史上最大の作戦

2014-1030818先日、中四国・近畿地方にひきつづき、東海地方も梅雨入りしたとの気象庁発表がありました。

えっ!?もう?という向きもあるでしょうが、例年だと8日ぐらいが梅雨入りになるようですから、それより数日早い程度で、想定内といえば想定内です。

この「想定内」というのは、2005年の流行語大賞にもなりました。この年の2月、ホリエモンこと、堀江貴文氏が社長を務めるライブドアが、ニッポン放送の株を大量に取得して同社最大株主となり、すわ乗っ取りかと騒がれました。

このため、堀江氏は株取得が報道された直後から当時ニッポン放送の子会社だったフジテレビジョンを出入り禁止になり、出演していた同局の人気番組「平成教育委員会」などからも降板させられましたが、直後の記者会見でこのとき彼が放った言葉が「想定の範囲内」であり、その後、これを略した「想定内」が大流行するようになりました。

この想定内とは、わざわざ説明するまでもありませんが、物事が、事前に予想した範囲の内に収まっていることを指します。無論、反対用語は「想定外」です。

何をもって想定内とするかは、それを予想する時間スパンの要素に加え、その時の状況やその状況に至った経緯、そして想定であるか想定外であるかを判断するための知識量に大きく左右されるわけですが、なんでもかんでも想定内、というような超人はいないはずで、たいていの予想ははずれるものです。

第二次世界大戦中の1944年6月6日に、連合軍によって行われたナチス・ドイツ占領下の北西ヨーロッパへの侵攻作戦である、ノルマンディー上陸作戦においても、侵攻される側のドイツ軍は、連合軍がどこに上陸するかについての予想を極めることができずに緒戦で敗れ、その後の継戦能力を大きく削がれる事となってしまいました。

この「史上最大の作戦」が決行される前、ドイツは北欧からスペインに至るほとんどの国を占領し、その次の矛先をソ連に向け、ヨーロッパ東部にその主力を置いていました。ところが、このヨーロッパ占領前には、イギリスにも進行しようとした矢先にこれに失敗しており、このためイギリスだけはドイツの魔の手から逃れる形になっていました。

東欧に侵攻しようとするドイツにとっては、イギリスはその背後を脅かす脅威となったわけであり、万一大西洋側からイギリスとアメリカが共同で攻めてくるようなことになると、東部におけるソ連との戦線とともに、二面戦争となり、せっかく手にいれたヨーロッパを失いかねません。

そこで、ドイツはノルウェーから、フランスを通って、スペインに至る長大な海岸線沿いをすべて要塞化しようとし、「大西洋の壁(Atlantic Wall)」と呼ばれる厳重なる防衛体制を構築しようとしました。

「大西洋の壁」は連合軍の攻撃をはじき返すための強力な防御施設の連続で、「ドイツの背後を突こうとする連合軍を、大西洋に叩き返す」と、ヒトラーは内外にプロパガンダを発していました

これを現実のものにするため、ドイツが注いだ力は凄まじいもので、膨大な量のコンクリート、セメントが集められ、徴用された何万人もの労働者たちが、狂人のヒトラー自身すら「狂信的」と表現するほどの突貫工事を進めました。

しかし、あまりにも膨大な建設資材の必要性に対して、特に鉄鋼材は少量しか入手できなかったため、大規模な大砲陣地などの強力な施設の数は少数にならざるを得ず、フランス軍が独仏国境に構築した要塞などから、設備を取り外して建設を進めることなどを余儀なくされました。

そもそもノルウェー沿岸からスペインにまで達する、5000キロ近い大西洋沿岸すべてを要塞化することが不可能なのは明白だった上に、東部戦線でのソ連軍はなかなか手ごわく、この時期のドイツは明らかに、西部戦線よりも東部戦線の方に力を注がなければならない状況でした。

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にもかかわらず、二面戦争に突入せざるを得ない状況を作ったのは、緒戦でイギリス手痛い敗北を喫したということもありますが、明らかにヒトラーの驕りであるとともに戦略ミスであり、この点、中国大陸以外にも、太平洋南部にまで部隊を次々に展開して兵站を伸ばしすぎ、自滅していった日本とよく似ています。

ドイツ側は、連合国の進行に対して、智将・名将として名高いロンメル将軍をこの西部戦線に投入しましたが、ロンメルは北アフリカで米英と闘った経験から、連合軍の侵攻を防ぐ方法はただ一つ「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら、陸に達しようとしているとき」であり、水際で徹底的に殲滅することしかない、と確信していました。

このため、ロンメルは機甲部隊の海岸近辺への配置を望んでいましたが、ドイツの西部方面軍総司令官ルントシュテットは、内陸部に連合軍をあえて引き込み、連合軍の橋頭堡がまだ固まりきらないうちを狙って撃滅する作戦を支持し、どちらが正しい作戦かを巡って二人は対立しました。

この両者の論争を解決するために、ヒトラーはフランス北部で運用可能な機甲師団6個のうち、3個をロンメルに与え、残りの3個は海岸から離れた位置に温存配備し、ヒトラー直接の承認無しでは運用出来なようにする事で、この作戦の方向性を折衷案のような形をもって決着させました。

この判断は後になって問題になりました。上陸が行われた後、ヒトラーが残りの3個師団の運用許可を出すのに時間がかかり、このため残りの3個師団を有効に活用できなくなったためです。

また、後方に温存されていたため沿岸部に向かって移動する最中に連合軍の戦闘爆撃機などに襲われ移動速度は低下し、移動中に多くの戦車を喪失する結果となりました。

さらに、ドイツ側は、連合国側の陽動作戦に惑わされてしまいました。この上陸作戦にあたっては、イギリス本土基地からフランス側へ飛ばす連合軍戦闘機の航続距離には限りがあり、地理学的にみてもその上陸地点にはあまり選択肢がありませんでした。

このため、上陸地点はギリス本土から距離的に最短であるドーバー海峡の向こうにある、パ・ド・カレー(カレー港)か、これより西方のノルマンディーの2地点に絞り込まれていきました。連合国側としては、ドーバー海峡を挟んで最も短距離のパ・ド・カレーが最適と考えていましたが、当然の事ながらドイツ側もここへの上陸を警戒していました。

このため、色々な議論が戦わされましたが、結局、連合国側は上陸地点としてノルマンディーを選択しました。

ノルマンディーはドイツ軍の布陣が薄かったこともありましたが、ここはフランス国内各地やドイツ本国方面で繰り広げられていた戦闘地からやや離れており、戦略的にはドイツの防御を混乱させ分散させる可能性を持つ攻撃地点であるからでした。

しかし、ノルマンディーが最終的に選択されたことをドイツ側に悟られることを恐れた連合軍は、侵攻作戦の目標がパ・ド・カレーであり、また隙あらばドイツ占領下のノルウェーに侵攻する準備が整っているとドイツ軍に思い込ませることにしました。

このため、連合軍は「ボディガード作戦」という大規模な欺瞞作戦を展開しており、この中で、架空のアメリカ軍師団を偽の建物と装備と共に作り、いかにもこの軍隊が、カレーやノルウェー方面に展開し始めているかのような、偽のラジオメッセージをイギリス各地に流し始めました。

更にこの作戦により現実味を持たせるため、その架空軍団の指揮官には当時謹慎中だったパットン将軍が指名されました。

パットン将軍といえば、映画「パットン大戦車軍団」で有名なアメリカの猛将ですが、この当時イタリアのシチリア島での作戦の最中、野戦病院を見舞った際に、まったく外傷のない兵士を見つけ、臆病であるとしてその兵を殴打するという事件を起こしていました。

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実は、この兵士は砲弾神経症(シェル・ショックという)によって精神状態が不安定になっていたために入院していたのですが、一見健康そうな者が重傷者達と一緒に病院のベッドに寝ていることがパットンには我慢がならなかったのです。

運の悪いことに、このとき現場の医師がこの件をアイゼンハワーに報告したため、かねてより癇の強いパットンを疎んじていた司令部は、この事件を報道に流してしまい、「兵士殴打事件」として世に広く知られるようになってしまいました。

この報道ではまた、砲弾神経症がどのようなものについての説明はなされておらず、このためパットンは何もしていない兵士を殴ったという認識が世間では持たれました。

アイゼンハワーはこれを機会にパットンを本国に送還するつもりでしたが、結果的には思いとどまり、前線指揮官の地位を剥奪するにとどめました。パットンはその後自主的に被害にあった兵と現場にいた兵士達に謝罪しましたが、第7軍の指揮を外され、その後カイロで10ヶ月近く待機することとなっていたのです。

しかし、ドイツは側としてはそんな事情はつゆしらず、この架空の部隊の存在にかき回されるようになりました。ドイツはこの当時、イギリス南部の広範囲にスパイ網を持っていたため、実際の上陸地点を知るため盛んに諜報活動を行っており、さかんにこうした情報が本当に正しいかどうかを探ろうとしました。

ところが、不運なことに連合国側に寝返った諜報員が多く、ほとんどの情報は上陸地点がパ・ド・カレーであることを確認するものでした。さらに連合国側はカレーやノルウェーへの侵攻をドイツ側に信じさせるため、これらの地域のドイツ軍のレーダー施設や軍事施設への攻撃をとくに集中させるようにしました。

ノルマンディーに1トンの爆弾を落とした場合はパ・ド・カレーに2トンの爆弾を落とすと言う具合で、あくまでノルマンディー方面はフェイントであり、パ・ド・カレーが連合軍の主目標であることを印象付けるようにしました。

さらには、北欧により近い、イギリス北部のスコットランドから無線交信を流し、この交信の中で、侵攻作戦がノルウェーあるいはデンマークを目標としているといった偽の情報を流し、これをドイツのアナリストに認識させるようしむける、と言ったことも行われました。

この作戦は功を奏し、ドイツ軍はこの架空の脅威のため、この地域の部隊をフランスに移動させることができませんでした。

ところが、智将として知られるロンメルはやはりバカではありませんでした。彼は連合軍が上陸するのはノルマンディーに間違いないと考え、着任の後、全力でノルマンディー沿岸の防御施設の構築を推し進めました。

手に入る限りの資材・人員・武器・兵器を全て投入し、その中でも地雷は最も多く投入され、ノルマンディー沿岸の全体に埋められたその数は約600万個以上であったといい、その他にも波打ち際の海中に立てられた杭には機雷をくくりつけ、砂浜に障害物を置き、空挺部隊が降下しそうな地域を増水させ罠を設置するなど出来る限りの備えを施しました。

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このロンメルが施した防衛設備は、のちに実施に移された上陸作戦において連合国側に大きな被害を与えました。とくにもっとも激戦地といわれたオマハ・ビーチでは、2500名とも、4000名とも言われる、多数の死傷者が出ました。

死傷率が一番高かったので「ブラッディ(血まみれの)・オマハ」と呼ばれましたが、その他の上陸地点もこれほどの被害は出なかったとはいえ、大きな人的損傷を受けました。

カナダ軍が上陸した、ジュノー・ビーチではドイツ軍が据えていた20基もの重砲台に直面し、機関銃の巣とトーチカや他のコンクリート堡塁、そしてオマハ・ビーチの二倍の高さの護岸堤に阻まれて、その第一波は、オマハ以外の5つの上陸拠点のうちで最高の50パーセントの死傷者を出しました。

この上陸作戦の決行の日にちを、連合国側は、Dデイ(D-Day)と呼んでいました。このDの由来については諸説ありますが、欧米ではこの当時から漠然とした日付をDayの頭文字をとって“D”とする習慣があったようです。

上陸作戦のDデイは当初1944年6月5日に設定されていましたが、悪天候により延期され、6月6日になりました。のちにノルマンディー上陸作成の実施によって「Dデイ」が一般に広く知れ渡ったため、その後は、各国の軍事作戦立案担当者は作戦開始の日付として「Dデイ」と呼称するのを避けるようになりました。

例えば、ダグラス・マッカーサー元帥指揮によるレイテ島への侵攻作戦は「Aデイ」と呼称され、沖縄侵攻作戦は「Lデイ」と呼ばれました。マッカーサーは九州における日本本土侵攻作戦の開始日を「Xデイ」としていたそうで、そのあと実施する予定であった関東への上陸は「Yデイ」と提案していたそうです。

上述のとおり、当初このDデイは6月5日になる予定でした。ところが、この日ドーバー海峡付近は激しい暴風雨に見舞われていたためアイゼンハワーは作戦期日の1日延期を決定し、Dデイは6日になりました。

このため、6月5日のノルマンディー沖での集結のため4日からすでに出航していた輸送船団は中止の命令を受けて引き返すなどの混乱がありましたが、ドイツ側でもこの悪天候によって判断を狂わされる結果が生み出されました。

ドイツ側は、この天候は9日ころまで回復しないであろうと予想していましたが、これはこのころ既にドイツ軍は大西洋方面の気象観測基地を多く失っていたためだといわれています。

このため、ドイツ軍上層部は、当分連合軍の上陸はないと判定したため幹部の休暇要請の許可まで出しており、ロンメル将軍のほか、海軍総司令官カール・デーニッツをはじめ、西方軍集団情報主任参謀マイヤデトリング大佐、諜報を担当する国家保安本部軍事部長ハンセン大佐も休暇をとっていました。

このように、予報にかけては連合軍が有利であり、6日に既に天候が回復すると観測し、開戦前日の6月5日、ドイツ時間午後9時15分、「秋の歌」第一節の後半「身にしみて ひたぶるに うら悲し」という暗号放送を流しました。

これは「放送された日の夜半から48時間以内に上陸は開始される」との暗号でしたが、ヴィルヘルム・カナリス海軍大将が指揮するドイツの諜報機関、国防軍情報部、通称、アプヴェールはこれを傍受し、直ちに関係する各部隊へ警報を発しました。

実は、連合軍は徹底的に上陸作戦についての情報を秘匿していたにもかかわらず、アプヴェールは、作戦が開始される前兆として、BBC放送がヴェルレーヌの「秋の歌」第一節の前半分が暗号として放送されるという情報をつかんでいました。

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ところが、のちに製作された映画「史上最大の作戦」の原作者であるコーネリアス・ライアンも「謎」と評しているように、不思議なことにドイツの各部隊はこの情報を得ても何も表立った対応をとりませんでした。

西方軍集団司令部参謀長ブルーメントリットなどは「商業ラジオで作戦を予告する軍司令部など、この世にあるはずがない」と、この情報を無視し、他の幹部たちもこの情報を重視しませんでした。ドイツ軍が最も侵攻を恐れていたカレー方面に展開した部隊のみは、すわ侵攻かと備えましたが、ここからも上級司令部に通報は行われませんでした。

かくして「史上最大の作戦」が開始されました。実際には、ノルマンディーへの上陸に先立ち、その前日の6月5日の夜から上陸位置の側面を制圧し、ドイツ軍の反攻を阻止する目的で、ノルマンディー東部においてイギリス・カナダ陸軍空挺部隊の強行着陸・空挺降下による制圧・占領・破壊作戦が実施され、これはトンガ作戦と呼ばれました。

実際に海岸から上陸が開始されたのは、6月6日の午前0時を回ってからで、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始しました。

その規模はまさに、「史上最大」であり、海空からを合わせて47個師団が投入され、その内訳はイギリス軍、カナダ軍、自由ヨーロッパ軍26個師団にアメリカ軍21個師団でした。

この「師団」というものの編制については、国や時期、兵科によってかなり異なりますが、21世紀初頭現代の各国陸軍の師団は、2~4個連隊または旅団を基幹として、歩兵、砲兵、工兵等の戦闘兵科及び輜重兵等の後方支援部隊などの諸兵科を連合した6千人から2万人程度の兵員規模になります。

従って、平均して1万3千人が一師団だとすると、全体では60万人規模の作戦であったことになります。また、用意された上陸用舟艇4,000隻といわれ、艦砲射撃を行う軍艦130隻を含む6,000を超える艦艇が投入されました。

さらに1,000機の空挺部隊を運ぶ輸送機を含む12,000機の航空機が上陸を支援し、ドイツ軍に対して投下するために合計5,000トンの爆弾が準備されました。

これに対し、Dデイ当時のフランスには約200個大隊ものドイツ軍兵士が駐留していたといわれており、1大隊の編制は平均的には5~600人ぐらいですから、全体では10万人規模の兵士がいたことになります。

ただ、こうしたドイツ国防軍所属の正規兵以外にも、武装親衛隊が編成した志願兵である「義勇兵」などもおり、その正確な数字はわかりませんが、これを合わせると15万人とも20万人ともいわれるドイツ兵がいたことになります。

もっとも、こうした義勇兵はドイツ語も喋る事が出来ず、訓練の水準も低く武器も古いものしか支給されなかったようで、一部の部隊を除いて士気は総じて低く、連合軍の部隊が近付いただけですぐに降伏してしまう者が多かったといいます。

また、ドイツ軍は、カレー方面への侵攻を連合国側に信じ込ませられていたため、この方面には、4万近くの空軍や海軍兵が駐屯していたものの、残る兵士たちは、長々と続く「大西洋の壁」に分散させられ、拠点毎にはかなり手薄の場所もありました。

しかし、ドイツ人というのは、要塞を作るのが得意な人種で、上述のとおり、ロンメルが連合軍の攻撃をはじき返すために建設した強力な防御施設は実に頑強なものでした。その多くは地下式でコンクリートと鉄骨鉄筋を用いた砲爆撃に耐えられるものであり、襲来してきた敵に対して有利に防衛戦を展開するため、徹底的な設備の隠蔽が行われました。

カムフラージュは厳重を極め、砲台・観測所等は植物・網・擬装民家などで隠蔽され、上陸してきた連合国側は、当初どこから弾が飛んでくるかを判断できず、初戦において大きな被害を出しました。

しかし、この地域のドイツの空軍力は貧弱でした。この時フランス北部沿岸全体に183機しか戦闘機を保有しておらず、しかもそのうち使用可能機はたった160機でした。

これはドイツ本土への空爆に対応させるためと、残り少ない戦闘機を、とりわけ爆撃の激しいフランス北部沿岸で損耗させることを避けるための措置でしたが、ドイツの国防軍最高司令部が海の荒れる6月には連合軍は上陸しないと見ていたのも大きな要因でした。

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このため、6月6日の当初の上陸作戦に対しては、カレーにほど近いリールという場所にあった飛行場から、2機の戦闘機が出撃し、上陸中の連合軍に一回の機銃掃射を加えたのが、ドイツ空軍戦闘機が唯一行った上陸作戦に対する攻撃でした。

それでも、Dデイの翌日には15個以上の飛行隊が可及的速やかに異動され、その結果約300機ほどの戦闘機が西部戦線に配備されました。しかし、それにしても連合軍空軍に比べると明らかに劣勢でした。

その後、戦線が膠着するにつれ、ドイツ空軍は壊滅的状態に陥り、7月に入る頃には170機ほど失い、このため、制空権はドイツ空軍の手に入ることはほとんどありませんでした。この結果、ノルマンディーで散々連合軍の戦闘爆撃機に悩まされる事となったドイツ兵達は「我々の空軍は何処だ?」と嘆く事となりました。

また、ドイツ海軍もこの事態に対処するために動きましたが、圧倒的な連合国の海軍力によって制海権をほとんど得ることができませんでした。この海域にはおよそ50隻のUボートが敵上陸に備え配備されていましたが、いたずらな損耗を避けるため、実戦には投入されませんでした。

しかしもともとドイツ海軍には開戦以前から大型艦は乏しく、しかも1942年にフランスにおいて激しい英軍の空襲からの損耗を避けるため北海へと移動していたため、この侵攻作戦時には、フランスには小艦艇のみが残存するだけでした。

上陸作戦開始当初、ルントシュテットとロンメル両司令官やその他の主要幹部、そして最高司令官のヒトラーは就寝中でした。このとき、不覚にもロンメルは妻の誕生日を祝うためにベルリンで休暇を取っており、このため直属の装甲師団を指揮することが出来ず、全体としても軍団の昼間行動は大きく制約され、有効な反撃が出来ませんでした。

ヒトラーのいる総統大本営にもノルマンディに連合軍の上陸行動ありと連絡されましたが、これはカレーへの本格上陸のための陽動であると判定され、このため寝起きが強烈に不機嫌なヒトラーは起こされませんでした。

連合軍の作戦範囲があまりに広かったこともあり、どこが実際の上陸地点かを把握するにも手間取り、これを本格上陸と断定できたのは日の出の後であり、ロンメルが連合軍上陸開始の連絡を受けたのはイギリスやアメリカの空挺師団が降下作戦を開始し始めてから、10時間以上も経った、午前10時15分に至ってのことでした。

さらにヒトラーが起床し、作戦会議が開始されたのは正午になってからであり、しかもヒトラーはなおも上陸作戦を主作戦ではないと見ており、第二の上陸作戦を警戒していました。

もしノルマンディーへの上陸が陽動だったとしても今のうちに叩いておかなければ主攻撃が来た時に十分に対応できない、とロンメルやルントシュテットが説明してもヒトラーは耳を貸さず、このため、ドイツ側はノルマンディーへの対処に全力を注ぐことはできませんでした。

上陸後は、連合国も大きな被害を出しましたが、一旦上陸拠点が確保されると、大量の物資や弾丸が毎日陸揚げされ、日に日に連合国側有利の情勢に変わっていきました。その反対に海岸に配置されたドイツ軍防衛部隊は、訓練不足および補給の不足、一週間にわたる爆撃によりその抵抗は次第に弱体化していきました。

ところが、連合国のうち、米軍空挺部隊は最初から分散して降下するはずではなかったものの、予想を上回る対空砲火のせいで輸送機が分散してしまい、その結果広範囲にわたって降下する羽目になってしまいました。しかし、そのせいでドイツ軍は降下してきた米軍空挺部隊の実数が掴めず対応に苦慮することになってしまいました。

また、上陸が始まった後も連合軍の仕掛けた欺瞞作戦は機能し続け、ドイツ軍上層部はかなり長い間、ノルマンディーへの上陸はカレー上陸を容易にするための陽動作戦ではないかと疑い、カレー方面の兵力を動かすタイミングを逃してしまいました。

ノルマンディーへの上陸作戦を主攻撃だと断定してカレー方面の部隊に移動命令が下った頃にはすでに状況は手遅れでした。ドイツは、6月7日、8日にカナダ軍を攻撃し大損害を与えましたが、この間に各管区の海岸は全て制圧されていきました。

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連合軍はドイツ軍より急速に前線を強化しつつ内陸部に侵攻し、制空権を握るとともにドイツが利用していたフランスの鉄道網の破壊作戦を展開し、ドイツ軍の移送を停滞させました。

また、ノルマンディーのすぐ西側にはシェルブールという重要軍港がありましたが、ヒトラーはここを連合軍に奪われないよう、死守するよう命じました。しかし、ここの指揮官は6月26日には早々と降伏してしまい、シェルブール港は連合国側の手に落ちました。

これにヒトラーは激怒し、この方面の作戦を指揮していた第7軍司令官フリードリヒ・ドルマン上級大将を叱責。軍法会議を恐れた彼は、心労から心臓発作を起こして死亡しました。が、実際には服毒自殺ではなかったかといわれています。

その後も、ノルマンディーより内陸では激戦が続きましたが、連合軍はさらに内陸へと進撃し、上陸から80日後の、8月25日、ついにパリの解放に成功しました。

全体的に見た場合、この作戦は大成功といえました。連合軍はフランス上陸に成功し、第二戦線を構築した結果ドイツ軍は二正面作戦を展開することを余儀なくされ、東部戦線でもソ連に満足に対応することができなくなりました。

この東部戦線では、ドイツ中央軍集団は壊滅的な打撃を受け占領していた地域のかなりの部分を失い、ドイツは継戦能力を大きく削がれる事となり、ノルマンディー上陸作戦はその後のドイツ敗戦への序章となりました。

ただ、連合国側は、作戦でもかなり重要なポイントとされていた大規模な港湾の確保に手間取ってしまい、作戦の初期段階で奪取するはずだったシェルブール港の侵攻にも時間がかかり、占領時点でも主要な港湾施設はドイツ軍守備隊により完全に破壊されていた結果、この港は8月末まで機能しませんでした。

同じく作戦の初期段階で奪取するはずだったノルマンディー内陸の拠点、カーンも占領に手間取り、連合軍が同市及びその周辺地区を完全占領下に置いたのは7月27日になってからでした。

ドイツ軍の守備の妙もあり連合軍はどの方面でも予定通りに進撃することができず、ノルマンディー以外のフランス解放はかなり遅れ、フランス全土の解放は、1945年1月、イタリア戦線で連合軍がドイツを撃破し、イタリア北部からフランスへの進撃が始まるのを待つこととなりました。

ドイツ側ではこの間、対米英和平に傾いたルントシュテットが7月2日に更迭され、西部方面軍司令官にはギュンター・フォン・クルーゲが就任しました。このクルーゲとロンメルは元々不仲であり、西部方面軍の結束はさらに乱れました。

また、反ヒトラーグループに参加していたシュパイデル参謀長もロンメルに対して対米英和平とヒトラー排除を進言するようになり、ロンメルも対米英和平を唱えるようになっていきましたが、これは後にロンメルが粛清される原因ともなりました。

ロンメルはヒトラーの大のお気に入りでした。ノルマンディー上陸作戦の行われる2年前、ヒトラーは彼のそれまでの戦いを賞賛して元帥に昇進させており、ロンメルは史上最年少のドイツ陸軍元帥となりました。戦争が始まる前は少将に過ぎなかったロンメルでしたが、戦争が始まって3年足らずで4階級も昇進するという前例のない出世をしていました。

ノルマンディー上陸作戦が敢行されたのち、フランス国内では連合国側とドイツは激しい攻防戦を繰り広げていましたが、そんな最中の7月17日、ノルマンディーの前線近くを走行中のロンメルの乗用車がイギリス空軍のスピットファイアによって機銃掃射され、ロンメルは頭部に重傷を負って入院しました。

そのわずか3日後の7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件が発生。暗殺は偶然が重なって失敗に終わったものの、首謀者の一人が、自決を図って失敗した際にうわ言のようにロンメルの名を口にしたため、ロンメルのこの計画への関与が疑われました。

そのおよそ3ヶ月後の10月14日、ヒトラーの使者として療養先の自宅を訪れたヴィルヘルム・ブルクドルフ中将とエルンスト・マイゼル少将は、ロンメルに「反逆罪で裁判を受けるか名誉を守って自殺するか」の選択を迫りました。

裁判を受けても死刑は免れず粛清によって家族の身も危うくなることを恐れたロンメルはこのとき、「私は軍人であり、最高司令官の命令に従う」とだけ言い、家族の安全を保証させた上で1人自宅の森の中へ入り、2人から与えられた毒をあおり自ら命を絶ちました。

圧倒的な戦功で知られたロンメルの死は「戦傷によるもの」として発表され、祖国の英雄として盛大な国葬が営まれました。しかし、ヒトラーはこの葬儀には参列せず、このときロンメル夫人はこの葬儀でヒットラーの後継ともいわれたゲーリングの敬礼を無視し、「夫を殺した」マイゼル将軍の握手を拒んだといいます。

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生前のロンメルはヒトラー暗殺計画について一切明言しなかったため、関与の有無は不明ですが、戦後、夫人は「エルヴィン(ロンメルのファーストネーム)はヒトラー暗殺計画に反対していた」と主張しました。

実は、ロンメルはその晩年には、反ナチ的な言動を繰り返しており、こうした態度を特に隠そうともせず、この戦争を引き起こしたナチの台頭を苦々しく思っていた節があり、ヒトラーの暗殺計画が失敗したあとに、取り乱したヒトラーの言動や行動を見て「どうやら本当に気が狂ったようだ」と漏らしたりしています。

あるナチス高官は、ロンメルが常々ナチスの犯罪や無能さを批判していたとゲシュタポに証言しており、暗殺には反対していたもののヒトラーを逮捕する事には賛成だったとする説もあるようです。

ロンメルは、連合軍のフランス侵攻に備えるために編成されたドイツ西方総軍を率いるルントシュテット元帥の指揮下に入ったとき、着任早々難攻不落だと大々的に宣伝されていた「大西洋の壁」を視察しています。

しかし、現物を見て、この宣伝が本当に宣伝だけであった現実を見て愕然としたといい、連合軍の上陸が予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合は80%、自分の部隊が展開していたノルマンディー地方では20%と言う悲惨な状況を見て、とても難攻不落とは言いがたいことを知ります。

その日よりロンメルは精力的に活動し、未完成の「大西洋の壁」を少しでも完成に近づけるために全力を傾注しましたが、ロンメルは北アフリカでの経験から連合軍が圧倒的な航空優勢のもとで攻撃を仕掛けてくるという事を理解しており、その圧倒的航空優勢下では反撃のために大規模な部隊展開を行う事が事実上不可能であることを知っていました。

このためロンメルはもし連合軍が攻撃を仕掛けてきた場合は上陸時に水際で徹底的に迎撃する事を主張したのですが、ルントシュテットとの対立により、彼の主張に基づく防衛体制は結局とられませんでした。

ロンメルは、もし上陸がおこなわれたら、その第一日目はドイツ防衛軍にとって「最も長い一日(Der längste Tag)になる」と訴えたそうですが、その一日はドイツにとって果たして長い長いものになりました。

ロンメルは、騎士道溢れる軍人だったそうで、火力で敵を押し込むハード・キルより相手を撹乱する事で降伏に追い込むソフト・キルを好み、捕虜には国際法を遵守して非常に丁重に扱ったといいます。

ロンメル暗殺を企図してイギリスのコマンド部隊がドイツ軍施設を奇襲攻撃するという事件がありましたが、この時にも、イギリス側で出た死者を丁重に扱っており、このコマンド部隊員を捕虜にせず殺害せよと命じたヒトラーの命令を無視したそうです。

また、ある戦いでユダヤ人部隊を捕虜にした際、ベルリンの司令部からは全員を虐殺せよとの命令が下りましたが、ロンメルはその命令書を焼き捨てたといいます。

彼は最後までナチス党に入党する事はなく、あくまで1人の軍人として戦い続けた数少ないドイツ軍人であり、また大隊長であった第一次世界大戦の頃から自ら進んで前線に出て兵士に語りかけ、兵士の心情を理解する事に努めた人でもありました。

本来、高級将校は前線に出ず後方で全般的な指揮を行うものですが、ロンメルはとくに瞬時に変遷する電撃戦などでは「前線で何が起きているか、兵士にさえわからない」と陣頭指揮を旨としました。規律に厳しく兵員を直接に叱責することもありましたが、兵士からは「Unser Vater(我らが親父)」と慕われていたそうです。

ユダヤ人の虐殺などの戦中の残虐な行為や、また敗戦国である事からナチス指導者やほかの多くのドイツ軍人が非難される中、ロンメルだけはドイツのみならず敵国だったイギリスやフランスでも智将として、あるいは人格者として肯定的に評価される事が多かったようです。

北アフリカ戦線でロンメルに苦しめられたイギリスのチャーチルでさえ「ロンメルは神に愛されている」と皮肉にも似た賞賛を残しています。

こうした立派な人物がドイツの指揮を執っていたら、第二次世界大戦は起きなかったかもしれませんが、いつの世にも言われるとおり、歴史には「たられば」はありません。かくしてナチスドイツは、歴史の中に消えていきましたが、ロンメルに代表されるようなドイツ人の良心は、その後のドイツの復興の中で大いに生かされました。

そんなドイツやノルマンディーのあるフランスにも私は行ったことがありません。いつの日かお金を貯めて、ぜひとも彼の地に行ってみたいと思っていますが、いつのことになるでしょうか……

お金持ちのあなたも、ヨーロッパへ旅行する機会があれば、ぜひかつてのこの激戦地へも行ってみてください。

さて、今日も長くなりました。終りにしましょう。

夕暮れの湘南海岸

6月はウマの季節

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今年は午年ですが、先日のこと、新聞で6月に行われる公的行事の一覧表をぼんやり見ていたら、スポーツの欄ではやけに競馬の大会が多いのが目につきました。代表的なものは国内では東京駿馬、安田記念のほか宝塚記念などがあり、イギリスでも、かの有名な「ダービー」(正式名はダービーステークス)」が開催されます。

実は、日本はアメリカ合衆国、オーストラリア、アルゼンチン、アイルランドに次ぐ世界第5位のサラブレッド競走馬生産国であり、世界的にみても競馬がさかんな国のひとつです。この競馬競技を支えるために、北海道の日高地方、青森県、岩手県などで競走馬を生産する牧場がたくさんあり、ばんえい競走の重種馬も北海道の各地で生産されています。

この競走馬ですが、オスの競走馬のことを、「牡馬」と書き、おうま、おすうま、ぼば、おま、などと呼びます。また、メスの馬は、「牝馬」と書き、こちらは、めうま、めすうま、ひんば、めま、と呼びます。種オス馬と繁殖メス馬を交配させ、繁殖メス馬を妊娠させて繁殖させますが、この交尾は一般に、毎年春に起こるメス馬の発情にあわせて行われます。

生まれてある程度成長したら、競走馬として扱われることにウマを慣れさせますが、これを「馴致」を行うといいます。もっとも初歩的な馴致は人間の存在に慣れさせることであり、1歳になると馬具の装着に慣れさせ、最終的には人間が騎乗することにも慣れさせます。

その後競走馬は「厩舎」に入ることになりますが、その前に仔馬に対し、競走馬としての基礎的なトレーニングを積ませます。これを「育成」といい、1歳後半から2歳の前半にかけて育成牧場で行われる騎乗馴致、騎乗訓練、調教などがあります。

競走馬用のウマは当初は生産者が所有しますが、やがて馬主によって購入されます。一般的な時期は生まれた直後から2歳にかけてです。購入方法はセリ市(セール)による場合と、生産者と馬主の直接取引(庭先取引という)による場合とがあります。

競走馬として登録され、デビューに備えて管理にあたる調教師の厩舎(トレーニングセンター)に預けられます。入厩の時期は一般に2歳の春から夏にかけてであり、競走に出走するまでに競走馬名が決定すします。日本においては2歳の春、すなわち4~7月頃以降に競走に出走することとなります。

3歳馬になるのもこの季節です。このため、3歳馬レースの代表的存在であるダービーステークスなどのレースが行われるのもこの季節が多くなり、これが6月に競馬がたくさん開催される理由です。

ダービーステークス(Derby Stakes)の略称である、「ダービー」とはこれを創設した人の名前です。一方、ステークスとは、近代競馬の成立以後、イギリスで賞金を懸けての競走が盛んに行われるようになった際、その賞金を拠出するため、レースに所有馬を出走させる馬主が賭け金、すなわち“stake”を出し合ったのに由来します。

この賭け金のこと、もしくはこれを集めたものは“stakes”と呼ばれ、やがては勝者あるいは事前に定められた番手の入着馬までに分配するという方法そのものをステークス方式と呼ぶようになりました。

ダービーはロンドンから南に約30キロ離れた、エプソム競馬場で行われる競技です。競争距離は約2400メートルほどで、他国のダービーと区別するために、特に欧米ではエプソムダービー(Epsom Derby)という表記も多く見られ。日本のメディア、特にテレビなどではイギリスダービーと呼ぶこともあります

1776年にセントレジャーステークスの盛大さを見たダービー伯爵(エドワード・スミス=スタンリー)とイギリスジョッキークラブ会長のチャールズ・バンベリー準男爵、そしてスタンリーの義叔父であるジョン・バーゴイン将軍の3人によって、1779年に創設されました。

セントレジャーステークスとは世界最古のクラシック競走であり、競走名は18世紀のスポーツ愛好家であったアンソニー・セントレジャー陸軍中将に由来します。出走条件は3歳限定で繁殖能力の選定のために行われるため、去勢を行ったオス馬、これを騸(せん)馬といいますが、当初はこの出走はできませんでした(現在は可)。

また、クラシック競走(Classic Races)とは、古くから施行されていた伝統的な競馬の競走を指す言葉です。

サラブレッド競馬である、2000ギニー(1809年創設。3歳オス馬メス馬限定)、1000ギニー(1814年創設。3歳メス馬限定)、オークス(1779年創設。3歳メス馬限定)、ダービーステークス(1780年創設。3歳オス馬メス馬限定)、セントレジャーステークス(1776年創設。3歳オスメス馬限定)の5競走を“British Classics”(英国クラシック競走)と呼びます。

これに習い、日本でもこの5競走に相当する3歳馬のための皐月賞、桜花賞、優駿メス馬(日本版オークス)、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞を「クラシック競走」と称するようになりました。

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ダービーステークスは、メス馬専用競争であるオークスステータスのオス馬版として創設されました。オークスステークス(The Oaks Stakes)というのは、ダービーと同じくエプソム競馬場で例年6月に行われる競馬のクラシック競走で、3歳のメス馬限定戦です。距離はダービーと同じです。

オークスのほうは、エドワード・スミス=スタンリ伯爵が自身と友人の所有するメス馬同士のレースを行ったのがレースの始まりで、オークスはこの伯爵の領地名です。ダービーと同様、他国においてもこれにならった競走を「オークス」と称する事例が多数見られ、日本では優駿牝馬(ゆうしゅんひんば)がメス馬ばかりのオークスになります。

一方のオス馬レース、ダービーの名称は、1780年に創始者のダービー伯爵とバンベリー準男爵の間でいずれの名を冠するかをコイントスによって決定したことに由来します。

ダービー伯爵はバンベリー準男爵を尊重して、これをバンベリーとしたかったようですが、当の準男爵は片田舎のレースに自分の名を冠されることをよしとせず、結局くじで決めることになったというわけです。

出走条件は当初、3歳オス馬とされましたが、その後は条件が緩和され、メス馬も走っています。ただし、優勝馬の数はオス馬が圧倒的に多くなっています。

ただ、オス馬は、競走時に興奮しやすい難点を抱えています。これが競走能力を妨げていると判断された場合、気性を穏やかにし、能力を発揮しやすくするために去勢がなされることがあります。この去勢されたオス馬は、上でも述べたようにせん馬(騸馬)として区別されます。

また、特に障害競走においては、オス馬は去勢しないと危険であり、事故の危険が高まるといわれています。このため、イギリス・フランスやオーストラリア・ニュージーランドなど障害競走を有する多くの国では、障害馬はほとんどがせん馬ですが、日本においては障害馬でも去勢されないことが多いようです。

去勢によって能力が開花する馬も多く見られますが、去勢によって繁殖能力を喪失するため、そもそも優秀な繁殖馬の選定を目的としたクラシックなどの重要な競走では、出走権が無くなるというのがその理由です。

ダービーもまた、繁殖馬の選定のために行われるレースなので騸馬の出走はできません。かつては出走できた時期もありましたが、騸馬が優勝したことはありません。

ウィンストン・チャーチルはかつて、「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になることより難しい」と述べたといわれていますが、実はこれは後世の創作であることが確認されており、それが巷間信じられているほど、ダービーに勝つことの難しさとその名誉を物語っています。

現在、世界各国で本競走を模範としてダービーの名を冠した競走が開催されています。本場イギリス以外ではアメリカ合衆国のケンタッキーダービーが有名であり、日本の東京優駿なども国内最大級の競走で知られています。

この東京優駿(とうきょうゆうしゅん)とは日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場の芝2400mで施行する競馬競走です。一般的には副称である「日本ダービー」が広く知られており、現在の日本の競馬においては代名詞とも言える競走です。正賞は内閣総理大臣賞をはじめ日本馬主協会連合会会長賞・東京馬主協会賞、朝日新聞社賞などです。

1932年(昭和7年)にダービーステークスを範として創設されたもので、後に創設された皐月賞・菊花賞とともに「牡(オス)馬三冠競走」を構成するようになり、第3回より施行場を現・東京競馬場(府中)に変更して以降は、開催地・距離ともに変更されていません。

日本の競馬に関わる全ての者が目標とする競走で、とくに騎手は本競走を優勝すると「ダービージョッキー」と呼ばれます。1973年までは日本国内の最高賞金競走でしたが、その後、国内最高賞金レースはジャパンカップや有馬記念になりました。しかし2013年から1着賞金が2億円に引き上げられ、有馬記念と並んで2番目の高額賞金競走となりました。

また、皐月賞は「最も速い馬が勝つ」、菊花賞は「最も強い馬が勝つ」といわれるのに対し、本競走は「最も幸運に恵まれた馬が勝つ」といわれます。日本の競馬における東京優駿の位置づけは特別で、創設期には国内に比肩のない大競走でした。

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そもそもこうしたレースが作られたのは、日露戦争の勃発に由来します。この戦争で内外の軍馬の性能差を痛感した政府は、国内産馬の育成を奨励するようになりましたが、1908年(明治41年)にギャンブル性が高いとして馬券の発売が禁止されると馬産地は空前の大不況に見舞われました。

その後、大正中期になって、元陸軍騎兵大尉で、その後貴族院議員にまで上り詰め、東京競馬倶楽部会長に就任した安田伊左衛門に対し、産馬業者から、「イギリスのダービーステークスのような高額賞金の大競走を設けて馬産の奨励をしてほしい」という要請がありました。

この提案を自身の構想と合致すると考えた安田は、日本国内の馬産の衰退を食い止める手段としてダービーステークスを興すこととし、4歳(現3歳)オス馬・メス馬の最高の能力試験として、「東京優駿大競走」を創設しました。

施行時期は原則的に春季とし、1930年(昭和5年)にはオス92頭・メス76頭の計168頭が登録。第1回競争は1932年(昭和7年)4月24日に目黒競馬場(旧・東京競馬場)の芝2400mで施行されました。この競走の模様は各馬の発走前の様子から本馬場入場、表彰式に至るまで全国へラジオ中継されたといいます。

優勝馬の賞金は1万円、副賞として1500円相当の金杯のほか付加賞13530円が与えられ合計で2万5000円ほどとなりました。これは、今日の価値では6~7千万円ほどになります。現在の日本ダービーの賞金と比べると少々少なめですが、それでも従来の国内最高の賞金が6000円でしたから、賞金の額も飛び抜けて破格でした。

この東京優駿からは出走馬の登録年齢は2歳(現1歳)とされました。それまで日本国内では出走馬の登録年齢などは不確定でしたが、これにより国内における競走馬の生産、育成、競走と種馬(オスメスとも)選抜のサイクルに初めて明確な指針が与えられました。

国際的な格付も1984年(昭和59年)からは最高の「GI」にあげられました。しかし、日本の競馬は近年、東京優駿を頂点とする従来の国内の競走体系から、距離やその他のカテゴリーごとにチャンピオンを決めるという体系に遷移しており、本競争が必ずしも全ての競走馬の頂点というにはあたりません。

ただ、1年間の競馬を象徴するときにもしばしば本競走の優勝馬が挙げられており、日本競馬界の象徴であり最大級の目標であるという点については創設以来の価値を保っているといえます。このため、多くの馬や騎手が今もこのレースに出ることをめざして、日々の訓練に明け暮れています。

この「騎手」ですが、言うまでもなく、馬を操縦する人のことです。競馬制度は国家・地域によって異なり、それぞれに独自の競馬文化と歴史を有し、開催運営や人材育成のシステムが築かれていますが、日本における「騎手」は、競馬の競走への参加に必要な公的なライセンスとしての資格称号となっています。

英語では騎手のことをジョッキー(jockey)といいますが、もともとこれは、イギリス人に多い、ジャックやジョンという名の蔑称であるジョックに由来します。これがジョッキーと訛るようになり、単に競馬好きや馬好きを表すようになりましたが、日本でも太郎はポピュラーな名前であり、特定商品名やキャラクターをさして何々太郎と呼ぶのと同じです。

現在のような意味になったのは、騎手や調教師、馬主が分業されるようになった19世紀以降のことで、日本では俗称として「乗り役」とも言い、英語表記を略して「JK」と呼ぶこともあります。

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騎手の仕事とは、無論、競走馬を正しく操縦し、決勝線に到達するまで可能な限り全能力を発揮させることです。このため、騎手が落馬した場合は落馬した地点に戻って再騎乗しなければならず、元の場所に戻らないで決勝線に到達しても正規の到達とはみなされないという厳しい規則があります。

落馬した地点に馬を戻すというのは現実的には不可能に近く、このため再騎乗をあきらめて競走中止となる場合も多いようです。

日本では、「競馬法」という専用の法律まであり、農林水産大臣の認可を受けた日本中央競馬会(JRA)と地方競馬全国協会(NAR)がそれぞれ試験を実施し、騎手の免許を交付しています。JRAの競馬学校、またはNARの地方競馬教養センターの騎手課程を経て、受験資格を得るのが一般的であり、この資格は国家資格でもあります。

中央競馬では平地競走と障害競走で、地方競馬では平地競走とばんえい競走でそれぞれ免許を交付しています。普段我々がよく目にすることが多いのはテレビなどで放映されることの多い平地競争のほうでしょう。

現在、中央競馬及び地方競馬とも、騎手免許と調教師免許を同時に持つことはできません。つまり、調教師が自分の管理する競走馬に乗ってレースに出走することは現行の規定では不可能です。

これは現在では当然ですが、1930年代以前は「調教師兼騎手」は珍しい存在ではありませんでした。調教師と騎手の業務が分離されるようになったのは、1937年に日本競馬会競馬施行規定が規定されてからです。戦後も一時期兼務が可能でしたが、1948年より調騎分離が厳格に適用されることになり、現在に至っています。

平地競走の騎手は着衣や馬具を含めて50数キロでの騎乗が求められることから、特に体重に関しては並の職業の比ではない厳しい自己管理が必要となり、なおかつ馬に乗り操縦し競走を行うための専門的な騎乗技術が必要です。また、競馬関連法規や騎手としての競走の公正確保のために必要な知識や情報を学習することも必要とされます。

このため、一般の素人がある日いきなり騎手になるということは極めて困難であり、よって極めて専門性の高い教育が必要なスポーツです。このため多くの国では騎手業のライセンス制度が整備されており、日本でも騎手養成のための教育機関や養成所が設置されています。

日本の場合、中央競馬では1982年、騎手養成機関として千葉県に競馬学校が設立され、騎手課程が設けられました。養成期間は3年。この競馬学校の受験資格は、年齢は義務教育卒業から20歳までであり、このため現役の大学生や短大卒・大卒は受験が困難か不可能です。さらに体重は育ち盛りの年頃でありながら、入所時に44キロ以下が求められます。

地方競馬では栃木県に地方競馬教養センターがあり、ここの騎手養成は2年間であり、入所条件はほぼ同じです。どちらの機関でも、卒業前に騎手免許試験を受験して合格し、騎手免許を取得した上で、晴れて騎手となることができます。

試験である以上、不合格となり騎手免許が取得できないこともあり、この場合は次の機会を待ち再度受験する必要があります。中央競馬では年一回のチャンスしかありませんが、地方競馬は年に複数回の騎手免許試験が実施され、年度途中の騎手デビューも珍しくありません。

海外の場合、オーストラリアのように、騎手養成所のカリキュラムを修了し、騎乗技術と公正確保に支障のない人物なら、騎手ライセンスを比較的容易に取得できるという国もありますが、日本は少数精鋭主義を取り、最初の養成機関の入学試験から卒業までの時点でふるいを掛け続けて、徹底的に絞り込む「狭き門」です。

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ただし、騎手免許試験については上記の養成機関への在籍経験を持たない人物でも、必要条件を満たせば受験自体は可能です。このため、上記の養成機関に入ることができなくとも、あるいは中退を余儀なくされても、騎手として必要な乗馬技術を持っていれば、俗に「一発試験」などと呼ばれる形で騎手免許試験を受験することができます。

ただ、これについては建前論的であり、特に実地科目では一般的な乗馬技術だけでの合格点到達は現実的に見て不可能で、一般的な乗馬や馬術の経験者が受験したところで合格の可能性は限りなくゼロに等しいといわれます。このため、競馬学校を経ない場合は、見習騎手等の形で騎乗経験を積むなどの手順を踏む必要があります。

こうした経緯を経て「一発試験」を突破し騎手免許を取得した者もいるにはいて、中央競馬では横山賀一、地方競馬では厩舎に入り調教厩務員を経験していた、村尚平・笹田知宏などの例があります。

ところが、競馬学校とは違い、騎手免許試験の受験資格には年齢制限が設けられていません。このため、かつて存在した短期の騎手養成課程を経て騎手となった人物の中には、大学卒業後に縁あって厩舎に入り下積みを経て騎手になるという経歴を辿った、俗に「学士騎手」などと呼ばれる人物がごく少人数ですが存在します。

こうして、騎手免許試験に合格した騎手は競馬を統括する機関より騎手免許やライセンスの交付を受け、その統括機関に騎手として登録されることで初めて競走への参加などの活動が可能になります。いずれの国においても、競馬を開催している国では競馬に関する諸規則や法律が設けられており、特定機関でライセンスが交付され、騎手登録を行います。

日本の場合はJRA・NARのいずれかの組織から免許を受け、中央競馬の場合は美浦トレーニングセンター・栗東トレーニングセンターのいずれか、地方競馬の場合には各競馬場に所属します。また、調教師を頂点とする厩舎制度においては、騎手は厩舎への所属という形で雇用され、調教師から様々な指導を受けます。

ところが中央競馬では、特定の厩舎に所属しない、フリーランスの騎手が多数存在し、このような騎手をフリー騎手と呼びます。ただし厩舎に所属していなくても美浦か栗東、いずれかのトレーニングセンターに所属している上、さらにいえば日本中央競馬会に所属していることになります。

以前は実績のある騎手が所属厩舎と疎遠になったり、所属厩舎が解散したことを契機としてフリー騎手になるケースが多数ありましたが、最近では一定期間を経過した若手騎手が実績に関係なくフリー騎手になるケースも多いそうで、逆にフリーでやってきた騎手が厩舎とのつながりが生まれて厩舎に所属することもあるといいます。

しかし、こうして騎手になっても、競走に参加できなければ収入は得られません。レースをあきらめ、厩舎の裏役に専念して収入を得る道を選ぶ騎手もいますが、騎手として生きていくならばその収入源は賞金からの進上金になります。

騎手として馬に乗るためには、馬主からの依頼を受けなければならず、この馬主からの依頼が得られるかどうかは、所属厩舎を通じた馬主との関係、師匠である調教師と馬主の関係などから決まってきます。

ある厩舎に所属している騎手は当然として、同じ厩舎で働いたという関係で兄弟子、弟弟子などのつながりができ、かつて活躍した兄弟子が依頼を受けた馬主から依頼を受けることが多いといいます。

しかし、馬主から名指しで指定してくる場合もあり、その条件としては、負担重量(斤量)が軽い騎手、成績上位の騎手などであり、時には当日適当な騎手がおらず、空いている騎手だったからというケースもあります。

この様に人間関係が複雑に絡みあって競走への騎乗が決まるわけですが、中でも馬主が同じ騎手に何度か続けて騎乗してもらう場合、これを「主戦騎手」と呼びます。中央競馬においてはエージェントを介在した騎乗依頼も行われており、騎手・エージェント・馬主の三者間の関係も重要です。

他方、いくら騎手が小柄な人物の専売特許の様な商売とはいえ、その体重管理は過酷であり、極限の減量をしているにも関わらず、騎乗不可能という事態も多分に発生します。この場合、軽量の騎手にそれまで全く縁のない厩舎から突然に騎乗依頼が来ることもあるといいます。

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こうしてようやくレースに出られるようになっても、日本の競馬には厳しい罰則があり、その地位は常に安泰とは限りません。レース前あるいはレース中の騎乗に際し、騎乗した馬を制御できなかった場合や、他の競走馬の進路を妨害した場合、あるいはレース前後の検量で斤量が大きく異なっていた場合には、競馬法の規定で制裁を受けることもあります。

レースだけでなく、無断欠勤、競馬施設内外での暴力行為などスポーツマンシップに欠ける騎乗や言動があった場合にも制裁を受けることもあり、制裁内容毎に異なった罰金が科されます。とくに、審議により降着以上になるような悪質な場合には一定期間の騎乗停止になったり、悪質な場合それ以上の期間に延長される場合もあります。

またこの騎手が騎乗していた競走馬に対しても再調教をして調教検査に合格するまで出走停止の措置が執られる場合まであり、これらの制裁はポイントにも置き換えられ、30点をオーバーすると競馬学校やトレーニングセンターで騎乗技術などの再教育を受けることまで義務付けられています。

さらに、騎乗停止の制裁は、中央競馬・地方競馬相互間および日本国外との競馬相互間でも適用されるという厳しいものです。しかも騎手の仕事は肉体労働であり、加齢によって筋力や反応速度などが低下し、また基礎代謝の低下により体重・体力を維持し続けることが困難になることも多く、高齢になってまで現役でいることのできる選手は限られます。

また優勝劣敗の厳しい世界であり、成績と収入の両面で伸び悩んだ騎手はもとより、リーディング(勝星)上位の常連として一時代を築いた騎手であっても全盛期を過ぎ騎乗数・勝利数・入着率、そして獲得総賞金額が減ってくれば収入は下がって行きます。

騎手の収入は主に二つに分けられ、それは競走に騎乗することで得られる収入と所属厩舎での業務をすることによって得られる収入です。競走に騎乗し賞金を得た場合には、その賞金の数%(日本の平地では5%、障害は7%)が得られ、騎乗手当もつきます。従って、高賞金の競走に勝利するほど収入は多くなりますが、その逆は当然薄給となります。

従って、一生にわたってこの騎手の仕事を続けることは難しく、本人が限界を感じたときなどに騎手としての免許・ライセンスを返上して引退し、何らかの形で第二の人生を歩むことになります。自分が所属していた厩舎の調教師が数年後に定年を迎えるなどの事情がある場合、その厩舎を引き継ぐ目的で調教師免許試験を受験する者もいます。

また、上位の騎手であっても、支えてくれていた調教師や有力馬主の死去・撤退など、後ろ盾となる人間関係がなくなり成績・獲得賞金額が低下したことをきっかけに、騎手からの引退を検討する者も少なくありません。

他方、騎手デビュー以降に予定外に身体の成長が続き、その結果として身長・体重が増加し若くして体重管理に苦しみ、負担重量などの問題から減量が自己管理の限界を超えて引退を余儀なくされる騎手も少なからず見られます。その中には、20代前半の若さであっても体重の問題で騎手業の継続が事実上不可能となり引退する者も多数います。

さらには、過酷な減量を余儀なくされ、その連続の末に心身に変調を来たす騎手や、脳梗塞など重篤な疾病を発症して倒れ引退を余儀なくされるケース、腎臓結石などの減量を著しく困難にする疾病を発症して長期的な健康面の観点から引退するケースも見られます。

騎手免許を返上した人物の第二の人生としては調教師や調教助手・厩務員などまず厩舎関係が第一に挙げられます。その他では後進の騎手の育成に携わる者、牧場での競走馬の生産・育成や競馬解説者・競馬予想家・馬運車・競走馬用飼料販売などの競馬周辺の産業に携わる者、さらにはまったく異なる職業に転身する者などさまざまです。

ただ、競馬は、他のスポーツの選手に比べれば純粋に身体的な能力を要求される要素は低く、勝ち星と収入を安定して確保し続けられる騎手は年齢を問わず第一線に留まることができます。日本の場合、騎手には定年制度がないため、歴代のリーディング上位騎手の中にも50代まで騎手業を続けた者は少なからず見られます。

そよぐ

とはいえ、競馬における競走馬のスピードは時速約60km以上にも達し、それだけのスピードを出した競走馬から落馬したり、走行中の馬に接触すれば重傷・死亡に至る危険な競技です。場合によっては即死する危険があり、事実、競走中に発生した事故によって即死した松若勲選手のような例があります。

この松若選手の事故は1977年11月5日に京都競馬場でおきました。第9競走、1400メートルは18頭立ての多頭数レースで、前日までの雨の影響で「重馬場」でのレースとなりました。馬場の状態は、「良」を基本状態として含水率の上昇に伴い「稍重」「重」「不良」と変化していきますが、この日のコンディションは、最悪の不良の次の「重(おも)」でした。

多数の馬のなかで先行争いが激化して先団がごちゃつくなか、第3~4コーナーの中間点で、一人の騎手が先行馬に触れて落馬しました。後方にいた各馬は、重馬場のせいもあって跳ね上がる泥や水蒸気で視界が利かず、またダートコースの幅員が狭いコーナー地点での事故で避ける間もなく、6頭の馬が先に転倒した馬に触れて次々に落馬していきました。

これに巻き込まれた松若選手は、落馬の際、頭蓋底骨折の怪我を負い、救護室に搬送されたものの、その場で死亡が確認されました。即死状態だったそうで、その原因は着用していたヘルメットが落馬の衝撃で外れたためと言われています。

また、福永洋一や坂本敏美の例のように重篤な後遺症が残り再起できなかった騎手もおり、大型動物のサラブレッドを扱う職業であるだけに、レース中以外でも調教中の落馬の他、馬に蹴られる・踏まれるなどの事故も少なからずつきまといます。

この福永洋一という騎手をご記憶の方も多いでしょう。かつて日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手で、1968年に中央競馬で騎手デビュー。3年目の1970年に初の全国リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)獲得以来、9年連続でその地位を保ち、従来の常識からは大きくかけ離れた数々の騎乗もあり、「天才」と称されました。

しかし1979年3月4日、毎日杯の騎乗中に落馬。このときに重度の脳挫傷を負い、騎手生命を絶たれました。1981年にライセンス更新切れの形で騎手を引退。以後はリハビリ生活を送り、まれにその様子がマスメディアで報じられましたが、2004年、騎手時代の功績を認められ、騎手顕彰者に選出、中央競馬の殿堂入りを果たしました。

1971年のクラシック最終戦・菊花賞では、長い距離が苦手で追い込み馬と見られていた乗馬を、残り1500メートルも残して先頭に立たせるという奇策を打って勝利を収め、八大競走(クラシックの5競走プラス天皇賞(春・秋)・有馬記念)初制覇を果たしました。

これは福永選手の騎手生活における代表的な騎乗のひとつとなり、本競走をきっかけとして彼は「天才騎手」と呼ばれるようになりました。

翌年秋の天皇賞でもヤマニンウエーブに騎乗し、パッシングゴールの40馬身の逃げをゴール直前でアタマ差で捉えて優勝。その後しばし八大競走制覇からは遠ざかりましたが、1976年、福永が騎手生活中の最強馬と評したエリモジョージで天皇賞(春)を制しました。

1977年には桜花賞、皐月賞を制覇。この皐月賞では、最後の直線で柵とコースの間のわずかな隙間に馬を突入させ、2着の伊藤正徳、3着の柴田政人が、それぞれ「柵の上を走ってきたのかと思った」、「神業に見えた」と語るほどの走りを見せました。

この年にはエリザベス女王杯にも優勝。さらに、野平祐二が保持した年間最多勝記録を19年ぶりに塗り替える126勝を記録し、翌年にも桜花賞を連覇し、年間最多勝記録も131勝に更新しています。

翌1979年も順調に勝利を重ね、3月までに24勝を挙げ、リーディングのトップを独走しており、この年の3月4日、阪神競馬場で983勝目を挙げた後、この日のメインレースの毎日杯で福永はマリージョーイという馬に騎乗しました。

この競走の勝負は最後にまでもつれ込み、ラストの直線において、斎藤博美が騎乗していたハクヨーカツヒデが前の馬に乗り掛かる形となり、まず斎藤が落馬。さらに後方から走ってきたマリージョーイの脚が斎藤に接触しました。

福永選手は大きく前方にのめったマリージョーイの背から落ちて馬場に叩き付けられ、頭を強打するとともに舌の3分の2以上を噛み切る重傷を負い、その場で意識不明となりました。直ちに馬場に待機していた救急車に乗せられて競馬場内の救護所に搬送され、救命措置が行われます。

しかし舌からの出血が気管に流れ込み、呼吸障害による窒息死の危機が差し迫っていました。ところがこの前日、まったくの偶然に納入されていた新たな医療機器のひとつである「気道チューブ」を気管に挿入して気道の確保を行うことができ、なんとか危機を回避できました。

とはいえ、瞳孔は散大し、血圧は低下、自発呼吸も極めて薄弱であったことから、救護所での応急的な処置を終えると、直ちに関西労災病院に搬送されました。この時点で周囲は怪我がそれほど重篤なものとは考えていませんでしたが、その後息子の博、妻の裕美子が病院に赴くと、そこで初めて洋一が危篤である旨が伝えられました。

病院への到着後、福永はただちに集中治療室に入りました、落馬時の頭部へのダメージが大きいためにすぐには手術ができず、容態が落ち着いた2日後に脳内の血塊を取り除く手術が行われ、成功しました。やがて人工呼吸器の補助も不要となり、事故から13日後には、危篤状態からは脱したとの主治医の判断により、集中治療室から一般病棟に移動。

しかし意識は回復せず、やがて医師や妻の呼びかけに少しずつ反応するようにはなったものの、意識が完全に戻るまでには至りません。しかし徐々に容態は安定し、相変わらず意識は明瞭ではなかったものの、院内でのリハビリの効果により、少しずつ回復の兆しを見せるようになりました。

その翌年の、1981年になってようやく意識が明瞭となったころ、妻の裕美子が「ドーマン法」という脳障害に対するリハビリテーション法を知り、夫とともに1週間アメリカへ渡りました。リハビリプログラムを教授され、これを機に退院。自宅近くの騎手宿舎の集会所を借り、自宅とともにリハビリ機器を搬入して、厳しいリハビリを開始しました。

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こうして約1年間のリハビリにより、同年9月、数歩ではありますが事故以来初めての自力歩行をすると、「おはよう」という挨拶に対し、「おはよう」と、たどたどしいながら応えるまでに回復しました。その後も徐々に回復を続け、事故か5年経った1984年10月には栗東トレーニングセンター内の角馬場において、約5年半ぶりに馬に跨りました。

このとき馬上で、かつて好んで歌っていた故郷の高知を舞台にした歌謡曲、「南国土佐を後にして」を口ずさんだといい、このころ行われたインタビューでも、「騎手に復帰して勝ちたい」と語りましたが、騎手免許は、既に1981年に更新切れとなっていました。

騎手時代に福永のライバルと目されていた武邦彦は、福永を評して「乗り役として必要な要素を何もかも備えていた」と言い、なかでも優れていた点として「瞬間的な判断力」を挙げています。同期生の別の選手も優勝した皐月賞を例に出し、この優勝は彼の百分の数秒の判断によるものが大きかったと語っています。

また、常に前方を遮られることなくレースを運ぶことができた秘訣について、「前が開いたから行くんじゃない。福永の場合は(開くところを予期して)行ったところ、行ったところが開いていくんだ」と述べています。

福永と同じく「天才」と呼ばれる武豊ともよく比較され、武は「ミスのない選択ができ」、福永は「彼にしか考え出せないような選択肢をいつも見つけ出す」と評する同僚もいて、ともに直感的に正しい選択ができる騎手だといわれます。

もっとも、福永は他のスポーツは苦手としていたそうで、養成所時代も「運動神経まるでなし」と同期生に笑われていました。が、人が十回やってようやく身に付けられるようなことを一回やって習得できたといい、身体的にはとくに背筋力が強かったことが知られています。

「背骨に鋼が埋め込まれているのでは」というほどの強靱な背筋力であったといい、軸がしっかりしているため、少々のことでは体勢を崩すことがなく、強い背筋力が必要といわれるゴルフでは、小柄ながらボールを遠くまで飛ばす「飛ばし屋」だったそうです。

さらに、騎乗というほとんど無酸素運動の中で、フォームも乱さず、馬の能力を100%引き出すためには、筋肉のパワー、腱の柔軟性といった身体的な能力が絶対に欠かせず、福永はそうした身体能力、スタミナが人一倍優れていたと評する人もいます。

また、福永には騎手時代、「天才」のほかに「歩く競馬四季報」という異名も付されていました。「競馬四季報」や競馬新聞などの資料に囲まれて生活していたといい、寸暇を見てはこれらに目を通し、「栗東所属馬の全脚質を頭に叩き込む」と放言していました。

こうした「勉強に裏打ちされた記憶力」プラス、コンピューターのように瞬時に判断が可能な頭脳がその並外れた騎乗能力の秘訣の一端であると考えられます。馬に関する情報収集を常に欠かさなかったため、癖などが分からず敬遠されがちな初騎乗馬も嫌うことはなく、素早くその馬の癖を掴み、最適なペースを見出してレースを運べたともいいます。

この福永選手の長男もまた、騎手となりました。彼がリハビリを続ける中、この長男・祐一は1992年に競馬学校を受験し、2世騎手への道を進み、1996年3月2日に騎手としてデビューし、初騎乗初勝利を挙げました。

彼は父が築き上げた人脈の恩恵も受け、この最初の年、新人としては異例の50以上の厩舎から騎乗を依頼され、新人騎手として当時史上3位の記録となる53勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を受賞しました。

この翌年に行われたインタビューの中で、祐一は「福永洋一の息子」と喧伝されることに対して「僕は全然嫌じゃないです。だって実際に僕は福永洋一の息子なわけですから。父がいなければ僕もいないんだし、父のことは尊敬していますしね。このまま最後まで”洋一の息子”でもいいと思ってます」と語りました。

以後、祐一は毎年ランキングの上位を占める騎手として定着し、2008年9月には984勝を達成して父の記録を更新。同年11月には父が直前まで迫りながら達成できなかった通算1000勝を記録しました。

この時彼は、「福永洋一の息子として競馬の世界に入り、父に縁のある方々に支えられ、ここまでやってこられました。先日、父の勝利数を超えたことで自分の中でもおもりが取れ、福永祐一個人として歩み出せたような気がします」と語りました。

昨年10月の菊花賞ではオス馬クラシック初制覇し、父・福永洋一との親子制覇を達成。さらには、天皇賞(秋)を制覇し、2週連続で八大競走を親子制覇を達成しました。菊花賞と天皇賞の連覇は1965年以来であり、この年には最終的にはリーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)を達成し、これも日本初の父子受賞となりました。

この祐一が2009年に高知競馬場で行われたトークショーに出席した際、「生まれ育った高知は父親にとって特別な場所。おやじの名前がタイトルについたレースができたら」と発言し、この意向を汲む形で高知競馬が2010年より「福永洋一記念」を新設しました。

同年5月に行われた第1回競走当日は、親子でこの競馬場を訪れ、プレゼンターとして表彰式に出席したそうで、途中感極まって本人が涙をこぼす場面があったといいます。福永洋一が公の場に姿を見せたのは事故以来31年ぶり、祐一との同席は初めてのことだったそうです。

現在、父洋一は66歳、不自由ながらも日本競馬界の重鎮として活躍し続けており、息子さんの祐一は38歳となりましたが、まだまだ現役選手として数多くの輝かしい成績を残していくでしょう。今度、福永選手が出る競馬中継があったら、今日のこのブログを思い出し、ぜひ応援してあげてください。

今日は、チョー長くなりました。終りにしましょう。

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結婚は蜜の味?

2014-21886月になりました。

旧暦では、水無月(みなづき)と呼びますが、これは新暦では6月下旬から8月上旬ごろに相当し、このころには、文字通り梅雨が明けて水が涸れてなくなるのでこう呼ばれたのだと思われます。

しかし、この呼称を現代でも使うにあたり、これから雨のシーズンになるのに水無月というのも変だというので、「梅雨で天の水がなくなる月」というふうに考えよう、という人もいるようです。少々無理なこじつけのような気もしますが、ま、それはそれでポジティブでいいかもしれません。

祝日のない月であり、一部に時の記念日(6月10日)や夏至(6月21日頃)の休日化を目指す動きもあるようです。が、なかなか実現せず、そうこうしているうちに、もうひとつ祝日のなかった8月に、再来年から「山の日」という休日ができる、という報道が先日なされました。

これで6月はとうとう、祝日のない唯一の月になるわけですが、このころというのは新年度が始まって2ヶ月が経ち、何かと仕事も軌道にのりはじめて何かと忙しく、梅雨に入って体調を崩すことも多いことから、休みが欲しいな~と思っている人は結構多いのではないでしょうか。

そんな仕事が忙しい中、この月に結婚する人も多いようです。6月に結婚式を挙げる花嫁を「ジューン・ブライド」と呼び、この月に結婚をすると幸せになれるといわれます。

これは、Juneがローマ神話の天空神、ジュピターの妻ジュノーからつけられた呼称で、ジュノーが結婚生活の守護神であることからきています。ジュピターは、ギリシア神話ではゼウスのことであり、神さまの中でも一番エラい神様であり、その妻のジュノーも最高位の女神です。

実はそのジュノーに見守られつつ、我々もこの月に結婚しました。今年からはなんと7年目に突入します。6年目の結婚記念日は、「鉄婚式」だそうで、これまでは木綿だの紙だのペラペラしたものが多かったのですが、ようやく金属になる、ということは、それだけ夫婦の絆が固まる、ということを意味しているのでしょう。

自分で言うのもなんですが、夫婦仲はよく、「鉄の誓い」とまではいかないにせよ、このまま銀婚式や金婚式まで一緒にいることも宣誓できそうなくらいです。

ただ、金婚式となると50年目ですから、あと40年以上も先であり、その齢まで生きていられるかどうかははなはだ疑問です。が、高齢化社会の中、我々も長寿を全うする可能性もないわけではなく、案外とサイボーグにでもなって生き残っているかもしれません。

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この結婚というヤツですが、もともとは宗教と密接に関わってできた行事のようです。

東欧に多い、キリスト教の正教会では、結婚のことを「婚配機密」といい、この機密とは、軍事や国家などに関する極めて大切な秘密のことではなく、宗教用語で婚姻および子を生み養育する事を成聖する恩寵が与えられるように祈願するための儀式のことをさします。

具体的な儀礼としては、聘定式(へいていしき)と呼ばれる結婚指輪の交換を中心とするお祈りの儀式と、新郎新婦が戴冠を行う戴冠礼儀と呼ばれる儀式が行われます。

この結婚は、信徒同士でしかできません。信じる人々に神聖神(聖霊)が与られて神様と一つの神秘体になるためには、特別な恩寵を授けた正教徒のみが結婚できるとされているためで、結婚を機会にわざわざ洗礼を受けて正教徒になる人もいます。

しかし、結婚はしたいが、正教徒にはなりたくない、という人もいるわけで、逆に結婚のために正教徒であることをやめる人も中にはいるようで、宗教の縛りというのは、なかなか面倒くさいものではあります。

めんどうくさいといえば、ユダヤ教では結婚は神聖な行為と考えられ、未婚の男性は一人前とみなされません。結婚は神が人間を誕生させて最初に行った行為であるため、必ず結婚すべきであるとされているそうで、今でも伝統を守る地域では男子は18歳になると必ず結婚するそうです。

結婚したくもないのに一人前になるために結婚するわけで、宗教による強制のない我々日本人には馴染みにくい習慣です。それじゃあ恋愛もできないじゃない、ということになりそうですが、ユダヤ教では恋愛はあくまで一時的なもので、結婚とは結び付かないものだと教えられているそうです。

結婚が宗教によって規定されているという点では、イスラム教国はこれまた特異です。ご存知のとおり、イスラム法における結婚では一夫多妻制が認められています。サウジアラビアの初代国王であるアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードは国を平定するために100以上ある国内の主要部族の全てから妻をもらっていたそうです。

このため、百数十人の妻がいたといわれており、このため初代国王の王妃が何人いたのか国王本人もよく知らなかったそうです。その後もサウード王家は一夫多妻結婚を繰り返し、初代国王の子孫は鼠算式に増えて5世代で2万人以上にまで増えたといいます。

もっとも、イスラム教国では庶民もまた多くの妻を持っているかというと、そうでもないようで、経済的な事情もあり実際に複数の妻を持っている人は少ないそうです。確かに美人で気が利いてよく働く奥さんなら、何人いてもいいでしょうが、グータラで、毎日喰っちゃ寝している嫁が何人もいたら、破たんしてしまいます。

しかし、イスラム教では離婚を制限していないため、こういうグータラ奥さんとは離婚も自由にできるようです。ただし、非婚での性行為が戒律上、認められていないため、不倫をしようと思ったら、結婚しなければできない、という妙なことになっています。

さらに初婚の際には、男性は童貞、女性は処女であることを求められそうで、このため、初婚の際に女性が処女でなかった場合、そもそも契約条件を満たしておらず「結婚は無効」ということになるようです。

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正教会やユダヤ教の縛りも理解しがたい面がありますが、このイスラム教の結婚観もなかなか我々日本人にはわかりにく世界です。イスラム教徒による爆弾テロなどが世界のあちこちで起こっていますが、死こそ名誉という世界観とも併せ、どうもこの人たちは日本人の理解を超えた民族というかんじがします。

一方、日本人にも多い、キリスト教徒はどうかというと、プロテスタントの中でもバプテスト教会や会衆派では、教会員や信者の同意があれば、神の導きと見なされるため、簡単に結婚が成立します。

しかし、カトリック教会では正教会と同様に結婚は「秘蹟」とされ、信徒同士で行われることが原則です。が、教会によっては非信徒と信徒、または非信徒同士の結婚式を執り行う場合があり、正教会ほど縛りはきつくないようです

秘蹟もしくは、「秘跡」による結婚とは、カトリックでは「目にみえる儀式に目に見えない恵みを伴うもの」と考えられ、扱われます。目に見える儀式とは、聖職者(司教・司祭)によって聖別された水、油、ぶどう酒などが与えられることで、この儀式を行うことによって、神からの見えない恵みが人間に与えられる、ということのようです。

この秘蹟は、西欧では「サクラメント」と呼ばれ、これはラテン語のサクラメントゥム(Sacramentum)に由来しています。その意味は「聖別されたもの、行い」あるいは「聖なるもの」「聖別する」といったことです。非常にわかりにくい概念ですが、結婚という秘蹟によって、神様から聖なるものを分け与えられる、ということのようです。

カトリック教会においては、サクラメントは結婚だけでなく、このほか洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階などがあります。そのひとつひとつの意味は非常に宗教的なので説明が難しいのですが、一番わかりやすいのが洗礼であり、これはいわば、キリスト教に入信したことを神に報告し、それに対する恵みを受けるというものです。

このほかの堅信、聖体、ゆるし、といった秘蹟は、入信後に与えられるもので、いずれもそれに対する儀式を行い、これによって神様からそのサクラメント毎の恵みを授かる、というわけです。

少しだけ補足すると、「ゆるし」というのは懺悔のことで、犯した罪を神に報告して得られる恵み、すなわち救いです。また、病者の塗油というのは、臨終のときに与えられる恵みであり、この場合の恵みとは死そのものです。また叙階とは、カトリック教会において聖職者を任命することで、聖職者として神に仕える喜びが与えられます。

このような七つの秘蹟は、カトリック教会が伝統的に認めてきたものですが、カトリック以外のキリスト教では、教派によってこの秘蹟の数や意味についての理解・解釈は異なっています。

従って、結婚によって神様から得られる恵みの形も微妙に違うわけです。最近は海外の教会で西洋式の結婚式を挙げましたという話もよく聞きますが、その教会が所属する流派もよく知らずに、ちょっと洒落ているからという理由だけで、キリスト教式の結婚する人も多いようです。

しかし、本来はよくよく調べて、その結婚がその宗派ではどういう意味を持つのか、といったことも勉強してから、その教会での式をお願いするべきなのではないでしょうか。教会へわざわざ出向かず、牧師さんだけを呼ぶ場合もあるのでしょうが、この場合でもその牧師さんの流派もよくお聞きしてから、というのは言うまでもなくのことです。

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さて、このようにもともと西欧では結婚には男女が教会においてサクラメントを受けることを要するとする「宗教婚主義」が支配的でした。

ところが、その後の宗教改革によって、婚姻は宗教によって規制されるものではなく、法律で認めたものを婚姻となすとする、「法律婚主義」が登場するようになると、結婚を「契約」とみなし、秘蹟とは分離する民事婚思想が広まるようになりました。

日本の民法でも、その739条で婚姻の成立には、法律上の手続を要求する法律婚主義を採用しており、婚姻が成立する理由としては、「当事者の婚姻意思の合致」と「婚姻障害事由の不存在」の二つが必須とされています。従って、宗教など信じている教義の宗派の別は問われません。

また、婚姻が成立するためには、形式的要件として届け出を出すことが、「戸籍法」によって義務付けられており、これがいわゆる「婚姻届」になります。一般にはこの婚姻届を出すことで、二人に婚姻意思があること、また婚姻には障害がないことを宣誓する、ということになります。

ところが、民法には、詐欺または強迫による婚姻は法定の手続に従って取り消しうる、ということになっていて、騙された場合には結婚破棄ができる、ということになっています(747条)。

すなわち、いわゆる「結婚詐欺」のことであり、代表的な詐欺のひとつであり、「アカサギ」ともいいます。これは、警察関係の隠語であり、赤詐欺以外にも、青、黒、白の詐欺があります。

「青詐欺」は、会社関係、書類関係、不動産関係の詐欺で、融資詐欺や保険金詐欺がこれにあたります。また、「白詐欺」は、素人同士の詐欺で、オークション詐欺・募金詐欺・寸借詐欺・チケット詐欺がこれになります。また、「黒詐欺」はプロ同士の騙し合いで、闇金を巡ってのプロ同士の騙し合いや、横取りといったものがあるようです。

赤詐欺は、結婚する意思がないにもかかわらず、結婚を餌にして異性に近づき、相手を騙して金品を巻き上げたり、返済の意志もないのに金品を借りたりし、異性の心身を弄ぶ行為です。

代表的な手口としては、「結婚前に清算しなければならない借金がある」、「結婚を機に独立するつもりなので開業資金が必要だ」、「株や先物取引で失敗して金が必要」などと偽り、多くの場合、結婚前に多額の金品を騙し取ります。

甘いことばに騙されたあげくに、クレジットカードやサラ金カードを相手に渡してしまい、多額の借金を背負ってしまうケースや、金を渡した相手と連絡が取れなくなり、後で被害を受けたと発覚するケースが多いようです。

男女ともに赤詐欺をする輩は多いようですが、どちらかといえば男性よりも女性が被害者になることが多く、最近は国際的な赤詐欺も多いようで、日本や韓国の男性がアジア諸国の女性に国際結婚を持ちかけ、ビザ支給費用などの名目で金銭を騙し取る事件が発生しています。

こうした、国際結婚詐欺を仲介するブローカーも存在しているといい、最近金満傾向の中国でも被害が多いそうです。

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ところが、刑法並びに民法上には「結婚詐欺」としての明確な規定は無いそうで、本当に騙されていたかどうかは、本人の申告によって提起され、その上でこれが本当に詐欺に該当するか否かが認定された場合のみです。

それというのも、例えば、当初は結婚の約束をしていたれども、結局は結婚しなかったというケースが多く、結果として結婚はしなかったものの、当初は結婚する意図があったとみなされた場合には、詐欺にはならないからです。

たとえ、最初から結婚する気はなかったとしても、いや、最初から結婚を前提と考えていた、と言い張れば詐欺には該当せず、例えば卑近な例では、デートの際におごった金を返さないのは、詐欺だ、というケースです。

しかし、これは一方が他方におごるという行為によって、デートという楽しみを双方で分かち合ったものと解釈されるので、このときに使った金をだまし取られた、というのにはあたりません。

ただ、だまし取られるのもお金ばかりとは限らず、高額なプレゼントもありうるわけです。この場合も、私があげたあのクルマ返してよ、ということになりがちなのですが、こうした物品の場合にも、一般にはなかなか詐欺とは言えません。

相手にすれば、クルマを搾取したつもりはなく、思いがこもったプレゼントだと思ったから受け取ったといえばそれで済むことです。ただ、高額なプレゼントを執拗に要求し続けるなど、明らかに搾取目的である場合には、その頻度や金額などによって総合的に詐欺と判断されます。

しかし、男女間の金銭や物品のやりとりが詐欺にあたるかどうかは、非常に難しい問題であり、結婚詐欺として摘発される事件は、ほんの氷山の一角のようです。

最近は、インターネットの流行により、ロマンス詐欺というのもあるようです。ネット上の交流サイトなどで知り合った海外の相手を言葉巧みに騙して、恋人や結婚相手になったかのように振る舞い、金銭を送金させる振り込め詐欺の一種で、最近は国際化も進み、国際ロマンス詐欺、国際恋愛詐欺、ナイジェリア詐欺などとも呼ばれるものもあります。

ナイジェリア詐欺というのは、アフリカ地域の中でもとくにナイジェリアを舞台に多発している国際的詐欺の一種であり、先進国など豊かな国に住む人から、手紙やファクシミリ、電子メールを利用して金を騙し取ろうとする詐欺です。

「大量の資金を持つ人が、その金を安全に持ち出す方法で困っている。あなたの口座を貸してもらえないだろうか?」と丁重に呼びかけるメールが届き、この差出人は、非常に貧しく腐敗した国に住んでおり、自分の国の窮状を訴えかけます。

こうして、差出人に同情した人は、「アフリカならそんなこともあるだろう」と考え、この汚い金の運搬に少し手を貸せば大きな利益が出るからという言葉に騙されます。

そして、自分の口座を教え、さらに指定された口座に手数料を振り込みますが、予定の期日になっても自分の口座にその見返りの大金は振り込まれず、それどころか口座が不正アクセスされて一銭残らず引き出され、初めて騙されたと気づきます。

被害者は、マネーロンダリングに飛びついたという後ろめたさから、被害届を出すことが少ないそうで、こうした国際的な詐欺師は、単独犯とは限らず、詐欺団を結成している場合も多いそうです。

2014-2002

男女の間の関係に目を付けたロマンス詐欺のほうも、同様に詐欺団によるものが多いそうで、事例によると、男性なら英国人や米国人など、女性ならロシア人などになりすますことが多く、この場合は、FacebookのようなSNSが舞台になります。

こうしたサイトでプロフィールとして使われる写真は、無名でルックスのいいモデルや、人柄の良さそうな一般人まで、インターネット上からランダムに採取し、盗用されます。

相手を警戒させないために、子供の写真を合成して子持ちの独身者を装ったり、被害者しか頼れないという状況を作ったり、家族を亡くして孤独であるなどの悲話を作ったりもし、信用させるため、他人のウェブサイトや偽造したビジネスサイトを見せたりもします。

SNSなどで知り合ったあと、メールやスカイプ、電話などを用いてこうした偽装をしつつ交流を深め、ロマンティックな甘い言葉を連発して、あたかも恋愛しているかのような気分にさせていきますが、場合によっては結婚をちらつかせたり、結婚の約束まですることもあるようです。

この偽装は、数日から数か月後の場合が多いようですが、なかには一年以上のものもあり、そのうち、大きな仕事が入った、病気になったなど、身辺状況が変わる何かが発生したことを切り出します。

そしてさまざまな理由をつけて、金銭を一時的に立て替えてほしいという状況を作り、これを信用させるために、偽造の契約書やパスポートなどを見せることなどを行います。近々日本に会いに行くことを匂わせ、会ったときに返金すると約束しますが、たいていは当日に事故や事件が起こったりして、来日しません。

そのまま連絡がなくなる場合もあれば、仲間の詐欺師が友人や弁護士を装って登場し、恋人を救うためと騙し、さらに金銭を送金させることもあるそうで、ガーナでは、現地に被害者を呼び出して身代金を請求した事例もあるといいます。

また、マレーシアではフィリピン女性に招き寄せられた日本人男性がナイジェリア人の詐欺団に監禁された事件も起こったそうで、このほか、結婚資金として小包で送った現金や親族への高価な贈り物が、積み替え港のマレーシア税関で差し押さえられ、その関税や解除金として送金してほしいというケースもあります。

さらに、新ビジネスのための機械を海外で購入したが、持ってきたカードが使用できないため、代金を一時立て替えてほしい、自分の家族が難病なので、治療費として送金してほしい、被害者の婚約者が空港で警察に拘束され、弁護を頼まれたので、弁護費用を用立ててほしいなどなど、ちょっと考えればウソとわかりそうなものが多いのが特徴です。

なぜそんなものにひっかかってしまうのだろう、と思うのですが、相手は日本とは違う文化を持った国の人間であり、その違いに思いを馳せる想像力が日本人にはない、国際的な感覚が乏しい、といったことがいえそうです。

しかし、人種のるつぼといわれるアメリカでは日本以上にもロマンス詐欺が社会問題化し、テレビなどを通じて注意が喚起されているそうです。

2012年の統計によると、全オンライン詐欺の約1割がロマンス詐欺によるものであり、被害者の3割近くが50歳以上の女性だったといいます。2012年の被害総額は、報告されているものだけでナント5600万ドルにのぼるそうです。

この赤詐欺ですが、日本では、美人局(つつもたせ)と呼ばれる伝統的?な詐欺でもあります。妻が「かも」になる男性を誘って姦通し、行為の最中または終わった瞬間に夫が現れて、妻を犯したことに因縁をつけ、法外な金銭を脅し取ります。

妻でなく、他の女で同等の行為に及ぶ場合もあり、出会い系サイトやツーショットダイヤルなどで知り合った女に部屋に誘われ衣服を脱ぎ、いざ性行為などを行おうとしたときに女の仲間の男が登場して「おれの女に何をする」というのが典型的なパターンです。

屈強な男に囲まれ金品を巻き上げられるというケースが多いようですが、呼び出されてラブホテルに入っていく所を写真に撮られ、後日家族や会社に曝露すると脅迫してくるケースもあります。

ただ、加害者の女が未成年者であることも多く、この場合は、被害者の男性も児童買春の罪に問われる危険があるので警察に被害届や告訴状が出せず、泣き寝入りになりケースも多いようです。無論、加害者側もそれを見越してそのような女を用意する傾向も見られるようです。

2014-2009

「つつもたせ」とは、もともとはいかさまバクチのことで、胴元の都合のいい目が出るような仕掛けがしてある、いかさまさいころ賭博を指しますが、ここから二束三文の安物を高く売りつける行為をさすようになり、やがては法外な料金で売春させることもそう呼ぶようになりました。

「美人局」というのは、中国の元の時代の犯罪名で、公娼を妾と偽って人にあてがい、金をむしり取ることを言いましたが、同じ売春婦を使った犯罪であるため、「美人局」に対して和語の「つつもたせ」を使い、当て字として使うようになったものです。

一説によれば、「つつ」とは暴力団の使う女性器の隠語を指している、ともいわれます。
これを持った女性を「もたせる」ことで、良い思いをさせ、恐喝に及ぶためです。

現在においても美人局は詐欺罪として罰則規定が適用されますが、江戸時代の処罰はもっと厳しかったそうで、男女とも所領を半分没収されるか、所領がなければ遠島の上、男性ならば公務罷免とされ、武家ならばお取り潰しは免れませんでした。なお、この時代には不倫もまた重罪であり、美人局と同様の罪が課されたといいます。

さて、結婚詐欺の話をちょっとだけするつもりでしたが、少々深入りしすぎました。が、もう少し続けましょう。

結婚詐欺が発覚しにくいのは、男女の仲のことでもあり、愛情をカモフラージュに使った巧妙な犯罪であるからです。また、最初は犯罪のつもりはなかったものが、男女関係のもつれから、あとになって形態を変えていく場合もあります。

当初はそのつもりはなかったものが、次第に気持ちが薄れるにつけ、やがては悪心が芽生え、見せつけのために騙してやろうとうふうに変わっていくこともあるでしょう。

最初はお互い相手を思いやる気持ちで一杯だったものが、やがては憎しみや蔑みに変わり、こうなると社会常識から見てももう十分に詐欺罪として成立しそうなものを、いやまだヒモやツバメの段階だと思っている場合もあるでしょうし、そこのところは非常に微妙です。

結婚とは、ハニートラップのようなものだと称する人もいて、これはもともとは、女性スパイが対象男性を誘惑し、性的関係を利用して懐柔するか、これを相手の弱みとして脅迫し機密情報を要求する諜報活動のことです。

しかし、甘い結婚生活は、まさに Honey Trapであり、その生活に溺れていく中で、自らを見失い、自堕落な生活を送るようになる男性もいるわけで、女性においてもその逆パターンはありえます。

同じような意味合いで使用されるセクシャル・エントラップメント(Sexual Entrapment)は「性的な囮(おとり)」という意味ですが、最近覚せい剤保持で逮捕された、某有名歌手さんもまた、この囮に捕えられたのではないかのではないか、と取沙汰されているようです。

そこまでいかなくても、優しい奥様や旦那様に甘え、放蕩のあげく身上を潰す、といった例は古今東西ごまんとあります。もうじき結婚6年目に入る私もまた、優しい奥様に甘えたままでいてはいけないなと、改めて身を引き締めていかなければなりません。

さらにその生活をより充実し、高めていくためにも、お互いの甘えを消し去り、厳しい目で見直していく必要があるでしょう。自分を進化させつつ、相手にはそれを望まず、とはいえ、進歩した自分を見て相手もまた自然に進歩したいと考えてもらえるようになる、そんな夫婦が理想でしょう。

少々カッコつけすぎかもしれませんが、そう思います。

我々と同じく6月に結婚された方々も、きっと幸せな生活を送っておられると思いますが、ここはひとつ、その生活がハニートラップではないかどうか見極めてみてはいかがでしょうか。

2014-2023河津町 バガデル公園にて