犬神はお好き?

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今日は、アメリカ合衆国元大統領のロナルド・レーガンが、1980年の大統領選で初当選した日だそうです。

今からもう35年も前のことであり、当のレーガンさんは既に2004年に満93歳で亡くなっています。

69歳で大統領に選出されたというのは、アメリカの大統領としては最年長記録であり、また元俳優という経歴もその当時話題を呼びました。

歴代の大統領の中では、唯一の離婚歴を有する人物でもありましたが、大統領になる28年前に同業の女優、ナンシー・デイビスと再婚しており、この夫人もまた、反麻薬キャンペーンの支援などで大変評価の高い人でした。

レーガン大統領の功績といえば、やはり第1期目において「レーガノミックス」を実行し、大幅減税と積極的財政政策によって、アメリカ経済の回復をもたらしたことでしょう。外交面では強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行うなど、「強いアメリカ」を印象づけました。

2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、このレーガン政権の体質に対して各方面から辛辣な批判が目立ったものの、デタント(緊張緩和)を否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判したことで、国民の熱狂的な支持を得ました。

「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し、イギリスのマーガレット・サッチャー首相や日本の中曽根康弘首相、西ドイツのヘルムート・コール首相などと密接な関係を結び世界中の反共主義運動を支援しました。

この強気の外交政策は、ソ連の解体とベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の民主化に繋がり、レーガンは冷戦の平和的な終結に大きく貢献したと評価されています。大統領退任から5年後、最晩年はアルツハイマー病を患ったことを公表して話題になりましたが、2004年6月5日、ロサンゼルスの自宅で療養中に肺炎のため死去。

亡くなった時、歴代アメリカ大統領のなかで最長寿でしたが、その後2006年12月にフェラルド・フォード元大統領が93歳165日で死去したため、歴代2番目の長寿となりました。その葬儀は死後6日後にワシントンD.C.で盛大に執り行われましたが、これはリンドン・ジョンソン元大統領以来の国葬でした。

このように歴史に残る大統領として評価の高いレーガンですが、その船出はイランのアメリカ大使館人質事件の人質解放に続いて、暗殺未遂事件に見舞われるという衝撃的なものでした。

大統領就任から69日後の1981年3月30日、講演先のワシントンD.C.のヒルトンホテルを裏口から退出した際に、ジョン・ヒンクリーという精神的に不安定だった男によって狙撃されました。

3秒間で6発の弾丸が発射され、レーガンの脇にいたブレイディ大統領報道官とシークレットサービス、ワシントン市警警官の三人が被弾してその場に倒れました。シークレットサービスと警官は軽傷でしたが、ブレイディ大統領報道官は頭部に弾丸を受けたために、一命こそ取りとめたものの回復不能な障害が残りました。

大統領も肺に被弾しており、救急病棟に到着したころには呼吸も困難な状態で、歩いて病院に入ったレーガンは直後に倒れ込んでしまうほどでした。それでもレーガンの意識はしっかりしており、周囲の心配をよそに弾丸摘出の緊急手術の前には医師たちに向かって「あなた方がみな共和党員だといいんだがねえ」と軽口を叩いたといいます。

執刀外科医は民主党員でしたが、「大統領、今日一日われわれはみんな共和党員です」と返答してレーガンを喜ばせたといいます。手術は全身麻酔を必要とする大掛りなものでしたが一命をとりとめ、70歳の高齢者としては驚異的なスピードで回復し、事件から約10日後には退院しました。

レーガンは入院中にも妻のナンシーに「(弾を)避けるのを忘れてたよ」とジョークを言うなど陽気な一面を見せ続けました。その後公務復帰後の演説中に会場の飾りつけ風船が破裂するという事故があり、場内が一時騒然となりましたが、このときもレーガンは「奴は、またしくじったよ」とジョークを言い、会場は爆笑と大拍手に包まれたといいます。

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この復活により、レーガンは在職中に銃撃されながら死を免れた最初の大統領となりました。アメリカ大統領には、いわゆる「テカムセの呪い」というものがあり、これは「20で割り切れる年に当選した大統領は在任中に死去する」というもので、1980年に行われた大統領選挙で現職のカーター大統領を破って当選したレーガンもその該当者でした。

この呪いは、部族の領土を白人に奪われ、1811年にティピカヌーの戦いでウィリアム・ハリソンに殺されたインディアン部族、ショーニー族の酋長テカムセによるものとされるもので、20年ごとに選ばれる大統領の死を呪ったものといわれていました。

しかし、そのジンクスもついに破れ、2期8年の任期満了によりウィリアム・ハリソンの当選した1840年以降続いていた呪いにも終止符が打たれました。

その後、2000年に選出されたジョージ・W・ブッシュも、2期目の2005年5月10日にグルジアで演説中に手投げ弾を投げ込まれるという事件に遭遇しました。しかし爆弾は不発に終わり、その後も2期8年の大統領職を任期を全うして現在も存命中です。

次は2020年の大統領選で当選する大統領がこの呪いのターゲットということになりますが、来年行われる2016年の大統領選では人気の高いヒラリー・クリントンが大統領となる可能性があります。この場合、次の2020年にも再選される可能性もあり、今度は彼女にお鉢が回ってくるということになりますが、テカムセの呪いは果たして女性にも有効でしょうか。

このテカムセの呪いを退けたブッシュ元大統領ですが、その任期中にはほかにもその身が危険にさらされるといったことがありました。一度目は2002年にプレッツェルを食べている最中に失神したというもので、大統領はこの菓子をのどに詰まらせて、窒息する可能性がありました。が、こん倒し顔に傷を負っただけで無事でした。

この時、アメリカの風刺漫画家はこぞって「新手のテロか?」などと描き立て、新聞各紙に大量に掲載されました。当時イラク派兵に関してアメリカと反目していたフランスの市民から、皮肉とエスプリを込めてブッシュにプレッツェルが贈られる、という「事件」もあったようです。

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2度目が上の爆弾騒ぎですが、3度目があり、これは任期満了直前にイラク人記者に靴を投げつけられる、というもので、いわゆる「ブッシュの靴」と呼ばれる事件です。

靴を投げつけたのは、ムンタゼル・アル=ザイディというイラク人の記者でした。このときブッシュは2回靴による攻撃を受けましたが、その2回ともかわして無事でした。しかもその後のインタビューでは「靴のサイズはたしか28センチだった」などと余裕を見せました。

なぜ靴だったのか、ということですが、他人の体や頭に靴をぶつけたり、靴を履いた足で踏みつける行為はイスラム世界では最大級の侮辱行為とされているためです。この当時はイラク問題が大きな国際問題になっている時期であり、この靴投げ事件をきっかけに、同様の抗議行動が頻発しました。

2009年2月に、イギリスのケンブリッジ大学を訪問していた中華人民共和国国務院総理の温家宝が、同学の学生によって靴を投げつけられるという摸倣の事件に遭ったほか、同年同じ月にインドネシアを訪問した、ヒラリー・クリントン国務長官に抗議するイスラム教徒の学生らがヒラリーの写真に約50足の靴を投げつけています。

そのほか、イタリアのベルルスコーニ首相が土産物の置物を暴漢に投げつけられるという事件や、オーストラリアの視聴者参加討論番組に出演したジョン・ハワード元首相が、参加者の一人から「イラクで死んだ人々からのお返しだ!」と叫びながら、靴を投げられたという事件もありました。

ブッシュ大統領に靴が投げつけられた同じ年の12月には、靴を投げた当人のムンタゼル・アル=ザイディ自身がパリで記者会見中に、ブッシュ支持のイラク人から靴を投げつけられるという事件もありましたが、ザイディもブッシュ同様に靴をかわすことができました。

このザイディ記者が投げつけた靴は、その後トルコの靴メーカー、バイダン社が製造するものであったことがわかりました。その後同社へはこの靴への注文も殺到したといい、これを受けてバイダン社はこの靴に「バイバイ・ブッシュ」という商品名をつけ、商標登録しました。

同じタイプの靴はそれ以前には年間4万足程度の生産量だったそうですが、事件後10日あまりで37万足もの注文が殺到し、これに乗じようと偽物造りの大国として有名な中国のメーカーが「ブッシュの靴」の製造元であると名乗りを上げたそうです。

このように、アラブ世界では、靴で人を踏みつける・靴を投げつける・靴で叩くことは、その人に対する最大の侮辱・屈辱行為に当たり、人だけでなくその人を表す絵画や写真や銅像などでもこれは同様です。アラブ世界でのデモ行進では、靴を掲げたり、人の顔のイラストの隣に靴を描くことで、政権への嫌悪感を抱くイメージ付けをしています。

湾岸戦争の後、イラクのバグダッドにあるアル・ラシードホテル入口には上のジョージ・・ブッシュ大統領のモザイク画が踏み絵となるように描かれていたといいます。ただ、この絵はイラク戦争後は米軍によりサダム・フセインのモザイク画に置き換えられたそうです。

このほかにも、フセイン元大統領の失脚後、彼の故郷であるイラク北部のティクリートに高さ約3メートル、重量は約1.5トンに及ぶブッシュの靴の銅像が設立される、ということがあったそうですが、その後これはすぐにイラク新政府の要請で撤去されています。

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日本でも、これ以前の1991年に当時の海部俊樹首相が、国会で演説中に、湾岸戦争に反対する過激派から靴を投げつけられる、という事件がありました。が、これはアラブ世界の風習とは全く関係がありません。

日本においても、ときにこの靴という西洋から入ってきた履物が嫌われる場合があります。例えば靴を脱いで入ることを前提とした日本の家屋では、家人の同意を得ずに靴(草鞋や草履であっても)のまま入る事は絶対意的なタブーです。

靴を脱ぐべき事を意味する段差が設けられた家に「上がる」)土足で家を汚すことは、家人に掃除の手間をかけさせるだけでなく、その家の尊厳に対する挑戦的な行為とみなされているわけであり、転じて「土足で上がる」という比喩ができました。

これは攻撃的で敵対的なニュアンスをあらわしており、例えば「心に土足で上がり込む」というのは人の尊厳を否定するような意味になり、「土足で踏みにじった」となるとその人の尊厳を傷つけたような意味になります。

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逆に西洋では、靴を履くというのは身だしなみの一種であり、いたずらに靴を脱ぐことはマナーとして好ましくないとされ、逆にそれを脱ぎ去ることは「乱れ」とされがちです。

このため、西洋の家では玄関ドアは必ず「内開き」になっており、これは靴を履いたまま家の中に入る風習が定着しているからです。ホテルなどもこの西洋の形式を踏襲しているため客室の扉は全て内開きです。

また、靴を履いたままベッドに寝転がってもシーツが汚れない用に、帯の様な一枚の長い布、「フットスロー」が足元に置かれることもあります。日本のホテルでは省略されることの多いこのフットスローですが、海外のちゃんとしたホテルではたいてい備えてあります。

ところが日本などの靴を脱がずに上がる文化圏の扉は必ず「内開き」となっており、さらに客宅で脱いだ靴は玄関の端に寄せるのがマナーとされます。その理由は玄関の真ん中の部分は家主が使用するスペースであり、他人である訪問者がそのスペースを奪ってはならない、とされるためです。

一方、日本語には、「足元を見る」という言葉があります。これは旅人の足袋や草履を見て宿泊客の経済力や地位を見る様子から転じた慣用句です。従って同じ履物でも上下の差があるということです。と同時に、この履物を作ることを生業としていた業種の人間は昔から身分が低いもの、とみなされていました。

欧米においても、「靴磨き」を生業とする人々は底辺社会・貧困社会のステレオタイプ的な存在です。これは主に貧しい少年達が露天商として営むことが多かったことに加え、靴磨き作業中は客から常に上から見下ろされる構図であることに起因します。

このため「自分の靴を磨かない」つまりいつも靴を他人に磨かせる人種は身分が高く、このため靴を磨かせる、という行為はその昔からブルジョワジーや権力者の象徴とみなされてきました。

日本の場合、こうした履物造りは、穢多・非人の職業とされていました。穢多(えた)とは、日本において中世以前から見られる身分制度の身分のひとつです。仏教、神道における「穢れ」観念からきた「穢れが多い仕事」や「穢れ多い者(罪人)が行なう生業」の呼称であり、古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷を起源と見る節もあります。

穢多と非人の違いですが、一般的には士農工商穢多非人と書かれ、非人のほうが穢多よりも下とみなされることが多いようです。が、江戸期における身分制度上はこれは逆です。なぜかといえば、非人というのは、不義密通した者、近親相姦をした者、心中をして生き残った者、といった罪人のことであり、こうした連中が刑罰として非人にされたものです。

非人ということは平民としての籍が無いということであり、このため長年その立場に甘んじて罪が許されたとした場合、金を払えばまた元の平民に戻れる可能性があります。ところが、穢多の場合は平民にはなれません。このため元町民や農民だった非人はいるものの、穢多の場合は一生涯穢多のまま、ということになります。

しかし、一般的には見て見分けがつくわけではなく、公称では穢多と同一視されて呼ばれ、身分上でも非人、とされて同じ者たちとみなされることが多かったようです。

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この穢多の起源については、色々な説があるようですが、その原形は奈良時代にはすでに存在していたようです。鎌倉時代の書物にも、京都四条河原に出て肉食しようとした天狗を穢多童子が捕らえて首をねじり殺したといった記述があります。

その当時から、既に肉を扱い鳥を捕る、卑しいものとして扱われてていたようで「穢多のきもきり(肝切)」と呼ばれて天狗に恐れられるほどの存在でした。その反面、ときには神として崇められる天狗とは異なり、卑賤な者として差別の対象になっていたようです。

ただ、この当時の差別はまだ緩やかであり、しかも戦国時代には皮革は鎧や馬具の主材料でした。この皮革を整えて上納する、というのはひとつの軍需産業であり、れっきとした職業として保護されていました。

この皮づくりはどうやら京以西の西国でさかんだったようで、東日本にはこうした職業がなかったことから、東国の大名の中には自分の領国にわざわざ穢多に従事する者を呼び寄せて定住させ、皮革生産に当たらせていたようです。

ところが、江戸時代になり鎖国体制が確立すると、東南アジアからの皮製品の輸入が途絶え、深刻な皮不足が生じました。このため皮革原料として、斃死、すなわち労働作業中や病気で死んだ国内産の牛馬は一段と重要になり、斃牛馬処理は厳しく統制されるとともに、各農村にこうした職人が配置されて皮革原料の獲得に当たることになりました。

しかし、なにぶん死んだ動物を扱う職業であり、一般市民からは卑しい職業に携わる者、と馬鹿にされていました。日本では殺生を嫌う仏教と、血を穢れとして嫌う神道の両方の影響から、動物の死体を扱う事を忌む思想があったためです。

このため、穢多たちが居住していたのも村外れや川の側など、農業に適さない場所がかったようです。皮なめしなどの仕事はかなりの臭いを発生させるため、その臭いを嫌い、離れた場所に住まわせられたわけです。

川の側に住んでいたため、当初は「かわた」とも呼ばれていました。やがてこれが、「えた」に変化し、卑称として定着化していったといわれています。江戸期に入り、幕府はこうした穢多・非人身分の頭領として、「弾左衛門」という穢多にその支配権を与えました。

身分が低いため、苗字はなく、当初は、穢多頭弾左衛門、もしくは長吏頭弾左衛門、あるいは浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれていました。が、その後穢多・非人身分の支配により金を蓄えて豊かになると、幕府への献金により「矢野弾左衛門」と自称するのを許されるようになりました。

皮革の製造加工は身分の上の非人が独占していましたが、幕府から権利を得てその製造を独占していたのは穢多のほうであり、このためその頭の矢野弾左衛門にもなるとかなりの富を得ており、大尽旗本並みの格式と10万石の大名並みの財力を得ていました。

やがては、武士や商人への金貸し業にも手を染めるようになり、井原西鶴は「人しらねばとて、えたむらへ腰をかがめ」と書いており、これはすなわち、人が知らないと思って穢多ごときに媚びへつらっていると、こうした武士や商人を軽蔑したことばです。

一方、こうした皮革製造に携わって甘い汁を吸えた穢多はごく一部であり、多くの穢多は刑吏・捕吏・番太・山番・水番などの下級官僚的な仕事、祭礼などでの「清め」役や各種芸能ものの支配(芸人・芸能人など)、草履・雪駄作りとその販売、灯心などの製造販売などを扱っていました。

また、筬(おさ)と呼ばれる高度な専門的技術を要する織機の部品なども製造販売なども行っていました。これは、織物の縦糸をそろえ横糸を押し詰めて織り目を整えるための、織機の付属具で、金属または竹の細い板をくしの歯のように並べて、長方形のわくに入れたものです。

そのほか、竹細工の製造販売などを行う穢多非人もおり、このように彼等は多様な職業を家業として独占していました。

ただ、穢多非人身分とそれ以外では火の貸し借りができない、下駄を履いてはならないなど、社会的な差別も多々あり、居住地が地図に表示されないなどの差別も受けていました。

もっとも豊かな穢多の集落では、田畑を農民同様に耕し年貢も納めている例もありました。また、穢多たちは江戸時代を通じて彼等に限定された職種が保証されていたため、経済的にはある程度安定していたと考えられています。

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ところが、明治時代になると、いわゆる身分解放令が発令され、これにより、穢多の公称、非人身分は廃止されました。

彼らにすればようやく身分を得ることができたわけですが、かたや死牛馬取得権、職業の独占も失うところとなり、このため経済的困窮に陥った例が多かったようです。またこの解放令と同時に地租改正、徴兵令、学制が布かれ、また村請制度が廃止されたことなどにより彼等は居場所を失うとともに、国家の事業に強制的に従わされる羽目になりました。

一方、彼等に汚い仕事をさせていた士農工商身分は、自らがその仕事をやらなければなくなるとともに、重要な労働力を失うこととなりました。このため、この解放令は当時の民衆から強い反発を受け、その中で各地で明治政府への反対運動もおこりました。

当然その矛先は明治政府に向けられるべきものでしたが、無知な民衆の中には、逆に「解放」の名のもとに穢多非人が自由になったために、こうした事態に陥ったのだと勘違いし、当時の俗称で、「穢多狩り」と言われるような集団リンチ暴行事件をたびたび起こすようになりました。

元々あった穢多非人への差別意識に加え、こうした強い反発を背景に、身分解放令による法的な差別解消後も、こうした元非人身分の者に対する偏見や差別は長く残りました。これがいわゆる「部落問題」であり、現在の日本においても根強く現存する人権問題、利権問題、社会問題です。

「部落」は本来「集落」の意味ですが、歴史的にエタ村と呼ばれてきた集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などと呼んだことから、特に西日本では被差別部落を略した呼び名として定着したものとされます。

その定義や歴史を論じるだけでも長くなるのでもうやめますが、部落の生活は不潔であるとか、非衛生的である、彼らはとかく猜疑心に富んで穢多根性なるものがある、貯蓄心がなくていつまでも貧乏である、犯罪者が多くとかく団結して社会に反抗しようとする傾きがあるなどなど、根拠もない差別が延々と現代に至るまで行なわれてきました。

被差別部落の数や部落問題の認知度については地域較差があり、一般に関西を中心とした西日本には大規模な被差別部落が多く存在し、解放運動が盛んです。が、関東以北では現存する被差別部落自体が比較的少ないことから認知度が低い傾向にあります。また北海道や南西諸島には、この項で扱う種類の被差別部落は存在しません。

また、北陸地方や東北地方では被差別部落がごく少数点在するのみであり、これらの地域の住民は部落問題への認知度自体が非常に低く、「部落」と言う言葉も差別用語の認識はないようです。

これは、東北地方では戦国時代などでも雪が多く、冬には食糧を生産することが困難なため冬を越すためには地域による助け合いが必要不可欠であり、部落差別をする余裕すらなかったためです。その反面、地域の助け合いを行わない・働かない者は排除され、地域的な差別こそないものの、家主が非協力的な態度であれば、周囲からも援助を得られまん。

また、北陸地方でも部落問題が深刻化しなかったのは、大多数が浄土真宗(一向宗)を信仰していたことが一因といわれます。浄土真宗では穢多などの被差別民の「役務」・「家職」に伴う殺生こそ、阿弥陀如来にすがることで救われるべきだという「悪人正機説」に基づき、被差別民の救済意識が高く、代々の指導者も彼等の救済の必要性を説いていました。

このほか、四国地方では、婚姻などにおいてはそれぞれの家系で家筋が調べられ、「犬神」の有無を確かめるのが習わしとされ、これが部落問題と結びついて問題になる場合も少なくありませんでした。

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犬神というのは、狐憑き、狐持ちなどとともに、西日本に最も広く分布する犬霊の憑き物のことで、犬神信仰の形跡は、四国だけでなく、島根県西部から山口県、九州全域、さらに薩南諸島より遠く沖縄県にかけてまで存在しています。

元々は平安時代に発祥した呪術に端を発しており、これは蠱術(こじゅつ)と呼ばれ、特定の動物の霊を使役する呪詛でした。飢餓状態の犬の首を打ちおとし、さらにそれを辻道に埋め、人々が頭上を往来することで怨念の増した霊を呪物として使う、というものです。

また、犬を頭部のみを出して生き埋めにし、または支柱につなぎ、その前に食物を見せて置き、餓死しようとするときにその頸を切ると、頭部は飛んで食物に食いつくといいます。これを焼いて骨とし、器に入れて祀ると、その魂は永久にその人に憑き、願望を成就させるとされます。

こうして生み出された犬神は、犬神持ちの家の納戸の箪笥、床の下、水甕の中に飼われているとされ、他の憑き物と同じく、喜怒哀楽の激しい情緒不安定な人間に憑きやすいといいます。

これに憑かれると、胸の痛み、足や手の痛みを訴え、急に肩をゆすったり、犬のように吠えたりすると言われ、人の耳から体内の内臓に侵入し、憑かれた者は嫉妬深い性格になるともいいます。

犬神の憑きやすい家筋、犬神筋の由来は、これらの蠱術を扱った術者、山伏、祈祷者、巫蠱らの血筋が地域に伝承されたものといわれます。多くの場合、漂泊の民であった民間呪術を行う者でしたが、畏敬と信頼を得ると同時にやはり動物を殺すというところが忌み嫌われたため、被差別民として扱われていました。

犬神は、その子孫にも世代を追って離れることがないともいわれます。このため一般の村人は、犬神筋といわれる家系との通婚を忌み、交際も嫌うわけです。犬神が多いとされる四国では、結婚話が持ち上がるたびにその相手の家に犬神が憑いているかどうかを確かめるのが習慣となり、これが部落問題と結びついて問題になることが多々ありました。

このように、犬神は一般には、狐霊のように祭られることによる恩恵を家に持ち込むことをせず、祟神として忌諱される場合が多いようです。確認はしていませんが、映画にもなった横溝正史原作の「犬神家の一族」も、元々はこうした疫病神としての犬神一族の伝承をモチーフに製作された作品でしょう。

しかし一方では犬神持ちの家は富み栄えるとされており、こうした犬神は家族の考えを読み取って、欲しい物があるときなどにはすぐに家を出て行って他人に憑き、これによって望むものをその家にもたらしてくれるとされます。

愛媛県の小松町(現・西条市)の伝承では、犬神持ちの家では家族の人数だけ犬神がおり、家族が増えるたびにこの福の神の犬神の数も増えるといいます。ただし、この犬神様はいつも憑き主の言うことを聞いてくれるとは限らず、犬神持ちの家族の者を噛み殺すこともあったといいます。

しかし、富をもたらしてくれる犬神様なら憑いてほしい、と思う人も多いでしょう。オレオレ詐欺に代表される詐欺事件などが幅を利かせるような時代ですから、自分の欲しいものが手に入るなら、犬の神様と同化してでも、それを成し遂げたい、とするような輩もいるに違いありません。

とはいえ、やはり犬神は犬神であり、本来は忌み嫌われ者です。そんなモノに憑りつかれたいと考えるような奴らには、既に犬神が取付いているのかもしれません。また、詐欺師でなくても、最近、喜怒哀楽が激しく情緒不安定、もしくは妙に嫉妬深くなった人、そうあなたも、もしかしたら犬神に憑りつかれているのかもしれません。

最近飼いイヌや飼いネコが、やたらに自分に向かって吠えてくる、唸るという人はその心配をしたほうがいいかも。一度神社へ行ってお祓いをしてもらってみてください。

もっとも富だけをもたらしてくれるイヌ神ならありがたいかもしれません。ただ、おそらく最近カネとはとんと縁がない私には憑いていないことは確かです。

ネコ好きの私としては、猫神様が憑いていてくれるとありがたいのですが、はたしてそのネコは招き猫でしょうか、それとも化け猫でしょうか……

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ネオ・ファウスト

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11月になりました。

もう既に何度も書いているように、今年はまだこれといって何を成し遂げたでもなく、不完全燃焼感がずっと続いているのですが、あともう2ヵ月ともなると、あはははは、と笑って開き直るしかしょうがないな、という気分にもなってきます。

ま、深まる秋を満喫しながら、ケセラセラで今年残りの日々を過ごすか、と考えたりもしています。明日は休日だし、何も考えずにぶらりと散歩など出かけると、良い気分転換になるかもしれません。

その11月3日は文化の日です。しかし、そもそもなんで文化の日なのかな、と改めて調べてみたところ、これは日本国憲法が公布された日であり、憲法記念日でもあるようです。

しかし、憲法記念日は別にあり、これは5月3日です。1947年(昭和22年)のこの日に日本国憲法が施行されたことを記念して作られた休日です。

つまり、11月3日は憲法が「公布」された日であり、5月3日は「施行」された日です。その違いは、公布は、成立した法令の内容を広く一般に周知させるため公示する、つまり広く人々に知らしめるという行為であり、施行は、成立した法令を発効させること、すなわち法的に有効になることです。

憲法が公布されたのは、1946年(昭和21年)の11月3日であり、施行されたのは、その6ヵ月後の1947年(昭和22年)の5月3日です。おそらくは、発布から半年後に正式に施行になる、という取り決めのもとに憲法の公布が国会で認められたためでしょう。

ところが、この憲法発布はもともと11月1日の予定であったといいます。ところが、GHQ側が、その日だけは絶対にだめだと主張したのだそうです。その理由は、その半年後の5月1日は、メーデーと重なるためでした。

第二次世界大戦敗戦翌年の1946年のメーデー、5月1日には、「働けるだけ喰わせろ」をスローガンに掲げ、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれました。これは別名「食糧メーデー」または「飯米獲得人民大会」と呼ばれました。

全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集まりましたが、5月12日には「米よこせ」を叫ぶ市民が宮城内に入るという騒ぎに発展し、さらに同19日には「食糧メーデー」が25万人を集めて行われ、「民主人民政府の樹立」が決議されるなどの混乱が生まれました。

これを見たGHQは、翌年のメーデーもまた同じ騒動に発展するのを恐れたのでしょう。その後憲法の発布を11月1日に予定していたものの、強引に11月3日にしろ、と日本政府に働きかけました。

参議院の議員たちは反対したようですが、衆議院のほうで11月3日に同意してしまい、結局押し切られてしまいます。このため半年後の5月3日が憲法の施行日となり、と同時に自動的にこの日が憲法記念日となりました。

反対した参議院側は衆議院からもGHQからもつんぼさじきにされて孤立する事態になりましたが、このときどうやら、GHQ側から、変更案に賛成するなら何等かの恩恵を与えてやる、という提案があったようです。

その内容は、賛成するなら5月3日の憲法記念日とは別途、11月3日も何等かの記念日にしてやってもいい、ということだったらしく、記念日とするなら何という名がいいか、という話を持ち出してきたようです。

こうして11月3日は「文化の日」と呼ばれることになりましたが、これは憲法が施行された翌年の昭和23年の「国民の祝日に関する法律」、いわゆる「祝日法」の中で定められました。その条文によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としており、日本国憲法が平和とともに「文化を重視している」ことを設立の理由としています。

ちなみにこの法律は、公布も施行も同年に行われており、この年以来、毎年11月3日は「文化の日」と定められるようになりました。

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このように現在までにわれわれは普通に文化の日、文化の日といっていますが、本来は文化などとはまるで関係なく、政治の混乱を避けるためにこの日が設けられたようなものです。

そんなもん、喜んでいてどうするんじゃぁ~と、ひねくれた国民の一部は騒ぎ出しそうですが、その後この文化の日を中心に、文化庁主催による芸術祭が開催される、皇居で文化勲章の親授式が行われるなどの、既成事実が年々、着々と積まれていきました。

博物館の中にはこの日を入館料を無料にしたり、様々な催し物を開催する所も出てくるようになり、日本武道館で全日本剣道選手権大会が開催され、NHKで生放送されます。

また、この日は晴天になる確率が高く、「晴れの特異日」として有名であり、それゆえにその昔は、この日に秋の大運動会が行われる学校も多かったようです。ただ、最近は年末に行事が重なるのを嫌がる学校が多く、運動会も春先に持ってくることが多くなりましたが。

こうして元々政治の混乱からスタートした文化の日は、いまではすっかり国民に定着しました。同じく11月3日を何等かの文化記念日に制定する企業なども増え、たとえば、日本レコード協会(RIAJ)は、「レコードは文化財」としてこの日を「レコードの日」として制定しています。

また、東京都文具事務用品商業組合等が「文具と文化は歴史的にみて同義」という、わけのわからん論理で、この日を「文具の日」として制定しています。このほかにも、日本漫画家協会と出版社5社が「漫画を文化として認知してもらいたい」としてこの日を「まんがの日」として制定しています。

ここまで定着してしまった文化の日を私も別段批判するつもりはありませんが、そもそも物事の意味も知らないで騒ぐ、というのは長いものにはすぐ巻かれる癖のある日本人にはありがちなことであり、改めてしかるべき習慣かと思います。

最近通過した戦争法案に対しても、時代の流れ容認してしまうような気運が出てこないとも限りません。先日のニュース番組でもやっていましたが、最近の日本では沖縄の例もあるように、反対意見をすぐに丸め込んでしまうような風潮が蔓延しているような気がします。

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ところで、この11月3日がまんがの日、というのはどれぐらいの人が認知しているでしょうか。おそらくは、ほとんどの人が知らないのではないかと思うのですが、いまや日本が世界に誇る文化ともいわれる「漫画」というものを知らない日本人は逆にほとんどいないでしょう。

「漫画」は英語では、”comic”となり、これは”cartoon”とともに明治時代に輸入されました。その日本語訳を「漫画」としたのは、は明治から昭和にかけて活躍した元日本画家の北澤楽天や明治期の錦絵師、今泉一瓢だといわれており、両者ともその後「漫画家」と呼ばれるようになりました。

今泉一瓢福澤諭吉の義理の甥(諭吉の妻・錦の姉・今泉釖の長男)にあたり、諭吉は秀太郎に絵画の才能があることを見抜き、石版や写真術を学ぶための留学を手助けしたりしました。時事新報社で諷刺画を担当し、大きな足跡を残しましたが、病弱だったために1902年(明治35年)には北澤楽天に漫画担当を譲り、40歳で早世しました。

その北澤は、元々は代々紀州徳川家の鷹羽本陣御鳥見役という格式高い家柄の出であり、楽天はその13代目にあたります。楽天の漫画家としての人生に最も大きな影響を与えたのは、オーストラリア出身の漫画家フランク・A・ナンキベルでした。政治漫画家として本国では活躍していましたが、来日後も日本の出版社から風刺画を描いて収入を得ていました。

北澤も幼少のころから実家で日本画の手ほどきなどを得ていたようですが、1895年、楽天の風刺漫画家としての才能に目を付けた福澤諭吉の紹介により、横浜の週刊英字新聞「ボックス・オブ・キュリオス」社に入社します。そこで同紙の漫画欄を担当していたナンキベルと知り合い、彼から欧米漫画の技術を学びました。

ナンキベルが日本を去った後にはその後継者として同紙の漫画を担当するようになりましたが、1905年に発売されたB4版サイズフルカラーの風刺漫画雑誌「東京パック」は日本発の漫画雑誌といわれています。

日本国内のみならず、朝鮮半島や中国大陸、台湾などのアジア各地でも販売されましたが、その内容は、もっぱら政府や警察などの国家権力への風刺を扱ったものでした。

その後楽天は1915年には、日本最初の漫画家団体である東京漫画会(後の日本漫画会)の創立にも参加しており、多くの漫画史研究家より楽天は「日本の近代漫画の祖」と見なされています。

また、楽天は日本で最初の職業漫画家でもあったともいえ、第二次世界大戦前に発行された彼の「楽天全集」は、幼少期の手塚治虫に大きな影響を与えたとされます。

この手塚治虫のことを知らない日本人もまたいないでしょう。没後26年を経た現在でも手塚治虫といえば漫画の代名詞のように扱われており、今も昔も「漫画の神様」として慕われています。

多作の漫画家としても知られ、いったいどれくらいの漫画を残したのか調べてみたところ、総数は604作とのことで、その内分けは少年向け341作、少女向け36作、大人向け110作、低年齢向け32作、絵本39作、4コマ漫画17作、1コマ漫画29作に及びます。

細かいシリーズなどを入れると700タイトル以上といわれ、原稿枚数15万枚分といわれます。この他に出版はされていませんが、終戦(1945年)までに描いた漫画の原稿は約3000枚に及ぶといい、さらにテレビや映画などで手がけたアニメーション作品数は70作品もあります。

伝説の人という印象であり、いまさらその伝記を書くつもりもありません。が、概略を書いておきましょう。

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大阪生まれで大阪育ち、お父さんはその当時めずらしい前衛写真家でした。手塚粲(ゆたか)といい、1900年(明治33年)東京に生まれ、住友伸銅鋼管(のちの住友金属工業)に勤務する一方、当初は東京写真研究会関西支部に所属して写真家として活動しました。

その手塚粲の父、手塚治虫の祖父は、手塚太郎といい明治時代には司法官を勤める高官でした。さらにその父、手塚治虫の曽祖父は医師で、こちらは手塚良仙といいました。大沢たかお、綾瀬はるかの主演で人気を博したテレビドラマ「仁」にも出てきた人物で、緒方洪庵の適塾に入門して、ここで医学の手ほどきを受けました。

大槻俊斎・伊東玄朴らと、お玉が池種痘所設立したことでも有名であり、曾孫である治虫は、手塚良仙を主人公の一人とした歴史漫画「陽だまりの樹」を執筆しています。維新後、大日本帝国陸軍軍医となり、西南戦争に従軍しましたが、その任地の九州で赤痢に罹り、長崎陸軍病院で51歳で亡くなっています。

その血を引く手塚治虫も、大阪帝国大学附属医学専門部を卒業後、医師免許取得を得ており、のちに奈良県立医科大学で医学博士の称号も取得しています。

学生のころからもうすでに漫画を毎日新聞などに持ち込んで収入を得るようになっていました。最初の単行本は「新寶島(宝島)」であり、1947年に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなりました。漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなりました。

面白いことに、このときの指導教官の教授は、手塚に対して医者になるよりもむしろ漫画家になるように勧めたそうで、また母の後押しもあって、専業漫画家となることを決めたといいます。

手塚は「せむしの仔馬」というアニメ映画を見ることを口実に母親を連れ出し開演までの時間に映画館のロビーで漫画家になるか医師になるか相談したそうです。このとき母親はためらうことなく自分の好きな方をやりなさいと答え漫画家一本で行くことを決心しました。

ちなみにその時の映画「せむしの仔馬」には火の鳥が登場し、これが手塚の「火の鳥」の着想の一つになったといわれています。

もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年)。さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得しています。

このため、後に手塚は自伝ので、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べています。

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その後飛ぶ鳥を落とす勢いで数多くのヒット作をこの世に送り出し、「神様」とまで言われるようになりました。が、45歳になったころには、少年誌においてもうすでに手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていました。

さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクションが倒産し、手塚も個人的に1億5000万円と推定される巨額の借金を背負うことになりました。作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想しています。

しかし、1973年に「週刊少年チャンピオン」で連載開始された「ブラック・ジャック」がヒットし、さらに1974年、「週刊少年マガジン」連載の「三つ目がとおる」のヒットも続いて、本格的復活を遂げることになります。

50代になった1980年代になると、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった「陽だまりの樹」や、アドルフ・ヒトラーを題材にした「アドルフに告ぐ」など、いわゆる「青年漫画」などを多く書くようになり、「陽だまりの樹」は第29回小学館漫画賞を受賞し、「アドルフに告ぐ」は第10回講談社漫画賞一般部門を受賞しました。

1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受けますが2カ月で退院。以前とまったく変わらない多作振りを見せていましたが、同年11月、中国でのアニメフェスティバル会場で倒れ、帰国と同時に半蔵門病院に入院。医師の診断ではスキルス性胃癌でした。

しかし当時の日本の医療の慣習により、直接本人にはそのことは告知されなかったといいます。100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画を描いていましたが、1989年年1月25日以降、昏睡状態に陥ります。

意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたそうで、鉛筆を握ると意識がなくなりの繰り返しだったといいます。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くしませんでした。

最後の言葉は、「頼むから仕事をさせてくれ」であったといい、そして半蔵門病院の病室で、1989年(平成元年)2月9日に死去。墓所は、東京豊島区巣鴨の總禅寺(そうぜんじ)にあります。

その死によって「グリンゴ」「ルードウィヒ・B」「ネオ・ファウスト」などの作品が未完のまま遺されましたが、その中でも最後に描かれたのは、「ネオ・ファウスト」の原稿でした。亡くなる3週間前(1989年1月15日)まで書かれていた自身の日記には、その時の体調状態や新作のアイデアなどが書き連ねられていたといいます。

周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされますが、しかし、手塚が病院で描いていた遺作「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれています。

医者であった彼が自分の症状を客観的にみて何の病気であるかがわからないはずはなく、おそらくは逆に周囲を気遣って、知らないふりをしていたのではないでしょうか。

ところで、この手塚さんが亡くなったとき、私はフロリダにいました。ハワイ大学へ入学する前のことであり、このころはまだ語学がとはいえるレベルではなかったため、ここで英語を学びつつ準備をしていたのです。このとき、隣人に後の親友となる日本人留学生がいました。

彼は既にフロリダ大学の大学院生であり、海洋工学を専攻していました。同じ分野での留学を考えていた私とは年齢もほぼ同じであり、妙に気が合ったふたりは、すぐにお互いの下宿を行き来するようになりました。

このとき、彼が定期的に日本の親から送ってもらっていた雑誌が「朝日ジャーナル」であり、その中に手塚さんの最後の作品である「ネオ・ファウスト」が掲載されていました。この当時のフロリダは日本から遠く離れた辺境の地であり、日本からの情報はほんのわずかです。

このため、彼から借りてむさぼるようにこの雑誌を読んでいましたが、結局、私がフロリダを引き払う前に、手塚さんは亡くなり、このため、毎回楽しいに呼んでいたネオ・ファウストも私の中で未完に終わりました。

「朝日ジャーナル」での「ネオ・ファウスト「の連載は1988年1月から開始され1年近く続けられていたといいますが、私が渡航したのは確か5月であり、フロリダにおける滞在はほぼその連載と重なります。

手塚さんはこの作品の連載中に胃癌で入院していますが、ベッドの上でこれを描き続けながらも死の間際までこの作品の完成にこだわっており、痛み止めのモルヒネを打ちながら、手が動かなくなるまでこの作品を描いていたといいます。

手塚治虫の娘である手塚るみ子さんは、「体を若返らせたい、もう一度人生をやり直したい、まだまだやり残したことはあるんだ」という主人公の願いは治虫自身の願いと重なる、とのちに語っています。

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未完に終わった大作ですが、実は、この作品の漫画化の前に、同目のタイトルでアニメ映画の企画がもたれたことがありました。このとき、完全なシナリオ原稿を書き上げていますが、その後予算の面から計画は立ち消え、その後に手塚が死去したことから、この作品が日の目をみることはありませんでした。

ストーリーは漫画とはかなり異なるようですが、その物語の概要は以下のようなものです。ウィキペディアからの引用ですが、ほとんど変更はしていません。文化の日にふさわしいかどうかはわかりませんが、手塚ワールドの最後の物語としては記念すべきものだと言えるかと思います。ご一読ください。

ネオ・ファウスト アニメ版あらすじ(出典:ウィキペディア)

舞台は現代の学園都市から始まる。一人の女悪魔メフィストフェレスは人間界に降り立ち、「フェレス」という偽名を使った。フェレスはファッション雑誌を参考に可愛い女の子へと姿を変え、とある大学教授を探していた。

フェレスは神と賭けをしたからである。もし善良な選ばれた人間の魂を、悪魔的な魂に変えることができたら、地球は悪魔たちのものになるといった内容であった。その賭けの魂に選ばれたのが、大学の老教授であるファウストである。

その頃、ファウストはおのれの人生にはかなんでおり、助手が置いていった牛乳に毒が入っていると悟ると、それを飲み干そうとする。それを見たフェレスは、ファウストの自殺を止め、悪魔の契約をする。契約の内容は、3つの願いごとを叶え、彼が満足すれば代わりに魂を悪魔に譲る、というものであった。

3つの願いごとは「若返る」「絶世の美女をものにする」「権力者になる」に決まった。そして、その願いが叶えば、「時間よとまれ、今のお前は美しい」という約束のもとに悪魔との契約は実行される。

フェレスはファウストを若返らせ、権力者にすべく、この国の大統領になることを薦めた。まずファウストは、フェレスの計画通り、6000億ドルほどの金を用意して裏工作を行い、大蔵大臣の地位を得る。ファウストはその前後に、一人の少女に恋をして愛を育むが、その兄である軍事司令官を殺す。

ファウストは彼を殺したことによって、軍事司令官の地位を得た。そして大統領はファウストに、隣国との戦争に勝てば大統領の地位を与えることを約束する。ファウストは隣国に勝つために、かつて自分が研究していた人工生命体を使うことにした。

ファウストは大量の資金を投入し、昔自分が務めていた大学で人工人間を大量生産した。ファウストは戦争に勝つだけでなく隣国を丸ごと壊滅状態にしたが、大統領からはやり過ぎだと警戒される。ファウストはフェレスの助言を受け、大統領を殺害するクーデターを計画し、実行に移す。大統領は思惑通り殺された。

しかし、ファウストは若さ・絶世の美女・権力、全てを手に入れたはずなのに、一向に満足はできなかった。

クーデターの最中、思いがけないことに人工人間たちは暴走を始め、自らの手で増殖し、破壊の限りを尽くすようになる。そこへファウストに一本の電話が入り、かつて自分が恋をしていた少女が人工人間たちに襲われつつあることを知る。

ファウストは、本当に自分の大切なものは何だったのかを悟り、人工人間たちが量産されている大学のコンピューター施設を破壊しに出向く。ファウストは手榴弾でコンピューターを破壊するが、人工人間たちはファウストに自動小銃で痛手を与える。

ファウストは血を流しながらも、バイクで少女を助けに行く。少女が住んでいた家は、炎に包まれていた。もう逃げることもできないほど燃え上がった建物の中で、ファウストは少女を抱きしめると、この上ない幸せを感じた。そして満足した彼は「時間よとまれ、今のお前は美しい」を叫ぶ。

ファウストの魂はフェレスのものになるはずであったが、フェレスはファウストに恋心を抱きつつも自分のものにはならないと悟っていたため、契約書を青い炎で焼いた。ファウストと少女は、焼け崩れた建物の中に包まれる。

しかし、二人の魂は一つの光となって天高く舞い上がった。それを見ていたフェレスは、泣いているような、笑っているような複雑な顔でいつまでもそれを見つめていた。

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祝ハロウィン!

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明日はハロウィンだそうで、昨今は町のあちこちでおばけカボチャのディスプレイやら、魔女やお化けを模した人形などが飾られることが多くなりました。

ほんの十年ほど前までは、これほどの盛り上がりはなかったように記憶しているのですが、最近は10月末日になると、あちこちで仮装パーティが開かれることも普通になり、東京では渋谷の交差点などでいろいろな仮装をした外国人が集結し、これに対して機動隊が出動する、といったことも風物詩になりつつあるようです。

近年のハロウィーンの経済効果は1100億円に上るといわれており、バレンタインデーの1080億円、ホワイトデーの730億円を抜き去って、すでに6740億円のクリスマスに次ぐビッグイベントとなっているそうです。

その「元凶」はというと、1970年代に、「キディランド」が、ハロウィン関連商品の店頭販売を開始したことのようです。玩具製作会社のタカラトミーのグループ企業で、同社の玩具だけでなく、他のキャラクター玩具や関連書籍などを置いている店で、若い人には人気があります。

キディランド原宿店における販売促進の一環として、ハロウィン・パレードを開催したのが嚆矢といわれているようで、毎年恒例行事となりました。原宿表参道といえばファッションの発信地であり、流行に敏感な若者たちがこのハロウィンという一風変わった催しに飛びついたことで、全国に広まるようになっていったのでしょう。

無論、クリスマスなどと同様に、日本では宗教的色彩はかなり薄い行事です。このため、その意味を知りながら騒いでいるといった人は、実はほとんどいないのではないでしょうか。

もともとは、全ヨーロッパ人のご先祖様といえる、ケルト人たちの「サウィン祭」というお祭りであり、彼等の1年の終りは10月31日でした。この夜は夏の終わりを意味し、冬の始まりでもあり、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられており、同じくこの時期になると有害な精霊や魔女などが地下から這い出して来ると信じられていました。

ケルト人たちが31日の夜、こうした魔物たちから身を守るために被るようになったのが仮面であり、またその仮面に合わせて仮装をすることもありました。そして、魔除けのために焚き火をしましたが、さらに時代が進むと焚火のかわりに、野菜をくりぬいた中に蝋燭を立ててランタンとする、「ジャック・オー・ランタン」を作るようになりました。

この野菜は、現在ではカボチャが主流となっていますが、カボチャを使うようになったのはこれが豊富に収穫できたアメリカで普及したためであり、その昔、ヨーロッパ諸国ではカブの一種である「ルタバガ」を使っていました。

日本産のカブにも似ていますが、別種であり、日本では「カブラ」という場合もあります。原産地はスウェーデンとされ、北欧からロシアにかけて栽培され、重要な栄養源となっていたものですが、やがてスコットランドに移入され、他のイギリス各地や北アメリカにも広まっていきました。

現代ではこのカボチャのランタンは、アメリカからヨーロッパに逆輸入されて使われているようですが、アイルランドなど一部の地域では今でもこのルタバガを使っているそうです。アメリカにジャック・オー・ランタンの風習を伝えたのもこのアイルランドからの移民といわれています。

ハロウィンのこのほかの行事としては、魔女やお化けに仮装した子供たちが近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリック・オア・トリート(Trick or treat)」つまり、「お菓子をくれないと悪戯するよ」と唱える、というものがあり、お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよい、とされています。

これは、古くは9世紀のヨーロッパのキリスト教における「ソウリング(Souling)という儀式が由来といわれおり、この時代のキリスト教では、11月2日が「死者の日」でした。

「ハロウィン」の語源は、カトリック教会で11月1日に祝われる「諸聖人の日(古くは「万聖節」とも)」の前晩にあたることから、諸聖人の日の英語での旧称”All Hallows”のeve(前夜)、”Hallows eve”が訛って、”Halloween”と呼ばれるようになったとされています。

一方、この万聖節が終わった翌日の11月2日は逆に「死者の日」とされ、キリスト教徒は「魂のケーキ」を乞いながら、村から村へと歩きました。ケーキといっても現在のようなものではなく、この時代には、 香辛料と干しぶどう入りの甘いパンを指します。

キリスト教徒が物乞いをし、このケーキをもらうときには、それと引き換えにその家の亡くなった親類の霊魂の天国への道を助けるためのお祈りをすると約束します。これが「魂のケーキ」であり、毎年11月2日になると、村人たちはそのためにこのパンケーキを焼いて訪れるキリスト教徒を待っていました。

古くはケルト人たちも上述のサウィン祭の期間中に徘徊する幽霊に食べ物とワインを残す古代の風習を持っていましたが、この風習がキリスト教会によってこの魂のケーキの分配に変えられたともいわれています。

魂のケーキの分配は、ヨーロッパにおけるキリスト教の広まりとともに奨励され、広まっていきましたが、これが、現在の家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちはもらったお菓子を持ち寄ってハロウィン・パーティーを開く、あるいは、近所の家を巡っては「トリック・オア・トリート」を繰り返して菓子をせびる、というふうに発展したわけです。

元々は11月2日に行われていたものですが、これが時代が下るにつれ、日にちの近い、10月末日のハロウィンと習合するようになったものでしょう。

私が20年ほどまえにアメリカにいたころにもハロウィンになると近所の子供たちが様々な仮装をして下宿にやって来ていたかと思います。確か何等かのお菓子を用意して待ち受けていたような記憶がありますが、なかなか楽しい行事ではありました。

ただ、日本ではこの「トリック・オア・トリート」の風習だけは伝わらず、おばけカボチャをかざる習慣と仮装の習慣だけが定着しました。

中身を理解せず、うわべだけを取って身につけるというのは、海外の風習の良いとこどりをすぐにする日本人の悪い癖ではあります。が、ハロウィンになると仮装をして町を練り歩く、というこの風習が逆に日本に滞在している外国人に大ウケしました。

いまやこうした在留外国人だけでなく、この季節になるとそれを目当てに多くの外国人が来日するといい、渋谷の交差点などで仮装しているのは日本人よりも外国人のほうが多いようです。仮装行列はアニメやコスプレとともに日本発のポップカルチャーとまで言われつつあります。

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このように、日本では仮装だけがハロウィンの行事として定着しましたが、実は「トリック・オア・トリート」と似た日本独自の行事があり、これは「ローソクもらい」といいます。

子供たちが浴衣を着て提灯を持ち、夕暮れ時から夜にかけて近所の家々を回って歌を歌い、ローソクやお菓子を貰い歩く、というもので、欧米で行われているトリック・オア・トリートとかなり似ています。

ただ、全国的な行事ではなく、北海道の富良野や函館、江差などの道南地方や札幌市など家々の密集する地域、およびその周辺の市町だけで行われているようです。時期は七夕の7月7日、あるいは旧歴の七夕である8月7日におこなわれるようです。

七夕というのは、元々は農作業で疲労した体を休めるため休日という意味合いが強い行事ですが、七夕のときに吊るす短冊は、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の幟(のぼり)とも関係しているといわれ、そういう意味では、「死者の日」が起源である、トリック・オア・トリートとも似ています。

函館の古い習俗を記した安政2年(1855年)の「函館風俗書」という博物誌には、七夕の習わしとして、子供たちがめいめいに「額灯籠(四角い形をした行燈風の灯籠)」を差し出して、柳に五色の短冊をつけて、笛や太鼓を鳴らし囃し立てて歩くようすが描かれているそうです。

ローソクもらいの習俗が北海道に根付いた説のひとつとしては、青森県の青森ねぶた、弘前ねぷたとの関連があげられており、灯籠を見せて歩く習わしは、「ねぶたッコ見てくれ」と練り歩く青森県のねぶたの習わしに似ているようです。

津軽地方では戦前までのねぶたの照明はローソクであったため、ローソクをもらって歩くことが習慣となっていたそうで、青森の西津軽、北津軽といった地方では「今年豊年 田の神祭り」などと唱え、家々を廻ってローソクをもらって歩いたり、ねぶたをリヤカーに乗せ「ローソク出さねばがっちゃくぞ」などと言いながら各家を廻り歩いていたそうです。

現在北海道で行われているローソクもらいにもそうした風習の名残が見て取れ、ローソクもらいの日には、学童前から小学校低学年の子供たちが缶灯籠や提灯を手に三々五々集まり、7人前後の集団となって、囃し歌を歌って、ローソクもらうために近隣各戸を訪ねあるくといいます。

無論、子供たちは当然お菓子を貰うことを期待しているわけですが、引越してきたばかりの人など、この行事を知らない人は囃し歌の通りにローソクをあげてしまうので子供ががっかりしてしまうことあるそうです。ただ、逆に菓子を準備していない家は菓子代としてお小遣いをあげる家もあるそうで、現代っ子にはこちらのほうが嬉しいのかもしれません。

とはいえ、最近のように物騒な世の中であることを反映し、最近では治安の悪化や火災の心配などからこうした行事を行わなくったところも多いといい、また人間関係の希薄さも手伝ってローソクもらいをするところは確実に減少しているようです。場所によっては日が沈む前の明るい時間帯に行う地域も増えてきているといいます。

このローソクもらいに関連して、「お月見泥棒」という行事をやるところもあるようです。これは、いわゆる「お月見イベント」であり、こちらはお盆や七夕ではなく、中秋の名月の夜に行われます。

十五夜の夜、飾られているお月見のお供え物を、この日に限って盗んでいいというもので、かつて江戸時代の子供たちは、竿のような長い棒の先に釘や針金をつけてお団子を盗んだといいます。この風習は、その昔は子供たちは月からの使者と考えられていたことからきており、この日に限り盗むことが許されていたためだといいます。

お供えする側も縁側の盗みやすい位置にお供えするなど工夫していたといい、現在では「お月見くださ〜い」、「お月見泥棒でーす」などと声をかけて、各家を回りお菓子をもらう風習が残っているようです。

各地にこの風習が残っているようですが、一般的、といわれるほどまでは普及しておらず、福島や茨城、千葉などの農村部でみられるほか、東京の多摩地区、甲府のほか、愛知県や三重、奈良、大阪、大分などで似たような風習があるとか。ほかに、鹿児島の与論島や沖縄の宮古島でも同じようなものがあるといいます。

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しかし、こうした日本の「ローソクもらい」や「お月見泥棒」では、ハロウィのような仮装は伴いません。ハロウィンで仮装をしてトリック・オア・トリートをやるのは、時期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るためでしたが、日本では自らが化けるという発想はなく、もっぱら火や鳴り物で魔物を退散させるという行事が多いようです。

一方、ハロウィンで仮装されるものには、魔物を退散させるためには目には目ということで、一般的には「恐ろしい」と思われているものが選ばれる傾向があります。

たとえば幽霊、魔女、コウモリ、悪魔、黒猫、ゴブリン、バンシー、ゾンビなどの民間で伝承されるものや、ドラキュラや狼男、フランケンシュタインのような欧米の怪談や恐怖小説に登場する怪物などです。

日本でもこうした怖いもの、恐ろしい者に扮するということは昔から行われており、その代表例がお化け屋敷であり、そのルーツは江戸時代の見世物小屋にあります。へび女やタコ女・タコ娘、手足のなりだるま女に奇形動物、生人形といった不気味なものが江戸の庶民は大好きでした。

お化けに扮するというのもそうした見世物小屋の見世物の中から出てきたものと考えられますが、ただ日本では、こうした「仮装」は欧米のハロウィンのような年中行事とは習合しませんでした。

こうした見世物小屋でのお化けや、お伊勢参り、富士登山などの宗教における集団参詣の仮装、あるいは民衆踊りの際に仮装などなどで、それらの多くは単独で普及したものがほとんどで、年間行事とは無縁です。

また、江戸時代の京都では、人気芸妓が歴史上の人物や物語の登場人物に扮して祇園などを練り歩く、ということが行われたいたそうで、途中で馴染み客から「所望!」という呼び声が掛かると、立ち止まって役にちなんだ舞を披露する「ねりもの」と呼ばれる仮装行列がありました。

一方の欧米では、いわゆるカーニバル、と呼ばれるものの中で仮装が普及しましたが、このカーニバルとは何かといえば、そもそもこれはカトリックなど西方教会の文化圏で見られる「謝肉祭」と呼ばれるお祭り行事のことです。

カーニバルの語源は、ラテン語のcarnem(肉を)levare(取り除く)に由来し、肉に別れを告げる宴のことを指しました。「断食の前夜」の意で、カトリックでは、イエス・キリストの受難に心をはせるためにこのとき断食を行っていました。もっとも現在では「食事制限」になっており、1日に1回十分な食事を摂り、あとの2食は少ない量に抑える程度です。

その断食祭りがなぜ仮装につながったかについては諸説あるようですが、その昔のカトリック信者たちは、その祭りの最後に自分たちの日頃の罪深さを大きな藁人形に転嫁し、それを火あぶりにして閉幕するというのがお決まりだったといいます。そして、やがては自分たちがその藁人形そのものに扮するということが行われるようになったのでしょう。

このほか欧米では仮装舞踏会や仮面舞踏会がなどでも仮装をしますが、これらもそもそもは婚礼などのめでたい行事の一環として行われていたものであり、ハロウィンやカーニバルと同様にお祭りごとの余興として発展したものです。

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このようにただ一口に仮装といっても、その中身やそれが行われるようになった背景には文化の違いあります。日本と欧米それぞれの歴史があるわけですが、ただ、最近ではそうしたものがごっちゃになり、何が何だかよくわからなくなりつつあります。

仮装とコスプレの違いは何か、といわれて、それは何とすぐに答えられる人も少ないのではないでしょうか。仮装の定義としては、「着用者の本来の属性・立場とは異なる服装をするもの」ということになり、一般的には、自分の立場を秘匿し別人であることを装う「変装」とは区別されます。

また「扮装」という言葉を使うこともありますが、これは主に演劇や舞台芸術における衣裳を指します。近年では、仮装に用いられるこうした衣服・装身具の一式を衣裳やコスチューム等とも言いますが、この「コスチューム」なるものの定義によっては、従来の仮装が「コスプレ」になる、というのが一般的な解釈のようです。

そもそもこのコスチュームなるものは、SFの世界から出てきたものです。1960年代後半のアメリカでは、「SF大会」とよばれるイベントがSFファンの間で開かれるようになり、この頃の人気番組、「スタートレック」などのSF作品に登場する人物の仮装大会が行われていました。

日本においてもこのアメリカで主に開かれていたSF大会の影響を強く受けた日本SF大会が1960年代末から1970年代から行われるようになり、この中のプログラムのひとつとして、「コスチューム・ショー」が取り入れられていました。最初にこのショーが行われたのは1974年の京都大会だそうで、翌年からは毎年行われるようになりました。

1978年に神奈川県芦ノ湖で開催された第17回日本SF大会の仮装パーティーにおいては、当時はファンの一人だったSF評論家の小谷真理やひかわ玲子らで構成されたファンタジーサークル「ローレリアス」が、「火星の秘密兵器(創元SF文庫)」というSFの登場人物に扮した格好で参加しました。

これを見た参加者がその姿を見て、この当時に日本で流行っていたアニメ「海のトリトン」の仮装だと勘違いし、本人らも強く否定しなかったことから、いつの間にか、日本のコスプレ第1号は、海のトリトンだ、と言われるようになったそうです。

実際にはその後も毎年行われている日本SF大会の中で出てきた別のアニメキャラのコスプレが第一号なのでしょうが、それが何だったのかはもううあやふやになっており、ともかくも日本のコスプレ第一号や海のトリトンということになりました。また、以後、毎年のようにこうしたコスプレのコンテストが行なわれるようになりました。

ただ、この当時はまだSFの主人公になりきる、「架空の人物に扮する」という行為をする人達は、活字でのSFファンが多勢を占めていた当時において特異な存在であり、ともすれば異端とみなされる、という風潮もありました。

このためコスプレをやる連中というのは、自称「SFファン」とする一般のSFファンとは一線を画す、少数の限られた嗜好団体でした。

しかし、SFファンというのは、これらのコスプレファンも含めてそもそもがかなりオタッキーな連中であり、かなりマニアックな知識持っている反面、何かと白い目で見られることも多く、こうしたSFファンクラブというものに対しては、何かしら一見識がないと参加しづらい、という一面がありました。

これに対して、コスプレというのは、ひと目みただけで、それが何者なのか、というのが想像できるという特徴があり、このため、それまでハードルの高かったSFのコミュニティーに、「単に参加してみたかっただけ」というライトなSF層にも受けました。

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その後、「仮装」という見た目がわかりやすい形でSF大会へ参加するこうしたライトSF層の人々が増え、それまで「覗き見」だけだった者らも取り込んでSFファン層はどんどんと厚くなってきました。

一方では、こうしたSFとは別に、日本独特の文化である、「漫画」の世界でもコスプレは行われるようになっていきます。同人(同好の士)が、資金を出して漫画雑誌を作成、共同で販売するという、いわゆる「同人誌」の即売会等でもコスプレは行なわれるようになりました。

このころから、単にアニメの仮装と呼ばれていたマンガやアニメの扮装をすることをコスチュームプレイと呼ぶようになり、元は少女マンガの同人作家やファンがコミケ(同人誌即売会、コミックマーケットの略)をお祭りの場として派手な格好をしていた中から、アニメのキャラクターの扮装をする者が現われ、徐々に増えていきました。

1977年になってこうしたコミケにおいて、上述の「海のトリトン」の衣装をした少女が登場して注目を集めましたが、これがSF大会とコミケの世界が合体した最初の出来事だったようです。その次の回には「科学忍者隊ガッチャマン」のコスプレが登場し、徐々に広まっていきました。

その後、こうしたSFの世界とコミケの世界の融合は続きます。1979年にテレビで放送されるようになった「機動戦士ガンダム」はかなりSF色の強いアニメであり、ガンダムの登場人物になりきるコスプレファンの中には多くのSFファンが包含されていました。

1970年代後半に大ヒットしたSF映画「スター・ウォーズ」の人気により、アメリカでもコスプレはさらにポピュラーとなり、「機動戦士ガンダム」などの日本のアニメも人気を博しました。

これによりアメリカ全土で行なわれるようになったアニメコンベンションなどのイベントでは日本の漫画やアニメのキャラクターに扮する光景が見られるようになり、SF大会におけるコスプレと双璧をなすようになっていきました。

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一方の日本でも1990年代にはコスプレの人口は増大し続け、コミケのコスプレイヤーは1991年には約200人、1994年に約6000人、1997年には約8000人を数えました。その後ヒットしたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の流行もあり、こうしたコミケなどの世界は「サブカルチャー」とまで言われるようになっていきます。

これと同時にコスプレという用語・行為も普及し、1990年代初頭のビジュアル系バンドブームの火付け役となるX JAPANのライブではファンによる凝ったコスプレが披露され、これがまた、コスプレの流行に拍車をかけました。

この頃から商業資本もコスプレに着目するようになり、従来、コスプレ衣装はコスプレイヤーによる自家製によるものしかありませんでしたが、これを既製服として製作・販売する業者が現れ、「コスチュームパラダイス(現・コスパ)」と呼ばれるようなコスプレを専門に製作するような会社も現れました。

こうした業者が製造するコスプレ衣装は、製作者の技術に出来が左右される自家製の物に対してかなりハイレベルで、しかも一定レベル以上の品質を保っていたために人気を集め、ブランドを確立することに成功しました。以後、これを真似るコスプレ衣装製作業社が増えた事で市場はさらに拡大していきました。

イベントについても、それまではコミックマーケットを始めとする同人誌即売会や、日本SF大会等において付随的に行われていた状態から、コスプレ単独のイベントも開催されるようになりました。

形式としては、コスプレをしてダンスミュージックやアニメソングに合わせて踊る「コスプレダンスパーティーや、コスプレイヤー同士が互いに交流や撮影を行ったり、アマチュアカメラマン(カメラ小僧)に撮影の場を提供する撮影会などがあるようです。

模型メーカーによって射出成形で大量生産されるプラモデルに対し、少数生産向きの方法で作られる組み立て模型を「ガレージキット」と呼び、個人やグループ、小規模なメーカーなどで作られますが、こうしたガレージキットにおいてもSFやアニメのフィギアは人気です。

ミニチュア模型で有名な造形メーカー、海洋堂は、こうしたガレージキットを製作する小規模製造業者を集めた「ワンダーフェスティバル」と呼ばれる見本市などを開催していますが、ここにも多くのSFファンやアニメファンが訪れ、彼等の中に混じって行われるコスプレのパフォーマンスが人気を博すようになっています。

2003年からはテレビ東京系のテレビ愛知が主催となって、名古屋市内を会場とし、世界各地の著名なコスプレイヤーを日本に招いて「世界コスプレサミット」が開催されるようになっています。このコスプレサミットは2005年は名古屋市内だけではなく愛・地球博会場でも行われました。

2005年に紀宮清子内親王が黒田慶樹と結婚した際に、結婚披露宴で着用したウェディングドレスは、「ルパン三世 カリオストロの城」のヒロイン、クラリス姫だったそうで、いまやコスプレ文化は皇室にまで浸透しつつあるようです。

また、日本発のコスプレは世界に進出しつつあります。欧米諸国を始め、東アジア諸国ではコスプレを行なう層が増えており、各国で行われているコスプレサミットなどにおいては、日本人から見ると想像もつかないほどの盛り上がりとなっているところもあります。

日本人のコスプレに対するイメージは、とかく「オタクがやるもの」になりがちですが、これに対して、外国人のイメージが「何かになりきってみんなで騒ぐのは最高」という、いわば変身願望の延長線にあるもののようで、そのイメージの違いは甚大です。

お隣の中国でも、日本の漫画やアニメを愛好する者によるコスプレが流行っているそうで、コスプレは中国語では「角色扮演」と書くそうです。中国政府は「国家事業」としてコスプレイベントの全国大会である角色扮演嘉年華(コスプレカーニバル)を毎年主催しているといいます。

しかし、中国にはもともと様々な題材で仮装して劇を行う文化があり、日本発の角色扮演もわりとすんなりと受け入れられる土台があったようです。同好会を作って数人でキャラクターに扮し、昔ながらの「寸劇」を行うことも普通に行われており、日本作品のコスプレも大人気だといいます。

いま何かと問題になっている、南沙諸島に駐留している中国兵士たちにも、いっそのこと甲殻機動隊のコスチュームや甲冑を着せたりさせれば、諸外国からの批判も多少和らぐかとも思うのですが、どうでしょう。しかし、逆にGIジョーや、スターウォーズキャラの扮装だと、さらにアメリカの怒りを買い、扮装が紛争に化けてしまうかもしれませんが。

なので、どうせ日本の真似をするなら、彦ニャンやクマモンなどのゆるきゃらにすれば、何かと話題のタネになるかと思うのですが、そこのところ、森元首相似の周金平さん、いかがでしょうか。

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フィラデルフィア・エクスペリメント

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米海軍のイージス駆逐艦が、ついに中国が「領海」と主張する人工島の周辺海域に侵入しました。

米国防当局者は、27日早朝、横須賀基地配備の「ラッセン」が、この人工島の周囲12海里(約22キロ)以内の海域に入った、と明らかにしました。中国は猛反発したものの、とりあえずはアメリカとは今まともに戦っては勝てない、と判断したのか、静観の構えのようです。

これに対して、日本を始め、南沙諸島に近いフィリピンやベトナムの国民は、ヤレヤレ~とばかりにエールを送っています。それもそのはず、公海にある岩礁を勝手に埋め立てて自分の国の領土だ、と主張しているような国を誰がほめたたえるでしょうか。

そもそも米軍は既に今年の5月以降、中国が造成する人工島12カイリ内に米艦船や航空機を送る考えを明らかにしていましたが、ホワイトハウスが「待った」をかけていました。しかし、9月下旬のオバマ米大統領と中国の習近平国家主席との会談でも、習主席は人工島造成の中止要請を拒否した結果、オバマ氏はかなり怒ったそうです。

この会談の結果をうけて米艦船派遣決断し、直後に米側は関係国にその方針を伝達しました。日本もこの航行の情報はかなり以前から得ていたようですが、この情報を得て、やっぱアメリカは世界の警察だよな~、やるなアメリカ!と、安倍総理以下の閣僚が快哉の声をあげたかどうかまでは、メディアも伝えてきていません。

それにしても、たった駆逐艦一隻で中国に立ち向かうとは大胆だな、という印象を誰でももつでしょう。派遣されたこのラッセン、というのがどういう船なのか調べてみたところ、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦で、艦艇No.はDDG-82。

「アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦」の32番艦だそうで、これと同タイプの駆逐艦は1988年以降このラッセンを含めて63隻も造られているアメリカ海軍のベストセラー艦のようです。その数からもわかるようにアメリカの海防における主力艦であり、かつ攻撃能力も大変高いため、主要な海上攻撃力でもあります。

そもそもアメリカ海軍って何隻船を持っているのよ、ということで調べてみたところ、現在505隻が現役で運営されており、この中には、11席の空母と、71の潜水艦、22席の巡洋艦と、28隻のフリゲート艦なども含まれています。

対する日本は全艦船数137隻で、駆逐艦に相当するミサイル護衛艦は8隻にすぎませんから、いかにアメリカの海軍力が強大かがわかります。

63隻の駆逐艦は、そのすべてがこのラッセンと同タイプのようで、現在さらに同型艦が5隻追加発注されているとのことで、計画ではさらに3隻が建造されて最終的には70隻になる予定だといいます。もっともアーレイ・バーク級は1988年から建造が始まっていて、その都度改良が加えられてきていますから、新しいものほど性能がアップしています。

なので、そのすべてが同じ性能というわけではありませんが、それにしても同じタイプの船がこれほどまで継続して建造されるというのは、やはりそれなりに優れた駆逐艦なのだと思います。

さらに調べてみたところ、この船の設計は、1980年代ごろから始まったようです。それまでの船は「大戦型駆逐艦」と呼ばれ、主として大砲や魚雷といった重火器、そしてICBM(大陸間弾道弾)の搭載などに重視が置かれていました。

が、ソ連との冷戦が終わるころからは、大陸間のような長距離ではなく「中距離」の艦対空ミサイルに重点が置かれるようになり、これを搭載したミサイル駆逐艦としての性能が求められるようになりました。

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そして主に攻撃力の要となる装備として対地攻撃力でも有利なトマホーク武器システム(TWS)と、卓越した対空戦闘能力を実現するイージスシステムが導入されてこの級が完成しました。

私は軍事オタクではないので、詳しい事はわかりませんが、このトマホークというのは、主には遠く離れた敵をやっつけるもので、相手が艦船であろうが、陸上のものであろうが、自分でレーダー装置を保有して敵を探す自律型のミサイルです。

その最大射程は、中距離とはいいつつも長いものでは到達距離が2500~3000kmもあり、短いものでも1250km~1650kmもあるようです。

そもそも「トマホーク」とは、アメリカインディアンが白人との戦いの中で使った独特の手斧であり、柄の長さは30-50cm程度で、もともと雑事用の手斧だそうです。普段の野外活動でも便利で、インディアンが白人と戦う際にはとくに白兵戦では信頼性のある武器になっていたといいます。

現在のアメリカ陸軍でも、柄が強化プラスチック製の合成素材でできたトマホークが正式採用されているそうです。ジャングル戦の多いベトナム戦争やイラク戦争などでも実戦に使用されましたが、「飛び道具」として敵に投げつける場合もあるそうで、ミサイルのほうのトマホークもこれになぞらえたのでしょう。

また、イージスシステムというのは、防空戦闘を重視して開発された艦載武器システムの総称で、こちらは、“Aegis“という、ギリシャ神話の中で最高神ゼウスが娘アテナに与えたという盾のことで、元々の発音は「アイギス」です。

この盾はあらゆる邪悪を払うとされており、現代版のイージスシステムも、レーダーなどのセンサー・システム、コンピュータとデータ・リンクによる情報システム、ミサイルとその発射機などの攻撃システムなどで構成されていて、飛来する敵のミサイルや弾丸を邪悪なものとみなしてバッタバッタと叩き落とします。

防空のみならず、敵としての目標物の捜索から識別、判断から攻撃に至るまでを、迅速に行なうことができシステムであり、このシステムで同時に捕捉・追跡できる目標は128以上といわれ、その内の脅威度が高いと判定された10個以上の目標を同時迎撃できるといいます。

きわめて優秀な情報能力をもっていることから、情勢をはるかにすばやく分析できるほか、レーダーの特性上、電子妨害への耐性も強いという特長もあります。

しかし、アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦はこれらの世界最先端の攻撃・防御システムを持っている一方で、対潜哨戒ヘリコプターの格納庫をもたないため、自分で索敵できる以上の広範囲の敵を察知できない、また航続距離も航空母艦などより劣っている、といった弱点があります。

このため、今回のラッセンによる南沙諸島の航行でもそれほど長距離は航海しなかったようで、また単独で派遣されたのではなく、P3哨戒機などの「空からの目」を伴っていただろう、と推察されているようです。

このラッセンという艦名はベトナム戦争で名誉勲章を受章したクライド・エヴェレット・ラッセン中尉にちなみます。同型艦の建造計画のうちの第三期目にあたるフライトIIA(現在の期)の3隻目に建造されたもので、2001年にフロリダ州のタンパで就役しました。

米国の先制攻撃戦略の柱である「ミサイル防衛」前進拠点基地である、日本の「横須賀港」に配備されたのは2005年9月からで、同港における7隻目のイージス艦となりました。これにより、横須賀基地の第7艦隊は、旗艦ブルー・リッジ以下、空母キティホークも含め11隻体制となりました。

艦籍も新しく、日本に在沖するアメリカ艦艇としては最新鋭の部類に入ります。弾道ミサイルを追尾できる高性能のレーダーを備え、 弾道ミサイル防衛システムの機能の一部を担う能力もあり、横須賀に着任して4年後の2009年7月には、密輸を疑われた北朝鮮の貨物船、カンナム1号をこのラッセンが追跡したと報じられました。

2010年11月に黄海で行われた米韓合同演習に参加するなど、有事には韓国海軍との連携で事に当たることも想定されているようです。が、無論、日本の海上自衛隊との連携も想定されているようです。また、2012年2には、東京都が実施した帰宅困難者対策訓練に参加し、東京港から横須賀海軍施設まで帰宅困難者役の東京都職員を代替輸送したそうです。

ただ、2009年2月には、横須賀港内でプレジャーボートと接触する、といった事故発生しており、怪我人は出なかったものの、業務上過失往来妨害の疑いでラッセンのアンソニー・シモンズ艦長とボートの船長の両方が、書類送検されています。

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現在横須賀の米海軍第7艦隊には、このラッセン以外にもアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦が6隻配備されており、今後の中国の出方次第によっては、今度はこれらの複数の駆逐艦の「出撃」もありうるのかもしれません。

ちなみに、現在海上自衛隊が保有するミサイル護衛艦「こんごう型」や「あたご型」は、このアーレイ・バーク級の建造にも大きな影響を与えたといわれており、日本における護衛艦の「お手本」ともいえる艦のようです。

先日通過した安保法の施行により、近い将来この姉妹館ともいえる日米の駆逐艦が、つるんで南沙諸島における「公海」を航行する、といったこともあるのかもしれません。

ところで、なのですが、1943年の今日10月28日と同日に、同じアメリカ海軍の駆逐艦、「エルドリッジ」がフィラデルフィア沖で、極秘裏にある実験を行った、とされる噂があります。

「フィラデルフィア計画」と呼ばれる実験で、この話は、1984年に公開されたSF映画、「フィラデルフィア・エクスペリメント」のモチーフともなりました。

この映画のあらすじはこうです。

第二次世界大戦中の1943年、フィラデルフィア港でアメリカ海軍によるある極秘実験が行われようとしていました。「フィラデルフィア計画」と呼ばれるその実験は、敵のレーダーから消え、味方の船を探知されないようにするというものでした。

この実験のために、駆逐艦「エルドリッジ」の船上にはものものしい実験装置が取り付けられていましたが、実験をスタートさせるために、その実験機械のスイッチが入れられた途端、エルドリッジ号は不思議な光に包まれレーダーから消えてしまいます。と同時に船体そのものまで消え始めていました。

暴走した装置の影響から逃れるため、主人公である二人の水夫は海に飛び込み、光の中に消えてしまいます。……しばらくして二人が姿を現したのは、なんと1984年のアメリカ。
朝になり、コーラのアルミ缶を見つけた二人は、その材質が何か分らず首をかしげますが、さらに国道に出ると、見慣れぬ車が走っており、更に疑問は深まるばかり……

一方、二人が現れた1984年の世界では、1943年の実験を行った責任者である物理学者が実験行っており、この博士の実験によりひとつの町が消えてしまっていました。紆余曲折あって、この博士に出会った二人は、1943年の自分の世界で行われた実験でもこの博士が主任であったことを知り、彼に助けを求めます。

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博士は、保管してあった当時のフィラデルフィア実験の資料を取り出し、漠然と思考を巡らせ始めますが、そこへ町が消えたことを訝しんだ軍が、彼等のせいだと決めつけ、捕えようとします。

そのころ、町が消えた実験地域は急激に気圧が低下し続け、そこに1943年からタイムスリップしてこようとしていたエルドリッジ号が合体しようとしていました。今や時空のなかに大きなゆがんだ穴ができようとしており、絶体絶命となった彼等のとった行動は……

という話なのですが、後段の話はかなりややこしいので、まだこの映画をみていない方、ご興味のある方は、レンタルショップへ直行していただくとしましょう。

この映画の結末だけ簡単に述べておくと、1943年の世界では、フィラデルフィアにエルドリッジ号は無事帰還しますが、実験の傷痕の深さに人々は震撼する、という展開です。しかし、1984の世界では町は元に戻り、世界は破滅から救われる、ということになり、一応ハッピーエンドです。

ただ、1943年の世界から未来へタイムスリップした二人の水夫のうち、一人は未来に残ります。もう一人は元の世界に戻り、やがて年月を経て、1984年の世界で二人は再会する、というのがこの映画のオチであり、そこのところがまたこの映画を面白くしています。

無論、映画のほうはSFにすぎないわけですが、実はこうした実験を実際にアメリカ海軍が、「ステルス実験」として行っていたのではないか、という話があり、これが上述のフィラデルフィア計画です。

あくまで推定の息を出ないので、「都市伝説」の一種ではないのか、ともいわれますが、実験が行われた「らしい」とされる駆逐艦は実存し、その名も映画と同じく「エルドリッジ」といいます。

ステルスとは、そもそも軍用機、軍艦、戦闘車両等の兵器をレーダー等のセンサー類から探知され難くする軍事技術の総称であり、現在ではステルス戦闘機や、ステルス機能を持った艦船が実用化されています。

そのためのステルス化の実験を、1943年当時の技術を使って実用化しようとしていたのではないか、といわれるのがこの「フィラデルフィア計画」における実験です。まことしやかにささやかれるその「伝説」によれば、この実験は、1931年、ニコラ・テスラの提唱によるものだったといわれています。

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ニコラ・テスラやエジソンと同時期に活躍した発明家で、先日のブログでも彼のことを書きました(電脳エトセトラ)。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテス電球を発明した人物として知られていますが、アメリカ海軍が設立したと言われる「レインボー・プロジェクト」にも関わったとされます。

これは、この当時のレーダーは、「船体が発する、特徴ある磁気に反応するシステムである」と考えられていたことに基づくプロジェクトであり、テスラは、「テスラコイル(高周波・高電圧を発生させる変圧器)で船体の磁気を消滅させれば、レーダーを回避できる」と考えていたことから、米海軍がそのアイデアを実現させようと具現化した計画といわれます。

その後、この実験は、ハンガリーから亡命してきた科学者で、第二次世界大戦中の原子爆弾開発や、その後の核政策への関与でも知られる「フォン・ノイマン」に引き継がれ、1943年、駆逐艦「エルドリッジ」に船員を乗せ、初の人体実験を行なうこととなったとされます。

エルドリッジは、1943年に就航した駆逐艦で、アメリカはこのころもう既に日本と太平洋戦争に突入していました。同艦も戦闘に投入され、当初はアメリカ周辺を航行する貨物船団などの護衛を担っていましたが、1944年からは、沖縄に向い、ここで護衛や哨戒任務についていました。

フィラデルフィア計画が行われたとされる1943年はまだアメリカ沿岸で貨物船の護衛を担当していた時期であり、「伝説」によれば、実験はエルドリッジが就役して間もない1943年10月28日、ペンシルベニア州フィラデルフィアの海上に浮かぶ「エルドリッジ」を使って、遂に大規模な実験が秘密裏に行われました。

実験は新しい秘密兵器「磁場発生装置テスラコイル」を使い、「レーダーに対して不可視化する」というものであり、エルドリッジの船内には多くの電気実験機器が搭載されており、そのスイッチを入れると強力な磁場が発生し、駆逐艦がレーダーから認められなくなりました。

実験は成功したかのように見えましたが、不可思議な現象が起こります。実験の開始と共に海面から緑色の光がわきだし、次第にエルドリッジを覆っていきました。次の瞬間、艦は浮き上がり発光体は幾重にも艦を包み、見る見る姿はぼやけて完全に目の前から消えてしまいました。

「実験開始直後に、駆逐艦はレーダーから姿を消す」、ここまでは実験参加者達の予定通りでしたが、その直後にエルドリッジは「レーダーから」どころか完全に姿を消してしまい、おまけに2,500km以上も離れたノーフォークにまで瞬間移動してしまっていました。

エルドリッジはそれから数分後、またもや発光体に包まれ艦はもとの場所に瞬間移動します。再び戻ってきたエルドリッジですが、驚くべきことに乗員には、その体が突然燃え上がる、発火した計器から火が移り火だるまになる、衣服だけが船体に焼き付けられる、といった現象が起きるとともに、中には、板に体が溶け込んだ者もいました。

突然凍り付いた、半身だけ透明になった、壁の中に吸い込まれたという証言もあり、また、生き残った乗組員も精神に異常をきたし、エルドリッジの内部は、まさに地獄絵図のごとくだったといいます。唯一、影響を受けなかったのは、鉄の隔壁に守られた機械室にいた、一部のエンジニアたちだけだったといいます。

実験自体は成功したように見えましたが、こうした乗員の被害は甚大であり、一説によれば「行方不明・死亡16人、発狂者6人」という、取り返しのつかない結果になったといわれます。そして、このことに恐れおののいた海軍上層部は、この極秘実験を隠蔽したのだといわれています。

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そもそも、この「実験が行われた」という密告は、1956年に天文学の分野で博士号を持つモーリス・ケッチャム・ジェサップという作家の元に、カルロス・マイケル・アレンデという人物から届いた手紙に端を発するといわれ、その手紙には「レインボー・プロジェクト」の内容が克明に綴られていたといいます。

しかし、モーリスはこの手紙を受け取った3年後(1959年4月)、謎の自殺をしています。排気ガスをホースで車内にひきこみ、一酸化炭素中毒で死亡するというものでした。彼の死後、アメリカ海軍は総力をあげてこのアレンデという人物を捜したといいますが、その捜索は失敗に終わったといわれます。

モーリス・ジェソップがまだ生きていたころ、彼自身が執筆したUFOに関する一冊の本が海軍研究所に郵送されてきたそうです。そこには様々な科学的な手書きのコメントが書き込んであったといい、個人的に興味を持った研究所の研究員がこの本をジェソップに見せました。

そうしたところ、ジェサップはこの本のコメントを書きこんだ人物と、以前フィラデルフィア計画について手紙を彼のところに送ってきた人物、すなわちカルロス・マイケル・アレンデは同一人物だろうと推断したといいます。

このアレンデという人物が何者だったのか、フィラデルフィア計画に携わっていた研究者のひとりだったのかどうか、といった事実関係については、その後何も資料が出てくることもなく、この話はそれっきりになりました。

さらに後年、アメリカ海軍歴史センター、および海軍研究所(ONR)がこの実験が本当に行われたのかどうかを検証したといわれます。

その調査によれば、この実験に供されたとされる駆逐艦エルドリッジは、1943年8月27日にニューアークで就役して以来、実験が行われたとされる、10月末までには一度もフィラデルフィアに寄港していない、と記録されていました。

この期間を含めたエルドリッジの戦時日報はマイクロフィルムに保存されており、誰でもそのコピーの閲覧を請求できます。また、ノーフォークで、テレポートしてきたとされるエルドリッジを目撃したとされる商船アンドリュー・フルセスは、記録によると10月25日にはノーフォークを出港しており、以降1943年中は地中海にありました。

また、同船に乗り組んでいた米海軍予備士官ウィリアム・S・ドッジ少尉は、彼も他の乗組員もノーフォーク在泊中に特に変わったものは見ていないと断定する手紙を寄せており、そもそも、エルドリッジとアンドリュー・フルセスが同時にノーフォークに在泊していたことはありません。

この話が「都市伝説」の域を出ない、でっち上げだ、とされることが多いのはこうした「事実」の積み重ねによるものです。しかし、一方では、こうした記録は、本当のことを知られたくないアメリカ海軍の上層部によって塗り替えられたのではないか、とする説も根強いようです。

その後、ノーフォークを管轄する第5海軍管区の将兵だったある人物が、海軍工廠で行われていた様々な実験がこの都市伝説の元となったのではないか、と語ったといいます。この人物が誰かは公表されていませんが、彼が語った説としては、これは「消磁」に関する実験でなかったか、としているようです。

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この消磁というのは、艦船が持つ磁気が地磁気を乱すのを探知して爆発する「磁気機雷」から身を守るため、艦船に電線を巻き付け電流を流し、電磁石の原理でもともとの艦艇の磁気を打ち消す作業のことです。

消磁をきちんと行えば、艦船は磁気機雷からは「見えなく」なるといい、ただし、人間の目やレーダー、ソナーなどには通常通り映ります。現在においても、日本の海上自衛隊などでも「横須賀消磁所」という施設を保有しており、ここで自衛艦の永久磁気を定期的に消磁しています。

特に水上鋼鉄艦艇の艦首艦尾方向の消磁を「デパーミング」と呼び、船体外周に大きなコイルをゆっくりと通して、電流の極性を変えながら徐々に弱くしていくことで磁気を消していく作業を行なうそうです。また、潜水艦では艦載消磁装置の消費電力削減のためにあらかじめ誘導磁気を打ち消すように船体永久磁気を付けているようです。

その後、1950年代になって米海軍の駆逐艦ティマーマン(Timmerman)では、この消磁を強力に実施するためにある種の実験が行われたそうです。

このときには通常の400Hzの発電機ではなく、コイルを小型化できる高周波数(1,000Hz)の発電機を搭載して実験が行われたとのことです。この実験では高周波発電機から放電現象などが起こりましたが、組員への影響はなかったとされます。こうした特殊実験とフィラデルフィア計画が混同されたのではないか、とされるわけです。

その後エルドリッジは1951年にアメリカ海軍から除籍され、ギリシャ海軍に払い下げられ、1991年には除籍、解体のため売却されているため、今となっては本当に船員が床や壁に塗り込まれたのかどうかを検証する、といったことも不可能です。

一説では、「マンハッタン計画に対する欺瞞作戦」とも言われています。第二次世界大戦中、枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画であり、この計画へ人々の目を向けさせないようにするため、こうした有りそうな話をでっち上げたのではないか、とする説です。

このマンハッタン計画の中心人物こそフォン・ノイマンであり、フィラデルフィア計画をテスラから引き継いだとされるのもノイマンです。

マンハッタン計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施しました。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなりました。

一方のフィラデルフィア計画が実際にあった実験なのか、そもそも成功したのかどうか、はたまたあくまで都市伝説なのかについては、これを読んだ方々の想像にお任せしますが、現在でもこうした不可解な超常現象の伝説は、多くのマニアを惹きつけています。

秋の夜長も長くなってきました。映画、フィラデルフィア・エクスペリメントをまだご覧になっていない方はぜひご鑑賞いただき、さらに想像力を膨らませて頂く、というのもまた一興かと思う次第です。

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爪楊枝の季節

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伊豆の山々もかなり色めいてきました。

当別荘地のメイン通りの桜の葉も先週までは黄色を帯びていたものが、かなり赤くなり、あとは落葉を待つばかり、といったかんじです。今朝ゴミ出しに外へ出たときの寒暖計の温度は10度でした。

東京では木枯らし一号が昨日吹いたといいます。季節が秋から冬へと変わる時期に、初めて吹く北よりの強い風のことを言います。10月半ばから11月末の初冬の間に、初めて吹く毎秒8メートル以上の風、と気象庁では定義しています。

冬型の気圧配置があらわれたときに吹きます。冬型になったときには、ユーラシア大陸から日本に向かって吹いてくる冬の季節風が日本海を渡る時に水分を含みますが、日本列島の中央部には連山があるために、日本海側ではこの風が時雨となって雨や雪を降らせたことで水分を失います。

結果、山を越えた太平洋側では乾燥した空気となり、これが吹き抜けることによって木枯らしとなります。気圧配置の状況によっては災害が起こる可能性のあるほど強風になることもあり、こうした、場合には警報が出る場合もあります。

ただ、台風ほどひどくはなく、全国的に吹き荒れるということはむしろ少ないようです。気象庁では、人口の多い東京と大阪でのみ「木枯らし1号」のお知らせを発表しています。今年と去年は10月(去年は東京大阪とも27日)でしたが、東京でも近畿でもだいたい11月以降になることが多く、2005年には近畿で12月5日という記録がありました。

木枯らし一号に対して、春先に吹き荒れるのが春一番です。こちらは、立春から春分までの間に、日本海を進む低気圧に向かって、南側の高気圧から10分間平均で風速8m/s以上の風が吹き込み、前日に比べて気温が上昇することを発生条件としています。木枯らし一号がこれから本格的な冬を告げる嵐であるのに対し、こちらは春の訪れの予告です。

従って、近年の日本では、一般的にはこの木枯らし一号が吹き荒れる11月の頭から、春一番の吹く2月の中旬ぐらいまでが、真冬、ということになるようです。二十四節気に基づく節切りでは、だいたい11月6日ごろの立冬から2月5日頃の立春の前日まで、とされており、だいたいこれとも一致します。

次第に寒くなり、やがて野外で霜や雪など氷に関わる現象が見られるのが冬です。また、冬至までは昼間の時間は短くなり、夜が長くなりますから、太陽からの暖を取る時間も短くなるということで、生物にとっての冬は直接に命の危険にさらされる季節でもあります。このため、多くの生物はこの間、活動を控えたり、様々な方法で越冬体制に入ります。

多くの動物は、凍結しない場所で活動を停止しじっとするようになり、一般にはこれを冬眠といいます。トカゲやカエルは土中に、カメやドジョウは水中の底に潜ります。ほ乳類のコウモリやヤマネ、クマなどの哺乳動物は体温を下げて冬眠します。

しかし、シカやサルなどのように、冬眠しない動物もおり、これらの動物は餌に苦労することになり、他の季節には見向きもしない木の芽や樹皮などを食べてしのぎます。これらの動物では、冬季の死亡率が個体数に大きな影響を持つとも言われているようです。

一方、低温というのは植物にとってはかなり厳しい環境であり、平たくて薄い葉はとくにその影響を受けやくなります。冬季でもそれほど温度が低くならない地域では葉を小さく厚くすることでこれを耐えますが、ある程度以上ではこれを切り落として捨てます。これが、落葉です。多くの落葉樹は葉を落とし、宿根草は地上部を枯らします。

人間は、といえば防寒のために厚手の冬服に着替え、さらに手袋やマフラーなどの防寒具を着用して寒さを防ぎます。火を使えるのは人間だけであり、暖房器具を使用するのも冬ならではのことです。こたつが恋しい季節であり、我が家でもそろそろストーブを出そうかと思っています。

北半球においては、一般に農業生産は春から秋にかけて行われ、冬は翌年の生産への準備に当たる季節です。このため、その年を締めくくったり一年間を振り返ったりするための行事が多くなります。クリスマスもそんな中で訪れる一日です。

一般に「イエス・キリストの誕生日」と考えられていますが、実はこれには根拠がないようで、キリストが降誕した日がいつにあたるのかについては、古代からキリスト教内でも様々な説があり、3世紀の古代ギリシアでは5月20日と推測していました。

今のように、12月25日ごろになったのは、農業活動における収穫の時期が終わり、牧畜などであちこちを放浪していた民がたちも本拠に戻り、家族と過ごす時期に合わせてキリストの生誕日をここに持ってきた、という説もあるようです。

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日本でも神道にのっとり、この時期には大祓(おおはらい)が行われます。これはその年に起きてしまった災厄をリセットして翌年の国体の鎮守を図る儀式です。日本人もまた農耕民族であるため、時期としては農作業が一段落した年末、という時期が選ばれたのでしょう。

このほか、針供養、お歳暮といった行事もおおかた12月に取り行われ、これに忘年会が続き、大掃除、年越しそば、除夜の鐘と段取りが進んでいきます。

木枯らし一号から、この年末のあまたある行事の数々の合間には、関東地方では上天気が続き、この間、からっ風(空っ風)が吹きまくります。主に山を越えて吹きつける下降気流のことで、山を越える際に温度、気圧ともに下がることで空気中の水蒸気が雨や雪となって山に降るため、山を越えてきた風は乾燥した状態となります。

ここ静岡でも、浜松市などの静岡県西部でも冬に北西風が強まり、「遠州のからっ風」と呼ばれます。しかし、からっ風といえば、やはり群馬県であり、ここに冬場に吹く北西風は「上州のからっ風」として有名で、「赤城おろし」とも呼ばれ、群馬県の名物の一つとも数えられています。

上州名物は、「かかあ天下と空っ風」といわれるように、女性が強い県とも言われます。これは、上州では養蚕が盛んであったことに由来しているようです。この仕事は女性が行うため、一家の経済の主導権が女性にあることが多く、当然、発言力も大きくなります。

きめ細かな蚕の飼育、すなわち女性の持つ繊細な感覚と骨身を惜しまぬ勤勉さであり、上州の女性は、春から夏にかけては、養蚕に精を出し、秋の収穫を終えると今度は、糸挽きと織物に専念しました。このため群馬では高い品質の生糸と織物が生産されるようになり、ひいてはその原動力である女性は高く評価されるようになりました。

かつての彼女らの収入は、男性のそれよりもはるかに高額であり、このため、「上州では女が男を捨てる」とよく言われていたようです。嫌いな夫、働きがいも生活力もない夫に多額の慰謝料を支払うことが出来るのは、それを可能にする経済的実力を手にしていた、というわけです。今の上州の女性も男性を捨てる傾向があるのでしょうか。

一方では、懸命に働く女房を見て、男どうしが自分の女房を自慢し合った、ともいわれているようで、それを他県人が「かかあ天下」と揶揄し「かかあ天下と空っ風」の言葉が生まれた、という説もあります。

また群馬県南部は関東平野の北西に当たり、かつては中山道の宿場町として江戸からの街道者で賑わいました。宿場町であったことから賭場も多く、群馬男のバクチ好きはよく知られるところです。このバクチの金の出所といえばかかあが稼いだ金であり、その金でバクチを打つというのは、まさにヒモです。

このため、金を貰うためにはかかあを大事にしなければならず、これがやがてはバクチ打ちが持つ資質、「義理人情に厚い」に変わっていったといわれており、そのDNAは現代の群馬県民にも受け継がれているといいます。

群馬県民の、情に厚く、小さいことにこだわらない、だれにでも愛想がよく気持ちいい、といった気質もまた博徒をもてなすバクチ打ちから受け継いだ気質と思われ、一方では、自分の尺度で物事を押しつける直情型が多く、「見た目重視の内容なし」で物事が進みがち、という群馬男性の気質も単純ゲームである賭博のせいだともいいます。

一方では、「かかあ天下」の気質を受け継いだ群馬の女性は、生まれもって行動的であるといわれ、会社組織であれば部下のミスもカバーする責任感のあるタイプの上司が多いといいます。おおらかで包容力もありますが、意外に些細なことで悩むことも多く、情に厚いが気配りベタで、誤解され敵をつくりやすいそうです。

私の知人・友人には群馬県民はほとんどいません。なので、これらが当たっているのかどうかは正直なところよくわかりません。が、もし間違っていたら、群馬県民の方、お許しください。

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ところで、こうした「木枯らし」「博打打」といったキーワードからどうしても連想してしまうのが、「木枯らし紋次郎」です。笹沢左保の股旅物時代小説を原作とし、フジテレビ系列で1970年代に放映され、大人気を博したテレビドラマです。

私の世代の人にはおなじみのキャラクターですが、同番組を見ていない若い方に簡単に説明しておくと、その舞台は天保年間の江戸時代です。上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれた紋次郎は、生まれてすぐに間引きされそうになる所を姉の機転に助けられます。

薄幸な子供時代を過ごした紋次郎は、10歳の時に家を捨てて渡世人となりますが、ボロボロな大きい妻折笠を被り、薄汚れた道中合羽を羽織り、長い楊枝をくわえているのが彼独特のスタイルです。その旅の先々で色々なトラブルに出くわしますが、かならずその劇中で紋次郎が口にする決め台詞が「あっしにゃぁ関わりのねぇこって…」です。

毎回毎回、事件には関与しない、との姿勢を貫こうとしますが、その生まれ持っての「優しさ」ゆえに結局は事に関わってしまい、いつも人助けをしてしまう……というストーリーです。しかし、一話完結となっており、毎回のストーリーに連続性はありません。

自分には関わりがないこと、といいながらいつも関わってしまう照れ隠しなのか、物語の最後になると、いつもお決まりのシーンがあります。

その咥えている長い楊枝を、ニヒルに片方の口端を上げながら「スー~ッ」と息を吸い込んだあと、勢いよく「ピッ」と吹き出すと、その楊枝が物語の要となっている文物、時には人物に命中します。これがまたカッコよく、世代を超えた男性を虜にしました。

私が聞いた話では、この木枯らし紋次郎が流行っていたころには、企業のエレベーターの中に、よく爪楊枝が転がっていたといいます。このころのサラリーマンたちは、この紋次郎を自分になぞらえて、こうしてひと目につかないところで、上司に向かって楊枝を飛ばし、ウサを晴らしていたに違いありません。

番組は「市川崑劇場」と銘打たれ、1972年の元日に放送開始されました。ただ、市川監督は監修と第1シリーズの1~3話・18話で演出(監督)を務めただけで、全作品のメガホンを取ったわけではないようです。が、要となる部分では物語全般でかなり細かい部分に渡って関わっており、とくにその中でもこだわった斬新な映像美は秀逸でした。

実は、市川監督は実は元アニメーターだった、という話は意外に知られていません。少年時代に見たウォルト・ディズニーのアニメーション映画にあこがれ、親戚の伝手で京都のJ.O.スタヂオ(のち東宝京都撮影所)のトーキー漫画部に入り、アニメーターを務めていました。

アニメの下絵描きからスタートし、「ミッキー・マウス」や「シリー・シンフォニーシリーズ(ウォルト・ディズニー・カンパニーによって製作された短編アニメーションシリーズ)」などのフィルムを借りて一コマ一コマを克明に分析研究し、映画の本質を学んだといいます。

市川昆は、1915年(大正4年)、三重県宇治山田市(現伊勢市)に生まれました。呉服問屋の生まれでしたが、父が急死し4歳から伯母の住む大阪に移り、その後脊椎カリエスで長野県に転地療養。その後広島市に住んだこともあり、彼自身は難を逃れましたが、母親は被爆しています。出生名は市川儀一という名前で、成人してから市川崑に改名しました。

改名の理由は、市川自身が漫画家の清水崑のファンであったからとも、姓名判断にこっていた伯父の勧めからとも言われています。17歳のときに信州での初恋の女性をモデルに書いた「江戸屋のお染ちゃん」を週刊朝日に投稿し当選した、とされます。調べてみたところ、これが小説だったのか、漫画だったのかどうかはよくわかりません。

当初は画家に憧れていたといい、なので漫画だったのかもしれません。ともかく画家にあこがれていた少年時時代でしたが、ただ、この当時は画家というのはその画材を得るためにも相当裕福ではないと無理な時代であり、あきらめざるを得ませんでした。

1932年に公開された伊丹万作監督の「國士無双」を見て、感動し志望を映画界に変更。映画人になるための早道として、得意だった絵を武器に京都のJ.O.スタヂオのトーキー漫画部に入所しました。

1936年(昭和11年)には脚本・作画・撮影・編集をすべて一人でおこなった6分の短編アニメ映画「新説カチカチ山」を発表。漫画部の閉鎖とともに会社合併により実写映画の助監督に転じ、伊丹万作、阿部豊らに師事。このころ、東宝と改名していた東宝京都撮影所の閉鎖にともなって、東京撮影所に転勤になりました。

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この東宝の砧(きぬた)撮影所は、以後、短い新東宝時代、10年程度の日活・大映時代を除き、没後の「お別れの会」に至るまで終世のホームグラウンドとなりました。終戦を29歳で迎え、1948年の「花ひらく」で監督デビュー。アニメーションから実写映画に転身して成功を収めた数少ない映画人となりました。

戦後すぐには、東宝で風刺喜劇やオーソドックスなメロドラマ作品も撮っていますが、1955年(昭和30年)にはその前年映画制作を再開したばかりの日活に移籍。「ビルマの竪琴」で一躍名監督の仲間入りを果たし、その後大映に移籍。このように映画会社を転々とする中で文芸映画を中心に数々の名作を発表してその地位を確立しました。

とりわけ1960年(昭和35年)の「おとうと」は大正時代を舞台にした姉弟の愛を表現したもので、自身初のキネマ旬報ベストワンに輝く作品となりました。1965年(昭和40年)には総監督として製作した「東京オリンピック」が、当時の興行記録を塗り替え、一大センセーションを起こします。

市川はオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、開会式から閉会式に至るまでの緻密な脚本を書き上げ、これをもとにこのドキュメンタリータッチの映画を撮りあげました。冒頭に競技施設建設のため旧来の姿を失ってゆく東京の様子を持ってきたり、一つのシーンを数多くのカメラでさまざまなアングルから撮影しました。

また、2000ミリ望遠レンズを使って選手の胸の鼓動や額ににじむ汗を捉えたり、競技者とともに観戦者を、勝者とともに敗者を、歓喜とともに絶望を描いたりするなど、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げて好評を博しました。

その後テレビ放送が開始され、一般家庭にも普及していく中、映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持ったり、蔑視する者が少なくありませんでした。しかし、市川はテレビを新メディアとしての可能性に注目し、映画監督としてはいち早く1959年よりこの分野に積極的に進出。

通常、映画監督のテレビ進出はフィルム撮りのテレビ映画やコマーシャル・フィルムにとどまることが多いものですが、市川はそれだけでなく、テレビ創成期の生放送ドラマ、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマまでを手掛け、テレビ史においても先駆的な役割を果たしました。

1965年から1966年にかけて放送された「源氏物語(毎日放送)」では、美術や衣装を白と黒に統一するなど独特の演出を手がけ、テレビに関連する様々な業績に与えられ、知名度も非常に高いアメリカの「エミー賞」にノミネートされたこともあります。

テレビコマーシャルでは、大原麗子を起用したサントリーレッド(ウイスキー)のCMが彼の手によりシリーズ化されました。このCMでは、大原が和服姿で登場し、ぷっとほっぺたを膨らませ、かすれた声で甘えるように「すこし愛して、ながーく愛して」と懇願。

サントーレッドは、その言葉どおり多くの人に長く愛され、このCMは1980年(昭和55年)から10年間もシリーズ化されて放送されていました。

そして、1972年に監督・監修を手がけた、フジテレビの連続テレビ時代劇「市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ」です。テレビで放映されるにもかかわらず、映画と同じフィルム撮りとし、市川自身による斬新な演出と迫真性の高い映像から今日では伝説的な作品となっており、その後のテレビ時代劇に大きな影響を与えたと言われています。

元々原作の笹沢佐保は紋次郎を田宮二郎をモデルにイメージしていたそうです。が、「主役は新人で」という市川の意向により、元・俳優座の若手実力派で当時すでに準主役級の俳優として活躍していながらも、一般的な知名度は必ずしも高くはなかった中村敦夫が紋次郎役に抜擢されました。

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これまでの股旅物の主流であった「義理人情に厚く腕に覚えのある旅の博徒(無宿人)が、旅先の街を牛耳る地回りや役人らを次々に倒し、善良な市井の人々を救い、立ち去っていく」といった定番スタイルを排し、他人との関わりを極力避け、己の腕一本で生きようとする紋次郎のニヒルなスタイルと、主演の中村敦夫のクールな佇まいが見事にマッチ。

22時30分開始というゴールデンタイムから外れた時間帯にも関わらず、第1シーズンでは毎週の視聴率が30パーセントを超え、最高視聴率が38パーセントを記録する大人気番組になりました。

その殺陣においても、それまでの時代劇にありがちだったスタイリッシュな殺陣を捨て、ひたすら走り抜ける紋次郎など、博徒同士の喧嘩にも独特な殺陣が導入されました。時の博徒が正式な剣術を身につけているというのはありえず、このため、刀は斬るというより、振り回しながら叩きつけたり、剣先で突き刺すといった演出が多用されました。

また、田舎の博徒が銘のある刀を持つことなどありえないとし、通常時代劇に見られる「相手が斬りかかってきた時に、刀で受ける」などの行為は自分の刀が折れてしまうので行いません。

金もないのに刀の手入れを砥師に頼むといったことも考えられないことから、自分で刀を研ぐ、着ている道中がっぱも自分で繕う、といったリアリティを重視したたて(殺陣)がシリーズ全編を通して徹底されていました。

ただ、紋次郎のまとっていた外套は元々江戸時代の風俗には無く、西部劇のガンマンが着けていたポンチョを真似て採用されたものだと、後に中村がトーク番組で語っています。また、道中がっぱのほかにもこの当時の渡世人は三度笠をしていた、というのは、明治期以降に流行した講談などにおける創作とも言われています。

三度笠というのは、京都、大坂の三ヶ所を毎月三度ずつ往復していた飛脚(定飛脚)のことを三度飛脚と呼び、彼らが身に着けていたことからその名がついたものであり、これと縞模様のかっぱを常用していた、というのは、俗説のようです。

ドラマの主題歌「だれかが風の中で」は、その作詞を市川の妻で市川監督作品のほぼすべてに関わった名脚本家の和田夏十に依頼。また作曲をフォークバンド・六文銭を率いるフォークシンガーの小室に依頼。力強く希望に満ちた歌詞と、西部劇のテーマ曲を思わせるような軽快なこのメロディーを、上條恒彦が歌いあげました。

上条のその歌声はおよそ時代劇には似つかわしくないものでしたが、逆にその新鮮さが幅広い支持を得ることになり、結果的に1972年だけでシングル23万枚を売り上げる同年度屈指の大ヒット曲となりました。

最近の映画やテレビでは普通になっている、血しぶきが飛ぶ、といった演技もこのドラマでは見送られました。フジテレビジョン編成部の金子満プロデューサーが、「テレビで血を見せると絶対に茶の間から拒否され、ヒットしない」という信念を持っていたためであり、金子は市川崑が演出として提案した凄惨なアクションシーンを毅然とした態度で拒否しました。

市川も「そういう方針もあるよね。ようし、それでいこう」と理解することで、こうして流血のシーンは無くなりましたが、金子は「血はともかく、映像は素晴らしいものだった」と当時を回願しています。

「喧嘩の仕方や衣裳、食事もヤクザらしいリアリティを持たせて描き、最初と最後には情緒たっぷりのナレーションを毎回同じ時間に同じ場所で流す」といった市川のストーリーとともに、金子が主張した「絶対に血のアップを撮らせない」という方針がなければ、これほどまでの人気は得られなかったのかもしれません。

この初代の木枯らし紋次郎の人気から、1977年には「新・木枯し紋次郎」が同じ中村敦夫主演で製作されましたが、このときのテレビ局は東京12チャンネルでした。本作での紋次郎の決め台詞は「あっしには言い訳なんざ、ござんせん」だったそうですが、これは前作ほどの話題とはなりませんでした。

1993年にも中村敦夫主演で映画「帰って来た木枯し紋次郎」が東宝配給で制作され、監督も市川崑が務めました。当初はTVスペシャルのために製作されたものでしたが、出来栄えが良かったため急遽劇場上映が決定したもので、主題歌も、テレビ版の「だれかが風の中で」が使われていました。

このほか、1990年には岩城滉一、2009年には江口洋介の主演で単発のスペシャルドラマが製作されています。

中村敦夫は、この「帰って来た木枯し紋次郎」を最後に役者を休止し、1998年(平成10年)の参議院議員選挙に立候補し、東京都選挙区から初当選、政治家となりました。

同年「環境主義・平和外交・行政革命」の3つを基本理念とした民権政党「国民会議」を一人で旗揚げをし、任期中は議員連盟「公共事業チェック議員の会」会長就任、静岡空港建設反対運動などに取り組んで、活躍されましたが、2004年(平成16年)7月参議院選挙では比例区に転向して出馬し、落選。

政治家を辞してからは、小休止状態だった俳優に再び復帰し、最近ではサントリー「BOSS食後の余韻」のシリーズCMで政財界の大物を演じるなど、自身の経歴を重ねたような役柄を演じる事が多くなっています。また、最近では評論活動や執筆活動も続けており、同志社大学などの大学などで講演も行っているようです。

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その後市川監督のほうは、「木枯らし紋次郎」がヒットしたりしたものの、メジャー映画でこれといった代表作を出すことができず、スランプや衰弱が囁かれたこともありました。

しかし、1970年代に入り、横溝正史の「金田一耕助シリーズ」を手掛けたところ、その絢爛豪華な映像美と快テンポの語り口で人気を博し、全作が大ヒットとなりました。これを機に横溝正史ブームが始り、さらに「細雪」「おはん」、「鹿鳴館」などの文芸大作、海外ミステリーを翻案した「幸福」、時代劇「四十七人の刺客」などもリリース。

そのほか、「どら平太」「かあちゃん」など、多彩な領域で成果を収めましたが、役所広司が主演してヒットしたこの2000年の「どら平太」が撮影された時には既に、85歳を超えていました。

90歳を超えても現役で活躍したという点では新藤兼人に次ぐ長老監督に位置し、日本映画界においては受賞歴と興行実績をあわせたキャリアにおいて比肩する者のない存在となっていました。2006年(平成18年)に監督した「犬神家の一族」は30年前の作品をリメイクしたものであり、老いてなおその実験精神は衰えませんでした。

この映画では、まったく同じ脚本を用い同じ主演俳優を起用してみせたといい、カット割や構図も前作を踏襲したものが多かったようですが、前作では飄然と汽車に向かう金田一が今回は画面に向かってお辞儀するエンディングとなっており、この挨拶が市川の長年にわたる監督生活のラストカットとなりました。

結局この作品が遺作となり、2008年(平成20年)2月13日午前1時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去。92歳没。同年3月、日本政府は閣議に於いて市川に対し、彼の長年の映画界への貢献及び日本文化の発展に尽くした功績を評価し、逝去日に遡って正四位に叙すると共に、旭日重光章を授与することを決定しました。

しかし、日本映画の巨匠としてはヒット作や大衆的人気にめぐまれましたが、錚々たる授賞歴の一方で、キネマ旬報社の叢書「世界の映画作家」では最後まで採り上げられませんでした。

黒澤明監督のように、世界に誇れる映画人、というふうに紹介されなかったのは、この年代の巨匠としてはめずらしく社会的テーマを前面に打ち出した作品がほとんどなかったからだといわれています。

が、木枯らし紋次郎シリーズや金田一耕助シリーズのように、日本人のような繊細な民族の心の琴線にだけひっかかるような映画を撮ることができるのは、彼だけではなかったか、という気がします。

市川の独特の映像表現は、後輩の映画監督に多大な影響を与えており、枚挙のいとまはありませんが、彼と同じく故人となっている、伊丹十三は「師匠は市川崑さんです」と明言していたそうで、彼が手がけた英映画の完成したシナリオは、必ず市川のもとに届けられたといいます。

また、三島由紀夫は「日本映画の一観客として、どの監督の作品をいちばん多く見ているか、と訊かれたら、私は躊躇なく市川崑氏の作品と答える」と書いています。

今は、伊丹や三島といった天才とともにあちらの世で新しい作品の構想を練っているに非違いありません。今後とも市川監督のDNAを受け継いだ映画人の中からは、あの世にいるその監督からのインスピレーションを得た作品が数多く出てくるに違いありません。

それにしても、カッコ良かった木枯らし紋次郎、もう一度みたいものです。これからのからっ風が吹く季節、紋次郎になったつもりで、もういちど青空に向かって楊枝を飛ばしてみるのもいいかもしれません。みなさんもひとついかがでしょうか。

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