流刑地としての伊豆


昨日の九州地方の大雨はすごかったようです。50mmでもバケツをひっくり返したような雨といいますから、時間雨量100mmなどというのは想像もできません。ここ、修善寺でも夜遅くになってから、かなり降りましたが、それでも九州で降った量には遠く及ばない量で、事なきを得ています。

朝起きてみると、もう雨は止んでいました。庭に出て、アサガオの苗を植えているポットをみると、なんと、そこには、セミの抜け殻が。梅雨ももうすぐ明け、まぶしい日差しの夏がもうすぐそこに来ていることがわかります。

ところで、ご縁あって住むことになった伊豆ですが、これまでも何度か、その歴史にまつわる話題をこのブログで書いてきました。ひとつの物事について、ひとつ調べるとまた、別の事実が出てきて面白いなとは思っていましたが、伊豆の場合、とくに鎌倉や駿府(静岡)にも近く、思った以上に歴史的な物語の宝庫だ、と感じるようになっています。

なので、今後は、過去に伊豆でおこったさまざまな歴史的事実について、少しずつ調べ、このブログでまとめていこう、と思います。

とはいえ、堅苦しい歴史談義は苦手ですし、自分でもやっていて楽しい、人にも読んでもらって面白い、わかりやすい、といってもらえるような「伊豆ものがたり」を書いて行こうかと思います。その中で、また面白い発見があれば、それに特化したことをシリーズで書いてみるのもよいでしょう。時に、現地取材もありかも。なかなか面白くなるのではないでしょうか?

その手始めとして、まず、そもそも伊豆の歴史って、文献として残っているもので、どこまでさかのぼれるのだろうか、という疑問が沸いたので、そこんところをいろいろ、つっついてみました。

すると、古代史ということになると、文献的な資料は非常に乏しいようで、伊豆に関する記述があるもので最も古いものは、やはり、日本書紀になるようです。

そもそも、日本書記ってなんだ? と私と同じような歴史オンチの方も多いと思うので、一応解説しておきましょう。日本書記とは、奈良時代にできあがった日本の歴史書で、現存する最古の日本史、しかも、朝廷が太鼓判を押した、「正史」のことを指すのだそうで、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、すなわち、のちの天智天皇以降に成立した、律令国家で編纂された歴史書です。

中大兄皇子は、それまで執政として、朝廷を牛耳っていた、蘇我入鹿(そがのいるか)を中臣鎌足(なかとみのかまたり、別名、藤原鎌足)らと組んで暗殺します(西暦645年)以後、宮廷改革の中心人物として、遷都をはじめとし、この国の行政改革を次々とやってのけます。

これが世にいう大化の改新ですが、数ある改革の中のひとつとして、それまで誰も実現してこなかった国史の編纂がありました。日本の歴史の編纂を完成させ、日本の国威を内外に示そうとしたのだと思われますが、日本書記というのは、そうして作られた6つある歴史書のうちの一番最初のものを指すのだそうです。

この6つの歴史書、「六国史(りっこくし)」といいますが、このうちの最初のものを編纂したのが舎人(とねり)親王という、天武天皇の息子さんで、697年からスタートして、720年に完成したといいますから、20数年もかかっています。

その内容はというと、アマテラス大御神の神代から持統(じとう)天皇が退位した、697年ころまでの歴史的事実を詳しく書き上げており、古代日本のことを記した、いわばタイムマシンともいえるような存在です。

全30巻もあるそうなのですが、登場人物の系図などが欠落していて、また固有名詞が極端に少ない、といった難点があるらしい。さらに、誰がいったい何のためにそういうことをしたのか、といった具体的な事実がわかりにくいのだそうで、学者泣かせの代物らしいのですが、それでもともかく、1300年以上の昔のことが、これでわかる、ということはすごいことです。

さて、前置きが長くなりましたが、そんな日本書記の中に出てくる記述のひとつが、先日もこのブログでも紹介したように、「応神天皇五年(274年)十月、伊豆国に命じて船を造らせたとところ、長さ十丈の船が出来た。試しに海に浮かべてみると、軽くて、走るように進んで行くので、これを「枯野」と名付けた。」という記述。これが、おそらく歴史書に出てくるもっとも古い伊豆に関する記述と思われます。

これ以降は、天武天皇の時代の、653年に三位麻績王という皇族の息子が伊豆島に流されたという記述があるのをはじめ、686年には、に大津皇子という皇子の家臣で、張内礪杵道作(張内という場所に住んでいた、「ときのみちつくり」という人)が伊豆に流されたという記述があるそうです。大津皇子は、朝廷に謀反の意があると言われ、朝廷から自害を命じられており、「ときのみちつくり」は、これに連座したのです。

また、699年には、役小角(えんのおづの、おづぬ)という人が「伊豆島」に流されたという記述が出てくるそうですが、この伊豆島とは、伊豆大島のことを指しているという人もいるようです。

この役小角、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍?した呪術者なんだそうです。修験道者、ようするに山伏の元祖で、その死後の平安時代に山岳信仰がさかんになるとともに、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになったようで、こちらのほうが、名前を聞いたことがある人が多いのでは。

実在の人物だそうですが、のちの世に至って、いろんな伝説で彩られていて、実のところはどんな人だったかよくわかっておらず、伝説ばかり残っているらしい。しかし、奈良で生まれ、17歳の時に元興寺というところで、「孔雀明王の呪法」という呪術を学んだということはわかっているらしい。その後、葛城山(現在の奈良と大阪の境界にある金剛山)で山岳修行を行い、熊野や吉野の山々で修行を重ねて、修験道の基礎を築いた人だということです。

20代の頃に、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説が残っていて、呪術に優れていただけでなく、医療技術ももっていたらしく、そのお弟子さんの中にはその後朝廷の薬局である、「典薬寮」の長官になった人もいるとか。鬼神を自由に使って、水を汲ませ、薪を採らせているとか、その命令に従わないときには呪で鬼神を縛ることもできたということで、ほんとかウソかわかりませんが、ボリショイサーカスの猛獣使いとMr. マリックを足して二で割ったような人だったのでしょう。

で、なんで伊豆へ流されたんかなーということですが、誰かに、人々を言葉で惑わしていると讒言(ざんげん)されたようで、その当時の天皇、文武天皇という天皇から伊豆大島へ流罪を命じられたそうです。

この、伊豆へ流罪になったという話は、伝説になっていて、その伝説のほうのことの顛末は次のようです。

役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていて、常に左右に鬼を従えるほどの力をもっていたそうです。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々にこれをやらせようとしたのですが、そのうちの一人、葛木山にいる「一言主(ひとことぬし)」は、醜い自分の姿をすごく気にしていて、夜にしか働こうとしませんでした。

そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立て、昼間も働かせようとしました。それに耐えかねた一言主。朝廷まで行って、役行者が謀叛を企んでいると讒訴します。時の天皇、文武天皇は、これを怒り、役人に役行者の捕縛を命じます。役行者はこれを法力で退けようとしますが、役人が、彼の母親を人質にしてつれてきたところ、おとなしく捕縛され、ついに、伊豆大島へと流刑になります。

しかし、役行者は、流刑先の伊豆大島でも、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていって修業していたとのことで、富士山麓の御殿場市には、役行者が建立したといわれる、青龍寺というお寺が今もあります。

その後、大宝元年(701年)正月に赦されて郷里の奈良に帰った役行者ですが、伝説では、その後仙人になったといわれています。が、実際には大阪府の箕面(みのお)市にある天井ケ岳というところで、68才で亡くなっています。

その後、時代が下るとともに、役行者は、信仰の対象にもなっていきますが、その超人的な伝説は、日本各地で語り継がれていきます。そして、近代では、江戸時代に書かれた、滝沢馬琴の南総里見八犬伝にも登場します。八犬伝の中で、「八犬士」の生みの母親である、伏姫に、「仁義礼智忠信孝悌」の文字が書かれた八つの玉を授けるのはこの役行者です。この南総里見八犬伝をもとにした、NHKの人形劇、新八犬伝(1973年)を見られた方も多いのではないでしょうか。

日本書紀には、このほかにも「伊豆島」へ罪人が流されたという記述が随所に見られるそうです。675年には麻績王(おみのおおきみ)という皇族の二人の子が流罪になっているほか、また、677年にも「杙田史名倉(くいたのふびとなくら)という人物が、天皇を批判したとかの罪で、「伊豆島」に流され、この場合は処刑された、とされています。

このほか、流罪ではありませんが、620年には掖玖(やく、現・屋久島)の人が「伊豆島」に漂着したという記述もみられるとか。

このように、伊豆半島や伊豆諸島は、古くから流刑地とされていたようで、六国史のひとつで、日本書記の次に書かれた「続日本紀(697-791)」には、724年には「伊豆国」が安房国、常陸国、佐渡国などとともに遠流の地に定められたという記述がみられるそうです。

ちなみに、この続日本紀にも、699年に役小角が伊豆島に流されたという記述があるそうですが、これよりずっとのちの1094年ころに書かれた「扶桑略記」という六国史の要約版のような歴史書にも同じ記述があるとか。そこには、「仍配伊豆大島(よって、伊豆大島に配流される)という記述がみられるそうなので、これを根拠にして、伊豆島とは、伊豆大島だったと考える学者さんが多いのだそうです。

さて、このように古代の伊豆は、流刑地という印象が強いのですが、日本書記に記されている記述以前の伊豆がどういう場所であったかについては、伊豆北部から中部にたくさんある古墳や横穴群にその当時の状況を知る手がかりがあるようです。

これについては、大化の改新のあとの670年代以降に出来上がっていく、律令国家の体制の中に伊豆の国が取り込まれていった状況とともに、明日以降、また詳しく書いていきたいと思います。

今日の伊豆の古代史、史料が少ないので、まとめていくのは結構大変でした。明日以降が思いやられますが、まあ焦らずぼちぼちやっていくことにしましょう。

駿豆線

伊豆へ引越してきてから、今日でちょうど4ヶ月が経ちました。家の中はまだ、片付いていない部屋はあるものの、補修等はほぼ終息。庭の手入れも、基礎的な形状はととのえ終わり、庭木を植えたことで、少しずつ庭らしくなってきています。

東京での生活との違いを改めて思うに、やはり実感できるのは、この空気感でしょうか。晴れた日ばかりではなく、雨の日も曇りの日も、それなりの「爽やかさ」が漂っているかんじがします。東京にいるときは、普通に生活していても、何か息苦しさを感じていたように思いますが、ここでは一瞬一瞬に吸い込む空気で身も心も洗われる、といったら書きすぎかもしれませんが、ともかく深呼吸が心地いい。

日常生活に必要なものも、近くにかなり大きなスーパーがいくつもあり、まったく不自由はありません。一般のスーパー以外にも、農協系のお店がいくつかあって、野菜や魚などは、スーパーよりは安く買えます。地元の農家の方が直接売りに出しているので、少し型崩れのものもありますが、食べる分には何の支障もありません。むしろ、無農薬野菜と思われるものばかりなので、安心して食べることができます。

修善寺から少し伊東寄りにある農協系のお店、「農の駅」では、付近の農家で採れたワサビを安く売っていて、魚好きの私にとっては大変うれしいことです。7~8cmくらいもある大きなワサビが300円くらい。一本買えば、だいたい5日間、毎日使っても大丈夫です。ときには、もっと小さいワサビが茎ツキで、4~5本、400円くらいで売っていたりします。東京なら、いずれも1000円近くするでしょう。

花好きのタエさんにとっては、お花が安いのも魅力です。これも農家直売だからなのでしょうか、花束が一束、150円とか200円で売っていますし、鉢植えの花だって安い。めずらしい山野草みたいなものを売っていることもあり、毎週のように行く、この農の駅では、これは何だろう、あれは何?みたいな、タエさんとの会話も結構楽しかったりします。

このように、生活全般では何も問題ない、というか、環境が変わっただけで、こんなに生活って変わるんだろうか、と思えるほど、豊富な自然環境に恵まれ、豊かな気分で過ごせる毎日です。

ただ、難点をいえば、少し特殊なものが欲しいときが問題。たとえば、ちょっと変わった本や雑貨が欲しいと思ったとき、東京なら、この町に行ってなければ、別の町のお店へ行ってみればいいや、それでもなければ、新宿へ出ようか、とこうなるのですが、ここ伊豆では、大きな町というと、最短が沼津と三島、そして伊東だけになってしまいます。

大きな町といっても、面積が広いだけで、東京でいえば、青梅とか福生のようなかんじ。ジュンク堂書店や、東急ハンズのような大規模なお店はありません。少し遠出をして、静岡や浜松へ出るなら別ですが、それなら、むしろ横浜へ行ったほうがいいや、ということになります。

もっとも、東京に住んでいたときだって、多摩から東京駅に出るには、2時間ちかくかかっていたのですから、時間的には一緒。そう考えれば、豊かな自然環境に囲まれているだけ、こちらのほうが断然いいや、ということになります。

交通機関も比較的充実していて、別荘地内には本数は少ないものの、修善寺駅までのバスの運行がありますし、さらに、修善寺駅から三島駅までは1時間に4本もの頻度で電車が出ています。東京駅直行のJR伊豆の踊子号もあり、これに乗れば、2時間ほどで東京に行くことも。さらに、新宿まで直通の高速バスまであるのです。

ただ、交通費はばかにならないかな。バス利用では、新宿~修善寺間が往復4500円ほど。特急や新幹線利用なら往復1万円はかかります。新幹線利用の場合、三島から修善寺までは駿豆線(すんずせん)に乗りますが、三島~修善寺間、約20km区間は500円。東京の私鉄の値段に比べると、ちょっと高いけれど、まあ、許せるかなといったところ。

この駿豆線、前にも書きましたが、明治の30年代に、湯治客の便を図り、伊豆中部の大仁と東海道本線を結ぶ目的で建設されました。初めの計画では、沼津を起点とする予定だったのだそうですが、東海道本線に駅がなく、さびれかけていた三島市の有志が、当時の駿豆電気鉄道に土地寄贈を行うなど、積極的に駅の誘致を行ったため、三島起点が実現したのだとか。

その当時もそうですが、今もどちらかといえば三島よりも沼津のほうがにぎやかなので、伊豆の住民には、沼津が始点だったほうが歓迎されたのではないでしょうか。

が、その後、新幹線が止まるようになったことを考えると、三島に駿豆線を誘致したのは大正解だったのかも。おそらく、JRも、新幹線駅を三島にするか、沼津にするか迷ったと思うのですが、おそらく、既に駿豆線というインフラができており、修善寺方面へ行く観光客を獲得するためには、三島のほうが有利だと判断したのでしょう。無論、私たちに伊豆市民にっとっても大歓迎。三島へ出さえすれば、東京でも名古屋へでも新幹線で行けるのですから。

明治時代にできた、この駿豆線ですが、これができたことで、東京から伊豆へ湯治に出かける人は、かなり増えたようです。以前もこのブログで書いたように、たくさんの文士たちも湯治に頻繁に来るようになっており、その中の一人、尾崎紅葉さんは、駿豆電機鉄道が大仁まで開通した二年後には早くも修善寺に温泉湯治に来ています。明治35年に書いた日記の中で、「汽車を見るに軽微にして粗鹵(ソロ)、其(そ)の来るや狸の化けたる者の如く、煙突の小なるむしろ噴飯すべし、車六輛を列ねて軒輊(ケンチ)して去る」との記述があるそうです。

「ホームに入ってきた汽車をみると、やけにちゃちに見えて、こんなもので大丈夫なのかというような代物。煙突も小さく、まるで狸のばけもののように見えて、笑ってしまった。車両は6両で、妙にがたがたと上下揺れながら、行ってしまった。」くらいの意味でしょうか。

その当時は、駿豆線にまだ電気機関車は導入されていなくて、紅葉さんが伊豆を訪れていたころに客車を引っ張っていたのは、小さな蒸気機関車だったようです。それがホームに入ってきた様子をみて、かわいらしいやら、頼りなげなやらの様子をみて、紅葉さんは思わず笑ってしまった、と書いたのだと思われます。

このころまだ駿豆線は、豆相鉄道と呼ばれていた時代で、それでも静岡県初の民営蒸気鉄道だったそうです。東海道線のように政府が運営する路線を走る蒸気機関車はこれよりもずっと早く運行が始まり、輸入した車両を使っていたのでおそらくずっと立派なものだったのでしょう。豆相鉄道の汽車は軌道も狭く、同じ蒸気機関車とはいえ、規模も小さかったはずで、これをみた紅葉さんが笑ってしまったというのもうなずけます。

駿豆線が、電化されるのは、明治39年(1906年)になってからのことです。このあと、明治41年には、岡本綺堂、明治42年には、島崎藤村と田山花袋、明治43年に、夏目漱石、大正5年、吉田絃二郎、大正7年、川端康成と、次々と有名な文士が駿豆鉄道で修善寺にやってきています。

芥川龍之介も、1925年(大正14年)4月21日に、修善寺温泉の新井旅館に行くために、駿豆線に乗っており、東海道線の三島駅から駿豆線、三島駅へ乗り換えるとき、その様子を伝える手紙を残しています。

「三島についたらプラットホームの向う側に修善寺行きの軽便がついているゆえ、それへ乗れば六時には修善寺につく。修善寺駅から新井までは乗合自動車、人力車荷でもある。時間がわかれば僕が迎えに出る。切符は東京駅より修善寺駅まで買ったほうがよし。」

「軽便」というのは、今の駿豆線のことで、軌道の幅が小さく、「ちんけ」に見えるこの路線のことを、その当時はこう呼んでいたようです。芥川さんが三島に着いたのは午後4時39分だったそうで、そのころには、三島から修善寺まで1時間40分もかかっていたのですね。いかにも非力な電気鉄道の様子が目に浮かぶようです。

この手紙は、修善寺へ来る友人か誰かに宛てた手紙のようで、芥川さんが、「切符は東京駅より修善寺駅まで買ったほうがよし」と書いているのは、おそらく、東海道線の三島までしか買わないと、三島でまた駿豆線の切符を買わねばならないから面倒くさい。東京駅で修善寺駅までの切符を売っているので、それを買え、と言いたかったのでしょう。

その当時もう、国営の東海道線と民営の駿豆線の間で、切符の購入にあたっての提携が行われていたことがわかります。

以後、芥川さんのような文士だけでなく、東京から伊豆への湯治客はひきもきらずの状態で、昭和8年には、初めて東京から修善寺までの直行列車が、週末だけでしたが、運行を開始しています。さすがに戦時中は、中断したようですが、戦後の昭和24年に再開。旧国鉄の準急、「いでゆ」、翌25年には同じく準急の「あまぎ」が乗り入れを開始します。

特急「踊り子」は昭和52年(1981年)に、それまで運行されていた特急「あまぎ」と急行「伊豆」を統合して運転が開始されたそうです。この当時の、所要時間は平均2時間45~50分だそうで、現在の2時間10分に比べると30~40分遅かったようです。

現在、「踊り子」号と呼ばれるものにはもうひとつ、伊豆の東側を走る伊豆急行の、「スーパービュー踊り子」があります。こちら、海側を通って下田へ行く電車で、別に天城を通るわけでもないのに、なんで「踊り子」なんかな~と思うのですが、「老舗」である駿豆鉄道を通る特急「踊り子」のネームバリューが大きくなっていたので、ちゃっかりその名前の上に「スーパービュー」をつけ、広告効果をねらったのでしょう。

おかげで「踊り子」がふたつあることになり、結構これを混乱される方も多いみたい。民主党と自民党じゃないけど、ネームバリューが高いとなると、似たような名前をつけたがるのは、日本人の癖なのかもしれませんね。

さて、今日は、駿豆鉄道の歴史物語になってしまいました。いつも、書きはじめは違うことを書こうと思っているのに、途中からどんどん別の方向へ行ってしまうのは、私の「癖」。直したほうがいいのかどうか、わかりませんが、ま、こんなへんな癖のあるブログでもよろしければ、またお寄りください。

今日の伊豆地方は、これから午後、雨になるようです。しばらくの間、天気はあまり期待できなさそうなので、これから、少し散歩でも行ってこようかと思います。またブログにアップするようないい写真が撮れると良いのですが……

素粒子と魂

先日、「ヒッグス素粒子」が見つかった、かもしれない、というニュースが全世界を駆け巡りました。まだ、「暫定」的な発表ということなのですが、専門家からはほぼ確実、とみられているようです。

そもそも素粒子って何だ? とまったく知識を持っていなかったのですが、奇しくも今朝、先日の5日にNHKで放映されていた、「コズミック・フロント」の録画をみていたら、だいたい、その意味がわかりました。

この放送、アメリカのある女性天文学者が、遠い銀河にある星のスペクトルを観測することで、星々の重量を計測するという研究をしていた、というところから始まります。

彼女は、その研究によって、銀河の中にある星々がどのくらいの速さで、銀河の外へ出ようとしているかを研究していたというのですが、観測の結果、膨張しつつある銀河の速度を計算したところ、目に見える恒星だけの重量では、その速度にはならない、という結果を得ます。銀河の中に何か、目にみえない重い重量を持つものがあって、それが恒星が引き留めていると考えない限り、その速度にならないはずだ、と彼女は結論づけます。

彼女の理論は、当時の天文学者たちになかなか受け入れてもらえませんが、彼女の執念はものすごく、その後も100もの銀河について、同じような観測を辛抱強く続けていったといいます。そうしたところ、なんと、すべての銀河において同じ結論が得られたのです。そして、その目に見えない大きな重量物は、「ダークマター」と呼ばれるようになり、世界中の天文学者がそれが何であるかをつきとめようと研究を始めるようになります。



ちょうどそのころ、物理学の研究者たちも、物質を構成する粒子の研究の中で、目に見える粒子だけでは説明できない粒子があるのではないか、という疑問を持ち始めていました。かつては、原子が究極の最小物質と考えられていましたが、その後、原子は原子核と電子で構成され、さらに原子核は陽子と中性子に分けられるということが発見されます。

ところが、これらが究極の物質だろうか? 陽子や中性子を、もっと細かく分けることはできないのだろうか?と疑問を持つ物理学者がいて、さらに調べていくと、どうやら未確認ながら、それらをつなぎとめる別の粒子があるらしい、ということがわかるようになります。そして、物理学者たちは、それを「素粒子」と呼ぶようになります。「物質を細分化していって、最後にたどりつく究極の粒子」という意味でつけられた名称です。

この素粒子、その当時の研究では、目にみえない物質であったことから、幽霊粒子、とまで言われていますが、そのころ天文学者の間で話題になっていた、「ダークマター」とも同じように目にみえないものであったことから、もしかしたら、同じものではないか、と考える学者が現れます。

やがて、天文学と物理学がそれぞれ別の観点から、探求していたものが、どうやら同じものらしい、と認識されるようになり、こうして天文学と物理学の融合が始まります。それぞれ別々の分野だった学問が、天文物理学、素粒子物理学、という新しい分野の学問に名前を変えて発展していくことになるのです。

そして、それらの学問の発展の中で、陽子や中性子、電子など以外の素粒子がみつかるようになります。岐阜にある、素粒子観測施設、「スーパーカミオカンデ」で観測することに成功した、「ニュートリノ」も素粒子のひとつです。

このように、何等かの形で観測できる、すなわち我々の目に見える形で存在を確認できる素粒子は、すなわち「光」で観測可能な素粒子なのだそうです。ところが、素粒子の「標準理論」では、光で観測可能な物質はそのすべてのうちの4%にしかすぎず、残りの96%は未解明なままなのだそうです。

「標準理論」とは、高い精度の実験結果に基づき、物質の構成要素が何と何でできているかとを正確に理論として立証することができる、ということでこう呼ぶようになった理論で、ノーベル物理学賞受賞者の小林誠博士、益川敏英博士の「小林・益川理論」がその基礎になったと言われています。要するに物質の構成要素である、陽子や中性子や電子、そしてそれ以外の素粒子のすべてを証明できる完璧な理論、というわけです。

この理論を使えば、物理現象のほぼすべてが高い精度で計算が可能になるのだそうで、現在の物理学では、基準ともいえる理論、という意味で、標準理論、標準模型、標準モデル、などと呼ばれています。

標準理論の予言と矛盾するような実験事実は今のところ存在しないそうで、これはこれですごい理論らしいのですが、ところが、標準理論には弱点があって、その中で登場する素粒子の存在が何なのかがよくわかっていないのだそうです。

そして、その未解明な素粒子こそが、ヒッグズ素粒子ではないか、と期待されているのですが、そもそもヒッグス素粒子はみつかったばかりなので、標準理論で登場する素粒子=ヒッグス素粒子なのか、はたまた、ヒッグス素粒子=未解明な96%の素粒子なのか、など、具体的なことは、まだぜんぜんわかっていないのだとか。

いずれにせよ、次のステップとしては、この粒子が何であるかを解明し、この世界のすべてを構成し、またその相互作用を生み出す基本的な粒子についての完璧なモデルを作りあげることが、学者さんたちの目標になっているわけです。

ここまで調べてきて思うのは、ここまで現代の科学技術が発展してきていても、まだ宇宙の96%もの質量を支配しているような物資が発見されていないんだ、ということ。まだまだ我々の知らない、未知の世界があり、科学的にも証明できないことがたくさんある……

そう考えてくると、霊的な世界のこととかも、科学的に証明されていないですね。もしかしたら、この未発見な素粒子って、霊的なエネルギーなんかと、何かの関係があるのでしょうか。目にはみえないけれども、この世界を形作るほどのエネルギーや質量をもつという素粒子が存在するのであれば、それと霊的なエネルギーがリンクしていても不思議ではないはずです。それがイコールな関係かどうかは別として、そういう研究ってないのかしら、と思い、ちょっと調べてみました。

そうしたところ、最近話題になっているらしい本で、「魂の真実」というのがあるらしいことがわかりました。著者は、「木村忠孝」さんという人で、北九州市の病院の院長先生らしい。お医者さんです。

そのプロフィールは、1954年1月27日生まれ。福岡市在住。北海道立札幌医科大卒。日本、アメリカでの臨床経験を経て(内科・救急医学・精神科・心療内科)、現在、北九州市春日病院院長、だそうです。

大きな病院の院長までやっている方だけに、なかなか信頼のおけそうな本です。まだ買ってもいないので、その内容すべてを知ることはできませんでしたが、その一部を紹介しているホムペがあったので、いくつか拾い読みをしてみました。その中に、本編をそのまま引用しているものもあったので、以下、再引用してみます。

「生命の秘密 生命体は約300~2000ナノメートルの周波数エネルギーを放出している。周波数の違いは固体の質量、色、光度、温度、性質を決定している。エネルギー波の振動が、それに合った某体に出合うと、そこで変化を起こし、粗い振動の世界に移る。それが中間子、電子等、素粒子になる。素粒子はエネルギーに分解され、エネルギーは素粒子を形成する。膨大なエネルギーがくっつき合い、重なり合い、凝集、結晶化して、振動数が鈍くなることで素粒子が生まれ、その素粒子が重なり合い、凝集することで物質が生まれる。振動数が極端に高くなると視覚で捕らえることが出来なくなる。可視光と不可視光の違いも振動数によるもの。私たちは波長の同調されたものしか見られないため、波動次第で見る範囲が決定する。だから人によって見えないものが見えたりする。実際、色にしても、普段私たちは数十色までしか識別できないが、現在つくることのできる色は、約680000000(六億八千万)色あるという。脳内の思念も電気信号的なエネルギーの振動である。」

なかなか難しそうです。よくわかりませんが、生命は素粒子でできていて、我々の波長に合うものは見えるけれども、見えないものもある、ということのようです。霊的なエネルギーは普通は見えないけれども、波長があえば見える素粒子である、と言っているのかもしれません。

さらに、「まとめ」として、

・身体は、目に見える肉体以外に、電磁気的エネルギー体で出来ている
・振動数の違う他の放射体が、肉体と重なるように存在している。
・人間が細胞から光を発していることが証明され、それを定量的に測定測できるようになった(生体光子)
・人間は生体光子になる情報伝達網を持ち、電磁気的な信号、電子による情報伝達、記憶をもっている
・オーラや生体光子は現代機器で映せるものの、霊体の中核として頭の中心に存在する光子体は振動数が高いため、通常の人には見ることが出来ないが、より高い振動数の波動と調和できる人には視覚的に捕らえることができる
・脳を微電流が流れることにより形成される磁場、磁場線が阻害されたり、切れたり、止まると、肉体に死が訪れ、霊体と分離する
・死後の霊体は球形で35cmほどある。死後体重は26g減る。その後、大気中で有機物や余分なものが消失し、球形5cmくらいのプラズマ状の球体となり、主に電子、素粒子により構成されるようになる。その後、球体の直径を自由に変化させることができる

などなどと、続きます。かなり細かい内容です。本物の本を読んでいないので、その根拠などはよくわかりませんが、霊的な存在について具体的な数字まであげられているところなどは、かなり本格的です。

今日のところは長くなりそうなので、ここいらでやめておきます。購入して読んでみたら、また私自身のことばにして、わかりやすく書いてみたいと思います。ご興味のある方は、ご自分でも買って、私より先に読んでみてください。出版社は「たま出版」1500円だそうです。

今日は、タエさんのお買いものに付き合って、三島まで行く予定なので、そのときにこの本も探してみようかな。良い本だといいのですが……

魚さかな魚……

今日は梅雨だというのにスカッ晴れで、良い天気です。雲の間からときおり姿を見せる富士山は、さすがにもう雪がほとんどなくなっています。先日の山開き以降、既にたくさんの人が今年の富士山を楽しまれたと思いますが、今日登られる方はまた格別の景色をご覧になれることでしょう。

こういう晴れてすがすがしいお天気のときには、昔仕事でよく行った、北海道のことを良く思い出されます。北海道の各所にあるダムや堰に、サケやマスなどが上りやすくするために、「魚道」というものが設置されているのですが、仕事というのは、その魚道を作った効果が本当にあるかどうかを調査し、確認するというもの。

「魚道」というのは、あまり聞きなれない言葉だと思いますが、どういうものか簡単に言いますと、ダムや堰などの障害物があると魚がその上流へ行けないので、階段状の魚の通り道を作ってあげて、そこへ魚を誘導して、上流へ導くというもの。いろんな形のものがあり、上らせてあげる魚の種類別に同じ魚道内にも複数の構造の魚道を作ったりもします。

もともとは、サケなどのように、川の上流で卵を産んで、海に下ってから大きく成長、再び川をさかのぼって産卵を繰り返すような魚、「回遊魚」といいますが、この回遊魚のために開発されたもの。川の中にダムや堰を作ると、上流に遡って産卵ができなくなり、そのため海へ下って捕獲できる回遊魚が減ってしまうことから、主に水産資源の保護、ということで魚道が作られるようになりました。

もともとは、アメリカで開発されたもので、かの国が電力発電のほとんどをダムによってまかなっていた時代に、ダムを作ったことでサケの捕獲量が激減。水産業者が国を訴えるような出来事もあり、これに答えたのがアメリカの陸軍工兵隊。日本ではこういう研究は、国土交通省の研究機関でやるのですが、アメリカの場合、陸軍に設置された「陸軍工兵隊」という研究組織があり、ここが土木や建築の基礎研究をしています。

戦争をするためには、まず川や海、山などの自然条件を知り、それを自在に操らなければいくさにならない、という主旨で作られたこの研究所。へんな名前ですが、アメリカでは最も古くて権威のある研究所で、現在日本で使われている土木技術の多くはこの研究所で作られたものと言っても過言ではありません。

日本の場合、島国なので、戦争をするためには、まず船を作ればいい、ということで、最初、陸軍より海軍の育成に力を入れたといいますが、広大な土地を持つアメリカでは、南北戦争の時代から陸での戦闘に重点が置かれており、戦争のために橋を作ったり、道路を作るためには土木技術の研究が不可欠だったというわけです。

私の記憶違いでなければ、この陸軍工兵隊が最初に作った魚道は、アメリカのワシントン州のコロンビア川上流に作られたもの。コロンビア川では、サケやマスなどのサケ科の大形魚類が、毎年、数百万尾も遡上するため、上流へのダムの設置によって、沿岸の水産資源の枯渇を招くおそれがあります。

このため、ワシントン州と陸軍工兵隊、および国の環境保全にかかるセクションが共同で、魚道開発を行い、現在では、河口から700kmまでにある8つのダムに魚道が作られ、それぞれのダムの魚道で毎年、数十万尾のサケマスの通過が確認されているということです。

ひとくちに、魚道を作る、といえば簡単そうなのですが、これらのダムの高さはみんな、20~30mもの高さのある巨大なもの。この高さを、たとえばサケやマスのような大型の魚に上らせるためには、ひとつひとつの階段の高さも抑え、距離を長くする必要があります。そのためには、ダムや堰の設計の段階から、魚道との位置関係や構造についてあらかじめ検討しておく必要があり、その設計のためには、ときに模型を作って実験まで行います。

問題は、相手が生物だということ。せっかく模型を作っても、その模型で魚が上ったとしても、実際の川では上らない可能性もあるため、設計者たちはその構造を決めるのに大変な苦労をします。また、実際に出来上がったあとも、魚がほんとうに上ってくれるかどうかを確認する必要があり、上ってくれなければせっかく作った魚道を改良することだって必要になるのです。

忘れてはならないのは、魚道は魚を上らせるだけの構造物ではなく、魚を下らせることも必要です。せっかく上流に上って卵を産んでくれても、卵からふ化した魚が、安全に海までたどり着いてくれないと、魚道を作った意味がなくなってしまうからです。

ダムや堰の魚道で一番問題になるのは、魚がまず、その入口を見つけられるかどうか、ということ。ダムの下流では、ダム本体から大量の放流水が出ている場合が多いので、多くの魚はこちらへ行ってしまいます。それを避け、魚たちに魚道の入口を見つけてもらうためには、魚道の入口からもできるだけたくさんの水を流して、魚に気付かせる必要があります。しかし、魚道からたくさんの水を流し過ぎると、せっかく貯めたダムの水がムダになってしまいます。

このため、少ない水量で、できるだけ魚に気付いてもらえるような強い流れを魚道の入口付近で作ってやる必要があるのです。魚道から出るこのみずみちのことを、「呼び水」といいます。その名の通り、魚を呼ぶための水です。

ところで、私は、前述した、コロンビア川の上流へその昔、魚道の視察調査に行ったことがあります。コロンビア川上流の小さな堰に、魚を魚道の入口に見つけやすくするために面白い装置が設置してある、という情報があったからです。その装置とは、堰の真下にあるコンクリートの中に、川幅全体にわたって、電線を遠し、水中に微弱な電流を流すというもの。サケやマスはこの電流をいやがり、川の中で、電流が唯一通されていない、魚道の入口に誘導されるという仕組みです。

ワシントン州のシアトルから、この施設をみるために、クルマで6時間もかかって行ったことが思い出されます。視察したその堰の下流の入口には、北米特有の真っ赤な色をしたベニマスやシロザケがたくさん集まっていて、なかなかの壮観でした。日本では法律的な問題もあるようで、こういう施設は作られていませんが、さすがアメリカ、先進的なことをやってくれるわい、とその時思ったものです。

さて、このように、魚道の入口は、魚道から流の早い水を出したり、魚がいやがるものをうまく使って誘導することで、魚がそれに気付いてくれることが多いのですが、実は、問題は、上流のダム湖のほうが大きいのです。

考えてもみてください。ダムや堰の上流にできた、広大な湖。この中で、どうやって魚が魚道の入口を見つけられるのでしょうか。

一般にダムの上流の湖では、水の流れは、ダム湖の水の放流口や発電をするダムの場合は、発電用の取水口の付近に集中します。このため、川を下ろうとする魚はどうしても、この放流口や取水口付近に集まってしまい、最悪は、この放流口から落下して死んでしまったり、発電用取水口に飲み込まれ、タービンでずたずたになってしまうという可能性もあるのです。

このため、放流口や取水口には魚が迷いこまないように網を設けたり、魚がいやがるような突起物を設けたりと、いろいろな工夫をします。ただ、それだけでは魚が必ずしも魚道を通ってくれるとは限らないので、さらにいろいろな工夫をします。

一般に魚道は、ダムの片側の一番陸に近いところに設置されます。多くの魚は、川岸に豊富にいる昆虫などを食べているため、川岸に沿って移動するためです。が、それだけでは、魚道の入口に魚が行ってくれるとは限らないので、魚道をダムの片側だけでなく、両側につけたり、魚道の入口がわかるように、魚道の入口付近だけ強い流が発生したりするように工夫します。場合によっては、魚道の入口を魚道の入口を水面から、ダムの底まで、いくつも造ったりまでするのです。

私が北海道へ仕事で頻繁に行っていたころ、やはり多くのダムではこの問題に直面していました。サケの稚魚は、数センチと小さいので、ダムの放流口に迷いこみ落下しても大丈夫なことが多く、発電用取水口からタービンを通っても切り刻まれる確率は低いのですが、問題だったのは、サクラマスの稚魚のように比較的大きなもの。

十数センチもあるため、落下や発電用取水によって傷ついてしまう可能性はもちろん、体の表面の皮が薄く、すごくセンシティブな魚であるため、普通に川を下っていても傷ついてしまうこともあるほど。

これを無事に魚道に導くために、いろいろな室内実験や屋外実験をやりましたが、最終的には、サクラマスの稚魚は光に敏感だということがわかり、ダムの上流の入口に夜間、灯りをつけることでサクラマスの稚魚を誘導することに成功。その後もそのダムでは誘導灯をつけることを続けていると聞いています。

このサクラマスが川を下るのが、5~6月なのですが、北海道ではまだまだ寒いこの時期、ダムサイトにレンタカーを止めて、クルマの中で仮眠をとりながら、一晩中、魚道を下るサクラマスを試験的に捕獲し、カウントしていたことが思い出されます。

さて、アメリカの魚道は、サケやマスのような大型の魚を目的に開発されたものですが、日本の場合、ここが少し違ってきます。無論、サケやマスなどの大型魚類が上ってくるだ川も多いのですが、日本の場合は、アユやシシャモといった、小型の魚類の捕獲によって水産業が成り立っている川が多いのです。シシャモの場合は、比較的河口に近いところで産卵をするので、ダムからの水の放流によって、その産卵場が乱されないように気を配るか、場合によっては新たな人工産卵場を作ることで問題を解決することができます。

ところが、アユの場合は、サケやマスなどの遡上を目的とした大型魚道では、なかなか思うように上ってくれないのです。その理由は、アユは、急流の浅瀬を遡るという修正があるため。階段状にした緩い流れの魚道では、アユは階段下のプールでゆっくりとくつろいでしまい、上流に上ろうとしません。アユを積極的に上らせるためには、人工的に急な流れを作り、しかもその流が上流のダム湖まで連続して続くようにしなければならないのです。

このため、アメリカで使われていたようなゆるやかな流れの魚道ではなく、急な流れが断続的におきるような特殊な魚道が開発されました。こうした特殊な魚道の研究は、日本と同様に、比較的急な流れのあるヨーロッパでもさかんに研究され、これにアメリカも加わって、80~90年代にはいろんなものが開発されました。多くは、魚道の水の流の中に、飛び飛びに置かれた遮蔽物を置き、その遮蔽物の周囲で発生する急な流れをできるだけ、連続させていくというもの。ときには、コンクリートだけではなく、鉄製の遮蔽物が置かれるものもあります。

日本で独自に開発されたものもあり、そうした新型魚道が、いまやあちこちのダムや堰に設置され、そこをたくさんのアユたちが通って安全に上流に向かい、産卵を行っています。今度、川でダムや堰をみつけたら、ぜひ、そこに造られた魚道をみてください。いろんなタイプのものがあると思います。そこを上っていく魚をみつけたら、楽しいですよ!

ちなみに、ダムと堰の違いってご存知ですか? 実は日本では、ダムというのは、高さが9mを超えるものを指し、これ以下のものを堰と呼んでいます。テレビなどで、よくレポーターさんが、背の低い堰を指さしながら、「このダムが・・・」と説明されている光景をよく見ますが、それを見るたびに、ああ~違うんだよなーと思ってしまう私。ですから、みなさんも今度から、「ダム」と呼んでいるものがほんとにダムかどうか確認してみてください。

さて、今日は、その昔、北海道へよく行っていたという話から、魚道のお話へと飛躍してしまいましたが、いかがだったでしょうか。あまり一般の人には、なじみのないお話だと思うので、逆に面白いと思っていただけたなら幸いです。

たまには、このように昔とった杵柄シリーズも良いかもしれませんので、また面白そうな話を思い出したら書いてみましょう。

今日は、スカッ晴れの伊豆。少し外へでて、その空気を存分に楽しんでこようかと思っています。そういえば、狩野川には魚道、あったかしら……

軽野船 ~伊豆市

今日は、たなぼた……いや、たなばたです。今日の天気は曇りということなので、天の川もみえないかも。子供のころ、夜空を見上げていると、うすぼんやりと天の川が見えたのを覚えていますが、東京にいたころは、街の灯りやら大気の汚れやらで、見えたためしがありません。ここ、伊豆ではどのように見えるのか、梅雨が明けたらぜひ、試してみたいと思います。

さて、川といえば、狩野川です。昨日も、狩野川のそばにあった、狩野城について書きましたが、「狩野川」という名前は、この狩野城を作った狩野一族の名前にちなんだものだとばかり思っていました。

ところが、調べてみると、「狩野」という名前の由来は、どうやら狩野家の人々がそれを名乗ったからではないらしいことがわかりました。その由来には諸説があるようなのですが、日本書紀では、伊豆の国で船を造り、その名を「枯野」と称した、という記述があるそうで、それが軽野(カルヌ)に変わり、さらにカヌに変化。最終的に「狩野」になったという説が有力なのだそうです。

昨日書いたとおり、狩野一族の始祖の、為憲さんは、もとは藤原姓を名乗っており、最初は藤原為憲と名乗っていました。その孫の維景さんの代になって狩野姓を名乗り始めたのが1050年ころだそうで、だとすると、その頃にもう「狩野川」という名前が地元では定着していて、それを姓に使ったのではないかと思われます。

それはともかく、その語源になったという、「軽野」という名前がそのまま残っている神社がある、という記事をネットでみつけたので、地図で調べてみました。すると、修善寺の南西4kmほど離れた場所に、確かには、軽野神社というのがあります。

さらに、ネット情報によると、この神社はその昔、造船儀礼と深く関わっていた、というのですが、造船? こんな山奥で? と不思議に思ったので、ともかく行ってみようと思い立ちました。先日行った狩野城のすぐそばにあるようで、ここからクルマで行ってもすぐのところのようです。

別荘地の山を下り、伊豆市役所を過ぎ、時折みえる狩野川を左手にみながら、クルマを走らせることおよそ10分。「軽野神社」の看板が見えてきました。入口は狭かったのですが、敷地自体は、結構な広さがあり、神社の前には、村の公民館のようなものもあり、駐車スペースも十分にあります。クルマを降りて、鳥居の前で一礼。祭殿の前まで行き、お賽銭をし、いつものように、二礼二拍手。そして、この地に越してきたことのご挨拶と、今後の安泰を祈りました。

参拝を終え、振り返って改めて、境内をみまわしてみると、社殿の右奥のほうには古い祠やら、丸石をみっつほど重ねた塔のようなもの、左手奥には、ご神木ということで、楠木が植えられていました。ネット情報によれば、かつてこの地では、この楠木などを使って造船が行われたというのですが、このご神木は最近植えられたようで、それほど大きなものではありません。が、しかし、楠木がご神木ということは、やはりこの神社、造船と何かかかわりがあったのかもしれません。

この神社、標高70~80mくらいの高台にあって、境内の東側、500mほど離れたところには、狩野川がゆったりと流れているのが見えます。出来上がった船を目の前にして祝詞をあげるには、あまりにも狩野川から離れすぎているので、もしかしたら、その昔は、もっと川に近いところに神社があったのかもしれません。それにしても、こんなところでどんな船を作っていたんだろう…… と思いは古代の伊豆へ飛んでいきます。

自宅へ帰ってからも、かなり気になったので、この神社について、もう少し詳しく調べてみることにしました。すると、この神社、創祀年代は不詳ということですが、古くから狩野郷全体の総鎮守とされていたのだそうです。「日本書紀」の記述では、「応神天皇五年(274年)十月、伊豆国に命じて船を造らせたところ、長さ十丈の船が出来た。試しに海に浮かべてみると、軽くて、走るように進んで行くので、これを「枯野」と名付けた。」という意味のことが書いてあるとか。

その昔、狩野川流域には楠の木が豊富にあったらしく、この木は、良質の船材にもなるのだそうです。なので、古くは、この軽野神社があったあたりに、楠などの木材の集積所と造船所があったのではないかという人もいるようです。この「枯野」を造った時も、きっとできあがった船を前にして、軽野神社で祭祀が行われたに違いありません。そして、神社自体ももっと川の近くにあったか、あるいは古くはこの神社のすぐ近くに狩野川が流れていたのではないかと思えてきました。

さらにいろいろ調べてみると、伊豆における古代の造船技術については、結構いろんな人が興味を持たれていることがわかりました。

そのうちのおひと方は、伊豆の東海岸の下田に近いところにある、縄文時代の遺跡で、「見高段間遺跡」というのを引き合いに出しておられ、この遺跡が、伊豆諸島のひとつ、神津島産の黒曜石の陸揚げ地と考えられてることから、ここに住んだ縄文時代人は、高い造船、また操船技術を有していたのではないかと推定していらっしゃいました。

神津島産の黒曜石の流通範囲は、関東の北部から伊勢湾にいたる、太平洋岸に広く広がっているそうで、この遺跡のある浜から神津島までですら、60kmもの直線距離があるとのこと。小さな船で流れの速い黒潮を突っ切るのは大変なことであり、かなり性能のよい船と高度な操船技術が必要だったのではないか、とおっしゃいます。

黒曜石のような硬い石を探し、採掘し、加工するという高い鉱物採集技術は、造船技術にも応用された可能性があり、そうした造船技術がその当時、伊豆の各地での船造りに使われていたのではないかと想像できるというのです。

そうした技術が、朝鮮半島から伝わってきたのではないか、という人もいます。軽野神社の「カル」や、カラ」というのは多くの場合朝鮮半島にあった古代国家の加羅、伽耶からきているのではないか、だとすると、その当時すでに高度な製鉄技術を持っていたという、伽耶の国から渡来集団が、伊豆にもいたのではないか、というのです。

伊豆の船大工の祖先が朝鮮人であったかどうかの真偽はともかく、縄文時代から伊豆は、造船がさかんな土地であったというのは定説のようです。当初は、枯野船と呼ばれる小さな船だったものが、やがては、外洋航海までできる、大船も建造されたとか。その名称が、「枯野」から「軽野」に変化するころには、全長30m、100t以上の巨船まで作られていたそうで、日本書記には、伊豆から難波まで回航され、応神天皇(270~330年に即位)が朝夕使う清水を汲むために使われたという記事があるそうです。

また、これよりもさらに古く、崇神天皇(紀元前97-29年に即位)に献上した巨船の建造地は、西伊豆町の仁科の入江なのだそうで、ここには、「鍛冶屋浜」の地名が残っていて、造船に携わった製鉄工が住んでいたのではないか、と推定されているそうです。

それにしても、狩野川で作られた古代の船って、どんなもんだろう、と気になるところです。これについても、いろいろ調べてみたところ、「軽野」や「枯野」は、世界で使われている「カヌー」の語源ではないかという説もあるようで、どうやら、当初はそれほど大きなものではなかったと思われます。

ある方は、そうした小型和船の原型が、島根県の松江市の美保神社の祭に使われる諸手船(もろたぶね)のようなものではなかったかとおっしゃっています。


(引用、http://egawatarouzaemon.sa-kon.net/page016.html)

この船、船首があまり尖っておらず、構造も竜骨や肋材もない単純なもので、喫水も浅そうです。これなら、現代の狩野川でも上流で作って、海まで持っていけそう。船体が大きくないので、漕ぎ手が8名もいれば、かなりのスピードが出せるということです。

しかし、これより大きな船を海まで持っていくのは大変そうです。全長30m、100tもあるような船はどう考えても狩野川を下れそうにありません。どうやって運んだのでしょうか。

これについて、「伊豆水軍」という本を書かれた、永岡治さんという方が、この本の中で、「現在の狩野川では考えにくいが、むかしは水量豊かで、川船が頻繁に上り下りし、筏流しが行われていた「川の道」であったと考えることもできる」、とおっしゃっています(長岡治著、「伊豆水軍」 静岡新聞社刊)。

また、縄文時代には、縄文海進といって、海水面が現在よりも2~3mほど高い時代があり、軽野神社のある、伊豆市松ヶ瀬という地区も海岸付近に立地していたのだそうです。伊豆の内陸部にはあちこちに遺跡があり、そうした遺跡からは海岸が近かったことをうかがわせる貝や魚の骨もみつかっているとか。

もっとも、縄文海進があったのは、6000年も前のことですから、その後の弥生時代を経て、天皇制が始まった時代まで軽野神社近くに海があったかどうかまではわかりません。

が、それにしても、狩野川自体は今と違った流路や深さであったとしても、存在していたことは確かなことで、長岡さんが書かれているとおり、軽野神社あたりで作られた船を筏に乗せて海まで運ぶことは、けっして不可能ではなかったかのではないかと思われるのです。

もっとも、狩野川を下って海まで持って行かなくても、伊豆のあちこちには似たような造船所がたくさんあったらしく、伊豆で作られた船は、「伊豆手船(いずてぶね)」と呼ばれて珍重され、遠くは北九州まで運ばれたそうです。

東国から徴集された縄文人が遠く北九州に送られ、外敵に備える防人(さきもり)として国境警備にあたった際に使ったのが伊豆手船なのだそうで、それほど優れた造船技術がここ伊豆で発祥し、やがてはより高度な技術として発展。それを支える職人集団をかかえた武士がやがて「伊豆水軍」を形成し、歴史の舞台に躍り出ていったのです。

昨日お話した北条早雲も、その活躍において伊豆水軍の力を利用しています。早雲が茶々丸を成敗したのち、韮山城に拠点を置き、狩野氏をはじめとする伊豆の諸豪族を平定していくと、伊豆半島の水軍、海賊もこぞって北条氏の傘下へ参じるようになります。

さらに、早雲は、小田原城の大森氏を滅ぼし三浦義同(道寸)とその嫡子義意の死守する新井城を落城させると、三浦同寸の配下にあった、旧三浦水軍の出口氏、亀崎氏、鈴木氏、下里氏・・・など各諸氏を吸収していきます。

戦国時代にあって、一時は関東地方最大の武将として君臨した北条早雲を支えていたのは、古代から船造りをしてその技術を蓄えてきた伊豆の船大工の職人集団とそれを抱える伊豆水軍だったのです……

…… いかだに組んだ太い丸太をほどく人々や、船を組み立てる職人、そして完成させたばかりの伊豆船を操って海へ向かう人たち。そして、港では、北条早雲が下知するたくさんの伊豆船が帆をあげて、出航していく姿…… 狩野川をぼんやり眺めていると、そんな古い時代の風景がみえてきそうです。

まだまだたくさんの歴史秘話がありそうな伊豆。こんどはどこへ行ったら面白そうな話があるでしょうか。