北条家ことはじめ ~旧長岡町(伊豆の国市)

 願成就院裏山の守山に残る石垣

今日は、昨日に引き続き、北条氏について書いていこうと思います。

史料として残っている北条家の家系図では、その始祖は、平直方(たいらのなおかた)と呼ばれる武家貴族になっています(969年~1053年)。平安時代中期に活躍した人で、本拠は鎌倉を本拠とする坂東平氏です。同じ坂東武士である、平忠常が東国で乱を起こしたとき(平忠常の乱、1028年)朝廷から、追討使を命じられるほどの剛の者であったとされます。

平直方の子孫のひとりである、時方が朝廷から伊豆介を拝命し、伊豆国北条郷(現静岡県伊豆の国市)に在庁官人として赴任。その後ここに土着し、北条氏を名乗り始めたといいます。

この北条郷というのは、現在北条館の跡が残っている韮山にある守山という丘の近くだと思われますが、全く同じ場所なのか、別のところかどうかはよくわかっていないようです。

北条の「条」とは、郡・郷よりさらに小さい規模の領域を示す単位であり、東国の有力武士集団で「郡」以上の規模を持った土俗集団の名前として残っているのは、三浦、千葉、小山、秩父などがあり、どれも同じ名前を関東各地に残しているところをみると、積極的に領土拡大を図っていたと考えられます。しかし、北条という名前はこの伊豆以外にはみられないことから、領土を拡大できるような余裕のある強大な武士集団だったとは考えにくそうです。

このころに、伊豆の東側で勢力を誇っていた伊東氏は、頼朝が挙兵したときに、北条氏の十倍以上の兵力を持っていたといいますから、伊豆におけるその他の武士集団と比べても北条氏のその規模は中級クラスであったのでしょう。

とはいえ、代々、都で一定の官位を有していて、伊豆国の在庁官人に任ぜられ、「伊豆介」を務めており、通称では「北条介」と呼ばれていたようです。他の介級の家柄と並んで関東の八介ともいわれたといいますから、武力はないものの、それなりの権威は持っていたと考えてよさそうです。ちなみに、介は、国の行政官として中央から任じられた国司(こくし、くにのつかさ)であり、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等のうちのひとつです。

「守」は、通常皇族クラスの家人が任じられ、中央政府で力を持っている親王がなりますが、この当時、都は源氏や平氏などの武士が勢力を伸ばしており、平清盛の例にもみられるように、かなり高い官位を得るようになっています。しかし、北条のような地方武士でしかも中規模の武士集団が、「介」より上の官位が得られるほど、武士はまだ台頭していない時代です。

北条時政が歴史に登場してくるのは、源頼朝が蛭ヶ小島に配流されたころからですが、このころの、国司、伊豆守は、「源仲綱」という人物で、そのお父さんは、源頼政。頼政は、平家と源氏の内紛ともいわれる、保元の乱、平治の乱では、勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まりました。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇ったといいますから、その子の仲綱も平家を助けた源氏、ということで伊豆守を賜ったのでしょう。

平治の乱の後に、乱の首謀者、源義朝の三男であった源頼朝は、伊豆の国、蛭ヶ小島へ配流となりましたが、この時期に同じ源氏の仲綱が伊豆守になったというのは、何等かの政治的配慮だったのかもしれません。

伊豆という国が成立したのは、律令法によって駿河・伊豆・遠江の三国が成立した701年からのこと。その国を治める国司は、国衙(こくが・国司が地方政治を遂行する政務機関の役所群の総称。このうち、国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)という)において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持っていました。伊豆の国の国衙は、今の三島大社の近くにあったのではないか、という説が強いようですが、はっきりそれとわかる遺跡はまだみつかっていないようです。

国司の任期は当初は6年(のちに4年)だったそうで、この当時の伊豆は、罪人が送られる遠流の対象地でした。伊豆国には、伊豆諸島が含まれており、隠岐・佐渡と並んでこの当時辺境の島国であると考えられていました。伊豆半島はその入り口とされ、罪人が逃げ出さないように監視するための重要な場所です。

そんな場所に、その当時もっとも問題視されていた源氏の政治犯(頼朝のこと)が流され、その国司に同じ源氏の一族を登用したというのはどういう意味を持つのでしょうか。おそらく、平家および中央政府は、そのころ平治の乱に敗れて旗色の悪かった源氏に対し、自らの一族を監視させ、もし裏切ったなら、源氏全体に責任を負わせるぞ、というけん制の意味合いを込めたのではないか、と推察します。

閑話休題です。どうも、すぐに脇に流れてしまう傾向があります。

ともかく、時政時代にもうすでに官位を貰っていた北条家は、武力は小さかったものの、都との強いつながりを持っていた豪族であったに違いありません。時政以前の系譜は謎に包まれているようですが、その後、頼朝との結びつきにより鎌倉幕府の中枢に座ったのちには、朝廷と頼朝を結びつける重要な役割をしていることなども考えると、時政以前の世代から朝廷の中に誰か有力なつてを持っていたのかもしれません。歴史家の中にも、幕府内での世渡りの良さに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にあったのではないかと考える人も多いようです。

歴史書には、時政のお父さんである、時方が朝廷から初めて伊豆介を拝命したという記述がみられるようですので、この時方が、朝廷の中に有力なつてを持っていたと考えられるのですが、残念ながら、それが誰なのかを示す資料は何も残っていないようです。

その子、北条時政ですら、歴史に登場するのは40歳を越えてからのこと。そのときはまだ「時政」とは自称しておらず、ただ「北条四郎」と名乗っていたそうです。介はもとより、何の官位も持っていなかったらしいことから、北条家の中でもあまり認められた存在ではなかったのかもしれません。

その実際のところはどうなのか、続きはまた明日以降にしたいと思います

健さんと北条氏 ~旧長岡町(伊豆の国市)

 願成就院裏山の守山砦に向かう小道

俳優として名高い、健さんこと、高倉健さんを知らない日本人はおそらくいないでしょう。戦後を代表する映画スターで、代表作の「網走番外地」シリーズをはじめ、「幸福の黄色いハンカチ」、「八甲田山」、「南極物語」、「鉄道員(ぽっぽや)」と、邦画史に残る大ヒット作ばかりに出演している健さんですが、いずれの映画もその渋い演技力で、ファンを魅了してきました。

1931年生まれといいますから、もう80才を越えていらっしゃるわけで、さすがに最近はお目にかかれなくなっており、どうしていらっしゃるのかな~と思っていましたが、最近撮影された、「あなたへ」という映画にご出演されたという話を聞きました。あいかわらずのご健在ぶりのようです。

この映画、夫婦愛を描いたものだそうで、「亡き妻が残した絵手紙とともに、彼女の故郷を目指して旅立った刑務所指導技官。旅情あふれる風光明媚な地で出会うさまざまな人々と、その人生を描く物語」だとか。この夏8月25日に公開されるといいますからもうすぐです。見に行ってみようかしら。

実は、この健さん、鎌倉時代の執権北条一族の子孫だということをご存知でしょうか。高倉健さんの本名は、小田剛一さんで、福岡県出身。その祖先は、北条家の一門である名越氏の一族の「北条篤時(あつとき)」という人だということで、京都にいた篤時の子孫が西国に移り、山口の大内氏に仕えた後に北九州へ移り住んだということ。その子孫が健さんということのようです。

この事実、実はご本人はかなり晩年になるまでご存知なかったようですが、ひょんなことから自分の祖先が北条氏一門だと知ることになります。高倉健さんのエッセイ集「あなたに誉められたくて」によると、健さんは自分の先祖が北条氏一門であることを、福岡在住の大学の先生からのお便りで知ったのだとか。

その手紙には、健さんのご先祖に小田宅子(おだいえこ)という人がおり、150年ほど前、「東路日記」という紀行文を残されているという内容で、そのことをご存じでしょうか、と書かれていたそうです。筑前国の商家「小松屋」のおかみ、小田宅子は親しい歌仲間と東国への旅に出て、奈良や伊勢神宮を回り、名古屋、木曽路と通って善光寺へ寄ったあと、江戸を経て故郷に戻るという大旅行をし、そのあと、その旅行のことを旅日記としてまとめていたというのです。

高倉健さんの本名は小田であり、小田宅子は父方の何代か前のおばあさんにあたるということでした。そうした事実を知り、さっそく福岡に戻り、本家の「小松屋」に立ち寄り、残っていた家系図を見せてもらいます。そして、その一番上にあった名前が、「苅田式部大夫篤時(北条篤時)」だったというのです。ご自分が北条氏の末裔だと知った瞬間です。

この話にはさらに後日談があります。健さんは、その後、友人の萬屋錦之助さんに奨められ、鎌倉のある霊園墓地を購入したのだそうですが、その帰りに何気なく、同じ鎌倉にある「宝戒寺」というお寺にお参りをし、ご住職とお話したのだそうです。

そして、自分が北条氏の子孫であることを知ったいきさつを話し、その名前が北条篤時であることを告げると、そのご住職が、あっ、という顔をされ奥のほうへ引っ込まれたのだそうです。そして持ち出してきたのが、お寺の過去帳。そして、ご住職はそこに書かれてあった篤時の名前をだまって指さしたそうです。

このとき、健さんは驚かれたと思います。自分が北条氏の末裔だと知ったあと、何気なく寄ったお寺が先祖の菩提寺だったとは…… きっと篤時さんの霊が、ここに私は眠っているよ、と囁いたに違いありません。あるいは、死してのち、浮かばれなかった北条一族の霊の一人が、健さんにその供養を頼みたかったのかも。健さんもこれに答えて、きっとその後もご先祖の供養のためにこのお寺への参拝を欠かしていないに違いありません。



この篤時さんのことですが、鎌倉幕府最後の執権・北条高時は、1333年5月、新田義貞の軍に追い詰められて、この宝戒寺の裏山にあった東勝寺で自害しています。このとき、一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡しましたが、高時とともに自害して果てた北条氏の一族の中に、北条篤時がいたのです。

この宝戒寺は、北条高時の慰霊のために、後醍醐天皇が建立したとも、足利尊氏らによって建てられたとも言われていますが、過去帳にその名が記されているということは、高時だけでなく、その時亡くなった一族も一緒にこのお寺に葬られたと考えられます。

しかし、篤時の息子はなんとか岡山へ脱出。その後山口の大内氏を頼って家臣となりますが、やがて大内家を辞し、北九州へ下ります。そしてその子孫が両替商である小松屋を営んで成功。前述の小田宅子さんや高倉健さんに繋がっていったのです。

それにしても健さんのこのお顔は、武士を想像させるような渋味のあるもの。かつての鎌倉武士もかくあったかと考えると、その実像は、健さんのように、実直で一途、そしてふてぶてしさや、たくましさを感じさせるものだったのかもしれません。

今日からは、その北条一族の、伊豆や鎌倉における繁栄から、新田義貞の鎌倉攻めによって滅びるまでの盛衰について、少し探訪していきたいと思います。

歴史に残っている北条氏の足跡をたどっていくと、一番古いものは、北条政子の父、北条時政と、その父、時方になるようです。しかし、時政のほうは生年が、1138年とはっきりしているのに対し、時方のほうは、生年も没年も不明で、どんな人物だったのかもはっきりわかっていません。

この北条氏、もともとは桓武平氏の末裔の「坂東平氏」の流れをくむといいます。桓武平氏とは、桓武天皇(在737~806)の子孫から出た平氏のことで、桓武天皇の4人の息子である、葛原親王、万多親王、仲野親王、賀陽親王ごとに、4つの流派があります。

そして、さらに、このうちの、葛原親王の息子の「高望王」の流れを受け継いだ高望流という流派の平氏の中に、武士として東国で力をつけてきた流派があり、これが「坂東平氏」です。史上、最初に現れた武士集団のひとつであり、その後の武家社会の大元を形づくっていく「元祖武士」です。

坂東平氏は、最初、東国を基盤としていましたが、その後その勢力を中央(朝廷)に伸ばすようになります。これが「伊勢平氏」です。今、大河ドラマで話題になっている平清盛は、この伊勢平氏の流れをくんだ武将で、その後大きな権力を手にするようになったことから、その一族は「平氏」ではなく、「平家」と呼ばれるようになりました。

さて、伊豆土着の北条氏の先祖は、坂東で勢力をつけた平氏がここへ流れてきたもので、坂東平氏になります。関東土着の武家平氏には、北条氏以外にも「坂東八平氏」と呼ばれ、同じ高望流の流れをくむ8つの武家集団がありました。しかし、北条氏やこれらの東国の武家平氏は当初は力が弱く、源氏一門や藤原氏一門に恭順して家臣となるか、あるいは抵抗して追討されるなどして、なかなか勢力を伸ばすことができませんでした。

その平氏の北条氏が、その後、源氏の嫡男、源頼朝にくみして源氏政権の成立に力を貸すようになるというのは、皮肉な結果です。ただ、北条家は鎌倉幕府が成立後、頼朝が死ぬとその子らを次々と葬り、自らは執権となって君臨していますから、鎌倉幕府はいわば平氏によって乗っ取られたわけです。

ところが、その平氏に牛耳られた政権を奪還したのは、新田義貞や足利尊氏などの源氏であり、さらにその後の江戸幕府を開いたのも自らを源氏と称する徳川家です。このことから、東国は代々源氏が治めてきたという印象が強く、平家が勢力を伸ばした関西と比較して、平氏の関西、源氏の関東、とはよくいわれることです。

さて、北条氏が、桓武平氏・平貞盛の流れを汲む坂東平氏の流れをくむ武士団であったということまではわかりました。

しかし、時政の父、時方がどんな人物であったかは、あまりよくわかっておらず、北条氏の歴史については、時政を始祖として始めるしかないようです。

どんな人物だったのか。それについては、明日以降、詳しくみていこうと思います。

茶々丸 2 ~旧長岡町(伊豆の国市)

昨日は暑かったですね。山の上の我が家ですら、日中の最高気温は30度を超えました。さすがに山を下ってどこかへ行く気にもなれず、日がな先日行った韮山の歴史探訪の写真などを整理していました。

それにしてもこの上天気。九州地方では大雨が降っているというのに何なのでしょう。夕方までには空の雲がすっかり取り払われ、富士山の上には笠雲がかかっています。夜空を見上げると、澄み切った空気の中、満天の星も見えました。

気象庁の発表はまだないようですが、おそらく…… 梅雨は明けたのでしょう。

さて、昨日の続きです。
昨日は、足利政知が、鎌倉公方になるべく、京都から鎌倉に向かう途中、伊豆に足止めを食ったところまでを書きました。鎌倉府で争っていた公方の足利成氏と管領の上杉方が和睦してしまったため、新公方として、鎌倉に入ることもできず、結局、そのまま伊豆にとどまることになったのです。

政知は、結局は伊豆一国のみを支配する代官としてその一生を終えることになるのですが、側室との間に茶々丸という一子を設けます。そして、正室として円の満院という人を妻にし、潤童子(じゅんどうじ)と清晃という二人の子をもうけます。

政知は、当初、茶々丸を嫡男にしようとしていました。ところが、足利家の執事の上杉政憲という人は、政知を諌め、茶々丸の廃嫡をするよう強く求めましたが聞き入れられず、自害させられたといいます。当主から嫡男にすると指定されていたのにもかかわらず、その一家の執事からも愛想をつかされたわけです。このことからも、茶々丸という人がどんな性格だったのかわかるような気がします。

この茶々丸、大きくなるにつれて、粗暴な行為が目につくようになったといいます。どの程度の悪童だったのかは、よくわかりませんが、あまりにも素行不良、ということで政知の命により土牢に軟禁されています。自分の子を牢に入れるほどですから、もしかしたら家来の誰かをあやめたり、けがをさせたりするような、とんでもないことをやったに違いありません。

長じてからもどんどん粗暴になっていく茶々丸をみて、ついに政知は、茶々丸に跡を継がすのをあきらめ、異母弟の、潤童子を跡継ぎにしようとします。一説には、潤童子のお母さんの円満院が政知に讒言したためであるともいいますが、円満院にすれば、継子よりも実子のほうがかわいかったのでしょう。いずれにせよ、お父さんにもお母さんにも嫌われてしまった茶々丸。どのくらい閉じ込められていたのか記録には残っていないようですが、その後も悶々と牢屋の中でその青春期を過ごします。

ところが、政知はその後継者をはっきりと指名しないまま、1491年に病を得て、死んでしまいます。足利家という名門に生まれ、公方にしてやると幕府から言われて鎌倉まで来たものの、とうとう鎌倉に入ることもできず、その昔は流罪地であった伊豆という辺境地で死に瀕したとき、どんな思いだったでしょうか。

政知が死んだあと、継母の円満院は、より一層茶々丸を虐待したといいます。粗暴な性格だったからということで、しょうがないといえば、しょうがないのですが、どんなひどいいじめをしていたものやら。おそらく食事や衣服も満足に与えず、たまに牢の外に出してやるといったこともせず、といった具合だったのでしょう。ついに、茶々丸はそのいじめに耐えかね、ある夜、牢番を殺して脱獄します。

そして、その足で、その頃、堀越公方に就任することに決まっていた弟の、潤童子と円満院が住む館へ行き、二人を惨殺するという暴挙に出るのです。

ここのところ、すごいと思うのは、牢番に続いて継母とはいえ、お母さんと血のつながった弟を殺している点です。どんな殺害のしかたをしたのかわかりませんが、血なまぐさい殺人鬼の臭いがします。

とはいえ、茶々丸の側からみれば、自分を牢屋に入れて苦しめた父が死に、ようやくチャンスが巡ってきたと思ったところへ、今度は継母から虐待され、一生を牢屋で過ごすのかと、絶望的な気持ちになっていたことでしょう。いじめられた仕返しができるだけでなく、うまくいけば公方になることができる。そのためには、たとえ血がつながっているとはいえ、弟でさえその憎き母親と一緒に殺してしまえばいい、そう思ったに違いありません。

こうして、茶々丸は思い通りに事を運び、周囲も名門足利家の血をひく茶々丸を冠に頂くことをあえて拒まなかったためか、すんなりと堀越公方に就任します。それまでの人生をリセットし、伊豆の主としての新しい人生をスタートさせたのです。ところが、こういう悪いヤツには、結局は悪い運しかめぐってこないもの。因果応報というヤツです。

そのころ、新興勢力である茶々丸をリーダーとしてその下に付いた部下たちの中には、茶々丸を祭り上げ、古い勢力である代々の家老や重臣を追い落とすことで、御所内の主導権を握ろうとする勢力がありました。そして茶々丸の耳に、彼らの悪口をあることないこと入れ始めるのです。

これを信じた茶々丸。若くして公方になったのですから、もともと判断能力はなく、周囲の大人たちの讒言を聞いてもそれが真実でないと看破できなかったのでしょう。その提案をすんなりと受け入れ、さっそく筆頭家老で韮山城主だった、秋山新蔵人などの重臣を次々と誅するなど、古い勢力の粛清をはじめます。

本人はこれで伊豆は自分のものになる、と思ったでしょうが、やはりこういう悪政は続かないもの。それまで家を盛り立てていた忠臣をことごとく殺してしまった結果、堀越御所の運営はすぐに立ち行かなくなります。そして旧臣たちの支持を失い、茶々丸の配下の新興勢力との間で争いが起き、伊豆国内はあちこちで内紛がおこるようになります。

ちょうどそのころのこと。時の関東管領で、事実上の最高実力者、「細川政元」が突然、10代将軍義材(後に義稙)を追放してしまいます。世にいう、明応の政変です(1493年)。

関東管領として、こうした伊豆の情勢を把握していた細川政元は、政知のもうひとりの息子、そう、あの茶々丸に殺された潤童子の下の弟、清晃を室町将軍に擁立しようと画策します。清晃は、「せいこう」と読むのでしょうか、その昔政知が、茶々丸を嫡男として指名したときに出家して、京都の天龍寺香厳院というお寺を継いでいました。

茶々丸により母と兄が惨殺されたのを聞いて、苦々しく思っていた清晃ですから、時の実力者、細川政元の提案を喜んで受け入れ、還俗して将軍の座に就き、足利義遐(よしとお)を名乗る(後に義澄・よしずみ)ようになります。こうして、権力の座についた、義遐に母と兄を殺した茶々丸を討つチャンスが巡ってくるのです。

そして、その敵討ちを、そのころ、今川家の有力武将になっていた、北条早雲へ命じる、という形をとります。伊豆の国への進出を狙っていた早雲にとっては、願ってもないチャンス。公に伊豆へ侵攻するとための、大義名分を得たわけで、早速この命を受けます。このころ、北条早雲は駿府の今川氏の配下にある有能な武将であり、今川家の内紛を自ら治めて興国寺城主(現沼津市)となっていました。

そして、伊豆韮山の堀越御所の主である、茶々丸への攻撃を開始します。1493年の秋、興国寺城を拠点として北条早雲が、伊豆に攻め入ると、伊豆各地の武士たちはむしろこれを歓迎します。そのころはもう伊豆の国の諸将は、茶々丸のことを、新将軍・義澄の母(円満院)を殺した反逆者であると見なしており、茶々丸に組みするよりも新将軍方に付いたほうが得、と思ったのでしょう。茶々丸の配下の中でも、歴代の忠臣を殺してきた茶々丸に人望はなく、そうした配下を引き連れて臨んだ北条早雲との戦いでは、敗戦に次ぎ敗戦を重ねます。

そして、韮山の守山に築いてあった城に籠城するものの、北条勢に攻めたてられ、城はあえなく陥落。その炎の仲、とうとう自刃して果てた、と言われています。前述したとおり、実際に、願成就院のお堂の背後に茶々丸の墓とされる石塔があるので、本当にここで落命した、というのが長い間の通説でした。

しかし、実際には、守山で死んだとされる1493年(1491年という説もある)よりもあとの、1495年に北条早雲によって伊豆国から追放され、鎌倉の上杉氏や甲斐の武田氏を頼って伊豆奪回を狙っていたらしい、ということが近年の研究で明らかとなりつつあるのだそうです。

結局のところ、それから5年もあとの、1498年に、北条早雲の追っ手につかまり、自害した、という説が最近発掘された新資料によって有力だと考えられているようで、その場所は甲斐国だったとも、伊豆の下田にあった深根城とも言われています。

さらに、「妙法寺記」という古文書では、堀越御所が陥落したという1493年から2年後の1495年に茶々丸が「島」へ落ち延び、やがて武蔵国に姿を見せ、さらに1496年には富士山へ参拝のため登山したと書いてあるとか。

「島」は伊豆大島なのか、また富士山に参拝したというのですが、それほど自由の身だったのかよくわかりません。それにしても、各地にこうした伝承を残していることから、守山での攻防戦ではからくも生き延び、他国で虎視眈々と挽回を狙っていた、というのはほんとうのような気がします。

死んだと思っていたのが実は生きながらえて別の国で死んだ、という話は、頼朝に攻め滅ぼされて死んだ源義経が実は大陸に渡って生き続けていた、という伝説をほうふつさせます。しかし、茶々丸の場合、生きていたこと自体が喜ばしいというかんじではなく、なにやらゾンビが復活した、というようなどうしても悪いイメージがわいてきてしまいます。

いずれにせよ、1498年までには茶々丸は亡くなっているようです。しかし、他国で死んだかもしれない茶々丸の墓が、なぜ伊豆にあるのか、しかも北条氏の氏寺の願成就院にあるのかはなぞです。

その墓のある願成就院は、北条早雲が伊豆へ乱入してきたときに全焼しているということです。しかし、本堂などは焼け落ちてしまったものの、墓所などは残っていたと考えられことから、かつて堀越御所で茶々丸に仕えた部下の誰かが、他国で死んだ茶々丸のお骨だけ持って帰り、それを御所近くのこのお寺の隅にひっそりと埋葬したのかもしれません。

戦乱の世が生んだ夜叉のような人物でしたが、彼がいたからこそ北条早雲によって関東統一がなされたのであり、北条早雲がいなければ関東はその後も長い間騒乱の渦に巻き込まれ続けていただろうことを思うと、けっしてその生が無駄だったとばかりもいえません。

いつの世のどんな人にも意味のない人生はない。今日も改めてそう思ってしまいました。

茶々丸 ~旧長岡町(伊豆の国市)


昨日、梅雨の合間の晴れ間を利用して、韮山に散在する北条氏ゆかりの史跡を探訪してきました。そのひとつ、願成就院(がんじょうじゅいん)は、北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したそうです。しかし、奥州征伐の戦勝祈願のためというよりは、北条氏の氏寺として創建されたらしく、願成就院のすぐ裏手の「守山」という、北条氏の館跡のある丘のすぐ麓にあります。

韮山駅から徒歩10分ほどのこのお寺、さすがに古さを感じさせますが、1189年に建てられたあと、1493年の伊勢新九郎(後北条の北条早雲)の「伊豆討ち入り」のときにほぼ全焼したそうです。しかし江戸時代に北条の末裔、北条氏貞が再建したそうで、現在の本堂や境内のつくりは、ほぼ創建当時のものとか。

この日は、日中の最高気温が30度を超える、暑い日でした。近くのスーパーにクルマを止め、守山を目標に新興住宅街の中を汗だくだくになって5分ほど歩きましたが、見えてきたお寺のある場所は、守山のすぐ麓のわりと静かな場所。北条氏の古刹と言われなければわからないほど地味なつくりです。はっきりいってそれほどメジャーな観光地ではないはずですが、今、NHKで放映されている大河ドラマ、「平清盛」によって、「平安時代ブーム」にあるせいか、三連休の中日だということもあって、観光客の姿もちらほら。

門を入ってすぐ左手。わりと目立つところに、北条氏の開祖ともいわれる時政のお墓が据えられていました。さすがに立派なお墓で、高さ2mほどの塔があり、これを中心にして周囲に灯篭らしいものが建てられ、立てた石で周囲が囲われ、きれいに掃除してあります。北条氏の他の人のお墓もあったのかもしれませんが、とくに案内板もなかったところをみると、北条早雲による動乱以後、時政本人以外の親族の埋葬は行われなかったのかもしれません。

本堂の左手奥、境内のかなり奥まったところには、先日のブログ、「狩野城」でも紹介した足利将軍家の一族、足利茶々丸のお墓もありました。北条氏の氏寺になぜ、足利家の人のお墓があるのか、そのいきさつはよくわかりませんが、お墓が置かれた場所も一等地とはいえないような、奥まったひっそりとしたところであるのをみると、そこにお墓があること自体、あまり歓迎されていないようなかんじ。それもそのはず、改めて人物像をみてみると、あまり感心できるような一生を送ったとはいえません。

 伝・茶々丸の墓

ここで、「狩野城」で書いたことをもう一度おさらいしておきましょう。

時は、応仁・文明の大乱で京の街が焼き尽くされ、戦乱が地方に飛び火してゆく時代です。伊豆国も平和ではいられず、やがては戦乱の世に入ろうとしており、次々と血なまぐさい事件が起こりはじめる、室町時代も末期のころのこと。

そのころ、鎌倉にあって室町幕府の関東統治長官であった「関東公方」を代々司る足利家は、その執事ともいえる「関東管領」を司る上杉氏とは、鎌倉府やその他の関東の所領の治め方をめぐって激しい対立を引き起こしていました。この双方の確執はやがて武力による動乱に発展していき、それに連動して伊豆の武士と駿河の今川家、北条早雲連合の勢力が四つ巴の争いを展開する複雑な情勢が生まれていました。そして、その情勢を一層複雑にし、やがては関東一円に広がる戦国時代に発展させる火付け役になったのが、本日の主役の足利茶々丸です。

足利茶々丸(ちゃちゃまる)は、8代将軍、足利義政の異母兄である、「足利政知」の子どもで、11代将軍・足利義澄の兄にあたる人です。生誕はいつかよくわかっていません。没年についても、1491年説や1493年説などいろいろあり、後述するように、最近の調査によれば1498年に没したというのが定説のようです。いずれにせよ、かなり若くして亡くなっており、おそらくは10代の後半か、20代のかなり早い時期に没したと思われます。

「茶々丸」は幼名で、正式な元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱(いみな)は伝わっていません。普通は元服の儀式を持って名門、足利氏の一族のひとりとしてその名を天下に知らしめるべきところを、その元服を祝ってくれるはずの親に厭まれ、若くして非業の死を遂げたためです。

ことの発端は、1483年に起こった享徳の乱といわれる争いです。室町幕府の8代将軍、足利義政の時に起こったこの内乱は、鎌倉の政府出先機関の鎌倉公方、足利成氏がその補佐役である関東管領の上杉憲忠らを攻め殺した事に端を発し、両家だけでなく、幕府はもとより、伊豆や駿河の武士も巻き込んだ争いへと拡大していきます。

足利尊氏が関東を統治するために設置した鎌倉府は、尊氏の次男である足利基氏の子孫が世襲した鎌倉公方を筆頭に、上杉氏が代々務めた関東管領が補佐する体制でしたが、その政治手法をめぐって、次第に鎌倉公方は京都の幕府と対立しはじめるだけでなく、鎌倉公方と関東管領が対立するという内紛状態になっていました。そして起こるべくして起こったのが享徳の乱でした。

1455年、足利成氏は、憲忠を屋敷に招くとこれを謀殺。成氏の側近も、上杉邸を襲撃して憲忠の一番の部下、長尾実景などを殺害します。これに対して、上杉家の家宰(かさい・家長に代わって家政を取りしきる職責)であった長尾景仲は、上杉家の一族を率いて足利勢に対する反抗攻勢に出ます。この両者の戦いに、関東一円の武士たちがそれぞれの味方として参画して、関東地方は3年もの間、ほぼ全域が戦乱状態になります。

この戦い、そもそも京都の幕府と鎌倉公方である足方成氏とのいさかいに端を発しており、幕府は成氏をなんとか鎌倉から追い出したいと、関東管領の上杉氏に肩入れするとともに、駿河の今川氏も焚き付けて、何度も鎌倉を攻めます。

これに抗しきれず、成氏はいったん、古河城(現茨城県古河市)まで逃れ、この結果、関東地方は当時江戸湾に向かって流れていた利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断されるようになります。その後も小競り合いを続けますが、このような両者がにらみ合い、こう着するような期間はその後も30年近くにわたって続くことになります。

この間、将軍足利義政は成氏に代る鎌倉公方として異母兄の「政知」を送りこむのですがが、成氏方の力が強く、政知は、鎌倉に入ることもできず、伊豆韮山の北条氏宅を本拠にするようになります。その後、同じ韮山で北条氏の居宅に近い堀越(ほりごえ)という場所に御所を作り、その後、堀越公方と呼ばれるようになります。

その後、1476年になって、上杉方では有力家臣の長尾景春が関東管領家の執事になれなかった不満のため挙兵するなどの内輪もめが発生しており、不穏な空気が流れていました。このとき、関東管領になっていた上杉顕定は、公方陣営との対立に加え、こうした内憂の発生に危機感をいだくようになり、1478年、長年の確執を捨て、足利成氏と和睦を成立させます。

これによって、宙に浮いた形になったのが、伊豆に長逗留していた足利政知。足利成氏と上杉方が和睦してしまったため、新鎌倉公方として、鎌倉に入ることもできず、京都に帰ることもできずで、結局、そのまま伊豆にとどまることになります。そして、結局は伊豆一国のみを支配する代官としてその一生を終えることになるのです。

この足利政知が側室に産ませた子が茶々丸です。この茶々丸、その後、とんでもない事件を起こし、伊豆を騒乱におとしめる人物になっていくのですが、今日のところは時間これまでにしたいと思います。続きはまた明日。

伊豆の王国 ~旧長岡町・旧大仁町

雨が降り続きます。風も強い。まるで、台風のようです。今日の天気予報は終日曇り。まだまだ梅雨は続きそうです。

そんな中、先日庭に植えようと思って買ってきた、バラの鉢植えを見たら、きれいなピンク色の花を咲かせていました。「マチルダ」という品種だそうで、臭いはあまりありませんが、小さいながらも可憐な少女を思わせるようできれいです。我が家で初めて咲いた、記念すべきバラでもあり、ちょっと写真に撮ってみました。

先日、「素粒子と魂」の項で、アナウンスしていた、「魂の真実」が昨日届きました。沼津や三島の書店をあちこち探したのですが、入手できず、結局amazonで注文。一日で届きました。

早速昨日から読み始めていますが、さすがに科学者(現役のお医者さん)が書かれているだけに、霊魂も物質も、すべてエネルギー震動から作られているという説明には説得力があります。ここのところ、ちょっとだけ説明するのは難しいので、今度また改めて整理して、お伝えしたいと思います。が、その主旨としては、人間の体は、目にみえる肉体以外に、電磁気的エネルギー体でできており、このエネルギー体が霊魂だというお話です。

このエネルギー体は、情報伝達網を持ち、電磁気的な信号や電子による情報伝達、そして記憶能力を持ち、肉体が滅びても、生き続けることができる。しかし、振動数が高いため、通常の人には見ることができず、より精妙で高い振動数の波動と同調できる人は、視覚的にとらえることができる。つまり、「霊能力」がある人、ということです。

本の前半には、こうした人間の電磁気的エネルギー=霊魂、についての科学的説明があり、後半は、その霊魂の具体的な形態や、霊界とは何を意味するものか、霊魂と宗教とのかかわり、などなどの具体例が書かれています。

まだ、すべて読み終わっていないので、ここでその内容を総括するのは、今日はやめておきます。また、いずれ、整理してお伝えしましょう。

さて、昨日書き残した、伊豆の古代のことです。伊豆の古代については、昨日引用した日本書記に、配流地だったことなどの断片的な記述がある以外には、ほとんど文献資料がなく、どういう場所だったのかほとんどわかっていません。

しかし、伊豆半島の中央部を流れる、狩野川の西側には、古墳や横穴群がたくさんみつかっており、これらの遺跡から少し古代の伊豆の様子がわかりそうです。

伊豆長岡の少し北、沼津にほど近いところの海側に大平山という山がありますが、この山のふもとに、「江間」という場所があります。海からほど近く、2kmほども下ると、もう海岸線です。この江間から南の伊豆長岡町内に至る一帯には、は29群173基の古墳時代の遺跡が密集しており、こららの遺跡は主に、「横穴」です。実に23群151基が横穴なのだそうで、遺跡が見つかった場所の多くでは、一つのエリア内に、横穴群と古墳がセットになって発見されているそうです。

横穴群があるところは、これがひとつの「村」だったと考えられ、そうした場所には、たいがい古墳があるのだとか。一般庶民?のお墓としての横穴群のそばに、「村長さん」のお墓があった、ということになります。この遺跡、だいたい、六世紀(500年代)後半から、八世紀(700年代)前半までに作られたということで、と、いうことは、近畿地方で見つかっている古墳の成立年代が、4世紀(300年代)以降であることを考えると、およそ二百年も遅れてからの出現ということになります。

そこに「古墳」と横穴群が存在するということは、つまり、農業を中心とした原始的な生活を送っていた人々のところに、京都や奈良のような畿内にあった、最新の階級社会が持ち込まれ、横穴群をお墓にしていた人たちの中に浸透していったということなのでしょうか。七世紀ころの寺院建築の名残らしい、屋根瓦も発掘されているそうで、古代の伊豆と畿内の近代が、合体したような場所といえます。

昨日も書いたように、伊豆は配流地として指定されていたような場所ですから、中央の人たちからみれば、横穴をお墓にするような人たちは、野蛮人だと思っていたのかもしれず、それだからこそ、中央政府は、伊豆を在任の牢屋としてふさわしい、と思っていたのかもしれません。

この古墳や横穴群の分布ですが、狩野川流域では、沼津市、清水町、三島市の河口や下流部で、また伊豆の国市、伊豆市、旧修善寺町などの中流域で数多く発掘されているのだとか。上流域では、天城湯ヶ島町月ヶ瀬・古奈にもわずかではあるが発見されており、これらの遺跡はいずれも標高200mまでの範囲に分布しているそうです。これより低いところは、狩野川などの氾濫によって生活環境が脅かされていたためでしょう。

これらの古墳・横穴群は、伊豆長岡の大平山付近の江間から、伊豆の国市役所の南側の小坂という場所にかけての場所にかなり密集しているそうで、ということは、ここが、中央からの人が流入した中心地であったと考えることもできるようです。

畿内から、伊豆に流れ込んだ人々はまずこのあたりの地を選び、定住していったと思われます。もちろん、古墳時代以前から伊豆には先住者達がいたわけですから、その人たちを手なずけながら、徐々にこの地を治めていったのでしょう。この伊豆長岡は海にも近く、海産物も豊富にとれるほか、その背後の田方平野には、弥生時代後期から水田が拡がっていたと考えられることから、農業による収穫もかなり期待できたと思われます。そして、それらの農作物を運搬する際、狩野川を生活の大動脈として利用していたことはまちがいないでしょう。

ところで、この伊豆長岡に多い古墳(横穴ではなくて)には、どんな人達が葬られていたのでしょうか。畿内の人たちがこの地に入り込む以前からあるお墓ですから、当然、この地で勢力を張っていた実力者のお墓には間違いありません。

伊豆長岡町に駒形古墳というのがありますが、これは、伊豆では最大規模の円墳なのだそうです。ですから「伊豆の王」ともいえる人が葬られたのではないかという人もいます。この古墳の周囲には、もっと小さい、横穴群があるのだそうで、この伊豆の王よりも身分が低い人が埋葬されていたと考えられます。

このうち、北江間にある、横穴群のひとつには、「若舎人(わかとねり)」と彫られた石櫃が発見されているそうです。若舎人とは、皇太子級の役人に仕えた人のことを指しますから、中央の重要人物が本地域で埋葬されたことを示す証拠だと、いう人もいるようです。このほかにも巨大な石棺が発掘されており、古墳時代の有力者が数多く埋葬された墓地であるこ可能性があります。

これらの古墳や横穴群が、後の時代に頭角を現してくる北条氏と関連あるかどうかは、まったくわかっていませんが、この地域に大きな墓が多いということは、この狩野川西岸地域が当時の伊豆の大豪族の本拠地を示すものであることは確かと思われます。

そしてその豪族の王、「伊豆の王」は誰なのか、については、歴史ミステリーということで、いろんな人が研究をされ、諸説をとなえられているようです。

そうした人物がいたという根拠のひとつには、魏志倭人伝に記載された国々で王の存在が書かれているみっつの国、すなわち、卑弥呼の邪馬台国、スサノウの狗奴国、葛城氏の伊都国の三っです。この伊都国こそ、すなわち伊豆の国ではないかというのです。

魏志倭人伝は、3世紀末に書かれた、中国の歴史書で、当時の倭(現在の日本)に、女王が治める邪馬台国を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置や官名、生活様式についての記述が見られるそうです。

そして、その問題の伊都国については、次のように書かれてるそうです。

「東南へ陸行すること五百里にして行程一ヶ月で伊都国に到る。官は爾支(にし)と曰(い)う。副は泄謨觚(せつもこ)柄渠觚(ひょうごこ)と曰(い)う。千余戸有り、世々王有るも、皆女王国が統属す。郡使が往来する時、常に駐(とどまる)所なり。」

どこからの行程が、500里なのかわかりませんが、1000戸あまりの住居があって、代々の王様がいるものの、邪馬台国の女王がその上にあり、ときおりその中央から派遣された役人がやってくる、などかなり具体的です。

朝鮮語(韓国語)では、伊都国の伊都は「イェヅ」と発音するそうで、確かに、イズと似ています。また、この伊都国を治めていたという、「葛城氏」は、皇族の苗字としては古くから存在するそうで、昨日とりあげた、修験道の祖の「役小角(えんのおづぬ)」の家系は、古きは、大豪族の国主であった葛城氏の末裔だそうです。その後も、天皇の皇子の賜り名として「葛城王」という名前が使われたことが何度もあるそうで、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の別名は、実は、葛城皇子(かつらぎのみこ)というのだとか。

さらに、この伊豆半島の中央部には桂川、狩野(賀茂)川、田京、御門、葛城山、長岡、賀茂郡など、かつての都の地である、紀伊半島内陸部や奈良盆地一帯にあった地名と同じ地名が点在しています。これらのことから総合して、この伊豆の地に、葛城氏の長を王にいただく、「伊都の国」があったのではないか、というのです。

そしてその都は田京(伊豆の国市大仁田京)にあったのではないかとう人もいます。田京というのは、伊豆長岡の南にある場所で、前述の古墳群からもほど近い場所に位置します。この一帯は、古くから伊豆における政治・文化の重要な場所であったと言われており、後年、伊豆の大豪族になる狩野氏も、一番最初にここに入植しています。

しかも、田京の西側にはなんと、葛城山という山があります。古事記には、「御眞津日子詞惠志泥(みまつひこかえしね)の命(みこと)、葛城の掖上(わきがみ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしましき。」という記述があるそうです。

ところで、この古事記と日本書記、何が違うんでしょうか。昨日、日本書記が最古、と書きましたが、編纂が開始された年(697)は確かに、日本書記のほうが古いのですが、出来上がった年(712年)は、古事記のほうが古い(日本書記は720年完成)。それにしてもたった、8年の違いしかなく、同じ時期に、同じようなものが何故2つも作られたのでしょう。

これについて、両者の違いを述べてくれているサイトがあったので、以下、その違いを要約します。

・両者は神話の世界観が全く異なり、編集目的も全く異なっている。
・古事記は、語り部によって伝えられた伝承を、忠実にほぼそのまま記述したもので、王家が歴代統治してゆくことの正当性を述べようとしたもの。
・これに対して、日本書紀は、残っている書物をもとに中国風の史書を作ることを目的としたものであるが、王家に都合の悪いことについては意図的な改ざんが行われている。

その信憑性については、どっちもどっちというかんじですが、いずれにせよ、これより古い歴史書は存在せず、我が国の古代がどんなところだったのかを知るためには、この二つが最も重要な書物であることには違いないようです。

閑話休題。さて、古事記に書いてあるという、「葛城」の掖上宮のことです。この宮城を住んでいた?らしい、御眞津日子詞惠志泥命とう長ったらしい名前の人物が「伊豆の王」だとすると、「葛城」とは葛城山のこと、もしくは葛城氏をさしており、その掖(わき 脇)にあったという掖上宮とは、田京のことではないか、という説があるのです。

さらに、現在の駿豆線の田京駅の東側にある、御門(みかど)という場所には、条理制(じょうりせい)という、大化の改新の際に行われた土地の区画法の跡も見られるそうで、しかも、そこには、「久昌寺(きゅうしょうじ)の六角堂址」と伝えられる史跡があるそうです。と、いうことは、このお寺があったところに、伊豆の王が「ましました」掖上宮があったのではないか、と考えている人もいるようです。

田京といえば、我が家からもほど近く、クルマで10分ほどで行けます。葛城山に至っては、ウチから毎日のように見える山です。その麓にかつての邪馬台国に匹敵するような王国があった、と考えるとワクワクします。

もっともそれが本当だったという確証は何も得られていないようですが、一般の人の目には見えない霊魂同様、見るべき人が見たら、何かわかるのかもしれません。いかんせん、伊豆はパワースポットとして有名な場所。そんな場所にかつての王国があっても不思議ではないように思うのです。

今日はかなり太古に遡って伊豆の歴史について語ってきましたが、次回からは有史にある事項に少しずつ入っていきたいと思います。その合間合間にまた、「魂の真実」に書かれていることなどもご紹介していきましょう。