ナマズおいし

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ようやく富士が初冠雪しました。

9月のおわりごろから比較的お天気の良い日が続き、毎日のように富士が見えていたのですが、それにしてもいつまでもこの真っ黒な姿のままでいるのだろう、と気を揉んでいたので、なにやらホットしたようなかんじも……

また、何やらずいぶんと待たされていたような気もするわけで、なので、去年より5日早いとのことなのですが、ことさら早い初冠雪とも思いません。平年より11日遅いと聞くと、あっ、なるほどなっ、というかんじです。

これからの富士は、さらに厚化粧になっていくはずですが、同時に季節は進み、秋も深まっていきます。カメラマンとしては、一年で一番創作意欲が沸く季節でもあるわけで、なにかと外出が多くなります。活動的になればなるほど腹も減る、ということで、食欲の秋とはよく言ったものです。

狩野川の清流を眺めながら、ウマいうな丼でも喰いたいな、と思ったりもするのですが、昨今の漁量不足から、高騰が続いており、なかなか気軽に食べる、というわけにもいきません。聞こえてくる巷の鰻屋の値段は2000円後半ならかなり安いほうで、国産ならだいたいが3000円代、高いところなら5000円以上するようです。

うまい!と評判の、三島広小路の桜屋さんのウナ丼が、3000~4000円くらいだそうで、おいしいといわれても、うーん、どうしようかな~と考えこんでしまう値段であり、よほど何かおめでたいことでもなければ足が向きません。

そこへきて、最近、うれしい話題が入ってきました。クロマグロの養殖に成功した近畿大学が、今度は同様に絶滅が危惧されるウナギの代用品となるナマズを開発した、というこのおはなしは、テレビのニュースなどで見知った方も多いでしょう。

東京や大阪などでかば焼きをテスト販売したところ、相次ぎ完売したそうで、食べた人は口々に「ウナギと区別が付かない」と言っているそうです。ナマズを改良したのは、近大農学部水産学科の若手の先生で、ウナギの激減が指摘される中、「ウナギのかば焼きは日本人が大好きな味。何とかできないか」と考えたそうです。

5年がかかりで、ウナギの養殖業者が使っている施設を流用して、ナマズが養殖できるようにしました。ナマズは、世界でもっとも食べられている養殖淡水魚ですが、日本ではあまり受け入れられないのは、その独特の泥臭さです。

その原因は、河川の中にいるバクテリアであるようで、これを除去するために地下水で育てるようにしたところ、まず臭みを消すことができました。さらに、餌にエビなどの甲殻類を多く与えることで、ウナギそっくりの弾力感を得ることに成功しました。

とはいえ、ナマズはウナギよりも少々淡泊な味なのだそうで、このため、調理法としては、そのぽやっとした味を補うために、かば焼きにする場合には、ウナギより甘く濃いタレを使うことにしたそうです。

結果、鰻に勝るとも劣らない?かどうかはわかりませんが、かなり鰻の味に迫ることができたようで、もし、今後も評判が上々のようならば、各地でさらに改良品種を作成した上で、全国販売も視野に入れるとのことです。

気になる値段も、ウナギの半額程度に抑えられる見通しだということで、長いあいだ、ウナギ欠乏症に悩んでいる庶民にとっては朗報になりそうです。

ここ静岡も三島だけでなく浜松などで大量の鰻を消費しており、「うどん県」ならぬ、「ウナギ県」と命名してもいいくらいだと思うのですが、こうしたナマズの導入も含めて、「かば焼き県」として立国していってもいいのではないか、と個人的には思ったりもします。

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ところで、このナマズというヤツですが、ナマズ目ナマズ科に属する種類は、だいたい全世界で100種類ほどもいるそうです。口がでかくて、ヒゲがあり、ぬるっとしている、といった特徴は同じですが、日本をはじめとして、中国・朝鮮半島・台湾など、東アジアの河川や湖沼に生息する種類は、「マナマズ」と呼ぶようです。

日本に生息するマナマズは、正確にはさらに3種の「ナマズ属」に分けられるそうで、北海道と沖縄などの離島を除く全国各地の淡水域に幅広く分布しているのは、やはり「マナマズ」、または「ニホンマナマズ」と呼ばれており、これは中国など他の東アジアに広域に生息するのとほぼ同じです。

ニホンナマズという呼称は、2005年に特定外来生物に指定されたアメリカナマズと区別して、こう呼ばれるようになったものです。

これに対して、他の2種は、ビワコオオナマズ、イワトコナマズという種類であり、これは琵琶湖とその関連水系のみに生息する日本固有種です。

といっても、素人が見てもおそらくはほとんど見分けがつかないだろうと思われます。とはいえ、ビワコオオナマズはやや大きく、イワトコナマズとともに琵琶湖周辺の機内にだけ生息する種類です。そして、その他の地域で普段我々が目にするのは、たいてい「マナマズ」ということになるようです。

おそらく、上述の近大が開発している養殖ナマズも、このマナマズなのでしょう。雑食性であり、日本古来からいる在来魚としては数少ない大型の肉食魚でもあります。貪欲な食性を特徴としますが、どんなものを食っているかといえば、ドジョウやタナゴなどの小魚、エビなどの甲殻類、昆虫、カエルなどの小動物を捕食しています。

ナマズを捕食するほどの生物は、ほとんど水中にはいないと考えられることから、日本の淡水域の生態系では、食物連鎖の上位に位置するとみられます。大きな体をくねらせてゆったりと泳ぎ、長い口ヒゲを持ちますが、このヒゲは感覚器として発達しており、これを利用して餌を探します。

この口ヒゲは、2本しか持っていない、と思っている人も多いでしょうが、上顎と下顎に1対ずつ計4本あります。仔魚の段階では下顎にもう1対あり、計6本の口ヒゲをもっていますが、成長につれて消失します。

頭は上下につぶれたように平べったく、鱗がなくて体表はぬるぬるとした粘液で覆われています。近くによってよく観察すればわかりますが、斑紋があり、この紋や体色は、個体によってさまざまであり、かなりバラエティに富んでいます。

基本的に夜行性で、昼間は流れの緩やかな平野部の河川、池沼・湖の水底において、岩陰や水草の物陰に潜んでいます。全国に生息していますが、平均的には5~6月が繁殖期であり、水田や湖岸など浅い水域にある水草や水底に産卵します。たった2~3日で孵化し、仔魚は孵化の翌日にはミジンコなどの餌をとるようになります。

また、雄は2年、雌は3年程度で性成熟に達するといい、かなり繁殖力は強い種と言えます。全長60cm程度にまで成長しますが、一般に雌の方がやや大きいといいます。調べてみたのですが、かば焼きにするのは♂♀どちらがおいしいのかどうかまではよくわかりません。どちらもあまり差がないのかもしれませんが……

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上の近畿大の養殖の成功によって一躍脚光を浴びるようになったナマズですが、実は古代から食用魚として漁獲されています。ナマズ食の歴史は古く、平安時代末期の著作「今昔物語」には既に調理をして食した、といった記述があるほか、江戸時代にも商取引が行われていたようです。

マナマズはウナギと同じく、白身を持つため、かば焼きのほか、天ぷらにして食されたほか、たたき・刺身などの生食でもいけるようです。ただし、寄生虫がいる場合があります。顎口虫症といって、顎口虫(がくこうちゅう)という寄生虫がいるナマズを生食をした場合、からだに浮腫み(むくみ)ができたり、場合によっては心筋梗塞を起こすといいます。

とはいえ、まずしい農村部などでは貴重なタンパク源であり、江戸時代よりも前から自家消費のための小規模なナマズ漁が行われていたようです。現在でも、琵琶湖周辺の滋賀県や京都府、濃尾平野、埼玉県南東部など特定の地域で、漁業対象種として捕獲が行われているそうです。

ナマズを釣りの対象とする場合、その貪欲な性質を利用した「ぽかん釣り」と呼ばれる方法が用いられます。これは小型のカエルなどを釣り餌として片足から吊り下げる形で釣り針に通して付け、水面で上下に動かすことでナマズを誘うという釣り方です。ハツやササミといった肉類などでもわりと簡単に釣れます。

私の子供のころ、食用にもなるウシガエルを同様の方法でよく釣っていましたが、極めて簡単に釣れ、ぽか~んていたのを覚えています。ルアーの疑似餌でも釣れるようなので、今度一度試してはいかがでしょうか。釣ったあとに実際に食するかどうかはお任せしますが。

群馬県の邑楽郡(おうらぐん)板倉町にある雷電神社への参道には、複数県の「ナマズ茶屋」があり、てんぷらや「たたき揚げ」と称する揚げ物、洗いや刺身などが頂けるようです。また、鳥取の吉岡温泉でも同様のナマズ料理が食えるほか、埼玉の吉川でも市が率先してナマズ料理をアピールしており、「なまずの里よしかわ」を売りにしているようです。

さらに、茨城県東部、霞ヶ浦の東側にある行方市周辺では、外来種である、アメリカナマズ(チャネルキャットフィッシュ)のハンバーガーを「行方バーガー」として販売しているそうで、ご当地グルメとして有名になりつつあるようです。

とはいえ、その他の県で、ナマズを食するという話はあまり聞いたことがなく、現代の日本では必ずしも一般的な食材とは言えません。上述の3種のうち、一番一般的なマナマズを筆頭に、やはり臭さが敬遠されるためであり、これを使ってナマズ料理を提供しているところは、綺麗な水の池などで長い間飼育してから捌いたりしているようです。

ただし、まあなんとか食せるレベルにはあるようです。岩礁域に暮らすイワトコナマズが、泥臭さが少なく最も美味だそうで、マナマズはこれに次いで味が良いとされるようです。一方、ビワコオオナマズは大味で独特の臭みがあり、ほとんど利用されることはないといいます。

こうしたナマズの食味や利用に関しては江戸時代にも研究されていますが、やはりあまり評判はよろしくなく、「本草学」すなわち、現在の薬学に関する著述、「本朝食鑑(1697年)」によれば、ナマズは、膾(なます)やカマボコくらいにしか利用できない、と書いてあるそうです。

また、シーボルトが記した「日本動物誌(1850年)」にも、この当時のナマズはあまり食用にされず、むしろ薬用に用いられると書いてあるといいます。

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このように、ウナギといえば、一応食えはするものの、それほどウマいもんじゃないよ、というのが古くからの一般認識のようです。とはいえ、繁殖力が強く、どこの川に行ってもいるので、日本人にとっては非常に身近な魚ではあるわけです。

その外観がまず極めてユニークです。その独特な姿もあって古くから親しまれ、さまざまな文化・伝承に取り込まれてきました。また、日本では、地震の予兆としてナマズが暴れるという俗説が広く知られており、地面の下は巨大な大ナマズがおり、これが暴れることによって大地震が発生するという迷信は古くから信じられてきました。

ナマズが地震の源であるとする説は、江戸時代中期にはすでに民衆の間に広まっていましたが、そのルーツについてはっきりしたことはわかっていないようです。ただ、「日本書紀(720年に完成)」には、すでにナマズと地震の関係について触れた記述があるそうで、1592年、豊臣秀吉が伏見城築城の折に家臣に当てた書状にもそうした表現があります。

この書面で秀吉は、「ナマズによる地震にも耐える丈夫な城を建てるように」との指示をしているそうです。しかし、おそらくナマズが地震を起こすと多くの人々が信じるようになったのは、江戸時代の安政年間に頻発した地震のころからだと思われます。

「安政見聞録」という書物には安政大地震前にナマズが騒いでいたことの記述があり、これ以後の江戸後期にはこの地震による社会不穏を背景として、鯰絵や妖怪などを描いた浮世絵も流通するようになりました。

この「安政見聞録」は、1855年11月11日(安政2年10月2日)の夜10時頃に発生した地震の様子を記録した書物で、この地震の翌年の安政3年に刊行されました。著者は服部保徳、挿絵は一梅斎芳晴(歌川芳春)によって描かれ、地震時の教訓を多く盛り込んだ内容になっているといいます。

この服部保徳という人物が、どういう人物かはよくわかりませんが、忍者ハットリ君のモデルといわれる服部半蔵の一族なのかもしれません。歌川芳春は、この当時の人気絵師ですから、そうした絵師を使った自費出版をできた、というのはそれなりの権力とカネを持っていたのでしょう。

挿話は全部で 17 編に及んでおり、自分の子孫に対して、この本によって地震での教訓から多くを学び、忠孝義に励め、といった少々教訓くさい内容となっているそうです。

この「安政の大地震」ですが、多くの人は、これは一回っきり起こった者だと思っていると思いますが、実は、これは江戸時代後期の安政年間に、日本各地で連発した大地震の総称です。

現在では、このうち、とくに1855年に発生した安政江戸地震を指すことが多くなっていますが、この前年に発生した南海トラフ巨大地震である「安政東海地震」および「安政南海地震」も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めたのが「安政の大地震」です。

時系列的にみると、一番最初に起こったのは、1854年7月9日の「伊賀上野地震」であり、次いで「安政東海地震(1854年12月23日)」であり、その約32時間後に発生したのが、「安政南海地震(1854年12月24日)」です。さらに、安政南海地震の2日後には豊予海峡で「豊予海峡地震」が発生しています(1854年12月26日)。

そして、その翌年に起こったのが、一連の地震の中では最大の安政江戸地震(1855年11月11日)になります。この翌年には、東北八戸で安政八戸沖地震(1856年8月23日)が起こり、3年後には、越中・飛騨国境(現在の富山・岐阜県境)でも大地震が発生しており、これが飛越地震(1858年4月9日)となります。

伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震は、発生したのが、嘉永7年=安政元年であったことから、本来は「嘉永の大地震」と呼ぶべきですが、同じ年に安政に改元されたため、安政江戸地震と、その3年後に発生した飛越地震も含め、ひとくくりにして安政の大地震と呼ぶようになったものです。

これら一連の地震は、南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として江戸時代に発生したものですが、この南海トラフ付近では、これに先立つ250年ほど前に起こった慶長9年(1605年)には「慶長地震」が起こっており、また150年ほど前の宝永4年(1707年)には「宝永地震」も起こっており、地震の巣窟といわれています。

2015年の現在は、この一連の安政大地震から、ちょうど150年あまりが経つ時期であり、同様に南海トラフにおける地震の発生が危ぶまれているわけです。

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実は、この安政の大地震は、幕末の動乱にも大きな影響を与えた、ということもいわれているようです。安政の大地震における一連の最初の地震が起こった、1854年の前年の1853年(嘉永6年)には、6月に黒船が来航しており、また同年8月にはロシアのディアナ号が来航するなど、ちょうどいわゆる幕末の動乱が始まった時期と重なります。

これら一連の外国船の来訪により、江戸幕府は相次いで開港を迫られところとなり、時代は急転直下の勢いで回転していきますが、「安政の大地震」はこのような幕末の多難な状況下で旧幕府と新勢力の争いに呼応するかの如く連発した大地震であった、ということは間違いなくいえるわけです。

ディアナ号で来航したプチャーチンは、来日したその翌年にこの「嘉永の大地震」に遭遇していますが、その直前の前年、来日してすぐの11月1日には下田の福泉寺で幕府から派遣された川路聖謨らと会見し、下田が安全な港でないことを力説し代港を強く求めていたといいます。

安政の大地震のうち、二番目に起こった「安政東海地震」では、巨大な津波が発生しました。房総半島沿岸から土佐まで激しい津波に見舞われ、下田から熊野灘までが特に著しい津波に襲われました。とくに、伊豆半島沿岸では潮が引くことなく津波の襲来に見舞われており、引き潮から始まった駿河湾西側や遠州灘よりもさらに大きな被害を出しました。

伊豆半島において昼過ぎまでに何十回となく襲来した津波では、大きな波は3回打寄せ、そのうち第二波が最大であったといい、ロシア軍艦ディアナ号の記録では、下田において地震動の後、15~20分後に津波が到達し、2回目に押し寄せた津波の高さは、5~6mあったとされます。

ディアナ号は浸水により何回も回転して大破し、津波が収まった後、修理を試みようと戸田港へ廻航されました。しかしその途中、暴風雨も重なり流されて11月27日の夜、田子の浦沖で座礁し、漁船でけん引中、12月2日の昼過ぎに沈没しました。

下田の町では、昼過ぎまでに7~8回も押し寄せ、多数の家屋を流出させたため、壊滅的な状態となりました。しかし、津波で荒廃したあとの再建は早く、下田はその後、長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となりました。津波の翌年の1856年には、早くもハリスが着任してきており、開国に向けての幕府との交渉にあたりました。

ハリスの妾となった唐人お吉も支度金25両、年俸125両で身売りせざるを得なくなったのは、生家が東海地震津波で流され貧苦のどん底に落とされた背景があったとされます。

この安政東海地震による津波被害以後に頻発した安政年間の地震のあいまあいまでは、ほかにも歴史的な出来事が数多く起こっています。

そもそも、元号を嘉永から安政に変えたのも、こうした地震などの一連の災害のためであったといわれており、このほかにも1854年には、内裏(宮城における天皇の私的区域)が炎上する、という事故もありました。

しかし、改元しても天変地異は続き、改元してすぐの、1855年2月7日(安政元年12月21日)には日露和親条約締結が結ばれましたが、その直後の2月26日に飛越地震が起きています。また、ハリスが下田に総領事として着任した18566年8月21日の二日後に安政八戸沖地震がおきました。

そのハリスが、下田御用所におい幕府側との通貨交換率などの交渉をしている間にも、江戸や駿河、芸予などでも小規模な地震が続いており、吉田松陰が萩で松下村塾を開いた1857年の末から4ヵ月後に起こったのが飛越地震です。

しかし、この飛越地震を最後に、安政年間の地震は徐々に沈静化が進みます。その後、1858年7月29日には、日米修好通商条約が締結され、これに続く蘭、露、英、仏と五カ国条約も締結されました。1858年10月には安政の大獄がはじまりますが、1860年3月の 桜田門外の変(井伊直弼暗殺)で安政年間は終了します。

そして、安政以後の1867年11月の(慶応3年10月)の大政奉還、1868年4(慶応4年3月)の 勝・西郷会談(江戸無血開城)と続いていくことになります。

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こうした幕末という一番物騒な時期に巨大な地震が重なったということは、当然のことながら人々への心理へも影響を与えました。大地震などの災害が、天罰として世の乱れを糺すべく天が凶兆を以て警告するのだとする思想が広まり、安政江戸地震直後にはおびただしい数の瓦版や「鯰絵(うなぎえ)」が巷に出回りました。

これは、ナマズを題材に描かれた錦絵(多色刷りの浮世絵)であり、大鯰が地下で活動することによって地震が発生するという民間信仰に基づいています。鹿島神宮(現在の茨城県鹿嶋市)の祭神である武甕槌大神(タケミカヅチオオノカミ)が要石によって大鯰を封じ込めるという言い伝えに基づいている、というのが定説です。

鯰絵の種類は確認されているだけで250点を越え、実際はそれを大きく上回る点数の鯰絵が発行されたと考えられています。当時の書籍や浮世絵は幕府の検閲を受けていましたが、鯰絵はほぼすべてが無届けの不法出版であり、取締まり逃れのため作者や画工の署名が無いものがほとんどでした。

地震の発生直後から出版が始められた鯰絵は身を守る護符として、あるいは不安を取り除くためのまじないとして庶民の間に急速に広まり、流行が収束するまでのおよそ2ヶ月の間に多数の作品が作られたとされます。

鯰絵には多種多彩な構図が用いられましたが、大鯰を懲らしめる庶民の姿を描いた合戦図の形式、あるいは両者の対立を描いたものが特に知られています。上のタケミカヅチオオノカミがナマズと対決する役柄として鯰絵にもしばしば登場しているほか、ナマズが地震を起こしたことを謝罪したり、震災復興を手伝ったりするユニークなパターンもあります。

いわゆる「世直し鯰」の構図としてもさまざまな作品が作られましたが、これらは幕末の動乱と地震の関連性をうかがわせるものであり、両者によって多くの人々の不安が掻き立てられていたことを示すものです。鯰絵の中には「世直し鯰の情」として被災者を助ける様子を描いたもの、大工や庶民に小判、銭あるいは米俵を投げ与えるものなどもあります。

このほか、江戸などでは地震による倒壊家屋が多かったため、地震後の復興景気により大工や木材商が莫大な利益を上げたことを風刺し、これらの職人や商人がナマズに感謝する姿を題材にしたものもありました。

このような地震により損をした者、得をした者の対比は多くのバリエーションで描かれ、「三人生酔」、すなわち、笑い上戸・泣き上戸・怒り上戸の三者の姿を通じて立場の違いを表す、などの手法によって人々の喜怒哀楽が表現されました。

なお、鯰絵と同じく大量に発行された瓦版には地震によって混乱した情報を、市民らにもたらす、といった役割もありました。瓦版の中に、国元の縁者に自身や親子兄弟の安否を刷り込み知らせるものも多くありました。

また、京都・大坂・江戸の三都に店舗を抱える大商人らもまた、相次ぐ地震で経済網が寸断され、情報を失いました。このため、飛脚屋を雇って情報を収集させ、被害情報を一枚摺にして発行しました。無論、自分たちのための情報収集だったわけですが、こうした情報は一般庶民にも役立ちました。

地震の後に流布した鯰絵はさまざまなモチーフで描かれましたが、これらは必ずしもオリジナルの画題・構図で描かれたわけではなく、地震以前に知られていた浮世絵や民画をパロディ化したもので、当時流行していた世俗の文化を取り入れたとみられるものが多数あります。

鯰絵の前身と言える絵画の一つに「大津絵」があり、これは琵琶湖のほとりの大津宿を中心に描かれた民俗絵画です。

大津絵の中でも最も有名なのは、室町時代の画僧如拙により描かれた国宝「瓢鮎図」(ひょうねんず・鮎は鯰の古字)があり、これはつるつるの瓢箪でぬめるナマズを押さえつけるにはどうするかという禅問答をモチーフとした絵です。大津絵ではこのほかにも猿が瓢箪で鯰を押さえようとする滑稽図などがあります。

鰻絵と合体したこうした古くからの描画手法は、その後さまざまな分野に影響を与え、地震の被害状況や復興の様子を各地に伝える瓦版の中でも描かれ、その後の日本文化に大きな影響を与えました。明治以後に流行した「錦絵」にも多大な影響を与えており、鰻絵をベースに幕末に創作された、「はしか絵」、「あわて絵」などがその原型といわれます。

「はしか絵」は疱瘡絵とも呼ばれるもので、幕末に江戸で麻疹が広まった際に描かれた一連のはしか絵では、ナマズを打ち据える民衆を描いた鯰絵における大鯰を麻疹の神に置き換えたものが基本です。

これをもとにさらに別のバリエーションも創られ、金太郎、桃太郎、鍾馗、源為朝などが、疫病神の嫌う色・赤色のみで描かれるものも刷られるようになり、また、1863年(文久3年)の生麦事件から薩英戦争に至るまでには、この当時の江戸における混乱を描いた「あわて絵」が流行しました。

この年、横浜ではイギリス軍による幕府への威嚇砲撃があり、本格攻撃を恐れた庶民が江戸から郊外へと一斉に避難する騒ぎがありました。この様子を滑稽に描いたのが「あわて絵」であり、はしか絵と同じく鯰絵の構図を多く用いています。

その後、こうした「はしか絵」「あわて絵」で培われた技法は、明治になって「開化絵」や「新聞錦絵」に引き継がれ、さらには日清戦争や日露戦争以後の「戦争絵」として受け継がれました。しかし、明治の終わりごろまでには、活版印刷などの新技術の導入などの時勢の流れに逆らえず、衰退していきました。

しかし、こうした浮世絵にルーツを発した鰻絵ほかの日本の伝統の版画による「風刺画」の描写手法は、欧米のいわゆるポップカルチャーにおける「風刺漫画」に比べてはるかに高いレベルにあり、現在でも美術品として高く評価されています。

さて、長くなってきたので、そろそろ終わりにしましょう。

地震とナマズの関係は、これまで書いてきたように俗信とされてきたわけですが、最近の研究では、一般に魚類は音や振動に敏感で、特にナマズは電気受容能力に長けており電場の変化にも敏感であることなどがわかってきているそうです。

なので、本当に地震予知能力があるのかもしれず、それが確認されれば、一家に一匹といった「愛玩ナマズ」なども流行るかもしれません。

ちなみにナマズは、飼いやすいそうで、直射日光を避け、静かで安定した場所に設置した水槽ではよく育つそうです。ただ、与える餌にもよりますが、肉食性で糞の量も多いため、性能の良い濾過装置を用意したほうがいいとのことで、このほか、塩素を含んだ通常の水道水では炎症が起こすことがあるといいます。

飼育水のカルキ抜きは必須だとのことで、やはりきれいな沢水などで育てるのがいいようです。また、夜行性であるということをお忘れなく。ストレスを与えないため、体の半分以上が隠れる管などを入れる必要があるそうです。

そうして大事に育てたナマズは、やはりきっと美味に違いありません。

秋の日にその蒲焼を食べることを夢見て、あなたも一匹とはいわず、飼ってみてはいかがでしょうか。

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運動会の季節です

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明日から3連休でOFFという人も多いでしょう。

10月10日は、従来体育の日でしたが、「ハッピーマンデー制度」の適用により、10月の第2月曜日となったためです。2000年(平成12年)から適用されています。

そもそもなぜ10月10日だったか、ですが、これはこの日に1964年(昭和39年)に行われた東京オリンピックの開会式が行われたことを記念して、国民の祝日としたものです。オリンピックの2年後の1966年(昭和41年)から実施されていました。

その昔、私が子供のころには、運動会といえば、この体育の日か、11月3日の文化の日などの秋の日に行われることが多かったのですが、最近は春に行う学校のほうが多いようです。

これはどうやら秋には修学旅行や文化祭等の行事が行われることも多く、できるだけこちらと重ならないよう、行事は年全体に振り分けたい、という意向からきているようです。

かくいうウチの息子君の小学校中学校の運動会も春さきに行われていました。こどものころに秋の運動会を経験してきた私にとっては、春に運動会というのもなんだかな~と思ったものです。が、春にやる運動会が普通になっている最近の子供たちも、大人になってから、秋の運動会?それもなんだかな~と逆に思うのかもしれません。

それにしても、この運動会、海外にもあるのかな、と調べてみたところ、そもそもスポーツというものは欧米が発祥の地なので、各国で特定種目の競技会が行なわれているほか、それらを複合させたスポーツ競技会のようなものはあるようです。

ただ、日本の運動会のように参加者が一定のプログラムについて順次全体としてまとまりながら競技を行う形式の体育的行事はなく、また、ダンスや応援合戦といった「お遊戯ごと」まで含めた、お祭り的な雰囲気のものはないようです。

とはいえ、それぞれの国における伝承ごとに基づく伝統的なまつりのようなもの、たとえばハローウィンのようなものは当然ありますし、このほか運動会とはいえないかもしれませんが、日本の遠足に近い「ピクニック会」といったものはあるようです。ただし、もちろん運動会や競技会とは切り離されており、それだけが単独で行われます。

日本の運動会のように参加者全員がまとまって同一の競技・演技を行う形式の体育的行事は「近代日本独特の体育的行事」といわれ、始まったのは、明治時代です。ただし、当初は「競闘遊戯会」「体操会」「体育大会」などと呼ばれていました。その後1883年から東京大学で定期開催されるようになったものから「運動会」と呼ばれるようになりました。

こうした体操会、運動会は、日本画近代国家を形成する過程において、運動会は大きな役割を果たしたといわれます。明治期以降、地方自治制度の整備がすすむとともに、産業化も進展すると、そのなかでかつての伝統的な地域社会も再編成が必要となりました。

こうした村と村が合体する、といった統合が進む中で、運動会は人々を繋ぎ合わせる役割を担うようになり、学校に通う生徒だけでなく、その親や親せきなどの地域の大人たち、しかも子供を学校に通わせていない大人たちをも含めて運動会に積極的に参加するようになりました。

そうすることで学校を中心とする地域社会の連帯が再確認できたわけであり、これにより、地域のつながりはさらに強固となっていきました。そうした意味では運動会は地域社会の統合に不可欠なものでもあったわけです。

また、運動会は、従来村々で別々に行われていたお祭りを統合したような性格も持っています。従来のムラにおける「ハレ」の場に代わる役割を果たすようになり、それがまた地域社会の連帯感の強化に役立ったわけです。

日本で最初に行われた運動会は、定説によれば1874年3月21日、海軍兵学校で行われた競闘遊戯会であるとされます。イギリス人英語教師フレデリック・ウィリアム・ストレンジの指導によって行われたとされ、ストレンジは後に異動先の東京大学予備門でも運動会を開催しています。

ただし、別の説もあり、1868年に幕府の横須賀製鉄所において技術者・職工らによって行われたものが最初だと主張する人もいるようです。

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いずれにせよ、明治初期のことであり、クラーク博士で有名な札幌農学校でも、1878年5月25日に「力芸会」と称する運動会が開催されました。ただし、クラーク博士は1876年に来日し、農学校での滞在はわずか8か月でしたから、この催しには参加していないと思われます。

その後、この力芸会は、わずか数年で北海道内の小中学校に広がったといわれます。そして、上述のとおり1883年からは東京大学で「運動会」が定期開催されるようになりました。その後、一橋大学を創設した初代文部大臣・森有礼も、こうした体育の集団訓練を大学で行うことを推奨しただけでなく、小中学校でも行うよう奨励しました。

この森有礼(ありのり)という人は、元薩摩藩士です。幕末には藩の洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講するなどの英語通で、慶応元年(1865年)には、薩摩藩第一次英国留学生として、五代友厚らとともにイギリスに密航、留学しました。

維新後はその語学力を生かして外交官となり、明治18年(1885年)、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、東京教育大学を経て現在の筑波大学となる、東京高等師範学校を創設しました。

この東京高師を「教育の総本山」と称して日本の教育改革を行うなど、現在にまで至る日本の教育政策の基礎を築いた人として知られています。とくに女性の教育に力を入れたことで知られ、現在の「指導要領」の元といわれる、「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配ったほか、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであるとの声明を出しています。

ただ、こうした森の急進的な考えは、この当時の大衆が受け入れるには少々早く、庶民の感覚とは乖離したものがありました。このため、森が設立した、日本最初の近代的啓蒙学術団体「明六社」にちなんで、「明六の幽霊(有礼)」などと皮肉られもしました。

しかし、近代国家としての教育制度の確立に尽力したその功績は大きいものがあります。

明治19年(1886年)には、学位令を発令し、日本における学位として大博士と博士の二等を定めたほか、教育令に代わる一連の「学校令」の公布に関与し様々な学校制度の整備に奔走しました。しかし明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日に国粋主義者・西野文太郎に切りつけられ、この傷が元で翌日死去。43歳の若さでした。

この森のおかげで日本の教育制度の改革は一気に進んだといえますが、その中で運動会についても奨励したため、全国の小中学校でもさかんに行われるようになりました。

大正以降、日本統治を経験した韓国、北朝鮮、台湾や中国東北部の学校でも、こうした運動会が開かれるようになり、現在においてもこの日本時代の名残で運動会が存在しているところが多いようです。

第二次世界大戦中は運動会の種目においても戦時色が強まり、騎馬戦・野試合・分列行進などが行われました。ただし、戦争末期には食糧難から運動場が農地化するなどして実施ができなくなったところが大半でした。

戦後も地域の人々を結びつける「祭り」としての機能は失わず、戦前にもまして盛んに開かれるようになりましたが、その中で、行われる競技の種目もかなり増えました。運動会と言えば、定番はかけっこ、といわれるくらい徒競走をやる学校が多いようですが、その派生競技として2000mもの距離を走る長距離走や、リレー走が生まれました。

リレーではまた、二人三脚、多人多脚リレーといったお遊戯的なものも生まれ、このほか障害走系競技としては、障害物競走、借り物競走、パン食い競走、ムカデ競争なども定番競技となりました。

このほかの定番競技としては、玉転がし、スプーンレース、棒倒し、玉入れ、騎馬戦、綱引き、バケツリレー、長縄跳び、などなどがありますが、フォークダンスなどの各種ダンスなどを演技目としてメニューに入れている学校も多いようです。地方によってはこれらに更にアレンジが加えられ、その地域独特の運動会になっているものもあります。

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ただ、これほど運動会が広まった現在でも、昔ながらに踏襲されているのが、「紅白」ということであり、これは、参加者は赤(紅)色と白色の「対抗する2組」に分かれて競技を行う、というルールです。

この「紅白戦」のルーツは源平合戦といわれており、源氏が白旗を、平氏が紅旗を掲げて戦った際に用いられた配色が起源といわれます。対照的な色合いでもあることから、日本において、伝統的に対抗する配色として用いられるようになりましたが、と同時に日本の国旗の色でもあります。

これすなわち、日本では紅白はハレを意味し、縁起がいいとされたためです。現在でも祝いの席の紅白幕や紅白餅、紅白饅頭などの縁起物に用いられています。運動会もまたハレの場であり、この色を使うということは、やはりこの日がめでたいお祭りの日とみなされているからです。

このほかにも紅白の組み合わせは日本では至るところで見られます。水引の結びは紅白であり、また、お祝い事には、紅白餅や紅白幕はつきものです。また、NHK紅白歌合戦などでも紅白が使われ、野球やサッカーなどの練習試合も紅白戦で行われます。

さらに、たいていの小学校では、運動会に紅白帽を生徒に着用させます。生地の表面と裏面が赤と白の2色で分けられており、リバーシブルで使用でき、なんといってもただの布であるため安価です。

実はこの紅白帽は、昭和の中期・後期に活躍した喜劇俳優にして落語家で発明家でもあった「柳家金語楼」が発案したものです。彼が実用新案として登録したのが始まりといわれ、金語楼人気もあって、当初から全国に広く普及しました。

今日の日本においてもほとんどすべての小学校で採用されており、多くの生徒がこの紅白帽子をかぶり、体操着を着て運動会に参加します。ところが、日本以外の国では、体操着を着用する、という概念はありません。むしろ欧米では、こうした「制服」は人権に抵触する行為であり、「強要」であるとして否定的です。

また、日本と同じく運動会が行われるところの多い韓国では、赤という色が共産主義を想起させるため、もっぱら青と白で区別されているそうです。また、リバーシブルのものはないようです。このような紅白帽というものは、世界的にもめずらしく、日本独自のものといえるようです。

もっとも最近は、この紅白帽を使わず、鉢巻で済ます学校も増えており、また帽子を着用するとしても、赤色に代えて黄色・オレンジ色・ピンク・紫・紺色・青・水色・緑・茶色などさまざまな別の色が使われることもあり、これらは総じてカラー帽子と呼ばれています。

小学校や中学校ではまだ一般的ではありませんが、幼稚園や保育園で採用されていることが多いようです。

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このほか、近年の運動会の特徴としては、応援合戦や、マスゲーム、組体操が行なわれることもあります。応援合戦は、学年単位やクラス単位、団単位で行う競技であり、BGMに併せて歌う、踊るなど、多様なパフォーマンスをし、チームやクラスを応援します。

紅白戦においては、こうしたパフォーマンスを得点に入れる場合と入れない場合があります。得点に入れる場合の採点基準は、声の大きさやその演目の難易度などを父兄や先生が評価することによりますが、応援合戦の場合、得点を争う、というよりも、チームの士気高揚を図る、団結力を生徒が自覚することが目的でもあります。

応援合戦のパフォーマンスの優劣を競う学校の中には、優秀なチームには賞が与えられる場合もあります。このため、生徒のなかにはこの賞を得たいがために、目指して放課後や休み時間まで練習して運動会に臨む子たちもいます。私も中学校のころに練習したような記憶がありますが、これはこれでなかなか楽しいものです。

こうしたパフォーマンスは、学校によっては、「マスゲーム」に代えるところも多いようです。これは、多人数が集まって体操やダンスなどを一斉に行う集団演技です。同調性の高い動作を行うことを特徴とし、集団における連帯性の高さを来場者に示す演目として実施する学校が増えています。

マスゲームは、ドイツ語のMassenturnen(マッセントゥルネン)が語源であり、これは「大規模な体操」を意味します。が、日本でいうところのマスゲームは、多人数を表す「マス(mass)」 と「ゲーム(game)」 を合わせた和製英語です。ところが、この和製英語は最近ではmass gameとして、国際的にも認知されるようになりました。

マスゲームというと、北朝鮮で何かのお祭りのときに行われるアレがすぐに思い浮かびます。10万人もの人を動員して1時間半にわたって行われるなど、特に大規模なことで有名ですが、こちらはもともと金日成の誕生や日本による植民地支配に対する抵抗を表すものとして創作されたという歴史を持ちます。

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しかし、上述のとおり、もともとは、19世紀のドイツにおいて、効率の良い体操指導法として、号令によって一斉に体操する合同体操が普及したのが始まりです。

体操の有意義さを訴え、体操を普及させるためのツールとして、見せ物としてのマスゲームが発展したものですが、これが旧チェコスロバキア、オーストリア、スイスなどの外国にも広がり、ひいては世界的に行われるようになっていきました。

演技は多岐にわたり、整列や円陣などの態勢で、器械体操、組体操、新体操、バトントワリングなどや様々なジャンルのダンス、民族舞踏、人文字を作る、といったものを包括してマスゲームと呼ぶようです。

欧米の農業祭などでの行事として、馬に乗って行われるものもあり、ルールに従って馬を操り、統制の取れた動きを演じるほか、スペインのセビリア祭で行われるものも有名です。オリンピックなどの大規模なマスゲームでは、巨大ディスプレイなどの大道具や様々な小道具を使い、ストーリーを持たせた大規模なものとなります。

その昔、ルーマニアのチャウシェスク政権やティトーのユーゴスラヴィアといった社会主義国でも共産党員に共通意識を持たせる、といった意味合いで奨励されるようになりました。そして、同じ共産国である北朝鮮にもこれが伝わって、現在のようなものになりました。

一方の日本では、学校の運動会で行われるマスゲームも、一般には北朝鮮のものとおなじような、組体操やダンスを組み合わせたものです。ただ、日本の場合は、統一性を高めるため、体操着を着用し、体操帽をかぶるのが特徴です。

もっとも体操帽は脱げやすいので、最初からかぶらない学校もあります。また、内容によっては裸足になったり男子が上半身裸になって行う場合もあります。裸になる、というマスゲームは他国にはなく、これもやはり日本的なものです。

ところで、このマスゲームと組体操は何が違うのでしょうか。どちらも同じような気がしますが、どこが違うのか調べてみたところ、体操を基礎にして、「道具を使用せず人間の体を用いて行う集団芸術」という定義ではどちらも同じもののようです。

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日本では組体操は、「マスゲームの一種」とみなされることが多いようで、その他のダンスなどと合わせて運動会でも「マスゲーム」として紹介されることが多いようです。

別名は「組み立て体操」または略して「組み立て」といい、体育の授業の一環として単独でも行われます。

ただ、歴史的な成立経緯をみると、ドイツが発祥のマスゲームよりも古いようです。初歩的な組体操は、紀元前2000年の古代エジプト文明の壁画に観察できるそうで、中国でも漢の時代の土偶にそれが見られるそうです。また、ヨーロッパでは中世以後のイタリアで祭日などに披露されたものが、組体操だといわれています。

19世紀にドイツで行われるようになったマスゲームはこれらを基にしているといわれており、日本でいわれているように、組体操はマスゲームの一種、という定義は少々違うようです。

ただ、日本でも元々は組体操という言葉が一般的だったわけではなく、明治期には、倒立や回転運動を含むものをタンブリングやピラミッドと呼んでいました。これが戦前までには「回転運動、組み立て運動」と呼ばれるようになり、床運動を基礎とした集団で行う近代リズム体操を加えて、「団体徒手体操」と呼ぶようになりました。

この床運動は、女子6人から30人位で行われていましたが、日本で生まれ世界に広がった男子新体操は、これを元にしたものです。男子6人程度で行われますが、これも組体操の一種といっていいでしょう。

この「組体操」に相当する統一された英語表現はまだないようですが、上述のマスゲームが、「mass game」とよばれるため、これと区別されるために、「mass gymnastic」という表現がアメリカの一部のマスコミで使用されることがあるようです。

ただ、これは集団で行われる体操であり立体的な組み立てを必ずしも含まないのでマスゲーム「mass game」に近い表現です。

だんだんと話がややこしくなるので、整理すると、マスゲームとは、ダンブリングやピラミッドといった立体的な組み合わせを含まないもの、また組体操とは、そうした立体的体操を含むもの、ということでいいのではないでしょうか。

ウィキペディアの記述にもそのあたりの混乱があるようなので、両者の違いについては、いまここで結論を出すのはやめましょう。一応ここでは、従来から日本でいわれているように、「マスゲームは組体操を包含する」ということにしておきましょう。

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ところで、この組体操は、演目上の性質として高所からの落下、及びその衝撃で上肢切断、歯牙障害、せき柱障害などの事故事例が多発していることがわかっています。1983~2013年度の31年間に、学校の組体操において障害の残った事故が88件発生し、そのうち2012年度までの10年間で後遺症が残る事故は20件発生しています。

2012年度に小学校で起きた組体操による事故は6533件だそうで、さらに2013年度での事故事例は8500件超となっています。

静岡のある中学校では、ピラミッドを組んだあとに崩れ、下敷きになった生徒が頚椎骨折したため、両親が学校を相手に訴訟を起こしたこともありました。同様に各地で同様な事故が起こった結果、裁判沙汰に発展し、裁判所が学校側に賠償金の支払いを命ずる、という事例も増えてきました。

日本では国家賠償法に基づき、教員が国又は地方公共団体の公務員で、その職務を行うにあたって、故意又は過失によって違法に児童や生徒に損害を加えたときは、損害賠償責任を負うことになっています。ただし、損害賠償金を払うのは学校ではなく、国又は地方公共団体ということになります。

日本スポーツ振興センターによると、2013年度に組体操中の事故で災害共済給付制度で医療費が支給された件数は、全国の小学校で6349件、中学校で1869件、高校で343件にものぼっています。

学校側の責任問題にも発展するため、組体操を中止した学校も多く、相次ぐ事故の報告を受け、今年6月に文部科学省は全国の教育委員会に事故防止の対応を求める通知を出したばかりでした。

ところが、その矢先の先日の9月27日、八尾市立大正中学校で行われた体育大会で、10段ピラミッドが崩れ、下から6段目の男子生徒が右腕を骨折する、という事故がおきました。これにより、組体操に対する安全性が最近になって急にクローズアップされてきた感があります。

国際的には、五段を含めそれ以上のピラミッドの一斉崩落は事故の危険を伴うので、肉体的技術的訓練が高度に進んだメンバーしか披露できないそうです。が、日本ではこれに近い段数を生徒に強要しているところもあるようです。

人間ピラミッドは運動会の華、と言った向きもあるのでしょうが、危険を伴う人間ピラミッドを幼い生徒に行なわせることについては、父兄などからの反対意見も多数出てきており、組体操そのものも否定する向きも増えてきているようです。

そもそもは、高度に統率、指導された集団教育の成果を発表する目的で行われるものであり、教育の一環として行われてきたものがなくなるのは惜しい気がします。が、最近の子供は、バランスや筋力・筋持久力が衰えているのではないか、という意見もあり、そう聞くとなるほど事故が多いのはそのためか、とも思ってしまいます。

ただ、組体操すべてを廃止してしまうのではなく、これを団体で行わせることの意義や効果についての意見交換を学校関係者のあいだでしっかりとしたうえで、本当に危険なものは排除し、有益と思われるものは残すといった取捨選択をすればいいのだとも思います。

人間ピラミッドは、マスゲームの花形として世界中で行われており、スペインやブラジルのように子供の育成のために有効なものとして推奨しているような国もあります。

日本のこどもは人間ピラミッドもできないほどひ弱になった、といわれることのないよう、新しくできたスポーツ庁などでも、その存続に関しての議論を尽してもらいたいと思うしだいです。

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ノーベル賞と妾

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今日明日は、「寒露」と呼ばれる季節のようです。

「露が冷気によって凍りそうになるころ」ということで、雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、コオロギなどが鳴き始めるころだとされます。

このあと、さらに月末ころには「霜降」となり、紅葉が始まるとともに木枯らしが吹きはじめます。

毎年、この時期になるとノーベル賞の各賞が発表になります。そして今年は、昨日、一昨日と二人の日本人が受賞し、歓喜の声で列島が揺れています。

このあと、今日にはノーベル化学賞の発表があり、何人かの日本人候補の受賞が取沙汰されているようです。さらにはノーベル文学賞の候補、村上春樹さんの受賞もあるのではないかと噂されており、そのいずれかでまた受賞が実現すれば、トリプルでの受賞となり、本邦初となります。あるいは、4人とも同年受賞という快挙もありうるかも。

それにしてもこれまでいったい何人の日本人が受賞しているのかな、と改めて調べてみると、今回の受賞を含めて過去に25人もの受賞者がおり、この数は非欧米諸国の中で最も多いそうです。

自然科学系に限れば22人となり、この数は、欧米もすべて含めたすべての順位では、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスに次いで5位であり(2014年まで)、アメリカの250人、イギリスの78人は別格としても、フランスの31人に迫る勢いです。

ちなみに、人文文化系の3人は、文学賞の川端康内と大江健三郎、平和賞の佐藤栄作になります。日本がこれまで受賞したことのないのは、ノーベル経済学賞だけです。

なぜ、日本人はいつも経済学賞を受賞できないかについて調べてみたところ、賞に値する人は日本にも何人もいるものの、たまたま受賞のタイミングがこれまでなかっただけで、いつ日本に来ても不思議ではないという見方があるようです。その一方で、日本のこれまでの経済学者は、欧米の学者の追随者や解説者が多いからだという意見もあります。

今日の世界が直面している根源的な経済現象に対し、独創的な分析や解決法を理論的に提示し得ていないからではないか、ということがいわれているようですが、なるほど借金の額は世界一だし、長びいている不況から抜け出せないのも、アイデアに優れた経済学者がいないからなのかもしれません。

一方の、科学部門で日本人が実際に受賞したのは、第二次世界大戦終結後の湯川秀樹が初めてであり、敗戦直後の日本国民に大いに自信を与えました。以後、毎年とはいいませんが、自然科学部門では数年に一回の受賞を繰り返すようになり、21世紀に入ってからはほとんど毎年のように誰かが受賞するといったペースとなり、現在に至っています。

これほどまでに受賞のラッシュが起こっている理由としては、それはやはり科学技術に対する長年の投資効果が最近になってようやく出てきたからだろう、というのがもっぱらの見方のようです。

また、ノーベル賞受賞の基準としては、ノーベル委員会は、最低20~30年以上の累積的な業績を見るそうで、日本の場合、ようやくその基準に合致してきたということがあるようです。お隣の韓国では金大中氏が2000年に平和賞を受賞した以外、科学部門では受賞がありません。

これは、科学技術開発の歴史はあまりにも短い、ということがいわれているようです。韓国の場合、1966年の韓国科学技術研究所(KIST)の設立からわずか50年足らずということもあり、国の研究開発事業費規模の面でも80年代初頭まで100億ウォン(約10億円)水準にとどまっていたそうです。

基礎研究ではなく、産業化のために取り急ぎ目先の技術に関する開発研究だけが急がれていたことなども、ノーベル賞受賞者を輩出できていない理由のようです。

これは中国や台湾も同じであり、台湾は3人の科学部門の受賞者、中国は一人だけです。中国は他に2人の受賞者がいますが、このうち一人は、体制側の文学者、莫言(モー・イエン・文学賞受賞)であり、もう一人は、反体制派の活動家、劉暁波(リュウ・シャオボー・平和賞)氏です。

劉氏に至っては、2010年に「国家政権転覆扇動罪」による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され、4度目の投獄となり、現在も遼寧省錦州市の錦州監獄で服役中です。

ノーベル平和賞の選考で劉が候補となった時点で、中国政府はノルウェーのノーベル賞委員会に対して「劉暁波に(ノーベル平和賞を)授与すれば中国とノルウェーの関係は悪化するだろう」と述べ、選考への圧力と報道されていました。

このように、平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがわりと多く、このため、その度に受賞者の国の政府から反発を受けています。ナチス・ドイツの再軍備を批判したカール・フォン・オシエツキーもしかり、ソ連の際限ない核武装を批判したアンドレイ・サハロフもしかりです。

かつて中国に軍事占領されたチベットの亡命政権を代表するダライ・ラマ14世の受賞に、中国が反発したということもありました。また、ミャンマー軍事政権の圧政とビルマ民主化を訴えたアウンサンスーチーも政府によって弾劾されています。

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ま、それはともかく、こうした文系部門を除いた自然科学分野においては、日本は既にノーベル賞自体の提唱国、スウェーデンの受賞者数を抜き去っており(2014年時点、スウェーデンは自然科学部門で16人)、ほかにスイスやオランダ、イタリアやオーストリアといった先進国よりも多くの受賞者を出しています。

これからも科学技術の国、として胸を張って世界に名乗っていけるでしょうし、他国もそうした優れた人材を多数輩出している我が国の技術力を認め、尊重してくれるに違いありません。私もかつては技術者の端くれでしたから、大変名誉なことに思います。

ところで、昨日、ニュートリノに質量があることを突き止めたことでノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章さんは、東大大学院時代、2002年に同じく物理学賞を受賞した小柴昌俊さんの研究室の一員でした。

その後、加速器実験に興味を持ち、卒研にいそしみながら、ニュートリノ施設「カミオカンデ」の開発に携わり、カミオカンデでは建設作業に汗を流し、現場でケーブルの敷設などを行っていたそうです。

修士論文もカミオカンデの装置がテーマだったそうで、1998年、スーパーカミオカンデでニュートリノ振動を確認し、ニュートリノの質量がゼロでないことを世界で初めて示した戸塚洋二さんは、ともに小柴博士の弟子でした。梶田さんの兄弟子ともいえる存在で、同じくスーパーカミオカンデの完成に尽力した人です。

梶田さんとともに、有力なノーベル賞候補と目されていましたが、2008年に直腸ガンのため亡くなりました(66歳没)。師匠の小柴さんは、その戸塚さんの告別式での弔辞で「あと十八ヶ月、君が長生きしていれば、国民みんなが喜んだでしょう」と発言しており、ノーベル賞受賞のノミネートを期待されながら亡くなったその早い死去を惜しみました。

しかし、今回、もう一人の愛弟子、梶田さんがノーベル物理学賞を受賞したことで、戸塚の果たせなかった夢を実現させる形となりました。生前受賞できなかったことは、ご本人もさぞかし残念だったことでしょうが、あちらの世界でさぞかし喜んでおられることでしょう。

それにしても、このように亡くなった人にはノーベル賞は与えられないのかな、と調べてみました。

そうしたところ、やはりノーベル賞は「本人が生存中」が受賞条件なのだそうです。かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、実際、そうしたケースもあったようです。1931年の文学賞、1961年平和賞の2例があります。

しかし1973年からは、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要がある、とされました。が、さらにその後、ノミネートされていれば、発表があった時点で死亡していても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞のウィリアム・ヴィックリーは授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されませんでした。

また、2011年生理学・医学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人がほんの3日前に死亡していたことが判明しました。しかし、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになりました。

とはいえ、今回の受賞に先立ち、7年も前に亡くなっている戸塚さんの場合では、亡くなった当時にはノミネートもなく、残念ながらこの規定により、受賞は認められません。

各国の軍隊などでは死後にその階級が特進する、といったことがあり、また、日本の勲章も死後に授与されることもあるようですから、このように長年の研究に身を捧げて亡くなった研究者に対して何等かの救済措置はないのかな、と思ったりもします。

ノーベル賞では、現段階ではそうした仕組みはないようですが、賞を与える理由についても長年の間に少しずつ変わってきているようなので、将来的にはそうしたことも考慮に入れられるようになるのかもしれません。

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しかし一方では、このように日本人が受賞を逃す要因として、研究者側にも問題がないとはいえないようです。

ノーベル委員会が一次選考で受賞候補者を探す際、その候補者がいる国の研究者や過去の受賞者に、推薦状を出してくれるように依頼をするのだそうですが、それに対する返信率が、日本の場合は他国と比べて非常に低いのだといいます。それだけ、日本人の場合はノミネートに対して無頓着だ、という現実があるということのようです。

こうしたことがあまりにも多いので、いつだかノーベル委員会委員が来日した際、日本の科学技術審議会にこの点について苦言を呈したそうです。日本の研究者は、せっかく世界最先端の研究をやっているのだから、もう少しその研究内容をアピールする、ということを覚える必要があるのかもしれません。

が、これについては、かつての日本人研究者は英語などの外国語が苦手であった、ということなども関係しているのかもしれません。日本も一応、英語は義務教育で教えられてはいますが、外国のように日常的にこれを使って生活する、というレベルにはまだありません。

ところが、最近の日本人の受賞者の中には自分の専門を深めるために諸外国へ出かけて行って研鑽する人が多く、このため英語を初めとする外国語に堪能な方も多いようです。最近、急に受賞率が高くなってきている理由のひとつには、このように日本人研究者の国際化がより進んでいる、ということも関係しているのかもしれません。

これに対して、昔の研究者はいかにも外国語が苦手、という人が多くいました。かつて、1970年に北海道大学理学部の化学第二学科助教授だった、大澤映二さんという人がいました。

彼は、それまで存在が確認されていなかった、フラーレン (fullerene C60) という、数十個の原子からなる構造を単位とする炭素の同素体の存在を理論的に予言したものの、英語論文にせず邦文でのみ発表しました。そのため、1996年のノーベル賞を逃したといわれています。

この顛末は、この当時のイギリスの科学雑誌「ネイチャー」にも掲載されたといい、こうした日本人の英語下手は、かなり有名な話のようです。また、世界初のビタミンB1単離に成功した鈴木梅太郎も、ドイツ語への翻訳で「世界初」が誤って記されなかったため注目されず、1929年のノーベル賞を逃したといわれています。

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ただ、これよりさらに以前のノーベル賞候補者と言われるような優秀な日本人の多くは、語学にも堪能な人が数多くいました。

たとえば、1915年に世界初の人工癌発生に成功した、日本の病理学者、山極勝三郎は、28才でドイツに留学しており、このため非常にドイツ語に堪能でした。

帰国後に東京帝大医学部教授に就任。病理解剖学を専攻し、特に癌研究では日本の第一人者でした。ウサギの耳にコールタールを塗布し続け、人工癌の発生に成功し、ノーベル賞候補といわれました。が、1926年のノーベル賞は癌・寄生虫起源説のヨハネス・フィビゲルに授与されました。

ノーベル賞委員会では、当初、共同受賞、という意見もあったようですが、フィビゲルは山極が科学界に入ってくる以前に、「発見の根拠となる素晴らしいアイディアを持っていた」として、当初の意見を変更し、フィビゲルの単独受賞を決めました。

選考委員の一人、フォルケ・ヘンシェンは、その後1966年に来日し、東京で開かれた国際癌会議の際に行った講演で「私はノーベル医学賞を山極博士に贈ることを強力に提唱した者です。不幸にして力足らず、実現しなかったことは日本国民のみなさんに申しわけがない」と述べたそうです。

このときの会見でヘンシェンはまた、選考委員会が開かれた際に「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」という発言や、同様の議論が堂々となされていたことも明かしたといいます。

すなわち、この当時には、語学力云々よりも、日本人に対する偏見のようなものが多少なりともあったことがノーベル賞の受賞を阻む原因であった、ということなどが推察されます。

日本人としての初受賞は、1949年(昭和24年)の湯川秀樹博士ですが、その後23年もの間受賞がもたらされなかったのも、かつてはこうした偏見があり、それがぬぐえなかった、ということが実際にあったことなのかもしれません。

湯川博士は、戦前から既にその受賞理由である、中間子の存在の予言をしていましたが、そんな中の1935年(昭和10年)、すでに日中戦争中であった当時に、物理学の国際会議の最高峰、ソルベー会議に招かれ、このときにアインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つに至り、国際的に評価されたことが受賞原因になったともいわれています。

湯川博士の次にノーベル賞を受賞したのは、1965年の朝永振一郎博士(量子電気力学分野での基礎的研究で受賞)ですが、朝永博士もまた、ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学ぶなどの国際派でした。

湯川博士や朝永博士以降もぽつぽつと受賞者は出ていますが、あいかわらず日本人の国際化は進んでいなかったとも思われ、かつそうした内気な性格が国際的な偏見を解消するために支障となっていた、ということは確かにあるかもしれません。

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しかし、実は日本人としては、湯川博士以前にもノーベル賞の候補者が出たことがあります。

第1回のノーベル賞がそれで、既に北里柴三郎や野口英世などが候補としてエントリーされていました。しかし、受賞には至らず、野口に至っては、3度もノミネートされたのに、結局受賞を逃しました。

最初と2二度目に候補とされた時は、当時最大の成果とされた梅毒スピロヘータの純粋培養の追試に誰も成功せず、業績に疑問が持たれた事が影響したようです。また、エクアドルでの黄熱病研究が認められたのは3度目に候補とされた時ですが、この時も過去の研究との不一致から疑問が持たれた、とされています。

そして、同じくノーベル賞候補といわれた北里もまた、共同研究者であったベーリングが受賞し他のにもかかわらず、受賞を逸しました。

北里は、1890年(明治23年)に血清療法をジフテリア(ジフテリア菌によって起こる上気道の粘膜感染症)に応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表しました。

これにより、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に北里の名前が挙がりましたが(15名の内の1人)、結果は抗毒素という研究内容を主導していた彼ではなく、共同研究者のベーリングのみが受賞しました。

北里が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル賞委員会や、選考に当たったカロリンスカ研究所が、北里は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイデアはベーリング単独で創出したと見なしたためでした。

賞創設直後の選考であり、のちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなども要因としてあげられています。が、このほかにも、北里に対する人種差別があったのではないかといわれており、野口英世が同じく受賞を逸した最大の理由は東洋人への差別意識であったのではないか、と取沙汰されています。

この北里柴三郎も野口英世も、子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い人物です。野口英世に至っては、2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像になっているほどです。

実は二人は懇意の間柄であり、野口は北里研究所に研究員として勤務したことがあり、柴三郎とは形式上師弟関係です。

ともに幕末から明治初めの激動の時期に生まれており(北里は1853年(嘉永5年)、野口は1876年(明治9年))、明治人の気質を多分に持った人です。医学界の巨匠とも言える2人ですが、共通点があり、意外なことにそれは「女好き」という点です。

野口は、会津若松で書生をやっていた若いころ、洗礼を受けたキリスト教会で出会った6歳年下の女学生、山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送っていますが、女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受けています。

また、渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となりました。さすがにアメリカ人女性、メリー・ダージスと結婚したあとはその素行は直ったようですが、若いころは女遊びが大好きでした。

清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省より要請のあった際、国際防疫班に選ばれましたが、このとき用意された支度金96円(現在価値で40万円ほど)はすべて放蕩、すなわち花街での女遊びで使い果たしてしまっています。

一方、「日本の細菌学の父」として知られ、現在の東京大学医科学研究所や、北里大学北里研究所病院の創立者でもある北里も、実は大の女好きだったといわれています。新橋の近江屋とん子こと小川かつという、22歳の芸者を大金で身請けしており、当時は飯倉四ツ辻といわれていた、現在の港区飯倉に家を借りて住まわせ、ここに足しげく通っていました。

その後麻布町二番地丹羽五郎の旧宅を3千円(現・約1200万円)も払って購入して妾宅としており、下女まで雇って養っていたそうです。

もっとも、明治の初めのころまでは妾は法的にも認められていました。1870年(明治3年)に制定された法律では、妻と妾は同等の二等親と定められており、妻と妾が同等の権利をもった、ということではありませんが、「妾」の存在が公認されていました。

当時は、貧しい親が借金と引き換えに、娘を「芸妓・酌婦・娼妓」として「売る」という行為は合法でした。売られた彼女たちは、借金を返すためには売春をしなければならず、契約書には「借金返済のため、雇い主からの指示があれば、醜業を嫌がらずにします」という条項がありました。

こうした契約が法的にも認められていたわけですが、この法律はその後、1880年(明治13年)の改正でこの「妾」に関する条項が消えたため、その後認められなくなりました。

が、それ以前に入籍した妾は「すべて以前の通り取り扱う」とされて認められており、妾が全廃されるのは、1898年(明治31年)に戸籍法によって戸籍面からも完全に妾の字が消えてからです 。

しかし、法律が全廃されてからも明治から大正ころまでには、まだ妾を持っていてもまぁいいじゃないか、という雰囲気がありました。

妾を持つというのは、政治家や高級官僚のほか、財界人と言われるようなクラスの経済人、大地主などでしたが、庶民からはかけ離れた所得や資産を持つ人でもあり、お殿様のような存在でもあったので、「まあまぁ、許される行為」とみなされていたようです。

高い地位にあるとされるような人は、むしろ堂々と妾を持つ、という雰囲気すらあったようであり、妾を持つことが成功のステータスというところもあったでしょう。研究者として成功し、かなりの財をなしていた北里もそうした一人でした。

しかし、その一方で日清戦争や日露戦争後の不況で苦しむ人々にとっては、女遊びや妾といった行為を好意的に見ようはずもなく、陰では彼等を成り上がり者として嫌い、蔑んだ目で見ていました。

上述の北里の妾に関する情報も、ジャーナリストの先駆けといわれる、黒岩涙香による「万朝報(よろずちょうほう)」という新聞におけるゴシップ記事によって庶民にもたらされたものです。毎号、こうした上流階級のスキャンダルが報じられるたびに同誌はバカ売れしたといいます。

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北里がその後この妾をどうしたのか、二人の間に子を設けたかどうか、といった情報をネットで探してみましたが、出てきませんでした。

北里と野口という医学界の巨匠がこうしたスキャンダルによってノーベル賞を逸したか、といったことも調べてみましたが、そんな話もないようです。

が、2015年の現在においては、賞を与えるにあたっての素行調査もあるでしょうし、過去において女性スキャンダルあるような人達をノーベル賞候補にあげる、といったことはとんでもないことなのかもしれません。

しかし、だからといって彼等の業績が揺るぐものではありません。

北里は、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)の創立者であり、また初代所長並びに北里大学の学祖でもあります。先日、ノーベル生理学・医学賞を受賞した、大村智さんは、北里の創立した北里大学の教授を長く勤め、ここでその受賞の要因となる研究の基礎を仕上げました。創設者の北里柴三郎の恩恵を受けた一人といえるでしょう。

また、福沢諭吉とも親交の深かった北里は、その晩年には、福沢との長年の恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となっています。

さらに明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目しあうなどばらばらでしたが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として大日本医師会を誕生させました。

しかし、1931年満78歳で脳溢血により没。1931年には、勲一等旭日大綬章を受けています。しかし、その功績の割には、野口ほど人気がないのはなぜでしょうか。あるいは、比較的裕福な家に生まれ育った上、厳格な人だったようなので、野口英世ほどの人間味が感じられないからかもしれません。

一方の野口英世はわずか51歳の若さで亡くなっていますが、その若いころの奔放なエピソードなども語り継がれ、貧しかった家庭から努力して偉人になった人、として敬われています。渡米して、海外で実績を上げた、という点では、最近のノーベル賞受賞者のような国際派の先駆けともいえます。

北里柴三郎もまた、ドイツベルリン大学へ留学してコッホに師事し業績をあげており、国際的にも認知度の高い人でした。現在のように日本人が海外へ積極的に出かけて行って実績を作る、という雰囲気を作ったのは、もしかしたらこの二人の功績なのかもしれません。

なので、今後もし、日本版のノーベル賞ができたとしたら、この二人はぜひともその受賞者に推薦したいところです。

女好き、という欠点があったとしても……ですが、その点、日本人が世界にも認めてもらえるようになったこの時代には、日本ルールとして認めてもらってもいいのかもしれません。日本ノーベル賞候補者は、二人まで妾を持つことが許される、あるいは持つことを受賞条件とする……とか。

……さて。

このあとさらなるノーベル賞の発表も控えているようですが、日本人の受賞はあるでしょうか。期待したいところです。

が、私としてはもっと気になるのは、今晩の広島×中日のセリーグ最終戦。広島は果たしてクライマックスシリーズに進出できるでしょうか?

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レモンよりウメ?

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今日は、「レモン記念日」だそうです。

1938年のこの日に、彫刻家で詩人の高村光太郎の妻・智恵子が亡くなり、亡くなる数時間前に彼女がレモンをかじる姿を光太郎がうたった、「レモン哀歌」にちなんでいます。

「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた・・・私の手からとつた一つのレモンをあなたのきれいな歯ががりりと噛んだ 」という有名な詩で、その後出版された光太郎の詩集、「智恵子抄」の中に収められています。

これに続いて、「トパアズいろの香気が立つ その数滴の天のものなるレモンの汁はぱつとあなたの意識を正常にした あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ」と続きます。

統合失調症、つまり昔よく言われていた精神病に罹っていた彼女は、最後にこうして正気に返り、その直後に51歳という若さで亡くなりました。

光太郎と同じく芸術家だった彼女は、夫の彫刻家としての仕事を優先し、画家になるという自分の夢をあきらめた、というのは有名な話です。

しかし、夫の彫刻もまるで売れず、結婚後は、金銭的に苦しい窮乏生活を送っていましたが、32のとき、実家の酒屋、長沼家が破産したあと、一家離散するなどしたために心を痛めました。また、結婚以前から病弱(湿性肋膜炎)であったこともあり、このころから統合失調症の兆候が現れるようになりました。

その後長らく療養生活を送っていましたが、46歳のとき、大量の睡眠薬を飲み自殺を図ります。しかし、これは未遂に終わり、3年後にその一生の最後の地となる東京・品川にあった、ゼームス坂病院に入院しました。

この病院では、その病状は多少の改善を見せ、彼女はかつての絵画に代えて、多数の切り絵(紙絵)を創作するようになりました。これは、時折見舞いに訪れる光太郎を驚かすとともに、喜ばせたといいます。しかし、1938年10月5日、ついに粟粒性肺結核のため亡くなりました。

その最後のときを、光太郎は、上述のレモン哀歌でこう書いています。

「それからひと時 昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関ははそれなり止まつた」

また、その後しばらく時を経た心情をも綴っており、「写真の前に挿した桜の花かげに すずしく光つレモンを今日も置かう」とも書いています。

たしかに、レモンの酸味や香りは非常に印象的であり、最後に智恵子ががりりと噛んだその端からレモン汁が飛び散った様子などを光太郎は鮮やかに記憶していたのでしょう。この詩を創るにあたっても、最愛の亡き妻を表すシンボルとしてぴったりだと思ったにちがいありません。

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このレモンという果実ですが、この実がなる木の原産地はインド北部のヒマラヤで、樹高は3mほどにもなります。ミカン科ミカン属の常緑低木で、この手の柑橘系の木によく見られるように、枝には棘があります。紫色の蕾を付けますが、咲いた花は白が多いものの、ピンクのものもあります。

果実はご存知のとおり、ラグビーボール形で、先端に乳頭と呼ばれる突起があるのが特徴です。レモンは柑橘類の中では四季咲き性の強い品種であり、鉢植え・露地植えのいずれでも栽培が可能ですが、早期の収穫を目指す場合は鉢植えの方が早く開花結実するそうです。

棘のない種類もあるようですが、日本では棘有りのリスボン種とユーレカ種と呼ばれる種類を栽培する農家が多いようです。国内での生産量1位は、広島県であり、尾道市の瀬戸田町など島嶼部での栽培が多く、「瀬戸内・広島レモン」として、全国に出荷されています。

広島県だけで国内生産シェアの51%を有しますが、ついで生産量が多いのは愛媛県であり、両県だけで日本国内におけるレモン生産量の74%を占めています。

しかし、輸入ものも多く流通しており、主な輸入国はアメリカ合衆国です。このほかチリからも輸入しており、この2国からの輸入が97%を占めます。チリは南半球にあるため、日本の農家が栽培できない冬場にチリ産のレモンの輸入量が増えるようです。

その果汁は独特で、砂糖と合わせるとさわやかで甘酸っぱい味となり、製菓材料としても好まれます。ジュースやレモネード、レモンスカッシュなどの清涼飲料水に加工したり、レモンゼリーやレモンタルト、レモンメレンゲ・パイなど、レモンを使用した菓子は数多く存在します。

また、レモンに含まれるビタミンCは、人間の体にとっては必要不可欠なものです。ビタミンCを含まない食事を約60 ~90日間続けた場合、体内のビタミンCの蓄積総量が300 mg以下になり、出血性の障害をもたらす「壊血病」を発症すると言われています。

出血性の障害が体内の各器官で生じる病気で、脱力感を感じたり、体重減少、鈍痛に加え、皮膚や粘膜、歯肉の出血およびそれに伴う歯の脱落、変化があります。また、感染への抵抗力が減少し、古傷が開くキズが治りにくくなるほか、貧血になる、といった症状にも見舞われます。

1日に2.5mgのビタミンCしか摂取しない期間が約3年間続くと老化が速く進行し、死亡する人が出てくる可能性もあるそうです。同じビタミンでも、ビタミンB1が欠乏すると、いわゆる脚気(かっけ)になることも知られており、これもビタミン欠乏症の一つです。こちらも心不全と末梢神経障害をきたして死に至る場合もあります。

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このビタミンCを人間は自分の体の中では生成できません。ヒトを含むサル目の一部やモルモットなどだけであり、その必要量をすべて食事などによって外部から摂取する必要があります。かつては人類も体内でビタミンCを生成できたそうですが、進化の過程でその機能を失いました。

ビタミンC合成能力を失ったにもかかわらず継続的に生存し得た最大の理由は、果物、野菜等のビタミンCを豊富に含む食餌を日常的に得られる環境にあったためです。なお、鳥類は現在でもビタミンCの合成能力があるそうで、キツネザルなどの一部の哺乳類でもビタミンC合成能力があるそうです。

レモンはこのビタミンCを大量に含んでいることはよく知られており、農林水産省はかつて「ビタミンC含有菓子の品質表示ガイドライン」によって定めていました。しかし、このガイドラインはなぜか2008年に廃止されており、このため各メーカーとも、「レモン何個分のビタミンC含有」などと、結構いいかげんな表示をしているようです。

が、過剰摂取したからといって体に悪いわけではなく、体内で吸収されなかった余剰のビタミンCは尿中に排出されます。しかし、数グラムレベルで一度に大量摂取すると、下痢を起こす可能性があるそうなので、注意が必要です。

逆に、ビタミンCが足りないほうが大きな問題であり、このため、その昔は壊血病対策として船にレモンを積み込むことが盛んに行われていました。

16世紀から18世紀の大航海時代には、壊血病の原因が分からなかったため、海賊以上に恐れられていました。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見の航海においては、180人の船員のうち100人がこの病気にかかって死亡しています。

1753年にイギリス海軍省のジェームズ・リンドは、食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物、特にミカンやレモンを摂ることによってこの病気の予防が出来ることを見出しました。

その成果を受けて、1768~ 1771年のキャプテン・クックの南太平洋探検の第一回航海では、ザワークラウトや果物の摂取に努めたことにより、史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航が成し遂げられました。

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ザワークラウト(Sauerkraut)は、ご存知の方も多いでしょうが、ドイツ発祥のキャベツの漬物で、いわゆる「すっぱいキャベツ」です。この酸味は乳酸発酵によるものであり、しんなりとしたキャベツの食感も熱を加えたものではありません。このため、大量のビタミンCが残ります。

当時の航海では新鮮な柑橘類を常に入手することが困難だったことから、ザワークラウトに目が付けられたわけですが、このほかにもイギリス海軍省の傷病委員会は、抗壊血病薬として麦汁、ポータブルスープ、濃縮オレンジジュースなどをクックに支給していました。

ところが、これらのほとんどは、今日ではまったく効果がないことが明らかになっています。

たとえば、濃縮オレンジジュースは加熱されることによって、ビタミンCの多くを失います。レモンも同様であり、加熱すると空気中の酸素や水分との反応が促進されて分解しやすくなります。このため、近年では、レモン果汁100%の加熱型濃縮還元ジュースでは、超音波による果汁濃縮が主流となっています。

超音波加湿器と同じ原理であり、果汁液の水分のみを飛ばすことによって果汁を濃縮するシステムです。加熱式にくらべ、エネルギー効率が良く、工場の冷房費用もかからないため主流となったようです。しかし、この方式でも加熱殺菌は行われるため、やはりビタミンCは壊れてしまいます。

そのため高栄養価を謳う野菜ジュースは別途、合成抽出したビタミン類などが添加されている場合も多いようです。

このように、クックが持って行った多くの食材に含まれるビタミンCも、熱を加えることによってほとんど壊れており、結局、おもにザワークラウト以外のものはほとんど役に立ちませんでした。

にもかかわらず、クックはこの航海からの帰還後に、麦汁なども壊血病に効くとして推薦したりしたものですから、その後も長期航海における壊血病の根絶はなかなか進みませんでした。

1920年になってようやく、イギリスの生化学者、ジャック・ドラモンドがオレンジ果汁から抗壊血病の予防となる因子を抽出に成功し、これをビタミンCと呼ぶことを提案しました。 また、1933年には、ポーランドの化学者、タデウシュ・ライヒスタインが、世界で初めて、有機合成によるビタミンCの合成に成功しました。

この功績だけではなく、その後ライヒスタインは、副腎皮質ホルモンに関する研究などにより、ノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

レモンのその他の利用方法としては、レモンの葉っぱは調味料として用いられることがあり、中国の広東料理の蛇スープでは定番の薬味となっています。また、レモンには大量のクエン酸(4%から8%)が含まれており、これを利用して水垢や汚れを落とすことができます。このため、家庭内で掃除に用いられることがあるようです。

さらに、このクエン酸の効果により、リンゴなどの切り口が褐色に変色しやすいものにレモン汁をかければ、変色を抑えることができます。酸性が強く、またビタミンCを多く含むことから美白、美顔用の材料にも用いられることがあります。

が、実はその効果は科学的には証明されていないそうで、むしろ、皮膚炎を起こすリスクもあるといいますからこちらも注意が必要です。

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そのほか、レモンの皮にはリモネンという成分が含まれており、天然物由来の溶剤としてよく利用されています。具体的には、油汚れを落とすための洗浄剤や、ガム剥がし用の溶剤の成分として使用されるほか、発泡スチロールをよく溶かすため、発泡スチロールのリサイクルに利用されています。

意外なことに、レモンからは油もとれます。果皮を低温圧搾、または水蒸気蒸留することで精油を抽出することができ、これを湿布薬や、咳止め薬の成分として利用します。また、この精油は、ほかに香料として使える可能性があります。

しかし、抽出法によって成分組成は異なるそうで、低温圧搾法で得られる精油の香りは、非常に短時間しか持続しないという欠点があるようです。このため、この精油から「テルピン油」の素材となる「テルペン」という物質を取り除く、という二重の操作を加えたものはある程度長持ちすることがわかっています。

これは「レモン油」として販売もされており、食品、飲料に香料として添加されています。しかし、毒素が含まれている場合があるので、皮膚への使用は推奨されません。ただ、香りだけ楽しむのなら有害作用はなく、リラックス作用があることが脳波の計測などによって示されています。

その芳香は目を覚ますほどのきついものですが、慣れると虜になってしまうような魅力があります。またその味わいも、酸味の中のほのかな甘みがあり、こちらのほうでもとりこになってしまう人も多いようです。

このため、レモンといえば、恋愛、とくに初恋と関連づけられることが多いものです。「ファーストキスはレモンの味」という表現は現在では古臭いといわれてしまいそうですが、実際、そうしたレモンの味に淡い初恋感を感じてしまう人は多いでしょう。

フレッシュなイメージがあるため、「ザ・テレビジョン」という雑誌では、その表紙に登場する人物が必ずレモンを持たせているそうです。レモンの花言葉は、花言葉は、「心からの思慕」「香気」「誠実な愛」「熱意」などだそうで、まさに若さや幼い恋の象徴です。

ところが、レモンにこうしたいい印象を持っているのは、日本だけのようで、英語圏ではむしろイメージは悪く、一般には、「無価値」、「不完全」を示す言葉になっています。

アメリカでは、レモンといえば、中古車、というイメージを持つ人が多く、「レモンカー」といえば中古車を示すスラングです。

こうした中古車の市場においてはよく、「情報の非対称性」ということがいわれます。これは、例えば、「売り手」と「買い手」の間において、「売り手」のみが専門知識と情報を有し、「買い手」はそれを知らないというように、双方で情報と知識の共有ができていない状態のことを指す経済用語です。

ある市場において、それを売ったり買ったりする各取引団体が持っている情報に差がある場合、いわゆる、売り手市場や、書い手市場といった不均衡が生まれます。つまり、情報の非対称性があるときには、一方に不利益がもたらされることもあり、中古車市場では、一般にクルマの知識に乏しい買い手が不利、とはよく言われることです。

アメリカでは、中古車市場のことを、「レモン市場」ともいうそうで、これはつまり、売られている中古車は玉石混淆だ、ということです。よく知らないままに、セールスマンに騙されて買ったレモンは、実は腐っていた、ということもあるわけです。

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調べてみると、この「レモン市場」という言葉は、その昔、フォルクスワーゲンのビートルがアメリカで販売されたときの、意見広告から派生した言葉のようです。このときの、広告写真には、大きなVWビートルの写真が掲げられ、その下にはこうした意味のことが書かれていました。

「我々は粗悪なレモン(低品質な車のこと)を摘む。そしてあなた方消費者は、プラム(梅)を得るだろう。」

レモンというのは、収穫したときには大きさも不揃いなものが多く、また痛んでしまうことも多いため、出荷のためには品質の良いものの選別作業が欠かせません。これに対してプラムは小粒ながらも大きさのそろっているものが多く、一般に痛みもそう多くありません。

つまり、この当時の粗悪な品質のアメリカ車を揶揄し、これをつまんで捨てる代わりにより小粒で品質の整った梅を選ぶ、すなわちアメ車よりも性能の良いドイツ車を買うことを勧めた広告であったわけです。

この広告は評判を呼び、その後アメリカでのVWビートルの売り上げは爆発的に増えたそうです。アメリカだけでなく、その他の国へもこのビートルは多数輸出され、1950年代から1970年代にかけて大きな成功を収め、おびただしい外貨獲得によって、戦後の西ドイツ経済の復興に大きく貢献しました。

そして、その後世界に冠たる自動車メーカーにのしあがりましたが、そこへ今回の不正問題です。

米環境保護局(EPA)はフォルクスワーゲンが排ガス規制逃れのために一部ディーゼルエンジン車に違法ソフトウエアを搭載していたと告発し、意図的に規制当局を欺こうとしていたとみており、2兆円以上の罰金を科される可能性もあるといいます。

売り物にしてきた「クリーン」なブランドイメージを裏切ったVWは高い代償を支払う形になったわけであり、自らがかつて意見広告したように、自社製品もまた「レモンカー」であることがバレてしまったわけです。

かつて、このVWと提携を目指していて、この事件発覚直前に提携を解消していた、日本の自動車メーカー、スズキは、これを「神回避」した、とネット上で大きな話題となっているそうです。

もともとスズキの軽自動車のノウハウと、VWのディーゼルエンジン技術の技術交換による提携とも言われていたそうです。結局のところVWから技術の提供が行われなかったことが提携解消の裏側にあったと言われているようですが、実はクリーンディーゼル技術が嘘だったため提供することができなかったのが正直なところでは?との噂もあるそうです。

日本国内では軽自動車の好調を支え、リードしてきたスズキですが、もしVWグループ傘下に残っていた場合、売却など多かれ少なかれダメージを負っていたのは確実です。VWの大量のスズキ株を取り戻したタイミングといい、まさに危機一髪の神回避といえるでしょう。

願わくば、VWのようなレモンカーが生まれるような芽を今後とも摘んでいただき、今後もプラムのような素晴らしい車を作り続けていただきたい、とも思う次第です。

ちなみに、梅の花言葉は、「高潔」「忠実」「忍耐」だそうです。自動車界にあって孤高の旅を続ける、スズキにぴったりのイメージではないでしょうか。

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天までのぼれ

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10月になってしまいました。

再三このブログでも書いていますが、今年は何もいまだに「何も成し遂げていない感」があり、不完全燃焼気味です。

が、いらついたところで、時は過ぎるのは待ってくれません。自嘲気味に、今年はもう何もやらないぞ!と思ってみたとしても、生きている以上何もしないわけにはいきません。

じっと座っていても息はしているわけで、目に見えなくても新陳代謝で古い細胞は新しい細胞に入れ替わっていっているはずです。呼吸はしない、新陳代謝もしない、というのは仙人以外はありえず、さもなくば死人になってしまいます。

ならば、せめて何も考え事をしないために、ひたすらに「寝る」というのも一手ではあるのですが、悲しいかな、人間はある一定時間睡眠をとると、あとはどうしても目が覚めてしまいます。

なので、諦めて今生きている時間こそを一生懸命生きる、というのが正しいあり方なのでしょうが、そんな道徳の時間に教えられそうなことをいわれても、今さら納得できません。

過去にこんなときはどうしていたかな~と考えてみます。すると……こういうときはたいてい旅に出ていたように思います。旅がだめなら、近所でもいいから散歩をする、ハイキングに行く。それだけでもかなり気分が変わってきます。

旅には目的地のある旅と無い旅がありますが、目的地のない旅です。旅の目的地としてどこそこへ行く、と決めて出かける人も多いいでしょうが、あてもなくぶらりと家を出て、その移動プロセスを愉しむ旅もあり、そこで何らかのインスピレーションを得ることを目的とする旅もあります。

私も過去に色々な所へ行きましたが、そうした旅のほうがむしろ印象に残っているような気がします。また目的地だけでなく期間も定めず、あてどもなく長期の旅に出る人もいますが、これは旅というよりもむしろ「放浪」です。

古来より遊牧民は生活のために放浪を繰り返してきましたが、これは牧畜(遊牧)のために移動しているのであって、生活のためです。が、そうではなく、人生とは何ぞや、といった哲学的な観点から何かを求めて放浪をする、という場合もあります。

とくに何の意図持たず、目的もなく放浪を繰り返す人々のなかには、その放浪の体験やそこから得た印象を元に、優れた文学や絵画を生み出す人も多く、音楽などその他芸術でも放浪体験によってより昇華した作品を生み出すことができた、という芸術家は多いようです。

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日本語では「放浪」ですが、英語ではローム(roam)、ノマド(nomad)、バガボンド(vagabond)、ストレンジャー(stranger)、ストロール(stroll)、ドリフター(drifter)などなどいろいろな表現があります。

ロームとは、なんのあてもないまま歩き回るという意味であり、ノマド(ノーマッド)は牧歌的放浪、ストロールとは、散歩などの場合に使用され、日本語では「ぶらつく」といった程度の意味です。

が、おそらく一番日本語の「放浪」に近いのは、ドリフターもしくは、バガボンドでしょうか。ドリフターといえば、おなじみドリフターズの語源ですが、ロームに比べるとより長期間ぶらりと旅に出ることをさします。また、バカボンドは漂泊者、すなわちアウトローのことです。

井上雄彦さんという漫画家さんによる同名の漫画がありますが、これは剣豪・宮本武蔵が戦国から江戸時代の転換期に真の剣術とは何かを求めて、日本中を漂白する物語です。

また、ボヘミアンというのがありますが、これは伝統や習慣にこだわらない、あるいは世間に背を向け、自由奔放な生活をしている人達のことです。ボヘミアン・アーティストといえば、そうした奔放な生活のなかで美を追求する芸術家や作家を指します。

もともとは、北インド起源の移動型民族であるジプシーのことを指していましたが、彼等は、現在のチェコにあたる、ボヘミア地方からやってきたことから、「ボヘミア人」=ボヘミアンと呼ばれるようになりました。最近では、こうしたジプシーたちは、自分たちのことをロマ(単数形はロム)と呼んでおり、こちらのほうが欧米では定着しているようです。

伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている人達が多く、「簡素な暮らしで、高尚な哲学を生活の主体としている」という評価がある一方で、「奔放で不可解。貧困な暮らしで、アルコールやドラッグを生活の主体とし、セックスや身だしなみにだらしない」とされるひとたちもいるようです。

過去には、パリやロンドンでこうしたロマたちのコミュニティーがたくさんあったようですが、最近では縮小し、北米やオーストリアにその中心が移っているようです。そして、彼等はヒッピーとも呼ばれるようになりました。

現在、アメリカでは、ニューヨークやワシントン、カナダのモントリオール・トロントなどにこうしたかつてのボヘミアンこと、ヒッピーたちのコミュニティーがあります。

さて、だからといって私もヒッピーになって放浪の旅に出たいか、といえばそこまでの意気地はなく、せいぜい小旅行に出かけるくらいのものでしょう。今の生活を捨ててまで芸術心や美的感覚を養いたいか、といえばそうでもありません。

が、結局は安定した生活にしがみついているだけじゃないか、といわれればそうなのかもしれません。おそらくはそのあたりに最近の不振の原因があるのでしょう。

なので、何も考えずぶらりと一ヶ月でも二カ月でも旅をしてきたい、などと思ったりもするのですが、いかんせん先立つモノが……

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仮に金に糸目をつけずにどこへ行ってもイイよ、と言われた場合、どこへ行きたいか、と問われれば、できれば宇宙旅行をしてみたいと思ったりもします。

現在では、既に旅行先としては、宇宙も選択肢のひとつになっています。宇宙へ行く行為というのは、通常は、国家政策や科学的研究を目的と宇宙開発のために行われものですが、宇宙旅行、すなわちSpace tourismといえば、もっぱら個人的な興味や関心のもとに宇宙空間に行くことをさします。

SFの世界では、1865年にフランスのジュール・ヴェルヌによって「月世界旅行(De la Terre a la Lune)」という小説が出されて人気を博しました。また、ヴェルヌは4年後の1869年にも、この小説の後編として、にあたる「月世界探検(Autour de la Lune)」を発表しています。

ヴェルヌは270mの巨大な大砲を用いて宇宙空間に到達する方法を科学的説得力のある内容で描いており、赤道付近に発射場を設置することなど、一世紀以上先に実現されることになる宇宙開発の基礎をいくつかの点で言い当てています。

また1901年には、イギリスのハーバート・ジョージ・ウェルズによって「月世界最初の人間」が発表され、これを元に翌年ジョルジュ・メリエスによって製作された、同名のモノクロ・サイレント映画も有名です。こちらも宇宙旅行のためには、砲弾型ロケットが用いられ、大砲で発射されて月へ向かいます。

この映画では、月は擬人化されており、このロケットはこの人面の月の右目に着弾。無事に着陸した6人は月面を探検しますが、月は思いのほか寒いところで雪まで降っていました。寒さに耐えられなくなった彼等は洞窟の中へ避難しますが、そこへ月人が現れ、彼等は捕えられてしまい、月の王様のもとに突きだされ…というコメディータッチの作品です。

その後、月旅行を扱った映画としては、かの有名なアーサー・C・クラーク原作の映画「2001年宇宙の旅」があります。こちらも地球から月に向かう宇宙旅行が描かれていますが、飛行船は「ロケットプレーン」に進化しており、地球軌道上の宇宙ステーションにランデブーした後、月着陸船に乗換え、月に向かうというものでした。

この映画はコメディーなどではなく非常にまじめなもので、宇宙での機内食、客室添乗員の履くグリップシューズ、宇宙トイレなど、綿密な科学考証のもと、宇宙旅行の様子が詳細に描かれたもので、映画史上不朽の名作、とはよくいわれることです。

この映画が公開されたのは、1968年ですが、“人類が宇宙を旅する”という広義の宇宙旅行まで含めるならば、すでにこれより7年前の1961年には既にソ連のユーリイ・ガガーリン少佐がボストーク1号に乗って地球を1周しています。

ただ、この時の「旅」はわずか108分にすぎませんでした。しかし、人類初の有人宇宙飛行であることには違いなく、「地球は青かった」という名言もまた歴史に刻まれました。が、これはあくまで国家政策によって行われた宇宙開発の一環での宇宙旅行であり、その後もソ連および米国で行われた宇宙行もまたすべて国家事業です。

「旅行」というのは、個人的な関心によって行われたものであり、であるがゆえに旅行費用も自己負担でなくてはなりません。そうした意味では、人類初の宇宙旅行が実現したのは、2001年にアメリカの大富豪がソユーズの定期便に乗せてもらう形で実現した例が嚆矢とされます。

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全額自己負担で宇宙に旅立つ、という世界初の試みを実現したのは、デニス・チトーという人です。実業家として成功した人ではありますが、元々宇宙開発関係の技術者でもあったようで博士号を持ち、米航空宇宙局(NASA) ジェット推進研究所に勤めていました。

彼は国際宇宙ステーション (ISS) に人員と物資を補給するソユーズの定期便でロシアから旅立ち、2001年4月28日から5月6日までISSに滞在しましたが、この間、数々の実験業務にも携わりました。

それに続き、翌年には、2002年には南アフリカ共和国の実業家マーク・シャトルワースが宇宙旅行を実現しています。ケープタウン大学でビジネス科学の学位を取得し、卒業後に設立した電子認証サービス会社を成功させ、その資金を元手にベンチャーキャピタルとアフリカの教育を促進する非営利組織 (NPO) シャトルワース財団を設立しました。

2001年にロンドンへ移住。その後、アフリカ人として世界初の宇宙飛行を行うために、嘗てソ連時代に、ガガーリン宇宙飛行士訓練センターがあり、現在でもロシアの宇宙飛行士の訓練機関が集中する、モスクワのスターシティという場所で訓練を受けました。

2002年4月25日に打上げられたロシアのソユーズTM-34に、民間人の宇宙飛行関係者として約2000万ドルを支払い搭乗し、2日後、ソユーズ宇宙船は国際宇宙ステーションにドッキングしました。彼もまた、デニス・チトーと同様に、この宇宙ステーション滞在中に種々の実験に携わっており、おもに、エイズとゲノム関連の研究に参加しました

11日の滞在後、ソユーズTM-33で地球に帰還しましたが、この宇宙旅行の成功で世界的にも有名になりました。この宇宙滞在中、ネルソン・マンデラ南アフリカ元大統領と交信をした際に、同席していた14歳のミカエル・フォスターという、南アフリカ人少女がシャトルワースにプロポーズをする、というハプニングもありました。

この少女は癌に罹った末期患者であり、こうした生命に関わる病気と診断された少年少女の夢を叶える活動している団体からの支援を受けて実現した交信であり、この交信の24日後に亡くなりました。

シャトルワースは亡くなる前の週に少女と会うことを予定していましたが、すでに症状が悪化しており実現していませんでした。が、思いもかけず宇宙で彼女と対面することになりました。とはいえ、さすがにプロポーズを受けるというわけにはいかず、シャトルワースは「大変名誉なことですが……」とユーモアで返しました。

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一方、日本人で初の宇宙旅行をしたのは誰か、といわれれば、これはやはり元TBSのアナウンサーだった、秋山豊寛さんでしょう。秋山さんは、上述の二人のように科学者、もしくは科学に造詣が深い人ではなく、TBSのワシントン支局長を務めるなど、純粋に報道人でした。

が、1989年にTBSが、日本人のミール訪問に関する協定をソビエト連邦の宇宙総局と調印すると、TBSが社内で募った公募に応募し、8人の応募者の中から選ばれました。が、この「旅行」もまた、日本人として初めて宇宙から報道を行う、ということを目的とした仕事であり、厳密には旅行とはいえないかもしれません。

上の二人と同じくモスクワ郊外のスターシティの宇宙飛行士訓練センターで訓練を行い、1990年12月2日にソビエト連邦のソユーズTM-11に搭乗、打ち上げは成功し、宇宙ステーションミールに9日間滞在しました。これにより、世界で初めて宇宙空間に到達したジャーナリストとなりましたが、同時に日本人初の宇宙旅行を体験した人物となりました。

予定では、日本人初の宇宙飛行として宇宙開発事業団に所属する毛利衛さんが秋山より先に宇宙へと旅立つ事となっていました。しかし、チャレンジャー号爆発事故の影響で毛利のフライトが延期され、結果として日本人初の宇宙飛行は民間人である秋山さんとなりました。

秋山さんは、科学者ではありませんでしたが、宇宙ステーションでは睡眠実験などの科学実験にも参加し、日本から持ち込んだカエルを無重力環境に置くとどうなるか、扇子で扇いで移動できるかといった実験にも取り組みました。

乗組員兼ジャーナリストとして宇宙飛行士たちの「日常」生活をリポートしましたが、滞在中はひどい宇宙酔いに悩まされたといい、同乗したロシアの宇宙飛行士は、「あんなに吐く人間は見たことがない」と述べています。同年12月10日に、先にミールとドッキングしていたソユーズTM-10で帰還し、カザフスタンのアルカリクに無事着陸。

8日間の宇宙生活を終え、帰還した直後、マイクを向けられた秋山さんは「お酒が飲みたい。タバコが吸いたい」と話しました。地球帰還後は、TBS報道総局次長などを歴任したほか、バラエティ番組などにも出演していましたが、53才になったとき突然TBSを退職。

宇宙飛行士だったということから、次第に会社での居場所がなくなっていったことを、退社した理由の1つに挙げています。が、推測するに、「日本人初の宇宙飛行士」となったのが、本来は「正規の宇宙飛行士」である毛利衛さんではなく、民間人の彼だったことで、いろいろな誹謗中傷があったのではないでしょうか。

その後福島へ移住し、無農薬栽培をてがけるなど農業をやっておられましたが、福島原発の事故を受けて2012年からは、京都府内へ移住。ここで京都造形芸術大学の芸術学部教授に就任されているようです。

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その後、2006年には、アメリカの起業家、グレゴリー・オルセンが、ソユーズ飛行船により、史上3人目の自費での国際宇宙ステーションへの民間人宇宙旅行を果たし、また、2006年には、同じくアメリカ・テキサス州のIT企業の創業者でCEOのアニューシャ・アンサリが、女性初の民間宇宙旅行者となりました。

しかし、2000年代には、コロンビア号の事故などの宇宙航空事故がいくつか起こったことで、宇宙開発には危険が伴う、ということが改めて認識されるようになり、また、宇宙旅行には多額な費用がかかることから、気軽に民間人が宇宙旅行をする時代が来た、とは言い難い状況でした。

これら民間人の宇宙旅行者が利用したのはすべてロシアのソユーズです。当時ロシアは国家経済の事情で民間企業にソユーズの座席を売ることで打ち上げ資金を確保していた状況であったのが、こうした民間人の宇宙旅行が実現した理由でもありました。

一方のアメリカは、あいつぐスペースシャトルの事故の発生により、こうした宇宙旅行に消極的であり、こうした宇宙開発熱の冷え込みがロシア発の宇宙旅行を加速させた、という側面もあります。NASA(アメリカ航空宇宙局)ですらも、コロンビア号の事故以来宇宙開発に自信を失い、ソユーズにISSの維持に必要な物資の輸送を頼っていたほどです。

こうした中、アメリカでは、次第に民間機関の中で、NASAに変わって宇宙開発に取り汲もうという機運が生まれてきました。

米国の旅行会社「ゼグラム社 (ZEGRAHM)」は、ジェット機の背に搭載されたロケットプレーンを高度16kmで切り離し、そこからはロケットエンジンで高度100kmまで上昇し、地球を見ながら弾道飛行による2分半の無重力状態を体験できるという宇宙旅行を企画しました。

ペプシコーラを日本で販売するサントリーは、懸賞でこのロケットプレーン搭乗券をプレゼントするというキャンペーンを行い、当初は2000年に実現予定でしたが、ロケットプレーンの開発の遅れなどから、現在も実現には至っていません。

一方、これに先立つ1996年には、民間による宇宙船開発に対する賞金制度であるX-prizeが発足していました(現在、Ansari X Prizeに名称変更)。

3人以上の乗員(乗員1名と、2名の乗員に相当する重量のバラストでも可)を高度100km以上の弾道軌道に打ち上げ、さらに、2週間以内に所定の再使用率を達成し、同じ機体で再度打ち上げを達成した非政府団体に賞金1000万ドルが送られるというものです。

かつては、地球一周旅行をはじめ、多くの長距離旅行の壁はこうした資本家による賞金制度をきっかけに実現されてきました。しかし、このX-prizeは資金面のみならず、法律面でも発射試験に漕ぎつけるまでにはかなりの問題を含んでおり、脱落者が続出しました。

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その中でスケールド・コンポジッツ社の有人宇宙船「スペースシップワン」は2004年6月21日に高度100キロの試験飛行に成功し、続けて賞金獲得のための本飛行も2004年9月29日と2004年10月4日に2度目の飛行を行いました。

このスペースシップワンは、運搬用航空機により吊り下げられた状態のまま、高度約15キロまで上昇後、切り離され、その後はロケットエンジンに点火し音速の3倍まで加速。ロケットの燃焼終了後は慣性で放物線を描くように弾道飛行し、高度100kmへの到達を果たしました。

そして3分間余りの無重量状態での宇宙飛行を経て、大気圏に再突入し、無事帰還。9月29日のフライトにおいては一時機体が不安定になるなどのトラブルがあったものの、いずれも乗員1名とバラストを載せた飛行を達成し、同社は賞金を獲得しました。

その後、、イギリスの多国籍企業、ヴァージングループが設立した宇宙旅行会社「ヴァージン・ギャラクティック」はスペースシップワンからの技術供与を受け、宇宙旅行ビジネスを開始することを発表、同飛行のスポンサーとなりました。

スペースシップツーによる宇宙旅行ビジネスの実現を目標とし、当初、2012年からのサービス開始を目指していました。2005年にはクラブツーリズムがヴァージン・ギャラクティック社の公式代理店となり、日本での販売を開始。最初の宇宙旅行者として100人が世界中から選ばれ、ファウンダーと呼ばれています。

日本人では外資系IT企業に勤める、32才の稲波紀明(いなみのりあき)さんが、世界最年少のファウンダーに選ばれています。しかし、2014年には試験中に墜落事故を起こすなどのトラブルにより計画は遅延中であり、2015年時点でも実現には至っていません。

しかし、かつてのスペースシャトルのような、地上と軌道上とを繰り返し往復する、いわゆる「宇宙往還機」は、運航経験や過去の研究状況から、使い捨てロケットより経済的ではない、といわれており、こうした「簡易型飛行船」であるスペースシップワンの改良型の成功は、今後とも期待されています。

一方、宇宙旅行をより簡便な物にする手段として、静止衛星と地上とをケーブルで結ぶ軌道エレベーターが考案されており、現在は実現に向けた具体的な動きも見られる様になってきています。

この話は前にもとりあげました(宇宙エレベーターのお話)が、2012年には大手ゼネコンの大林組が宇宙エレベーターの開発に乗り出したと発表しており、2050年の実現を目指すと報道されました。

いずれの方法でもいいから、早く実現してほしいと思う次第なのですが、しかし、私が乗り込もうと思っても、いかんせん先立つものが……

やはり、当面は地上において、放浪の旅に出るしかなさそうです。

今朝までには爆弾低気圧も去り、そろそろ青い空も見えてきました。幸い週末のお天気はよさそうなので、伊豆の山中でも彷徨うことにしましょう。

もしかして、その先で伊豆へご出張中の皆さんにお会いしましたら、わけありですので、けっして声をかけないよう、お願いいたします。

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