今日述べてきた「記憶」というものは、科学が発達した現代でも説明しきれていない領域であり、これへの挑戦はまだ今始まったばかりである、ということだけはいえます。

遠い将来にわたり、人類が生命を自由に操れるようになったとして、その記憶もまた自由に書き換えられるような時代が来るのでしょうか。

あってほしくないことです。が、そうした時代にはおそらく人類は肉体を捨て、「意識体」としてしか存在していない可能性もあり、その場合、その自らの記憶を消し去るという暴挙までは行わないでしょう。

そうあってほしい、と思います。みなさんは、どうお考えでしょうか。

美女と野獣、のち美男


今日、7月18日は、「マダム貞奴」で知られる、川上貞奴(本名、川上貞、旧姓:小山)が生まれた日だそうです。

東京・葭(よし)町の芸者となり、「オッペケペー節」で有名な川上音二郎と結婚、民間人がまだほとんど海外に出ることのなかった明治時代において、共にサンフランシスコでの公演で舞台に立ち、これにより日本の女優第一号と言われ、その後帝国女優養成所を設立、帝劇女優劇の基礎を築いた人です。

今日が誕生日ということなのですが、これは明治4年(1871年)のことであり、このころはまだ暦が新暦になる前のこと。従って、新暦に直すと9月2日生まれということになります。

「マダム貞奴」の名は、29歳のときに夫とヨーロッパ公演を行ったときにその舞台が評判になり、付けられた名前です。

最初はロンドンで舞台に立ち、その後、パリでも公演を続け、これも大好評であったため当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会にまで招かれ、ついにはパリの社交界にもデビューすることになり、このころから「マダム貞奴」の通称で呼ばれるようになりました。

こうした華やかな名声に彩られる一方で、そうした成功に至るまでは夫の音二郎の破天荒な生き方に翻弄され、一時は無一文になって二人で国外逃亡を図ったり、海外公演で公演資金を興行師に全額持ち逃げされ、餓死寸前になったりするなど、波乱万丈の前半生を送っています。

しかも、若くして夫が亡くなったあとは、昭和の「電力王」の異名をとった実業家・福澤桃介とねんごろになり、ついに結婚はしなかったものの、彼とその後の一生を共にしており、この愛人との数々のエピソードもまたその当時のマスコミを刺激し、たびたび新聞の三面を飾るネタとなりました。

こうした波乱の人生を送った女性としては、以前このブログでも取り上げた、同じ女優の岡田嘉子や李香蘭こと山口淑子のほか、女優ではありませんが男装の麗人と呼ばれた川島芳子などが思い浮かびますが、このマダム貞奴の人生もまた、彼女たちの人生に引けを取らないほど、激しいものでした。

このため、死後60年以上もたった現在でも、演劇の題材としてよく取り上げられ、一番新しいところでは、三谷幸喜作の舞台で「恐れを知らぬ川上音二郎一座 」というのがあり、これは2007年に上演されました。

この劇は、型破りな演劇人・川上音二郎を題材の中心に据えていますが、その妻である貞奴との夫婦愛や劇団員たちとの奮闘をも巧みに描いた喜劇・群像劇で、三谷氏は本作により、2007年度第7回朝日舞台芸術賞・秋元松代賞を受賞しています。

このほか、宝塚歌劇団でも一本立てのミュージカルとして上演されており、こちらは「夜明けの序曲」というタイトルで、花組男役トップスター「松あきら」が音二郎を、「若葉ひろみ」が貞奴を演じました。

1982年の初演ではこの年の芸術祭出品作品となり、同賞大賞を受賞。また、1999年の再演では、花組男役トップスターの「愛華みれ」が音二郎を、「大鳥れい」が貞奴を演じています。

1985年(昭和60年)には、NHKの大河ドラマにもなっており、この時の作品「春の波濤」では、貞奴を松坂慶子、音二郎を中村雅俊が演じました。しかし、平均視聴率は18.2%、最高視聴率は24.7%と低迷しました。

しかも、NHKはその原作が杉本苑子の「冥府回廊」としていたものの、「女優貞奴」など、明治期の女性を中心とした伝記などを執筆していた山口玲子氏が、その著書からせりふなどの盗用があるとして、著作権侵害で名古屋地裁に提訴。

地裁では敗訴となり、名古屋高裁、最高裁にも上告しましたが棄却ということで、結局その面目はなんとか保たれましたが、NHKはその後、こうした「近代物」を取り上げることにすっかり意欲を無くしてしまいました。

その後昭和期まで生きた実在人物を主人公とした大河ドラマ作品は長いこと作られることはありませんでしたが、その禁をようやく破ったのが、今年の「八重の桜」ということになります。果たしてその視聴率は大丈夫でしょうか。

ちなみに、私もこの春の波濤は見ていません。

冒頭の初回か2回目かは見たような記憶がありますが、このころちょうどアメリカ留学の準備をしていたころで忙しかったせいもありますが、主人公の貞役の松坂慶子と、イケメンの中村雅俊という組み合わせがどうもしっくりこず、なかなかドラマの中に入っていけず、途中で見るのをやめたような記憶があります。

この項を書くにあたっては、貞奴や音二郎が残した数々のエピソードや残されている写真なども色々みたのですが、どうも、この二人の俳優さんのイメージとは合わないような気がします。

写真をみると、貞奴はややしもぶくれで、ふっくらしたかわいらしいかんじの美人であり、どちらかといえばタヌキ顔です。が、今はともかく若いころの松坂慶子さんはどちかかといえばキツネ顔であり、いい役者さんには違いないのですが、本物の貞子が持っていたようなエキゾチックというか、コケティッシュなかんじには少々欠けるような気がします。

なので、もし私が同じドラマで配役をするとすれば、例えば藤原紀香さんとか、最近モスクワで賞を受賞した「さよなら渓谷」で有名にもなり、大河ドラマ「龍馬伝」にも出演していた真木よう子さん、あるいはビールのCMで大人気の檀れいさんあたりのほうがぴったりくるのでは、という気がします。

一方の音二郎のキャスティングも失敗だったと思います。実際の音二郎は、中村雅俊さんのような二枚目ではありません。どちからといえば三枚目で、しかもどこかおっちょこちょいで何かしでかしそう~な顔をしており、こういうタイプは芸能界でいえば、お笑い芸人の中によくいそうです。

とんでもないことを言ったりやったりするのだけれども、どこか憎めない、男性にも女性にも好かれるタイプ、といった感じであり、誰がいるかな~と考えたところ、明石屋さんまさんとか、ビートたけしさんあたりがこれに該当するかも、と思い当たりました。

しかし、お二人ともかなりの高齢?であり、しかも三枚目すぎるような気もしますし、彼らと紀香さんやよう子さんを組み合わせるのは多少無理があるかも。だとしたら、オリエンタルラジオの中田敦彦くんぐらいかな~と思ったりもするのですが、どんなものでしょう。

……とまあ、私のイメージはこうなのですが、言いたかったのは、この貞奴と音二郎の結婚というのは、それぐらいギャップがあるもので、まさに美女と野獣の結婚というかんじで世間にも受け止められていたようです。

それではこの二人の経歴をみていきましょう。

貞奴

貞奴のほうは、本名は「小山貞」といい、東京・日本橋の両替商・「越後屋」の12番目の子供として明治4年に生まれています。ところが、その後生家は没落しており、このため7歳での時に芳町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となっています。

芳町という町名は今は使われていません。現在の日本橋人形町周辺にあった花街であり、かつて「元吉原」と呼ばれ、遊廓がたくさんあるいわゆる赤線地帯であり、とはいえ、東京ではこの時代には高所得者ばかりが利用する一流の遊び場でした。

この貞奴、芸事にはかなり才能があったようで、とくに日舞の技芸に秀でて頭もよく、文字通り才色兼備であったために女将に認められ、花街の住人皆が憧れる伝統ある「奴」の名跡を拝領。やがて芸妓としてお座敷にあがることになりました。

ちなみにこのころの芸名はまだ、「奴」であり、「貞奴」を襲名するのはその後、音二郎との結婚を機にしてからのことになります。

芳町は、場所柄も東京の一等地にあり、政府高官もよく訪れる一流の花街でした。多数の政治家が出入りしており、この中には大臣クラスの人物や高級軍人などもいました。

時の総理大臣や伊藤博文もまたここによく出入りしており、貞奴はとくに伊藤の贔屓(ひいき)受けていたといい、このこともあって、彼の子分的存在であった西園寺公望などからも引き立てたれるようになりました、

西園寺公望もまた、後に総理大臣となっており、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼しましたが、このころにはまだ第2次伊藤内閣の文部大臣として初入閣を果たしたばかりのことでした。

しかし、総理と文部大臣にとりたてられるということはすごいことであり、この時点で既に「日本一の芸妓」とまでいわれるようになっていました。

そして、この西園寺公望の媒酌人として、やがて貞奴は川上音二郎と結婚することになります。

音二郎

音二郎のほうは、1864年(文久4年)に福岡の博多で生まれており、貞奴よりも7歳年上になります。川上家は、福岡藩の郷士でしたが、商売も営んでおり、しかもかなりの豪商であったと伝えられています。

若いころには論語や孟子を学び、旧制福岡中学校の前身にあたる藩校、修猷館(しゅうゆうかん)にも進学しましたが、このころに実母が死亡。ところが後妻として川上家に入った継母との折り合いが悪く、音二郎は1878年(明治11年)家を飛び出し、大阪へ行く便船をみつけて密航を図りました。

この企ては途中で発覚し、あやうく連れ戻されそうになりますが、監視の目をかいくぐって出奔し、その足で江戸へ向かいました。その道中でも無銭飲食を繰り返したため、江戸にたどり着くまで追っ手に追われ続けていたといいます。

江戸では口入れ屋(武家や商家などに奉公人等を紹介する手配師)に転がり込み、なんとかここの奉公人にしてもらいますが、長続きせず、その後は転々と吉原遊郭などで下働きなどをしながら食いつないでいました。

その後、何等かの縁があって芝の増上寺の小僧をするようになりましたが、この寺に毎朝に散歩に来る人物がおり、これがなんとかの有名な福澤諭吉でした。ご存知のとおり、慶應義塾の創始者ですが、音二郎もほどなくこの事実を知り、福沢に頼み込んで学僕にしてもらうことに成功。

実は、この福澤の娘婿が、のちに貞奴と生涯をともにすることになる「福澤桃介」であり、ともにこの諭吉に助けられ、同じ女性を愛することになるというのは、本当に不思議なことです。おそらく、彼ら全員が前世ではソウルメイトであったに違いありません。

ともかく、こうして音二郎が得た仕事は雑用ではありましたが、これによってようやく落ち着いた生活をすることができるようになり、塾の手伝いをしながらも合間をみては学問もするようになります。しかもかなり真面目に勉強したようで、その勤勉ぶりが認められ、やがて福沢の紹介もあって警視庁に入り、巡査となりました。

ところが、結局この警察勤務もまた長続きせず、退職。このころ自由民権運動がさかんになっていたことからこの世界に身を投じるようになり、自らが反政府組織の「壮士」であると周囲に吹聴するようになりました。

最初は適当なことばかり言っていたようですが、しかし次第に本格的な活動を行うようになり、19歳のときには正式に「立憲帝政党」に認められ、その党員となっています。

また、旧福岡藩士を中心にした玄洋社の結成に参加。玄洋社というのは、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗することを主張する、どちらかといえばかなり右寄りの団体でした。その後は明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持ち、日本が太平洋戦争に突入する原因を作ったともいわれています。

このころから、音二郎は自らを「自由童子」と名乗るようになり、大阪を中心に演説、新聞発行などを行うようになりましたが、その内容の大半は政府攻撃であったために、度々検挙されています。

しかし、その一方では21歳のときに、「講談師」の資格を得るなど芸事にも熱心に取り組んでおり、自由民権運動の弾圧が激しさを増す中、1887年(明治20年)には「改良演劇」と銘打った興行を行っています。

これが彼が演劇人として活動した最初であり、このとき23歳。また、その後は落語家の桂文之助にも入門し、浮世亭◯◯(うきよていまるまる)とも名乗るようになります。

その後、各地で演劇や落語の公演をやりながら、その中で政治風刺を続け、その芸風を固めつつ、また磨いていきましたが、改良演劇の興行を行ってから3年ほど経ったころに、世情を風刺して歌った「オッペケペー節」を発表。これが大衆に大いに受け、大評判となりました。

時はその後勃発する日清戦争時を前にしたぶっそうな世相の中のことでもあり、このころの政府はといえば、すぐにでも対外戦争へ突入していきそうな激しい右傾化が生じており、しかもこれに反対する民主活動家には激しい弾圧を加え始めていたころのことです。

そんな中で大ヒットしたオッペケペー節は、こうした民主活動への弾圧を風刺するものとして、そのブームは最高潮を迎えていきます。

1891年(明治24年)には、書生や壮士ら素人を集め「川上一座」を立ち上げ、書生芝居を堺市の卯の日座で旗揚げしたのを皮切りに、東京でも中村座で「板垣君遭難実記」などを上演。この中でもオッペケペー節を唄ったところ大いにうけ、東京でもその大流行が起こりました。

これら畿内や東京で上演された演劇の内容はいずれも政府風刺を基本としたものであり、各地での公演における乱闘騒ぎに憲兵が登場するのは日常茶飯事だったといいます。憲兵と運動家の争乱はもとより、ときには会場にいる自由民権派同士のいさかいなどもあり、音二郎もまたよくそこに下りて行って、自らもその乱闘に加わっていたといいます。

このオッペケペー節の歌詞は結構長いものですが、その一例を以下にあげておきましょう。

「権利幸福嫌ひな人に、自由湯をば飲ましたい、オツペケペーオツペケペツポーペツポーポー、固い上下の角取れて、マンテルズボンに人力車、意気な束髪ボンネット、貴女に紳士のいでたちで、うはべの飾りは好いけれど、政治の思想が欠乏だ、天地の真理が分らない、心に自由の種を蒔け、オツペケペオツペケペツポーペツポーポー」。

結婚

このオッペケペー節の大ヒットの余波を借りて、川上は1893年(明治26年)、フランスへ渡り、2か月ほどの短い間ですが、パリの演劇事情を視察しています。が、その翌年の1894年に帰国し、前述のとおり、西園寺公望の媒酌で貞奴と結婚しています。

なぜ、神田葭町の一流芸者であった貞と、こうした破天荒な壮士芝居の川上音二郎と一緒になったのかについては諸説があるようです。

伊藤博文が貞をひいきにしていたため、伊藤が川上に会わせたためという話や、奴のお母さんが壮士芝居を見て、たいへんおもしろいから行っておいで、ということになって見に行った、という話もあります。

また、貞はこの当時大人気だった歌舞伎役者の中村福助に惚れていて、彼とのデートの約束をスッポカされたところ、同じ場所で川上音二郎も別の女性との約束をスッポカされ、これがきっかけで二人が結びついた、とう話もあるようです。

さらには、貞は乗馬が大好きだったということですが、ある日馬に乗っていたら落馬してしまい、たまたま通りかかった川上が気つけ薬を飲ませた、という話もあり、実際の話とは少々違いますが、この乗馬場での出会いというのが二人のなれ初めの話の本命のようです。

いずれにせよ、こうした伝説がいろいろ出るようになったのは、音二郎のような乱痴気騒ぎが大好きな書生かたぎの役者が、一流の葭町の芸者と一緒になったという不思議から出てきたことでしょう。

貞はこのころまだ23歳の若い盛りであり、しかも現在でも通用するような美人さんです。これに対して、年齢も既に30歳となり、それほど男前ともいえないような音二郎と貞との結婚は誰しもが驚いたことでしょう。

しかし、音二郎の本質は、博多っ子の典型のような人だったといい、非常に気っ風のいい人物だったという評もあり、東京の下町にある花街育ちで、男と言えば金持ちばかりを見てきた貞には、こうした貧乏ながらも奔放な男性はとてつもなくまぶしいものに見えたのかもしれません。

こうして、二人は結婚し、貞は川上と一緒になってからはそれまで「奴」とだけ名乗っていた芸名を「貞奴」と名乗るようになり、そればかりではなく、音二郎にも影響されて、時には彼の主宰する芝居にも出るようになりました。

しかし音二郎の破天荒な性格が災いし、このため夫婦生活は苦しく、しかもそんな中、音二郎は、衆院議員の選挙に出馬するという「暴挙」に出ています。

ところが、一体何をやり始めるかわかったもんじゃない、とうような危ない雰囲気のある人物に当然票は集まるはずもなく、最初のチャレンジにおいてみごとこの挑戦は失敗し、音二郎は落選の憂き目を見ます。

ところが、それでもあきらめずに二度目の選挙にも立候補しますが、結果は同じで再び落選。結果としてはこの二度の選挙に投じた資金は膨大なものになるとともに、借りていた金も返せなくなり、川上一座の運営は極端に悪化し、著しい資金難に陥るようになりました。

この三年前の1895年(明治28年)には、日清戦争も終わっており、それまでは戦争をネタとして政府批判を続けていた川上一座の興行も、オコリが落ちたように人気がなくなっていました。

こうして、いよいよ食い詰めた二人は、1898年(明治31年)に有名な事件を引き起こします。この事件を引き起こした首謀者は誰あろう、音二郎自身なのですが、現在に至るまでその意図は解明されておらず、その行動たるやさっぱり意味がわかりません。

というのも、なぜか東京から遠く離れた下田まで行き、かなり大きめの船だったとはいいますが、推進力はオールだけの「ボート」を買い受け、これに音二郎と貞奴、そして音二郎の可愛がっていた姪の「つる」そして犬1匹が乗りこんで、下田の沖へ向けてあてもなく漕ぎ出したのです。

後日の音二郎本人の話では、千島か、アメリカに行くつもりであったと言っていますが、そんなことはできようはずもありません。

案の定、いくらも沖へ出ないうちに横須賀の海軍の軍港に入りこんでしまい、海軍の官憲につかまってしまいました。そして司令官の前に引き出され、「バカなことをしてはいかん、やめろ」とたしなめられた音二郎ですが、このときも「いや、やめません、がんばります」とわけのわからない答えを返しています。

この問答にとうとう司令官も根負けし、「勝手にしろ、ただし、子どもは乗せていくな」ということで、姪だけは連れて行くのは思いとどまったようです。この後2人だけで再出港しますが、結局は嵐に巻き込まれ押し戻されています。

その漂着場所は、もとの下田港だったとも、淡路島だったとも言われているようですが、はっきりしません。が、ボートで下田から淡路島まで行くのはいくらなんでも難しいでしょうから、下田説が正しいのではないでしょうか。

ここのところの事実関係を私も調べてみたのですが、ネットでははっきりした情報が得られませんでした。伊豆にまつわる話でもあり、また調べて詳しいことがわかれば、再びここで取り上げたいと思います。

ともかく、この「珍事」はまた世間を驚かせるとともに呆れさせることになり、このときの新聞の論調は、また例の川上が大ボラで、とんでもないことをやりおった、という風だったようです。しかし、この事件がまた二人を有名にしていきました。

このように窮すれば何をしでかすかわからない、ハチャメチャな行動満載で、言ってみれば人生そのものが漫才のような人は、その昔から芸事をたしなむ人には多くみられます。

大河ドラマのような番組において、もし音二郎役をやらせるならば、芸人さんがいいだろうと私が書いたのもそうした理由です、普段はろくなことはやらないけれども、その一方で会ったらすぐにファンになってしまいそうな魅力があり、顔を見てしまうと不思議と文句が言えなくなってしまう。音二郎もまたそんな人だったのではないでしょうか。

事件を起こしても「すみません」と言われると、マァ、しょうがない、ということになる。かつて「フライデー事件」を起こしたビートたけしさんのことや、何を言っても憎まれない明石屋さんまさんの顔がついつい思い浮かびます。

海外興行と成功

その後、二人は危機的な状況をなんとか克服し、といっても並大抵のことではなかったでしょうが、この間なんとか人気のある興行を創出し、収入を回復させていったようです。この「ボート事件」がかえって世間の耳目を集め、人を呼び込む効果もあったのでしょう。

こうして、その翌年の1899年(明治32年)には、川上音二郎一座のアメリカ興行が実現するまで業績は回復し、貞奴もこの渡航に同行しています。が、貞自身は役者として舞台に立つ予定などはなく、単に夫の音二郎をサポートするつもりだけの渡航だったようです。

ところが、興行先のサンフランシスコでは、予定していた女形が急死するという不幸にいきなり襲われます。しかも、別途立てようとした女形も、アメリカ人の興行主から「女の役は女性がするべきで女形は認められない」と拒否されたため、急遽、貞奴がこの代役を務めることになりました。

これが、川上貞奴が、「日本初の女優」といわれるゆえんです。無論、これより以前から、夫の主宰する劇にはたびたび出演していましたが、サンフランシスコでの公演が、「海外公演を成功させた」というふうに尾ひれがついていき、やがて「世界的な場で演じた」というふうに噂はどんどん変化していきました。

その噂は当然日本国内にも伝わり、国内の新聞などでも取り上げられ、その後幸運にもアメリカ全土やヨーロッパでも成功したことから、後年も「日本初の女優」という話が定着していくようになりました。

ところが、この興行はさらに不幸に見舞われます。サンフランシスコでの公演中、その運営にあてていた公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀無くされたのです。

この当時のアメリカには日系社会はまだ成立しておらず、このため一行は援助を受ける先すら見つけられなかったことから、餓死寸前にまでなったといいます。それでも次の公演先での儲けから返すからとアメリカ人に借金をし、なんとか次の公演先のシカゴまで命からがら必死で到着しました。

しかし、ようやく公演にこぎつけたころには、疲労と空腹で音二郎と貞奴は無論のこと、一座全員が極限状態だったといいます。そんな状態でシカゴ公演は始まりましたが、逆に彼らのその鬼気迫る演技が功を奏しました。

劇中である座員が空腹によってパタッと倒れたのを見て、何も知らない観客は、すごい演技だと大拍手。結果としてこの公演は大成功し、中でも貞奴のエキゾチックな日本舞踊と貞奴の美貌が評判を呼ぶようになりました。

瞬く間にその人気はアメリカ中に広がるようになり、やがてはヨーロッパにまでその評判が鳴り響くようになっていきます。

こうしてこのアメリカ興行の翌年の1900年(明治33年)にも、音二郎と貞奴一座はロンドンで興行を行うことになりました。その同年にパリで行われていた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場において公演を行ったのです。

ちなみにこの万博には日本も正式に参加し、さまざまな工芸品などを出品していましたが、日本政府の事務局に対してはこの興行については許可願い出ておらず、無許可でした。もともと政府の批判を繰り返してきた一座だけに、外国にまで出てきて、政府の言いなりになる必要はないさ、と音二郎が無視したためです。

このロンドン公演の初日には、かの有名な彫刻家のロダンも招待されていたそうです。その公演で華麗に踊る貞奴に、ロダンはすっかり魅了されてしまったといい、公演が終わるや否や楽屋に訪れ、彼女の彫刻を作りたいと申し出たそうです。

ところが彼女はロダンの名声をまったく知らず、時間がないからという理由で、けんもほろろに断ったという逸話が残っています。もしロダンが貞奴の彫刻を造り、これが日本にもたらされていたら、現在では国宝級であったかもしれません。

その8月には、当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、貞奴はそこで「道成寺」を踊りました。踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したといい、こうした様子は新聞でも「マダム貞奴」の通称で報じられ、その名はフランス中で知られるようになりました。

その後は数々のパーティで引っ張りだこになり、こうしてパリの社交界にデビューすることになった貞奴の影響により、パリの社交界ではその後、キモノ風の「ヤッコドレス」が流行したそうです。

作曲家のドビュッシーや小説家のジッド、そしてピカソまでもが彼女の演技を絶賛したため、その後フランス政府は彼女に勲章まで授与しています。「オフィシェ・ダ・アカデミー」というそうで、細かく調べていませんが、おそらく現在のアメリカのアカデミー賞に相当するような賞でしょう。

こうして、世界的にも有名な「女優」となった貞奴は、1908年(明治41年)、37歳のとき、後進の女優を育成するためということで、音二郎とともに「帝国女優養成所」を創立しました。

この帝国女優養成所は、東京・芝の理髪店の2階にわずか17畳ほどの広さのものだったそうですが、開所式には、この当時にすでに当代一の実業家と名高かった渋沢栄一男爵など、当時の日本経済界を代表するそうそうたるメンバーが集まり、その門出を祝ったといわれています。

その第1期生は、森律子、村田喜久子など15人で、以後、ここから、日本を代表する女優の多くが生まれていきました。

この養成所の設立は二人の長年の夢だったといい、時まさに二人にとって絶頂のときでした。しかし、そのわずかその3年後の1911年(明治44年)に音二郎が病で死去。47歳という若さでした。

舞台で倒れた直後に亡くなったといい、その半生を舞台にささげた彼らしい死でした。「汽車が眺められるところに」という彼の遺言により、その亡骸は当時博多駅が近くにあった承天寺というお寺に葬られているそうです。承天寺では命日の11月11日に、今でも故人を偲んでオッペケペー節などが歌われるなどの催しが行われているといいます。

また、福岡市博多区の川端通商店街北側入口近くにある地下鉄の駅階段横には音次郎の銅像が建てられており、道を隔てて博多座と向きあっています。

ちなみに、最近、川上一座が1900年に欧米興行を行った際に録音したオッペケペー節のレコードが発見されています。1997年に「甦るオッペケペー節」という題でCDが東芝EMIから発売されたそうですが、残念ながら音二郎と貞奴の肉声は録音されていないそうです。

ただ、このレコードは日本人が初めて吹き込んだものだということで、大変貴重なものといえます。

福澤桃介

その後、貞奴は数年の間、音二郎の遺志を継ぎ公演活動を続けていましたが、夫の死からまもないころから、木曽川の電源開発で日本の電力会社の礎を築き、電力王といわれた3歳年上の福沢諭吉の女婿、福沢桃介との間が噂されるようになります。

そして桃介が妻と2人の子持ちであったことから、やがて演劇界やマスコミから激しい攻撃を受けるようになります。このため、ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い、舞台の一線から完全に退いてしまいました。

実は、桃介との馴れ初めは音二郎との結婚よりもはるかに前の、貞奴がまだ14歳の少女にすぎなかった1885年(明治18年)頃までにさかのぼります。

このころ、置屋で芸妓をしていた貞奴は、その息抜きにと、女だてらに馬術学校にも通っていましたが、そんなある日、この学校で突然野犬に襲われ、馬が暴れ出しました。

ちょうどそのとき、慶応義塾の学生だった桃介がここに通りがかり、犬を追い払って馬を制したことがきっかけになり、2人は恋に落ちます。しかし、その1年後、桃介は福沢諭吉の二女・房と政略結婚。この結果、貞奴と桃介は長い時間を置いた別離を挟むことになったのです。

岩崎桃介は、現在の埼玉県吉見町に相当する武蔵国横見郡の貧しい農家の次男として生まれました。6歳のとき、生家は母サダ(こちらは貞ではなく、サダ)の本家であった岩崎家のあった川越に転居しました。

サダの出た岩崎家は川越で財を成していた商家であり、これを頼ったためでしたが、もともとはサダ自身にもかなりの商才があったといわれています。

ところが、その夫は入り婿で風流を好む人だったといい、川越で提灯屋を営むようになりましたが失敗。このため生計は貧しさを極め、桃介は裸足で学校に通ったそうです。しかし学業に秀で、神童と呼ばれるほどの成績を治めていたといいます。

その後、父はその後岩崎本家が設立に関与した第八十五国立銀行に勤務、サダも本家から借りた金で金貸しをするなどして子供らの学費の工面を続けました。1882年(明治15年)、桃介は旧知の元川越藩士の娘が嫁いだ先の家を頼って上京、この家の主人の紹介で慶應義塾に進学します。

慶應義塾は言うまでもなく、福沢諭吉が設立した学校ですが、この義塾でのある日の運動会で、福澤諭吉の妻・錦が桃介の眉目秀麗ぶりを目にとめ、次女の房(ふさ)の入り婿にどうかと諭吉に勧めます。

残っている写真をみると、この福澤桃介は本当にイケメンであり、音二郎とは雲泥の差です。美人の貞奴とツーショットの写真も残っていますが、まさに美男美女の組み合わせです。

諭吉も桃介を気に入り、こうして1889年(明治22年)、桃介は福澤諭吉の婿養子となり、岩崎の旧姓を捨てて、福澤姓になったのでした。桃介はこのとき、21歳でした。

貞奴と出会ったのはこの結婚の一年ほど前のことでした。貞のことが忘れられない桃介は福澤家への婿入りを躊躇し苦悩しますが、結局は貞を捨て、房との結婚を決意。こうしてまたたくまに20年以上もの歳月が経ちました。

桃介は、房との結婚の直前に慶應義塾を卒業すると、貞への思いを振り切るように渡米し、ペンシルバニア鉄道の見習をしています。帰国後に、結婚。その後は北海道炭礦汽船、王子製紙などに勤務しますが、肺結核にかかり、1894年(明治27年)かはら療養生活を送らざるを得なくなります。

ところが、療養の間、株取引で蓄えた財産を元手に株式投資を始め、ちょうどこのころ始まった日清戦争で日本が勝利したことから株価が高騰したため、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を上げました。そして療養により病状が好転すると、この株で得た金を元手に実業界に進出し始めます。

そして、1906年(明治39年)、瀬戸鉱山を設立して社長に就任。1907年(明治40年)には、日清紡績を設立。このころから相場の世界を離れるようになり、電力業界に着目します。そして木曽川の水利権を獲得し、1911年(明治44年)には岐阜県加茂郡に八百津発電所を築き、さらに同年、日本瓦斯会社を設立。

ちなみに、この翌年の1912年(明治45年)に、長野県木曽郡南木曽町読書(よみかき)に建設した読書発電所の工事用として架けた橋は、後に桃介橋と呼ばれ、1993年に近代化遺産として復元、1994年(平成6年)には発電所とともに国の重要文化財に指定されています。

そして、ちょうどこのころ夫を亡くしたばかりの貞と再会。再び過去の激情が二人の間で燃え上がり、かつての悲恋の相手と結ばれるという結果につながっていきました。

晩年の二人

二人の関係が世間に知れ渡り、誹謗中傷が激しくなるにつけ、桃介は離婚も考えたようです。が、結局はこれをしないまま貞との関係を続けたため、正妻の房との間に築いた家庭は完全に冷え切っていったようです。

その後桃介は、1924年(大正13年)には恵那郡に日本初の本格的ダム式発電所である大井発電所を完成させるとともに、1926年(大正15年)には中津川市に落合発電所などを建築。また矢作水力(現・東亞合成)、大阪送電などの設立を次々に行います。

これに先立つ1920年(大正9年)には、大阪送電を改組する形で、五大電力資本の一角たる大同電力(戦時統合で関西配電。現・関西電力)と東邦電力(現・中部電力)を設立しており、社長に就任。こうした一連の事業によってその後は長く「日本の電力王」と呼ばれるようになりました。

この間、貞奴はこうした事業面でも実生活でも桃介を支えたといいます。

ときには、2人並んで公の場に姿を現すこともあったそうで、桃介が手掛けた大井ダム工事の視察の際にも行動をともにし、貞奴は工事現場の周囲で赤いバイクを乗り回していたそうです。また、谷底まで視察に行こうとする桃介に対し、他の社員が尻込みする中を一人桃介に付いて現場まで向かったという逸話も残っています。

1920年頃、2人は長年の念願であった同居を始めます。貞奴は49歳、桃介は52歳のころのことです。2人が名古屋市内で住んだ邸宅は「二葉御殿」と呼ばれるようになり、やがて政財界など各方面の著名人が集うサロンとなりました。現在は、愛知県名古屋市東区に復元・移築され、「文化のみち二葉館」として再生されています。

作家の長谷川時雨(はせがわしぐれ、M12誕~S16没。明治大正期に劇作家・小説家として活躍し、雑誌や新聞を発行して、女性の地位向上の運動を率いた)はこの当時の二人と親交があったようで、ある日のこと、ちょうどこの初老にさしかかった桃介と貞奴を街角で目撃しています。

彼女が後年書いた随筆には「まだ夢のやうな恋を楽しんでいる恋人同士のやうだった」と書かれており、老いてなお少年少女のような二人を見ての素直な驚きが記されていました。最後まで仲睦まじく一生を添い遂げた相思相愛のカップルの姿が目に浮かぶようです。

その後、桃介は、1938年(昭和13年)に69歳で没。貞奴は、それから8年後の1946年、膵臓癌により死去。享年75でした。その亡骸は、桃介のほうは、郷里の埼玉県吉見町にある福澤家の菩提寺、満蔵寺に埋葬され、貞奴のほうは、岐阜県各務原市にある貞照寺に納められました。

なぜ縁もゆかりもない、岐阜県?と思ったのですが、貞奴は幼少の頃から成田山を信仰していたそうで、この貞照寺はその信仰の一環で成田山ゆかりの寺のないこの地に、貞奴が、私財で建立したのだそうです。

正式な名称は「金剛山桃光院貞照寺」といい、このなかにある「桃」の文字は、内縁の夫である桃介の「桃」をとったものだそうで、またと貞照寺の「貞」は言うまでもなく、貞奴自身の名の一文字です。

結局二人は夫婦として添い遂げることはありませんでしたが、貞奴はその生涯の最後にこの寺の名にその思いを込めたのでしょう。

眠る場所こそは別々でしたが、幼いころからの恋を成就させた二人の霊は今もあちらの世界で一緒に過ごしていることでしょう。

さて、いつものことながら、今日も長くなりました。終わりにしたいと思います。

富士山頂 ~富士山


先だってこのブログでも取り上げた、「風立ちぬ」がもうすぐ公開されるようです。宮崎駿の「崖の上のポニョ」(2008)以来5年ぶりとなる監督作で、「ゼロ戦」の設計者として知られる堀越二郎と、同時代に生きた文学者・堀辰雄の人生をモデルに生み出された作品です。

「主人公の青年技師・二郎が、不景気や貧困、震災などに見舞われ、やがて戦争へと突入していく1920年代という時代をどのように生きたのか、その生きざまや薄幸の少女・菜穂子との出会いなどを描く」と何かの映画紹介に書いてありました。

ネット上では、早くもその映画上の全ストーリーが書いてあるブログなども登場していますが、読んでしまうと劇場で見る分の楽しみが減ってしまうので、こうしたページは開かないようにしています。このブログでも、これ以上書くのはやめておきましょう。

ところで、この主人公の「堀越二郎」さんのことを調べていたら、「群馬県藤岡市出身。藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科をそれぞれ首席で卒業し、三菱内燃機製造に入社」とその略歴が書いてありました。

三菱内燃機製造?どこかで目にしたような気がするな……と記憶をだどってみると、確かその昔よく読んでいた新田次郎さんの小説、「孤高の人」の主人公も確かこの会社に勤めていたな、と思い出しました。

「加藤文太郎」という人で、前にも新田さんのことを書いたときに少し触れました。堀越二郎は明治36年生まれ、加藤文太郎は明治38年生まれですから、年もかなり近いわけで、同じ会社にいたなら、面識があったのではないか、と思って調べてみたのですが、どうも接点はなさそうです。

三菱内燃機製造というのは、現在の三菱重工業の前身にあたる会社で、1919年(大正8年)三菱合資会社神戸造船所から三菱合資会社神戸内燃機製作所として独立。その翌年に本社を名古屋に置いて、いったん社名を「三菱内燃機株式会社」として発足したのち、大正10年に「三菱内燃機製造株式会社」になったものです。

堀越二郎が勤めたのは、この名古屋本社のようで、ここにはこの会社の「名古屋工場」もあり、ここはその後、1934年(昭和9年)三菱重工業株式会社「名古屋航空機製作所」と改称、戦中の日本海軍の戦闘機製造にあたりました。堀越二郎がゼロ戦や九六式艦上戦闘機といった名機を生み出したのは、これ以降のことになります。

ちなみに、この名古屋工場は、現在、三菱重工業傘下の「名古屋航空宇宙システム製作所」という名称に変わり、飛行機だけではなく、ロケットの設計製作を行う会社になっており、日本の航空宇宙技術開発の最先端を担っています。

一方の加藤文太郎は、兵庫県の美方郡の旧浜坂町の出身で、近畿圏を生活ベースとしていた人です。「三菱内燃機株式会社」の前身である、「三菱合資会社神戸造船所」の時代に「内燃機設計課」のスタッフとして働いており、神戸勤務でした。

従って、年齢が近く同じ会社に入社したとはいえども、神戸と名古屋では接点はなかったでしょう。が、堀越二郎のほうはともかく、加藤文太郎のほうは、本社勤務のエリートであった堀越のその後の活躍のことを社内報か何かで知っていたかもしれません。

堀越二郎も優れた技術者でしたが、この加藤文太郎も、高校の夜間部しか出ていないとはいえ、その後努力してこの時代には高卒では難しいといわれた「技師」に昇格しています。

新田次郎(以下、うっとうしいので「さん」付けは、しばし略)の小説では、技師に昇格したのは、内燃機(エンジン)の設計において革新的なアイデアを出したからということになっていますが、おそらく事実でしょう。

この二人に何か技術的なことや、そのほかにも歴史的な接点があれば面白いなと思ったのですが、残念ながら今回はそうした事実関係はつかむことができませんでした。

が、学歴や技師としての活躍の違いはあれども、同じ時代に同じ環境で生きた二通りの技術者の生き様ということで、私自身もかつては技術者であったこともあり、手前味噌でありますが、この共通点の発見はなかなか面白いなと思いました。

加藤文太郎のこと

さて、加藤文太郎については、以前も書いたことがあったので、詳しくは書きませんが、1905年(明治38年)3月11日生まれで、その後日本を代表する登山家とまで言われるようになった人です。

1936年(昭和11年)1月に、数年来のパートナーであった吉田富久と共に、冬季登山では日本屈指の難山といわれる槍ヶ岳北鎌尾根に挑みましたが、猛吹雪に遭い、槍ヶ岳直下の天上沢で30歳の生涯を閉じました。

加藤文太郎は、「単独行の文太郎」と呼ばれ、一人で山へ入ることが多かった登山家ですが、その最後にパートナーを伴って山に入ったのは、加藤はもともと岩登りが得意ではなかったのに対して、この吉田富久はこれが得意だったため、厳冬の北鎌尾根に挑むにあたってはその欠点を補いたかったためではないか、とする説もあるようです。

当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じたそうで、この時代のこの遭難事件関連のスクラップ記事をいくつか目にしましたが、その捜索はかなり大々的に行われたようです。が、結局10日間にも及ぶ捜索の結果でも遺体はみつからず、二人が発見されたのはその年の夏のことだったようです。

加藤文太郎が、山登りを始めたのは、この神戸造船所に務めながら、兵庫県立工業学校夜間部に通っていたころのことのようで、1923年(大正12年)頃からは本格的に登山を始め、地元の神戸の山だけでなく、日本アルプスの数々の山々に登っています。

当時の彼の住まいは須磨にあったため、六甲山が歩いて登れる位置にあり、現在でも地元の人の中ではポピュラーな六甲全山縦走がそのきっかけだったようです。

ところが、その歩くスピードは異常に早く、ある日などは、早朝に須磨を出て六甲全山を縦走し、宝塚に下山した後、その日のうちに、また歩いて須磨まで帰って来たといます。その踏破距離は実に100kmに及ぶことになり、平地でもこの距離を歩くことは容易ではありません。

当時の登山は、戦後にブームになった大衆的な登山とは異なり、装備や山行自体に多額の投資が必要であり、猟師などの山岳ガイドを雇って行く、高級なスポーツとされていました。

その中で、加藤文太郎は、ありあわせの服装で山に出かけ、高価な登山靴も持たなかったため、「地下足袋」を履いて山に登る異色の存在でした。単独行であることと、地下足袋を履いていることが、彼のトレードマークとなり、このため「地下足袋の文太郎」とも呼ばれていました。

1928年(昭和3年)ごろから専ら単独行で日本アルプスの数々の峰に積雪期の単独登頂を果たし、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、富山県から長野県への北アルプスの単独での縦走によって、「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」として一躍有名となります。

1935年(昭和10年)、同じ浜坂出身の下雅意花子と結婚。新田次郎の小説では二人の間に娘ができたことになっていますが、調べてみたところ、その事実はなさそうです。結婚した翌年の1月に加藤は遭難していますから、おそらく子供がいたとしても、遭難後に生まれたことでしょう。

加藤と新田次郎の接点

実は、新田次郎は、この加藤文太郎と面識があったようです。彼が残した随筆に「不撓不屈の岳人加藤文太郎の追憶」というものがあり、この中に”一度だけ会った人”として紹介されており、その出会いの場所とは、なんと富士山でした。

新田次郎は、本名は藤原寛人(ふじわらひろと)といい、作家になる前には実は気象庁の職員でした。気象庁へ入庁後に、休職して旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)の無線電信講習所本科の「電機学校」に通ってここを卒業しており、これは現在の東京電機大学の前身になります。

ちなみに、私の愚息は現在この学校に通っており、新田次郎はその先輩ということになります。

富士山測候所に配属されたのは、この電機学校を卒業する数年前のことであり、気象庁へ入庁してすぐのことでした。この当時、新田(藤原)は、東京にある中央気象台に勤務していましたが、富士山での観測のために年に何度か交替勤務で富士登山をしており、加藤文太郎と出会ったのはそこでの勤務のときのことでした。

新田を含む複数の気象庁職員は、山頂での観測勤務を終えて新たな観測隊との交代を済ませて下山する途中だったようで、このとき、富士の五合目にある避難小屋で一服してから麓に下りる予定だったようです。

厳冬期のことでもあり、下山はともかく、富士山の登山においては二日かけるというのは現在でも常識といえるところですが、このとき加藤を目撃した新田は、ここを彼は一日で登ったと書いています。

新田らが、この五合目にある避難小屋で休息をとるために入っていったとき、加藤はアルコールランプに火をつけ、コッフェルで湯を沸かしていたそうです。湯が沸くとその中に、ポケットからひとつまみの甘納豆を出して投げこみ、スプーンですくっておいしそうに食べていたとか。

ちなみに、この甘納豆は、「孤高の人」の中では加藤文太郎の「好物」ということで頻繁に出てきます。おそらくはこれを目撃した新田が、加藤の人間くささを出すための材料としてこの逸話を利用したものでしょう。

このとき、時間はもう既に3時近くになっていたそうで、このとき新田は加藤はここに泊まるのだと思ったようです。というのも、冬の富士山での午後3時には、通常の登山であれば、行動停止の限界であったためです。

ところが、口に出した言葉は、「まだ日が高いのにここに泊まるのですか」だったそうで、これは受け取りようによれば、こんなにまだ明るいのに頂上をめざさないのですか、とも解釈されかねません。

それに気が付いた新田はあわてて、「もう間もなく暗くなります」と言い直しており、これは、この時間から頂上をめざすのは危険ですよ、という意味でした。が、このとき彼は、にやっと笑って、「そうですか、私は頂上まで行って見たいと思います。頂上には観測所があるのですね」と答えています。

これをどう捉えたのかよくわかりませんが、このとき新田は、「観測所があって所員が五人います。泊めて貰ったらいいでしょう」と答えたそうで、とくに引き止めることばを与えなかったのは、加藤の自信のありげな笑いのためだったのでしょうか。

彼は甘納豆を食べ終わるとすぐ出発したそうですが、これを見送っていた新田らは、突風が吹きまくる富士山の氷壁をまるで平地でも歩くような速さで歩いて行く彼の姿を目撃したそうで、新田たちは「まるで天狗のような奴だなと」口々に言い合ったといいます。

その後、下山していった新田次郎と加藤がその生涯においてお互いすれ違うことは二度とありませんでした。が、後年、新田が作家としてデビューしたのち、「孤高の人」の執筆にあたってその奥さんである藤原花子さん(旧姓下雅意)に取材のために会っています。

この取材のときのことも、前述の富士山での出会いのことを綴ったエピソードにも書かれており、新田は、もし富士山で彼と会っていなかったら、孤高の人の執筆はしなかっただろう、と語っています。

「ちょっと顔を合わせただけでしたが、なにか心の中に残ったものがあったのです」と書いており、実際の小説の中でも、このとき目撃した風のように歩く加藤の姿が時々使われており、また、新田が目にした加藤の自信ありげな笑顔は、「不可解な微笑」といった表現で文中に出てきます。

このときみかけた彼のぎこちない微笑についても花子夫人にインタビューで質問しており、夫人によれば、これは加藤独特の照れかくしの微笑であったそうです。彼女だけでなく、誰しもがこの笑い方には違和感を覚えたようで、馴れるまではちょっとへんな笑い方だな、と思ったらしいということでした。

しかし、新田自身は彼のこの「薄笑い」が小説の中では「たいへん役に立ちました」と述懐しており、この彼との出会いがなければ、こうした人間・加藤文太郎の本質のようなものは小説中で描き切られることはなかったかもしれません。

新田次郎の仕事

新田次郎は、この加藤との出会い後も中央気象台の職員として千葉の布佐気象送信所で勤務し、その後小笠原諸島の母島での測候所建設に携わったあと、1943年に満州国観象台に高層気象課長として転勤になっています。この間、1939年には、 「兩角(もろすみ)てい」と結婚、その後二人の男児と長女を授かっています。

ところが、この長女咲子が生まれた1945年、敗戦の混乱の中で、新京においてソ連軍の捕虜となり、その後中国共産党軍に拉致され、一年間の抑留生活を送っています。

この時期の、家族の引き揚げの体験を妻・ていが「流れる星は生きている」として作品化し、これはベストセラーになり映画化もされました。戦後まもないころで藤原家も貧困に悩んでいましたが、このヒットは家計を大いに助けることにもなりました。

この夫人の作家としての成功が、新田自身をも作家活動を考えるようになったきっかけになっていったようです。

1946年に帰国。中央気象台に復職しながら、サンデー毎日第41回大衆文芸に「強力伝」を応募、これが、「現代の部」で一等を得たため、本格的に作家活動をはじめましたが、その後この「強力伝」で、新田次郎は第34回の直木賞を受賞することになりました。

その後も、気象庁の職員と作家活動の二足のわらじを履きつつの生活が続きましたが、1961年には、気象庁の気象測器調査のため、3ヶ月渡欧。

帰国後、1963年から1965年までは、気象庁観測部測器課補佐官、高層気象観測課長・測器課長などを歴任しています。

私も気象庁さんとはいろんな仕事でお付き合いがあるので、良く知っているのですが、気象庁内で課長さんになるというのは、将来を嘱望されている人間だけです。

無論、この時代と現在はかなり勤務体系は異なるでしょうが、こうしたお役所では課長職まで行った人はたいていはその後、地方といえども最低限、どこかの気象台の台長クラスの長にまでなっていたでしょう。かなりの重職といえます。

富士山レーダー

その証拠に、新田は、1966年(昭和41年)、このころ気象庁が様々な気象観測プロジェクトに挑戦していた中でも最も重要といわれた、「富士山気象レーダー」の建設責任者に任命されています。

このときの経験は、のちに彼自身の作品「富士山頂」という作品で描かれており、なかなか面白い作品です。みなさんも読んでみてください。またこの建設工事に関してはNHKの「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」の第1回で取り上げられました。覚えている方も多いでしょう。

この富士山気象レーダーは、1999年(平成11年)まで富士山最頂部の剣ヶ峯にある富士山測候所に据えられていた、まぁるい球状のドーム型レーダーです。東京都内からも良く見え、私も望遠鏡をのぞいては、あぁ今日もあそこにあるわい、と何が面白いわけでもないのですが、これが見えることを楽しみにしていたのを覚えています。

今はもう世界遺産になってしまった富士山ですから、景観の疎外になるという意味では、なくなってしまった今のほうがよいのかもしれませんが。

この建設のきっかけになったのは、1959年に生じた伊勢湾台風による、台風による被害としては過去最悪といわれる災害でした。

台風の接近と伊勢湾の満潮の時刻が重なったことで大規模な高潮被害が発生し、死者行方不明者5000名という大災害となりましたが、気象庁としては、これを受けて台風被害を予防する目的で日本本土に近づくおそれのある台風の位置を早期に探知することが使命として課されることになりました。

設置場所は全方向にわたってレーダーの電波が山岳で遮られることがないという観点から富士山頂が選定されることとなり、このため、従来から測候所として機能していた富士山測候所にレーダー棟を増設することになったのです。

工事は設置場所までの資材搬入経路の確保が格別に困難なこと、設置場所の気象条件が過酷なこと、納入機器が他に例を見ない性能であることから、公共工事としては異例の「随意契約」になりました。

そして三菱電機にその機器の製作と納品が発注され、取り付け工事は大成建設が請け負いました。設置費用は2億4千万円、着工は1964年5月のことでした。

当時の気象庁の富士山レーダーにかける期待はきわめて高く、すでに各地で運用されていた5.7センチ波レーダーではなく、観測エリアを広範囲にわたって確保するため、途中の雨雲等による電波減衰を防ぐ目的で異例の10センチ波レーダーを用いることになりました。

ところが、レーダー画像の分解能低下を防ぐためには、使用するアンテナを当時標準だった直径3メートルから直径5メートルにまで大型化することが必要となりました。

このためこれを保護するレーダードームも直径9mもある超大型のものとなり、風速毎秒100メートルの冬の風に耐えられるために、その重量も620kgというとてつもないものになりました。

半球状のドーム骨格にパネルを張ったその姿は、開発関係者や現場工事関係者らに「鳥籠」とあだ名されましたが、これはそのあだ名の通り鳥籠のようにヘリコプターから吊り下げて空輸して設置するしかないためにこう呼ばれたのでした。

こうした巨大な構造物を現地に搬送する際に、分解して運ぶにしてもその部分部分だけでもかなり大きなものとなり、それぞれを運搬し山頂で組み立てることは難しくなります。しかも、現場の気象条件は過酷であるため、比較的気候の穏やかな夏場だけで完成させることは困難だったのです。

一方、この工事ではこのドーム建設だけでなく、これを設置する土台の工事などにおいても、大量の資材が必要となり、その搬入だけでも大きな難題でした。

レーダーの設置を請け負った三菱電機では、資材の搬入をブルドーザー、強力(人力輸送)、輸送用ヘリコプターの3方法で試みましたが、最終的に、工事資材は500トンを超え、そのほとんどをブルドーザー用の専用道を切り開き、運ぶという大がかりなものになりました。

それでも着々と工事は進められ、いよいよあとは、レーダードームを据え付けるだけの段になりましたが、実はこれがこの難工事のなかにおいても最も難しく、最後の障害でした。

ヘリコプターによる空輸では十分な揚力が得られるかが問題になりますが、富士山頂上空の高度では空気が薄いために、平地よりも得られる揚力が少なく、このためペイロードもMaxで450キログラムも不足することが骨格完成後に判明。

このため、最終的には揚力が不足している分だけヘリコプターのドアや座席などを取り外して軽くするという策がとられ、しかもヘリコプターが無事に帰還できる必要最小限、ギリギリの燃料搭載で対応しました。

ということは、ドームの設置に時間がかかりすぎれば、ヘリコプターの帰還もあやうくなるという危険性があるということであり、また万一設置に失敗した場合には、これを再び吊り下げての帰還はありえないわけで、文字通り必発必中が求められた工事でした。

この時に利用されたヘリコプターは、ソビエト製のシコルスキーS-62というもので、海上保安庁の救助ヘリなどとしても有名なものです。ご覧になったこともある人も多いでしょう。

このレーダードームを搭載したシコルスキーは、晴天となった1964年8月15日の午前7時55分に富士宮市にある臨時ヘリポートを離陸。約18分後に骨格設置予定の富士山頂に到着しました。

ところが、好天が災いし、富士山頂上空はまったくの無風状態で、このため揚力を得るために期待していた上昇気流が全く得られず、予定していたような長時間のホバーリングができないことが判明。

ヘリコプターの操縦は困難を極めましたが、工事関係者たちが固唾をのんで見守る中、熟練の操縦者は、「置き逃げ(エスケープ)」という、いわばタッチ&ダウンに近い操縦方法で設置を強行し、見事にドームを土台に据えることに成功しました。

こうして、富士山レーダーは完成し、これが出来るまでは世界で一番高所にあった気象用レーダーはアメリカモンタナ州にある標高2,600mの山の山頂にあったものでしたが、完成した富士山レーダーはこれを一気に1,100m以上も世界記録を塗り替える事になりました。

この翌年の1965年には運用が開始され、出力1,500キロワット、5mも直径がある回転式パラボラアンテナによる気象レーダーによって、最大800km先まで観測が可能となり、その後長きにわたって日本の空を見守りました。が、その後の気象衛星の打ち上げなどによってその役割を終え、1999年には運用終了となり、解体されました。

現在は、山梨県富士吉田市にある富士山親水公園(リフレ富士吉田)という「道の駅」のすぐ側に、富士山に設置されていた材料がそのまま使われて復元されており、「富士吉田市立富士山レーダードーム館」という名で、博物館として使用されています。

実は私もここに行きたい行きたいと思いつつまだ実現していません。館内には富士山レーダーでの気象観測に実際に使われた機材等が展示されているほか、富士山頂の「環境体験コーナー」ということで、気温-5℃、風速13mの世界を体験できる設備があるそうです。

また、「新田次郎コーナー」もあり、富士山レーダー建設当時の気象庁職員であった彼のゆかりの品や著書も展示されているとか。

新田次郎と司馬遼太郎の接点

その新田次郎こと、藤原寛人は、この富士山レーダードームの工事を完成させ、その運用が始まった翌年の1966年(昭和41年)気象庁観測部測器課長を最後に依願退職しました。

以後も活発な文筆活動を続け、晩年には「武田信玄」などの歴史小説をいくつか書きましたが、1974年には、この「武田信玄」によって吉川英治文学賞を受賞しています。

1979年には、紫綬褒章を受章しましたが、その翌年の1980年2月15日、心筋梗塞のため武蔵野市の自宅にて逝去。68歳でした。菩提寺は郷里の長野県諏訪市の正願寺だそうです。

気象庁を退職する際には、文筆一本で食っていけるかどうかを大変懊悩したといい、その決意に至るまで、6年後の定年まで待つべきかどうか悩み、また、退職に際しては、これだけ有能な人物であったことから、気象庁からも繰り返し強い慰留を受けたそうです。

新田次郎の小説を読んだ方はご存知だと思いますが、彼の文章は非常に緻密で、ひとつの小説を書くにあたっても、年代別に人物の流れを時系列に整理した「小説構成表」を作成してから執筆に取り掛かっていたそうです。

彼が作家としてデビューし、しかしまだ気象庁の職員だったころ、同じ作家の司馬遼太郎はまだ産経新聞の新聞記者でしたが、ある日のこと、記者として新田に原稿執筆を依頼しに行ったことがあるそうです。

そのとき、新田はこの申し出を断っていますが、依頼を受けることができない理由をひとつひとつ丁寧に司馬に説明したといいます。その説明は、勤務時間・執筆時間・病気になる可能性などなどの細かいものだったそうで、これらをトウトウと述べたあと、その依頼を丁重に断ったそうです。

司馬遼太郎の小説も新田に勝るとも劣らぬほど緻密なものですが、若き頃にこの二人がこうしてすれ違っていたとは面白いものです。

ちなみに私は、いまだにこの二人の大ファンで、中高大と若いころにはその作品を読み漁り、ほとんど読んでいないものはない、といってもよいほどです。

私のこのブログの文章が妙に細かいことに気が付いておられる人も多いと思いますが、それはこの二人の影響を受けていることにほかなりません。無論、この大作家たちの文章には遠く及びませんが……

とはいえ、この二人の作風はよく見ると大きく違います。司馬さんの作品は、各時代に生きた人物をどちらかといえば「泥臭く」徹底的に研究し、ときには歴史に埋もれてしまっていたかもしれないような無名な人をも取り上げ、この人物を通じて人間とは何か、をできるだけ「客観的に観る」ということを視点の中心に据えているように思います。

新田さんの作品に登場する人物もまた無名の人が多いのですが、彼の場合はその舞台が、「山岳」や「アラスカ」といった特定の大自然の中であり、その中にあって強い意志で道を切り開いた人物を描いたものが多く、この登場人物の内面を「主観的に表現する」という視点に足場を置いている作品が多いように思います。

常に何かに「挑戦」する主人公の姿を描いているところが司馬さんと違い、司馬さんの作品の中には乃木希典を描いた「殉死」や、「坂の上の雲」の中の正岡子規のように、夢も希望もない中で絶望し、どちらかといえば「暗い人生」を送った人物の「無常」を題材として描き切ったものも多いようです。

この点、途中で死やそのほかの障害で挫折しながらも、最後の最後まで希望を捨てない主人公が描かれることの多かった新田作品とは対照的といえば対照的です。

もともと新田さんは技術者であり、司馬さんは新聞記者であるという出自の違いも影響しているのでしょう。技術者には誰にでも見果てぬ「夢」があり、新聞記者はいつも「現実」、あるいは「真実」を追い求めているものです。

ただ、その新田さんも、晩年は司馬さんと同じく歴史小説に熱心に取り組みました。新田次郎といえば、山岳小説家の代表とされますが、自分の作品を山岳小説と呼ばれることを大変嫌っていたそうで、むしろ晩年に書いた歴史小説のほうが自分の作品としては気にいっていたそうです。

中でも武田家の盛衰は一番お気に入りのテーマだったらしく、「武田信玄」に次いで続編である「武田勝頼」を執筆し、さらには続々編である「大久保長安(武田氏に次いで徳川氏の家臣となり、後に江戸幕府勘定奉行、老中となった)」を執筆するほどの入れ込みようだったそうですが、最後にはこれを執筆中に亡くなりました。

私が大学生だったころのことであり、まだ静岡にいたころのことです。それから30年あまりも経ったあとに、再びこの静岡で新田さんのことを書いているということが、何やら不思議な気がしています。

もしかしたら、新田さんが、お前、まだ俺の作品全部読んでいないだろう、とおっしゃっているのかもしれません。

図星です。その最晩年の歴史ものはほとんど読んでいません。新田さん、ごめんなさい。

……ということで、その作品を探すべく、今日の午後は本屋にでも行ってみますか。みなさんもいかがでしょう。新田作品、面白いこと請け合いです。

神宮の杜


世間さまでは、三連休ということのようです。昨日、沼津へ出る用事があったので、国道136号を北上していましたが、その道すがらすれ違い、南に向かう車のおよそ半分は他県ナンバーでした。この連休を利用して、伊豆の海山を満喫しようという人達なのでしょう。

いったいどこへ行くのだろう、と考えてみましたが、行くところはいくらでもあります。下田あり、伊東あり、西伊豆あり、天城山あり……です。いつも自分たちが行っているところではあるのですが、こうして人さまが観光に出かけているのをみると、伊豆に住んでいるというのに、なんだかとてもうらやましくなってしまうのが不思議……

しかし、それにしてもまだ7月の中旬。しかも夏休みも前だというのに、この人出はなんなのでしょう。梅雨が明けてお天気が良いせいもあるのでしょうが、そのおかげで今度は太平洋高気圧が頑張りすぎてしまい、連日30度越えの日が続いています。いったいこの先、この夏はどうなっていくのでしょう。

暑いので、北側の富士山が見える側の窓を開けてぼんやりと外を眺めていると、目の前にある電線には、今年もたくさんのツバメがたむろしています。今年4月ごろに最初の一羽をみかけてからは、あれよあれよと街中を飛び回るようになり、今は繁殖活動も終えたのか、巣立った子供たちともども、暑い日本の夏空を満喫しているのでしょう。

前にもツバメについては書いたことがありますが、改めてその産卵形態を確認してみると、産卵期は4~7月ごろ。一腹卵数は3~7個で、主にメスが抱卵します。抱卵日数は13~17日、その後の巣内での育雛日数は20~24日ということですから、卵としてこの世に出てきてから、最短1か月ほどで巣立つことになります。

従って、4月に南の国フィリピンやインドネシアから越冬を終えて帰ってきてすぐにその親元で生まれた子達は、もうすでに生後2か月あまりということになります。

1回目の繁殖で子供が成功裏に巣立つ確率は、おおむね5割だといいますから、繁殖率は高いほうだといえそうです。1回目の繁殖で子供がうまく巣立ちできなかったとしても、多くのつがいが2回目の子育て、あるいはやり直しの繁殖をするのだそうで、繁殖意欲もかなり旺盛なようです。

しかし、ツバメの繁殖率が高いのは、人間と共生しているためでもあります。ご存知のとおり、ツバメはその巣を民家の軒先などにかけますが、これは、人の出入りがあるために、天敵であるカラスなどが近寄りにくいからだと考えられています。

ところが、最近では、都会を中心にそのカラスが異常に増えているため、巣が襲われる確率も高くなっているといいます。実は先日もタエさんと買い物に出かけた際、立ち寄ったドラッグストアのすぐそばの民家の下にあったツバメの巣に、カラスが突入しているのをみかけました。

私ははっきりとは見なかったのですが、タエさんの話によれば、いきなり、巣に突入するやいなや雛らしいものを咥えたらしく、何かを口にして飛び去る様子が私にも確認でき、これにはびっくりしました。

結構ショッキングな出来事です。生物淘汰のための詮方ないことではありますが、我々の目からみれば、人間との共生の道を選んだツバメはいわば「お友達」であり、その友達関係の間に無理やり入ってきて乱暴をするカラスは赦せない、どうしてもそんな気持ちになってしまいます。

日本では、ツバメは水田の稲の害虫を食べてくれる益鳥として古くから大切にされてきており、ツバメを殺したり巣や雛にいたずらをすることは、タブーとされてきました。また、江戸時代にはツバメの糞は雑草の駆除に役立つと考えられていたそうです。が、無論、そんなことはあるわけありません。

この糞を嫌がる家も多いと聞きますが、最近は田畑の減少で餌になる虫などを得る食餌環境も悪化していることから、ツバメの数もかなり減ってきているといい、なので、子育てが終わる数か月のことでもあり、少々我慢してあげてほしいもの。

下に糞が散らばるようにするためには、ビニール傘をさかさまに吊るしておくのが有効だそうで、先日訪れた農協さんでは、軒下に段ボール箱をくくりつけていらっしゃいました。

このツバメが巣をかけるというのは、たいていが人の出入りの多い家といわれており、人の出入りが頻繁ということは、商売繁盛にもつながる、といことで古くから商家でもツバメは大事にされてきています。

むしろ、巣をつくってくれることがラッキーと考える人も多いようで、商売をやっている人などでは、巣立っていった後の巣を、再度使ってもらえるかもしれないからと、大切に残していることも多いようです。

スワローズ

ところで、話は変わりますが、ツバメといえば、スポーツが好きな人ではすぐに思い浮かべるのが、「ヤクルトスワローズ」でしょう。

東京新宿の明治神宮野球場を本拠地としている球団であり、「スワローズ」の名称はその前身である「国鉄スワローズ」を継承したものです。

今年は、我が広島カープ同様、あまり元気がないようですが、旧国鉄から経営権がヤクルトの手に移ってからは、1990年代にリーグ優勝6回、日本一5回に輝くなど、一時期は一世を風靡しました。

前身の国鉄スワローズは、1950年に財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社(現・JTB)などの企業によって、株式会社国鉄球団として結成された球団です。セントラル・リーグに加盟し、初代監督には西垣徳雄が就任しました。

球団設立後の成績は芳しくありませんでしたが、スワローズとしての産声を上げたその年に、高校を中退して入団してきた「金田正一」選手がその後大活躍し、セリーグを盛り上げました。

金田投手は1958年には、投手部門三冠王(最多勝、防御率、三冠王)と沢村賞を獲得。1962年には、米メジャーリーグ、ウォルター・ジョンソンの記録を抜く通算3509奪三振を達成し、1963年の対大洋戦(後楽園)では300勝を達成。

さらに、入団2年目から1964年に至るまで、14年連続となるシーズン20勝を達成するなどスワローズの一員として、球団の創世に大いに貢献しました。しかし、この年、10年選手制度(プロ入りから10シーズン以上現役選手として同一球団に在籍した者は「自由選手」として所属球団を自由に移籍する権利)の特権を行使して巨人に移籍。

金田を失ったことは、彼を中心としたチーム作りを目指していた球団経営陣の意欲を削ぎ、このころ鉄道経営の赤字問題も大きくクローズアップされるようになっていたことなどもあり、国鉄は球団経営の権利をフジサンケイグループへ全て譲渡して経営から撤退することになりました。

これにより、1965年、球団の経営権はサンケイ新聞とフジテレビに譲渡されることになり、同年5月、球団名称がサンケイスワローズ(sankei Swallows)に改称。

しかし、漫画家の手塚治虫が球団後援会副会長に就任したこともあって、この翌年からは「鉄腕アトム」をペットマークとして使うようになり、このとき、チーム名もサンケイアトムズ(sankei Atoms)に改称。そしてこの年、かねてからフジサンケイグループとは提携関係にあった飲料メーカーのヤクルトが球団株式を取得して球団運営に参加。

しかし、その後チームは振るわず、1969年、球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の水野成夫が病に倒れると、この後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行い、その結果プロ野球球団経営を不採算とみなして撤退することに決定。

資本関係のみの継続を決めたものの実質の球団経営はヤクルトが握るようになり、球団名も単に「アトムズ(Atoms)」と改称。しかし、その後も球団成績はふるわず、1973年、チームは2年連続の4位に終わり三原は監督を辞任。

同年、手塚治虫の虫プロダクションの倒産に伴い、鉄腕アトムのキャラクター使用を中止し、このときから、球団名を株式会社「ヤクルト球団」、チーム名も「ヤクルトスワローズ(Yakult Swallows)」に変更。

そして、キャラクターも、ツバメをモチーフにしたものに変更し、現代に至るまでの40年間、「ツバメ軍団」として親しまれてきました。

そして、その拠点球場は神宮外苑球場、ということになっていますが、実は、この神宮球場はもとからヤクルトスワローズの拠点球場ではない、ということは意外に知られていません。

国鉄スワローズ時代でもその拠点球場ではなく、ではどこのチームのものだったかといえば、プロ野球チームのものではなく、大学野球連盟のものでした。

そもそもこの神宮外苑球場は、東京六大学野球連盟のリーグ戦を開催する「アマチュア専用球場」として1926年(大正15年)に開設されたものです。大学野球の主要球場として建設されたものであり、今日もなお、六大学野球のほか東都大学野球1部リーグおよび入れ替え戦を中心にプロ野球と併用して使用され続けています。

プロ野球にも使用されるようになったいきさつについて説明する前に、そもそもこの神宮外苑とはなんぞや、というところを説明しておきましょう。

神宮外苑

そもそも神宮外苑とは、「明治天皇の業績を後世までに残そう」という趣旨で建設された「洋風庭園」です。エーッ「庭園」だったの?という人も多いに違いありません。

「外苑」の「苑」というのは「庭」、すなわち庭園を意味し、代々木にある明治神宮の敷地のことを、「内苑」と呼ぶのに対して、その外側にあるので外苑と呼ばれるようになりました。

法定上は、神社の敷地の一画と見なされており、その所有者は無論、「明治神宮」という宗教法人になります。

内苑である明治神宮は神社建築を基調としている「和風」であるのに対して、外苑は「洋風」を基調としているのが特徴です。「明治神宮外苑」が正式な呼び方ですが、略して「神宮外苑」または「外苑」と呼ばれることが多く、「神宮の杜(もり)」と呼ばれることもあります。

明治天皇崩御後に建設が計画されたのち、明治天皇大喪儀に際しては、青山練兵場跡地で葬場殿の儀が行われましたが、このとき全国からの寄付金を集め、ボランティアの手によって1926年(昭和元年)にこの練兵場跡地に完成したのがこの神宮外苑です。

敷地内には明治神宮造営局により銀杏並木が設計され、これは東京を代表する並木道として有名です。

また、このすぐ側にある聖徳記念絵画館を中心として、明治記念館、運動場が作られ、神宮野球場もこのときに整備されました。ただ、戦後、銀杏並木の道路用地は東京都に移管され、運動場は東京オリンピック開催の際に国立競技場として文部科学省に移管・改築されています。

これを除けば、明治神宮外苑の全体はいまだに明治神宮が管理しており、すべて無料で開放され、都心における貴重な緑とオープンスペースになっています。

なぜこれほどの広大な庭園が作られたか、しかもボランティアによって。それは、明治天皇がこの時代の人に絶大に愛されたからというのがひとつの大きな理由のようです。

明治天皇は倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者、象徴、絶対君主として国民から畏敬された人であり、その盛名により戦前・戦中には明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝とまで称されました。

ところが、その私生活においては常に質素を旨としていたといい、どんなに寒い日でも暖房は火鉢1つだけとするなど、自己を律することに関してはかなり峻厳な規律を己に課していたそうです。他方、毅然とした態度を保ちつつも常に配下の者には気を配る心優しい人物であったとも伝えられています。

記憶力も抜群だったといい、書類には必ず目を通したあと朱筆で疑問点を書きいれ、内容をすべて暗記して次の書類と違いがあると必ず注意し、よく前言との違いで叱責された伊藤博文などは、「ごまかしが効かない」と困っていたそうです。

乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでおり、一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたといいます。

私生活では、日本酒を好み、夜は女官たちと楽しそうに宴会をすることが多く、当時の最新の技術であったレコードをよくかけ、唱歌や詩吟、琵琶歌などを好んでいたといいます。

また、在位中に勃発した対外戦争を通じても兵たちと苦楽を共にするという信念を持っていたといい、たとえば日清戦争で広島大本営に移った際、暖炉も使わず、殺風景な部屋で執務を続けるといった具合でした。

こうした公務だけでなく、私生活における厳然とした生き方は晩年に自身の体調が悪化した後も崩れることがなかったといい、そうした宮中での様子などは新聞などによって当然庶民にも伝わり、このため国民には絶大なる人気を誇った天皇だったといえます。

このように一般国民からは絶大なる支持を得ていた天皇であっただけに、その崩御にあたっては、「殉死」をする人も多く、その中でも最も有名なのは、日露戦争後に明治天皇の命により学習院院長就任も命じられた陸軍大将の乃木希典などでしょう。

それほどまでに国民に愛された天皇であり、それだけでなく立憲君主国家としては初の君主であっただけに、当然政府としてもその崩御にあたっては、国家事業として何等かの記念行事をすることを事前に考えてはいたようです。

実は明治天皇のご生前には既に、「即位50周年記念式典」が予定されていて、それに付随する行事として銅像の設立のほか、帝国議会場、博物館などの建設と、さまざまな案があり、これらに付随する庭園なども検討されていました。

しかし、その検討中に明治天皇が崩御されたため、当然記念式典はとりやめとなり、しかも続いてその3年後の1914年(大正3年)には皇后であった昭憲皇太后が崩御されました。

このため、政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けた上で、1915年(大正4年)に「官幣大社明治神宮」を創建し、ここにこのお二人を祀ることを発表。

こうして内苑(明治神宮敷地内)として現在の明治神宮が建設されることになり、その敷地には、日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられました。献木は、無論タダですが、その運搬費や植樹のための費用は当然、国費によるものです。

このとき、その植樹にあたってはきちんとした「植林計画」が立案され、これは「明治神宮御境内林苑計画」というもので、その内容はこの当時としては斬新なものでしたが、現在でも通用するかなり学術的にも高度な計画でした。

というのも、現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこのとき既にこの計画に盛り込まれており、これは、実際の植樹においては多種多様な樹種が植栽されますが、これが年月を経て、およそ100年後にどのような形態の森になるかを「予測」して植樹するというものでした。

こうして完成させる予定の森は、広葉樹を中心とした「極相林」と呼ばれるもので、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることが補償される、いわば森としては最高品位、「クライマックス」の形態を持ったものといえます。

こうした造園がこの時代にあって科学的に予測され実行されたというのは驚異的なことだといえ、この技術はその後日本の造園科学の嚆矢となり、日本における近代造園学の創始を飾る技術であるともいわれています。

植林事業そのものは1915年(大正4年)に開始されましたが、1970年(昭和45年)の調査時には247種17万本となり、98年とほぼ100年が経過した2013年現在ではほぼ完成形といえ、都心部の貴重な緑地として親しまれています。

最近、人工林を意図的に自然林化したものとして、注目されるようになり、最近の環境ばやりでさかんにメディアなどでも取り上げられているので、こうした番組をご覧になった方ももしかしたらいらっしゃるかもしれません。

ところが、一方の明治神宮外苑のほうは、政府事業として造営されたものではありません。無論敷地は政府に提供されたものでしたが、その造園にあたっては民間有志により結成された「明治神宮奉賛会」が広く国民より寄付を募り、全国にある「青年団」が勤労奉仕を行うことによって事にあたりました。

青年団とは、日本の各地域ごとに居住する20~30歳代の青年男女により組織される団体です。そのルーツは室町時代あるいはそれ以前までさかのぼると言われ、江戸時代には各村落ごとに若者組、若連中、若衆組などと呼ばれ、村落における祭礼行事や自警団的活動など村の生活組織と密着した自然発生的な集団でした。

明治維新により近代国家の建設と共に自給自足的な村落が解体する中で伝統的な若者制度も消えていきましたが、自由民権運動の影響を受ける世の中で、各地で「青年会」ができるようになり、やがて全国へ青年組織の結成が広まっていきました。

明治天皇の崩御に伴って持ち上がった明治神宮の造営の動きに対しても、この青年会は敏感に反応し、内務省の呼びかけもあったことから、日本中より280団体、15000人の青年団員が動員されることになり、外苑建設も彼らの手によって行われることになったのです。

これを契機に、全国の青年団を一つに結びつける組織、「大日本連合青年団」が結成されましたが、今も明治神宮外苑内の神宮球場のとなりにある「日本青年館」は、このときに結成された青年団本部の名残になります。

全国青年団員の一円拠金活動により1925年(大正14年)に建てられたものであり、現在は増改築され、結婚式なども行われるホールになっています。現在でもここに本部が置かれ、日本の約半数の市町村にある青年団を統括しており、この青年団員は全国に約10万人もいるそうです。

ちなみに、この日本青年館から数百メートル離れた「キラー通り」というところに、大学を卒業してすぐに私が就職したかつての職場があり、この日本青年館前の広場にはお昼休みなどにはよく散歩に出かけていました。

日本青年館の周辺だけでなく、周囲の神宮外苑の園地もよく歩き回ったことが思い出され、外苑、青年館、というキーワードを聞いただけで若かりしころに仕事や恋で悩んでいたことなどがフラッシュバックされ、ちょっと切ないかんじにもなったりします。

この神宮外苑の敷地は現在の東京都新宿区と港区にわたり、聖徳記念絵画館を中心に、明治神宮外苑競技場(現在の国立霞ヶ丘陸上競技場)、明治神宮水泳場、そして本日の話題の中心、明治神宮野球場などがあります。

さらにちなみに……ですが、かつてこの外苑には明治神宮の北側には表参道ならぬ「裏参道」があり、ここから千駄ヶ谷を通って明治神宮外苑・外苑橋まで続く道路には、これに沿って乗馬道が整備されていたそうです。しかしながら戦後には遊歩道となり、現在は首都高速道路4号新宿線に変わっています。

神宮外苑球場の完成

前述のとおり、この明治神宮外苑は、民間有志により結成された「明治神宮奉賛会」が、「大日本連合青年団」のメンバーを募り、彼らが勤労奉仕を行うことによって完成されましたが、神宮外苑球場もまた彼らの奉仕によって建設されました。

この神宮外苑全体が陸軍の練兵場であったことは前述したとおりですが、この神宮野球場の建設地に限っていえば、江戸時代には、江戸幕府に使えた甲賀者の「百人組」が住んでいたそうです。その居住地も「青山甲賀町」と呼ばれ、与力、同心の屋敷、鉄砲射撃場などがあったといいます。

その総工費の9割方もまた「明治神宮奉賛会」によって出費されました。ただ、その工事費のうち、5パーセントほどは、1925年(大正14年)に結成された「東京六大学野球連盟」から寄付されたものでした。これが、この神宮外苑にある。神宮球場の運営において、現在でもプロ野球組織よりも、学生野球連盟のほうが強い発言権を持っている理由です。

敷地造成工事に着手したのも、「東京六大学野球連盟」が結成された大正14年の12月で、翌大正15年10月に竣功式が行われ、摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)と閑院宮載仁親王が臨席し、初試合として東京対横浜の中等学校代表および東京六大学選抜紅白試合が行われました。

東京六大学はこの年の秋季よりリーグ戦での使用を開始し、1927年(昭和2年)からはこの球場を会場として都市対抗野球大会も始められています。

その後、早慶戦などで収容能力に不足が見られたため1931年(昭和6年)に改修、公称収容人数は31,000人から58,000人に増えました。東京六大学はこの年からリーグ戦の全試合を神宮球場で開催するようになり、1932年(昭和7年)には東都大学野球連盟のリーグ戦も開催され始めました。

このように大学野球連盟が建設に関与し、明治神宮が管理運営するというスタイルから、戦前は「アマチュア野球の聖地」とされ、そもそもこの球場でプロの選手がプレーするのは論外という雰囲気があったようです。

ところが、読売新聞社長の正力松太郎が、「将来プロにする」ということを伏せ、後に読売ジャイアンツとなる、「全日本チーム」を組織し、1934年(昭和9年)にアメリカメジャーリーグを招待し、その選抜チームとの交流試合をこの神宮球場で無理やりに開催させました。

すると、「読売がアメリカの商業野球チームを招き神聖な神宮球場を使った」ということで、世論の反発を招き、この結果、正力はその翌年2月に右翼に切りつけられるという事件に見舞われています。

犯人はアマチュア野球ファンを装ってはいましたが、天皇機関説(天皇を最高指揮官として国家運営を行う)を支持していたともいわれ、国粋主義の右翼だったともいわれているようです。

必ずしも純粋な野球ファンがおこした事件ではありませんでしたが、正力が襲われたことについては快哉を叫ぶ声もあがったようで、このように戦前の神宮球場はアマチュア野球のメッカとみなされる雰囲気が強く、日本国内では阪神甲子園球場とならんで「野球の聖地」とうたわれた野球場でした。

しかし、日中戦争勃発後の1938年(昭和13年)には都市対抗野球大会が完成直後の後楽園球場に会場を移し、さらに1943年(昭和18年)には太平洋戦争の激化により文部省からの通達で、東京六大学と東都野球リーグは共に解散となってしまいました。

1945年(昭和20年)5月には、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)によって神宮球場も被災。火災によって一部が崩れ落ちるなどの被害も出ましたが、なんとか元の形は保ったまま終戦を迎えます。

敗戦後には、米軍により接収され、連合国軍専用球場として 「Stateside Park(ステイトサイド・パーク)」の名称で使用されるようになりました。

それでも日本人の使用にも開放されることもあり、1945年(昭和20年)には東京六大学OB紅白試合、オール早慶戦、職業野球東西対抗戦などが行われ、このうちの「東西対抗戦」は1936年(昭和11年)に発足したプロ野球リーグ(日本職業野球連盟、のちに日本野球連盟→日本野球報国会に改名)が、初めて神宮球場で開催した商業試合でした。

1946年(昭和21年)からは東京六大学と東都リーグが復活しましたが、米軍は春季の使用を認めず、秋季からの一部の試合だけで使用が許されました。

東京六大学の中には、東京大学が含まれており、帝国主義者を養成してきたこの大学には球場を使用させない、というのが理由だったそうで、結局大学野球が完全に自由に行われるようになるのは、米軍が完全撤収した1952年(昭和27年)以降のことでした。

とはいえ、野球の発祥地であるアメリカからやってきた米軍もこの球場の復旧には尽力を惜しまず、1946年(昭和21年)5月から6月にかけては修復工事を行い、これによって照明設備が新たに設置され内野にも天然芝が敷かれています。

こうして、1948年(昭和23年)、プロ野球公式戦初試合となる、金星スターズ対中日ドラゴンズ戦が行われ、また全日本大学野球選手権大会の前身である大学野球王座決定戦なども開催されました。

東京六大学は上井草球場などと併用してリーグ戦を行っていましたが、1950年(昭和25年)には、秋季から全試合での開催を認められています。連合国軍による接収が解除されて、その運営権が元の明治神宮に返還されたのは、サンフランシスコ条約の発効間近である1952年(昭和27年)3月のことでした。

こうして連合国軍による接収が解除された後は、内野天然芝と照明が撤去され、バックネット裏前列に1953年(昭和28年)から放送が開始されたテレビ放送席が新設され、さらに1962年(昭和37年)には相撲場跡地に「神宮球場第2球場」が完成しました。

プロ野球の拠点球場として

1962年(昭和37年)からは閉鎖される駒澤野球場の代わりとして東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)が使用を開始。次いで1964年(昭和39年)からは、それまで後楽園球場を本拠地にしていた国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が、東映と入れ替わるように移転してきました。

これらの動きには学生野球界は強く反対したものの、プロ野球の参入は一般市民にも歓迎されたため阻止できず、結局はなしくずし的にその使用が認められていきました。

東映フライヤーズが神宮に移ってきた背景としては、その前年の1961年(昭和36年)、フライヤーズの本拠だった駒澤野球場が、東京オリンピック(1964年)の開催に伴い東京都から用地返還を求められたため閉鎖されることになったことがあります。

東映は次の本拠を探す中で、1962年(昭和37年)明治神宮側へ、この当時まだ神宮球場の隣に建設中だった第2球場の使用を願い出ましたが、これを知った学生野球界から強い反対が出、このためいったん明治神宮はこの申し出を断ります。

しかし、東映はあきらめず、駒沢を追い出される原因を作った都に仲介を持ちかけ、結局、この年にこれを認めてもらうことに成功。

ただし、学生野球の試合が開催される場合それを優先すること、6月から9月にナイターで試合を行うことなどを条件に神宮球場の使用が認められました。あくまでも仮の処置であり、後楽園球場(現東京スタジアム)と併用する形でしたが、それでも全試合数の約半数が神宮で行われるようになりました。

こうして、神宮球場は事実上、東映フライヤーズの拠点球場となり、この年、パ・リーグ優勝を果たした東映は日本シリーズ・阪神タイガース戦の主催3試合中第3、4戦の2試合も神宮で開催させてもらっています。

第5戦は学生野球優先の取り決めもあり、後楽園球場で開催されましたが、翌年の1963年(昭和38年)には東京オリンピックの協賛チャリティーというサブタイトルでオールスターゲームも初開催されるなどの既成事実が重ねられていった結果、次第に一般でも神宮球場はプロ野球が行われる球場としての認識が高くなっていきました。

かつてのアマチュア野球の殿堂も、次第にプロ野球が行われる場としての人々の記憶が際立つようになり、ファンの間からももっとプロ野球での使用を容認しても良いのではないかとする空気ができてきました。

この結果、1964年(昭和39年)からは、それまで後楽園球場を本拠地としていた国鉄スワローズもまた神宮球場を正式に専用球場としたいと表明します。

一方の東映は、これとは反対に国鉄スワローズが拠点にしていた後楽園球場を自分たちの本拠地にしようと考え始めました。このため、その年から日程の余裕がある限りは後楽園球場で主に試合を開催するようになり、神宮での試合数はおよそ3割に抑えるようになりました。

そして、翌1965年(昭和40年)からは正式に後楽園球場は東映の専用球場とすることに決定されることになり、神宮球場は「準本拠地」という扱いになりました。

こうして結果的には、後楽園と神宮それぞれを本拠地とする両球団が入れ替わるかたちになりました。が、両者がそれまでに本拠としていた球場を併用する形式はその後1980年(昭和55年)まで続き、国鉄は後楽園を、東映は神宮をそれぞれ「準本拠地」として使用するという不規則な形がその後もしばらく続きました。

とはいえ、国鉄スワローズはプロ野球球団としては初めて、それまではアマチュアのメッカとされていた神宮球場を専用球場とし、ここを「本拠地」とすることができるようになりました。

しかし、東映と同様に学生野球を優先することを求められており、このためヤクルトスワローズとなった現在でも神宮でのデーゲームは例年、学生野球の行われない4月上旬・6月下旬・9月上旬などに限定されています。

また、一般的にプロ野球では試合前の練習自分の本拠地の球場のグラウンドで行いますが、神宮球場では日中に学生野球の試合が行われる際には、外野側場外にある軟式野球場や屋内練習場を使って行われています。

1974年に国鉄スワローズがヤクルトスワローズに改称になって以降、1978年(昭和53年)には、初めてリーグ優勝したものの、シーズン中には常に東京六大学が優先され、対阪急戦の日本シリーズは後楽園球場で振り替え開催されるということもありました。

その後、1992年と翌1993年の日本シリーズ(いずれもヤクルト-西武戦)では、東京六大学、東都大学両野球連盟との調整により、初めてヤクルトのホームゲームが神宮球場で開催され、以降、日本シリーズのヤクルト主管試合は全て神宮での開催となりました。

ところが、このうちの1992年の日本シリーズでは、表彰式終了直後に六大学野球の試合が行われたため、普段よりはるかに多い観客が日本シリーズと六大学の両方の試合を観戦したというエピソードが残っています。

このように、いまだに大学野球との併用運営を行っている関係からか、神宮球場はヤクルトの本拠地であるにも関わらず、昔からビジターチームのファンが多いことで有名です。

レフトスタンドは大抵の試合でビジターチームのファンで埋まり、特に読売ジャイアンツ・阪神タイガース戦の際にはライトスタンドを除いて巨人・阪神ファンが大半を占めることも珍しくないといいます。

おそらくは、大学野球で活躍した選手たちの多くが、その後プロに転向し、これらの人気チームに流れているためでしょう。かつては大学野球ファンとして神宮で応援し、その名残としてプロ野球も神宮球場に見にやってくるものの、お目当てはヤクルトの選手ではなく、相手チームの選手というわけです。

加えてヤクルトは1990年代には何度も日本一になったりして人気球団でしたが、近年の成績低迷でファンが減少したこともあるでしょう。かつて古田敦也が監督就任時には「東京」ヤクルトスワローズへの改称やユニフォームの一新を求めたそうですが、「神宮をヤクルトファンで満員にしよう」の合言葉の実現は今年もかなり難しそうです……

さてと、かなりの分量になったので、突然ですがやめます。この三連休はどこへ移行にも観光客ばかりなので、外出は控えようかなと思ったりしています。

それにしても天気はよさそうです。がまんできるでしょうか……