七夕のはなし

2014-3904あいにく台風が近づいており、天の川は見えそうもありませんが、今日は七夕です。

本来は旧暦の7月7日行事なので、実際には月遅れの8月7日に行われるべきものですが、この時期には、明治改暦以降、お盆の行事も行われるようになり、行事が重なることになるため、あまり賑やかしいことはやらなくなりました。

一方では、7月にはあまり目立った行事もほかにはないことでもあり、それなら新暦の7月7日にやればいいや、ということになり、以後、梅雨時だというのに毎年のように笹に短冊を吊り下げた笹飾りがあちこちに飾られるようになっていきました。

それにしてもなぜ、短冊をぶら下げるのかというと、そのむかしは、6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に大祓(おおはらえ)という除災行事をやりました。犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)といいます。

この夏越の祓では、多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」という儀式が行われました。これは、氏子たちが茅(かや)の草で作られた人が通れるほどの輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うというものです。

古くは、茅は旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられていたためにこうした行事が行われていたわけですが、このとき同時に茅の輪の左右には笹竹が設置されました。そして、これに願い事を書いた短冊を振下げました。

さらにこの行事が終わったあとちょうど七夕がやってくるため、このとき短冊を下げた笹竹を川に流すと、その願いごとがかなうといわれるようになり、これが江戸期には庶民の間で定着しました。

以後、茅の輪潜りのほうは廃れ、笹竹に短冊という儀式のほうだけ生き残ってきたわけですが、最近は環境問題などもあるため、川には流されなくなり、また笹を立てることも一般家庭ではあまりやらなくなりました。

やるのは学校や商店街などの公共の場所だけ、というところも多くなり、私のところでも子供ができてからは、この息子君が小学校を卒業するまでは毎年恒例行事でしたが、彼が大学生になって家を出てからは、さすがにやらなくなりました。

我が家と同様、街を歩いていても七夕飾りをしているところはあまりなく、学校以外ではもっぱら、地元商店街でみかけるくらいです。こうしたところで何故七夕祭りが廃れないかといえば、これは無論、こうした機会に人を集め、収益を上げたいがためです。

小さな商店街などでは、前日までに七夕飾りの設置を終えれば、当日はとくに人的な駆り出しもやる必要もなく、このときとばかりにバーゲンセールや割引を行えばそれなりに収益も上がり、商店街の機能をたいして低下させることなく買物客を集められるため、商業イベントとしても馴染みやすいということもあるようです。

福引や仮装行列といった何等かのイベントをやるところもあり、多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての催しという組み合わせがほとんどのようですが、さらにこれに花火大会などが加わるところもあります。

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ここ伊豆でも、沼津や三島などの大きな街では七夕行事があるようです。昨日は、伊豆長岡の温泉街でも、「あやめ御前パレード」なるものが行われたようで、夜遅くから花火の上がる音が聞こえていました。

この「あやめ御前」というのは、平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した源氏の武将、「源頼政」の奥さんで、伊豆長岡の出身のお姫様です。

ところが、平氏全盛の世の中においてその専横に不満が高まる中、頼政は平氏打倒の挙兵を計画しました。が、計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、宇治平等院の戦いで敗れ自害しました。

このとき、42歳だったあやめ御前は、頼政の遺品、遺髪を携えて長岡へ戻り、出家して名を西妙と改め、その後の一生を念仏を唱えて送り、89で亡くなったそうです。

伊豆にはこうした悲しい話が多く、このほかここ修善寺でも、源頼朝の異母弟の源範頼が誅殺されているほか、頼朝の嫡男で二代将軍の源頼家も北条氏の手の者に修禅寺に幽閉され暗殺されています。

七夕よりも少し時期は遅れますが、今月の21日には、麓の修禅寺温泉街で「頼家まつり」というのもあり、これは、この殺された頼家とその家臣である十三士の霊を慰めるイベントです。仮装行列が修禅寺を出発して、十三士の墓、頼家の墓を詣で供養を行い、桂橋から修禅寺へ戻るそうなので、今年はちょっと行ってみようかと思ったりしています。

哀しいといえば、七夕に降る雨のことは、「催涙雨」というそうです。織姫と彦星が流す涙だと伝えられています。その昔、夏彦という働き者の牛飼いがおり、また、織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。この二人は恋におち、天帝も二人の働きぶりを高く評価していたので、その結婚を認めました。

ところが、めでたく夫婦となった二人は、その夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離してしまいました。しかし、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、このころになると、天の川にどこからかカササギがやってきて橋をかけてくれます。

しかし、七夕の日になると毎年のように雨が降り、天の川の水かさが増すため、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができません。やがて永久の月日が流れ、二人はとうとう彦星と織姫星という星になり、この二つの星の逢引であることから、七夕は星あい(星合)と呼ばれるようになり、そしてこの日に降る雨は催涙雨と呼ぶようになりました。

誰しもがよく知る話なのですが、地方によっては微細に話が異なり、この二人の逢瀬もこのようにかなわないというものが多いようですが、いやこの日だけはめでたくデートができるというものもあります。

元々は中国が発祥の地で、ストーリーとして完成したのは漢の時代だそうです。ということは、紀元前からある物語であるということになり、長い長い悠久の時を感じますが、それにしても同じ話がこの間、ほとんど変わりなく伝えられているというのは考えてみればすごいことなのかもしれません。

日本に伝わったのは、有史以後のことのようで、古事記にはすでに七夕の名が出てくるそうで、紀元600~700年ころには日本全国で定着していた話のようです。

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ところが、この話は、日本に伝わると、その内容には大幅な変更が加えられました。織姫彦星の話はこれはこれで残されたのですが、これをヒントとして、日本神話のひとつが作られたのです。それはこういう話です。

その昔、天照大神(あまてらすおおみかみ)らの天上にいた神様たちは、「葦原中国あしは(らのなかつくに)」、つまり、地上の日本国を平定するに当たって、アメノホヒ(天穂日命)という神様を遣わしました。

ところが、このアメノホヒはなかなか帰ってこず、次いでアメノワカヒコ(天若日子)が遣わされましたが、このアメノワカヒコは、地上の日本を代表する大国主(おおくにぬし)の娘である、シタテルヒメ(下照姫命)とくっついて結婚してしまいました。

こうして、二人とも帰還しないのをいぶかしんだ、天照大神は、今度は鳴女(なきめ)というキジを送りました。鳴女は、地上に降り立ち、アメノワカヒコに「おまえは葦原中国に派遣され、荒ぶる神々を帰服しろと命ぜられたが、なぜ、いまだに復命しない」と天照大神の伝言を伝えました。

これをアメノワカヒコの側で聞いていた、側近のアメノサグメ(天探女)はこれを聞いて、「この鳥は不吉だ」と言ったため、アメノワカヒコは弓矢でこのキジを射殺してしまいました。ところが、鳴女の胸を貫きとおした矢はそのまま、天にまで届き、天照大神と一緒にいたタカミムスビ(高木神)という神様のところに落ちました。

そして、これを拾ったタマミムスビは、「アメノワカヒコに悪心があるなら当たれや」といって、矢を投げ返したところ、この矢は地上にいるアメノワカヒコの胸を貫いて、彼は死んでしまいました。

これを知った妻のシタテルヒメは、泣き叫びましたが、そのアメノワカヒコの死を嘆く泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父のアマツクニタマ(天津国玉神)は下界に降りて息子のために葬儀をしてやりました。このとき、シタテルヒメの兄のアヂスキタカヒコネ(味耜高彦根命)もまた父とともに弔いに訪れました。

このアヂスキタカヒコネは、死んだアメノワカヒコに大変よく似ていました。このため、これを見たシタテルヒメが「アメノワカヒコは生きていた」と喜んで抱きつきますが、驚いたアヂスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて葬儀所に建ててあった喪屋(遺体を弔うために建てる小屋)ぶち壊し、蹴り飛ばしました。

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と、この話はここで中途半端に終わっています。それにしても、織姫彦星伝説の話はどこへ行ってしまったの?と思えるほどかけらもなく変わってしまっており、似ているのはアメノワカヒコの死によって、男女の仲が引き裂かれる、といった点だけです。

ストーリーとしても、シタテルヒメとの恋に溺れて天命を放棄し、その罪のために、亡くなってしまう、という現代ではありふれたストーリーにすぎに変わってしまっているのですが、これはこれで純粋な大昔の人にはかなり悲劇的に感じられたようです。

また、この当時は朝廷の権威もまだ定着しておらず、中央政権に反発する豪族なども多数いた時代であったため、アメノワカヒコのように反逆的な神は、民間では人気が高かったようです。

このため、この話はその後平安時代になってからも、「うつほ物語」「狭衣物語」などの名で少々形を変えながら語り継がれました。が、室町時代にまで下ると、これだけじゃぁ面白くないと、多少というか、さらにかなりのアレンジが加えられ、しかもオリジナルの織姫と彦星の話も多少盛り込まれました。

この物語は、「御伽草子(おとぎぞうし)」に収録されており、この中では、前の若彦は、「天稚彦」の名で登場し、かなりの美男子として描かれました。それは、こういう話です。

ある長者が三人の美しい娘を持っていました。ある日、この長者の家に大蛇がやってきて、「娘を嫁にくれなければお前を食ってしまうぞ」と脅しました。仕方なく長者は、娘たちを説得しますが、上の姉二人は拒み、末娘だけが了承しました。末娘は心優しい人物で、自分が拒めば父親が大蛇に食われてしまうと悲しんだのでした。

こうして、大蛇が指定した場所で娘が怯えながら待っていると、やがて大蛇がやってきました。そして、何を言い出すかと思うと、いきなり、娘に対して、自分の頭を切るように言うではありませんか。

そんなことはできませんと娘は断りますが、大蛇は、ではお前を食ってしまうぞ、とまで言うので、仕方なく言われたとおりに、蛇の頭を切り落としました。

すると、なんということでしょう。蛇は美しい男の姿になり、そして「自分は天稚彦である」と名乗ったではありませんか。こうして、娘と天稚彦は夫婦となり、その後楽しい日々を送るようになりました。

ところが、ある日天稚彦は用事がある、と娘に告げて、一人天に旅立ってしまいます。その別れ間際、天稚彦はに、娘にひとつの唐櫃(からびつ、中国風のおひつ)を渡して、「これを開けたら帰ってこられなくなるから、帰ってくると約束した日まで絶対開けるな」と告げて旅立っていきました。

こうして娘は来る日も来る日も天稚彦の帰りを待って暮らすようになりまたが、あるとき、かねてよりこの末娘の裕福な暮らしを嫉んだ姉たちが押しかけ、妹の体をくすぐって唐櫃の鍵を奪い取ってしまいました。

そして、唐櫃を力ずくで開けてしまいますが、中には何も入っておらず、ぼっと白い煙が立ちあがっただけでした。がっかりした姉たちはその場を立ち去りましたが、天稚彦が「これを開けたら帰ってこられなくなる」と言ったとおりになり、その後娘が待てども待てども彼は帰ってきません。

月日が経ち、やがて天稚彦が約束した日がやってきましたが、その日がすぎても一向に彼が戻ってこないため、不安になった娘はとうとう、自ら天稚彦を探しに天に旅立つことにします。

こうして天稚彦を探して天に昇った娘は、ゆうづつ(宵の明星・金星)、箒星、昴(すばる)などの星々たちに天稚彦の居場所を聞いて回り、ついに愛する夫と再会を果たします。

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ところがなんと、この天稚彦の父親は実は鬼でした。鬼が人間の娘を嫁として認めるはずはありません。このため天稚彦は、この父から娘を隠そうとします。父鬼が娘を隠していた部屋に来る気配を感じると、彼は咄嗟に忍術を使って、娘を「脇息」に変えてしまいました。

ところが、部屋に入って来た父鬼は、あろうことか娘が化けているその脇息に寄り掛かってしまいます。これを見た天稚彦は気が気ではありません。しかも、父鬼は「なんだか人間の臭いがするような気がする」とか言い出しましたが、しばらくすると気が付かずに出ていきました。

ホッと胸を撫でおろした天稚彦でしたが、父鬼はそれからも度々彼のところを訪れてくるので、その度ごとに天稚彦は娘を扇子に変えたり、枕に変えたりして誤魔化していました。ところが、ある日のこと、うっかり昼寝をしている間に父鬼がやってきて、ついに娘を見つけられてしまいました。

これを見た父鬼は怒りましたが、天稚彦が平謝りにあやまるのでやがて落ち着いてきました。が娘に対し、もし「ムカデの蔵」で一晩過ごすことができたら、息子と一緒にさせてやる、と難問をつきつけます。

これに対し、天稚彦は娘に対し、大丈夫だといい、「天稚彦の袖」という袖を娘にこっそりと手渡しました。やがて夜になり、父鬼によってムカデ蔵に押し込められた娘が、この袖を振ると、ムカデは娘を遠巻きにするだけで、刺そうともしません。

翌日のこと、無事な娘の姿を見た父鬼は驚きますが、今度は、牛舎で飼っている1千頭の牛を野に放ち、夜までにこれを再び牛舎に追い込むよう娘に命じます。

「とても、女の私にはムリだわ……」と困惑する娘でしたが、「天稚彦の袖々」と再び天稚彦にもらった袖を唱えながら振ってみると、牛は見事に言う事を聞いてくれ、無事すべてを牛舎に戻すことができました。

次々と難題をクリアーする娘に対し、父鬼は今度こそはと、米倉にある米をすべて別の米倉へ移すよう娘に命じます。が、これも、天稚彦の袖を振ると、どこからともなく、大量のアリが現れて運んでくれました。

こうして、出された難題すべてに答えた娘を父鬼もついに嫁として認めざるを得なくなりました。そして、「月に一度だけなら会ってもよい」と二人に告げます。

ところが、動転していた娘は、「月に一度」を「えっ、年に一度ですか?」と聞き返してしまいます。これを聞いた父鬼が「それでは年に一度だ」と、ひとつのウリを天稚彦と娘の間の地面に打ち付けると、なんとそのウリの破片はバラバラに散らばり、見る間に天の川となりました。

こうして、娘と天稚彦は天の川を隔てて暮らすようになりましたが、年に一度だけ、7月7日の晩には逢瀬を楽しむことができるようになったわけです。が、もし、娘が聞き間違えさえしなければ、ふたりは毎月一度はデートできるようになっていたのに……嗚呼

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さてさて、サッカーのワールドカップも4強が決まり、大詰めを迎えようとしています。日本チームは早々に敗退してしまったので興味は半減しているのですが、ニュースやらワイドショーで何かと取り上げられることもあり、何かと結果が気になります。

下馬評ではやはりドイツとブラジルが最有力ということのようですが、エースのネイマールをアクシデントで失ったブラジル危うし、という見方も多いようです。

せっかくの自国開催でもあり、日本人にもゆかりの深い国でもあるため、私的にはできればブラジルに勝たせてあげたいなと、つい思ったりもします。この国に住む約160万人の日系人もまた、母国を熱烈に応援しているでしょう。

ところで、そんな彼らにもまた、七夕を祝う習慣が根付いているといい、とくに仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として1979年から始まった「サンパウロ仙台七夕祭り」には毎年多くの日系人が訪れるそうで、最近では日本からの観光客も多いそうです。

ただ、仙台七夕祭りは、月遅れの8月に行われますが、このブラジルの仙台七夕祭りは、7月に行われるそうで、また、必ずしも7月7日ではなく、7月のうち、休日となる週末の2日を選んで行われるようです。

最近では、日系ブラジル人社会の枠を超えてサンパウロ市のイベントカレンダーに載るほど大規模になっているとのことで、広場や歩行者天国になった通りには出店が並び、仙台市の七夕飾り制作業者から技術指導を受け、くす玉付きの大きな吹流しが多数飾り付けられるなど、本格的なものだとか。

また、和太鼓やエイサー太鼓、日本舞踊やYOSAKOI、空手の演舞やアキバ系のダンスなど様々な日本文化のステージやパレードが繰り広げられ、「ミス七夕浴衣コンクール」も開催されるといいます。さらには、このサンパウロでの七夕祭りが同祭がきっかけとなって、現在、ブラジル国内の30以上の都市でこうした七夕祭りが開催されているといいます。

しかし、国土のほとんどが南半球にあるブラジルにとっては、今は夏ではなく冬です。このため七夕祭りもまた「冬の風物詩」として定着しているのだそうで、そう聞くとなにやら不思議な気がしてきます。

夏の風物詩である日本の七夕は、今日とあとひと月遅れの七夕がありますが、やはり雨に見舞われることの少ない8月の七夕のほうが風情があるもの。おそらく修善寺温泉でも何等かのイベントがあるでしょうが、できれば今年はそうしたお祭りに出かけてみようかなと思ったりもしています。

さてみなさんの七夕はいかがお過ごしでしょうか。笹に短冊を飾り、もう願い事をされたでしょうか。その願いごとがかなうよう、こちらでも願っておきましょう。

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キャロル

2014-7-1839今日7月4日は、アメリカの独立記念日です。が、と同時に1865年に「不思議の国のアリス」が刊行された日でもあることから、今日はこの作者である、ルイス・キャロルについて少し書いてみたいと思います。

おいたち

本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン (Charles Lutwidge Dodgson)といい、ルイス・キャロルはペンネームです。

「不思議の国のアリス」の出版で一世を風靡し、作家・詩人としての印象が強い人ですが、実は、数学者、論理学者、写真家としても知られています。

1832年1月27日、ルイスは、教区牧師の長男としてイギリス本土、中西部に位置する、チェシャー州ウォーリントン、ダーズベリの小さな牧師館で生まれました。父親の名も、チャールズ・ドジソンであり、同名ですが、ややこしいので以下は、作家名の「キャロル」で統一しながら、記述していきます。

キャロルには、2人の姉がおり、また下には8人の弟妹がいるなど、ドジソン家は非常に賑やかな家庭でした。

父のチャールズは、もともとは、オックスフォード大学で数学を教えている先生でしたが、結婚したため、教職を離れました。このころのイギリスの大学はキリスト教の色合い強いところが多く、オックスフォードも教会付属学校のような場所であり、このため教師を続けるためには独身が条件だったためです。

敬虔なクリスチャンでもあり、このため大学を離れたあとも多くの説教集の出版や、その他の聖書関連本の翻訳を行うなどの仕事を手掛けました。教会内での地位も高く、リッポン大聖堂の大執事に就き、英国国教会を二分した激しい宗教論争に関わるなど、聖職者としても活躍した人でした。

こうした父に、幼年期のチャールズは、兄弟姉妹とともに家庭内で厳しく教育されましたが、キャロルが11歳の時に、この父がイギリス北部にあるヨークシャー州クロフトに転任することになりました。

このため、キャロルもまた父母や弟妹とともにヨークシャー州に移り住むことになりました。このヨークシャー州というのはイギリスでも最大の州であり、このため教会員も多く、一家が引っ越したのも広々とした教区館でした。以後25年間にわたり一家はこの教区館で生活するようになります。

12歳の時に、キャロルはリッチモンドの小さな私立学校に入学した後、1845年にイングランドで最も古いパブリックスクールの1つである、ラグビー校に転校しました。11歳から18歳までの男女共学の全寮制の寄宿学校であり、スポーツの「ラグビー」が生んだ学校としても有名です。

キャロルは1850年の終りにこの伝統ある学校を卒業し、翌年の1月に父の母校でもあるオックスフォード大学のクライスト・チャーチ・カレッジに入校しました。この学校も伝統あるカレッジとして知られ、全部で13人のイギリス首相を輩出しています。

ハリー・ポッターシリーズの舞台としても知られており、そのイ重厚な建物様式はアイルランド国立大学、シカゴ大学を含む他国の多くの大学に模されています。ニュージーランドの南島にあるクライスト・チャーチも、このカレッジに因んで名づけられたものです。

ラクビー校といい、クライスト・チャージ・カレッジといい、こうしたイギリスでも最も格式の高い学校に入れたというのは、ドジソン家もまた格式の高い家柄であり、キャロルは長男でもあったことから、この家を継ぐべき御曹司という立場でした。

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カレッジ在学中、ルイスは1年目にして文学士号試験に合格しており、このためスチューデントシップ、つまり特別奨学生となり、クライスト・チャーチにおける特別研究員にも指名されました。

しかし、この年、47歳だった母フランシスが脳炎で死去。その悲しみにもめげずキャロルは勉学に励み、4年後の1854年、クライスト・チャーチ・カレッジを最優秀の成績で卒業しました。以後、同校の数学講師となり、26年間にわたりこの職を続けました。

ルイスは、数学の教師を勤める傍ら、詩や物語を執筆して多数の雑誌に寄稿するようになり、それなりの成功を収めるようになっていきました。1854年から1856年の間に、「The Comic Times」や「The Train」のような国民的雑誌や、「Whitby Gazette」「Oxford Critic」といった、小規模な雑誌にも彼の作品が掲載されました。

この頃から既にキャロルの作品はユーモラスなものでしたが、一方では度がすぎ、しばしば風刺的なものになる風潮がありました。しかし、そうした作品にも満足できず、キャロルの目標と志はさらに高いところにありました。

1855年7月に知人に宛てた手紙には、「私はまだ本当に出版に値するものを書いたとは思っていない。いつの日か出版に値するものを書くことを諦めてはいない」と書き記されています。

その夢は数年後に実現に至りますが、既にこの頃からキャロルは子供向けの本を出してヒットさせたいという考えを持ち始めていたようで、月日を重ねるにつけ、このプランはさらに洗練されていきました。が、創作意欲を掻きたてられる題材というよりは、高い金銭的収入を得るための手段として児童書を捉えていたようです。

アリスとの出会い

1856年、キャロルは初めて「ルイス・キャロル」のペンネームを使って作品を発表しました。「The Train」誌に発表された Solitude(孤独)と題された短い詩がそれで、「Lewis Carroll」の筆名は彼の本名「Charles Lutwidge」のラテン語名の「Carolus Ludovicus」を英語化し、前後逆転させたものです。

この年、彼が勤めるクライスト・チャーチ・カレッジに、新しい学寮長として、ヘンリー・リデルという人物が、妻子を伴って転任してきました。この家族との新しい出会いは、その後のキャロルの作家人生に重要な影響を及ぼすことになります。

キャロルはこのヘンリー夫妻もさることながら、その娘たちである、リデル家の三姉妹、ロリーナ(13歳)、アリス(10歳)、イーディス(8歳)ととくに親しく交際しました。そして、この真ん中の子の、アリスこそが、のちの「不思議の国のアリス」のモデルです。

ルイスがこの物語を書こうと思った出来事は、「不思議の国のアリス」が初刊行されるちょうど3年前の1862年7月4日に起こりました。

ルイスは、このリデル三姉妹を連れ、よくボート遊びに出かけており、彼の日常においては一種の習慣のようになっていたようです。この日もキャロルは、三姉妹と、カレッジの同僚ロビンスン・ダックワースとともに、オックスフォード脇を流れるテムズ川をボートで遡るピクニックに出かけていました。

この行程はオックスフォード近郊のフォーリー橋から始まり、5マイル(約8km)離れたゴッドストウ村で終わるというもので、その間キャロルは船上で、「アリス」という名の少女の冒険物語を少女たちに即興で語って聞かせました。

主人公の名前をアリスにしたのは、この姉妹の中でも特に同名のこの娘がお気に入りであったためでもありました。それまでにも彼女たちのために即興で話をつくって聞かせたことが何度かありましたが、この日の話をアリス本人もいたく気に入り、自分のためにこの物語を何かに書き留めておいてくれるようキャロルにせがみました。

キャロルはこれを聞き入れ、ピクニックの翌日からその仕事に取り掛かりましたが、その翌月の8月に再度姉妹たちとピクニックに出かけた際には、さらにこの物語の続きを語って聞かせました。

この続きもまたキャロルによって後日書き留められ、こうして、手書きによる作品「地下の国のアリス」が完成したのは1863年2月10日のことでした。キャロルはさらに自分の手で挿絵や装丁までこれに加え、完成度を高めた上で、翌1864年11月26日にアリスにこの本をプレゼントしました。

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アリスは飛び上がるようにしてこれを喜んだのは言うまでもありませんが、この反応を受け、さらにキャロルは知己であり幻想文学・児童文学の人気作家であったジョージ・マクドナルドの一家にこの原稿を見せました。そうしたところ、後日マクドナルド夫妻から手紙が届き、そこにはこの作品を正式に出版することを勧める一文がありました。

こうしてキャロルは出版を決意します。しかし、「地下の国のアリス」には当事者にしかわからないようなジョークもあっため、これを取り除き、「チェシャ猫」や「狂ったお茶会」などの新たな挿話を書き足して、もとの作品の2倍近いボリュームの作品に仕上げ、タイトルも「不思議の国のアリス」に改めました。

出版そして成功

この本の出版社はロンドンのマクミラン社と決まりました。挿絵は1841年の創刊以降、2005年までも続いたイギリスの伝統ある風刺漫画雑誌「パンチ」の編集者トム・テイラーの紹介によって、同誌の看板画家ジョン・テニエルに依頼されました。

ジョン・テニエルは、イギリス貴族院の面々にも支持者の多かった風刺画家で、その作品の芸術性やユーモアのある観察眼、動物の生態への豊富な知識などが高く評価されていましたが、20歳のとき、フェンシングの教官だった父と試合をしていて右目を失明しており、隻眼の画家でした。

いわゆる「イラストレーター」の走りであり、キャロル「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の挿絵で有名になり、19世紀半ばから約50年間にわたり、前述の「パンチ」で数多くの風刺漫画を手がけ、歴史に名を残しました。

挿絵にこだわりを持っていたキャロルは、このテニエルの採用を喜びましたが、何かと細かい注文をつけてテニエルを閉口させました。しかし、その成果もあり、1864年から1865年にかけて、次々と後に有名になるイラストの数々が製作されました。

こうして、「不思議の国のアリス」は、2000部が刷られ、1865年7月4日に刊行されました。今日からちょうど149年前のことになります。キャロルがこの日を出版日に選んだのは、ちょうど遡ること3年前のこの日が、初めてリデル3姉妹にこの物語の語り聞かせを行った記念すべき日だったためと思われます。

この初版本の「不思議の国のアリス」は、18センチ×13センチの判形に、赤い布地に金箔を押した装丁で、印刷費は無論マクミラン社が出しましたが、挿絵代も含め出版費用はすべてキャロル自身が受け持ちました。

この当時こうしたかたちの出版契約はめずらしくなかったようですが、逆にこのためキャロルは自分が好むままの、こだわりの本作りをすることができました。ところが、挿絵を担当したテニエルは、この初版本の印刷に満足せず、気に入らないとただちに手紙で知らせてきました。

インクの盛り過ぎで字が裏面に透け、挿絵部分に重なっていたためで、このため、キャロルはマクミラン社と相談のうえでいったん、出版の中止を取り決め、初版本をすべて回収し文字組みからやり直しました。

印刷のやり直しは費用を負担しているキャロルにとって痛手でしたが、こうして1865年11月に「初版第二刷」として刊行された「不思議の国のアリス」は着実に売れていき、同年三刷まで刷り上げ、早翌年には第二版が出され、これは1867年までに1万部売れました。その後もさらに版を重ね、1872年には3万5000部、1886年には7万8000部に達しました。

ルイス・キャロルの名は、この初出版からわずか1、2年の間にイギリス中で広く知られるようになりました。気をよくしたキャロルは続編を企画しはじめ、1866年頃より 「鏡の国のアリス」の執筆をはじめました。この続編は1871年のクリスマスに初版が刊行され、こちらも翌年までの間に1万5000部を売り上げるというヒットを飛ばしました。

キャロルにまつわる「神話」

以後、二つの「アリス」の物語は以後途切れることなく版を重ね続け、マクミラン社はキャロルが死去した1898年までに、「不思議の国のアリス」だけでも15万部以上、続編「鏡の国のアリス」も10万部以上を出版しています。

著作権が切れた以降は、世界中で翻訳・刊行され、現在でもその細かい内容は知らないまでも、「不思議の国のアリス」の名を知らない人はいないと思われるほどの人気ぶりです。

そのストーリーは、改めて紹介するまでもありませんが、幼い少女アリスが白ウサギを追いかけて不思議の国に迷い込み、しゃべる動物や動くトランプなどさまざまなキャラクターたちと出会いながらその世界を冒険するさまが描かれています。

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ところが、このルイス・キャロルという人の素顔については、案外と日本では知られていないようです。熱狂的なアリスファンや文学少年・少女といわれる方々を除けば別ですが、キャロルが数学者で、写真家だったといったことを知っている人はおそらくあまりいないと思われます。また、彼の生涯にはいろんな「神話」がつきまといます。

「不思議の国のアリス」の驚異的な成功により、キャロルは金銭的に成功し、作家として有名になりましたが、一方では、こうした奇妙奇天烈な物語を書いた人物としてある種色眼鏡で見られる部分もあり、それがもう一人の別の人格を生み出しました。

キャロルは実は、ロリコンだった、というのがそれであり、さらにはもしかしたら、小児性愛者ではなかったかといった噂もあり、さらには、キャロルは、「不思議の国のアリス」のモデルとなった、リデル・アリスに求婚したという「求婚伝説」があります。

日本では「不思議の国のアリス」は、角川文庫でも出版されましたが、この巻末の解説で、この求婚伝説が紹介されたため、多くの人がこれを事実として信じたようです。

この解説には、「キャロルが30歳の年に13歳のアリスに求婚したが、この求婚はアリスの両親によって拒否されたばかりか、彼らは、アリスに宛てたキャロルのおびただしかったであろう一切の手紙類をすべて焼却した」と書いてあったそうです。

これを読んだ読者の多くが、やっぱりそうだったか、と思ったようですが、確かに「不思議の国のアリス」は、大の大人の男性が書いた物語にしては少々ロリっぽく見え、いかがわしい表現こそは出てきませんが、一般の児童書とはちょっと違う、風変りな本、とうイメージがあります。

この噂の出所は、無論イギリス本土ですが、日本でも古い文献をあさり、そうしたことをわざわざ調べ、キャロルが本当にロリコンだったのかどうかを確認しにかかった人もいるようです。

私もそれらのことを書いたサイトをいろいろ見ましたが、結論としては、キャロルがロリコンだったというのは、やはりありえない虚実のように思えてなりません。そもそもこの角川文庫に記載してある年齢も間違っているようで、キャロルが生まれたのが1832年、アリスが生まれたのが1852年であるため、二人の年齢差はちょうど20歳になります。

従って、上述のように、もしアリスが13歳ならば、キャロルは30歳ではなく33歳であるはずであり、この解説者がきちんとそうした事実関係を掴んでこれを書いたのかどうか、というそもそもの信憑性が疑われます。

また、キャロルが33歳の1865年という年は、ちょうどキャロルが「不思議の国のアリス」の初版本を出した年であり、この時期はまだ売れっ子作家としてのルイス・キャロルは誕生しておらず、キャロルにとって生活のための収入源は大学からの給与だけです。

この項の初めのあたりでも述べたとおり、彼の父のリチャードは、オクスフォード大で教鞭を取っていましたが、その地位は「独身であること」が義務づけられていたため、結婚を機に大学を辞職しています。

キャロルもまた、同じ条件で大学に勤めており、この時期に結婚するということは、大学での職を捨てるということになります。自費出版で本を出さねばならないといような大事な時期に、確実に職を失うことになる結婚を、キャロルが考えるはずはありません。

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さらに色々調べてみると、そもそもこの求婚伝説のもとになったのは、キャロルの死後、1945年に出された彼の伝記がもとになっているようであり、この伝記の執筆者はフロレンス・ベッカー・レノンという雑誌社記者だったようです。

彼女はこの伝記を書くため、キャロルの死後もまだ生存していたリデル・アリス本人に取材を申し込みましたが、これを断られ、アリスの姉ロリーナにインタビューしています。

このロリーナは、レノンに対し、キャロルがアリスに求婚したという事実はないと否定したようですが、伝記では、「キャロルが愛した理想的な少女はアリス」であった、という書き方をしてしまったようです。しかも、アリスに求婚したと受け止められるような表現をも加えたとのことです。

小児性愛者?

かくしてこれが原因となり、キャロルがアリスを溺愛し求婚までした、という求婚伝説が生まれることになるわけですが、ただ、この当時のイギリスでは、結婚の同意年齢として13歳というのは法律的にも認められており、日本においても、13~15歳いで女性が輿入れするのは普通でした。

従って、キャロルが13歳の女性に対して、結婚を申し込んだとしても非常識でもスキャンダラスでもありません。

ところが、このほかにも、ルイス・キャロルはロリコンだったという説を後押しする話があります。

キャロルはオックスフォードで数学の教師を勤めながら、多数の数学論文や著書を発表する数学者でした。不思議の国のアリスが好評を博したのち、ヴィクトリア女王が他の著作も読みたいとキャロルに依頼したところ、「行列式初歩」という数学書が送られてきて面食らったという逸話が残っており、生真面目なキャロルの素顔がこの話から見えてきます。

ところが、キャロルは作家以外にも写真家としても有名な人で、文芸と技芸の才能を併せ持った芸術家でもありました。若いころには、画家として立身したいと考えていたようですが、クライスト・チャーチを卒業して同校の数学教師となりたてのころの24歳のとき、はじめてカメラを購入し、以後写真撮影を趣味とするようになりました。

50歳になる直前になぜか唐突に写真術をやめてしまいましたが、この20年余りのあいだに、キャロルは写真表現の手法を完全に習得し、自宅の中庭には彼自身の写真館を持っていたそうで、この間、約3000枚の写真を撮影していたとされます。

これらの写真の内、およそ1000枚足らずが破損を免れて現存しているそうですが、その半分が少女を撮影したものだそうです。ただしこれらの現存する写真は彼の全作品の三分の一に満たないそうで、従って少女の写真ばかり撮っていたというわけではありません。

これらの写真は、この当時ヨーロッパやその周辺の諸地域で起こったロマン主義の影響を強く受けたもので、ロマン主義の作品としては、例えばスペインの画家、ゴヤが描いた「裸のマハ」に代表されるようなそれです。

彼の死後、モダニズムの時代が到来し、こうした古典的、絵画的な手法によって撮影されていたキャロルの写真は、忘れ去られていました。が、近年その再評価が進んだ結果、現在では近代的な芸術写真に大きな影響を及ぼし人物とみなされるようになり、彼の生きたヴィクトリア期においては、最も優れた写真家の一人と見なされています。

ところが、この彼が残した写真の中には、数々の少女のヌード写真が含まれており、これもまた彼をしてロリコンであったとする噂を後押ししました。

現存するルイスの作品の半分以上は少女を撮影したもので、しかしだからといって、これすべてがヌードというわけではありません。また、カメラを入手した1856年のうちにチャールズは、一連のアリス・シリーズのモデルであるアリス・リデルの撮影を行っていますが、当時4歳だった彼女のヌードは含まれていません。

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チャールズのお気に入りの被写体は、クライスト・チャーチの同僚であり、後にダラム大学の総長を務めたジョージ・ウィリアム・キッチンの娘であった、「クシー(Xie)」という少女で、本名はアレクサンドラ・キッチンといいました。

ルイスは口癖のように、「いい写真を撮りたければ、クシーをカメラの前に置きさえすればいい」と言っていたほど彼女を気に入っていたそうで、クシーが4歳から16歳までの期間にわたり、約50回の撮影を行っています。

ところが、1880年にキャロルは、16歳になったクシーの水着写真を撮影したいと考え、キッチン夫妻にこれを申し込みますが、二人はこれを拒否しました。このとき、ルイスは既にほかの少女たちのヌード写真も多数撮影していたといい、これが夫妻の知るところとなったためと考えられます。

このとき撮影されたヌード写真の大半は、キャロルが生きている間に破棄されたか、モデルに手渡されたのちに散逸したと推測されていますが、その後6枚が発見され、内の4枚が公開されているそうです。

キャロルが少女ヌードを撮影していた理由としては、彼もまたロマン主義の影響を強く受けており、神に最も近い純粋無垢な存在として裸の少女たちを見ていたのではないかとの指摘があります。しかし、現在ではこうした少女ヌードを撮れば、小児性愛者であるとレッテルを張られるのがオチであり、なかなかそう簡単には撮影は許されません。

案の定、1999年になって、イギリスのジャーナリスが自作の中で、キャロルが少女愛者であるという「通説」を披露し、さらには、最終的な結論としてキャロルがアリスの母である、リデル夫人と、一種の愛人関係にあったのではないかとまで推理した文章を掲載しました。

ところが、大人の恋をするような男ではないと「リデル夫人愛人説」については反対意見も多く、このため、もうひとつの主張であるキャロルが少女愛者であったとする説明は十分に説得力もあったことから、その後キャロルの「ロリコン伝説」だけが一人歩きするようになりました。

しかし、キャロル少女のヌード写真を撮っていたことについては、上述のとおり、当時のイギリスではロマン主義が浸透していたことによります。少女のヌードは「純粋さ」の象徴として多くの写真家が好んで題材にしており、同時代の有名写真家ジュリア・マーガレット・カメロンにも少女や少年のヌード写真を数多く残しています。

キャロルの写真もまた「ヌード」と呼ぶにはあまりにも純粋無垢な写真ばかりであり、カメロンのものと比べると少々エロチックなかんじがないではありませんが、十分に芸術といえる範疇のものだと私は思います。

また、キャロルは日記を残しており、その分析によれば、彼は子供よりもむしろ、大人の女性に興味を示すことも多かったようです。一説にはキャロルは、エレン・テリーという女性に恋をしていたという説もあります。

さらに、もうひとつキャロルが女性に関してはノーマルな人物だったことを思わせる逸話があります。キャロルには、ウィルフレッドという弟がおり、この弟はキャロル自身も写真のモデルに使ったことのある少女と恋に陥り、結婚しようとした時、この少女は15歳、ウィルフレッドは28歳で、まだ独立できていませんでした。

このとき、キャロルはこの結婚を反対しておりこれを許し、歓迎したのはアリスが20歳、ウィルフレッドが33歳になって定職を得てからでした。この当時の結婚の同意年齢は13歳であり、15歳というのは法的にも問題はありませんが、少女が大人になり、弟が定職を得るまで結婚に反対していたという事実は、常識的な大人のそれです。

さらに、彼は聖職者ではありませんでしたが、宗教色の強いクライスト・チャーチという大学からは独身であることを条件に職を得ており、聖職者に近い立場にありました。このため、こうした職につく者が、少女や女性と付き合いがある、という噂が広まるのを恐れ、彼女たちは単なる友達にすぎない、というそぶりを取ることも多かったといいます。

だからといって、ロリコンではなかったという証明にはなりませんが、後に「ルイス・キャロルの想い出」という本を書いたキャロルの「子供友達」の少女のひとりは、スキャンダルになるのを畏れ、20歳近くまで彼と交際のあったことを隠していた事実を披露し、「真面目な大学教授」というイメージでキャロルのことを綴っています。

キャロルが少女愛者であったといいう噂が定着したのはまた、彼の死後、甥のスチュワート・コリンウッドが書いた伝記の中で書いた、「少女を愛する、変わり者の聖職者」という表現にも原因があったようです。

その後こうした故人の親族や、旧友・知人が、彼に関する思い出や伝記を色々書くようになるにつれ、そこに出てくる表現をフロイト流の心理学的解釈から勝手に独り歩きし、キャロルのロリコン説が生まれた、というのがほんとうのところのようです。

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方向転換そして死

ところで、写真家としてのキャロルですが、彼が写真を志したのは、そもそもまだ無名の作家だったころ、この写真術が上流の社交サークルへのデビューに役立つと考えたからのようです。

自分自身の写真館を所有していたというのも上で書きましたが、ここに、ミレーのような大画家や、有名女優、写真家、詩人などの数々の有名人を招いて彼等の肖像写真を撮影しており、また多くの風景写真や解剖写真も残しています。

キャロルは非常な野心家であったようで、作家か世間に才能を示すことを切望していたほか、絵画などでも認められたいと考えていたようですが、最終的に写真術に転向したのは、画家としての才能が不十分だと自覚したためと考えられます。

ところが、キャロルは1880年48歳のときに、唐突にこの写真術をやめてしまっています。上述のとおり、この年にキャロルは少女の水着写真を撮影したいと考え、友人夫妻にこれを申し込んで断られていますが、これが写真を止めるきっかけになったとも考えられます。

しかし、このころにキャロルは既に「不思議の国のアリス」やその続編によって有名作家の仲間入りをしており、また、数学者として数々の業績を打ち立てていました。これらの成功は、彼が芸術の分野で達成することを望んでいた成功を十分に埋め合わせるだけのことはあり、写真をやめたのは、そのためだったのかもしれません。

この翌年の1881年には、いったん数学の講師を辞任しており、写真活動を停止したこのころというのは、キャロルにとっても人生の節目だったようです。ただ、大学を退職したわけではなく、クライスト・チャーチ付の「チューター(Tutor)」として勤務は続けました。

チューターというのは、個人教師、家庭教師のことで、クライスト・チャーチなどのイギリスの大学では留学生に対してひとりの職員が指導教官として付くチューター制が定着しており、慣れない生活について個人的な悩みなど、自分ひとりで解決できない問題を相談する役割を果たします。

キャロルはこののちも、こうしたチューターを兼任しつつクライスト・チャーチの「社交室主任」に選ばれるなど、生涯教師としての職を続けました。

51歳のとき(1883年)、なぜかキャロルは「心霊研究協会(心霊現象研究協会)という組織に入会しています。これは、この前年の1882年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの心霊主義に関心のあった3人の学寮長によって設立された非営利団体で、初代会長は哲学者・倫理学者でもあったヘンリー・シジウィック教授です。

一般に、この組織の成立をもって「超心理学元年」と目されており、この協会の目的は、心霊現象や超常現象の真相を究明するための科学的研究を促進することでした。当初、研究は6つの領野に向けられており、これはすなわち、テレパシー、催眠術とそれに類似の現象、霊媒、幽霊、降霊術に関係した心霊現象などです。

キャロルが入会して2年後の1885年にはアメリカ「米国心霊現象研究協会 」が設立されており、1890年にこれは正式に英国心霊研究協会の支部になりました。

支持者には、アルフレッド・テニスン(詩人)、マーク・トウェイン(作家)、カール・ユング(心理学者)、アーサー・コナン・ドイル(作家)、アルフレッド・ラッセル・ウォレス(生物学者)などのそうそうたる面々がおり、この当時の多くの知識人がこの心霊研究に傾倒していたことがわかります。

数学者でもあったキャロルもまた、心霊という現象を科学的に突き詰めたいと考えたと思われ、また写真を辞めたのも、もしかしたら、彼にとっては新境地となるこの分野に没頭するためだったかもしれません。

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以後、押しも押されもせぬ名声と富を築き上げる中で、キャロルはクライスト・チャーチの教職を続け、死ぬまでそこの住居に留まりました。しかし、作家としてのキャロルの作品は必ずしも多くなく、「アリスシリーズ」以外には、1876年の「スナーク狩り」と最後の作品である1889年「シルヴィーとブルーノ」の各巻だけです。

また、キャロルは自分が書いた手紙について記録を残しているため、膨大な量の手紙を書いた事が知られているほか、数学関係の本を多数書いており、とくに「論理学」に関する本も多く著わしています。「ルイス・キャロルのパラドックス」というのがあり、これは、
「亀がアキレスに言ったこと」として日本でも知られています。

1895年にルイス・キャロルが哲学雑誌「Mind」に書いた短い対話編の中で出てくるパラドックスで、これは、この作品中で「アキレスと亀の対話」という形で描かれています。この対話において、亀はアキレスに対し「論理の力を使って自分を納得させてみろ」と吹っ掛けます。

しかし結局アキレスはそれができません。なぜなら、カメが、アキレスが繰り広げる論理学的な推論規則に対して「なぜそうなのか?」という問いを発し続け、アキレスを無限に追いやってしまうためです。……と口で言えば簡単なのですが、私もこの論理を文章で読んでみたのですが、さっぱりわかりません。

こうした「無益な論理」のやりとりは、「アリス」にも頻繁に出てきますが、こうした事実を知ると、キャロルが作家である以上に、実は数学者・論理学者であったことなどに思い至ると思います。

しかし、66歳の誕生日を間近に控えた1898年1月14日、キャロルはイギリス南部、サリー州・ギルフォードにあった姉妹の家に滞在中に、インフルエンザから併発した肺炎で亡くなりました。死後、同街の「マウント」という場所にある墓所に埋葬されました。

墓碑銘には、作家名のルイス・キャロルと共に、「チャールズ・L・ドジソン牧師(Rev.)」とあるそうです。

生前の性癖

キャロルの死因は肺炎だったようですが、彼は17歳の終りの頃に重い百日咳を患い、右耳の聴力に障害を負っており、この百日咳は、彼の後の人生において慢性的な肺の弱さの原因となりました。

また、キャロルは、いわゆる「どもり」、つまり吃音症でした。彼自身は、この性癖を「ためらい(hesitation)」と名付けていようですが、本人にとっては生涯にわたり悩みの種だったようです。

が、彼と面識のあった多くの大人が彼の吃音に気付かなかったといいます。にもかかわらず彼自身は、自分の吃音を深く気にしており、「アリス」に出てくる「ドードー」は、発音しにくい彼のラスト・ネーム”Dodgson”をもじったもので、自分自身を戯画化したものだといわれています。

もっとも、この吃音癖は、社交生活における彼の他の長所を打ち消すほどひどい物ではなく、また彼の生まれつきの社交性と強い自己顕示欲はこれを打ち消すほどのものでした。

周囲の注目を引きつけ称賛されることに常に喜びを覚えていたといい、娯楽のための詩の朗誦が求められれば喜々としてこれを披露し、物真似やジェスチャーも得意だったそうで、これらを駆使して魅惑的な芸人として振る舞い、聴衆の前で歌うことも恐れず、それなりの歌唱力を持っていたそうです。

キャロルは、さらに最晩年の63歳のときに、「地獄についての宗教的疑義」を表明したEternal Punishmentという論理文を発表しています。

この作品では、彼は論理学者としての本領を発揮し、この「地獄」という宗教的世界の意味を彼独自のロジックを使って説明し、これをもとに逆説的に神の性質と目的について述べました。

1895年、亡くなる3年前のことであり、この時すでに、その死を予感し、死後も永遠に続く輪廻のなかでの、次の作品の構想を練っていたに違いありません。

さて、今日も今日とて長くなりました。アー疲れた。

2014-7-2012

彗星のはなし

2014-7-3801
さて、7月になりました。

今日、7月2日は、1900年に ドイツのフリードリッヒシャフェンで飛行船ツェッペリン号が初飛行した日であり、また1937年に世界一周飛行中の女性飛行士アメリア・イアハートが南太平洋で消息を絶った日でもあり、さらに2002年 にスティーヴ・フォセットが世界初の気球による単独世界一周飛行を達成した日でもあります。

何かと航空機に関わる出来事や事件が発生した日なわけですが、もしかしたら、何等かの関係があるのかも、とか思ってしまいます。が、無論、この3つのできごとには何の相関関係はありません。

しかし、先週末に書いたブログでも、こちらの世とあちらの世は繋がり、重なっていると書いたばかりであり、案外と飛行機を飛ばすということを司る何かの波動がつながって、これらの出来事が起こったのかもしれません。

さらに調べてみると、実は1985年の同じ日、こちらは航空機ではありませんが、 欧州宇宙機関 (ESA) がハレー彗星探査機ジオットを打ち上げており、これは、過去において最もハレー彗星に最接近したといわれている探査機です。

ジオット(giotto) またはジョットという名前は、1301年に出現したハレー彗星をパドヴァのスクロヴェンニ礼拝堂の壁画のモチーフに描いたイタリアの画家ジョット・ディ・ボンドーネにちなんでいます。

このハレー彗星は古代からこのように何度も人類に目撃されてきており、明確な記録として残っている最古のものは、紀元前240年5月25日の中国の「史記」の記述であり、そこには「彗星先ず東方に出で、北方に見ゆ。五月西方に見ゆ」との記載があります。

近年では、1986年にハレー彗星は地球にかなり近づいており、これに伴い、アメリカ、日本、ソ連、ESAの各国・機関は、共同で衛星によるハレー彗星の観測を行いました。そのなかで、ESAはハレー彗星のコマの内部まで突入し、近距離より彗星核の撮影を試みるという最も冒険的な計画を立てました。これがジオットです。

彗星が太陽に近づいていくと、太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し始めますが、それに伴って発生したガスや塵は、非常に大きく、極めて希薄な大気となって核の周りを球状に覆います。これがコマです。

ジオットはこのコマに近づいて観測を行いましたが、この際に核から噴出した多数の塵が衝突することが予想されたため、その製作にあたっては衛星の進行方向に装甲板が取り付けられました。また映像は、衛星本体の脇に、装甲板の外側に取り付けられている鏡を経由し、本体内のカメラで撮影する、という特殊な方法がとられました。

こうしてジオットは、1985年7月2日、 フランス領ギアナのギアナ宇宙センターからアリアン1ロケットにより打ち上げられ、翌年の3月14日、ハレー彗星の核から600 kmまで接近しました。そして塵の衝突により最接近直後にカメラが故障し映像の送信が中断するといったトラブルもありましたが、最接近して無事にハレー彗星の撮影に成功しました。

こののちもジオットはさらに、スイングバイで別の彗星の観測にあたることになり、1992年7月10日には、グリッグ・シェレルップ彗星という彗星にも約200 kmまで接近し、データを観測するなどの成果をあげました。しかし、1999年、地上からの呼びかけに反応しなくなり、通信は途絶えました。

このESAが送ったジオットを含め、日本、ソ連やアメリカといった他の国・機関が送った衛星群は、ハレー艦隊(Halley Armada)とも呼ばれました。複数の探査機が、順を追ってハレー彗星に近接観測するさまを艦隊になぞらえたことによります。

多国の複数の宇宙探査機で同一天体を観測するものとしてはそれまでに類を見ない国際協力プロジェクトであり、各宇宙機関・探査機は観測分野を調整し、彗星観測にあたりました。ジオットは、これらの探査機の中では最も彗星核に接近しましたが、各国の衛星はこのジオットの軌道修正に必要なデータを提供するための観測も担いました。

ただ、アメリカ航空宇宙局はスペースシャトルより大気圏外観測を行う予定でしたが、1986年1月のチャレンジャー号爆発事故の影響によりシャトルの運航が中止され、観測は取りやめとなりました。

また、元々ハレー彗星の国際共同探査を提案したのはNASAでしたが、ハレー彗星の探査に十分な予算が付かず、当初予定されていたハレー彗星探査機HIMの開発は財政難のため頓挫。結果的に他国と比べ一歩距離を置いて参加する形となりました。

このため、新たにハレー彗星へ向かう探査機を打ち上げず、代わりに欧州と共同で運用していた探査機ISEE-3をICE(アイス)に改名してハレー彗星探査に転用し、月スイングバイを利用した複雑な軌道変更を経てハレー彗星に向かわせました。

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また、1965~1967年に打ち上げられ、4機体制で太陽周回軌道を網羅して惑星間環境の観測を行っていたパイオニア6~9号のうち、6号、7号、8号が機能を維持しており、これらを有効利用することとしました。

一方のアイスは、1986年3月28日に、ハレー彗星に約2800万kmまで接近しました。カメラは搭載していないため画像撮影はできませんでしたが、周辺環境や粒子を19個の観測装置で観測しました。

また、パイオニア7号は、ICEより近く、1230万キロまでハレー彗星に接近し、太陽風により形成されたプラズマがハレー彗星から放出されるガスにより中和されるという現象を発見しました。

一方、ソ連は、ベガ1号、ベガ2号の2機の探査機を送りました。ベガの名はロシア語で金星を表すベネラと、ハレーを表すガレーから取られたものです。

当時は冷戦の最中であり、ソ連の宇宙開発も秘密主義の下に置かれていましたが、ハレー彗星の探査に関しては例外的に開放的な協力姿勢を見せ、この2機の大型探査機には欧米の観測機器・技術が採用されました。

両機は金星探査機も搭載しており、ハレー彗星に接近する前に金星に接近し、それぞれが金星大気にバルーンを投下しました。このうちのベガ1号は、彗星の核から8,889kmまで最接近し、コマのガス雲を通過中には、様々なフィルターで500枚以上の画像を撮影しました。

このとき多くの塵がベガ1号に衝突しましたが、使用不能になった機器はありませんでした。この結果得られたベガの画像からは、核の長さは約14kmで、約53時間の周期で自転していることが示されました。また質量分析器により、塵の組成は「炭素質コンドライト」に似ており、クラスレートと呼ばれる特殊な氷の粒も検出されました。

炭素質コンドライトというのは、化合物や有機物の形で石質隕石に含まれる炭素原子で、これまで地球上で発見された隕石ではほとんどみられておらず、数十例しかないという希少なものです。また、ベガ2号は、3月9日に彗星の核から8,030kmまで最接近し、コマのガス雲を通過中には、ベガ1号よりも良い解像度で700枚の画像を撮影しました。

一方、日本の宇宙科学研究所は自主技術にこだわり、比較的独自路線でこのハレー艦隊に参加していました。

この当時まだNASDA(宇宙開発事業団)とよばれていた後年のJAXA(宇宙航空研究開発機構)は、日本初の惑星間探査機打ち上げロケットM-3SIIを新たに開発し、当時不可能と言われていた全段固体燃料ロケットによる地球重力圏脱出を成功させました。

探査機としては、「さきがけ」と「すいせい」の2機が製作され、先行するさきがけを試験機とし、その運用結果や取得したノウハウをすいせいの運用にフィードバックすることとし、それぞれ異なる観測機器が搭載されました。この2機は、太陽風とハレー彗星の大気との相互作用を観測したり、紫外線で彗星のコマを撮像することを目的としていました。

さきがけは、1986年3月11日にハレー彗星に699万kmまで接近し、彗星付近の太陽風磁場やプラズマを観測し、数々の観測ノウハウをすいせいのために蓄積しました。

これに続いて打ちあげられたすいせいは、1985年11月14日に「真空紫外撮像装置」という特殊装置を用いてハレー彗星を撮影し、この結果からコマの明るさが規則的に変光していることが明らかとなり、変光周期から核の自転周期が2.2±0.1日と推定するなどの成果をあげました。

さらに年3月8日にハレー彗星に145,000 kmの距離まで最接近し、彗星付近の太陽風の観測を行い、水放出率の変化の測定、ハレー彗星起源のイオンが太陽風に捉えられた様子などを観測するなどの多くの成果をあげました。

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このように、ハレー艦隊としての観測は、各国が太陽系探査を協力して実施する先駆けのケースとなり、これを機に日欧が太陽系探査に進出するようになるとともに、予算の制限などによる宇宙探査計画の推進に苦しむ各国が相互に協力して探査を行うという機運を生み出しました。

その後も2003年12月から翌年1月にかけて日欧米3か国の探査機群が相次いで火星を訪れた、いわゆるマーズラッシュの際には互いのデータを利用してより高精度の探査を行うことが提案されるなど、太陽系探査は協力体制が基本になっていきました。

そして2007年以降は中国やインドも月・惑星の探査に進出しはじめ、その後の太陽系探査はこれらの国も含めた国際協力体制で臨む方向で話が進められています。

ところで、このハレー彗星ですが、これは約76年周期で地球に接近する短周期彗星です。公転周期は75.3年で、ほぼ人の一生分です。多くの周期彗星の中で最初に知られた彗星であり、冒頭でも述べたとおり古来より多くの文献に記録されています。前回は1986年に回帰し、次回は2061年夏に出現すると考えられています。

ハレー艦隊による各国の観測から、ハレー彗星の核は約8×8×16kmの大きさでジャガイモのような不定形をしていることがわかり、また核の密度は1立方センチあたり、 0.1~0.25gと結構スカスカであることがわかりました。さらに核の表面は予想されていたよりも非常に暗いことなども判明しました。

このほか、探査機ジオットによる調査では、彗星核表面には炭素が多く存在することが明らかになり、核から放出された物質の組成は氷が80%、一酸化炭素が10%、メタンとアンモニアの混合物が2.5%などとなっており、他に炭化水素や鉄、ナトリウムなどが微量に含まれ、このほか人を死に追いやるシアンガス(青酸)などもわずかに含まれていました。

さらに、ハレー彗星から放出された物質は、5月のみずがめ座η流星群および10月のオリオン座流星群の流星物質となっていることなどもわかりました。

このハレー彗星のような彗星には長周期のものと短周期のものがあります。ハレー彗星は短周期のものであり、短周期のものではハレーのように大きなものは非常に稀といわれています。

小惑星は比較的円に近い楕円軌道を描いているものが多いのに対して、彗星は非常に細長い楕円や放物線、双曲線の軌道をとるものが多くなっています。彗星がなぜこうした極端な楕円軌道になるような摂動を受けるのかを説明するために、様々な説が提唱されてきました。

このうちの有名な説のひとつに、銀河系の中の恒星が太陽の近くを通過したことにより、オールトの雲などに含まれる彗星のような太陽系外縁天体の軌道が掻き乱され、その一部が太陽へと落下してくるとする説があります。

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このオールトの雲というのは、1950年に天文学者のヤン・オールトによって提唱されたものです。オールトは、長周期彗星の軌道計算を行い、その遠日点が太陽から1万~10万天文単位(約0.1~1光年)の距離のものが多いことを発見しました(地球と太陽との平均距離は、1億5千万キロほどでこれを1天文単位(1AU)といいます)。

ちなみに遠日点というのは、楕円の軌道を持つ天体が、太陽から最も遠ざかる位置のことで、逆に最も近づく位置は近日点といいます。

そこでオールトは、小天体が多く集まる「オールトの雲」と呼ばれる領域が太陽系の最外縁部に存在するという仮説を提唱しました。太陽系の最外縁部といっても、かなり太陽系よりも離れており、海王星や冥王星のある太陽系外縁よりもさらに遠く離れたところにこのオールトの雲はあると考えられています。

オールトは、これらが「雲」の名にあるようにもやもやと広がっていると考え、これが長周期彗星の元になっていると考えましたが、この仮説は広く受け入れられ、それ以後多くの学者が長周期彗星はオールトの雲に起源を持つと考えられるようになりました。

オールトは、この雲の中に存在する天体は、時々お互いに重力的相互作用(摂動)を起こし、一部が太陽の引力に捉えられて極端な楕円軌道を描くようになり、これが彗星として太陽に非常に接近するようになると考えました。

一方、このオールトの雲の内側にはこれとは別に、エッジワース・カイパーベルトというものがあります。これは、太陽系の海王星軌道よりやや外側にあり、天体が密集した円盤状の領域であり、イメージとしてわかりやすくいえば土星の輪のようなかんじで、水金地火木土天海冥などの太陽系惑星の周りを取り巻いています。

短周期彗星はこのエッジワース・カイパーベルトを起源に持つと考えられ、ハレー彗星もそのひとつです。オールトの雲とエッジワース・カイパーベルトはいずれも、太陽系の形成と進化の過程において形成された微惑星、または微惑星が集まった原始惑星が残っていると考えられている領域です。

従って、彗星を探査すれば、太陽系の起源がわかる可能性があり、これが各国がこぞって彗星探索機を飛ばす理由です。太陽系では、3天文単位(AU)以遠では比較的凝固点の高い物質がすべて凍り、岩石質の物質の総量を上回り、微惑星の主成分は氷になります。

火星の太陽からの距離が1.5AU、木星が5.2AUですから、火星と木星の中間あたりぐらいから外側はもうすべてが氷の世界であり、ここにあった氷の粒が冥王星の外に押しやられ、これがエッジワース・カイパーベルトを形成しています。

一方のオールトの雲は、主として太陽系の形成と進化の過程で、現在の木星軌道付近から海王星軌道付近までの太陽系内に存在していた氷状の小天体が、形成後に巨大惑星となった木星や土星の重力によって弾き飛ばされたものと考えられていて、前述のとおり、太陽系を球殻状に雲のように取り巻いています。

ここには1×1012(1兆個)単位の数の天体が含まれると推測されており、これらの小天体は、木星や土星のような巨大惑星の重力や相互衝突により軌道要素が変わり、冥王星や海王星のように太陽系外縁に至るような惑星の軌道半径よりもさらに大きな長楕円軌道に次第に移っていったとする説が有力です。

つまり、オールトの雲というのは太陽系内にあった小天体の軌道が大きな惑星に吹き飛ばされてだんだんと太陽系外に移っていった結果形成もので、これに対し、エッジワース・カイパーベルトは地球ほか太陽系内の惑星が形成される過程で、次第に海王星軌道の外側に押し出されていったものであり、オールトの雲とは起源が異なります。

さらに言いかえると、オールトの雲は、太陽系の中の木星や土星付近にあって惑星になりかけたものの残骸で、エッジワース・カイパーベルトは惑星にもなれず、太陽系の外に押し出されたものです。太陽系外縁部の氷小天体が惑星にまで成長できずに残ったものですから、黄道面を取り巻くようにして太陽系の回りに環状に広がっているわけです。

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したがって、もともと太陽系内にあったオールト雲起源の彗星の方がエッジワース・カイパーベルト起源のものより形成温度が高いと考えられており、その成り立ちも異なりますが、それぞれのエリアを起源とする彗星などの天体の性質もある程度異なるものと考えられています。

また、ハレー彗星のようにエッジワース・カイパーベルト起源の彗星は短周期のものが多いのは、その周期が水金地火木土天海冥と同様に、昔から固定されていて変わっていないためです。

オールトの雲起源の彗星は、弾き飛ばされた惑星物質から形成されたものであり、だんだんとその楕円軌道が広がっており、さらに長周期になりつつあるものさえあると考えられています。

かくして、オールトの雲起源の彗星はかつ太陽系にある惑星の名残によって形成されたものなので大彗星になるものが多いといわれ、この反対にエッジワース・カイパーベルト起源の彗星には大きいものがないといわれるのは、塵にすぎないものが集まってできたものが多いからです。

こうした彗星は、2009年11月の時点までで、3648個もの彗星が確認されています。そのうち、約400個がカイパーベルト由来の短周期彗星であり、約1,500個がクロイツ群の彗星、残りがオールト由来の長周期彗星です。

クロイツ群というのがまた新しく出てきた用語なので、混乱しそうですが、このクロイツ群に属する彗星は、近日点が太陽に極めて近い類似の軌道を持っています。つまり、オールトの雲由来やカイパーベルト由来の彗星よりもはるかに太陽に近い軌道を持っており、このためサンクレーザー(太陽に非常に接近する彗星)とも呼ばれています。

クロイツ群は、数百年前に分裂した一つの非常に巨大な彗星の破片だと考えられており、これらの彗星の間に関係があることを最初にはっきりと示した天文学者のハインリヒ・クロイツにちなんで命名されました。

クロイツ群に属する彗星のうちいくつかは大彗星となっており、太陽に接近した時には昼間でも見えるものもあります。軌道が太陽の極めて近くを通ることが最初に分かったのは1680年に見えた大彗星であり、この彗星は、太陽の表面からわずか20万 km(0.0013 AU)のところを通過しましたが、これは地球から月までの距離のおよそ半分と同じです。

このような彗星の中で直近に現れたのは1965年の池谷・関彗星であり、これはおそらく前回のミレニアムで最も明るくなった彗星です。このようなクロイツ群由来の彗星は、数百年前に分裂した一つの非常に巨大な彗星の破片だと考えられていますが、1995年に打ち上げられた太陽探査機SOHOは、クロイツ群に属する数百の小さな彗星を発見しました。

こうした小さい彗星は太陽の側を通過できずにその多くが消滅してしまいますが、これまでの観測結果からは中には差し渡し数mしかないものもあることがわかっており、アマチュア天文家たちは、インターネット経由でリアルタイムで公表されるデータからクロイツ群の彗星を数多く発見しています。

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かくして、こうして確認された彗星の数は増え続けているわけですが、オールト由来にせよ、カイパーベルト由来にせよ、クロイツ群に属するにせよ、我々が認識した彗星は、太陽系内外に存在するはずの彗星のごくこぐ一部です。

太陽系外部に存在する彗星の元になる天体はおよそ1兆個存在するかもしれないといわれており、地上から肉眼で見えるようになる彗星の数はおおまかには1年に1個程度ですが、その大部分は暗く目立ちません。これに対して、歴史上、非常に明るく肉眼でもはっきり見え、多くの人に目撃されたような彗星は「大彗星」と呼ばれます。

こうした大彗星を中心に、その成分を明らかしようと色々な探査が行われているわけですが、前述のジオットが核を撮影したところ、蒸発する物質の流れが観測され、ハレー彗星は氷と塵の集まりであることが確かめられました。

また、1998年に打ち上げられた NASA のディープ・スペース1号は、2001年にボレリー彗星の核に接近して詳細な写真を撮影し、ハレー彗星の特徴は他の彗星にも同様に当てはまることを立証しました。

その後の宇宙飛行ミッションも、彗星を構成している物質についての詳細を明らかにすることを目標に進められ、1999年に打ち上げられた探査機スターダストは、2004年にヴィルト第2彗星に接近して核を撮影するとともにコマの粒子を採取し、2006年に標本を入れたカプセルを地球に投下しました。

これは、2010年に小惑星イトカワからサンプルを持ち帰った日本のはやぶさよりも前のことであり、彗星からのサンプルリターンは無論世界初です。この標本の分析により、彗星を構成する主要元素は太陽や惑星などの原材料物質と同じであることがわかり、また試料の中には、高温下で形成されるカンラン石やなどが発見されています。

高温下で形成される物質はエッジワース・カイパーベルトのような冷たい領域で彗星が生まれたとされる領域で形成されたとは考えにくく、太陽に近い場所で形成された物質が彗星が形成された太陽系外縁部まで運ばれてきた可能性を示しており、これはオールトの雲の存在を裏付けるものです。

さらに2005年に打ち上げられた探査機ディープ・インパクトは、同年7月4日に、核内部の構造の研究のためにテンペル第1彗星にインパクターを衝突させることに成功し、この結果、短周期彗星であるテンペル第1彗星の成分はオールトの雲由来の長周期彗星のものとほぼ同じであることが判明しました。

この衝突で飛び散った物質の観測では、塵の量が氷よりも多いこともわかり、彗星の核は「汚れた雪玉」というよりも「凍った泥団子」であることもわかりました。またこのときテンペル第1彗星に付着した物質を遠隔操作で確認したところ、ここからも、かつて高温下の条件を経験したと考えられる物質が検出されました。

このように、「凍った泥団子」にすぎない彗星はもろく、その軌道回帰の過程で、ばらばらになってしまうこともあります。過去には多くの彗星の核が分裂する様子が観測されてきており、シュワスマン・ワハマン第3彗星という彗星は1995年の回帰時に4個に分裂し、その後さらに分裂して2006年には30以上の破片になっていました。

この他にもウェスト彗星、池谷・関彗星、ブルックス第2彗星等、彗星核の分裂が観測された彗星は数多く、崩壊・消滅した彗星も多数あります。1994年7月に木星に衝突して消滅したシューメーカー・レヴィ第9彗星もそのひとつです。

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さらにこのほか、大彗星から分裂したクロイツ群の彗星が太陽面に接近し、蒸発、雲散霧消する姿は数多く観測されており、前述の太陽探査機SOHOは、毎年数十個の彗星が太陽に突入するのを観測しています。

昨年観測された、クロイツ群に属するラヴジョイ彗星の太陽の表面への最接近距離は13万2000kmと、地球と月の軌道の1/3に相当する非常に近い距離でした。

これほど太陽に接近する彗星は、普通は100万℃以上ある太陽のコロナに焼かれ蒸発するか、さもなくば太陽に衝突するか、潮汐力によって粉々に砕かれる運命を辿るといわれていました。が、中には十分に大きな彗星は生き延びるという予測をした研究者もおり、ラヴジョイ彗星はその初事例となりました。

このラヴジョイ彗星のように明るい彗星は、いつの時代にも話題になります。がしかし過去にはしばしば一般市民にパニックやヒステリーを引き起こし、何か悪いことの前兆と考えられることも多いようです。

比較的最近でも1910年のハレー彗星の回帰の際に、彗星が地球と太陽の間を通ることから「彗星の尾によって人類は滅亡する」というような風説が広まりました。

この当時既にスペクトル分析によって、彗星の尾には猛毒の青酸(シアン)が含まれているものもあることが知られるようになっており、天文学者でSF作家でもあったカミーユ・フラマリオンは、ハレー彗星の接近に伴い、その尾に含まれる水素が地球の大気中の酸素と結合して地上の人々が窒息死する可能性があると発表してしまいました。

これらが世界各国の新聞で報道され、さらに尾鰭がついて一般人がパニックに陥りました。日本でも、空気が無くなっても大丈夫なようにと、自転車のタイヤのチューブが高値でも飛ぶように売れ、貧しくて買えないものは水に頭を突っ込んで息を止める練習をするなどの騒動が起きました。

その後も、1990年にはオウム真理教の麻原彰晃がオースチン彗星の地球接近によって天変地異が起ると予言して勢力拡大を図り、1997年のヘール・ボップ彗星の出現時にはカルト団体ヘヴンズ・ゲートが集団自殺事件を起こしています。

ただ、様々な要素により、彗星の明るさは予言から大きく外れるため、彗星が大彗星になるか否かを予言するのは実は大変難しいことです。

彗星がまだ地球からかなり遠くにある場合の観察において、もし彗星の核が大きく活発で明るい場合、太陽の側を通ってもその明るさが不鮮明になっていなければ、大彗星になる可能性が高いといわれます。が、1973年のコホーテク彗星は、こうした条件を満たしており、壮大な彗星になると期待されたにも関わらず、実際はあまり明るくなりませんでした。

一方では、その3年後に現れたウェスト彗星は、ほとんど期待されていませんでしたが、実際は非常に印象的な大彗星となりました。

また、20世紀後半には大彗星が出現しない長い空白期間がありましたが、20世紀も終わりに近づいた頃、2つの彗星が相次いで大彗星となりました。1996年に発見され明るくなった百武彗星と1995年に発見され、1997年に最大光度となったヘール・ボップ彗星がそれです。

さらに21世紀初頭には大彗星が、それも2個も同時に見ることができるというニュースが入り、これは2001年に発見されたNEAT彗星と2002年に発見されたLINEAR彗星でした。しかしどちらも最大光度は3等に留まり、大彗星とはなりませんでした。

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ごく最近では、2006年に発見され、2007年1月に近日点を通過したマックノート彗星は予想を上回る増光を起こし、昼間でも見えるほどの大彗星となり、大いに天文ファンを沸かせました。南半球でのみ観測されたものですが、尾が大きく広がった印象的な姿を見せ、新聞報道などで写真を見た方も多いでしょう。

記憶に新しいところではやはり、2011年のラヴジョイ彗星があり、天文ファンのみならず、世界中の人が堪能しましましたが、昨年の11月、「世紀の彗星」になると注目を集めたアイソン彗星には多くの人が失望させられました。

このアイソン彗星は、29日未明、太陽に最接近する際に太陽の熱によってバラバラに崩壊し蒸発してしまいましたが、これは太陽の直径より短い約110万キロまで太陽の表面に近づき、強い重力や熱にさらされたためとみられ、多くの科学機関がその前後を観測する計画でしたが、その目論見は潰えました。

さて、今年はどうかというと、1月上旬には、明け方の東の空では、ラブジョイ彗星が双眼鏡を使うと良く見えたといいます。それでは今年はあとの後半どうかということになると、残念ながら今のところ、大彗星の出現予想はないようです。が、突然ヘール・ボップ彗星のような大彗星があらわれないとも限りません。

また、彗星はなくても流星があります。流星とは、宇宙空間にある直径1ミリメートルから数センチメートル程度のチリの粒が地球の大気に飛び込んできて、大気と激しく摩擦を起こし、高温になると同時に光って見える現象です。

彗星はこのようなチリの粒を軌道上に放出していて、チリの粒の集団は、それを放出した彗星の軌道上に密集しています。彗星の軌道と地球の軌道が交差している場合、地球がその位置にさしかかると、チリの粒がまとめて地球の大気に飛び込んできます。

地球が彗星の軌道を横切る日時は毎年ほぼ決まっていますので、毎年特定の時期に特定の流星群が出現するわけです。それぞれのチリの粒はほぼ平行に地球の大気に飛び込んできますが、それを地上から見ると、その流星群に属している流星は、星空のある一点から放射状に飛び出すように見えます。

流星が飛び出す中心となる点を「放射点」と呼び、一般には、放射点のある星座方向からやってくる流星をその星座の名前をとって「○○座流星群」と呼びます。毎年ほぼ安定して多くの流星が出現する3つの流星群としては、「しぶんぎ座流星群」「ペルセウス座流星群」「ふたご座流星群」などがあり、これは、「三大流星群」と呼ばれています。

その発生時期は、しぶんぎ座流星群が、1月上旬ごろ、ペルセウス座流星群が7月中旬から8月下旬にかけて、ふたご座流星群 12月上旬から下旬にかけてであり、それぞれ1時間あたりに見える個数の目安は、40、50、80程度です。このほか、オリオン座流星群も、10月にほぼ1ヶ月間みることができ、その数は1時間に40ほどだそうです。

このペルセウス座流星群は、時間個数は平凡ですが、その総数では年間でも常に1・2を争う流星数を誇ります。条件がよい時に熟練の観測者が見ると、1時間あたり60個以上の流星が観測されるそうで、極大の時期がお盆の直前なので、夏休みなどの時期と重なり多くの人が注目しやすい流星群です。

一般的な出現時期は7月17日から8月24日、極大は8月13日頃です。流星数が増えるのは8月の中旬になってからです。

放射点は、夕方には地平線の上にありますが、実際に流星を目にし始めるのは、もう少し放射点が高くなる午後9時から午後10時頃となります。明け方まで放射点は高くなり続けるので、真夜中頃から空が白み始めるまで観察しやすい時間帯が続きます。特に午前3時頃が最良の観測ポイントです。

観測の方角は、だいたい北東の空ですが、全天にくまなく飛ぶので、できるだけ空の開けた場所で広範囲に観測してみましょう。ペルセウス流星群は、比較的明るく、流れる量も多く、初心者でも簡単に見られる流星群です。

しかも今年は最高のコンディションとのこと。そろそろこれがやってっ来る季節になりましたが、夏休みの思い出に家族で観測してみてはいかがでしょう!

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