海の向こうへ

2015-0567

10月も下旬になってきました。

今年ももうあと2ヵ月……

そろそろ大掃除の算段やら年賀状の準備のことを考えている人も多いでしょう。さすがに来年の正月の準備をしている人はまだ少ないでしょうが、年末年始にかけて海外旅行などへ行く予定のある人などは、そろそろそのスケジュールについて考え初めていることでしょう。

日本人の海外旅行先ランキングを調べてみると、やはりアメリカが断トツ一位で、だいたい例年370~380万人くらいで推移しているようです。ただし、その半数はハワイであり、グアムがだいたい4分の1を占めます。従って、アメリカ本土まで足を延ばす人は100万人ちょっとにすぎません。

アメリカに次いで日本人がよく行くのはやはり中国であり、だいたい270~280万人くらいです。この数字は香港や台湾を除いたものであり、ハワイやグアムを除いたアメリカ本土を遥かに超え、断トツ、という印象があります。

一方中国人のほうも日本へ旅行する人が多く、ここ数年はたいてい旅行先の第1~2位で推移しているようです。

お互いいがみあっているようにみえても、お互い旅行先に隣国を選びたがる、というのはやはりその文化や風物をお互い認め合っているようにもみえます。ただ、近くて遠いは隣人、ということで逆にお互いのことをよく知らないので、行ってみて確認しよう、と思っているのかもしれません。

日本人の海外旅行者の第1号は幕末のジョン万次郎ではないか、という説もあるようです。

が、彼は漂流してアメリカに渡ったはずであり、海外旅行?と少々首をかしげたくなります。調べてみると、彼はこの渡航した先のアメリカで、日本人としては初めて鉄道に乗っており、かつ気船に乗ったのも彼が初めてではないか、といわれていることに起因しているようです。

たしかに幕末に蒸気船に乗った日本人は多いでしょうが、アメリカ本土まで行って鉄道にまで乗った人物というのは、幕末改革期の初期のころには万次郎しかいなかったかもしれません。

しかし、万次郎がアメリカに渡ったのは遭難という不可抗力のためであり、やはり海外旅行第一号とはいえないでしょう。日本が各国と国交を結び、正式に相手国への入国許可を得てから海外旅行をするようになるのは、やはり明治時代以降ということになるようです。

それにしてもその多くは新政府の官員による「視察」や「技術導入」などが主であり、いずれにしても一般市民には観光を目的とした海外旅行は無縁でした。

海外へ行くためには船以外の手段がなかった当時、これに乗船する、できるというのはよほど裕福な人でなければ考えられず、庶民にとっては海外旅行などは夢の夢であったでしょう。

海外へ渡航するための船も明治のはじめごろにはまだ北前船のような帆掛け船ばかりであり、海外へ行けるような能力のある船は軍艦として輸入されたものばかりでした。「商船」というものが初めて登場したものは1874年(明治7年)であり、この年、岩崎弥太郎が創立した三菱商会の本社を大阪から東京に移し、郵便汽船三菱会社と改名しました。

この会社は、アメリカやイギリスの名門海運会社に握られていた日本の航海自主権を、政府の援助や三菱商会が運営していた三菱銅山の利益を元に、激しい値下げ競争を行うことで取戻す役割を果たしました。その後、三井系国策会社である「共同運輸会社」とさらなる値下げ競争を行ったことで商船による輸送運賃はどんどんと下がっていきました。

さらに、日本の海運業の衰退を危惧した政府の仲介で両社が合併し、日本郵船会社が設立。その後も欧米の海運会社が独占する世界中の航路に分け入ってゆき、わずか10年余りで世界の主要都市ほぼ全てに航路を開設しました。

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おそらく、こうした海外への商船の進出が加速する間に、これらの船便に便乗して海外旅行をした人は割といたと考えられます。が、その第一号が誰だったか、といわれるとなかなか特定は難しいようです。

ただ、海外留学も海外旅行の範疇に入る、と考えるならば、1862年(文久元年)に江戸幕府が初めてオランダへ留学生を送っており、これが嚆矢と考えられます。幕府は次いでヨーロッパの諸国へも留学生を派遣しており、また長州や薩摩などの諸藩も相競いあうようにして、英国やフランス、アメリカなどの各国へ若者たちを派遣しています。

1866年には留学のための外国渡航が幕府によって正式に許可されるに至り、これら幕末期の留学生は約150人に達しました。とはいえ、これ以前の古代にも、日本から中国へ仏教などの導入を目的として僧侶を留学させており、海外留学のはじまりといえば、奈良時代の遣唐使とうことになります。

こうした留学を除き、あくまで旅行目的で海外旅行をするようになったのは、やはり明治時代以降でしょう。

明治8年(1875年)6月の外務省の報告書にある「海外行ノ免許ヲ得タル我官民ノ総数」においては、イギリス行きの「免状の現数」は131、アメリカ行きの免状は304となっています。

この免状というのは、海外への渡航を国が許可したことを示す免許証、つまり現在で言うところの旅券(パスポート)のことで、要は、当時はこれがなければ海外に渡航することができなかったということです。当初は、「海外行免状」と呼ばれていましたが、明治11年(1878年)には現在のような「海外旅券」に改称されました。

また、この時にはこれとあわせて「海外旅券規則」が定められ、旅券申請の手数料は金50銭とすること、帰国後30日以内に旅券を返納することなどが取り決められていました。

この海外渡航に旅行が含まれたいたかどかは特定できません。ただ、私の推測ですが一般的な海外旅行は明治中ごろまではまだ普及していなかったでしょう。政府によって富国強兵策が進められ、積極的な外貨獲得のために多くの日本人が海外へ出ていった時代であり、その多くは商用か留学目的だったでしょう。

しかし、明治末期になるとかなりその数も増えてきたとみえ、明治24(1891)年には、に「浦潮遊航船」と称する新潟発ウラジオストックク行きの海外旅行ツアーが実現していた、という記録があるようです。この当時の新潟新聞の記事によれば、加能丸という総トン数300トンあまりの船で24名あまりが2週間ほどの旅行へ行って帰ってきたとされます。

この新聞記事によれば「其目的は同地を一覧せんとする人々及び冒険起業の志士を載せ行くに在り」だそうで、これは明らかに旅行目的です。旅行料金は、「上等35円 並等25円 但往復滞在食料共」ともあり、おそらくは日本で最初のツアー旅行と考えられます。

このほか、明治29年(1896年)ころから、明治35年(1902年)にかけて、兵庫県や、長崎、岡山、三重などの中学校(旧制)や商船学校などが、満鮮旅行を実施した、という記録が残っており、修学旅行での海外旅行もこのころまでには始まっていたようです。

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また、1901年(明治34年)の報知新聞の特集記事では、20世紀中に海外旅行が一般化することが予測されていました。

1月2日と3日の2日にわたって同紙紙面に掲載した未来予測記事で、これは「二十世紀の豫言」というタイトルでした。

その中で旅行については、「十九世紀の末年に於て尠くとも八十日間を要したりし世界一周は二十世紀末には七日を要すれば足ることなるべくまた世界文明國の人民は男女を問はず必ず一回以上世界漫遊をなすに至らむ」と書いてあり、いずれ海外旅行は一般化するだろうと予測しています。

ちなにみにこの予言の中では「航海の便利至らざる無きと共に鐵道(鉄道)は五大洲を貫通して自由に通行するを得べし」としており、いずれ航海は廃れ、鉄道がこれにとって代わるだろう、としています。

このほか、鉄道に関しては、高速化のみならず、電化や快適性の向上などが的中しており、地下鉄、高架線もさることながら、ゴムタイヤによるモノレールや新交通システムの登場までも言い当てています。さらに自動車の普及についても言及していました。

「五大州」とは、アメリカ大陸・ヨーロッパ大陸・アジア大陸・アフリカ大陸・オセアニアのことであり、これらの大陸で鉄道網がくまなく敷設されるために、船舶が衰退するとう論理のようです。しかし、たしかにその後船舶航行が衰退していったのは確かですが、これに代わって飛行機が取って代わるといったことまでは予測していません。

ただ、この当時既にあった飛行船については、「チェッペリン式の空中船は大に發達して空中に軍艦漂ひ空中に修羅場を現出すべく、從って空中に砲臺(砲台)浮ぶの奇觀を呈するに至らん」としています。

この「大に発達」したものが飛行機と解釈するかどうかは別として、空飛ぶ乗り物についてもある程度の進化を遂げるであろうことを示唆しているといえます。

さすがに、現在のようにインターネットの普及によって世界の距離が縮まる、といったことまでは予測していませんが、「無線電信は一層進歩し、無線電話は世界諸國に聯絡(連絡)」するようになる、と書いています。

このほか「數十年の後、歐洲(欧州)の天に戰雲暗澹たる状況を電氣力により天然色の寫眞で得」ることができる、と書いており、これはカラーファックスのことと考えられます。さらに「傳聲器(伝声器)の改良」、すなわち電話機や電話網の改良や「對話(対話)者の肖像現出する裝置」といった記述もみられ、これはテレビ電話のことかと推察されます。

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明治の終わりごろというのは、かなり欧米から情報が入って来ていた時代であり、ここまでの予想が出きたのもそうした豊富な情報量のおかげでしょう。が、それにしても1901年といえば、今から114年も前のことであり、この予未来予想はかなり頑張った結果、といえるでしょう。

その後、大正から昭和に入るころまでには、日本人の海外旅行者はさらに増えていったと考えられます。1912年(大正元年)には、 外国人観光客誘客促進を目的とした任意団体「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」が設立されましたが、これは現在の日本交通公社(JTB)の前身です。

外国人観光客を日本に呼び込むための機関でしたが、数少ない日本人の海外旅行者の旅行先での便宜などを図っていたことは想像に難くありません。1930年(昭和5年)には、鉄道省にも国際観光局が設置されており、これらの努力により、1936年(昭和11年)には、日本を訪れる外国人旅行者は4万人を超えました。

しかし、このころから日本は戦時色が強くなり、日本人の外国への旅行は業務や視察、留学などの特定の認可し得る目的が無ければならなくなりました。

この当時の日本人の海外渡航者数を調べてみたのですが、それらしい統計がみあたりません。ただ、昭和7年(1932年)には、満州国が立国しており、満州以外への渡航が制限されていたとすれば、日本人の海外渡航者数のほとんどは、この満州へ渡ったと人たちではないかと考えられます。

満州の人口は、昭和7年が約3400万人、昭和12年(1937年)が約3700万人、少佐17年(1942年)が4400万人です。この数字すべてが渡航者数とは限りませんが、海外渡航が制限されていたこの時代、他国への出国も含めて、この数字の範囲内であったことはおそらくまちがいないでしょう。

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太平洋戦争中にかけての海外への渡航はさらに日本政府による強い規制を受けてきており、このころにはもう、物見遊山の海外旅行などというものは認めらるようなことはありえない時代です。海外へ出国、といっても戦争に行くのと等しい時代であり、海外旅行をうんぬんするのは無意味といえます。

戦後にかけてもやはり海外旅行は厳しい制限をかけられており、外務省などの資料の中に、「日本人海外旅行者数」としてはっきりと数字であげられているのは、昭和30年代に入ってからです。

昭和38年(1963年)の段階で128万人とされており、こうした数字が残っているのは、この年の4月1日以降は現金とトラベラーズチェックによる年間総額外貨500ドル以内の職業や会社などの都合による渡航が一般化されたためです。

ただ、この当時はまだ個人のチェックの利用は難しく、これもいちいち旅行代理店を介してではないと認可されませんでした。一般の市民が職業上の理由や会社の都合ではなく、単なる観光旅行として自由に外国へ旅行できるようになったのは翌1964年(昭和39年)以降であり、年1回500ドルまでの外貨の持出しが許されるようになりました。

さらに1966年(昭和41年)以降はそれまでの「1人年間1回限り」という回数制限も撤廃され1回500ドル以内であれば自由に海外旅行ができることとなり、これ以降、次第に現在のような遊行が目的の海外旅行が広がり始めました。

これら自由化当初の海外旅行はかなりお高く、その費用も50万円程度だったようで、これは現在の換算では300万円ほどにもなるようです。当然海外へ行けるのは一部の富裕層に限られており、庶民には夢の夢でした。

テレビ番組「兼高かおる世界の旅」が放映されて人気を博すようになったのもこの時代であり、この番組で紹介される世界各地のナレーション付き映像も庶民にとっては夢の世界のはなしではありましたが、文字通り人々に夢を与えました。

「アップダウンクイズ」といった番組が始まったのもこの頃であり、10問正解して夢のハワイ」のキャッチフレーズで始まるこの番組も高い視聴率を得ていました。大手の食品メーカーなども懸賞として海外旅行を提供するようになり、「トリスを飲んでハワイへ行こう」は流行語にもなりました。

これは、1961年(昭和36年)にトリスが始めたもので、ウィスキーを購入すると抽せん券が同封されており、当せん者は所定のあて先に応募すると、ハワイ旅行の資金(積立預金証書)が贈呈されるというものでした。ただ、この当時はまだ一般市民の海外渡航には制約があったため、実際に旅行に行った人は100名の当選者のうち30名程でした。

その後、上のとおり1964年(昭和39年)に海外旅行は自由化されましたが、まだまだ高度成長化は単緒にすぎず国民の多くは貧しかったため、当選者のほとんどはこの預金証書を旅行に使わず現金化していたそうです。

海外旅行がさらに一般化し始めたのは1970年代からで、1972年には海外渡航者は300万人を突破しました。飛行機の大型化やドルが変動相場制に移行しての円高や旅行費用の低下が進み、韓国や台湾などの近隣国であれば国内旅行よりも多少高い金額ぐらいで旅行できるようになりました。

1980年代後半には急激な円高となり、1988年からはアメリカ合衆国訪問時にはビザが免除になったこともあって、海外旅行者が大幅に増加しました。ちなみに私が留学を目指したのはこの時代であり、一年くらいの滞在費用しか持っていなかったものの、その軍資金が半年ほどで倍増して小躍りしたのを覚えています。

1995年に一時過去最高の1ドル=79円台まで進行した円高の際には、国内旅行と海外旅行の費用が逆転するケースが発生するようになりました。しかし、その後は円安傾向となり、平成3年には海外旅行者が初めて減少に転じました。

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平成7~8年ころから増減を繰り返す横ばい状態になり、それを反映してか、海外旅行先としては欧米が減り、日本の周辺国への旅行が増えているようです。2001年のアメリカ同時多発テロ事件の影響や、2003年のイラク戦争等の影響もあり、海外におけるテロ行為のリスクがあらためて認識されるようになったことも減少に影響しているようです。

日本からの海外出国者数は、現在ではだいたい1400~1500万人くらいで、世界で13番目ほどの多さですが、人口比で見た海外出国率では決して多いほうではないようです。冒頭で述べたとおり中国が人気が高く、世代別でみてみると、40代男性が最も多く、30代男性、50代男性、20代女性がそれに続きます。

近年では男女とも60代の伸びが著しいのに対し、20代の若年層に限っては、2000年前後から減少傾向が続いているようで、若い人が海外へ行かなくなったのが気になります。20代男性は2000年代半ばを境に60代に抜かれ、90年代まで世代別のトップの旅行者数だった20代女性も3分の2未満に減少しています。

法務省の統計データによれば、日本人の海外旅行者数がピークだった2000年に20代の海外旅行者数は418万人でしたが、2010年は270万人にまで落ち込んでおり、現在に至るまで依然として低迷している状態です。

その原因はよくわかりませんが、最近の若い人は贅沢をしないようで、我々の世代のようにクルマを欲しがりませんし、海外旅行に対してもあまり興味がないようにみえます。しかし、おそらくは長引く不況によって正規雇用者より年収が低い非正規雇用者が増加するなど、収入面での影響があるに違いありません。

しかし、最近は格安航空会社(ローコストキャリア:LCC)が増えたことも反映して、格安パッケージも増えてきており、これは若者の間で人気です。往復の交通・宿泊込みで東アジアの都市2泊3日の旅行が、たった1万円台後半というのもあるそうで、若い人だけでなく壮年、高年層にも人気のようです。

東京~新大阪間の東海道新幹線の往復運賃(3万円程度)よりも安く、この値段ならば予算の乏しい学生なども海外旅行へ行けます。しかし、いざ旅立とうとすると、空港利用税だの旅券発給手数料だのを取られるため、全体費用が嵩む点は問題であり、できたばかりの観光庁は何をやっているのか、と思います。もう少しなんとか頑張って欲しいと思います。

とはいえ、海外旅行が夢また夢と言われた時代に比べれば、それこそ夢のような時代であり、若い人は社会経験を積むという意味でも、アルバイトをしてでもワーキングホリデーでもなんでもいいから海外へ行ってほしいと思います。

旅行費用が高いから、という理由以外に、外国語が苦手だから、国内旅行のほうが好きだから、という内向きな答えばかりが返ってくるのは、今の日本の若者には冒険心がなくなってしまったのではないかという気がして気がかりです。

「海外に行くことで日本の良いところ悪いところがわかる」とよくいいますが、実際に海外へ行くと、日本の常識が通用しないことがわかります。逆に日本では非常識なことがある国では当たり前のことだとされていることもあり、そうしたことを知ることで、自分がこれまで生きてきた世界の小ささを知り、逆に豊かさなども発見できるとも思うわけです。

とはいえ、今年こそは海外旅行をしたいと思っていた私の夢もどうやら今の段階では無理なようです。来年こそは、ここ十数年に変わってきた海外を見るためにも若返って、ぜひ飛躍をしたいと思います。みなさんもご一緒にいかがでしょうか。

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電脳エトセトラ

2015-0345

今日は、トーマス・エジソンが白熱電球を完成させた日だそうです。

日本産の竹の繊維を使ったフィラメントで熱電球を完成させ、1879年の今日、アメリカ・ニュージャージー州で初めて一般に公開しました。

が、エジソンの発明した電球は寿命が短すぎ実用に供するのは難しかったようです。その2年後の1881年、イギリスのジョゼフ・ウィルスン・スワンという物理学者が、このエジソンの電球を改良し、セルロース製フィラメントを用いて販売したものが実用化第一号といわれます。

しかし、スワンはその販売を独占せず、電球の発明者エジソンとともに1883 年、「エジソン & スワン連合電灯会社」を創設して、その普及に貢献しました。その後このフィラメントには、タングステンが使われるようになって飛躍的に寿命が延び、これによって、さらに白熱電球は世界中に広まりました。

ちなみに、エジソンが、白熱電球に使用した竹は、京都男山の石清水八幡宮にあったものだそうです。その境内には、現在彼の記念碑があります。また、嵐山の法輪寺にも記念碑がありますが、こちらはこの寺域内に、電気・電波・コンピュータの守護神として崇敬を集めている「電電宮」というお社があるためです。

がしかし、ご存知のとおり、現在では白熱電球はLED電球に取って代わられ、その存在は風前の灯です。

日本では既に大手メーカー各社が白熱電球の製造を中止しています。地球温暖化防止・環境保護として、白熱電球の生産・販売を終了し、蛍光灯やLED電球への切替を消費者やメーカーに促す動きは世界的に広がっており、早晩白熱電球は過去のものになるでしょう。

ただ、エジソンの発明したものは電球だけでなく、蓄音器、白熱電球、活動写真などなど数えきれないほどのものがあり、傑出した発明家として知られています。生涯におよそ1,300もの発明を行った人物であり、人々の生活を一変させるような重要な発明を数多く残したことで知られる立志伝中の人物です。

その中でも、最も大きな功績は、発電から送電までを含む「電力システム」の事業化に成功したこと、とよくいわれます。エジソンは世界有数の巨大企業「エジソン・ゼネラル・エレクトリック会社」の設立者でもあり、資産家のJ・Pモルガンから巨額の出資・援助をしてもらい、その指揮下で電力システムの開発・普及に努力しました。

しかし、発電から送電までを含む電力システムの事業化にあたっては、直流のほうが有利である、として送電方法について交流を推進するニコラ・テスラおよび彼を支援するウェスティングハウス・エレクトリック社と激しく対立しました。

その結果としては、テスラが勝利しましたが、その理由は、交流の利点は、変圧器を用いた電圧の変換が容易である事、送電において直流よりもより遠方に電気を送ることが可能であったことなどです。また直流が必須である電気器具を使用する場合も、交流から直流への変換は容易ですが、逆に直流から交流への変換は困難であることなどもその理由です。

エジソンはアメリカ生まれですが、このテスラはオーストリア生まれです。1884年にアメリカに渡り、エジソンの会社・エジソン電灯に採用されました。当時、直流電流による電力事業を展開していた社内にあって、テスラは交流電流による電力事業を提案。これによりエジソンと対立し、1年ほどで職を失いました。

1887年、独立したテスラは、「テスラ電灯社」を設立し、独自に交流電流による電力事業を推進。同年に交流電源に関する特許を得ます。この特許を使用した交流発電機はウェスティングハウス・エレクトリック社の技師、ベンジャミン・G・ランムの設計によってナイアガラの滝のエドワード・ディーン・アダムズ発電所に世界で初めて取り付けられました。

この発電機は、「テスラタービン」と呼ばれ、その性能の高さと安定した電力の供給能力は高く評価され、その後またたくまに世界中で使われるようになりました。現在においても、送配電システムは交流がおおよそ主流となっているのは、このテスラの功績によるところが大きいようです。

テスラは、1915年、エジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となりましたが、共に受賞できませんでした。双方が同時受賞を嫌ったためとも言われています。2人は生涯に渡って仲が悪く、直流か交流か、といった論争による「電流戦争」はそれほどまでに深いいしこりを残しました。

その後、テスラは1930年代にも受賞候補に選ばれましたが、やはり受賞できませんでした。しかし、1916年、米国電気工学協会エジソン勲章の授与対象になり一度は断るものの、再考して1917年にこれを受けました。

考え直した理由はよくわかりませんが、二人ともこのころにはかなり高齢になっており、そろそろ許し合おうか、という気分にもなっていたと考えられます。またこの受賞の3年前にエジソンは自前の研究所を火事で全焼し約200万ドルの損害を蒙っており、それに対する同情めいた気持ちなどがあったのかもしれません。

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エジソンは、1931年に84歳で死去。また、対するテスラは、その12年後の1943年に83歳で亡くなりました。2人は生涯いがみ合っていましたが、エジソンが典型的な実験科学者であったのに対して、テスラは理論科学者であったことから、その研究手法は水と油ほどの違いがあり、そうしたことが不仲の原因ではなかったか、とはよくいわれることです。

死後、エジソンの名は、「エジソン・ゼネラル・エレクトリック会社」に残されましたが、同社はその後「エジソン」の名をとりさって、現在は「ゼネラル・エレクトリック社」になっています。従って、エジソンの直系の会社で彼の名を冠している会社はありません。

しかし、アメリカ国内の電力・配電会社の社名でエジソンの名前を冠しているところは少なくなく、コンソリデイテッド・エジソン(ニューヨーク)、サザンカルフォルニア・エジソン(ロサンゼルス)、コモンウエルズ・エジソン(シカゴ)などが挙げられます。

対するテスラの直系の会社もありません。ただ、彼は旧オーストリア帝国の出身であり、これは現在のクロアチア西部、セルビアにあたることから、セルビアの首都、ベオグラードにある国際空港は、彼の名にちなみ、ベオグラード・ニコラ・テスラ空港と呼ばれています。

また、アメリカには、彼の名前を冠した「テスラ・モーターズ」という自動車会社があります。シリコンバレーのパロアルトを拠点に、バッテリー式電気自動車と電気自動車関連商品を開発・製造・販売している会社であり、昨今急速に拡大している会社です。

社名は無論、ニコラ・テスラにちなむものであり、製造しているクルマの発動機は、「三相交流誘導電動機」といい交流電力を利用したものであり、同じく交流誘導電動機や多相交流の送電システムを考案・設計したテスラにあやかってのことのようです。

創業者の、イーロン・マスクは、南アフリカ共和国・プレトリア出身のアメリカの起業家であり、現在では同社から離れ、NASAからも宇宙船の設計開発を委託されるほどのアメリカ屈指の有力企業に成長した「スペースX社」の共同設立者およびCEOです。

電子メールアカウントとインターネットを利用した決済サービスを提供するPayPal社の前身であるX.com社を1999年に設立した人物でもあります。絵に描いたような「アメリカン・ドリーム」を体現した人ですが、元々はアメリカ人ではなく、南アフリカ人の技術者の父親とカナダ人の母親との間に南アフリカで生まれました。

10歳のときにコンピュータを買い、プログラミングを独学したといい、12歳のときに最初の商業ソフトウェアであるBlasterを販売しています。17歳のとき、親の援助なしに家から独立し、南アフリカでの徴兵を拒否してアメリカへ移住を決意しました。

母親はカナダの生まれであったため、当初はカナダに移住し、カナダ中南部のサスカチュワン州の小麦農場で働き、穀物貯蔵所の清掃をしたり野菜畑で働いたり、製材所でのボイラーの清掃やチェーンソーで丸木を切る仕事などもしていました。トロントへ引っ越して、クイーンズ大学を入学後、米ペンシルベニア大学から奨学金を受け、同校で学位を取得。

高エネルギー物理学を学ぶためスタンフォード大学の大学院へ進みましたが、2日在籍しただけで退学し、弟とともに、オンラインコンテンツ出版ソフトを提供するZip2社を起業。この会社はのちに大手コンピュータメーカー、コンパック社に買収され、マスクは3億700万USドルの現金と、ストックオプションで3400万ドルを手にいれました。

ストックオプションとは、所属する会社から自社株式を購入できる権利で、株価が上がれば上がるほど利益も大きくなるため、アメリカでは業績に貢献した役員らのボーナス(賞与)としてよく利用されるシステムです。

この成功により、PayPal社やテスラモーター社を育てあげましたが、現在ではスペースX社における宇宙開発のほか、太陽光発電会社「ソーラーシティ社」なども立ち上げ、同社の会長に就任しています。2013年には時速約800マイル(約1287キロ)の輸送機関ハイパーループ構想を明らかにしました。

これは、100pa程度に減圧された「チューブ」の中を空中浮上(非接触)させた列車を走らせるというもので、車両前面からチューブ内のエアを搭載したファンで吸い込み、底面から圧縮排出して車体を浮上させます。

区間はロサンゼルスとサンフランシスコ間(全長610km)での施行を予定しており、これを最高時速1,220kmの速度で30分で結ぶ計画です。建設には、20年以上かかると見積もられており、全体建設費用は75億ドル(9,000億円)を見込むといい、車体の開発費も含めると合計で10億ドル(120億円)に上ると予想されています。

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そんなもの本当に実現するんかいな、と懐疑的になってしまいますが、日本だって夢の夢といわれたリニアモーターカーを実現しようとしており、可能性がないわけではないでしょう。彼が立ち上げた、テスラ・モーターズ社のクルマを見れば、それもあるのかな、とつい思ってしまいます。

日本ではまだ馴染のないこの会社の販売している車は、アメリカでは高い評価を得ています。最新型の「モデルS」は、セダンタイプの電気自動車であり、テスラ・ロードスターに続いて同社としては2車種目で、そのパワートレインには、新規開発された9インチの液冷式モーターを採用しています。

最高航続距離は最高300マイル(約483km)を誇り、充電可能な電圧は110V、220V、440Vに対応。220Vなら4時間、440Vなら最短45分で充電可能とされています。

最高速度は200km/hといわれますが、これは安全のため制限されている速度です。また、0~100km/hの加速は4秒を切るそうで、この性能は30万ドルのスーパーカーにも劣らない驚異的な加速性能だといいます。

年費もトヨタ・プリウスのおよそ2倍で、370km走っても電気代が500円程度で済むといい、その後さらに、モデルXというクロスオーバーSUVタイプの電気自動車も発売を予定しているといいます。

電気自動車(EV)は、ガソリン車やハイブリッド車に比べても必要なメンテナンスは極めて少なく、オイル交換は不要です。またブレーキのメンテナンス等も電気制動によるブレーキングシステムのために少なく済みます。ミッションオイル、ブレーキフルード、および冷却水の交換も不要であるため、水素自動車に次ぐエコカーとして日本でも注目されています。

トヨタ自動車は、2010年にまだイーロン・マスクがCEOだったときにカリフォルニア州で記者会見を行い、EVそのものや部品の開発も含めての業務・資本提携にテスラ社と合意したと発表しています。

同年には、テスラ東京青山ショールームがオープンしており、この時に合わせ、ロサンゼルス郊外の港で日本向け車両12台が報道関係者に公開されました。それに伴い日本語版ウェブサイトも開発され、ロードスターの予約が開始されたといい、初出荷分は売約済みで、価格は1,810万円だったそうです。

最新型のモデルSの推定価格は60,000米ドルとされており、これは現在のレートでは700万円強であり、かなりお求めやすくなっています。新車を購入のご予定の方、検討されてはいかがでしょうか。

さて、余談がすぎましたが、このテスラ・モーターズの名前の由来となった、ニコラ・テスラは、その晩年には霊界との通信装置の開発に乗り出すなど、かなりオカルト色い研究を行っていたようです。このことは、変人といわれたテスラの名を一層胡散臭いものとして響かせる原因ともなっており、彼への正当な評価を余計に難しくさせています。

もっとも、晩年の研究においてオカルト色が強まったのはエジソンも同様であり、エジソンもまた、超自然的、オカルト的なものに魅せられていたといい、来世を信じていたといいます。降霊術を信じていて、近代神智学を創唱した人物として知られる、ブラヴァツキー夫人の開く神智学会に出席したこともあります。

神智学というのは、通常の人間的な認識能力を超えた神秘体験や神秘的直観、神もしくは天使の啓示によって、神を体験・認識しようとするもので、現在スピリチュアリズの源流とされているものです。

仲の悪かったエジソンもテスラは、まるで示し合わせたように、その晩年に死者と交信する電信装置(Spirit Phone) を研究しており、こうした研究から人々からかなり変人扱いされました。

ただ、テスラもエジソンも、社会とうまくやっていく能力にほんの少々欠けていただけであり、自分が不思議と思うことに対する純粋な探究心からこうしたオカルト的な研究に没頭していたとも考えられます。

研究テーマが風変わりであるだけに、世間からは色眼鏡で見られることも多かったものの、彼等は真剣そのものでした。とくにエジソンは、「人間の魂もエネルギーである」と考え、「宇宙のエネルギーの一部である」と考えていました。

「エネルギーは不変なので、魂というエネルギーは人間の死後も存在し、このエネルギーの蓄積こそが記憶なのだ」と考えており、エジソンの言によれば、自分の頭で発明をしたのではなく、自分自身は自然界のメッセージの受信機で、「宇宙という大きな存在からメッセージを受け取ってそれを記録することで発明としていたに過ぎない」のだといいます。

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また、エジソンは合理主義者を自負しており、1920年代を通じて常に「自由思想家協会」という組織を支持していました。「自由思想家」というのは、教会や聖書の権威にとらわれず、理性的見地から神を考察することを信条としている人々で、一般には、権威や教条に拘束されず自由に考える思想家のことをさします。

こうした概念や考え方は近年では「セレンディピティ」と表現されることもあります。これは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することであり、また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけることです。平たく言うと、「ふとした偶然をきっかけに幸運をつかみ取ること」でもあります。

「serendipity」という言葉は、イギリスの政治家にして小説家であるホレス・ウォルポールが1754年に生み出した造語であり、彼が子供のときに読んだ「セレンディップの3人の王子(The Three Princes of Serendip)」という童話にちなんだものだそうです。

セレンディップとは現在のスリランカのことであり、このためこれは「スリランカの3人の王子」という意味になります。ウォルポールがこの言葉を初めて用いたのは、友人に宛てた書簡においてであり、この手紙のなかで、自分がみつけたほんのちょっとした発見について説明しています。その書簡の原文も残っているといいます。

その中には、彼が生み出した「セレンディピティ」という言葉に関する説明もあり、「セレンディップの3人の王子」という童話の中に登場する王子たちが、旅の途中、いつも意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見する、といったことを綴っています。

たとえば、王子の一人は、自分が進んでいる道を少し前に片目のロバが歩いていたことを発見します。なぜ分かったかというと、道の左側の草だけが食べられていたためであり、現象を注意深く観察していれば、予想外の発見ができる、それが「セレンディピティ」だというわけです。

日本語では、この「セレンディピティ」を「偶察力」などと訳される場合もあるようですが、確固とした訳語は定まってはいないようです。統合失調症の治療法の第一人者である、神戸大学名誉教授の中井久夫さんという精神科医は、これを「徴候的知」と呼びました。

「微候」というのは、物事の起こる前触れ、きざし、るし、気配のことで、「インフレの微候がみられる」という風に使います。類義語に「前兆」がありますが、「前兆」はある出来事が起こる以前にその出現を知らせるもので、これに対して「徴候」または「兆候」はある出来事が起こりかけているという気配をいいます。

ほんのちょっとのしるしで、何かを知ることができる能力というわけですが、セレンディピティは、失敗してもそこから見落としせずに学び取ることができれば成功に結びつくという、一種のサクセスストーリー的なエピソードとして語られることが多いようです。

また科学的な大発見をより身近なものとして説明するためのエピソードの一つとして語られることが多いようです。ワクチンによる予防接種を開発し、狂犬病ワクチンなどを生み出したフランスの生化学者、ルイ・パスツールによれば、「構えのある心」(the prepared mind)がセレンディピティのポイントなのだといい、次のような言葉を残しています。

「観察の領域において、偶然は構えのある心にしか恵まれない」

セレンディピティが見出せる代表例としては、アルフレッド・ノーベルによる、ダイナマイトの発明(1866年・ニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませて安全化することを偶然発見)、ヴィルヘルム・レントゲンによる、X線の発見(1895年・電磁波の研究から偶然発見)、キュリー夫妻による、ラジウムの発見(1898年X線の研究から偶然発見)などがあります。

また、アレクサンダー・フレミングによる、リゾチームとペニシリンの発見(1922年と1928年)は、フレミングが培養実験の際に誤って、雑菌であるアオカビを混入させたことが、のちに世界中の人々を感染症から救うことになる抗生物質発見のきっかけになりました。

カーボンナノチューブを開発した、日本の飯島澄男(当時NEC筑波研究所研究員、名城大学終身教授)も、フラーレンという特殊素材を作っている際に、偶然カーボンナノチューブを発見しました。

この発見は、と同時にこの研究のために開発していたTEM(透過電子顕微鏡)の発達を加速させ、これにより電子顕微鏡の技術開発においても日本は世界にリードするほどの高度な技術を得るところとなりました。

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このセレンディピティによく似た意味のことばに、シンクロニシティ(synchronicity)というのもあります。「意味のある偶然の一致」のことで、日本語訳では「共時性(きょうじせい)」「同時性」「同時発生」とも言います。

これは、たとえば、同時発生的に離れた場所で起きた二つの事象が、そのときには何も関係がないと思っていたにもかかわらず、後になって客観的に考えてみると、シンクロ的に起きたのだと確信できるようになる、といったことです。

例えば、会いたいと思っていた人にバッタリと出会う、とか、タクシーをさがしていると、目の前で客が降りる、といったことであり、あとで考えてみると、どう考えても偶然ではなかったと思えたりするわけです。また、買おうと思っていたものを突然プレゼントされる、といったこともシンクロニシティです。

心理学者のユングもこうした事象は、「偶然」によって起きているのではなく、何等かの理由があり、必然的に同時に起こった(co-inciding)ものとみなせる、ということを書いています。

スピリチュアル的にも、何かのサインや呼び寄せた偶然、いわゆる「虫の知らせ」だということもあります。第六感(sixth sense)である、ともいわれ、これは五感以外のもので五感を超えるものを指しており、理屈では説明しがたい、鋭くものごとの本質をつかむ心の働きのことです。

自身や家族等の生命に危険が迫った際に「虫の知らせが起きた」と認識されたり、電話がかかってくる前に予知したり、その電話が誰から掛かって来るかを予知したという主張がなされる場合があります。数百キロ離れた水場に向かって迷わず移動するある種の動物は、人間より遥かに優れた嗅覚で水の匂いを嗅ぎ当てているとされます。

また、人間においての「嫌な予感」というものは、人間に備わっている野性的な本能からきているといわれ、機械の部品の変形による微かな摩擦音やコンロのガスの臭いが若干違うなど「いつもと違う」ということを無意識のうちに感じ取っている、とされます。

チェルノブイリ原発の爆発事故では、この事故の2日前から、一部の作業員が「何か落ち着かないと自覚していた」と、その後のインタビューに答えています。

こうした能力はまた、予知能力だともいわれます。時系列的にみて、その時点では発生していない事柄について予め知ることであり、経験則や情報による確定的な予測と異なり、超能力や啓示などの超越的感覚によるものを指すことが多いものです。

現代科学においては、こうした超越的感覚をなんとか実現できないか、といった試みも行われるようになっています。例えば、地震予知や火山噴火の予知であり、このほか、事故の発生の確率の危険予知、設備等の不全の事前予知保全などがあります。

そのために開発されているのが、人工知能(artificial intelligence、AI)であり、人工的にコンピュータ上などで人間と同様の知能を実現させようという試みです。

日本だけでなく、いまや世界中で無人戦闘機や、無人自動車ロボットカーの開発をしています。がしかし、いまだに完全な自動化には至っていません。ロボット向け人工知能も研究も進んでいますが、環境から学習する従来型の行動型システムから脱却しておらず、「我思う、故に我あり」といった人工知能が開発されるのはまだまだ先とみなされています。

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しかし、2045年には人工知能が知識・知能の点で人間を超越し、科学技術の進歩を担う技術的特異点(シンギュラリティ)が訪れるとする向きもあり、早くも「2045年問題」を唱える学者もいます。技術的特異点とは、科学技術が十分意発達し、この時点で人類を支配するのは人工知能やポストヒューマンである、という時期です。

この時点ではこれまでの人類の傾向に基づいた人類技術の進歩予測は通用しなくなると考えられており、こうした未来においては十分に複雑なコンピュータネットワークが群知能を作り出すかもしれません。将来にわたって改良された計算資源によってAI研究者が知性を持つのに十分な大きさのニューラルネットワークを作成している可能性もあります。

こうした巨大ネットワークを別名、巨大知(Organic Intelligence)といい、人類が技術的特異点に達するころにはこれも実現しているのではないかといわれます。

これは、環境を観測するセンサーや各種コンテンツ配信システムがインターネットへ接続され、地球全体で情報が統合処理される結果として成立する地球規模の知性です。端的には、地球全体を覆うコラボレーション関係の成立とも説明できます。

楽天技術研究所が2007年に提唱を開始した「サード・リアリティ」という概念を説明する文章の中では、都市や国家単位の規模で成立する集合知同士がインターネットで相互接続され、統合して処理が行えるようになる結果として、地球全体として成立しつつある知性として、この巨大知が説明されています。

それによれば、環境を観測するセンサーや各種コンテンツ配信システムのインターネットへの接続により、産業、医療、気象、交通、農業、芸術作品等の様々な情報がインターネット上に蓄積され、不特定多数の人間により改変が行われることで、人類が得た多様な知識が地球全体で統合処理されるようになります。

その結果として、地球全体を覆う程に巨大かつ高度な知性が成立します。そしてこの巨大知の成立の結果として、従来は思いつきもしなかったような新しい発想が生まれやすくなり、文明の進歩も大幅に加速されることになります。

現時点においても、2010年以降は、急激に向上した計算機の性能を活かし、インターネット上に蓄積されたビッグデータの解析により様々な知識の抽出を行うことが一般化しました。その知識を利用して、学術研究やビジネスを行うことが可能になり、例えば、Twitterのビッグデータのトレンドがテレビ番組で頻繁に紹介されるようになりました。

東北大震災では、この災害時にスマホでツイッターで情報を上げた人の動向を分析した研究者がおり、その結果、被災直後に津波が来ることを予想して、多くの人が家族の安否を気遣って自宅に戻ろうとしていた、といったことが彼等が使用したスマホのGPS分析などからわかっています。

このようにビッグデータを巨大知の卵と考え、これを逆に利用して人工知能を開発しようとする研究も盛んに行われるようになっており、「ビックデータ」ということば自体の成立から10年ほどが経過した2015年以降も、インターネット上への知識の蓄積と通信速度の向上に伴い、巨大知の更なる高度化が進行していると考えられます。

2010年代中盤においてはさらに、IoTの普及が進行しているといわれます。IoTとは、モノのインターネット(Internet of Things、IoT)のことで、一般的には、識別可能な「もの」がインターネット/クラウドに接続され、情報交換することにより機器相互が制御しあう、あるいは情報が流通する仕組みです。

わかりにくい概念ですが、数多くの情報が含まれているスマートフォンや、ID情報を埋め込んだタグのように、IPアドレスを持った機器からはそこに格納されている「コンテンツ」をインターネットを使って自由に売り買いできる時代になっています。これをIT業界では「サービスのモノ化が進んでいる」と表現しており、これがIoTです。

近年では、ものすごく膨大な量の情報をゴマ粒のような小さなワンチップのIC (集積回路)に集約してIoTを実現できるようになりつつあり、インターネットを対象とする研究者らは、こうしたICタグと種々のセンサーを合体させ、これによって収集された実世界に関する精緻な情報をインターネット上で統合処理できるようになると予測しています。

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動物や人間などのレベルだけでなく、細菌レベルでもこうした情報が収集できるようになると考えられており、そうした精緻な情報を世界的に集合させることによって、「集団的知性(Collective Intelligence、CI)」と呼ばれるようなものまで、仮想現実の中で模倣できるようになるのではないか、とまでいわれています。

集団的知性の好例は政党です。政治的方針を形成するために多数の人々を集め、候補者を選別し、選挙活動に資金提供しますが、その根本とは、「法律」や「顧客」による制限がなくても任意の状況に適切に対応する能力を有することです。

政党というのは、一つのポリシーを持つ人々を集めた集団であり、自分たちの目的によっては勝手に法律を作り変えることができるわけであり、その目的いかんによっては非常に単純な思考集団とみなせなくもありません。先日、戦争法の通過を許した、アジアのどこかの国の第一党与党も、その傾向にあります。

そう考えれば、軍隊、労働組合、企業も、政党と同じように特定の目的に特化した組織であり、集団的知性の本質の一部を備えているといわれます。

これを模倣した人工的に作られた集団知性は、それ自体に知能、精神が存在するかのように見える「知性体」でもあり、将来的には、政党や軍隊、企業が持っているのと同等の「コミュニティ能力」をも持っているものになる可能性もある、というわけです。

だんだんと、SF的になってきたのでもうやめますが、一方では、哲学・思想的な側面から、こうした人工的な集合知を実現させることは許されない、とする立場の学者も当然います。

それはそうです。そうした人工知能によって政治やら軍隊が動かされるような時代になったとすれば、各個人の思考・行動においては、自己の裁量が介入する余地が殆ど無くなっている可能性があるわけです。

すべてコンピュータがやってくれる、という世界では、人間の行動パターンの変化が無くなり、環境変化への柔軟性が損なわれてしまう可能性もあり、将来的にやってくるかもしれない氷河期には人類は滅亡しており、後の世界は機械が支配していた、なんてこともあるわけです。

機械に支配された将来の人類、というパターンのSF映画が数多くつくられていますが、巨大知、集団知が実現した世界では、人類は自分では何も考えない、考えられないような生物になっている可能性もあるわけであり、科学の発達がすべて正しい、と考えるのは早計なようです。

さて、今日は話題もりだくさんで、しかも最後のほう、結構お堅い内容になりましたが、ご理解いただけたでしょうか。

今晩は、オリオン座流星群がピークだそうです。これを読んで疲れた方は、夜半、東の空を眺めて、気を取り直してください。

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ことたま

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今日は「バーゲンの日」だそうです。

1895年(明治28年)、現在も東京駅にある「大丸」こと、当時の「大丸呉服店」が冬物の大売出しを開催し、日本初のバーゲンを行ったことに由来しています。

大丸のことをご存知の方も多いでしょう。近畿発祥の老舗百貨店で、大阪では心斎橋・梅田にあり、このほか京都・神戸・東京・札幌などにあるのが主力店舗です。これら6店舗だけで単体の91%の売り上げを占めているといいます。

現在では、松坂屋、パルコなども併合し、「J.フロント リテイリング」というグループ会社になっています。上記以外にもあちこちに店舗を有し、従業員は3000人を超す大会社です。

創業者の「下村彦右衛門正啓(まさひろ)」は、1688年(元禄元年)京都伏見の生まれです。父・下村三郎兵衛兼誠(かねなり)は摂津国茨木の武将・中川氏の家臣の子孫で、大坂の陣後、商人になりました。正啓はその第五子であり、三男でしたが、上の兄が早逝したため後継ぎとなり、19歳の時に行商を始めました。

1717年(享保2年)、29歳のとき、生まれた伏見の京町に呉服店「大文字屋」を開業し、呉服業をスタートさせました。その後両替商なども兼営するようになり、38歳で大坂心斎橋筋に進出。その2年後の1728年(享保13年)に名古屋本町に名古屋店を開き、これをはじめて「大丸屋」と称しました。

しかし、京都で創業した当時の「大文字屋」の名は残し、大阪ほか各地に建てた大丸支店の総本店としました。1736年(元文元年)に、全店の「理念」を示しており、これは、「先義後利」というもので、その意味は、「義を先にして利を後にする者は栄える」というものです。

「義」とは商売における正しい道」「公共のために尽くす気持ち」を意味し、「顧客第一主義に徹すれば、利益は自ずからついてくる」という考え方です。

以後、店の者にはこの理念を徹底させるとともに、下村自身も毎年冬になると施餓鬼(せがき)として貧しい人に食べもの、古着やお金を施しました。また、人の集まる寺社に大丸マークつきの灯籠や、手ぬぐいを大量に寄付する等ボランティア活動で利益を社会還元していました。

このため、1837年(天保8年)に起こった百姓一揆、大塩平八郎の乱では、利を優先させた富豪や大商人はことごとく焼き討ちにあっていたのに対し、「大丸は義商なり、犯すなかれ」と大塩が部下に命じたため、焼き討ちを免れたと伝えられています。

この精神は、資本金200億円、売上高4700億円にものぼる大々会社に成長した現在も大丸の企業理念として継承されているといいます。

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創業時の「大文字屋」の名は、京都五山の送り火の「大文字」にちなんで付けられました。名古屋進出にあたって、「丸」の中に「大」の字をあしらった商標を使い始め、広く一般に「大丸」と呼ばれるようになりました。

「丸」は宇宙を表し、「大」の文字は「一」と「人」を組み合わせて成り立っていることから、 「天下一の商人になろう」という志を示したものだそうです。

その後江戸にも進出しましたが、この際には、このマークを染め抜いた萌黄地の風呂敷を大量につくり、商品を包んで運びました。その風呂敷が派手で非常に目立つものだったため、江戸っ子の間で話題となり、開店前から多くの人に認知されるようになっていました。

このため、風呂敷自体、江戸時代前期には銭湯に行く時にすら使われていなかったのにもかかわらず、江戸中で大流行することになりました。

大丸屋江戸店でのこの風呂敷の売上は1750年(寛延3年)には14,500枚でしたが、1828年(文政11年)には60,670枚と4倍に増加。商人ばかりでなく、一般庶民が品物を運ぶ際に使う当たり前の道具として定着することになりました。かくして、大丸屋は、越後屋(現三越)、白木屋(現東急百貨店)と並ぶ江戸三大呉服店と称されるまでになりました。

明治末期には、不況で屋台骨が傾いたこともがありました。しかし、このころの下村家当主が早稲田大学出身であった縁から、大隈重信の斡旋を受け、実業家として敏腕を振るっていた日本生命の社長、片岡直温が改革に乗り出し、店を再興しました。

1913年(大正2年)には、類似商標と区別するため、おめでたい「七五三」にちなんで、「大丸」の「大」の字のうち、「一」の左端に3本、「人」の字の下端左に5本、右に7本のひげをつける改定を行い登録。このロゴは、その後70年に渡って親しまれました。

その後も1914年(大正3年)には大阪店が不渡りの手形を出して京阪二店が休業するなど、呉服店から百貨店への転換過程では問題が続発しましたが、幾度もの困難を乗り越え、1928年(昭和3年)、「大丸」と改称してその近代化に成功しました。

高度成長期には三越と並び「西の横綱」といわれましたが、バブル崩壊後業績は低迷。トヨタ自動車社長・会長、日本経団連会長を歴任した奥田務が社長就任後、他の百貨店よりも一足早く1998年より事業構造改革に乗り出し、国内不採算店舗の閉鎖や海外店舗の全面撤退、人員削減に取り組みました。

結果として改革は成功し、収益力を業界首位級に押し上げました。2007年(平成19年)には松坂屋と経営統合し、持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」を設立。2010年 (平成22年)には「株式会社大丸松坂屋百貨店」が設立され、フロントリテインイングの完全子会社になりました。

同社は、同グループの旗艦であり、百貨店事業を担いますが、フロントリテイニングは多角経営企業体であり、ほかにも割賦・信用事業、通信販売、不動産事業なども扱っています。2012年には、 森トラストが保有する「パルコ」の全株式を取得し、ファッションビル事業にも乗り出しています。

なお、大正から昭和に親しまれた大丸のマークは1983年に廃止され、シンボルマークは「孔雀(ピーコック)」をデザイン化したものに変更され、現在に至っています。

但し、正式な社章は現在も「七五三ひげの大丸」で、呉服の包装・一部店舗(心斎橋店・南館屋上や下関大丸など)の外装にも残されているほか、2010年に大丸松坂屋百貨店が発足したあとは、各店の正面入り口脇の店名の銘板の表示が、「丸に大」のマークと、「大丸 創業1717年」と記されるようになりました。

ちなみに、それ以前の銘板は上部に「丸に大」のマークが孔雀の羽で縁取られ、その下に「株式会社大丸 The Daimaru,Inc.」と記されていました。

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創業者の下村彦右衛門正啓は、1748年(寛延元年)に60歳で亡くなっています。背が低く、頭が大きく、耳たぶが垂れ下がるという風貌で、人情に厚く、商売を成功させたことから、「福助人形」のモデルではないか、といわれてきました。

この福助人形をご存知の方も多いでしょう。幸福を招くとされる縁起人形で、大きな頭とちょんまげを結った男が正座している像です。しかし、実は下村がモデルではなく、元々は、文化元年頃から江戸で流行した福の神の人形、「叶福助(かなえふくすけ)」が形を変えたものといわれています。

願いを叶えるとして茶屋や遊女屋などで祀られたもので、当時の浮世絵にも叶福助の有掛絵が描かれ、そこには「ふ」のつく縁起物と共に「睦まじう夫婦仲よく見る品は不老富貴に叶う福助」と書かれています。

この叶福助人形には、モデルとなった人物がおり、享和2年8月に長寿で死去した摂津国西成郡安部里の「佐太郎」という男であるといわれています。従って、現在の福助人形のモデルもこの人物といってもいいかもしれません。

もともと身長2尺足らずの大頭の身体障害者であり、大頭だった原因は、現在でいうところの、水頭症ではなかったかといわれています。

脳の脊髄液の生産が異常を来たし、髄液が頭蓋骨の内側に貯まる病気で、先天性のものや感染症によるものがあります。佐太郎もこの病気にかかっていたとされますが、長生きだったことから先天性のものだったのでしょう。

子供のころ、近所の笑いものになることを憂い、他行をこころざして東海道を下る途中、小田原で香具師(やし)に見いだされました。香具師とは、軽業・曲芸・曲独楽などの神楽をして客寄せをする商売にのことで、後の世では露店で興行・物売り・場所の割り振りなどをする、いわゆる的屋(てきや)とよばれる商売人です。

一般には賤民(人別帳に記載のない人物、無宿人)であり、いわゆるヤクザに近い者たちでしたが、とまれ、この香具師に発掘されたことから佐太郎の人生は一変します。小田原の城下で見世物になることで生活の途を得た彼は、やがて人通りの多い鎌倉鶴岡八幡宮のある雪乃下でも見せ物に出るようになります。

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この見世物の評判は鎌倉でも非常に高く、その後さらに江戸にも進出するところとなり、両国でも大人気となったあげく、江戸中から人々がこの見世物を見にやってくるようになりました。

「不具の佐太郎」と呼ばれたことから、これをもじって「不具助」と呼ばれるようになり、さらに、いっそのこと「福助」にしたらどうかという香具師の助言に従って改名したところ、観客にも名前が福々しくて縁起がよいとますます見物は盛況となりました。

そうしたところ、見物人のなかに裕福な旗本某の子がいて、両親に遊び相手に福助が欲しいをとせがみました。そこで旗本某は福助を金30両で香具師から譲り受け、召し抱えることにしました。

それからというもの、この旗本の家は幸運続きだったといい、このため福助はおおいに寵愛され、旗本の世話で女中の「りさ」と結婚させてもらい、独立しました。そして芝増上寺の門前町、永井町で「深草焼」で人形を作り売り出しました。京都伏見の北東に位置する「深草」の地に由来する陶器で、その人形とは頭の大きい自分の容姿を模したものでした。

この人形は福助の生前にもかなり売れたようで、福助はその収入によって豊かになり、そのおかげで長寿を全うできたのでしょう。死後もこの人形はバカ売れに売れ、幕末の文化年間(1804~1818年)のころにかなりのマイナーチェンジを加えられて発売されたのが「叶福助」です。

その後も少しずつ形を変え、いわゆる「縁起物」として珍重され、だるまや、熊手、羽子板などとも肩を並べるようになり、江戸期の庶民に愛されるようになりました。

縁起五穀豊穣、大漁追福、商売繁盛、家内安全、無病息災、安寧長寿、夫婦円満、子孫繁栄、厄除祈念などなどに効力があるとされ、現在においてもおよそ「ハレ」にまつわる行事ではよくこの福助人形が飾られます。

また、祭礼や縁日や市などの寺社の参道や境内や門前町・鳥居前町などにおいて参詣者に販売されています。最近は招き猫のほうが多いように思いますが、レトロなところがいい、という人もいて根強い人気があります。あなたのお宅にもあるのではないでしょうか。

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ところで、この「縁起物」の「縁起」とは何かといえば、これはそもそも仏教用語であり、仏教の根幹をなす発想の一つです。「原因に縁って結果が起きる」という因果論を指すものですが、これが転じて一般的には、良いこと、悪いことの起こるきざし・前兆の意味で用いられるようになりました。

「縁起を担ぐ」、「縁起が良い」、「縁起が悪い」などとよくいいますが、「験を担ぐ(げんをかつぐ)」ともいいます。縁起を気にする事であり、ある物事に対して、以前に良い結果が出た行為を繰り返し行うことで吉兆をおしはかることです。また、良い前兆であるとか悪い前兆であるとかを気にすることでもあります。

本来は「縁起を担ぐ」でしたが、江戸時代に流行った逆さ言葉で縁起を「ぎえん」と言うようになり、それが徐々に「げん」に変化したとする説が一般的です。また「験」には「仏教の修行を積んだ効果」や「効き目」などの意味があるそうです。

験担ぎに何をするかは人それぞれです。しかし、他人から見れば何の効果もなさそうに思える行為でも、当人が「これは験担ぎだ」と思って行っている行為ならばそれは験担ぎであるといえます。

ただ一般的に多いのが、塩を盛るとか、お茶を飲まない、といったことであり、このほか爪を切らない、というのがあります。親の死に目に会えなくなるから、とはよくいわれることですが、本来は爪を切らないでおくと運気が上がる、と言われたことに由来します。理由はよくわかりませんが、鷹などのおめでたい動物に由来があるのでしょう。

受験生に「すべる」や「落ちる」などの、受験に失敗することを連想させるような言葉を使わない、という験担ぎもあります。このほか、試験に関しては、「カツ丼を食べる(試験に勝つ)」、「五角形の鉛筆を使う(ゴカク→合格)」といった語呂合わせのものがあります。

このほか、ヒゲを剃らないとか、ラッキーなことがあったときに身に着けていたものを、ここぞという勝負事あがるときには身に付けていくとか、お守りを持って家を出る、といったことを験担ぎとして常用している人も多いでしょう。

英語ではジンクス、ということばがありますが、こちらはどちらかといえば悪い方の意味で使われることが多く、縁起の悪い言い伝えに基づいています。欧米ではイエス・キリストの最後の晩餐に出席した人数が13人であったことから「13」を不吉な番号しますし、として、また「666」を悪魔の番号であるとして使用を控えることがあります。

日本でも、4は不吉な数字であり、これは「死」を連想するからで、9は「苦」に通じるといわれます。また、スポーツでも、2年目のジンクスというのがあり、1年目に活躍した選手は2年目に活躍できない、など、否定的に使われることが多いものです。

験担ぎのほうも、悪い予兆を否定するために使われることあるものの、どちらかといえば良い予兆を招くために使われることが多いようです。誰にでもひとつやふたつはあるものですが、私の場合は、寝る時に北を向いて寝る、という験を担ぎます。

いわゆる「北枕」というヤツであり、仏教の祖である釈迦が入滅の際、北の方角へ頭を置いて横になった故事に基づいており、日本では人が死ぬと頭を北へ向けて寝せます。

しかし、北枕は、心臓への負担を和らげるため体にいいとされる考えがあり、風水では頭寒足熱の理にかなった「運気の上がる寝方」とされています。またこの「頭寒足熱」説以外に「地球の磁力線に身体が沿っていることによって血行が促される」とする説も存在します。なので、あなたも今日から北枕で寝てみてください。

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この験担ぎのために「言霊」を発する、というのも古来からの日本の風習です。日本では昔から声に出した言葉には霊的な力が宿ると信じられていたため、良い言葉を口にすれば良い事が、悪い言葉を口にすれば悪い事が起こると言われています。

「言魂」とも書き、発音は、「ことだま」でも「ことたま」でもいいようですが、森羅万象がすべてことばによって成り立っているとされる「言霊学」という学問が、江戸時代までにはあったそうです。

声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされ、そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意されました。現在でも「忌み言葉」というのがあり、結婚式などのおめでたい行事には禁句とされます。

これも、言霊学に基づく、「言霊思想」によるものだといい、古くは万葉集にも日本のことを指して「言霊の幸ふ国」と言う、という文々が出てきます。歌人の柿本人麻呂や山上憶良の歌にも出てくるそうで、古代においては「言」と「事」が同一の概念だったといいます。

中国から漢字が導入された当初も、言と事は区別せずに用いられており、例えば、日本神話に登場する神さま、事代主神(ことしろぬし)は、「古事記」では「言代主神」と書かれています。

こうした古い時代には、自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられていました。

たとえば「古事記」においては、ヤマトタケルの命(倭建命)が伊吹山に登ったとき山の神の化身に出会いましたが、ミコトは「これは神の使いだから帰りに退治しよう」と言挙げした、という記述があります。

ところが、それがミコトの慢心によるものであったため、その後ミコトは神の祟りに遭い亡くなってしまったといわれています。すなわち、言霊思想は、心の「ありよう」を示すものであり、万物に神が宿るとするのは、すべてのものには「こと」という名称があり、その中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方です。

日本だけでなく、他の文化圏でも、言霊と共通する思想が見られ、例えば、「旧約聖書」の中にも「風はいずこより来たりいずこに行くかを知らず。風の吹くところいのちが生まれる。」と言った表現があり、この「風」と表記されているものが「プネウマ」、すなわち日本で言うところの言霊です。

他の文化でも、音や言葉は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされることが多く、日本でも神道においては、「拍手(かしわで)」はそうした浄化作用があるとされますし、神事で叩かれる太鼓の音もそうです。

洋の東西を問わず、こうした考え方はあり、祭礼や祝い、悪霊払いではたいてい音を出す、という行為が行われます。カーニバルでの笛や鐘・太鼓、中華圏での春節の時の爆竹などがその一例です。

口に出して言う言葉も、呪文や詔としてその霊的な力が利用されます。ただし、その霊的な能力のある「こと(事)」が何であるか、ということについてはさまざまな見解があり、国により、また宗教によって異なります。

たとえば某宗教では「真理」である、とされますが、ではいったい真理とは何か、と問われると日本人には理解しにくいようです。「真理とは、巌(いわお)のように堅固なものである」といい、それゆえにヨーロッパでは岩山の上に教会を築くことが好まれる、という例などが示されればなんとなくわかったような気にもなります。

が、なぜ固いものがいいのか、別に土の上でもいいじゃないか、と土に竪穴を掘って住居を作るという縄文文化を受け継ぐ日本人はすぐ思いますし、固いことが真理の象徴というのは理解しにくいことです。

逆に言葉が魂である、というのはアミニズムを蔑視する欧米人には理解しがたいようです。アミニズムというのは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方で、日本には古来からあります。森羅万象すべてに神が宿っている、という考え方であり、日本人が信奉する神道の根本でもあります。

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神様が憑くものを「依り代」ともいいますが、こうした霊的存在が肉体や物体を支配するという精神観、霊魂観は、日本以外でも世界的に広く宗教、習俗の中で一般に存在しています。しかし、原始宗教的な考え方ともいえ、キリスト教が先進のものと考える欧米人の視点からは、こうしたアニミズムは原始的な未開社会のものであると考えられています。

このため、彼等は「真実を知りたければ鏡に汝自身を映してみよ、それですべてが明らかになる」といいます。が、我々にはさっぱり意味がわかりません。むしろ日本人にとっての鏡はそれ自体が神様だったりするわけです。

このように「こと」が何であるのか、というのは日本と欧米では隔たりがあるわけです。巌や鏡のような例を用いれば実感として捉えられる、という彼等の主張は、それ以外のものすべてのものにも神が宿ると考える我々には理解しがたく、逆に彼等には言葉そのものに魂が宿るという考え方が理解できないようです。

このように「こと」が真理であるのか、魂であるのかについては、さまざまな文化により異なります。また時代によっても色々な変遷があります。さらには多数の宗教や人種が交錯する現代においては、独自の見解を持つ個人も増えてきており、「こと」自体は我々が知りえないものである、といった神秘論のままでいいではないか、という人もいます。

真理なのか魂なのかといった議論に結論を出す必要はないのかもしれません。とはいえ、日本という国に生まれ、その風土で育ち、万物に宿る神様に見守られて生きてきた我々日本人には、やはり言葉には魂が宿る、という考え方がしっくりくるような気がします。

「言葉の法則」というのがあるそうで、言葉自体には何等かのパワーがあり、良い言葉ならば繰り返し言い続ければ、幸せになれる、と唱える人もいます。

「斎藤ひとり」さんもその一人で、東京都江戸川区を所在地にする化粧品、健康食品を販売する会社「銀座まるかん」の社長です。毎年のように高額納税者公示制度(長者番付)の上位に名を連ね、総資産はン百億円だそうです。

観音信仰と経営体験に基づいた独自の人生観を持ち、それらを論じた人生訓・自己啓発に関する関連書籍などを出版しており、「言葉の法則」はそうした本の中でも書かれています。

ひとりさんによると、人の心の大きさは「コップ一杯程度」だそうで、私たちは「言葉」という水滴を一滴一滴、心のコップに垂らしているといいます。狭いコップの中の水ですから、良くない言葉を発すると、心のコップが濁ってしまいますし、良い言葉を使うと少しずつですが綺麗になります。

どんな言葉でも数多く唱えると、心のコップはその言葉の水滴でいっぱいになり、溢れ出します。そして、唱え続けた言葉は、思考の一部となり、私たちの人生を創り上げる材料になるといいます。

そして、どうせなら良いことばでコップの水をいっぱいにしたいものです。どんな言葉がいいか?

ひとりさんによれば、たとえば、「しあわせだなぁ」「ありがたいなぁ」「豊かなだなぁ」「やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。」などがイイとおっしゃっています。

たとえ現時点で「幸せじゃない」と思っていても、「幸せだなぁ」という言葉を発することに意味があるといい、何度も何度も繰り返し唱え、口癖になりそうなほど、唱えるようになると本当に幸せだと思える状況が創られるのだといいます。

目標は千回だそうです。千回、目標を達成した自分の姿、周りの状況を「現在形でイメージする」のだそうで、未来形「~したい」「~だったらなぁ」という形式ではなく、「にできる」「になる」という現在形がいいのだとか。

「ありがとう」「感謝しています」「ついてる」「うれしい」「楽しい」「幸せ」「許します」「愛しています」は、「天国言葉」というのだそうで、これらを口にしていれば、いつも幸せでいられるのだともいいます。

ものごとがうまくいかないと、ついつい「クソッ」とか「ちきしょう」とか言いがちですが、これを「やった!」「ラッキー」に置き換えると、幸せになれるような気になってきます。また、「疲れた~」を「金欲しい」に変えてもあるいはいいのかも。

あなたも、今日から実践してみてはいかがでしょうか。

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オシリスとセト

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星のきれいな季節になってきました。

「参宿」といっても何のことかわからないと思いますが、これは古代中国でのオリオン座の呼称です。

が、この中国の星座には、現在のオリオン座に含まれる7つの星以外にも、うさぎ座、はと座などの星々が含まれており、このように星座の範囲の定義はそれぞれの国によって違います。

現在我々がオリオン座(Orion)としているものは、ギリシャ神話における登場人物オリオンを題材とした星座です。中央に三つ星が並んでいるのがオリオンのベルトの部分であり、これを中心として上下左右に星々が展開します。

ベルトのラインの左上にあるのが最も明るいα星、ベテルギウスであり、このベテルギウスと、おおいぬ座のα星シリウス、こいぬ座のα星プロキオンとともに、冬の大三角を形成します。

また、オリオン座の右下にあるのが、β星のリゲルで、ベテルギウスほどは明るくないものの同じ1等星です。全天で21しかない1等星のなかのふたつもが、このオリオン座に含まれていることになります。秋から冬にかけてはもっとも目立つ星座といえます。

ベテルギウスは、赤い色をした星で、またリゲルは青白い光を放っており、対照的であることも目を引きます。実は、ベテルギウスの和名は「平家星」とされており、一方のリゲルは「源氏星」だそうです。つまり、赤と白の対比です。

岐阜県における方言が元となっているといわれており、ベテルギウスの赤色を平家の赤旗、リゲルの白色を源氏の白旗になぞらえたと解釈されています。そして、この源平それぞれを代表する色が日本の国旗を形成しているわけであり、オリオン座は日本のための星座といってもいいくらいです。

また、オリオン座の三ッ星は、毛利氏の家紋である「一文字に三つ星」の由来になっているともいわれています。「三本の矢」の逸話が有名なので、それを図案化したのだと思っている人が多いと思いますが違います。

元々は、中国では、この三ッ星を「三武」と呼び、将軍星と呼ばれて武人の象徴として信仰していました。

毛利氏の遠祖にあたる平城天皇の皇子、阿保親王のご落胤といわれる大江音人(おとんど)は、一品(いっぽん)親王と呼ばれていました。これにちなんで、その後胤にあたる毛利氏が一品の字を図案化し、これにこの三武の三つ星紋を加えて家紋として使うようになったものと伝えられています。

日本ではこのほか、この三つ星はそれぞれ、表筒男命、中筒男命、底筒男命という住吉三神とされることがあります。ご存知のとおり、海の神、航海の神であり、住吉三神を祀る神社は住吉神社という社名で、日本全国に約600社もあります。また、沖縄では、「黄金三星」(こがねみつぼし、クガニミチブシ)と呼び、こちらも神が住む星とされています。

ギリシャ神話では、巨人オリオン座が、「この世に自分が倒せない獲物はいない」と驕ったため、地中から現れたさそりに毒針で刺し殺され、さそりはともに天にあげられ星座となった、とされています。が、ギリシャ以外では、オリオン座の真ん中にある、三ッ星だけをとりあげて神話を作り上げている国が多いようです。

上述の中国の「参宿」の「参」も三ッ星のことであり、「宿」というのは星座です。つまり「三ッ星を持つ星座」、というほどの意味になります。

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古代エジプトでも、三ツ星とその南側のオリオン大星雲などの星々の一群を「サフ」と呼び、オシリスと同一視しました。

オシリスというのは、「生産の神」であり、太古にはエジプトの王として同国に君臨し、「トート」と呼ばれる知恵を司る神の手助けを受けながら、民に小麦の栽培法やパン及びワインの作り方を教えました。また人間界の法律を作って広めることにより人々の絶大な支持を得ていた、といわれています。

このオシリスには、セトという弟がいました。セトは、エジプトの民に大人気の兄をねたんでおり、ある日、オシリスが館を留守にしている間に72名の廷臣達と暗殺の謀り事を企みました。

その謀りごととは、彼らが住まうビブロス宮殿における催しを利用しようというものでした。大工たちに「木棺」を作らせ、これにピッタリと体が入った者に褒美を贈るというイベントをやろう、というものでしたが、実は、この木棺はオシリスの体に合わせてセトらが作らせた物でした。

こうしてお祭りごとが始まり、その宴のクライマックスで、この余興が始まりました。次々と臣民たちが木棺に入っていきますが、彼等の多くは棺よりも体が大きすぎたり、また逆に小さすぎてなかなかピタリと棺に合う体を持つものが現れません。

ところが、終盤になって、何も知らないオシリスがこの棺に入ったところ、なんとピッタリと治まりました。そのあまりのフィットネス感に酔いしれたオシリスは、棺の中に気持ちよく横たわっていましたが、そこへすかさずセトに命じられた廷臣が、蓋をかぶせてしまいました。

そして、その隙間からは鉛が流し込まれ、オシリスは葬られてしまいます。棺はさらにナイル川に流されることとなりました。

こうして殺された王の死を知った、オシリスの妻であり妹でもあるイシスは悲しむとともに、復讐を誓います。イシスは、献身的な母や妻でありましたが、実は、父である太陽神「ラー」の資質を受け継ぐ魔女でもあり、その魔力を用いて復讐を果たそうとします。

ナイル川に流されたオシリスの棺ですが、その後流れ着いた場所で何も知らない民によって加工され、そのまま柱材として、ビブロス宮殿に運び込まれていました。これを知ったイシスは、セトの王妃の乳母に化け、宮殿に潜入し、柱となっていた棺を探し当てて見つけました。

そして、イシスは世話していた王妃の子供を炎の中に投げ入れ、自身はツバメに変身して柱の周りを飛び回って魔法をかけ、ただの一本の木片にしました。赤子の母親である王妃は泣き叫びましたが、これを尻目に、イシスはツバメの姿のまま木片を咥えて宮殿から持ち出し、秘密の場所に隠しました。

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王妃からこれを聞いたセトは、オシリスを流したナイルの川筋を辿ってそれが柱材として加工されたことを知り、計らずも自分の宮殿に戻ってきていたことを知り、驚きます。運び出されたものが実は自分が殺した兄であったことを知ったセトは、その後執念で棺を探し回りました。

その結果、森のはずれの洞穴の中にあった柱を見つけ、中にあった遺体ごと、今度こそは誰にもみつからないようにと、今度はこれを14の部分に切断し、砂漠にばらまいてしまいます。

これを知ったイシスは、またしても魔力で破片となった夫の体を探し出します。そして、繋ぎ合わせて復活させようとしました。

現在のエジプトの首都、カイロの南にあった、オクシリンコスという町にオシリスの断片を持ち込み、ここで自分の魔法を駆使した結果、なんとかオシリスの体を繋ぎ合わせることに成功しました。ところが、切断された体のうちの男根だけは、魚に飲み込まれていて失われていました。

このため、オシリスは復活を果たしたものの、不完全な体だったため現世には留まることができず、その後は「冥界の王」として蘇ることとなりました。

さて、そのころ宮殿では、別の復讐劇が進行していました。セトに殺されたオシリスとイシスの間には、ホルスという息子がいました。ホルスもまた、父を亡き者にしたこの叔父にあたるセトに対して強い憎悪の念を抱いており、復讐を決意していました。

やがて長じたホルスは父にも負けないほど聡明な青年となり、多くの廷臣たちの支持を得て宮廷内ではセトの強力なライバルとなっていきました。二人はやがてオシリスの後継の座を巡って熾烈な抗争を始めましたが、最終的には正当な後継者はどちらなのか、神々の間で評定を開いてもらおう、ということになりました。

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ところが、神々の筆頭である太陽神のラーは、実は娘のイシスとは不仲でした。イシスには、シューとテフヌトという兄がいましたが、あるとき二人が旅に出てなかなか帰って来ませんでした。ラーは彼らのことを大変心配しましたが、ようやく無事に二人が帰ってきたのを見て涙を流し、その涙から最初の人間が生まれたといわれています。

ところが、この人間たちはやがて自分を敬わないようになったため、ラーは今度は彼らを滅ぼうとしました。そのために、ライオンの頭を持つセクメトという怪女を送り込もうとしますが、このころまだ健在だったオシリスはラーが創り出した人間が大好きでした。このため、血に似せて造らせた赤いビールで彼女を酔わせ、殺戮を止めさせました。

ラーはこれを知って怒り、オシリスを罰しようとしました。ところが、妻のイシスがこれを知り、オシリスの垂らした唾液でこねた泥団子で毒蛇を創りました。そして蛇をラーの寝所に潜ませたため、ラーは毒蛇に噛まれてしまいました。

猛毒にもだえ苦しむラーは、その痛みに耐えかねて毒を解除してもらうことと引き換えに、自分自身を支配できる彼自身の本当の名前をイシスに教えました。

イシスはその名をオシリスの腹心である、トートに教え、これにより彼は「知恵司る神」となることができました。こうして、オシリスはトートを補佐役として、人間界に知恵をもたらす万能の王となることができたわけです。

こうした経緯があったことから、ラーは娘のイシスを嫌っており、このため、亡きオシリスの後継を決める神々の会議においても、イシスの息子のホルスに肩入れすることはなく、その政敵セトを支持していました。

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そこでイシスは老婆に化け、評定が行わる予定地であるナイル川の中の島への渡し守・アンティという女に、金の指輪を与えて騙し、島へ乗り込みました。

ここでイシスは今度は若い女性に化けました。そして、女好きのセトに近づき、色仕掛けで、こうささやきます。「神々の会議が始まったとき、”父の財産は息子が継ぐべきで、その財産を奪う者は追放すべきだ”と発言すれば、神たちは、あなたの寛容さに打たれてオシリスの正当な後継者として認めるでしょう。」

この計略にひっかかったセトは、翌日の会議の中で、わざわざ自らの正当性を否定させる発言を行ってしまいます。この結果、オシリスの後継者はホルスと決まりました。神々が自分の寛大なことばに心打たれると思っていた彼は、ここではじめて女の計略だったと知ります。そして怒り狂い、誰が女を中の島に導いたかを探し回りました。

その結果、手引きをしたのがアンティだとわかると、彼女の踵の皮を剥ぎ、二度とサンダルを履けなくしました。この結果、アンティはイシスから貰った金を呪うようになり、彼女の属する町ではその後、金は忌むべき物となったといわれています。

権力を奪われたセトは、さらに巨大な豚に姿を変えてホルスを襲おうとしました。ところが、神々の会議の場というのは、神聖な場所とされており、そこにブタが現れたのを見て、審判長であるラーは激怒しました。

そして、「豚は未来永劫、忌まわしい動物とせよ!」と叫びました。これがのちの世でイスラム教においてブタが禁忌とされるようになった理由のひとつといわれています。

ラーの怒りを買ったセトは元の体に戻りましたが、ホルスに王の座を奪われたことをどうしても許せず、ホルスにある提案をします。それは、この中の島からカバに変身して川に潜り、先に陸に上がった者が負けにしよう、という不可思議なものでした。

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しかし、若くて血の気の多いホルスはこの挑発を受けることにします。さっそく2人は裸になり、カバに変身してナイルに飛び込みますが、彼を心配した母のイシスは「生きている銅」で釣り針を作り、これを水中に投じてセトをひっかけ、ホルスを援護しようとしました。

ところが、最初の一投では、誤ってその釣り針を息子に引っかけてしまい、息子のほうが苦しみだしたので、驚いて針に命じて外させました。しかし、次の一投ではセトに針を引っかける事に成功します。形勢が不利とみたセトは「自分とお前は同じ母から生まれただろう」とイシスに言い放ちました。

実は、セトはイシスの異父弟であり、母はヌトという再生を司る、葬送の女神でした。これを聞いて情にほだされたイシスは、思わず釣り針を外してしまいます。しかし、セトは釣り針にひっかけられた余りの痛さに、先に陸に上がってしまい、この勝負はホルスの勝ちとなりました。

このとき、セトを助ける、という裏切り行為に出た母親を見たホルスは、逆上します。そして持っていた刀でもって彼女の首を刎ね落としました。その一部始終を見ていたトートは、イシスを哀れに思い、その死体をラーの元へ運び、イシスの体の上に雌牛の頭を置きました。そしてイシスはラーの魔力によってまたたくまに復活しました。

その一方でラーは、母親を殺めるという蛮行を行ったホルスに対しては、罰を下すこととし、ホルスの両目を奪って山中に埋めました。そののち、やがてその目からはロータスの花(蓮の花)が咲いたと伝えられています。

目を失ったホルスでしたが、その後愛と美と豊穣と幸運の女神である、ハトホルが彼の眼窩に雌アカシカの乳を与えたため、目を取り戻すことができました。

こうしてホルスは王として人間界に君臨するようになりましたが、その後もセトとの激しい戦いを繰り広げ、そのなかでホルスは再び左目を失ってしまいます。この左目は長い間、民を治めるためにエジプト全土を旅し、様々な知見を得たとされる大切な目でしたが、この度はトートが月の力を借りてその左目を癒しました。

その後、神々の助言によってホルスとセトは一時和解し、同居する、といったこともありました。しかし、その後ふたたびセトがホルスに危害を加えようとしたため、このとき助けに入ったイシスによってセトは両手を切り落とされてしまいます。

しかし、セトも長い戦いの間で魔力を持つようになっており、切り落とされた両手をナイルの水で洗って取り戻しました。こうしてさらに2人の戦いが続きますが、その戦いにもようやく終焉が訪れます。

その最後の戦いでセトはホルスに対して石の船を作ってレースで決着をつけるという勝負を持ちかけました。セトは自分で申し出たとおり、石の船を作りましたが、ホルスは今度こそはと一計を案じ、石のかわりに杉の木を漆喰で覆った船を作りました。

結果、この勝負ではセトの船は水に沈み、ホルスの船は水に沈みませんでした。しかしセトは、今度も得意の変身力を発揮し、再びカバに変身して水中から、槍でホルスの船の底をついて、彼を殺そうとします。

ところが、ホルスは逆に船上から水中のセトに槍を突き付け、彼の睾丸と片足を奪いました。さすがに急所を奪われたセトもこのたびは復活することができず、こうして最終的にホルスが勝利しました。そして長い間続いた父の仇討ちもまた、ようやく果たされることとなりました。

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こうして、このころ冥府の王となっていたオシリスは、トートとの相談の末、地上の王権をようやくホルスに譲位することができました。ホルスは名実とともに地上を統治する王と見なされるようになり、この王は代々「ファラオ」と呼ばれるようになりました。

ウィーン美術史美術館所蔵の「ホルエムヘブ王とホルス神座像」は、古代のエジプトの王、ホルエムへブ王と、この歴代のファラオのうちの最初の王である、ホルス神を同一の石から彫り抜いて並べたものです。

紀元前1570~1070年ころのエジプト新王国時代のうちの、第18王朝時代末期(紀元前1290年ころ)の作とされる石灰岩像ですが、そこには、ホルス神の名として神聖文字で「ホルス、父の仇を打つ者」と刻まれているそうです。

神聖文字とは、ヒエラティック、デモティックと並んで古代エジプトで使われた3種のエジプト文字のうちの1つで、エジプトの遺跡に多く記されており、紀元4世紀頃までは読み手がいたと考えられています。しかし、その後使われなくなり、読み方は忘れ去られてしまっていました。

ところが、19世紀になって、「古代エジプト学の父」と言われているフランスの考古学者、ジャン=フランソワ・シャンポリオンが、ロゼッタ・ストーンに書かれていた文字を解読したことから、この石像の文字も読めるようになりました。

また、ホルスとセトの戦いの際、ホルスが失った左目は、その後古代エジプトでよく見られる眼のシンボルとなり「ウジャトの目」と呼ばれています。ホルスがセトを撃退したことから魔除け的な意味を持つようになったもの、といわれていますが、こうしたこともロゼッタ・ストーンの解読によりわかるようになったものです。

睾丸と片足を失ったセトは、その後、地上の世界を去り地下世界に隠遁しました。地上には雷の声として響くだけとなりましたが、別の説によるとセトは天空にある神々の世界へ帰り、おおぐま座となりました。また、北斗七星はセトの片足である、という伝承もあります。

一方で、セトはその類い希なる武力から、ラーの乗る太陽の船の航行を守護する神としてもエジプトの民の信仰を受け続けるようになりました。

また、太陽の船を転覆を狙う、暗闇と混沌を司る悪魔神=大蛇アポピスを打ち倒すことから、軍神としても信仰されました。「王の武器の主人」という称号もあり、ファラオに武術を教える神としても信仰を受けるようにもなりました。

今晩夜空を見上げてオリオン座を目視したら、いつも聞き慣れているギリシャ神話の巨人伝説ではなく、今日これまでに書いてきた、こうしたエジプトの伝説も思い出してみてください。

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キノコおいし

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10月も半ばとなりました。

今日は「きのこの日」だそうで、10月はきのこ類の需要が高まる月のため、その月の真ん中の15日を記念日としたのだそうです。「日本特用林産振興会」というのがあるそうで、この組織が1995年に制定しました。

「特用林産」というのは、森や林から得られる産物のことで、キノコや山菜は代表的なものですが、そのほかにも炭や漆、檜皮(ひわだ)や木蝋、和紙といったものもあります。こうした林産物の普及を図るための業界団体、ということのようですが、おそらくは農林水産省の外郭団体でしょう。

それはともかく、このキノコというのは不思議な物体です。植物ではなく、「菌類」ということで、カビと同じく胞子で増えます。酵母も菌類であり、植物寄生のものが多く、農業上重要なものも多いようです。

その語源はおそらく「樹の子」もしくは「木の子」でしょうが、当然ながらキノコを形成しているのは菌類の細胞であり、キノコを生じる菌類はすべて糸状菌です。その構造は、菌糸と呼ばれる1列の細胞列からなり、いかに大きなキノコであっても、それらはすべてこのような微細な細胞列によって構成されています。

傘をもち、地面からスッくと立っているものをキノコと呼ぶことが多いわけですが、カビに見えたり酵母状であるものもあり、枯れ枝の表面などに張り付いていたり埋もれていたりする微小な点状のものも、分類上はキノコと見なすようです。

ま、しかし一般的は「キノコ」と言えばより大きい、傘状になるものを指します。このような点状の子実体を持つものは和名も「カビ」とも呼称される例があるようなので、通例どおりキノコは形のはっきりしたもの、という認識でいいのでしょう。

日本語のキノコの名称には、キノコを意味する接尾語「~タケ」で終わるものが多くなっています。ところが、「~ダケ」と濁点で濁る呼び方は、実は間違いであり、「えのきだけ」、「ベニテングダケ」は誤表記がであり、キノコを表わす「タケ」は本来はけっして連濁し
ません。

キノコ図鑑を開いてみると、「~ダケ」で終わるキノコは一つもないことからもこれがわかります。ところが、一応名前としては、「~タケ」とつけられてはいるものでも、そのキノコが果たしてなんであるか、といったキノコ類の同定は、簡単ではありません。

傘やひだの色や形、柄の状態などからその名前に相当するキノコに一応分類はされており、それを頼りに同定するわけですが、元来キノコは菌類であり、カビと同じような微細な仕組みの生物です。

それが多数積み重なって肉眼的な構造を取ってはいるものの、カビと同様に微生物としての目に見えない部分は実は違っているという場合があり、たとえば胞子や担子器などを顕微鏡で見なければ本当に正しい同定はできないものと考えるべきなのだそうです。

もちろん、キノコの同定に熟練したその道の「キノコ博士」ならば、顕微鏡を使わずとも、大抵の同定を正しく行えますが、これはその地域に出現するであろう類似種や近似種の区別をすでに知っているからできることです。

従って、別の地域に行ったらそうしたベテランも間違うこともあるそうで、ましてや我々のような素人が、外形の写真だけの図鑑など同定すると、種類を間違えてしまう可能性は高いわけです。

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間違うとどうなるか。当然毒キノコである場合には、大変なことになります。猛毒を持つキノコを食べると死に至りますし、中程度の毒を持つものでは、神経系に異常をきたす場合もあり、そうでなくても胃腸系に障害をきたすことが多いようです。

毒キノコによる中毒の症状は様々ですが、一般的には摂取によって、嘔吐、腹痛、下痢、痙攣、昏睡、幻覚などの症状を生じます。自然界には毒性の不明なキノコが多数存在し、従来から食用とされてきたキノコであっても、実際には毒キノコであることが判明する場合があるそうです。

たとえば、2004年に急性脳炎が多数報告されたスギヒラタケは、その前年の法改正によって急性脳炎の患者が詳しく調べられるようになり、このために初めて毒性が明らかになっており、元々毒キノコだった可能性も指摘されています。

ある種の毒キノコは調理によって食用になる場合もありますが、これらは例外であって、ほとんどの毒キノコはどう調理しても食用になりません。「ナスと一緒に食べれば中毒しない」といった説もあるが、迷信です。

また、エノキタケの廃培地からも発生するコレラタケは「食用キノコを収穫した後に生えるから大丈夫」と誤解され、食中毒を起こすおそれが高いそうです。

「たてに裂けるキノコは食べられる」「毒キノコは色が派手で地味な色で匂いの良いキノコは食べられる」「煮汁に入れた銀のスプーンが変色しなければ食べられる」「虫が食べているキノコは人間も食べられる」といった見分け方もまた、何の根拠もない迷信です。

食用か毒かを判断するには、そのキノコの種、さらにはどの地域個体群に属するかまでを顕微鏡などを使って同定した結果に基づくべきである、というのが専門家さんの見解だそうで、図鑑などをみただけで、安全だ、と素人判断するのは危険な行為のようです。

このため、最近の植物図鑑やキノコ類の資料においては、従来食べられる、とされてきたようなキノコにおいても、「毒キノコの中では比較的毒性が弱い」というような科学的に正確な記述に置き変っているそうです。当然ながら、弱い毒性であれ人体に有害なのは事実です。

ベニテングタケなどが、その代表で、従来は湯通しして毒を浸出させるれば食べられるとされてきましたが、場合によっては嘔吐、痙攣、眠気、幻覚等の症状を引き起こします。また、ヒトヨタケなどは、特殊な処理なしで食べることができますが、アルコールとともに摂取すると毒性を示すそうです。

最近では、秋のキノコ採集シーズンにおいて、各地域のキノコ愛好家団体によって、こうした「同定会」としてキノコ狩りが開催されることも多くなっています。公立試験研究機関や大学のキノコ関連の研究室が開催している場合もあるそうで、同定会に参加すれば、判定するための試薬や顕微鏡といった資材が利用できます。

また、複数の経験者により的確な判断が得られることなど、安全さと正確さを確保することができる上、自分で採集したキノコ以外を観察することもできます。単なる食・毒の判断にとどまらずキノコ全般や現地の自然環境についての知識を養うことができる、ということでこうした同定会は大人気だそうです。

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それにしても人類はキノコを食べることが好きです。こうした菌類を食べることを英語では、“mycophagy”といい、これは「菌類嗜食」と邦訳されています。そうした名称があるほど、キノコを食べることは古くより行われてきました。

キノコを食用とした確かな証拠が初めて見られるのは、紀元前数100年の中国だそうで、中国人は、キノコを食品として扱うと同時に医薬品としても価値を置いていました。また、古代ローマ人や古代ギリシア人などは、上流階級がキノコを愛用していたようです。

もっとも、世界中の多くの文化においては、キノコを食用として用いてきただけでなく、医薬用として採取してきた経緯があります。

民間療法としての「医薬用キノコ」というものが存在し、現在の日本においても、一部のキノコには、薬用とされるものも存在します。日本薬局方には、マツホド(ブクリョウ)とチョレイマイタケ(チョレイ)は生薬材料として収載されており、漢方方剤の原料として用いられています。

マツホドは「松塊」と書き、サルノコシカケ科の菌類ですが、利尿、鎮静作用等があります。またチョレイは、「猪苓」で、こちらは消炎、解熱、止褐、利尿薬として用い、有効成分は明らかになっていないが、最近は抗腫瘍効果があるとする研究も公表されています。

この他、霊芝や冬虫夏草などが、局方外で漢方薬の材料とされることがあり、シイタケ、カワラタケ、スエヒロタケ等からは抗腫瘍成分が抽出され、医薬品として認められているものもあるそうです。

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一方では、ベニテングタケなどの幻覚性キノコをシャーマニズムなどの幻覚剤などとして用いる文化もあります。シャーマニズムとは、シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称です。

このシャーマンとはトランス状態に入って超自然的存在、すなわち霊、神霊、精霊、死霊などと交信する現象を起こすとされる職能・人物のことで、主として極北や北アジアの呪術あるいは宗教的職能者一般をこう呼びます。

日本でも、北海道・樺太などにその文化が残り、ほかにシベリア・満州・モンゴル・朝鮮半島を中心とした北方文化圏でもシャーマニズムはあります。さらに、沖縄(琉球)にもあるほか、台湾・中国南部・東南アジア・インドを中心とした南方文化圏にも存在します。

しかし、シャーマニズムには、日本を含めたこうした北アジアに限られるとする説と、世界中の他の地域で見られる諸現象を含める、という説もあります。キノコが世界中で獲れることを考えると、後者のほうが正しいのかもしれません。もっとも、シャーマニズムで使う薬物はキノコだけとは限らず、他の植物なども併用されることも多いようです。

シャーマニズムにおいて、「超自然的存在」と交信する方法としては、二つある、といわれています。「脱魂」と「憑依」がそれであり、どちらを基本と捉えるかについても、研究者の間で意見が分かれています。「脱魂」というのは、「魂が肉体から離れたエクスタシー状態において、神仏などの霊的存在と直接接触したり交流する」とされる現象であり、「エクスタシー」とも呼ばれます。

肉体から離れた霊魂は、遊離魂とも呼ばれ、我々がよく見る夢は、睡眠中に霊魂が身体を離脱し、あちらの世界に行って経験したことである、とはよく言われることです。

一方、憑依のほうは「憑霊」ともいい、「つきもの」ともいいます。神降ろし・神懸り・神宿り・憑き物ともいい、とりつく霊の種類によっては、悪魔憑き、狐憑きなどと呼ぶ場合もあります。ある種の霊力が作用し、人の精神状態や運命に影響を与える、と信じられています。

脱魂においては、シャーマンは、トランス状態の中で、自らの魂が行動するのでトランスが解けた後で体験内容を説明することができます。これに対して、憑依ではシャーマンに憑依した精霊や死霊が活躍するのでトランスから覚めても彼は何事が生じたのか説明できません。

脱魂は自分の魂が抜けることであり、憑依は自分以外の何者かがとりつく、という違いがあるわけですが、そのどちらをシャーマニズムの本質とするかについては、地域・民族・文化などによって異なります。

一般にはシベリアなど北東アジアは脱魂を重視し、東南アジアや南米では憑霊が重視されるといい、日本や朝鮮半島のシャーマニズムでは憑霊が多いものの、その両方、もしくは折衷説をとる傾向があるそうです。

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ここで、「トランス」とはいったいどういう状態なのか、といえば、これは日常的な意識状態以外の意識状態のことであり、心理学的には「変性意識状態」といいます。

いかがわしいものではなく、科学的にも説明されていて、通常、我々が起きているとき、すなわち覚醒時のときに脳から発せられるベータ波などがトランス状態では出なくなることがわかっています。一方では、トランス状態においては脳ではアルファ波が優勢になることが知られています。

一時的な意識状態であり、個人だけでなく複数の人々がトランス状態において同じ体験を共有することも可能であることなどがわかっており、社会学分野におけるひとつの研究対象となっているようです。

この変性意識状態においては、「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを感じられるといい、その体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われます。

こうした体験は、精神や肉体が極限まで追い込まれた状態、すなわち激しいスポーツをした場合や、死に瀕するような肉体的・精神的な危機に追い込まれたような場合にすることができるといいます。また、薬物の使用などによってもたらされるとされており、毒キノコがシャーマニズムで象徴的に使われるのはそのためです。

しかし、そうした危険なものを用いずとも、瞑想や催眠等による、非常にリラックスした状態になれば、トランス状態を醸し出すことも可能とされます。1960年代に展開されはじめた、心理学の新しい潮流で「トランスパーソナル心理学」とうのがありますが、この分野ではこれを人間に肯定的な効果をもたらすものとして研究します。

新しい学問領域であるため、科学的ではないという意見もあるようですが、臨床では一定の効果が認められつつあります。精神疾患に対する有効な療法として、一時的にこの状態を患者に与える方法が活用されるようにもなってきているようです。

トランス状態に入るのにはさまざまな方法があり、こうした研究において用いられることが多いのは催眠術です。これによって表層的意識が消失して心の内部の自律的な思考や感情が現れるとされます。

一方、シャーマニズムなどにおけるトランス状態は、宗教的修行によって、外界との接触を絶つことで、法悦状態が得られるとされます。トランス状態に入るのにはさまざまな方法があり、それは社会ごとに定型化されています。たとえば日本のイタコの場合は祭壇で呪文などを唱えますが、沖縄のユタの場合はそれとは異なった手順を経ます。

また、西アジアのシャーマンのように特殊なものを火に注いでその煙を吸う例もあるようです。こうしてトランス状態になったシャーマンが担う役割は文化によってさまざまです。

脱魂型のシャーマンの場合、霊魂が身体を離脱して霊界に赴き、諸精霊を使役してもろもろの役割を果たすとされ、それによって体が弱った人を助けたり、病を治したりする、とされます。

一方、憑霊型のシャーマンでは、神霊・精霊を自らの身体に憑依させ、人格変換が行われ、シャーマンはその憑依した神霊自身として一人称で「語る」ことが多いようです。彼等には神霊の姿見え、同時に神の声が聞こえるといい、その神霊の意思を三人称で語りますが、その語りの中には数々の「予言」が含まれることも多々あります。

日本の場合、若い頃は単にその神の言葉を語るだけの「霊媒」にすぎなかったものが、年齢を重ねるにつれて能力があがり、やがて「予言者」となり、最後には「見者(賢者)」へと変わっていくタイプのシャーマンが多いようです。

日本では、古来、「巫女」と呼ばれる職能者が政治や軍事などの諸領域で活躍したことはよく知られており、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国女王の卑弥呼が用いたという「鬼道」もシャーマニズムと言われています。

また、古代神話のアマテラスオオミカミ、古代日本の皇族、ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めたといわれる、神功皇后などもシャーマンだといわれます。

現代でも、アイヌの「トゥスクル」、下北半島の恐山におけるイタコ、沖縄県周辺のユタなど、各地域にシャーマンが残ります。また、日本の宗教信仰の基底にもシャーマニズム的な要素があると考える研究者も多く、最近の新興宗教の集団の形成や基盤にも影響を与えているといわれます。

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それにしても、誰でもがシャーマンになれるかといえば、そういうわけにはいかず、沖縄県周辺の「ナライユタ」、日本の東北の「イタコ」などは、修行・学習を積んだうえでシャーマンになるといいます。ただし、こうした人たちのなかには、生まれつき盲目である、などの身体的理由を持つ人も多く、また経済的事情からシャーマンになる人もいます。

一方では、ある日突然心身の異状をきたし、神霊によって選ばれたものと見なされるようになる人もいます。巫病(ふびょう)といい、ユタ、ノロ、イタコなどの日本のシャーマンの中には、巫女になる過程の重要なステップと位置づけられている場合もあります。

思春期に発症することが多く、具体的には発熱、幻聴や神様の出てくる夢、重度になると昏睡や失踪、精神異常、異常行動などが症状として現れるといいます。こうした症状を発する人は日本だけでなく、世界的にいるそうで、症状はどの地域でも似通っているといいます。

巫病は精神病理学でも病例として取り上げられており、医学的にはノイローゼ、偏執、てんかん、錯乱などの精神症の一種と考えられていますが、医学的原因は明らかではありません。

こうした人々の間では、シャーマニズムは一種の信仰であり、その信仰においては、巫病は神がシャーマンになることを要請しているのだと捉えるのだそうです。これは本人の意志で拒絶することが困難であり、拒んだために異常行動により死亡するという例も散見されるといいます。

そのため、巫病になった者は、たいていの場合がその社会の先輩のシャーマンから、神の要請に従うことをアドバイスされるといいます。巫病は、夢で与えられる神の指示の通りにすることや、参拝や社会奉仕などを行っていくうちに解消されていくとされ、巫病を克服することによって、シャーマンとして完成すると信じられています。

医学的にも、巫病の症状が本人の信仰への帰属によって軽減されていくことが確認されているそうです。

選ばれようと願っていてもなれるものではありませんが、選ばれてしまったら本人の意志で拒絶することも困難である、というのは何やら悲しいかんじがします。

このほか、シャーマンの中には、血統により選ばれる世襲的ものもあり、こうした人は生まれつき、父母から受け継いだ霊的資質を持ち、人格をも先祖から継承されている、と考えるようです。沖縄県周辺のノロなどがその代表です。

このようにシャーマンになれる人はある程度限られており、また努力してなろうとしてもそれなりの修業が必要、ということになるようです。

無論、毒キノコを食べた、というだけでもなれるわけではありませんが、少なくともトランス状態にはなれるかもしれない、ということでこれを幻覚剤、として用いる輩も少なくありません。

マジックマッシュルームというメキシコ原産のキノコがあり、1950年代にLSD などの薬物などともに、アメリカで流行しました。日本では、露店でも「観賞用」と称して構わず販売されていましたが、十数年前に人気男優の伊藤英明さんがこれを食べたことで幻覚症状を起こし、病院に運ばれるという事件がありました。

これをきっかけに、社会問題化したため、その翌年からはすぐに規制されて現在では販売は摘発対象となっていますが、第3次小泉内閣時の2005年10月に、首相官邸の植栽に生えているのが発見されて大騒ぎになりました。

マジックマッシュルームと同種の成分を含む、ヒカゲシビレタケという日本固有種で、胞子はどこかから飛んで来たか、持ち込んだ土に含まれていたと考えられています。日本ではふつうに自生しているので、このような場所での発生が確認されること自体は特に不自然なことではないといいます。

とはいえ、これを読んで探してみよう、という人がいたら困るので、念のために言っておきますが、日本では麻薬取締法の対象物となっており、持っているだけで違法とされて、逮捕されてしまいますから注意が必要です。

キノコを摂取するなら、せいぜい普通の毒キノコぐらいにしていただいて、けっして麻薬中毒者にならないよう、ご留意ください。

昨今かなり夜も冷え込むようになってきました。これを書いていたらキノコ鍋などが食べたくなってきました。晩御飯のメニューにいつも悩んでいる奥様方。あなたも今晩のメニューは、それでいかがでしょうか。

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